いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

謎多き失踪—名古屋母子同居男性行方不明事件

愛知県で起きた母子と同居人男性との謎多き失踪。坂本弁護士一家殺害事件と同時期に話題となり、オウム真理教との関連も囁かれた。

 

事件の概要

1989年(平成元年)7月26日(水)、愛知県名古屋市千種区城山町に住む無職・ルメイヤス科乃(しなの)さん(30歳)と長男・達来(だらい)くん(3歳)の所在が分からなくなった。また母子と同居していた無職・長尾宣卓(よしたか)さん(34歳)も母子の後を追うように消息を絶った。

テレビ朝日『緊急生放送!謎の未解決事件大追跡』1995年放映

科乃さんは1985年にオランダ人男性と結婚し、「ルメイヤス」姓に変わった。長男達来くんを出産後、88年4月に母子は帰国して夫と別居することになったが、婚姻関係は解消していなかった。長尾さんとは89年のはじめにキャンプ先で知人を介して知り合ったとされ、自然食や環境保護などの関心分野が同じだったことから意気投合した。知り合った当時の長尾さんは名東区に住んでいたが、3月頃から母子と同居生活を送るようになった。

 

母子が姿を消すことになる7月26日午後1時頃、科乃さんは母親の勤め先を訪れ、一か月分の生活費を受け取った。父親は福井県に本社をもつ「北陸製薬」の子会社社長を務めており、科乃さんは一人娘、達来くんは唯一の孫であった。定職に就いていなかった彼女は親許から経済的援助を受けており、毎月20万円程を現金で受け取っていたという。

午後3時半頃、父親が科乃さんに電話を入れると、「27日の夜から4~5日、四国へ『塩の祭り』を見に行く。自分のワゴン車で長尾さんに連れて行ってもらい、向こうでキャンプをする」と旅行の予定を知らせた。

 

科乃さんは隣に住むニュージーランド人夫婦にも四国に旅行に出ることを話しており、そのとき変わった様子はなかったが、夜9時すぎに別れたのが母子の最後の目撃情報となった。

だがニュージーランド人夫婦は、翌27日は「朝には物音ひとつせず、ひと気がなかった」と言い、28日か29日になって長尾さんが家に一人でいることに気づいた。不思議に思って長尾さんに尋ねると、自分は後から行って科乃さんたちと合流する予定だと話した。

また借家の大家の話では、27日か28日に長尾さんから「家賃を振り込みたい」と電話があったという。大家が「すぐに口座番号が分からない」と答えると長尾さんは慌てた様子で「二人は旅行に出ていて自分も後から追いかける。明日にもまた電話する」と話していた。しかし、それ以来長尾さんからの連絡も途絶え、どこへ行ってしまったのか家には戻らなかった。

 

音信不通で自宅にも戻らない、生活費さえ受け取りに来ない科乃さんたちを心配した父親は、9月11日になって捜索願を提出する。

その後の調べで科乃さんが使用していたワンボックスカーが名古屋空港近くの駐車場で発見された。車は7月29日午後3時頃から8月10日までの予定で預けられていた。受付担当者によれば、30歳代とみられる男性が一人で訪れ、9000円を前払いしたと言い、そのとき「福岡に行く」と話していたという。

今日の県営名古屋空港の定期路線は国内便のみだが、当時は国際線の就航もあった。だが科乃さんのパスポートは家に残されたままで、名古屋空港の搭乗者名簿も調べられたが三人の渡航履歴は見つからなかった。両親は「塩の祭り」にも確認を取ったが、彼女たちは参加していなかったことが分かった。

しかし見つかった車内にはパッキングされた旅行支度やキャンプ用品、食材を持ち運ぶために友人からもらった発泡スチロール箱や新調した革製サンダルなどが残されていた。また自宅のくずかごからは科乃さん直筆の旅行計画のメモ書きも見つかり、旅行計画は実際に念頭にあったものと考えられた。

父親は科乃さん母子が「突然身を隠すような心当たりはない」と語り、旅行の直前になって不測の事態に遭遇したものと想定された。

 

痕跡とその後の捜査

11月18日、警察は科乃さんの自宅2階の6畳居間の畳と布団に血痕を発見した。畳は20センチ四方程度の範囲で床下まで浸みこんでおり、押し入れの布団には2センチ四方のシミができていた。

血液型はいずれも科乃さんと同じB型、その量は最大で牛乳瓶1本分(200ml)程度と推定された。捜査一課は「量的に少なく、すぐ凶行には結びつけられない」と説明し、殺害があったとは断定されなかった。

手掛かりのひとつとして「遺伝子構造などから」科乃さん本人のものであるかどうかの鑑定に回された。これは科警研で実用化された初期のDNA型鑑定と思われ、今日のように個人特定ができる精度はなく、後の足利事件などでも明らかなように、手法として確立されていない時期の属人的な鑑定技術であった。報道では「血が古すぎて見極められなかった」とされている。

だが室内には争ったような形跡が見られないことから、顔見知りによる犯行の線が疑われた。科乃さんのバッグや財布は見つかっていないことから、父親から受け取ったばかりの生活費を奪ったとも考えられる。室内にはへそくりとして貯めていた現金34万円が残されたままとなっており、科乃さんの自発的失踪の線はかなり薄いと考えられた。

また壁掛けカレンダーには不可解な予定のメモや斜線が残されていた。

だれが何のために書いたのか

7月26日にはオランダ語で「vlucht」と書かれ、これは英語の「Flight(飛行)」に相当する。その下には「VET,RWP」ないしは「VET,PWP」のように見える文字が羅列してあるが、誤字があるのか略語の一種なのか単語として成立せず、その意味するところははっきりしない。だが右に「→(矢印)」が引かれていることから、「26日からフライト」の予定ということだろうか。

7月30日には「vertrek」「2・PM」「AiRPorT」と書かれ、vertrekは英語の「departure(出発)」に相当する。「空港から午後2時に発つ」予定だったのか。

オランダ人男性と婚姻関係にあった科乃さんが記したものかと推測されたが、鑑定では彼女の筆跡と一致しなかったという。また科乃さんは「27日の夜」に車で4~5日四国に行くと語っており、空港やフライトといった語句は彼女の想定していた旅程とは矛盾する。一緒に生活していた長尾さんの予定か、それとも第三者が捜査のかく乱を狙う意図で書き残していったとでもいうのだろうか。

イメージ

一人で家に残っていた長尾さんが何らかの事情を知っていると考えられたがその消息も不明だった。母子は車も飛行機も使わずどこへ移動したというのか、車を駐車場に預けていったのは長尾さんだったのか、はたまた第三者が三人の身柄を捕らえて車だけ捨て置いたのか。

長尾さんは大学中退後にデザイン関係の仕事をしていたが、89年3月頃から同居するようになり、科乃さんの父親によれば家賃や生活費のほとんどは彼女が負担していたという。だが7月下旬には、両者の考えに溝が生じていたらしく、科乃さんは両親に「プロポーズされたが受けるつもりはない。一週間ぐらいしたら出て行ってもらうつもりだ」と伝えていたとされる。

 

1990年1月、長尾さんの家族も千種署に捜索願を提出。三人の家族は自費負担で10万枚もの顔写真入りのビラ作成を決め、県警本部を通じて全国に配られる公開捜索となった。ビラ配布から半年で19件の情報提供が寄せられたものの有力な手掛かりとはならなかった。

90年2月には科乃さんの夫が来日し、家族と共に以前一緒に訪ねたことのある場所など心当たりを十か所近く捜し歩いた。尚、母子が日本に帰国してきた理由は伝えられていない。夫婦関係に軋轢が生じていたのか、それとも子育てや生活面での便宜から双方合意の下で帰国したのか分からない。

筆者の憶測になるが、こどもの養育権争いや三角関係のもつれなど「夫婦間トラブルの可能性」も捜査機関は勘繰ったに違いなく、夫の筆跡など最低限の調べはしているものと思われるがはたしてどうか。

失踪から約一年後の報道では、「事件性が濃いと見た千種署、県警捜査一課の捜査は行き詰まりの状態」で、家族は「科乃さんの借家を引き払った」と伝えている。科乃さん、長尾さんが興味を持っていたという「宗教関係の団体」についても調べたが手掛かりはなかった。

また駐車場で見つかったワゴン車はガス欠状態で、科乃さんが最後に満タンにしたのは7月20日と分かった。科乃さんは普段遠出しなかったことから、失踪した26日から29日の間に大幅に消費されたと想定され、逆算して「片道130キロ程度の場所」に移動したと推察された。単純に130キロという数字だけ当てはめれば、西は京都市、東は掛川市の先までその範囲に想定され、タイヤに付着した土の鑑識も行われたが行き先を絞り込むには至らなかった。

 

塩の祭り

「塩」は今日とは異なり、1905年から97年4月まで国の専売制が敷かれていた。国により塩田整備の効率化が進められ、戦後は日本専売公社が需給調整や価格安定を支えてきた。専売制施行前には、全国各地で製塩が行われていたが、とくに兵庫、岡山、広島、山口、徳島、香川、愛媛の瀬戸内七県が産地として知られていた。

1971年に塩田製塩からイオン交換膜製塩に切り替わると(塩業近代化臨時措置法)、伝統的な塩田は淘汰の危機に瀕し、保護活動が活発化する。生産量は増大し、輸入塩の安定供給も進んでいたこともあり、専売廃止が頻繁に議論されることとなった。

また工業的な、純度の高い塩の安全性に疑問をもつ者も多く、伝統的な自然製法によって作られてきた塩を自分たちで選びたいという消費者側の食のニーズもあった。73~85年にかけて自然塩を求める運動が拡大し、専売公社の塩を原料とした再製塩にかぎって製造委託を認め、島の地下水でミネラル分を添加し再結晶化させた「伯方の塩」が開発された。さらに伊豆大島での製塩研究により海水を太陽熱と風力だけで結晶化する天日海塩「海の精」が開発され、試験的配布にかぎり認可されて界隈では注目を集めた。

事業は85年から日本たばこ産業に引き継がれ、指定製塩企業からの買入れ・輸入の委託・再製加工や販売小売りの指定までを一手に担っていた。88年度には指定製塩企業7社、塩元売人が82社、塩小売人10万5000人が存在し、およそ136万トンが生産されていた。また専売法の改正に伴って、試験塩を用いた加工食品の販売が可能となり、健康食志向の広がりと共に広く認知が進んだ。89年には大蔵大臣からたばこ事業等審議会に対し「今般の塩事業の在り方について」の諮問がなされ、製造・輸入・流通にわたる市場の自由化、規制緩和への転換が求められていた。

 

2024年現在、「塩の祭り」で検索すると、長野県小谷(おたり)村で開催される「塩の道祭り」や香川県坂出市で開催される「さかいで塩まつり」がヒットするが、後者は事件後の1992年からの開始で、共に例年5月開催のため合致しない。おそらくは生産者や食の安全を唱える市民団体などによって催された小規模なイベントだったと見られ、専売制廃止と共に解消されたのかもしれない。報道では「自然食関係のイベント」とのみ表現されている。

「塩の祭り」という耳慣れない言葉に不信感を抱く向きもあるようだが、今般と違って塩をめぐる議論が活発な時期であり、真っ当な社会活動だったと考えられる。

 

オウム真理教との関連

二人の関心が噂されるのが、後に地下鉄サリン事件など数々の凶悪犯罪を起こして日本中を震撼させることとなる「オウム真理教」である。だが新聞記事で教団名は公表されておらず、「興味を持っていたという宗教関係の団体についても調べたが手掛かりなし」と記載されている。どこから教団名が浮上したのか情報の出処が確認できなかった。

だが失踪から1年後の雑誌に「第2の坂本弁護士事件?」と銘打った記事が出ており、「科乃さんはオウム真理教に興味を持ち、集会に参加したりしていた。長尾さんもオウム真理教に関する本などを読んでいたというから、坂本弁護士の一件と結びつけて考えてしまう」との記述がある。その筆ぶりの行間を読めば、以前から俄かに関連が報じられていたとみてよいのではないか。

尚、時系列としては、母子の捜索届の提出は9月11日で、三人が公開捜索となったのは翌90年1月。弁護士一家失踪でオウム教団による犯行が取り沙汰されたのが89年11月上旬のため、実際の発生時期は科乃さんたちの失踪の方が3か月以上早い。

先の3人の画像の引用元とされる公開捜索番組を筆者は見られていないが、放映は1995年の5月か6月頃とされている。95年3月20日地下鉄サリン事件が起こり、警視庁は22日にオウム教団施設25か所で家宅捜索を断行した。これまでの事件関与の疑惑が連日報じられることとなり、多くの教団幹部と、5月16日には教団代表・麻原彰晃が逮捕されて報道はピークを迎える。以前までの風変わりな新興宗教といった世間の見方は一変して、国家転覆を目論む殺人カルト集団へと覆された。そんなタイミングで放映された番組内でよもや渦中の教団名は使用されてはいないと思われる。

だが番組の放映時期からしても視聴者がオウムを思い浮かべたとしても無理はない。失踪当時は分からないが、教団創設以前の麻原は、鍼灸院やヨガ教室の事業を隠れ蓑として漢方薬やダイエット食品などの違法販売に手を染めており、95年の4月時点では四国には高知に支部が存在した。何より長尾さんの公開写真は、長髪にひげ面のヒッピー風で、僅かに覗く着衣はオウム信者たちが身につけていた白い法衣を彷彿とさせるものであった。

 

教団の成り立ちから三人が失踪した当時の動きについても確認しておこう。

1975年に熊本市の盲学校を卒業した麻原は、77年、22歳で大学進学を目指して上京したが、予備校で知り合った石井知子と翌年結婚。受験を諦め、千葉県船橋市鍼灸院や漢方薬販売などを開いた。しかし保険料の不正請求が発覚し、82年には詐欺被害の訴えにより薬事法違反容疑で逮捕されるなど真っ当な商売ではなかった。

慢性的な貧困や夫の不祥事による精神的葛藤から妻知子は変調をきたし、家庭不和が続いていた。そんななか麻原は四柱推命や気学などの運命学を研究するなかで、奇門遁甲や仙道にある秘術や神秘主義に惹かれていく。またかねてより神の理に従いユートピアの建設を唱えたGLA(神光会)や長兄の影響で創価学会などの新興宗教に関心を持っていた。

麻原は当時勢力を伸ばしていた密教系の新宗教阿含宗」に帰依したとされる。阿含宗を興した桐山靖雄は修行によりチャクラを覚醒したとされ、大脳生理学や深層心理学といったニュー・サイエンスを援用して超人思想を語り、因縁からの解脱を説き、神秘主義ブームの影響もあって若い世代の信心を集めていた。麻原も阿含宗の唱える終末観や超人思想などに影響を受けたが瞑想法や教義に疑問を抱き、独学でヨーガ・スートラを研究。自ら霊的開花を遂げて幽体離脱や手当療法など超能力を修得し、83年に阿含宗を脱会する。

麻原は約3年間の阿含宗在籍を主張していた。だが逮捕後、読売紙の取材に答えた桐山によれば、麻原の在籍は3か月ほどでまともな修行はしていない、教団運営のノウハウを知る目的での入信に近いのではないかとの見解を示しており、著書では自身こそが日本人として唯一チベット仏法を伝える大阿闍梨であると宗教的正当性を主張している。

渋谷で心理学、カイロプラクティック、ヨガ、東洋医学などを統合した学習塾「鳳凰慶林館」を開き、「麻原彰晃」を名乗るようになったが、当初は女性向けのダイエット美容や健康法が中心で宗教色は薄かった。保険会社に勤めていた飯田エリ子、石井久子らがサークルの中心メンバーとなったのもこの時期で、その後、麻原の愛人や教団幹部、広告塔の役割を担った。

 

1985年、修行中に天啓を受けたとして、雑誌『ムー』『トワイライトゾーン』などに「空中浮揚」と称する写真を公開して読者の興味を引いた。また連載企画でのオカルト研究者たちとの交流の中で「ハルマゲドン」終末論や「神仙民族」と呼ばれる救世主思想を聞き知ったと見られている。翌86年には税制優遇を目当てに宗教団体化を目指すようになり「オウム神仙の会」へと改称。麻原本人はチベット密教の理解を深め、7月にヒマラヤで最終解脱を果たしたと称する。

精神科医・予言研究者の川尻徹によるノストラダムス解釈にも影響されたと見られ、この時期の麻原はフリーメーソンとの最終戦争について語っていた。著書や原稿の代筆は妻知子の仕事であった。杉本繁郎、新見智光、岡崎一明、井上嘉浩、上祐史浩ら後の教団幹部、高橋克也ら数々の事件で実行役を担った古参メンバーらはこの時期に入信。麻原の権威化が進むと共に、急速に拡大路線へと舵を切り、出家制度やセミナーなどで布施を増やすようになる。

在家信者の多くはヨガサークル路線の継続を支持したが、団体は87年7月に「オウム真理教」への変革を押し進めた。麻原は世界の宗教聖地をめぐるとともに、広告や自著、超能力者と称してのメディア出演などにより露出を高めていく。さらにチベット人学者ペマ・ギャルポとの知己を通じてチベット亡命政府を訪問。多額の寄付により高僧やダライ・ラマ14世との接見機会を得ると、そのときの談話を援用したり、撮った写真を箔付けの宣伝素材に利用した。

87年8月刊行の書籍『イニシエーション』では世紀末の核戦争の到来を予言し、それを回避するために教団の世界進出が急務とした。また奈良県天理市などをモデルとして教団の自給自足コミュニティ建設を目指す「日本シャンバラ化計画」を発表。来たるべきハルマゲドンに備えて日本全国に教団施設を設置して世界救済の拠点とすべく、更なる信者獲得と布施集め、用地買収が推進された。

1988年、富士山総本部道場を設置。落成記念イベントに招待されたチベット仏教指導者のひとりカル・リンポチェが麻原にお墨付きを与える発言をしたと喧伝され、日本の識者たちの麻原への評価にも影響を与えた。

 

総本部では過酷な苦行やイニシエーション(グルの霊的エネルギー伝授により祈願成就や解脱に近づくこと)が推奨されたが、その一方で同年9月22日、在家信者死亡事件が発生する。百日修行と呼ばれる長時間の苦行で信者男性が大声をあげて暴れ出し、「頭を冷やしてこい」と命じられた幹部らが逆さに抱えて水風呂に出し入れしたところ、意識不明に陥ったとされる。麻原は「エネルギーを送る」等とし、他の信者が人工呼吸など蘇生を試みたが男性はそのまま死亡した。

このとき教団は都で宗教法人認可の手続きを目指しており、過失致死が認められたとしても事態が公になれば申請取り消しとなることは明らかだった。麻原は口止めした上で遺体の焼却を命じ、焼かれた死体は粉々にされて精進湖に遺棄された。

この時期から麻原は体調を崩すことが多くなったとされ、「自分が死んだら」「もう死のうかな」と幹部に将来の不安を漏らすようになり、死後の教団運営を憂えていたという。

11月17日、名古屋支部信者が自損事故により生死を彷徨うこととなり、麻原は富士のサティアンから集中治療室にいる信者の意識を体内に戻そうという試みがあった。しかし数時間後、病院から信者死亡の連絡が届く。麻原は「生きていても修行できないなら功徳が積めないじゃないか。ポアするしかないんだよ」と信者の快癒を中止したことを告げ、抗議する上祐を諭したとされる。麻原は慈悲のために他者を殺害し極楽へと意識を転移させることをよしとした。

その後も、警察が弾圧してきたらポアすればいいと語るなど、信者に殺害や破壊活動を認める発言を繰り返し、89年1月には「救済の成功は核戦争を食い止めることではない。資本主義と社会主義を潰して宗教国をつくる。オウム信徒以外は生き残らない」と語り、ハルマゲドン思想や選民思想を一層先鋭化させた。

2月、在家信者の死亡隠蔽の一部始終を知る信者が脱会を希望した。出版部門の上司だった岡崎一明は独房で監禁・体罰を加えて思いとどまらせようとしたが、男性は却って教団への反発を強めた。麻原は野放しにしてしまうと前年の事件が露見する可能性が高いとして、幹部らにポアと護摩壇での焼却を指示。以降、殺人を正当化する教義「タントラ・ヴァジラヤーナ」が制定され、凶行が繰り返されることとなる。

3月、教団は東京都で宗教法人の認証申請を行ったが、信者の家族からオウムに関する多数の苦情が寄せられていたことから受理を保留される。4月24日には麻原が信者200人を引き連れて都庁で抗議デモを起こした。翌日の総本部での説教で信者たちに決起を促し、「日本そのものがオウム真理教に、仏陀の国に変わる日は近い」と説き、その後も国家による弾圧に抵抗することを繰り返し唱えた。教団弁護士の上申により5月25日に申請は受理され、8月25日に都の宗教法人認可を受けた。

出家信者の親たちから脱会の相談を受けていたジャーナリスト江川紹子は横浜法律事務所の坂本堤弁護士を紹介し、89年5月に「オウム真理教被害者の会」が設立された。『サンデー毎日』では9月から教団批判の告発スクープ連載が組まれ、信者への布施の強要、超能力の欺瞞やイニシエーションと称する詐欺行為などが次々と暴露された。同時に坂本弁護士は宗教法人の認可取り消しを求めて民事訴訟の準備を進めていた。

教団では90年2月の衆院選出馬を目指して8月に政治団体真理党」の設立届を提出しており、被害者の会や弁護士らによって反オウムの世論が過熱することに危機感を募らせていた。そんな折、TBSはワイドショー内でオウム特集を企画し、坂本弁護士や被害者の会、教団側にも取材を要望した。10月26日、プロデューサーは取材に難色を示す教団幹部らの承諾を得るため、反オウム側のインタビュービデオを見せてしまう。幹部らは紛糾し、結局特集の放映自体が立ち消えとなった。

事態を重く見た教団幹部は10月31日に法律事務所を訪れ、訴訟の回避を試みるも、坂本弁護士の意思は固く、交渉は決裂。報告を聞いた麻原は幹部らにポアを指示した。在家信徒の弁護士を通じて坂本弁護士の自宅住所を確認し、11月4日未明、寝込みを襲って弁護士と妻子を絞殺する。

実行役のひとり中川智正が現場に教団バッジの「プルシャ」を落としていたことや、法律事務所関係者の証言により、失踪当初から教団の関与が強く疑われることとなる。教団側は名誉棄損に対して訴訟も辞さない旨の警告を報道各社に送りつけ、疑惑を否定する会見を開いた。95年の実行犯逮捕まで3人の遺体は発見されることなく「一家失踪」として扱われた。

 

本件の発生した7月下旬、オウムでは衆院選出馬に向けた下準備が進められており、その一方で被害者の会の動向にも注意を払わねばならず、不用意なもめごとを回避したかったと考えられる。雑誌「サンデー毎日」で反オウムキャンペーンが始まると、出版社の爆破や編集長の殺害も企図されたが、幹部らは実行リスクを想定し、結局決行を断念していることからも犯行は慎重を期して実行に移された。坂本弁護士についても訴訟の撤回のために一度は話し合いを求めている。殺害してよい理由にはならないが、その対象者選びも教団の存立を脅かす不安因子としての必然性の高さが窺える。

科乃さん、長尾さんとも不定職で大きな資産があった訳でもなく、「オウムの書籍を持っていた」「道場に参加したことがある」といった噂はネット上にも散見されるが、古参信者や幹部だったといった情報は存在しない。教団にとっても殺害はあくまで最終手段だったと考えれば、仮に二人が脱会を望む在家信者だったとしてもただちに拉致や殺害といった手段は用いないのではないか。

また何よりも95年の教団幹部一斉逮捕により、公安は余罪の洗い出しや裏取りを徹底的に行ってきたはずであり、関与の事実がありながら本件だけ誰ひとりとして口を割らなかったとは到底考えにくい。男女にオウムへの関心は少なからずあったかも分からないが、教団の事件関与を示す証拠は一切見つかっていない。

 

所感と補助線

三人の安否は不明であり、指名手配犯ではない長尾さんを殺人犯扱いする気は毛頭ない。だが母子の行方を知りうるただ一人の人物であることも確かだ。あえて予断を挟むならば、何らかのトラブルで母子を衝動的に殺害してしまい、遺棄や部屋での隠蔽をした後に男性が単独で失踪したか、あるいは罪悪感が生じて二人の後を追ったと見るのが腑に落ちやすいように思える。

 

最後にふたつ、思いついたことを記す。

科乃さんと長尾さんの共通の関心として「自然食」が伝えられており、その点にフォーカスして「宗教関係の団体」を想定すると、チベット密教神秘主義寄りのオウム真理教よりも農業組合法人・幸福会ヤマギシ会の名が思い浮かぶ。

ヤマギシ会は、戦後、篤農家・山岸巳代蔵の養鶏農業指導に端を発し、人生哲学や幸福実現の精神論を唱える講演会などで多くの人々をひきつけ、「無所有・共用・共活」を掲げるヤマギシズム実践の場として「実顕地」と呼ばれる集団生活の場を設けた。自ら宗教を標榜することはなかったが、人間の観念に変革をもたらす全人幸福の世界革命を目指して団体を拡大させ、1959年には強制勧誘・不法監禁などにより幹部ら14人が逮捕され執行猶予付きで有罪判決が下された(山岸にも逮捕状が出されたが、声明を出して任意出頭し、起訴猶予処分とされた)

ヤマギシズム社会実顕地公式サイト | ヤマギシズム社会実顕地公式ホームページ

世界革命実践の書

提唱者の没後も会は存続され、60年代以降は農業家のみならず、自然派コミューンを理想とするヒッピーや原始共産主義の実践と捉えた左翼運動家などの支持を得、80年代には教育不安を抱える親たちの受け皿ともなった。入会には私有財産の放棄(布施)を原則とし、自発的な参加を建前とするが、その教義やイニシエーション儀式、コミュニティ運営はオウムやエホバ、統一教会など既存の隔離型宗教との類似を指摘する声もある。

80年代には有機農法が脚光を浴び、生産物や加工品の販売網は拡大しており、社会から好意的に捉えられていた。だが85年に設立された私塾ヤマギシズム学園では、児童の労働従事や生活指導における暴力虐待、親からの隔離が問題視され、94年には元参画者らによる「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が内部事情を告発した。脱退時の財産返還をめぐる訴訟も起こっており、96年、ドイツ連邦は「スピリチュアルと環境の要素を持った日本の新宗教」としてカルト団体に指定している。

新興宗教に関心を寄せる人々の多くは現状や将来の生活に不安を抱えており、既存の宗教では埋められない心的欠乏を求めている。安堵や幸福を求めて様々な団体を乗り換える人々も少なくない。無論、ヤマギシ会が失踪に関わった証拠は存在しないが、隔離性の高い団体はオウムに限らない。同時期、坂本弁護士一家失踪を受けて本件でもオウムに捜査の目が向けられた可能性は高く、却って他の宗教関連団体にまで捜査の目が行き渡らなかった可能性もあるのではないか。

 

すでに触れたように、89年初頭に科乃さんたちを引き合わせた人物がいたとされていた。知り合って僅か3か月での同居、科乃さんの離婚さえ成立していない段での求婚、7か月余での失踪というのは急展開に感じられる。穿った見方をするならば、二人を引き合わせた人物は単に知人を紹介したのではなく、男女が深い仲になることを期待していた、見越していたとは考えられないか。

ひとつは、引き合わせた人物が長尾さんに何か不審な言動を察知して、距離を置きたかったために自分の身代わりにできそうな人物として科乃さんを紹介した可能性。たとえば長尾さんからの宗教勧誘や金銭援助の求めに辟易して、知人を紹介してしまったケースである。

あるいは、その人物が長尾さんと共謀して科乃さんや家族から金銭を引き出そうとしていた可能性はないか。科乃さん本人に稼ぎがなくとも、父親が社長で両親共働きとなれば実情はともかくとしても傍目には資産家とみなされた可能性は大いにあり、結婚詐欺など金銭目的で母子に接近したことも想定される。

捜査機関も関係者に入念な聞き取りを行っているとは思うが、一見すると不倫相手との単純失踪に見えてしまうこと、長尾さん家族の失踪届が出遅れたこと、積極的な捜査を求める科乃さん家族との調整やオウム関与説の影響などから、そもそもの出会い「以前」の裏取りにまで手が回らなかったということもあるのではないか。

謎多き三人失踪に残されたいくつかの痕跡は、はたして偶然だったのか。疑い出すほどに堂々巡りに陥ってしまう。

 

-----

オウム真理教関連?の失踪事件 - 昔のニュース、今の記録