塩尻アベック不審死事件

2002(平成14)年、長野県塩尻市で発生した若い男女の不審死事件について記す。

死亡状況の不可解さとともに、女性が当時人気を博したAV女優「桃井望」さんだったことでも大きな注目を集めたが、事件発生から20年を経た現在も未解決の事件である。

 

■概要

2002年10月12日20時55分頃、長野県塩尻市を流れる奈良井川に架かる郷原橋付近の河川敷で車が炎上していると通報が入った。21時過ぎには地元消防団らが駆けつけて、火はすぐに消し止められ、約15分後に消火報告が行われた。

炎上した車から約10メートル後方の草むらに女性の遺体が発見された。黒焦げに近い状態で、髪はチリチリに焼け、顔は赤黒く変色して目は見開いたままの状態だった。背中や脇腹には4か所の刺し傷があった。

更に消し止められた車内にも、激しく焼損して見た目には性別の区別すらつかない焼死体が一体見つかる。車は3列シートのミニバン、ホンダ・オデッセイで、遺体は助手席と2列目の間にうずくまるような姿勢だった。左手近くには柄が焼失したとみられる包丁が落ちていた。

 

現場はJR塩尻駅から北西約3キロ。周辺に民家はなく、川を挟むように田畑が広がる一帯。土地鑑のある者しか近づかない、本来なら夜間はだれも立ち入らない場所である。

車内で見つかったのは車の所有者で、市内に住む会社員酒井宏樹さん(24)、車外の遺体は東京都中野区の会社員渡辺芳美さん(24)と判明する(「渡邊」の報道もあるが本稿では「渡辺」に統一する)。ほどなく人気AVアイドルの「桃井望」であることが報じられると、大きな話題となった。

14日に司法解剖が行われ、酒井さんは死因不明、渡辺さんは刺し傷が致命傷となり後から火を付けられたものと判断された。2人の肺から検出された煙の量はともに約8g、およそタバコ1本分であり、「焼死」とは考えづらかった。

塩尻署は心中と他殺の両面での捜査を表明したが、消火活動で現場が荒らされてしまい第三者による殺害の痕跡が確認できず、捜査本部が設置されることは一度もなかった。

酒井さんの遺族らによると、警察は当初から「無理心中」との見方で話を進めていたとされる。「心中なら息子が(相手女性を殺害した)容疑者になってしまう」との思いから周辺調査を進めた結果、心中とするには不審な点が次々に明らかとなり、警察の見解に異を唱えた。

同02年11月、酒井さんの遺族は「心中とは考えられない」として被疑者不詳のまま殺人罪刑事告訴し、4度の訂正を経て、03年1月に受理された。長野県警には受け取りを拒まれたものの、同年4月には殺人事件としての捜査を求める署名約1万人分が長野県知事に手渡された。

 

■人物

渡辺芳美さんは1978年生まれ。長野県伊那市で育ち、小中とバスケに打ち込み、身長148センチと小柄な体格ながら高校ではキャプテンも務めた。都内の短大で栄養士の資格を取得後、専門学校に転学。

同時期、家族も都合で長野を離れ、埼玉県に移っている。卒業後は病院の調理師となるが1年程で辞め、2000年末頃に新宿でスカウトされてAV業界入りを決める。

2001年2月に初収録を終え、4月にAV女優としてデビューした。愛らしいルックス、小柄な体型と豊かなバストでいわゆる「ロリ巨乳」のキカタン(企画もの単体)女優として人気を博し、「のんたん」の愛称で親しまれた。1年半の活動期間で200タイトル以上もの作品がリリースされ、2002年5月からAVアイドルユニットminx(長瀬愛堤さやか・樹若菜)としても活動。6月にはソロ写真集『NOZOMI』を発表するなど幅広い活躍を見せた。

また2001年11月に「ストレス発散計画」による舞台「ON AIR 私の街からこんばんわ!!」に渡辺芳美名義で参加しており、「本庄ヒロ」役を演じていた。

 

小学生以来の旧友M子さんは、渡辺さんが上京してから20歳前後のときに重大な出来事があったと語る。渡辺さんはスーパーでアルバイトをしていたとき知り合った男性との間に妊娠し、相手男性はすぐに結婚を決意した。しかし結婚して子供を産むべきか、親にも明かさず思い悩んだ末、堕胎する決断をした。M子さんが1か月後に聞いた段階では、渡辺さんは両親には堕胎のことをまだ打ち明けられずにいたという。

M子さんによると、渡辺さんは子どもの頃から大事に育てられてきたという。渡辺さんから親が厳しいと愚痴に付き合わされることもあったが、妥協しながらそれなりにやってきたようだった。しかし元々寂しがり屋だった渡辺さんは堕胎を境に、前にも増して相手を求めるようになった。自分や相手を大切にできなくなり、刹那的な関係に溺れるなど精神的に不安定な時期が続いたという。

渡辺さんは病院での調理師の職も一年程で辞め、人知れずAV業界へと身を投じた。地元の友達を通じてM子さんの耳にもAV出演の噂が入った。「地元の男の子が知っているということは、あの地域では相当に知れ渡っているということです」。2001年の秋口、M子さんに舞台公演のチケットを買ってほしいと渡辺さんから連絡が入った。

 

酒井宏樹さんは1977年生まれ。渡辺さんと同じ県立高校の1学年先輩だが当時親交はなかった。名古屋市内の専門学校を出た後、伊那市内の家電メーカーに勤務。そのときの上司が独立して塩尻市で内装事業を立ち上げ、誘われて2001年8月からユニットバスの据え付け工事施工の仕事に就いた。

10代からバンドのボーカルとして音楽活動を続けており、亡くなった日の翌日にもライブが控えていた。3年来、親公認の交際相手がいたが、02年9月頃に別れていた。

勤め先の上司は、事件前に酒井さんに不審な素振りはなかったとし、仕事もこれからというときだったと話す。「とてもまじめで温厚。仕事上、高速(道路のプリペイド)カードを支給しているんですが、プライベートで使ってしまった分は後で返す、そんなやつです」「ただ女関係やプライベートな話は入ってこなかった」とも語っている。

仕事は歩合給でおおよそ月35万円前後の収入があった。実家に15万円程入れ、残りのお金を自分の生活費に充てていた。週末ごとに実家に顔を出し、洗濯物やごみをまとめて持ち帰っていた。家族や旧友に「金がない」と漏らすこともあったが深刻な物言いではなかったとされる。交友関係は広く、女性に驕る性格ではあったが金遣いが派手という訳でもなく「金銭感覚は普通」だったという。

 

渡辺さんの幼馴染だったK子さんは高校、大学時代を愛知県で過ごし、名古屋の専門学校に通っていた酒井さんとも親しかった。2001年5月のゴールデンウィークにK子さんを介して一緒に遊ぶこととなり、渡辺さんと酒井さんは連絡を取り合う仲になった。

K子さんはその後1年ほど海外へ留学。メールのやりとりのあった男友達から、渡辺さんがアダルトビデオに出演しているらしいと知らされた。

帰国した02年8月頃、K子さんは旧友たちと再会し、渡辺さんが周囲にAV女優の仕事について打ち明けていないと知って心配になり、連絡を取った。渡辺さんは「みんな知っているとは思っていたけど、言いづらくって」「後悔はしてないから」ときっぱり返されるとそれ以上の話はできなかった。

 

■事件前夜

事件前日の10月11日(金)、酒井さんと渡辺さんは2人を引き合わせた共通の友人K子さんと久々の再会を果たした。

酒井さんは早くに仕事を終えて14時頃に帰宅したとみられている。18時頃、渡辺さんを車に乗せてK子さんのアルバイト先を訪れる。K子さんが渡辺さんと対面するのは酒井さんを紹介した日以来およそ1年半ぶりで、「交際しているのか」と尋ねると2人は揃って否定したという。

だが酒井さんがトイレに立った隙に、K子さんが問い詰めると、渡辺さんは「宏樹君が好きだから、社長とは別れたの」と胸中を打ち明けた。それまで彼女は業界関係の社長のマンションで同棲しており、実質愛人関係にあったとされる。

渡辺さんはAVの仕事や収入についても明け透けなく語り、貯金は500万円程だと話した。「どうせ今しかできないんだし稼げるだけ稼いだら辞めようかな」と漏らしていたが表情に暗さは見られなかったという。親にはAV出演について明かしていなかった。

 

酒井さんは過去に「桃井望と知り合いだ」と話してしまい、それを知った年上の知人男性から「カネを払うからAVの女とやらせろ」と詰め寄られていると話した。相手は裏社会とのつながりがある人物のため困っていると漏らすと、渡辺さんは「こっちにはもっと大きいバックがついているんだから何を言われても断ればいい。“下手にそういうこと言わない方がいい”って」と強気で答えていた。

1時間半ほど車中で話してバイトを切り上げ、3人で酒井さんの部屋へ。軽くビールを飲みながら世間話をし、酒井さんは自身がボーカルを務めるバンドのライブの案内メールをあちこちに送信していた。

21時半頃、K子さんは元のバイト先まで送ってもらい、「また日曜に伊那に行くからその時ゆっくり話そうね」と約束して別れた。直後にK子さんにメールが届く。

渡辺さん:K子ちゃま。今日はあえて嬉しかったでしゅ。かなり感激(T_T) 。K子はびっくりしたと思うけど……。これからもずっと友達でいてね

(K子さんから「どんな仕事をしてても、ずっと友達じゃない。宏樹君とがんばってね」という返事)

渡辺さん:うん、ひろきくんの彼女になれたらいいな~うふっ

(K子さんからの返事)

渡辺さん:うん、ひろきくんとのこと応援してね。1つ聞いていいかな~。あの人はいい人だよね~

(K子さんから「彼は女性にもてるから大変だと思うけど、いいやつだから」と背中を押す返事)

渡辺さん:まあね、オトコとオンナってのは難しいよね~。でも好きになっちゃたらしょうがないよね。ガンバロー。ありがちょ。またTELしま~しゅ

(「TEL」は絵文字。送信時刻22時58分)

K子さんを車でバイト先に送り届けた2人は、その足で箕輪町にある渡辺さんの小中学時代の幼馴染が営むショットバーに向かった。23時半~翌12日3時頃まで酒井さんのバンド仲間の男性を交えて飲食を続けた。

幼馴染の男性いわく「バンドの話で盛り上がった。13日の練習を渡辺さんも見に行きたいと話し」、酒井さんは「ヨッチャンを彼女として連れて行く」と公言していたという。

事件前夜までの酒井さんと渡辺さんの間柄について、古風な言葉で表すならば「友達以上恋人未満」といったところであろうか。交際を公言しないまでも相思相愛だった様子が窺える。

一方で、渡辺さんと同棲していた「社長」、酒井さんの「裏社会とつながりのある友人」、渡辺さんの話した「もっと大きなバック」など、2人の関係をよく思わないであろう存在も見え隠れする。

 

■裏おんなブログuraonna.blog31.fc2.com

渡辺さんにはAV業界に公私ともに親友と呼べる女性がいた。堤さやかさんである。

2005年10月17日に開設された匿名の元AV女優が書き手のブログ「裏おんな」は、その内容から堤さんの筆だとされている。11月11日の記事に「大切な親友」と題してかつての「親友」とのやりとり、彼女への思いを記している。

書き手、「親友」の芸名・実名は明らかにされていないが、ここではそれぞれ堤さん、渡辺さん(桃井望さん)として内容を見ておこう。

私は彼女を他人とは思えなかった。
彼女もそうだと言っていた。
お互いに、何か惹かれるものがあったのだ。

二人はお互いの好きなものやお気に入りの場所を共有し合い、仕事面でもお互い刺激を受けるよきライバルだったと振り返る。

渡辺さんの恋愛関係について、離れて暮らす「学生時代に憧れていた男性」に告白されたこと、一方で「仕事に理解のある男性」と同棲関係にあったため、どちらと交際すべきか相談を受けたと記されている。「仕事に理解のある男性」とは彼女の所属会社ウイナーズアソシエーションとは別のAVモデル会社「社長」である。

彼女は結局、
離れて暮らしていて、会いたい時に会えない彼よりも、
いつもそばにいられる彼を選んだ。

だが渡辺さんは酒井さんと知り合った01年7月頃から度々塩尻通いを続けており、「社長」との関係に満足していた訳でもない。いつからか酒井さんへの気持ちが勝っていったとみられる。と、同時に堤さんに「演劇だけをやりたい。今の仕事を辞めたい」と吐露するようになった。堤さんは親友としてライバルとして、彼女に直球の問いを投げかけた。

『今までずっと一緒に仕事をしてきて、
私は○○に嫉妬心持ちながら、
向上心に変えて頑張って仕事してきたよ?
○○がいなくなったら、
私の気持ち刺激してくれる一番大切な人がいなくなるってコトなんだよ。
本音を言ってよ。
演劇がやりたいんじゃなくて、
彼に相応しい女に戻りたいってコトなんじゃないの?』

渡辺さんは親友の言葉を否定せず、「そうかもしれない」と返答。同棲相手や男優たちとのやりとりを続けることが苦しいと漏らした。堤さんは、仕事を辞めたいと思うほどであれば、同棲している恋人との関係も清算した方がよいと勧める。

納得した渡辺さんは、女の親友は堤さんだけだと話し、「いつか私の地元にアンタを連れて行きたいな」と語った。

私は
『もちろん行くよ』
と答えた。

彼女の幸せそうな声が嬉しかった。

その後、堤さんは予定を合わせて渡辺さんの地元に一緒に行くことになり、彼女が好意を寄せる男性やその友人とも連絡を取るようになった。

「ところが、それからすぐ、
彼女の地元に遊びに行く予定日に、
私に仕事が入った。
撮影の日にちは変えられない。
行きたかったが、また次の機会にしようということになり、
当日、彼女は一人地元に向った。」

あいつら死んだかもしれない。』

翌日、酒井さんの友人から届いたメールは彼女を激しく混乱させた。

なぜこんなコトになったのか、
私が行ってたら、
彼女達は死なずにすんだのか、
私は止めることができたのか、
あるいは私も一緒に死んだのか

私は、彼女の本心を聞かされていただけに、
あなたがいなくなっても頑張るよ
とは思えなかった。

尚、堤さんは渡辺さんが亡くなった2か月後の2003年1月にAV女優を引退している。

 

■事件当日

酒井さんの遺族は、事件発生のおよそ2時間前に直接電話で会話しており、そのときの彼の普段と変わらぬ様子が警察の「無理心中」の見解を疑う契機となっていた。

当時の状況について交友関係などに確認を進めていくと、12日の飲み会の後、渡辺さんはそのまま酒井さん宅に泊まって午後まで寝ていたとみられ、酒井さんは事件発生直前まで各所に多数の連絡を取っていたことが判明した。

9時頃、酒井さんが勤務先に「体調不良」で休むと連絡。

15時31分、K子さんが今日もバイトしている旨のメールを渡辺さんに送っていたのに対して、「ガンバレ~‼まだ先は長いけど~っ」と激励する返信をしている(渡辺さん最後の通信記録)。

16時、酒井さんが名古屋時代の友人に電話し、20日後の友人の結婚式の二次会について打ち合わせ。酒井さんは出席者のとりまとめ役を任されていた。

16時45分、バンドメンバーに「(翌13日に近郊で開催される)音楽祭には行くのか」と尋ね、その後に予定されていたバンド練習に渡辺さんを同伴する旨伝えていた。

17時頃、「大のおばあちゃん子」だった酒井さんから祖母に電話を掛けており、入院から戻ったばかりだったので体調を気に掛けて「来週帰るから元気で頑張ってよ」と励ましていた。

18時頃、酒井さんが母親と電話で会話。前週に酒井さんが実家に持ち帰った荷物に「水道料金の督促状」が紛れており、母親は代わりに支払いを済ませて「水を止められていないか」と確認の連絡を取ったという。そのとき「今日明日は忙しいで今週は帰れん、来週帰るで」と話しており、会話自体に不審な様子はなかった。

18時過ぎ、別のバンド仲間に13日のライブの打ち合わせメール、40分頃に再度確認の電話を入れている。

19時47分、知人女性に音楽祭に来るかどうか確認のメール。

19時53分、高校時代から付き合いのあるバンド仲間の下平さんに電話。4日後にはジョイントライブの予定もある近しい間柄だった。しかしこのとき別のライブ参加で忙しかった下平さんは、「後でかけ直す」と言って要件を聞かずに7秒ほどで電話を切った。このとき電話口の酒井さんの声は明るく、取り乱した様子もなかった。

20時3分、下平さんが酒井さんへ折り返しの電話を掛ける。しかしつながったと思った瞬間に途切れた。

下平さんによると「小刻みにプップップッという音がしていた」と言い、そのとき部屋ではなく電波がつながりにくい場所にいたのではないか、と推測している。「プップップッ」というのは呼び出し(接続)待機音とみられるが、酒井さんはキャッチホンに加入しており、たとえ「通話中」であったとしても通常であれば「呼び出し音」が鳴るはずだという。

一連の状況から見ると、酒井さんが突発的に無理心中に走ったとは考えにくく、20時前後に何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。最後の通話からわずか1時間後の20時55分には車両火災の通報がされている。はたしてこの間、2人に何が起きたのか。

 

■訴訟

告訴状提出から約1年後の2003年12月、捜査に疑念を深めた酒井さん遺族は、県警に対して捜査本部の設置を求める行政訴訟を請求した。

04年2月の口頭弁論で県警側は「初動捜査に落ち度はなく、捜査方法は警察の判断に委ねられていて、本件で捜査本部を設置する義務はない」と説明した。

6月、長野地裁(辻次郎裁判長)は、県警側の対応について「捜査本部の設置は、警察内部の捜査手法の一つであり、公権力の行使とはいえず抗告訴訟の対象とはならない」との見方を示し、請求を却下した。

 

酒井さんが契約していた保険会社は、支払い責任開始から2年以内の「自殺」の疑いが強いとして生命保険の支払いを拒否していた。酒井さんの両親は保険会社の判断に対して03年12月に民事訴訟を起こし、約3500万円の支払いを求めた。

07年1月、長野地裁飯田支部(松田浩養裁判長)は、遺族側が主張する通り、酒井さんが「死の直前まで、自己の生存ないし生活の継続を前提として暮らしていた」ことを認める。警察の見立てた無理心中という「凶悪かつ激烈な行為を行ったことを合理的に説明することは極めて困難」とし、「周囲の状況から見て複数犯であれば殺害可能であり、第三者の他殺と考えるのが自然」と認定し、保険会社に支払いを命じた。

 

無論、刑事裁判に比べて民事裁判での事実認定の要件は緩やかである。だが捜査機関に自殺と判断されながら、民事裁判では他殺と認定されたことになる。

尚、渡辺さん側遺族は一切取材に応じておらず、酒井さん遺族によると、事件後も遺族同士の面識はないという。

 

酒井さん遺族側の主張によれば、捜査機関は心中との見方に固執したことから刑事捜査が積極的に行われなかった可能性があると見ている。

事実として捜査本部すら立っていないため、一般的な事件とは異なり、酒井さん遺族と弁護士、事件性を疑うジャーナリストらによる調査・報道がメインとなることに留意しなければならない。また責めるつもりはないが、渡辺さん遺族側の協力が得られていないことから、情報には偏りが生じている(酒井さん中心の情報となる)ことも確かである。

桃井望」として事件直後に独自の追跡取材を続けたのは東京スポーツ紙だけで、後に『新潮45』が記事とし、酒井さん遺族らの訴えにより『テレビのチカラ』『スーパーモーニング』『報道発ドキュメンタリ宣言』等テレビ朝日系列で追加調査を取り上げた。

以下、2人の事件前のうごきと、心中が疑わしいとされる状況証拠等について整理しておきたい。

 

■事件前のうごき

2001年11月、渡辺さんは劇団公演を前に「将来は女優になれたらいいな」と友人らに語っており、その後も業界関係者にはAVの仕事を引退したいと話していたとされる。

2002年1月に一か月ほどAVの仕事を休業。それまで専門誌にしか掲載しない雇用契約だったが、復帰後の4月にはパブリシティを全面解除(「全解」)。AV女優としての活動を公開しており、雑誌の取材では「他の女優さんに負けないように頑張ります」と意欲を見せていた。

01年4月 桃井望AVデビュー

01年5月 K子さんを介して2人が知り合う

7月頃から塩尻に通うようになる

01年11月 渡辺さん、劇団公演に参加

02年1月 AVを約1か月休業

02年4月 桃井望、パブリシティを全面解除

02年5月 アイドルユニットminx始動

02年5月 酒井さん、右手の故障(約1か月の休業)

02年5月 酒井さん、隣人とのネットビジネス

02年5月 酒井さん、60万円借り入れ

02年8月 K子さん、男性友人から桃井さんのAV活動を知らされる

02年9月 酒井さん、3年来の交際相手と別れる

2002年5月12日頃、酒井さんは右腕を故障し、グーになったきり自分の意志で指が伸ばせなくなった。会社には「寝違えた」と報告して1カ月近く休職状態で過ごしていたが、当時の交際相手には「仕事で長野市にいる」と電話で伝えていたという。

5月15日、酒井さんは地銀と消費者金融から各30万円を借り入れている。筆跡は本人のものではないとみられ、付添人が契約した可能性があるという。返済は月々1万円程度で、亡くなるまで滞りなく支払われていた。

その当時、酒井さんは隣に住むM氏と親しくなり、マルチ商法に係わるようになったとみられている。5月か6月頃、K子さんも説明会に誘われて参加していたが、契約には係わらなかったため詳しい内情は分からないと言う。(M氏、サイドビジネスについては後述)

 

9月頃、酒井さんが3年来の交際相手と破局。相手女性いわく「お互いやりたいことがあるなら別れようよと私から言ったんです」と語っており、桃井さんとの関係が原因とはされていない。渡辺さん、酒井さんは知り合ってからも双方に交際相手がいたため、お互い好意を感じつつも正式な交際に踏み切れなかったのかもしれない。

DEBUT!

事件前の10月9日(水)、桃井さんが酒井さんを訪ねる。翌10日に酒井さんはオメガの時計を修理に出しており、これも心中説を否定する行動と認められる。

桃井さんは10月15日からはminxの大作ビデオ撮影が予定されていた。週刊誌などによれば、本人はアイドル志望ではないとして「AV女優を辞めたい」「撮影をやりたくない」とトラブルになっていたとも報じられている

 

■現場状況

渡辺さんは運転免許を持っておらず、「心中」だとすれば現場まで運転したのは酒井さんということになる。発見現場の河川敷は、日中でも釣り人くらいしか立ち入らない辺鄙な場所で街灯もない未舗装の砂利道である。川沿いの堤防道路から河川敷に降りる際には段差を越えなくてはならかった。酒井さんは日頃から愛車の取り扱いに細心の注意を払っており、シャコタン(車高を下げる改造)にしていたことから車体を傷つけるような場所に自ら乗り入れるのは不自然とする見方もある。

車のドアはすべて施錠されており、通常ならば運転席からボタンで全ドアロック制御したと考えられるが、酒井さんの遺体は運転席ではなく助手席の後部にうずくまった状態で発見された。一箇所ずつ手動で施錠したり、着火の段階になって運転席から助手席の後ろに移動したりしたのであろうか。

車の鍵は遺体の搬出時には回収されておらず、警察に問い合わせたところ後日車内から発見されたという。

 

燃料や車両の出火位置は特定されていない。松本広域消防局予防課の見解では、車内で出火すれば「1分もすれば火の海」となり、ざっと20分もすると全てを焼き尽くして自ずと鎮火に向かうことから、特別に燃え方が激しかったとは言えず、燃料が使用されたかは分からないという。新潮45では「火の手が上がったのは8時40分前後という推測が可能」(※20時40分前後)としている。

また河川敷には、ろうそく2本、ワインのボトルにバラ3本を活けたもの、ワイングラス2個(1つは破損)が置かれていたと言い、もしかすると遺留品の可能性もあるが警察では関連なしと判断された。

 

■殺害について

渡辺さんの遺体には四か所の刺創があり、車内の酒井さんの左手付近に包丁が見つかっている。酒井さんは右利きで、上司によると生前「リンゴの皮も剥けない」と包丁の扱いが不得手であることを話していたという。また仕事中に怪我をした同僚が傷を見せると、「やめてくださいよ。気持ち悪くなっちゃうから」と滴る血に拒絶反応を見せていた。

渡辺さんには背中にも傷があったことから、少なくとも同意の上の心中とはならない。無理心中であれば、車外に相手を放置したまま自分は車内で鍵を閉めて火を付けると言うのも道理にそぐわない。せめて最期は一緒に、というのがせめてもの筋である。

酒井さん遺族側は火を付ける際に灯油類が用いられたと推測しているが、部屋から持ち出された様子はなかった。前述のように、実際には使用されなかった可能性もある。

 

■自宅の様子

酒井さんの住む平屋の戸建てアパートは、現場河川敷まで車で5分程の場所。

勤務先の社長が借り受けて社宅としたもので、事件直後に合い鍵を持参して警察と共に部屋を訪れている。そのとき玄関は施錠されていた。

酒井さんの靴3足と渡邉さんのブーツが置かれたままだった。酒井さんが普段履いていた靴は3足のみ、11日から塩尻を訪れていた渡邉さんは履いてきたブーツ1足しか持参しておらず、新たに履物を購入していなかったとすれば2人は裸足のまま車に乗って現場まで移動したことになる。

 

室内は荒らされたような形跡もなく、仕事用のパソコンは充電されている状態で、食べかけの菓子が広げられ、カップにお茶が残されているなど生活感のある状態だった。

酒井さん遺族らによれば、バンドで作詞を手掛け、ロマンチストな性格だった彼が遺書すら残さないで自殺するとは考えにくいという。

酒井さん遺族が部屋を訪れた際、現像していないフィルムカメラが残されており、中には事件当日に自宅で撮影したとみられる2人の笑顔のツーショットが撮影されていた。ゴミ箱からはティッシュなど2人が性交したとみられる痕跡が発見されている。

おそらくは帰宅する道中で交際を約束し、仲睦まじい時間を過ごした半日後、各方面に様々な用事をこなしてから、わざわざひと気のない河原に出向いて「無理心中」する動機はどこにも感じられない。

 

酒井さん遺族によると、カメラとは別に、部屋の押し入れに現像済みフィルムの束が置かれていたが、いつの間にかなくなっていたとされる。現場保存されていなかったことから持ち出された事実があったかどうかも確認ができない。事件関係者が身元判明を恐れて密かに持ち去った可能性もあった。

東スポでは「桃井さんの携帯だけ見つかっていない」との記述もあるが、酒井さんの携帯との報道もありはっきりしない。だが警察は数か月分の通信履歴については確認を取っており、酒井さん遺族側の調査で多くが明らかになってはいる。

そのほか「隣人M」「サイドビジネス」に関係すると見られるメモ書きが複数見つかっており、事件との関連が疑われている。

 

サイドビジネス

事件前夜の11日晩、箕輪町ショットバーで飲食していた際、酒井さんは13日の夜に「会社の飲み会がある」と話していた。だが勤めていたユニットバス施工会社ではそうした予定はなかった。13日には日中にライブ出演、バンド練習の予定があったが、夜は明言しづらい別の要件があったのではないかと推測されている。

 

酒井さんは2001年から廃車を修理して転売する中古車販売のサイドビジネスを行っていたとされ、その話は12月までに地元・伊那の友人たちの耳にも入っていた。話を聞いたK子さんには「正式なルートではないけど儲かるんだよね」と話していた。

酒井さんは車好きで車高を下げた改造車に乗っていた

2002年5月頃、酒井さんは親しくしていた隣人のM氏からマルチ商法を持ちかけられた。パソコンと専用の「インターネット端末機」を購入して「モニター代理店」となり、自分の下部に代理店を増やすことで収益が上がるという連鎖販売である。

酒井さんはM氏を「おにいちゃん」と呼んで慕っていたが、部屋には4月末日作成の80万円の偽名の借用書や「おにいちゃんにだまされた」と書かれたメモが残されていた。返済期日は死亡する約2週間前だったが口座には入金されたような記録はなかった。

 

事件後、M氏は警察から任意聴取を受けていたが、地元不動産関係者に「海外に行くかもしれない」と伝え、滞納していた家賃・光熱費数か月分を一括で支払って行方を眩ませた。M氏の知人も「1年経って戻らなかったら部屋の荷物を処分してほしい」と言い残して向こう1年分の賃料を払って失跡。塩尻署では、M氏について借金を背負わせたことは事実だが、事件との因果関係ははっきりせず、突っ込んだ捜査ができていない状況とした(02年11月27日、03年1月19日東スポ)。

M氏は知人に「警察の取り調べがきつかった。もうあんな思いはしたくない」「15年間逃げる」と犯行をにおわせるような発言もあった。

2010年6月放映の『報道発ドキュメント宣言』ではこのM氏に接触して追加報道を行った。

M氏によると、中古車ビジネス、インターネット端末によるマルチ商法を酒井さんに教授したことは事実と認めつつ、自分は関与も加盟もしていないと説明した。

知人に事件当日のアリバイを偽装してくれるように話していたが、事件当時、長野市の風俗店に行っており、妻に知られたくなかったためだとした。

M氏の趣味は「釣り」とされ、現場となった河川敷を連想させた。

番組の問い合わせに対して長野県警は18人体制で捜査継続中だとしたが、捜査状況に関する回答は得られなかった。

 

■所感

「AV業界の闇」などと括られて語られることが多い事件だが、殺し屋を雇ったり、事務所に暴力団や警察OBが絡んでおり警察が介入をおそれたりといった事件ではない。端的に言えば、車輛炎上と消火活動で現場証拠が得られず、疑わしき隣人Mから証拠や自供が得られずに尾を引いた事件だと筆者は考えている。

 

まず犯人は誰を狙ったのかについて。

酒井さんはサイドビジネス、渡辺さんは2002年に入って「全解」と精力的に金策に走っているように見える節から、渡辺さんがAV業界から抜けるために違約金が必要だったのではないか、とする説もある。

だが、酒井さんは15万円を家に入れており手許に残るのは20万円程度で、社宅住まいの独身者なら生活には困らないように思えるが、バンドと車の趣味の両立では「金がない」のは平常運転というところであろう。

所属事務所からすれば「桃井望」という稼ぎ頭に抜けられるのは困るため当然引き留めもあったであろうし、撮影拒否や休業など過去のトラブルで渡辺さん自身も負い目があったと思われる。だが自身も「500万円の貯蓄がある」「稼げるだけ稼いだら辞めようか」とK子さんに話しておりすぐに辞めなければならなかった状況ではない。事件後には同じく人気女優だった堤さんが引退しており、そもそも流動性の高い業界であることからも莫大な違約金が必要だった訳ではないと考えられる。

 

渡辺さんが交際していた「社長」の恨みを買ったのだろうか。「社長」の人物像は知らないが愛人のひとりとして囲っていたようにしか見えず、そうした相手にいちいち執着するような人物であれば周囲でもっと多くの女性が闇に葬られていはしまいか。

都内で生活する女性を遠い長野で狙う意味もなければ、わざわざ酒井さんを巻き添えにする必要もない。プロの犯行(依頼殺人)なら尚更のことである。そもそも渡辺さんは免許を持っておらず、都市部でなければ家族や友人と一緒か、タクシー移動となるため、殺害しやすい状況にはなりづらいのである。いずれも凄惨ではあるが遺体状況の相違から見ても、犯人の標的は男性で、女性は巻き添えと見るのが妥当ではないか。

 

では酒井さんの隣人だったM氏が殺害したのだろうか。不定職でパチンコ、風俗遊びに興じ、隣に住む若者相手に中古車転売を教授したりマルチに引っ掛けたり借金したりと、やっていることはまともな社会人とは言い難い面がある。こうした御仁ならば数十万円の借金くらいで人を殺していてはキリがない。誤って差し違えるようなことはあっても、一緒にいた恋人もろとも河川敷に運び、無理心中を装うような大それた犯行とはどうも結びつかない。

そもそも親しい隣人ならば機を選んで来客のないときを待つことはできたはずだ。状況から見ても、下平さんがコールバックするまでのわずか10分程のうちに、M氏ひとりで酒井さんの車に2人を乗せて河川敷に移動できたとは思えない。複数犯が脅迫ないし拉致によって河川敷に連れ出した線が濃厚である。M氏が任意聴取から逃げ続けたことは事実ではあるが、クロというよりグレーという気がしてならない。

では隣人にマルチの標的にされるような軽率な若者がだれから殺されるほどの恨みを買うというのだろうか。筆者はM氏が仲介した「中古車転売」絡みの人間が事件に係ったと見ている。廃車を引き取って修理・転売などという手間のかかることをバンド活動にも精を出す酒井さん一人でこなしていたとはどうも思えない。裏稼業の下働きをしてバイトとしては高額な手間賃を稼いでいたと推測する。実態としては、それと知らずに「自動車窃盗団」の片棒を担がされていたのではないか。

 

1990年の入管法改正により、日系移民や家族の就労が認められ、地方の製造業が雇用の受け口となった。とくに日系人の多かったブラジルはハイパーインフレの渦中にあり、出稼ぎ移民が激増し、自動車メーカーの多い愛知県豊田市静岡県浜松市などの工業都市には集住地区が形成された。長野県では上田市や伊那、諏訪周辺地域の製造業で多くの日系ブラジル人を受け入れていた。

しかし知られるようにバブル崩壊以降、生産拠点の海外移転などの影響もあり地方の製造業は衰退に追い込まれる。また(親にあたる日系ブラジル人1世の影響から)日本語能力や順応性の高い日系2世に比べ、教育現場などその妻子らの共生を進める社会的受け皿は充分ではなかった。言語やいじめの問題、進学の困難により学校からドロップアウトした日系3世以降の若者らにはギャング化する者もあった。

93年時点では日本在住ブラジル人の犯罪割合は日本平均の半分程度で最も犯罪割合が低いグループに属したが、2000年の検挙率では日本平均の3倍近い水準に達し、急速に悪化していた。雇用を打ち切られた日系ブラジル人や若者らの受け皿となったのが表向き自動車整備工などを装った犯罪グループであり、2000年代には自動車窃盗と結びついた不正輸出がブラジル移民犯罪の代名詞となった。尚、「日系ブラジル人が諸悪の根源」といった人種差別がしたい訳ではなく、そうした困窮した移民コミュニティを犯罪に結び付けた、利用したのは極一部の悪人や暴力団である。

(※2008年リーマンショック以降、在留ブラジル人は減少が続き、20万人前後を推移。車両窃盗認知件数も2012・13年頃の約27,000件をピークに大規模ルートの封鎖もあって2020年には1/4程度にまで減少している。)

2002年には長野県全体でブラジル国籍の外国人登録者は17,818人、塩尻市だけでも1,085人が暮らしており、同地でも日系ブラジル人らを中心としたグレーな自動車整備会社(犯罪グループ)が存在した。違法輸出は「解体ヤード」と呼ばれる人目に付きづらい工場で一度車体を解体して港へ輸送されるが、おそらくM氏や酒井さんは偽造ナンバーに付け替えた窃盗車のヤードへの運び出しなどを手伝っていたのではないか。13日夜の「会社の飲み会」という酒井さんの架空の予定は外せないサイドビジネスのことではなかったか。

www.youtube.com

たとえばM氏や別のメンバーが窃盗車を別ルートへ横流し、あるいは横領する等し、そのことが日系ブラジル人グループに発覚する。怒り心頭の彼らを前に、M氏は酒井さんに責任を転嫁したのではないか。

酒井さんが2002年5月に負った右手の故障は、(たとえば仕事のドタキャンなどで)犯行グループを怒らせてしまい報復を受けた後遺症という可能性もある。一度で分からず二度までも舐めた真似を、となればグループを激昂させてもおかしくない。

突然のアパート襲撃を受けた酒井さんたちは意味も分からぬまま車で拉致され、河川敷で弁明もできぬまま車内でリンチに遭った。女性は逃げ出そうとしたのか、騒ぐので先に始末されたのか、もしかすると刺しながら男性に口を割らせようとしたりしたものかも分からない。

 

任意聴取によってグループの再襲撃を避けていたM氏だが、口を割る訳にもいかず、さりとて叩けば埃の出る身であり、いつまたグループが迫ってくるかも分からない。むしろ捜査が彼らに及べば自分がリークを疑われグループから報復されかねないと考え、身を潜めて事態の鎮静化を図ったものと推測する。

多くの出稼ぎ者は国に帰り、2000年前後に形成されたコミュニティの多くは今日では解体されていった。そうしたなかで犯行グループがその後どうなったのかは果たして分からない。M氏が口を割らないところを見ると一部は2010年頃にも在留していた可能性もあるが、物証もないなか全員帰国していれば立件は一層難しいものとなる。M氏も今となれば話せることもあると思うのだが、行政訴訟や事件の長期化で面目の立たない長野県警としては積極的に再捜査するつもりはもはやないのかもしれない。

 

2人のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

北海道中国人女性旅行者行方不明事件

2017年の夏、北海道で発生した中国福建省出身の女性旅行者行方不明事件について記す。

当初は女性に失踪する目立った動機がなく、予期せぬトラブルに巻き込まれたのではないかと考えられた。しかしその後の報道で彼女の行動に様々な疑惑が生じ、日中両国のネチズンらにより駆け落ち説などの自発的失踪を巡って様々な議論が展開された。

女性は何を思い、どこを目指していたのか。

 

■概要

2017年7月22日(土)、中国福建省から北海道に旅行に訪れていた小学校教諭の危秋潔(危秋洁、Wei Qiujie)さん(26)が札幌市内の宿泊先から外出したまま行方が分からなくなった。

危さんは18日から25日までの予定で北海道各地を巡る計画を立てており、21日までは観光地での様子をSNSで発信する等して過ごしていた。

22日朝7時半頃、札幌市のゲストハウスから一人で外出する。事前の計画ではこの日は旭川富良野方面での観光が予定されていた。札幌駅から高速バスも出ているが、来日直後にJR線のトラベルパスを購入していたことから移動には鉄道を利用した可能性が高い。

電車で旭川に向かったとすれば片道2時間半程度、富良野に直接向かったとすると3時間強の道程である。

 

 

その日の17時頃、彼女はメッセージアプリWeChatを通じて福建省の父親に「安全回旅館(無事宿に戻りました)」と連絡を入れたきり、宿には二度と帰らなかった。

ゲストハウスの宿泊料金は前払いしていたが、宿の主人は危さんが戻らないことを心配して翌23日に警察へ通報。スーツケース、メイク道具や着替えといった荷物のほとんどは部屋に残されたままだった。

25日17時発の上海行の飛行機で帰国する手はずとなっていたが、便予約の変更はなく、搭乗者名簿を確認しても彼女の名前はなかった。22日以降のクレジットカードの使用なども確認されなかった。

 

25日の夜には中国の知人からも「危さんと連絡が取れない」として総領事館に安否確認の要請が入った。北海道警察は26日にゲストハウスの防犯カメラ映像を公開して広く情報を募り、領事館を通じて危さんの家族にも連絡を取った。

28日夕方、危さんの父親・危華先(危华先)さんらが緊急来日し、中国総領事館、北海道警に対し、何があったかは分からないが娘を早く見つけて帰りたいと懇願した。

彼女はなぜ父親に「無事帰りました」と噓をつかなければならなかったのか、荷物を置いたまま連絡もなしにどこへ向かったのか疑問がもたれた。

 

■現代中国の若者

中国国民の世代を表す代名詞として、「80後(バーリンホウ)」「90後(ジョウリンホウ)」という言葉がある。

 

80年代生まれを指す「80後」は、いわゆる「一人っ子政策」と呼ばれる計画出産政策下で生まれた世代で、鄧小平による「改革開放」路線の時期とも重なる。改革開放により新興の富裕層や中間層のボリュームが劇的に増加し、両親や祖父母の愛情を一身に受けて育った一人っ子たちは、「6つのポケット」を持つ「小皇帝」と揶揄された。

貧困が共有されてきたそれまでの世代と大きく異なり、「与えられることに慣れた世代とされる。その一方で、中産階級の増加により受験や就職での競争が激化し、家族からホワイトカラーになることを期待された「上昇志向の強い」傾向があるという。

1960年代後半から70年代後半まで続いた文化大革命により知識階級は一掃され、教育施設・制度も一度破壊されていたが、中国の急速な発展と競争力を背景に「80後」の大学進学率は2003年に20パーセントを越えた。

流行に敏感な消費的性質や文化的軽薄さに対する子ども~若者への揶揄として普及した言葉だが、最初にインターネットが普及した世代であり、2000年代以降も中国の最先端技術を牽引して存在感を示した。一方で、生活様式の変化や不動産価格の高騰などにより、晩婚化や未婚者の増加、持ち家がないこと、転職率の増加が懸念された。

 

後に続く「90後」は生まれながらに「豊さ」を享受してきた世代と言われる。中国は2010年に世界第2の経済大国となり、2020年代に入っても経済成長を続けている。「90後」の特質としては、チャレンジ精神に富み、進歩的な考えを持ち、キャリアでの成功を追求する傾向があるとされる。一方、周囲を気に掛けず他人と違うことを好み、他人への無関心はときに利己的とも評され、苦しい生活や時代を知らないだけに心的に打たれ弱くデリケートな面が指摘されている。

インターネット依存や対人コミュニケーションへの不安などの懸念が叫ばれる世代ではあるが、日韓や欧米の若者批判のそれと大差ない気がしないでもない。2008年北京五輪での活躍や若い世代による愛国運動によりマイナスイメージはほぼ払拭されたといわれる。

 

「観光旅行」についても触れておきたい。中国では6月が卒業シーズンに当たり、7、8月の夏休み期間中に1週間程度の「卒業旅行」に出かける学生が85%近くにも上るという。

また2000年代からバックパッカー・ブームが起きており、当時はシルクロードチベット雲南省といった大陸各地の異郷・秘境への冒険が多かったが、近年では国外旅行の人気へと拡大した。

2010年に日本への個人旅行が解禁。かつてはいわゆる「爆買い」ツアーのような中産層向けのパック旅行が目立ったが、15年にはビザの要件が緩和されたことを受けて日本は若者にも身近な旅行先となった。

危秋潔さんも1990年生まれの「90後」にあたる。海外ドラマや映画鑑賞を好み、旅行用スーツケースには村上春樹のエッセイ集『サラダ好きのライオン』を持参していた(中には旅行に関する小文も含まれている)。ファッションやメイク、持ち物を見ても日本の若者と大きな差は感じられない。

SNSでは人気モデル森絵梨佳について「あなたの美貌に限界はあるの?」と羨望のまなざしを向け、ドラマ『カルテット』が日本のドラマ賞を総なめにしたニュースに対し「納得です」とコメントしている。彼女は日本のカルチャーだけでなく、韓国アイドルグループBTSを好み、米ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ(氷と炎の歌)』の第7部が今から楽しみだと期待を寄せる、先進国のどこにでもいる現代的な若者と言えた。

画像

危さんは地元・福建省南平市にある少武実験小学校(小中一貫校)に勤めており、9月からは正職員採用が決まっていた。元々は就職祝いとして友人と二人で来日する予定だったが、友人が同行できなくなった。同僚はツアー旅行への参加を薦めていたが、危さんは自ら旅程を立てて一人で旅することを選んだという。

 

■反応

危さんは7月18日8時40分の便で天津浜海国際空港を離れ、12時50分に函館空港から来日。小樽に宿泊して市街を散策し、19日は洞爺湖を訪れていた。20日に札幌へ移動してゲストハウスを拠点に道央各地へ出掛ける計画を組んでおり、25日まで滞在予定だった。

冒頭のニュース動画でも分かるよう、ゲストハウス到着時には店主と笑顔でやりとりするなど、それなりの緊張感を漂わせつつも、至って普通の外国人観光客らしい様子を見せていた。

店主は香港出身で英語も中国語も解する女性だが、危さんは流暢な日本語で日常会話はできる様子だったと話した。到着時には「近くでお弁当を買える場所はあるか」と尋ねられたという。

小樽ではお寿司やケーキを味わった

21日には美瑛まで足を延ばし、フラワーガーデンに訪れたときの様子などをSNSグループ内で投稿していた。駅で観光コースについて相談したらスタッフが中国語で親切に対応してくれた、と綴っている。

美瑛でのセルフィー

若者絡みの事件ではよく見る光景だが、インターネット上の行動を追跡するのは中国でも同じだ。ネチズンたちは彼女の近況や手がかりとなる情報を得るため、「微博」や「Instagram」などSNSを検索し、Q&Aサイト「知乎(zhihu)」などに質問や情報、各人の見解を加えてやりとりを行った。

ある者はこれから失踪しようという心境でセルフィーなど撮らないだろうと言い、また別の者は投稿画像から沈鬱とした心理状態を嗅ぎ取った。先入観を持って見れば確かに小樽運河や町の様子はどこか物悲しげであり、咲き誇る花々も対象との距離を感じさせる。

だが撮影機材や技術、天候や体調などの影響もあるため、投稿画像だけを見て彼女を心配する人はいないだろう。「色んな場所へ足を運んだのだな」「無事に旅を楽しんでいるのだな」と眺めるのが一般的な感覚、良好な人間関係といえよう。

中国国内でも行方不明事件は多数あるが、多くのネチズンが反応した理由として彼女が美貌の持ち主だったこと以外にも、ネット上での活動履歴を追いやすかった点が挙げられる。また長く「安全神話」が言われてきた日本で起きた事件、更に中国国内で旅行先として人気の北海道で発生したことも人々の好奇心を喚起した。

 

直近の2017年7月13日には神奈川県秦野市寺山の山中で、危さんと同じ福建省出身の姉妹(22・25)が他殺体となって発見される事件が起きていた。

姉妹は就学ビザで来日し、ホステスとして働いていた店で岩嵜竜也(39)と知り合った。岩嵜は姉に好意を抱いて親しくしていたが、姉はビザの期限が迫っていたことから偽装結婚を持ちかける。岩嵜は自分の好意を「利用された」と憤り、二人が住む横浜市のマンションで立て続けに絞殺。スーツケース2台に遺体を詰めて遺棄したとされる。姉妹はファッションへの関心が高く、高校での勧めもあって日本に留学したという。

中国の若い女性が立て続けに外国で狙われたとなれば、報道の扱いが大きくなり、国内での類似事件より話題としてフォーカスされやすい面もあったのではないか。昔と違って日本が「身近な隣国」になったことの裏返しでもあり、反日感情も含めて国民の警戒心を触発する話題ともいえる。その上、「行方不明」という安否の知れない状態や情報の飢餓感も手伝って、却って関心を強める要因となったのかもしれない。

 

有志達は日本の犯罪事情や北海道の観光情報、報道からの切り抜きや翻訳を逐一やりとりしながら事件報道を自ら補完していった。報道に対する猜疑心や情報への探究心においても日中の垣根はない。

22日はスカート姿だった

上のように札幌のゲストハウスのカメラ画像を見比べると、20日、21日にはパンツスタイルに黒いリュック姿、行方不明となった22日にはロングスカートで赤の小さ型ショルダーバッグとタブレット端末を入れた「六花亭」の紙袋を抱えた姿が確認されていた。日本の元刑事は、外出前、玄関脇の鏡で髪を直す仕草から「誰かと会う予定があったのではないか」と推理した。

ある音楽ジャーナリストは外出時にゲストハウスの前で危さんが操ったタブレット端末から恋愛映画のアルバムジャケットを読み取ったことで、多くの人にデート説を想起させた。

彼女の友人は失踪前の情報を詳細にまとめて下のような行動履歴を作成した。

画像

画像

若い女性の一人旅、当初は多くの人がわいせつ目的の拉致被害など何らかの人災に巻き込まれたと考えた。中国ネチズンの目から見ても、発展を遂げた中国で経済的に不自由なく育ち、大学院を出て定職を得た若い女性があえて不法就労者になるとは到底考えづらく、単純な自発的失踪の線は薄いと言えた。

可能性として、以下のようなものがあった。

・交際相手が日本におり、駆け落ちした

・インターネットで知り合った人物と道内で合流してトラブルに発展した

・道内で偶々知り合った人物と合流してトラブルに発展した

・山やひと気のない場所で遭難事故に見舞われた、羆の被害の可能性も

 

誰しもが彼女の無事を祈りつつも、現実的には「自殺」の線もない訳ではなかった。

SNS特定班の報告によると、教育実習中の投稿には冗談めいた内容も見られていたが、6月下旬の投稿には「人生は永遠に矛盾するもの。どんなに孤独でも友達は必要、友達がいても孤独は解決できない」とつづられ、何か言葉にしづらい悩みを抱えた様子が窺われた。

7月初旬には10年来の友人男女4人で海辺の町へ旅行に出かけていた。

「シャワーを浴びて民宿のそばのブランコに。耳には途切れることのない風の音、そして音楽も。星もあなたの姿もないけれど、今はそれでも構わない。このすべてを人生最後の輝きにしよう。時間を切り詰めて、無駄な時間を過ごそう」

旅情の詩をもって彼女が「失恋していた」と唱える者もいた。だが「輝き」の薄れつつある青年期の終わり、就職を前にした最後の自由のときを謳歌しているようにも読むことができる。

危さんは22日夕方以降の連絡を絶った一方で、23日0時1分に微博アカウントからシンガーソングライターの孫燕姿(孙燕姿、ステファニー・スン)の誕生日投稿に「Fav(「いいね」)」リアクションが行われていた。

21日にバンド「リンキン・パーク」のチェスター・ベニントンの自殺報道に「R.I.P(rest in peace、お悔やみ)」付きのリツイート(再投稿・拡散)を行っていたことも分かっている。

福建省の危さんの家族や友人たちは、旅行前に彼女に変わった様子はなく、希死念慮(自殺願望)なども感じなかったと言い、日本に知り合いがいるといった話も聞いたことがない、と取材に答えた。

 

■阿寒へ

道警は、道内全域の空港、フェリー港、鉄道駅や宿泊施設に捜査協力を依頼して危さんの行動経路を追っていた。その結果、危さんは7月22日19時30分頃、阿寒湖の温泉ホテルに事前予約なしで一人でチェックインしていたことが判明する。

札幌市街から釧路駅までは東へ約300km、電車で5時間、車でも4時間以上の道程である。彼女はそこからバスで2時間かけて北上し、夜に阿寒湖までたどり着いた。

逆算すれば、17時頃に父親にメッセージを送ったのは釧路から阿寒湖へ向かうバスの乗車前後と分かる。

マリモで有名な阿寒湖、霧の摩周湖、野湯の湧出や雲海で知られる屈斜路湖を有する弟子屈周辺は原生林も多く、大自然が見せる豊かな表情が楽しめる観光エリアである。

 

23日0時1分に札幌市で確認された微博での「Fav」リアクションと、阿寒湖での滞在情報は当初人々を混乱させた。

favは彼女の最後の電子履歴となるが、 発信元は「北緯 43.0642、東経 141.3469」、IPアドレスは「211.16.108.231」で、札幌市にある「北海道庁」を指示していたためである。そのため別の人間が彼女のスマートフォンないしタブレット端末を操ってアクセスしたのではないか、と犯人や共謀者による位置情報の偽装が疑われた。

しかし現在では、「Fav」リアクションは彼女自身が操作したものではなく、プロフィール設定で「好きなアーティスト」に孫燕姿を登録していたことによる機械的な「自動投稿」と推測されている。

微博の仕様は詳しくは分からないが、最後に操作していた札幌市のIPアドレスが反映されたと考えられ、彼女の端末は23日0時1分時点ではすでに電源が落ちていた可能性が高い。

 

危さんは翌23日午前7時30分頃にホテルをチェックアウトし、その足で阿寒湖の遊覧船に乗っていたことが分かった。所要時間はおよそ85分とされる。ホテルは素泊まりで朝食がなかったこともあってか、降船後には近くのパン屋に立ち寄ってパン等を買い求めていた。コンビニでのカメラ映像は父親により危さん本人と確認された。

彼女は荷物も持たずになぜ一人で阿寒湖を訪れ、朝から遊覧船に乗っていたのか。


7月25日夕方に阿寒湖周辺で黒い服を着た危さんらしき人物を見た、31日の13時半頃にも阿寒湖で白い服を着た若い女性がパンケトー(阿寒湖東部に位置する原生林に囲まれた湖)方面の散策路にいたとの情報が入り、目撃された女性が危さんだった可能性もあるとして周辺での捜索が続けられた。
阿寒湖からの主要ルートは釧路につながる「まりも国道(国道240号)」か、雄阿寒岳を越えて弟子屈摩周湖方面に向かう「阿寒横断道路(国道241号)」に限られる。

 

■家族への手紙

7月29日、ゲストハウスに残していた荷物の中から「家族への手紙」が発見されたことが日中メディアで報じられると、一層の謎を呼んだ。

来日した父親は「娘の筆跡に似ている」と認めたが、手紙の具体的な内容は明かされなかった。多くのメディアは「両親への感謝」や「新しい生活を始める」と書かれた手紙と抽象的に報じたために様々な憶測を呼んだ。

 

「新しい生活」という響きだけで想像すれば、中国での暮らしを捨てて日本で別人として暮らす意志のようにも思われた。しかし福建省で報せを受けた危さんの弟・危琳さんは「別れの手紙ではなく、旅行記だった」と述べ、「姉は教師の仕事が大好きで、経済的に困っていることもない。日本での不法就労はありえない」と主張した。

危さんの友人は、危さんは大学時代から日本の文化に関心があったと話した。大学の第二外国語で日本語を選択し、単身での北海道旅行を決めたこと、日本人作家の小説を愛読していたことからも当然興味・関心はあったには違いないが、どれほどの心的共鳴を感じていたのかは分からない。

弟・琳さんは「姉は旅行が好きなだけ。景色や日本の作家が好きなだけで、日本での暮らしに憧れていた訳ではない、観光に行ったんだ」と話し、自発的失踪説を否定した。

一部メディアは「自殺をほのめかす手紙」と報じ、別のメディアは「自殺を示唆する内容ではなかった」と明言した。しかし、「家族への感謝」や「旅行記」を綴った手記であれば、道警や領事館がただちに家族の来日を求めて筆跡を確認させたとは思えない。多くのメディアがなぜ「両親に向けた手紙」「家族への手紙」といった表現を用いたかと言えば、そこに「告別」が含意されていたと推測するのが妥当である。

 

■再び釧路へ

8月2日の報道では、釧路駅から幣舞(ぬさまい)橋方面に向かう大通りの防犯カメラに危さんとみられる女性の姿が確認されたと伝えられた。撮影されたのは23日12時15分頃から30分頃の間。つまり阿寒湖で遊覧船に乗船後、すぐにまた釧路へ引き返していたことになる。
10時頃に阿寒湖バスターミナルでチケットを購入する様子が確認され、10時25分発の便で釧路に向かったことが報じられた。バスの乗客は4人。車内では黒いマスク姿でパンを食べるときだけマスクを外していた、と語る目撃者もいた。
当時は捜索報道はなされていないことから、変装ではなくノーメイクか化粧崩れを隠していたとみられる。
 
その後、危さんは釧路川沿いの複合商業施設MOOの2階にある喫茶店へ来店していたことが判明する。喫茶店の店主によると、危さんは14時頃に一人で来店して窓辺の席に座ってカプチーノを注文。店主は喋り好きであったため何か声を掛けようかとも思ったが、女性は人を寄せ付けないような、思いつめた表情で窓の外をじっと見ていたため、口を噤んでいた。40分から1時間程して退店したが、支払いの際にはじめて日本人ではないことに気づいたという。
しかし、その後の彼女の動向については全く報道が途絶えた。
22日7時30分頃 札幌市でゲストハウスを出る
22日17時頃 父親に「無事宿に戻る」とメッセージ
22日19時30分頃 阿寒湖の温泉ホテルを訪れる
23日0時1分 微博で「Fav」
23日7時30分頃 ホテルを後にし、阿寒湖の遊覧船に乗船
23日10時25分頃 阿寒湖からバスで釧路へ
23日12時15分頃 釧路駅前を通行
23日14時頃 釧路の喫茶店を利用
仮説として、釧路駅から再び札幌に戻ろうとしていた可能性も考えられた。札幌に直行する特急スーパーあおぞらの発車時刻まで市街で時間を潰していたとする見方である。また商業施設MOOは観光バスや都市バスのバスターミナルとも接続していることから、別の目的地にバスで移動したと推測する声もあった。

釧路川にかかる幣舞橋から見た商業施設
しかし釧路駅や大型商業施設は相当数の監視カメラも備えていることから逆算すれば、駅周辺や店内での行動、バスの利用は容易に把握されるはずである。

 

■『非誠勿擾』

2008年公開の中年男の婚活を描いたラブコメディ映画『非誠勿擾(邦題:狙った恋の落とし方)』は当時の歴代正月映画興行記録を更新する大ヒットとなり、舞台となった北海道道東エリアへの観光需要、投資需要を拡大させたといわれる。

若者向け恋愛映画という訳ではないが、流行に敏感な「80後」「90後」であればだれもが聞き知った作品であり、北海道旅行の計画にも少なからぬ影響を与えたものと中国のネチズンたちは考えた。

youtu.be

映画のなかで登場人物が網走市の能取岬で自殺未遂をする場面がある。8月4日、中国総領事館は道警に対して映画の舞台となった網走や知床を含む道東全域での捜索活動を依頼。とくに網走市では市街での聞き込みだけでなく、ヘリでの捜索なども行われた。

非誠勿擾の入水シーン

総領事からの要請やそれに応じた道警の動きを合わせて考えれば、明言されていなくとも彼女が残した手紙には自殺をほのめかす兆候があったのはほぼ間違いなかった。しかし人々の希望が自殺説を退け、旅を続けながら潜伏しながらどこかで生存していてほしいという願いにつながったともいえる。

8月6日、危さんの父親は福建省に戻り、日本からの報告を待つこととした。

 

■『阿寒に果つ』と加清純子

危さんと日本をつなぐ線として文学も注目された。彼女は村上春樹東野圭吾渡辺淳一を愛読していたという。

渡辺淳一は札幌出身で元医師の直木賞作家である。読書家でなくとも90年代に大きな話題となった『失楽園』や2000年代にドラマや映画となった『愛の流刑地』、2010年にミリオンセラーとなった人生論『鈍感力』等は見聞きしたことがあるのではないか。

日本の若い世代は渡辺作品になじみが薄いかもしれないが、90年代末以降、中国では高い人気を誇り、2016年には中国の出版社が札幌市の「渡辺淳一文学館」を購入している。危さんが訪れたという確定情報はもたらされていないが、宿泊したゲストハウスから文学館まで僅か400mの距離だった。

1973年出版、後に映画化もされた『阿寒に果つ』は実在した女流画家・加清純子がモデルとされる。20年前に阿寒湖で自殺を遂げた天才少女画家の死について、かつて交際関係にあった男性作家が彼女の元恋人たち5人と会って真相を探ろうとする内容である。渡辺は作家を志したきっかけの一つに彼女の存在を挙げており、おそらくは作中の奔放なヒロイン像の一つにも元交際相手の面影が投影されていることは間違いない。

高校2年生、真面目な渡辺青年に純子は「誕生日を祝ってあげる」と手紙を渡し、短い間、二人は交際関係を持った。純子は10代半ばにして気鋭の女流画家として注目され、いわゆるアプレゲール(戦後派・反権威の若者)世代の「天才少女」として脚光を浴びる「文化人」であった。自由奔放な逸脱行動は学校からも黙認され、画家や医師、新聞記者やパトロン、議員など中年男性たちと数々の浮名を流していたという。

 

高校卒業を控えた1952年1月、純子は制服姿のまま家出。男性たちの家を転々とした後、阿寒湖畔のホテルを訪れ、23日、部屋に未完成の阿寒湖の絵3枚を残したまま消息を絶った。「阿寒に行って死ぬ」と聞かされていた知人もいたが、以前から人を驚かせるような発言が多かったことから誰も真剣に引き留めようとはしなかったという。雪深い阿寒での捜索は困難を極めた。

調べにより、医師法違反(無免許開業、詐欺、堕胎罪など)により釧路刑務所に服役していた岡村昭彦と交際関係にあり、失踪直前の1月17・19・21日の3度に渡って面会に訪れていたことが判明。共産党員としての非公然活動もあった岡村は純子に保釈運動を請うて5万円の金策を要望。純子は岡村に「26日に戻る」と伝えたまま姿を消した。

雪解けを迎えた4月14日早朝、阿寒湖畔から1.5kmの旧釧北峠の樹林で純子は凍死体となって発見される。阿寒湖・雄阿寒岳を眺望する景勝地として知られる道だが、冬季は通行止めとなっていた。頭を湖に向けて倒れており、遺体の周りには弧を描くようにして、赤いコート、手袋、ベレー帽、「光」銘柄のタバコ、アドルム(睡眠薬)の空き瓶が並んでいた。

 

渡辺は『阿寒に果つ』の語り手・田辺俊一の口を借り、「あの死は同情するどころか憎んでもいい。あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。」と純子の死に対する憤りを綴っている。それは生前に数多の男たちを魅了し、男の青春を風のように通り過ぎていった初恋相手に見た「彼女らしさ」そのものを表現した言葉のように思われる。

釧路の幣舞橋は観光名所として監視体制も整備されているが、危さんが橋を渡って東進した映像などは報じられなかった。だが警察の動きとして一部メディアでは幣舞橋東面の家々を聞き込みに周ったとも伝えられた。橋を渡って東進すると純子が最後の恋人と会った場所、釧路刑務所があった。

 

■星

8月27日午前5時50分頃、釧路市桂恋の海岸で地元漁師の男性が女性の遺体を発見し、釧路署に通報した。体格や着衣などが行方を捜していた危さんの特徴と一致し、身元の特定が急がれた。足の一部が白骨化していること等から、死後1か月以上と見られた。

発見した男性は毎日朝6時と午後1時に現場を訪れるが、前日には遺体を見ていないと話した。遺体は27日朝6時頃の高潮の時に発見し、頭が海の方に向いていたという。足以外に目立った外傷や着衣の大きな乱れはなかったと話した。

地元の観光業者によれば、桂恋周辺は寂れた漁村で夜になると自分の指先すら見えないほど暗くなると言い、観光客が訪れるような場所ではないという。近くに崖もあるが外傷もないのであれば転落したとも思えないと述べている。

 

8月29日になってANNは危さんが荷物の中に残した「家族への手紙」の具体的な内容を伝えた。手記の現物は警察署に保管されたため、公式ではない情報ということになる。実物は紙2枚に綴られていたとされ、おそらくは最初にテキストの翻訳を道警に伝えたと考えられる香港出身のゲストハウスの主人の記録を再構成したものである。

「ごめんなさい、これはお別れの手紙です。

私は27年間生きてきましたが、今は一生懸命働くことができません。

もし私がいなくなっても、どうか皆さん、悲しまないでください。

私は、みんなを守る星になります。あなたたちを心から愛しています。」

素直に捉えればそれは「遺書」にほかならない。ではなぜ警察は失踪者捜索として各方面へ大々的な捜索活動を行い、人々の誤解や憶測を招くような報道がなされたのか。

おそらく警察は通報を受けた初期段階で、ゲストハウスに残された荷物の中から本に挟まれた「手紙」を発見した。命を絶つとの表記こそないが、翻訳した人間も「遺書」である可能性が高いと判断したに違いなく、筆跡確認のため家族に連絡を取る必要があった。

父親は娘の自殺を強く否定し、日中両国の関係者に捜索を要請した。遺体がない以上は生還を信じ続ける家族にとって自殺報道は受け入れがたいものである。当初はまだ道内を放浪している可能性も多分に残されており、自殺を偽装して失踪した可能性も全くないとは言い切れなかった。

本人が生きていれば情報に触れる可能性もあり、手紙だけで一方的に自殺と断定して捜査方針を変えれば両国間の国際問題ともなりかねない。そうした各方面への配慮がメディア各社のオブラートに包んだ表現につながったと考えられる。

また報道が8月上旬で尻切れトンボのように途絶えたことについても、報道や世間の反応が拡大して福建省の家族から来日中だった父親に連絡が入り、報道規制を要請したとも推測される。

30日、北海道警はDNA型鑑定の結果、発見された女性の遺体が危秋潔さんと判明したと発表した。肺に海水が含まれていたこと等から死因は「溺死」とされ、事件に巻き込まれた可能性は低いと判断された。

31日、危さんの親族が釧路空港に到着し、釧路署で遺体を確認した。父親は娘と対面する心境になれなかったという。9月1日、市内で火葬され、翌2日に空路で帰途についた。

 

■Live New Life

危さんは2015年6月に微博でのアカウントを開始し、10月には卒業に向けてパスポートを取得し旅行資金も貯めていた。2017年5月にアカウント名を「Live New Life」に変更している。

日本ネチズンは『非誠勿擾』のヒロイン笑笑(シャオシャオ)のように不倫の末に失恋でもしたのだろうと言い、中国ネチズンは彼女の日本文学への傾倒と日本人の自殺率の高さを結び付けて、自殺の動機について論じようとした。

彼女の故郷・邵武市は山間部の盆地にある人口およそ30万人の地方都市である。ボリュームでいえば大きな人口だが、地図上では山に囲まれた陸の孤島のように見える。

これまでの人生で彼女が何を学び、どのように感じ、これからについて何を思っていたのかは分からない。26歳で人並みの恋や失恋も経験したであろうし、プライベートな悩みも抱えていたことだろう。

公表されているのは裕福な家であることと教職の正式採用が決まっていたこと、そこから推測できるのは、彼女はこれからもこの地で根を張って生きていくはずだったということである。

自立という点で一般的に就職は喜ばしい出来事だが、彼女にとっては人生に架せられた鎖のような束縛に思えたかもしれない。危さんは生まれ故郷での暮らしに不安を抱えていたのではないかと筆者は考えている。

 

中国の教育現場も場合によっては日本以上にストレスフルな労働環境かもしれない。大学から教育学部(師範コース)に進学した訳ではなく、卒業後に教職を志したと思われ、やりたい職業ではなかった可能性もある。

疾病など何がしかの理由もあったのかも分からないが、定職に就くまでに周囲より時間を要した点を鑑みても、一種のモラトリアム心理も働いていたのではないか。だとすると映画やドラマ、小説といった国外のフィクション愛好の背後には現実世界からの逃避感情やここではないどこかへの憧れも無自覚のうちに含まれていたようにも感じられる。

家族関係は分からないが、母親が報道に出ておらず、父親や弟が対応していることから男権の強い環境を窺わせる。日本と同じく中国の旧来の保守的な家庭では女性の地位は相対的に低く、不妊であったり男児を授かれない際には邪険に扱われ、自殺率も高いことが指摘されている。危さんが姉と弟を持つことからも強く「男児」が望まれた家柄だと推測してよいかと思う。

弟は手紙について「旅行記だ」と嘯き、父親は行方不明から一貫して自殺説を否定し、遺体発見の報にも他殺説を主張して捜査継続を求めたと報道された。家族として、父親として自発的失踪や自殺が受け入れがたいことは分かる。だが彼らの言動の行間からは、死を受け入れられない以前に、自分の家族が自殺するなどあってはならない、とする心理も窺える。

土地柄なのか、家柄なのかは分からないし、そうした態度を以てして彼らが危さんを自死に至らしめた原因と断ずることがあってはならない。家族以外の友人や恋愛関係でのトラブル、将来への漠然とした不安もあったかもしれない。だが家柄や育ちの良さが、却って学業や就職、恋愛、結婚など人生の岐路での家族との衝突につながり、彼女の生きる気力を徐々に削いできた可能性は排除しきれない。

 

遺書の存在からして危さんが以前からこの旅を「故郷との永訣」として心に秘めてきたことは確かである。いつからか「就職」は彼女が設定したそれまでの人生の「仮の終着地」になったのではないか。青春の終わりを、自由を奪われることを意味するそのときを。もしかすると事後の混乱を避けるために、中国語を解する店主のいるゲストハウスを選択していた可能性さえある。

彼女は観光を楽しむ一旅行者として取り乱すことなく家族や友人たちに自分らしく振舞った。おそらく渡辺淳一文学館で加清純子と同一化を深め、チェスター・ベニントンにシンパシーを持って追悼し、22日をその日に決めた。奔放に大胆にその生涯を駆け抜け、死後も人々の記憶の中に鮮烈な存在として生き続けた純子は、もしかすると危さんにとって指針のひとつだったかもしれない。

彼女は最期に自由な生き方を求めて阿寒湖にたどり着いた。だが着いた頃にはすでに陽が落ちていた。その場所を目に焼き付けるためホテルで一晩過ごすことにした。遊覧船からの入水も覚悟していたかもしれないがそれは叶わなかった。あるいは加清純子のエンディングが真冬の山中だったこともあり、夏の朝の阿寒湖は彼女の思い描いたイメージと違っていたのかもしれない。おそらく湖に浮かぶ85分の間に心変わりしたのだ。ある種の「ためらい傷」とも言えるかもしれない。

阿寒湖への旅程を組み立てる中で釧路の観光情報として「幣舞橋」にも触れていたであろう。北海道三大名橋に数えられ、太平洋に沈みゆく夕日や夜間の街灯風景の美しさで知られる。彼女は橋の見える喫茶店で夕日の訪れを待つことにした。彼女はこれまで目にしたことのない美しい景色の中で感動に包まれながらその時を迎えたかったのだ。

阿寒湖の遊覧船か、釧路へのバスの中で「新たな門出」にふさわしいシーンを思い描いた。『非誠勿擾』のイメージが投影されたのか、それとも山に囲まれた故郷と対照的な場面を選んだのか、広大な海でのエンディングを迎えることにしたのだ。7月23日の釧路の天候は曇り。夕日の眺望を拝むことは叶わなかったかもしれないが、夏の海は疲れ果てた旅人を優しく受け止めた。

 

危さんのご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

金沢スイミングコーチ殺人事件

1992年、金沢市のスイミングスクール駐車場で車内に女性インストラクターの絞殺体が見つかった。現場には「生きた化石」と呼ばれる植物メタセコイアをはじめとして事件の手掛かりが比較的残されており、県警は殺人事件として15年間で捜査員延べ6万人を投入したが犯人検挙には至らず。2007年に公訴時効が成立した。

石川県警が最後に許した時効事件の汚名を冠することとなり、その真相についても様々な噂がつきまとった。

www.youtube.com

かつて捜査に加わった西村虎男氏は退職後の2011年に『千穂ちゃんごめん』を上梓。「お宮入り」させてしまった後悔と世間に広まる誤った噂を少しでも払拭したいという願い、警察組織を蝕む悪習の浄化を切望した。

これに感銘を受けた村山和也監督がオファーし、実際に事件に携わった元刑事とフィクションとの二重構造によって「化石」となった未解決事件に再び光を照らすセミドキュメンタリー映画『とら男』(2022)の公開でも話題となった。

本稿では西村氏の著書にある捜査状況等に依拠しつつ、事件について考えてみたい。

 

■概要

1992年10月1日(木)0時50分頃、金沢市三十苅町にあるスイミングスクールの職員駐車場に止めてあった車の助手席から若い女性の遺体が発見される。

 

女性は車の所有者で、同スクールでスイミングコーチを務めていた安實(あんじつ)千穂さん(20)。第一発見者は帰りが遅いのを心配して探しにきた母親と姉であった。

千穂さんは助手席のリクライニングシートを倒して眠ったように目を閉じており、助手席側のドアはロックされていた。母親は解錠されていた運転席側のドアを開け、起こそうとしたところで娘の異変に気付いた。反応しないばかりか体は冷たくなっており、車内灯を点けると首には絞められてできたような痕が見えた。

慌てて近くで営業していたスナックに駆け込み、店主が110番通報した。

 

 

■被害者、発見までの経緯

千穂さんは3人姉妹の次女として生まれた。父親が市の水泳協会副会長を務め、姉が水泳選手をしていた影響もあり、高校では水泳部マネージャーを務めた。卒業後はスイミングスクールのインストラクターとして就職。面倒見の良い性格で慕われ、スクール生の保護者からも明るく優しい先生として信望もあった。

千穂さんには同僚や水泳関係で親しい男性はいたが、特定の交際相手はいなかったとみられている。事件より5か月程前にそれまで続けていた日記を辞めていたが理由は不明である。

 

自宅は勤め先のスクールから約7km南に位置する松任市(現白山市)矢頃島町で、車で10分程度の距離。矢頃島町は周囲を田園地帯に囲まれた20世帯ほどの小さな農村集落である。

勤務していたスイミングスクールは金沢市の西部、現在の地図で見ると野々市市(当時は石川郡野々市町)、白山市(当時は石川郡鶴来町)との境に位置していた。金沢駅から南に約9km、観光客の多い兼六園金沢21世紀美術館からは南に約8kmの距離にある住宅密集エリアにあった。

スクールから見ると金沢市の市街地へは自宅方面とは正反対(北東方向)になることもあってか、千穂さんが仕事の後で市街方面に向かうのはショッピングや友人とカラオケに行くといった用事のある場合に限られていた。

中央〇が職場、左下〇が自宅

門限は22時とされており、普段帰りが遅れる際には必ず連絡を寄越すことが習慣となっていたが、事件の晩は23時を回っても何の連絡もなかった。スイミングスクールはとうに終業時刻を過ぎており、母親は同僚コーチら数名に電話をしたが、職場では何事もなく普段通りに帰ったと聞かされる。

父親は同僚と飲みに出掛けて帰宅が遅くなっていた。妻は夫のポケットベルに早く帰ってきてほしい旨の連絡が入れ、一緒にいた同僚もそのことを確認している。

母親は長女と車で捜索に出かけ、はじめに自宅近くにある運動公園「松任グリーンパーク」の駐車場を確認し、そこから勤め先のスイミングスクールへと向かったという。2人はスイミングスクールのバスが止められていた駐車場に見覚えのある黒い車を発見した。

 

■状況と痕跡

について。

車種は三菱の小型乗用車・黒色の「ミラージュ・ファビオ」で、彼女が普段使っていた駐車枠「2」の位置に前向きで止められていた。となりの駐車枠「3」にはみ出す乱雑な止め方で、車の前バンパーは敷地境界の縁石(画像左手)に接触していた。

車は駐車枠「2」に止められていた。画像右マンション1Fの店に駆け込んで通報を求めた。

発見当時、車のエンジンはかかっていなかったがキーが差された状態で、シフトレバーは「ドライブ」に入れられたままだった。音量は絞ってあったがカーステレオのランプが点いており作動したままになっていた。犯人は時間的によほど焦っていたとみられ、千穂さんの車の操作に不慣れな者と考えられた。

ダッシュボード内にあったカセットテープケースに不明の指紋が付着していたが、犯人の可能性は薄いものとされた。同じくダッシュボードからは眉剃り用のカミソリが見つかったが本件で使用された形跡はなかった。

後部座席には、財布などが入った千穂さんのショルダーバッグが置いてあった。

この車は高校卒業後に通勤用として購入したもので、他の家族と同様、農協の保険に加入しており不審な点は見られなかった。だが匿名掲示板などでは、事件前に家族が多額の保険金をかけていた旨の噂が書き込まれ、2022年現在も残存している。

 

遺体の状況について。

発見時、両足に靴を履いておらず、左足の靴は車内にあったが右足の靴は見当たらなかった。

死因は絞殺による窒息死。凶器は最大幅4㎝のやや硬く折り目模様のあるひも状のもの。索条痕は両耳の後ろあたりまで残っていた。犯人は右寄り後方からひもを引っ張って、喉を圧迫したと推測された。

口の中には喉と歯の裏側に、草葉が各一片ずつ入っていた。

左頬、左下あご付近、左腰の部分に皮下出血が見られた。また着衣の前後に付着した失禁痕の状態から、犯人は殺害直後に遺体を裏返したとみられる。車内には尿反応が出なかったことから、屋外で殺害されてから車でスクール駐車場まで運ばれたと考えられた。

爪に犯人の皮膚等の付着はなかったことから、激しい抵抗はしていないものと推測された。

 

被害者の着衣は、黒色の長袖上着の上に紺色デニム地のオーバーオールで背面と臀部には泥が付着していた。

オーバーオールの下腹部が刃物で縦20センチ程に切り裂かれていた。下着に刃が当たった痕跡はあったが切り傷はなし。

下腹部の上には、切り跡を隠すようにして空容器の入ったビニル袋が載せられていた。千穂さんが昼食用に家から持参したスパゲッティを入れていたものである。だがこの日は勤め先で昼食が振舞われたことから、千穂さんは持参した昼ご飯を仕事終わりに食べていたと同僚は証言した。急げばわずか10分ほどの家まで持ち帰らずに食べていたことは、すぐには帰宅できない、仕事の後に何かの用件があっての行動とも推測できる。

 

わいせつ行為の痕跡、いわゆる「着衣の乱れ」もあった。オーバーオールの肩釣りベルトは左側が外れており、胸部に3つあるボタンのひとつは糸が切れてボタンが着衣の内側に紛れ込んでいた。

ブラジャーは定位置より下の位置にずり下げられた痕が残り、ブラの上部と遺体の乳房から(A型の千穂さんとは異なる)AB型ないしB型の唾液の付着が確認された。パンティが一部下方に捲れていたことから、犯人が陰部へ手を入れようとしたものと推測された。姦淫の痕跡はなし。

 

口中と頭髪に針葉樹の葉が付着しており、事件の3日後にメタセコイアの葉であることが分かった。

メタセコイアは長らく北半球では化石でしか発見されず絶滅種とみなされていたが、20世紀半ばに中国四川省の磨刀渓村で「水杉(スイサ)」と呼ばれていた植物と同種であることが確認された。1949年に中国から国・皇室で譲り受け、「生きた化石」と珍重されてその後全国へと広まったが、植栽は学校や公園など公の場所に限られていた。

自宅・松任グリーンパーク・リンゴ園の位置関係。それぞれ300~400m程度しか離れていない。☆印は駐車されていたとみられる位置。

近郊で犯行現場の特定に当たっていた捜査員が、高さ4m程のメタセコイア若木に囲まれたリンゴ園を見つける。松任市矢頃島町にある被害者の自宅から数百m、先述の「松任グリーンパーク」の東隣にある「県農業総合試験場果樹実証圃」である(上の地図は現在のもの。リンゴ園があった場所には工場が建っている)。

リンゴ園の周囲は3m間隔でメタセコイアが植栽されており、当時は敷地に柵なども設けておらず、木々の間から園内に出入りすることができた。東側の農道はかつて用水路で行き止まりとなっていた。その農道奥から被害者の車と一致するタイヤ痕が見つかり、園内に5m程入ったところに千穂さんの右足の靴と頭髪が発見された。頭髪はすべてA型で被害者のものと確認される。

犯人は園内で暴行に及び、殺害後に、被害者を後ろから抱えるようにして足を引きずりながら運び(このとき右足の靴が脱げたと思われる)、農道奥に停めていた車の助手席に乗せたと推測できる。

また遺体の髪などに長さ3.8㎝の白色毛糸2本が付着していた。毛糸は市販のものではない生成りの毛糸で、製造元の割り出し等により、富山県内の業者が製造する帽子の「梵天」に酷似しているとの結果が出たが断定はできなかった。梵天とはニット帽の頭頂部に付属する丸形の玉飾りのことである。発見された毛糸が酷似するこども向けニット帽のものだとすれば、犯人の身近に小さなこどもがいたとも推測できる。

 

■犯行時刻と経路

リンゴ園の農道奥では捨ててあったガソリン給油チケットが発見されており、犯行当夜、千穂さんたちとは別のアベックがその場を訪れていたことが分かった。アベックは21時半から22時ごろまで滞在し、その間は他に車がなかったことを証言した。

スクールと職員駐車場の間には6階建てマンションがあった

スイミングスクールの西側には北陸鉄道石川線の線路が南北に通り、400m北には無人駅の「乙丸駅」がある。周辺地域は住宅街が広がる。スクールの建物脇には利用者向け駐車場が10台分程度あった。車が止められていた職員駐車場まで50mほど離れており、その間に飲食店等のテナントが入った6階建てマンションがある。そのため知らない者では、一見してその場所が職員駐車場とは分からない位置関係である。

さらに職員駐車場は白線で29枠に分かれていた。犯人は千穂さんが普段から「2」番枠に駐車していたことを知っており、通り魔ではなく「顔見知り」の線が濃厚となる。

 

千穂さんのその日の退社時刻は18時45分、同僚の男性コーチは千穂さんの車が19時15分頃に自宅とは逆方向に走り去るのを見たと証言した。駐車場は出入り口が東西2か所あり、普段の帰宅ルートは西に向かう「海側」の出入り口から駐車場を出て踏切を渡り、南西の方角にある自宅方面へ向かう。

だが事件当夜はなぜか逆方向の「山側」に向かっていた。その時点で車内に同伴者があったかは不明だが、自宅とは逆方向に用事があった、一度だれかをピックアップしに向かったとも思える行動だ。

また遅番の同僚コーチ2人から20時50分頃、21時35分頃にも母姉が発見した時と同じような状態で車が止まっていたとの証言もあった。同僚たちは車内の異変には気づいていなかったが、それらの目撃証言が事実とすれば、犯人は19時15分頃から20時50分までの1時間半の間に、被害者の自宅近くのリンゴ園で殺害し、わざわざ車を戻しにきたことになる。

 

■不可思議な目撃情報

前述通り20時50分頃にはスイミングスクールの同僚が職員駐車場で被害者の車を目撃している。つまり犯人はそれまでにリンゴ園からスクールまで移動していたことになる訳だが、その直前の20時40分頃にも被害者の車輛とみられる目撃情報があった。

被害者の車がいずれかの☆印の路地から大通りに左折してきたとみられる

目撃者の女性は大額3丁目を通る大通りを線路方向に向かって走行中(地図の黄色い線を右から左方向へ進んでいた)、前方左側の路地(地図上の☆印のいずれかと推測される)から「黒いミラージュが左折してきた」と証言する。彼女は占いに凝っており、前を走る車のナンバープレートの数字が「足すと19になる凶数」だとして接近しすぎないように注意を払っていたという。

なにやら不可思議な証言だが、被害者の車のナンバーは「1954」であった。また被害者と同型の車種の購入を検討していたこともあり、車の特徴まではっきりと記憶していた。

後方からの目撃だが、運転者は後ろ髪から「若い男」と思われ、助手席は背もたれ部分が見えなかったため「シートが倒されていた」と考えられた。目撃者の女性は線路を越えてすぐのスーパーに立ち寄ったが、前を走っていた車はそのまま直進したという。

車内の状況からはまさしく「遺体を乗せた犯人の運転する車」を示しているかに思われたが、目撃場所がリンゴ園とは逆方向であったため、当時の捜査陣を混乱させる情報でもあった。駐車場に止めようとした際に人がいた等して、一度その場を素通りし遠回りをしていたのではないか、といった解釈しか出てこなかった。

 

■捜査本部と問題点

事件当初、遺体発見現場近くに金沢中警察署が仮設の捜査本部を設置。その後発見された殺害現場方面を管轄する松任警察署にも合同捜査本部が設けられ、半年後、松任署に統合された。捜査陣営が二手に分かれたことで最も重要な捜査初期の基礎情報の共有はうまくいかなかった。

西村氏は金沢中署の特捜係長として発生からおよそ1年にわたって捜査に当たり、約10年後に再び捜査本部に復帰して2年間携わった。未解決に至った要因として、上層部が捜査指揮の一切を取り仕切るトップダウン方式に大きな問題があったと指摘する。

 

ひとつは情報管理の在り方。事件発生直後の上層部はマスコミへの情報漏洩を過剰におそれるあまり、捜査ファイルは現場ではなく署内に移され、管轄捜査員にすら情報共有がなされていない状況だったという。行き過ぎた秘密主義が捜査員の推理判断力を奪い、後々の捜査にまで悪影響を及ぼしたという。

遺体に付着していた「生成りの毛糸」についても存在が伏せられており、事件から1か月経って担当班が製品の特定に行き詰った時点で初めて知らされた。その間にも周辺での地道な聞き込み(ローラー作戦)や基礎捜査はほぼ完了していたが、現場捜査員たちは「生成りの毛糸」に全く関知していない、いわば片手落ちともいうべき状態で奔走させられていたことになる。

毛糸に限った話ではなく、細かな情報共有が末端の捜査員にまで行き渡っていれば掬えた情報ももっとあったかもしれない。西村氏は別の担当事件や異動でしばらく本件からは外れ、10年後に再び縁あって特捜班長として本部に加わる。データの洗い直しの必要と確認作業の簡便化を図るため、捜査対象者の膨大な記録をエクセルデータに落とし込んで分類項目を増やしたという。これも初動捜査時の反省から確認作業の簡易化を目指したといえるだろう。

 

また西村氏は「見込み捜査」についても注意を促している。疑ってかからなければ真相にたどり着けないこともあり、その筋道が間違ってさえいなければ犯人に到達するため、一概に全否定はできない。だが見込み捜査はひとつ間違えれば「松本サリン事件」のように善良な市民を冤罪の不幸に陥れかねない危険とも隣り合わせな面もある。

小都市でのローラー捜査においては、刑事課以外からも捜査経験の浅い署員が駆り出され、いわば「寄せ集めの臨時体制」が組まれる。そこに上層部から「〇〇が犯人に違いないから情報を取ってこい」といった号令がかけられ、捜査班に予断や偏見を与えれば、集められる基礎情報は偏ってしまい、その後の捜査にも大きな影響を与える。

さらに捜査員が聞き方を誤れば「警察は〇〇のことを知りたがっている」「〇〇が怪しい」と地域一帯に偏見を植え付けかねない。よからぬ噂の火種となり、それにマスコミが食いつけば惨事を引き起こしかねない。後に警察が容疑者リストから外したとて、一度根付いてしまった地域住民たちの疑いの芽を完全に取り除くことは難しくなる。「地元住民の情報」は初期捜査やマスコミによって汚染されるリスクを孕んでいる。現代では「地元の噂」としてインターネット上で全世界に拡散される。

 

事件の10年後、西村氏が捜査本部に戻った当時も、首を絞めた凶器は依然特定されないままになっていた。解剖所見を基に推理推論を重ねるうち、西村氏は索溝の角度などから被害者が着ていたオーバーオールの肩ひもではないかと考えた。保管庫にあった現物を確認し、体格が近しい人間に着せて再現実験を行った。見込んだ通り、ベルトの幅や長さ、金具の位置まで解剖時に撮影された索条痕と合致した。

灯台下暗しとでもいうべき失態にも聞こえるが、「書類上」は見落とされるに足る事情もあったという。証拠品は紛失や変質防止のため厳重に管理されており、捜査指揮を執る幹部か証拠品の取り扱い担当者しか現物に触れることはない。そのため通常であれば一般捜査員向けに証拠品の「写真台帳」を作成して、現物に触れることなく確認しやすいようにしている。それが本件では「過剰な情報統制」のため証拠写真を見ることすら禁じられていたのだからそうした気付きに至らなかったのも無理はない。

解剖所見では「1㎝位ないし4㎝位までのやや強固で、表面に細かな織り目様が認められる索状物」と記述されていた。一方、鑑識係はオーバーオールの肩ひもを実寸より5㎜足りない「3.5㎝」と調書に記していた。僅か5㎜の誤りから、10年近く凶器から除外され、見過ごされてしまっていたのである。

調書の記載を訂正させ、凶器を特定した捜査報告書を作成。再現実験をまとめた実況見分調書も署長から決裁が下りた。凶器が予め準備されていたものではなく「被害者の着衣の一部」となったことで、念入りに仕組まれた殺害計画ではなく突発的な状況下で衝動的に犯行に及んだ可能性が強まった。実験結果から犯人は「右利き」と推測された。

西村氏は異動により本件捜査から再び離れ、2007年に事件は時効を迎える。地元紙には事件の関連記事が掲載されたが、「着衣のひもで絞殺か」との見出しに対して「捜査本部は凶器を特定しておらず、『ベルトのようなひも状のもの』としている」との会見内容が記されていた。県警の上層部は、凶器特定を最後まで是とはしなかったのかと西村氏は悔しさをにじませた。とりわけ指揮を執った歴代の前任者、上司たちは長年凶器を特定できなかったことが「失態」につながりかねないと考えたのではあるまいか。

 

■容疑適格者

西村氏が再登板するまでの10年間でリストアップされた関係者は5,583人にまで膨れ上がっていたが、氏は犯行状況などから犯人は被害者と「身近な人物」と見立てていた。年若い彼女の交友関係がそれほど広範なはずもなく(現在とちがって不特定多数と交流できる出会い系サイトやSNSライブ配信等もない時代である)、被害者と関連性の高い人物から優先して約1500人分の分析をした時点で異動となった。

そのため100%とは断定しないまでも、彼女と近しい人物の中に「六、七0パーセント犯人に間違いない」と言えるまで状況証拠をつかんだ容疑適格者がいたと西村氏は述べている(ご本人からすれば「ほぼ100%」と言いたいところなのだと思われる)。捜査途中で任を解かれ、物証がなかったことから起訴しても勝算があった訳ではない。本人から自白を得るための徹底的な裏付け捜査と新証拠が必要なことには変わりない。

今日では容疑者特定などに「DNA型鑑定」が活用されることもあるが、1992年当時は宮城、東京、大阪、広島、福岡で運用が始まったばかりで石川では導入されていなかった。また証拠品として認められるためには適法の管理手続きが必要となる。本件でいえば「犯人のものとみられる唾液」という重要な証拠が残されていながら、DNA型鑑定を見越した管理がなされていなかったため、そこから犯人特定にたどり着くことは実質的に不可能と言えた。

西村氏は後任者による継続捜査に一縷の望みを託し、本部に捜査途中のファイルを残してきたが、それもどうやら闇に葬られたという。氏に倣ってその疑惑の人物を「山田太一(仮名)」として簡単に確認しておきたい。

千穂ちゃんごめん!

公務における守秘義務や捜査上の特殊な事情があることから、読者には人物の特定ができないかたちで犯行可能性が述べられている。そのため随所に具体的理由は省かれており、被害者と山田との関係性や、山田の細かな人物像や生活背景までは窺い知ることは叶わない。西村氏は、不可解ともとれる行動の裏にも犯人なりの理由が存在するとして、持論を組み立てている。

・山田は事件から半年後の1993年5月14日時点で「アリバイ」が確認され、捜査線上から一度消えている。

・だが1994年6月の捜査検討会資料には、「血液型ABまたはB型の男」を対象とした容疑適格者リスト19名の一人に名を連ねている。山田はB型で、検討欄には「捜査済」と印刷されていたが、他の18名は空欄とされていた。

・山田には「アリバイあり」と見なされていたが、予想犯行時刻(19時15分~20時50分の間)よりも「前」と「後」で同じ場所にいたことが第三者によって確認されていただけで、実際には「途中抜け出しの可能性」は裏付けを欠いていた。

・それまで不可解に思われていたスイミングスクールより北での車の目撃証言についても、山田の行動範囲と照合すれば矛盾がないという。

・検証の結果、途中抜け出しがあったとすればその間に犯行や移動は時間的に可能、つまり犯行時刻における「アリバイ崩し」が確認された。

・犯行の発端は、モーテルに連れ込もうとしたが拒否され、リンゴ園まで連れてきたものの逃げられたため、と推測。

・リンゴ園からスイミングスクールまで被害者の車を自ら運転していったのは、事件発覚を早めて、自らのアリバイを確保するためだったと西村氏は推理している。

千穂さんは仕事を終えた後、普段とは違う「山側」に向かい、金沢市街地方面へ車を走らせた。西村氏は、山田の日常行動から、スイミングスクールから北東およそ2kmの場所にある「レストランA」の駐車場付近で待ち合わせをしていた可能性が高いという。山田は自分の車を駐車場に残してミラージュ・ファビオに同乗し、その際に千穂さんが助手席に移って男が運転役になったとみている。

これは19時30分頃にスイミングスクールから北東約5kmに位置する「有松交差点」でミラージュ・ファビオが左折したという目撃情報に基づいており、男性が運転席、女性が助手席に乗っていたという。目撃地点がリンゴ園とは真逆方向であるため、捜査本部はこの情報を重要視していなかったのではないかと西村氏は言う。

国道8号からモーテル街道へ南進

西村氏曰く、車の進行方向から必然的に見えてくるのは、犯人が国道8号から被害者宅のある矢頃島方面へ抜ける県道174号、通称「モーテル街道」を通って、被害者をモーテルへ連れ込む魂胆があったのではないかという。ちょうど都市部と農村部の境に当たり、当時は6軒のモーテルが点在していたと言い、現在もそのいくつかは存営している。

被害者はモーテルへの誘いを拒み、車は街道を抜けて矢頃島町へと至るも、山田はグリーンパーク方面へと曲がり、リンゴ園脇の農道へと進入。ひと気がないのをよいことに山田は車内でわいせつ行為に及ぼうとするも、被害者は拒絶して車を降りてしまう。リンゴ園を抜けて自宅に向かおうとする被害者に山田は背後から襲い掛かった。

 

アリバイ工作の必要に迫られるが、矢頃島では何もできない。夜の農村部では戻る交通手段もないため、遺体を車に乗せてスイミングスクール方面へ移動する。変質者に襲われたように偽装するため、山田はスイミングスクールを通り越した場所で刃物を調達し、オーバーオールの下腹部を切り裂く。再びスイミングスクールへと車を戻しに向かう途中、20時40分頃に「占いに凝った女性」に目撃されたとみられる。

 

西村氏の論を踏まえて考えれば、山田はスイミングスクールの同僚であろう。犯行後にアリバイを作ろうとしたのは知人宅か、別のアルバイト先などであろうか。

だがおそらく西村氏は情報から犯人を絞り込んだだけでなく、何度もその人物と様々なかたちでコミットを重ねて疑いを深め、男のアリバイ崩しや金沢周辺の土地勘などを踏まえた上で情報を抽出し尽くしたはずである。当たり前のことだが本に書かれたことだけが事件のすべてではない。

たとえば当時の報道状況は分からないが「占いに凝った女」がテレビ報道等を通じて被害者の車両情報を目にしていた可能性はなかったのか等、本を読むだけでは計り知れない、疑問に思う部分も散見される。

実際の事件はドラマやミステリー小説のように「終わり」を迎えればすっきりするものではない。ましてや本件は未解決のままだ。事件発生から30年、時効成立から15年が経った。その間も数多くの警察不祥事や冤罪が世間を騒がせ、新たな未解決事件が生み落とされてきた。警察組織の抱える悪しき体質は一向に改善されていないようにさえ思える。

すでにスイミングスクールも更地となり、リンゴ園も失われ、事件の記憶そのものが世の中から失われつつある。そんななか、気骨ある元刑事が「正解」にたどりつけない謎を情熱をもって追い続ける姿には僅かながら勇気づけられるような思いがする。それは男の執念といった泥臭いものではなく、事件を通じて被害者と向き合った人間にだけできる一種の弔いなのだと強く感じた。

 

千穂さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

参考

https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/862551

茨城元美容師女性殺害事件

1993(平成5)年、茨城県南部に位置する筑波山麓の峠道で女性の全裸遺体が発見された。殺人事件として捜査が進められたが、2008年1月に公訴時効を迎えて迷宮入りした未解決事件である。

だが時効の迫った2007年、ある別の凶悪事件と共通点が多いなどとして再び注目が集まった。2005年12月に栃木県今市市で起きた小学1年生吉田有希ちゃん殺害事件、いわゆる「今市事件」と同一犯なのではないかとするものである。

 

93事件

時効まで残り半年を切った2007年8月19日、匿名掲示板の今市事件議論スレッドで「茨城の未解決事件なんだが、遺体の様子が似てないか?」と投稿があり、改めて注目を集めた。

法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査―被曝死、焼死、事故死、薬物死…法医学が明かす死体の真実

カキコミが「93」投稿目にあたり、事件発生が1993年でもあったことから通称「93事件」と呼ばれることとなる。

「93」はその後も三澤章吾『法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査』(2001、日本文芸社)を引きつつ、以下のような殺害方法に共通点を指摘。

①遺体が洗ったようにきれいだったこと

②10か所以上の鋭利な刺し傷による失血死

③凶器は幅1~1.5㎝、長さ10㎝以上の鋭利なノミ、あるいはヘラのようなものが推測されたこと

④遺棄現場が峠の林道だったこと

⑤発見現場に血痕が残っていないこと

インターネット普及前に発生した事件で検索しても情報が得られないことなどから、当初は事件の存在自体を疑う者もあったが、本や新聞記事で実在する事件と確認され、「偶然とは思えない」「似ているというより同一犯ではないか」との声が挙がった。

 

■身元の判明

1993年1月13日(水)16時ごろ、新治郡八郷町(現石岡市)柴内にある「朝日峠」近くの林道脇で女性の遺体が発見される。第一発見者は筑波山に遊びに来ていた会社員で、車で峠道を下っていたところ右斜面に全裸の女性が仰向けに倒れていたという。

事件から30年近くが経過し、その間に道路整備も行われ、公開されている情報からは正確な遺棄地点を掴むことができなかった。下のストリートビューは「朝日峠より北へ1.2キロ」との記載から推測される位置である。

勾配の急な地点で停車して遺棄したとは考えにくく、発見者も減速していたであろう「カーブの入り口」などではないかと推測する。

かつて筑波山周辺は「ローリング族」と呼ばれる走り屋たちが集まることでも知られ、「暴走禁止」の看板や事故などで損壊したガードレールも多く見られる。現在では同区間にトンネルが開通しているが、逆説的にかつての峠道がそれだけ難路、悪路だったともいえるのではないだろうか。

 

発見された遺体の胸や首に多数の刺し傷があり、石岡署と県警捜査一課は殺人事件として捜査本部を設置。捜査員150人を動員して周辺での聞き込みを行う一方、女性の身元の割り出しのため似顔絵を作成して公開した。

 

女性は身長159㎝、体重45㎏。血液型B型、足のサイズ21㎝。右下腹部に盲腸の手術痕があり、上の前歯2本が差し歯だった。差し歯は3年以上経過しており、歯並びから年齢は20歳代前半と推定された。

 

特徴として、着衣がないにもかかわらず、複数の装飾品を身に着けていた。首には長さ40㎝、51㎝の2本のネックレス。左耳には直径3㎝のイヤリング。右手中指には葉っぱが重なり合うようなモチーフの18金リング、右手薬指には8角形で4本の斜線が入ったシルバーリングがはめられていた。

 

現場には争った痕跡や血痕がなかったことから、別の場所で殺害され山道に運ばれて遺棄されたものと断定された。また当時の山道は車一台がやっと通れるような狭い道で、県外の人間ではなかなか気づきづらい場所だったことから、犯人は当地の地理に詳しい人間ではないかとみられた。

 

似顔絵を公開すると「知人女性に似ている」として下館市に住む会社員男性(21)から連絡が入り、1月15日、該当の家族に確認を求めたところ、顔貌や指紋などから結城郡石毛町で以前美容師をしていた谷嶋美智子さん(22)と特定される。谷嶋さんは12日早朝に自宅アパートで通報を入れたこの男性と会っていたという。

捜査本部は谷嶋さんのその後の足取りや交友関係を中心に情報の洗い出しを進めた。

 

■初期捜査

谷嶋さんの暮らすアパートは関東鉄道常総線・石毛駅から約400mの新興住宅地にあり、92年3月に完成してすぐに入居。トラック運転手をする若い男性と暮らしており、「夫婦かと思っていた」と話す近隣住民もいた。

谷嶋さんは91年8月から知人の紹介で石下町にある美容室に勤め始めたが、92年11月末に「自動車学校に通うため」に仕事を辞めたという。悲報を聞かされた店の経営者は「なぜ。どうして」と動揺を見せ、彼女の人柄について「美人で腕もいい。お客さんの中にはお嫁さんに欲しいという人もいたくらい。おととしの町のカラオケ大会に参加して歌うなど社交性もあった」と話し、別れを惜しんだ。

 

谷嶋さんは92年11月28日に自宅から約1km離れた町営自動車学校(現在は廃校)に入校し、ほぼ毎日通っていたという。

93年1月12日、谷嶋さんは早朝に知人男性と会った後、いつものようにタクシーに乗って自動車学校に向かい、卒業検定を受検していた。試験は9時頃から始められ、10時頃に終わった。

合格者は午後にも講習も受ける必要があったため、谷嶋さんも午後のスケジュールは空けていたと推測されるが、試験は不合格。翌日の予約を入れ、10時半頃に学校を出ていく姿を職員が目撃していた。自動車学校の送迎サービスやタクシーの利用は確認されず、その後の足取りが途絶える。

捜査本部は解剖結果と合わせ、死亡推定時刻は学校を出たとみられる12日10時半から16時の間とした。

 

詳しい鑑定の結果、死因は心臓損傷による失血死とされた。遺体の頭部に2か所の皮下出血、胸部に13か所(うち4か所が心臓に達していた)と首に2か所の刺し傷、右足大腿部に1か所大きな切創があった。

また首に幅1㎝程度の「ビニールコードのようなもの」で絞められた痕跡が確認された。抵抗した痕跡がないことから、犯人は首を絞めて意識を失わせたうえで刃物を使ってめった刺しにしたと考えられた。

体内の血液は半分以上が流出しており、遺体を浴槽につけるなどして血痕を洗い流した可能性が指摘されている。

殺害のされ方が、1992年に公開されて大きな話題となったサスペンス映画『氷の微笑』に似ているとして、レンタルビデオ店の顧客名簿が確認されたが、容疑者には結びつかなかった。尚、映画では被害者がアイスピックで31か所めった刺しにされる。

 

■捜査方針

谷嶋さんは筑波山の北部、真壁郡真壁町(現桜川市)で生まれたが、中学時代に両親が離婚し、一度弟妹とともに実母に引き取られた。1年ほどして谷嶋さんだけが真壁の実家に戻り、父親と一緒に暮らした。高校卒業後は石岡市内の美容室で住み込みで勤め、その後、石下町の店に移った。

※本件との類似性はないが、1981年5月に真壁町内の隣接する小学校区で酒寄はるみちゃん(9)の行方不明事件も発生しており、こちらも未解決である。

 

1月16日に執り行われた通夜には親類や旧友ら数十名が集まり、突然の別れに心を痛めつつ、彼女の冥福を祈った。父親は憔悴しており、伯父が親族挨拶を務めたという。

弔問に訪れた旧友女性によると、11月中頃に谷嶋さんから電話があったという。彼女は恋人との別れ話で悩んでいたとし、石毛町内のアパートを出て、下館市内に部屋を借りると話していたという。

1月18日の朝日新聞でも、石岡署捜査本部は「原因は交友関係のトラブルではないかとの見方を強め、谷嶋さんの周辺に浮かんでいる十数人の男性を中心に、捜査を進める方針を固めた」と伝えられている。

 

その後、遺体のあった斜面付近から靴跡、複数のタイヤ痕を採取したとも報じられている。靴跡は遺体から20㎝~1mにあった3か所で、斜面には靴が滑ったような跡があった。サイズは25~28㎝、靴底は平らだった。タイヤ痕は軽トラックのものと乗用車のものなど数種類。

また谷嶋さんについて、自動車学校を出て以降の情報は得られず、自宅に帰った様子が確認できないことから、捜査関係者の談話として「誰かの車に乗ったのではないか」と記事は伝えている。

 

自宅周辺、発見現場、元勤務先のある石岡市つくば市などを対象に聞き込み捜査が続けられ、発生から1か月で約2000戸、1年間で約3500世帯に聞き込みを広げた。交友関係のあった456人からも事情を聴き、遺棄現場付近で見られた不審車両についても666台を調べたが容疑者特定には結びつかず。

目撃情報の乏しさからその後は大きな進展も聞かれず、時効が目前に迫った。

 

■時効の壁

県警は15年間で延べ3万8千人の捜査員を動員し、約3万3000人に聞き込みを行ったとしている。目撃情報の収集に全力を挙げたが、「浮かんでは消えての繰り返し。容疑者につながる情報は得られなかった」と捜査員は悔しさをにじませた。

 

谷嶋さんの伯母は、自分の娘の結婚式に列席してくれたことを思い出しながら「『次はみっちゃんの番よ』と楽しみにしていたのに、もう花嫁姿を見ることができない」と語り、正月に集まったときにこたつでもうすぐ新車が納入されると嬉しそうに話す姿をよく覚えていると振り返る。伯父は「実家で寝たきりになっていた祖母を気遣う優しい子だった。夢が叶ったと聞いてみんなが喜んだんだよ」と懐かしむ。

谷嶋さんの父親は犯人逮捕の報せを待ち続けながら、2006年1月に亡くなった。その後、実家隣に住む伯父と伯母が墓や仏壇を守り、2008年1月、公訴時効の手続きにサインをした。

 

事件の前月まで働いていた美容室の店主は、「仕事ぶりはまじめだった」としつつ、「よく男の子が迎えに来ていた。交友関係が多かったからか、欠勤しがちだった」とも述べている。

高校時代、陸上部で一緒だったという一年先輩の男性は、高校卒業後、美容業界の道に進んだ谷嶋さんについて「手に職をつけて早く独立したいと話していた。男友達も多かったが、寂しさの裏返しだったのかな」と述べ、事件の半年前に電話があったがそのとき話を聞けずじまいだったことを後悔していると話した。かつて「先輩の髪を切ってあげるからね」と言われたのが最後の会話となってしまった。

 

2010年4月、刑事訴訟法改正に伴い、殺人罪など凶悪事件の公訴時効の廃止・期間延長が行われ、1995年4月27日以降の殺人事件の時効が撤廃された。

これにより前述の今市事件のほか、

・1999年(平成11)に筑波山の山林(つくば市高田)で他殺体となって発見された川俣智美さん(19)の事件

・2003年発生の都立高生・佐藤麻衣さん(15)が殺害され五霞町に遺棄された事件

・2004年に美浦村清明川河口に全裸で殺害・遺棄された茨城大学・原田実里さん(21)の事件

・同じく2004年に坂東市の農道脇で首を絞められた状態で発見され後に死亡した県立高生・平田恵理奈さん(16)の事件

など多くの長期未解決事件で時効がなくなった。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

谷嶋さんの事件で公訴時効の手続きを行った伯母は、新聞の取材に対し、「ひとつひとつサインするたびに『ああ、もう終わってしまったんだな、もう事実を知ることはないんだな』って。美智子ごめんねって謝りながらサインしました」と時効当時の心境を明かしている。

時効廃止に一定の評価を示しつつ、「同じ殺人事件なのに、この日を過ぎたら捜査は終わり、と日にちで区切るのはおかしい。時効は犯人にとって自由になる区切りであり許せない。もっと早くしてくれればよかったのに」と改正の遅れに不満を述べた。

 

■今市事件との相違

筆者は本件と今市事件の犯人が同一犯とは考えていない。

だが「93」氏が驚いて書き込んだのも無理はない。氏が今市事件との類似性を見出したテキストは、かつて筑波大学法医学を専門としてきた三澤章吾氏による『法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査』で、自ずと事件の周辺情報よりも遺体状況に主軸が置かれる。

とりわけ遺体の「傷」はプロファイリングの大きな要素となる。凶器の刃物がナイフや包丁ではなく「鋭利なノミやヘラのようなもの」と記されている。

はっきりした凶器が特定されなかった今市事件の「幅2㎝程度」の「細長い」刺創とも符合しないではない。今市事件では傷跡から推定される凶器のひとつとして、一般的になじみは薄いが木工職人などが使用する「繰(くり)小刀」の名が挙がったこともあり、特徴的な刃物が用いられたとみられていた。

繰小刀

更に著者の三澤氏は、書き出しから(半ば驚きをもって)遺体がきれいだったことを印象的に述べている。

今でもはっきり覚えているのは、死体がとてもきれいだったことである。
血もきれいに拭き取られていて、全身を洗い清められているようであった。
犯人の被害者に対する特別な心情がそこからうかがい知れる。

何千ものご遺体を扱ってきたプロの目から見て、多数の刺傷と照らし合わせても異例の状態だったことが分かる。

今市事件でも、口と傷口からの出血は少量で、血液をふき取ったか水などで洗い流した可能性が指摘されている。遺体に血液がほとんど残っていなかったことから考えれば、水場で流した可能性が高いと私個人は見ている。

だが三澤氏はこうも述べている。

しかも傷口には繊維やごみなどの付着物がまったくない。
これは裸の状態で殺したという可能性が高いことを意味する。

胸に10か所以上の刺し傷を負っているのは同じだが、今市事件では遺体は全裸であったが服の上から刺された可能性が指摘されている。

また細かい部分だがその表現にも注目されたい。

おそらく犯人は谷嶋さんの頭をまず殴りつけ、首を絞めて意識を失わせてから胸、首などを刃物でめった刺しにしたのではないだろうかーー。

単に「多数回刺すこと」を簡略化して「めった刺し」と表現したのかも分からないが、字面から受ける印象でいえば犯人がやみくもに素早く連続して刺したように読める。

一方、今市事件ではその刺創にフォーカスした情報は多く、きれいなかたちで揃っていたと伝えるメディアもある。「刃物を胸に突き立てて押し込んでいった」「創洞の長さも三か所ほど深いものがあったが、あとはほとんど同じ長さだった」(週刊文春)、「感触を楽しむかのような刺し方」「一度刺した刃を止め、そのあと、さらに力を込めて深く刺しこんだとみられる傷もあった」(アサヒ芸能)といった特異性を指摘する鑑識関係者証言を伝える記事もあり、捜査関係者の「幾何学模様のように」「まるで何かのメッセージか、儀式のようだ」といった見方も紹介されている。

『死体は語る』の著者でも知られる元東京都監察医務院長・上野正彦氏は今市事件について「普通、傷口は刃物を刺すときと抜くときでずれてしまうものですが、創縁がきれいということはそのずれがないということ」と述べている。

実際に傷を見た専門家ではないため断定はできないが、字義通り「めった刺し」であれば、今市事件とは異なり、傷をつける角度や深さにばらつきがあったのではないか

 

刺し傷以外でも、やや異なる外傷がある。

死体には足の裏にもいくつかの傷があったが、これらは鑑定の結果、死亡後に首や胸を刺した凶器とは別のものによる傷だとわかった。

よく調べると、頭には殴られたような跡もあった。さらに首には細い紐のようなもので絞められた跡も見つけることができた。非常に猟奇的である。プロの感が強い。

頭に殴られたような傷があったのは今市事件でも同じだが、本件では「足の裏」にも別の凶器によってできた傷、首を絞めた痕跡が確認されている。三澤氏が何をもってして「プロの感が強い」と評したものかは不明だが、頭を殴り、首を絞め上げ、十数回も刺した犯人は、一撃で仕留められず何度もとどめを刺そうとした印象を受ける。

 

発見現場に関して、山の「林道」という表現上では一致するものの、本件の峠道は車一台通るのがやっとの細い旧道ながら舗装路で、山を越えるための生活道路である。今市事件の遺棄現場は未舗装路で、山林の管理車輛が行き来する文字通りの林道である。

平日のまだ陽のある時間帯に、被害者を車に乗せて移動し、どこかで殺害してから遺棄現場に向かう点は共通している。だが北関東では交通網や住宅環境などからいわゆる「車社会」であり、自動車保有率は非常に高い。

2007年の世帯当たり台数でいえば、全国3位群馬県1.695台/世帯、6位栃木県1.653台/世帯、7位茨城県1.633台/世帯となっている。死体遺棄にバスや電車、飛行機を使う事件もないわけではないが、移動や運送手段として車を用いるのは当たり前と言えば当たり前である。

 

地理的側面について。本件の行方不明現場となった自動車学校から発見現場まで東北東に約27kmの距離、自動車で直接移動すれば40分という距離である。筑波山の山道を通過していれば1時間以上要したかもしれない。

今市事件では行方不明となった「Y字路」から発見現場まで単純直線距離で東南東へ「60km」「65km」といった表記が多いもののナビルート検索では最短72.5kmである。ナビ最短で1時間半と算出されるが、実際には途中で宇都宮市街地や起伏のある山間部も通過するため2時間程度は要する道程とみてよい。

あまつさえ本件は茨城県の人間が県内で遺棄された事件であり、かたや今市事件は栃木から茨城へと県を跨いだ越境事件である。仮に同一犯だった場合、かつて30km程度離れた場所に遺棄して発覚を免れたとすれば、あえて2倍以上も離れた場所へ遺棄するものだろうか。

 

また同一犯による連続殺人だとすれば、本件を起こした1993年から2005年の今市事件までのブランクをどうやって過ごしていたのか。

無論、12年間我慢してきた、人知れず多数の事件を起こしてきたが発覚していない、といった妄想は可能であり、別件で逮捕されてその間は実害が増えなかった、精神や体調面で異常をきたして長期療養を強いられた、と想像することもできる。

両事件の最大の違いは被害者の年齢層である。被害者が中学生と高校生であれば発達段階として「近い」と捉えられるかもしれないが、本件被害者は22歳、今市事件の吉田有希ちゃんは7歳。容貌、体格、知的発達や運動能力も当然大きく異なる。犯人の特別な感度から両者には共通項があったと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも筆者には「女性」である以外に共通性を導き出す方が難しい。

それでありながら性的被害が(あった可能性はあるが)確認されていないことは確かに共通点ではある。とはいえ性的被害のない女性殺害事件は無数に存在し、共通する犯人性とは到底言い難い。

犯人も12年間のうちに理想とする対象の変化や何かしらの方向転換があってもおかしくはないのかもしれない。だが殺害方法については12年前の事件を踏襲しながらも、全く性質の異なる女性を殺めるというアンビバレンスな犯人像を許容するのはあまりにご都合主義的、「同一犯」説に縛られた見方だと私は思う。

 

よほどのシリアルキラーでなければ自宅に死体を置きたがらない。死体を遺棄する行為は、発覚を恐れることのほか、「自分の領域から死体を遠ざけたい」「視界から事件を消し去りたい」という意志の表れでもある。本件も今市事件も、土中に埋めたり、損壊したりといった隠蔽工作は見られず、山中とはいえ道端に遺棄していることからも発覚逃れの意図より遠ざけたい心理の表れだと捉えることができる。

地理的に見て、本件は「筑波山」の西側から東側へと被害者を追いやった、心理的境界の裏側に遺体を隠したかったのである。すなわち犯人は筑波山より西側の人間ということになる。

今市事件でも、西に向かえば日光、北に鬼怒川、南に大芦など、周辺には1時間圏内で行ける山地が無数にあるにも関わらず、犯人は東進して茨城県常陸大宮市に向かっている点は疑問がもたれた。犯人は茨城県に帰る途中で捨て置いたのだろうか。むしろ越境捜査は警察の連携が取りづらくなることを知っていたか、栃木県内の山々では不安が拭いきれず遠く県境を越えることを選択したと考えられる。

そのほか本件被害者は装飾品を身に着けた状態で発見されたこと、今市事件では手や口に粘着テープの拘束痕が残るなどの違いもある。犯行の手口、とくに刺し傷に関する文字情報に注目すれば似た事件に思えるが、被害者や地理的関係に視点を向ければ同一犯を疑うほど似た事件とも思えない。

 

■どのような事件か

ここでは今市事件を無視して、本件を追っていきたい。捜査方針通り、まずは「男女関係のもつれ」として見ていくのが順当であろう。既述の内容を踏まえつつ、以下、事件の見取り図を描いてみよう。

被害女性は石下町のアパートでトラック運転手の男性と同棲をしていた。免許を持たない彼女は僅か1km離れた自動車学校へ通うにもタクシーを使っている。田舎町の若手美容師でそれほど高給取りだったとも思われず、普段から同棲相手や知人たちの車に頼って生活していたと想像される。

トラック運転手と美容師。生活時間や休みが合いづらく、業務によっては同棲相手が家を空けることも間々あったかもしれない。田舎の新興住宅街での暮らし、谷嶋さんは自由の利く友人たちに遊びに連れて行ってもらうことで心の隙間を埋める日々が続いた。

アパート周辺の聞き込み調査をすると、若い男性としばしば出かけている谷嶋さんが目撃されていたが、男性はいつも帽子を目深にかぶっており、表情などがわからなかったという証言を得た。

美人で社交的な谷嶋さんは遊び相手には困らなかった。旧友だったのか遊び仲間だったのかは分からないが、いつしか同棲相手とは別の男性と特別な関係になっていった。彼女は石毛での仕事に一旦見切りをつけ、免許を取って新しい生活をスタートさせようとしていたのである。

事件当日の早朝に彼女と会い、事件直後、似顔絵を見て「谷嶋さんではないか」と通報した会社員男性がおそらくその人である。彼は25kmと決して近くない距離に暮らしていたが、呼べば車で駆けつけてくれた。もうすぐ一緒になれる、おそらくお互いがそう信じていた。

当初は交友関係のもつれによる犯行と踏んで、早い解決が予想されたのだが、暴走族、変質者の犯行の可能性も浮上、結局、今現在、容疑者に結びつく有力な情報、手がかりは得られていないようだ。

本の出版が2001年であるから、事件発生から7、8年後に執筆された内容と推測される。新聞には「暴走族、変質者の犯行の可能性」に関する記載は発見できない。暴走族や変質者による犯行を推認させる証拠が出てきた訳ではなく、「交友関係」から犯人が挙げられず、消去法的に「族か変態の仕業かもしれない」とお茶を濁そうとする警察の態度が透けて見える。

トラック運転手の同棲相手か、会社員の浮気相手か、おそらく捜査陣営としてはほとんど始めから2択に絞られていたにちがいない。だが凶器も出ず、犯行現場も特定されず、何かしらの崩しがたいアリバイなどもあったのかも分からない。だが交際相手が複数人いた可能性も否定できない。

 

■なぜ犯人に迫り切れなかったのか

操作が暗礁に乗り上げた要因を想像するに、捜査機関は一か八か、血痕や凶器等が出ると見込んでかなり強引なやり方で家宅捜索などを行ったのではないか。しかし当てが外れて、殺害の証拠は得られなかった。そのためそれ以上の追及が困難となってしまい、捜査が尻すぼみになった。決定的新証拠が得られないまま、捜査方針の見直しを余儀なくされ、暴走族や変質者へと視野を広げるかたちで形ばかりの捜査が続けられた、と推測する。

 

またDNA型鑑定による犯人特定が黎明期であったことも挙げられる。1989年には科警研でDNA型鑑定の捜査応用が開始されたが、当初は犯行現場や物証から検出された血液が被害者本人のものかどうかを照合するといったものであった。

92年にはDNA鑑定による容疑者特定に向けた活用が指針として示され、各都道府県の科捜研でも順次導入が進んだ。後に冤罪が発覚する足利事件、死刑執行後も再審請求が続けられている飯塚事件のDNA型鑑定(MCT118型検査法)は科警研によってこの時期に行われた。茨城県警や筑波大学等での鑑定技術導入の正確な時期は不明だが、三澤氏の本件を扱う項では「DNA型鑑定」を示唆する描写は出てこない。

「全身を洗い清められているようであった」と記すのみである。文飾的レトリックなのか、水道水や河川の水の成分が検出されたといった記述もない。

順当に考えるならば、捜査本部は谷嶋さんの同棲相手に真っ先に疑惑を向ける。関係は破局に大きく傾いており、「免許が取れたら出ていく」等のやりとりがあれば、この日に犯行を決意していたとしてもおかしくない。

だが同棲先のアパートには「帰宅した様子はない」、つまり浴室なども手つかずで血痕なども残されていなかったと解してよいだろう。ほかに犯行現場となりうる場所はどこだろうか。同棲相手の実家、知人宅、周辺のラブホテルなどは当然捜査員たちも洗ったはずだ。根拠はないが、もしかすると筑波山周辺の清流などで血を流し浄めた可能性も考えられなくはない。

会社員の浮気相手は早朝に谷嶋さんと会っていながら、9時の卒業検定に送り届けてはいない。とすれば出勤していたと考えてよいだろう。業務内容が分からないので「中抜け」が可能な会社なのかは分からないが、被害者を車に乗せたのはこの人物ではなかった可能性が高い

卒業検定は受かれば午後にも講義を受ける必要があった。つまり試験前に「10時過ぎに迎えに来て」と待ち合わせることはできなかったはずなのだ。とすると試験後に交友関係のあった人物を急遽呼び出したのだろうか。彼女の交友関係が広かったとはいえ「水曜10時半」の呼び出しに応えてくれる人物であれば、さすがにすぐ絞り込まれそうなものではあるが…

 

(今市事件の有希ちゃんは、学校の給食以外にも胃に残留物が確認され、犯人によって何か食料を与えられたと推測された。だが本件では胃の残留物については情報が出ていない。10時半に失踪して16時ごろに遺体となって発見されるまでの間に「昼食」を摂らなかったのであろうか。)

 

「ご飯でも食べに行かない?」

若い男が車から谷嶋さんに声を掛ける。

「まだお店どこも空いてないと思うよ」

「じゃあ、ドライブしようよ、車ないんでしょ?俺、時間空いちゃって」

自動車学校に通う友達の卒検に付き合わされて待っているが、どうやら合格して午後まで講習があるとのこと。

話せば自分よりも若い10代だという。たしかに顔立ちはまだあどけなさも感じる。

ちょうどアシもないので乗っけてもらうことにした。

・・・

 

捜査関係者も事件当日に卒業検定や講習を受けに来ていた自動車学校生、学校関係者全員に谷嶋さんの足取りを知らないか聞き込みはしたはずだ。当然彼らには講習など確たるアリバイがあり、基本的には疑惑の対象とはならない。捜査員にとって交際相手や交友関係が目下の疑惑の対象であり、自動車学校関係者、その兄弟、知人、学校卒業生にまではそれほど注意を向けなかったのではないか。

卒検というイレギュラーな状況から推察するに、時間的に自由が利きやすい学生や不定職の若者が自動車学校周りで待ちぼうけていたとしても不思議はない。筆者の見解としては、気さくな谷嶋さんが見知らぬ若い男に誘われてうっかり車に乗ってしまい、わいせつ目的で連れ去られたと考えている。

死因が絞殺ではないため、一度車内で首を絞められ気絶した状態で連行されたのではないか。刺殺現場は分からないが、ノミのような工具が凶器とすればアパート内やラブホテルではなく、一軒家のガレージや農家の蔵のような場所が想像され、服を脱がされたところで息を吹き返し、逃げ出そうとしたが攻撃を受けた。男は車での遺棄を考えるが、血糊が付くことを嫌って、しばらく屋外で水を浴びせ続けた。明るい内に遺棄したのは夕方から夜にかけて何か用事があったと捉えられる。

自動車学校は学校生もすぐに入れ替わり、田舎の若者は転出も多く、後年になってからの追跡捜査も困難だったと想像する。

また千葉県千葉市若葉区で起きた中学生・佐久間奈々ちゃん誘拐事件でも、犯人とみられる男が自動車教習所周辺に出没していた情報もある。若者の比率が多く、自動車を持たないことから不審者にとっても標的としやすい側面はあるだろう。

卒業検定に合格してさえいれば、全くちがう将来が彼女を待っていたはずだった。それを思うだに悔しさの募る事件である。

 

谷嶋さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

広島市南区小学生姉弟行方不明事件

1980年(昭和55年)に広島県広島市で発生した留守番中の小学生の姉弟が二人一緒に姿を消した不可解な行方不明事件について記す。

二人は特定失踪者(北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者)とされており、基本情報は特定失踪者リストおよび特定失踪者問題調査会代表を務める荒木和博さんのBLOGに依るものとする。

本稿は北朝鮮による拉致の可能性を否定するものではないが、あえて別の可能性についても考えてみたい。無論二人の無事を願う思いで記すが、限定的な情報からの憶測として事故や死亡の可能性にも言及することをご理解いただきたい。

 

■概要

3月29日(土)夕刻、母親は普段通り子どもたちの夕食の支度を終え、広島市南区の団地にある自宅アパートから仕事に出掛けた。深夜2時頃に帰宅すると、部屋で眠っているはずの子どもたち2人の姿がなかった。

玄関はきちんと施錠されており、夕食は食べ終えて食器は流しに運ばれていた。母親の布団も敷いてくれており、部屋はいつもと変りない様子だった。

行方が分からなくなったのは1歳違いの姉弟で、小学6年生の藤倉紀代さん(きよ・12)、小学5年生の靖浩さん(11)。まもなく中学進学と6年生への進級を控えていた。

藤倉紀代さん

https://www.chosa-kai.jp/archives/missing/%e8%97%a4%e5%80%89%e3%80%80%e7%b4%80%e4%bb%a3

藤倉靖浩さん

https://www.chosa-kai.jp/archives/missing/%e8%97%a4%e5%80%89%e3%80%80%e9%9d%96%e6%b5%a9

 

部屋から特別何かを持ち出したというような形跡はなく、服装も普段の外出時のものと思われた。子どもたちに部屋のカギを持たせていたが、日頃子どもたちだけで遠出することはなく、所持金も小遣い程度で大金は持たせていなかった。

母親はすぐに親戚などに連絡を取って行方を捜したが何の手掛かりもなく、二人そろって家出とは到底ありえないとして捜索願を提出。

姉・紀代さんは30日(日)に友達と遊ぶ約束を電話でしていたことが分かったものの、母が勤めに出て以降の姉弟の行動は全く分からなかった。

 

■拉致、行方不明、誘拐事件

政府の認定拉致被害12件17名の事案も1977年~83年に発生しており、調査会による「昭和53年から56年にかけて起きた事件」資料を見ても北朝鮮による拉致工作が活発な時期と符合する。また1980年1月には産経新聞が「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」との見出しで北朝鮮による拉致疑惑をはじめて報じた時期でもある。

昭和53年から56年にかけて起きた事件【調査会NEWS3027】(R01.7.12)

 

通常であれば児童ひとりの行方不明でも大きな騒ぎだが、なぜか2人の事案については発生から1年ほど経って地元中国新聞がやっと載せるという小さな扱いだった。見出しには「家出の…」と記載され、記事は「警察は誘拐や事故などの線も視野に200人体制で周辺での捜索を行った」旨の内容だったが、家族は警察が電話の逆探知装置を設置したり、張り込みに来たりといった捜査をした記憶がないと話している。

母親は何年も何年も子どもたちの帰りを待ちわびながらも暮らしに追われた。その後の警察の捜索はどうなったのか、よき報せは届かなかった。時代は巡り、北朝鮮による拉致問題が国民的議論となり、家族会の働きかけ等によって国も重い腰を上げ、遂に5人の拉致被害者が帰国を果たす。

拉致被害者はもっといる、自分の家族も拉致被害者ではないか。多くの行方不明者家族、専門家らが声を上げ、2003年に特定失踪者問題調査会が立ち上がった。何の頼りにもならない捜査機関に失望していた藤倉さん姉弟の母親が調査会に依頼したのは、行方不明から27年後となる2007年2月のことである。

現地調査や聞き取りをした荒木氏の推測では、広島県警は自発的失踪の「家出人」として捜索願を処理し、事件捜査や積極的な捜索活動も行わなかったが、後になって事件性を懸念して、新聞に記事を出させた可能性があるとしている。

一年もの間、手つかずにしてきた事案を取り繕う意味で新聞社に情報をリークしたと荒木氏はみており、筆者もその点については同意見である。警察が何をきっかけとして記事を出させようと判断したのか、その目的ははっきりとは分からない。

 

だが今日確認できる児童の行方不明事案だけでも、1975年には大阪市住吉区で13歳女子生徒、石川県珠洲市で14歳男子生徒が、1976年に北海道根室市の6歳女子生徒、1977年には新潟市横田めぐみさん(13)、1981年奈良県橿原市の14歳女子生徒など、各地で毎年のように発生している。

また警察白書によれば昭和55年度(1980年)は身代金目的誘拐事件が全国で13件と過去最多を記録している。

1980年1月に愛知県豊中市で起きた歯科医師の長男(7)が攫われた事案では身代金3000万円の要求や犯人が息子の同級生を狙った犯行、47時間後に保護されたこと等で注目を集めた。

翌月には対象年齢こそやや異なるものの富山長野連続誘拐事件(広域111号事件、赤いフェアレディZ)が発生し、富山県の18歳女子生徒、長野市信金女性職員(20)が殺害された。

8月に山梨県で起きた「司ちゃん事件」では、近所のこどもたちに「ソフトボールのおじちゃん」と呼ばれて親しまれていた梶原利行(当時38)が5歳男児を誘拐。事前の下調べもなく一般的サラリーマン家庭の子が無作為に標的とされたことが社会不安を呼んだ。初動捜査で別人に疑惑の目を向けていたこと等が問題視されて大きな話題となった。

12月には愛知県名古屋市で大学に通う女性(22)が殺害され、生きているように装って身代金を要求するという卑劣極まりない事件も起きている。

婦女子を標的とした身代金誘拐が頻発したことから、81年には警察組織全体で行方不明、とりわけ児童の係る事案への対応方針に見直しが迫られたと想像される。県警は放置してきた藤倉姉弟の事案が問題視されることを避けるため、記事を書かせて捜索の「既成事実」を捏造させたと疑われる。

 

■体格・特徴など

当時の体格や特徴などから分かることはないか。

紀代さん

身長150センチ体重38キロ、やせ形の体格

顔は面長で色黒、髪の毛を腰まで伸ばしていた

服装は、フード付きの紺色スモッグに白色セーター

靖浩さん

身長140センチ体重30キロ

肌は色黒、坊主頭

服装は、「阪急」の野球帽、紺色ビニール製ヤッケ、濃色のジーンズ、白色ズック靴

 

二人とも大柄な体格ではないが、乳幼児のように片手で抱えられるものではない。大人一人で部屋から抵抗する姉弟を強引に連れ出すのは屈強な男性でも至難の業である。それも夜中に騒がれずに遂行できたとは現実的にはやや考えづらい。

身代金目的の誘拐であれば二人を一緒に攫う必要性には乏しい。相手の資産の有無によって身代金の要求金額が異なることはあるが、人数によって金額が比例する事例など聞いたことがない。藤倉さん家族は集合住宅に暮らす一般庶民であり、直接部屋を訪ねるリスクを負うよりかは外出中を狙うのが筋だろう。

また強制的な連行とすれば、履物くらいは履かせるかも分からないが、少年にビニール製ヤッケ野球帽まで持たせるだろうか。自身のトレードマークのように外出時にはいつも被る習慣があったか、ヤッケと共に「雨除け」として能動的に被った可能性が高い。後述するが29日は朝から深夜未明にかけて一日中降ったり止んだりの天候であった。

拉致であれば複数人で連れ去ったか、あるいは単独犯であれば「母親が事故に遭った」等と虚偽誘導して車に乗せるといった手口が考えられる。そうした手口がとられたとすれば、夜は母親が仕事で家を空け、こどもだけで留守番していたことを下調べしていた可能性が高い。

また、これは邪推になってしまい、関係者に失礼とは思うがあくまで仮定の話として書かせていただく。

公開されている情報では「父親」の存在が一切出ておらず、偶々記載がないだけなのか、離婚、死別されたのか、その存否が気にかかった。いわゆる「未婚の母」や離婚等により姉弟の父親が存命であったならば「自分の子どもを攫う」可能性もあるのではないか。

1980年当時は少なかったかもしれないが、今日では離婚夫婦間で親権、養育権を巡って誘拐騒動となるケースも少なくない。母親がいない隙を狙って父親が部屋を訪れ、間違いを犯したとしても不思議はなく、結果的に母親をひとりにさせてしまった罪悪感からこどもたちも再会できずにいるのかもしれない。

 

■検討

日本で把握されている北朝鮮による拉致被害児童は、横田めぐみさんのほか、渡辺秀子さんの子ども・高敬美さん(こう・きよみ、6)、剛さん(つよし、3)がいる。敬美さんと剛さんは父親が在日朝鮮人の元工作員でいわば「人質」として拉致されたことは確定しているが、日本国籍を保持していないため政府認定被害者にはカウントされていない特異なケースである。

 

では一般家庭の姉弟が一緒に行方不明になるとは、どういった状況が考えられるのか。

ひとつは前述のように、留守番中に「母親が事故に遭った」など虚偽誘導されて部屋から連れ出されたケースが挙げられよう。

外出して事故に遭った可能性も考えられる。

1995年10月、大分県宇佐市の実家で暮らす18歳の弟が、福岡から帰省した20歳の兄と車で弟と出かけたまま行方不明となった事案でも自発的な失踪の理由は見当たらなかった。17年後、2012年9月に工事の為に水抜きしたため池から車と遺体が発見された。運転を誤って転落したとみられるケースである。

似たような事例として「坪野鉱泉神隠し事件」「広島県世羅町一家失踪事件」などが思い浮かぶ。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

藤倉さん姉弟の自転車については特に言及されていないため、自転車使用の形跡はないと思われるが、10代前半にもなればこどもたちの行動を完全に把握することは親でも難しい。

荒木氏の調査報告では、「当時の居住地は住宅街の中にあり、周辺には子供が夜間に買い物等に行ける場所もなく、雨が降る中、傘も持っていないことなど、2人が自らの意志によって失踪した可能性はほとんどないと思われる」とされている。

居住地が分からないため推測にはなるが、コンビニやスーパーがなくても自動販売機くらいはあったかもしれない。親の目を離れて近所の友達の家や公園、夜の校舎でおしゃべりしに集まろうとしていたかも分からない。たとえ遠くに行くことができなくとも「大人」の目の届かない場所をこどもたちは知っているものだ。

出掛ける途中、誤って一人が水路や河川に転落し、もう一人が救助しようとして二人もろとも流された可能性も十分にありうる。

尚、1980年3月の広島市内の気象状況を付記しておくと、25日から28日にかけては降水量なし。不明当日29日は朝から深夜にかけて降ったり止んだりの天気で総雨量22㎜。翌30日は降水量なし。31日には夕方から翌4月1日未明にかけて総雨量36.5㎜を記録している。

いずれも強い雨ではないが、失踪直後の時期は雨で水が濁り、発見しにくい要因になった可能性はある。詳細な居住地は分からないが、広島市南区は瀬戸内海に面しており、比較的早い段階で海まで流されることも想像される。

 

■こどもの拉致はあったのか

北朝鮮による拉致は何の目的で続けられてきたのか。工作員養成のためとすれば、成熟までコストのかかる子どもを狙う必要はないのではないかという素朴な疑問もある。しかし2011年12月、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称「救う会」)主催のセミナーで、脱北兵が「工作員に育てるため外国の子どもたちを拉致することがあった」と報告している。

北朝鮮統一戦線部幹部チャン・チョルヒョン氏によると、金正日総書記の「現地化」指令と呼ばれるもので、それが1977年頃に世界的に起きたこどもを標的とした拉致の頻発につながったとしている。

「現地化」とは、国外の子どもを北朝鮮式に育てて工作員とする方針である。民主主義や社会主義国家とはかけ離れた封建社会ともいえる異質な北朝鮮の体制下では大人を「主体思想」に「再教育」して工作員にすることが困難とされたため、そうした戦略が採用された。しかし拉致されて集められた子どもたちは情緒的な安定を欠いてしまい、教育がうまくいかなかったという。

そのため80年代初頭から半ばに「シバジ」工作を始めた。拉致してきた外国人男性に北朝鮮女性をあてがい、国産のダブル(ハーフ)の工作員を養育しようとしたのである。80年に北朝鮮曽我ひとみさんと結婚し、2004年に来日したチャールズ・ジェンキンズさん(2017年没)も、そのまま北朝鮮に残っていれば自分たちの子どもたちもスパイに使われかねないことを危惧していたとされる。

www.sukuukai.jp

 

■所感

現在も特定失踪者リストには100名近くの名が連なり、事実拉致されている被害者もいれば、2022年3月に国内で発見されたHさんのようにそうではない方も幾ばくか含まれているだろう。

拉致なのか外出先での何らかの事故なのか、今すぐにそれを確認する手立てはない…警察が頼りにならない…しかし何より不明者の無事を祈りたい…再会することだけを考えている…。リストに掲載される情報は捜索の手がかりとしてはとても僅かな量だが、そこに込められた家族の様々な思いもリストから読み取ることができる。

ご家族が一日でも早く再会できることをお祈りいたします。

 

 

 

福岡美容師バラバラ殺人事件

1994(平成6)年、福岡県福岡市で発生した美容師女性の殺人・死体損壊遺棄事件について記す。

 

■概要

1994年3月3日午前、熊本県玉名郡九州自動車道・玉名パーキングエリアにあるゴミ集積場で、黒いビニール袋に包まれた切断された左腕を清掃作業員が発見した。その直後、福岡県山門郡の山川パーキングエリアのゴミ集積場からも右腕が発見された。

翌3月4日には、JR熊本駅のコインロッカーから黒いビニール袋にくるまれた胸部と腰部、さらに山川パーキングエリアで前日回収していた分のゴミの中から新たに左手首が発見された。

警察は切断状況やDNA型鑑定から発見された損壊遺体を同一女性と断定し、熊本・福岡両県警が身元確認を行った。

3月7日、家族から捜索願が提出され、身体的特徴や指紋が一致したことから、被害者は福岡市中央区神町の美容室「びびっと」に勤めていた美容師・岩崎真由美さん(30)と判明した。岩崎さんは全国コンクールのメイクアップ部門・福岡代表として全国2位になる腕前で、同店でも100名近くの顧客を抱える稼ぎ頭。「仕事一筋で若手指導にも熱心だった」と同僚からの信望も厚かった。

2月20日付で「びびっと」を退職し、3月から天神の新店に転職予定だったが、初出社となる1日から姿を見せず連絡がつかなくなっていた。連絡がつかず不安に思った家族が岩崎さんの自宅マンションを訪ねたが、室内はきちんと片付いており、失踪の理由も心当たりがなかったため通報。元同僚には、転職先の店では憧れだったTV関係のメイクの仕事もできるかもしれないとこれからの抱負を語っていた。

 

捜査本部は被害者の身辺調査に当たり、被害者宅マンションや勤め先などを家宅捜索。自宅の留守番電話のメッセージは2月27日以前のものは消去されていることが分かった。さらに美容室「びびっと」を経営する有限会社「オフィス髪銘家」事務所内から、被害者と同じB型の血痕反応が大量に検出され、職場関係者による犯行の線が強まる。発見された遺体はいずれも3月2日から3日午後の間に遺棄されたとみられ、同日のアリバイ捜査が続けられた。

 

■逮捕と報道

バラバラ殺人自体は珍しいものでもないが、被害者が美人で評判だったことや発見された胸部は乳房や内臓、尻や性器を抉り取られていたこと等から、男女の愛憎のもつれや性的異常者による犯行との見方もあり、マスコミはセンセーショナルに報じた。

専門家もその猟奇性に着目している。犯罪学に詳しい筑波大・小田晋教授は「死体の状況から見ても、性的満足を得ようとした快楽殺人でしょう」と雑誌に見解を寄せている。福岡大・平兮元章(ひらな・もとなり)教授は西日本新聞で「胴体から切り取られていた部分は性に関するもの。欲望の発現形態が非常に屈折していることの表れで、性的な殺人事件の可能性が大きい。さらに殺害後、死体を切り刻んでおり、死体愛好者的な面もうかがえる」と述べている。

 

岩崎さんのアドレス帳には200件ほどの記載があったが、周囲の人間によると色恋よりも仕事を優先するタイプとされ、交際相手は浮上しなかった。週刊誌等では「7年前」に熊本の男性と交際していた「らしい」ことや、94年の知人宛の年賀状に結婚を目指す「ような」添え書きがあったこと等を伝えている。

一方、93年11月には宅配便を名乗る人物から「住所を教えてほしい」との電話が自宅に入ったため勤め先の住所を伝えたがその後も荷物は一向に届かなかったり、94年2月に自宅の郵便受けに隠しておいたスペアキーが郵送物ごと盗まれる被害に遭ったり、無言電話が続いていたりと、彼女の周囲では不審な出来事が続いていたとも報じられている。

3月15日、捜査本部は「オフィス髪銘家」で5年ほど前から経理事務等を担当していた江田文子(38)を死体遺棄容疑で逮捕する。

江田は2月22日に同僚女性たちで開いた岩崎さんの送別会に参加しておらず、事件直後とみられる3月初旬に「新しいお店での活躍を祈っています」などと書いた被害者宛の手紙を送っていた。遺体が岩崎さんと判明した当時の取材では、彼女の転職について「自分の技術を広げるため、年齢的にも踏ん張りどころですから」と理解を示すような発言をしつつ、人柄については「別に悪くもなく、気にも留めなかった」「非常に気の強い人だった」と淡々と答えていた。

江田は容疑を否認し、事務所ポストにあったという被害者の時計とシステム手帳、「次はお前の番だ」等と書かれた脅迫状を提出して、自分も犯人から脅されていると主張した。

 

警察は江田の主張を鵜呑みにすることはなかったが、共犯者の存在が念頭にあったのか、現場を事務所兼自宅としていた男性経営者(37)も参考人として聴取を受けている。江田の逮捕後の報道でも単独犯行ではなく共謀した男性がいたとする複数犯説は消えなかった。

遺体発見当初から重要な手掛かりとされていた左手首を包んでいた企業PR紙は発行部数1200部と少なく、限られた地域でしか配布されていなかった。配布地域に住まいのあった江田は強い疑いをもたれていた。

逮捕の決め手とされたのは、本来は交通流速(渋滞状況)や到達時間予測に使われるTシステム(旅行時間測定システム)という道路監視システムだった。遺棄された3月2日から3日にかけての不審車両の追跡を行い、高速道路の通行券(通行券なしで料金決済をするETCシステムの開始は2001年)から指紋を採取し、江田が博多駅近くでレンタカーを借りていたことを突き止め、遺体運搬の証拠とされた。尚、Tシステムは1999年から車両追跡や犯罪捜査の目的でナンバープレートを照合するNシステムとも情報共有がなされている。

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1BnxTZ20bCo-Yflw4392C0_arvfU&hl=ja&ll=33.19542713001841%2C130.726237&z=9  江田は「ドライブに行っただけ」「パーキングに立ち寄ったが遺体を捨ててはいない」等と事件とのつながりを否認し続けていたが、3月21日頃から容疑について供述を始め、24日に死体遺棄を全面的に認める。25日、江田立ち合いのもと行われた熊本県阿蘇町乙姫での捜索で、供述通り両足が発見された。

続いて「殺害」の取り調べへと移り、4月4日に自供。単独犯行との見方が強まり、翌日、殺人容疑での再逮捕となった。

 

■女の半生

江田は福岡市内で公務員の父と元教師の母との間に生まれ、きょうだいは兄が一人いるが事件後、絶縁された。アパート経営をする資産家で経済的に不自由はなく、中学から短大まで地元の名門私立・筑紫女学園へ通った。獄中出版した手記『告白』(リヨン社)によると、父親は無口でおとなしかったが、母親は世間体や良識にこだわる人物で気位が高く押しつけがましい面があり、ときに人格を傷つけられることさえあったため、母娘の間には深い確執があったという。

短大卒業後はインテリア会社に就職するも1年で退職。22歳の頃、高校時代に発病した甲状腺機能障害がもとで入院し、その際、中絶手術もしている。78年に7歳上のタンクローリー運転手の男性と結婚。希望や理想があっての結婚ではなく、「母のそばを離れたい、この家から出たいという一念から」で、職業や容貌、人柄に至るまで「母が嫌うであろう人」を夫に選ぶことが「母への報復的な手段」だったとまで語る。

彼女は中絶経験から夫との性生活もなるべく回避したかったというが、2児を授かっている。義父母も彼女の父親の資産をあてにするところがあったと言い、夫家族との溝は一層深まっていった。86年、太宰府市の新興住宅街に新居を持ったが、2児の子育て、望ましくない結婚生活に疲弊し、やがて彼女は家の外へと救いを求めた。

1989年1月から百貨店のブティックで働くようになり、やがて「オフィス髪銘家」のO社長と知り合い、経理事務員として仕事を世話してもらうこととなった。売上金の管理や従業員十数名の給与、顧客管理などを一人で受け持ち、経営者男性も「頭の切れる女性」と評価しており、91年には「マネージャー」の肩書が与えられている。

社長の知人で会社の税務を担当していた税理士事務所の男性とドライブに出かけるなどして好意を抱くようになる。共に家庭を持つ身であったが、93年9月、従業員の慰安旅行でハワイに行き、そのとき男女の仲に発展した。その後、二人の関係は職場内でも公然の秘密として認知されており、二人は密会の場として家賃12万円のマンションを借りて通うようになる。

告白―美容師バラバラ殺人事件

江田より1年後に「びびっと」に勤め始めた岩崎さんは熱心な仕事ぶりで、美容師コンクールでも優秀な成績を上げるなど順調にキャリアを重ねた。税理士男性も江田の前で彼女の活躍を話題にすることがあった。家の外に安息の地を求め、ようやく運命の相手と愛の巣を築いたはずの女に嫉妬心が芽生えるのは当然の成り行きだった。税理士男性と彼女との関係に不信感を抱いたのである。

江田は岩崎さんへの尾行や素行調査を重ねた。周囲の人間からも情報を集めようとする江田の様子を察した税理士男性はもはや関係継続は難しいと考えるようになった。男の気持ちが自分から離れていくことで、江田はますます疑心暗鬼となり、岩崎さんに怒りの矛先を向けていく。1994年1月、男性は江田に別れ話を切り出した。

それまで江田が陰口を吹聴してきたことも影響してか、岩崎さんは93年11月に店を移りたい意思を経営者に伝えていた。94年2月、江田は岩崎さんを手続きの為と言って「オフィス髪銘家」に呼び出し、4時間にも及ぶ口論を繰り広げた。岩崎さんは待遇への不満や、過去に2人の美容師見習いが退職したことを自分のせいにされたこと等の不満を訴えたという。その翌日、税理士男性は密会用のマンションを解約したことを江田に伝えた。

 

■裁判

1994年5月、江田は夫との離婚が成立して旧姓・城戸に戻る(本稿では以下も江田に統一する)。

7月、福岡地裁で行われた初公判で、被告側は死体損壊・遺棄を認め、殺害については正当防衛を主張した。

検察側の主張によると、男性からマンション解約を告げられた翌朝、江田は被害者を「オフィス髪銘家」に呼び出し、再び口論となった。双方が押し問答となる中、江田は台所の出刃包丁で岩崎さんを切りつけ、馬乗りになって何度も首を刺した。出刃包丁は事件の2週間前に購入していたものであった。

事務所は経営者の自宅と兼用で、帰宅する夜までに遺体を始末する必要があった。江田は一人で遺体を運び出すことができず、工具箱にあったノコギリと出刃包丁で首と両手足、腰と手首を切り離した。作業は3時間20分程と推測され、黒いビニール袋やスーツケースに詰めて自宅に持ち帰り、現場となった事務所内を清掃。内臓などを近くのゴミ集積所に出し、19時から美容室で行われた研修に出席していた。

凶器の出刃包丁は走行中の車内から、右手首は玉名パーキングエリアのゴミ箱へ、頭部は自宅近くの集積所に遺棄したとされるが、発見には至らなかった。

 

95年8月、福岡地裁(仲家暢彦裁判長)は、被害者が包丁を向けたとする事実は認められず、「正当防衛を論ずる余地はない」と被告側の主張を却下。殺害直後に解体に取り掛かっておりスーツケース等での搬出など犯行に計画性があったと指摘し、「邪推から来た憎悪の念」を動機として「確定的殺意があったことは明らか」とした。被告には「虚偽の供述を繰り返すなど反省も見られない」とし、検察側の主張をおおむね受け入れ、求刑17年に対して懲役16年の判決を下した。

1997年2月、福岡高裁(神作良二裁判長)は控訴棄却。1999年9月、最高裁(亀山継夫裁判長)は上告を棄却し、懲役16年が確定する。

 

■終わらない事件

裁判で江田の単独犯が認定されたものの、ネット上では判決とは異なる「噂」が存在する。

江田の逮捕後、地元福岡のS病院の三男が自殺したという。この男は江田と愛人関係にあり、店の経理を誤魔化して金を貢がせていたが、被害者が不正な金の流れに気づいて告発しようとしたため殺害。男は捜査の手が及ぶことを恐れて自ら命を絶ち、地元有力者の子息ということで有力政治家の口利きによって江田との関係については一切が伏せられた、といった趣旨である。またその三男と美容室経営者は同性愛者で愛人関係だったという尾鰭までついている。

「噂」にはまだ続きがある。

自殺した男にはきょうだいがおり、兄は病院の跡を継ぎ、姉は結婚して神戸で暮らしていた。その姉こそ1997年に小学生5人を殺傷し世間を震撼させた神戸連続児童殺傷事件で自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年の「母親」なのだという。福岡の事件当時、酒鬼薔薇は小学生だった。事件後の供述で酒鬼薔薇は「人の死」に興味を持つようになったきっかけの一つに愛着のあった「祖母の死」を挙げているが、美容師バラバラ事件や「叔父の自殺」もトリガーなのではないかというのである。

犯人は「病院を継いだ長男」、自殺ではなく「海外逃亡」などバリエーションは諸説あるが、なぜそうした噂が語り継がれているのか

発端のひとつとして、事件当初は男性が主犯と信じられていたこと、江田の逮捕後も一部で共犯の男がいる可能性が囁かれたことが挙げられる。また江田が自著で生い立ちや結婚生活のみじめさを滔々と語るのに対して、犯行の核心部分については殺害を依然として否認し、「よく分からない」「霧の中のような出来事」「私ははめられた」等と曖昧かつ思わせぶりな表現が多かったことにも起因している。

「病院」は、患者の人生を左右する現場であることから、医療過誤がなくとも「やぶ医者のせいでもっと悪くなった」「家族を殺された」等と逆恨みされやすい立場でもあり、そうした自身の安全にも直結する噂は地域住民に共有されやすい。疑心暗鬼になる人ほど「悪い噂」に影響を受けやすい。S病院に恨みを持つ人や医療不信の強い人々がいるかぎり「悪い噂」は根治されず時を経てなお再生産が繰り返される。

さらに有力政治家が事件をもみ消したとするいわゆる「上級国民説」がとられている点も興味深い。一般大衆からすれば及びもつかない政治力によって警察権力を抑え、逮捕を免れている政治家もいないとは言い切れない。だが事件が長期未解決になると理由もなくそう信じ込みたがる陰謀層がネット上には頻繁に出現する(信じているというより噂の流布自体を楽しんでいる愉快犯が大多数とは思う)。

噂の発生の経緯を調べる手立てはないが、地元政治家にダメージを与えるために撒かれた怪文書などが火種となり、関係のあった病院が誹謗中傷を受け、政治家や病院を恨みに思う人々が「地元の噂」と触れ込み、陰謀論者がネットで焚きつけた結果…といった印象を受ける。

1994年というまだ携帯電話もインターネットも普及していない時期に発生した「男女関係のもつれ」という動機としては「ありふれた」ともいえる事件。それながらもその残忍な手口や加害者の特異なキャラクター、さらにインターネット黎明期に酒鬼薔薇事件と根拠なく結びつけられたことでその後も忘れ去られることなく「噂」を先行に語り継がれている。

 

刑期から言えば江田はすでに出所して社会復帰を果たしていると考えられる。他責傾向や虚言の激しい、今や高齢となった女は偽りの家族と別れ、実のきょうだいにも見捨てられ、孤独に生きているのであろうか。身勝手極まりない動機と凄惨な犯行は断じて許されず、たとえ一命を以てしても償えるものではない。いつしか呵責を負い、心からの後悔と反省の境地に至っていることだけを信じたい。

 

被害者のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

「餃子の王将」社長射殺事件について

発生から約9年、長期未解決となっていた京都市山科区で起きたいわゆる「餃子の王将」社長射殺事件が再び大きく動き出した。

2022年10月28日、別の襲撃事件で懲役10年の罪により服役中の工藤会系幹部の男に逮捕状を執行。また新たに福岡県警との合同捜査本部設置を発表した。

福岡県北九州市を拠点とする工藤会は、指定暴力団の中でも一般市民にも危害を加える恐れがあるとして2012年から全国で唯一「特定危険指定暴力団」に指定されている。2014年以降、福岡県警は組織壊滅に向けて、総裁野村悟ら幹部を一斉検挙する「頂上作戦」に取り組み、現在も裁判が続けられている。

本稿では、事件の概要、これまで報道された捜査状況、疑惑などを整理しておきたい。

 

■概要

2013(平成25)年12月19日7時ごろ、「王将フードサービス」の大東隆行社長(72)が京都市山科区の本社前駐車場で血を流してうつぶせに倒れているのを出社した従業員が発見した。大東氏は病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。

 

推定死亡時刻は6時頃とされ、死因は腹部を3発、胸を1発撃たれたことによる失血死。大東社長は自家用車から約1mの位置に倒れており、周囲に4つの薬きょうが落ちていた。そのため社長が到着して車を降りたところを待ち伏せしていた犯人が至近距離から銃撃した可能性が高いとみられた。薬きょうから指紋が検出されなかったことから、犯人は手袋などをして装填したと推測される。

使用された銃は発見されていないが、自動式の25口径(イタリア製)と判明(当初は「22口径」とする報道もあった)。25口径は、暴力団が一般的に使用する38口径に比べて小型で狙撃精度や殺傷能力が低く、国内での流通量は少ない。海外では入手のしやすさから強盗や殺人に用いられるケースもあるが、基本的には護身用や害獣駆除の目的で使用されることが多い。その一方で、手の平サイズの携行のしやすさ、発砲の音や衝撃が小さく扱いやすいこと、装填弾数が多く連射が可能といった利点もある。そのため当初は暴力団ではない一般人が襲撃した可能性も視野に入れ、捜査が開始された。

現金数十万円が入った財布など大東社長の所持品はその場に残されており、車内にも百数十万円の現金があったことから強盗目的は考えづらかった。携帯電話の通信履歴に不審点はなく、同社や社長の周辺では金銭の要求といった事前の脅迫は確認されていないことなどから、社長個人に対する怨恨が背景とみられた。

 

大東社長は5時半頃、山科区内の自宅から自家用車で出勤し、5時40分~45分頃に現場となった駐車場に到着したと推測された。早朝に長靴履きで本社前を清掃するのが日課としてよく知られていた。

周囲は住宅街と中小工場が混在する地域。周辺住民は口論するような声や銃撃音を聞いておらず、本社や駐車場に防犯カメラは設置されていなかった。現場南側の倉庫にある1台のカメラも駐車場が死角になっており犯行の様子は直接確認できなかった。しかし出勤した大東社長の車のライトのほか、東向きに動く車輛のライトや人影も映っていた。画像は荒く、顔貌や車のナンバーは識別できなかったが犯人につながる数少ない証拠となった。

捜査本部は犯人が入念に下調べをしたうえで犯行に及んだ可能性があるとし、「プロの仕業」との見方を強めていった。

 

王将フードサービスでは渡辺直人常務(58)が社長に就任することを事件同日に発表した。渡辺氏は営業畑一筋で、東日本の直営店を統括する第4営業部長を兼務し、北海道や関東への出店で実績を上げてきた人物である。

翌2014年1月6日の会見では「暴力は決して許されることではない。犯人は自首して頂きたい」と事件に対する憤りを見せ、「経験したことのない悲しみ、苦しみを感じた。言葉を頂く間もなく重責を拝命した。大東の遺志を継ぎ、日本一の中華料理チェーン店を目指す」と強い信念を語った。

ネット上では「追悼餃子」と称して来店を表明する現象が相次いだ。渡辺社長は、会社に激励のメールが届き、各店舗にも励ましの声が寄せられ、売り上げも増えたと報告し、愛好客らに感謝を伝えた。

 

■捜査の進展

事件から半年、京都府警は延べ1万800人の捜査員を動員して周辺2610世帯に聞き込み、役員や取引先数十社の関係者から事情を聴いた。

防犯カメラの映像解析から、映りこんでいた大東社長の車とは異なる車輛のライトについてバイクの可能性が高まったと報じられた。犯人は逃走にバイクを使用したとの見方が強まる。

同じ2014年春、現場から北東約2キロ(NHKでは「1.5キロほど」)にある京都市山科区共同住宅敷地内で、前年10月に城陽市の住宅街で盗難されていたスーパーカブ(小型オートバイ)が発見される。スーパーカブはカバーに覆われて隠された状態で見つかり、現場に残されていたタイヤ痕とも一致。ハンドル部分からは、銃の使用後に生じる硝煙反応が検出される。カバーの流通経路を調べたところ、九州地方を中心に展開するホームセンターで主に販売されていたものと判明した。

城陽市でのスーパーカブ窃盗と同時期、伏見区の外環状線沿いの飲食店で別のバイクが盗難されていた。飲食店の防犯カメラなどから福岡県の久留米ナンバーの軽乗用車に乗った2人組の男が窃盗していたことが判明する。捜査本部では男たちが逃走用のバイクを事前準備していたと見て調べを進め、軽乗用車は2016年に売却されていたところを発見されたが、事件につながる証拠は残されていなかった。しかし流通経路や使用状況などから福岡の暴力団関係者の存在が浮上する。

 

また有力な手掛かりとして、現場付近の死角となっている通路で「たばこの吸い殻」が2本採取されていた。燃焼時間を割り出したところ、待ち伏せしていた犯人のものと推測されていた。その後も直前に降った雨の状況などを踏まえて吸い殻の形状などを科学的に検証し、別の場所から持ち込まれた可能性をほぼ排除した。

2015年12月には吸い殻に付着していた唾液のDNA型鑑定により、件の暴力団関係者のものと特定された。2017年7月には乾燥大麻所持の容疑で男は逮捕。2018年6月にも男は福岡市内でゼネコン大手・大林組の車に銃弾を撃ち込んだ(犯行は2008年1月17日)として銃刀法違反等で逮捕され、2019年11月に福岡刑務所へ収監された。しかし王将事件への関与について男は否認を続けた。

たばこの吸い殻だけで事件を立証することはできない、その後も男の行動について慎重な裏付け調査が続けられ、事件から9年目、状況証拠を固めて今回の逮捕に漕ぎつけたとみられる。

 

餃子の王将について

王将フードサービスは「餃子の王将」をはじめ国内外約680店舗(当時)を展開する、大手外食チェーンである。

1967年に加藤朝雄さんにより京都・四条大宮で創業された。事件に遭った大東さんは69年から同店に勤め始めた。大東さんは加藤さんの義兄弟(大東さんの姉が加藤さんの妻)として共に店を支え、加藤さんたちは京都を中心に事業を拡大。情に厚く、仕事に厳しく、社員や出入り業者にも信頼された。

※「大阪王将」などをチェーン展開するイートアンドホールディングスとは経営業態が異なる。大阪王将は、オイルショックの影響により繊維業で失職した文野新造氏が親戚の加藤さんの店を手伝い、69年に暖簾分けするかたちで大阪・京橋に出店したことがはじまり。当初は京都と大阪で棲み分けられたが、その後、両社とも出店拡大を続けた結果、混同を避けるため商標を巡って法廷で争われる時期もあった。

77年、加藤さんはアサヒビールの営業本部に勤める望月邦彦氏と知り合う。経理畑も経験し、労組改革も担った人物で、加藤さんのよき相談役として経営に参画。請われてアサヒビールを退社し、副社長に就任した。それまで家業だった中華料理店を「企業」へと脱皮させたといわれる(アサヒは王将の筆頭株主でもあった)。

加藤さんは東京進出を実現するとともに、郊外へも出店計画を拡大していった。望月氏によると、自治体の許認可や水道工事の遅れなどが生じたときに、加藤さんが頼りにした会社経営者A氏がいた。彼に頼むとスムーズに事が進むとして相場よりも多額の報酬を加藤さんは支払っていたという。

89年2月、王将戎橋店で火災が発生し、亡くなった物件所有者遺族から賠償請求を受けた。最終的には97年、王将側が1億5000万円の支払いと戎橋店の土地・建物を9億円で買い取ることで和解となったが、このときの交渉役もA氏が担い、王将側は買収工作資金に1億円を支払っている。

93年に加藤さんが亡くなると、社長職を託された望月氏はA氏に葬儀委員を依頼。A氏は恩義ある加藤さんの御子息たちをわが子と思って世話していきたいと語っていたという。94年に加藤さんの長男潔さんが新社長に、二男欣吾さんが新専務に就任すると、A氏との間で不透明な不動産取引が急速に増えていった。

A氏が経営する企業は旧住専(住宅ローン専門会社)の総合住金から132億円の融資を受けていた。だが95年に旧住専の破綻処理によって資金源が断たれ、返済が必要となる。そこでA氏が頼ったのが王将だったのだという。実際、競売に掛けられたA氏のグループ会社が所有していた物件を王将が取得したこともあった。

この時期に王将がA氏の企業グループと交わした不動産取引の多くは取締役会で諮られることなく、創業家の独断専行で行われた。後の第三者委員会の報告によると、2005年までの10年間で総額約260億円、うち170億円が回収不能という不適正な取引が繰り返されていた。

不適正取引や多角化の失敗などもあり、創業家の2人は辞任となり、2000年に大東氏が4代目社長に就任した。01年3月期には有利子負債452億円を計上し、翌年には金融機関からの融資も受けられない経営危機に陥った。これまでA氏の介入を見てきた大東氏は03年7月、A氏の企業グループとの取引解消の方針を示し、不動産の売却、債権の放棄を進め、06年9月までに清算して難局をどうにか乗り切った。

東証一部上場を目指した際もA氏の企業グループとの不透明な関係が指摘を受け、12年には社内に『再発防止委員会』を設置し、不透明な取引状況を徹底的に究明。その結果、2013年11月13日付報告書で『(A氏について)接点を断たなければならない相手』と結論付けていた。報告書は外部公開されていなかったが、射殺事件発生の1か月ほど前である。

 

■蝕むもの

2016年1月、王将フードサービスは反社勢力との関係の有無などを調査するコーポレート・ガバナンスに関する第三者委員会を設置。3月29日、調査報告書を公表する。

それに先立つ1月20日福岡地検が福岡県のゴルフ場運営会社元社長の関係先を家宅捜索したことが報じられた。2015年4月、ゴルフクラブが臨時株主総会で2万株増資したとする虚偽の登記変更をした疑いである。過去には女子プロゴルフツアーの開催などもあった有名クラブで、餃子の王将の取引先で構成される「王将友の会」も91年から93年までに計6回の親睦会をそこで開催している。

ゴルフ場を手掛けたのは84年に京都市で「京都通信機建設工業」を設立した上杉昌也氏。後の「王将友の会」発起人である。上杉氏はバブル期にいわゆる地上げビジネスで成功をおさめ、1990年5月に福岡にゴルフクラブをオープンさせたが、直後にバブルが崩壊。会員預託金の返済に行き詰まり、2011年6月に民事再生法の適用を申請、関連事業と合わせて負債総額は428億円に上った。

1990年代半ば、バブル崩壊の上杉氏の資金難に支援をしていたのが王将創業家の加藤社長たちだった。上杉氏の異母兄は戦後、部落解放同盟に参加し中央執行委員長まで務めた故・上杉佐一郎氏である。最盛期には税金逃れなどで京都の財界人たちは多かれ少なかれ世話になったという顔役である。暴力・利権団体と扱われ喧伝されたとして全解連(全国部落解放運動連合会)、部落問題研究所を相手取り名誉棄損の裁判を起こしたことでも知られる。

2015年に出版された一ノ宮美成・グループK21の著書『京都の裏社会 山口組と王将社長射殺事件の聖域』(宝島社)では、不動産ブローカーの証言として王将のバックにはこの上杉佐一郎氏の存在があり、王将が全国展開に乗り出す際には数百億円とも言われる原資を引っ張ってきたとされる。

上杉佐一郎氏は1919年福岡県三井郡御原村出身で戦中は中国に出征。困窮にあえぐ中、部落解放の父と呼ばれた松本治一郎氏に見いだされ、部落解放運動に邁進し、82年に委員長就任。

王将の創業者加藤さんの出身は1924年福岡県飯塚市で生まれ、家は鮮魚店を営んでいたが家計を助けるため9歳から新聞配達などで働き始め、1941年、山西省で飲食店を営む長兄の許を訪れてはじめて本場の餃子や中華料理に出会った。帰国してアサヒビールが営むビアホールでコック見習いとなり、44年で徴兵。旧満州大連で終戦を迎え、47年に引き揚げ後は王将を成功させるまで職を転々とした。

報告書によれば77年頃に2人は知り合ったとされ、80年の福岡支店開設や85年に阪奈生駒店出店などの際に口利きをしてもらったとされる。ともに福岡出身で、生活の困窮や中国での戦争体験など共通項も多かった王将創業者と上杉氏との間には太いつながりがあったとみてよい。

実行犯と目される工藤会系幹部の男が逮捕された翌日の10月29日、福岡の上杉氏の自宅にも家宅捜索が入り、春日署で参考人聴取が行われた。

 

デイリー新潮では2016年に上杉氏に取材を行っている。

記事によると、2014年4月に京都府警の刑事が福岡の会社にいた上杉氏を訪ね、開口一番「九州のヤクザが動いとる。九州と言ったらあんたしかおらん」「王将の犯人はあんたしかおらんのや」と迫られたと上杉氏は回想する。射殺事件への関与については言うまでもなく否認している。

住専問題で窮した際に手を差し伸べてくれたのが当時王将の金庫番を担っていた専務・加藤欣吾さんだったと認めている。しかしその後、返済と運転資金の借り入れを繰り返すうちに双方の言い分に食い違いが生じたと説明。その後、潔さん欣吾さんが退陣し、王将が抱えていた莫大な損失を責任転嫁されたのだと主張した。

上杉氏は、2005年から大東社長の指揮で中国・大連など6店舗をオープンさせたが商標権の問題などもあって現地での経営責任者とトラブルとなり失敗に終わったことや、過去に創業者の妻(大東社長の姉。監査役員でもあった)が取引業者にエルメスのバッグをねだり、断ると取引を打ち切られて業者は飛び降り自殺をしたことなど、知っていることを警察に伝えたという。

 

上杉氏と射殺事件を直接結びつける証拠は明らかにされていない。だが大東社長がその因縁の関係を断ち切り、報告書をまとめていたことが、現状考えうる最も事件につながるトリガーなのではないかと考えられている。

 

■所感

工藤会系組幹部の男の逮捕後、会見に臨んだ京都府警・中野崇嗣刑事部長は「今回の容疑者は、実行犯という位置付けで考えている。これから捜査するが、共犯者、指示役がいることも視野に入れながら捜査していく」、「当然、原因や動機的なところを捜査するにあたって、大東社長の身分は関連してくるどのような経営実態があるのかその辺の捜査は進めている。関連性はまさにこれから。被疑者の取り調べを中心に捜査を進め、王将さんにかかわるところは今後の捜査で解明していきたい」と述べた。

 

10月31日に会見に臨んだ渡辺社長は、「容疑者逮捕の一報を受けて、本当に長かったな、と。まだ全容が解明されたわけじゃないんですが正直に言いましてほっとしている」と話した。

また過去の企業グループとの不適切な取引について質問が及ぶと、「第三者委員会を立ち上げるなど、社内調査を徹底してきました。その中で一部、不適切な取引先との関係があったので、2016年3月30日をもってすべて解消しました。いまは一切、この企業グループとの関係はないとはっきり申し上げます」と述べ、容疑者が工藤会系幹部だったことについては「私どもは反社会的勢力とのつながりは一切ないと確信しています」と強調。「無念の中で命を落とした大東前社長が納得できる解決を見たいです」と事件の真相解明を求めた。

 

読売新聞では捜査進展の背後に、かつて福岡地検小倉支部工藤会の「頂上作戦」を指揮した検事が、京都地検を経て大阪高検刑事部長に異動したことを挙げている。一方では長期化の原因について、一部には京都府警と福岡県警の不協和音があったとも囁かれる。工藤会と王将事件の実情を知る人物がポストに就かなければ、連携した捜査体制が実現しないという警察の体質も由々しき問題である。

公表されている状況証拠では容疑者の犯行を立証できるのかは不透明と言わざるを得ず、全面解決のための更なる糸口を探るために実行犯の「身柄の引き渡し」を求めたという見方が強い。工藤会について過激な団体として知られる一方で、内部は面倒見がよく結束力が強いとされ、簡単に口を割らないと言われている。50代半ば、残り刑期6年の容疑者にはたして口を割るメリットなどないに等しい。

かつては1200人規模と言われた大所帯も現在では構成員300名以下とみられ、その半数は逮捕されている。検挙や殲滅作戦も重要なことだが、締め付けが強くなった今日にあって出所した中高年たちが「元の組」の再興を目指すおそれも今後懸念される。社会からの締め出しと同時に、どういった社会復帰やケアをしていけるのかも試されている。

この事件は実行犯逮捕で終結などではない。はたして捜査のメスがどこまで切り込むことができるのかが本質である。一日でも早く本当の意味での「追悼餃子」を味わえる日が来ることを信じたい。

 

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、ご遺族の心の安寧を願います。

 

 

■参考

【深奥-王将社長射殺】㊤捜査3200日、1本の吸い殻が容疑者特定 - 産経ニュース

【深奥-王将社長射殺】㊦背景に200億の「代償」? 事件つなぐキーマンX - 産経ニュース

王将社長射殺事件と福岡センチュリーゴルフクラブの接点|NetIB-News

初動捜査につまずき逮捕まで9年、「迷宮入り」口ににする府警幹部も…[社長射殺]<下> : 読売新聞オンライン

「餃子の王将」社長射殺 工藤会の凄腕ヒットマン「戦慄の素顔」 | FRIDAYデジタル