いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

キリストを模した男——ムンギョン十字架怪死事件

韓国で物議を醸したミステリアスな男性怪死事件について記す。

 

十字架と遺体

2011年5月1日、慶尚北道・聞慶(ムンギョン)市郊外の篭岩面(ノンアムミョン)、鈍徳山の廃砕石場で養蜂家Aさんが死亡している男性を発見し、警察に届け出た。

死亡していた男性は、慶尚南道昌原市で個人タクシー運転手をするキム某さん(57歳)と判明。調べによれば、キムさんは90年代に離婚して以来一人暮らしで元妻や娘と連絡は取っていなかった。先月9日から車で聞慶市を訪れており、山中にテントを張って寝泊まりしていたとみられる。4月10日に弟に電話を入れており、「教会には行ったのか」といった会話が家族との最後のやりとりとなった。

 

その死亡状況はあまりに奇妙だった。遺体は白いパンツ一枚きりの全裸に近い姿で、木製の“十字架”に磔(はりつけ)になった状態で見つかった。磔になっていた大きな十字架は、縦180センチ、横187センチの2本の角材で組まれており、その足元には板の土台が付随して転倒しないようになっていた。設置されていたのは地表から1.57メートルほど高台になった岩場で、左右には細い角材でできた小さな十字架が立てられ、片方には鏡がぶら下げられていた。

左右の足は土台の板に長さ15センチ程の釘で打ちつけられており、両腕はループ帯で拘束され、両手首にも釘が貫通していた。腰と首に中細のナイロンロープが巻かれていたため、膝はやや折れていたものの立ったままの姿勢で絶命していた。頭には「茨の冠」が付けられ、右脇腹には刃物による刺し傷があった。腐敗により正確な死亡推定時刻は分からなかったが、死因は首元のロープによる窒息死と報告されている。

荒涼とした廃砕石場は「ゴルゴダの丘」を、そして男性の死は「エス磔刑」を、脇腹の傷はローマ兵士ロンギヌスが槍を刺してその死を確認したことを模しているのは明白だった。

Jan van Eyck『キリストの受難(左)』(1440), [Metropolitan museum]

 

常識に照らせば、自分で両手足に釘を打ちつけるというのは考えにくい。一般的な自殺志願者は自らの最期にふさわしい場面について様々な考えが頭に過ったとしても、精神的に疲弊しており、最終的には飛び降りや首吊りといった比較的シンプルで確実性の高い手段で遂行するのが常だ。その目的は知れないが「三者の介入があった」と見るのが自然に思われた。

仮に自殺と想定した場合、先に左右の足を打ちつけて固定したまま、両手を打ちつけたことになる。キムさんは身長167~8センチで体重70~80キロ、腹が出た小太り体型で、かかとは角材ににピタリと接しており、釘は足の甲のつま先近くに刺さっていた。実際にかかとを壁に付けたままの状態で足に釘を打つ姿勢を再現しようとすると、前のめりにバランスを崩して岩場から転落するのが自然に思える。

不審死体発見の初報時点では、聞慶警察署もこうした自殺は容易ではないとして、自殺と他殺両面から捜査を行うことを言明した。ニュースを聞いた多くの市民もこれは猟奇殺人の一種だと疑ったにちがいない。

発見された図面と計画書〔『それが知りたい』第804回より〕

 

しかし遺体付近にはハンマーや手動のドリル工具、腹部を刺した刃物が落ちていた。事件であれば、犯人が凶器をそのまま残しておくのは却って不自然にも思われる。またテント内に遺書こそなかったが、ノコギリや十字架制作で生じた木切れ、制作図面や体を固定する手順などを記した「計画書」が見つかっていた。

手の釘は「十字架」の裏から表に突き出ていた〔『それが知りたい』第804回より〕

解剖所見では、腹部の刺創はキムさん自らの手による可能性が大きいと推認された。さらに鑑識官は、足の釘は上方向から打ち込まれていたが、手の釘は「頭」が角材の背面から打ち込まれていた点を指摘する。

聞慶警察署は、現場に第三者の存在を示す痕跡はなく、手動のドリルを使って手に穴を開けてから、体格に合わせて十字架にあらかじめ打っておいた釘を「穴」に通せば「磔」は可能だったとし、キムさん単独での自死とする判断をもって捜査終結とした。

 

第一発見者への疑い

キムさんの死が複雑さを帯びるのは、単純な自死ではなく、宗教的性格に由来するためだ。具体的な教団名などは報じられていないが、調べによりキムさんは日頃からキリスト教に心酔していた(メディアによっては「狂信的」とも表現されている)とされ、近年はインターネットの宗教関連コミュニティで積極的に活動していたことが伝えられていた。

朝鮮日報の報じるところでは、第一発見者Aさんは元牧師で2002年から複数のインターネットコミュニティを運営し、キムさんが参加していたのもそのひとつだったという。さらに記事では、遺体発見前の4月24日がその年のイースター(復活祭。磔刑から3日後にイエスが復活したことを祝するキリスト教の祭日)に当たることから、イエス磔刑を模した自殺幇助の可能性にも触れている。

韓国基督教放送CBSでは、およそ2年前にキムさんがAさんの運営する宗教関連カフェを訪ねたことがあり、調べに対し「そのとき宗教的談話を交わしたが、それ以来会っていない」と話したことを伝えている。

Aさんは朝鮮日報の取材に対し、「キムさんは日頃からキリストになりたいと言っていたが、本当にキリストのようなことをするとは思わなかった。彼が足に釘を打ち込んでいるのを見て、この人の信仰を尊重しなければと思った」と話した。Aさんは生前最後にキムさんと落ち合い、「儀式」を目にしていたことになる。

そもそもキムさんに「自殺」の意志はあったのか、それとも自らの「復活」を本心から信じて疑わなかったのか、あるいは宗教的な「洗脳」状態にあったのか。そのとき傍にいたAさんは、はたしてどこまでキムさんの死に関わっていたのか。

 

韓国では憲法第16条等により、基本的人権のひとつとして信仰の自由が保障されている。2015年の韓国人口統計によれば、総人口は5101万人で、うち43.1%が特定の宗教を信仰している。総人口比での内訳はプロテスタント19.7%、仏教15.5%、カトリック7.9%、その他1%未満とされる(宗教別の割合だとプロテスタント45%、仏教35%、カトリック18%、その他2%となる)神道と仏教がおよそ半々でキリスト教徒は国民の1%程度とされる日本に比べて、韓国では18世紀に宣教師によりもたらされたカトリック李氏朝鮮末期に普及したプロテスタントが広く根付いている。

歴史的には、李氏朝鮮下での長期にわたる仏教弾圧、近代化のための欧化政策により宣教師の活動が支援されたこと、さらに日本による併合で神道教化に抵抗した人々がキリスト教を韓国ナショナリズムと同化させたことが背景に挙げられる。また第二次世界大戦後には、南北分裂に伴って半島北部から100万人近いキリスト教徒たちが韓国に流入したと推計されている。近年では20~30歳代を中心として無宗派層が増加しており、非科学的な教義を掲げて非倫理的犯罪をおかすカルト(サイビー)の増長も懸念されている。

京畿大学犯罪心理学科のイ・スジョン教授は「宗教に心酔していたキムさんの自殺を手助けした協力者がいるなら、必ずや見つけ出さねばならない。さもなければ同様の宗教的な自殺幇助が再発するおそれがある」と捜査の早期終結に警鐘を鳴らした。

 

男性の胃に内容物は残っていなかったが、遺留品から強心剤の一種で多量服用により幻覚や麻痺作用のある医薬品の小瓶が見つかっており、捜査員は医師の助言を踏まえた上で激痛を薬効で紛らわせていたのではないかとの見解を述べている。120錠入りの瓶に残されていたのは僅か5粒だけだった。

警察の主張する自殺説では、衰弱と意識の混濁でやがて自重によって膝から崩れ、首に巻かれたロープが食い込んで窒息死に至ったと推測されている。遺体にはためらい傷や失敗の跡は見られなかった。両足を釘で打ちつけ、腹をナイフで刺し、手動のドリルで手に穴を開け、釘を穴に通すという荒業を感覚が麻痺した状態で遂行することができるものだろうか。むしろ麻酔状態にあったとすれば、第三者が作業を遂行しやすくするためと見る方が自然に思われる。

しかし後の薬物検査ではアルコールや薬物の反応は一切検出されなかった。

 

韓国SBS、2011年6月4日放映の追跡報道番組『それが知りたい』では、科捜研に移管された十字架や遺体状況をCGで忠実に再現し、捜査員の証言を基にした自殺説の検証が行われている。

死亡状況の再現CG〔SBS『それが知りたい』より〕

4月初旬、キムさんは聞慶市を訪れる前に、弟を同行させて新車を購入していた。弟によれば、このときのキムさんは以前と様変わりしており、教会に通わない人間だったのに「教会に必ず行け」と命じたり、「空に行けば楽に暮らせる」などと話し、近々聞慶に行くことも伝えていた。

また車の販売スタッフは、商談中にしばしばキムさんの携帯電話が鳴らされ、第三者と何かを相談している様子だったと証言する。また「山岳会の会長を新車に乗せる」と繰り返し話していたという。だがキムさんが山岳サークルに属していたといった情報はなく、だれを乗せるつもりだったのかははっきりしない。

また奇妙なことにキムさんは自宅や自動車販売店への入庫ではなく、「自分が一番最初から乗る」と言って聞かず、250キロ離れた平沢(ピョンテク)の工場まで自ら車を引き取りに行ったという。彼はその足で昌原市の自宅へは戻らず、聞慶へと向かった。新車購入時点でキムさんはすでに死に場所へと向かっていたことになる。

キムさんは弟を車に乗せる際、シートに直接坐らずに、タオルを敷いてから座ってほしいと頼んだという。これはルカ福音第19章29-36でエルサレムへ向かうイエス一行がオリブ山にさしかかった場面の描写をなぞらえたのではないかと神学者は指摘する。

鈍徳山の廃砕石場は確かに我々がイメージする荒涼とした処刑場・ゴルゴダの丘のイメージに近いものだ。だが捜査員の一人は、地理的に離れており部外者は立ち寄らない、学術的な研究対象でも“聖地”でもないあの場所を選んだこと自体に疑問符を投げかける。聖書をなぞらえて儀式を遂行するのであれば、「最後の晩餐」を共にする弟子たちや処刑を見守るギャラリー、完全なる風化ではなく「復活」を見届ける人間が介在せねばならない。

だが発見前の4月末に彼の地は30ミリ以上の大雨に2度見舞われていた。そのせいで第三者の痕跡が現場から消失したのではないかと番組は推論する。届けを受けて出動した捜査員たちは道が水没していたため、現場まで歩かなくてはならなかったという。そんな過酷な状況下で養蜂業者が廃採石場を訪れることなど不自然であり、断定することは避けるが、Aさんはキムさんの「復活」、あるいは現場の状況確認をしに来たように思えてならない。

 

キムさんは2000年頃に息子から肝移植を受け、自身は健康を取り戻したが、その手術が元で息子が死亡したことを聞かされて著しくショックを受けていたという。息子の命と引き換えに自分が生きながらえ、文字通り「原罪」を背負ってしまったその心中は想像を絶するものがある。その後、頼みの綱を、道標を求めた先が宗教だった。一般的な宗教では答えが得られず、最後に彼がのめり込んでいたのがキリスト教に仏教や道教がハイブリットされたサイビーの一種だった。周囲の知人たちは彼から離れ、話し相手はネットのコミュニティだけだった。

番組は最後にキムさんの姉への取材場面を伝えたが、クルーに聞かされるまで弟の死について何も知らなかったという。宗教が元できょうだいは絶縁状態にあった。

 

所感

法医学者ユ・ソンホ教授は著書『毎週死体を見に行く』の中で本件についても触れており、遺体と接した専門家たちは誰一人として「自殺は不可能」とは唱えなかったという。

心酔していたサイビーがキムさんを死に誘ったのか、本当のところは分からない。だが既存の宗教を否定し続けたキムさん自身、ひょっとするとコミュニティの欺瞞に半ば気づいていたかもしれない。キリスト教では自殺は禁じられているため、その手段として「キリストの受難」の場面を模すことを思いついたのか、それとも精神的に追い詰められた結果、イエスとの自己同一化という誇大妄想に憑りつかれてしまったのかはもはやだれにも分からない。

悲しいことに彼にできたのは奇跡や慈愛といったキリストの行いではなく、聖書の物語を表面的になぞるだけのことだった。自ら宗教指導者になることも、復活することもできなかったのである。

 

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

ブタを積んだトラック――アイオワ州運送業男性行方不明事件

畑に囲まれた田舎道の真ん中に大型トラックが乗り捨てられ、後部コンテナには大量の仔ブタが生きたまま取り残されていた。ドライバーは一体どこへ消えたのか。

 

概要

2023年11月21日(火)の未明、アメリカ中西部アイオワ州ウォールレイク在住のトラック運送業デビッド・シュルツさん(53歳)が仕事中に行方が分からなくなったと家族から捜索願が出された。当然、交通事故が真っ先に懸念されたであろうが、周辺で該当する事故の報告はなかった。

その日の午後になって、デビッドさんの携帯電話から妻の元に電話が入った。彼女は前夜からすでに30回は電話を掛け続けていた。

「ああ、ようやく」と思って、応答すると、相手は聞きなれない女性の声。

ダグラス近郊の住民から「無人のトラックが早朝からずっと停めっぱなしになっている」との通報が入り、トラックを確認しにきた女性警官だった。

デビッドさんのトラックが見つかったのは州間ハイウェイ20号線から北に逸れた畑に囲まれた田舎道。コンテナには搬送途中の多数の仔ブタ、携帯電話など僅かな遺留品が残されていたが、本人の行方はその後も分からなかった。

行方不明となったデビッド・シュルツさん

トラックのドアは無施錠で、車内には財布、現金、携帯電話、カギ類が残されており、血痕や争った形跡は見当たらなかった。近くの側溝から彼の冬用ジャケットも発見され、中には軽業務で使うポケットナイフ、イヤフォン、ぼろ布などの私物が残されていた。

捜査機関は遺留品に第三者の痕跡が残されていないかなどを調べるため、DCI犯罪研究所に遺留品の鑑定を依頼したが何も検出できなかった。

 

日本で50歳代男性の行方不明といえば、金銭トラブル、家庭不和、病気などを動機とする自発的失踪ないしは自殺が疑われるケースが多い。しかしデビッドさんの妻サラさんは、彼が自殺や失踪する動機はなく「荷を残したままにして居なくなるなんて、彼の職業倫理から見ても絶対にありえない」として、事件性を強く疑っている。

サック郡保安官事務所と捜索救助の非営利団体ケイジャン連合海軍」ら数百名のボランティアの協力を得て、近郊数十キロの範囲を一斉捜索し、12月までに地域一帯の潜在可能な範囲の捜索はすべて完了したと報告された。上空捜索やドローン、警察犬なども導入されたが大きな成果はなかった。

行方不明から100日以上が経った現在も、デビッドさんの消息は分かっておらず、発見につながる有力情報や新たな手掛かりも得られていない。

 

時系列と地図

11月20日(月)夜7時にウォールレイクの自宅を出発したデビッドさんはイーグル・グローブの現場に向かった。自宅からおよそ90マイル、休憩なしで車で片道およそ1時間半の距離である。彼はここで大量の仔ブタが収容されたコンテナをトラック後部に積載した。

10時30分頃にイーグル・グローブの現場に入り、10時50分頃に現場を発った。来た道をほぼ引き返すような格好で、届け先の農家があるサック・シティ方面へと向かったはずだ。

下のマップはイーグル・グローブから届け先までのおおよその予想ルートを示す。イーグル・グローブから南下したトラックは、州間ハイウェイ20号線を西に進んだとみられる。

程なく午後11時15分、フォート・ドッジ近郊の道路カメラが側道の休憩帯で停車中の彼のトラックを捉えていたとされる。画像公開はなくカメラの位置は分からないが、20号のロードサイドは下のストリートビューで分かる通り、延々と畑が続く一本道で店や自販機も見当たらない。

深夜にこんな場所でヒッチハイクがあったとも思えず、事故などがあれば何らかの痕跡が残されていたはずだ。考えられるとすれば、電話応答、便意、何かトラブルを察知したのか、不意な用事のために停車したと考えるべきだろう。

 

本来ならそこから1時間もあれば届け先に到着できたはずだが、彼のトラックは一向に到着せず、電話をしても応答がない。心配した家族が警察に通報したのが21日午前2時23分だった。

しかし見つかったトラックは、目的地から7~8マイル、車で10分程の位置に乗り捨てられていた。下のストリートビューはトラック発見現場とされる交差点付近。車体は「路肩」ではなく「走行車線上」に停まっていたという。

またジャケットが見つかった「溝」の位置ははっきりしないが、日本でしばしば自転車の転落事故や高齢者の転落死などが聞かれるような「コンクリート護岸の大きな用水路」は見当たらない。おそらくは幅40センチほどの細いコンクリート用水路か、土岸の溝を示すものと思われ、デビッドさんが転落して埋もれたり流されたシチュエーションは考えにくい。

 

 下の地図は、届け先の農家があったサック・シティと車両が発見されたダグラスのおおよその位置関係。サック・シティから更に16マイルほど南進したウォールレイクに自宅があった。なぜトラックは20号線から目的地のある「南」に向かわず、「北」に進路を取ったのか。地元出身の彼が道を誤ったとは到底考えられない。

 

GPSの照会により、20号線から「北」へ向かった時刻は「午前0時18分」、交差点付近で停車したのは「午前0時40分」とされている。この予期せぬ動きは、やはり何かしらの事件性を疑わないことには説明がつかない。

 

もうひとりの失踪者

デビッドさん失踪の3週間前、アイオワ州カルフーン郡の中心部ロックウェルシティ在住のマーク・リーズバーグさん(54歳)が消息を絶っていた。警察は両事件の関係性を否定しているが、地理や二人の年代が近いことからも当初何かしらの関連があるのではないかと注目された。

下の地図で右上の☆がイーグル・グローブ、青◎がデビットさんのトラック発見現場、その下の二つの☆がサックシティと彼の自宅があったウォールレイクの位置関係である。

赤で囲まれた地域がカルフーン郡〔google map〕

リーズバーグさんは10月28日から勤めに姿を見せなくなり、同僚たちが自宅を訪ねたが彼の姿は見当たらず、11月1日、勤務していた医療機器メーカー「エッセンシア」から行方不明の届け出が出された。ハイウェイ20号沿いの自宅には財布と携帯電話が残されていたが、自家用車のクライスラーPTクルーザーが車庫からなくなっていたため自発的失踪と考えられた。

連絡を受けて駆けつけた妹のメアリー・ブラウンさんは「兄が仕事を放り出していなくなるとは考えられない」と述べ、財布や携帯電話を残して車だけがなくなっている状況について記者から問われると「たとえば夜中に誰かが玄関で助けを求め、それに応対しようと思って、何も持たずに外に出たのかもしれません…なぜ車がないのか、彼が見つからないのか、理由は私にもわかりません」と困惑した様子で答えた。

 

3週間後のデビッドさん失踪を受けて、アイオワ州捜査当局も捜索に本腰を入れ、「ケイジャン連合海軍」の協力により一帯の合同捜索に乗り出した。

12月1日午後、カルフーン郡の「木々に覆われた放棄地」の奥でリーズバーグさんのPTクルーザーが発見された。車内からリーズバーグさんの遺体が見つかり、「一発の銃創」を死因とする予備調査の結果が報告された。

不正行為(犯罪の証拠)は確認されておらず、遺体は検視局に送られたが事後報告がないことから自死と断定されたものと思われる。

 

検討

デビッド・シュルツさんの妻サラさんによれば、夫は「きみは僕の妻、僕の人生そのものだ」といつも愛情を注いでくれる家庭人で、家族を捨てて自ら失踪したとは思えないと語る。また泊りや遅くなるような時は必ず家に連絡を入れていたと言い、逆説的に電話が掛けられない状況に置かれていたのではないかと危惧している。

夫婦関係、家族仲は円満だったという

運送業という職業柄、遠方や地方では現金支払いが必要とされる場面が多く、彼は日頃から千ドル以上のまとまった現金を持ち歩いていた。一週間分の現金をまとめて財布に入れておく習慣があり、「月曜日に入れた分」が手つかずで残されていたという。

また自発的失踪説を遠ざける根拠として、デビッドさんは新しいトラックを購入したばかりで乗り換えのための整備に励んでいる最中だった。根っからの「トラック野郎」だった彼が、新車に乗らずにいなくなるなんて考えられないと妻は語る。

 

アイオワ州は人口約320万人でその85%を白人種が占め、ヒスパニック6.8%、アフリカ系5.2%、アジア系3.0%、ネイティブアメリカン1.4%と続く(2020年国勢調査)。州としては製造業、バイオテクノロジー、金融保険サービスなどの経済活動に優れ、失業率も平均より大幅に低い4%前後である。またブタ、牛、卵、トウモロコシ(エタノール)、大豆の生産も国内最大規模である。

行方不明となった周辺エリアは豊かな自然に囲まれた酪農や牧畜業が盛んな一帯で、皆無ではないだろうがおよそ犯罪には似つかわしくない土地に思える。

仮に自発的失踪をするのであれば、空港や駅など交通アクセスのよい場所まで出向いたり、残金もあることから愛車で遠方まで行くこともできたはずである。

また氷点下にもなる11月の深夜、上着を脱ぎ棄てての失踪というのも理解しがたい。にもかかわらず「凍死」という結果も報告されていない。能動的な失踪であれば、財布や携帯電話のように車内に置いていってもよいものを、なぜかトラックの近くで落としていった。それが本人によるものか第三者によるものかは断定しえないが、どこか作為的な印象を受ける。

仮に自死を想定したとて、自宅から30分程の何の変哲もない農道脇で決行する理由がない。仕事の合間、しかも生き物を放置したままにしてというのはあまりに不釣り合いな状況に思われる。最後の仕事を完遂してよきタイミングを見計らうか、トラック野郎として最期を車中で迎えるというのならばまだしも、深夜に畑の真ん中から一体どこへ姿を消したというのか。

失踪時の愛車は赤白ストライプ。新車は黄色だった

失踪当初、サラさんが絶望に駆られる中、彼女の弟は、ひょっとすると心臓発作か何かで病院に向かおうとしたのかもとアイデアをくれたが、救急搬送は記録されていなかった。デビッドさんの性格を知るトラック仲間は、もし車にトラブルがあって緊急避難させたのだとしたら、彼は積載していたカラーコーンを車両の周りに並べて周囲に異常を知らせるだろうと予測した。だがカラーコーンは置かれておらず、車体のトラブルも確認されていない。

サラさんは状況の不自然さから、トラックを放置したのは夫ではなかったのではないかと捉えており、彼はだれかに連れ去られたのであろうと主張する。「彼は素早いし屈強だし愚かではないので難しいとは思うけれど」と前置きしたうえで、どこかでちょっとした休憩をした際に「彼は何か見てはならないものを目撃して、相手に脅されて連れて行かれた」か、「ひょっとすると優秀なドライバーを必要としていた集団に拉致されているのではないか」とも口にしている。

いずれにしても危険な状況に置かれているように思われるが、彼女は夫の生存を固く信じている。きっと家族に安否を知らせたがっているに違いないが、それができない状況に置かれているか、相手に家族の居場所が知られることを恐れて「家族を守るために」あえて連絡してこないのかもしれない、と。

 

サラさんのアイデアから想像されるのは、デビッドさんがイーグル・グローブから南下して20号線に入るまでの区間ですでに運転者が入れ替わっていた可能性である。

夜7時に自宅を出てから、真っ直ぐ行けば片道1時間半のところ、荷積みの現場に到着した時刻は「10時半」とあまりに遅い。用事があったのか、食事でもしていたのか、寄り道した場所があったのかは明らかになってはいないが、「行き」の道中ですでに何らかのトラブルに遭っていたのではないか。しかしデビッドさんは何とか現場にたどり着き、荷積みを終えて、再出発したところをすぐに見つかって襲われた、と筆者は考えている。

 

ハイウェイ20号線・フォート・ドッジ近郊の道路カメラが午後11時15分に「停車中のトラック」を捉えていたとされているが、その運転手が誰だったのかまでは言及されていない(公表されていない)。このときすでに入れ替わっており、停車したのは、仲間と連絡を取り合っていたか、後方からくる仲間の遅れを待っていたのではないかと推測する。

運転技術に長けたベテランドライバーのデビッドさんならば仮に方角を誤ったとしても切り返すことは容易である。畑に囲まれた道にトラックが残されていた状況は、犯人がひと気のない場所まで運転して、文字通り「乗り捨て」、追尾してきたか呼び出したかした仲間の車に乗り込んで去っていったようにしか思えない。

読めないのはその発端と、動機の部分である。たとえば貨物窃盗団のようなグループに目を付けられて、デビッドさんが降車させられたとしても、コンテナの中味が大量の仔ブタというのはすぐに分かりそうなものである。また強盗団が相手であれば、財布や現金に手を付けないというのもどこか腑に落ちない。

地理的に見て、よそからやってきた「流れ者」による犯行の可能性はやや薄いだろう。彼は地元出身者であることから、長年の内に仲違いやトラブルになった相手も周囲に少なからずいたと考えられる。だが仮に恨みを持つ相手がいて付け狙われたとしても、連絡を取り合う「業務中」を狙った犯行は賢明な判断とは思えない。逆説的に、地元民かもしれないが旧知ではない相手という見方ができる。長きにわたって恨みを買うような相手であれば、聞き込みからも浮上しそうなものである。

最も当てはまりやすいのは、煽り運転や迷惑駐車などの交通トラブル、あるいは薬物取引や強引なナンパ行為などをデビッドさんから注意されて報復に及んで拉致したケースである。トラックの運転に第三者が介入したとすれば、不可解な発見場所の説明や、側溝で見つかったジャケットは偽装工作という解釈も成り立つ。しかしおそらく近郊の素行不良者もその数は限られており、案外、普段は問題行動の目立たない社会適応性の高い人物や中高年者かもしれない。

自発的失踪や自死、殺害の可能性さえ見極めにくい不可解な事案である。

 

家族

夫が失踪して1か月もするとクリスマスがやってきて、子どもたちは捜索活動の支援者や心配してくれた人たちから山のようにプレゼントをもらった、とサラさんは振り返る。例年とは全く違ってしまったクリスマスは彼女に夫の不在を一層強く感じさせた。それは思いがけないかたちでたくさんの贈り物に囲まれた子どもたちにとっても同じ気持ちだったであろう。

そんな子どもたちを見守るサラさんの複雑な心中を察したのか、支援者のひとりが「あなたにはティディベアをつくってあげる」と提案した。彼女はテディベア制作の素材として、デビッドさんのお気に入りだったトラックメーカー「ピータービルト社」のワッペンが入ったキャップやいくつかの古着を提供したという。

「それは私にとって、たった一つの、最高のプレゼントになるに違いありません。だって、お父さんだと思って、いつでもハグできるでしょう」

www.youtube.com

サラさんはフェイスブックで頻繁に近況を報告している。事態に進展があれば警察から連絡してもらうことにはなっているが、身元不明男性の遺体発見のニュースが耳に入ると、いてもたってもいられず自ら当局に確認してしまうと綴っている。自分の夫ではないことが確認されると、そうした見ず知らずの死者に対しても居たたまれず、日々祈りを捧げているのだという。

サラさんたちは定期的にメンタルセラピーを受けながら警察や弁護士らとのやりとり、情報発信や取材対応をされている。記事を読むと、家族にできることは限られていることが実感され、悶々と悩み、悲しみ、それでも子どもの成長と家族を支えて生きる姿に胸を打たれる。

https://www.facebook.com/sarah.bogue.96

地元サック郡防犯協会の出資と支援者からの寄付により、発見につながる情報提供には最大で28,000ドル近い懸賞金が設定されている(2024年2月末現在)。懸賞金の額がどれだけ情報提供や犯人逮捕につながるのか具体的には分からないが、事件の周知や風化阻止のためには有効な手段である。

一方で一家の大黒柱を失ったシュルツ家には小学生の子どももおり、事態の長期化により財政状況の逼迫が懸念される。捜索活動の継続に向けて以下のリンクからドネーションを受け付けている。

www.gofundme.com

 

家族の思いがデビッドさんの元に届いていること、一日でも早く家族が再会できる日が来ることを祈ってやまない。

死を免れる死刑囚——連続殺人犯トーマス・クリーチ

「43年間続いた悪夢を終わらせるときがきました」

連続殺人犯にして米アイダホ州最長死刑囚のひとりトーマス・クリーチ(73歳)の執行が目前に迫り、被害者遺族の一人はウォールストリートジャーナル紙の取材にそう語った。

2024年2月28日(水)、男は「最期の食事」としてチキン、マッシュポテトのグレービーソース添え、アイスクリームを所望した。

しかし同日午後、州矯正局(IDOC)は、あろうことか死刑執行が失敗したことを報告した。同死刑囚は執行室の台に拘束され、医療チームが薬物注入のためにまず静脈ラインの挿入を行う手順になっていたが、腕と脚に8回、およそ1時間にわたって繰り返し試みたられたが見つけられなかったという。

 

クリーチの犯罪

アイダホ州では12年ぶりの死刑執行となる“はずだった”クリーチの犯罪とはどのようなものだったか。彼の塀の外での行動記録は限られており、犯罪記録についても大半が自白(手紙を含む)が元となっていることに以下留意されたい。

 

1950年、トーマス・ユージン・クリーチはオハイオ州ハミルトンで口論の絶えない不安定な家庭に生まれた。両親が離婚すると幼いクリーチは父親と一緒に暮らすこととなる。厳格だった父親は少年に体罰を与えたが、クリーチは銃やアウトドア、釣りなどの手ほどきをしてくれる彼をとても愛していた。

だが父親の素行不良は子どもたちに悪影響も与え、クリーチは15歳頃から家出を繰り返すようになった。サンフランシスコに滞在した時期に「悪魔教会」に出会い、同性愛者の男性を手始めに、儀式のために100人近くを殺害してロス近郊の2か所に埋めたと主張している。後年、当局は埋葬地とされる場所を捜索したが、見つかったのは牛の骨だけだった。端的に言えば、クリーチは「信用できない語り手」なのだ。

悪魔教会(the church of satan)…1966年4月30日、アントン・ザンドール・ランヴェイにより設立された団体。一般的にイメージされるような悪魔を神仏のごとく崇拝するのではなく、既存の宗教や奇跡(超自然的現象)をフィクションと捉え、肉欲の獣たる人間の本質を追求するサタニスト自身を宇宙の中心(神)とする。信仰のアプローチは一義的ではないが、懐疑的(冒涜的)自己中心主義、肉欲的自己崇拝、「私有‐神」論と称されている。

www.churchofsatan.com

クリーチは「はじめての殺人は16歳だった」とも語っている。結婚するつもりでいた恋人を交通事故で亡くし、その責任はニューマイアミに住んでいた男友達にあると考えての報復だったという。死因は溺死。小学生の頃に喧嘩でボロボロにやられて帰ると「やられたらやり返せ。周囲に押し流されるな」と父親から説教されていたためだと報復に至った遠因を述べている。

また地元紙はクリーチの手紙での告白を基に、同時期「ヘルズ・エンジェルズ」(暴走半グレ集団)に所属し、依頼されてハミルトンのオートバイギャング5人を血祭りにしたとも伝えている。

警察に残されていた記録によれば、1969年に非武装強盗の罪で逮捕され、12月に懲役刑を受けている。70年5月20日、家族が服役するクリーチの面会に訪れた際、目の前で父親が心臓発作に見舞われた。だが常駐看護師が医療機関に届けるのに手間取り、父親は息を引き取った。事情を知って激怒したクリーチは、葬儀の後、件の男性看護師に刃物で襲いかかり20回近く滅多刺しにした。だが男性看護師は奇跡的に死を免れ、14か月入院したとされる。当のクリーチはこの件で起訴されることはなく、2年の服役で仮釈放とされている。そんなことが現実にありうるのだろうか?

出所後のクリーチは流れ者として越境を続け、アイダホ州で出会った当時17歳のトマシン・ローレン・ホワイトと73年に結婚する。翌74年、アリゾナ州ツーソンのモーテルで起きたポール・C・シュレーダーさん(70歳)刺殺の容疑で二人は指名手配を受けた。ユタ州ビーバーで逮捕されたが、審議の結果、起訴は見送られた。彼らを公判に掛けることができない、刑事責任能力がないと見なされたためである。

オレゴン州セーラムの精神病院に強制入院させられ、妻トマシン・ホワイトは入院中の79年に首を吊って自ら命を絶ったとされる。後年のクリーチの説明によれば、麻薬密売組織から足を洗おうとしてメンバー達とトラブルになった際、彼は取引の帳簿を奪って組織犯罪対策課に引き渡すと言って脅し、強引に組織を抜けた。だがクリーチが服役した隙にメンバーがアパートを訪れ、手帳を奪い返された。何も知らされていなかった妻は集団レイプに遭い、建物の4階から突き落とされて心身に深刻な後遺症を負ったという。それが自死に至った決定的要因であろうと言い、彼はレイプ犯のうち2名を殺めたと話している。

病院での拘束期間を終えたクリーチは、オレゴン州ポートランドでたばこ13カートンを窃盗し、仮釈放違反で逮捕される。州当局は精神病院での長期収容になると見越して起訴手続きを行わなかったが、診療に協力的でスタッフや他の患者とも友好的に過ごしたクリーチは「疾患の疑いなし」と診断されてほどなく退院の許可が下りた。ポートランドのセント・マークス教会で墓守の職に就いたが、居住区内でウィリアム・ディーン(当時22歳)の遺体が発見されたのと時を同じくして、17歳の新恋人キャロル・スポルディングを連れてアイダホに移動した。

アイダホ州ジャーナル紙(74年11月21日付)の記事によれば、11月5日頃、2人は州内をヒッチハイクで移動中、テキサスから巡行中だった画家のエドワード・トーマス・アーノルドさん(34歳)とジョン・ウェイン・ブラッドフォードさん(40歳)の車に拾われると、二人を射殺してカスケード近郊を通るハイウェイ55号沿いの溝に死体を遺棄したとされる。遺体は寝袋とキルトで覆い隠されており、車両は同じ道の40キロ先に乗り捨てられていた。

ほどなく男女への疑惑が浮上して指名手配がかけられ、グレンズ・フェリー近郊で逮捕された。クリーチは逮捕当初こそ「現場近くにはいなかった」と主張したが、その日の内に「私がやった。2人を殺したのは私だ。助けてくれ」と犯行を自白。彼らが刃物を見せて恋人のスポルディングがレイプされそうになったため、衝動的に銃で応戦したと供述する。1週間後、クリーチは割れた鏡で手首を切ったが、すぐに取り押さえられて軽傷で済んだ。

75年6月16日には同房で口論となったウィリアム・O・フィッシャーを襲って負傷させたが、容疑事件以外で裁判に影響を与えるおそれのある情報を公表してはならないとして緘口令が敷かれた。

 

審理の行方

〔1〕クリーチの裁判

1975年10月に始まった裁判で証言台に立ったクリーチは、13州で起きた42件の殺人が自らの手によるものだと発言して全米に衝撃を与えた。

だが当局は自白の大半が虚偽であり、悪魔教会の話にしても「一言一句すべてプレイボーイ誌の受け売りだ」と反駁。当時関与の疑いがあるとして当局が追及した殺人事件は合わせて9件で、いずれも悪魔教会とは無関係で主に強盗目的と見られていた。

数多の余罪を告白するクリーチだったが、一方で直近のアーノルド&ブラッドフォード殺害については無罪を主張していた。だが事件直後に偶々クリーチから声を掛けられて親しくなったという男は、クリーチからショットガンを渡されて遺棄するように頼まれていた。

追加証人や再調査により審議は長期化したが、今日のような記録媒体に乏しい当時のことで事実確認の困難な事象があまりにも多かった。陪審も混乱を極めたが、1976年3月25日、2件の殺人によりクリーチに絞首刑の判決が下された。

尚、恋人のスポルディングは一部の殺人幇助を認め、懲役2年の判決を受けた。その間、男児を出産している。

独房で自作の歌を唄う31歳のクリーチ [KTVB]
〔2〕死刑制度をめぐるうごき

アメリカでは法律や裁判制度について連邦(国)と州の二元的な仕組みが採られ、死刑の有無や執行の手段、量刑の判断基準などは州によって異なる。アイダホ州では1957年の執行以来、死刑制度は事実上凍結されていたが、60年代後半から死刑をめぐる国民的議論が再燃していた。

 

1967年8月、ジョージア州サバンナでウィリアム・ヘンリー・ファーマン(24歳)が強盗殺人で逮捕された。いかにも金持ちそうな豪奢な建物だった訳でもなく、事前に計画された犯行でもない。酔っぱらったファーマンはラジオでも手に入ればというつもりで物色を始めたが、物音に気付いて起き出してきたウィリアム・ミッキさんに見つかり強烈なタックルを受けた。怯んだ強盗はミッキさんに銃を向け、後ずさりしたところ、洗濯機のワイヤーにつまづいて転倒し、その拍子で一発誤射してしまう。慌てたファーマンはすぐにその場から逃走したが、弾丸は図らずもミッキさんに命中し、その命を奪う。

情緒障害、精神障害と判定され、過去に4度の前科持ちだった黒人ファーマンの「転んだはずみ殺す気はなかった」という証言が素直に認められるとは思えなかった。黒人弁護士クレランス・メイフィールドは殺人罪適用の可否をめぐって争い、電気椅子の回避に努めた。しかし過失とはいえ発砲は犯罪の最中に生じており、結果的に人命を奪った事実は揺るがず、69年に死刑判決が下される。

当時の社会情勢として公民権運動とその反発が続いていた。テキサスに基盤をもつジャクソン大統領の後押しにより1964年に公民権法が制定され、アフリカ系アメリカ人への差別解消に向けたアファーマティブ・アクションが推進されたものの、差別解消は一筋縄には進まなかった。65年に公民権運動のデモ行進と警官隊との衝突によって死傷者を出した「血の日曜日事件」、68年4月には差別に対して非暴力による抵抗を唱えてノーベル平和賞を受けたキング牧師が暗殺されていた。

弁護団はファーマンの判決についても差別感情や恣意的介入があったのではないかと訴え、公平性を欠いた状況で死刑を下すべきではないと疑義が呈された。これにより法律や裁判は成熟社会の進歩と人道的正義による啓発を反映すべきだとする世論が広がりを見せた。社会正義を求める市民たちが「異論の余地がある」犯罪について死刑という可塑的刑罰を与えることそのものに疑義を抱いたのである。

1972年6月、連邦最高裁判所は「死刑は、差別的な結果をもたらす恣意的かつ気まぐれな方法で課される場合、残酷で異常な刑罰を禁じる憲法修正第 8条に基づき違憲である。」との訴えを評決5対4で可決した。この「ファーマン対ジョージア州判決」は、各州でばらつきのあった死刑適用に法的一貫性を持たせるために、事実上、全米の死刑制度を一時的に無効化させた。ファーマン本人は勿論、当時の588人の死刑囚は死刑適用が失効され、終身刑に改められるという前例のないできごとだった。

(※ファーマン自身は死刑制度への批判や国を相手取る裁判を主導していなかった。84年4月に仮釈放が認められ、目を患って障害者保障や生活保護で部屋を借り、缶拾い等をしながら暮らしていた。2004年に窃盗で逮捕、2016年に再び仮釈放された。)

 

死刑制度無効の「猶予」はそう長くは続かなかった。

1973年11月、ジョージア州グウィネット郡のハイウェイ20号脇の排水溝で頭部を銃撃された男性2人の遺体が見つかり、フレッド・エドワード・シモンズさんとボブ・ダーウッド・ムーアさんと特定される。生前彼らはフロリダ州を走行中に車が故障し、ハイウェイパトロールの助けを借りて近郊の中古車ディーラーに送ってもらっていた。そのとき2人は多額の現金を持ち合わせており、旧車を購入。旅を再開させた直後に殺害されたものとみられた。

新聞報道を見た旅人のデニス・ウィーバー氏は「ヒッチハイクで彼らの車に乗せてもらった」として情報を提供した。彼は北フロリダからジョージア州アトランタまで同乗し、殺害された2人のほか、ヒッチハイカーの先客グレッグと16歳の少年アレンがすでに同乗していたという。同乗者2人はノースカロライナ州アッシュビルを目指しており、グレッグが運転役を買って出ると、シモンズとムーアは深酒したが、5人でいたときにトラブルの予兆はなかったと語った。

当局からの連絡を受けて、アッシュビル警察は車両とヒッチハイカーたちを追跡。ほどなく中古車を奪ったトロイ・レオン・グレッグとアレン、その他3人が同乗しているところを逮捕された。証言台に立ったグレッグは、道路脇で休憩中にシモンズさんとムーアさんに暴行されそうになったと述べ、銃撃は正当防衛だったと主張する。

グレッグが逮捕時に100ドル以上の現金を所持し、ヒッチハイク時とは別の服に着替えていたが、旅行前は手持ちが8ドルだったことが判明。グレッグは「当たり屋行為でタクシー運転手から金を巻き上げた」「服は元々持っていたか、モーテルで拾ったか、アレンが買ってきたもの」と曖昧な証言を繰り返した。

しかしアレン少年は、獄中でグレッグから口裏合わせをするように指示する手紙を受け取ったと暴露し、泥酔した2人を車から降ろした際に「強盗するぞ」と指示があったと証言。また検視官は、3発の銃弾がこめかみや後頭部、右頬に撃ち込まれていたとして、襲われて応戦する場面での反射的な射撃ではないことを示した。グウィネット高等裁判所では先述した「ファーマン対ジョージア州判決」以来の死刑判決が下された。

弁護側は死刑適用に疑義を唱え、1976年3月、連邦最高裁で「グレッグ対ジョージア州判決」の可否をめぐる審理が行われ、7対2で判決の妥当性が支持されることとなる。評決日に因み「7月2日訴訟」とも呼ばれるこの決定で、死刑制度の一時凍結は解除された

死刑に科すべき要素、判断手順のプロセスが明らかとされ、いつ科されるかを決定する合理的基準さえあれば「残酷で異常な刑罰」とは言えないものと判断された。また死刑凍結に対する反発で「死刑は違憲ではない」とする世論が強まっていたことも背景にあろう。

最高裁は死刑制度について「憲法修正第8条の中核となる人間の尊厳の基本概念に適合している」と認定。「社会の道徳的怒りの表現」であり、人道に対する重大な侮辱に対する「唯一の適切な対応」であるかもしれない、との見解を説いた。死は重篤で取り返しのつかないものであるが、意図的に他人の生命を奪う犯罪と不釣り合いであるとは言えず、「最も極端な犯罪にふさわしい極度の制裁である」とした。

死刑制度は半恒久的な不文律として存在するのではなく、有史以来、その場所そのときどきの人権意識や社会情勢に照らしてその必要性が議論され、適用基準や処刑方法などが定められてきた。今日でも州によって死刑の可否は異なる。

余談になるが、死刑囚となったグレッグも「死刑執行」を免れている。1980年7月、ジョージア州刑務所にいた他の3人の殺人死刑囚と共に脱獄を計画し、独房の鉄格子を金ノコギリで破り、壁沿いに非常階段へと伝い、駐車場に準備されていた仲間の車に乗り込んで逃走に成功したのである。グレッグが新聞社に脱獄の成功を知らせるまで発覚していなかった。しかしその晩、ノースカロライナ州のバーで深酒し、ウェイトレスにちょっかいを出していたところをアウトロー・バイカー集団に因縁をつけられて袋叩きにされ近くの湖に遺棄された。享年32。バイカー集団の容疑者は逮捕されたが証拠不十分により告訴は取り下げられた。

 

〔3〕死刑回避と二度目の死刑

クリーチの裁判に話を戻そう。

アイダホ州では翌73年7月7日に死刑制度自体は復活しており、死刑判決の下された76年3月は最高裁でまさに「グレッグ対ジョージア州判決」の審理が行われた直後だった。評決の結果次第で刑の即時執行が予想されるなか、弁護団はそれを回避するため、ひとまずクリーチを他州での余罪に関する裁判へと送り込んだ。

74年にカリフォルニア州サクラメントの自宅で発見された税監査官ビビアン・ロビンソン(当時50歳)の遺体は腐敗が進行して当初は死因の特定も困難な状態だった。だが徹底した鑑識の結果、検出された指紋がクリーチのものと一致し、捜査を経て窒息死と判明した。またクリーチが墓守として勤めていたオレゴン州セイラムの教会で射殺されて見つかったウィリアム・ディーンについても犯行を認めた。最終的にアイダホ、カルフォルニアオレゴンの3つの州で5件の第一級殺人による有罪判決を受けた。

その間、ブルース・ロビンソン弁護士は、「グレッグ対ジョージア州判決」の議論や最高裁の下した判断を精査し、「クリーチは死刑の適用基準を満たしていない」と判決への不服を申し立てた。

79年、「グレッグ対ジョージア州判決」に対する最高裁決定よりも前に制定された当時の州法における死刑制度は「違憲」であり法的正当性はないことが州最高裁で認められた。クリーチへの断罪が白紙撤回されることはなかったが、終身刑への減刑に成功する。弁護人の尽力と時勢によって紙一重で死刑を免れたのである。

 

クリーチの身柄はアイダホ州厳重警備施設に送られた。凶悪犯罪者でありながら反抗的態度を示すことなく、詩や音楽を好み一見温厚そうな様子から所長の信用を得、独房を出て所内清掃などに携わる用務員役を任されることとなる。彼の危険性を知るエイダ郡保安官や裁判で死刑を主張してきた検事、囚人らが抗議したこともあったが担当を外されることはなく、やがてそうした懸念は現実のものとなる。

1981年5月13日、クリーチは電池入りの靴下を凶器にして、自動車窃盗で懲役3年の刑を受けたデビッド・デール・ジェンセンを撲殺した。ジェンセンは元々は警備の手薄なコットンウッド矯正施設にいたが、脱走騒ぎを起こしてクリーチのいたボイジャーの厳重警備の刑務所に身柄を移されていた。当人の弁によれば「麻薬取引」を持ち掛けられて口論になったことがあり折り合いが悪かったとされる。

量刑公聴会に掛けられることとなったクリーチは、運動と入浴のために独房から一時解放されたジェンセンから先に脅迫や攻撃を受けたため応戦した正当防衛だったと説明し、ジェンセンの父親に謝罪した。だがマスコミの前では「残りの人生を独房で過ごすくらいなら死んだほうがマシだ。死を受け入れる準備はできている」と死刑を望んだ。

死亡したジェンセンは数年前に自殺未遂で脳の一部を切除しており、言語や運動能力に障害を持っていた。正当防衛の範囲をはるかに超えて一方的に攻撃し続けたとみなされたクリーチは、82年に生涯二度目となる薬物注射による死刑判決を言い渡され、死刑囚監房へと戻された。

84年、クリーチはジェンセン殺害について連邦最高裁に控訴請求し、即日却下された。訴えによれば、身元は明かせないが「受刑中の第三者」にジェンセン殺害を依頼されたことがあり、自分がその依頼を断ったため「第三者」がジェンセンに刃物を持たせてクリーチを襲わせ、トラブルを誘発させたのだという。つまり「第三者」によって仕組まれた罠によってジェンセンを殺してしまったというのである。

その後も、独房の暴力性を訴えて人身保護令状を提出するなど10年近くにわたってあらゆる上訴や動議を繰り返した。

Thomas Creech, mugshot [Idaho DC]

アイダホ州最高裁によれば、2019年までに「クリーチは少なくとも26人の殺害及び過失致死を認めており、犠牲者のうち7州から11遺体が収容された」と声明を出している。89年の開設以来、キース・ウェルズ、ポール・エズラ・ローズ、ジェームズ・エドワード・ウッドら重度精神疾患が認められた連続殺人犯たちを収容してきたアイダホ厳重警備研究所(IMSI)で専用ベッドの一床を割り当てられてきた。その内なる凶悪性と被害の甚大さはもはや疑いようもなく、長年にわたる経費負担の大きさからも迅速な死刑執行が求められてきた。

1977年以降、全米で1500件以上の死刑が執行されてきた。23州とワシントンD.C.では死刑廃止、3州が執行停止、24州で存続しており、近年は減少傾向にある。80年代以降、全米で死刑執行手段として「薬物注射」が注目された。連邦法による規定はないが、通常は3種類の薬剤を静脈注射する。麻酔薬ペントタールナトリウムで意識を失わせ、臭化パンクロニウムにより心臓以外を筋弛緩状態にさせ、最後に塩化カリウムで心停止させる。だが生産量が厳しく管理されていることから供給が追い付いていないことから、死刑囚たちの長期収容が問題となった。また看守らが投与に不慣れなことや麻薬常習者の場合、静脈注射が難しいといった直接的な課題も指摘されている。

ジェンセン殺害以来は模範囚として過ごし、詩と音楽、対話によって多くの長期収容者、死刑囚の心的ケアを担ってきたクリーチの存在は「獄中の神父」とも例えられる。州の恩赦・仮釈放委員会は、もはや社会的脅威ではないとして男の死刑執行停止を唱えてきた。州が執行の動きを見せるごとに、減刑や恩赦を求める動議が請願され、連続殺人犯の命をめぐって緊迫したシーソーゲームともいえる膠着状態が長年続いてきた。

2023年の減刑を巡る公聴会は3対3で過半数に達しなかったため死刑判決は維持され、これ以上の長期化を避けたい矯正局は薬物の確保を明言し、州知事は「先延ばし」に対してを公然と批判した。2024年1月、ジェイソン・D・スコット判事は2024年2月28日の執行を約する令状に署名。ジェンセン殺害当時、4歳だった娘は恩赦の嘆願を強く非難し、「これまで自分は決して恩赦を受けてこなかった」「父が亡くなって長い年月が経ったのに今なおクリーチが存命であることに憤りを感じます」と述べた。

 

下は二度目の死刑判決を受ける直前にクリーチが受けたインタビュー。落ち着いた様子で整然と語る様子、「娘も私がしてきた過ちを知っており、それによって彼女にも深い痛手を与えてしまったことを後悔している」といった家族への思いは、とても「精神異常者」「凶悪犯罪者」とは思えない。

www.youtube.com

「目に見えない脳の病気」と言われてしまえばそれまでだが、精神病者と健常者、凶悪殺人犯と前科のない一般市民、死刑囚や神父の間に、私たちが思い描くほどのちがいは存在しないのではないかという気にさせられる。

 

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。

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1981 interview with Thomas Creech, Idaho's self-proclaimed serial killer - YouTube

The men who escaped their fate on Death Row | The Independent | The Independent

『ガール・イン・ザ・ピクチャー』—フランクリン・フロイドの大罪

2023年1月23日、フロリダ州ユニオン矯正施設に収監中だった79歳の確定死刑囚の死亡が確認された。明確な死因は特定できなかったが自然死とされている。男の名は、フランクリン・ロイド。

前年にNetflixで公開された映画『Girls in the picture』が世界的に高い評価を集め、嘘と犯罪にまみれたその半生が再注目された世紀の凶悪犯である。

 

あるダンサーの死

1990年4月、深夜のオクラホマシティ郊外を車で走行中の若者たちが道路沿いにブロンズヘアの若い女性が頭から血を流して倒れているのを発見し、まだ息があったため救急に通報した。

女性は外部から重度の打撲傷を負い、頭蓋底に大きな血腫が生じており、集中治療室へと担ぎ込まれた。彼女の身元はオクラホマ州タルサに住むトーニャ・ドーン・ヒューズと判明。近くのストリップ酒場「パッション」でダンサーとして働き、家族には年配の夫クラレンスと幼い息子マイケルがいた。

 

夫のクラレンスは翌日病院に駆けつけた。昨晩、滞在中の「モーテル6」(北米に展開する格安モーテルチェーン)で買い物に出た妻の帰りを待っているうちに寝入ってしまったと語った。発見現場には購入したばかりの食料品が散乱していたため、警察は彼の証言を踏まえて女性はモーテルへの帰り道でひき逃げに遭ったものと判断した。

 

年配の夫

同僚のカレン・パースリーさんは、89年の秋にトーニャと知り合った。ダンサーとしては一番下っ端で、活発で目立つ女性というよりはおとなしい優等生タイプだった二人はすぐに親しくなった。彼女は知識欲に富んだ読書家でよく語り合ったと振り返る。楽屋ではトーニャの痣まみれの背中を目にしたと言い、「転んでできた」と彼女は言い訳したが、癒えるよりも先にその数は増えていった。

カレンさんは暴力夫の存在を察して逃げるようにと勧めていた。あるとき「夫が私に生命保険を掛けた」と語ったトーニャは死の恐怖に晒されて怯えていた。だが夫に愛する2歳の息子マイケルを半ば人質に取られ、精神的に囚われの身だった若い母親は逃げのびる決心がつかずにいた。夫は警察友愛協会(FOP)にコネがあり、たとえ逃げ出してもすぐに見つけ出すことができると彼女に伝えていた。

トーニャが集中治療室に担ぎ込まれたと連絡を受け、カレンさんは病院に急いだ。看護師のひとりは、全身の痣や古傷を不審に思い、ひき逃げではなく別の犯罪行為だと漏らしていた。カレンさんが不審に感じたのは、首元のひっかき傷でまるで喧嘩でできた傷のように見えたという。帰宅すると、病院から電話が入り、トーニャの訃報を告げられた。まだ20歳だった。医師もひき逃げにしては外傷が比較的おとなしいこと、また術後の容体が急変したことを不可解に感じていた。

カレンさんはともかく彼女の死を家族に伝えてあげなくてはと考え、トーニャの実家と思われる連絡先を調べて電話を掛けた。だがトーニャの親と思われた人物は「娘は20年前に生後18か月で亡くなった」と返答する。それは亡くなった同僚が偽名を教えていたこと、彼女がトーニャ・ヒューズではなく別人であることを意味した。本名は明らかにならず、墓銘には「TONYA」とだけ記すことになったという。

カレンさんの知るかぎりでは、マイケルは年配の父親にはなついておらず母親の傍を片時も離れなかった。また何より父親によるDVが懸念されたため、カレンさんは病院にマイケルの今後について相談した。看護師は「坊やは無口で塞ぎ込んだ表情をしている」と伝え、福祉局(DHS)の資料を手渡した。福祉局は育児不適正を理由に父親からこどもの身柄を引き離し、すぐに里親さがしが行われた。

 

里親の証言

幸い里親はすぐに見つかった。マイケルは90年5月からオクラホマ州コクトービーン夫妻のもとに預けられ、6歳の小学校入学まで共に生活した。アーネスト・ビーンさんによれば、当初は哺乳瓶を手離そうとせずペプシしか受け付けない難しい子だったという。どうにかしつけようとすると、赤ん坊は頭を床に打ち付けてヒステリーを起こした。だがそれも一週間もすると落ち着いて、2年が経つ頃には赤ん坊から少年へと身体も情緒も目覚ましい成長を見せた。

養親ビーン夫妻のもとで育てられたマイケル

ビーン夫妻はマイケルを正式な養子に迎え入れることを決断し、94年に公的手続きが開始された。だが仮釈放違反で裁判中だった父親は一方的に息子を取り上げられるのは不当だと訴え、親権譲渡は難航した。クラレンスは審問の場で、福祉局がマイケルを引き取った当時、マイケルのおむつが濡れたままだったり愛情の欠如が見られたのは、妻の急死で自身も衰弱していたためだったと主張。父親は養育は不適格とされたが、息子との定期的な面会が認められた。

里親ビーン夫妻も息子との再会を求める父親と面会させること自体はやぶさかではなかった。だが少年はかつての父親を「意地悪な人」だと言って椅子の下に身を隠して面会を拒絶し、夫妻を困らせた。マイケルは当然クラレンスとトーニャの子どもだと思われていたが、福祉局が法的手続きのため親子関係の調査を行うと、驚いたことにクラレンスとマイケルの間に生物学的な親子関係が認められないことが判明。裁判所により男の親権は完全に抹消された。

事はそれで収まるかに思われたが、翌週、夫妻の家の前に見慣れないFordのピックアップトラックが徘徊するようになった。車は低速走行で家屋に近づくと、運転席の見知らぬ中年男が夫人を凝視してきた。男は「ものをたくさん持って死んだ者の勝ちだ」と彼女に言い放ち、そのまま去っていった。

意味は分からなかったが嫌な予感がした夫人は福祉局に、少年の“元・父親”が乗っていたのはどんな車かと尋ねた。再会を強く望んでいた元・父親クラレンスが“息子”を取り返しにきたのではないかと思ったのである。担当者は考えすぎではないかと話したが、伝えられた車の特徴は夫人が目にしたものと完全に一致を示した。

 

運命の日

1994年9月12日、森の中で木に手錠を掛けられ、口をテープで覆われた男性が発見され、ほどなく近くのインディアン・ミリディアン小学校の校長であることが判明した。校長は「保護者らしき男に銃で脅された」「男児が連れ去られた」と話した。

「マイケルを迎えに来た。協力しなければ何をするか分からないぞ。連れてこい」

校長は背後に死の恐怖を感じながらマイケルを1年生の教室まで迎えに行き、校長の車で山間の未舗装路へと移動を命じられた。男は車を停めるように指示すると、校長はしばらく歩かされ、目立った暴行被害こそなかったものの山中で拘束されたという。

児童誘拐は発生から48時間が生死を分けるとされ一刻の猶予も許されない。地元保安局はFBIに捜査を依頼し、特別捜査官ジョー・フィッツパトリック氏はすぐに少年と父親を名乗る誘拐犯の手配書を周辺の捜査機関に交付。直ちにマイケルの“元・父親”クラレンスに関する情報収集が行われた。

児童誘拐の広域捜査を知らせる通知

90年にトーニャ・ヒューズを名乗る女性が死亡した際、夫は生命保険金受給の手続きを行っていた。だがその書類に記載された社会保障ナンバーは、クラレンス・マーカス・ヒューズ本人のものではなくフランクリン・デラノ・フロイドのものだった。フランクリン・フロイドは、他にもトレントンデイビス、ウォレン・マーシャルなどの偽名を持ち、いくつもの犯罪歴があった。

逮捕記録では、まず1960年、フロイド16歳のとき、カルフォルニア州のデパートで拳銃を盗んで逮捕されていた。逃走中には警察との銃撃戦を繰り広げ、腹部に銃撃を受けたが回復して少年矯正施設に入った。

施設を出てアトランタでドライバーを始めた62年には、ボーリング場で4歳児を誘拐しての性的暴行により逮捕され、裁判で10年以上20年以下の服役を言い渡されている。だが精神検査のためジョージア州で病院に移送された際、逃走したばかりか銀行強盗に及んだ。脱走や強盗の加罪によりオハイオ州チリコシ―矯正院に収監されるも、再度脱獄を試みてペンシルベニア州ルイスバーグ刑務所へと収監された。

72年11月、社会適応施設に移った。2か月ほどの訓練期間を経てようやく社会復帰が認められるも、1週間後には性的暴行未遂で再び逮捕される。審問は73年6月に予定され、囚人仲間に保釈金を支度させてその間の拘留は解かれたが、フロイドはそのまま出廷することなく行方をくらませた。逃亡し、別人になりすましてそれから17年もの偽装人生を歩んでいたのである。

若き日のフランク・フロイドのマグショット


捜査員たちは男の前科を知って頭をもたげた。フランクリン・フロイドは子どもの父親でないばかりか、銃を所持していて何をしでかすか分からない元強盗の性犯罪者であり、逃亡犯で潜伏生活の“プロ”でもあった。男の素性が知れると、当然その“若妻のひき逃げ”についても疑問が抱かれた。彼女の死は、夫による保険金目的の「殺人」だったのではないか。

マイケルを誘拐した目的ははっきりしないが、いざというときの「人質」として攫ったものか、あるいは奪われた獲物を力ずくで取り返そうとする所有欲の強い熊のような男の「習性」なのか。とにかく男に子育てなど期待できない、一週間もすれば負担に感じて男児を殺害するのではないか、とフィッツパトリック特別捜査官は危惧した。

 

奇妙な父娘

捜査機関は広く情報提供を求め、児童誘拐とトーニャ・ヒューズ殺害の嫌疑はニュースでも大きく取り上げられた。ジョージア州に暮らす女性フィッシャーさんはホットラインに通報を入れた。

「テレビで“トーニャ”と呼ばれている女性の、生前の情報を持っています。彼女の名はシャロン・マーシャル。高校の同級生で私の親友でした」

 

シャロン・マーシャルは84年から86年までジョージア州のフォレストパーク高校に通っていた。男子からも注目される美貌の持ち主で成績も優秀、同年代より少し大人びていて常に弱者の味方だったと親友は語る。彼女は母親を亡くしており、料理や家事の一切を任されていた。科学部に所属したが毎日夕方にはまっすぐ家に帰った。

PCや携帯電話も普及していなかった当時、若者たちは夜中まで電話を占有してしばしば家族に渋い顔をされたものだった。だがシャロンは「こちらから掛けるから、急にうちに掛けてこないでね」とフィッシャーさんに求め、父親に通話を気づかれると怯えてすぐに電話を切った。家事もさせられて電話も許してもらえないとは余程厳しい父親なのだとフィッシャーさんは思っていた。だがそんなシャロンの父親ウォレンとの初対面は、彼がフィッシャー家に借金を申し入れに訪れたためだったという。

86年、シャロンジョージア工科大・航空宇宙工学科に全額奨学金を獲得しての合格を果たした。父親は卒業文集の広告枠を買って娘の快挙を祝うメッセージを寄せたが、親友は「なぜ父親が娘のセクシーな写真を載せるの?意味が分からない」とばっちりメイクを決めた彼女の写真を見て違和感を覚えた。

父親が卒業文集に寄せたメッセージ。合格を祝し、夢を応援しているようにも見えるが…

フィッシャーさんはマーシャル父娘の家に泊りに行ったことが一度だけあった。シャロンの部屋にドアはなく、カーテンで仕切られた一画だった。彼女は整理棚を開けて「父から貰ったものなの」とセクシーなランジェリーを見せて親友を驚かせた。「なぜこんなものを着るの?」と驚く親友に、シャロンは「きれいだから」とだけ答えた。

その後、二人が着替えをしている最中、父親ウォレンが銃を手に部屋に入ってきた。仰天したフィッシャーさんは叫び声をあげて慌てて身を隠した。ウォレンは「出直そう」と言って部屋を後にし、シャロンは「お父さんたらバカね」と言って笑った。だが再び銃を手に部屋を訪れた男は、フィッシャーさんに寝袋に籠って枕を頭の上に被せるように命じた。恐怖に打ち震える親友の隣で、男は娘をレイプし始めた。

翌朝、シャロンは言った。「彼はああいう人なの」「私は大丈夫だし、あなたも無事だった。だからこのことはもう忘れましょう」。親友は恐怖のあまりこの出来事をだれにも打ち明けることができず、青春時代に暗い影を落とした。

いつしかシャロンは「妊娠が発覚した」と言って泣きながら電話を掛けてきたことがあった。彼女は「子育ては父親が許さない」「出産して養子に出す」と話した。フィッシャーさんは以前から彼女の夢を後押ししており、大学合格時には一緒に泣いて喜んでいたが、シャロンは「父親の世話がある」と言って進学を断念した。別の友人は「大学への進学が彼女の目標であり生きる支えだった。だから道が閉ざされて打ちのめされていた」と語る。卒業後、アリゾナで出産すると言い残し、シャロンジョージアから姿を消した。

 

「違う!彼は夫ではなく、彼女の父親だった」

1994年、通報したフィッシャーさんはジョー・フィッツパトリック特別捜査官と面談し、トーニャと報道された女性はシャロン・マーシャルに間違いないこと、更にトーニャの年配の夫クラレンス・ヒューズの写真を見てシャロンの父親ウォレン・マーシャルであると断言した。だが親友はジョージアを発ってからの彼らの人生を知らない。

男女は父「ウォレン」、娘「シャロン」というマーシャル父娘の人生を捨て、89年6月15日にニューオリンズで結婚することになる。90年に彼女が亡くなるまでの間、アラバマの墓石から採用した「クレランス・ヒューズ」「トーニャ・タドロック」という二人の死者の名を騙った男女は、ヒューズ夫妻として生活を送っていた。

 

“父娘”が“夫婦”になる直前の88年、男女はジョージア州から南下し、フロリダ州タンパへと流れ着いていた。当時活況を呈していたストリップ劇場「モン・ヴィーナス」にはじめて現れたシャロン・マーシャルは明らかに場違いに見えた。ゴージャスな高級ランジェリー姿で練り歩く女性たちを前に、シャロンは白い総レースの上着を羽織って「お人形さん」のように縮こまっていたという。働き出してからも裸同然で歩き回るようなことはせず、恥ずかしがり屋で「昔話」を好まなかった。

同僚だったダンサーのヘザー・レーンさんは、彼女と父親の奇妙な噂を記憶していた。当時、店のダンサーたちは富豪が催すパーティーに招かれることがあった。そうしたパーティーの客は上品で“おさわり”を求められることさえなく、少ない踊りでチップを弾んでくれるため、楽で実入りのいい営業だった。シャロンは初舞台の場にそうしたパーティーを志願したが、その晩、「あの娘をつまみ出せ」と客からクレームが入った。トイレの前で性的サービスを持ち掛けたためである。彼女が言うには、父親に避妊具を持たされて“商売”するように命じられたのだという。

「娘にそんなことをさせる父親なんて、信じられなかった」

シャロンは妊娠しており、88年3月にマイケルを出産。赤ん坊を愛しむ若い母親のまなざしが忘れられないとヘザーさんは振り返る。

当時近所で暮らしていたミシェル・カップルスさんは15歳でマイケルのベビーシッターを頼まれ、マーシャル父娘の暮らすトレーラーハウスに出入りしていた。父娘に友人はほとんどなかったが、シャロンのダンサー仲間シェリル・コメッソが週に何度か車で遊びに来ていた。おしゃれで美貌のシェリルから声を掛けられるとドキドキして嬉しかった、とミシェルさんは振り返る。ヘザー・レーンさんによれば、シェリルはミスコン優勝歴を誇るイタリア娘で「モン・ヴィーナス」を踏み台に『プレイボーイ』モデルを夢見ており、派手な見た目だが根は純真な女性だったという。

ある晩、ウォレンがテレビのプロレス中継を録画しようとビデオテープを漁っていた。彼がテープの中身を確認しているのを盗み見たミシェルさんはその映像に驚いた。あのシェリルと娘のシャロンがトップレス姿でビーチで踊っている内容だった。(娘の裸を撮っているの?)と少女は困惑した。ベビーシッターの視線に気づいたウォレンは「誰にもいうな。冗談で撮っただけだ」と言い逃れをした。

ビデオ撮影の話はヘザー・レーンさんの耳にも入り、シェリルを叱った。シェリルは「ウォレンに頼まれたの。『プレイボーイ』に送ればデビューできるって言われて」と答えた。またシェリルは彼からセックスを求められたことも明かした。関係を拒むと男は“スイッチ”が入って暴力的になり顔を殴られたという。ヘザーさんは「私では守ってあげられない。あの父娘と距離を置くように」と諫めていた。89年5月、シャロンは職場に現れなくなり、“奇妙な父娘”はいつの間にか町から姿を消した。

 

捻じれたタイムライン

夫婦はかつて父娘関係を騙っていた。ジョー・フィッツパトリック特別捜査官は集められた情報を基に事件と男女の時系列を整理し直した。またオクラホマシティではかつて隣人だったという人物から父娘の古い写真が得られた。70年代に撮影されたと見られ、写っている少女は5~6歳のように見えた。

1990年にトーニャ・ヒューズが死亡したときの年齢が20歳。逆算すれば彼女の出生は70年前後と推測される。だが前述のようにフランクリン・フロイドは4歳女児への性的暴行などにより63~72年の間、その身柄は獄中につながれていた。つまりDNA型鑑定をするまでもなく、彼らが実の父娘でないことは自明だった。

犯罪学者によればこうした写真は性犯罪者に顕著な「記念品」と分析され、理想の「娘」を手に入れたときの記念撮影と考えられた。元「娘」で「妻」となり、死亡した彼女もまたフロイドによる誘拐被害者のひとりだったとする見方が成り立った。

70年代に撮られたとみられる「父娘」の写真

フィッツパトリック特別捜査官は一計を案じる。犯罪者には必ず独自の修辞法や行動パターンが存在する。「逃げ場」を求めるのに彼らは以前と同じことを繰り返す、土地鑑のある場所に戻ってくると考えられた。男が使用したことのある全ての偽名、運転免許証を全州に通知して、あぶり出しに生かそうとした。

誘拐から2か月後、男は網にかかった。免許更新のためにケンタッキー州ルイビルの車両管理局を訪れたのである。配達員が新しい免許証を届けに来たように装い、自室から出てきた男を取り囲んだ。過去には警察と銃撃戦を繰り広げたこともあり、SWATまで投入しての盗りものだった。

現場アパートの住人に聞き込みが行われ、フロイドは6週間そこで暮らしていたが、マイケルやほかの人間の出入りはなかったという。職場などでも確認が行われたが、少年の存在を知る者はだれもなかった。アトランタからのバスチケットも発見されたが、「子ども分」はなくフロイドは単身で移ってきたものと見られた。男は「こどもはアトランタに置いてきた」と捜査員に告げた。

俺は息子を愛してる。見つけてほしい

フロイドは取り調べに対し、「自分はマイケルを愛している。彼は存命で、金持ちの家に預けた」と供述した。しかし該当する人物はなく虚偽と判断された。さらに詰問されると「国外に逃げたとき残したままだった」と俄かには信じがたい供述へと変遷した。もはや言い逃れと捉えられ、捜査陣はすでに殺害されたとの見方が多勢を占めた。しかし自白も証拠もないまま少年の死を確定するわけにはいかない。

「会いたいです、彼は実の息子同然です。マイケル、愛しているよ。居場所さえ分かれば飛んでいくのに」「彼の大きな瞳が愛を伝えている、ひと目見れば本人だと分かります」

里親だったビーン夫妻はマイケルの写真をプリントしたTシャツ姿で記者会見に臨み、カメラ越しに情報提供を呼び掛けた。同じ髪色の少年を見かけたとの情報は全国から寄せられたものの、結局本人にはたどり着かなかった。

「そうと確認されるまでは、また会えることを期待してしまう」とビーン氏は捜索当時の思いを振り返る。

 

裁判

フランクリン・フロイドは男児誘拐、車両の強奪、銃器不法使用の罪で起訴された。

「裁判所で彼の姿を目にした。空虚で死んだような目をしていた。チャーリー・マンソンの目だ。恐ろしかった」とジョージア州での捜査に当たった保安官は被告を初めて見たときの戦慄を語っている。

一見どこにでもいる大人しそうなおじさんにも見えるが…

 

心証では限りなくクロに思われた「マイケル殺害」だが、現実の立証は困難を極めた。裁判では自白や直接的な証拠がなくとも有罪をとることは不可能ではないが、「合理的に疑う余地がない」水準にまで情況証拠を積み重ねる必要がある。しかしそもそも少年の遺体は見つかっておらず、移動中の二人の姿や殺害現場を目にした者もいない。いつどこでどんな犯行が行われたか、所在を含めて何も明らかにはなっていなかった。

フロイドにとって検察や裁判官とのやりとりも手慣れたものだった。彼は弁論の機会を与えられる度に、尊大なパーソナリティと自己愛性性格、反社会的人格によって彩られた反論を延々と繰り返した。

証言台に立ったフィッシャーさんは「男は親友のシャロンの父親で、彼女に“Daddy”と呼ばせていた」とジョージア州時代の男女の関係について述べた。だが被告人の男はうろたえもせず「あんたの言ってることはFBIの資料に基づいたでっちあげだ」と言い放ち、被告人の弁護士も呆れた様子で書類を宙に投げた。

たしかに耳を疑いたくなるような話だが、捜査資料やフィッシャーさんら男女の過去を知る者にとっては紛れもない事実だった。フロイドは「マーシャル父娘」「ヒューズ夫妻」の全てを実在しなかった出来事であるかのように“卓袱台返し”を繰り返し、まともな質疑応答はなされなかった。

 

被告弁護側は、校長の拉致や拳銃の不法使用といった事実は争わず、マイケルの殺害を徹底して否認した。また被告の統合失調症の病歴や不憫な生い立ちを説明して情状の余地を求めた。

フランクリン・フロイドは1943年6月、ジョージア州バーンズビルで5人兄弟の末っ子として生まれた。綿工場に勤めていた父親はアルコール依存症で臓器不全を起こし、フランクリンが1歳のときに亡くなった。29歳の母親は経済的に自立しておらず、親許を頼ったが祖父母も大家族の面倒まで見切れないと母子に退去を求めた。

子どもたちは児童養護施設に預けられたが、フランクリンは「女性的」だとしていじめを受け、6歳のときから性的暴行の標的、少年たちの玩具、奴隷にされた。喧嘩や盗みに加担させられ、施設の職員からも目を付けられることとなった。自慰行為を見つかって手に熱湯を浴びせられるといった厳罰を加えられたことも彼の人間不信を強固なものにした。1959年、彼は施設を脱走したが食料盗で拘束される。施設側は、すでに結婚してノースカロライナ州で暮らしていた姉に連絡を取り、彼への保護観察を交換条件として刑事告訴を取り下げた。

姉夫妻の家を追い出されると、フランクリンは母親デラと再会するためインディアナポリスへと向かったが、彼女は流浪の果てに売春婦になっていた。デラは息子に陸軍への入隊を薦めて手続き書類の改ざんを手伝い、フランクリンはカルフォルニアへと向かった。だが実際には15歳の未成年のこと、書類の改ざんも明るみとなって半年足らずで除隊となる。

母親の元に戻ったが再会は果たせず、16歳以降は前述の通り、刑務所と外を行き来する。刑務所でも受刑者からいじめやレイプの標的とされ、自殺未遂の記録もあった。事実とすれば、後に審問を免れて逃亡者となった背景には獄中で味わった絶望の日々を恐れていたためかもしれない。母デラは68年7月に亡くなり、イリノイ州シカゴのグレース墓地に埋葬されていた。

 

少年の遺体や殺害を裏付ける確証こそ出てこなかったものの、検察側はアトランタ地域での複数の知人を出廷させ、「マイケルをモーテルの浴槽で溺水させたと聞かされた」「埋葬するのをこの目で見た」との証言を引き出すことに成功する。

被告の横暴且つ独善的な振る舞いは陪審員の心証に悪影響を及ぼしたと見え、カージャック、児童誘拐、銃器不法使用の有罪により仮釈放なしの懲役52年の判決が下される。男は実質的に残りの半生を獄中で過ごすことが決したのだった。

 

糸口

マイケル誘拐から半年後の95年3月、強奪されていた校長のトラックがカンザス州で発見された。オークションで購入されたトラックを点検中の整備士が、荷台とガソリンタンクの間に分厚い封筒が詰め込まれているのを見つけ、中から97枚の異様な切り抜き写真が出てきたことから警察に通報した。

写真の大半は裸の若い女性が被写体だったが、彼女たちには明らかな暴行被害の様相が見て取れた。シャロンが含まれていたことからもフロイドの所有品であることは明らかだった。これまで認知されていなかった若い女性の写真もあり、彼女はどこの誰か、今どうしているのか、新たな謎が浮かび上がった。写真のコピーが各州に送られ、過去の失踪者、身元不明遺体などとの照合が進められた。トラックは94年10月にフロイドがテキサス州で乗り捨てたものだったことが後に判明する。

 

95年3月29日、フロリダ州ピネラス郡を通るハイウェイ275号線脇の林で造園業者が人間の頭蓋骨を発見する。付近を捜索の結果、全身のおよそ9割が見つかった。後頭部に2発の弾痕、目の下に骨折が確認されたことから直ちに殺人事件と断定され、豊胸手術の痕や衣服の一部などから被害者は若い女性と推定された。しかし植物の浸食状況から見ても5年以上は経過しており、該当者はすぐに浮上せず、女性身元不明者ジェーン・ドウ「I-275」としてリストに記載されることとなる。

約1年後、FBIから連絡が入る。フロイドが所持していた写真の「謎の女性」の首に巻かれたシャツと、「I-275」の現場で見つかった衣服片が合致したというのである。FBI当局では頬骨の比較、歯型鑑定などからも「謎の女性」とほぼ一致すると確認された。さらに女性の写真に映り込んでいた家具や背景からフロリダ州タンパ時代に「父娘」が暮らしていたトレーラーハウスでの犯行と特定され、女性の装飾品からフロイド周辺で失踪が疑われていた元ダンサーのシェリル・アン・コメッソと特定される。「モン・ヴィーナス」時代の同僚シェリルも、シャロンたちが失踪する間際の89年4月上旬に消息を絶っていたのである。

 

89年3月下旬、マーシャル父娘とシェリル・コメッソが店の外で激しく口論する姿が目撃されていた。同僚ヘザー・レーンさんによれば、その口論の前からシャロンの父親ウォレンがシェリルの所在を追っていたという。シェリルが書類に誤った記載をしたせいで、マイケルのメディケイド(低所得者・高齢者・障害者向けの医療保険制度)資格が認められなかった、と非難していたという。

シェリルは口論直後の4月初旬に「来週、親戚に会う」と告げて荷造りを行っていた。その後、空港で見つかった彼女の車は4月7日から駐車されたままになっていた。以来、彼女の姿を見た者はなかった。

マーシャル父娘の失踪は翌5月のこと。ウォレンはトレーラーハウスの隣人に「休暇で家を空ける」と話し、芝刈りや郵便物の面倒を任せて出掛けた。男女は「マーシャル父娘」の人生を捨て、89年6月15日にニューオリンズで結婚し、「ヒューズ夫妻」となる。6月16日には留守にしていたトレーラーハウスが爆発性火災で全焼する。後日、隣人のもとに「ウォレン」から電話が入り、火災があったことを伝えると「もう戻らないので貯まった郵便物も燃やしてほしい」と話した。近隣ではウォレンが人を雇って爆発させたと噂が立った。

 

フランクリン・フロイドの考えは短絡的だが合理的だった。シャロン失踪が大事になればトラブルのあった「マーシャル父娘」にも真っ先に捜査の手が及ぶ。そのため「父娘」を捨てて、今度は「夫婦」になったのである。そうまでしなければならなかった理由があるとすればただ一つ、男がシャロンを殺害したとしか考えられなかった。

遺体と犯行途中とみられる写真までもが見つかり、口論を目撃したダンサー、男女の生活状況に詳しいベビーシッターもいる。捜査機関は「妻」殺し、「子」殺しについて後塵を拝していたが、シャロン殺害によって今度こそフロイドを殺人罪で有罪に、死刑にできると確信した。

 

陪審投票は…12対0。2002年11月22日、フランクリン・フロイドはシャロン殺害による第一級殺人により死刑判決を言い渡される。

フロイドは証拠不十分などでフロリダ最高裁に直接控訴したが、2005年10月12日、控訴棄却となり有罪が維持された。

その後、リンチなどがあったのか、あるいは死刑回避の目論見か、2006年6月以来、人身保護礼状の請願を繰り返したが認可されることはなかった。アメリカでは「サーキット・コート(巡回区裁判所)」が日本で言う二審に相当し、フロイドは2007年に審理を申し立てたが、2009年までに審理継続の能力がないと判断され、罪状を否認する機会を一切失った。

だが捜査当局は、マイケル発見に至っておらず、その母親トーニャ・ヒューズことシャロン・マーシャルがどこの誰なのか特定することができずにいた。

 

本当の名前

ジャーナリスト作家マット・バークベック氏が事件を調べるきっかけは、2002年に知人から男と少女の写真を見せられたことだった。幼い少女は、凶悪な逃亡犯の元で「娘」として育ち、周囲からは賢く美しい善良な友人と見なされ、その後、「父親」の「妻」となった。彼女は周囲から愛されていたが、だれも彼女の真実を知る者はなく、実際にはどこの誰なのかも分からない。長い間、彼女の一番近くにいたあの男を除いては。

バークベック氏はフィッツパトリック特別捜査官に助力を求め、獄中のフロイドと面会する機会を得た。男は彼を味方と感じたのか、饒舌に喋りまくったという。

「何を書こうがどうでもいい。“真実”を伝える手助けをしてやろう」

彼の口から出てくるのは、不幸な人生への恨み節と、人々に対する否定感情だった。過去の少女暴行さえ否認し、シャロンについても「自分からついてきた」「俺に惚れこんでいた」と述べ、シャロンとマイケル、シェリルについても殺害を全否定した。

マイケルの行方とシャロンの謎を残したまま2004年に出版された『A Beautiful Child』は大きな話題となり、西欧諸国での翻訳出版、ウェブ上でも「シャロンは何者か」を主題としたサイトやスレッドが多数誕生した。2005年、一通の匿名メールがバークベック氏の元に届いた。

シャロンの娘のDNAは役立ちますか?

シャロンは三度妊娠・出産しており、マイケル以外は養子に出されていた。メールから見つかったシャロンの実子は三人目の子で、名はメーガン。『A Beautiful Child』を読んで心当たりのあった親類がメーガンの養母に連絡を取った。

89年当時、男は金銭目的で産前の養子縁組を求めていた。メーガンの養母は訝しく思ったが、天のお告げがあって生まれてくる赤ん坊を引き取ることを約した。養母は産後のシャロンと対話する機会もあったが、彼女は赤ん坊との面会を拒んだ。男が来ると女同士の会話は途切れる様子だったが、彼女から助けを求めるような様子もなかったという。

メーガン本人も生物学上の母親が事故死したことは聞かされていたが、本でその背景を知るまで出自について深く考えることはなかったという。産みの母親に関する記憶は何もなかったが、シャロンの人生の苦難はメーガンに怒りと悲しみと混乱をもたらした。シャロンやマイケル、そして自身の写真を見比べていると、やはり血縁者であることが実感された。

「ひょっとすると自分と同じような立場の、シャロンの子が見つかるかもしれない」

2011年、メーガンはDNA型鑑定に協力することを決めた。

国際的反響にも後押しされ、バークベック氏は国立行方不明児童搾取センター(NCMEC)とコンタクトを取り、現役を退いていたフィッツパトリック氏とも連携して「シャロン」の再捜査が開始された。折しもフランクリン・フロイドの立て続けの裁判が収束した時期でもあり、再び死刑囚とのインタビューがセッティングされる見通しが立てられた。だが相手は精神病質に嘘八百を並べ立てる曲者であり、一筋縄に行かないことは明らかだった。

2014年、新たにFBIから事情聴取のスペシャリストであるスコット・ロッブ、ネイト・フウ特別捜査官が派遣された。彼らに託された任務は次の3つ。

シャロンの正体は?」

「マイケルの行方は?」

シャロンの死への関与は?」

面会室で黙り込むフロイドに自己紹介をしようとすると、男は一方的に45分間喚き続けた。彼は二人を弁護士だと勘違いしていた。

「我々はFBIだ。再捜査を開始する」

不意を突かれる格好となった男はうろたえ、彼らをあしらおうとしたが、捜査官たちは間髪入れずに核心を突いた。

「お前はマイケルをシャロンの身代わりにしようとしていたんじゃないのか」

フロイドは泣き始め、二人は感情的になった今が好機と判断した。机を叩き、「嘘泣きをやめろ」と詰め寄り、「どうやって殺したんだ」と返答を求めた。

すると遂に男は「後頭部を二度撃った」と漏らした。誘拐から17年ぶりにもたらされたマイケルの情報は、殺害の自白という最悪の報告だった。証言からオクラホマとテキサスの州境で遺体捜索が開始されたが、大捜索も空しく遺体や遺留品の発見には至らなかった。

 

フロイドへの聴取は続けられ、落ち着きを取り戻した男は流浪時代の自分語りを長々と繰り返すようになった。「若い頃はイケメンだった」「あの辺じゃ一番のバス運転手だった」「こんな少女と知り合った」…

両捜査官は気分よく喋り散らす男の饒舌に便乗して「で、その当時のあんたは何て名前だったんだ?」とタイミングよく尋ねると、男は素直に「ブランドン・ウィリアムスと言ったかな」と答えた。

初耳だった。捜査本部で把握しきれていなかった別の偽名が飛び出したのである。その別の「人生」をたどっていけば、これまで分からなかった新たな事実につながるかもしれない。男は長期服役を終えて、74年、ノースカロライナ州で3人の子を連れた女と結婚したという。「“長女”はだれだ?」と口を挟むと、男は「お前たちが捜してるやつだ」と答えた。

長女の名はスザンヌ・マリー・セバキス。フロイドは出生証明書で「ミシガン州リボニア生まれ」と確認したと言う。それが20年以上失われていたシャロンの名前だった。

スザンヌ・セバキス

当局が出生届を検索すると、サンドラ・フランシス・ブランデンバーグとクリフォード・レイ・セバキスの実子と分かった。スザンヌの両親は存命だった。

高校時代の同級生だった二人は卒業とともに結婚し、翌年、スザンヌを授かった。

だがクリフは結婚からまもなくベトナムに従軍し、スザンヌと会うことができたのは生後半年経ってから得られた僅かな休暇の間だけだった。従軍期間を終えて戻ると、サンドラは別の男性と交際していた。二人は離婚し、サンドラは別の男性との間に新たに2人の娘を宿した。だが新しい家族も長続きせず、彼女は幼い娘たちを連れてトレーラーハウスでの4人暮らしを余儀なくされた。

あるとき竜巻が母子の暮らすトレーラーに直撃し、家が横倒しになる悲劇に見舞われた。サンドラは自分を探し求める子どもたちの声を遠くに耳にしたが応答することができなくなっていた。命は無事だったがショックで精神を病み、PTSDを発症した。このままでは子どもたちを守っていくことができないと考えた彼女は福祉局の助けを借りることにした。

クリフの元に連絡が入り、元妻の家族状況と養子縁組の話を聞かされる。相手先は、仲良し三姉妹を引き剝がすのは忍びないとして三人一緒に引き取りたいのだという。いきなり自分が三人の子を引き取るか、諦めるかの決断を迫られた。23歳のクリフは当時ベトナムで受けた心的外傷の混乱から立ち直れておらず、手に職もなく親元で暮らしていた。自分のことでも手いっぱいのなか、子育てをしていける自信は持てなかった。

PTSDのダメージとわが子を手離した罪悪感に苛まれたサンドラは、福祉局職員から教会に行くように勧められた。彼女は嘆き、懺悔し、祈り続けた。

泣き続ける彼女の隣に一人の男が腰を下ろし、落ち着いた声で言葉を掛けた。

「何があったんですか」

「きみの助けになりたい」

「子どもたちを取り戻そう」

「結婚して僕がきみと子どもたちの面倒をみるよ」

男は教会で嘆くシングルマザーに近づいた

サンドラは男に言われるがまま、夫婦となり、娘たちを家に引き取った。気づいたときには時すでに遅し、男は四六時中ナイフを持ち歩き、彼女にこう囁いた。

「逃げられると思っているのか」

男にまともな稼ぎはなく、生活は困窮した。サンドラは偽の小切手でおむつを買おうとして30日間の拘束を受けた。勾留が解けて家に戻ると、男と三人の娘はどこにもいなくなっていた。彼女は警察に駆け込み、娘を連れ去られたと訴えたが、民事不介入を盾に捜索を拒否された。大声で事情を訴えたが署からつまみ出されて相手にされなかった。

正確な時期は不明だが、二児は養護施設に入れられていたのが発見され、男はスザンヌ一人を連れ去ったことが分かった。

サンドラは「自分が早く気づいて男の許を逃げ出せていれば、あの子に何も起きなかった。母親としてあの子を守ることができたはず」と後悔する。

 

「モン・ヴィーナス」時代の同僚ヘザー・レーンさんは「シャロンの母親には腹が立つ。彼女の話は信じられない、だって自分の子どもを見つけられなかったんだから」と厳しい見方を示す。彼女自身もかつて誘拐被害に遭い、5年越しで母親との再会を果たした経験があるという。その間、決して裕福ではなかったが彼女の母親は全財産を投げうって捜索活動に充て、議員や知事に捜索協力を訴え、捜索番組への出演などできることは全身全霊を懸けて何でもやった。

ヘザーは言う。「なぜもっと頑張らなかったの?」

メーガンの養母は、スザンヌに関する話を聞こうとサンドラに電話でコンタクトを取ったことがあったが失敗だったと語る。彼女は自分の娘について興味がなさそうな反応しか返さず、疑問を感じたという。

スザンヌ・マリー・セバキス

 

2017年6月、オクラホマ州タルサで新たな墓標が建てられ、ささやかな告別式が催された。スザンヌ・マリー・セバキス銘での新たな墓石に立て替えられたのである。彼女は「トーニャ」という死の僅か一年ばかり前からの偽名ではなく、死後27年が経ってようやく自分の本当の名前を取り戻した。

人生の3/4を凶悪犯の元で想像もしがたい過酷な日々を過ごしたが、本来の家族ばかりか友人たちに慕われ、スザンヌも周囲の人々に、そして息子マイケルに愛情を捧げてきたという事実はまさに驚くべきことだ。捜査員やジャーナリストの奔走、多くの友人たちの証言によって、彼女の偽りのない人生が回復されたのである。家族や友人たちは各々の知るスザンヌについて語り合い、自分たちの知らない彼女を知り、その冥福を祈った。

彼女の娘メーガンは墓標に刻む銘文に次の言葉を送った。

「DEVOTED MOTHER AND FRIEND(献身的な母親、そして友人)」

メーガン自身も子どもを授かり、母親となって、スザンヌが自分たちをやむにやまれず手離したときに感じたであろう断腸の思いや、愛息に注いだ深い愛情が理解できたと語る。メーガンは長男にマイケルと名付けた。スザンヌの息子、そしてメーガンにとって亡き兄の名前である。

 

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The Commission on Capital Cases updates this information regularly

Pinellas death row prisoner, focus of Netflix’s ‘Girl in the Picture,’ dies

嘘つきな母親——ケイリー・アンソニー殺害事件

「子どもたちの聖地」として知られるフロリダ州オーランドで起きた悲劇。娘に何が起きたか知らないと嘆く母親は殺人の罪に問われ、「毒親」として全米に悪名が知れ渡ったが、深刻な刑罰を免れた。しかし今も尚、母親への疑惑は払拭されず、その法的措置に疑義が唱えられている。

 

事件の発覚

2008年7月15日、フロリダ州オーランド郡郊外のチカソー・オークス地区に夫と暮らすシンディ・アンソニーはその日、2度にわたってオーランド警察に通報した。ひとつは娘に車と金を盗まれたというもの。もうひとつは、まもなく3歳になる孫娘ケイリー・アンソニーが行方不明になっているという内容だった。

夫妻が最後にケイリーの姿を見たのは、6月16日の午後1時前だという。

「なぜ一か月前に連絡してこなかったのですか?」

幼児の行方不明は一刻を争う緊急事案である。911通報を受けた通信司令員は尋ねた。

「娘がケイリーを連れて家出して、どうにかして見つけようと連絡を試みていたのですが…」

シンディは、娘には再会できたがなぜか孫娘ケイリーの所在を明らかにしないと語る。そして娘が使った車両からは「死体のような腐敗臭」を感じ、万が一、殺害されたおそれがあるため通報したと打ち明ける。

 

報せを受けた郡の保安官代理が出向いて夫妻の話を聞いた。シンディによれば、7月になってSNSMySpace」を介して娘とようやく連絡がついたものの、再会を拒絶されていたという。直後の7月7日、娘は「与えられたものは奪われる可能性がある。誰もが嘘をつき、だれしもが死ぬ」と綴り、夫妻に不穏な想像を掻き立てた。

この日、夫妻は家の車がレッカー移動されているとの通知を受け、車両を引き取りに行った。娘が乗っていった車「ポンチャック・サンバード」はガス欠で駐車場に乗り捨てられていたという。その車内には遺骸の腐敗臭のような強烈な匂いが充満しており、祖父母に最悪の事態を直感させた。

車内で見つけた電話番号に連絡してみると、娘の友人とつながり、彼女はボーイフレンドの家にいるという。夫妻はボーイフレンドの家へと押しかけ、ケイリーの母親ケイシー・アンソニー(当時22歳)と一か月ぶりに再会した。しかし連れて行ったはずの幼児の姿はなく、当惑する夫妻の問い掛けにもまともに応じようとしなかった。車の異臭については「ボンネットからリスが潜り込んで死んでいた」と説明した。

保安官代理ユーリ・メリッチ氏がケイシーに直接事情を聴くと、「6月からユニバーサルスタジオで働いていたために実家を離れただけ」「娘は以前から世話になっている乳母の家に預けた」と証言した。二人は乳母のアパートを訪ねることになったが、彼女は住所がはっきりしないとして何箇所か移動を余儀なくされた。最後にたどり着いたアパートの部屋は中から応答がなかった。

するとケイシーは「実は一か月前、乳母に娘を誘拐された」と告白する。「家出中も自力で捜索していたが見つけられなかった」「ユニバーサルの同僚に捜索の手助けをしてもらった」と証言を変遷させたが、携帯電話を紛失して当の「同僚」の連絡先さえ分からないという。

メリッチ氏は彼女と別れた後、乳母のアパートについて再度調査させてみると、5か月も前から空き部屋で前の住人も乳母とは別人だったことが分かった。その後の調べでもケイシーが連れ去りを主張する「乳母ザニ―」(ゼナイダ・フェルナンデス・ゴンザレス)なる人物は実在しないことが濃厚となる。

2008年7月逮捕時のマグショット〔フロリダ州警察〕

翌7月16日、メリッチ氏はユニバーサルスタジオに確認に赴き、ケイシーが2006年4月以来就労していなかったことや同僚として挙げた人物も虚偽と判明した。虚偽証言による捜査妨害、一か月にわたって娘ケイリーの所在不明を通報しなかった育児義務放棄の容疑でケイシー・アンソニーは逮捕される。ケイリーの捜索に加え、殺害の可能性も視野に入れ、ケイシーの家出中の行動の裏取り捜査が開始された。

当局では幼児の早期発見を優先し、捜査協力すれば釈放条件を軽減するとケイシーに提案したが、彼女は「どこにいるか分からない」「娘を殺すはずがない」と嫌疑を否認し続け、審問では「あの子は死んでなんかいない」と生存を仄めかした。名目上は児童福祉法違反を理由に拘留されることになるが、当局は50万ドルもの高額な保釈金を設定して取り調べの時間が確保された。

 

母親への懐疑

ケイシー・アンソニーは高校中退後、19歳で出産したシングルマザーで、娘ケイリーの出生証明書に父親の記載はない。ケイシーの兄リー・アンソニーによれば、出産から約1年後に相手の男性は別の州で交通事故で死亡したという。両親はケイリーの父親を知らず、彼女が妊娠7か月になるまで懐妊にも気付いていなかったとしている。

母子はオーランド郊外の実家でケイシーの両親と同居していた。ケイシーはバー、クラブ、レストランなどで商品の宣伝・売り子として散発的に働き、複数のボーイフレンドがいた。アンソニー夫妻は孫育てを積極的に支援していたと見え、誕生日のプールパーティや失踪直前に曾祖父のお見舞いに訪れたときのものなど多くの写真や動画が公開されている。

ケイシーに犯罪歴はなく、友人たちは「良い母親だった」と口を揃え、児童福祉局から虐待やネグレクトの疑いを持たれることは一度もなかったが、アンソニー夫妻との親娘関係は円満なものとばかりは言えなかった。ケイシーの素行に問題があれば、シンディは「ケイリーの親権を剥奪する」と発言することさえあったとされ、事実、911通報は娘による孫娘の誘拐(ないし殺害)を告発するものだ。

ケイシーの虚言癖に関して、夫妻の育て方に問題があったのではないか、いわゆる愛情不足を指摘する声もあがった。その理論を推し進めると、ケイシーは自分の両親から愛情を注がれて育つわが子を妬ましく思った、あるいは両親への憎しみが転じて彼らが宝物のように扱う孫を奪ったという動機も成り立つのではないかと人々は議論した。

 

ケイシーは妊娠中の2005年1月にジェシー・グランド氏から求婚され、8月にケイリーを出産。12月末までに彼のプロポーズに応諾したが、翌年5月に破局していた。グランド氏によれば、彼女の愛情が自分から離れ、娘のケイリーに向いていったためだとしている。

2022年11月に公開されたドキュメンタリーで、ケイシーはパーティーでレイプされて妊娠したことを自ら告白し、生物学的な父親を明かさないつもりでケイリーを出産し、当時の交際相手ジェシー・グランドに父親であると信じ込ませたと主張している。しかし兄リーの証言も含めて、ケイリーの父親に関する話の真偽はどれも定かではない。

一部の人々は、ケイシーとの駆け落ち、復縁、あるいは復讐のために、彼女の交際遍歴こそ容疑者リストだと考えた。

元フィアンセのジェシー・グランド氏

ケイシーの身辺調査を進めると、6月に知り合ったボーイフレンドの大学生トニー・ラザロ氏や友人の部屋を泊まり歩き、ナイトクラブでパーティを楽しんでいたことやショッピングや飲み会に明け暮れていたことなどが明らかとなる。家出中だったケイシーと交流した友人たちはケイリーが行方不明とは知らされておらず、「乳母とビーチにいる」「乳母とシーワールドに行っている」等と聞かされており、「母から連絡があっても何も言わないで」と口止めさせられていた。更に出先で「Bella Vita(イタリア語で“良い人生”)」のタトゥーを入れていたことも判明する。親の監視と育児の手から離れた母親は自由と若さを謳歌していたのである。

ラザロ氏は「彼女はパーティを楽しみ、困っているようには見えなかった」と証言


父ジョージはガレージからガス缶2本が盗まれていたことや娘がトランク内の荷物を取り出すことを拒んでいたことについて不信感を打ち明けた。隣人は6月にケイシーがシャベルを借りに来たことを思い出し、その用途を不審に思った。

異臭車両は押収され、死体探知犬はトランクに人間の遺体が積載されていた痕跡を検知した。鑑識作業を経て、顕微鏡検査でケイリーとの類似性が見られた人毛サンプルはDNA型鑑定に回されたが、毛根や組織の核DNAは抽出できず人定には至らなかった。母系血統を示すミトコンドリアDNAは一致したが、家族の車両から血縁者の毛髪が出てきただけでは殺害の証拠と認められようはずもない。

子育てを負担に思った“シンママ”がわが子を手に掛けた。捜査当局も、大半のオブザーバーもそう信じて疑わなかった。だがすぐに口を割るだろうと信じて調べに当たった刑事たちも、容疑者が取調中に一度も泣いたり取り乱したりすることなく、常に「平静を保っていた」ことに驚きを示した。その態度や言動は「何の反省も懸念の色も示していなかった」という。

 

ケイシーの逮捕後、アンソニー夫妻は孫娘の捜索のためにただちに基金を立ち上げ、目撃情報や資金提供を募るなど市民社会により広いサポートを求めた。まん丸の瞳、ふっくらとした頬に手を当てる幼女の愛くるしい無垢な表情は人々の胸を打った。

「ケイリーは必ず生きています」

祖母シンディは、車内の異臭はデマだったと前言を撤回し、「若い母親が幼児を虐待した事実はなく、死亡したという証拠は何もありません」「私が彼女を愛してきた以上に、ケイシーは自分の子どもを愛していた」と訴え、ケイリーの3歳の誕生日8月9日までに再会できることを強く望んだ。

行方不明のニュースは、幼児への深い同情の念と母親への不信感を多くの人々に喚起した。そして祖父母との確執や彼らのどこか歪んだ生還への希望、母親の偽証は、アンソニー家に対する好奇や猜疑心をも膨らませ、大きな注目を集めることとなる。地元では捜索活動が広がり、周辺の湖沼などでの潜水捜索も行われたが、発見につながる手掛かりはすぐには浮上しなかった。

当初ネット上では、第三者の介入により幼児が生存している可能性もゼロとは言えないと希望的観測を語る者もいた。しかし殺害を確実視していた捜査班は、車内の空気サンプル鑑定を導入し、8月27日、トランクに人間の遺体があった可能性が極めて高いとの見解を公表した。

ある篤志家と保釈代理人が「ケイリー捜索の一助になれば」と母親の保釈手続きを買って出たが、彼女は代理人とのやりとりに決して乗り気ではなかったという。また渦中の母親の帰宅は地域に緊張関係をもたらすとして、アンソニー家周辺では反対アピールが湧き起こり、早期釈放は頓挫した。アンソニー夫妻が保証金を支払うことを約束し、電子追跡装置を付けた娘の身柄引き受けが実現したのは9月5日になってのことだった。

しかしケイシーはその後も態度を変えず、ケイリー捜索に大きな進展は見られないまま、10月14日、第一級殺人、加重児童虐待、加重過失致死、警察への虚偽申告による4件で大陪審に起訴される(ネグレクトはケイリーが存命の場合にのみ有効になるとして児童放置罪は取り下げられた)。判事は改めて保釈なしの拘留を命じた。28日の罪状認否を受け、ケイシーは全ての容疑について否認し、無実を訴えた。

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一方、通報から1か月と経たない8月11日のこと、公共施設の検針員ロイ・クロンク氏が小用を足そうと雑木林に立ち入ると、奥の窪地に不審な包みと人骨のようなものを目にする。騒動の渦中となっていたアンソニー家から数百メートルしか離れておらず、よもやと思い、保安官事務所に通報。だが事務所ではなく通報窓口に掛け直しを指示され、言われた通り掛けたところ応答が得られなかった。

クロンク氏は12日、13日にも通報し直して、ようやく副保安官が対応に赴いたが、包みを見かけた窪地の辺りは水没してしまって地表が見えない状況になっていた。リチャード・ケイン副保安官は水面を金属棒で揺らすなどして覗き込もうとしたが「何も見えない」と言ってそれ以上の捜索を諦め、現場を離れた。

心残りのあったクロンク氏はその後も現場を訪れ、4か月後の12月11日、人骨の入ったゴミ袋を再び発見。頭蓋骨や髪に付着したダクトテープなどが回収され、さらに山林では散逸した骨が複数発見された。12月19日、郡監察医ヤン・ガラバリアらのDNA型検査によって遺体はケイリーのものと確認された。すでに腐敗が進行しており、死因の特定には至らなかった。

下のストリートビューは発見現場付近に市民が設置したモニュメント。私有地だが現在も雑木林のままとなっている。

 

第一発見者クロンク氏は、過去に元交際相手の誘拐容疑で告発されたこと(起訴には至らず)、また妻と離婚して養育費約1万ドルの未払いがあったことなどから、一部には事件への関与を疑う憶測記事が流れた。2009年1月にABC「グッドモーニングアメリカ」への出演を承諾したクロンク氏は、8月の通報に対して保安当局は責任ある捜査対応をしなかったと批判。

事件関与の噂について「名乗り出た唯一の理由は、自分には隠し立てすることが何もないからだ」と真っ向から反論した。彼の弁護士も「アンソニー事件によって彼の生活も泥沼に引きずり込まれた」と加勢し、誹謗中傷したゴシップ誌に損害賠償を求めると発表した。尚、クロンク氏が犯行に関わった証拠はその後も出ていない。

保安官事務所は、森林が湿地帯になっていたため、現場は立ち入りが困難な状態だったと会見で釈明し、担当したケイン副保安官への内部調査を行うこととした。しかし当局が市民の怒りの矛先をすでに逮捕されていた若い母親に向けるように誘導していることは明らかだった。

「みなさん、肝心なのは、こどもがこんな目に遭うべきではなかったということだ」

 

2009年4月、検察当局は前例を覆して、死刑求刑の見通しを明らかにした。

メディアは家族や周囲の人間たちを次々に俎上に上げて少女の不幸な死をよりスキャンダラスなニュースへと変貌させ、市民の社会正義と野次馬根性は、FacebookTwitterなどで多くの関連報道をバイラルしながら顰蹙や好奇を過熱させていった。母親はなぜ嘘を重ねたのか、通報もせず遊興に耽っていた31日もの間、何を思って行動していたのか、人々はその説明を求めた。

テレビジャーナリストの多くがケイシーを悪魔のように扱い、視聴率競争は激化させていき、その注目度や裁判の経過からしばしばO.J.シンプソン事件と対比された。その後、タイム誌は、その後の裁判に至る人々の反応がダイレクトに可視化された事件の経過をたどり、「世紀のソーシャルメディア裁判」と評することとなる。

 

裁判とその後

2011年5月24日、オーランド郡裁判所(ベルビン・ペリー裁判長)で審理が開始され、検察側・弁護側双方の冒頭陳述が行われた。

検察側は、被告の家出中の遊興行動から見て、殺害の動機は育児負担だったと説明。自宅のPCに「ネックブレイキング」など殺害に関連する検索履歴があったとして、以前より娘の殺害計画があったとした。車両や遺体の髪の毛の鑑定、08年3月に「クロロホルム」を検索していた事実に基づいて、ケイリーを無力化するためクロロホルムが用いられたと主張した。昏睡させた女児をダクトテープで窒息状態に至らしめたかトランク内に放置して殺害し、後日、被告人が近所の雑木林に遺棄したものと陳述した。

被告の弁護人ホセ・バエズ氏は、「母親であればわが子の行方不明を30日も放置できるはずがない、正気の沙汰とは言えないだろう。何かがおかしい。だがその答えは簡単だ」「そもそも行方不明などではなく、6月16日にプールで溺水して死亡していた」と自宅での事故死を主張する。15日、ケイリーは祖父母と自宅のプールで遊んで過ごし、その後、幼児が一人でプールに入らないようにするガード用ハシゴの取り外しを怠ったことが事の発端だとした。

翌日、小さな死体を胸に抱いた祖父ジョージは「お前が何をしでかしたか見てみろ!母親(シンディ)はお前を絶対に許さないぞ!ネグレクトの罪で刑務所に行き、お前の残りの人生は狂わされることになるんだ!」とケイシーを叱責し、事故死の隠蔽を主導したとする。母親としてその行動は過ちではあったが、被告は娘の死をひた隠しにしてこれまで何事もなかったかのように振る舞ってきたという。

彼女のバックグラウンド、機能不全となった家族関係として、「ケイシーへの不適切な接触は8歳から始まった。彼女は父親の性的虐待の被害者だった」と述べ、性虐待を隠して学校生活を過ごしてきた彼女はそうした振る舞いには慣れていたと説明し、「偽証はすなわち有罪の証拠とはならない」と主張した。また兄からも強姦を受けており、ケイリーの父親ではないかと親子鑑定を求めたこともあったとしている。

祖父ジョージは元警官で、罪状認識は当然のこと、捜査手順も念頭にあった。ケイリーの遺体にダクトテープを“あえて”残したのは、ケイシーによる単独犯行と見せかけるため、自分は係わりがないように見せかける偽装だったと指摘。死体の遺棄はクロンク氏によるものと推定。警察は捜査失敗の非難から免れるため、「平凡な溺水事故」ではなく「母親による子殺し」であるかのようにマスコミの熱狂を煽った責任があると批判した。

娘を亡くし、被告人となったケイシー・アンソニーは素っ気ない白シャツ姿で顔をこわばらせ、冒頭陳述の最中はずっと泣いていた。彼女の一挙手一投足に耳目が注がれ、6週に及ぶ公判の間に、ピンク色やレース、フリル付きブラウスを着こなすようになり、ときに目を丸くさせたり表情をほころばせたりするように表情にも変化が見られた。さらに専門家は、椅子を引いて周囲の人よりも体つきを小さく見せていた点に着目し、「人殺しなど出来そうもない、か弱い女性」を演出する見え透いた法廷戦術だと喝破した。

祖母と孫娘

 

シンディはプールのハシゴは外していて孫娘一人で侵入できる状態ではなかったと述べ、ジョージはケイシーへの性的虐待の疑惑や事故死隠蔽の主導など弁護側の主張について全面的に否認した。シンディは自らの911通報時の録音テープを聞いて涙し、車内に孫娘が愛玩していた赤ちゃん人形を見つけたときのことを証言すると嗚咽が止まらず一時休廷を求めた。幼女を何より可愛がった老夫婦は、ともすれば自分たちの娘を死刑に追い詰めるかもしれない微妙な立場にあった。

 

検察側は「死因不明の殺人」を立証するため、車内に遺体があったか否かを重要な争点として、37名もの科学者・研究者を証人に並べた。

最初に腐敗臭を認識したレッカー業務に当たった男性は、過去にも死骸を積んだ放置車に遭遇したことがあり、そのときと同じ「記憶から消せない臭気だった」と証言した。またジョージは刑事、シンディは看護士であったことからも「人間の死体の匂いを知っていた」とも言える。

オークリッジ国立研究所の法医学人類学者アーパド・バスは空気中に含まれるガスや化学物質の鑑定により「クロロホルムの顕著な含有が認められた」と指摘し、「トランクに人間の死体が存在した」と結論付けた。だが臭気鑑定はバス教授独自のデータベースに依存しており学術的に認められておらず、法的根拠とはいえないものであった。弁護人はその耳慣れない新鑑定を「ジャンク・サイエンス」と断じて斥けた。

検察側はウェブ検索履歴と併せて「殺害にクロロホルムの使用があった」根拠とした。しかしケイシーがクロロホルムやその材料を購入したり、所持していた証拠はなく、彼女の恋人が遊びに来ていた際に検索した可能性もありえた。ダクトテープについても同じことで、「事故ではなく殺人が起きた」証拠にはなりうるが、彼女が購入した、所持していた、犯行に用いたという証拠は皆無であった。弁護側は、検察側の主張を「推測の強制であり、憶測にすぎない」と唾棄した。

「先週はクロロホルム、今週はダクトテープと検察は有罪にするために次々に手を変える。だが母親が無実である可能性、事故死という合理的にあり得る仮説に対する反証が全く為されていない」

 

弁護側は、証人のひとりとしてリバー・クルーズことクリスタル・ホロウェイの出廷を求めた。彼女はボランティアたちが懸命の捜索活動に奔走している間、ジョージからアプローチを受けて親密な関係になったと雑誌に暴露していた人物である。

ジョージから事件について聞かされたことはあるかとの問いに対し、まだ行方不明とされている期間に「亡くなっていると聞かされた」とホロウェイ氏は言い、ジョージから「雪だるま式に制御不能になった事故だった」ことを打ち明けられたと証言した。

さらに公判前、ジョージが薬物の過剰摂取とアルコールの併用により自殺未遂を図ったことが法廷で暴露された。攻撃対象とされたジョージは困惑しながらも不倫関係を否認。しかしやっていないことを証明する手立てなど存在しない。弁護側としては、人々にジョージへの不信感を植え付ける戦略だったにちがいない。彼に「娘への性的虐待」と「ボランティア女性に対する不貞行為」「自殺未遂」を印象付けることで、言外に「孫娘の死因」に彼が深く関わっていることを想起させようとしていた。

 

7月5日、12名の陪審員は被告人が第一級殺人、加重児童虐待、加重過失致死について、10対2で最終的に無罪であるとの評決を下した。法執行機関に対して虚偽の情報を提供した4件につき有罪判決とし、7日の量刑審理で懲役4年と罰金4,000ドルが科せられることが決した。

「ケイリーに正義を!ケイリーに正義を!」

静寂に包まれた法廷のはるか上空からは取材ヘリの飛び交う音が響き、屋外からは周囲を取り囲む極刑を信じて疑わなかった500人余の群衆から抗議アピールが押し寄せ、審理の行方を見守っていた数百万の国民にも怒りの声は拡散した。タイム誌は州検察はその物証の乏しさから「事件を根拠に事件を組み立てた」と批判し、多くの専門家は「提示された状況証拠のみでは良識ある人々に死刑を宣告することはできない」「司法制度の欠陥が導いた結果である」と結論付けた。

世論調査ではアメリカ人の約3分の2の割合で、「間違いなく」「おそらく」ケイシーが娘を殺害したと信じているとの結果が出た。また「間違いなく」と回答した男女比は、女性28%男性11%と二倍以上の開きがあった。虐待事案は母性の理想に対する脅威であると捉えられ、感情的な反応が大きかった。

州検事は訴追を断念し、「リトル・ケイリーの遺骨回収の遅れがかなりの不利をもたらした」と悔しさを滲ませた。検察側は「こどもができたら親にとって宝になる」と国民感情に訴えかけ、その親の責任を問う法廷戦術を採った。罪状が過失致死や第二級殺人であったならば、あるいは育児義務違反を基調とした審理がより深まっていれば、死刑でなくとも重罰に至ったであろうとする見方もある。

しかし陪審員や国民世論は、先んじてメディアによって断罪された被告人が実際のところシロなのかクロなのかの答えを求めていた。検察が揺るぎない証拠を提示して犯行の一部始終を解き明かすことを期待していた。ペリー裁判長は陪審員の公表を10月まで控えたが、一部の陪審員はメディアに対し「どのような犯罪があったのか証明されなければ、いかなる罰を下すべきか判断できない」と述べ、別の陪審員は「感情に全面的に委ねれば」ケイシーへの有罪もあり得たとしたが「提示された証拠に基づいて」判断したかったと述べた。数々の情況証拠は「嘘つきな母親」への不信感を強める役割を果たしたが、殺害の合理的な説明というには「パズルの重大なピースが欠けていた」。

後にペリー裁判長は、陪審員の中には検察側の示す動機の弱さを指摘する声もあったと振り返った。また心理学者は国民の関心の高さは犯行動機の不確実性に関係するとの見解を述べた。法医学精神科医は、「メディアによる断罪的な報道が国民の報復感情を過熱させた」「可哀そうな小さな愛らしい子どもが、報復欲求に駆られた暴徒たちのリンチに遭った」と事件を総括し、母親ケイシーについて「殺害云々は別として、彼女も明らかに多くの精神的問題を抱えている」と付け加えた。

 

2011年7月17日、ケイシー釈放。度重なる脅迫のため、矯正局は生命に危険が及ぶと判断し、彼女の仮釈放者データは公表されなかった。

8月11日、フロリダ州児童家族局は、ケイシーに娘の死の責任があったとする報告書を発表。「加害者とされる人物の行動又は不行動が、最終的には悲劇的な子どもの早逝につながったか、或いは死亡の一因になった」と述べている。

州当局は失踪事件の捜査費用51万6,000ドルの償還をケイシーに求めた。ペリー裁判長は、ケイシーに総額21万7,000ドル以上の支払い義務を命じた。

ケイシーは虚偽供述での4件の有罪判決について、ミランダ警告(拘留取調べにおける黙秘権の通知)が為されていなかった不当取り調べに当たるとして控訴。控訴裁判所は、各供述は二度の事情聴取で行われたものであり、「ふたつの犯罪行為」と見なすべきと判断。2013年1月25日、虚偽の情報提供2件について有罪判決を破棄した。

同日、ケイシーは連邦破産法第7章の適用を申請して約80万ドルの負債を放棄した。

 

本件の反応として、子どもの死亡または失踪を法執行機関に通知する保護者への義務を課す「ケイリー法」がフロリダ、オクラホマ、ニューヨーク、ウエスバージニア州で制定された。子どもの安全を守るうえで有用にも思える法制度だが、保護者による過剰遵守や虚偽通報につながり、厳格なあまり弊害や逆効果をもたらすとして批判的な声も聞かれる。たとえば単なる迷子や不可解な事故を原因とした過失死であっても、保護者への社会的責任やメディアの追及、衆人からの疑いの目が無用にエスカレートするおそれがある。

 

テレビからSNSYouTubeへとメディアの拡張・転換期にあって多くの人に消費され尽くした事件の結末は、「犯人なき事件」という抜け殻だけが残された。ケイシーは今世紀最も嫌われた「母親」として記憶され、炎上騒動、社会的報復の端緒ともいえる事件であった。母親や祖父母がその後、どうやって暮らしを立て直していくのかは神のみぞ知るところである。

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

ケイリーの検視報告書〔フロリダ中央大学〕

 

30年間名前を失った女——エルドラドのジェーン・ドゥ

英語圏では身元不明者や匿名の人物を表す場合、日本で言うところの「名無しの権兵衛」として、男性に「John Doe」、女性に「Jane Doe」の仮称が用いられる。

2022年5月、米・アーカンソー州捜査当局は長年にわたる捜査の結果、エルドラドで起きたジェーン・ドゥ殺害事件の被害者の身元が特定されたことを報告した。若くして命を絶たれ、実に30年以上に渡って本当の名前を失くしていた女性の数奇な運命は人々の関心を集めた。

 

事件の発生

1991年7月10日、アーカンソー州の南端、ルイジアナとの州境に位置する、ユニオン郡エルドラドのモーテル「ホワイトホール」121号室で若い白人女性の遺体が発見された。

現場では銃声が聞かれ、銃を手にした男が車で走り去る様子が目撃されていた。警察が駆けつけると、女性は床に倒れた状態ですでに死亡しており、頭部には銃創が確認された。モーテルでは同行していた男と争っていたとの情報も得られ、エルドラド捜査当局はただちに殺人事件と判断し、逃げた男の追跡および捜査を開始した。

 

モーテルは麻薬の密売や売春といった犯罪の根城とされ、出入り客たちにも悪評が付きまとい、逃走した男の素性もすぐに浮かび上がった。界隈で売春婦のポン引きなどを生業にし通称“アイス”と呼ばれていたジェームズ・ロイ・マカルフィン(当時26歳)で、殺された女性と交際関係があった。男は彼女をセックスワーカーとして従事させていたとされ、痴情のもつれ、売春絡みの金銭トラブルなど事件の発端はいくらでも想像がついた。

以前から彼女が交際相手とトラブルを抱えていたことは、医療関係者や警察関係者の耳にも入っていた。彼女は「家庭内暴力」により度々救急搬送されており、その支払いに困って、5月には不正小切手を使用した罪で警察の厄介にもなっていた。携わった警官は、暴力男と離れてこれまでの暮らしを変えるようにアドバイスしていたという。

女性はエルドラド周辺で「メルセデス」という源氏名で通っており、病院では「ケリー・カー」の名義で訪れていた。警察などで記名を要した際には「シェリル・アン・ウィック」という名を使用していたが、綴りには余計な「s」が付けられており、これも後に偽名と判明する。

 

ほどなくマカルフィンは逮捕され、取り調べが開始された。女性を部屋に呼び、暴力を振るった事実は認めたが、殺害については徹底して否認した。二人の関係を問われると、死んだ女は先月部屋から追い出した「元・恋人」だと訂正を求めた。

事実、女性は6月からクラブ「プライムタイム」の同僚アンドレアさんのアパートに転がり込んでいた。彼女も「メルセデス」という源氏名しか聞かされていなかったが、事情を抱えた者同士に余計な詮索は必要なかった。女性はアンドレアさんに「昔から踊り子をしていた」と自己紹介し、「母親との折り合いが悪く、二児を預けたままにしている」と身の上を明かしていた。マカルフィンの元を離れた彼女は殺害当時には新たな交際相手もおり、「メルセデス」とは別の人生を歩み出そうとしていたとされる。

7月、マカルフィンはアンドレアさんの家に電話を掛け、「元恋人」を脅迫したこともあった。だがその後の連絡で、ホワイトホール・モーテルで滞在している男の部屋で二人は会う約束をした。アンドレアさんによれば、男が金をくれる約束をしたので、その金で子どもたちにプレゼントを贈るつもりだと彼女は話していたという。

事件当日、近くの部屋に滞在していたメノン氏は貸していたカセットテープの返却を求めて121号室のマカルフィンの元を訪ねた。部屋から男女の言い争う声が聞かれ、ドアを開けた男に様子を尋ねると、中にいた女性は「話し合う必要があるの」と口論の最中であることを示唆した。すぐにその場を辞したメノン氏だったが、彼女が部屋を出て駐車場に向かおうとすると、マカルフィンが後を追い、「部屋に戻れ、ビッチ」と引きずり戻す様子も目にしていた。その後も二人は出たり入ったりしていたようだったが、銃声が聞こえてから121号室には近づけなかったと振り返った。

 

ジェーン・ドゥの誕生

逮捕されたマカルフィンは「“殺人”なんて起きていない」「あいつは俺の銃を掴んで、自殺してやると脅しをかけてきやがったんだ」「前にも似たようなことがあったもんで、俺はてっきりあいつがまたふざけてやがるんだと思った」「俺が“二人のために…”と言いかけた瞬間、銃声が鳴ったんだ」と当時の状況を説明し、実際には女性の自殺であると主張した。

交際時のマカルフィンと被害者

女性の遺体はユニオン郡検視局に運ばれ、銃撃前に首の骨が折られていたことも判明。

女性の身体的特徴として、次のことが報告された。

身長およそ5'10"(177.8センチ)

体重約162ポンド(73.4キロ)

白人女性

推定年齢は18~30歳

碧眼

長さ9インチ(約23センチ)のブルネット(栗色)ヘアで、過去につや消しブロンド(金髪)にしていた痕跡もあった。

そばかす

左耳に2つ、右耳に3つのピアス

左胸の下にアザ

右目と左手首には過去に暴力を受けてできた古傷が確認された。

着用品は、黒いベルト付きのケミカルウォッシュのジーンズ、白色Tシャツ。

白色の足首丈ソックスに白色テニスシューズを履いており、右腕に金色のチェーンブレスレット、2本のヘアゴム(ポニーテールホルダー)を巻いていた。

 

男の部屋に残されていた遺留品の中から女性の社会保障IDカードが見つかり、氏名「シェリル・アン・ウィック」、生年月日「1970年11月13日」の記載があった。照会してみると女性は「ミネソタ州ミネアポリス」に住民登録されていると分かり、捜査員が電話で家族に殺害の事実を伝えた。家族は警察からの報せにショックを受け、隣にいた妹は悲しみのあまり気が動転して、離れて暮らす姉の自宅に電話を掛けた。

すると誰も出るはずのない電話がなぜかつながり、驚いた妹は今しがた警察から姉の死亡報告を受けたことを伝えると、電話口のシェリルさんは言った。

「No, I’m fine!(全然元気だよ)」

シェリルさんはミネアポリスのクラブ「パーティタイム」でダンサーとして働いており、普段から財布に身分証の類を全て入れて持ち歩いていた。連絡を受けて慌てて財布を確認し、自分のIDカードが紛失していることにはじめて気づいたという。シェリルさんと家族は警察の調べに対しても快く協力したが、彼女は亡くなった女性と面識はなく、事件にも全く心当たりがなかった。

警察も思わぬ事態に唖然としたが、シェリルさんがステージに出ている間は不特定多数の人間が控室の財布に触れることができたと判断し、カードは盗品偽造と確認された。女性自ら盗み出したのか、あるいは別の誰かが盗んだIDを彼女に転売したものかは分からなかった。すぐに終結するかに思われた捜査は「被害者の身元不明」により、発生から30年以上の長期化を強いられることとなった。

マカルフィンは、テキサス州ダラスで被害者女性と出会い、交際するようになったと供述。彼女の遺留品には、南部テキサスの音楽スタジオのチラシや東部バージニアの海鮮レストランチェーン店のメニュー表などが含まれており、どこからか流れ着いた「余所者」と思われたが、本名や出自を明確に示すものはなかった。男は「かつてメルセデスの母親と妹にあったことがある」と話し、彼らはフロリダに住んでいるとまで明かしたが、元恋人の名前の提供を頑なに拒んでいた。

「彼女は素性が知れることを恐れて偽りの人生を選んだ」とマカルフィンは述べ、「本当の名前や出自を知っているのは自分だけだ」と自負した。

捜査員によれば、警察で被害者の身元確認が取れていないことをマカルフィンは取り調べ段階で察して、司法取引や優遇措置を求める“交換条件”、いわば交渉の道具として彼女の詳細を明かそうとしなかったとみられる。ポン引き連中の例に漏れず、男は少年期から窃盗や暴行などで拘置所に何度も出入りし、警察に対する「振る舞い」を学習していた。だが警察側もそうした男の性質を見抜いており、「彼女のすべてを知っている」という男の証言を鵜呑みにはせず“交渉”は成立しなかった。

偽造IDに使用された証明写真〔El Dorado PD]

周辺捜査によって、女性に関するいくつかの行動履歴が浮上していた。女性は1990年12月31日、テキサス州ダラスのモーテルで売春容疑で逮捕されており、これは当時の調べに対しても「シェリル・アン・ウィック」名義を使っていたため浮上したものだ。居住地には売春に使われるモーテルの番地が記載されており、指紋照合等によって亡くなった女性と一致することが確認されている。

91年1月にもダラスで逮捕。翌2月はテキサス州ガーランドのモーテルで公然わいせつ容疑で逮捕。その後、マカルフィンと共にルイジアナ州シュリーブポートに滞在して、アーカンソーの州都リトルロックへと移住してきた。トップレス・ダンサーとして働きながら、エルドラド周辺でも商売をしていたとみられる。

91年3月にはエルドラドの救世軍(国際支援のため募金、バザー、音楽活動など多岐に展開するプロテスタント系布教団体)のボランティア活動に参加しており、以前は「カディスストリート1100番地に住んでいた」と話していた。該当する住所にはホームレスシェルターがあったがたどり着いた頃には記録は廃棄され、施設職員も入れ替わっていた。彼女は子どもが社会福祉施設に連れ去られてしまったが、偽名を使っていたため子どもを取り返せなかった、と明かしていた。

僅かな足どりを辿って話を聞くと、女性は周囲の人間に「フロリダ出身である」と話しており、他にも「シャロン・ワイリー」などいくつかの偽名や源氏名を使ってストリップダンサーやセックスワーカーをしていたことが分かった。いくつかの身の上話も報告されはしたが、「父親が元マフィア」で「証人保護プログラム(FBIが口止めやお礼参りから生命の安全を守る仕組み)に参加している」など、裏付けが取れるような話はほとんどなく、どの線を辿っていっても本当の彼女の来歴には行きつかなかった。

マカルフィンは彼女を家族にも紹介していたらしい。後年ハフィントンポスト誌の取材に応じたマカルフィンの姪は、幼い頃に会ったその女性のことを「シェリルおばちゃん」と呼んで慕っていたと語る。姪は「彼女は本当に性根の優しい人でだれにも迷惑を掛けませんでした。どうも何かから逃げているような、ちょっと臆病な面がありましたから。また、切りっぱなしのショートパンツにタンクトップ姿だったせいで、ストリッパーのように思ったことを覚えています」「いつも、いつだって札束ほどのお金を持っていました」と証言している。

 

1991年逮捕時のマグショット [el dorado PD] 

女性の遺留品には日記の一部などもあったが自身のルーツに係る記載は出てこなかった。登場する人物からの解明も試みられ、90年8月に一緒にいたとされる「ゲイル」「ティロン」と呼ばれる人物を追ったがいずれも消息不明だった。そんななか注目されたのは、一冊の聖書だった。ウィリー・ジェームス・ストラウド、シャロン・イベット・ストラウド、ラドンナ・エレイン・ストラウドら8人の名前が記されていたからだ。

追跡調査を進めていくと「ストラウド家」はテキサス州アービングに実在すると分かり、彼らはアフリカ系アメリカ人の家族で女性の血縁ではなかった。見つかった聖書は代々一家が家宝としてきたもので、女性は1990年半ばまでストラウド家に身を寄せていたためそのとき持ち出されたのではないかという。

しかし彼女は当時から「シェリル・アン・ウィック」を自称しており、ストラウド家の人々は「ミネアポリスからアービングに移ってきたルイジアナ出身の家出少女」という以上のことは何も知らされておらず、捜査はふりだしに戻った。

 

はたして被害者不詳の「ジェーン・ドゥ」殺害事件として公判に掛けられた被告人は殺害を否認したものの、虐待を裏付ける診察履歴、発砲前の口論や暴行が目撃されていたこととそれら事実を認めたこと、銃を持ってモーテルから逃走したことが決定的な情況証拠とされ、懲役15年の判決が下され、13年を獄中で過ごした。マカルフィンは2011年にもアーカンソー州で第2級家庭内暴行罪で逮捕、起訴された。

 

「正体」に関する議論

徹底した秘密主義、非公開原則が敷かれる日本の警察組織と違い、アメリカでは刑事捜査で得られた証拠物は「住民/国民の知る権利」に基づいて多くの情報が公開される。そのため未解決事件や行方不明者、行旅死亡人などについて推理探究を深める「安楽椅子探偵」たちがネット上のフォーラムで古今東西の事件を日夜議論している。犯人への刑罰は確定し、事件についてほとんどだれもマカルフィンの犯行を疑ってはいないが、被害者ジェーン・ドゥの「正体」は好事家たちの議論の対象となった。

刑期を終えたマカルフィンはその後もいくつかの犯罪で「出たり入ったり」を繰り返し、取材者に対して「彼女の身の上は“ミステリー”なんかじゃないぜ」と口にし、「真相が分かれば更にいくつかの未解決事件も解決する」「4000ドル支払えば本にしてもいい」と語る。

たしかに彼はまだ公にしていない彼女に関する情報を大なり小なり握っていないとも限らない。だが警察の見立て通り、男は大した情報がないにも関わらず、よい“交換条件”を求めているだけのようにも思える。一方で、彼女の身元を明かすことが男の余罪(たとえば誘拐など)を引き出すことにつながるため、証言できないのではないかといった見方もできた。前科にまみれ、口先で女を騙し、暴力でヒモ暮らしを送ってきた元ポン引き男の証言は信用に値するものだろうか。

マカルフィンの暴露によれば、彼女は16歳頃から路上でセックスワーカーとして働き、ダラスでは別の男の下で強制させられていたが、メキシコへの人身売買に掛けられそうになって二人で逃げ出したとしている。ダラスでの売春関係者には、行方不明者として知られる別の少女たちも含まれていたと言い、彼らは監禁生活を強制され、出産で命を落としたものもあったと語っている。

遺留品から見つかった年代不詳の写真 [El Dorado PD]

1988年11月にオクラホマで起きたドウェイン・マッコーケンデールさん殺しとも関連が疑われた。高速道路の休憩所の電話ボックス脇でトラック運転手がショットガンで射殺された事件である。当時、彼は普段通りデトロイトからオクラホマシティの工場へと自動車部品を配送する道中で、家族に電話を掛けようとしていたと見え、周囲にはコインが散らばっていた。着衣が荒らされ、遺留品からカギと財布が奪われていた。

目撃者はなく情報は乏しかったが、全米のトラック関連誌に情報提供を求める記事を掲載すると、当時、茶色いフォード・ピント車が無理な割り込みや他のトラック運転手と無線で口論していたとの情報が入る。また同じハイウェイを使用していた別の運転手は、事件前日に現場から13マイル離れた休憩所で昼食をとっていると妙にみすぼらしい女性が声をかけてきたという。その若い白人女性はひどく震えており、運転手は不可解に感じた。道迷いかと思い、運転手が地図に手を伸ばした瞬間、女はトラックの窓から突如上半身を突っ込んできた。被害はなかったが、女は駆け出して、近くに停めてあった茶色のピント車で走り去ったという。

メルセデス」は警察から追われている身であると周囲に漏らしたこともあり、いくつかの事件で逃走犯ないし関係者ではないかとリストアップされることもあった。事件を担当したキャシー・フィリップス刑事によれば、「ケリー・リー・カー」「24歳」を名乗る人物からFBIに投書があり、銀行強盗容疑でバージニア州東海岸で指名手配を受けているとの記述があったという。エルドラドのジェーン・ドゥも「ケリー・カー」を名乗っていたが、最終的に投書との関連が裏付けられることはなかった。

 

売春婦の殺害は比較的ありふれた、忘れ去られやすい事件トピックではあったが、遺留品の写真や歯の治療痕から、多くの人はもともと彼女は生まれ育ちがよかったとのインスピレーションを受けたようだ。ジェーン・ドゥの謎に引き付けられた人々は、全国の行方不明者リストや犯罪リストから同年代の白人女性が彼女と結びつくのではないかと電子フォーラム上で各地の情報や古い事件が掘り起こされた。

いずれの場合も、ジェーン・ドゥの大柄な身長や大きな鼻、孤を描いた眉といった特徴によって不一致と思われたが、行方不明少女のその後の発育の可能性、ジェーン・ドゥの写真の不鮮明さや厚化粧などにより人々の憶測に幅をもたせた。あるテキサス出身者は、家出したまま消息を絶った知人の娘ではないかと心配し、ある元トラック運転手は、自分もハイウェイで休憩中にそれらしき女性に声を掛けられたことがあるとコメントを寄せた。

国内の行方不明者に一致するデータが存在しないのであれば外国人ではないかとする仮説もあり、ヨーロッパからの人身売買説を補強した。またある者は、遺体にあった胸の下の古傷は豊胸手術の痕跡ではないかとして、詳しい術式を解説して見せた。「メルセデス」の源氏名や「Kerry Carr」の偽名などから、彼女の本名にも「車」を意味する名称、たとえば「Ford」などが含まれるのではないか、あるいはマカルフィンのタトゥーに刻まれた「BGD」「Jams」「Elvira」といった文字に着目した推理を披露する者もいた。当時のミス・コンテスト受賞者の中から彼女の偽名を見つけて関連を疑ったり、なかには「彼女は映画『ジョーズ』の序盤で悲劇に見舞われていたように思う」といった冗談なのか本気なのか分からないカキコミも散見される。

彼らの議論が実際に捜査の後押しになったかどうかは疑わしいが、素性の解明が被害者や家族のためになると信念をもつ人々が事件風化のささやかな防波堤となっていた。ときに新たな報道や情報提供のうごきにつながったことも確かである。

 

捜査の終結

2019年1月、捜査班はDNA Doeプロジェクトに被害者のDNA鑑定を登録。遺伝系図学者は、アラバマ州に住むクリスティーナ・ティルフォード氏との関連を突き止め、コンタクトを取った。彼女は家系や祖先を辿るために、2018年7月に「GED match」という自身のDNA型から遺伝系図探索を行う活動に登録したという。ティルフォード氏の家族関係に行方不明者はなく、それまでジェーン・ドゥのことを知らなかったが、顔相などに家族関係との類似性を感じ取った。

2022年5月24日、法医学者ヨランダ・マクラリー氏は『closingthecase.com』でジェーン・ドゥの素性が解明されたことを報告した。

closingthecase.com

 

彼女の名前は「ケリー」、プライバシー保護の観点からファミリーネームは伏せられた。1968年バージニア州で生まれたが、生物学上の父親は特定されていない。

母親は裕福な家の出で、生活費は夫に頼っていた。1972年に離婚が成立すると、母親はすぐに別の男性と再婚。相手の男性は虐待的で、7年の結婚生活を経て離婚。母親はまた別の男性と再婚するが、間もない1979年12月、ケリーが11歳のときに自殺した。

その後、母親はケリーと幼い妹を連れてバージニアビーチの叔母を頼った。ケリーは高校を中退して売店で働き、母親に代わって家計を助けた。閉店後、翌朝オーナーに届けるために売り上げや品物を家に持ち帰ることがあったが、しばしば母親はその金に手を付けて困らせた。叔母に見放された母娘たちは転居を強いられ、85年頃(ケリー16‐17歳)にはフロリダで暮らしていた。

母親はボーイフレンドをつくったが、いつしかコカイン中毒となり、売春婦として働くようになっていた。彼女に避妊のアイデアはなく、度々中絶の世話をしなくてはならなかった。詐欺、コソ泥、麻薬、強盗、車両窃盗などの罪で刑務所の出入りを繰り返した。ケリーもまた母親や周りの大人たちと同じように、ティーンエイジャーが金を稼ぐために道を踏み外していった。

薬物リハビリ施設を出たケリーは、コカイン中毒者の母親の元に戻ることを断念した。母親を捨てたケリーは、クラブでショーダンサーになる道を選んだ。おそらく18歳の年齢制限が彼女に新たな「身分証明書」を必要とさせた。「シェリル・アン・ウィック」という新しい名前を手にしたケリーはテキサスへ移り、そこでマカルフィンと出会う。

ケリーは1986年から89年にかけてアーカンソー州リトルロックでダンサーとして暮らした。その後、母親と妹と再会するため、しばらくフロリダへと戻った時期もあったが、一年ほどして別れ、バージニアに立ち寄った際にお気に入りのレストランのメニューを持ち帰った。テキサス州ダラスで恋人と商売を再開し、91年、アーカンソー州エルドラドに拠点を移した。

1992年、ケリーの母親はフロリダで喧嘩別れした叔母と再会を果たした。叔母はケリーのことを心配したが、母親はしばらく会っていないと話した。だがすでにそのときケリーは亡くなっていた。母親は最終的に故郷バージニア州へ戻り、2008年に亡くなったが、家族はだれもそのことを知らなかった。親戚の誰もが彼女をすでに見捨てていたのだ。

母親同様に、人々はもはやケリーのことも忘れかけていたが、「エルドラドのジェーン・ドゥ」は30年以上経っても見捨てられることはなかった。マクラリー氏は、ケリーの代筆者として捜査関係者や調査協力者に感謝を綴り、その報告を次のことばで結んでいる。

 

皆さん、私の事件を生かしてくれてありがとう。

 

さようなら、

ケリー

 

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https://www.doenetwork.org/cases/81ufar.html

We Know Who Killed Her. But 24 Years Later, We Still Don’t Know Her Name. | HuffPost

The Enigma of El Dorado Jane Doe. A Jane Doe surrounded by mystery, fake… | by Madison Tramel | Medium

過去を捨てた男——ピーター・バーグマンの死

アイルランドの浜辺で見つかった男性行旅死亡人。その死の直前の行動は不可解な謎に包まれていた。

後半では、後に身元が判明した「ライル・ステヴィク」の事例を参考に取り上げる。

 

不可解な遺体

2009年6月16日、アイルランド西岸の町スライゴ近郊の「ロセッスポイントビーチ」で、トライアスロンの早朝トレーニングに訪れていた地元住民のキンセラさん父子は、浜辺に倒れた男性の遺体を発見する。

半裸姿の男性は年の頃50代半ばから60歳代、身長1.79メートルの痩身の白人で、白髪は短く刈り込まれていた。紫色のSpeedo社製競泳パンツの上に下着を履き、その中にネイビーのTシャツを詰め込んでいた。

目立った損傷はなく、一見して遊泳中に溺れて岸に打ち上げられたものかに見え、父子は祈りを捧げると、すぐにアイルランド警察(ガルダイ)に通報する。8時10分には医師により男性の死亡が確認され、身元不明の遺体は検視局へと移送された。

警察は周辺捜索により、遺体発見現場から約300メートルの場所で男性の所持品とみられる遺留品を発見する。黒革のジャケットやネイビー色のチノパンツ、「トミー・ヒルフィガー」の黒系ベスト、紺色の靴下、「KeyWest」と打刻された黒革のベルト、サイズ44の黒色の靴、ポケットティッシュ、小銭、白紙、絆創膏、アスピリン錠、腕時計、ホテルの石鹼。衣類のタグは全て切り取られており、財布や身元特定につながるものは何も出てなかった。

男性は「事故」ではなく、自らの命を絶つために海岸を訪れていたのだろうか。身元確認を急いだが、同定される失踪者情報は届いておらず、旅行者と推定して近郊の交通機関、宿泊施設などに捜査範囲を広げた。

 

遺体は検視にかけられたが、肺は海水に浸潤されておらず「典型的な溺死」の兆候が窺えないばかりか、「殺人」を疑わせる兆候も見当たらず、司法医クライヴ・キレルガンを困惑させた。

歯の状態は良好で、ブリッジやクラウン、差し歯、金歯や銀の詰め物など頻繁な治療の痕も見受けられた。だが整った外見に反して健康状態は悪く、進行した前立腺がんと骨腫瘍が確認され、過去には心臓発作を起こした兆候もあり、腎臓は片方が切除されていた。

深刻な病状からはアスピリンやアヘン系の鎮痛剤、何らかの治療薬の服用が想像された。検視官は毒物や過剰摂取などによる「薬物死」の可能性を疑ってあらゆる検査を行ったが、どういう訳か市販の鎮痛剤を含め、いかなる薬物反応も検出されなかった。検死解剖や検査は5か月にも及んだが、男性の死因は特定されることなく、遺体はスライゴタウン墓地に埋葬された。

 

追跡

スライゴは大西洋に面した入江の小さな町で、ホテルや市街地には防犯カメラが点在し、いくつかの行動履歴をキャッチすることができた。男性は遺体となって発見された現場から約9キロ離れた町の中心部にある「スライゴシティホテル」の宿泊客と判明する。

赤色ポイントがホテル、☆が発見現場となったビーチ[googlemap]

6月12日(金)にはじめてホテルを訪ねた彼は予約を入れておらず、フロントで「3日間の滞在」を希望。宿泊にパスポートや身分証の提示は不要だった。名簿には氏名「Peter Bergman」、住所に「Ainstettersn 15, 4472, Vienna, Austria」と記入し、支払いは現金での先払いだった。

捜査員はオーストリア警察へ問い合わせを行ったが、長年そのような住所は存在していないことが分かった。その後、ヨーロッパやアメリカ全土、可能な限り問い合わせてみたものの、「ピーター・バーグマン」に該当する失踪の届け出などはなく、男性は偽名を使用していたことが判明する。その後も、彼の指紋とDNAは国外の捜査機関でもデータベース照合に掛けられたが、一致するものは見つからなかった。

タグの切り取られた着衣のいくつかは、多国籍衣料チェーン「C&A」で販売された量産品と判明したが、ヨーロッパ内だけで1300近い数の小売店舗があり、オンラインショッピングもできることから購入先の特定は不可能だった。

 

6月12日、男は黒い鞄を手にホテルを訪れた

その顔貌はゲルマン人風で、ドイツ訛りの英語だったとされ、立ち振る舞いはまともな職業人に見えた。バーグマンは会話を避けていたのか、物静かな旅行者と認識されていた。従業員が記憶していた彼の発言は、外での朝食から戻ったときに答えた「美味しかった」という感想くらいのものだった。

滞在中は喫煙室に出入りする姿が頻繁に見られ、部屋ではインターネットを使用していたとみられるが、他の通信トラフィックと入り乱れてその履歴を詳らかに解析することはできなかった。清掃係の女性がマスターキーを使って彼の部屋を訪れたとき、中にいた彼はひどく驚いて緊張した面持ちとなり、その場に固まってしまったことがあった。女性が「自分はホテルの従業員で片づけにきただけだ」と説明すると、ようやく彼は安堵の色を見せたという。

喫煙習慣が彼の体を蝕んだのか[missingdoe.com]

13日(土)、バーグマンは郵便局を訪れ、「82セント切手」と「エアメールのステッカー」を購入。その場で国際郵便を投函したとみられるが、彼がどこの誰にどんな内容の手紙を送ったのかは明らかではない。ただひとつ言えることは、その時点で彼にはアイルランド国外の家族か友人か誰かに通信する意志があったということだけだ。

14日(日)、彼が町のタクシー運転手に声を掛けていたことも分かった。バーグマンは「静かなビーチで泳ぎたい」と伝え、近郊の地図を差し向けた。運転手は、それなら10数分で行けるロセッスポイントビーチがよいと提案して車を走らせた。ビーチを見渡した彼は、ほどなく満足したような表情でタクシーに戻り、町まで帰るようにと運転手に指示した。

バーグマンの行動で最も注目すべきは、何かを詰めた「紫色の小袋」を携えてしばしば宿から出歩き、いつも手ぶらで帰着していたという点だ。街頭カメラは至る所で一人で散策する男の姿を捉えていたが、「袋の中身」をどうしていたのかは分かっていない。彼は人知れず「私物を捨てる」ために町を散策していたと想定された。カメラ映像の解析作業のほか、地元住民のゴミ捨て場、公園や不動産、私有地の庭や駐車場など、地元警察は男性の身元を明らかにする手掛かりを捜し求めたが、全て徒労に終わった。

私物の遺棄がカメラの死角で行われていたことははたして偶然なのだろうか。その遂行は細心の注意を払って監視の目を免れているかのようにさえ見えた。彼はとくに変装もせず、街頭カメラや人々の目を積極的に避けようとしていた訳ではないにもかかわらず、なぜか彼自身の痕跡を少しずつ、だが着実に消去しようとしていた。見えざる力が彼の「任務」を後押しでもしているかのように。

紫色の小袋を手にした姿[missingdoe.com]

15日(月)、その日チェックアウトする予定だったバーグマンは、フロントで「滞在時間を1時間伸ばしたい」と滞在の延長を訴えた。裏を返せば、彼は少し遅い時刻の電車やバスに乗ろうとしていたことが考えられる。彼には取るべき行動があり、明確な目的があった。最終的に13時6分にホテルを離れるが、その時点で彼は黒色のショルダーバッグ、黒色の手提げ鞄、紫色の小袋を手にしていた。

その後、ホテルからショッピングセンターに向かい、店の出入り口付近で何か躊躇するように立ちすくんでいる姿がカメラに捉えられていた。10分程してバスターミナルに向かったことが特定できたが、ショッピングセンターからバスターミナルまでの区間で、黒色の手提げカバンは人知れず処分されていた。ターミナルで軽食をとったあとバーグマンはその場で何かメモを書いたか、メモを眺めていたようだが破って捨てた。カメラの映像を確認できたのは、彼の死から34日後だったためメモは回収できず、そこに何が書いてあったのかは分かっていない。

13時40分頃、コーヒーショップでカプチーノとハムチーズサンドを食した

6月15日の午後、少なくとも10数人が彼の姿を目撃していた。何に追われるでも隠れるでもなく、彼は自身の意志に従って動いているように見えた。運転手の記憶にはなかったが、バーグマンはおそらく14時20分発のバスに乗り、その最後の目的地を訪れた。

ビーチに人影はまばらだったが、散歩に訪れていた地元民が彼の姿を記憶していた。長身で上下黒づくめの男の装いは目を引いたという。小脇に新聞を抱えていたが、その姿はほとんど場違いに思われた。婦人たちが30分程で散歩を切り上げて戻ってきたときにも男の姿はまだその場にあり、奇妙に感じたと振り返る。

ある夫婦は、足元をたくし上げて手を後ろに組みながらビーチと平行に水際を歩いていく男の姿を見たという。夕日を背景に、鮮烈に輝く海原とそこに浮かび上がる彼のシルエットが印象的だったと語る。

夜10時半頃、恋人とビーチを訪れた男性も、黒革のジャケットを着た白髪の男性とすれ違った。彼は若者たちにそっと会釈しただけで、何を語るでもなく通り過ぎていった。翌朝、ランニング中の親子が遺体を発見するまでの8時間の間に、バーグマンはこの世を去った。

 

残された謎

バーグマンはおそらく自分の過去をすべて捨て、私たちにいくつかの謎を残してその生涯を閉じた。多くの人は、彼が深刻な病状を憂いて、自らの命を絶つために見知らぬ町の海岸を選んだのだと推測する。ベッドに縛られて最期を迎えるよりはその人にとって自由を感じられる選択だったかもしれない。だがなぜ名前や住所を偽ってまで能動的な孤独死を遂行しなくてはならなかったのか。

ある人は、彼は自尊心や相手への思いやりの気持ちから、周囲の人間に苦悶や嘆き、その死に行く様を見せたくなかったのだと主張した。ある人は、生命保険の制約から「自殺」の判定を避けるために、行方不明による「緩慢な死」を選んだのではないかと唱えた。彼が最期に宛てたエアメールは相手に無事届いているのだろうか。

遺体に激しいショックや加害の兆候はなく、体内から何らの薬物も検出されないにも関わらず、彼は自分の死期を悟って宿をとり、その瞬間を迎えるためにバスに乗ったとでもいうのだろうか。知らない町の、思い入れもない静かな海辺で、水着姿になって?

Rebecca Giosによる復顔図, 2019 [missingdoe.com]

男性はどこからこの海辺の町を訪れたのか。スライゴにも小さな空港はあるが、首都ダブリンとの直通便が日に数本という限られた航行で、該当するような乗降客はなかった。となれば陸路より他ないが、200キロ離れたダブリンから終点スライゴ駅までの12駅でもその姿は確認されなかった。

スライゴでのバーグマンの姿は、12日午後6時半近くにバスターミナルで確認されており、そこからタクシーで町の中心部へと向かった。一軒目で宿泊を断られ、たどり着いたのが「スライゴシティホテル」だった。彼は130キロ離れた島の北部、イギリス・北アイルランドのロンドンデリー市からを長距離バスでスライゴへ移動してきたことまで遡ることができている。しかし管轄から外れてしまうことや国外の空港の情報セキュリティの問題もあってか、デリー以前の行動履歴について詳細は得られていない。なぜバーグマンは宿も決めずにふらりとその地を訪れ、最期の地としたのか。

Webフォーラムのロンドンデリー出身者は、バーグマンのデリー以前の行動が充分調べられていれば、身元特定につながったはずだと嘆く。ロンドンデリーは北アイルランド第2の都市だが、都市圏人口は10万人程度。空港はあるが国際アクセスポイントではなく、2009年当時の年間乗客は35万人に満たない。空港と聞くと巨大な国際線ターミナルを想像しがちだが、日本の旅客数で単純比較すれば丘珠、佐賀、岩国、静岡空港と同程度(国内40位前後)の地方空港にすぎず、当時はライアンエアー航空によりロンドン、リバプールマンチェスターグラスゴーなどの都市につながっていた。イギリス政府、北アイルランド捜査当局が努力を惜しまなければ彼の足取りを追うことはできたのではないか。

 

あるいはバーグマンは常日頃から個人情報を持たずに行動する人種だったのではないかとする声もある。軍や諜報機関で鍛えられ、町では目立たずに闊歩しながらも、いざというときは監視カメラを逃れる優れた洞察力を備えていたのではないか。あるいは人目に付かないどこかのポイントで何かの任務を遂行していた、誰かに荷物を渡していたとは考えられないか。特命をこなしつつも、致命的な失敗を犯し、謎の手段で命をとられた高齢のエージェント。それとも重大な犯罪行為に加担した過去から、病院に通うことができなくなった逃走犯。被害者か仲間たちの報復を恐れて高飛びでもしてきたのだろうか。

“過去を捨てた男”の最期は人々の感性を刺激し、想像力を喚起した。キアラン・キャシディ監督は19分の短編ドキュメンタリー『ピーター・バーグマンの最期の日々』でその謎を広く提起し、世界中の人々を答えの出ない迷宮へと誘い込んだ。前衛的な観客の一人は「手の込んだでっちあげだ」と発言したが、残念ながらこれは真実である。インスパイアされた舞台脚本家トレサ・ニーロンは戯曲『A Story Of Dying』でその謎多き男の「正体」のひとつを描出して見せた。

www.youtube.com

アイルランド警察は2019年、2021年と、死亡した男性の身元確認の協力を国民に度々呼びかけている。2023年、身元不明・行方不明者の捜索活動を支える英国の非営利団体「Locate International」は新たに動画を作成し、以下の事柄を呼び掛けた。

・ウィーンの偽の住所に何か心当たりはありませんか?

・この時期にスライゴからの郵便を受け取った人を知りませんか?

・警察、軍隊、ドイツNVA(東ドイツ軍)、または諜報機関などの訓練で、彼と似たような男性と一緒になった経験は?

・歯科医の方で、2009年以前に金歯を施した男性との係わりは記憶にありませんか?

・ 2000年代後半に、報告に一致するガン治療をした人を知りませんか?

・ドイツまたはオーストリア出身者で、スライゴ、デリー、アイルランド西海岸とかかわりをもつ人を知りませんか?

・突然失踪した人、連絡が取れなくなった人は彼と似ていませんか?

単なる行旅死亡人ではなく、その行動の背後にそこはかとない思慮深さを感じさせる男、通称「ピーター・バーグマン」の捜査は今も続けられている。

 

行旅死亡人の特定;「ライル・ステヴィク」のケース

参考までに、長期間、行旅死亡人とされていたが特定された事例、「ライル・ステヴィク」と呼ばれたアメリカのJohn Doe(身元不明男性)のケースについて見ておこう。

 

2001年9月17日、ワシントン州アマンダ・パークという小さな避暑地の湖畔モーテル「レイク・クイノールト・イン」で、滞在日数を確認しに部屋を訪れたメイドがコート掛けに首を吊った宿泊客の遺体を発見する。

緊急通報を受けたグレイス・ハーバー郡当局は、室内ゴミ箱から白地に「suicide(自殺)」と書かれたくしゃくしゃのメモと、寝台の照明脇に「for the room(部屋代として)」と書かれた160ドルを発見し、現場状況からすぐに自殺と判断した。

現場(青色◎)は都市部から離れた山間部のモーテル [googlemap]

男性は身分証明書を携行しておらず、所持品は歯ブラシと歯磨き粉、残りの小銭だけで身元特定につながるものは出てこない。宿の台帳には、アイダホ州メリディアンの住所と「ライル・ステヴィク」という名前が記されていた。だが確認を取ってみると、住所は別の宿の所在地と分かり、宿泊施設側は男性について何も関知していなかった。該当する住民登録も存在しないことから偽名であったと判明する。

男性の身体的特徴は身長約188センチ、体重63.5キロ、黒髪にヘーゼル色の瞳。司法解剖虫垂炎手術の痕跡、歯列矯正痕があった。また捜査員は、男性のベルト・ホールに着目し、彼が以前よりもきつく締めるようになっていた、死亡前には体重が以前よりも13-18キロ程度減少していた可能性を示唆した。20-30歳代、白人/ヒスパニック系ないしネイティブアメリカンとの混血とみられる行旅死亡人として報道され、復顔図も公表されたが、身内や知人からの連絡もない。

法医Diana Trepkovによる復顔図、Washington 2001

適合するような家出捜索者の届けが出されることもなく、指紋やDNA型もデータベースとの照合が行われたが登録されてはいなかった。都市部や犯罪多発地域であれば防犯カメラも普及していた時期だが、現場周辺にはほとんどなく、おそらくはバスで現地入りしたと見られたが運転手たちも記憶しておらず、行動履歴さえ謎に包まれていた。男に関する唯一の情報は「僅かなカナダ訛りがあった」という店員の証言だけだった。身元調査はすぐに暗礁に乗り上げ、氏名不詳者「John Doe」として捜査は事実上凍結した。

グレイズハーバー郡保安局で捜査に当たった元刑事レーン・ユーマンズ氏によれば、「ライル・ステヴィク」の偽名はジョイス・キャロル・オーツの著書『You Must Remember This』(1987)からの引用ではないかとしている(綴りは若干異なる)。作品の舞台は1950年代マッカーシズム下のアメリカの家族が描かれ、全体を通して自殺未遂が多発する内容である。中古家具店を営む登場人物ライル・ステヴィクもある晩、垂木にロープを括りつけ自殺を図る場面が描かれている。

You Must Remember This

ウェブ上のフォーラムでは、殺人事件ではないこともあり、「おそらく彼の身内は名乗り出たくない、身元を明かしたくないのではないか」と危惧する者もあった。メキシコやカナダからの不法入国者ではないかとの見方もあり、何かから逃走していたか逃亡犯などのケースが想定された。しばしば社会問題となる「先住民の自殺」を感じ取る者もあった。なぜ彼は偽の住所を書くことができたのか、宿泊施設の元滞在者、元従業員や出入り業者にも思われたが、施設側はどれほど協力的だったのか、警察はどこまで把握できたのか。

中には「荷物を何者かに奪われたのではないか」という見方から偽装自殺、つまりは現場となったモーテル関係者や彼の部屋を訪れた第三者による殺人説を唱える声もあった。たしかにシーズンオフの湖畔や森林地帯で人知れずトラブルに巻き込まれた可能性は排除できない。また彼が命を絶つ5日前にはいわゆる「9・11」同時多発テロが発生し、被害当事者や家族でなくても多くのアメリカ市民がうつ状態に駆り立てられていた時期であることや、当時のテロ対策の一環としての国境封鎖の影響も何かしらの関連を予感させた。

『このことを忘れないで』と題された本からの引用が事実とすれば、それは周囲の人間関係から分断されたライルの最期のメッセージのようでもあった。続報が絶えてからも10数年にわたって安楽椅子探偵たちは細々とその推理を重ねた。

2015年には「瘦せる前」の復顔図も作成された

しかし2018年1月、DNA型鑑定や遺伝家系調査を行う非営利団体「DNA Doe Project」による調査が始まると事態は一変した。翌2月には「ライル」のDNA型がニューメキシコ州北部をルーツにもつ母系集団と適合することが発表された。

団体はマーガレット・プレスとコリーン・フィッツパトリックによって創設され、20人のボランティアが調査に当たり、費用は掲示板フォーラムに集う有志などからの寄付によって賄われる。もちろんあらゆるケースで身元特定が期待できるわけではないが、血縁の逆引きから地縁を追跡し、不明者家族の特定に導くという画期的な試みである。

調査の進捗は団体のフェイスブックページや各掲示板のフォーラムで報告され、彼のDNA型の抽出成功、遺伝系統から得られた特徴が明らかにされ、系統樹のパズルを埋めるピースが徐々に埋まっていくこと、一歩一歩「彼」のルーツへと近づいていく進展に人々は歓喜した。

更にこの「続報」が注目を浴びたことで「ライル」を名乗ったJohn Doeの再周知につながり、新たに「生き別れた自分の弟かもしれない」といった人々も現れた。電子フォーラムの人々は、尋ね人か否かは判断できないが、その努力が報われることを願い、捜索者にエールを送った。遺伝的ルーツとそうした新たな情報の集積などによって、4月にはいくつかの家系へと焦点が絞り込まれていった。

日本ではなじみが薄いが、奴隷制の歴史があり、養子縁組が多く、人種のるつぼである北米では、自らの生物学的な両親や先祖、家系図をたどるために「GEDmatch」などの商用サイトにDNA型情報を登録する人たちが少なくない。そうした登録情報の解析と紐づけによって民間にもDNA型データは集積されており、身元不明者「John Doe」「Jane Doe」の絞り込みや追跡に役立てられる。

ほとんどの州では、事件性のない個人情報は法的に保護されるため、特定できたとしてもその実名や家族関係が公にされることはない。それでも長年事件を追ってきた者たちは、名前を失くした彼らがアイデンティティを取り戻す日を願い続ける。

 

5月8日、「ライル・ステヴィク」を名乗ったJohn Doeの身元が特定されたことが報告された。DDPの鑑定グループは、カルフォルニア出身の男性登録者との一致の可能性を導き出し、警察を通じてその親戚に連絡を取り、最終的には家族から提供された「指紋」によって死亡男性との一致が確認された。

家族は、男性が亡くなっているとは思っておらず家族と関わりたくないのだろうと思い込んでおり、捜索届を出していなかった。彼の実名等は公表されていないが、16年半ぶりにその偽名を捨てる日が訪れたのである。

 

所感

日本は欧米と比較して自発的失踪—家出、蒸発—を容認する文化があると見なされている。島国という地勢、治安が良い国という幻想から、拉致などに対する強制失踪への危機感の薄さは少なからず働いているかもしれない。警察の民事不介入や、個人・地域も「家庭」の問題に口を挟むことは憚られることなど理由はさまざまである。

人によっては「理由があって自殺したのだろうからそっとしておいてやれ」という見方もあるかもしれない。だがその遺体は本当に知人や家族から見放されてしまった、自ら命を絶ったといえるのだろうか。それこそ価値観の押し付けに他ならない。死後何年も経過して死因さえも分からない人々が毎年津々浦々で発見されており、全てに事件性がないとは言いきれないのが実情である。社会全体が行方不明者を放置し続ければ、死刑囚が告発するまで事件性が取り沙汰されてもいなかった茨城上申書事件のような事例が当たり前に起こるかもしれない。

「ライル」のように家族が彼の死の事実を知らずにいるだけの場合や、見つけ出したいが警察の厄介にはなりたくない、大事にはしたくないという家族や、不明者の親族ではないために捜索届が認められないケースもあるだろう。キリスト教に限らず信仰によって自殺の禁忌の戒律意識は強い。「バーグマン」のように身元を能動的に伏せながら、あるいは、現金3400万円を遺して孤独死し大きな話題となった『ある行旅死亡人の物語』(2022, 毎日新聞出版)のように注目を集めるケースというのは極めてまれである。

ある行旅死亡人の物語

行旅死亡人の多くは、発見時にわずかに地元紙が取り扱うだけで人知れずその存在を忘れられてしまう。現状すぐにそうなるとは思わないが、DNA型登録の義務化などによってそうした名もなき死者は過去の遺物となる日が来るかもしれない。どこかで彼を探す人、彼女の帰りを待つ人がいる可能性があるうちは、見ず知らずの人たちの手で見送る手伝いをしてもよいのではないか。

 

死者のご冥福をお祈りいたします。

 

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Sligo Man — Locate International

UM-0075 – MISSING DOE EUROPE

Lyle Stevik Article Links - DNA Doe Project