いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

嘘つきな母親——ケイリー・アンソニー殺害事件

「子どもたちの聖地」として知られるフロリダ州オーランドで起きた悲劇。娘に何が起きたか知らないと嘆く母親は殺人の罪に問われ、「毒親」として全米に悪名が知れ渡ったが、深刻な刑罰を免れた。しかし今も尚、母親への疑惑は払拭されず、その法的措置に疑義が唱えられている。

 

事件の発覚

2008年7月15日、フロリダ州オーランド郡郊外のチカソー・オークス地区に夫と暮らすシンディ・アンソニーはその日、2度にわたってオーランド警察に通報した。ひとつは娘に車と金を盗まれたというもの。もうひとつは、まもなく3歳になる孫娘ケイリー・アンソニーが行方不明になっているという内容だった。

夫妻が最後にケイリーの姿を見たのは、6月16日の午後1時前だという。

「なぜ一か月前に連絡してこなかったのですか?」

幼児の行方不明は一刻を争う緊急事案である。911通報を受けた通信司令員は尋ねた。

「娘がケイリーを連れて家出して、どうにかして見つけようと連絡を試みていたのですが…」

シンディは、娘には再会できたがなぜか孫娘ケイリーの所在を明らかにしないと語る。そして娘が使った車両からは「死体のような腐敗臭」を感じ、万が一、殺害されたおそれがあるため通報したと打ち明ける。

 

報せを受けた郡の保安官代理が出向いて夫妻の話を聞いた。シンディによれば、7月になってSNSMySpace」を介して娘とようやく連絡がついたものの、再会を拒絶されていたという。直後の7月7日、娘は「与えられたものは奪われる可能性がある。誰もが嘘をつき、だれしもが死ぬ」と綴り、夫妻に不穏な想像を掻き立てた。

この日、夫妻は家の車がレッカー移動されているとの通知を受け、車両を引き取りに行った。娘が乗っていった車「ポンチャック・サンバード」はガス欠で駐車場に乗り捨てられていたという。その車内には遺骸の腐敗臭のような強烈な匂いが充満しており、祖父母に最悪の事態を直感させた。

車内で見つけた電話番号に連絡してみると、娘の友人とつながり、彼女はボーイフレンドの家にいるという。夫妻はボーイフレンドの家へと押しかけ、ケイリーの母親ケイシー・アンソニー(当時22歳)と一か月ぶりに再会した。しかし連れて行ったはずの幼児の姿はなく、当惑する夫妻の問い掛けにもまともに応じようとしなかった。車の異臭については「ボンネットからリスが潜り込んで死んでいた」と説明した。

保安官代理ユーリ・メリッチ氏がケイシーに直接事情を聴くと、「6月からユニバーサルスタジオで働いていたために実家を離れただけ」「娘は以前から世話になっている乳母の家に預けた」と証言した。二人は乳母のアパートを訪ねることになったが、彼女は住所がはっきりしないとして何箇所か移動を余儀なくされた。最後にたどり着いたアパートの部屋は中から応答がなかった。

するとケイシーは「実は一か月前、乳母に娘を誘拐された」と告白する。「家出中も自力で捜索していたが見つけられなかった」「ユニバーサルの同僚に捜索の手助けをしてもらった」と証言を変遷させたが、携帯電話を紛失して当の「同僚」の連絡先さえ分からないという。

メリッチ氏は彼女と別れた後、乳母のアパートについて再度調査させてみると、5か月も前から空き部屋で前の住人も乳母とは別人だったことが分かった。その後の調べでもケイシーが連れ去りを主張する「乳母ザニ―」(ゼナイダ・フェルナンデス・ゴンザレス)なる人物は実在しないことが濃厚となる。

2008年7月逮捕時のマグショット〔フロリダ州警察〕

翌7月16日、メリッチ氏はユニバーサルスタジオに確認に赴き、ケイシーが2006年4月以来就労していなかったことや同僚として挙げた人物も虚偽と判明した。虚偽証言による捜査妨害、一か月にわたって娘ケイリーの所在不明を通報しなかった育児義務放棄の容疑でケイシー・アンソニーは逮捕される。ケイリーの捜索に加え、殺害の可能性も視野に入れ、ケイシーの家出中の行動の裏取り捜査が開始された。

当局では幼児の早期発見を優先し、捜査協力すれば釈放条件を軽減するとケイシーに提案したが、彼女は「どこにいるか分からない」「娘を殺すはずがない」と嫌疑を否認し続け、審問では「あの子は死んでなんかいない」と生存を仄めかした。名目上は児童福祉法違反を理由に拘留されることになるが、当局は50万ドルもの高額な保釈金を設定して取り調べの時間が確保された。

 

母親への懐疑

ケイシー・アンソニーは高校中退後、19歳で出産したシングルマザーで、娘ケイリーの出生証明書に父親の記載はない。ケイシーの兄リー・アンソニーによれば、出産から約1年後に相手の男性は別の州で交通事故で死亡したという。両親はケイリーの父親を知らず、彼女が妊娠7か月になるまで懐妊にも気付いていなかったとしている。

母子はオーランド郊外の実家でケイシーの両親と同居していた。ケイシーはバー、クラブ、レストランなどで商品の宣伝・売り子として散発的に働き、複数のボーイフレンドがいた。アンソニー夫妻は孫育てを積極的に支援していたと見え、誕生日のプールパーティや失踪直前に曾祖父のお見舞いに訪れたときのものなど多くの写真や動画が公開されている。

ケイシーに犯罪歴はなく、友人たちは「良い母親だった」と口を揃え、児童福祉局から虐待やネグレクトの疑いを持たれることは一度もなかったが、アンソニー夫妻との親娘関係は円満なものとばかりは言えなかった。ケイシーの素行に問題があれば、シンディは「ケイリーの親権を剥奪する」と発言することさえあったとされ、事実、911通報は娘による孫娘の誘拐(ないし殺害)を告発するものだ。

ケイシーの虚言癖に関して、夫妻の育て方に問題があったのではないか、いわゆる愛情不足を指摘する声もあがった。その理論を推し進めると、ケイシーは自分の両親から愛情を注がれて育つわが子を妬ましく思った、あるいは両親への憎しみが転じて彼らが宝物のように扱う孫を奪ったという動機も成り立つのではないかと人々は議論した。

 

ケイシーは妊娠中の2005年1月にジェシー・グランド氏から求婚され、8月にケイリーを出産。12月末までに彼のプロポーズに応諾したが、翌年5月に破局していた。グランド氏によれば、彼女の愛情が自分から離れ、娘のケイリーに向いていったためだとしている。

2022年11月に公開されたドキュメンタリーで、ケイシーはパーティーでレイプされて妊娠したことを自ら告白し、生物学的な父親を明かさないつもりでケイリーを出産し、当時の交際相手ジェシー・グランドに父親であると信じ込ませたと主張している。しかし兄リーの証言も含めて、ケイリーの父親に関する話の真偽はどれも定かではない。

一部の人々は、ケイシーとの駆け落ち、復縁、あるいは復讐のために、彼女の交際遍歴こそ容疑者リストだと考えた。

元フィアンセのジェシー・グランド氏

ケイシーの身辺調査を進めると、6月に知り合ったボーイフレンドの大学生トニー・ラザロ氏や友人の部屋を泊まり歩き、ナイトクラブでパーティを楽しんでいたことやショッピングや飲み会に明け暮れていたことなどが明らかとなる。家出中だったケイシーと交流した友人たちはケイリーが行方不明とは知らされておらず、「乳母とビーチにいる」「乳母とシーワールドに行っている」等と聞かされており、「母から連絡があっても何も言わないで」と口止めさせられていた。更に出先で「Bella Vita(イタリア語で“良い人生”)」のタトゥーを入れていたことも判明する。親の監視と育児の手から離れた母親は自由と若さを謳歌していたのである。

ラザロ氏は「彼女はパーティを楽しみ、困っているようには見えなかった」と証言


父ジョージはガレージからガス缶2本が盗まれていたことや娘がトランク内の荷物を取り出すことを拒んでいたことについて不信感を打ち明けた。隣人は6月にケイシーがシャベルを借りに来たことを思い出し、その用途を不審に思った。

異臭車両は押収され、死体探知犬はトランクに人間の遺体が積載されていた痕跡を検知した。鑑識作業を経て、顕微鏡検査でケイリーとの類似性が見られた人毛サンプルはDNA型鑑定に回されたが、毛根や組織の核DNAは抽出できず人定には至らなかった。母系血統を示すミトコンドリアDNAは一致したが、家族の車両から血縁者の毛髪が出てきただけでは殺害の証拠と認められようはずもない。

子育てを負担に思った“シンママ”がわが子を手に掛けた。捜査当局も、大半のオブザーバーもそう信じて疑わなかった。だがすぐに口を割るだろうと信じて調べに当たった刑事たちも、容疑者が取調中に一度も泣いたり取り乱したりすることなく、常に「平静を保っていた」ことに驚きを示した。その態度や言動は「何の反省も懸念の色も示していなかった」という。

 

ケイシーの逮捕後、アンソニー夫妻は孫娘の捜索のためにただちに基金を立ち上げ、目撃情報や資金提供を募るなど市民社会により広いサポートを求めた。まん丸の瞳、ふっくらとした頬に手を当てる幼女の愛くるしい無垢な表情は人々の胸を打った。

「ケイリーは必ず生きています」

祖母シンディは、車内の異臭はデマだったと前言を撤回し、「若い母親が幼児を虐待した事実はなく、死亡したという証拠は何もありません」「私が彼女を愛してきた以上に、ケイシーは自分の子どもを愛していた」と訴え、ケイリーの3歳の誕生日8月9日までに再会できることを強く望んだ。

行方不明のニュースは、幼児への深い同情の念と母親への不信感を多くの人々に喚起した。そして祖父母との確執や彼らのどこか歪んだ生還への希望、母親の偽証は、アンソニー家に対する好奇や猜疑心をも膨らませ、大きな注目を集めることとなる。地元では捜索活動が広がり、周辺の湖沼などでの潜水捜索も行われたが、発見につながる手掛かりはすぐには浮上しなかった。

当初ネット上では、第三者の介入により幼児が生存している可能性もゼロとは言えないと希望的観測を語る者もいた。しかし殺害を確実視していた捜査班は、車内の空気サンプル鑑定を導入し、8月27日、トランクに人間の遺体があった可能性が極めて高いとの見解を公表した。

ある篤志家と保釈代理人が「ケイリー捜索の一助になれば」と母親の保釈手続きを買って出たが、彼女は代理人とのやりとりに決して乗り気ではなかったという。また渦中の母親の帰宅は地域に緊張関係をもたらすとして、アンソニー家周辺では反対アピールが湧き起こり、早期釈放は頓挫した。アンソニー夫妻が保証金を支払うことを約束し、電子追跡装置を付けた娘の身柄引き受けが実現したのは9月5日になってのことだった。

しかしケイシーはその後も態度を変えず、ケイリー捜索に大きな進展は見られないまま、10月14日、第一級殺人、加重児童虐待、加重過失致死、警察への虚偽申告による4件で大陪審に起訴される(ネグレクトはケイリーが存命の場合にのみ有効になるとして児童放置罪は取り下げられた)。判事は改めて保釈なしの拘留を命じた。28日の罪状認否を受け、ケイシーは全ての容疑について否認し、無実を訴えた。

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一方、通報から1か月と経たない8月11日のこと、公共施設の検針員ロイ・クロンク氏が小用を足そうと雑木林に立ち入ると、奥の窪地に不審な包みと人骨のようなものを目にする。騒動の渦中となっていたアンソニー家から数百メートルしか離れておらず、よもやと思い、保安官事務所に通報。だが事務所ではなく通報窓口に掛け直しを指示され、言われた通り掛けたところ応答が得られなかった。

クロンク氏は12日、13日にも通報し直して、ようやく副保安官が対応に赴いたが、包みを見かけた窪地の辺りは水没してしまって地表が見えない状況になっていた。リチャード・ケイン副保安官は水面を金属棒で揺らすなどして覗き込もうとしたが「何も見えない」と言ってそれ以上の捜索を諦め、現場を離れた。

心残りのあったクロンク氏はその後も現場を訪れ、4か月後の12月11日、人骨の入ったゴミ袋を再び発見。頭蓋骨や髪に付着したダクトテープなどが回収され、さらに山林では散逸した骨が複数発見された。12月19日、郡監察医ヤン・ガラバリアらのDNA型検査によって遺体はケイリーのものと確認された。すでに腐敗が進行しており、死因の特定には至らなかった。

下のストリートビューは発見現場付近に市民が設置したモニュメント。私有地だが現在も雑木林のままとなっている。

 

第一発見者クロンク氏は、過去に元交際相手の誘拐容疑で告発されたこと(起訴には至らず)、また妻と離婚して養育費約1万ドルの未払いがあったことなどから、一部には事件への関与を疑う憶測記事が流れた。2009年1月にABC「グッドモーニングアメリカ」への出演を承諾したクロンク氏は、8月の通報に対して保安当局は責任ある捜査対応をしなかったと批判。

事件関与の噂について「名乗り出た唯一の理由は、自分には隠し立てすることが何もないからだ」と真っ向から反論した。彼の弁護士も「アンソニー事件によって彼の生活も泥沼に引きずり込まれた」と加勢し、誹謗中傷したゴシップ誌に損害賠償を求めると発表した。尚、クロンク氏が犯行に関わった証拠はその後も出ていない。

保安官事務所は、森林が湿地帯になっていたため、現場は立ち入りが困難な状態だったと会見で釈明し、担当したケイン副保安官への内部調査を行うこととした。しかし当局が市民の怒りの矛先をすでに逮捕されていた若い母親に向けるように誘導していることは明らかだった。

「みなさん、肝心なのは、こどもがこんな目に遭うべきではなかったということだ」

 

2009年4月、検察当局は前例を覆して、死刑求刑の見通しを明らかにした。

メディアは家族や周囲の人間たちを次々に俎上に上げて少女の不幸な死をよりスキャンダラスなニュースへと変貌させ、市民の社会正義と野次馬根性は、FacebookTwitterなどで多くの関連報道をバイラルしながら顰蹙や好奇を過熱させていった。母親はなぜ嘘を重ねたのか、通報もせず遊興に耽っていた31日もの間、何を思って行動していたのか、人々はその説明を求めた。

テレビジャーナリストの多くがケイシーを悪魔のように扱い、視聴率競争は激化させていき、その注目度や裁判の経過からしばしばO.J.シンプソン事件と対比された。その後、タイム誌は、その後の裁判に至る人々の反応がダイレクトに可視化された事件の経過をたどり、「世紀のソーシャルメディア裁判」と評することとなる。

 

裁判とその後

2011年5月24日、オーランド郡裁判所(ベルビン・ペリー裁判長)で審理が開始され、検察側・弁護側双方の冒頭陳述が行われた。

検察側は、被告の家出中の遊興行動から見て、殺害の動機は育児負担だったと説明。自宅のPCに「ネックブレイキング」など殺害に関連する検索履歴があったとして、以前より娘の殺害計画があったとした。車両や遺体の髪の毛の鑑定、08年3月に「クロロホルム」を検索していた事実に基づいて、ケイリーを無力化するためクロロホルムが用いられたと主張した。昏睡させた女児をダクトテープで窒息状態に至らしめたかトランク内に放置して殺害し、後日、被告人が近所の雑木林に遺棄したものと陳述した。

被告の弁護人ホセ・バエズ氏は、「母親であればわが子の行方不明を30日も放置できるはずがない、正気の沙汰とは言えないだろう。何かがおかしい。だがその答えは簡単だ」「そもそも行方不明などではなく、6月16日にプールで溺水して死亡していた」と自宅での事故死を主張する。15日、ケイリーは祖父母と自宅のプールで遊んで過ごし、その後、幼児が一人でプールに入らないようにするガード用ハシゴの取り外しを怠ったことが事の発端だとした。

翌日、小さな死体を胸に抱いた祖父ジョージは「お前が何をしでかしたか見てみろ!母親(シンディ)はお前を絶対に許さないぞ!ネグレクトの罪で刑務所に行き、お前の残りの人生は狂わされることになるんだ!」とケイシーを叱責し、事故死の隠蔽を主導したとする。母親としてその行動は過ちではあったが、被告は娘の死をひた隠しにしてこれまで何事もなかったかのように振る舞ってきたという。

彼女のバックグラウンド、機能不全となった家族関係として、「ケイシーへの不適切な接触は8歳から始まった。彼女は父親の性的虐待の被害者だった」と述べ、性虐待を隠して学校生活を過ごしてきた彼女はそうした振る舞いには慣れていたと説明し、「偽証はすなわち有罪の証拠とはならない」と主張した。また兄からも強姦を受けており、ケイリーの父親ではないかと親子鑑定を求めたこともあったとしている。

祖父ジョージは元警官で、罪状認識は当然のこと、捜査手順も念頭にあった。ケイリーの遺体にダクトテープを“あえて”残したのは、ケイシーによる単独犯行と見せかけるため、自分は係わりがないように見せかける偽装だったと指摘。死体の遺棄はクロンク氏によるものと推定。警察は捜査失敗の非難から免れるため、「平凡な溺水事故」ではなく「母親による子殺し」であるかのようにマスコミの熱狂を煽った責任があると批判した。

娘を亡くし、被告人となったケイシー・アンソニーは素っ気ない白シャツ姿で顔をこわばらせ、冒頭陳述の最中はずっと泣いていた。彼女の一挙手一投足に耳目が注がれ、6週に及ぶ公判の間に、ピンク色やレース、フリル付きブラウスを着こなすようになり、ときに目を丸くさせたり表情をほころばせたりするように表情にも変化が見られた。さらに専門家は、椅子を引いて周囲の人よりも体つきを小さく見せていた点に着目し、「人殺しなど出来そうもない、か弱い女性」を演出する見え透いた法廷戦術だと喝破した。

祖母と孫娘

 

シンディはプールのハシゴは外していて孫娘一人で侵入できる状態ではなかったと述べ、ジョージはケイシーへの性的虐待の疑惑や事故死隠蔽の主導など弁護側の主張について全面的に否認した。シンディは自らの911通報時の録音テープを聞いて涙し、車内に孫娘が愛玩していた赤ちゃん人形を見つけたときのことを証言すると嗚咽が止まらず一時休廷を求めた。幼女を何より可愛がった老夫婦は、ともすれば自分たちの娘を死刑に追い詰めるかもしれない微妙な立場にあった。

 

検察側は「死因不明の殺人」を立証するため、車内に遺体があったか否かを重要な争点として、37名もの科学者・研究者を証人に並べた。

最初に腐敗臭を認識したレッカー業務に当たった男性は、過去にも死骸を積んだ放置車に遭遇したことがあり、そのときと同じ「記憶から消せない臭気だった」と証言した。またジョージは刑事、シンディは看護士であったことからも「人間の死体の匂いを知っていた」とも言える。

オークリッジ国立研究所の法医学人類学者アーパド・バスは空気中に含まれるガスや化学物質の鑑定により「クロロホルムの顕著な含有が認められた」と指摘し、「トランクに人間の死体が存在した」と結論付けた。だが臭気鑑定はバス教授独自のデータベースに依存しており学術的に認められておらず、法的根拠とはいえないものであった。弁護人はその耳慣れない新鑑定を「ジャンク・サイエンス」と断じて斥けた。

検察側はウェブ検索履歴と併せて「殺害にクロロホルムの使用があった」根拠とした。しかしケイシーがクロロホルムやその材料を購入したり、所持していた証拠はなく、彼女の恋人が遊びに来ていた際に検索した可能性もありえた。ダクトテープについても同じことで、「事故ではなく殺人が起きた」証拠にはなりうるが、彼女が購入した、所持していた、犯行に用いたという証拠は皆無であった。弁護側は、検察側の主張を「推測の強制であり、憶測にすぎない」と唾棄した。

「先週はクロロホルム、今週はダクトテープと検察は有罪にするために次々に手を変える。だが母親が無実である可能性、事故死という合理的にあり得る仮説に対する反証が全く為されていない」

 

弁護側は、証人のひとりとしてリバー・クルーズことクリスタル・ホロウェイの出廷を求めた。彼女はボランティアたちが懸命の捜索活動に奔走している間、ジョージからアプローチを受けて親密な関係になったと雑誌に暴露していた人物である。

ジョージから事件について聞かされたことはあるかとの問いに対し、まだ行方不明とされている期間に「亡くなっていると聞かされた」とホロウェイ氏は言い、ジョージから「雪だるま式に制御不能になった事故だった」ことを打ち明けられたと証言した。

さらに公判前、ジョージが薬物の過剰摂取とアルコールの併用により自殺未遂を図ったことが法廷で暴露された。攻撃対象とされたジョージは困惑しながらも不倫関係を否認。しかしやっていないことを証明する手立てなど存在しない。弁護側としては、人々にジョージへの不信感を植え付ける戦略だったにちがいない。彼に「娘への性的虐待」と「ボランティア女性に対する不貞行為」「自殺未遂」を印象付けることで、言外に「孫娘の死因」に彼が深く関わっていることを想起させようとしていた。

 

7月5日、12名の陪審員は被告人が第一級殺人、加重児童虐待、加重過失致死について、10対2で最終的に無罪であるとの評決を下した。法執行機関に対して虚偽の情報を提供した4件につき有罪判決とし、7日の量刑審理で懲役4年と罰金4,000ドルが科せられることが決した。

「ケイリーに正義を!ケイリーに正義を!」

静寂に包まれた法廷のはるか上空からは取材ヘリの飛び交う音が響き、屋外からは周囲を取り囲む極刑を信じて疑わなかった500人余の群衆から抗議アピールが押し寄せ、審理の行方を見守っていた数百万の国民にも怒りの声は拡散した。タイム誌は州検察はその物証の乏しさから「事件を根拠に事件を組み立てた」と批判し、多くの専門家は「提示された状況証拠のみでは良識ある人々に死刑を宣告することはできない」「司法制度の欠陥が導いた結果である」と結論付けた。

世論調査ではアメリカ人の約3分の2の割合で、「間違いなく」「おそらく」ケイシーが娘を殺害したと信じているとの結果が出た。また「間違いなく」と回答した男女比は、女性28%男性11%と二倍以上の開きがあった。虐待事案は母性の理想に対する脅威であると捉えられ、感情的な反応が大きかった。

州検事は訴追を断念し、「リトル・ケイリーの遺骨回収の遅れがかなりの不利をもたらした」と悔しさを滲ませた。検察側は「こどもができたら親にとって宝になる」と国民感情に訴えかけ、その親の責任を問う法廷戦術を採った。罪状が過失致死や第二級殺人であったならば、あるいは育児義務違反を基調とした審理がより深まっていれば、死刑でなくとも重罰に至ったであろうとする見方もある。

しかし陪審員や国民世論は、先んじてメディアによって断罪された被告人が実際のところシロなのかクロなのかの答えを求めていた。検察が揺るぎない証拠を提示して犯行の一部始終を解き明かすことを期待していた。ペリー裁判長は陪審員の公表を10月まで控えたが、一部の陪審員はメディアに対し「どのような犯罪があったのか証明されなければ、いかなる罰を下すべきか判断できない」と述べ、別の陪審員は「感情に全面的に委ねれば」ケイシーへの有罪もあり得たとしたが「提示された証拠に基づいて」判断したかったと述べた。数々の情況証拠は「嘘つきな母親」への不信感を強める役割を果たしたが、殺害の合理的な説明というには「パズルの重大なピースが欠けていた」。

後にペリー裁判長は、陪審員の中には検察側の示す動機の弱さを指摘する声もあったと振り返った。また心理学者は国民の関心の高さは犯行動機の不確実性に関係するとの見解を述べた。法医学精神科医は、「メディアによる断罪的な報道が国民の報復感情を過熱させた」「可哀そうな小さな愛らしい子どもが、報復欲求に駆られた暴徒たちのリンチに遭った」と事件を総括し、母親ケイシーについて「殺害云々は別として、彼女も明らかに多くの精神的問題を抱えている」と付け加えた。

 

2011年7月17日、ケイシー釈放。度重なる脅迫のため、矯正局は生命に危険が及ぶと判断し、彼女の仮釈放者データは公表されなかった。

8月11日、フロリダ州児童家族局は、ケイシーに娘の死の責任があったとする報告書を発表。「加害者とされる人物の行動又は不行動が、最終的には悲劇的な子どもの早逝につながったか、或いは死亡の一因になった」と述べている。

州当局は失踪事件の捜査費用51万6,000ドルの償還をケイシーに求めた。ペリー裁判長は、ケイシーに総額21万7,000ドル以上の支払い義務を命じた。

ケイシーは虚偽供述での4件の有罪判決について、ミランダ警告(拘留取調べにおける黙秘権の通知)が為されていなかった不当取り調べに当たるとして控訴。控訴裁判所は、各供述は二度の事情聴取で行われたものであり、「ふたつの犯罪行為」と見なすべきと判断。2013年1月25日、虚偽の情報提供2件について有罪判決を破棄した。

同日、ケイシーは連邦破産法第7章の適用を申請して約80万ドルの負債を放棄した。

 

本件の反応として、子どもの死亡または失踪を法執行機関に通知する保護者への義務を課す「ケイリー法」がフロリダ、オクラホマ、ニューヨーク、ウエスバージニア州で制定された。子どもの安全を守るうえで有用にも思える法制度だが、保護者による過剰遵守や虚偽通報につながり、厳格なあまり弊害や逆効果をもたらすとして批判的な声も聞かれる。たとえば単なる迷子や不可解な事故を原因とした過失死であっても、保護者への社会的責任やメディアの追及、衆人からの疑いの目が無用にエスカレートするおそれがある。

 

テレビからSNSYouTubeへとメディアの拡張・転換期にあって多くの人に消費され尽くした事件の結末は、「犯人なき事件」という抜け殻だけが残された。ケイシーは今世紀最も嫌われた「母親」として記憶され、炎上騒動、社会的報復の端緒ともいえる事件であった。母親や祖父母がその後、どうやって暮らしを立て直していくのかは神のみぞ知るところである。

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

ケイリーの検視報告書〔フロリダ中央大学〕

 

30年間名前を失った女——エルドラドのジェーン・ドゥ

英語圏では身元不明者や匿名の人物を表す場合、日本で言うところの「名無しの権兵衛」として、男性に「John Doe」、女性に「Jane Doe」の仮称が用いられる。

2022年5月、米・アーカンソー州捜査当局は長年にわたる捜査の結果、エルドラドで起きたジェーン・ドゥ殺害事件の被害者の身元が特定されたことを報告した。若くして命を絶たれ、実に30年以上に渡って本当の名前を失くしていた女性の数奇な運命は人々の関心を集めた。

 

事件の発生

1991年7月10日、アーカンソー州の南端、ルイジアナとの州境に位置する、ユニオン郡エルドラドのモーテル「ホワイトホール」121号室で若い白人女性の遺体が発見された。

現場では銃声が聞かれ、銃を手にした男が車で走り去る様子が目撃されていた。警察が駆けつけると、女性は床に倒れた状態ですでに死亡しており、頭部には銃創が確認された。モーテルでは同行していた男と争っていたとの情報も得られ、エルドラド捜査当局はただちに殺人事件と判断し、逃げた男の追跡および捜査を開始した。

 

モーテルは麻薬の密売や売春といった犯罪の根城とされ、出入り客たちにも悪評が付きまとい、逃走した男の素性もすぐに浮かび上がった。界隈で売春婦のポン引きなどを生業にし通称“アイス”と呼ばれていたジェームズ・ロイ・マカルフィン(当時26歳)で、殺された女性と交際関係があった。男は彼女をセックスワーカーとして従事させていたとされ、痴情のもつれ、売春絡みの金銭トラブルなど事件の発端はいくらでも想像がついた。

以前から彼女が交際相手とトラブルを抱えていたことは、医療関係者や警察関係者の耳にも入っていた。彼女は「家庭内暴力」により度々救急搬送されており、その支払いに困って、5月には不正小切手を使用した罪で警察の厄介にもなっていた。携わった警官は、暴力男と離れてこれまでの暮らしを変えるようにアドバイスしていたという。

女性はエルドラド周辺で「メルセデス」という源氏名で通っており、病院では「ケリー・カー」の名義で訪れていた。警察などで記名を要した際には「シェリル・アン・ウィック」という名を使用していたが、綴りには余計な「s」が付けられており、これも後に偽名と判明する。

 

ほどなくマカルフィンは逮捕され、取り調べが開始された。女性を部屋に呼び、暴力を振るった事実は認めたが、殺害については徹底して否認した。二人の関係を問われると、死んだ女は先月部屋から追い出した「元・恋人」だと訂正を求めた。

事実、女性は6月からクラブ「プライムタイム」の同僚アンドレアさんのアパートに転がり込んでいた。彼女も「メルセデス」という源氏名しか聞かされていなかったが、事情を抱えた者同士に余計な詮索は必要なかった。女性はアンドレアさんに「昔から踊り子をしていた」と自己紹介し、「母親との折り合いが悪く、二児を預けたままにしている」と身の上を明かしていた。マカルフィンの元を離れた彼女は殺害当時には新たな交際相手もおり、「メルセデス」とは別の人生を歩み出そうとしていたとされる。

7月、マカルフィンはアンドレアさんの家に電話を掛け、「元恋人」を脅迫したこともあった。だがその後の連絡で、ホワイトホール・モーテルで滞在している男の部屋で二人は会う約束をした。アンドレアさんによれば、男が金をくれる約束をしたので、その金で子どもたちにプレゼントを贈るつもりだと彼女は話していたという。

事件当日、近くの部屋に滞在していたメノン氏は貸していたカセットテープの返却を求めて121号室のマカルフィンの元を訪ねた。部屋から男女の言い争う声が聞かれ、ドアを開けた男に様子を尋ねると、中にいた女性は「話し合う必要があるの」と口論の最中であることを示唆した。すぐにその場を辞したメノン氏だったが、彼女が部屋を出て駐車場に向かおうとすると、マカルフィンが後を追い、「部屋に戻れ、ビッチ」と引きずり戻す様子も目にしていた。その後も二人は出たり入ったりしていたようだったが、銃声が聞こえてから121号室には近づけなかったと振り返った。

 

ジェーン・ドゥの誕生

逮捕されたマカルフィンは「“殺人”なんて起きていない」「あいつは俺の銃を掴んで、自殺してやると脅しをかけてきやがったんだ」「前にも似たようなことがあったもんで、俺はてっきりあいつがまたふざけてやがるんだと思った」「俺が“二人のために…”と言いかけた瞬間、銃声が鳴ったんだ」と当時の状況を説明し、実際には女性の自殺であると主張した。

交際時のマカルフィンと被害者

女性の遺体はユニオン郡検視局に運ばれ、銃撃前に首の骨が折られていたことも判明。

女性の身体的特徴として、次のことが報告された。

身長およそ5'10"(177.8センチ)

体重約162ポンド(73.4キロ)

白人女性

推定年齢は18~30歳

碧眼

長さ9インチ(約23センチ)のブルネット(栗色)ヘアで、過去につや消しブロンド(金髪)にしていた痕跡もあった。

そばかす

左耳に2つ、右耳に3つのピアス

左胸の下にアザ

右目と左手首には過去に暴力を受けてできた古傷が確認された。

着用品は、黒いベルト付きのケミカルウォッシュのジーンズ、白色Tシャツ。

白色の足首丈ソックスに白色テニスシューズを履いており、右腕に金色のチェーンブレスレット、2本のヘアゴム(ポニーテールホルダー)を巻いていた。

 

男の部屋に残されていた遺留品の中から女性の社会保障IDカードが見つかり、氏名「シェリル・アン・ウィック」、生年月日「1970年11月13日」の記載があった。照会してみると女性は「ミネソタ州ミネアポリス」に住民登録されていると分かり、捜査員が電話で家族に殺害の事実を伝えた。家族は警察からの報せにショックを受け、隣にいた妹は悲しみのあまり気が動転して、離れて暮らす姉の自宅に電話を掛けた。

すると誰も出るはずのない電話がなぜかつながり、驚いた妹は今しがた警察から姉の死亡報告を受けたことを伝えると、電話口のシェリルさんは言った。

「No, I’m fine!(全然元気だよ)」

シェリルさんはミネアポリスのクラブ「パーティタイム」でダンサーとして働いており、普段から財布に身分証の類を全て入れて持ち歩いていた。連絡を受けて慌てて財布を確認し、自分のIDカードが紛失していることにはじめて気づいたという。シェリルさんと家族は警察の調べに対しても快く協力したが、彼女は亡くなった女性と面識はなく、事件にも全く心当たりがなかった。

警察も思わぬ事態に唖然としたが、シェリルさんがステージに出ている間は不特定多数の人間が控室の財布に触れることができたと判断し、カードは盗品偽造と確認された。女性自ら盗み出したのか、あるいは別の誰かが盗んだIDを彼女に転売したものかは分からなかった。すぐに終結するかに思われた捜査は「被害者の身元不明」により、発生から30年以上の長期化を強いられることとなった。

マカルフィンは、テキサス州ダラスで被害者女性と出会い、交際するようになったと供述。彼女の遺留品には、南部テキサスの音楽スタジオのチラシや東部バージニアの海鮮レストランチェーン店のメニュー表などが含まれており、どこからか流れ着いた「余所者」と思われたが、本名や出自を明確に示すものはなかった。男は「かつてメルセデスの母親と妹にあったことがある」と話し、彼らはフロリダに住んでいるとまで明かしたが、元恋人の名前の提供を頑なに拒んでいた。

「彼女は素性が知れることを恐れて偽りの人生を選んだ」とマカルフィンは述べ、「本当の名前や出自を知っているのは自分だけだ」と自負した。

捜査員によれば、警察で被害者の身元確認が取れていないことをマカルフィンは取り調べ段階で察して、司法取引や優遇措置を求める“交換条件”、いわば交渉の道具として彼女の詳細を明かそうとしなかったとみられる。ポン引き連中の例に漏れず、男は少年期から窃盗や暴行などで拘置所に何度も出入りし、警察に対する「振る舞い」を学習していた。だが警察側もそうした男の性質を見抜いており、「彼女のすべてを知っている」という男の証言を鵜呑みにはせず“交渉”は成立しなかった。

偽造IDに使用された証明写真〔El Dorado PD]

周辺捜査によって、女性に関するいくつかの行動履歴が浮上していた。女性は1990年12月31日、テキサス州ダラスのモーテルで売春容疑で逮捕されており、これは当時の調べに対しても「シェリル・アン・ウィック」名義を使っていたため浮上したものだ。居住地には売春に使われるモーテルの番地が記載されており、指紋照合等によって亡くなった女性と一致することが確認されている。

91年1月にもダラスで逮捕。翌2月はテキサス州ガーランドのモーテルで公然わいせつ容疑で逮捕。その後、マカルフィンと共にルイジアナ州シュリーブポートに滞在して、アーカンソーの州都リトルロックへと移住してきた。トップレス・ダンサーとして働きながら、エルドラド周辺でも商売をしていたとみられる。

91年3月にはエルドラドの救世軍(国際支援のため募金、バザー、音楽活動など多岐に展開するプロテスタント系布教団体)のボランティア活動に参加しており、以前は「カディスストリート1100番地に住んでいた」と話していた。該当する住所にはホームレスシェルターがあったがたどり着いた頃には記録は廃棄され、施設職員も入れ替わっていた。彼女は子どもが社会福祉施設に連れ去られてしまったが、偽名を使っていたため子どもを取り返せなかった、と明かしていた。

僅かな足どりを辿って話を聞くと、女性は周囲の人間に「フロリダ出身である」と話しており、他にも「シャロン・ワイリー」などいくつかの偽名や源氏名を使ってストリップダンサーやセックスワーカーをしていたことが分かった。いくつかの身の上話も報告されはしたが、「父親が元マフィア」で「証人保護プログラム(FBIが口止めやお礼参りから生命の安全を守る仕組み)に参加している」など、裏付けが取れるような話はほとんどなく、どの線を辿っていっても本当の彼女の来歴には行きつかなかった。

マカルフィンは彼女を家族にも紹介していたらしい。後年ハフィントンポスト誌の取材に応じたマカルフィンの姪は、幼い頃に会ったその女性のことを「シェリルおばちゃん」と呼んで慕っていたと語る。姪は「彼女は本当に性根の優しい人でだれにも迷惑を掛けませんでした。どうも何かから逃げているような、ちょっと臆病な面がありましたから。また、切りっぱなしのショートパンツにタンクトップ姿だったせいで、ストリッパーのように思ったことを覚えています」「いつも、いつだって札束ほどのお金を持っていました」と証言している。

 

1991年逮捕時のマグショット [el dorado PD] 

女性の遺留品には日記の一部などもあったが自身のルーツに係る記載は出てこなかった。登場する人物からの解明も試みられ、90年8月に一緒にいたとされる「ゲイル」「ティロン」と呼ばれる人物を追ったがいずれも消息不明だった。そんななか注目されたのは、一冊の聖書だった。ウィリー・ジェームス・ストラウド、シャロン・イベット・ストラウド、ラドンナ・エレイン・ストラウドら8人の名前が記されていたからだ。

追跡調査を進めていくと「ストラウド家」はテキサス州アービングに実在すると分かり、彼らはアフリカ系アメリカ人の家族で女性の血縁ではなかった。見つかった聖書は代々一家が家宝としてきたもので、女性は1990年半ばまでストラウド家に身を寄せていたためそのとき持ち出されたのではないかという。

しかし彼女は当時から「シェリル・アン・ウィック」を自称しており、ストラウド家の人々は「ミネアポリスからアービングに移ってきたルイジアナ出身の家出少女」という以上のことは何も知らされておらず、捜査はふりだしに戻った。

 

はたして被害者不詳の「ジェーン・ドゥ」殺害事件として公判に掛けられた被告人は殺害を否認したものの、虐待を裏付ける診察履歴、発砲前の口論や暴行が目撃されていたこととそれら事実を認めたこと、銃を持ってモーテルから逃走したことが決定的な情況証拠とされ、懲役15年の判決が下され、13年を獄中で過ごした。マカルフィンは2011年にもアーカンソー州で第2級家庭内暴行罪で逮捕、起訴された。

 

「正体」に関する議論

徹底した秘密主義、非公開原則が敷かれる日本の警察組織と違い、アメリカでは刑事捜査で得られた証拠物は「住民/国民の知る権利」に基づいて多くの情報が公開される。そのため未解決事件や行方不明者、行旅死亡人などについて推理探究を深める「安楽椅子探偵」たちがネット上のフォーラムで古今東西の事件を日夜議論している。犯人への刑罰は確定し、事件についてほとんどだれもマカルフィンの犯行を疑ってはいないが、被害者ジェーン・ドゥの「正体」は好事家たちの議論の対象となった。

刑期を終えたマカルフィンはその後もいくつかの犯罪で「出たり入ったり」を繰り返し、取材者に対して「彼女の身の上は“ミステリー”なんかじゃないぜ」と口にし、「真相が分かれば更にいくつかの未解決事件も解決する」「4000ドル支払えば本にしてもいい」と語る。

たしかに彼はまだ公にしていない彼女に関する情報を大なり小なり握っていないとも限らない。だが警察の見立て通り、男は大した情報がないにも関わらず、よい“交換条件”を求めているだけのようにも思える。一方で、彼女の身元を明かすことが男の余罪(たとえば誘拐など)を引き出すことにつながるため、証言できないのではないかといった見方もできた。前科にまみれ、口先で女を騙し、暴力でヒモ暮らしを送ってきた元ポン引き男の証言は信用に値するものだろうか。

マカルフィンの暴露によれば、彼女は16歳頃から路上でセックスワーカーとして働き、ダラスでは別の男の下で強制させられていたが、メキシコへの人身売買に掛けられそうになって二人で逃げ出したとしている。ダラスでの売春関係者には、行方不明者として知られる別の少女たちも含まれていたと言い、彼らは監禁生活を強制され、出産で命を落としたものもあったと語っている。

遺留品から見つかった年代不詳の写真 [El Dorado PD]

1988年11月にオクラホマで起きたドウェイン・マッコーケンデールさん殺しとも関連が疑われた。高速道路の休憩所の電話ボックス脇でトラック運転手がショットガンで射殺された事件である。当時、彼は普段通りデトロイトからオクラホマシティの工場へと自動車部品を配送する道中で、家族に電話を掛けようとしていたと見え、周囲にはコインが散らばっていた。着衣が荒らされ、遺留品からカギと財布が奪われていた。

目撃者はなく情報は乏しかったが、全米のトラック関連誌に情報提供を求める記事を掲載すると、当時、茶色いフォード・ピント車が無理な割り込みや他のトラック運転手と無線で口論していたとの情報が入る。また同じハイウェイを使用していた別の運転手は、事件前日に現場から13マイル離れた休憩所で昼食をとっていると妙にみすぼらしい女性が声をかけてきたという。その若い白人女性はひどく震えており、運転手は不可解に感じた。道迷いかと思い、運転手が地図に手を伸ばした瞬間、女はトラックの窓から突如上半身を突っ込んできた。被害はなかったが、女は駆け出して、近くに停めてあった茶色のピント車で走り去ったという。

メルセデス」は警察から追われている身であると周囲に漏らしたこともあり、いくつかの事件で逃走犯ないし関係者ではないかとリストアップされることもあった。事件を担当したキャシー・フィリップス刑事によれば、「ケリー・リー・カー」「24歳」を名乗る人物からFBIに投書があり、銀行強盗容疑でバージニア州東海岸で指名手配を受けているとの記述があったという。エルドラドのジェーン・ドゥも「ケリー・カー」を名乗っていたが、最終的に投書との関連が裏付けられることはなかった。

 

売春婦の殺害は比較的ありふれた、忘れ去られやすい事件トピックではあったが、遺留品の写真や歯の治療痕から、多くの人はもともと彼女は生まれ育ちがよかったとのインスピレーションを受けたようだ。ジェーン・ドゥの謎に引き付けられた人々は、全国の行方不明者リストや犯罪リストから同年代の白人女性が彼女と結びつくのではないかと電子フォーラム上で各地の情報や古い事件が掘り起こされた。

いずれの場合も、ジェーン・ドゥの大柄な身長や大きな鼻、孤を描いた眉といった特徴によって不一致と思われたが、行方不明少女のその後の発育の可能性、ジェーン・ドゥの写真の不鮮明さや厚化粧などにより人々の憶測に幅をもたせた。あるテキサス出身者は、家出したまま消息を絶った知人の娘ではないかと心配し、ある元トラック運転手は、自分もハイウェイで休憩中にそれらしき女性に声を掛けられたことがあるとコメントを寄せた。

国内の行方不明者に一致するデータが存在しないのであれば外国人ではないかとする仮説もあり、ヨーロッパからの人身売買説を補強した。またある者は、遺体にあった胸の下の古傷は豊胸手術の痕跡ではないかとして、詳しい術式を解説して見せた。「メルセデス」の源氏名や「Kerry Carr」の偽名などから、彼女の本名にも「車」を意味する名称、たとえば「Ford」などが含まれるのではないか、あるいはマカルフィンのタトゥーに刻まれた「BGD」「Jams」「Elvira」といった文字に着目した推理を披露する者もいた。当時のミス・コンテスト受賞者の中から彼女の偽名を見つけて関連を疑ったり、なかには「彼女は映画『ジョーズ』の序盤で悲劇に見舞われていたように思う」といった冗談なのか本気なのか分からないカキコミも散見される。

彼らの議論が実際に捜査の後押しになったかどうかは疑わしいが、素性の解明が被害者や家族のためになると信念をもつ人々が事件風化のささやかな防波堤となっていた。ときに新たな報道や情報提供のうごきにつながったことも確かである。

 

捜査の終結

2019年1月、捜査班はDNA Doeプロジェクトに被害者のDNA鑑定を登録。遺伝系図学者は、アラバマ州に住むクリスティーナ・ティルフォード氏との関連を突き止め、コンタクトを取った。彼女は家系や祖先を辿るために、2018年7月に「GED match」という自身のDNA型から遺伝系図探索を行う活動に登録したという。ティルフォード氏の家族関係に行方不明者はなく、それまでジェーン・ドゥのことを知らなかったが、顔相などに家族関係との類似性を感じ取った。

2022年5月24日、法医学者ヨランダ・マクラリー氏は『closingthecase.com』でジェーン・ドゥの素性が解明されたことを報告した。

closingthecase.com

 

彼女の名前は「ケリー」、プライバシー保護の観点からファミリーネームは伏せられた。1968年バージニア州で生まれたが、生物学上の父親は特定されていない。

母親は裕福な家の出で、生活費は夫に頼っていた。1972年に離婚が成立すると、母親はすぐに別の男性と再婚。相手の男性は虐待的で、7年の結婚生活を経て離婚。母親はまた別の男性と再婚するが、間もない1979年12月、ケリーが11歳のときに自殺した。

その後、母親はケリーと幼い妹を連れてバージニアビーチの叔母を頼った。ケリーは高校を中退して売店で働き、母親に代わって家計を助けた。閉店後、翌朝オーナーに届けるために売り上げや品物を家に持ち帰ることがあったが、しばしば母親はその金に手を付けて困らせた。叔母に見放された母娘たちは転居を強いられ、85年頃(ケリー16‐17歳)にはフロリダで暮らしていた。

母親はボーイフレンドをつくったが、いつしかコカイン中毒となり、売春婦として働くようになっていた。彼女に避妊のアイデアはなく、度々中絶の世話をしなくてはならなかった。詐欺、コソ泥、麻薬、強盗、車両窃盗などの罪で刑務所の出入りを繰り返した。ケリーもまた母親や周りの大人たちと同じように、ティーンエイジャーが金を稼ぐために道を踏み外していった。

薬物リハビリ施設を出たケリーは、コカイン中毒者の母親の元に戻ることを断念した。母親を捨てたケリーは、クラブでショーダンサーになる道を選んだ。おそらく18歳の年齢制限が彼女に新たな「身分証明書」を必要とさせた。「シェリル・アン・ウィック」という新しい名前を手にしたケリーはテキサスへ移り、そこでマカルフィンと出会う。

ケリーは1986年から89年にかけてアーカンソー州リトルロックでダンサーとして暮らした。その後、母親と妹と再会するため、しばらくフロリダへと戻った時期もあったが、一年ほどして別れ、バージニアに立ち寄った際にお気に入りのレストランのメニューを持ち帰った。テキサス州ダラスで恋人と商売を再開し、91年、アーカンソー州エルドラドに拠点を移した。

1992年、ケリーの母親はフロリダで喧嘩別れした叔母と再会を果たした。叔母はケリーのことを心配したが、母親はしばらく会っていないと話した。だがすでにそのときケリーは亡くなっていた。母親は最終的に故郷バージニア州へ戻り、2008年に亡くなったが、家族はだれもそのことを知らなかった。親戚の誰もが彼女をすでに見捨てていたのだ。

母親同様に、人々はもはやケリーのことも忘れかけていたが、「エルドラドのジェーン・ドゥ」は30年以上経っても見捨てられることはなかった。マクラリー氏は、ケリーの代筆者として捜査関係者や調査協力者に感謝を綴り、その報告を次のことばで結んでいる。

 

皆さん、私の事件を生かしてくれてありがとう。

 

さようなら、

ケリー

 

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https://www.doenetwork.org/cases/81ufar.html

We Know Who Killed Her. But 24 Years Later, We Still Don’t Know Her Name. | HuffPost

The Enigma of El Dorado Jane Doe. A Jane Doe surrounded by mystery, fake… | by Madison Tramel | Medium

過去を捨てた男——ピーター・バーグマンの死

アイルランドの浜辺で見つかった男性行旅死亡人。その死の直前の行動は不可解な謎に包まれていた。

後半では、後に身元が判明した「ライル・ステヴィク」の事例を参考に取り上げる。

 

不可解な遺体

2009年6月16日、アイルランド西岸の町スライゴ近郊の「ロセッスポイントビーチ」で、トライアスロンの早朝トレーニングに訪れていた地元住民のキンセラさん父子は、浜辺に倒れた男性の遺体を発見する。

半裸姿の男性は年の頃50代半ばから60歳代、身長1.79メートルの痩身の白人で、白髪は短く刈り込まれていた。紫色のSpeedo社製競泳パンツの上に下着を履き、その中にネイビーのTシャツを詰め込んでいた。

目立った損傷はなく、一見して遊泳中に溺れて岸に打ち上げられたものかに見え、父子は祈りを捧げると、すぐにアイルランド警察(ガルダイ)に通報する。8時10分には医師により男性の死亡が確認され、身元不明の遺体は検視局へと移送された。

警察は周辺捜索により、遺体発見現場から約300メートルの場所で男性の所持品とみられる遺留品を発見する。黒革のジャケットやネイビー色のチノパンツ、「トミー・ヒルフィガー」の黒系ベスト、紺色の靴下、「KeyWest」と打刻された黒革のベルト、サイズ44の黒色の靴、ポケットティッシュ、小銭、白紙、絆創膏、アスピリン錠、腕時計、ホテルの石鹼。衣類のタグは全て切り取られており、財布や身元特定につながるものは何も出てなかった。

男性は「事故」ではなく、自らの命を絶つために海岸を訪れていたのだろうか。身元確認を急いだが、同定される失踪者情報は届いておらず、旅行者と推定して近郊の交通機関、宿泊施設などに捜査範囲を広げた。

 

遺体は検視にかけられたが、肺は海水に浸潤されておらず「典型的な溺死」の兆候が窺えないばかりか、「殺人」を疑わせる兆候も見当たらず、司法医クライヴ・キレルガンを困惑させた。

歯の状態は良好で、ブリッジやクラウン、差し歯、金歯や銀の詰め物など頻繁な治療の痕も見受けられた。だが整った外見に反して健康状態は悪く、進行した前立腺がんと骨腫瘍が確認され、過去には心臓発作を起こした兆候もあり、腎臓は片方が切除されていた。

深刻な病状からはアスピリンやアヘン系の鎮痛剤、何らかの治療薬の服用が想像された。検視官は毒物や過剰摂取などによる「薬物死」の可能性を疑ってあらゆる検査を行ったが、どういう訳か市販の鎮痛剤を含め、いかなる薬物反応も検出されなかった。検死解剖や検査は5か月にも及んだが、男性の死因は特定されることなく、遺体はスライゴタウン墓地に埋葬された。

 

追跡

スライゴは大西洋に面した入江の小さな町で、ホテルや市街地には防犯カメラが点在し、いくつかの行動履歴をキャッチすることができた。男性は遺体となって発見された現場から約9キロ離れた町の中心部にある「スライゴシティホテル」の宿泊客と判明する。

赤色ポイントがホテル、☆が発見現場となったビーチ[googlemap]

6月12日(金)にはじめてホテルを訪ねた彼は予約を入れておらず、フロントで「3日間の滞在」を希望。宿泊にパスポートや身分証の提示は不要だった。名簿には氏名「Peter Bergman」、住所に「Ainstettersn 15, 4472, Vienna, Austria」と記入し、支払いは現金での先払いだった。

捜査員はオーストリア警察へ問い合わせを行ったが、長年そのような住所は存在していないことが分かった。その後、ヨーロッパやアメリカ全土、可能な限り問い合わせてみたものの、「ピーター・バーグマン」に該当する失踪の届け出などはなく、男性は偽名を使用していたことが判明する。その後も、彼の指紋とDNAは国外の捜査機関でもデータベース照合に掛けられたが、一致するものは見つからなかった。

タグの切り取られた着衣のいくつかは、多国籍衣料チェーン「C&A」で販売された量産品と判明したが、ヨーロッパ内だけで1300近い数の小売店舗があり、オンラインショッピングもできることから購入先の特定は不可能だった。

 

6月12日、男は黒い鞄を手にホテルを訪れた

その顔貌はゲルマン人風で、ドイツ訛りの英語だったとされ、立ち振る舞いはまともな職業人に見えた。バーグマンは会話を避けていたのか、物静かな旅行者と認識されていた。従業員が記憶していた彼の発言は、外での朝食から戻ったときに答えた「美味しかった」という感想くらいのものだった。

滞在中は喫煙室に出入りする姿が頻繁に見られ、部屋ではインターネットを使用していたとみられるが、他の通信トラフィックと入り乱れてその履歴を詳らかに解析することはできなかった。清掃係の女性がマスターキーを使って彼の部屋を訪れたとき、中にいた彼はひどく驚いて緊張した面持ちとなり、その場に固まってしまったことがあった。女性が「自分はホテルの従業員で片づけにきただけだ」と説明すると、ようやく彼は安堵の色を見せたという。

喫煙習慣が彼の体を蝕んだのか[missingdoe.com]

13日(土)、バーグマンは郵便局を訪れ、「82セント切手」と「エアメールのステッカー」を購入。その場で国際郵便を投函したとみられるが、彼がどこの誰にどんな内容の手紙を送ったのかは明らかではない。ただひとつ言えることは、その時点で彼にはアイルランド国外の家族か友人か誰かに通信する意志があったということだけだ。

14日(日)、彼が町のタクシー運転手に声を掛けていたことも分かった。バーグマンは「静かなビーチで泳ぎたい」と伝え、近郊の地図を差し向けた。運転手は、それなら10数分で行けるロセッスポイントビーチがよいと提案して車を走らせた。ビーチを見渡した彼は、ほどなく満足したような表情でタクシーに戻り、町まで帰るようにと運転手に指示した。

バーグマンの行動で最も注目すべきは、何かを詰めた「紫色の小袋」を携えてしばしば宿から出歩き、いつも手ぶらで帰着していたという点だ。街頭カメラは至る所で一人で散策する男の姿を捉えていたが、「袋の中身」をどうしていたのかは分かっていない。彼は人知れず「私物を捨てる」ために町を散策していたと想定された。カメラ映像の解析作業のほか、地元住民のゴミ捨て場、公園や不動産、私有地の庭や駐車場など、地元警察は男性の身元を明らかにする手掛かりを捜し求めたが、全て徒労に終わった。

私物の遺棄がカメラの死角で行われていたことははたして偶然なのだろうか。その遂行は細心の注意を払って監視の目を免れているかのようにさえ見えた。彼はとくに変装もせず、街頭カメラや人々の目を積極的に避けようとしていた訳ではないにもかかわらず、なぜか彼自身の痕跡を少しずつ、だが着実に消去しようとしていた。見えざる力が彼の「任務」を後押しでもしているかのように。

紫色の小袋を手にした姿[missingdoe.com]

15日(月)、その日チェックアウトする予定だったバーグマンは、フロントで「滞在時間を1時間伸ばしたい」と滞在の延長を訴えた。裏を返せば、彼は少し遅い時刻の電車やバスに乗ろうとしていたことが考えられる。彼には取るべき行動があり、明確な目的があった。最終的に13時6分にホテルを離れるが、その時点で彼は黒色のショルダーバッグ、黒色の手提げ鞄、紫色の小袋を手にしていた。

その後、ホテルからショッピングセンターに向かい、店の出入り口付近で何か躊躇するように立ちすくんでいる姿がカメラに捉えられていた。10分程してバスターミナルに向かったことが特定できたが、ショッピングセンターからバスターミナルまでの区間で、黒色の手提げカバンは人知れず処分されていた。ターミナルで軽食をとったあとバーグマンはその場で何かメモを書いたか、メモを眺めていたようだが破って捨てた。カメラの映像を確認できたのは、彼の死から34日後だったためメモは回収できず、そこに何が書いてあったのかは分かっていない。

13時40分頃、コーヒーショップでカプチーノとハムチーズサンドを食した

6月15日の午後、少なくとも10数人が彼の姿を目撃していた。何に追われるでも隠れるでもなく、彼は自身の意志に従って動いているように見えた。運転手の記憶にはなかったが、バーグマンはおそらく14時20分発のバスに乗り、その最後の目的地を訪れた。

ビーチに人影はまばらだったが、散歩に訪れていた地元民が彼の姿を記憶していた。長身で上下黒づくめの男の装いは目を引いたという。小脇に新聞を抱えていたが、その姿はほとんど場違いに思われた。婦人たちが30分程で散歩を切り上げて戻ってきたときにも男の姿はまだその場にあり、奇妙に感じたと振り返る。

ある夫婦は、足元をたくし上げて手を後ろに組みながらビーチと平行に水際を歩いていく男の姿を見たという。夕日を背景に、鮮烈に輝く海原とそこに浮かび上がる彼のシルエットが印象的だったと語る。

夜10時半頃、恋人とビーチを訪れた男性も、黒革のジャケットを着た白髪の男性とすれ違った。彼は若者たちにそっと会釈しただけで、何を語るでもなく通り過ぎていった。翌朝、ランニング中の親子が遺体を発見するまでの8時間の間に、バーグマンはこの世を去った。

 

残された謎

バーグマンはおそらく自分の過去をすべて捨て、私たちにいくつかの謎を残してその生涯を閉じた。多くの人は、彼が深刻な病状を憂いて、自らの命を絶つために見知らぬ町の海岸を選んだのだと推測する。ベッドに縛られて最期を迎えるよりはその人にとって自由を感じられる選択だったかもしれない。だがなぜ名前や住所を偽ってまで能動的な孤独死を遂行しなくてはならなかったのか。

ある人は、彼は自尊心や相手への思いやりの気持ちから、周囲の人間に苦悶や嘆き、その死に行く様を見せたくなかったのだと主張した。ある人は、生命保険の制約から「自殺」の判定を避けるために、行方不明による「緩慢な死」を選んだのではないかと唱えた。彼が最期に宛てたエアメールは相手に無事届いているのだろうか。

遺体に激しいショックや加害の兆候はなく、体内から何らの薬物も検出されないにも関わらず、彼は自分の死期を悟って宿をとり、その瞬間を迎えるためにバスに乗ったとでもいうのだろうか。知らない町の、思い入れもない静かな海辺で、水着姿になって?

Rebecca Giosによる復顔図, 2019 [missingdoe.com]

男性はどこからこの海辺の町を訪れたのか。スライゴにも小さな空港はあるが、首都ダブリンとの直通便が日に数本という限られた航行で、該当するような乗降客はなかった。となれば陸路より他ないが、200キロ離れたダブリンから終点スライゴ駅までの12駅でもその姿は確認されなかった。

スライゴでのバーグマンの姿は、12日午後6時半近くにバスターミナルで確認されており、そこからタクシーで町の中心部へと向かった。一軒目で宿泊を断られ、たどり着いたのが「スライゴシティホテル」だった。彼は130キロ離れた島の北部、イギリス・北アイルランドのロンドンデリー市からを長距離バスでスライゴへ移動してきたことまで遡ることができている。しかし管轄から外れてしまうことや国外の空港の情報セキュリティの問題もあってか、デリー以前の行動履歴について詳細は得られていない。なぜバーグマンは宿も決めずにふらりとその地を訪れ、最期の地としたのか。

Webフォーラムのロンドンデリー出身者は、バーグマンのデリー以前の行動が充分調べられていれば、身元特定につながったはずだと嘆く。ロンドンデリーは北アイルランド第2の都市だが、都市圏人口は10万人程度。空港はあるが国際アクセスポイントではなく、2009年当時の年間乗客は35万人に満たない。空港と聞くと巨大な国際線ターミナルを想像しがちだが、日本の旅客数で単純比較すれば丘珠、佐賀、岩国、静岡空港と同程度(国内40位前後)の地方空港にすぎず、当時はライアンエアー航空によりロンドン、リバプールマンチェスターグラスゴーなどの都市につながっていた。イギリス政府、北アイルランド捜査当局が努力を惜しまなければ彼の足取りを追うことはできたのではないか。

 

あるいはバーグマンは常日頃から個人情報を持たずに行動する人種だったのではないかとする声もある。軍や諜報機関で鍛えられ、町では目立たずに闊歩しながらも、いざというときは監視カメラを逃れる優れた洞察力を備えていたのではないか。あるいは人目に付かないどこかのポイントで何かの任務を遂行していた、誰かに荷物を渡していたとは考えられないか。特命をこなしつつも、致命的な失敗を犯し、謎の手段で命をとられた高齢のエージェント。それとも重大な犯罪行為に加担した過去から、病院に通うことができなくなった逃走犯。被害者か仲間たちの報復を恐れて高飛びでもしてきたのだろうか。

“過去を捨てた男”の最期は人々の感性を刺激し、想像力を喚起した。キアラン・キャシディ監督は19分の短編ドキュメンタリー『ピーター・バーグマンの最期の日々』でその謎を広く提起し、世界中の人々を答えの出ない迷宮へと誘い込んだ。前衛的な観客の一人は「手の込んだでっちあげだ」と発言したが、残念ながらこれは真実である。インスパイアされた舞台脚本家トレサ・ニーロンは戯曲『A Story Of Dying』でその謎多き男の「正体」のひとつを描出して見せた。

www.youtube.com

アイルランド警察は2019年、2021年と、死亡した男性の身元確認の協力を国民に度々呼びかけている。2023年、身元不明・行方不明者の捜索活動を支える英国の非営利団体「Locate International」は新たに動画を作成し、以下の事柄を呼び掛けた。

・ウィーンの偽の住所に何か心当たりはありませんか?

・この時期にスライゴからの郵便を受け取った人を知りませんか?

・警察、軍隊、ドイツNVA(東ドイツ軍)、または諜報機関などの訓練で、彼と似たような男性と一緒になった経験は?

・歯科医の方で、2009年以前に金歯を施した男性との係わりは記憶にありませんか?

・ 2000年代後半に、報告に一致するガン治療をした人を知りませんか?

・ドイツまたはオーストリア出身者で、スライゴ、デリー、アイルランド西海岸とかかわりをもつ人を知りませんか?

・突然失踪した人、連絡が取れなくなった人は彼と似ていませんか?

単なる行旅死亡人ではなく、その行動の背後にそこはかとない思慮深さを感じさせる男、通称「ピーター・バーグマン」の捜査は今も続けられている。

 

行旅死亡人の特定;「ライル・ステヴィク」のケース

参考までに、長期間、行旅死亡人とされていたが特定された事例、「ライル・ステヴィク」と呼ばれたアメリカのJohn Doe(身元不明男性)のケースについて見ておこう。

 

2001年9月17日、ワシントン州アマンダ・パークという小さな避暑地の湖畔モーテル「レイク・クイノールト・イン」で、滞在日数を確認しに部屋を訪れたメイドがコート掛けに首を吊った宿泊客の遺体を発見する。

緊急通報を受けたグレイス・ハーバー郡当局は、室内ゴミ箱から白地に「suicide(自殺)」と書かれたくしゃくしゃのメモと、寝台の照明脇に「for the room(部屋代として)」と書かれた160ドルを発見し、現場状況からすぐに自殺と判断した。

現場(青色◎)は都市部から離れた山間部のモーテル [googlemap]

男性は身分証明書を携行しておらず、所持品は歯ブラシと歯磨き粉、残りの小銭だけで身元特定につながるものは出てこない。宿の台帳には、アイダホ州メリディアンの住所と「ライル・ステヴィク」という名前が記されていた。だが確認を取ってみると、住所は別の宿の所在地と分かり、宿泊施設側は男性について何も関知していなかった。該当する住民登録も存在しないことから偽名であったと判明する。

男性の身体的特徴は身長約188センチ、体重63.5キロ、黒髪にヘーゼル色の瞳。司法解剖虫垂炎手術の痕跡、歯列矯正痕があった。また捜査員は、男性のベルト・ホールに着目し、彼が以前よりもきつく締めるようになっていた、死亡前には体重が以前よりも13-18キロ程度減少していた可能性を示唆した。20-30歳代、白人/ヒスパニック系ないしネイティブアメリカンとの混血とみられる行旅死亡人として報道され、復顔図も公表されたが、身内や知人からの連絡もない。

法医Diana Trepkovによる復顔図、Washington 2001

適合するような家出捜索者の届けが出されることもなく、指紋やDNA型もデータベースとの照合が行われたが登録されてはいなかった。都市部や犯罪多発地域であれば防犯カメラも普及していた時期だが、現場周辺にはほとんどなく、おそらくはバスで現地入りしたと見られたが運転手たちも記憶しておらず、行動履歴さえ謎に包まれていた。男に関する唯一の情報は「僅かなカナダ訛りがあった」という店員の証言だけだった。身元調査はすぐに暗礁に乗り上げ、氏名不詳者「John Doe」として捜査は事実上凍結した。

グレイズハーバー郡保安局で捜査に当たった元刑事レーン・ユーマンズ氏によれば、「ライル・ステヴィク」の偽名はジョイス・キャロル・オーツの著書『You Must Remember This』(1987)からの引用ではないかとしている(綴りは若干異なる)。作品の舞台は1950年代マッカーシズム下のアメリカの家族が描かれ、全体を通して自殺未遂が多発する内容である。中古家具店を営む登場人物ライル・ステヴィクもある晩、垂木にロープを括りつけ自殺を図る場面が描かれている。

You Must Remember This

ウェブ上のフォーラムでは、殺人事件ではないこともあり、「おそらく彼の身内は名乗り出たくない、身元を明かしたくないのではないか」と危惧する者もあった。メキシコやカナダからの不法入国者ではないかとの見方もあり、何かから逃走していたか逃亡犯などのケースが想定された。しばしば社会問題となる「先住民の自殺」を感じ取る者もあった。なぜ彼は偽の住所を書くことができたのか、宿泊施設の元滞在者、元従業員や出入り業者にも思われたが、施設側はどれほど協力的だったのか、警察はどこまで把握できたのか。

中には「荷物を何者かに奪われたのではないか」という見方から偽装自殺、つまりは現場となったモーテル関係者や彼の部屋を訪れた第三者による殺人説を唱える声もあった。たしかにシーズンオフの湖畔や森林地帯で人知れずトラブルに巻き込まれた可能性は排除できない。また彼が命を絶つ5日前にはいわゆる「9・11」同時多発テロが発生し、被害当事者や家族でなくても多くのアメリカ市民がうつ状態に駆り立てられていた時期であることや、当時のテロ対策の一環としての国境封鎖の影響も何かしらの関連を予感させた。

『このことを忘れないで』と題された本からの引用が事実とすれば、それは周囲の人間関係から分断されたライルの最期のメッセージのようでもあった。続報が絶えてからも10数年にわたって安楽椅子探偵たちは細々とその推理を重ねた。

2015年には「瘦せる前」の復顔図も作成された

しかし2018年1月、DNA型鑑定や遺伝家系調査を行う非営利団体「DNA Doe Project」による調査が始まると事態は一変した。翌2月には「ライル」のDNA型がニューメキシコ州北部をルーツにもつ母系集団と適合することが発表された。

団体はマーガレット・プレスとコリーン・フィッツパトリックによって創設され、20人のボランティアが調査に当たり、費用は掲示板フォーラムに集う有志などからの寄付によって賄われる。もちろんあらゆるケースで身元特定が期待できるわけではないが、血縁の逆引きから地縁を追跡し、不明者家族の特定に導くという画期的な試みである。

調査の進捗は団体のフェイスブックページや各掲示板のフォーラムで報告され、彼のDNA型の抽出成功、遺伝系統から得られた特徴が明らかにされ、系統樹のパズルを埋めるピースが徐々に埋まっていくこと、一歩一歩「彼」のルーツへと近づいていく進展に人々は歓喜した。

更にこの「続報」が注目を浴びたことで「ライル」を名乗ったJohn Doeの再周知につながり、新たに「生き別れた自分の弟かもしれない」といった人々も現れた。電子フォーラムの人々は、尋ね人か否かは判断できないが、その努力が報われることを願い、捜索者にエールを送った。遺伝的ルーツとそうした新たな情報の集積などによって、4月にはいくつかの家系へと焦点が絞り込まれていった。

日本ではなじみが薄いが、奴隷制の歴史があり、養子縁組が多く、人種のるつぼである北米では、自らの生物学的な両親や先祖、家系図をたどるために「GEDmatch」などの商用サイトにDNA型情報を登録する人たちが少なくない。そうした登録情報の解析と紐づけによって民間にもDNA型データは集積されており、身元不明者「John Doe」「Jane Doe」の絞り込みや追跡に役立てられる。

ほとんどの州では、事件性のない個人情報は法的に保護されるため、特定できたとしてもその実名や家族関係が公にされることはない。それでも長年事件を追ってきた者たちは、名前を失くした彼らがアイデンティティを取り戻す日を願い続ける。

 

5月8日、「ライル・ステヴィク」を名乗ったJohn Doeの身元が特定されたことが報告された。DDPの鑑定グループは、カルフォルニア出身の男性登録者との一致の可能性を導き出し、警察を通じてその親戚に連絡を取り、最終的には家族から提供された「指紋」によって死亡男性との一致が確認された。

家族は、男性が亡くなっているとは思っておらず家族と関わりたくないのだろうと思い込んでおり、捜索届を出していなかった。彼の実名等は公表されていないが、16年半ぶりにその偽名を捨てる日が訪れたのである。

 

所感

日本は欧米と比較して自発的失踪—家出、蒸発—を容認する文化があると見なされている。島国という地勢、治安が良い国という幻想から、拉致などに対する強制失踪への危機感の薄さは少なからず働いているかもしれない。警察の民事不介入や、個人・地域も「家庭」の問題に口を挟むことは憚られることなど理由はさまざまである。

人によっては「理由があって自殺したのだろうからそっとしておいてやれ」という見方もあるかもしれない。だがその遺体は本当に知人や家族から見放されてしまった、自ら命を絶ったといえるのだろうか。それこそ価値観の押し付けに他ならない。死後何年も経過して死因さえも分からない人々が毎年津々浦々で発見されており、全てに事件性がないとは言いきれないのが実情である。社会全体が行方不明者を放置し続ければ、死刑囚が告発するまで事件性が取り沙汰されてもいなかった茨城上申書事件のような事例が当たり前に起こるかもしれない。

「ライル」のように家族が彼の死の事実を知らずにいるだけの場合や、見つけ出したいが警察の厄介にはなりたくない、大事にはしたくないという家族や、不明者の親族ではないために捜索届が認められないケースもあるだろう。キリスト教に限らず信仰によって自殺の禁忌の戒律意識は強い。「バーグマン」のように身元を能動的に伏せながら、あるいは、現金3400万円を遺して孤独死し大きな話題となった『ある行旅死亡人の物語』(2022, 毎日新聞出版)のように注目を集めるケースというのは極めてまれである。

ある行旅死亡人の物語

行旅死亡人の多くは、発見時にわずかに地元紙が取り扱うだけで人知れずその存在を忘れられてしまう。現状すぐにそうなるとは思わないが、DNA型登録の義務化などによってそうした名もなき死者は過去の遺物となる日が来るかもしれない。どこかで彼を探す人、彼女の帰りを待つ人がいる可能性があるうちは、見ず知らずの人たちの手で見送る手伝いをしてもよいのではないか。

 

死者のご冥福をお祈りいたします。

 

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Sligo Man — Locate International

UM-0075 – MISSING DOE EUROPE

Lyle Stevik Article Links - DNA Doe Project

両脚のない漂流者——サンディ・コーブのジェローム

カナダ東部ノバスコシア州にはある奇妙な男の実話といくつかの逸話が残されている。

 

沈黙の漂流者

1863年9月8日のこと、カナダ東部ノバスコシア州ディグビー郡サンディ・コーブ海岸で海藻採集をしていた漁師たちが奇妙な男性を発見する。

大人たちと一緒に作業をしていた通称“コリー”ことジョージ・コリン・オルブライト少年(当時8歳)は、ファンディ湾の岩浜にうずくまる黒い人影を認めた。近づいてみるとずぶ濡れになったその男には両脚がなく、傍らには水差しと乾パン缶が置かれていた。亜麻色の髪、青い瞳、年は19-20歳前後と若く見えたが、金も身分証明となる所持品も身につけていない。

漁師たちが語り掛けても男からまともな応答はなく、すっかり凍えて衰弱しきっていた。漁師たちはディグビー・ネック村へと男を運び、ひとまずコリーたちが暮らす家で引き取られることとなった。

 

包帯が巻かれただけの男の脚は、左右とも膝のすぐ上で切断されていた。偶然の怪我などではなく、切断面から外科医か、明らかな熟練者による仕業と見られ、患部は比較的新しいが塞がりかけているようだった。とにかく詳しいことは男の回復を待って聞くよりほかない。暖を取り、飲み物や食事を口にするようになったが、男はうめくばかりで言葉を発しなかった。謎の漂流者の噂を聞きつけ、村には野次馬が群がった。

漁師のひとりは、前日、セント・メアリーズ湾沖合800メートル辺りを往復していた船があったことを記憶していた。ビスケット缶と水差しがあったことから、男はひとりで漂流してきた訳ではなく、暗いうちに船で連れてこられ、何者かによって岩辺に放置されたのではないかと考えられた。

外国人ではないかと考えた者たちは船乗りたちを呼び寄せ、フランス語、ラテン語、イタリア語、スペイン語などで質問が試みられたが、男は理解しているのかいないのか、いずれも対話は成立しない。好奇でからかう者に対して、男は犬のように唸り声を出して敵意を示すこともあった。唯一、「ジェローム」と聞こえる単語があったことから、その男は以来ジェロームと呼ばれることとなる。

 

ジェロームの手のひらは柔らかく、地元の漁師たちと違って“タコ”ができていなかった。服は上質な布から仕立てられたものだったため、近郊の漁民や港湾関係の肉体労働者とは思えなかった。何も喋れない、語ろうとしない男の出自は人々の想像力を刺激し、様々な憶測が流れ、人々に一層興味を抱かせた。

彼はどこかの士官で、反乱を試みた罰として切断刑に遭って幽閉され、その後、島流しの刑罰が下されたのではないかといった仮説が支持を集めた。ある者は海賊船から投げ出されたのではないかと言い、ある者はもはや戦地で役立たずとなって船を降ろされた傷痍軍人説を唱えた。また別の者は、資産家の家に生まれたが相続権争いのために斥けられて幽閉された末、脱走に失敗して脚を切られ「追放」の憂き目にあったのだと噂した。いずれも推測の域を出るものではなく、確たる証拠は何もなかった。

文字通り「ジェローム」と発音したとすると、英語やフランス語の男性名のようでもあり、イタリア語の「ジローラモ」、オランダ語の「ジェローン」にも似通っている。あるいは人名でも何でもない全く別の外国語が偶々そう聞こえたとも考えられる。西欧諸国も今日ほど統一言語化されていなかったため、船乗りたちがジェロームの「訛り」を理解できなかっただけかもしれない。

その地中海風の風貌からフランス人かイタリア人ではないかと見る声も挙がった。イタリアの国家統一は1870年まで時を要したため、半島には多くの小国家が林立しており、戦火で脚を失ったとも考えられた。イタリアの港湾都市トリエステの話を聞かせると、なぜかジェロームはひどく腹を立てたという話もあるが、「トリエステ」に反応したと見るべきか、話者に対して苛立ったのかははっきりしない。

また彼の振る舞いにはどこか威厳があり、キャンディやタバコ、果物などの贈り物は受け入れたが、金銭を差し出されると苦々しい表情を見せたとも伝わる。誇り高い人間が“施し”に屈辱を感じたとも取れる報告であり元々は高貴な身分の出であることを想像させたが、食い物の価値は心得ていたものの金の価値が分からなかっただけとも捉えられる。

 

ジェロームは回復すると見た目も態度もジェントルで、機敏に移動することもできたが普段は座って大人しくしていたため、世話にはそれほど手がかからなかった。だが裕福ではないコリーの家では食い扶持に困り、ジェロームは村の家々を転々とすることとなった。

その村は英語を話すバプテスト派(プロテスタントの最大教派)のコミュニティだった。いつしか人々は、彼はカトリック教徒に違いないと判断し、発見から半年ほど経った1864年2月、「彼のために」フランス人コミュニティのメテガンへと追いやった。訴えを受けた州政府も彼が同地に留まらざるをえないものと判断し、週2ドルの生活費を拠出することを決め、財務報告書にも「ジェローム」の項が加えられた。

今日のカナダ南東部(ノバスコシア州-ニューブランズウィック-ケベック州周辺地域)は、ヌーベル・フランス(フランス人北米入植者)の植民地のひとつとして17世紀から定住化が進んだ。彼らは現地化が進み「アカディア人」として新たなアイデンティティを構築したが、英仏関係の悪化により植民者間でも衝突が起こり、18世紀半ばには多くの先住民を巻き込んでフレンチ・インディアン戦争が勃発。数で圧倒的に劣るフランス側は敗れ、追放や迫害の憂き目に遭った。以後、アカディア人は二等市民扱いされることとなり、一方でアメリカの独立などを受けてエスニック・アイデンティティを強めていった。

端的に言えば、面倒ごとをメテガンのアカディア人に押し付けた、陳情された州政府も処置に困り、そうするより他ないと判断したということであろう。

 

メテガンでは、コルシカ出身の脱走兵で片言ながら数か国語に通じたジャン・二コラがジェロームを預かることとなる。彼の試みでも言語は取り戻せなかったものの、およそ7年間を共に過ごした。ジェロームは子どもが遊ぶ様子を眺めていることを好んだとされ、ジャンの妻ジュリットや娘のマドレーヌらも彼を慕った。彼は日頃、日向ぼっこや暖をとることはしたが、仕事らしい仕事はしない動物のような日々を送ったとされる。喋れないからといって筆をとることもなく、本や読み物、写真にさえ関心を持たなかった。

ジュリットが亡くなると、ジャンはヨーロッパへ戻ることになった。ジェロームは近郊のサン・アルフォンス・ド・クレアに暮らすジャンの義弟デディエ&エリザベス・コモー夫妻のもとに身を寄せることとなる。夫妻には4人の子がおり、ジェロームを迎え入れてから更に9人の子をなしたため、たくさんの「子守」は彼の心の慰めになったかもしれない。

コモー夫妻の家は村のバスの停留所の目の前で、鉄道が敷かれる1870年代末までは人と物を運ぶための地域拠点となっていた。一家はジェローム知名度を利用して、入場料を取って見世物とし、州からの俸給と併せて裕福な暮らしを送ったという。

今日の倫理観に照らせば強欲に思えるかもしれないが、当時はサーカスや見世物興行が娯楽の王道であり、小規模ながらコモー家も繁忙期には数百人の見物客で賑わったとされる。ジェロームは時々顔を挙げるが大体はうつむきがちで、怪訝な態度を見せたり唸り声をあげたりするばかりだったと報告されている。

19世紀半ばには精神医療も黎明期であり、知性の欠如である「白痴」、あるいは周囲にトラブルを及ぼしかねない「狂気」に類型化するほかなく、有効な生活対処や緩和治療なども整備されてはいなかった。肉体労働が基本とされた時代、心身にハンディキャップを抱え労働力にならない人々は村で「愚か者」「無駄飯食らい」と冷遇されるか、豊かな家であれば「座敷牢」に幽閉されるのが通例だった。サーカスのような見世物であれ就労機会を得ることは、そうした暮らしに比べればはるかに人間的、人道的と捉えられなくもない。もちろんそこで虐待がなければの話ではあるが。

ジェロームのミステリーはアメリ東海岸でも度々報じられ、コモー夫妻の息子がニューヨークを訪れた際には「“ジェローム”のことを知っている」という2人組の女性たちから声を掛けられた。女性たちは、かつて彼はアラバマで生活しており親許を逃げ出したのだと告げた。コモー氏によれば、女性のひとりは確かにジェロームと瓜二つだったという。彼女はジェロームに渡してほしいと手紙を託し、コモー氏は届けたが、足のない男は封筒を何度もめくった後、中身を見ることなく小さく破いてしまった。彼が自分の正体を知る人間との接触を恐れていたのか、あるいはそれが何を意味する紙なのか理解が及んでいなかったのかは定かではない。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、バスから鉄道へ、木炭から石炭へ、漁業は水産加工業へと時代は、人々の暮らしは目まぐるしく移り変わった。コモー家の子どもたちもそれぞれ独立し、1902年、夫妻は丘の上の邸へと引っ越したが、同年、家長のデディエが亡くなった。以来10年余、エリザベスがジェロームの世話を買った。

〔Daily Echo] 1912-04-19掲載

謎多き男の身元を突きとめるために半世紀以上にわたって数十人のジャーナリストが挑み、数えきれないほどの野心家たちの手で多くの試みが行われたが成果はなく、彼は終生自分が何者なのかを語ることはなかった。

コモー夫妻のもとで40年余り過ごしたジェロームは、1912年4月15日に老衰と気管支炎により世を去り、メテガン教区墓地に埋葬された。

奇遇だが、タイタニック号が大西洋に沈んだ世界最悪の海難事故もこの日のことであり、かつての騒ぎに比して彼の訃報はささやかなものとなった。デイリー・エコー紙の記事では「体格が良く、年齢は75歳から80歳の間のように見え、知的な容貌と形の良い頭を持つ男性」と描写されている。

彼を直接知る人々もほとんどいなくなった2000年、メテガン教区墓地にはジェロームを祀る新たな石碑が設けられた。

 

アナザーストーリー

カナダは文書化された歴史が少ない国とされ、地域の記憶の多くは逸話として口頭伝承されてきた。サンディ・コーブのジェロームの物語もノバスコシアの人々の間で、親から子へ、孫の代へと、“本当にあった奇妙な昔話”のひとつとして語り継がれた。後世の詩人ケン・バブストックや小説家アミ・マッケイ、映画監督フィル・コモーなどにインスピレーションを与えた。

Jerome: Solving the Mystery of Nova Scotia's Silent Castaway

郷土史フレイザー・ムーニー・ジュニアは『ジェローム――ノバスコシアの静かな漂流者の謎を解く(未邦訳)』(2008, Nimbus Pub)のなかで、ジェロームに関する記録の断片と、派生した多くの伝聞を紹介。後半では、ファンディ湾の対岸ニュー・ブランズウィック州立図書館に眠っていた公文書記録を駆使して、ノバスコシア州ではあまり語られてこなかったひとつの有力な新解釈を提示している。

 

1859年12月のこと、ニューブランズウィック州を流れるガスペロー川北側で木こりの集団がキャンプ地を引き上げ、家族とクリスマスを祝おうと家路を急いでいた。村へ向かって凍てつく山道を下る途中、雪に埋もれた若い外国人男性を発見する。

男性は村へ運ばれ、チップマン教区の貧困者の救済支援を行う保険福祉監督に保護された。福祉監督は郡に報告して保護費用の援助を請い、村人たちは見知らぬその男を甲斐甲斐しく世話した。凍死の危機こそ逸したものの、彼はフランス語も英語も解さない。さらに深刻な凍傷から両脚に壊疽を負い、このまま毒が廻れば再び死の危険に晒されようとしていた。

61年3月にはグランド湖の対岸にあるゲージタウンのヘンリー・ピータース医師の許へ運ばれ、両脚の切断を余儀なくされた。彼は「イタリア移民」として住民登録が取られ、通称「ガンビー;Gamby」と呼ばれた。彼はしゃべりかけられても会話できなかったが、「常に“ガンビー”と繰り返していた」とされる。上手く発声することができず偶々そう聞こえたのか、それともイタリア語の「脚;gamba」に起因するものか、あるいは周囲の人間たちが言葉にならない男性の言葉をそう解釈したのかは定かではない。

ガンビーの体は徐々に回復したが知性の制御がままならず、食事を与えても、肉を食べきり、パンを食べきり、スープを飲み干すというように単品ずつでしか口を付けようとしなかった。やや女性蔑視の傾向が見られ、男性でも一部の人にしか懐かなかったとされる。人々の暮らしに余裕はない中、彼は山仕事はおろか手仕事さえもできなかった。

4年後、コミュニティの評議会はその負担から男の追放を決断し、W.コルウェル氏に彼の行く末を任せた。正確な依頼内容は定かではない。だが川下の港町セント・ジョンへと運ばれ、そこから貨物船で送還されることで話が付いていたとみられる。コルウェル氏は両脚とことばを失った男をブライヤー島まで送り届けたことを依頼者に報告した。

 

ムーニー氏はこの「足を失ったアイスマン・ガンビー」の物語が、ファンディ湾を挟んだ対岸に位置するサンディ・コーブで置き去りにされていた「ジェローム」の物語に接続するものだと主張する。今日の感覚で見れば、ガンビーやジェロームが脳障害や生死をさまよった後遺症が生じていた可能性が疑われる。またジェロームが海岸で発見される以前に人間不信に陥るような苦難に遭っていれば、しばしば大人には猜疑心を、子どもに愛着を見せた逸話とも合致する見方だ。

ジェロームの発話の困難は、発話制御を司るブローカ野の脳損傷に起因すると考えられ、動物のようにうめくことはできるが理解可能な言語であっても発語できなかった可能性があるという。ガンビーにも同じことが起きていたかもしれないが、彼が「ガンビー」と発話できていたとすれば、ジェロームはなぜ「ジェローム」としか言えなかったのか。「ガンビー」と「ジェローム」では聞き違えようはずもなく、強いて想像を膨らませるならば、ガンビーは実際には「ガンビー」と繰り返していなかったが、誤って、或いは恣意的にそうと記録された可能性がある。

更に20世紀初頭にチップマン地元紙が書いた記事には、ガンビーが凍死寸前で発見された当時、髭を伸ばし、その風貌は「26歳前後に見えた」という報告もある。どちらもあくまで印象論レベルでの話であり、瀕死状態であったことからその見た目も様変わりしていた可能性はある。山奥で木こり仕事をする人々と海辺で漁業を営む人々では人相に対する印象も違って当然かもしれない。だが26歳前後に見えたガンビーがニューブランズウィック州で4年程過ごした後、対岸で発見されたとして20歳の見た目になるのかは疑問が残る。

筆者はフレイザー氏の説が真相だとは受けとめていない。いずれも若者であることから労働力として売買されたか、大陸での仕事を求めて流浪した人物と推測する。ジェロームは何がしかの私刑や報復に遭って足を切断されたようにも、ガンビーは精神疾患や規則違反によって雪山に棄てられたようにも見える。ガンビーがジェロームになった訳ではなく、「公的記録」や「歴史」として残存した、再発見されたのが偶々その二人だったのではないか。ガンビーのような境遇、何らかの理由で脚を失い、棄てられるということは当時としては珍しくなかったのではないかと想像されるが、通常「棄民」の記録が残されることはそうないだろう。

 

後年、ジェロームを世話したコモー夫妻の孫娘は、「両脚のない謎の沈黙者が最期に密かにしたためたその半生」を書簡体小説(ファウンド・フッテージ)として物語化し、高校の作文コンクールで優秀賞を獲得したという。

両脚とことばを失った漂流者の謎は永遠に解き明かされるべきではないのかもしれない。事件に真相はつきものが、物語に正解はない。

 

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Great Unsolved Mysteries in Canadian History

http://www.mysteriesofcanada.com/Nova_Scotia/jerome.htm

京都アニメーション放火殺人事件

京アニ」の愛称で知られるアニメ制作会社「京都アニメーション」のスタジオが放火され、社員ら68名もの死傷者を出した事件。戦後最悪の犠牲者を出した未曽有の惨事は国外にも知れ渡り、人々を震撼させた。

www.kyotoanimation.co.jp

 

事件の発生

2019年7月18日(木)午前10時半頃、京都市伏見区桃山町にあるアニメ制作会社・京都アニメーション第1スタジオでドーンという爆発の轟音が響いた。近隣住民がすぐに消防に通報。10分後には第一放水が開始され、周囲一帯は煙に包まれた。

建物の周囲には負傷した社員ら35人が退避しており、生存者は「出火当時、社内に70人はいた」と説明。放水開始から12分後、救助隊員が内部捜索と救助に向かった。

スタジオは三階建てで、一階が事務所、二階と三階が制作フロアになっていた。一階では2人、二階で11人の遺体を発見。しかし吹き抜けの螺旋階段は高熱のガスや煙が充満しており、すぐに三階へ上がることはできなかった。後の現場検証で、一階の螺旋階段近くで起きた爆発により高温のガスが一気に上階へと充満して燃え広がる「煙突効果」が発生していたとされる。

ようやく三階に入れたのは約1時間後で、螺旋階段の屋上付近で折り重なるように20人が息絶えていた。人々は階段を下りることができず、上に向かったが屋上に出る扉が何らかの事情で開かなかったため取り残されたものと見られている。

3フロア延べ約700平方メートルが全焼し、搬送後に亡くなった犠牲者を含め、最終的に死者36名、重軽傷者33名の大惨事となった。全員の救助・搬出が完了したのは21時12分。完全な火災の鎮火が確認されたのは翌19日6時20分であった。

火災発生直後、スタジオから100メートル離れた民家のチャイムを押して、玄関先で倒れている男が発見された。赤いTシャツにジーンズ姿、裸足で手足は皮がただれて血まみれだった。

男は火を放ったことを認める供述をし、全身やけどで瀕死の状況ではあったが警官に問い質されると僅かに応答した。男は、埼玉県見沼区に住む職業不詳、青葉真司(当時41歳)。

警察「なんでやった?言わなあかんで、頑張って言え」

青葉「パクられた

警察「何を?」

青葉「小説

警察「何で火を点けたんや?」

青葉「ガソリン」

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警察「あそこは知っているか?火を点けたところ」

青葉「知らねえよ」

警察「全く関係ない所やらんやろ」

青葉「お前ら知ってるだろ」

警察「頑張って言え!言う責任がある」

青葉「お前らがパクりまくったからだろ、小説

警察「何人も怪我している。言わなあかん」

青葉「全部知ってるだろ…」

男は市内の病院に搬送されたが重篤な状態に陥り、直接の取り調べは打ち切られた。

その後、男が京アニの内部関係者ではないこと、2016年に小説コンクール「京アニ大賞」に2回応募して落選していたことなどが判明。携帯電話を解析したところ、2016年から約2年半で「京アニ」について少なくとも2539回もの検索履歴が確認され、掲示板サイトや京アニのサイト上に殺害予告などを繰り返していたことが明らかとなる。

京都府警は、落選した男が作品の内容を盗用されたと思い込むようになった筋違いの逆恨みが放火事件の動機だったと見て調べを続け、容疑者の回復を待った。

 

「死に逃げはさせない」

火災発生当初からガソリンを使用した放火が疑われたが、男の目的や被害状況がはっきりせず、国民は報道を待つより他なかった。とりわけ全国の京アニファンは、生存者・犠牲者がはっきりと伝えられない事態に一層の不安と焦燥感を募らせていた。

 

7月20日、青葉は大阪・近畿大学病院へと救急ヘリで移送された。同院は高度熱傷治療に対応できるとして、被害者の転院受け入れが可能である旨を伝えていた。しかし被害者の転院依頼はなく、唯一「診てほしい人間がいる」と頼まれたのが全身の93%に火傷を負い、意識不明に陥っていた容疑者・青葉真司だった。

主治医となる重度熱傷治療のスペシャリスト・上田敬博教授は、19日に青葉の話を聞かされたときのことを「人としての原形をとどめておらず、『こいつがたくさんの命を奪った犯人か』という陰性感情はなく、もうすぐ絶命するだろう…それしか感じなかった」と手記に綴っていた。予め京都府警にも「ご期待には応えられないと思います」と伝えていたという。

だが同時に上田教授の胸中には「助かる見込みは薄いが、この人を助けないといけない」という思いも湧き上がっていた。犯人をそのまま死なせてしまえば事件の真相は闇になる、犠牲者や存命の被害者、その家族のためにも犯人を「死に逃げ」させないという強い使命感が去来した。深刻なダメージから導かれた当初の予測死亡率は97.45%と試算されるなか、担当する医療チームを鼓舞し、懸命の治療を施した。

血流障害で壊死した皮下組織をそのままにすれば全身に毒が回ってしまう。まず壊死した組織を除き、コラーゲンなどでできた人工真皮を被せる。その後、更に表皮の部分にはわずかに残った正常の皮膚から自家培養させてできた表皮を被せなければならない。男が腰に巻いていたウエストポーチが奇跡的に「8センチ四方」の健常な皮膚を保護しており、そこから急ぎ表皮培養が行われた。

患者の体力を考えると一日にできる作業は3時間。血圧や体温の低下を避けるため、「28度の温室状態」で手術に臨まねばならず、医療チームはその熱さで集中力の限界だった。表皮の培養まで3~4週間かかり、その間も血圧の維持や感染症対策など常に気を配らねばならない切迫した状況が続いた。

取材陣も殺到し、上田教授自身も平時の大手術とも異なる精神的重圧が重なったに違いない。絶え間ない極度の緊張と疲れから強迫神経症や錯覚症状を起こし、気づけば部屋とICUを2時間おきに往復する不眠症の日々が続いていたという。

だが予後のトラブルを持ちこたえ、皮膚の培養、移植手術も成功し、患者は快方へと向かった。しばらくして呼吸器具を発声可能なものに付け替えると、包帯だらけの男は「もう二度と声が出せないと思っていた」と言いながら一日中泣いていたという。男ははじめから自死の覚悟をもって犯行に及んだわけではなかったのである。

一方で、リハビリが開始されると「意味がない」「どうせ死刑」などと投げやりな態度を見せるようになり、食事にも不平を漏らした。だが主治医に「私たちは懸命に治療した。君も罪に向き合いなさい」と諭されると、医療スタッフへの感謝を述べたり、「道に外れたことをしてしまった」と事件への後悔を語ることもあったという。

 

11月14日、緊急医療処置を一通り終え、当初の入院先だった京都第一赤十字病院へと転院。見送りに来た上田教授が「もう自暴自棄になったらあかんで」と青葉に声を掛けると「今までのことを考え直さないといけないと思っています。すみませんでした」と反省の色を見せたという。

上田教授は青葉にあくまで一患者として向き合い、己の人生を卑下することなく生きることを求めた。「事件を起こさずに済んだかもしれない」可能性に気付かせ、「後悔させる」ことこそ悔い改めさせることにつながるのではないかと語る。

「助かった命のありがたさを感じると同時に、迫りくる死の恐怖に日々おびえることになるだろう。それがさらに命の尊さを認識させるに違いない」〔青葉転院後の手記〕

 

容態悪化やコロナ禍の影響によって予定はずれ込んだが、緊急事態宣言の対象から外れた2020年5月27日、一定程度に回復して取り調べにも耐えられるとの判断から、京都府警は現住建造物等放火・殺人罪などの容疑で青葉を逮捕し、身柄は伏見署に移送された。事前の任意聴取で、青葉は「一番人が多い第1スタジオを狙った」「自宅を出たときから殺意があった」などと計画的犯行を認める供述をした。

勾留手続きを終えると、医療設備の充実した大阪拘置所へと移送された。

 

報道と反応

巷間では、多くの犠牲を生んだ加害者に特例的な延命治療を施すことに対して大いに異論が湧き起こった。多くの被害者が命を落とし、加害者が「奇跡的な延命」を果たすことに人々は報復感情をむき出しにした。正式な逮捕を待たずして極刑を望む声も盛んに聞かれた。「犯罪者を優遇するな」「自爆覚悟の“無敵の人”を助けてどうなる?」「生かす価値などない」と。

そうした声は医療スタッフ内にも動揺を与え、自分たちの治療行為が何の役に立つのか、人々が望まないことをしているのではないかと自問自答が繰り返された。

 

府警は従来の殺人事件と同様に、被害者の実名公表を原則とした。しかし京アニ側は24日までに、報道により被害者や遺族のプライバシーが侵害されるおそれがあるとして実名公表を控えてほしいと要望した。府警によれば、当初21遺族が実名公表を拒否していたとされる。

府警は遺族、警察庁とも話し合いを行い、公表時期を慎重に検討。先に公表を承諾した10名の実名を8月2日に公表する。残る25名については、全員の葬儀終了を待って8月27日の公表となった。

突然もたらされる信じがたい家族の訃報によって犠牲者の家族が受ける心痛は計り知れない。「遺族」としてカメラの前でその胸中を晒すことなど思ってもみないことであり、事件の大小にかかわらず、現実を受け容れるために心の整理はつけるのは難しい。

 

注目度の高さによりメディアスクラムが懸念される中、報道各社も事前に対策や自主規制を協議していた。取材拒否の場合にはその意向を共有・尊重する配慮や、なるべく各社まとめたかたちで代表者による取材を行う方針を確認。NHKや全国紙各社は実名公表を行った。マスコミ各社は実名報道の理由として、事件の重大性、事実関係の正確性を期すことや、失われた命の重さを説明した。

一部スポーツ紙などでは実名・匿名の対応が分かれ、立場の異なるジャーナリストたちもその賛否について考えを求められた。1985年に起きた日航ジャンボ機墜落事故では、死者520名、生存者4名の実名・年齢・顔写真などを公開され、後に亡くなった方々との思い出が語られる報道も多くあった。その一方で、たとえば山梨キャンプ場女児行方不明などでは不明女児の家族がネット上で「私的な」冤罪被害に遭ったことは記憶に新しい。

元通信社記者の浅野健一氏はさる冤罪事件をきっかけに実名報道に疑問を持ち、日本では警察発表をそのまま報じているだけで、マスコミは報道基準を丸投げしており、そもそも実名を伝える必要はないと主張している。たとえばスウェーデンでは、被害者、容疑者とも一般市民は原則匿名で報道しており、かたや公人や大企業役員などの不正などでは実名報道を基調とし、メディアの権力監視の役割に支障はないという。報道の基準はメディアが負っている。

インターネット上の市民からも匿名を求める遺族の意志も尊重されるべきだとする声が上がり、署名サイト「Change.org」では「犠牲者の身元公表を求めない」署名活動も行われた。一方では死者を悼む意味でも名前が公表されることを望む人々の声もあり、マスコミの実名報道は物議を醸した。

遺族で唯一会見に臨み、実名を公表した石田敦志さん(享年31歳)の父親は、「決して“35分の1”ではなく、ちゃんと名前があり、毎日頑張っていた。“石田敦志”というアニメーターが確かにいたということを、どうか、どうか忘れないでください」と語った。

その後、読売テレビで組まれた報道ドキュメント番組では、公表を拒否していた遺族の「心を落ち着けようとしているときに、むやみに扉をノックするのは辞めてほしい。そっとしておいてほしい気持ちが分かっているならばどうして実名報道をしたのか」とマスコミに対して批判的コメントを取り上げた。

また2004年に長崎で起きた佐世保小6同級生殺害事件では、被害者の父親が当時支局長でもあった。父親は「(普段は)会見を求める立場だから、逃げられないと思った」と会見に臨んだ際の板挟みになった心境を吐露しており、社内の人々もその胸中を察して家族を支えたという。父親は事件後の手記に「ニュースや記事で名前や写真が出ると、事件のことを突き付けられるような感覚になります。勝手なことなのですが、『もう名前や写真を出さなくてもニュースや記事として成り立つのでは』と思ってしまいます」と、「遺族」の思いを綴っていた。

 

被害者遺族の感情やプライバシーは当然守られるべきであり、こうした大事件における報道取材に対して弁護士や専門家が仲介に入って対応に当たることが妥協策と思われる。報道には事件の事実を正確に伝え、より深く社会の教訓としていく責務があることも確かだが、故人のプライバシーや家庭内の事情は公に伝えられる必要はないため、遺族から直接コメントを引き出す必要はないはずだ。

何が報じられ、何が報じられないべきなのか、ケースによってその対応を変えるべきか否か。警察やマスコミの「一貫性のある」対応にはたして問題はあったのか。一方で「非公開」によって誤った憶測を招き、無関係の人間が不利益を被るおそれもある。

筆者としては、実名公表はあってもなくてもよいものだと考えている。名前や顔が明らかで、家族がメッセージを発してくれるのならば耳を傾け、感謝を胸に刻みたい。とにかくそっとしておいてほしいと言うのなら無理に構わず忘れていく。事件がなければ知る由もない方々について根掘り葉掘り知る必要はない。それもひとつの弔いとして認められるべきだ。私たち市民の側も事件報道の意義を問い続けること、無用な詮索は避けるなど常に社会的配慮を心掛けたい。

 

成育歴

裁判では、動機の背景となる「自己愛的で他責的なパーソナリティ」形成に果たした役割が大きいとされていることから、青葉の成育歴を見ておきたい。

 

青葉真司は1978年、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。トラック運転手の父親と専業主婦の母親、2学年上の兄、1学年下の妹の5人家族で育った。

子どもの頃は元気で活発、とくに兄と仲が良く、スーパーファミコンで遊んだり、「ドラゴンボール」に熱中した。生活水準は「中の下くらい」と語ったものの、ディズニーランドや軽井沢への旅行などへ出掛けており、家族仲も良好だったとみられる。

だが育児の手が離れて母親がミシン販売の営業の仕事を始めると、家族関係に軋みが生じた。好調な営業成績を上げる母親に対して父親が嫉妬のような態度を見せ、外回りでの浮気を疑うようになって母親への暴力、DVが始まった。警察沙汰になることもあり、母親は子どもたちを連れて家出したが、父親は知人宅を見回るなどの執着を続けた。1987年、逃げ場がなくなった母親は離婚を決意し、父親が3人の子どもの親権をもった。

離婚後、父親は糖尿病を悪化させて運転手を辞め、一家はたちまち貧困に陥り、DVの矛先は兄弟へと向けられた。暴言は「日常茶飯事過ぎて覚えていない」ほどで、暴行や正座の強要、裸での締め出しなどは兄弟が大きくなるまで続いた。2人は相談して母の許へ助けを求めに行ったこともあったが、祖母から「もううちの子ではない」として会わせてもらえなかった。

小学校当時は内向的というより冗談も通じる活発な子だった、と同級生は語り、同級生の母親も「今の姿を見るととてもお答えできませんが、いい子でしたよ」と振り返る。1円でも安い食材を求めてスーパーを周る生活を送ってきた反動もあってか、卒業アルバムには「夢は大金持ち」と書かれていた。

中学で柔道部に入り、青葉は準優勝したこともあったが、父親は理由もなく「賞の盾を燃やしてこい」と命じ、彼は言いつけに従った。行くなと言われて体育祭も休まされた。父親は青葉にとって問答無用に強権的で理不尽な人間だった。また彼は幼い頃から「やればできる人間だ」「大物になるか乞食になるかのどっちかだ」と青葉に言って聞かせ、好きなものを徹底的にやれという教育方針だったという。後に小説を書く動機の背景にその教えがあったことを認めている。

家賃が払えなくなり2度転居を余儀なくされ、中学は2年の2学期以来、不登校となった。その後、通ったフリースクールでは心のおける先生と出会う。定時制高校に進学し、昼は県庁で郵便物仕分けのアルバイトに励み、仕事は言われた以上にちゃんとやっていたという。高校へはしっかり通い、同世代の友人と遊ぶこともあった。体調が悪いときも兄にバイクでの送迎を頼み、休もうとはしなかった。

当時を知る妹によれば、「仕事が楽しい」と生き生きとしている様子で、音楽スピーカーを買って悦に入っていたこともあったという。カラオケでは女性キャラや声優のアニメソングを好んで歌った。またこの時期に高校の友人から京アニ作品の関連ゲームを推薦されたことをきっかけに『涼宮ハルヒ』などの京アニ作品を愛好するようになった。

定時制高校4年の頃、父親は交通事故で寝たきりとなり衰弱。青葉は音楽を学ぶために専門学校に進学したが、1年も持たずに中退。妹には「あそこで学ぶことはない」と大口を叩いた。1999年、コンビニで働きながら春日部市内で一人暮らしを始めた時期、青葉の父が亡くなった。実家で母親と10年ぶりの再会を果たしたが、本人は「今更出てくるのはありえないだろうという感じだった」と振り返る。生前の父に告げた「お前の葬式には絶対に出ない」という意志を青葉は貫いた。

 

2006年、就寝中の女性宅に侵入する事件を起こして逮捕。妹が母親を連れていくと面会を拒み、その後面会が叶わなくなった。だが翌年、執行猶予付きの有罪判決が下り、母親とその再婚相手の家で暮らすこととなる。再婚相手が「お前に夢はないのか」と問うと、「罪を犯した身で夢なんて持っていない」と大声で反発し、引きこもるようになった。工場勤めを始めたが、「周りの作業員のスピードが遅くて嫌になった」と言い訳をして数か月で辞めてしまった。母親は、青葉の他責傾向を「元夫譲り」と表現している。

2008年頃はリーマンショックの影響で「“派遣切り”に遭うと分かっていたので自分から辞めた」などとして工場の派遣仕事を3度にわたって辞めていた。郵便局の勤めも辞めてしまい、生活保護を受けて昼夜逆転した生活を送るようになった。SFや学園系ライトノベルを自ら書き始めたのもこの時期であった。京アニ大賞が立ち上がったばかりだったこと、「手に職を付けねば」という必要と、「全力を出せば」という願望が男を創作に向かわせた。大賞を取れば憧れの京アニでアニメ化される。公判では「下りではなく、上りのエスカレーターに乗りたいと思った」と当時の心境を明かしている。

住む家を失い、茨城県へ流れ着いた。すぐに家賃滞納となり、住民から騒音の苦情が入るなど男の生活は明らかに荒んでいた。またこの時期、青葉はインターネット上で「京アニの女性監督」と掲示板でやりとりをしており、一方的に恋愛感情を抱いていたという。しかし「監督」から『レイプ魔』と言われた。犯罪歴が知られていては小説も応募できないと思い、一層のこと刑務所へ行った方がいいと思い、2012年、「したくなかったが」コンビニ強盗を起こした。部屋は食べ残しで腐敗臭が充満し、壁には穴が開けられ、金づちでパソコンが破壊されていたという。

刑務所に収容され、期せずして塀の中京アニ作品の『けいおん!』を見る機会があり、涙を流したという。2013年7月以降、青葉は幻聴・幻覚・不眠などに悩まされ、自殺リスクのある「要注意者」に指定された。不審行動で注意され、職員に強く反発するなどして10回以上懲罰を受け、2015年10月には「統合失調症」の診断を受けた。2016年1月の出所の際のアンケートでは「1年後に作家デビュー、5年後に家を買う、10年後は大御所」と夢を新たにしていた。

MBSが入手した当時の精神鑑定資料によれば、京アニ事件の予兆とも取れる発言が記録されていた。「無差別殺人を考えたりするが、最後で歯止めがあり」という発言に、検察官が「最後の歯止めとは何か」と質問すると、青葉は「小説だと思います。小説への思いがどこかにあり、つっかえ棒となっていたと思います」と答えていた。仕事をクビになったときの心情について「母を、兄も含めて、ガソリンを撒いて燃やしてやろうかと」と自暴自棄な発言をし、「まじめにやっていても邪魔しか入ってこないので」と話していた。

出所後、執筆を再開し、京アニ大賞に応募することとなる。だが京アニ作品を見返していると、自分の小説の内容と似ているシーンが度々目に付くようになった。落選後も小説家志望者が集うサイトで応募した小説を公開したが、読者はなく退会する。希望の持てない人生の中で、男にとって小説は「一筋の希望」だった。全身全霊を捧げた小説から訣別することは「失恋」のように難儀することだったという。10年前から書き溜めていた小説のネタ帳を自ら焼却したとき、「何かしらつっかえ棒がなくなった感じはしました」と語っている。

青葉を担当した訪問看護の記録によれば、薬の服用漏れや不眠などの影響で精神状態が常に不安定だったとされ、2018年5月にはアパートを訪れたスタッフに「付きまとうのを辞めないなら殺すぞ」「今のままでは人を殺してしまう。人間は足を引っ張る人間ばかりで信用できない」と包丁を向けて脅すこともあったという。「ハッキングされている」と訴え、室内にはパソコンやゲーム機が破壊され、切り刻まれた革ジャンパーや布団などと共に散らばっていた。

2019年3月から突然連絡が取れなくなり、スタッフは薬の服用ができていないことから対人トラブルに発展することも懸念していたという。

 

 

裁判

事件の発生から4年が経った2023年9月5日、厳重な警備態勢が敷かれるなか、京都地裁で初公判が始まった。

車いすに座って出廷した青葉被告は、スタジオへの放火の起訴内容について「間違いありません」と認め、「事件当時はそうするしかなかったと思っていた」「たくさんの人が亡くなるとは思わなかった」と述べた。

弁護側は、事実について争わないとしたうえで、被告の心神喪失による無罪、あるいは心神耗弱状態にあったとして刑の減軽を求めた。加えて、本人の予想を超える凄惨な火災を招いた背景に建物の構造に問題があった可能性もあると主張した。

検察側は、被告に完全責任能力があるとした上で、その動機を「筋違いの恨みによる復讐」と指摘した。

 

検察側は被告の来歴に触れ、両親の離婚、父親による虐待、貧困による転居、中学時代に引きこもりを経験し、「独りよがりで疑り深いパーソナリティ」になったと主張。また定時制高校を皆勤で卒業した「成功体験」により「努力して成功した」との思いを強くしたことが後の作家志望につながったとする。また30歳までコンビニでアルバイトなどをしたが、店長への恨みから「うまくいかないことを他人のせいにしやすいパーソナリティ」が形成されていったと指摘。その後、京アニ制作アニメに感銘を受けて、ライトノベル小説の執筆に励み、37~39歳で京アニ大賞に長・短編小説2作を応募するも“渾身の力作”が落選。挙句に「作品の一部アイデアを盗用された」と一方的に恨みを抱き、監督や他の従業員も巻き添えにする殺害計画を立てたとした。

弁護側は、何をやってもうまくいかない鬱積した思いから精神を病み、妄想に支配された被告にとって「この事件は起こすしかなかった事件」だったとし、自分の人生を翻弄し、スターダムの道を駆け上がっていった監督に対する「対抗手段、反撃だった」と反論。検察側は、精神状態が犯行に影響したのではなく、被告のパーソナリティが現れたもので完全責任能力があると対抗した。

涼宮ハルヒの憂鬱』『響け!ユーフォニアム』等の作画で知られた池田晶子(しょうこ)さんも犠牲者のひとりだった。初公判を迎えた心境を聞かれた晶子さんの夫は、「なぜか、涙が出てきました。なぜかわからないです。かなしいのか、うれしいのか、分からないけど涙が出てきた」と整理のつかない感情を打ち明けた。被害者たちの名前や死因が読み上げられるとあまりの被害の大きさに辛さがこみ上げたという。それに対し、被告の犯行動機については「妄想の一言では片付かないでしょ、納得できない」と述べ、量刑判断よりも動機の解明、被告本人からの納得のいく言葉を求めた。

 

検察側は、被告が動機に挙げる小説から「パクられた」とするアイデアを探し当て、3作品に“かろうじて似ている”と解釈できる場面があると述べた。

ひとつは、社会現象ともなった女子高生バンドのアニメ『けいおん!』の中で、主人公が後輩に「私留年したよ。これからは同級生だよ」と語る場面がある。青葉が京アニ大賞に応募した長編小説では、男子高生が先生から「このままだと留年だぞ」と言われる場面があった。

高校の弓道部を舞台にしたアニメ『ツルネ』の中では、2割引きの肉を買うシーンが描かれており、青葉の小説では、晩御飯の総菜を買うときに、50%引きになった総菜を買い漁る場面があるという。

高校で水泳部を立ち上げる男子学生たちの青春もの『Free!』では、校舎に垂れ幕が掛かっているシーンが描かれているが、青葉の小説では、学校に期限の切れた垂れ幕が下がっている描写があるとされる。

 

また弁護側は、犯行動機について、「被告の人生をもてあそぶ“闇の人物”が京アニと一体となって嫌がらせしてきた」と説明していた。被告人質問で青葉は、“闇の人物”について「強盗事件で服役していたときに刑務所で出会った」「名前は『ナンバーツー』」と述べ、「ハリウッドやシリコンバレー、官僚などにも人脈のある闇の世界に生きるフィクサーみたいな人」と説明した。

青葉は、ナンバーツーから指示を受けた警察の公安部から尾行や盗聴されている気がしたと述べ、事件で身柄確保された際の「お前ら知ってるだろ」といった発言も、すでに思考盗聴されているとの考えから出た言葉だった。

自分が京アニ大賞に落選したのはナンバーツーの仕業だと信じており、受賞は出来なくとも何かしらの依頼はあるのではないかと考えていたという。だが期待した連絡もなく「がっかりしたし、裏切られたと思った」男は、京アニが「ナンバーツーの実行部隊」だと考えるようになっていた。

青葉は「監視を続ける公安」や「パクるのを辞めない京アニ」に対して、これ以上危害を加えるべきではないと分からせる必要があると考え、京アニ事件の1か月前にも大宮駅前での無差別殺傷を企てていた。これは秋葉原通り魔事件を参考にしたもので、男は人生に悲観していた加藤智大元死刑囚の境遇に「他人事とは思えなかった」と共感を抱いていた。刃物6本を購入したものの、実際に駅に向かうと想定していたより人が少なく、だれかを刺してもすぐに逃げられて大事件にならないと考えなおし、実行には至らなかった。

 

動機の一部には明らかな統合失調症の影響が見て取れるが、犯行に際してはそれなりの下準備が行われており、筆者は心神喪失とは言えないと考えている。全財産5万7000円を口座から引き出し、事件の3日前、7月15日に京都を訪れた青葉は、その後、第1スタジオの下見にも訪れていた。

2001年に弘前で起きた消費者金融武富士」での強盗放火殺人を参考とし、ガソリンでの放火が念頭にあったが、道を尋ねると証拠が残ると考え、人との接触を避けて行動していた。初日には場所が見つけられず、翌16日にネットカフェでスタジオの場所を検索して出向いたという。

前日にはホームセンターでガソリンの携行缶や台車などを購入。入り口が閉鎖されていた場合に備えてハンマーまで用意した。所持金も底をつき、容器や凶器などを抱えて電車に乗るのもためらわれたため、事件前夜は現場近くの公園で野宿した。

武富士事件では強盗に入った小林光弘元死刑囚が店内に混合油を撒いて金銭を要求し、店側は速やかに通報したため火を放って逃走。従業員5人死亡・4人重傷の大惨事をもたらした。

 

「よからぬことをする前、熟睡できるほど神経は太くない」

男は京都に来て以来まともに眠れなかったという。犯行時刻は午前10時半を予定していた。通勤したばかりや昼休みだと社員たちは出歩いていると思い、座って作業しているであろうその時間に決めた。容器からバケツにガソリンを移し替えるには時間を要さなかったが、10数分の間、逡巡や躊躇が頭をよぎった。

「自分みたいな悪党でも小さな良心があった。でも自分の半生、1999年からの20年間はあまりにも暗い」

「どうしても許せなかったのが京都アニメーションだったということになります」

「ここまで来たら『やろう』と思った」

入り口は施錠されておらず、被告の記憶では、右手に持ったバケツを振り上げる感じで一面にガソリンを撒いた。社員たちがなんだなんだと見やるのを横目に、「死ね!」と叫ぶと、入ってものの30秒と経たぬうちに火をつけ、即座にその場を飛び出した。自分の体にも引火しており、慌てて地面に寝っ転がって消した。

 

しかし検察側の被告人質問では、「ナンバーツーは小説の盗用に関わっていないのではないか」「監督が成功の階段を上りつめていき、あなたはどんどん下がる一方だったと振り返っているが、ナンバーツーは関係していないのではないか」と、ナンバーツーと京アニが無関係ではないかとする見方を提示し、青葉被告を困惑させた。

「捜査段階では公安に関する話は『作り話』と話していたのではないか」と矛盾を指摘すると、被告は「そうです」と認めた。京都に着いてからも監視はなく、監視があったら犯行に至らなかったと述べている。

長編小説『リアリスティックウェポン』で使用したペンネームは、昔一緒にクリエイターを目指していた人がスクウェア・エニックスでCGグラフィッカーとなり、自分が夢破れたことに納得いかず、その知人の名前を1文字変えて自分の名前にしたという。そこはかとなく男の嫉妬深さが窺われる。

小説との訣別により憎しみの感情は急速に肥大化していった。また前科が付いたことでもそれまで自分を支配していた良心がなくなったように「タガが外れて」いったと口にする。すでにコンビニ強盗の後にも「小説がつっかえ棒になっている」と自覚していたことからも、自ら誤った方向へと、階段を下へ下へと向かっていったことになる。

19日の被告人質問で、青葉は自身も「やりすぎた」という事件を振り返り、「本当に火をつけるってことは行き過ぎだと思っていて、30人以上なくなられる事件ということを鑑みると、いくら何でも『小説ひとつでここまでしなきゃいけなかったのか』というのが、今の自分の正直な思いとしてあります」と述べた。

 

青葉は特定の誰かを標的にしていた訳ではないとし、遺族から「犯行直前にためらいや良心の呵責」について質問されると、「それなりの人が死ぬだろうと」思うとためらいもあったが「自分の10年間のことで頭がいっぱい」だったと言い、「被害者のこと」には考えが及ばなかったと述べた。

「被害者の立場では考えなかったということですね」との遺族からの質問に、被告は不満の色を見せ「逆にお聞きしますが、僕がパクられたとき、京都アニメーションは何か感じたんでしょうか」と質問で返し、裁判長から「今はあなたが質問される立場です」と制止される場面もあった。謝罪などはなく、「自分はこの立場なので罰は受けなければなりませんが、京都アニメーションが私にしたことは不問なのですか」と一方的に言葉を続けた。

依然として京都アニメーションから受けた「仕打ち」に対して「憤りはございます」と主張したものの、「もう少し『やってやった』と思うのかと思っていたが、意外となんか悩むこともたまに結構あるし、そんなことしか残らなかった」と犯行後も手応えや達成感のようなものはなかったとしている。

焼死した社員の中には、青葉が「盗作された」と主張するアニメが制作されて以降に入社した新人社員も含まれていた。新入社員の遺族からその点を問われると、「すみません、そこまでは考えておりませんでした」と詫びた。一方で、「京アニがパクっていることや社風を知らずには行って、金を貰って稼いでいる時点で、知らずにいるのは『どういうことなのか』と思う」と不満を述べた。

「あなたがハルヒをパクるのと、京アニがパクるのとは何が違うのか」との質問に、被告は「ハルヒは教科書として使っており、書いていく過程でパクったが、最終的に別の作品をつくっている」「京アニは、小説を落選させておきながら、著作権を自分のものとしてパクって放映しているのでいかがなものか」と持論を展開し、知る努力を怠った全員を同罪とする主張を行った。無論、先に指摘された似ていると解釈できなくもない箇所のような、学校や日常生活における一般的ともいえる表現に著作権が生じるとは考えられない。

裁判員からの犯行後の心境に関する質問に対して、「ある種、やけくそという気持ちじゃないとできない。一言で言えばやけくそでした」と答えた。また裁判員の「京アニでは各部署で専門が違っていて、(盗作されたとする)内容について知らない方もたくさんいたと思う。被告自身はそのことを知ろうとはしなかったのか」との問いに、言葉を窮しながら「知ろうとしなかった部分はあります」と述べ、「被告自身が知ろうとしなかったことは罪にならないのか」と問い詰められると、「至らない部分で、努力が必要な部分だと思います」とか弱い声で回答した。

青葉は被告人質問の最後に、事件について「多大に申し訳ないという気持ちはある」と初めて遺族や被害者に謝罪をした。

 

 

所感

裁判では、青葉被告の著しい他責傾向や犯行の計画性が判明した。背景には受け入れがたい苦しい暮らしがあったかもしれない、精神に異常性がなかったとは言えない。だが生きづらさを抱えているからこそ、「つっかえ棒」に思われた小説が男の生きる支えになっていた。それに気づかせてくれたのが『ハルヒ』であり京アニだったはずで、感謝こそすれ恨むべき相手などでは決してなかった。おそらくそのことを男自身が一番よく分かっていた。大賞を取って一発逆転を狙う賭けではなく、書き続けるために這いつくばってでも生きることをやめない発想の転換が必要だった。

青葉は強固な殺意を維持しながら犯行準備を重ねていたことからも、完全責任能力はあったと筆者は考えている。被害者に何らの落ち度もなく、犯行様態も甚大な被害が予測される危険性、残虐性の高い手段であり、社会や遺族からの処罰感情は免れがたい。何より青葉が加藤智大や小林光弘のフォロワーであったことから危惧されるように、本件が事件史に刻まれることでまた新たな類似犯を生み出す恐れがある。

 

2024年1月25日、京都地裁・増田啓祐裁判長は死刑判決を下した。

妄想性障害が犯行動機の形成に影響したと指摘する一方、犯行様態は性格の傾向や考え方、知識に基づいて被告自らの意思で選択しており、犯行前に逡巡するなど善悪の判断はでき、行動が制約されるほどの影響はなく責任能力はあったと認定された。

量刑理由として、36名もの尊い命が奪われた結果はあまりに重大で、その苦痛や恐怖は計り知れず、希望ある前途を絶たれた人々の無念さ、遺族の被害感情も著しく「極刑を望むことも当然」と指摘した。

被害者や犠牲者の家族からは、被告が後悔や反省の色を示さなかったことから、事件の重大さを理解できているのか、死刑判決をどのように認識するのかといった懸念も聞かれた。

京都アニメーション八田英明社長は「法の定めるところに従い、しかるべき対応と判断をいただきました」と捜査・司法等関係者の尽力に感謝し、スタッフ一同の精魂込めた作品を大切にし、これからもその遺志をつないで作品作りに努力していくと述べた。

1月26日、青葉被告の弁護士は判決を不服として控訴。今後、大阪高裁で審理が行われる見通しとなっている。

 

被害者のご冥福と関係者のみなさまの心の安寧をお祈りいたします。

 

京アニ事件が残したメディアの「実名報道」は、是か非か? » Lmaga.jp

増殖するデジタル性犯罪——n番部屋事件

 

 

「神神」の逮捕

2020年5月9日、韓国・慶尚北道地方警察は、児童青少年性保護法違反の容疑で京畿道安城市の学生を緊急逮捕する。ハンギョン国立大学建築学科4年生ムン・ヒョンウク(当時24歳)は学内で特定グループに属しておらず親友らしい親友もいなかったが、傍目に問題行動は見られず学業も疎かにしない模範的な学生だと思われていた。

しかしメッセンジャーサービス「テレグラム」上で通称「갓갓(神神・godgod)」としてチャットルーム「n番部屋」を創設し、かつてない規模のデジタル性犯罪の火種となったことで韓国を震撼させた。男のニックネームはSNS上で「わいせつな自撮り画像を投稿する女性」の呼称に由来する。

任意同行を求められたヒョンウクは当初抵抗を示したが、各方面からの証拠を突き付けられると容疑を認め、被害者に対して「申し訳ないことをしました」と謝罪を口にした。

IPアドレス等の特定だけでは言い逃れされる可能性があったことから、過去の携帯電話からの通信履歴の解析や先んじて動画制作に関与した実行犯への追及を重ねるなど、裏付け作業に半年以上を費やしていた。尚、デジタル捜査については犯罪者に証拠隠滅のアイデアを与えることになるため詳細は公開されていない。

自白によれば、大学入学後、20歳頃から児童や未成年の少女らに対して脅迫行為や性的搾取を繰り返してきたという。更に性的行為の様子を写真や動画で撮影し、それを同じ趣味をもつ変態相手に共有して金にしようと考え、当時爆発的に流行したテレグラムアプリの悪用を思いついた。

テレグラムにはグループチャット機能があり、電話番号などを知らなくてもニックネーム等によって相手をチャットルームに招待することができる。チャットルーム内で児童や未成年者らへのレイプ動画等を限定共有し、視聴希望者から入場料を取って招待することで違法な収益を得ていたのである。

被害者たちには性的同意など存在しない。神神を名乗る男は、自らの手で犯行に及び撮影したものの他にも、2018年12月に大邱(テグ)で起きた女子高生性暴行事件などの実行を指示した共同正犯であることを認めた。

SNSで少女たちに接近し、自らを警察だと偽って彼女たちの個人情報や露出画像を引き出す。その後、脅迫して面会や性的行為を強要し、撮影した記録を流出させると脅迫して口止めするという、ありきたりだが周到な手口だった。

2021年4月、大邱(テグ)地裁は求刑無期懲役に対し、懲役34年の判決を下した。量刑不服として検察、被告側共に控訴したが棄却。同年11月11日、最高裁は上告を棄却し、懲役34年に電子足輪30年の量刑が確定した。

 

ムン・ヒョンウクは、チャットルーム商法を拡大させるため、通称「코태(コテ)」ことアン・スンジン(24歳)に「n番部屋」の共同運営を持ち掛け、被害少女への脅迫行為や性的搾取動画の制作などを指示し、合わせて8つのルームを運営した。

共犯者スンジンは2020年6月15日逮捕。児童ポルノ1000点の流布、関連品9200点の所持容疑を受けた。裁判ではSNSを介して10人余りを脅迫し露出画像データを送信させ、2015年4月に発生した12歳少女への性的暴行の嫌疑についても争われることとなった。ポルノ中毒と性的欲求解消のために犯行に加担したことを認めた。

大邱地裁は求刑懲役20年に対して懲役10年の判決を下し、検察側は量刑不服として控訴したが、2021年4月、高裁は原審判決を支持。上告はなく刑が確定した。出所後も青少年関連施設での就業は制限され、80時間の性暴力矯正プログラムの履修が義務付けられている。

 

そもそもの事件の発覚は、2019年3月、「n番部屋」で娘の性被害動画が流布されていることを知った被害者家族による通報だった。デジタル性犯罪被害者支援センターが調査に乗り出すと、テレグラム上では未成年者に対する甚大な性犯罪動画が蔓延しており、性的搾取の巣窟とされていることがすぐに明らかとなった。同センターは女性家族省の管轄で捜査権限がないことから、慶北地方警察庁に本格的な刑事捜査を要請した。

チャットルームは招待制となっており、多くはTwitterをはじめとするSNSで客や女性の勧誘が行われていた。客寄せの投稿では、露出画像が貼られたメッセージに「#露出」「#逸脱」といった好奇を煽るハッシュタグが付され、実際の購入者は口座振替や暗号通貨、文化商品券(「レジャーランド社」発行の書店、映画、レジャー、飲食店、ショッピングなどで広く利用できる商品券。デジタル版も普及している)などで決済していることが分かった。

「n番部屋」に関して、最終的に身元が確認された被害者は40人余りに及び、2年半で275回の撮影、直近1年間で3762件の動画が共有されており、各部屋は300~700人余りの来場があり、基本価格は10000ウォン(およそ1000円)分の文化商品券であった。利用用途が広いことから使用しても足がつきづらいことを算段に入れていたとされ、収益は延べ90万ウォン程という。

だがテレグラム内の性搾取チャットルーム問題がはじめて報道された2019年初旬には8つあった「n番部屋」だけでなく、すでに複数の管理者の手によって数十におよぶ派生ルームが「増殖」していた。

その正確な視聴者数は明らかになっていないが、2020年1月までに56の性搾取チャットルームの単純合算PVの総数は26万再生に及んだ。デジタル性犯罪の恐怖はその数に留まらず、二次配布が無限に、理論上は半永久的に繰り返されてしまうことにある。被害者の中には自ら命を絶った者もおり、事件発覚後は早急な削除と監視が強化されたが、ともすれば死して尚、ネット上あるいはだれかの記録媒体の中には動画や露出画像が今も消えずに残されてしまっているかもしれない。2020年12月の捜査終了までに確認されたテレグラム性搾取全体の被害者の総数は1154人に達した。

利用者情報の開示が迅速に進まなかったことや、その被害規模によって各チャットルームに関連する事件の洗い出し、犯行グループの解明や実行者の裏取りは難航し、「n番部屋事件」として報道されるまでには半年近くの時間を要した。

 

サイバー亡命

2013年8月にロシア人実業家ドゥロフ兄弟によりiOS向けにリリースされたメッセージアプリ「テレグラム」は、開発者向けにAPI(アプリケーションプログラミングインターフェイス)が公開されていたことにより、アンドロイド、WindowsLinuxmacOSや各種Webブラウザまでサポートを拡大。無料クラウドストレージの大容量や、ソーシャル広告などの収益化を2021年11月まで見送ってきたこともあり、2018年3月にアクティブユーザー2億人を突破し、日に15億メッセージをやりとりする巨大アプリとして人気を博した(2022年6月期でアクティブユーザー7億人とされる)。

元々、ドゥロフ兄弟らはサンクトペテルブルクで「ロシア版フェイスブック」とも言われるSNS「フコンタクテ(VK)」を創業し、30億ドル相当となるロシア最大の事業規模にまで急成長させた気鋭の起業家だった。

2014年4月、ロシア最大手の検索ポータルサイト、メール通信事業を手掛ける「Mail.ru」がVK株式の過半数を取得。ウクライナ危機の影響下にあって、Mail.ru側は創業グループに対して様々な条件を課してきたという。ドゥロフ兄弟は、連邦保安庁へのユーザー情報の引き渡しや、政治的交流の制限に対して猛反発してVKを追われることとなった。「プーチンの犬に追い出された」「この国はインターネットビジネスと両立しない」として「テレグラム」事業と共に亡命を表明。彼らの母方親族はウクライナ家系であった。

兄弟はリバタリアン(完全自由主義、反隷従主義)を自称し、国家による検閲や要求には従わない対決姿勢を示し、ドイツ・ベルリンやUAE・ドバイに開発拠点を移して、テレグラムの暗号強化や暗号通貨の開発に勤しんだ。ロシア治安当局はテレグラムのロシア市場からの締め出しを試みたが、テレグラム側はドメインフロンティングにより検閲を回避し、結局2020年までにブロック命令は解除された。

 

当初テレグラムは機能面において先行する「WhatsApp」や「KakaoTalk」の下位互換と見なされていた。しかし2014年9月にパク・クネ大統領がネット上でのデマ拡散に強く対処する方針を打ち出したこと、10月には労働党チョン・ジヌ副代表への捜査の過程で3000人分の個人情報を含むKakaoTalkの通信内容が検閲されていた事実が明らかとされた。

通信傍受に対する危機意識の高まりに加え、テレグラムのセキュリティの高さが謳われたことから、韓国国民は国産アプリを逃げ出し、大挙して「サイバー亡命」のうごきを加速した。だがテレグラムは国外にサーバーが置かれているというだけで、実際には正式な手続きが認められれば開示請求にも応じるとされている。

またn番部屋事件とは無関係だが、2014年9月には被疑者が「Gmail」を使用していただけで「隠蔽工作にあたる」として逮捕令状が請求・発行される事件も起きたことを鑑みれば、当時の韓国におけるサイバー犯罪捜査は過度に強制力を持ちすぎていたとも言える。国民の側もセンシティブになっており、その反動も大きくなったと言えるだろう。

そうしたことからテレグラムは韓国内で大きくシェアを伸ばしていったが、他のSNSでの規制強化や締め出し、摘発逃れ、新規顧客開拓のために、違法な金儲けを企む犯罪者たちも「安全神話」を誇る新たな「理想郷」へと殺到することとなる。

 

韓国の性犯罪対策

カメラ機能付携帯電話などの普及に伴って、2010年頃からデジタル性犯罪は先進諸国で社会問題となっている。なかでも「盗撮」は参入障壁の低い性犯罪のひとつとして以前から広く知られており、一種の変態趣味として画像の共有や売買を行うグループなども存在する。

日本での状況を見ておくと、元交際相手の加害者男性が動画共有サイトに被害者との性行為動画を投稿した2013年10月発生の三鷹女子高生ストーカー殺人で「リベンジポルノ」という概念が知られることとなり、翌14年にリベンジポルノ防止の関連法が成立した。しかしSNSスマートフォンの普及などを背景に年々その被害相談は増加しており、2022年には1728件(前年比100件増)となっている。だが同法で有罪になる場合も多くは初犯で執行猶予が付くことが多く、被害者側は一生残る「デジタル・タトゥー」を刻まれかねないことに対して量刑があまりにも軽すぎるという見方もある。

2021年2月に発生した旭川女子中学生いじめ凍死事件でも自慰行為の強要や撮影が行われ、脅迫や拡散される被害があったとされている。「撮らせる方も悪い」といった論点はナンセンスであり、単なる嫌がらせ・報復に留まらず、面会や金銭を要求する脅迫行為へとエスカレートするケースが非常に多い。

現行法では撮影者不明や行為者本人による撮影だったとしても、私事性的記録物の不特定多数者への流布・販売および公然陳列に対して、3年以下の懲役または50万円以下の罰金に処される。2022年度は1728件の被害相談が寄せられており、20代、10代の被害が7割を占め、男性被害も含めて年々増加傾向にある。

ネット上での画像や動画に関わる犯罪として、性的部位や下着などの盗撮や拡散を取り締まる「性的姿態撮影罪」のほか、わいせつ目的で手なずけて面会を求めたり、性的な「自撮り画像」を要求する、いわゆるグルーミング性犯罪に対して「性的面会要求罪」も新設された。

警察庁生活安全局の報告によれば、令和3年度の児童買春、児童ポルノに関わる被害児童数は993人で平成24年の424人から134%増加した。SNSに起因する強制性交等の被害児童は34人(H24.の14人から142%上昇)、強制わいせつ行為の被害児童は17人(H24.の6人より183%上昇)である。

 

EUでは、2000年代からウェブ上でのプライバシー保護の在り方と「表現の自由」や「知る権利」との両立に関する議論が広く行われており、2011年、フランス人女性がgoogleに対して過去のヌード画像の消去を請求して勝訴し、世界で初めて「忘れられる権利」を認める画期的な判決となった。現在「right to erase(消去権)」として認知されているが、削除に応じる細かな基準については今日も世界中で議論が続けられている。

アメリカでは州によって対応する法律が異なり、ニュージャージー州ではゴシップ拡散防止のために無許可画像や録音の流出を禁じており、カルフォルニア州ではリベンジポルノそのものを違法としている。2014年1月、投稿型リベンジポルノサイト「Is Anyone Up?」では公開画像の削除を求める相手に対して法外な金銭を要求するビジネスとして運営されていた実態が明らかとされ、運営者が逮捕された。2015年4月、サンディエゴでも「revenge porn」サイト運営者が同様の金銭要求の手口により逮捕され、懲役18年が課されている。

 

韓国では、盗撮物の販売や流布、サイバーストーキング等のいやがらせ行為なども含めて「デジタル性犯罪」という概念が普及している。デジタル機器と情報通信技術を媒介にオン・オフライン上で発生するジェンダーに基づく技術的暴力と定義される。「製作」や「流布」のみならず、犯罪集団の違法活動に「参加」したり、閲覧によって「消費」することも性犯罪に加担することとみなされる。

カメラ等撮影物の公開による被害届は2012年度から2016年8月までの4年8か月で1万件を超えており、2007年時点では性暴力犯罪全体に占める割合は4.9%だったが、2015年には24.9%と大幅な増加が確認された。更に近年では合成編集によるディープフェイクやAI生成ポルノの量産も問題視されている。

背景として、まず2007年4月の性暴力犯罪関連法の大幅改正がある。未成年者被害の場合は非親告罪となったことで、強姦および強制わいせつの相談件数は2007年度;13,396件から2011年度;19,498件へと大幅に増加した。

再犯防止策として、性犯罪歴のある者に対するGPS装置による電子的監視、いわゆる「電子足輪法」が導入された(後に殺人及び未成年者略取誘拐の犯歴者も対象に追加された)。性犯罪前科者や電子足輪者の居住地域など周辺住民への情報公開も行われている。また女性家族省は性犯罪再発予防プログラムを開発し、啓発活動や入所中の矯正訓練に用いられている。

しかし2008年12月、京畿道アンサン市で当時小学1年生の女児が顔面骨折と怪我、性的虐待を受けて局部の80%を破損し重い後遺症を負う事件が起きた。強姦前科のあった加害者チョ・ドゥスンは逮捕されたが犯行当時は泥酔状態で刑法10条2項により心神耗弱だったと判断され、懲役12年の判決となった。幼い子どもに対する非道な加虐、生涯に渡るトラウマと身体的障害を負わせながら、その量刑はあまりに軽すぎるとして社会的議論を呼んだ。

2010年7月には、被害者が16歳未満となる児童性犯罪者に対して性衝動を抑制するための化学的去勢を行う「薬物治療法」が制定され、翌年施行された。これは2013年に被害者年齢の規定が撤廃され、「性倒錯症患者」と認められれば適用可能となっている。

日本と同じく家父長制の影響下にあった韓国社会では、長らく女性や子どもに対する人権意識が低く、近年急速にジェンダーギャップ解消の政策と法制度の見直しが進められてきた。時事に対する世論の反応は大きく、以下に見るトガニ法など、さまざまな事件を通じて児童・青少年の保護や性被害に対する支援を訴える声は法整備を強く後押ししてきた。

 

2009年、韓国の作家孔枝泳(コン・ジヨン)は、光州の聾啞者福祉施設インファ学校で実際にあった入所児童に対する性的虐待をモチーフにした小説『トガニ 幼き瞳の告発』(創作と批評社、日本版;新潮社)を発表し、大きな議論を巻き起こした。トガニとは日本語で坩堝(るつぼ)を意味する。

トガニ: 幼き瞳の告発

施設では2000年前後の10年近くにわたって校長や職員らによる児童への性的虐待が日常的に繰り返されており、2005年6月に一部職員が告発に動いた。しかし提出先の光州広域市教育庁ら関係機関は介入を拒み、7月には市民団体が対策委員会を発足させたが学校の財団側との交渉は膠着状態が続いた。

05年11月になってMBCテレビの追跡報道番組『PD手帳』で事件が公にされると、職員2人が性暴力容疑によって逮捕された。しかし対策委は、事件を矮小化し組織ぐるみの隠蔽が行われているとしてその後も財団役員の一掃を求める抗議や座り込みを続けた。2006年8月には国家人権委員会が役員解任を勧告し、加害者6名が追加告発を受けた。

法廷での争いは続いていたが、2007年3月には中高等部学生8人が登校を拒否し、4月から教育庁前で約1か月にわたってテント授業を敢行して抗議の意志を示した。5月28日、学生らは校長に対して卵や小麦粉などを投げつけると、31日、学校長は該当学生を暴行容疑で刑事告訴する。6月には懲戒免職されていた加害職員が復職し、自身の告訴取り下げを求める署名を集めて提出。9月には対策委に参加した教職員の任用取り消し、停職、減給などの懲戒処分を行い、当初告発した職員には自宅謹慎を命じた上で最終的に解雇を決定する。法廷の外で泥沼化した争いが続けられるなか、10月10日、性的虐待の罪で前任校長に懲役5年が求刑された。

世間の関心は徐々に薄れていたが、2009年6月に小説『トガニ』が出版されて事件は再び大きな注目を集めた。2010年には再びインファ学校で性的虐待の疑惑が浮上するも、学校側は自治体の調査を拒否。学校側は校名の変更やリハビリ対象者を言語聴覚障害から知的障害に広げる申請を行うも、対策委の糾弾アピールによって反対の世論が再燃。

11年9月には映画『トガニ』公開によって大きな社会問題となり、11月17日、青少年性保護法、通称「トガニ法」が施行された。障害者および13歳未満の児童に対する性的暴行、養護・教育施設職員による児童への性的虐待に対して、通常よりも量刑が加重されることとなった。さらに児童および障害者被害者事犯での公訴時効の廃止、公判で被害者側が立証を負わないこと等を盛り込んでいる。

 

2012年12月、性犯罪対策として6つの改正法が公布され、厳罰化が進み、諸問題の是正や対策が強化された。

韓国では刑事訴訟法第232条で、被害者が一審判決前なら告訴の取り消しができる(被害者が事件化を望まない場合は起訴されない)「反意思不罰罪」という制度が存在した。そのため加害者側関係者から被害者側に告訴の取り下げを求める脅迫や懐柔といった二次被害の発生が問題視されていた。このときの改正で性犯罪における年齢制限なしの非親告罪化が行われ、反意思不罰罪も除かれた。

また従来法では「婦女」または「女子」に限られていた条項が「人」に改められ、性別区分を撤廃。強制わいせつの範囲についても、性交類似行為として口や肛門などへの性的行為の範囲を広げ、性器以外でも指や道具の挿入なども対象とされた。

電子足輪についても、装着対象が13歳以下の児童被害者事犯と限定されていたものが、19歳未満に引き上げられ、対象者の枠が拡大された。装着命令以外にも保護観察命令が可能となり、捜査機関と保護観察所の連携強化が進められた。元加害者には半年~1年毎に出頭命令を受けて登録情報の更新が確認されている。

特例法として「のぞき」「盗撮」など性的欲望のために公衆トイレや公衆浴場等への侵入を規制する罰則条項も加えられた。また性犯罪者は刑執行から10年間、塾・学校・保育・医療機関への就業制限が課されていたが、その対象は後にネットカフェ、青少年活動企画業、芸能事務所などへも拡大された。

 

2017年にデジタル性暴力防止法が成立。2018年4月から相談窓口や被害届申告をサポートするデジタル性犯罪被害者支援センターが設置され、頒布された動画などの緊急削除や司法手続きのサポート、メンタルケアへの支援、被害者救助金支給などを行っている。性暴力に対する被害者側の犯罪認識が浸透したことで、届出の件数は3万件を超えるようになった。

日々流出され、増殖される性搾取物の量は甚大で、削除支援スタッフは有害サイトのモニタリングや削除した被害映像の再配布がないかなどのチェックも続けられる。2020年の削除件数だけで12万5000件にも上り、月平均約9000件の削除支援を続けている。

日夜あらゆる虐待相談や凌辱映像に晒されるスタッフたちの精神的疲労やトラウマも大きい。スタッフの一人は飲食店に行った際にトイレの様子を確認する癖がついてしまったと語る。トイレでの「盗撮」映像があまりに多いため、自身も盗撮されているのではないかという強迫観念が芽生えてしまったのだという。あるスタッフは、ハッキング被害やクラウドデータの流出に恐怖を感じ、友人との写真を撮らなくなったという。彼らはカウンセラーによる支援を受けながら日々業務に当たっている。

 

2019年11月、リベンジポルノは芸能界でも悲劇を生んだ。女性アイドルグループ「KARA」のメンバーだったク・ハラさんが自殺し、遺書には記されていなかったが、元交際相手の男性から「セックス動画を流出させる」と脅迫されたとして前年から裁判を起こしていたことも原因のひとつと考えられた。Twitter上では「K-POPファンのみんな、性的虐待をした男を刑務所にぶち込もう。裁判はまだ係争中であいつは今も自由の身だ。もうハラは救えないけれど、彼女や虐待を受けた女性全てに正義をもたらすことはできる」といった元交際相手糾弾のメッセージやハッシュタグに溢れた。

※韓国刑事政策研究院キム・ハンギュンは論文『デジタル性犯罪遮断と処断 -技術媒介ジェンダーベース暴力の刑事政策』(ジャスティス第178号)の中で、「リベンジポルノ」などの過度に類型化した抽象的な用語は犯罪実態を不適切に捉えているとして用語の見直し、概念の言語化や再構築を求めている。

디지털성범죄 차단과 처단 - 기술매개 젠더기반 폭력의 형사정책 - - 저스티스 - 한국법학원 : 논문 - DBpia

日本語のいわゆる「嫌韓サイト」などでは、性犯罪認知件数などの折れ線グラフだけを挙げて「右肩上がり」を印象付け「韓国は性犯罪件数が年々増加している」との主張が掲げられている。だがむしろ実態としては、規制の拡大強化、法的手続きの促進、被害者支援が整ったことにより適切な対処が行われるようになった所産であり、埋もれていた性犯罪被害が顕在化したと言う方が適切である。窃盗被害や多くの殺人とは違い、数字に表れない、事件化されない被害も多数存在するのが性犯罪の難しさでもある。

2020年12月、刑期を終えた前述のチョ・ドゥスンが出所し、アンサン市の自宅へ戻ると多くの市民に取り囲まれて周辺は一時騒然となった。元受刑者に対する御しがたい反感と話題性が喚起され、出所前からYouTube等動画配信者らが自宅を取り囲んでいたのである。配信者や著名人の中には彼に報復行為を予告し、実際に殺害目的で刃物を持って釜山から馳せ参じた36歳男性が逮捕された。私刑YouTuberたちが振りかざす正義は、収益のソロバンや犯罪と紙一重である。

youtu.be

2021年には性暴力犯罪が全体で32,080件、検挙率は90.4%、29,013件だった。再犯率は6%で前年より0.3%減少。デジタル性犯罪は4349件で、盗撮など不法撮影が大きく増加している。

 

増殖した部屋

事件に話を戻そう。事件発覚当時、テレグラム内では「神神」ことムン・ヒョンウクが主導した8つの「n番部屋」の他にも、同じような性搾取チャットルームが増殖していたことはすでに述べた。

便宜的に「n番部屋事件」と総称されているが、厳密にいえばテレグラム内で同時多発的に行われていた未成年への性搾取・わいせつ画像の違法販売事件が複数含まれている。リンク広告を乱発して積極的に客を誘導していた「ゴッサム部屋」や、撮影物をランク付けしてより高額な入場料で好奇を煽った「博士部屋」などの方が悪質さにおいては顕著ともいえる。

 

ハンリム大学に通う二人の若者は2019年7月からYouTubeチャンネル「追跡花火団」の中で、テレグラムの「1番部屋」や派生ルームのひとつ「ゴッサム部屋」などに潜入した。リアルタイムで行われる未成年者への性的搾取やレイプ動画などの陰惨な犯罪を目の当たりにした二人は、警察庁サイバー安全局に通報するとともに、まだ事件が公にならない時期から証拠になりそうな内容を一つ一つキャプチャ撮りしてその内情や動向を追跡報告していた。

n番部屋は未成年者の性的搾取が大半を占めており、行為内容は多岐にわたるが、被害者たちは犬の真似、男性トイレでの脱衣、カメラを見ながらの自慰行為などを強要されていた。管理者らは女性のことを侮辱し、しばしば“血まみれ”と呼んでいた。

ゴッサム部屋は「AV SNOOP」という名のアダルト物流サイトにバナー広告を貼って客を誘引しており、「博士部屋」など別の管理者の広告もあった。7月時点でゴッサム部屋の参加者は約4000人以上。それぞれの派生部屋には3000点以上のわいせつ動画がアップされていた。

彼らのように通報のためにチャットルームに潜入する者もいたが、部屋が遮断されるとすぐに別の管理アカウントが新たに「非難部屋」を設けるいたちごっこが繰り返され、通報対策として管理権限者を置かない「平等部屋」さえ作られた。

神神は2019年7月、過激化路線をとるゴッサム部屋に現れ、「ここまでやったら死人があってもおかしくないのに未だにそんな話聞いてない(笑)一人でも死ねば警察に毎日殴られて、みんなの“お手本”になるのに」と嘲笑した。

8月、高校生を自称していた神神は「受験勉強のためチャットルーム運営から手を引く」と言い出し、ゴッサムメンバーに無償でn番部屋入場リンクを配布。管理権限を通称「ケリー」に引き渡してテレグラムを脱退した。結局n番部屋は9月初めに閉鎖し、ゴッサム部屋が違法コンテンツやユーザーを吸収するかたちとなり、11月までに7000人余りの大所帯に膨らんだ。

しかしゴッサム部屋の運営者「ウォッチマン」ことチョン・モ(38歳)は、過去にも同種の性犯罪を起こして執行猶予の身だったこともあり、捜査の早い段階で足がついた。10月までに逮捕され、余罪追及などの取り調べが密かに続けられていた。捜査状況は詳しく明かされなかったものの、警察から「ウォッチマン」逮捕を知らされた花火団の二人は喜びのあまり大学図書館で飛び跳ねたという。

2020年11月、一審・水原地裁で懲役7年の判決を受けたチョン・モは、量刑不当を主張して控訴、上告。裁判ではいずれも棄却され、2021年9月、同量刑のまま確定した。

その後も二人は性搾取被害の一掃を志し、ハンギョレ新聞の要請で「博士部屋」関連記事に協力し、追跡調査や未解決事件を扱う報道番組「それが知りたい」「実話探偵団」などに情報提供して事件の公論化を促す役割を担った。2020年に入って国内での認知が広まると、逮捕や裁判の度に「n番部屋事件」の事情通として取材や執筆を行い、ジャーナリズムにおいても花火団二人の成果は多くの賞に輝いた。学生活動家のひとりは名を伏せたままジャーナリストの道へ、もうひとりのパク・ジヒョンは政界へと活躍の場を移した。

 

n番部屋の閉鎖が取り沙汰された2019年9月頃、通称「博士」はゴッサム部屋を訪れ、「うちの部屋に味見にくるように」と自分のチャットルームの宣伝活動を繰り返し顰蹙を買った。不満に思った人々が博士を追い出そうとすると、個人情報を暴露されて返り討ちに遭った。

博士部屋では、公然わいせつや自傷行為、異物混入、便食などのほか、いわゆる「アヘ顔」など日本のポルノマンガ等で見られる拷問的妄想を現実の女性たちに強要した。無料で見られる「味見部屋」や掲示板のほか、入場料25万ウォンで国産スナッフが共有される「ハードルーム」、100万ウォン(後に150万ウォンに値上がり)の「最上位グレード部屋」は「リアルタイムで奴隷監視できる最強の部屋」と謳われた。更にメンバーの活発な活動に対して「経験値」を賦与し、高い等級になると秘密部屋へとメンバー限定で招待した。

博士は「イギヤ」「ブタ」「チィン」「カマキリ」「ヌム」「キム・スンミン」といった幹部たちに指示を送り、性的暴行とその撮影、宣伝広報、チャットルームの運営、資金洗浄などの業務を割り振り、幹部たちは従業員メンバーらとその役割を果たした。

ランクの高い部屋には「芸能人も含まれる」と喧伝され、入るためには身分証明が求められた。博士は神神とは異なり、性倒錯や性依存の傾向はなく、そうした人々をカモにする典型的な詐欺師であった。「博士部屋」は変態趣味の秘密の部屋ではなく、変態向けに蟻地獄を仕掛ける詐欺集団に他ならなかった。後の警察発表では、有料会員ほか、所持や二次配布などで罰金刑などを課せられた会員は2454人に及んだ。

被害者の大半は「条件付き出会い」、いわゆる「パパ活」や「売り(売春)」目的の女性たちで、Twitterの「#闇バイト」「#高額バイト」でおびき寄せられていた。目先の金を必要としながら社会経験も少ない彼らは言われるがまま住民登録証や口座番号、連絡先を伝えてしまい、脅迫のネタとされると共に、販売される「動画」のオプションにされた。被害女性は74人、うち未成年者は16人。ソウル、イルサン、仁川、江原など犯行地域は様々だった。

騙されてホテルなどに連れ込まれた女性たちは撮影や凌辱行為に抵抗するが、躊躇すれば「SNSで家族や友人、同僚に露出画像を送信する」「自宅にエージェントを送って家庭を破壊ないし家族を殺害する」と脅迫を受けた。電話や住居を変えて彼らの「管理」から逃げのびても、映像となった「人質」を取られているため、見えない鎖がかけられた状態で通報はためらわれ泣き寝入りを余儀なくされた。

博士は「新たな奴隷」として女性たちの凌辱動画を公開し、会員たちはチャット上で博士に媚びへつらい「もっと欲しい」「輪姦したい」と歓喜する、王様と施しを受ける下級市民のような関係性が醸成されていった。博士は検挙されないという根拠なき自信を持っており、違法ポルノによる集金システムの構築を「ブランド化する要領だった」と語っている。

 

2020年3月16日から17日にかけて「博士」こと短大生チョ・ジュビン(当時25歳)ら博士部屋運営幹部4人を逮捕。それぞれ管理役、実行役など共犯者は13名に上り、組織化されたグループ犯罪として量刑が加重された。

ジュビンは逮捕直後に自殺未遂を図り、首にプロテクターを装着されていた

 

逮捕のきっかけは暗号通貨の引き出しで、実行役の「ブータ」ことソウル科学技術大学の学生イ・カンフンが検挙された。すぐに身柄を拘束されなかったカンフンは、テレグラムでチョ・ジュビンに「1」と送った。これは先だって有事の際に連絡することになっていたメンバー内での暗号であった。

しかしジュビンは、カンフンが引き出した金を持ち逃げしようとしているのではないかと疑ってオンラインで連絡を取り続け、捜査本部に発覚。逮捕されるまで彼が首謀者「博士」である事実は掴めていなかった。仮想通貨の口座から32億ウォンに上る犯罪収益が押収され、資金洗浄の動きや組織の内情が徐々に判明した。

Buddaことカンフンは逮捕時未成年だった。

3月25日、チョ・ジュビンはソウル・チョンノ警察署前でフォトラインに立ち、「ソウル市長や記者をはじめ、私に被害を受けたすべての方にお詫び申し上げます。歯止めが利かなくなっていた悪魔のような人生を止めてくれて本当にありがとうございます」との言葉を残して場を後にし、その不遜な態度は人々の顰蹙を買った。逮捕前、彼はn番部屋事件を報じていた記者に対して家族写真を流出させる等の報復行為を行っていた。

チョ・ジュビンは「博士」のプロフィールとして、1974年生まれの既婚者でカンボジア在住の興信所社長だと幹部にも偽っていた。はじめから金銭収奪および詐欺を目的として性犯罪を繰り返し、犯罪集団に仕立て上げた罪質の悪さから、無期懲役が求刑された。一審では懲役40年が宣告されたが、別の性犯罪と隠蔽罪が加わり、二審では懲役42年とされた。2021年10月14日、最高裁は懲役42年に電子足輪30年の合併72年刑が確定。その後も「博士部屋」以前の強制性交や性搾取が明らかとなり、量刑が追加されている。

性犯罪はその被害の及ぼす影響に比べて量刑が軽すぎるという批判が根強く、重罰を望む声は大きかった。本件では積み重なった悪業を加重刑とみなすことで、有期刑として歴代最長となる判決が下された。性被害による精神的傷害は完全に癒えるものではなく処罰感情の減退は期待できないことから、彼らに仮釈放が認められる可能性は限りなく低い。2062年までは収監される見込みである。法改正のみならず、裁判所が国民の声を聞き、時代に沿った新たな基準となる判例を示すことも、同類犯罪者や将来の禍根を断つうえで大きな意味がある。

一方で、判例主義に則るあまり社会性を失ったような過少な判決も多くみられる。イ・カンフンは「博士部屋」運営の主要な共犯者として、多くの参加者を集め、性搾取映像の制作や流布を行い、直接対面したことのないジュビンの「右腕」となって積極的に加担したとして、検察側は求刑懲役30年を求めた。一審では懲役15年の判決が下され、量刑不当による控訴・上告は共に棄却され、同量刑で確定した。

韓国では国民の「知る権利」に照らして、特定強力犯罪者について逮捕前に身の上情報が公開される制度がある。本件ではネット上の「匿名性犯罪者」たちの容貌にも関心が集まり、ネット民による「評価」は誹謗中傷罵詈雑言の嵐となった。カンフンは未成年であったが、その罪状の悪質性や社会的影響の大きさ、まだ明らかになっていない類似犯罪に対する抑止策の一環として実名報道とされた。

 

本事件で韓国国民はデジタル性犯罪に対する認知とその被害の深刻さに理解し、厳罰化への舵が一層切られることとなった。だが2019年以来テレグラムでの取り締まりが厳格化すると、米サンフランシスコを拠点とするメッセンジャーアプリDiscordでも同様のチャットルームが増殖をはじめ、大小112か所、単純合算で30万以上のアクセスがあったと推計された。警察庁がDiscordでのサイバー捜査方針を示すと11万人のユーザーがサーバーを「脱出」したという。

先だって2020年5月、性的自己決定権の保護を名目として、それまで13歳以上とされてきた性交同意年齢を13歳から16歳に引き上げ、成人(19歳以上)による姦淫又はわいせつ行為を処罰の対象とした。一方でノウハウが拡散されたことにより加害者の低年齢化も見られ、中高生が運営する違法チャットルームも不拘束立件された。

ソウル市は2022年にデジタル性犯罪安心支援センターを設置し、第2第3のn番部屋事件の被害を防ぐことを目標に掲げた。2023年3月、開館一周年を迎え、全国初となるAIディープラーニング技術を導入した24時間体制のデジタル性犯罪自動追跡監視システムを開始することを発表した。これまで懸念されていたモニタリングの人的負担は低減され、その速度や正確性も向上しているという。とりわけ「児童・青少年の性保護関連法」により本人の要請なしでも削除できる未成年者保護には効果が期待できる。11月の報道によれば、検索時間は97.5%削減され、削除支援は2倍の成果を収めているという。

 

従来、性犯罪は身体への加害がその本質とされ、罪状が定められてきた。しかしデジタル性犯罪においては、画像の加工や編集によって物質的肉体とは異なる次元での加害が可能となる。また例えば中高生アスリートやチアリーディングなどを撮影した動画はしばしば児童ポルノ的消費を疑わせる。フィギュアスケーターやダンサーは肉体美や優れた表現力で人々を魅了するが、観客の目は性的消費と何が違うのか。動物の交尾は問題にならないのならば、人外キャラクターのアニメーションなら何でもありなのか。美女が薄着でキャンプをしたり、男性が筋肉を見せつけながら料理したりする動画は本当に「ポルノではない」と言い切れるのか。私たちは性犯罪の概念を常に線引きし直し続けていく必要がある。

 

被害に遭われた方々の心の安寧をお祈りいたします。

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参考

https://www.waseda.jp/fsss/iass/assets/uploads/2023/06/01fe7f617186dc5febd61df11f31ed1a.pdf

「トラウマになるほど衝撃的」…デジタル性搾取物を削除する人たち : 政治•社会 : hankyoreh japan

寝屋川4乳児コンクリート詰め事件について

事件の概要

2017年(平成29年)11月20日午前9時30分頃、大阪府寝屋川市西部にある寝屋川署高柳交番に50代の女が出頭し、「4人の乳児を自宅でコンクリート詰めにした」「段ボールに入れて自宅に保管している」などと申告した。

 

警察が捜索令状を取り、女の自宅マンションを捜索したところ、供述通り押し入れからコンクリート詰めされたバケツが見つかった。押収してX線照射によるCT(コンピュータ断層撮影)検査などにかけて内容物の確認を行い、画像診断の結果、4つのバケツにそれぞれ乳児とみられる遺体が確認された。

大阪府警死体遺棄事件として寝屋川署に捜査本部を設置し、女から詳しい動機や経緯を調べることとし、21日未明に死体遺棄容疑で女を逮捕した。

 

逮捕されたのはアルバイト斎藤真由美(53歳)。2015年夏ごろに高柳7丁目の集合住宅の3階に越してきて逮捕当時は10代の息子と二人暮らしだった。場所は寝屋川市駅の西約1.7キロにある混み入った住宅密集地で、7月以降は家賃を滞納していた。斎藤は町内会にも入っておらず、住民らとの付き合いはなかった。

なぜ20年経ってから唐突に自首したのか経緯ははっきりしなかったが、「なぜか、今日打ち明けようと思った」と語り始め、「これまでずっと悩んでいた。死のうとも考えたが、育ててきた子供もいるので一人で死ねなかった。相談できる相手もいなかった」と話した。

4人の子どもは「1992~97年の間に市内の別の場所で出産し、産んですぐにバケツに入れた」と言い、「金銭的に余裕がなく、育てられないと思った」などと説明した。発見されたとき、段ボール内のバケツには蓋がされてポリ袋で包まれ、厳重にテープで巻かれていた。

「こどもを死なせてしまった」との自責の発言もあったが、「生まれたときに泣いたり動いたりしなかった」と死産をほのめかす供述もあり、出産時の状況について慎重な調べが必要とされた。

11月21日、捜査本部は死体遺棄容疑で斎藤容疑者を逮捕。翌22日、同容疑で送検した。

 

偶然

亡くなった乳児の父親は、斎藤容疑者が20~30代頃の元交際相手と見られた。同じ職場で交際関係となり、同居していた時期もあった。だが府警が任意で男性に事情を聞いたところ、4人について「妊娠も出産も知らなかった」と説明した。

斎藤が乳児たちを生んだ当時は寝屋川市池田旭町の住宅で暮らしており、バケツは敷地内に放置していたものとされ、高柳に転居する際に一緒に持ち込まれた。

斉藤容疑者も「もし妊娠を知られたら育てるしかないと思った」と供述し、だれにも打ち明けないまま孤立出産し、「全部自分一人で」犯行に及んだことを認めた。

11月23日の東スポWEBでは、かつて近隣で暮らした住民の証言として「24歳と17歳になる男の子どもが2人」いて、登校時の見送りや外食する姿などが見られていたと報じている。斎藤は遺棄した理由として経済的事情を述べていたが、その一方でパチンコ店通いやそこで知り合った男と交遊があったとする声も取り上げている。

また斎藤は若い頃から生活保護を受給しており、過去には50~60代男性と子育てしていたという。育てていた二児は彼の子どもなのか、父親知らずだったのか。だが受給資格の関係から結婚せずに内縁関係にあったのではないか、と住民は語る。年配の交際相手と別れてからも、「男の出入り」はあったとしている。

 

11月28日公開の週刊女性PRIMEでは、斎藤が以前暮らした池田旭町での様子を伝えている。

斎藤の母親は近くで居酒屋を営んでいたが、10年ほど前に他界。生前は弟と共に斎藤の暮らすアパートにも出入りしていたという。東スポの記事では、斎藤の親が営む「店の常連」が年配の元交際相手だったとしている。

家族仲がよく、礼や挨拶もかかさず、他人の子どもにも「うわぁ、かわいいなぁ」と頭をなでてやるなど、愛想のいい子ども好きだと思われていた。近所の認知症の老人を労わったり、自治会役員になった知人にも「困ったことがあったら何でも聞いてや」と声を掛けるなど面倒見のよい側面もあったが、自治会費や子ども会費は支払えていなかったという。

 

元々、肥満気味の体型だったこともあり、不幸なことに4人の妊娠は周囲からも父親からも見過ごされてしまったのであろうか。育てた2人の子どもについて斎藤被告は「周囲が妊娠に気づいたため育てた」と供述した。偶然が彼らの命を救ったのか。

産経新聞によれば、4児出産当時は銭湯通いだったと言い、近隣女性の話として「妊娠していたはずなのに、おなかが突然へこんでいたということが3回くらい続いた」という証言を伝えている。赤ん坊もいないしおかしいなと思ったが、それ以上詮索しなかったという。

 

不作為の遺棄

20年以上前の、その存在すら気づかれていなかった乳児の殺害を立件することは事実上不可能に思われた。骨だけでは死産だったのか、実際には手を掛けていたのかの判別、正確な死亡時期や死因は特定できなかった。

だが罪悪感に苛まれながらも4人もの被害を出したことは紛れもない事実であった。斎藤被告は取調の中で、「ティッシュを口に詰めた」と一人の殺害を認めるような供述もしており、2つのバケツからティッシュ片が検出されたが産後に「体を拭いたものが入ってしまったかもしれない」と話した。

しかし20年後の自首で嘘を語るとは考えづらく、斎藤は4児の出産日も記憶していた。

そこで殺人罪ではなく、死体遺棄罪が適用されることとなった。

第190条
死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の拘禁刑に処する。

通常であれば、死体遺棄の公訴時効は3年でとうの昔に成立していることとなる。しかし検察は2年半前の高柳への転居の際にも隠蔽の意志を伴う「第2の死体遺棄」ないし「不作為の遺棄」が成立するとした。

 

週刊女性プライムの取材に答えた東京未来大学こども心理学部長出口保行教授は、斎藤の犯行について「外に遺棄すれば発覚するかもしれない。いつかバレてしまうかもしれないという強い恐怖を感じていたのでしょう」と指摘。一方で強い罪悪感も持ち続けていたから「贖罪したい気持ちがあったのでは」と話した。

自首直前の時期に座間9人連続殺人の逮捕劇が大きな話題となっており、「遺体を自宅に隠していても何かのきっかけで踏み込まれるかもしれないと自分に重ねるところがあったのだと思います」と述べている。

また別の乳児殺害遺棄事件を起こした女性の事案も踏まえ、「共通するのは時間的な展望がないまま出産に至ってしまうこと。つまり自分の先々を予想してそれに対処する行動をとることができない。容疑者(取材当時)も社会生活を営むうえで十分な社会設計ができない人のように感じます」と見解を示した。

 

死体遺棄

2018年6月4日、大阪地裁で初公判が開かれた。

被告人質問によると、乳児4人の父親は当時の職場の同僚とされ、いずれの相手にも妊娠の事実を知らせていなかったとしている。4児は産後すぐに死亡し、被告は金銭的な理由で葬祭を上げることができなかった。しかしわが子をそのままの形で残しておきたかったとして、バケツにコンクリート詰めしたとし、中には一緒に数珠も入れていた。

「私の子どもなので、自分が死ぬ時まで一緒に暮らすつもりだった」として転居先にもバケツを持ち運んだが、将来に悲観して自殺を考えるようになり、「自分が死んでしまったら4人のことを知っている人がいなくなる」と自責の念に駆られて警察に打ち明ける決意をしたという。

弁護側も事実関係については認め、死体遺棄の時効成立の可否が争点とされた。

 

過去エントリ『ベトナム人技能実習生乳児死体遺棄事件』でも触れたように、孤立出産での死産において葬祭を行う責務は出産した母親にある。遺体を放置したり、死亡届を出さないまま手前勝手な埋葬をすれば、死者を敬う心情を害するおそれから罪に問われることとなる。

2020年に熊本のみかん農園で働く農業技能実習生リンさんが逮捕された事案では、孤立出産で双子を死産し、部屋の段ボール箱に遺棄していたとして起訴された。技能実習生の間では妊娠が発覚すれば強制的に帰国させられると言われており(過去にそうした事例も起きていた)、彼女は雇用主や監督者らに相談することもできなかった。

公判では、自身の体力回復を待ってベトナム式の土葬をするつもりで居室内に一時的に安置していた状態で出産が発覚したことから「死体遺棄」へと事態が大きくこじれていたことが判明した。

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過去の大阪地裁の判例を見ると、2016年5月、吹田市のアパートで衣装ケースから乳児の遺体が見つかった事件で、4年前から乳児の遺体を遺棄していたとして両親に死体遺棄罪が認定されていた。

一方、2013年3月、乳児の殺人と死体遺棄に問われた母親の裁判では、産後に娘を殺害した事実は有罪とされたが、知人宅からスポーツバッグに入れて自宅に持ち運び転居の度に移動させていた行為は死体遺棄罪の時効を認めて免訴とされていた。同地裁は、バッグに入れて自宅に持ち帰る隠蔽行為は死体遺棄に当たるとしながらも、バッグを自宅に放置したことは葬祭義務違反ではあるが、死者に対する宗教的感情を害しているとまではいえないと判断し、死体遺棄罪の構成とは認定しなかった。

寝屋川の事件に話を戻そう。弁護側は、コンクリ詰めした時点で遺棄行為は完了しているとして公訴時効による無罪を主張。自宅での放置が遺棄行為の継続と見なされれば、半永久的に死体遺棄の時効が完成しないことになると主張した。

対する検察側は「乳児の存在をだれにも知らせずに自身の支配下に置き続けたこと」は葬祭義務違反の遺棄行為が続いていたに等しいとして時効の成立を否認した。更に「遺体を長期間放置したことを違法行為としなければ、正確な死亡日時が分からない事件ではいくらでも罪を免れることができてしまう」と指摘した。

たしかに事件発覚の遅れで腐敗や白骨化した遺体について殺人罪で争うことが難しいケースというのはまれに聞かれる。本件のようにコンクリ詰めして長期間持ち運べば殺害の立証は困難となり、罪に問われない判例を示してしまえば今後の社会的影響も大きい。

かたや被告人は両陣営の時効論争には言及することなく、「4人の子どもに対して申し訳ない気持ちでいっぱい。これから罪を償いたい。申し訳ありませんでした」と謝罪した。

大阪地裁・増田啓祐裁判長は「(手元に残しておきたかったという)動機は身勝手に他ならない。極めて長期間放置した」として、検察側の求刑懲役3年に対し、懲役3年執行猶予4年の判決を下した。

死体遺棄罪の罰則規定は「3年以上の懲役」であるから、自首や謝罪等の情状が酌量された内容である。

 

孤立出産

4人もの赤ん坊を見殺しにするばかりかコンクリ詰めして引っ越し先まで持ち運んでいたと聞けば、事件隠蔽の毒女という印象を受けるが、裁判の行方まで踏まえれば後悔の念に苛まれながらの20年余を過ごしてきたのは嘘ではなかったようにも思える。

そしてこうした嬰児殺しの悲惨なニュースや裁判を受けて思うのは、父親の責任はどこに行ったのかということである。本件では4人のこどもの父親が不特定のまま報道され、メディアは「男にも金銭にもだらしのないシングルマザー」像を肥大化させた。彼女について詳しく知る術はないが、思い浮かぶ人物像としては秋田児童連続殺人の畠山鈴香受刑者のような、子どもへの愛情が全くない訳ではないが、結婚や出産保育には向かず本人も経済的・社会的に自立しきれていない女性、法的な責任能力に問題はないが境界知能などの「訳アリ」なのではないかという気がしてならない。

貧困などにより立場が弱い女性たちは男性に経済的・精神的に依存していたり、あるいは結婚していても避妊してもらえないなどDVに晒されていることが危惧される。女性は男性との関係を簡単に断ち切ることができず、妊娠を告げても女性を捨てて逃亡するおそれもある。

望まない妊娠は女性の孤立出産を招き、直接的に赤ん坊の生命にかかわり、更には女性のその後の人生をも台無しにする。母親側にすべての責任が押し付けられている現状がある。その手で殺めることがなくとも、道端や山中に置き去りにするなど保護責任者遺棄罪に問われれば最高で懲役5年の罰則と受けることとなる。父親の「逃げ得」を許していてよいものか。

望まない妊娠に関して、2023年11月28日から処方箋なしの緊急避妊薬・アフターピルの市販が試験的に開始された。女性向け相談窓口は増えてはいるものの、経済的事情や男性、家族との関係性、堕胎や出産までの「期限」は彼女たちの判断を混乱させることが多い。

最後の頼みの綱として親が育てきれない赤ん坊を匿名で預かる、いわゆる「赤ちゃんポスト」は医療機関では熊本市の慈恵病院のみ(2007年設置)である。新生児を想定しての設置だったが、約3年間で預けられたこどもは155名、うち早期の新生児は85人だった。一人目は3歳男児、二例目三例目も生後2か月程度の男児だった。こどもたちは産まれる場所を選べない。人生は平等ではないが、生命は公平に守られてほしい。

先日、墨田区の賛育会病院で2024年度に赤ちゃんポスト設置の方針を明らかにした。実現すれば国内の医療機関としては2例目となる。

 

もし大阪に赤ちゃんポストがあったならば4人の赤ん坊の命は助かり、母親は罪を犯すことにはならなかっただろうか。死産であれば届け出せずにコンクリート詰めした可能性は大いにある。だが何人かの命は救われていたかもしれないと考えるだけでも、この社会に赤ちゃんポストは必要だと思う。

住民証言の中には、犯行当時の女の様子について「妊娠していたと思ったらいつの間にか腹が引っ込んでいたようなことが何度かあった」という声があった。また周囲から金を借りて返さない、子ども会費を着服したといった声も聞かれている。何より当時の住民たちは女の身の上や貧困ぶり、男との関係性をよく知っていたことが妙に気にかかる。

これは筆者の想像であり、もし事実であったとしてもそれを非難する意図もないが、住民たちは彼女がしたことを薄々知っていたのではないかと思う。妊娠していたこと、赤ん坊を産んだことに周囲は気づいていたが、出産費用はどう工面したのか、赤ん坊がどうなったのかなど、面倒ごとを避けるためにあえて事情を聞くことをしなかったのではないか。薄々その不幸な末路が想像できていながらも、口に出すことが憚られたのではないか、と。

 

4児のご冥福とともに、同じような過ちが二度と繰り返されない日がくることをお祈りいたします。

 

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【衝撃事件の核心】「きょう打ち明けようと思った」バケツにコンクリ詰めの乳児4遺体、出産から20年後に自首した母親の罪業(1/4ページ) - 産経ニュース