いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

茨城元美容師女性殺害事件

1993(平成5)年、茨城県南部に位置する筑波山麓の峠道で女性の全裸遺体が発見された。殺人事件として捜査が進められたが、2008年1月に公訴時効を迎えて迷宮入りした未解決事件である。

だが時効の迫った2007年、ある別の凶悪事件と共通点が多いなどとして再び注目が集まった。2005年12月に栃木県今市市で起きた小学1年生吉田有希ちゃん殺害事件、いわゆる「今市事件」と同一犯なのではないかとするものである。

 

93事件

時効まで残り半年を切った2007年8月19日、匿名掲示板の今市事件議論スレッドで「茨城の未解決事件なんだが、遺体の様子が似てないか?」と投稿があり、改めて注目を集めた。

法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査―被曝死、焼死、事故死、薬物死…法医学が明かす死体の真実

カキコミが「93」投稿目にあたり、事件発生が1993年でもあったことから通称「93事件」と呼ばれることとなる。

「93」はその後も三澤章吾『法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査』(2001、日本文芸社)を引きつつ、以下のような殺害方法に共通点を指摘。

①遺体が洗ったようにきれいだったこと

②10か所以上の鋭利な刺し傷による失血死

③凶器は幅1~1.5㎝、長さ10㎝以上の鋭利なノミ、あるいはヘラのようなものが推測されたこと

④遺棄現場が峠の林道だったこと

⑤発見現場に血痕が残っていないこと

インターネット普及前に発生した事件で検索しても情報が得られないことなどから、当初は事件の存在自体を疑う者もあったが、本や新聞記事で実在する事件と確認され、「偶然とは思えない」「似ているというより同一犯ではないか」との声が挙がった。

 

■身元の判明

1993年1月13日(水)16時ごろ、新治郡八郷町(現石岡市)柴内にある「朝日峠」近くの林道脇で女性の遺体が発見される。第一発見者は筑波山に遊びに来ていた会社員で、車で峠道を下っていたところ右斜面に全裸の女性が仰向けに倒れていたという。

事件から30年近くが経過し、その間に道路整備も行われ、公開されている情報からは正確な遺棄地点を掴むことができなかった。下のストリートビューは「朝日峠より北へ1.2キロ」との記載から推測される位置である。

勾配の急な地点で停車して遺棄したとは考えにくく、発見者も減速していたであろう「カーブの入り口」などではないかと推測する。

かつて筑波山周辺は「ローリング族」と呼ばれる走り屋たちが集まることでも知られ、「暴走禁止」の看板や事故などで損壊したガードレールも多く見られる。現在では同区間にトンネルが開通しているが、逆説的にかつての峠道がそれだけ難路、悪路だったともいえるのではないだろうか。

 

発見された遺体の胸や首に多数の刺し傷があり、石岡署と県警捜査一課は殺人事件として捜査本部を設置。捜査員150人を動員して周辺での聞き込みを行う一方、女性の身元の割り出しのため似顔絵を作成して公開した。

 

女性は身長159㎝、体重45㎏。血液型B型、足のサイズ21㎝。右下腹部に盲腸の手術痕があり、上の前歯2本が差し歯だった。差し歯は3年以上経過しており、歯並びから年齢は20歳代前半と推定された。

 

特徴として、着衣がないにもかかわらず、複数の装飾品を身に着けていた。首には長さ40㎝、51㎝の2本のネックレス。左耳には直径3㎝のイヤリング。右手中指には葉っぱが重なり合うようなモチーフの18金リング、右手薬指には8角形で4本の斜線が入ったシルバーリングがはめられていた。

 

現場には争った痕跡や血痕がなかったことから、別の場所で殺害され山道に運ばれて遺棄されたものと断定された。また当時の山道は車一台がやっと通れるような狭い道で、県外の人間ではなかなか気づきづらい場所だったことから、犯人は当地の地理に詳しい人間ではないかとみられた。

 

似顔絵を公開すると「知人女性に似ている」として下館市に住む会社員男性(21)から連絡が入り、1月15日、該当の家族に確認を求めたところ、顔貌や指紋などから結城郡石毛町で以前美容師をしていた谷嶋美智子さん(22)と特定される。谷嶋さんは12日早朝に自宅アパートで通報を入れたこの男性と会っていたという。

捜査本部は谷嶋さんのその後の足取りや交友関係を中心に情報の洗い出しを進めた。

 

■初期捜査

谷嶋さんの暮らすアパートは関東鉄道常総線・石毛駅から約400mの新興住宅地にあり、92年3月に完成してすぐに入居。トラック運転手をする若い男性と暮らしており、「夫婦かと思っていた」と話す近隣住民もいた。

谷嶋さんは91年8月から知人の紹介で石下町にある美容室に勤め始めたが、92年11月末に「自動車学校に通うため」に仕事を辞めたという。悲報を聞かされた店の経営者は「なぜ。どうして」と動揺を見せ、彼女の人柄について「美人で腕もいい。お客さんの中にはお嫁さんに欲しいという人もいたくらい。おととしの町のカラオケ大会に参加して歌うなど社交性もあった」と話し、別れを惜しんだ。

 

谷嶋さんは92年11月28日に自宅から約1km離れた町営自動車学校(現在は廃校)に入校し、ほぼ毎日通っていたという。

93年1月12日、谷嶋さんは早朝に知人男性と会った後、いつものようにタクシーに乗って自動車学校に向かい、卒業検定を受検していた。試験は9時頃から始められ、10時頃に終わった。

合格者は午後にも講習も受ける必要があったため、谷嶋さんも午後のスケジュールは空けていたと推測されるが、試験は不合格。翌日の予約を入れ、10時半頃に学校を出ていく姿を職員が目撃していた。自動車学校の送迎サービスやタクシーの利用は確認されず、その後の足取りが途絶える。

捜査本部は解剖結果と合わせ、死亡推定時刻は学校を出たとみられる12日10時半から13日16時の間とした。

 

詳しい鑑定の結果、死因は心臓損傷による失血死とされた。遺体の頭部に2か所の皮下出血、胸部に13か所(うち4か所が心臓に達していた)と首に2か所の刺し傷、右足大腿部に1か所大きな切創があった。

また首に幅1㎝程度の「ビニールコードのようなもの」で絞められた痕跡が確認された。抵抗した痕跡がないことから、犯人は首を絞めて意識を失わせたうえで刃物を使ってめった刺しにしたと考えられた。

体内の血液は半分以上が流出しており、遺体を浴槽につけるなどして血痕を洗い流した可能性が指摘されている。

殺害のされ方が、1992年に公開されて大きな話題となったサスペンス映画『氷の微笑』に似ているとして、レンタルビデオ店の顧客名簿が確認されたが、容疑者には結びつかなかった。尚、映画では被害者がアイスピックで31か所めった刺しにされる。

 

■捜査方針

谷嶋さんは筑波山の北部、真壁郡真壁町(現桜川市)で生まれたが、中学時代に両親が離婚し、一度弟妹とともに実母に引き取られた。1年ほどして谷嶋さんだけが真壁の実家に戻り、父親と一緒に暮らした。高校卒業後は石岡市内の美容室で住み込みで勤め、その後、石下町の店に移った。

※本件との類似性はないが、1981年5月に真壁町内の隣接する小学校区で酒寄はるみちゃん(9)の行方不明事件も発生しており、こちらも未解決である。

 

1月16日に執り行われた通夜には親類や旧友ら数十名が集まり、突然の別れに心を痛めつつ、彼女の冥福を祈った。父親は憔悴しており、伯父が親族挨拶を務めたという。

弔問に訪れた旧友女性によると、11月中頃に谷嶋さんから電話があったという。彼女は恋人との別れ話で悩んでいたとし、石毛町内のアパートを出て、下館市内に部屋を借りると話していたという。

1月18日の朝日新聞でも、石岡署捜査本部は「原因は交友関係のトラブルではないかとの見方を強め、谷嶋さんの周辺に浮かんでいる十数人の男性を中心に、捜査を進める方針を固めた」と伝えられている。

 

その後、遺体のあった斜面付近から靴跡、複数のタイヤ痕を採取したとも報じられている。靴跡は遺体から20㎝~1mにあった3か所で、斜面には靴が滑ったような跡があった。サイズは25~28㎝、靴底は平らだった。タイヤ痕は軽トラックのものと乗用車のものなど数種類。

また谷嶋さんについて、自動車学校を出て以降の情報は得られず、自宅に帰った様子が確認できないことから、捜査関係者の談話として「誰かの車に乗ったのではないか」と記事は伝えている。

 

自宅周辺、発見現場、元勤務先のある石岡市つくば市などを対象に聞き込み捜査が続けられ、発生から1か月で約2000戸、1年間で約3500世帯に聞き込みを広げた。交友関係のあった456人からも事情を聴き、遺棄現場付近で見られた不審車両についても666台を調べたが容疑者特定には結びつかず。

目撃情報の乏しさからその後は大きな進展も聞かれず、時効が目前に迫った。

 

■時効の壁

県警は15年間で延べ3万8千人の捜査員を動員し、約3万3000人に聞き込みを行ったとしている。目撃情報の収集に全力を挙げたが、「浮かんでは消えての繰り返し。容疑者につながる情報は得られなかった」と捜査員は悔しさをにじませた。

 

谷嶋さんの伯母は、自分の娘の結婚式に列席してくれたことを思い出しながら「『次はみっちゃんの番よ』と楽しみにしていたのに、もう花嫁姿を見ることができない」と語り、正月に集まったときにこたつでもうすぐ新車が納入されると嬉しそうに話す姿をよく覚えていると振り返る。伯父は「実家で寝たきりになっていた祖母を気遣う優しい子だった。夢が叶ったと聞いてみんなが喜んだんだよ」と懐かしむ。

谷嶋さんの父親は犯人逮捕の報せを待ち続けながら、2006年1月に亡くなった。その後、実家隣に住む伯父と伯母が墓や仏壇を守り、2008年1月、公訴時効の手続きにサインをした。

 

事件の前月まで働いていた美容室の店主は、「仕事ぶりはまじめだった」としつつ、「よく男の子が迎えに来ていた。交友関係が多かったからか、欠勤しがちだった」とも述べている。

高校時代、陸上部で一緒だったという一年先輩の男性は、高校卒業後、美容業界の道に進んだ谷嶋さんについて「手に職をつけて早く独立したいと話していた。男友達も多かったが、寂しさの裏返しだったのかな」と述べ、事件の半年前に電話があったがそのとき話を聞けずじまいだったことを後悔していると話した。かつて「先輩の髪を切ってあげるからね」と言われたのが最後の会話となってしまった。

 

2010年4月、刑事訴訟法改正に伴い、殺人罪など凶悪事件の公訴時効の廃止・期間延長が行われ、1995年4月27日以降の殺人事件の時効が撤廃された。

これにより前述の今市事件のほか、

・1999年(平成11)に筑波山の山林(つくば市高田)で他殺体となって発見された川俣智美さん(19)の事件

・2003年発生の都立高生・佐藤麻衣さん(15)が殺害され五霞町に遺棄された事件

・2004年に美浦村清明川河口に全裸で殺害・遺棄された茨城大学・原田実里さん(21)の事件

・同じく2004年に坂東市の農道脇で首を絞められた状態で発見され後に死亡した県立高生・平田恵理奈さん(16)の事件

など多くの長期未解決事件で時効がなくなった。

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谷嶋さんの事件で公訴時効の手続きを行った伯母は、新聞の取材に対し、「ひとつひとつサインするたびに『ああ、もう終わってしまったんだな、もう事実を知ることはないんだな』って。美智子ごめんねって謝りながらサインしました」と時効当時の心境を明かしている。

時効廃止に一定の評価を示しつつ、「同じ殺人事件なのに、この日を過ぎたら捜査は終わり、と日にちで区切るのはおかしい。時効は犯人にとって自由になる区切りであり許せない。もっと早くしてくれればよかったのに」と改正の遅れに不満を述べた。

 

■今市事件との相違

筆者は本件と今市事件の犯人が同一犯とは考えていない。

だが「93」氏が驚いて書き込んだのも無理はない。氏が今市事件との類似性を見出したテキストは、かつて筑波大学法医学を専門としてきた三澤章吾氏による『法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査』で、自ずと事件の周辺情報よりも遺体状況に主軸が置かれる。

とりわけ遺体の「傷」はプロファイリングの大きな要素となる。凶器の刃物がナイフや包丁ではなく「鋭利なノミやヘラのようなもの」と記されている。

はっきりした凶器が特定されなかった今市事件の「幅2㎝程度」の「細長い」刺創とも符合しないではない。今市事件では傷跡から推定される凶器のひとつとして、一般的になじみは薄いが木工職人などが使用する「繰(くり)小刀」の名が挙がったこともあり、特徴的な刃物が用いられたとみられていた。

繰小刀

更に著者の三澤氏は、書き出しから(半ば驚きをもって)遺体がきれいだったことを印象的に述べている。

今でもはっきり覚えているのは、死体がとてもきれいだったことである。
血もきれいに拭き取られていて、全身を洗い清められているようであった。
犯人の被害者に対する特別な心情がそこからうかがい知れる。

何千ものご遺体を扱ってきたプロの目から見て、多数の刺傷と照らし合わせても異例の状態だったことが分かる。

今市事件でも、口と傷口からの出血は少量で、血液をふき取ったか水などで洗い流した可能性が指摘されている。遺体に血液がほとんど残っていなかったことから考えれば、水場で流した可能性が高いと私個人は見ている。

だが三澤氏はこうも述べている。

しかも傷口には繊維やごみなどの付着物がまったくない。
これは裸の状態で殺したという可能性が高いことを意味する。

胸に10か所以上の刺し傷を負っているのは同じだが、今市事件では遺体は全裸であったが服の上から刺された可能性も指摘されている。

また細かい部分だがその表現にも注目されたい。

おそらく犯人は谷嶋さんの頭をまず殴りつけ、首を絞めて意識を失わせてから胸、首などを刃物でめった刺しにしたのではないだろうかーー。

単に「多数回刺すこと」を簡略化して「めった刺し」と表現したのかも分からないが、字面から受ける印象でいえば犯人がやみくもに素早く連続して刺したように読める。

一方、今市事件ではその独特の刺創にフォーカスした情報は多く、きれいなかたちで揃っていたと伝えるメディアもある。「刃物を胸に突き立てて押し込んでいった」「創洞の長さも三か所ほど深いものがあったが、あとはほとんど同じ長さだった」(週刊文春)、「感触を楽しむかのような刺し方」「一度刺した刃を止め、そのあと、さらに力を込めて深く刺しこんだとみられる傷もあった」(アサヒ芸能)といった特異性を指摘する鑑識関係者証言を伝える記事もあり、捜査関係者の「幾何学模様のように」「まるで何かのメッセージか、儀式のようだ」といった見方も紹介されている。

『死体は語る』の著者でも知られる元東京都監察医務院長・上野正彦氏は今市事件について「普通、傷口は刃物を刺すときと抜くときでずれてしまうものですが、創縁がきれいということはそのずれがないということ」と述べている。

実際に傷を見た専門家ではないため断定はできないが、字義通り「めった刺し」であれば、今市事件とは異なり、傷をつける角度や深さにばらつきがあったのではないか

 

刺し傷以外でも、やや異なる外傷がある。

死体には足の裏にもいくつかの傷があったが、これらは鑑定の結果、死亡後に首や胸を刺した凶器とは別のものによる傷だとわかった。

よく調べると、頭には殴られたような跡もあった。さらに首には細い紐のようなもので絞められた跡も見つけることができた。非常に猟奇的である。プロの感が強い。

頭に殴られたような傷があったのは今市事件でも同じだが、本件では「足の裏」にも別の凶器によってできた傷、首を絞めた痕跡が確認されている。三澤氏が何をもってして「プロの感が強い」と評したものかは不明だが、頭を殴り、首を絞め上げ、十数回も刺した犯人は、一撃で仕留められず何度もとどめを刺そうとした印象を受ける。

 

発見現場に関して、山の「林道」という表現上では一致するものの、本件の峠道は車一台通るのがやっとの細い旧道ながら舗装路で、山を越えるための生活道路である。今市事件の遺棄現場は未舗装路で、通常ならば山林の管理車輛が入るばかりの文字通りの林道である(第一発見者は野鳥捕獲の下見に偶々訪れていたとされる)。

日中に被害者を車に乗せて移動し、どこかで殺害してから山間部に遺棄する点は共通している。だが北関東では交通網や住宅環境などからいわゆる「車社会」であり、自動車保有率は非常に高い。

2007年の世帯当たり台数でいえば、全国3位群馬県1.695台/世帯、6位栃木県1.653台/世帯、7位茨城県1.633台/世帯となっている。死体遺棄にバスや電車、飛行機を使う事件もないわけではないが、移動や運送手段として車を用いるのは当たり前と言えば当たり前である。

 

地理的側面について。おそらく両事件とも殺害現場は遺棄現場とは異なるが、犯人の行動範囲や位置関係を押さえておきたい。

本件の最終目撃地点となった自動車学校から発見現場まで東北東に約27kmの距離、自動車で直接移動すれば40分という距離である。筑波山の山間部を通過していれば1時間以上要したかもしれない。

今市事件では行方不明となった「Y字路」から発見現場まで単純直線距離で東南東へ「60km」「65km」といった表記が多いもののナビルート検索では最短72.5kmである。ナビ最短で1時間半と算出されるが、実際には途中で宇都宮市街地や起伏のある山間部も通過するため2時間程度は要する道程とみてよい。

あまつさえ本件は茨城県の人間が県内で遺棄された事件であり、かたや今市事件は栃木から茨城へと県を跨いだ越境事件である。仮に同一犯だった場合、かつて30km程度離れた場所に遺棄して発覚を免れたという成功体験があれば、今市事件であえて2倍以上も離れた場所へと遺棄するものだろうか。

 

また同一犯による連続殺人だとすれば、本件を起こした1993年から2005年の今市事件までのブランクをどうやって過ごしていたのか。

無論、12年間我慢してきた、人知れず多数の事件を起こしてきたが発覚していない、といった想像は可能であり、別件で逮捕されてその間は実害が増えなかった、精神や体調面で異常をきたして長期療養を強いられた、と想像することもできる。

両事件の最大の違いは被害者の年齢層である。被害者が中学生と高校生であれば発達段階として「近い」と捉えられるかもしれないが、本件被害者は22歳の成人女性、今市事件の吉田有希ちゃんは7歳。容貌、体格、知的発達や運動能力も当然大きく異なる。

犯人の特別な感度から両者には共通項があったと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも筆者には「女性」である以外に共通性を導き出す方が難しい。たとえば第一の事件で女児、その後の事件で成人女性に害を為すというのであれば、「犯行に慣れて難易度の高い標的を襲った」「当初少年だった犯人が成長した」等とも捉えることは可能かもしれない。しかしそれほど広い嗜好の持ち主であれば、事件はもっと頻発していてもおかしくはない。

遺体の着衣が見つかっていないことや性的被害が確認されていないことなどの共通点はある。腐敗を早めようと画策したのか、身元判明を遅らせるためか、裸を見たり触れたりというかたちの猥褻が目的だったのか、血糊を強く嫌ったためか、犯人の目論見はいずれもはっきりしない。とはいえ性的被害のない女性殺害事件は無数に存在し、同一犯とまでは言い難い。

犯人も12年間のうちに理想とする対象の変化や何かしらの方向転換があってもおかしくはないのかもしれない。だが殺害方法については12年前の事件を踏襲しながらも、全く性質の異なる女性を殺めるというアンビバレンスな犯人像を許容するのはあまりにご都合主義的、「同一犯」説に縛られた見方だと私は思う。

 

よほどのシリアルキラーでなければ自宅に死体を置きたがらない。死体を遺棄する行為は、発覚を恐れることのほか、「自分の領域から死体を遠ざけたい」「視界から事件を消し去りたい」という意志の表れでもある。

本件も今市事件も、土中に埋めたり、損壊したりといった隠蔽工作は見られず、山中とはいえ道端に遺棄していることからも発覚逃れの意図より遠ざけたい心理の表れだと捉えることができる。

地理的に見て、本件は「筑波山」の西側から東側へと被害者を追いやった、心理的境界の裏側に遺体を隠したかったと考えるのが自然ではないか。すなわち犯人は筑波山より西側の人間ということになる。

今市事件でも、西に向かえば日光、北に鬼怒川、南に大芦など、周辺には1時間圏内で行ける山地が無数にあるにも関わらず、犯人は東進して茨城県常陸大宮市に向かっている点は疑問がもたれた。犯人は茨城県に帰る途中で捨て置いたのだろうか。むしろ越境捜査は警察の連携が取りづらくなることを知っていたか、栃木県内の山々では不安が拭いきれず遠く県境を越えることを選択したと考えられる。

そのほか本件被害者は装飾品を身に着けた状態で発見されたこと、今市事件では手や口に粘着テープの拘束痕が残るなどの違いもある。犯行の手口、とくに「10数か所の刺し傷」といった情報に注目すれば似た事件に思えるが、被害者や地理的関係に視点を向ければ同一犯を疑うほど酷似した事件とも思えない。

 

■どのような事件か

ここでは今市事件を無視して、本件を追っていきたい。

捜査方針通り、まずは「男女関係のもつれ」として見ていくのが順当であろう。既述の内容を踏まえつつ、以下、事件の見取り図を描いてみよう。

被害女性は石下町のアパートで会社員男性と同棲をしていた。免許を持たない彼女は僅か1km離れた自動車学校へ通うにもタクシーを頻繁に使っている。田舎町の若手美容師でそれほど高給取りだったとも思われず、普段から同棲相手や知人たちの車に頼って生活していたと想像される。

会社員と美容師。生活時間や休みが合いづらく、アパートは男性名義だったが半同棲とみられている。田舎の新興住宅街での暮らし、谷嶋さんは地元周辺で自由の利く友人たちに遊びに連れて行ってもらうことで心の隙間を埋める日々が続いたのではないか。

アパート周辺の聞き込み調査をすると、若い男性としばしば出かけている谷嶋さんが目撃されていたが、男性はいつも帽子を目深にかぶっており、表情などがわからなかったという証言を得た。

11月末というキリの悪い時期に「年内に免許を取得したい」と言って夢見てきた美容師の職場を離れた。12月には不動産屋に「1月10~12日頃」に転居する相談をしており、おそらくはその頃を「免許取得のタイミング」と考えていたと推測できる。

当然、同棲相手との別離が念頭にあったはずである。彼女は石下での仕事に一旦見切りをつけ、免許を取って新しい生活をスタートさせようとしていたのである。祖父と父親が暮らす真壁町にある実家に戻るつもりだったのか、それとも「別の相手」の家に転がり込むつもりだったのか。

同棲相手は事件当日の早朝に彼女と会い、事件直後、似顔絵を見て「谷嶋さんではないか」と通報した。彼は25kmと決して近くない距離に暮らしていたが、どうして完全な同棲に踏み切らなかったのかは伝えられていない。

当初は交友関係のもつれによる犯行と踏んで、早い解決が予想されたのだが、暴走族、変質者の犯行の可能性も浮上、結局、今現在、容疑者に結びつく有力な情報、手がかりは得られていないようだ。

本の出版が2001年であるから、事件発生から7、8年後に執筆された内容と推測される。新聞には「暴走族、変質者の犯行の可能性」に関する記載は発見できない。暴走族や変質者による犯行を推認させる証拠が出てきた訳ではなく、「交友関係」から犯人が挙げられず、消去法的に「族か変態の仕業かもしれない」とお茶を濁そうとする警察の態度が透けて見える。

同棲相手か、それとも他にできた別の男か、おそらく捜査陣営としてはほとんど始めから2択に絞られていたにちがいない。だが凶器も出ず、犯行現場も特定されず、何かしらの崩しがたいアリバイなどもあったのかも分からない。

だがもちろん連絡を取ればすぐに来てくれるような相手が複数人いた可能性も否定できない。90年前後には女性が恋愛感情のない男性に対して「アッシーくん」「メッシーくん」と序列をつける流行語もあった時代である。

 

■なぜ犯人に迫り切れなかったのか

操作が暗礁に乗り上げた要因を想像するに、捜査機関は一か八か、血痕や凶器等が出ると見込んでかなり強引なやり方で家宅捜索などを行ったのではないか。しかし当てが外れて、殺害の証拠は得られなかった。そのためそれ以上の追及が困難となってしまい、捜査が尻すぼみになった。決定的新証拠が得られないまま、捜査方針の見直しを余儀なくされ、暴走族や変質者へと視野を広げるかたちで形ばかりの捜査が続けられた、と推測する。

 

またDNA型鑑定による犯人特定が黎明期であったことも挙げられる。1989年には科警研でDNA型鑑定の捜査応用が開始されたが、当初は犯行現場や物証から検出された血液が被害者本人のものかどうかを照合するといったものであった。

92年にはDNA鑑定による容疑者特定に向けた活用が指針として示され、各都道府県の科捜研でも順次導入が進んだ。後に冤罪が発覚する足利事件、死刑執行後も再審請求が続けられている飯塚事件のDNA型鑑定(MCT118型検査法)は科警研によってこの時期に行われた。茨城県警や筑波大学等での鑑定技術導入の正確な時期は不明だが、地元紙や三澤氏の著書では「DNA型鑑定」を示唆する描写は出てこない。

「布で拭いたような形跡はない」「全身を洗い清められているようであった」と記されているが、文飾的レトリックなのか、水道水や河川の水の成分が検出されたといった記述もない。

順当に考えるならば、捜査本部は谷嶋さんの同棲相手に真っ先に疑惑を向ける。関係は破局に大きく傾いており、「免許が取れたら出ていく」等のやりとりがあれば、卒業試験のあったこの日に犯行を決意していたとしてもおかしくない。

だが同棲先のアパートには「帰宅した様子はない」、つまり浴室なども手つかずで血痕なども残されていなかったと解してよいだろう。ほかに犯行現場となりうる場所はどこだろうか。同棲相手の実家、知人宅、周辺のラブホテルなどは当然捜査員たちも洗ったはずだ。通常血抜きというと浴室の使用が思い浮かぶが、もしかすると筑波山周辺の清流などで血を流し浄めた可能性も考えられなくはない。

会社員の浮気相手は早朝に谷嶋さんと会っていながら、9時の卒業検定に送り届けてはいない。とすれば出勤していたと考えてよいだろう。業務内容が分からないので「中抜け」が可能な会社なのかは分からないが、被害者を車に乗せたのはこの人物ではなかった可能性が高い

卒業検定に通っていれば17時頃まで講義を受ける必要があった。つまり試験前に「10時過ぎに迎えに来て」と待ち合わせることはできなかったはずなのだ。とすると試験後に交友関係のあった人物を急遽呼び出したのだろうか。彼女の交友関係が広かったとはいえ「水曜10時半」の呼び出しに応えてくれる人物であれば、さすがにすぐ絞り込まれそうなものではあるが…

 

(1月15日の地元紙は第一報として身元不明の段階で「死後3日から一週間」と報じているものの、胃の残留物については情報が出ていない。10時半に失踪して翌日16時ごろに遺体となって発見されるまでの間に「食事」を摂らなかったのであろうか。)

 

以下、警察の見立てである「顔見知り」「交友関係」ではなかったケースを想像してみよう。

 

自動車学校の道路を跨いで正面には墓地を備えた寺院と、参拝客向けに10数台ほど駐車できるスペースがある。見るからに待ち合わせに適している。そこで自動車学校に通う友人を待っていた第三者が、一人で帰ろうとする彼女に声を掛けたとは考えられないか。

「今日、卒検なんでしょ?早いね、もう終わったの?」

駐車場に車を停めていた若い男が彼女に声を掛ける。

「試験に落ちたから早いんだよ、悪かったね」

機嫌を悪くして自宅へ歩いて帰ろうとする女性。

「ごめんごめん、じゃあ俺の友達は合格したのかな…送っていこうか?」

「いい」

「ご飯でも一緒にどう?」

「まだお店どこも空いてないよ」

「じゃあ、ドライブしよう、車ないんでしょ?送るよ、俺、時間空いちゃって」

 

捜査関係者も事件当日に卒業検定や講習を受けていた自動車学校生徒・学校関係者には彼女の交友関係や足取りを知らないかを充分聞き込みしたはずだ。

当然彼らには確たるアリバイがあり、基本的には疑惑の対象とはならない。捜査員にとって交際相手や交友関係が目下の疑惑の対象であり、自動車学校生徒の兄弟や知人、学校卒業生にまではそれほど注意を向けなかったのではないか。

卒検というイレギュラーな状況から推察するに、時間的に自由が利きやすい学生、不定職の若者、夜の仕事をする人物などが自動車学校周りで待ちぼうけていたとしても不思議はない。

筆者の見解としては、17時まで予定を開けていたはずの谷嶋さんが見知らぬ男に声を掛けられてうっかり車に乗ってしまい、わいせつ目的で連れ去られたと考えている。

一度車内でトラブルとなり、首を絞められ気絶した状態で連行されたのではないか。刺殺現場は分からないが、ノミのような工具が凶器とすればアパート内やラブホテルではなく、一軒家のガレージや農家の蔵のような場所が想像され、服を脱がされたところで息を吹き返し、逃げ出そうとしたが攻撃を受けた。男は車での遺棄を考えるが、車内に血糊が付くことを嫌って、しばらく屋外で水を浴びせて血抜きしたのではないか。

自動車学校は学生も短期で入れ替わり、周辺農村部の若者は転出も多い。後年になってから交友関係以外の洗い出し捜査をするにも困難と想像する。

 

千葉県千葉市若葉区で起きた中学生・佐久間奈々ちゃん誘拐事件でも、犯人とみられる男が自動車教習所周辺に出没していた情報もある。若者の比率が多く、自動車を持たないことから不審者にとっても標的としやすい側面はあるだろう。

卒業検定に合格してさえいれば、全くちがう将来が彼女を待っていたはずだった。それを思うだに悔しさの募る事件である。

 

谷嶋さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

広島市南区小学生姉弟行方不明事件

1980年(昭和55年)に広島県広島市で発生した留守番中の小学生の姉弟が二人一緒に姿を消した不可解な行方不明事件について記す。

二人は特定失踪者(北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者)とされており、基本情報は特定失踪者リストおよび特定失踪者問題調査会代表を務める荒木和博さんのBLOGに依るものとする。

本稿は北朝鮮による拉致の可能性を否定するものではないが、あえて別の可能性についても考えてみたい。無論二人の無事を願う思いで記すが、限定的な情報からの憶測として事故や死亡の可能性にも言及することをご理解いただきたい。

 

■概要

3月29日(土)夕刻、母親は普段通り子どもたちの夕食の支度を終え、広島市南区の団地にある自宅アパートから仕事に出掛けた。深夜2時頃に帰宅すると、部屋で眠っているはずの子どもたち2人の姿がなかった。

玄関はきちんと施錠されており、夕食は食べ終えて食器は流しに運ばれていた。母親の布団も敷いてくれており、部屋はいつもと変りない様子だった。

行方が分からなくなったのは1歳違いの姉弟で、小学6年生の藤倉紀代さん(きよ・12)、小学5年生の靖浩さん(11)。まもなく中学進学と6年生への進級を控えていた。

藤倉紀代さん

https://www.chosa-kai.jp/archives/missing/%e8%97%a4%e5%80%89%e3%80%80%e7%b4%80%e4%bb%a3

藤倉靖浩さん

https://www.chosa-kai.jp/archives/missing/%e8%97%a4%e5%80%89%e3%80%80%e9%9d%96%e6%b5%a9

 

部屋から特別何かを持ち出したというような形跡はなく、服装も普段の外出時のものと思われた。子どもたちに部屋のカギを持たせていたが、日頃子どもたちだけで遠出することはなく、所持金も小遣い程度で大金は持たせていなかった。

母親はすぐに親戚などに連絡を取って行方を捜したが何の手掛かりもなく、二人そろって家出とは到底ありえないとして捜索願を提出。

姉・紀代さんは30日(日)に友達と遊ぶ約束を電話でしていたことが分かったものの、母が勤めに出て以降の姉弟の行動は全く分からなかった。

 

■拉致、行方不明、誘拐事件

政府の認定拉致被害12件17名の事案も1977年~83年に発生しており、調査会による「昭和53年から56年にかけて起きた事件」資料を見ても北朝鮮による拉致工作が活発な時期と符合する。また1980年1月には産経新聞が「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」との見出しで北朝鮮による拉致疑惑をはじめて報じた時期でもある。

昭和53年から56年にかけて起きた事件【調査会NEWS3027】(R01.7.12)

 

通常であれば児童ひとりの行方不明でも大きな騒ぎだが、なぜか2人の事案については発生から1年ほど経って地元中国新聞がやっと載せるという小さな扱いだった。見出しには「家出の…」と記載され、記事は「警察は誘拐や事故などの線も視野に200人体制で周辺での捜索を行った」旨の内容だったが、家族は警察が電話の逆探知装置を設置したり、張り込みに来たりといった捜査をした記憶がないと話している。

母親は何年も何年も子どもたちの帰りを待ちわびながらも暮らしに追われた。その後の警察の捜索はどうなったのか、よき報せは届かなかった。時代は巡り、北朝鮮による拉致問題が国民的議論となり、家族会の働きかけ等によって国も重い腰を上げ、遂に5人の拉致被害者が帰国を果たす。

拉致被害者はもっといる、自分の家族も拉致被害者ではないか。多くの行方不明者家族、専門家らが声を上げ、2003年に特定失踪者問題調査会が立ち上がった。何の頼りにもならない捜査機関に失望していた藤倉さん姉弟の母親が調査会に依頼したのは、行方不明から27年後となる2007年2月のことである。

現地調査や聞き取りをした荒木氏の推測では、広島県警は自発的失踪の「家出人」として捜索願を処理し、事件捜査や積極的な捜索活動も行わなかったが、後になって事件性を懸念して、新聞に記事を出させた可能性があるとしている。

一年もの間、手つかずにしてきた事案を取り繕う意味で新聞社に情報をリークしたと荒木氏はみており、筆者もその点については同意見である。警察が何をきっかけとして記事を出させようと判断したのか、その目的ははっきりとは分からない。

 

だが今日確認できる児童の行方不明事案だけでも、1975年には大阪市住吉区で13歳女子生徒、石川県珠洲市で14歳男子生徒が、1976年に北海道根室市の6歳女子生徒、1977年には新潟市横田めぐみさん(13)、1981年奈良県橿原市の14歳女子生徒など、各地で毎年のように発生している。

また警察白書によれば昭和55年度(1980年)は身代金目的誘拐事件が全国で13件と過去最多を記録している。

1980年1月に愛知県豊中市で起きた歯科医師の長男(7)が攫われた事案では身代金3000万円の要求や犯人が息子の同級生を狙った犯行、47時間後に保護されたこと等で注目を集めた。

翌月には対象年齢こそやや異なるものの富山長野連続誘拐事件(広域111号事件、赤いフェアレディZ)が発生し、富山県の18歳女子生徒、長野市信金女性職員(20)が殺害された。

8月に山梨県で起きた「司ちゃん事件」では、近所のこどもたちに「ソフトボールのおじちゃん」と呼ばれて親しまれていた梶原利行(当時38)が5歳男児を誘拐。事前の下調べもなく一般的サラリーマン家庭の子が無作為に標的とされたことが社会不安を呼んだ。初動捜査で別人に疑惑の目を向けていたこと等が問題視されて大きな話題となった。

12月には愛知県名古屋市で大学に通う女性(22)が殺害され、生きているように装って身代金を要求するという卑劣極まりない事件も起きている。

婦女子を標的とした身代金誘拐が頻発したことから、81年には警察組織全体で行方不明、とりわけ児童の係る事案への対応方針に見直しが迫られたと想像される。県警は放置してきた藤倉姉弟の事案が問題視されることを避けるため、記事を書かせて捜索の「既成事実」を捏造させたと疑われる。

 

■体格・特徴など

当時の体格や特徴などから分かることはないか。

紀代さん

身長150センチ体重38キロ、やせ形の体格

顔は面長で色黒、髪の毛を腰まで伸ばしていた

服装は、フード付きの紺色スモッグに白色セーター

靖浩さん

身長140センチ体重30キロ

肌は色黒、坊主頭

服装は、「阪急」の野球帽、紺色ビニール製ヤッケ、濃色のジーンズ、白色ズック靴

 

二人とも大柄な体格ではないが、乳幼児のように片手で抱えられるものではない。大人一人で部屋から抵抗する姉弟を強引に連れ出すのは屈強な男性でも至難の業である。それも夜中に騒がれずに遂行できたとは現実的にはやや考えづらい。

身代金目的の誘拐であれば二人を一緒に攫う必要性には乏しい。相手の資産の有無によって身代金の要求金額が異なることはあるが、人数によって金額が比例する事例など聞いたことがない。藤倉さん家族は集合住宅に暮らす一般庶民であり、直接部屋を訪ねるリスクを負うよりかは外出中を狙うのが筋だろう。

また強制的な連行とすれば、履物くらいは履かせるかも分からないが、少年にビニール製ヤッケ野球帽まで持たせるだろうか。自身のトレードマークのように外出時にはいつも被る習慣があったか、ヤッケと共に「雨除け」として能動的に被った可能性が高い。後述するが29日は朝から深夜未明にかけて一日中降ったり止んだりの天候であった。

拉致であれば複数人で連れ去ったか、あるいは単独犯であれば「母親が事故に遭った」等と虚偽誘導して車に乗せるといった手口が考えられる。そうした手口がとられたとすれば、夜は母親が仕事で家を空け、こどもだけで留守番していたことを下調べしていた可能性が高い。

また、これは邪推になってしまい、関係者に失礼とは思うがあくまで仮定の話として書かせていただく。

公開されている情報では「父親」の存在が一切出ておらず、偶々記載がないだけなのか、離婚、死別されたのか、その存否が気にかかった。いわゆる「未婚の母」や離婚等により姉弟の父親が存命であったならば「自分の子どもを攫う」可能性もあるのではないか。

1980年当時は少なかったかもしれないが、今日では離婚夫婦間で親権、養育権を巡って誘拐騒動となるケースも少なくない。母親がいない隙を狙って父親が部屋を訪れ、間違いを犯したとしても不思議はなく、結果的に母親をひとりにさせてしまった罪悪感からこどもたちも再会できずにいるのかもしれない。

 

■検討

日本で把握されている北朝鮮による拉致被害児童は、横田めぐみさんのほか、渡辺秀子さんの子ども・高敬美さん(こう・きよみ、6)、剛さん(つよし、3)がいる。敬美さんと剛さんは父親が在日朝鮮人の元工作員でいわば「人質」として拉致されたことは確定しているが、日本国籍を保持していないため政府認定被害者にはカウントされていない特異なケースである。

 

では一般家庭の姉弟が一緒に行方不明になるとは、どういった状況が考えられるのか。

ひとつは前述のように、留守番中に「母親が事故に遭った」など虚偽誘導されて部屋から連れ出されたケースが挙げられよう。

外出して事故に遭った可能性も考えられる。

1995年10月、大分県宇佐市の実家で暮らす18歳の弟が、福岡から帰省した20歳の兄と車で弟と出かけたまま行方不明となった事案でも自発的な失踪の理由は見当たらなかった。17年後、2012年9月に工事の為に水抜きしたため池から車と遺体が発見された。運転を誤って転落したとみられるケースである。

似たような事例として「坪野鉱泉神隠し事件」「広島県世羅町一家失踪事件」などが思い浮かぶ。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

藤倉さん姉弟の自転車については特に言及されていないため、自転車使用の形跡はないと思われるが、10代前半にもなればこどもたちの行動を完全に把握することは親でも難しい。

荒木氏の調査報告では、「当時の居住地は住宅街の中にあり、周辺には子供が夜間に買い物等に行ける場所もなく、雨が降る中、傘も持っていないことなど、2人が自らの意志によって失踪した可能性はほとんどないと思われる」とされている。

居住地が分からないため推測にはなるが、コンビニやスーパーがなくても自動販売機くらいはあったかもしれない。親の目を離れて近所の友達の家や公園、夜の校舎でおしゃべりしに集まろうとしていたかも分からない。たとえ遠くに行くことができなくとも「大人」の目の届かない場所をこどもたちは知っているものだ。

出掛ける途中、誤って一人が水路や河川に転落し、もう一人が救助しようとして二人もろとも流された可能性も十分にありうる。

尚、1980年3月の広島市内の気象状況を付記しておくと、25日から28日にかけては降水量なし。不明当日29日は朝から深夜にかけて降ったり止んだりの天気で総雨量22㎜。翌30日は降水量なし。31日には夕方から翌4月1日未明にかけて総雨量36.5㎜を記録している。

いずれも強い雨ではないが、失踪直後の時期は雨で水が濁り、発見しにくい要因になった可能性はある。詳細な居住地は分からないが、広島市南区は瀬戸内海に面しており、比較的早い段階で海まで流されることも想像される。

 

■こどもの拉致はあったのか

北朝鮮による拉致は何の目的で続けられてきたのか。工作員養成のためとすれば、成熟までコストのかかる子どもを狙う必要はないのではないかという素朴な疑問もある。しかし2011年12月、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称「救う会」)主催のセミナーで、脱北兵が「工作員に育てるため外国の子どもたちを拉致することがあった」と報告している。

北朝鮮統一戦線部幹部チャン・チョルヒョン氏によると、金正日総書記の「現地化」指令と呼ばれるもので、それが1977年頃に世界的に起きたこどもを標的とした拉致の頻発につながったとしている。

「現地化」とは、国外の子どもを北朝鮮式に育てて工作員とする方針である。民主主義や社会主義国家とはかけ離れた封建社会ともいえる異質な北朝鮮の体制下では大人を「主体思想」に「再教育」して工作員にすることが困難とされたため、そうした戦略が採用された。しかし拉致されて集められた子どもたちは情緒的な安定を欠いてしまい、教育がうまくいかなかったという。

そのため80年代初頭から半ばに「シバジ」工作を始めた。拉致してきた外国人男性に北朝鮮女性をあてがい、国産のダブル(ハーフ)の工作員を養育しようとしたのである。80年に北朝鮮曽我ひとみさんと結婚し、2004年に来日したチャールズ・ジェンキンズさん(2017年没)も、そのまま北朝鮮に残っていれば自分たちの子どもたちもスパイに使われかねないことを危惧していたとされる。

www.sukuukai.jp

 

■所感

現在も特定失踪者リストには100名近くの名が連なり、事実拉致されている被害者もいれば、2022年3月に国内で発見されたHさんのようにそうではない方も幾ばくか含まれているだろう。

拉致なのか外出先での何らかの事故なのか、今すぐにそれを確認する手立てはない…警察が頼りにならない…しかし何より不明者の無事を祈りたい…再会することだけを考えている…。リストに掲載される情報は捜索の手がかりとしてはとても僅かな量だが、そこに込められた家族の様々な思いもリストから読み取ることができる。

ご家族が一日でも早く再会できることをお祈りいたします。

 

 

 

福岡美容師バラバラ殺人事件

1994(平成6)年、福岡県福岡市で発生した美容師女性の殺人・死体損壊遺棄事件について記す。

 

■概要

1994年3月3日午前、熊本県玉名郡九州自動車道・玉名パーキングエリアにあるゴミ集積場で、黒いビニール袋に包まれた切断された左腕を清掃作業員が発見した。その直後、福岡県山門郡の山川パーキングエリアのゴミ集積場からも右腕が発見された。

翌3月4日には、JR熊本駅のコインロッカーから黒いビニール袋にくるまれた胸部と腰部、さらに山川パーキングエリアで前日回収していた分のゴミの中から新たに左手首が発見された。

警察は切断状況やDNA型鑑定から発見された損壊遺体を同一女性と断定し、熊本・福岡両県警が身元確認を行った。

3月7日、家族から捜索願が提出され、身体的特徴や指紋が一致したことから、被害者は福岡市中央区神町の美容室「びびっと」に勤めていた美容師・岩崎真由美さん(30)と判明した。岩崎さんは全国コンクールのメイクアップ部門・福岡代表として全国2位になる腕前で、同店でも100名近くの顧客を抱える稼ぎ頭。「仕事一筋で若手指導にも熱心だった」と同僚からの信望も厚かった。

2月20日付で「びびっと」を退職し、3月から天神の新店に転職予定だったが、初出社となる1日から姿を見せず連絡がつかなくなっていた。連絡がつかず不安に思った家族が岩崎さんの自宅マンションを訪ねたが、室内はきちんと片付いており、失踪の理由も心当たりがなかったため通報。元同僚には、転職先の店では憧れだったTV関係のメイクの仕事もできるかもしれないとこれからの抱負を語っていた。

 

捜査本部は被害者の身辺調査に当たり、被害者宅マンションや勤め先などを家宅捜索。自宅の留守番電話のメッセージは2月27日以前のものは消去されていることが分かった。さらに美容室「びびっと」を経営する有限会社「オフィス髪銘家」事務所内から、被害者と同じB型の血痕反応が大量に検出され、職場関係者による犯行の線が強まる。発見された遺体はいずれも3月2日から3日午後の間に遺棄されたとみられ、同日のアリバイ捜査が続けられた。

 

■逮捕と報道

バラバラ殺人自体は珍しいものでもないが、被害者が美人で評判だったことや発見された胸部は乳房や内臓、尻や性器を抉り取られていたこと等から、男女の愛憎のもつれや性的異常者による犯行との見方もあり、マスコミはセンセーショナルに報じた。

専門家もその猟奇性に着目している。犯罪学に詳しい筑波大・小田晋教授は「死体の状況から見ても、性的満足を得ようとした快楽殺人でしょう」と雑誌に見解を寄せている。福岡大・平兮元章(ひらな・もとなり)教授は西日本新聞で「胴体から切り取られていた部分は性に関するもの。欲望の発現形態が非常に屈折していることの表れで、性的な殺人事件の可能性が大きい。さらに殺害後、死体を切り刻んでおり、死体愛好者的な面もうかがえる」と述べている。

 

岩崎さんのアドレス帳には200件ほどの記載があったが、周囲の人間によると色恋よりも仕事を優先するタイプとされ、交際相手は浮上しなかった。週刊誌等では「7年前」に熊本の男性と交際していた「らしい」ことや、94年の知人宛の年賀状に結婚を目指す「ような」添え書きがあったこと等を伝えている。

一方、93年11月には宅配便を名乗る人物から「住所を教えてほしい」との電話が自宅に入ったため勤め先の住所を伝えたがその後も荷物は一向に届かなかったり、94年2月に自宅の郵便受けに隠しておいたスペアキーが郵送物ごと盗まれる被害に遭ったり、無言電話が続いていたりと、彼女の周囲では不審な出来事が続いていたとも報じられている。

3月15日、捜査本部は「オフィス髪銘家」で5年ほど前から経理事務等を担当していた江田文子(38)を死体遺棄容疑で逮捕する。

江田は2月22日に同僚女性たちで開いた岩崎さんの送別会に参加しておらず、事件直後とみられる3月初旬に「新しいお店での活躍を祈っています」などと書いた被害者宛の手紙を送っていた。遺体が岩崎さんと判明した当時の取材では、彼女の転職について「自分の技術を広げるため、年齢的にも踏ん張りどころですから」と理解を示すような発言をしつつ、人柄については「別に悪くもなく、気にも留めなかった」「非常に気の強い人だった」と淡々と答えていた。

江田は容疑を否認し、事務所ポストにあったという被害者の時計とシステム手帳、「次はお前の番だ」等と書かれた脅迫状を提出して、自分も犯人から脅されていると主張した。

 

警察は江田の主張を鵜呑みにすることはなかったが、共犯者の存在が念頭にあったのか、現場を事務所兼自宅としていた男性経営者(37)も参考人として聴取を受けている。江田の逮捕後の報道でも単独犯行ではなく共謀した男性がいたとする複数犯説は消えなかった。

遺体発見当初から重要な手掛かりとされていた左手首を包んでいた企業PR紙は発行部数1200部と少なく、限られた地域でしか配布されていなかった。配布地域に住まいのあった江田は強い疑いをもたれていた。

逮捕の決め手とされたのは、本来は交通流速(渋滞状況)や到達時間予測に使われるTシステム(旅行時間測定システム)という道路監視システムだった。遺棄された3月2日から3日にかけての不審車両の追跡を行い、高速道路の通行券(通行券なしで料金決済をするETCシステムの開始は2001年)から指紋を採取し、江田が博多駅近くでレンタカーを借りていたことを突き止め、遺体運搬の証拠とされた。尚、Tシステムは1999年から車両追跡や犯罪捜査の目的でナンバープレートを照合するNシステムとも情報共有がなされている。

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1BnxTZ20bCo-Yflw4392C0_arvfU&hl=ja&ll=33.19542713001841%2C130.726237&z=9  江田は「ドライブに行っただけ」「パーキングに立ち寄ったが遺体を捨ててはいない」等と事件とのつながりを否認し続けていたが、3月21日頃から容疑について供述を始め、24日に死体遺棄を全面的に認める。25日、江田立ち合いのもと行われた熊本県阿蘇町乙姫での捜索で、供述通り両足が発見された。

続いて「殺害」の取り調べへと移り、4月4日に自供。単独犯行との見方が強まり、翌日、殺人容疑での再逮捕となった。

 

■女の半生

江田は福岡市内で公務員の父と元教師の母との間に生まれ、きょうだいは兄が一人いるが事件後、絶縁された。アパート経営をする資産家で経済的に不自由はなく、中学から短大まで地元の名門私立・筑紫女学園へ通った。獄中出版した手記『告白』(リヨン社)によると、父親は無口でおとなしかったが、母親は世間体や良識にこだわる人物で気位が高く押しつけがましい面があり、ときに人格を傷つけられることさえあったため、母娘の間には深い確執があったという。

短大卒業後はインテリア会社に就職するも1年で退職。22歳の頃、高校時代に発病した甲状腺機能障害がもとで入院し、その際、中絶手術もしている。78年に7歳上のタンクローリー運転手の男性と結婚。希望や理想があっての結婚ではなく、「母のそばを離れたい、この家から出たいという一念から」で、職業や容貌、人柄に至るまで「母が嫌うであろう人」を夫に選ぶことが「母への報復的な手段」だったとまで語る。

彼女は中絶経験から夫との性生活もなるべく回避したかったというが、2児を授かっている。義父母も彼女の父親の資産をあてにするところがあったと言い、夫家族との溝は一層深まっていった。86年、太宰府市の新興住宅街に新居を持ったが、2児の子育て、望ましくない結婚生活に疲弊し、やがて彼女は家の外へと救いを求めた。

1989年1月から百貨店のブティックで働くようになり、やがて「オフィス髪銘家」のO社長と知り合い、経理事務員として仕事を世話してもらうこととなった。売上金の管理や従業員十数名の給与、顧客管理などを一人で受け持ち、経営者男性も「頭の切れる女性」と評価しており、91年には「マネージャー」の肩書が与えられている。

社長の知人で会社の税務を担当していた税理士事務所の男性とドライブに出かけるなどして好意を抱くようになる。共に家庭を持つ身であったが、93年9月、従業員の慰安旅行でハワイに行き、そのとき男女の仲に発展した。その後、二人の関係は職場内でも公然の秘密として認知されており、二人は密会の場として家賃12万円のマンションを借りて通うようになる。

告白―美容師バラバラ殺人事件

江田より1年後に「びびっと」に勤め始めた岩崎さんは熱心な仕事ぶりで、美容師コンクールでも優秀な成績を上げるなど順調にキャリアを重ねた。税理士男性も江田の前で彼女の活躍を話題にすることがあった。家の外に安息の地を求め、ようやく運命の相手と愛の巣を築いたはずの女に嫉妬心が芽生えるのは当然の成り行きだった。税理士男性と彼女との関係に不信感を抱いたのである。

江田は岩崎さんへの尾行や素行調査を重ねた。周囲の人間からも情報を集めようとする江田の様子を察した税理士男性はもはや関係継続は難しいと考えるようになった。男の気持ちが自分から離れていくことで、江田はますます疑心暗鬼となり、岩崎さんに怒りの矛先を向けていく。1994年1月、男性は江田に別れ話を切り出した。

それまで江田が陰口を吹聴してきたことも影響してか、岩崎さんは93年11月に店を移りたい意思を経営者に伝えていた。94年2月、江田は岩崎さんを手続きの為と言って「オフィス髪銘家」に呼び出し、4時間にも及ぶ口論を繰り広げた。岩崎さんは待遇への不満や、過去に2人の美容師見習いが退職したことを自分のせいにされたこと等の不満を訴えたという。その翌日、税理士男性は密会用のマンションを解約したことを江田に伝えた。

 

■裁判

1994年5月、江田は夫との離婚が成立して旧姓・城戸に戻る(本稿では以下も江田に統一する)。

7月、福岡地裁で行われた初公判で、被告側は死体損壊・遺棄を認め、殺害については正当防衛を主張した。

検察側の主張によると、男性からマンション解約を告げられた翌朝、江田は被害者を「オフィス髪銘家」に呼び出し、再び口論となった。双方が押し問答となる中、江田は台所の出刃包丁で岩崎さんを切りつけ、馬乗りになって何度も首を刺した。出刃包丁は事件の2週間前に購入していたものであった。

事務所は経営者の自宅と兼用で、帰宅する夜までに遺体を始末する必要があった。江田は一人で遺体を運び出すことができず、工具箱にあったノコギリと出刃包丁で首と両手足、腰と手首を切り離した。作業は3時間20分程と推測され、黒いビニール袋やスーツケースに詰めて自宅に持ち帰り、現場となった事務所内を清掃。内臓などを近くのゴミ集積所に出し、19時から美容室で行われた研修に出席していた。

凶器の出刃包丁は走行中の車内から、右手首は玉名パーキングエリアのゴミ箱へ、頭部は自宅近くの集積所に遺棄したとされるが、発見には至らなかった。

 

95年8月、福岡地裁(仲家暢彦裁判長)は、被害者が包丁を向けたとする事実は認められず、「正当防衛を論ずる余地はない」と被告側の主張を却下。殺害直後に解体に取り掛かっておりスーツケース等での搬出など犯行に計画性があったと指摘し、「邪推から来た憎悪の念」を動機として「確定的殺意があったことは明らか」とした。被告には「虚偽の供述を繰り返すなど反省も見られない」とし、検察側の主張をおおむね受け入れ、求刑17年に対して懲役16年の判決を下した。

1997年2月、福岡高裁(神作良二裁判長)は控訴棄却。1999年9月、最高裁(亀山継夫裁判長)は上告を棄却し、懲役16年が確定する。

 

■終わらない事件

裁判で江田の単独犯が認定されたものの、ネット上では判決とは異なる「噂」が存在する。

江田の逮捕後、地元福岡のS病院の三男が自殺したという。この男は江田と愛人関係にあり、店の経理を誤魔化して金を貢がせていたが、被害者が不正な金の流れに気づいて告発しようとしたため殺害。男は捜査の手が及ぶことを恐れて自ら命を絶ち、地元有力者の子息ということで有力政治家の口利きによって江田との関係については一切が伏せられた、といった趣旨である。またその三男と美容室経営者は同性愛者で愛人関係だったという尾鰭までついている。

「噂」にはまだ続きがある。

自殺した男にはきょうだいがおり、兄は病院の跡を継ぎ、姉は結婚して神戸で暮らしていた。その姉こそ1997年に小学生5人を殺傷し世間を震撼させた神戸連続児童殺傷事件で自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年の「母親」なのだという。福岡の事件当時、酒鬼薔薇は小学生だった。事件後の供述で酒鬼薔薇は「人の死」に興味を持つようになったきっかけの一つに愛着のあった「祖母の死」を挙げているが、美容師バラバラ事件や「叔父の自殺」もトリガーなのではないかというのである。

犯人は「病院を継いだ長男」、自殺ではなく「海外逃亡」などバリエーションは諸説あるが、なぜそうした噂が語り継がれているのか

発端のひとつとして、事件当初は男性が主犯と信じられていたこと、江田の逮捕後も一部で共犯の男がいる可能性が囁かれたことが挙げられる。また江田が自著で生い立ちや結婚生活のみじめさを滔々と語るのに対して、犯行の核心部分については殺害を依然として否認し、「よく分からない」「霧の中のような出来事」「私ははめられた」等と曖昧かつ思わせぶりな表現が多かったことにも起因している。

「病院」は、患者の人生を左右する現場であることから、医療過誤がなくとも「やぶ医者のせいでもっと悪くなった」「家族を殺された」等と逆恨みされやすい立場でもあり、そうした自身の安全にも直結する噂は地域住民に共有されやすい。疑心暗鬼になる人ほど「悪い噂」に影響を受けやすい。S病院に恨みを持つ人や医療不信の強い人々がいるかぎり「悪い噂」は根治されず時を経てなお再生産が繰り返される。

さらに有力政治家が事件をもみ消したとするいわゆる「上級国民説」がとられている点も興味深い。一般大衆からすれば及びもつかない政治力によって警察権力を抑え、逮捕を免れている政治家もいないとは言い切れない。だが事件が長期未解決になると理由もなくそう信じ込みたがる陰謀層がネット上には頻繁に出現する(信じているというより噂の流布自体を楽しんでいる愉快犯が大多数とは思う)。

噂の発生の経緯を調べる手立てはないが、地元政治家にダメージを与えるために撒かれた怪文書などが火種となり、関係のあった病院が誹謗中傷を受け、政治家や病院を恨みに思う人々が「地元の噂」と触れ込み、陰謀論者がネットで焚きつけた結果…といった印象を受ける。

1994年というまだ携帯電話もインターネットも普及していない時期に発生した「男女関係のもつれ」という動機としては「ありふれた」ともいえる事件。それながらもその残忍な手口や加害者の特異なキャラクター、さらにインターネット黎明期に酒鬼薔薇事件と根拠なく結びつけられたことでその後も忘れ去られることなく「噂」を先行に語り継がれている。

 

刑期から言えば江田はすでに出所して社会復帰を果たしていると考えられる。他責傾向や虚言の激しい、今や高齢となった女は偽りの家族と別れ、実のきょうだいにも見捨てられ、孤独に生きているのであろうか。身勝手極まりない動機と凄惨な犯行は断じて許されず、たとえ一命を以てしても償えるものではない。いつしか呵責を負い、心からの後悔と反省の境地に至っていることだけを信じたい。

 

被害者のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

「餃子の王将」社長射殺事件について

発生から約9年、長期未解決となっていた京都市山科区で起きたいわゆる「餃子の王将」社長射殺事件が再び大きく動き出した。

2022年10月28日、別の襲撃事件で懲役10年の罪により服役中の工藤会系幹部の男に逮捕状を執行。また新たに福岡県警との合同捜査本部設置を発表した。

福岡県北九州市を拠点とする工藤会は、指定暴力団の中でも一般市民にも危害を加える恐れがあるとして2012年から全国で唯一「特定危険指定暴力団」に指定されている。2014年以降、福岡県警は組織壊滅に向けて、総裁野村悟ら幹部を一斉検挙する「頂上作戦」に取り組み、現在も裁判が続けられている。

本稿では、事件の概要、これまで報道された捜査状況、疑惑などを整理しておきたい。

 

■概要

2013(平成25)年12月19日7時ごろ、「王将フードサービス」の大東隆行社長(72)が京都市山科区の本社前駐車場で血を流してうつぶせに倒れているのを出社した従業員が発見した。大東氏は病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。

 

推定死亡時刻は6時頃とされ、死因は腹部を3発、胸を1発撃たれたことによる失血死。大東社長は自家用車から約1mの位置に倒れており、周囲に4つの薬きょうが落ちていた。そのため社長が到着して車を降りたところを待ち伏せしていた犯人が至近距離から銃撃した可能性が高いとみられた。薬きょうから指紋が検出されなかったことから、犯人は手袋などをして装填したと推測される。

使用された銃は発見されていないが、自動式の25口径(イタリア製)と判明(当初は「22口径」とする報道もあった)。25口径は、暴力団が一般的に使用する38口径に比べて小型で狙撃精度や殺傷能力が低く、国内での流通量は少ない。海外では入手のしやすさから強盗や殺人に用いられるケースもあるが、基本的には護身用や害獣駆除の目的で使用されることが多い。その一方で、手の平サイズの携行のしやすさ、発砲の音や衝撃が小さく扱いやすいこと、装填弾数が多く連射が可能といった利点もある。そのため当初は暴力団ではない一般人が襲撃した可能性も視野に入れ、捜査が開始された。

現金数十万円が入った財布など大東社長の所持品はその場に残されており、車内にも百数十万円の現金があったことから強盗目的は考えづらかった。携帯電話の通信履歴に不審点はなく、同社や社長の周辺では金銭の要求といった事前の脅迫は確認されていないことなどから、社長個人に対する怨恨が背景とみられた。

 

大東社長は5時半頃、山科区内の自宅から自家用車で出勤し、5時40分~45分頃に現場となった駐車場に到着したと推測された。早朝に長靴履きで本社前を清掃するのが日課としてよく知られていた。

周囲は住宅街と中小工場が混在する地域。周辺住民は口論するような声や銃撃音を聞いておらず、本社や駐車場に防犯カメラは設置されていなかった。現場南側の倉庫にある1台のカメラも駐車場が死角になっており犯行の様子は直接確認できなかった。しかし出勤した大東社長の車のライトのほか、東向きに動く車輛のライトや人影も映っていた。画像は荒く、顔貌や車のナンバーは識別できなかったが犯人につながる数少ない証拠となった。

捜査本部は犯人が入念に下調べをしたうえで犯行に及んだ可能性があるとし、「プロの仕業」との見方を強めていった。

 

王将フードサービスでは渡辺直人常務(58)が社長に就任することを事件同日に発表した。渡辺氏は営業畑一筋で、東日本の直営店を統括する第4営業部長を兼務し、北海道や関東への出店で実績を上げてきた人物である。

翌2014年1月6日の会見では「暴力は決して許されることではない。犯人は自首して頂きたい」と事件に対する憤りを見せ、「経験したことのない悲しみ、苦しみを感じた。言葉を頂く間もなく重責を拝命した。大東の遺志を継ぎ、日本一の中華料理チェーン店を目指す」と強い信念を語った。

ネット上では「追悼餃子」と称して来店を表明する現象が相次いだ。渡辺社長は、会社に激励のメールが届き、各店舗にも励ましの声が寄せられ、売り上げも増えたと報告し、愛好客らに感謝を伝えた。

 

■捜査の進展

事件から半年、京都府警は延べ1万800人の捜査員を動員して周辺2610世帯に聞き込み、役員や取引先数十社の関係者から事情を聴いた。

防犯カメラの映像解析から、映りこんでいた大東社長の車とは異なる車輛のライトについてバイクの可能性が高まったと報じられた。犯人は逃走にバイクを使用したとの見方が強まる。

同じ2014年春、現場から北東約2キロ(NHKでは「1.5キロほど」)にある京都市山科区共同住宅敷地内で、前年10月に城陽市の住宅街で盗難されていたスーパーカブ(小型オートバイ)が発見される。スーパーカブはカバーに覆われて隠された状態で見つかり、現場に残されていたタイヤ痕とも一致。ハンドル部分からは、銃の使用後に生じる硝煙反応が検出される。カバーの流通経路を調べたところ、九州地方を中心に展開するホームセンターで主に販売されていたものと判明した。

城陽市でのスーパーカブ窃盗と同時期、伏見区の外環状線沿いの飲食店で別のバイクが盗難されていた。飲食店の防犯カメラなどから福岡県の久留米ナンバーの軽乗用車に乗った2人組の男が窃盗していたことが判明する。捜査本部では男たちが逃走用のバイクを事前準備していたと見て調べを進め、軽乗用車は2016年に売却されていたところを発見されたが、事件につながる証拠は残されていなかった。しかし流通経路や使用状況などから福岡の暴力団関係者の存在が浮上する。

 

また有力な手掛かりとして、現場付近の死角となっている通路で「たばこの吸い殻」が2本採取されていた。燃焼時間を割り出したところ、待ち伏せしていた犯人のものと推測されていた。その後も直前に降った雨の状況などを踏まえて吸い殻の形状などを科学的に検証し、別の場所から持ち込まれた可能性をほぼ排除した。

2015年12月には吸い殻に付着していた唾液のDNA型鑑定により、件の暴力団関係者のものと特定された。2017年7月には乾燥大麻所持の容疑で男は逮捕。2018年6月にも男は福岡市内でゼネコン大手・大林組の車に銃弾を撃ち込んだ(犯行は2008年1月17日)として銃刀法違反等で逮捕され、2019年11月に福岡刑務所へ収監された。しかし王将事件への関与について男は否認を続けた。

たばこの吸い殻だけで事件を立証することはできない、その後も男の行動について慎重な裏付け調査が続けられ、事件から9年目、状況証拠を固めて今回の逮捕に漕ぎつけたとみられる。

 

餃子の王将について

王将フードサービスは「餃子の王将」をはじめ国内外約680店舗(当時)を展開する、大手外食チェーンである。

1967年に加藤朝雄さんにより京都・四条大宮で創業された。事件に遭った大東さんは69年から同店に勤め始めた。大東さんは加藤さんの義兄弟(大東さんの姉が加藤さんの妻)として共に店を支え、加藤さんたちは京都を中心に事業を拡大。情に厚く、仕事に厳しく、社員や出入り業者にも信頼された。

※「大阪王将」などをチェーン展開するイートアンドホールディングスとは経営業態が異なる。大阪王将は、オイルショックの影響により繊維業で失職した文野新造氏が親戚の加藤さんの店を手伝い、69年に暖簾分けするかたちで大阪・京橋に出店したことがはじまり。当初は京都と大阪で棲み分けられたが、その後、両社とも出店拡大を続けた結果、混同を避けるため商標を巡って法廷で争われる時期もあった。

77年、加藤さんはアサヒビールの営業本部に勤める望月邦彦氏と知り合う。経理畑も経験し、労組改革も担った人物で、加藤さんのよき相談役として経営に参画。請われてアサヒビールを退社し、副社長に就任した。それまで家業だった中華料理店を「企業」へと脱皮させたといわれる(アサヒは王将の筆頭株主でもあった)。

加藤さんは東京進出を実現するとともに、郊外へも出店計画を拡大していった。望月氏によると、自治体の許認可や水道工事の遅れなどが生じたときに、加藤さんが頼りにした会社経営者A氏がいた。彼に頼むとスムーズに事が進むとして相場よりも多額の報酬を加藤さんは支払っていたという。

89年2月、王将戎橋店で火災が発生し、亡くなった物件所有者遺族から賠償請求を受けた。最終的には97年、王将側が1億5000万円の支払いと戎橋店の土地・建物を9億円で買い取ることで和解となったが、このときの交渉役もA氏が担い、王将側は買収工作資金に1億円を支払っている。

93年に加藤さんが亡くなると、社長職を託された望月氏はA氏に葬儀委員を依頼。A氏は恩義ある加藤さんの御子息たちをわが子と思って世話していきたいと語っていたという。94年に加藤さんの長男潔さんが新社長に、二男欣吾さんが新専務に就任すると、A氏との間で不透明な不動産取引が急速に増えていった。

A氏が経営する企業は旧住専(住宅ローン専門会社)の総合住金から132億円の融資を受けていた。だが95年に旧住専の破綻処理によって資金源が断たれ、返済が必要となる。そこでA氏が頼ったのが王将だったのだという。実際、競売に掛けられたA氏のグループ会社が所有していた物件を王将が取得したこともあった。

この時期に王将がA氏の企業グループと交わした不動産取引の多くは取締役会で諮られることなく、創業家の独断専行で行われた。後の第三者委員会の報告によると、2005年までの10年間で総額約260億円、うち170億円が回収不能という不適正な取引が繰り返されていた。

不適正取引や多角化の失敗などもあり、創業家の2人は辞任となり、2000年に大東氏が4代目社長に就任した。01年3月期には有利子負債452億円を計上し、翌年には金融機関からの融資も受けられない経営危機に陥った。これまでA氏の介入を見てきた大東氏は03年7月、A氏の企業グループとの取引解消の方針を示し、不動産の売却、債権の放棄を進め、06年9月までに清算して難局をどうにか乗り切った。

東証一部上場を目指した際もA氏の企業グループとの不透明な関係が指摘を受け、12年には社内に『再発防止委員会』を設置し、不透明な取引状況を徹底的に究明。その結果、2013年11月13日付報告書で『(A氏について)接点を断たなければならない相手』と結論付けていた。報告書は外部公開されていなかったが、射殺事件発生の1か月ほど前である。

 

■蝕むもの

2016年1月、王将フードサービスは反社勢力との関係の有無などを調査するコーポレート・ガバナンスに関する第三者委員会を設置。3月29日、調査報告書を公表する。

それに先立つ1月20日福岡地検が福岡県のゴルフ場運営会社元社長の関係先を家宅捜索したことが報じられた。2015年4月、ゴルフクラブが臨時株主総会で2万株増資したとする虚偽の登記変更をした疑いである。過去には女子プロゴルフツアーの開催などもあった有名クラブで、餃子の王将の取引先で構成される「王将友の会」も91年から93年までに計6回の親睦会をそこで開催している。

ゴルフ場を手掛けたのは84年に京都市で「京都通信機建設工業」を設立した上杉昌也氏。後の「王将友の会」発起人である。上杉氏はバブル期にいわゆる地上げビジネスで成功をおさめ、1990年5月に福岡にゴルフクラブをオープンさせたが、直後にバブルが崩壊。会員預託金の返済に行き詰まり、2011年6月に民事再生法の適用を申請、関連事業と合わせて負債総額は428億円に上った。

1990年代半ば、バブル崩壊の上杉氏の資金難に支援をしていたのが王将創業家の加藤社長たちだった。上杉氏の異母兄は戦後、部落解放同盟に参加し中央執行委員長まで務めた故・上杉佐一郎氏である。最盛期には税金逃れなどで京都の財界人たちは多かれ少なかれ世話になったという顔役である。暴力・利権団体と扱われ喧伝されたとして全解連(全国部落解放運動連合会)、部落問題研究所を相手取り名誉棄損の裁判を起こしたことでも知られる。

2015年に出版された一ノ宮美成・グループK21の著書『京都の裏社会 山口組と王将社長射殺事件の聖域』(宝島社)では、不動産ブローカーの証言として王将のバックにはこの上杉佐一郎氏の存在があり、王将が全国展開に乗り出す際には数百億円とも言われる原資を引っ張ってきたとされる。

上杉佐一郎氏は1919年福岡県三井郡御原村出身で戦中は中国に出征。困窮にあえぐ中、部落解放の父と呼ばれた松本治一郎氏に見いだされ、部落解放運動に邁進し、82年に委員長就任。

王将の創業者加藤さんの出身は1924年福岡県飯塚市で生まれ、家は鮮魚店を営んでいたが家計を助けるため9歳から新聞配達などで働き始め、1941年、山西省で飲食店を営む長兄の許を訪れてはじめて本場の餃子や中華料理に出会った。帰国してアサヒビールが営むビアホールでコック見習いとなり、44年で徴兵。旧満州大連で終戦を迎え、47年に引き揚げ後は王将を成功させるまで職を転々とした。

報告書によれば77年頃に2人は知り合ったとされ、80年の福岡支店開設や85年に阪奈生駒店出店などの際に口利きをしてもらったとされる。ともに福岡出身で、生活の困窮や中国での戦争体験など共通項も多かった王将創業者と上杉氏との間には太いつながりがあったとみてよい。

実行犯と目される工藤会系幹部の男が逮捕された翌日の10月29日、福岡の上杉氏の自宅にも家宅捜索が入り、春日署で参考人聴取が行われた。

 

デイリー新潮では2016年に上杉氏に取材を行っている。

記事によると、2014年4月に京都府警の刑事が福岡の会社にいた上杉氏を訪ね、開口一番「九州のヤクザが動いとる。九州と言ったらあんたしかおらん」「王将の犯人はあんたしかおらんのや」と迫られたと上杉氏は回想する。射殺事件への関与については言うまでもなく否認している。

住専問題で窮した際に手を差し伸べてくれたのが当時王将の金庫番を担っていた専務・加藤欣吾さんだったと認めている。しかしその後、返済と運転資金の借り入れを繰り返すうちに双方の言い分に食い違いが生じたと説明。その後、潔さん欣吾さんが退陣し、王将が抱えていた莫大な損失を責任転嫁されたのだと主張した。

上杉氏は、2005年から大東社長の指揮で中国・大連など6店舗をオープンさせたが商標権の問題などもあって現地での経営責任者とトラブルとなり失敗に終わったことや、過去に創業者の妻(大東社長の姉。監査役員でもあった)が取引業者にエルメスのバッグをねだり、断ると取引を打ち切られて業者は飛び降り自殺をしたことなど、知っていることを警察に伝えたという。

 

上杉氏と射殺事件を直接結びつける証拠は明らかにされていない。だが大東社長がその因縁の関係を断ち切り、報告書をまとめていたことが、現状考えうる最も事件につながるトリガーなのではないかと考えられている。

 

■所感

工藤会系組幹部の男の逮捕後、会見に臨んだ京都府警・中野崇嗣刑事部長は「今回の容疑者は、実行犯という位置付けで考えている。これから捜査するが、共犯者、指示役がいることも視野に入れながら捜査していく」、「当然、原因や動機的なところを捜査するにあたって、大東社長の身分は関連してくるどのような経営実態があるのかその辺の捜査は進めている。関連性はまさにこれから。被疑者の取り調べを中心に捜査を進め、王将さんにかかわるところは今後の捜査で解明していきたい」と述べた。

 

10月31日に会見に臨んだ渡辺社長は、「容疑者逮捕の一報を受けて、本当に長かったな、と。まだ全容が解明されたわけじゃないんですが正直に言いましてほっとしている」と話した。

また過去の企業グループとの不適切な取引について質問が及ぶと、「第三者委員会を立ち上げるなど、社内調査を徹底してきました。その中で一部、不適切な取引先との関係があったので、2016年3月30日をもってすべて解消しました。いまは一切、この企業グループとの関係はないとはっきり申し上げます」と述べ、容疑者が工藤会系幹部だったことについては「私どもは反社会的勢力とのつながりは一切ないと確信しています」と強調。「無念の中で命を落とした大東前社長が納得できる解決を見たいです」と事件の真相解明を求めた。

 

読売新聞では捜査進展の背後に、かつて福岡地検小倉支部工藤会の「頂上作戦」を指揮した検事が、京都地検を経て大阪高検刑事部長に異動したことを挙げている。一方では長期化の原因について、一部には京都府警と福岡県警の不協和音があったとも囁かれる。工藤会と王将事件の実情を知る人物がポストに就かなければ、連携した捜査体制が実現しないという警察の体質も由々しき問題である。

公表されている状況証拠では容疑者の犯行を立証できるのかは不透明と言わざるを得ず、全面解決のための更なる糸口を探るために実行犯の「身柄の引き渡し」を求めたという見方が強い。工藤会について過激な団体として知られる一方で、内部は面倒見がよく結束力が強いとされ、簡単に口を割らないと言われている。50代半ば、残り刑期6年の容疑者にはたして口を割るメリットなどないに等しい。

かつては1200人規模と言われた大所帯も現在では構成員300名以下とみられ、その半数は逮捕されている。検挙や殲滅作戦も重要なことだが、締め付けが強くなった今日にあって出所した中高年たちが「元の組」の再興を目指すおそれも今後懸念される。社会からの締め出しと同時に、どういった社会復帰やケアをしていけるのかも試されている。

この事件は実行犯逮捕で終結などではない。はたして捜査のメスがどこまで切り込むことができるのかが本質である。一日でも早く本当の意味での「追悼餃子」を味わえる日が来ることを信じたい。

 

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、ご遺族の心の安寧を願います。

 

 

■参考

【深奥-王将社長射殺】㊤捜査3200日、1本の吸い殻が容疑者特定 - 産経ニュース

【深奥-王将社長射殺】㊦背景に200億の「代償」? 事件つなぐキーマンX - 産経ニュース

王将社長射殺事件と福岡センチュリーゴルフクラブの接点|NetIB-News

初動捜査につまずき逮捕まで9年、「迷宮入り」口ににする府警幹部も…[社長射殺]<下> : 読売新聞オンライン

「餃子の王将」社長射殺 工藤会の凄腕ヒットマン「戦慄の素顔」 | FRIDAYデジタル

フィンランド・ボドム湖殺人事件

1960年、湖畔にキャンプデートへ訪れた男女4人の若者たちが何者かに襲撃され、3人が命を落とし、生き残った一人も当時の記憶を失うという事件が起きた。

フィンランド人にとってはなじみのある「青春の1ページ」とでもいうべき青年たちの幸福な余暇。それを文字通り血に染めた惨劇は、猟奇的事件に不慣れな人々に大きなショックと不安を与え、国民的な関心を集めた。だが事件の真相は明らかにならないまま、捜査は30年以上もの間、事実上凍結された。

2004年に事件の「唯一の生存者」が容疑を掛けられたことで再び大きな物議を醸した、フィンランド犯罪史上最も有名な凶悪未解決事件である。

 

■概要

1960年6月4日(土)、キリスト教の祝日ペンテコステを利用して、4人の青年たちがフィンランド南部ウーシマー県エスポー郊外にあるボドム湖へツーリングキャンプに訪れた。

メンバーは18歳の男子学生と15歳の女子学生各2名ずつで、青年たちは鋳造技術を、少女たちは主に裁縫等の技術を学んでいた。

左から、マイラさん、アニアさん、セッポさん、ニルスさん

マイラ・イルメリ・ビョークルンドさん(15)専門学校生

アニア・トゥーリッキ・マキさん(15)専門学校生

セッポ・アンテロ・ボアズマンさん(18)市民学校生

ニルス・ヴィルヘルム・グスタフソンさん(18)市民学校生

(※以下、4人の敬称略。ファーストネーム呼びとする。)

アニアとセッポは恋人になって数か月で、マイラとニルスはそれぞれ2人の友人として紹介されて数週間前に知り合った。知り合って間もないマイラとニルスだが双方に好意はあったのか、性的関係の有無などははっきりしない。

前月、セッポはアニアの女友達カイヤ・マルヤッタ・リナネンさんにも誘いをかけており、5人かもう一人加えて6人で行く可能性もあったが、カイヤさんは神学校の予定を優先したため不参加となった。アニアの父親はキャンプ計画を聞かされた当初、難色を示していたが、真っ当そうな青年2人を信用して送り出すことにしたという。

 

夏至フィンランドでは「白夜」となるため深夜まで陽が落ちることはない。4人は少年用バイク2台でツーリングデートを楽しみながら現地を訪れ、夕方6時過ぎ、ボドム湖南岸の岬にテントを張った。青年たちは遊泳や食事(男の子たちはアルコール)をひとしきり楽しみ、22時半頃に就寝したものとみられる。

マイラの手帳には次のような記述が残されていた。

“5日、ボドム湖への旅。セッポとニルスは酔っ払っていた。午前2時起床。セッポは釣りをしていた。”

筆跡鑑定によれば筆致はアニアのものとされている。若い彼らにゆっくり眠っている暇はなかったらしい。

5日11時過ぎ、大工のエスコ・ヨハンソンさんは息子2人を連れて湖水浴に訪れた。息子たちは浜辺を駆け、父親は小道で自転車を漕ぎながらその姿を見守り、目的地へと競走ごっこをするようにして向かっていた。

すると岬に破れて倒壊したテントを見つける。近づいてみると、テントは引き裂かれて血に塗れ、若い男女4人が頭を潰されて倒れていた。そこへデート中の若いカップルが通りがかったため、ヨハンソンさんは現場の保存を2人に任せ、慌てて電話ボックスを探し、11時30分頃にレッパヴァーラ警察署へ通報した。

 

署員らは11時45分頃に現場に到着し、中央刑事警察も駆け付けた。パーティーのうちマイラ、アニア、セッポの3人の死亡が確認された。少女2人の死因は頭がい骨骨折と脳挫傷、セッポは血液の溜飲による窒息と見られた。4人全員が殴打による打撲や擦り傷を負っており、マイラとセッポには複数の刺し傷もあった。現場目撃情報などと照らし合わせて、死亡推定時刻は5日4時から6時ごろとされた。

とりわけマイラへの攻撃は他の3人より凄惨を極め、死後に首元を15か所近くめった刺しにされており、ジーンズが下ろされて下半身がはだけた状態でテントの上に倒れていた。しかし遺体に強姦を受けた痕跡はなかった。翌6日には彼女の16度目の誕生日が控えていた。

唯一生存が確認されたニルスも頭部や顎に複数の骨折など重傷を負い、意識不明の状態で病院へ搬送された。数週間の入院を余儀なくされ、殴りつけられたダメージによる脳損傷など後遺症の疑いもあった。

 

■現場状況と初動捜査

テントは出入り口が東向きに据えられ、固定用ロープが切断されていた。血飛沫の状況などから見て、4人はテントの下敷きとなり、身動きできない状態で外部から攻撃を受けたと見られた。殴打には岩石の使用が疑われたが、周辺では鈍器や刃物といった凶器は発見されなかった

4人は靴を履いておらず、テント脇に女性用の靴2ペアが発見された。衣類や毛布、空き瓶やキャンプ用品の多くはテント内外に散逸しており、パンなどの食料はキャリーボックスに残されていた。

現場からは財布やオートバイの鍵、その他複数の所持品が見当たらなかった。事件翌日にテントから500mほど離れた岩穴周辺の茂みから衣服の一部とセッポとニルスの靴が発見されたものの、それ以外のものは発見されなかった。鍵を奪われた2台のオートバイはテントの傍に残されたままとなっていた。

後に親族が紛失を確認した主なものは、アニアの「財布、水着、タオル」、セッポの「ナイフ、レザージャケット、懐中時計、財布」、ニルスの「腕時計、可動式プライヤー、L型プライヤー、女性物のキャリーバッグ」である。

現場捜査を率いたアルヴィ・ヴァイニオ副判事(中央)

 

警察署員もペンテコステによる休暇が多く、動員に時間を要した。

初動捜査について、現場の初期状態に関する記録が取られていなかったこと、道路封鎖の遅れ、更に捜索隊にに寄せ集めの警官や志願兵が動員されたため却って指示系統が混乱し現場保存や証拠収集が困難となったことが後に問題視されている。7日には10数匹の警察犬も導入されたが、多くの人跡に荒らされた現場では役に立たなかった。

眼前には湖が広がっており、凶器などを遺棄するにはうってつけとも言える。湖岸一帯も探索されたが、60年当時のこと水中探査機があった訳でもなく、フロッグマン(水中捜査班)も限られており、見落としがなかったとは言いきれない。湖面に浮かぶドリンクボトルから採取された指紋も現在まで事件解決の役には立っていない。

捜査期間中、多くの野次馬が現場に詰めかけ、何らかの証拠が搔き消されたことも危惧された。紛失した品目の特定にも時間を要し、実際のところそれらを犯人が奪ったのかは不明であり、群衆の一部が湖に投げ捨てたり「記念品」として密かに持ち去ったりした可能性もある。

 

上の地図では赤いポイント地点、下のストリートビューは北の上空からドローン撮影されたもので左手の岬がキャンプ地である。

 

湖畔周辺の住民や観光客に聞き取りが行われたが、すでにその段階で帰宅した者もあったことから、新聞紙上で当時の湖畔来訪者を募るなどして計88人から情報を集めた。

有力な目撃情報として、5日午前3時45分頃、農業アイリ・ヨアンナ・カリャライネンさんは近くのサウナを訪れ、現場近くのビーチを通った。4時過ぎに物音がして岬の方を見ると、テントの一つ隣の岬で20歳未満の青年2人の姿が目に入った。2人は半裸でシャツの袖を体に結んでおり、一人はその場から去っていったという。状況から見れば、セッポとニルスの2人と推測される。

午前6時ごろ、少し離れた場所でバードウォッチングをしていた10歳の少年2人が、2台のバイクと地面に敷かれたテント、その上に寝そべる男性らしき脚を見かけた。少年たちは、5分か10分程前に何らかの物音を聞いていたが、キャンプ客が日光浴でもしていると思い、現場に近寄ることなく通報には至らなかった。

14歳のオラヴィ・キビラティ少年はボート釣行を約束していた友人が来るのを朝4時頃から待ちわびていた。暇を持て余して8時近くまでキャンプ場の西側で岸釣りをしていたが、6時頃にテントのあった岬方向から南方に向かって歩いていく明るい茶色(金)髪の男性の姿を目にした。物音や悲鳴は聞いてはおらず、男は身長170~180センチ、非常に薄手の上着と濃色のパンツを着用していたと話した。後に彼には近視等の視覚障害があったとして観測への影響も指摘されている。

 

人々の注目が高まる中、警察の得られた情報では犯人検挙はおろか動機の絞り込みさえ困難だった。被害者グループ周辺の人間関係の洗い出し、周辺地域に暮らす元囚人たちや要注意人物への調査など広範な人々を対象として地道な捜査が続けられた。疑惑の人物をあぶり出しては、捜査が進むほどに期待を打ち砕かれた。

犯人はなぜナイフと岩石を使ったのか、単独犯か複数か、性犯罪か物盗りか、メンバーと何らかのトラブルがあったのか、はたまた得体の知れない錯乱者や猟奇殺人者が付近に潜んでいたのか…事件解決のカギは、犯人と接触した唯一の生存者ニルスへの聞き取りにかかっており期待が高まった。

しかし6月23日にようやく叶った青年との面談でのやりとりは、捜査員を別の意味で驚かせた。事件の心的ショックや脳損傷の後遺症によるものか、事件当夜の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていたのである。意識を取り戻した当初には、自分が病院に運び込まれたと気づいて「バイク事故に遭った」と勘違いしていたという。

 

退院後、メディアへのコメントでニルスは次のように語っている。

「セッポと私は3時ごろ釣りに行きました。ですが釣果はなく、1時間程して女の子たちが眠るテントに戻りました。空はもう明るくなっていて、十字架の魂(※的確な翻訳ができず意味は不詳。オーロラなどの自然現象か?)は見えませんでした。気づいた時には病院にいました。」

「顔に合計10カ所ほどの刺し傷がありました。上顎と下顎がつぶれ、頭にも10センチほどの打撲傷がありました。石やパイプで殴られたのは明らかです。肘にも切り傷があり、両手の指関節を擦りむいていたので、(防衛のために)どうにか身をかがめようとしたのか…

右側で寝ていたので、頭の傷はすべて左側にできました。回復した後、平衡器官を損傷していたので歩行訓練のリハビリを必要としました。自分でテントから出たのか、引きずり出されたのかはわかりません。とにかく、殺人犯は私を水に引きずり込もうとしたのです。私のかかとの跡があったからです。彼は何かを恐れて堪えきれなくなったのか、最終的に私を倒れたテントの上に寝かせたままにしていきました。」

病院で伝えられた自身の容体と、捜査員の話から得られた現場状況が大半で、事件当時彼がその目で何を見たのかを口にしていないことが分かる。あのとき4人の身に何が起きていたのか、これでだれひとりとして知る者はいなくなった。青年たちが襲われたシチュエーション、事件の凄惨さと見えづらい犯人像、生存者の記憶喪失…まるで映画さながらの事件の奇妙な展開は謎が謎を呼ぶこととなった。

 

■容疑者

◆逃亡犯

最初に容疑を掛けられたのは、事件翌日の7日10時頃に付近の森で大工に話しかけた男だった。大工のペンティ・ヴァルティアイネン氏は薄汚れた見知らぬ男にタバコをせがまれたという。男は髭を生やし、薄い色のシャツを着ており、その胸と袖口には血痕があった、とヴァルティアイネン氏は証言した。

男は3月2日に作業施設から脱走し、指名手配を受けていたパウリ・クスター・ルオマ(24)と判明する。ルオマは少年時代から10年にわたって窃盗や強盗を繰り返した罪で収監されており、ボドム湖の240キロ北、レーンキポヤの労働施設から脱走した。男の身体的特徴は、身長177センチ、中肉体格で、髪はライトブラウン。にやにやとした外面と自己中心的な性格で知られていた。

 

逃亡中の強盗常習者が防御手段に乏しいキャンプ客に目を付けて金品を強奪するというのは充分に考えうる話であった。1対4ではリスクを伴うものの、就寝中を狙えば不可能なことではなく、うまくすれば「収穫」も大きい。

重点捜索の結果、7日午前中にそれらしき人物が食料を大量に買い込んでいたとの情報や、7日午後にはボドム湖から25キロ離れたセウチュラ市街にいたとの報告があり、付近に潜伏していることは確かだった。

しかしいざ逮捕してみると事件当夜の明確なアリバイが判明し、殺害への関与は認められなかった。

 

◆キオスクマン

地元住民の間では、湖畔近くで売店を営むカール・ヴァルデマー・ギルストローム氏(50) 、通称“キオスクマン”に疑いを向ける声が早々から挙がった。彼は行楽客やこどもにしばしば敵対心を示したため、エスカレートして事件に発展したのではないかというのである。

売店はキャンプ地から数百メートルの距離にあり、ハイカーや釣り人、キャンプやツーリングに訪れた行楽客たちの利用も少なくない。だが氏は普段から行楽客のバカ騒ぎやバイク、キャンピングカーの排気音を忌々しく思っていた。人々は、彼がテントの紐を切断して嫌がらせをしたり、ハイカーに投石したり、キャンプ客の車に散弾銃を向けるといった悪行を報告し、短気な乱暴者だと口を揃えた。ときに万引き対策としてリンゴの中に剃刀の刃を潜ませていたという猟奇的な面も聞かれた。これまでは彼の報復を恐れて通報できなかったのだという。

ギルストローム

ギルストローム氏は取り調べに対し、過去に犯した行楽客へのいくつかの罪を自供したが、青年たちの殺害については否認。弱いアリバイではあるが彼の妻も、事件当夜、夫はずっと家にいたと証言した。事件当時、青年たちが店に立ち寄るなどした様子は確認されず、家宅捜索でも事件に結び付く証拠はなかった。尚、若い女性への執着や性的倒錯などはなかったと言われている。

1969年8月、彼はボドム湖で溺死体として発見される。泥酔状態で湖に入ったとみられ自殺と判断された。

半世紀後、犠牲者たちと同世代の市議会議員ウルフ・ヨハンソン氏は地元郷土史の本を著し、ギルストローム氏犯人説を改めて支持した。地元では「事件の数日後に裏井戸を埋めていた」といった噂が飛び交ったとされ、警察による疑いは解かれたとはいえ、その死後も住民たちからの疑いは晴れることはなかった。彼は第二次大戦従軍による深刻なPTSDの過去、その後もアルコール依存を抱えていたとし、事件から9年後の自殺を「罪悪感によるもの」と主張している。

地元民から腫物扱いされていたものが、事件を機に、過去の腹いせや嫌がらせの対象へと転じたのは明らかであり、生き苦しさが積もり積もってキオスクマンの自殺の原因となったとも想像できる。事故か自殺かすっきりしないところではあるが、愛着ある土地を離れることができなかったようにも思える。

2005年、事件についてインタビューに答えた地元住民ビョーン・アールロース氏は、キオスクマンへの揺るぎない疑いを示した。理由のひとつは、長年DVに苦しめられた彼の妻が死の床で「事件当夜に夫が不在だった」と打ち明けていたというのである。さらにギルストローム氏は死の前日、飲み仲間とサウナに入り、酔った勢いで若者たちを殺害したことを示唆していたという。飲み仲間は警察にそれを伝えたが、警察はすでに容疑を解いていたこともあり、酔った上での戯言として相手にしなかった。酔いが醒めたギルストローム氏は「失言」を後悔して自ら命を絶ったのではないかというのである。

そうした地元の話を鵜呑みにすれば、ありえなくもないように聞こえるが、文字通り死人に口なしであり、「近隣住民による容疑者リスト」には生前も死後もずっと彼が挙がっていたことに留意せねばならない。町の変人、嫌われ者を、すでに亡くなった人物を真犯人と留保し続けることは地元民にとって心の平安にもつながっていたに違いない。

湖は彼にとって庭同然であったことから、周辺で彼にまつわる遺品が発見されたとしても何も不思議はなく、埋めるつもりだった古井戸にごみを捨てたことも事実あったかもしれない。2000年代に土地は人手に渡ったがその後も発掘調査は行われていない。遺族は、氏が死後も事件に結び付けられることを嫌ってDNA採取に応じることはなかった。

◆自白

別の容疑者にペンティ・ソイニネンがいる。ソイニネンは窃盗や暴力犯罪により、1960 年代後半に刑務所に送られた。男は獄中で青年たちの殺害を自供したと言われている。事件当時、彼は15歳で養護施設を脱走し、現場周辺地域に潜伏していたという。

ソイニネンには薬物やアルコールの乱用、精神疾患の病歴があり、それらを暴力性に結び付けて考えることもできるが、一方で妄想性障害や虚言癖も認められていたため、警察は自白を真剣に受け止めようとはしなかった。

 

犯罪者の中には、周りの囚人に対して凶悪性を誇示するために、実際の罪より大きな罪を犯したと自慢する場合もある。また裁判の引き延ばし等を目的に、余罪をにおわせるケースも存在する。

その一方、捜査官による暴行や尋問術によって容疑に掛けられた者の供述内容をコントロールし、「虚偽の自白」を引き出す冤罪の事例も洋の東西を問わず後を絶たない。

はたまた1932年のリンドバーグ実子誘拐殺人事件、1947年のブラックダリア事件、近年ではジョン・ベネ事件などメディアで大きく取り上げられた有名事件では無実の人間が自ら犯人を名乗り出る現象も知られている。

ソイニネンがそれらの事例に当てはまるのか、あるいは真犯人かは不明だが、1969 年、刑務所間を移動中にトイジャラ村の駅で首を吊って自ら命を絶ったと報告されており、真相は闇の中である。

 

催眠療法

7月までに50数件の情報が寄せられていたが犯人特定への筋道には至らず、初動捜査の混乱もあって捜査はすぐに暗礁に乗り上げた。犯人と直接対峙したニルス青年の失われた記憶を取り戻すことに希望が託され、60年代を通じて催眠療法による記憶の復元が試みられた。

催眠捜査は今日では有効性を否定されているが、当時の医学的知見からは目撃者や被害者の曖昧な記憶を回復・修復する効果が期待されていた(たとえば北米では1958年以来医師協会により催眠術が療法士資格として認められており、テキサス州では2021年まで法的に認められた捜査手法の一つとされてきた)。

得られる結果が絶対的証拠とされることこそなかったが、回復したニルスと目撃者のオラヴィ少年も60年7月から催眠捜査を受けることとなる。当初ニルスは加害者について「見上げると黒いマントをまとった真っ赤な目の男が目の前に立っていた」と発言し、鈍器について「鉄パイプ」様のものと示唆した。

 

キヴェラ病院の主治医ステンベック博士の催眠術によって導かれたニルスの証言では、22時半頃にテントで横になり、その晩、男女に親密な性交は行われなかったという。日の出前(日の出は3時6分とされる)にセッポが釣り道具を支度しているのに気づいて目を覚まし、一緒に岬の先端まで釣りに出た。しかし寒さのため、15分ほどでテントに戻ってくると、女の子たちも起き出していた。しばらくするとセッポも釣果なくテントに戻ってきて、再び眠りについた。

その後、テントの屋根が落ちて下敷きにされたこと、少女たちの叫び声を聞いたこと、何者かが仲間たちを鉄パイプで殴りつけナイフで切りかかっているのをテントの裂け目から目撃したと話した。博士によると、セッポ、少女たちが襲われた後、ニルス本人が攻撃された印象を受けたという。これに即して事件を捉えるならば、3人への襲撃で犯人が疲弊していたため、ニルスは致命傷を免れることができたともいえる。

犯人がテント内にいるのを青年2人少女2人と認識した場合、手ごわい相手、この場合は青年2人を先に倒したいと考えるのが一般的とも思われるが真相は分からない。

ニルスとオラヴィ少年2人の証言を総合すると、犯人の特徴は、20~30歳代、身長5’8ft(170㎝強)の中肉体型、丸顔のにきび肌、額が高く、金髪のストレートヘア、目は大きく、まっすぐな鼻、厚い唇、しっかりとした顎、短い首、太く大きな手、胸ポケットのある格子柄のシャツといった人物像が導き出され、上の似顔絵が作成された。

また近年になってから、「犠牲者たちの葬儀」の場面を映した一枚として下のような画像が出回っており、円で囲まれた男性との類似性が指摘されている。放火魔が現場に足を運ぶように、殺人犯が葬式に顔を出したとでもいうのだろうか。

画像の男は不気味なほどに似顔絵とよく似ている。だが出処が不明であり、別の場面での他人の空似や画像加工を疑いたくなるところである。少なくとも画像の男を見かけても、その印象を「20~30歳代」とは思わない自信がある。

 

◆スパイの男

事件翌日の6月6日、ヘルシンキ外科病院に訪れた奇妙な患者も重要容疑者のひとりと目されている。

男は酔っぱらいのように意識を混濁させながら、胃の不調を訴えていた。爪はどす黒く汚れており、服は汚れと血痕と思しき赤みを帯びた染みで覆われていた。緊急治療室へと担ぎ込まれたが、担当医は男が酩酊のふりをしているような疑いを抱いたという。

事件の報道が盛んになると男はぼさぼさのブロンドヘアを短く刈った。担当医と助手ヨルマ・パロ氏は、男は捜査の目を逃れるために病院に飛び込んできた犯人ではないかとの疑惑に至り、警察に通報。エスポー郊外、ボドム湖の現場から5キロほどの場所にある男の住所を伝え、「神経質で攻撃的」な性格であると報告した。

警察は男に簡単な事情聴取を行ったが、事件当夜のアリバイがあったため容疑者リストから早々に除外した。男の着衣に血痕の疑いがあることを医師は伝えていたが、シャツの血液鑑定は断られた。その後、催眠捜査による目撃証言や似顔絵が公開されたことでパロ氏の中で燻ぶっていた疑惑は確信へと変わった。

パロ氏はその後正式な医師となり、神経科クリニックや2001年まで健康省所轄の社会健康研究開発センターで研究教授を務め、在任中に著した医療ルポ『Suomalainen Lääkärkirja』(1994)は優れた評価を得た。引退後、『Bodomin arvoitus(ボドムの謎)』(2003)をはじめ立て続けに発表した3冊のボドム湖事件関連本の中で、この奇妙な患者・ハンス・アスマン犯人説を唱えた。

ハンス・アスマン氏

元刑事捜査官で事件ジャーナル『Alibi』誌編集長マッティ・パロアロ氏も、パロ氏が唱えたアスマン説を支持して共著を出版した。アスマン氏は2人が自説を公にするより前の1998年にスウェーデンで没している。パロアロ氏は、余命を悟ったアスマン氏本人から要請を受けて97年まで周辺取材をしていたという。

共著によると、アスマン氏はKGB(ソ連国家保安委員会)のスパイであり、捜査当局にとっては「触れてはならない人物」と判断されたか、何らかの圧力がかかって容疑を見逃されたと推察している。

 

ドイツ人のアスマン氏は若い頃、アウシュヴィッツの警備員として働いていたナチス親衛隊(SS)メンバーだったとする噂がある。1943年にロシアで捕虜となり、ナチスドイツに幻滅していたことからKGBのエージェントになることを選んだとされる。

戦後はフィンランド人のヴィエノさんと結婚して北欧に移り住んだが、1961年に妻に対する虐待の罪で服役し、70年代に正式に離婚した。パロアロ氏によると、その間、いくつかの謀議や事件に関与していたことをアスマン氏は仄めかしていたという。

そのひとつが53年に西海岸で起きた17歳のキリッキ・サーリ殺しである。少女が夜道を帰宅中に行方不明となり、5か月後に半裸状態の遺体が沼地で発見されたが、犯人に結び付く証拠がなく未解決となっていた。アスマン氏は、運転手の事故で殺してしまい、隠蔽のために湿地に少女を遺棄したと告白した。

元妻ヴィエノさんに対して行った取材では、キリッキ・サーリ事件の当時、確かにアスマン氏は車を凹ませる事故を起こしており、靴下を片方なくして足を濡らしたまま帰宅したことがあったと証言した。ほかにも国内のいくつかの未解決事件の現場にアスマン氏がいたことを裏付ける証言が得られたという。

著書では1960年に起きたボドム湖事件と、他に55年のエリ・イモ殺害事件、59年トゥリラハティのキャンプ場で起きた2女性殺し、63年のシルッカ・リーサ・ヴァリュウス殺しなどとの共通点を挙げ、アスマン氏による「連続殺人」との見方が提示され、フィンランド国民を驚嘆させた。

 

一方で、パロアロ氏からボドム湖事件について関与を問われたアスマン氏は「テントとナイフのことを知りたがっているのだろうが…」「詳細については触れない。認めることも否定することもない」と言葉を濁したという。

また著書では各事件の共通性から連続殺人犯像を導き出しているが、例えばトゥリラハティのキャンプ場では2人の遺体は埋葬されており、明らかな隠蔽の形跡が存在するなど、各事件には数多くの相違点も指摘される。

アスマン氏は「ペンナ・テルボ大臣が大統領選挙で決定的な投票を行ったが、その2週間後に(大臣は)亡くなった」と死の床で回顧したが、パロアロ氏はその発言を「1956年の大臣の交通事故死はアスマン氏による暗殺だった」と解釈している。懐疑派に言わせれば、パロアロ氏の解釈には論理的飛躍が大きく、アスマン氏の不明瞭な発言と各事件とを強引に結びつけようとする傾向がみられるという。

尚、ジャーナリストが裏付け調査を行ったところ、アスマン氏の妹はドイツ空軍から年金を受給されていることが確認された。戦後ドイツでは国防軍ナチス親衛隊の社会保障は明確に区別されており、SS将校は軍人恩給が支給されない。つまりアスマン氏はSSとは無関係と考えるのが今日では主流の見方である。

 

2005年、捜査当局はアスマン氏に関する調査記録を公開した。事件当夜、彼はヘルシンキ郊外に住む長年の浮気相手の女性(33)の部屋で過ごし、翌朝9時には彼女の家主が女性と食卓を囲むアスマン氏を見たことが記録されている。寝室のドアは施錠されていなかったが、人の出入りがあれば構造上誰も気づかないはずがなかった。アスマン氏の衣服に付いた赤い染みは、彼が仕事中に使用した「ペンキ」と記載されている。

パロ氏は「警察権力に対する妄信をやめよ」と30年来築かれた事件に対する既成概念を捨て去るよう主張する。どれほどアスマン関与説を否定する材料を提示したとて、その信奉者もまた同じような主張を繰り返し続けるだろう。捜査当局は彼らの著作について「フィクションに過ぎない」として一顧だにしていない。

今日でもフィンランドの未解決事件界隈ではアスマン氏が重要なフィクサーであるかのように語られることもあるが、「国中の未解決事件に関与した謎のドイツ人スパイ」の存在はあくまでミステリーファンの希望的支持によってのみ成立していると言えるだろう。そもそもキャンプデートに訪れた4人の学生たちはKGBのスパイが標的とするような要人とはいえない。アスマン氏は「自分はスパイだ」という誇大妄想に囚われたアルコール中毒者と個人的には考えている。

 

◆44年目の逮捕

1960年代を通じて取り調べの対象者は延べ4000人に上り、事件の長期化は生存者に対する多くのあらぬ予断を招いた。素人探偵たちはバードウォッチングのこどもや魚釣りの少年に対してでさえ、現場に近づかず通報しなかった行動を疑問視し、「真犯人を刺激しないために親たちが口止めしているのではないか」と囁いた。

当然、「パーティーで唯一の生存者」も疑惑に晒された。少女の死後も危害を加え続けた犯人がなぜ横に倒れていた彼だけを仕留め損ねたのか、青年の怪我は実はたいしたものではなく記憶を失ったふりをしているだけではないか…未解決事件にはよくあることだが、人々の深刻な猜疑心は事件の突破口を見いだせずに迷走し、挙句にその捌け口として目撃者や被害者遺族、身近な生存者への疑惑へと転化される。

ボドム湖事件はそうした状態のまま、人々の間で議論され尽くし、捜査は30年以上もの間、事実上凍結していた。

 

しかし2004年3月末、当局は突如としてニルス・グスタフソンを逮捕し、4月2日、3人の殺害容疑で収監した。事件から40年以上が過ぎ、バスの運転手として生計を立て、結婚して2児の父親となり、すでに年金暮らしを始めていたニルスにとって、こうしたかたちでの捜査の再始動は寝耳に水だった。

10月、中央刑事警察は採取された血液サンプルの分析から、ニルスの殺害への関与を裏付けられたと発表。事件当時は利用できなかったDNA型鑑定により重要な新事実がもたらされたと述べた。

この裁判はフィンランド国民の眠っていた記憶を呼び覚まし、インターネット上で情報がシェアされ、議論が再燃した。それを信じようと信じまいと、だれしもの脳裏を一度はよぎった「生存者犯人説」の行方を皆が固唾を飲んで見守った。2005年8月、エスポー地方裁判所で公判が開始される。裁判官らは実地検査を実施し、証人として3人の医師がニルスの怪我や後遺症について証言し、法廷には当時の現場に残されたテントが設置された。

事件当時のテント鑑識

検察側の見解によると、事件当夜、セッポとニルスは飲酒後に口論となり、その後、ニルスはマイラに性的アプローチを試みたが断られたと推測した。テントを追い出されたニルスは、マイラは自分よりセッポに好意があるのではないかと疑惑を強めて3人のテントを襲撃。嫉妬心からセッポを殺害し、そのまま自制心を失って皆殺しの犯行に及んだものと動機づけた。

遺体状況、とくにマイラの首にある深い刺し傷の痕跡に着目した。出血の少なさから死後に付けられた刺し傷と判断され、加害者の彼女に対する「強い怨恨」を示す証拠だと主張。検察側は「明らかに少女への嫉妬を示している」として、男女関係のもつれが惨劇の発端になったとの見方を示し、ニルスが負った怪我はセッポの反撃によるものとした。

ニルスは一貫して当時の記憶がないと主張し続けており、起訴内容を否認。公判中は声を荒げるようなこともなく、検察側の主張に対して首を横に振るなど落ち着いた反応を見せた。彼の弁護人リータ・レッピニエミ氏は、テント上で発見されはしたものの、血痕状態からニルスはテント内で襲撃されていたと主張した。

ゴムで縛られた古布(枕カバー)


また現場に残された枕カバーに付着していた精子も争点となった。枕カバーは、発見時は輪ゴムで筒状に丸めたものが2本発見されていた。月経だったマイラが生理用ナプキンに枕カバーを古布として代用し、テント外に捨てたものと推定されていた。(※当時は経血の吸収に不要となった古布を使用することが多かった)

そこに付着したニルスとも殺害されたセッポのものとも異なる精子の存在は、「部外者」がその場にいたことを示していると弁護側は述べた。青年たちの遺留品はテント等一部を除いて鑑定後に親族の許へ返却されたが、枕カバーだけは証拠品として保管されていた。それこそ当局が「三者の存在」を隠蔽しようとする何よりの裏付けであると主張した。

その意見に対し、検察官トム・イフストローム氏らは、精子は「キャンプよりずっと以前に付着していた可能性がある」と反論。発見状態から、マイラが使用直後に丸めて遺棄したとみるのが妥当であり、その間に精子が付いたとは思えない。犯人が捨ててあったナプキンに射精して後から丸めて元に戻すとも考えられない。だとすればマイラが過去の精子の付着に気づかずに転用していたとみるのが妥当というのである。

ニルス以外の過去の重要参考人についてもDNA型鑑定が行われたが、枕カバーの精子とはいずれも一致せず、犯人のものかそれ以外かも不明である。

 

離れた場所で発見されたニルスの靴には血痕が残されていた。分析によって犠牲者3名の血液成分が確認されたがニルスのものは検出されなかった。検察側は、これを3人の犠牲者が受けた襲撃とニルスの負傷が別々のタイミングに生じたため、つまりニルスは3人を襲撃した後で自らの手で自身を傷つけたのだと主張した。

事件の朝、バードウォッチングのこどもたちは倒れたテントの上に男性らしき脚を見、釣りをしていたキヴィラティ少年は事件現場の方角から海岸に向かっていく人影を見たと証言していた。検察側は、このときキャンプ地を後にした男こそニルスであり、第三者の存在を偽装するために自分の靴を遠くに隠しに向かったのだと主張した。

弁護側は、このとき見られた足こそ昏睡していたニルス本人だと反論した。青年たちは靴をテントの外に置いて就寝しており、血痕の付着は偶発的なものである。仮にニルスが靴などを隠しに行くことが可能だったとしても、発見されなかった財布やセッポの革ジャケットなどの所持品をどのように消し去ったのかは説明がつかない。事件から30余年もの月日の間には、現場となった岬の周辺では金属探知や発掘調査などが際限なく繰り返されてきたが、失われた所持品は見つかっていないのである。尚、証人となった元釣り少年は公判で「自分が見た金髪男性はニルスではない」と証言している。

検察側は、偽装工作のためにニルスが自傷した可能性に言及したが、証人の医師らは、総合的に見てそれらの怪我を負った状態で偽装工作を行うことは不可能だと証言した。ニルスの鼻腔には脳液が滴った状態で「差し迫った命の危険があった」こと、頬の一部裂傷は貫通しており、頭がい骨後部のひび割れなども「自傷」できる怪我ではないと説明した。

 

2か月に及ぶ審理の結果、彼が偽装工作したとする根拠、3人を殺害したことを裏付ける証拠は何一つなく、目撃証言も外部犯を示唆するものと判断され、無罪判決が下された。検察側は上訴せず、ニルスの無罪が確定。その後、州と国からおよそ63000ユーロ以上の賠償金が支払われており、これは通常の補償より3倍近く高い金額とされる。前例がないほどに国民的注目が集まった事件の影響力、公判での精神的負担を考慮した額と考えられる。

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会見に及んだニルスは、襲撃当時の記憶はないが、私が三人を殺していないことは断言できると述べた。ジャーナリストはニルスに殺害していないことを示す立証を求めたが、「私は無実であり、それはタマネギです(どこまでいっても答えが出ない)」と答え、不毛な“悪魔の証明”を退けた。

 

■余談

事件前年の夏、パウリ・ピリセンさんはマイラの恋人となった。キスを交わすことはあったが性交渉はなかった。彼は60年2月から陸軍に入り、しばらく2人は離れ離れとなっていた。

マイラの家には電話がなく、手紙でのやりとりを続けており、パウリさんはペンテコステの休暇で地元に帰ることを伝えていた。ヘルシンキの駅で会う約束をし、婚約を申し込むためにサプライズで婚約指輪まで用意していたが、なぜか恋人は友人たちと湖へ旅行に出ており、再会の約束も、結婚の夢も果たされなかった。

青年たちの悲劇の影にあったパウリさんの悲恋は、駅に現れなかった恋人マイラさんへの印象を大きく揺るがせる。彼女の中ではパウリさんは半ば「過去」になりつつあったのか、それとも郵便誤配などで悲運にも帰郷の報がうまく伝わっていなかったのか。

恋人の不在を知ったパウリさんは「事件」が起きたその晩、友人たちとバーで酔いつぶれるまで飲んで過ごしたという。翌日、マイラの母親に呼ばれてビョークルンド家を訪ねるとボドム湖での事件について聞かされ、恋人の所持品の確認を手伝った。母親は慟哭してうろたえ、祖父は怒りに任せて大きな声を上げていた。パウリさんは彼女が継父を恐れていたことを思い出した。実際に対面した継父は、部屋の中を右往左往するばかりだったと言い「非常に緊張していた」ように見えた。

事件から10数年後、偶然バーでニルス・グスタフソンと顔を合わせる機会があった。周囲から相手を紹介されたが、彼が事件の記憶を失っていることは知っていたこともあり、お互い大した会話のやりとりも続かなかった。2人とも相手を疑うあまり掴み合いになるようなこともなかった。唯一の生存者はそのときすでに酔っぱらってはいたが、すぐ隣に警官がいたことも影響したかもしれない。

パウリさんは事件当時アニアのことは知っていたが、セッポとニルスについては全く知らなかった。ボドム湖へのルートは大体頭に入ってはいるが現地を訪れたことはないという。

婚約する心づもりを決めて帰省してみれば、恋人に再会の約束を反故にされ、そのうえ別の男と泊りがけで旅行に出かけたと知れば、逆上するのがむしろ自然に思われた。事件当夜に一緒にいたのは飲み友達で、酔いつぶれれば記憶もどこか曖昧になり「弱いアリバイ」ともいえる。

飲み友達は車で「恋人たち」を捜しに出かける手伝いをすることもできた。深夜であろうと白夜である。バイクの横にあるテントの前に恋人の靴を見つければ「報復」は決して不可能とは言えない。パウリさんへの詳しい事情聴取は2003年、ニルスの裁判に際して行われたもので、事件当夜のパウリさんのアリバイを証言できる飲み友達はすでに亡くなっていた。

 

犠牲者遺族は4人からキャンプの行き先さえ聞かされておらず、有力な手掛かりは得られなかった。しかし噂や匿名通報によって、その後、マイラの継父ユッカ・イルマリ・タカラ氏に対して予備審問が行われたことも書き加えておこう。

通報内容は詳しく伝えられていないが、パウリさんの言うよう彼女は継父に怯える面があったとされている。ユッカ氏が妻(マイラの母)より9歳年下、マイラの10歳年上で年若かったことなどから、家庭内暴力ないしは義娘への性的虐待の類が疑われたと考えるのが一般的な見方だろうか。彼もバイクを所有しており、明け方に家人に気取られずに現場へ向かうことができたと推測されている。

もし以前から性的虐待を行うなどして義娘に強い束縛を強いていたとしたら、異性との交遊を聞き知って猛烈な嫉妬心に駆られ…などとも思わなくもないが、当然ユッカ氏と事件を直接結びつける証拠はない。また少なくともマイラの母は娘とパウリさんとの仲をある程度は把握していた。

仮に継父が結婚の申し込みに訪れたパウリさんを撃退したり、帰宅した義娘に折檻を加える程度なら現実的にまだ理解できる。だが義娘もろとも4人皆殺しにしようと襲撃したとする発想は、ニルス裁判における検察側の見立て以上に机上の空論じみている。

マイラが継父に対してどのような感情を抱いていたのか、虐待の有無は定かではない。だが一般的な「父親」に対する態度であれ「継父」に対するものであれ、年頃の少女が抵抗感を抱いたり拒絶に近い態度を見せることがあったとしても、私はそれほど不思議には思わない。

 

個人的に違和感を覚えるのが、金髪男性の「目撃情報」と現場からの「紛失物」との食い違いである。

事件当夜の現場の気温は分からなかったが、同じ南部のヘルシンキで6月の最低気温が約10度、最高気温が約20度である。到着後に遊泳していることからフィンランド人としての体感や当日の気象条件ではやや暖かかったのかもしれないが、明け方の釣りから犯行時刻とみられる5~6時にはさすがに冷えたには違いない。

現場からはセッポの「レザージャケット」が紛失しており、犯人が「防寒具」としてその場で着こんでもおかしくない。興奮と激しい運動の結果、体温が上昇していたとしても、返り血でも浴びていれば尚更「変装」のため着ていなければおかしい。だが釣り少年が早朝に見かけた金髪男性の上着は「非常に薄手のシャツ」とされていた。彼はレザージャケットをあえて手に持っていたのであろうか。

また財布や時計、ナイフの類はポケットにでも忍ばせることはできるが、ニルスの「女性物のキャリーバッグ」が持ち去られたのはなぜなのか。常識的に考えれば、すでに日が昇っているため、湖畔で「ブラウンとブルーのチェック柄」「サイズ45×30×18センチ程」のバッグ1つを抱えていれば人目に付く恐れがある。

一つ考えられるのが、盗品の靴や衣類をまとめてバッグに収めて移動しようとしたケースである。だがそれならば何も500メートル先で衣類や靴を捨てなくてもよさそうなものである。またレザージャケットや2人分の靴を収納していたとすれば、それなりの容量となる。金髪男性が「バッグを持っていた」「荷物を抱えていた」という証言にならないのも腑に落ちない。

可能性の一つとして、釣り少年が見かけた金髪男性と犯人は別人という展開も考えられよう。有力情報として「若い金髪男性」が犯人であるかのように取り沙汰されたことで、無実の当人が名乗り出ることを諦めたり、捜査員の中でも先入観に縛られて別様の容姿をした容疑者をリストから不用意に除外した可能性も大いにあると思う。ほとんど唯一といってもいい「具体的な犯人像」が仇となり真犯人の逃亡を許してしまったのではないか。

はたして犯人は半世紀の間に積み上げられた容疑者リストの中にその名を連ねていたのか。それとも続報が流れるたびにどこかで密かにほくそ笑んでいたのであろうか。

 

亡くなられた青年たちのご冥福をお祈りいたします。

 

 

参考

https://www.murha.info/rikosfoorumi/viewtopic.php?f=4&t=1194

https://web.archive.org/web/20090411121703/http://www.mtv3.fi/bodom/krp_esitutkintapoytakirja.pdf

https://truecrimedetective.co.uk/unsolved-mysteries-the-alleged-crimes-of-hans-assmann-5d4b78bfc190

https://www.mebere.com/finland-lake-bodom-murders-sketch-hans-assmann-funeral-picture-documentary

 

福岡市能古島バラバラ殺人事件

2010(平成22)年3月に福岡県で起きた女性バラバラ殺人事件について記す。被害者が交通事故をめぐって相手とトラブルになっていたことや過去に妻子持ちの上司と不倫関係にあったこと等から疑惑の人物が複数浮上したが、2022年現在も未解決事件となっている。

情報提供は、

《福岡県警・博多警察署》TEL 092‐412‐0110(代表)

 

博多湾の中央部に位置し、福岡市の中心部からフェリーで約10分の距離にある離島・能古島(のこのしま)。周囲12キロメートル、島民790名程(当時)からなり、季節の花々が咲き誇るアイランドパークや海洋レジャー、自然豊かな眺望を求めて多くの観光客が訪れる。普段はのどかで風光明媚な小さな島に、似つかわしくない漂流物が届いた。

 

■概要

2010年3月15日、福岡市能古(のこの)島東部の浜辺で、へその下から脚の付け根までの女性の胴体が発見される。15時30分頃、海岸でアサリ掘りをしていた地元女性が見慣れない漂着物を発見し、駐在署員に「動物か人間か分からないお尻のようなものがある」と通報した。署員は女性の遺体であることを確認し、西署に連絡した。

損壊された遺体は年齢20歳から40歳代の女性とみられ、切断には鋭い刃物が使われており、死後数日から数週間と推定された。発見者は遺体について「肌は比較的きれいで若い人に見えた。お尻に3、4か所の痣があった」と話した。

翌16日、DNA型鑑定により遺体の身元が福岡市博多区堅粕に住む会社員諸賀礼子さん(32)と判明する。諸賀さんは3月5日(金)19時ごろに筑紫野市の勤務先を車で退社して以降の消息が分からなくなっていた。

3月6日(土)、諸賀さんはゴルフコンペに参加予定だったが集合場所に姿を見せなかった。連絡もつかなかったため同僚社員は5時頃に彼女の自宅アパートを訪れたが部屋からの応答はなかった。コンペ終了後も連絡が取れず、不審に思った会社同僚らにより7日に捜索願が出された(一部新聞に「親族」が届け出たとの記載もある)。

 

■状況

自宅アパートは玄関と窓が施錠された状態で、ベランダのガラスが内側から割れていたこと、浴室のドアガラスが一部破損していたことを除けば、特段荒らされたような形跡はなかった。ベランダのガラス割れについて、近くにあったゴルフバッグが転倒してできた破損との見方もある。

玄関先には普段の通勤に使用しているバッグが置かれており、数万円の現金やクレジットカードの入った財布、車のカギ、社用の携帯電話が残されていた。だが諸賀さんが当日着用していたスーツ類(グレー系色のパンツスーツ)は室内に見当たらず、玄関のカギと私用に使っていた携帯電話が紛失していた。その後、私用携帯の通信履歴等が照会されたが、直近ではゴルフに関する連絡以外にほとんど使用されておらず不審な点はなかった。

自宅は博多駅から北に約500メートル離れたホテルやマンション、企業ビルが多い区域で、繁華街ではないが周辺住民は多く、周囲には幹線道路が行き交う。商店が多くないこともあり、不審な人物や被害者を捉えた防犯カメラは確認されなかった。

諸賀さんは自宅から500m離れた支店にある社有車を使って15キロ以上離れた筑紫野市の勤務先まで通勤しており、車は支店駐車場に戻されていた。諸賀さんの自家用車もアパート近くの駐車場に止められ、車内に異常はなかった。

県警は、被害者が5日夜に帰宅してから6日未明にかけて何らかのトラブルに巻き込まれたとみて捜査を進める。金銭目的や流しによる場当たり的な犯行の線は薄いとみられ、交友関係を中心に原因となるトラブルの洗い出しを行った(一部週刊誌では交友関係のあった30名程が聴取されたと伝えられた)。鑑識で室内から血痕や尿の付着は確認されなかったことから、帰宅前後に連れ去られるなどして別の場所で殺害されたとの見方が強まった。

 

■続報

周辺地域では残りの遺体捜索が続けられ、4月9日には能古島から約9キロの場所にある福岡市中央区福岡競艇場のコースと海を区切る遮蔽壁付近で、人の「両腕」が入った黒いポリ袋が回収される。採取された指紋から諸賀さんと特定された。

さらに14日と15日には、福岡市中央区那の津博多港・須崎ふ頭付近で「胴体」と「頭部」が相次いで発見された。死因は特定されなかったが、手の甲には生前にできた防御創とみられる痣、頭がい骨には複数個所にひびが入っていたことから激しい暴行を受けたことが推測される。両腕がポリ袋に入れられていたことや、腰の損傷が少ないことから、犯人は切断遺体を複数の袋に分けて博多湾ないし近郊から遺棄したものとみられた。

ポリ袋は全国で販売されている量産品で手がかりになる可能性は低いとされた。鑑定によると切断面の状態から鋭利な刃物ノコギリ様の刃物の2種類が使われたとみられ、刃こぼれがないことから新品の刃物が使用された疑いが強いとされ、警察は市内ホームセンターなどで購入経路の捜索に当たった。尚、福岡のRKB毎日放送は、「電動ノコギリのような工具で、一度に切断されたとみられる特徴がある」と報じている。

 

腿から下の両脚は発見されず、遺体がどのように流れ着いたのか、どこから遺棄されたのかが問題となった。博多湾は水深が浅く風の影響を受けやすい。行方不明から発見当時の潮流や風を考慮すると、能古島より東側、博多湾や湾内に注ぐ支流で袋ごと遺棄され、それぞれが別の場所に漂着したものとみられた。漁業関係者によると、能古島東岸には湾内のゴミが漂着することが多く、過去にも本土から流れ着いた水死体が上がることがあったという。

また専門家は一箇所で遺棄したものが別々の場所に流れ着くこともあると説明する。胴体、頭部、腕の発見場所が近い位置で発見されたことや、発見場所周辺の漂着物の大半が川の上流から流れてくること等から那珂川での捜索活動も行われた。遺棄現場、そして殺害や解体が行われた現場が特定されれば物証が得られるものと期待された。

 

■目撃情報

事件との関連性は不明ながら、近隣ではいくつかの目撃証言が挙がった。

共同通信では、捜査開始直後に周辺で「ガラスの割れる音」が聞かれたと報じたが、他紙では伝えられていない。誤報だったのか事件と無関係であることが確認されたのかは不明である。

行方不明の2、3日前、被害者アパートを指さしながら話をする2、3人の男たちが目撃されている。

また同時期の深夜、アパート出入り口付近で男女の言い争うような声が2夜連続で聞かれていた。男は「恐れるものがないくらい好きだ」「お前を殺すこともできる」「一緒に死んでもいい」「警察に捕まっても恐れることはない」等と1時間近くも大声で怒鳴っていたという。2夜目はもう一人女性が加わり、口調は落ち着いていたが数十分間言い合いが続いたとされる(2010/03/17読売)。

行方不明当日の6日未明には、アパート2階から男が足元のおぼつかない女性の肩を抱えるように連れ出して南東方向へ歩いていく姿が目撃されている。その後、助手席にこの女性を乗せた車がアパート前に停まり、男が部屋に駆け上がって短時間で車へ戻り、走り去ったという(2010/03/23読売)。

だが言い争っていた声の主や連れ出された女性が被害者本人であったかについて続報はなく、半年後に出た記事で捜査関係者は「事件とは関係ないようだ」と話している(2010/09/15読売)。

 

■被害者

諸賀さんは福岡県那珂川町で6人きょうだいの長女として育った。父親は警察官で、近隣住民によると小さい頃からあいさつや礼儀がよくしつけられていたという。一家を知る女性(65)は「娘さんたちが年ごろになって、"きれいになられましたね"と(母親に)話したらうれしそうにしていたのに...」と惜しんだ。大学進学を機に鹿児島県で一人暮らしを始め、就職を機に福岡に戻った。大学時代のバイト先の居酒屋店主によれば、当時は「おとなしい印象だった」と言い、医薬品卸の仕事に内定すると猛勉強していたと振り返る。

遺体発見後、会社の代理人弁護士による記者会見が行われた。社では初の女性営業職として採用され、「温厚で責任感が強く、後輩の面倒見もよかった」とその人柄にも触れている。筑紫地区の医療機関約30か所の営業担当として医薬品の納入などを行い、700人以上いる営業の中でも成績は優秀で将来の幹部候補として期待されていたと伝えた。職場関係者は、物事に動じず慎重な行動をとる被害者の性格から、見知らぬ相手を家に上げるとは到底考えられないと話している。

SNSmixiで月に数回日記を更新していた。「初めての家族旅行。父さんの退職・還暦祝いを兼ねて家族が集合しました。母さんが心配なので横で皆の帰りを待っています。一番上の姉ちゃんは大変ですよ。二人とも長生きして下さい」と家族思いの一面と円満な様子を窺わせる。妹が寄せた諸賀さんを紹介するコメントに「お母さんの言うことを聞かないことがあっても、お姉ちゃんの言うことには逆らえないのです。すごく頼りになるお姉ちゃんです✌」と書かれており、ここにも家族との信頼関係やしっかり者の人柄が読み取れる。

 

■疑惑の人物

マスコミは事件当初から2人の人物に注目を集めた。

ひとりは事件の約半年前となる2009年11月の交通事故が原因でトラブルとなっていた「バイクの男」である。

諸賀さんはmixi上で09年12月26日に「厄女」と題して交通事故とその後のトラブルについて綴っていた。

先月、会社の帰りに交差点内で私は直進で、相手は右折対向でバイクと事故をしました

両者の言い分が食い違ったことから第三者機関を入れて調査を行い、過失が諸賀さん15%、相手方が85%と認められたという。しかし相手は任意保険に加入しておらず250㏄バイクの修理費用を要求し、後から診断書が提出されて人身事故扱いになったという。金額交渉は折り合いがつかず、相手方が諸賀さんの家に行くと言い出したため「弁護士を立てました」と報告している。

会社の代理人弁護士は事件直後にはトラブルは確認されていないと話していたが、3月25日の会見で、09年11月下旬に「男性から携帯電話に直接電話があり怖い」などと上司に相談し、防犯ブザーを渡していたことを伝えた。

尚、原付を除くバイクの任意保険加入率は自動車に比べて約半分の40%前後(共済を含まない)とされており、事故の相手が未加入であること自体はそれほど珍しいこととはいえない。そうした無保険車相手の事故で十分な保険金が支払われないケースに対応して、「無保険車傷害特約」といった保険プランも存在する。

事故の相手は海運会社に勤める同年代の男性。家の前で「本人らしき人」が自転車でうろついていたため、その後は警戒して帰るようにしているといった記述もあった。

翌10年1月3日の「今年は・・・」と題した日記では、新年の抱負のひとつに「事故の円満解決」を掲げており、そこで連日の迷惑電話に悩まされていることを伝えていた。

事故の円満解決

突然です!休みを狙ってでしょう、大晦日に10回の着信。元旦に7回の着信。そのうち5回がワンギリです!昨日は3回がワンギリ着信。今日は2回のワンギリ着信。妹から、着信があったら電話をとって話をしなけりゃ通話料金が相手にかかるんやから、やり返せなぁ~んて言われましたが、私にも我慢の限界ありますが、ここでもう少し我慢します。

彼女の書きぶりでは、迷惑電話の主は事故の相手と断定している様子である。しかし遺体発見後の事情聴取で、バイクの男は「事故の時に連絡先を交換した。話し合いのために事故の2日後に電話したことはある。諸賀さんの家は知らない」と話し、ここでも食い違いが生じた。

諸賀さんが着信回数を細かく把握していることからすると迷惑電話は携帯にかかってきたと推測される。男が言い逃れを試みた可能性もあるが、公衆電話や得体の知れない番号からの着信を諸賀さんが「バイクの男」と誤認していた可能性はないだろうか。

バイクの男は4月中旬に複数のメディアの取材に対し、被害者宅に行ったことはないと答えている。男は車を所持しておらず、借りた形跡もなかったことから連れ去りや遺体の運搬は実質的に困難と判断された。

 

もうひとりは勤め先の医薬品卸会社の元上司で、かつて諸賀さんと不倫関係にあったが相手の転勤により破局した、と週刊誌などが報じた。諸賀さんは相手の元上司を「先輩」と呼び、破局直後には諸賀さんが職場で号泣するなど大きな動揺があったと言い、その後も未練を引きずっている様子だったという。

普段は男性を家に上げない女性でも、特別な相手であれば家に出入りしてもおかしくないように思われた。事件の数日前に周辺で深夜の男女の口論なども聞かれていたことからも、元上司との関係解消がうまくいかずトラブルに発展した状況などが想像された。

同じ博多で起きたバラバラ殺人として思い出される福岡美容師バラバラ殺人事件(1994年3月)では、被害者の美容師女性と同じ美容室に勤めていた経理女性が逮捕されている。動機は不倫相手である店長と被害者との関係を一方的に邪推した末の犯行だった。遺体には乳房や子宮への執着が感じられ、その猟奇性などから男性による犯行とも目されていた。「不倫」が女性の強い嫉妬心を生むことを世間に知らしめた事件のひとつである。

しかしmixiで公開していた「占い」をしてもらったという記述では「私はいつ結婚するんでしょうか……。35かなぁ、でも見合いをしたらすぐ結婚するよ。仕事と婚活に頑張るぞお」と、仕事と将来の結婚への意欲も滲ませていた。「復縁」の相談ではなく、見合いや婚活など新たな出会いに前向きとも受け取れ、彼女の中では先輩との関係はすでに過去のものにしている印象を受ける。

過去の不倫が清算されていたとしても、職業柄男性とのやりとりが多いことから情交絡みの犯人像も十分考慮に値する。警察も元不倫相手には当たりを付けたが、事情聴取、アリバイ確認の結果、捜査線上から早々に消えたとされる。

 

さらに第三の人物「質入れの男」が現れる。

福岡県内の質店に持ち込まれた腕時計が、諸賀さんが使用していたものと同じ型であると判明し、製造番号や付着物のDNA型鑑定等から彼女の所持品であったことが特定された。

県警は質入れした福岡市内のピザ店従業員に勤める男(32)を窃盗容疑で逮捕。容疑は、前年5月20日~6月9日にかけて、以前の勤務先である建設資材レンタル会社の倉庫から、液晶テレビ3台(計14万円相当)を盗んだものである。

質入れの男は、当然殺人事件との関連が疑われたものの「女性とは面識がない」「3月7日に別の質店の前で拾った」と証言。ポリグラフ検査でも虚偽反応は見られず、裏付け捜査でも供述に矛盾がないことが分かり、翌月には死体遺棄事件との直接的な関連性はないものと判断された。

諸賀さん本人あるいは犯人が意図せず落とした可能性や、犯人が無作為に投棄した可能性も否定できない。だが質屋の前に落ちていた点を重視すれば、だれかが売り払うと見越して、犯人が作為的に捜査かく乱を狙って置いた可能性も十分に考えられた。

 

事件から半年後、物証や有力な新情報は得られず捜査の停滞が危ぶまれる中、県警は「あらゆる可能性を念頭に原点から捜査を見直す」と発表。場当たり的な犯行なども視野に入れ、白紙段階から情報の洗い出しが図られた。

2010年12月、県警は捜査特別褒賞金上限額300万円を指定し、広く情報提供を呼び掛けた。翌年も再指定して情報を求めたが成果を挙げることなく、2012年には報奨金指定が取り下げられた。

 

■逮捕と不起訴

2014年2月6日、会社員SH(36)が有印私文書偽造・行使の容疑で逮捕された。10年12月20日に諸賀さんとの間で成立したとする交通事故の示談に関する書類一通を偽造して民事裁判に提出した疑いである。容疑者は上述した「バイクの男」その人であり、警察が「バラバラ殺人」の捜査を念頭に置いた、いわゆる別件逮捕と見られた。

名前が出たことで過去の逮捕歴も公となった。2008年3月、通信販売会社のアルバイトだったSHは個人情報を流用し、別人男性になりすまして運転免許証を再交付させていた。

本人確認なく講習だけで取得できる「防火管理者証」を男性名義で取得し、男性になりすまして住民票を取得。不正取得した住民票と顧客名簿で得た個人情報を使って再発行書類を作成した。6月に逮捕されて容疑を認め、免許証は「出会い系サイト専用の携帯電話を契約するために使った」などと供述していた。

手の込んだ偽装工作に対して、供述した動機はいかんとも信用しがたいものであり、何か別の犯罪を目論んでいた可能性もある。身近にそうした詐欺手法の知識を持つ、手引きをした人物の存在が疑われる。

2014年の逮捕では、SHは文書偽造の容疑を否認。家宅捜索も行われたが空振りに終わったとみられ、前のめりで逮捕したものの証拠が不十分だったのか、バラバラ殺人の立件には至らずに終息した。

 

■整理

いくつか疑問点などを整理しておこう。

死体蹴りをするつもりはないが、被害者のブログ記事の情報にも事実誤認や無意識的な自己擁護、思いのほか手間取る事故処理への不満が加味されている可能性は否定できない。たとえばアパート前で「本人らしき人」が自転車でうろついていたという記述は、本人確認をしていないことを含意している。

被害者は保険会社を通じて「相手が家に行くと言い出した」と聞かされていたため、強い警戒心を抱いていたのは確かである。しかし周囲はアパートやマンションが多い地域であり、単に自転車に乗って近くに住む知人を待ち詫びる男などが「例のバイク男」に結び付けられただけだったかもしれない。

バイクの男は前科があり、事故の相手として理不尽で横暴な人物と推測される。だが私たちは被害者がネット上に残した僅かな記述を妄信し、彼女の無念を思うあまり一方的に男を「推定犯人」に仕立て上げてはいないか。

 

暴力団関与説について。解体が容易ではないとの見方や土地柄からなのか、事件当初、ネット上では暴力団の関与を疑う向きもあった。

基本的に暴力団組織は民間人に対する不要な攻撃は避ける不文律があり、裏社会と接点のないサラリーマンが攻撃対象とされる可能性は非常に低い。だが当時は県内に四代目工藤會ら5団体の指定暴力団が拠点をなし、約180団体、計3500人近い団員がいた。金に窮した末端の者やヤクザ崩れであれば道を外れた殺しを請け負う可能性はあるだろう。

また諸賀さんの父親が(部署は不明ながら)元警察官だったという情報も、過去に悪人から恨みを買っていたのではないかといった想像に拍車をかけた。事件の長期化によって、「ヤクザ絡みの事件で警察が踏み込めないのではないか」との声もあった。

しかしながら事件と同年の4月には福岡県では全国初となる暴力団排除条例が制定・施行されている。全国一の発砲事件多発県であり、売春や違法薬物など青少年をむしばむ犯罪が横行してきたことから、この時期、県警は暴力団に対する締め付けと厳罰化を断行した。そうした情勢から鑑みても、暴力団絡みだから捜査が及び腰になったとは思えない。バイクの男にしても保険会社相手に恫喝まがいの交渉をしたとされる不良者だが、警察にかぎって手柄を見過ごすはずもなく、暴力団とのつながりは入念に調べたと考えられる。

 

通勤車両について。上記「概要」ではまとめて書いているが、事件当初、新聞各紙では諸賀さんはアパート近くに止めていた自家用車での「イカー通勤」として鑑識の様子が報じられていた。だが半年後の毎日新聞では、「通勤に使っていた社有車」としており、自宅から500メートル離れた支店に駐車していたと伝えている。

毎日紙による誤報なのか、それとも捜査機関による早合点で(当時通勤に使用していなかった)自家用車を鑑識に掛けたのか、警察はどちらの車輛も鑑識に掛けていたが報道機関に情報が誤って伝わったものか、は不明である。

偶々その日は社有車を使っていたのか、交通事故や「バイクの男」のストーキングらしき状況を危惧してそうした対策を講じていたのか、詳しい情報は出ていない。もし仮に警察が「社有車での通勤」をしばらく把握できていなかったとすれば、犯人の痕跡をみすみす逃してしまった可能性もないとはいえない。

 

私用の携帯電話について。なぜ普段あまり使用していなかった私用の携帯電話だけが紛失していたのかは慎重に捉えねばならない。

犯人が意識的に「バッグの中に2台あるうち私用の携帯だけを持ち出した」とすれば、普段から彼女と近しい人物と推測される。しかし諸賀さんが(たとえば防犯や簡易電灯用に)私用電話だけを服に入れて携行していたり、犯人が「2台持ち」と気付かずに私用携帯だけを奪ったりした可能性もあるのではないか。

2010年といえばすでに携帯電話を悪用したインターネット犯罪は一般にも広く認識されていた。架電状況やGPS反応から「位置情報」の割り出しができることや、通信記録によって端末の利用状況の把握や通信相手のIPアドレスが割り出し可能なこともワイドショー等で周知の事実である。計画的に殺人を企てるのであれば、被害者の端末を持ち出すことが「命取り」になりかねないことは重々承知のことと思う。

にも拘わらず、本件にまつわる噂の一つとして、ネット上では「行方不明後もmixiにログインした形跡があった」という情報が流布している。私用携帯が紛失していることと絡めて、「犯人が不都合な記述を改変したのではないか」「生存しているように見せかける偽装工作ではないか」とされている。残念ながら筆者は「ログインの形跡」そのものを示すソースにはたどり着けず、その真偽は不明である。

インターネットや捜査手法にに疎い殺人者など存在しない、とは無論思わない。だが事実ログインがあったとしても、捜査関係者か家族による調査のためのログインだと考えるのが普通であり、犯人自ら「あしあと」を残すような愚行をわざわざ犯しにきたと考えるのは無理筋のように思われる。

2008年1月に岡山県の地底湖で起きた大学生の行方不明事案で、事後に関係者のmixiアカウントに書き換えがあったとして話題を呼んだこともあり、確証はないが同じmixiつながりで関心を集めようと思いついた人間が「似たような噂」を流布したような印象を受ける。

 

玄関先に置かれたバッグについて。たとえば被害者がアパート前で呼び出しを受けたとしても、部屋のカギとあまり使用していなかった私用の携帯電話だけを持って出掛けるシチュエーションは相当考えにくい。現在ほどスマホ決済が普及していない当時であるから、慎重な人であれば使う予定がなくとも外出の際には財布くらいは携行していそうなものである。

別の場所での犯行(拉致監禁や殺害)後に犯人がバッグを戻した可能性はあるだろうか。強盗であれば財布は抜くため、当然犯人の関心事が諸賀さん本人だったことは明白である。諸賀さんの自発的な失踪を偽装するつもりであれば、せめて現金だけでも持ち去っておかなければ意味をなさない。犯人が外で諸賀さんを襲ったとして、リスクを冒して事後にバッグを部屋に置きにくる意味がない。邪魔に思えば、それこそ道端や河川に遺棄すればよいのだから。

そう考えると、やはりバッグは被害者が帰宅して自ら置いたもので、帰宅直後スーツを脱ぐより前に犯人を家に上げてしまったか、一緒に部屋に入ったというのが順当な見方ではないか。

 

■密かな物証

2022年8月、文春オンラインに掲載されたノンフィクションライター・小野一光氏の記事では、被害者宅で密かに発見されていた「物証」の存在を伝えている。

bunshun.jp

これまで被害者宅で「血痕」は検出されておらず、別の場所で犯行に及んだものとみられていた。だが福岡県警担当のZ記者からもたらされた情報によると、部位や大きさは分からないが浴室から「内臓の破片」が発見されていたのだという。つまり被害者は自宅アパートの浴室で解体されたとみられ、室内、排水管、土管などを徹底的に調べたが血液反応は得られず、短期間でそこまで洗浄しきれるのか疑問ではあるがそうとしか考えられない、と記事中では述べられている。

さらに当初は発見現場近くに流入する那珂川での周辺捜索が行われていたが、被害者宅のすぐ南側を流れる御笠川へ遺棄されたのではないかとの見方もあるという。

被害者宅での解体、仮にすぐ傍の河川への遺棄だったとすれば、移動手段に車は必要ではなくなる。むしろ袋詰めしながらも海や山へ運ぶのではなく目の前の川へ遺棄したとなれば犯人には移動手段・運搬手段となる車がなかったという見方を大きく後押しすることになる。

 

記事では被害者の自宅アパート内で解体が行われた可能性が示唆されているが、個人的にはやや疑問に思う点が多い。発見されたのがそれと見て肉片と分かる程度であれば、室内に血痕がなかろうとも解体現場と「ほぼ」特定され、捜査方針全体に係るため、情報が全く漏れなかったとは俄かに信じがたい。

あくまで一読した感想に過ぎないが、月経時に排出される子宮内膜の組織など微細な残留物が思い浮かび、実際には殺害の証拠として扱われてこなかったような印象を受けた。内臓片というより細胞片とでもいうほど微量だったのではないか。

 

ここで仮に殺害・解体現場がアパートだったと想定してみよう。

6日(土)5時頃には同僚が訪問して応答がなかったことから、この時点ですでに拘束ないし殺害は完了していたと推測される。被害者は頭骨をひび割れるほどに複数回強打されており、腕や尻に複数の痣があり、何がしかの格闘・抵抗があったことはほぼ間違いないだろう。

頭を割られれば当然出血も予想される。痕跡を残さずに解体するならば、浴室に大型シートを重ねたうえで行ったと考えるのが自然である。完全に血抜きをしなかったとしても、黒いポリ袋を重ねたくらいでは追いつかない量の出血を伴う。

部屋の防音状態は分かりかねるが、5日に夜更かししていた者や6日はずっと部屋にいた居住者も少なからずいたはずである。解体に3時間前後はかかるとして、一般的なワンルームアパートであれば手引きであれ電動であれノコギリの音に誰一人気付かないとは到底考えられない。

犯人は鋭利な刃物とノコギリ、巨大なシートと黒いポリ袋を事前に調達して部屋を訪れていたのであろうか。計画的犯行であれば普通はアパートでの解体作業は避けたいところではないか。衝動的に殺害してしまい、直後にそれらを調達しに走ったとすれば、当然近場で購入すると思われ、入手経路はすぐに判明しそうなものである。

血液反応については、ルミノール試薬と過酸化水素による検出が知られるところであり、希釈された血液であってもヘモグロビン中の鉄に反応して光触媒を起こす。鉄の化学反応を除去するため、一部酸素クリーナーを用いればルミノールに反応しないとされるが、そうした化学的除去を徹底的に行えば「除去」した痕跡が上塗りされる。

2002年に発覚した北九州連続監禁殺人事件などを見ても、集合住宅での遺体損壊や遺棄が不可能ではないことは分かる。しかしその痕跡を部屋・建物から警察の目を欺くほど完全に除去するのは短期間には不可能に思えてならない。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

■もうひとつのバラバラ殺人

バイクの男や元不倫相手の上司とは異なる犯人像、さらに警察が当初から念入りに調べを進めていた交友関係筋を除いて考えていくと、ある別の事件が思い浮かんだ。

2008年4月、東京都江東区潮見にあるマンション内で起きた女性バラバラ殺人、いわゆる江東区マンション神隠し事件である。この事件は、9階建てマンションの最上階に暮らしていた星島貴徳(33)が、3月に越してきた2つ隣の部屋に住む会社員女性を自室に拉致して殺害し、損壊した遺体を水洗トイレに流す等して遺棄した事件である。以下では加害者・星島がとった行動やパーソナリティを中心に紹介する。

 

4月18日19時31分頃、わいせつ行為を企てた星島は東城瑠理香さん(23)が帰宅するタイミングを見計らって玄関から押し入る。両部屋の間は空き室だったが、男は足音で気取られぬよう靴下で忍び寄った。玄関は2か所カギを備えていたが、ブーツを脱いで施錠するまでのわずかな隙を突かれた格好である。男は抵抗する瑠理香さんを殴打し、台所にあった包丁で脅して自室へと連行した。

星島は瑠理香さんを一人暮らしの会社員だと思い込んでいたが、実際には姉と同居していた。19時21分、姉は瑠理香さんの携帯から最寄り駅に着いたことを知らせる「もう着いたよん」というメールを受信していたが、その後連絡が途絶えた。20時42分に姉が帰宅すると、鍵を回しても扉が開かなかった。これは星島が無施錠のまま出ていったためである。

中に入ると、ブーツや弁当袋など妹が帰宅したらしい痕跡はあったが姿は見えなかった。当初は外でだれかと電話でもしているのかと思ったが、連絡がつかず不安に思い、周辺を捜索。部屋に戻ると、包丁やジャージがなくなっていることに気づいたほか血痕を見つけ、21時16分頃に被害届が出された。

マンション9階は空き室が多く、目撃者はなかった。防犯カメラには帰宅した瑠理香さんの姿は記録されていたが、外出や誰かに連れ出されるといった映像はなく、世間ではマンション内での「神隠し」と報じられた。と同時に巨大な密室殺人の様相を呈し、逮捕までの一か月間、住人全員が容疑者という異常事態となった。

 

星島は部屋から瑠理香さんのバッグを奪っていたが、金銭目的ではなく勤め先の情報など何か脅迫に使えるものがあるのではないかとの考えからだった。女性の身柄を拘束し無抵抗な状態にすると、バッグの中にあった携帯電話のバッテリーを外した。今後女性の所在を偽装することを想定してあえて廃棄しなかった。

女性に怪我を負わせていたことから、解放してももはや言い逃れはできないと感じた星島は逮捕の不安に駆られて性欲を失っていた。裸の写真を撮るなどして口止めしようかとも考えたがデジカメがないため断念したとされる。

22時20分頃、警官が聞き込みに訪れたが応答せずにやり過ごした。そのとき男は勃起を促そうと暗い部屋でポルノ動画を見ていたという。拉致から約3時間後、男は警察が部屋に踏み込んでくる事態を恐れ、被害者をその場から消し去ることを決心する。彼女への憐れみや自首する意思は毛頭なく「どうすれば元の生活に戻れるか」だけを考えていた。

一思いに包丁を首に突き刺し、こと切れるまでの間もタオルで血飛沫を押さえるなど痕跡を残さないよう注意を払った。以前からあった包丁やノコギリを使って数日がかりで損壊し、肉や臓器、細かな所持品は切り刻んで水洗トイレに流した。手間を省こうと仕事帰りにミンチ加工の機械を買ったが、マスコミに気づかれると危惧して帰宅途中に捨てたこともあった。残った骨は処理に手間取り、切断して冷蔵庫や段ボール箱、天井裏などに隠して茹でたり切ったりしながら廃棄の機会を窺った。骨片や凶器、被害者の衣類、血を含んだタオルなどは5月1日までに家庭ごみやコンビニなどで徐々に廃棄していった。

 

星島は解体作業と並行して、警察とのやり取りで捜査状況の把握に努め、事件翌日にはマスコミのインタビューにも無関係を装って対応。マンションを訪れた被害者の父親に出会った際には、動揺しつつも素知らぬ風を装い「お役に立てずすみません」等と白々しい演技でその場を切り抜けた。

被害者宅の洗濯機置き場から姉妹のものとは異なる指紋の一部が検出され、警察はマンション住人全員の指紋を採取した。星島は配管の痕跡を消そうと素手でパイプクリーナー剤を使用していたため、皮膚がただれて指紋照合の目を免れた。その後行われた全室立ち入り捜索の際には、無関係な段ボール箱を自ら開示して警官の目を欺き、遺体を隠していた段ボール箱への追及を回避していた。同じ場所を繰り返し確認されることはないと踏んで、隠していた遺体をすでに捜索が及んだ箇所に移動させるなど、機転を利かせて大胆かつ冷静な工作を続けた。

 

1か月後、再び入居者の指紋採取が行われた際には皮膚が修復しており、指紋が一致。逮捕翌日には容疑を認め、動機について「性奴隷にしたかった」と語り、男の部屋からは拭き取られた被害者の血痕が検出され、下水管から裁断された財布や遺体の一部が発見された。男は性的快楽によって被害者を虜にして「調教」するつもりだったと言い、抵抗されることや目論見が失敗することは考えていなかったと述べた。

公判では、星島の生い立ちについても触れ、乳児期にできた両脚の大やけどがその後の人格形成に影を落としたと述べられた。幼少期にはケロイド状のやけど痕を馬鹿にされていじめを受け、親に相談すると庇ってくれるどころか叱られたという。からかわれる恐怖から人付き合いを避けるようになり、思春期になると醜い傷跡をますます呪い、そのすべての責任は両親にあるとして明確な殺意を抱いた。2度の移植手術でやけど痕は目立たなくなったが、男の心の傷を癒すことにはならなかった。殺害に対する抵抗感のなさは親への憎悪が遠因だと自己分析している。

※公判では星島の両親の証言も紹介された。大やけどは星島が1歳11か月のとき、猫を追い回していて風呂場で負ったと言い、当初は医者に「助かるか分からない」とまで言われたという。「やけどっこ」「火だるま」などと周囲からからかわれたことを聞かされて、父親はやけどを背負っていても乗り越えてほしいと思い、「やけどの跡を隠すな」と厳しくしつけたと振り返っている。父親は仕事の帰りが遅くて日頃遊ぶ機会はなかったという。兄弟仲はよく、学校での交友関係については聞かなかったが非行や成績不振、問題行動はなかった。残虐性や性的異常も見受けられず、両親は「殺意を抱かれていた」とは認識していなかったようである。

高校を出ると上京して親とは連絡を取らなくなった。ゲーム制作やコンピュータソフト開発などの職を経て、事件当時はフリーのSEとして手取り月50万円程の収入を得ていた。税金は未払いで貯蓄はせず、風俗やデリヘルで散財したが、女性との交際経験はなかった。マンションは駅まで徒歩10分で都心部へのアクセスは良かったが、電車で他人と一緒にいることが不快でならず、タクシー通勤をしていた。成人後の星島はコンプレックスに耐えるため「自分は他の人とは違う特別な人間だ」という考えで理性を保ち、他人を見下すようになっていた。

 

日々倹約したり、恋人を作ろうと努力する人生は可哀そうだと見下しながらも、(他人が営む)家族への羨みなどもあったと語り、自身を「人の幸せを素直に喜べない人間」と評している。独り身の暮らしには十分な収入があったものの、仕事で肩身の狭い思いをすることもあったと言い、「どんな手段を使ってでも、すがれるようなものが欲しくてしようがなかった」と内省している。他人を見下しながら自我を保身してきたことから、仲間とつるんだり恋人とデートしたりセックスしたりといった「人並み」の幸せを望むことを自ら諦めざるを得ないジレンマに陥っていたように見える。

出会いを求めたり交友を広げるといった一般的な恋愛への努力はしておらず、女性の見た目へのこだわりや芸能人の好みなどはないと答えたが、性欲や女性に対する願望の強さが窺える。供述調書には「私はずっと自分を好きでい続けて、ずっと自分に尽くすことだけを考える女性でないといやでした。そんな理想的な女性は、アニメやマンガにしか登場しないかもしれないと気付いていましたが、そういう女性でないといやだったのです」と記されている。

アニメ風イラストや同人本を複数制作しており、中には女性を四肢欠損させるものや性的快楽によって隷属させるといった事件を想起させる内容も含まれていた。目的は殺害や死体損壊といった猟奇的犯行ではなく、女性を自分の100%思い通りになる人格へと「上書き」することだった。性奴隷のアイデアについて、仕事のストレスや孤独感から「どこかでそういう征服欲があったのかもしれません」という発言もしている。

現実には理想に合う相手など存在しない、だから自分で「調教」しようという非現実的で傲慢な欲望に支配されていた。それまで何人かの売春婦に性行為を褒められたことで男は歪んだ自信を膨張させていたこともあるだろう。しかし星島の欲望の本質は「性奴隷」や「肉便器」がほしい訳ではなく、やけど痕や見た目の美醜を非難せず、歪んだ自身の内面をも受け入れてくれる相手、傷ついたときに庇い、慰め、励ましてくれる相手、疲れたとき苦しいときに自分を頼ってくれる現実の女性と恋愛をしたかった、「普通の男」として承認されたかっただけなのではないかと私は思う。

襲撃を思いついたのは1週間前で、月曜までの間にセックスで心酔させてその後は解放するつもりで金曜の帰宅時を狙ったと言い、被害者に対して恋愛感情がないどころかまともに顔を合わせたことさえなかった若い女性であればだれでもよく、近くに住んでいて実行可能と見て標的にしたという。「勃起していれば強姦したと思う」と述べる一方で犯行当時の自分は「頭がおかしかった」と言い、たとえレイプできたとしても(アニメやポルノ作品とちがい、現実の女性は)思い通りにならないことに気づいて、結局「殺してしまっていた思う」と事件を客観視し、そもそもの自身の過ちを認めている。

殺害は身勝手極まりない自己中心的な動機であり、損壊は人間の尊厳を踏みにじるおぞましい犯行だが、その場しのぎに様々な工作を企ててはいるが殺害自体に計画性はなく衝動的なものと判断され、求刑死刑に対して無期懲役の判決が下された。

 

■所感

福岡に話を戻そう。想定する犯人像は、被害者宅近辺に住む独身男性である。

同じ建物とはいかないかもしれないが、駐車場と被害者宅の間か近接した位置に住み、これまでも女性の帰宅する様子を見知っていた。まともに面識はなかったが夜間にコンビニやドラッグストア等で行き違うことがあったかもしれない。女性宅のアパートや周囲に防犯カメラがないことを確認し、星島同様、一人暮らしの会社員と見立てて金曜の夜を狙った。

帰宅した女性が部屋に入ろうとすると背後から男が押し込み、脅迫。男は血飛沫を避けるためハンマー等鈍器を用いたものと推測する。窓割れは押し入った際の混乱で生じたものか。下手に相手を刺激すると危険と考えた彼女はおとなしく従うふりをした。

男は連行する際、部屋のカギ以外は邪魔になると考えて女性にカバンを置いていくよう命じた。携帯電話の位置情報を嫌ったとも考えられる。男が背を向けた瞬間、女性は咄嗟にバッグから携帯を抜き出す。それとも帰路や解錠の際に手元用ライトとして懐中に持っていたかもしれない。

犯人の部屋の前まで来ると、女性もこれ以上は危険と判断して抵抗を試みようとするが、強引に連れ込まれて自由を奪われる。男の目的はわいせつ行為、車を所持しないことから近隣での拉致を企てた。だが強く抵抗する女性を前に男は怯んで行為に及ぶことができなかった。とはいえこのまま解放すれば、当然逮捕は免れない。さりとて何日も部屋に置くわけにもいかない。

目的を果たした後は発覚を免れるため殺害も念頭にあり、凶器は事前に調達していた。殺害後は北九州や江東区での事件のようにミンチにまでする必要はない。処理が遅れれば悪臭が漏れて始末が困難になることはいくつかの事件を通じて学んでいた。持ち運べるサイズに切断して、手早く近くの三笠川に遺棄するつもりだった。

 

行方不明から遺体発見までのタイムラグによる刑事捜査の出遅れ、また初動捜査によって被害者の交友関係へと焦点が絞られた結果、こうした「近くの他人」による杜撰な犯行が網の目をすり抜けてしまったとしても不思議はない。捜査員の意識が「交友関係」に向けられ、接点が薄い単なる「近隣住民」であれば、一度や二度の聞き込みを逃れることは造作ない。

マスコミは事件当初から「バイクの男」「不倫関係にあった元上司」の動向を24時間態勢で注視しており、スピード解決が期待されていた。裏を返せば警察が重要人物として情報をリークし、マスコミを使って半ば行動監視をさせていたとも捉えられる。

だが疑惑の人物たちは比較的早い段階で一度はシロと判断された。理由なく解放したとも思えず、内容は分かりかねるが犯人性を否定する相応の証拠(アリバイなど)があったには違いない。半年後の捜査見直し宣言、バイクの男の逮捕にも県警の迷走ぶりは明らかであり、一か八かの“賭け”に負けた印象を拭えない。

しかしながら遺体は上がり、殺人事件であることを白日の下に晒している。はたして理由は何であれ命を奪った張本人が野放しにされてはならず、リソースに限りはあれ捜査の継続を断念してはならない。

 

 

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、一刻も早い事件解決を願います。

 

ソウル・漢江医学生変死事件について

2021年4月、韓国・ソウルを流れる漢江(ハンガン)で起きた医学生の変死事件について記す。

当初は行方不明事案として家族は公開捜索で広く情報提供を求めた。遺体発見後も地元警察の見解に異を唱え、真相解明を訴えて韓国世論を大きく動かした。

 

医学生の死

4月30日(水)15時50分頃、5日前から行方が分からなくなっていたソウル中央大学医学部ソン・ジョンミンSon Jung-minさん(22)の遺体が漢江で発見される。

行方が分からなくなった25日から近隣捜索や防犯カメラの解析、ヘリコプターやドローンを動員しての捜索が続けられていた。

最後の目撃場所となっていた盤浦(パンポ)漢江公園にあるソレナル乗船場水上タクシー乗り場)から20m付近を漂流しているところを、捜索中の民間救助士チャ・ジョンヨクさんと救助犬が発見した。

 

24日夜、ソンさんは同期グループの友人Aから誘いを受けて、大学や自宅からもほど近い盤浦漢江公園で酒を酌み交わし、二人はそのまま酔いつぶれて野外で寝てしまった。

この公園は、盤浦大橋の「レインボー噴水」などで知られ、運動施設のほかチャペルやレストラン、釣り場やキャンプ施設などを備える大型都市公園である。とりわけ当時はコロナ拡大予防のため、飲食店の営業は22時までに制限されていたこともあり、観光客だけでなく夜の余暇を楽しみたいソウル市民にとっても憩いのスポットとなっていた。

25日4時半ごろ、友人Aが目を覚ますと、隣に寝ていたはずのソンさんの姿はなかった。友人Aは、ソンさんが一人で帰ったものと思い、自身もタクシーで帰宅。泥酔状態が続いていたため家で眠り直そうとしたところ、母親から服に入っていた携帯電話がAのものではないと指摘された。記憶にないが、彼はどうした訳か誤ってソンさんの携帯電話を持ち帰っていた。

ソンさんの安否を危惧した友人Aとその両親は公園へと赴いたが見当たらず、ソンさんの家に連絡を取った。青年は自宅へも戻っておらず、6時ごろに家族から捜索願が出された。

 

■遺体発見後

友人Aは23時過ぎに酒宴を始めて以降、悪酔いしたのか記憶を失っており、失踪直前にソンさんとどんなやりとりが交わされていたのか、その後の行動を予測する手がかりになる情報が全く得られなかった。

公開捜索で広く情報提供を募ったが青年の詳しい足取りなどは分からないまま、30日に遺体となって発見される。担当の瑞草(ソチョ)署は、Aの証言や現場状況などから事件性はないと判断し、死因を「溺死」とした。

ソンさんの父親は「息子は水が嫌いだ」「泥酔状態とはいえ一人で川に落ちる訳がない」とブログや会見を通じて警察の見解に強く反発した。またソンさんと友人Aは母親同士も頻繁に会う親しい関係で、ソンさんの母親は「子どもに何かあれば深夜であろうと電話しあえる間柄。友人Aから3時半に連絡があったなら、どうして(Aの母親は)自分に連絡をくれなかったのか」と猜疑心を強めた。

ネット上でも議論が過熱し、真相解明を求める市民の声は急速に拡大した。行方不明当時は、家出か拉致かとネチズンの反応も様々だったが、遺体が発見され、遺族の声が広がるうちに友人Aへの疑惑が主流となる。

橋に掲げられた情報提供を求める垂れ幕

ソンさんの家族は、遺体の左耳の後ろにあった2つの傷や頬の裂傷について、「何者かに襲われてできたものではないか」と疑念を抱き、国立科学捜査研究院に法医解剖を求めた。

所見によると、飲酒後2~3時間後の死亡と推定され、アルコール以外の薬物・毒物による異常反応も確認されなかった。体を引きずられた際に生じる外傷や暴行などによる打撲痕も見られない。通例、他人の力で水中に顔を押し込まれたり、引きずり込まれたりすれば圧迫痕や抵抗の痕跡が残るはずだが、そうした兆候は確認できなかった。顔・頭部にできた裂傷は、落下時に水中の漂流物との衝突などによって生じたものと考えられ、「死因とは考えにくい」と結論付けた。

警察は特別捜査チームを発足し、事件性の有無を焦点にその後も再捜査が続けられた。一緒にいた友人A、Aの父親に再聴取を行い、弁護士立会いのもと韓国初のプロファイラーである犯罪科学研究所ピョ・チャンウォン所長を交えて10時間にも及ぶ入念な聞き取りを行うなどしたが、質疑の内容は公開されていない。

A自身も泥酔状態だったことから記憶は定かではないらしく、なぜソンさんが入水したのか、そのとき何が起きていたのかは誰にも説明がつかなかった。

 

■空白の40分

当局は、周辺の防犯カメラの記録や通信履歴、目撃証言などから当夜のソンさんたちのタイムラインの再現を試みた。

ソンさんと友人Aは22時54分から翌1時45分の間に3度にわたってコンビニへ酒を買いに出かけ、そこで360ml、640mlの焼酎各2本ずつ、清酒2本、マッコリ3本を購入。

電話の通信記録では、ソンさんは深夜1時半ごろまで母親とカカオトークを通じてメッセージをやり取りしていた。1時50分にはインスタグラムに友人Aと一緒に踊っている動画を投稿し、2時以降のインターネット接続はなかった。その後、電波状況の解析を進めた結果、微弱なGPS反応は7時2分に周辺で途絶えており、この時点で完全に電源が落ちたとみられている。

友人Aはというと、母親の携帯電話から3時37分までA自身の携帯電話との間で通話があったことが確認された。弁護士曰く、親に早く帰宅するよう急かされて、Aは「ソンさんが泥酔してしまって起きない」と釈明していたという。警察は聴取の結果を総合的に判断して、その時間まで二人は一緒におり、異変はなかったものと判断した。

4時20分過ぎ、友人Aは三者に起こされて目覚めたが、Aに当時の記憶は全くなかった。起こした人物は酒を飲んではおらず、「斜面で寝転がっている若者を見て危ないと思って直接起こした」旨を説明。しかしそのとき周囲にソンさんらしき姿はなかったと証言している。

4時33分、友人Aが一人で公園のトンネルを抜けて立ち去る様子が監視カメラに残されており、その後タクシーを使って自宅に帰った。運転手によれば降車後のシートは濡れてはいなかったという。その後は上述の通り、Aの家族がソンさんの安否を危惧して5時5分頃、Aと共に公園へと捜索に赴いた。

すべて事実だとすれば、3時37分から4時20分頃までのわずか40分程のうちにソンさんは隣で寝ている友人に気づかれることなく、防犯カメラの死角から忽然と姿を消したことになる。

観光名所となっている盤浦大橋のレインボー噴水

警察は、公園駐車場を出入りした車輛154台から利用者を割り出した。聞き取りを行ったところ、うち7人の釣り人が川の近くで男性の姿を目にしたと証言する。

「二人の男が芝生で横たわっているのを見た」という証言者は、2時18分に付近で写真撮影しており、芝生に横たわり昏睡しているソンさんと中腰姿勢でバッグを背負っている友人Aが映り込んでいた。

3時12分頃「男性がふらついて倒れたり立ち上がったりしている様子を見かけた」、4時40分頃に「水に入っていく男を見た」、「胸元まで水に浸かって気持ちよさそうな声を上げて泳いでいるようだった。(酔っ払いだと思い)緊急事態には見えなかったので通報しなかった」などの証言があったが、いずれも対象人物は特定されていない。

 

■反応

ソンさんの行方不明、更には遺体発見の事態は大きな注目を集め、オンラインコミュニティやSNSを介して真相解明を求める市民集会やデモ行進が開かれ、再捜査を求める請願が集められた。

その中でソンさんの父親は、警察の初動捜査への消極性を指摘し、事実確認や説明責任が納得できるまで果たされていないことを訴え、友人A側の証言に事実と異なる内容があるのではないかと持論を唱えた。警察不信を募らせた民衆はそれに呼応し、メディアはその過熱ぶりを全国へと伝え、瞬く間に国民的関心事となった。大統領府への請願は30万人以上にも膨れ上がり、再捜査や情報公開へとつながった。

 

そうした全国的な過熱ぶりに大きな役割を果たしたのはYouTuberの存在がある。事件現場から配信を行い、ネット世論医学生の死について盛んに議論し、多くの人たちが実際に現地へと足を運び、その場で静かに祈るだけでなく「追悼配信」やデモ行進を行った。

とりわけ行方不明当時からソンさんの両親が友人Aの証言に疑いを提起してきたことから議論の多くは「友人Aによる事件隠蔽説」が主流となる。そして遺体発見から「隠蔽説」は「殺害説」へと発展し、堰を切ったようにAやAの家族への糾弾がエスカレートする。素人探偵のみならず占い師やムーダン(巫堂。朝鮮のシャーマン、霊媒師)たちもAへの疑惑を加速させた。

たとえば川縁で嘔吐している最中に後ろから押されたといった場面はだれにも想像が容易であり、Aが家族を伴って公園へと再訪したことにさえ家族ぐるみによる隠蔽工作の疑いが向けられた。

ソンさんの親が友人A側に不審感を抱く大きな要因となったのは、行方不明から一夜明けて交わされたやり取りだった。ソンさんの親がA側に当日の靴や着衣を見せてほしいと求めたところ、「泥や吐瀉物で汚れたので捨ててしまった」と説明を受けた。前日まで身に着けていた靴とTシャツを、友人が行方不明になった直後に処分したという言い分は、ソンさんの親からしてみれば都合がよすぎるように思われた。

見方によっては血痕の付着等を想起させ、言い逃れのように捉えられる。あるいは現場に残っていたかもしれない下足痕の照合、残土の成分分析等からアシがつく事態をおそれての証拠隠滅であるかのような印象を人々に植え付けた。

尚、A側は5月4日には警察の求めに応じて、当日着用していたジャンパー、靴下、カバンなど残りの所持品を任意提出している。それらは鑑識に回されたが、血液反応など殺害を疑わせる分析結果は何一つ出ていない。

 

そのほかA殺害説の論拠として、20時31分に友人Aの方からソンさんを「外飲み」に誘っていたこと、行方不明直前までソンさんの傍にいたことが判明している点、Aに当時の記憶がないこと等が挙げられる。ソンさんの父親も防犯カメラ映像で「泥酔して記憶がないはずのA」が柵を飛び越えてタクシーで自宅に帰っていく様子を見た際に強い疑念を示していた。

だが友人Aの弁護士は「Aの身に起きた記憶障害や(奇妙にも思われる)行動は、泥酔状態において極めて異例だとは言えない」「彼(A)は都合よく記憶がないように言われているが、実際には彼自身にとって有益な記憶すら覚えていない」と述べ、記憶の欠落が事実であることを強調した。

 

また友人Aがソンさんの携帯電話を「誤って」所持していながら、Aの携帯電話がすぐに発見されなかったことも人々の疑いの芽を大きくした。公開情報の少ない初期段階には、インスタグラムへの動画投稿はAによって操作されたアリバイ工作ではないか、自身の携帯電話に重大な情報が残っていたため破棄したのではないか、といった疑念が相次いだ。

事件のカギを握ると思われた友人AのiPhoneが「再発見」されたのは遺体発見の一か月後となる5月30日のことである。すでに市民集会やデモ行進が盛り上がり、ネット上では怪情報や誹謗中傷が飛び交って、もはや友人Aへの「疑惑」は払拭する術がないほどまでに肥大化していた。

お粗末なことに、5月半ば(10~15日の間)に清掃員が拾得して「遺失物」として専用ロッカーに保管されたままになっていたという。清掃員は発見現場の周りは酒瓶やペットボトルが散乱しており、拾った電話は「電源が入らず、ディスプレイはひび割れていた」「2~3人で酒盛りでもして落としていったのか、よくあることだと思った」と回想する。清掃員曰く、作業中に携帯電話を月3台拾うこともあり、よもや友人Aのものとは思わず、その後、自身の病欠などにより自ずと携帯電話の存在を忘れてしまっていたという。

友人AのiPhoneは充電だけで再稼働し、内部に異常はなかった。6月1日、警察は「携帯電話にはソン・ジョンミンと友人Aの間に不和の兆候は見られず、法医学的にもソン・ジョンミンの死因に関する情報は含まれていなかった」と発表し、事態の鎮静化を図った。

 

さらに変死事件の余波は思わぬ方向にも広がった。5月に蚕室(チャムシル)漢江公園で泥酔者が落水して警察に救助される騒動が起きたことや、6月末から施行予定とされていた健康増進法改正案により各自治体で公共の場での飲酒制限を設けることが可能になることを受けて、漢江周辺の公園を禁酒区域とすべきだとする論議にまで発展した。

変死騒動を憂慮する市民、大学生の子を持つ親らは不安を深め、漢江沿いでの「外飲み」を自発的に辞める動きや飲酒に対する啓蒙を求める声もあった。だがコロナ禍でのストレスフルな行動制限も重なり、レジャーシートを広げてチメク(チキンとビール)を楽しむ「外飲み」はソウル市民がマスクを外すことを許された抜け穴的なレジャーとして定着していた。そのため禁酒区域指定は公共空間での過度な規制だとして反発の声も大きかった。

ソウル市は市民の要請を受けて、安全強化のため園内の防犯カメラ拡張を決定。禁酒指定についても検討委員会を設置し、猶予をもって市民の意見を集め、慎重に審議することとした。翌22年3月、自治体関連施設や都市公園、河川施設、公共交通施設、児童公園や青少年活動施設などを禁酒区域に指定できるよう条例改正に着手することを決定。条例案では違反者に過料10万ウォン(約9800円)を科すことができるものとした。

 

フェイクニュースと「正義」

その間も過熱したYouTube配信者からは虚実ないまぜの情報が「新事実」「独占情報」として過大に発信され、青年の死を悼み、捜査の進展を願う人々の「善意」によってデマを含む情報の拡散が繰り返された。出せばアクセスにつながり、アクセスが稼ぎに直結するため誰しもが事件を取り上げ、「新情報」の再生産は連日繰り返された。

ある者は事件当夜、漢江公園近くでパトカーを複数台目撃していたことから、「警察はすでにソンさん失踪の事実を認識しており、周辺では捜索作業が行われていたのではないか」と疑いを提起した。捜索の遅れをごまかすために、通報時刻を後にずらしたのではないかというのである。だが実際には付近の食堂駐車場で車輛事故があったため出動したまでで、5~6台と思われていたパトカーも2台が出動していただけだった。

また「公園で血痕が発見された」といった真偽不明の情報は、警察が事実を隠蔽しているのではないか、と安易に陰謀論へと結び付けられて語られた。警察は5月8日までに園内広域で鑑識を行い、血液反応は出なかった。しかし警察がいくらそうした「事実」を伝えても、懐疑論者全員がそれで納得するわけではない。様々な情報が医学生の死と絡めて解釈され、過剰に議論されることで、人々の誇大妄想を膨らませていった。

公開された映像に加工を加えて持論を展開したり、警察未公開の防犯カメラ映像を独占入手するとうたって金銭的支援を募ったりする者もあった。警察はそれらをフェイクニュースであるか、公開していないだけですでに確認済みの映像だと説明した。

「偽ニュース」で月3800万ウォン…漢江医大生の死亡で金を儲けるユーチューバー | Joongang Ilbo | 中央日報

友人Aの犯人性を示す証拠がなぜ出てこないのか、A犯人説を唱える者たちはAの家族が法律事務所の大物や大学病院の教授、江南警察署長で捜査当局に政治的圧力をかけている、といったいわゆる「上級国民」説を採用した。配信者の妄想を鵜吞みにした視聴者は、「一人で川に入っていく男を見た」と他殺説とは相容れない証言をした釣り人たちをA擁護のため「上級国民」に雇われた虚偽の証言者だと考えた。そのいずれもが事実無根であることを警察が逐一発表せねばならなかった。

友人Aの代理人であるチョン・ビョンウォン弁護士は、YouTubeを通じたフェイクニュースの拡散はよくあることとしつつ、「フェイクニュースを拡散することは、匿名性の背後に隠れている個人の犯罪に目をつぶっているのと同じことだ」と述べ、拡散に加担した視聴者のモラルにも釘を刺した。

 

一大勢力を誇った「友人A殺害説」を支持する群衆の一部は、オンライン上で暴徒化していった。Aに対する悪辣なデマを量産するばかりでなく、A殺害説を批判する者や異論を唱える者に対して「買収された朝鮮族」とレッテルを貼り、荒らしや誹謗中傷の個人攻撃や徒党を組んでの「集中砲火」を浴びせた。

また早い段階から友人Aを標的としてソンさんの通う大学の同窓生の個人情報がオンライン上に流出し、ソンさんの家族も問題視して自粛を訴えていたが、その被害は友人Aに留まらなかった。友人Aと同じ名前だとして、無関係な第三者がオンライン上で家族の名前と顔など個人情報を公開される「晒し」行為に巻き込まれる事態へと発展した。

人々は「あらゆる可能性」や「正義」の名のもとに、自分の求める「真実」にありつくため、配信者にプライバシーの侵害を求め、相容れない相手への毀誉褒貶を許し、悪質な虚偽情報を氾濫させた。オンライン上での新たな犯罪者を生み出すこととなり、言いがかりに近いクレーム処理や無用な説明を強いることで当局の負担を増やした。結果的に見れば捜査の妨害に加担したことになる。

一方で、ネット上のモラルハザードの背景として国民の根深い警察不信がある。疑い深いことそれ自体に罪はないが、事実を事実と認めることができない人間が自身の「正義」を振りかざすようになっては収拾がつかない。順天郷大学警察行政学のオ・ソンユン教授は、権力犯罪に対して警察が及び腰になる姿を国民は長年見続けてきた反動から「噂が真実のように力を得ている」現状を指摘し、「警察が意味のある成果を挙げなければ無分別な疑惑の拡散に歯止めはかからないだろう」と述べている。

 

無論、テレビ番組でも連日のように捜査の進捗や専門家の声、ソウル市民やネット市民の反応を取り上げた。

30年の歴史を持つSBSの報道ドキュメンタリー番組「それが知りたい(그것이 알고싶다)」では、5月29日に事件について専門家の意見を紹介している。

京畿大学犯罪心理学科イ・スジョン教授は、現場の公園について「24時間人目に触れる場所」であると指摘し、「殺意を持った人間が見通しのきくパノラマ空間で殺害することは難しい」と述べた。

ソウル大学法医学教室ユ・ソンホ教授は、他殺による溺死について判断する場合、「胸・肩・首の部位に降圧によるダメージがあるかが重要である」と述べ、本件では遺体に「抑えつけたり制圧した痕跡がない」と説明。

東国大学クォン・イルヨン兼任教授は、「犯罪は動機が明確でなければならず、殺害は機会を窺って行われるものだが、(友人Aが実行するには)動機も機会も可能性が低い」「犯罪を計画するには適切ではないように思われる」との見解を示した。

番組内容は、ソンさんの死に友人Aの関与した可能性は低いとの見方を主軸としたため、視聴者掲示板には抗議の声が相次いだ。ソンさんの父親も放送について「残念である」と不満を示した。

6月1日、虚偽の情報を流布したとしてYouTubeチャンネル「JikKeumTV」に対して、友人A側が代理人を通じて法的措置を行った。動画では、「友人Aの父親が韓国民放テレビ局SBSのディレクターと取引をし、共謀してAを無実とする内容を捏造した」旨の主張が展開されていた。その後も名誉棄損、侮辱罪などで一部YouTuberを告訴し、グーグル社に対して虚偽事実が含まれる動画の削除依頼を求めた。

ソンさんが履いていた靴下

ソンさんが履いていた靴下には多くの泥が付着していた。科捜研による成分分析の結果、川岸から約10m離れた川底の土砂の成分に類似していることが確認された。周辺の川底の土砂は、5m地点と10m地点のもので土壌に含有される成分比が異なっている。そのため自ら川に降りて沖へと歩いて行ったものが、途中で靴が脱げてしまって溺死したのではないかと推察された。

これまでの強力班(刑事事件担当部署)5チーム35名体制で重点捜査が続けられてきたが6月には大きな進展は見られなかった。結論を言えば、医学生の死について、いくつか不可解に思われる点はあるものの、えてして「事件性を示す証拠は当初から一切見つかっていないのである。

6月23日、ソンさんの遺族が、直前まで一緒にいた友人Aにも死亡の責任があるとして告訴状を提出した。当初から疑念を呈してきた遺族が、Aによる暴行致死や遺棄致死を訴えたものである。

24日、自身のブログで「4時間近く供述してきた」と伝え、「変死事件審議委員会について何も教えてもらえず、私もマスコミを通じて得られる情報のみだ」と実情を明かした。父親は、捜査の過程で疑問点が解消されず、補完捜査を求めるものと説明した。

6月29日、瑞草警察署は内部・外部8人構成による審議委員会を開き、ソンさん変死に関する捜査の終結を決定した。当初24日に開催を予定されていたが、告訴を受けて延期されていたものである。特別捜査チームは解体され、新たな告訴に対する捜査チームのみの編成となる。

7月14日、ソンさんの父親は自身のブログで、「疑惑」と題する記事を掲載。警察は「事件性がない」という結論ありきの捜査だと非難し、自分が抱いた数々の疑念もやがて警察が明らかにしてくれると期待してきたが、無念にも捜査が打ち切られた現状を嘆いた。「事件性を認めれば犯人を捕まえなくてはならないから」警察は事件と認めたくないのだとする考えを述べた。

10月22日、瑞草警察署はソンさんの遺族から友人Aに対する告訴内容について、証拠不十分により不起訴とした。告訴後も4か月にわたり調査は続けられたが新証拠の発見には至らず、これまでの捜査で得られた情報の洗い直し、試料を再鑑定したが容疑を立証するには至らなかった。翌週、遺族側は警察の捜査結果に対して異議申し立て書を提出した。

12月10日、ソウル地下鉄の三成駅、市庁駅構内にソンさんの顔写真とともに「ありがとう、ジョンミン」「愛してる」「君を忘れない」といったメッセージが書かれた大型広告看板が設置された。広告主は明らかにされていないが、まるで人気アイドルの広告看板のように有志らによるカラフルなメッセージシールが数多く寄せられた。半年前に比べれば少数の人々の間でその賛否について議論を呼んだ。

その意図が、事件議論の再燃を意図したものだったのか、ただ青年の不幸を思い起こして追悼する拠り所を求めて設置されたものなのかは定かではない。

 

 

■所感

日本に暮らす身の上としては、ひとつの事件から人々が被害者やその遺族に思いをはせ、世論が自治体や警察組織をも動かした事実は画期的なことに思える。その一方で、狂信的な人々が新たな被害者を生んでしまうことは、山梨のキャンプ場で消息を絶った小倉美咲ちゃんのご家族や池袋暴走事故の被害者遺族・松永拓也さんが被った侮辱など、この国でも御多分に漏れない。掛け違えたボタンをたやすく直せる人もいれば、タガが外れて事件を起こす人もいる。

現在ではどれだけの人がソンさんを悼み、ご遺族の動向を注視しているか、騒動の渦中、そしてその後で友人AやAの家族をどのようにして支えてきたのかを私は知らない。ニュース更新を辞めた記者や配信者たちはこの事件を通して、人々を熱狂させることの恐怖を思い知ったにちがいない。人々は正気であれば、自分は加害者ではないと思い込む。しかし加害者と被害者、第三者との間にそれほど大きな隔たりが存在する訳ではない。

あくまで仮定の話だが、はたして友人Aの殺害が事実と認められたとしたら、そうに違いないと信じていた多くの人たちはすっかり腑に落ちて大団円を迎えられたのであろうか。世の冤罪とはそうして多くの人の汗と固い信念のもと、正義の名のもとに生み落とされてきたのではなかったか。

やり場のない遺族感情を弄んだのは、記者やYouTuberなのか、それとも新たなニュースと「真相」を求めた視聴者たちだったのか。「青年の死」が一過性のエンターテインメントとして花火のように消費されてしまった印象を受ける。本当に必要だったのは世論を動かすマスメディアや関心を焚きつける動画配信者でもなく、ただただ遺族感情に耳を傾け、寄り添うだけの存在だったのではないかという気がしてならない。

 

亡くなられたソンさんのご冥福をお祈りいたしますとともに、ご遺族の心の回復、友人Aらに安寧の日々が戻ることを切に願います。