北九州連続監禁殺人事件(1/2)

2002(平成14)年に発覚した福岡県北九州市の連続監禁殺人事件について記す。

当初こそ少女監禁事件と報じられるも、犯人の男女が逮捕されると、通電による拷問とマインド・コントロールを用いた恐るべき犯行手段、少なくとも7人の死者を含む甚大な被害の実態が明らかにされ、そのおぞましさにテレビ報道が控えられたとも言われる事件である。

 

 前半では事件発覚からの報道の流れを俯瞰しつつ、主犯とされた男女の略歴を振り返り、第一の殺人を取り上げ、後半では残る殺害やその犯行の性質について見ていきたい。

 

 

■少女の告白

2002(平成14)年、1月30日未明、北九州市門司区の祖父母の許へ孫娘から一本の電話が入る。

「朝の5時にそっちに行く」

突然のことに老夫婦は戸惑ったが、怯えた様子の少女を二人は黙って受け入れた。しばらくぶりに会った孫娘の顔や身体には複数の痣があった。数日して落ち着いてから事情を尋ねると、少女は「父親に叩かれた」と明かした。

 

少女が小学生の頃に、父親は祖父母に何度か金を無心しに来たことがあった。そのとき仕事でトラブルになった話をして以来、すっかり疎遠になり7年程は会っていなかった。そもそも父親は高校卒業後に家を出て以来、祖父母(少女の父親にとっては、実の母親と再婚相手に当たる)とまともに連絡を取り合うことはなかった。はじめて孫の顔を見せに来たときにはすでに離婚しており、祖父母は“少女の母親”と顔を合わせたことさえなかった。

祖母の方は、その後も時々呼び出されては孫娘と会って小遣いを渡しており、そのとき聞かされる「神戸に仕事に行っている」「小倉でパチンコをしている」といった少女の話しぶりで、息子もどうにかやっているのだろうと信じていた。

少女は回復して落ち着きを取り戻すと、「バイトをしたい」と言いだし、飲食店の面接を受けて合格。親しい伯母に頼んで銀行口座を開設してもらい、祖父母に「高校にも行きたい」とも話していた。

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2月14日、少女の伯母が老夫婦の許を訪れた。するとその晩、見知らぬ男が突如来訪し、驚く老夫婦に土下座して非礼を詫びると、「少女を迎えに来た」と言って事情を説明し始めた。

少女の父親の知人・ミヤザキと名乗るその男は、多忙な父親に頼まれて、しばらく素行不良な少女の面倒を見るために預かっているのだと話した。さらに男は改まって、少女の伯母と親密な交際をしているのでこの場を借りて御挨拶をさせてほしい、と婚約を申し出た。

男の丁寧な態度と流暢な喋りに気を許した老夫婦は、息子と孫娘が世話になり、先だって離婚したばかりの娘までもが懇意にしている人物だと信じ込み、食事を支度して話を聞くことになった。

 

少女は再び怯えた様子でふさぎ込み、ミヤザキの“おじちゃん”についていくことを嫌がったが、男は「あなたたちが思っているような子ではない」と祖父母に少女の悪事を吹き込んで不安を煽り、「父親が怖いのでしょう」「18歳になったら自由にすればいいから」と取り成した。心配する祖父母に「明夜には引き渡す」と約束して説き伏せ、泣き出した少女を強引に連れて帰った。

しかし去り際に孫娘から渡された走り書きのメモには「おじちゃんの話はぜんぶうそ かならずむかえに来て」と書かれていた。

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翌日、ミヤザキは都合が悪くなったとして、少女の引き渡しを拒否。2月20日、孫娘から再び電話があり、「もう会いたくない」「余計なことはするな」「健康保険の手続きを取り消せ」と祖父母への態度を豹変させた。どういう風の吹き回しかと祖母は立腹したが、話しても埒が明かない。

つい先日、少女に頼まれて健康保険の加入手続きをしたばかりでとても喜んでいたのにこれはおかしい、と祖父は察した。電話の受け答えにも違和感があり、だれかに横から指示されているように感じられた。

 

半月が経った3月5日0時頃、またも少女から祖父母の許へ電話が入り、「明日の朝、また出て行く。5時頃に電話する」と言って切れた。早朝、呼び出された仏具店へ車を飛ばすと、身を潜めていた少女が泣きながら駆け寄ってきた。

祖父は祖母を家に帰し、孫娘とふたりきりでドライブに出掛けた。黙って俯いたままの孫娘の心中には何か言いたいことがあるに違いなく、祖父も今度ばかりは実際のところ父娘に何が起きているのかを知らねばならないと心に決めていた。静かな場所で車を停め、思い切って孫娘に“父親の安否”を投げかけた。

すると黙り込んでいた少女の目にみるみる涙が溢れ、「もうこの世にはおらん」と堰を切ったように泣き出して語り始めたのだった。彼女が肌身離さず持ってきたビニールバッグの中には、両親の結婚式の写真と、赤ん坊だった頃の自分を抱く父親の写真が入っていた。

 

■逮捕

少女は、それまで先のミヤザキと、モリという女に7年近くもの間、監禁状態に置かれ、電気コードを当てられて虐待されていたことを打ち明けた。彼女が小学5年生のとき、父親は死に、遺体は解体して、フェリーから海に捨てたと話した。共犯を認める誓約書を書かされ、「ばれたらお前も死刑だ」と脅され、警察にも学校にもずっと通報できなかった。

警察もすぐには信じられないという様子だったが、彼女の全身につけられた生々しい虐待の痕跡、涙ながらの訴えとその具体的な内容は信憑性があるものに思われた。被害届を受けた小倉北署は児童相談所へ保護を要請。捜査員は事情聴取と共に事実確認に奔走した。

 

少女が2度目の脱出をしたその日から祖父母宅にはミヤザキとモリから脅迫電話が繰り返され、翌日には家に押しかけて少女を返すように迫った。しかし老夫婦はシラを切り通し、嫌がらせに耐えながら押し問答を続けた。 

3月7日、ミヤザキとモリに対して、少女に対する(祖父母宅から連れ去って以降の)約20日間の監禁・傷害の容疑で逮捕状が下りた。警察は朝から祖父母宅に張り込みを開始。

モリから祖父母の許に電話が入り、少女を解放することを認める代わりにこれまでの養育費と迷惑料として500万円を要求した。交渉の名目でミヤザキとモリを祖父母宅に呼び出すと、21時頃、2人が現れたところを待ち伏せていた捜査員らが緊急逮捕した。

 

翌日の逮捕報道は、「男女2人に監禁・虐待された少女を保護」「自分で足の爪を剥がせと命令」「父親の知人だった男女2人は小学5年生頃から父娘と同居するようになった」「少女は2人に連れられて小倉北区内を数回転居」といった内容で、男女は氏名を含めて黙秘しており、父親は「行方不明」とされた。

 

2000年に新潟で起きた少女に対する長期監禁事件(佐藤宣行)もまだ記憶に新しかったことから、当初の報道では“少女への性的搾取”や“人身売買”を目的とした誘拐監禁かとも思われた。 

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■初期報道

逮捕当初の報道は、主な「監禁」先とされた小倉北区片野と、主に男女が「居住用」に使い、少女が脱出してきた東篠崎の2つのマンションがあったことを伝えた。

1995年7月頃から2002年1月まで少女が監禁されていた片野のマンションは、少女の伯母の名義で契約されており、捜査に入ったとき、部屋には引っ越しの荷物が梱包されていた。

尋常ではない数の消臭剤が置かれ、各部屋、トイレ、浴室に至るまで南京錠が取り付けられ、窓には目張りの板が施された異様な空間だった。押収されたものの中には、犯罪の構成要件や時効、刑罰等について解説する専門書なども含まれていた。

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幼い男児らが部屋にいる姿も目撃されており、モリはマンション住人に「人から子どもを預かっている」などと説明していた。

のちに「一晩中ノコギリの音が聞こえた」といった証言や、過去に階段で人の糞尿が放置される出来事が相次いで異臭騒ぎになっていた時期があったことも報じられた(住民が異臭について警察に届けを出したが捜査は行われなかった)。

 かたや少女が逃げ出してきた東篠崎のマンションは「サクライトシノリ」名義で契約され、荷物は整理されており、男女の身元を示すものは何も発見されなかった。2000年頃には小学生の女児2人が出入りする姿が何度か目撃されたと報じられた。

 

少女の話では、部屋は施錠されていたわけではないが「日中は大抵2人が家にいた」「働いている様子はなかった」と言い、どうやって生計を立てていたのか不明とされた。食事はある程度与えられており、近くのコンビニ店員によれば2週間に1度程度は少女が単身で買い出しに訪れていたという。町内では、少女とその“おば”が同居しているものと認識されていた。

 

一見するとサラリーマン風のミヤザキと目立たない主婦に見えるモリは、共に偽名を使用していたことが判明。捜査員が「あまりに平凡で、これが本当に容疑者かと思わず何度も顔を確かめた」と言うほど、男女はどこにでもいる市民然とした風体だった。

男は雑談には応じる一方で調書作成には応じず、女を「内妻だ」と語り、曖昧な関係性を示した。女は完全に黙秘を決め込み、実名や犯行については頑なに供述を拒否していた(2003年3月10日、西日本新聞)。

犯行内容に口をつぐむ容疑者は数あれど、名前すら明かさない強硬な態度は警察権力を敵視する政治犯くらいのもので滅多にいるものではない。あまりに不可解な男女、ごく限られた警察発表やTVの近隣取材などから得られる奇妙で断片的な情報の数々に、工作員による拉致説カルト教団など特異な背後関係を疑う向きもあった。

 

■少女と4人のこども 

少女は小中学校を4度転校し、中学時代の3年間で200日近く欠席していたが、“おば”を名乗る女性(モリ)から欠席の連絡をこまめに受けていたため、学校側は軟禁状態に気付かなかったという。高校は3、4校受検して合格もあったが、結局通わなかった。

かつての同級生たちは少女を、休みがちで「おとなしくて目立たない子」と記憶していた。中学1年のときの同級生は、少女の髪がザクザクに切られた状態で登校したことがあったと話し、「一緒に住んでいる人にやられた」と親ではない人物と暮らしていることを明かしていた(2002年3月11日、毎日)。

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さらに「別のマンションで小さな子の面倒を看させられていた」という少女の証言に続き、10日、小倉北区泉台のマンションから「小学生前後の男児4名が(逮捕同日の7日に)保護されていた」ことが発表される。幼児監禁をも疑わせる全容の見えない事件は人々にますます不穏な印象を抱かせた。

 

泉台の1DKのマンションも少女の伯母の名義で契約されており、やはり身元を示す物品は出ていなかった。こどもたちはTVを見るなどして過ごしていたようだが、部屋にこども用玩具すらなく、就学手続きも行われていなかった。5歳と9歳の男児は捜査員に「イシマル」姓の偽名を名乗り、生年月日も数日ずらして証言していた。

部屋には「といれに行くじゅんばん」「さわいだひとはあさごはんぬき」「もしちゅういをしてもなおらないときはひもでしばる」「ひるはでんきはつけない ゆうがた7じからつける」といった生活の細かなルールが書かれた貼り紙が掲げられていた。

マンション住民らによると「2,3年ほど前から複数の小さなこどもが騒ぐ声や若い女性がしかりつける声が聞こえていた」と言い、ドアを内側からどんどんと叩く音に気付いた住人もいたという。

 

11日、「6歳の双子」の父親が確認された。小倉北署の調べによれば、父親に生活力はあるが以前から双子を男女に預けていたと話しており、「略取誘拐」には当たらないもののこどもたちの所在については関知していなかった。児童相談所では養育環境を調査・調整した上で引き渡す予定とした。

残る5歳・9歳の男児について、少女は逮捕された2人のこどもだと聞かされていたと証言し、裏付けが急がれた。

 

12日の新聞では、少女の証言として、父親は「(自分を監禁し逮捕された男女)2人に殺された」と供述していることが報じられ、殺人事件の様相を呈していたが物的証拠は何ひとつ挙がっていなかった。 

男女2人は実名不詳のまま福岡地検小倉支部に送検され、その際、多くの報道陣が取り囲んだ。男は捜査員に白いジャンパーをかけてもらって顔を隠したが、女はそうした遮蔽の提案を断り、カメラに顔を晒して過ぎ去った。彼らがはたして何者で、一体何を企み、何をしていたのか、この時点では誰にもわからなかった。

 

■起訴

 3月13日、押収物から身元確認を進めた結果、2人は、元布団販売会社社長・松永太(40)と元幼稚園教諭・緒方純子(40)と特定された。

また時効(7年)はすでに成立したが、90年代前半に2人は福岡県警柳川署から詐欺容疑などにより逮捕状が出されていたことも判明。

緒方の住民票には5歳と9歳になる男児が確認され、その後、DNA鑑定によって、松永との実子であると断定された。

 

 3月14日、松永・緒方の担当弁護士による会見が開かれ、被疑者らと交わされたやりとりや弁解録取の内容が伝えられた。

監禁については、少女に現金などを持たせ、一人で外出もさせていたこと、室内に鍵は置かれていたことなどから容疑を否認。

さらに、少女は2人に引き取られる以前に虐待を受けており、服薬が必要なほど情緒不安定で自傷癖などがあったとし、緒方に敵意を示して暴行を奮うなどしていたため、手が付けられなかったと説明。“爪剥ぎ”の命令は行っていない、とかかる容疑を否認した。少女の父親についても、殺害はしていない、所在は分からないと答えた。

すべてが少女の虚言、でっち上げ、「あの子はおかしい」と主張し、警察の強制捜査は「少女の供述を鵜呑みにした勇み足」だと非難している、と弁護人は伝えた。

(後に、少女が保護された北九州市児童相談所・南川喜代晴署長は記者会見で「嘘をついたり、話の辻褄が合わなくなることはなく、整合性がとれている」と証言し、少女は「命令されずに自分で体を傷つけたことはない」趣旨の話をしているとして、松永らの発言を否定している。)

 

3月15日、捜査本部は、少女の父親を殺害した容疑で関係先3か所のマンションを家宅捜索。片野のマンションでは「解体があった」とされる浴室のタイルや排水溝の残土までもが証拠品として押収された。

黙秘が続くことも予想されたため、捜査員たちは物証で固めるしかないとして奔走した。押収品には「通電」に使われたと見られる1メートルほどに切られた電気コードのほか、ノコギリも発見されていたが、刃こぼれひとつない新品で「解体」に使用された痕跡はなかった。

 

その後の周辺捜査でいくつかの余罪が浮上してはいたが、松永はのらりくらりと雑談でかわす余裕を見せ、緒方は完全黙秘を貫き、留置場では弁護士に差し入れさせた法律書を読み耽っていた。

少女の父親は生存していれば40歳になる年齢だが、松永らと同居するようになった6年近く前から完全に消息を絶っていた。失踪の直前、元同僚が彼と懇意にしていた松永に所在を確認した際には「浴室で倒れ、頭を打って亡くなった」などと答えていたことが判明した。

少女の証言でも、父親の死亡時の状況については、拷問等によって殺害されたのか、病死した後に電気ショックを施したのか断定できず、確定的殺意の有無を証明する決め手には欠けていた。

 

3月22日、毎日新聞では少女の母方の親族の証言を取り上げている。少女の両親が離婚する際、母親が引き取ることを考えていたが、父親は娘(少女)との同居に執着していたと振り返った。95年頃には少女が母親の職場に電話をかけて窮状を訴え、後日学校で会う約束をした。しかし少女が「母親に会う」ことを父親に伝えたため、父親は「もう会いに来ないでくれ」と元妻を追い返したという。

親族は「『18歳まで預かって育ててほしい』と頼まれていたという容疑者の話はおかしい」と話した。

 

また95年7月下旬、少女の父親名義で消費者金融4か所から計100万円ほどの借入記録があることも報じられた。居住地はいずれも祖父母の住所が記載されており、手続きが本人によるものかは不明。少女は96年初めごろに父親は死亡したと証言しているが、99年7月にも父親名義で新たな借り入れの申し込みが記録されていた(滞納者リストに記載されていたため新規の借り入れはできなかった)。

 

3月29日、福岡地検小倉支部は2人を、2月15日から3月6日にかけて少女を監禁し暴行して右腕打撲傷、頸部圧迫創、右足親指の爪剥離など全治1か月の怪我を負わせたとして監禁致傷罪で起訴。

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 起訴状によれば、連れ戻された少女は「今度逃げたら父親のところに連れていく」「逃げても探偵を使って探し出す。見つけたら打ち殺す」などと2人から脅迫を受け、「養育費として借用した2000万円について毎月30万円以上ずつ支払う」「仮に逃走した場合、元金は4000万円に増加する」といった文言に署名・捺印させられていた。

2月19日、電源コードの線に金属クリップをつなぎ、少女の腕などに固定して、コンセントをプラグに差して通電させて足蹴にし、血で「もう二度と逃げたりしません」と血判状を書かせていた。さらに少女にラジオペンチを渡し、「5分以内に爪を剥げ。剥げんやったら剥いでやる。あと1分しかないぞ」と右足親指の爪を自ら剝離させ、治療せずに放置。その後も洗濯ひもで首を絞めるなどの暴行が連日繰り返されたとしている。

 

■結婚詐欺師

4月4日、福岡県警は松永と緒方を女性Hさんに対する監禁致傷容疑で再逮捕、25日に起訴された(5月16日には同女性に対する詐欺、強盗の容疑で再逮捕、6月に起訴)。

2人は1996年末から小倉南区のアパート2Fで扉を南京錠で施錠してHさんを監禁下に置き、電気コードとクリップを用いて「通電」の虐待を連日行い、「逃げようとしたら電気を流す」などと脅迫。97年3月16日にHさん(35)は和室窓から飛び降りて逃走しようと試み、腰や背中を強打して腰椎圧迫骨折や左肺挫傷を負うなどして救急搬送され、130日以上の入院を余儀なくされた。

 

1995年、夫の親友が「京都大学卒の塾講師」として村上博幸を二人に紹介した。紹介した夫の親友こそ「少女の父親」で、村上は松永の偽名であった。松永は父娘とHさん夫婦の許を訪れて、手土産や口達者で女性の気を引き、すぐに夫婦生活の不満を聞き出すほど信頼を得るようになった。

「塾講師の稼ぎは月100万円くらい」「実家は村上水軍の当主」「東大卒の兄が東京で医師をやっている」などと嘘八百を並べ立て、Hさんは素直にすごい人なんだと信じ込んでしまった。その年のクリスマスには松永と逢瀬を繰り返すようになり、ラブホテルで相対性理論に関する教育番組のビデオを見せながら松永自らHさんに解説して聞かせたこともあった。女性はすっかり騙されて敬意さえ抱いていたという。

 

翌96年1月、松永に求婚されたHさんは即答で結婚の約束をしてしまい、翌月には夫と別居して、3人の子どもを連れて実家に戻る。その3か月後には協議離婚が成立した。その間にHさんは松永のこどもを身ごもったが、「女性は離婚してすぐには法律で再婚できない。今のまま産めば親のいない私生児になってしまう。今回だけは」と堕胎させている。(当時は父性推定の混乱を防ぐ目的で再婚禁止期間が6か月だった。2016年の改正により100日間に短縮された。)

しかし松永は塾講師を辞めたと言い、新生活の資金などと称して金の無心を始め、すでに結婚するつもりでいたHさんは消費者金融から250万円を借りて渡してしまう。前夫が可愛がっていたからと説得して長女を引き渡し、長男は塾通いのためにHさんの実家に残して、Hさんは3歳の次女だけ連れて松永との同居生活をスタートさせる。

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しかし松永は、すぐに事情があって行き場がない「姉と甥っ子」をアパートに同居させる。緒方と2人の男児である。96年10月頃、松永はそれまでの温和な態度を豹変させ、HさんにDVを加えるようになり、緒方に通電を指示してHさんが痙攣するさまを愉しそうにニヤニヤと笑って眺めた。

Hさんが嫌がる目の前で次女に通電したり、逆さ吊りに振り回すこともあった。こどもを人質に捕られ、携帯電話でこまめに連絡を取ることを強制されたHさんはホテルの勤めに通いながらも逃げ出すことはできず、帰宅すれば夜毎虐待される日々が2か月ほど続いた。

退職してからは四畳半の和室に閉じ込められ、食事、排泄、入浴に制約を設けられ、見張り役として片野のマンションから少女が連れてこられた。

上半身裸で蹲踞(そんきょ。膝を折って爪先立ちする姿勢)させられ、両乳首にクリップを装着され、心臓が止まるのではという不安と息苦しさを覚えた。胸にドンという電気の衝撃があり、仰向けに倒れたこともあった。膝の後ろに通電されると足が跳ね上がって倒れた。ほとんど全身に通電されたが、乳首が一番つらかった。乳首は特にデリケートなので、ちぎれるような痛みがあり、心臓がバクッとして、死の恐怖に襲われ、終わってもビリビリ感、脈打つ感覚が残った。眉毛への通電では、目の前に火花が散って真っ白になり、そのまま失明する恐怖を覚えた。(供述調書)

別れたいと口にすれば通電され、我が子への虐待を強制されて、通電されたくない一心で泣く泣く命令に従えば「手を抜いた」と通電され、いつ何がきっかけで通電されるか分からない不安に常におびえ、「意思も気力もなくなり、命令通りに動く“操り人形”になった」とHさんは述懐している。

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同居した当初はいずれ「姉」たちも出て行くものと信じていたが、一向に退去する様子はなく虐待生活は続いた。消費者金融での借入はもちろんのこと、カードで金目のものを買わされてはすぐに全て売り払って現金に換え、両親や知人に無心して約200万円を工面してもらうなど、あらゆる金策に走らされた。その一方で偽装工作として、Hさんを前夫や前夫の親と面会させ、離婚後の生活が順調そのものであるかのように振舞わせたこともあった。

 

97年1月頃、松永と緒方に「あんたにサラ金から借りてもらった金は使ってしまい、もう残っていない。あんたの生活費に使ったのだから自分たちには責任はない。あんたは内縁でもなんでもなく、赤の他人なんだから」と言われて、当初から松永に結婚の意思などなく、2人で自分を金づるにする目的だったのだと悟った。

3月、松永の口から「電気を通して死んだ馬鹿なやつがいる」と煽られて、Hさん自身も死の恐怖に駆られた。16日3時頃、窓から飛び降りて逃走。腰骨を折りながらも這うようにして近隣の事務所に救助を求めた。松永たちはHさんを発見できず、翌日には運送業者を手配して片野のマンションに転居した。

10日後、前夫の自宅付近の路上で大きな火傷痕のある幼女が発見される。Hさんの脱出後、松永らが連れ去っていたHさんの次女を置き去りにしたものであった。

 

Hさんは身体的回復後も娘を残して自分だけ逃げ出したことで自責の念に駆られ、慢性複雑性PTSDの後遺症に苛まれ、精神病院への入院を余儀なくされた。

少女監禁が明るみとなってから警察が事情を聞くために2人の写真を見せると、Hさんは震え上がり、脱出から6年を経て尚、著しい恐怖心を示した。捜査本部からメディアに対し「女性を割り出さないように」と取材規制が厳命されたという。

 

■双子の母

監禁致傷容疑での再逮捕後、4月には児童相談所で保護された男児4人が小学校に通い始めたことを伝えていた。

11日の朝日新聞が伝えるところでは、児相職員の「これからどうしたいか」という問いかけに対し、最年長となる緒方の長男(9)は「人生をやり直したい」「あまり面白いことがなかったから。0歳からやり直したい」と話したとされる。

学校では友達も増えて「友達が多くて名前を覚えるのが大変」と笑顔で話し、施設での暮らしについて「3食温かいご飯が食べられる」と楽しそうに過ごしていることが報じられ、人々の涙を誘った。

 

3月10日に面会した父親に続き、14日に母親・Tさん(37)も双子との面会が行われていた。

面会前、このTさんに関する一部報道には、2000年7月頃、北九州市内のスナックで知り合った「野上恵子(緒方の偽名)」に夫からのDV被害を相談したところ、「子どもを連れて逃げた方がいい」と勧められて頼ることになったという経緯が伝えられていた。

野上の手引きで8月頃に家出、小倉北区のマンションで数か月暮らし、山口県徳山市(現・周南市)の飲食店で寮生活をしながら働くようになったところ、夫と思われる人物に託児所を嗅ぎつけられたので緒方に双子を預かってもらうようになった、という内容だった。そのときの話で松永に当たる男性については何も触れられていなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

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だが3月15日、徳山市で開かれた記者会見でTさんはそれまでとは異なる経緯を明かし、こどもは引き取りたいが夫の元へ戻る気はない意向を示した。

 

Tさんは、1989年頃に“探偵事務所”の電話広告を見て知人捜索を依頼する。

当時、松永は地元である福岡県柳川市で詐欺行為を繰り返していた。その標的を探すために架空の探偵会社の広告を出して、浮気問題などの事情を抱えた“獲物”を漁っていた。

松永は普段から白衣や聴診器、医学書等を持ち歩き、全国を駆け回る有能外科医で探偵もしていると騙っていた。電話を手に専門用語を交えて投薬や検温などの指示を出しながら「定期的に患者の容態を教えてくれ」等と会話し、専門書を見せながら医薬品の解説をするといった手の込んだ芝居で、Tさんはその「探偵」を医師だと信じ込んでしまった。

調査終了後も電話がきていたが、Tさんは結婚後に連絡を断った。だが96年頃、久しぶりに松永から再び連絡が入るようになり、当時悩んでいた夫のDVや姑問題の話を出すと、松永に「こどもを連れて逃げてこい」と家出を持ち掛けられたという。

家出の支度金などとして2000年から02年にかけて親の遺産1635万円を含め、生命保険の解約や消費者金融などあらゆる金策を尽くして約3000万円を支払っていた。質屋での換金の見張り役などには少女が付き添うこともあったという。

 

Tさんの場合、厳しい監禁や暴行はなく金だけをむしり取られるような状況ではあったが、

①松永が結婚を持ちかけて女性を唆す

②夫や家族と引き離す(周囲の人間から遠ざける

金を工面させる

こどもを人質にとる

といったHさんと同様の手口が見られ、その他の多くの被害者とも一致する。

Tさんは双子の養育費として月々15万円以上を支払っており、松永たちの当面の生活費のために「外飼い」「一時キープ」されていた存在と言えるかもしれない。

 

過去の報道で話したことは、聞かれたらこう話すようにと松永から予め言い含められていた虚偽の説明であった。詐欺師は相手を騙すだけでなく、相手にも周囲の人間の目を欺かせるという強い洗脳支配を及ぼして偽装工作を図っていた。

他の監禁事件でも「逃ようと思えば逃げられたのになぜそうしなかったのか」「なぜ機会があったのに周囲に相談したり通報しなかったのか」といった被害者バッシングが横行する。

しかし洗脳被害者の変質した思考判断基準において、抵抗や逃走、告発は自身の死に直結する。「自らの命を守るため」に防衛反応として逃走や告発が「できない」のである。Hさん、Tさんだけでなく、脱出した少女、そして共犯とされる緒方にもこうした洗脳傾向が明らかとなる。

 

■消えた一家

3月の段階で少女の供述の中には、自分の父親以外に「もうひとり」殺されたとする人物がいた。緒方の母親である。

 

3月14日の朝日新聞は、「両容疑者は夜逃げ屋として消費者金融業界で有名だった」、多重債務者の借金を一本化する「整理屋」などと紹介しつつ、緒方の実家について「土地持ちの兼業農家だったが、父親ら家族も96年8月、盆前の墓掃除を最後に見かけなくなった。近所の住民は『借金の返済を迫られ、夜逃げしたらしい』と話している」とする失踪に関する記事を出している。

また3月後半にはテレビ報道は減っていたが、新聞の地方版や雑誌などでは少女の証言や二人の地元取材を基にした報道などが続けられた。

 

福岡県柳川市の松永の実家と久留米市にある緒方の実家は15キロ程離れていたが、城島町にある同じ県立高校へ進学。その後、松永は不純異性交遊が原因で学校を辞め、転校した。

松永は頭の回転が速く弁が立ち、中学までは成績も優秀だったが大言壮語のホラ吹きで、相手を見て手下のように扱う「上に弱く下に強い」いじめっ子とされ、教師からの評判は良くなかった。

旧友の証言によれば、親の干渉がなかったこともあって松永の部屋は“溜まり場”だったと言い、高校に入って不良になり、男性慣れしていなさそうな女性を次々に篭絡させるスケコマシ(いわゆる「やりちん」)だった。

対する緒方は地元名家の出で、厳しいしつけを受けた「礼儀正しい優等生」と伝えられる。

 

高校卒業後、松永は実家が営む布団の訪問販売事業を継ぎ、マルチ商法的な手法で荒稼ぎし、夜の街でも羽振りが良く「10年後には柳川を制覇する」などと豪語し、82年に結婚。一方、緒方は福岡市の短大保育科を出て、82年から幼稚園に勤務。当時の保護者によれば「愛嬌のいい『よか先生』」として、別々の人生を歩んでいるかに見えた。

だが近隣住民によれば、緒方は「暴力団とのトラブルから、保証人になった親も巻き込み、相当の金額を搾り取られた」との噂があった。幼稚園を無断欠勤して85年2月頃に解雇され、実家からも姿を消していた。その後、緒方は松永の許へ転がり込み、事実上の「内縁関係」となり、経理事務員として事業にも加わるようになった。

 

90年頃には大牟田市の自動車販売店の整備士らに言いがかりをつけ、暴力団風の男10数人で取り囲むなどして4人から合わせて1500万円以上を恫喝(立件できず)。

3階建ての新社屋兼住居をつくり「ワールド」という社名に改称。画商、金融業、インテリア販売など事業を多角化させていたが多くは名ばかりの覆面事業ばかりで、実質的には詐欺と恐喝による自転車操業だった。

92年、松永の本妻はDVに耐えかねて子どもを連れて保護施設に逃走し、調停を申し立てて離婚が成立している。その夏にワールドは不渡りを連発した。柳川信用金庫で約束手形の支払い延長を求めて紛糾した松永は机を破壊し、職員を脅迫したとして告訴される。更に架空契約による数百万円の詐取なども明るみとなり、柳川署から指名手配が出される。会社兼自宅ビルを残して二人は逃亡し、北九州市などに潜伏したとされる。

緒方家は長女の純子が家出したため、妹が婿養子を迎えて跡取りとなった。しかし借金取りが訪れるようになり、97年に父親は勤めを辞め退職金を返済に充てた。同年8月、自宅と敷地を担保に農協から3000万円の借入を行い、一家は蒸発。親族は失踪届を出していたが、返済が滞ったため緒方の実家は競売にかけられていた。

 

5月6日の読売新聞は、少女の証言として、緒方家の6人ともかつてマンションで同居していたが、「(緒方の)母親はある日、口から何かを吐いて倒れ、そのまま動かなくなった」ことを伝えた。記事では「生死にかかわる何らかの事件に巻き込まれている可能性もあるとみて、福岡県警の捜査本部は所在確認を進めている」としたが、少女のこれまでの言質を信用するならば、緒方の家族にも最悪の末路が予想された。

 

“一家失踪”に松永と緒方が関与していることはほとんど事実のように伝えられたが、はたして背後に何があったのか、そもそも6人もの人間を「消す」ことが可能なのか、その真相が公にされるにはまだ時間を要した。

殺害現場とされた可能性が高い片野のマンションは現場保存のため警察に借り上げられた。ゴールデンウィーク明けには、自発的に失踪することが難しいとして緒方の妹の長女(緒方の姪)・彩ちゃん殺害の容疑でマンションの捜査令状が出され、配管や浴槽などを解体して押収・鑑定にかけられた。

 

■少女の父親

3月28日の読売新聞は、両容疑者と少女の父親との接点を報じた。

92年、両容疑者が詐欺容疑により北九州市内で潜伏先を探していたときに不動産会社に勤めていた父親と知り合い、その後も「住民票の取れない債務者の住宅のあっせん」を父親に頼むようになり、接近したとしている。

だが、松永らは「夜逃げ屋」ではなく「逃亡していた側」である。「夜逃げ」とされた実態は、HさんやTさんのように騙した女性を監禁状態に置く目的だった。自分たちの身元が割れないように偽名と他人の住民票を使いながら転居を繰り返し、口八丁で少女の父親に違法契約を認めさせていた。そして今度は違法契約の“弱み”を逆手にとって父親に強請りをかけ、次第に取り込んでいった。

 

4月1日の毎日新聞では、92年当時、少女の父親が再婚を前提に同居し、少女も「お母さん」と呼んで慕っていた女性の存在を報じている。少女の父親が松永らと急速に接近して以来、生活態度が豹変し、別居することになったとされる。 

女性には3人の連れ子が居り、父親と少女と6人で門司区のマンションで2年半余りを共に生活した。同居当初は家事も積極的に行い、子煩悩な父親だったと言い、お互いの子どもたちも2人によく懐き、生活は順調だった。父親に数百万円の借金こそあったものの、ライトバンを買ってキャンプや旅行に出かけるなど、2人の稼ぎを合わせれば暮らし向きも悪くなかった。

しかしある晩、父親が「すごく頭のいい人と知り合った。その人と事業を始める」と言い始め、コンピューター技術者を名乗るミヤザキ(松永の偽名)とつるむようになった。ミヤザキはコンピューターを駆使した競馬予想ビジネスを考案したと言い、結局女性が事務所の備品等に30万円、コンピューター関連の費用70万円を立て替えることになった。

しかし父親はミヤザキと連日飲み歩くばかりでコンピューターは埃をかぶったままとなり、女性が金を出し渋ると消費者金融に新たな借金をつくるようになった。顔色や体調は見るからに悪くなり、女性に対しても暴言を吐くようになって生活は荒み、それまでとは人も生活も一変した。

 

94年9月頃、父親は突然女性に別れを切り出して、少女を連れて社宅へ移った。別居前の最後の食事会にはミヤザキも同席していた。

席上で、少女は女性に手紙を渡した。その文面には「お母さんからいつも怖い目で見られて、いつか殺されるかと思った」と書いてあった。ショックを受けた女性は「本当にそんな風に思っていたの」と尋ねると、少女は声を上げて泣き崩れたという。

「実の子と同じように可愛がっていたのに、手紙の衝撃は10年近く経っても消えない。自分を少女たちから引き離すための手紙で、(少女の)本心ではないと思う」と振り返った。少女は監禁から脱出後の事情聴取で、6人で一緒に暮らしていたときが一番楽しかったと話していた。

 

別離から3か月後、少女の父親は姉(少女の伯母)に名義人になってもらい、片野のマンションを契約して松永、緒方、緒方の長男との5人暮らしを開始した。

尚、2002年4月8日の報道で、その伯母も、松永から「少女がトラブルを起こして逃げ出したから連れ戻すのに協力してほしい」「少女が18歳になって手が離れたら結婚しよう」と唆されて祖母宅への引き込み役を協力したことが伝えられている。少女の伯母は弟の死亡について認識しておらず、松永らの共犯者ではなく単に「利用されていた側」のひとりだった。

少女の父親もまた、他の女性被害者たち同様、こどもを人質にとられ、松永らの手練手管により孤立無援な状況へと差し向けられていたのである。

 

■見えない被害者たち

松永らは逃走・潜伏の資金を得るため、結婚詐欺を繰り返した。上で述べたように女性を孤立無援状態にして支配を強めるために複数の物件を借りていた。尚、監禁事件で2人の顔や名前が明るみとなって以降、3月時点で10数件の詐欺被害が寄せられたとされている。松永の周辺では表沙汰にならなかったケース、時効や証拠不十分などで立件されなかったケースもある。

 

1994年3月、大分県別府市の海で投身自殺をしたSさんも松永の結婚詐欺の被害者のひとりだったと見られている。

Sさんは20歳の頃に松永と一時的に交際していた。不動産や保険を扱う会社の事務員として働いていたSさんは、結婚して夫の実家で暮らすようになり、3人の子どもにも恵まれた。しかしその後、夜な夜な家を空ける日が増え、父親に借金を申し出るなど異変が起きていた。銀行口座の動きなどから、93年1月頃には松永と最接近していたものと見られている。

Sさんの父親が、子どもを放ってどこでなにをしているのかと問い詰めると、知り合いに「緒方さんという可哀そうな女の人」がいて援助が必要なのだと話した。母乳も出ずミルクも買えず生まれたばかりの赤ん坊に米のとぎ汁を飲ませている、その夫も病気で働けず…と、松永が騙ったと思しきお涙頂戴のストーリーを復誦した。

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93年5月、Sさんは実家に電話を入れ、子ども3人を連れて別府に家出をしていることを告げた。後の警察の調べでは実際にはこのとき北九州市内にいたとされ、捜索を免れるために噓の証言をしたと見られている。父親は幼子を抱えたSさんの安否を気遣って、言われるまま別府の郵便局留めでできる限りの送金をしたが、何に使い込んでいたのかは分からなかった。

家出から1,2か月してSさんの父親は捜索願を出したが、本人が警察に言って取り消したという。夫と共に別府の旅館宿を探して回ったが当然見つからず。10月、三女が椅子から転落する事故で亡くなったと連絡が入り、親は遺骨を持って帰るように説得した。しかしSさんが帰宅することはなく、後日、鳥栖駅前のコインロッカーのカギが実家に送られてきたという。その後、Sさんは残る2人の娘を託児所に預け、親に引き取りに行かせている。

 

父親が送金を止め、帰るように強く迫ると、Sさんは弁護士の名前と連絡先を伝え、そこに連絡するように言った。「弁護士」は松永による詐称と思われ、電話を掛けても「本人に伝えます」と対応されるだけだった。

Sさんが自殺する2日前、親子の最期の会話となった電話は“事故死”した幼娘の保険金の話だった。死後に分かったことだが、Sさんは消費者金融から250万円以上を借り入れ、自身の生命保険を解約して約200万円を受け取っていた。保険金と合わせて計1300万円近くを送金していたが、死後、彼女の口座には3000円の残高しかなかったという。

先に挙げたHさん、Tさんと似たような状況が想像される事案だが、Sさんは事件性なしの自殺と判断され、三女の死亡も事件として取り扱われることはなかった。

 

〈略年表〉

1989年頃、Tさん、探偵事務所(松永の架空会社)に連絡を取る

1990年・少女の父親が離婚。少女が祖母宅に一時預けられる

1991年・少女の父親が不動産会社に転職。保険外交員の女性と交際開始

1992年・4月、少女と父親が内縁女性らとの同居を開始

1992年・松永の妻子が逃走、後に離婚

1992年・松永名義のビル内で公務員が監禁、3000万円以上の詐取被害

1992年・脅迫・詐欺が事件化し、松永と緒方が逃亡。

 (松永らが逃亡先を探す中で少女の父親と知り合う)

1993年・緒方、長男を出産

1993年・Sさん、詐欺被害の疑惑(娘死亡)

1994年・3月、Sさん、水死体で発見

1994年・少女の父親が松永らと親交。姉(少女の伯母)を松永に紹介。内縁女性と別居。

1995年・Hさん家族に松永を紹介。後、片野のマンションで松永らと同居

(少女の父親が殺害されフェリーから遺棄された疑惑。失踪人扱いとされる)

1996年・3月、緒方、次男を出産

1996年・Hさん離婚、松永らと同居、監禁被害

1996年・Tさんが松永との連絡を再開

1996年・緒方の父が退職。

1997年・1月、松永ら、北区東篠崎のマンションを契約

1997年・3月、Hさん、窓から脱出して重症

1997年・緒方、次男出産

1997年・8月、緒方の父名義で久留米農協から家の改築費用名目で3000万円の融資を受ける。一家が姿を見せなくなる

1997年・9月、緒方の妹一家が玉名市のアパートに転居

(緒方の母が殺害された疑惑)

1998年・5月、緒方の妹一家4人が熊本県玉名市のアパートから行方不明

(緒方の姪が殺害された疑惑)

1999年・担保とされていた緒方家実家が競売にかけられる

1999年・緒方家の親族が知人に緒方家のトラブルを相談

1999年・10月末で緒方の妹夫婦が退職

2000年・少女、中学卒業。高校進学せずこどもたちの世話など。

2000年・8月、Tさん家出

2001年・4月、Tさん、徳山へ(のち託児所に不審電話)

2001年・8月、Tさんが泉台のアパートの名義人になり、緒方に双子を預ける

2002年・1月30日、少女、祖父母宅に逃走→2月15日、松永が連れ戻す

2002年・2月20日頃、松永が祖父母に健康保険解約を迫る。バイト先に履歴書を破棄するよう依頼。

2002年・3月6日、少女が再度脱出し、通報。監禁が発覚

2002年・3月7日、松永、緒方を逮捕

 

■親の顔

2002年6月3日、福岡地裁小倉支部で、少女に対する監禁致傷とHさんに対する監禁致傷について審理が開始された。

当初は捜査中につき証拠開示が間に合わなかったこと、少女の事件に関して「父親の殺害」を含む起訴内容があったことから、弁護側は罪状認否を保留。

 

7月31日の第2回公判で検察側の冒頭陳述が行われたが、このとき印象的な場面が見られた。少女の実名は伏せられており、緒方の2人のこどもについては実名のまま述べられたことから、緒方は「どうして私の子の実名が出なければならないんでしょうか」と抗議した。松永や弁護団もそれに追随するかたちで配慮すべきだと声を上げた結果、裁判長は「これからは長男、次男とします」と方針を改める一幕があった。

翌8月1日の西日本新聞の裁判を伝える記事では「初めて見せた“親の顔”」という主見出しが付された。 この段階で2人は黙秘を続けており、詐欺・監禁・虐待といった凶悪な犯行が露見する一方で、その人間性や犯人とこどもたちとの関係などのプライベートな側面が報じられていなかったことから、この抗議は一種の驚きをもって受け止められた。

弁護側は少女への暴行、脅迫について概ね事実と認めたものの(父親の殺害を思わせる脅迫内容については否認)、前述の通り監禁は成立せず、傷害罪のみとした。またHさんからの金銭授受については認めるものの、監禁、暴行、脅迫は否認して無罪を主張した。

 

9月初旬には、警察が大分県竹田津から山口県徳山間のフェリー航路にあたる海底を捜索。100余片の回収物を分析にかけたことが報じられ、少女の父親か、緒方の姪か、はたまた6人か、と立件されていない家族の死亡について触れる憶測報道もあった。(回収物に遺骨等は含まれていなかった。)

 

 9月18日、福岡県警は、緒方の姪・彩ちゃん(10)殺害の容疑で、松永、緒方を逮捕した(10月8日起訴)。捜査本部による記者会見では、2人が彩ちゃんを電撃死させたとする少女の供述内容の信憑性が高いとして逮捕に踏み切ったと説明。両容疑者が少女に書かせた「彩を殺害した」とする念書の存在も犯行を裏付ける証拠とされた。

1997年4月頃から翌98年6月頃まで松永らと少女は緒方の家族6人とも犯行現場となった片野のマンションで同居していたとし、98年6月7日夕方頃に凶行に及んだものとした。また逮捕当初に弁護側が述べた被疑者らの弁解内容について、2人は否認していることが明らかとされた。

これが両容疑者にかけられたはじめての「殺人」容疑であり、「少女特異監禁等事件」とされていた名称は「監禁・殺人等事件捜査本部」に変更された。

 

翌19日、殺人容疑での逮捕は新聞各紙で取り上げられたが、新たな問題も発生した。

小野一光氏の連載記事#18によれば、福岡地検記者クラブに所属する記者らを緊急に招集したという。このとき新聞で父親の氏名が公表されたことに、少女が大きく動揺したため、父親の実名や少女の素性に関する報道は控えるように要請があったという。警察が捜査に支障をきたすとして報道規制をかけることはあるが、地検が報道陣に対してそうした要請をすることは異例とされる。

警察、検察は半年をかけて少女と信頼関係を築いてどうにか幾つかの立件までこぎつけたものの、依然として少女の証言は必要不可欠であり、裏を返せば犯人の自供も、殺害を裏付ける決定的な証拠も揃っていない実情があった。

彼女自身、驚くべき記憶力と精神力でここまで捜査協力に努めてきたが、心身ともに想像を絶するほどの苦痛を長期間受けており、他の被害者同様にPTSDを負っており、周囲の反応に動揺するのも当然のことと言えた。

事件そのものの残虐性・凄惨さもさることながら、保護対象となる未成年被害者の多さや被害者たちに残るPTSD心的外傷後ストレス障害)への配慮、また事件関係者の多さに比してカメラの前に登場できる人物の少なさ、警察、検察、弁護団側からの度重なる自粛要請などが「テレビ向けではない」と判断された事情といえるかもしれない。

 

10月12日には、新たに緒方の父・譽(たかしげ)さん殺害の容疑で2人を逮捕した。時期は1997年12月下旬とされ、手口は通電による感電死で、彩ちゃん同様に解体して大分県沖に遺棄したものと説明された。2人は例によって被疑内容を否認した。

 

■ふたつの転向

しかし10月23日、松永・緒方の弁護団記者クラブ向けにコメントを発表した。緒方本人の意思により「私の家族のこと、松永のことを考えて、事実をありのままにお話する気持ちになりました」と話しており、これまでに出た報道内容そのままをすべて認めるのではなく事実を正確に供述したいとの申し出があったという。

これまで共に黙秘を続けていたことから同一の弁護団であったが、解体されて新たに弁護団が選任されることとなった。緒方は新任の弁護団に対して、法廷できちんと対応するので接見内容については喋らないでほしいと口止めし、転向の理由についても上の文言以上の説明はなされなかった。

 

以後、松永も黙秘を続けるわけにはいかなくなり、捜査官からは緒方の供述の裏付けを求められ、調書作成に応じる姿勢を見せた。緒方家6人を片野のマンションに住まわせていたこと、少女の父親を含む7人が死亡したことを認めつつ、犯行については「自分に殺す動機はない」「殺害の指示を出してはいない」「殺害に関与していない」「不慮の事故ないしは緒方とその家族がやった」とする主張を行った。

11月22日、松永の弁護団による定例会見では、松永が主張する“親族の死亡事故”を秘匿した理由について、柳川時代の指名手配があったため、自分たちの身元判明をおそれたためだ、と説明された。最初に“事故”で亡くなった緒方の父・譽さんの遺体を細かくして海に投棄したことに関して、松永は「死者を弔う“水葬”の意味があった」などと主張。

さらに電気コードを使用した“通電”についても供述は及んでいた。以前はコードが剝き出しで皮膚がケロイド状にただれたが、自分がコードの先にクリップを付ける“改良”を加えたことで、少女にも傷痕こそ残ったがケロイド状になるほどではなかった、とさも自分の手柄であるかのように述べた。公判では通電理由に「学校の先生が𠮟るときに生徒にげんこつするのと同じ気持ち」と表現している。

だが豊田正義『消された一家』によれば、通電コードは元々は松永の会社にいた元従業員があそびで考案したもので、当初は痛みも「チクリチクリ、ピリピリする程度」の微弱電流に調整された代物とされる。それを面白がった松永は威力を最大級にするため導線を剥き出しにして、従業員らに対する拷問器具へと変貌させ、愛用するようになったという。事実、調べを受けた元従業員の腕や脚などには“改良”前に受けた痛ましいケロイド痕が残されている。

 

松永の供述は日常的な虐待、通電については認めつつ、殺害の場面に話が及ぶと「緒方家の問題」なので自分は居合わせず、緒方や緒方の家族から事後に聞かされて驚いた等とする、奇妙なほどに松永が殺害に「関与しない」ストーリーが展開されていく。

少女の証言と緒方の供述は近しいものであったが、松永の供述内容はそれらと大きく異なっていた。(後に松永は緒方と警察がグルだとして、緒方のストーリーありきで裁判を進められたとして「冤罪」を主張する。)

緒方が報道に対する不満と事実を示したいという心境に至ったのに対して、松永は「詐欺師」として頑として殺害を否認する証言をでっち上げるという対照的な転向を示した。自分に都合よく物事を解釈する歪曲や誇張、事実の矮小化、法廷での茶化した表現など信用性の低い証言を続けており、筆者にはそうした詭弁や被害者への侮辱にさえ思える発言を記す度量はない(そうした“松永劇場”については豊田氏の著書などに詳しい)。

その後、松永が緒方に罪を擦り付けるような供述をしていることを伝えられた緒方は「ああ、そうですか」と淡々としていたという。松永の性分を知り尽くしている緒方からすれば想定の範囲内といった反応とも取れるが、そうした肝の座り方にも絶望を味わい尽くした人間の底知れなさを感じる。

 

逮捕、起訴、裁判のながれに沿って記述すると時期や順序が前後して理解しづらい面もあるため、以下では少女の証言と緒方の供述、裁判で明らかにされた内容を基本的な事実として、時系列に沿った筋書きにしてみたい。

 

 

■ 家出と三角関係

松永と緒方は同じ高校に入学したが、在学当時は全く交流がなく、実際に知り合ったのは卒業後の1980年夏頃のことだった。

松永からの「きみに借りた50円を返却したい」という奇妙な電話がきっかけとなって、2人は出会う。緒方に金を貸した覚えはなく、断ろうとしても松永の方がどうしても折れようとはしなかった。男は卒業文集を見ながら電話を掛けており、女に会うためについた出まかせであった。

厳格なしつけを受けた箱入り娘だった緒方は、このとき男性との交際経験がなかった。高級車に乗って現れた妙に垢ぬけた男が自分を口説こうとする素振りに対して、却って警戒心を強め、軟派な誘惑には乗らなかった。

一年後、緒方はまたもや松永から電話で無理矢理呼び出され、交際相手と近々結婚することになったと告げられる。緒方に恋愛感情はなかったため、嫉妬もなく淡々と話を聞くだけだったが、帰り際に車中で強引にキスをされた。このときもそれ以上のことはなく門限までに2人は別れた。

82年1月25日、松永は高校時代から交際していた年上の女性と結婚した。翌年、女性は松永との間に男児を出産するが、妊娠中の82年10月頃に松永はまたしても緒方と接触し、そのときはじめて肉体関係を持った。

この松永の緒方に対する執着は恋愛感情だったのか、攻略できないゲームをどうにかしてクリアしたいというような欲望だったのかは分からない。「望んでした結婚ではない」「妻のお腹の子は自分の子じゃない」と結婚の不満を語り、その後も人目を忍んで不倫を続けた。

 

後の裁判で緒方は「恋愛に溺れてはいけないと自制はしていました」と語り、両親の期待に沿うために養子縁組をしなければならないことも頭にあったと説明。それでも親が決めた相手以外の男性と「結婚するまでに一度くらいは恋愛経験をしてみたい気持ちもあった」と当時の心境を吐露している。旧家の慣習に束縛された緒方には、「妻の父親に事業の資金援助をしてもらったので、別れたくてもすぐに別れられない」と嘆く男に対して親近感も芽生えていたのかもしれない。

緒方から家への不満や結婚に対する意識などを聞き出すともに、家柄や資産状況を把握した松永はすでにその矛先を女の「家」へと向けていた。「離婚が成立したら結婚しよう」「きみが家の犠牲になるのはおかしい。家を出られないのなら、自分が仕事を辞めて緒方家に入る」などと求婚のアプローチを受け、高価なプレゼントを贈りながら自分に滾々と愛情を注ぐ松永への想いで緒方も冷静さを失っていった。

 

84年秋頃、緒方が妻子ある男性との交際を叔母に明かしてしまい、両親にも不倫関係が知れるところとなり、当然大反対された。叔父は、松永が緒方家のみならず母親の実家の資産状況まで調べていることを察知し、男の狙いは財産だと緒方を叱責。松永側も「お前の家族は俺を信用していないのか」と憤慨し、母親に会わせるように迫った。

やむなく佐賀県内の料亭で顔合わせをさせると、松永は緒方への真摯な愛を語り、軽妙な会話で母・静美さんの笑いを誘って心象を一変させた。その後、父・譽さんの前でも好印象を与え、両親は松永との関係に強く反対はしなくなり、静美さんに至っては松永の良いところを親類に話し聞かせるほど前向きだった。男女は婚約の確認書を交わす。

 

裁判での検察側冒頭陳述によれば、この時期、松永は「緒方の行く末を案じていた静美さんに、人目のないところで別れ話を相談しようと持ちかけてラブホテルに連れ込み肉体関係を結ぶようになった」とし、その頃から静美さんは交際に反対しなくなったとされている。

松永はこれを静美さんの方から積極的に誘ってきたと話し、当時それを信じた緒方は「同じ血が流れているのが嫌になる」と憤慨した日記をつけている。後に緒方は法廷で「松永は女を道具にする人ですから、合意による関係ではなく、強姦という形で関係を持ったのだと思います」「もし松永との関係を続ける中で、母が女としての喜びを感じる瞬間があったとしても、私は母を憎みはしません」と静美さんを擁護している。肉体関係があったのか、強姦か任意の性交かを確かめる術はない。

松永は法廷で、緒方への暴力を振るった大きな要因として、静美さんから緒方の男関係などを吹き込まれていたからだとする主張を行い、加害の責任を母娘の確執へと転嫁している。

 

男はそれまでの献身的な態度を豹変させ、「お前のせいで妻に不倫がばれた」「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ」等と責め立てるようになり、緒方が男友達の話を出すと過去を詮索し、激しく糾弾して暴力を振るうようになった。

緒方は松永の信用を取り戻したいと必死の思いで、言われるがまま友人や親類に嫌がらせの電話を掛けて人間関係を自ら断っていった。「どうしたらいいの?あなたの言う通りにする」という当時の緒方の心理状態を、豊田氏は「典型的なバタードウーマン(DVの被害女性)の心理状態」と指摘している。その年の終わりごろ、松永は自分への愛情の証として、緒方の右胸に煙草の焼き印で、右大腿部に安全ピンと墨汁で「太」の名を刻むことを強要し、緒方はそれを承諾した。

虐待による自己嫌悪、周囲の人間との断絶によって心身が追い詰められていった緒方は、幼稚園勤めを続けながらも、夜毎の罵倒と暴力、セックスを松永の「愛情」として耐え忍んだが、85年2月、勤務中に貧血を起こして倒れた。

「こうなったのも全部自分が悪い」「大切な人たちに迷惑をかける自分などいなくなった方がいい」と思い詰め、2月13日、睡眠薬数錠を服用した上で左手首を切ってバケツに浸け自殺を図った。家族の発見により病院に搬送され、一命を取り留めたが、女はかつて思っても見なかった煉獄ともいうべき人生に身を落としていく。

〈略年表〉

1978年・松永、緒方が同じ県立高に入学(後、松永は転校)

1980年・緒方が短大保育科に進学

1980年・松永、大学中退後、父親の布団販売業を手伝う

1980年・松永が卒業文集を見て緒方に連絡を取る

1981年・松永が布団訪問販売会社「ワールド」設立

1982年・1月、松永が結婚

1982年・緒方、短大卒業後、幼稚園に勤務

(10月頃、松永と緒方が肉体関係を持つ)

1983年・少女の父親が結婚

1984年・少女生まれる

1985年・緒方、分籍して松永の許へ 

 

 85年2月15日、松永は入院していた緒方を福岡県三潴(みずま)郡にあった社宅アパートに連行して、顔を殴りつけ「自殺は狂言だろう。周囲にも迷惑をかける」「残された家族がどんな思いをすると思うか」と説諭した。緒方は松永の言葉にショックを受けるとともに人間的な敬意を抱き、親元を離れて松永と一緒に生きていくことを決意し、そのまま居ついて幼稚園の教職も捨てた。

3月には2人で緒方の実家に赴いた。緒方は「念書を貰えなければ自殺する。ソープで働く」と世間体を気にする両親を脅し、松永も「このまま放っておいたらまた自殺しようとするかもしれないし、ますます堕落する。自分の言うことなら聞くので、自分に預けてくれれば責任は持つ」と言って、両親に長女の分籍を認めさせた。

 4月には久留米市の別のアパートに緒方を移し、松永は柳川市から日を空けず通うようになった。人間関係を断ち切り、完全に松永の庇護下に置かれた緒方は益々依存を深めていった。女はそれまでの人生を一切捨て、男と手を携えて新たな人生をやり直そうと藻掻いていたのかもしれない。

 

■ワールド

81年5月頃、松永は布団販売会社「ワールド」を設立し、実質的な経営者として振舞った。設立当初こそ父親から引き継いだ顧客もあって、高級布団を月に30組売り上げて1000万円程の利益を上げたが、いつまでも同じように売れ続けるはずがない。

松永は暴力団との関係をちらつかせて逃げても無駄だと従業員たちを脅し、知人や親族に「会社が潰れそうだから助けてくれ」と泣き落としで強引な売り込みをかけさせ、断られれば脅迫や詐欺まがいの手を使ってでも契約を結ばせた。

さらに名義貸しや架空契約をさせて形式上の「売上」をつくらせ、従業員に借金を強制して支払いを立て替えさせることもあった。そうした違法契約のために松永は信販会社の担当者を接待して、証拠写真を強請りのネタに使い、顧客の信用審査を甘くしたり、契約の決裁を早くさせるなど融通を計らせていた。

小野氏による文春記事では、ワールド時代の松永に影響を与えた人物として、オレオレ詐欺から結婚詐欺、金融、投資といったあらゆる詐欺に通じていた親戚の“Zさん”に注目している。若い松永に地元ヤクザや権力者に関する情報を与え、詐欺のノウハウや偽装工作を仕込み、カモの紹介なども行った。松永の親類は(後の「松永太の長男」を除き)一切取材には応じておらず、存命中、どこまで松永に関わっていたか等は伝えられないが、“詐欺師”としての松永を育てた、いわば指南役ともいえる存在と見られている。

 

脱走者も多く、常に新たな従業員を補充する必要があったため、支払い能力がない人間に自社で働くように仕向け、“生け捕り”にすることもあった。十二畳一間の共同部屋に連れ込むと、従業員たちに先ずリンチさせて反抗心をへし折って服従させた。一方では、従業員たちを犯罪行為に加担させることで共犯関係をつくり外部告発されにくくする狙いがあった。

販売実績の乏しい従業員には他の従業員たちからも容赦なく暴行を加えられ、食事の制限や水風呂など過酷な虐待が待ち受けていた。日頃から従業員を順位付けしておくことで反乱を抑え込み、いつ自分がやられる側になるか分からない環境で相互不信に陥った。彼らは常に松永の顔色を窺うようになり、互いに監視し合っていたため不満を抱いても結束して抵抗できない状況下に置かれていた。

もはや従業員とは名ばかりの松永の“あやつり人形”のようにも思えるが、小野氏の取材した元従業員のひとりは、松永への恐怖心とともに憧れや尊敬のような感情もあったと話す。大言壮語を掲げ、とっかえひっかえに愛人をつくり、他人から金を騙し取ることに躊躇しない松永は、従業員から「ヤクザの親分」のように尊敬されていたという。そのやり口は、報酬以上に過酷な労働を強いるブラック企業どころではなく、実質的には問答無用に犯罪行為に引きずり込む、まさしく暴力によって支配された反社会集団であった。

 

やがて顧客の支払いが滞納されるなどして信販会社からも契約を解除され、84年頃には経営は傾いていた。しかし、両親の反対を押し切って父親名義で銀行から5000万円を借りて事務所兼自宅の3階建てビルを新築。1階には家族が住み、3階には緒方を住まわせるようになった。この時期に「電気」が拷問道具に採用されたとされる。

経理や金融機関との交渉を任された緒方も、知人に詐欺商法を仕掛けて金を掠め取った。不出来があれば松永から容赦ない暴力を受けてはいたが、従業員からすれば「金づる」として使い捨てにされた他の愛人たちとは一線を画した「姐さん」的存在だったという。チョップで喉を潰されたり、正座にかかと落としをされて太腿の筋を傷めて歩けなくなることもあった。傍から見れば理不尽な暴力にも緒方は抵抗どころか声も挙げず「自分が悪いからだ」として甘んじて受け入れる特異な存在だった。

バットによる殴打か膝蹴りかで緒方が膵臓を傷めてのたうち回って入院した際、激しい虐待の痕跡を認めた病院から警察に連絡が回り、松永が出頭要請を受けた。同じくDVに怯えていた元妻は「ああ、これで終わった。みんな暴力から解放される」と安堵したというが、数時間の聴取だけで松永は帰ってきた。元妻はその後、松永の支配を逃れるために家を出、緒方が内妻に収まる。逮捕状が出されて逃亡生活が始まる直前の92年はじめ、緒方は松永の子どもを身に宿していた。

 

■最期のエゴ

松永は堕胎を勧めたが、緒方の出産への意志は固く、逃亡中の93年1月に長男を出産した。その後、松永は「こどものために」更なる犯罪に身を染めるように緒方を誘導することになる。詐欺師の目から見ても緒方の「我が子に対する情愛」は目を見張るものがあったのか、とりわけ人妻を誘惑の毒牙にかけて子どもを人質にとるようになった。

 

ここで裁判中の緒方の転向について私見を述べてみたい。基本的には、父・誉さんの殺人罪容疑での逮捕直後に態度を変えたこと、譽さんへの確定的殺意を否認して傷害致死を訴えたことから、“父親殺しの否定”が転向の動機だと捉えられている。

緒方の我を曲げない性格からして捜査当局の筋書きに対して「そうではない」と強く訂正を求めたかったことは確かである。だが両親や妹夫婦、何の罪もない姪と甥への贖罪の意識とともに、積極的に自白することになった動機としては“親としてのエゴ”があったのではないかと思う。

幼稚園での児童との触れ合いは当時の彼女にとって被虐待生活を忘れさせる唯一の時間であり、その後の詐欺・逃亡人生においても「二度とやり直せない」人生経験として特別な意味があったはずである。何の罪もない、未来に開かれた存在としてのこどもたちは、社会にとっての希望であり、自己嫌悪に苛まれていた緒方にとって心の救いであったに違いない。

また松永と不倫を始めた当時は、家柄や両親に対する疎ましさや恨みが強かったが、はたして彼女は「家」のためではない生き方を選び、結婚をせず「私生児」として子どもを産んだ。その決断に至る背景には、自分の家庭以外にも様々な親子関係を垣間見てきた経験から、何かしらの理想の子育て像もあったのではないかと想像される。自分を縛り付ける忌々しい「家」との決別であると同時に、婚姻による「新たな呪縛」を我が子には課したくないという思いもあったのではないか。

 

松永にとって自分の血を分けた子どもたちにどれほど関心があったのかは多く伝えられないが、長男を抱っこする写真が残されていることや通電虐待を加えていない事実からも、少なからぬ愛着はあったと考えられる。あるいは松永なりの緒方への敬意や愛情表現として「我が子に危害は加えない」という一線を守ったとも言え、仮に我が子に手を出せば緒方が反旗を翻すおそれも感じ取っていたかもしれない。

だが緒方は我が子をして自分と同じような道を辿らせたくはなかったに違いなく、勝手な想像にはなるが緒方家のみならず「松永の子」にもしたくはなかったのではないかと筆者は考えている。

厳しくしつけられ、家柄から、親に敷かれたレールの上から外れることの許されなかった箱入り娘は、残虐極まりない松永の“あやつり人形”へと人生を一変させた。しかし家のものでも松永のものでもない緒方がかろうじて守ってきた権利、プライド、最後に残されたアイデンティティこそが“子どもたちの親であること”だった。

 

緒方は自らの罪状を認識しており、殺人罪で起訴されてからは死刑を受け容れる心境でいた。自分の身はこの際どうなろうとも残された我が子に対する心残りはあった。憎しみの果てに起こした自分の行いが結果的には家族を死に導いたものの、両親から受けた愛情を振り返れば、悲しみや後悔とともに彼らへの感謝もあったのだろう。

自分が黙ったまま死刑になれば、我が子らは親を愛することも信じることもできない。愛してくれ信じてくれとは言わないが、最低限自分の間違いを認めてけじめをつけてから子どもの前では親らしく死にたい、と決心したように感じられてならない。彼女を男の許に縛り付けた鎖もこどもなら、獄中で男の精神的支配から解放したのもこどもだったと私は思う。

 

■消失

92年以降、松永らは北九州市内で少なくとも6か所以上の潜伏先を移っており、Sさんの自殺直後にも捜査の手が伸びることを恐れて転居することになった。それらの仲介を行っていたのが少女の父親で、契約の際、緒方が他人の名義を使用していても詮索してこないため松永たちの贔屓となっていた。捜査が及ばぬようにしたい緒方の要望から、父親は退去点検の便宜を取り計らい、敷金で返却された10万円を受け取っている。

そうした男の職業倫理や金に関するいい加減さは、松永に付け入る隙を与えてしまう。94年4月頃、競馬予想ビジネスをする投資して一儲けしないかという口車に乗せられた少女の父親は、女性と別れて父娘2人暮らしを始めた。

しかしすぐに言われるがまま少女を松永たちの元へ預け、月16万円という高額の養育費を搾り取られることになる。仕事が終わると片野のマンションへ行き、21時頃から明け方まで酒宴に興じる生活を送った。

少女の父親は酒が入ると無頼漢気取りになる悪癖があった。酔っ払った際、仕事での自らの不正行為について話してしまい、松永に「事実関係証明書」を書かされて、まんまと強請りのネタを与えてしまう。

さらに職場で発生した窃盗事件についても松永に「自白」を強要され、果てには娘に対する性的暴行を認める証明書まで書かされている。松永のビジネスパートナーになるつもりが、まんまとあやつり人形にさせられてしまったのである。

 

少女は裁判で、事実関係証明書を書かせる松永の手口について証言している。松永は少女に父親がした悪事を証言させていき、10個なら10個言わないと怒られるため、返答に窮した少女は「嘘」の悪事をでっちあげる。それを松永が採用して、父親が詰問を受けた。いつしか父親の監視と悪事の報告が少女に課される「仕事」になっていった。

水を満たした洗面器に娘の顔を近づけ「認めないなら娘を水に浸ける」と脅されて、父親は我が子を守るために、たとえ嘘でも無実でも悪事を認めるほかなかった。「少女に対する性的暴行」も少女が言わされ、父親が認めさせられた「嘘」のひとつで、そうした「事実関係証明書」は父親の死後に大半がシュレッダーにかけられたが100枚近く存在していた。

緒方によれば「松永は酒の肴に通電している印象があった。通電理由は些細なことばかりで覚えていない」と語る。通電の前には通電される理由が述べられ、説教や尋問を交えながら1時間以上に渡って続けられた。終わると松永は「ご苦労さん」と言って酒を振舞ったという。

 

そんな生活が長続きする訳もなく、少女の父親は職務怠慢で固定給を下げられ、歩合給を得ることも難しくなり、95年2月頃には勤務先を辞職。松永たちのいる片野のマンションで同居するようになる。

米か麺、あるいはカロリーメイトやバナナだけといった粗末な食事を1日2回、制限時間数分の内に完食することを強要された。制裁として数日間与えられないことや大量の水ばかりを与えられることもあった。食事というより餌、栄養補給というよりも人としての尊厳を失わせるための罰ゲームであった。

松永は、同居当初78キロほどあった父親の体重は半年で50キロ程にまで落ち込んだが60キロ台まで回復したと嘯いたが、裁判では「医学的にあり得ない」として却下されている。12月頃には異常な言動やろれつが回らないことが多くなり、歩行も困難になっていった。

食事の最中にも耳や顎にクリップを付けられ、通電を受けて口の中のものを吹き出すと、「もったいない」と𠮟りを受け、拾って口に詰め込まされた。不潔が嫌いな松永は、父親に冬でも冷水シャワーは毎日浴びさせ、着替えがないため洗濯中は全裸で乾くのを待たされていた。排泄も制限され、小便はペットボトル、大便は日に一回と決められていた。我慢できずに大便を漏らすと罰として便を食べさせられ、尻を拭いた紙まで水を与えて飲み込ませた。パンツに付いた便までチュウチュウと吸わせられていた、と少女は人間扱いされていなかった父親の姿を証言している。

 父親のいびきがうるさいとして「檻」と呼ばれる玄関に設けられたすのこ板でできた囲いの中で父娘揃って体育座りで眠らされ、その後、所定位置は浴室になった。移動させられるときは「床が汚れる」のを嫌った松永は、足元に新聞紙を引かせた。冬でもごく稀に暖房の使用(布団乾燥機で代用したが効果はほとんどなかった)や毛布を与えられるだけで、新聞紙5枚を掛けて寝るのが当たり前だった。

父親は少女が学校に行くときも帰ったときも浴室に立たされていた。少女も在宅中は父親と共に深夜まで立たされ、朝になると学校に通う生活を送った。少女も学校給食こそあったが、栄養状態やストレスの影響からか貧血や吐き気、生理不順など発育不良が慢性化していた。

 

松永は「金をつくれ」と直接口にはしなかったが、金を要求していることを相手に忖度させるように追い詰め、少女の父親もあらゆる手を尽くして1000万円ほどの金を工面した。当然、貸してくれる相手もいなくなり、当初は心配していた友人・知人も離れていく。金が作れなくなると通電虐待は一層凄惨さを増し、指に直接導線を巻かれての際には肉が溶けてケロイド状になり、骨まで見えるほどで応急処置こそ試みられたが指と指が癒着してしまった。

父親は通電の影響から自力で両腕を上げられなくなり、食事にも娘の介助が必要となった。「手首から白い糸が出ている」などといよいよ言動が怪しくなっても、松永は病院へ連れていくどころか「リハビリ」と称して通電を与え続け、命じられる緒方も手加減ひとつしなかった。少女は2人が悪魔に見えたと話す。あるときには通電された父親の気がふれて、「いつも娘がお世話になっています。ここまでやってこれたのは宮崎様(松永の偽名)のおかげです」と土下座した。1年程の同居生活で変わり果てた少女の父親に関して、緒方は「廃人に見えた」と率直に述べている。

 

1996年2月26日、学校から帰宅した少女は、浴室で父親が漏らした大便の片付けを命じられる。その時期には父親は痩せこけて全身に痒疹(ようしん)と瘡蓋(かさぶた)ができ、骨や筋と目玉だけが浮き出て表情はなく、抵抗の意思や気力など消失した「生ける屍」のような状態だった。

緒方の証言では、娘が浴室を清掃する間、父親は自力で台所へ移動した。その後、浴室へ戻すと、あぐらをかいて頭を垂れて両手を前に伸ばす前屈のような姿勢のままほとんど動かなくなり、突然、グォーグォーといびきのような音を立てて昏睡した。

異常を察知した松永は「あんたがご飯を食べさせてないけやろうが」と緒方を責め、台所に出して仰向けに寝かせた。そのときにはいびきは止み、目を閉じていた。松永は呼吸、心音、脈拍、瞳孔の状態から死亡を確認したが、暖房器具で体を温めたり、人工呼吸をしたり、心臓マッサージや足を揉ませたりといった「救命措置」を行った。蘇生の可能性にかけて何度か通電も行ったが、父親は再び目を開くことはなかった。

その後、松永は飲酒をしながら「掃除のときに浴室で頭を叩いたから死んだんだ」と少女に責任を被せるなどして、その旨の事実確認証明書を作成した。日頃から少女に命令して父親の体を噛み付かせていたことから、「あんたの歯形が残ってるから、病院に連れて行けば警察にバレて逮捕される」と脅かした。「バラバラにして捨てるしかない」と緒方と少女に解体を命じ、死因を特定するために臓器や脳みそを取り出して観察したりもしたが素人目に分かるはずもなかった。

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シャワーで血抜きをして解体し、出来るだけ細かく刻んだ肉片や臓器を長時間鍋で煮て柔らかくなったものをミキサーにかけて液状にすると、ペットボトルに詰めて公園の公衆便所に流させた。粉砕した骨や歯は味噌と一緒に団子状に丸め、クッキー缶10数個に詰め込んで、後日フェリーから遺棄した。解体に使ったノコギリや刃物は川に捨て、衣類はシュレッダーで刻んで廃棄、風呂場にはビニールを敷いて作業をしていたが更に念を入れて掃除した。父親の死後およそ1カ月をかけて、3人はその痕跡を消した。解体完了の翌日、緒方は病院に担ぎ込まれ、次男を出産した。

 

臨月で解体作業を続けた緒方の信念にも異様さを感じるが、これも出産に間に合わせるため、(松永の虐待への懸念から)こどもを守るために作業を急いだと見ることもできる。緒方は生前に少女の父親を実家に帰してはどうかと松永に提案していたことを後に明かしたが、それは人命を守るためではなく「面倒を看るのが嫌だ、不経済、長男の教育によくない、不衛生、精神的な負担が大きい等の理由」と説明された。金を作れなくなった段階で、2人にとって少女の父親は役立たずの邪魔者でしかなかった。

松永には「記録」を取る癖があった。写真で数々の強請りや詐欺を行い、事実関係証明書を書かせては脅迫を続けたように、父親との監禁生活の最中も多くの写真が撮影されており、皮肉なことにそれが虐待と衰弱の「証拠」として多く採用された。

緒方が黙秘を続けていた当時、捜査官に瘦せ細った少女の父親が虚ろな目で蹲踞させられている写真を見せられており、公判で「(当時、死ぬとは思っていなかったが)客観的に見て『ああ、死んでしまう』と思うくらいひどく、自分たちがやってきたことについてショックを受けた」と語っている。

少女の父親は、ときに松永の懲罰の対象となるような緒方の失敗を庇って自らを犠牲にしたり、刻々と死に近づきつつある悲惨な状況下にありながら「元気な赤ちゃんを産んでくださいね」と緒方に声をかけたことさえあったという。

 

公判では、1994年6月から96年1月頃までに撮影された少女の父親の写真資料9点(偶然写り込んだものも含む)と各供述とを照合して、医師による健康状態・死因の鑑定が行われた。肝・腎機能障害等の多臓器不全、栄養失調によるビタミンB群等の不足により末梢神経障害を発症し、アンモニア等の有害物質が処理されずに脳神経障害に至って言語障害、心理異常に至ったとする知見を述べ、殺人罪の実行行為に該当すると推認。

被告人らが行った人工呼吸等の「救命措置」は、父親の身体に異変が起きていても虐待を続け、生活改善を行わずに衰弱・悪化させた「殺意の認定」の事情に比べれば微々たるものでしかないとされた。

 

(下リンク、後半へ続く)

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 

 

 

参考

■小野一光氏による文春連載記事。記者目線で追う捜査の舞台裏が臨場感たっぷり。相関図が大変分かりやすかったので真似させていただいた。

「5分以内に爪を剥げ」監禁少女の脱走に激高した男はラジオペンチを手渡した | 文春オンライン

10人の連続殺人犯の声を綴った 『連続殺人犯』(文春文庫)では、松永との拘置所でのやりとりに焦点を絞り、その心性を「屈託のない悪魔」と表現する。

連続殺人犯 (文春文庫)

連続殺人犯 (文春文庫)

 

■豊田正義氏による渾身の犯罪ノンフィクション。DV関連の造詣に深く、凄惨極まりない虐待描写や複雑に絡み合う人間関係とその情念が精緻に描出された“血なまぐさい”一冊。法廷を爆笑させたという「松永の松永による松永のための」物語に興味がある方は必読。

■Electrical Abuse and Torture: Forensic Perspectives, Ryan Blumenthal and Ian McKechnie,2017 https://www.researchgate.net/publication/319402365_Electrical_Abuse_and_Torture_Forensic_Perspectives

■一審判例https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/111/008111_hanrei.pdf

北九州連続監禁、緒方被告の無期懲役確定へ: 日本経済新聞