いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ライルズ・チャップマンの失踪

2013 年 12 月 18 日(水)午後7時過ぎ、アラバマ州南東部ドーサン市の実家にいたジェファーソン・ライルズ・チャップマン(当時25 歳)は寝室から文字通り「飛び出していった」。クリスマスを控えて地元に戻っていた彼は、その夜ボクサーパンツ一枚きりで靴も履かずに戸外へと走り去り、そのまま消息を絶つ。

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買い物から戻ったライルズの父親と妹は、当初長男が玄関を開けようとしないことを不審に思ったが、解錠して中に入った。するとライルズは「(何かに)追いかけられている」と叫びながら半狂乱で部屋を飛び出すと夜の住宅街へと走り去ったという。
およそ 30 分後、ボカージュ地区の入り口近くを車で通りがかった彼の友人が、息を切らした様子で闇夜にさまよう裸のライルズを目にしていた。しかし、その目撃以来、彼の行き先は明らかにならなかった。
前の晩は庭先でライトアップの支度をしながら凍えていたにもかかわらず上着やズボンすら身につけず、財布や携帯電話も実家に残されたままになっていた。刃物や銃を所持しているなど自傷他害のおそれがあれば早急な対処が必要だが、それもはっきりしないため、当初は警察でも対応に窮したと思われる。

だが調べていくと、その日、ライルズは仕事を失っていたことが明らかとなる。成人の場合、児童失踪のように、即時的に、州全域へと一斉に周知されるシステムはない。彼の両親は警察の捜査にしびれを切らし、「まだドーサン市から遠くないエリアにいるはずだ」としてFacebook 等SNSでの拡散、地域ラジオへの出演、私財を投じて地域の電光掲示板などを使った捜索支援と情報提供の呼び掛けを続けた。

https://maps.app.goo.gl/cy552iBfUXADkaJt8?g_st=ic
警察には市内各所のモーテルや炊き出しでよく似た男性の目撃証言が複数件寄せられた。
後に友人の一人はフロリダ州パナマシティのクラブで彼を見かけたと主張したが、画像やビデオで捉えられた姿はひとつもなかった。

ライルズ・チャップマンは身長約 185cm、体重 82kg、ブラウンヘアの短髪に青い瞳という白人男性としては一般的な体格だったこともあり、寄せられた目撃証言も個人の特定にはつながらなかった。目にされたときはもちろん何かしらの衣服を身に付けており、彼の特徴ともいえる幾つかのタトゥー(背中の「CHAPMAN」、左腕の「Life Goes On」、背中に施された天使の羽やハートの図柄、「SAYLOR GRACE」、腰の「MARY CATHERINE」、薬指の「Chelsie」)を認識した目撃者もなかった。

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ライルズには別れた元妻と二人の娘がいた。11 月 25 日に投稿された彼の最後の Twitter には「娘にサヨナラを言わなきゃいけないときの気持ちや、彼女がママと一緒に立ち去るのを見送っているときの思い、そして次にいつ会えるか分からないという現状は言葉に尽くせない…」と苦しい胸中が綴られている。彼のアイコンに使われていた画像は、幼い娘を抱きかかえる若い父親の姿であった。

報道には出ていないが、そうした事情から警察もライルズの別れた元妻や娘の元に現れる可能性を考慮していたことが推測される。父母の別を問わず、離婚後の実子誘拐事件というのも少なくない。しかし彼から何らかのコンタクトが送られてくることはなかったようだ。
両親が暮らしていたボカージュ地区は町で最も裕福なエリアとされ、家出の原因は経済的な困窮とは結びつかないと考えられた。またライルズはコベナント・ユナイテッド・メソジスト教会の熱心な信者で、信者たちは彼の無事と帰還を祈ってキャンドルを焚いて励ましの祈りが捧げられたという。
翌14 年 1 月に入ると、警察では周辺の森林捜索を実施する。自死を図っておらずとも、真冬の森をさまよって動けなくなり遭難死することは現実的に起こりうる事態である。それはまた逆説的に、ライルズのその後の足取りなどが確認できなかったことを想像させる。

一方で、近くには主要幹線道路である国道 84号線が通っており、そこまで出ればヒッチハイクでの移動も不可能ではないとする地域住民の意見もある。車で1時間半ほど南下すればフロリダ州のパナマシティ、北へ4時間半も走ればジョージア州都の大都市アトランタへの接続も可能な地域である。中には、彼は妻子との別れや失職を苦に思い、見知らぬ街で別人として人生を仕切り直そうとしているのではないかという見方もあった。

1 月 17 日、失踪から一か月目にして、ドーサン市長マイク・シュミッツ、地方検事ダグ・ヴァレスカとチャップマンの家族が会見を行った。警察は、この失踪を取り巻く状況は他の行方不明事件とは異なるとしながらも、詳細については説明できないとした。またヴァレスカ検事は、「あなたが何をしたとしても私たちが解決に導く」とカメラを通じてライルズ・チャップマンに呼びかけた。
病歴が報じられたことはないが、精神疾患の場合、10代半ばから20代前半での発症傾向が顕著であり、当時25歳の彼も人知れず罹患していたとしても不思議はない。クリスマスという家族や大切な人たちと過ごすための時季が、娘に会いたい一心の彼に大きな負荷を掛けていたのではないか。また仕事内容や正確な理由は明らかにされていないが、失職がさらなる追い撃ちとなって制御不能な錯乱に陥ったのではないか。

あるいは淋しさを埋め合わせようと薬物を濫用していたとの疑いも囁かれている。公開情報が限られるなか、「苦労知らずの金持ちのボンボン」という偏見がそうした憶測を広めた。いずれも証拠はなく、想像の域を出るものではない。

警察は「あらゆる状況を視野に捜査を継続する」ことを約束した。会見後、Facebook の捜索ページフォロワーは 1 万人近くに上り、家族は帰還を信じて思い出の写真やビデオメッセージ、誕生日の祝福メッセージなどを公開しているが、その後も本人からの音信や追跡につながる有力情報は得られていないようだ。
チャップマンの家族は失踪の要因や独自の仮説を提示していないが、当初から彼が地元ドーソン市からそれほど遠くへは行かないだろうとの見方を示していた。裕福な家の 4 人兄弟として不自由
なく育てられ、おそらく地元には同じような資産家の子息らとの交遊関係があったと推測される。古くからの親友らが彼を匿い、逃亡を手助けすることも不可能ではないのかもしれない。無論、地元警察とて交友筋を洗ったはずだが、踏み込みがたい一線というものもあるだろう。証拠や裏付けのある話ではないが、経済的余裕と 25 歳という若さも手伝って、ライルズの周囲に「第二の人生を手助けできる」人物がいたとしても夢物語とは思わない。


2022 年 8 月、アラバマ州法執行機関(ALEA)はライルズ・チャップマンを成人行方不明者データベースに登録した。https://www.namus.gov/MissingPersons/Case#/23335/details?nav
2026 年現在、ライルズの娘は 8 年生を修了し、ハイスクールへと進級したことが報告されている。

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確たる証拠がなければ、家族はその死を容易には受け入れることができない。まるで単身赴任中の彼に宛てたメッセージのように「ライルズ、子どもの成長はあっという間だよ」と記し、孫娘の進級を伝える両親の笑顔には胸を打たれる。

依然としてその行方や足取りはつかめず、再会の目処など皆目立たないなかでも、家族はそうしてたくましくも今という人生を歩んでいるのだ。

 

墨田区竪川第一公園バラバラ殺人事件

被害者男性は身元不明、付近では重要参考人となる男女の目撃があったが、20年以上経った現在もその行方は分かっていない。


「事件当時、行方不明になった知人がいる」「それらしき男・女に心当たりがある」「事件をほのめかす人物を知っている」など情報があれば、警視庁までご通報されたい。www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp


事件の概要

2004年(平成16年)5月12日(水)午前1時過ぎ、東京都墨田区江東橋4丁目の竪川(たてかわ)第一公園でホームレスの男性が植え込みの中からナイロン製の大きなスポーツバッグを発見し、中味に違和感を感じて巡回中の警官に届け出た。

警官が中に入っていたビニール袋に包まれた肉の塊を検めたところ、手足と首を切断された男性の胴体であることが判明。警視庁は殺人、死体損壊・遺棄事件として本所署に捜査本部を設置した。

同型のスポーツバッグ(警視庁公開)

 

調べによれば、死亡した男性は20~40代。脚、腕、首の付け根をそれぞれ鋭利な刃物により切断され、背中・胸などに5カ所の刺し傷があった。発見時は死後1日から2日程度の経過と目され、都指定の半透明ごみ袋を3枚重ねにした状態でバッグに入れられていた。体の他の部位はいまだ見つかっていないものの、死因は失血死と見られている。

血液型はAB型と判明し、黒っぽいブリーフ下着を着用していたが、適合する行方不明者は見つかっていない。

 

スポーツバッグは幅30cm×60cm、高さ38cmのもので、調べにより事件直前に付近の店で購入した男女の存在が浮上した。事件への関与が疑われるとして似顔絵が公開されたが、有力な情報に乏しくその足取りは掴めていない。

女性は茶髪風か?

女の特徴は、当時20代くらい、身長155cmくらいの細身体型で、長袖ブラウス、黒いズボン、ヒールのサンダル靴を着用し、ハンドバッグを所持していた。

男の特徴は、当時20~30歳くらい、身長170~180cmのがっしりした体型、坊主に近い短髪で、黒っぽい長袖シャツにズボンというラフな装いだった。

 

所感

身元不明遺体ということもあり大きな話題になりにくく埋もれてしまった長期未解決事件という感がある。

事件前の同2004年4月には戦地イラクで日本人人質事件(高遠菜穂子さん、今井紀明さん、郡山総一郎さん)が起き、事件直後の5月には日朝首脳会談が開かれ、拉致被害者家族5人の帰国が大々的な話題となっていた時期に当たる。

 

昼間でもどこかひっそりとした雰囲気

江東区亀戸にも同名の区立公園(遊具の特徴から通称“テントウムシ公園”と呼ばれる)が存在するが、事件のあった墨田区の竪川第一公園は首都高の高架下に設けられた細長い緑地公園である。錦糸町駅から南へ300~400mほどの商業市街地にあるも、児童向け遊具はあまりなくネット上のクチコミなどでは「薄暗い」といった声が目立つ。高架下で雨を避けられることからホームレスにも重宝されていた。

しかしながら植栽にバッグ、中にはビニール袋入りの胴体となれば、これほど早期でなくとも発見されることは免れようがない。男女には車や免許といった遠方へ遺棄するための手段がなかったと捉えてよいかもしれない。一方で、遺体が発見されてもやむをえない捨て方であることから、すでに移動の準備があった(遺棄直後に墨田区を離れた)と考えるのが自然であろう。

 

事件の10年前となる1994年には、福岡美容師バラバラ殺人、同じ東京都では武蔵野市・三鷹市をまたぐ井の頭恩賜公園でバラバラ遺体が発見されて話題となった。

福岡の事件は男女関係のもつれが発端とされ、遺体は駅のコインロッカーや高速道路のパーキングエリアなど各地に遺棄され、頭部と凶器は未発見となった。腹部を滅多刺しにして内臓がえぐり出されるなどの強い猟奇性と行動力から複数犯説も取り沙汰されたが、同僚女性による単独犯だった。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

井の頭公園バラバラ殺人は未解決のまま2009年に公訴時効が成立している。この事件では園内設置のゴミ箱7か所から計27個の切断部位が発見され、特異なことに血液が抜かれ、電動のこぎり様の工具で20cm×30cm大に切り分けられていた。指紋やDNAから被害者男性が特定されるも交友筋から殺害動機や怨恨などは浮かばず、その異様な犯行ぶりと翌年発覚したオウム真理教関連事件からカルト説、「動機なき殺人」の傍流として人違い殺人説まで取り沙汰されているが真相は明らかにされていない。

本件では、遺棄現場近くでのバッグ購入、都指定のゴミ袋、市街地ながらも比較的目立たない場所に遺棄していること、胴体しか見つかっていないことなどから想像するに、やはり近場に殺害現場があったと捉えるのが自然に思われる。男女の年柄からすれば、動機は男女関係のもつれか、あるいは金銭やビジネス上のトラブルといったところか。

他の部位に関しては、ゴミとして処分したり、海川へ遺棄して発見を免れたものと推測される。しかし大きすぎる胴体の処分に困り、解体を断念して、近場ででも遺棄するために大きなスポーツバッグを購入せざるをえなかった。彼らは急いでその場を離れなければならなかった。

おそらく錦糸町駅や公園の周辺に男女の住居や勤め先など、殺害・解体現場となりうる拠点があったはずだ。しかし家主や拠点のオーナーも事件に絡んでいたのか、それとも単に「事故物件」となることを避けるため口が重くなったのか、男女について知らぬ存ぜぬを通して事件の隠蔽に加担したように思えてならない。

インターネット上には男女の似顔絵を頼りに国籍まで識別できる方々もいらっしゃるようだが、筆者の目には日本人にも韓国人にも中国人にもフィリピン人にも見える。国籍が違えば被害者の身元不明もさもありなんと思うかもしれないが、東京には日本中から若者が流れ込んでおり、ご存じの通り年間失踪者は8~9万人前後あり(8割方は短期間で発見に至る)、その6割近くが男性である。前科持ちでDNAを採取されていたり、特徴的な手術痕やタトゥーでもないかぎり、国籍を問わず身元特定は至難の業である。

福岡美容師バラバラ殺人では、遺体を包んでいたチラシの配布地域からも加害者の居住エリアの絞り込みが行われた。そうした物証のなさが本件のネックであり、そして唯一の証拠ともいえるバッグから引き寄せた男女の似顔絵も、実物は日々刻々と変貌を遂げてしまっているかもしれない。髪型や色を変え、ときに顔立ちさえも変えているかもしれないが、殺人者が罪を償うこともなしに善人に生まれ変わることは断じてない。

一日も早い捜査の進展と事件の解決を願います。

チルゴック児童虐待死事件

 

11歳の殺人者

2013年8月16日金曜日の夜、慶尚北道漆谷(チルゴック)郡倭館邑に暮らす8歳の女児が腹痛で倒れたと通報が入り、搬送先の病院で死亡が確認された。救急隊が駆けつけた時点で女児に呼吸や脈はなく、腹部が異様に膨れ上がっていた。腸が破裂しており、死因は外傷性腹膜炎と診断される。

母親は児童福祉局に連絡し、「娘が亡くなったのだが葬儀をどうすればよいか。補助金などは出るのか」と問い合わせた。同局の社会福祉士は以前から彼女の言動に不信感を抱いており、「生活保護受給世帯しか葬儀補助金は支給されない」と伝えてその場を収め、児童虐待死の疑いがあるとしてすぐに警察に通報した。

警察は医療機関に遺体状況などを確認し、女児の自宅を訪問して通報に至るまでの経緯などを聞いた。一家が暮らすチルゴック郡倭館は、韓国第4の都市大邱(テグ)広域市の北西約25kmに位置するいわゆる郊外地域である。両親と姉妹は2か月前にその集合住宅へ越してきたばかりだった。

両親は何事が起きたのか目にしてはいないが、気づいたときには下の子が激しい腹痛を訴えており、上の娘に問いただすと妹への暴行を認めたと証言。すぐに治療費が工面できなかったため通報が遅れたなどと説明した。

親の証言通り、亡くなった女児の実姉(当時11歳)が妹への暴行を認める供述をしたことなどから、捜査員は署に連行して詳しい事情を聞くこととした。

本稿では、本事件を取りあげて全国的に注目を集める契機となったSBSの追跡調査番組『それが知りたい』に倣い、亡くなった妹を「ソウォン(“願い”)」、実の姉を「ソリャン」の仮名で呼ぶこととする。一部マスコミでも「ソウォン事件」の呼称が用いられた。

ソウォンの身体には無数の暴行の痕跡があった

被害者の姉ソリャンは「妹に人形を取られたので、腹が立って拳で5回ほど殴りかかり、脚でお腹を何度も蹴った」と身振り手振りを交えながら捜査員に説明した。

しかし医療機関の報告によれば、遺体には全身数十か所にアザができており、目の内出血も認められた。頭部とあごには縫合した古傷が見られ、腕は関節が曲がらないほど歪曲する(骨折の放置による)など、長期にわたる暴行の兆候が認められたという。医師は「平均的な11歳女児が負わせたケガとは到底思えない」と見解を示した。

近隣住民も母親の怒声や激しい騒音、女児たちの泣き声を幾度となく耳にしており、虐待はほとんど周知の事実として知られていた。半年前には小学校から児童福祉局に通報が入り、福祉局員らが家庭訪問を行っていたが、両親は虐待を認めず、親権を盾に介入を拒否していたという。

姉妹の両親は下の娘ソウォンが生まれてすぐに離婚しており、1年半前から実父と内縁の女性との同居が決まり、四人暮らしが始まったという。警察では児童福祉局のこれまでの調査結果などを踏まえ、姉妹の継母イム氏を追及する。彼女は殺害を認めることはなく、暴行については、姉の言うことを聞かなかった罰としてソウォンを平手で一発だけ叩いたと主張した。

取調官はソリャンが両親から偽証を強要されているおそれもあると見て、当初から慎重な聞き取りを行っていたが、少女は身柄を引き離されても証言を曲げようとはしなかった。そのため、当初、事件は11歳の姉の加害による8歳の妹殺しという構図で報じられた。

 

少女の告白

なぜ少女は継母の虐待について語ろうとせず、妹殺しを名乗り出たのか。

過去に児童福祉士や警官らが事情を聞きに訪れた際、姉妹はケガや悲鳴について尋ねられても姉妹喧嘩や「自分の不注意でケガをした」などと答えていた。虐待の事実確認が取れないことから強制保護などの対策が講じられることはなく、継母には口頭注意や育児相談の案内などで済まされ、事態は好転しなかった。

児童への聞き取り調査は通常、保護者同伴のもとで行われる。しかし事実を語ろうとすれば、継母からの激烈な「しつけ」が待ち受けていたことから姉妹は被虐待の事実を知られないよう隠蔽していたのである。

あるとき、虐待に耐えきれず一日中本屋で時間を潰していたソリャンに、警官が話を聞きに来たことがあった。少女は勇気を振り絞って継母から暴力を受けている事実を打ち明けた。しかし警官は「それでもきみは家に帰らないといけない」と促すだけだったという。

2012年5月から1年以上続いた壮絶な虐待生活によって姉妹は肉体的にも精神的にも継母によって支配されていた。周囲の大人たちに助けを求めても虐待がなくなるどころか、継母に知れれば逆効果になることを理解し、学習性無力感に陥り、助けを求めることさえ諦めていた。幾度かの試みも救済にはつながらず、「大人は自分たちの味方ではない」と刷り込まれていった。そして妹を失い、取り残されたソリャンの目には、「死ぬまでこの地獄からは抜け出せない」ように映ったのではないか。

事情聴取を受ける姉ソリャン(中央)

姉妹の実父キム氏には大学教授の姉がおり、キム氏の離婚後、まだ幼い二児を家に引き取り、約5年にわたって我が子同然に育ててきた。警察から事情を聞かれたこの伯母は、ソリャンの供述内容を真っ向から否定した。彼女は、継母イム氏による虐待を確信しており、ソウォンの死の真相にちがいないと断言する。

1年半前にキム氏から「これからは自分たちで育てる」と言われて、伯母は姉妹を返した。だが様子を見に行くと姉妹は体中にケガを負い、イム氏は「全然言うことを聞かないのでよくケガしてしまうんです」と説明した。長年姉妹をしつけてきた伯母には彼女の言葉が真実とは思えなかった。一方のキム氏は子育てに関心がなく、内妻の体罰に見て見ぬふりを決め込んでいた。

姉妹は長らく伯母に育てられてきた

ソリャンが親許に戻されることを危惧した伯母から相談を受けた弁護士は、慶北大学病院に入院させる手続きを取った。虐待に詳しい児童心理学者チョン・ウンソン教授は心理セラピーを重ね、少女が極度の人間不信に陥っていると判明する。

チョン教授は継続的ケアの必要から「今の彼女に必要なのは安全だ」と訴え、マスコミに「知られない権利」への理解を求めた。少女をカメラから遠ざけつつ、自らが矢面に立つことで虐待問題への意識づけを行い、関心の矛先を「虐待を繰り返さない」ための社会提言に向けるべきだと啓発した。

2014年1月に開かれた非公開の少年裁判でもソリャンは依然として妹への加害行為を認めていた。しかし裁判所は、少女の証言には信憑性がなく、継母による虐待が疑われるとして、保護処分なしの判断を下した。

ソリャンが大邱市内の児童保護施設に送致されてからも、伯母は献身的な生活支援や通院のサポート、少女自身の言葉が出てくるのを待ちながら対話を続けた。やがて少女の口から継母との暮らしや妹の死について少しずつ語られるようになった。

一年半前、伯母の家から父親のもとに帰された当初は姉妹も新たな生活に期待を抱いていたが、継母の「しつけ」は度を越えて厳しかった。姉妹が寄り道をして帰宅したり、わがままを口にするなど気に入らない点があれば、正座を強要したり、食事を抜いたりと容赦なく体罰を与えた。

「偏食がひどい」と言って二日間食事を与えられず、唐辛子ばかりを無理に口に詰め込まれたこともあった。トイレを流し忘れたときには食事に排泄物を混ぜて与えられ、家のトイレの使用を禁じられ、すべての用便を学校で済ませてから帰るように無理難題を命じられたという。

下の子に粗相があれば姉にも責任の一端があるとして妹への体罰を強制されることもあったと言い、そのたびにソリャンは罪悪感に苛まれながら妹の頭を叩くなどした。

近隣住民らは騒音だけでなく、冬に下着姿でベランダに締め出される姉妹の姿を目の当たりにしていた。暴行は恒常化しており、顔や全身の傷が学校教諭らの目にも留まったが、法的制約によって介入を拒まれた。

縄で首を絞めて失神させたり、意識を失うまで浴槽に沈められたりといった拷問まがいの目にも遭ったと言い、両親が数日間家を空ける際に姉妹はトイレに監禁されていたと語った。ときにドラム式洗濯機に閉じ込められてスイッチを入れられたことさえあったという。

映画『어린 의뢰인(幼い依頼人)』より

過去、ソリャンが児童福祉局に「妹が従兄弟(伯母の息子)から性的暴行を受けた」と通報していた事実も確認された。姉妹は身体検査を受けたが性的暴行の兆候は確認されず、社会福祉士はイム氏に警察への通報を勧めた。しかし継母はなぜか警察沙汰にすることを拒み、局員たちの目にはそうした騒動もどこか奇妙に映った。

イム氏は教会や学校でも「伯母の家に預けていた娘が性的暴行を受けた」と触れ回っていた。後の調べにより、イム氏は伯母家族の社会的信用を損なわせるため幼い姉妹に性被害を演技させていたことが明らかとなった。虐待を疑ってかかる伯母を逆恨みしたイム氏は、伯母家族と姉妹を遠ざけようとしていたのである。

伯母は継母抜きで姉妹に会おうと小学校を訪れたが、ソリャンは悲鳴を上げて教師に助けを求めたことがあった。イム氏は周到にも姉妹に伯母の悪口を吹き込み、もし会いに来たら拒絶して周囲に助けを求めるように命じていたのである。

そんなイム氏の元夫は、「彼女は口を開けばウソか金のことばかりだった」と振り返り、彼女が狂言自殺を繰り返したことが離縁の理由だったと述べた。彼女はキム氏と内縁関係となるまで「二人の実の娘は自分が育てる」と言って譲らなかったが、それも養育費をたかるための口実であろうと元夫は語っている。

逮捕収監される継母イム氏


韓国の児童虐待死は平均して年間40件前後発生し、人権意識が定着した1990年代後半以降はとくに大きな話題を集めてきた。本件では、とりわけソウォンの落命まで454日間にわたって延々と虐待が続けられたこと、さらに周囲の大人たちが気づいていながらも法的制約の壁によって救う手立てが何もなかった事実が大きな物議を醸した。

かつての日本と同様、韓国でも「子育て」に侮辱や体罰、強要が当たり前のように染みついていた。児童の尊厳はしばしば傷つけられ、自由を過度に制限され、その罪と責任は「家庭の問題」として棚上げされてきた。ときに死に追いやられてきたにも関わらず、事件として起訴されても量刑は不当に軽く扱われてきた。何の罪もない姉妹を、救えたはずの子どもたちの命を、この社会は守ろうとしてこなかったのである。

弁護団体や伯母の訴え、『それが知りたい』等での放映を受けて全国的な話題となり、マスコミ各社が「疑惑の姉妹殺人」とその裁判の行方をセンセーショナルに報じた。ソリャンの入院先の病院には潜入取材が試みられ、カルテの一部がリークされるなどし、イム氏の実の娘が通う学校にさえ取材陣が押しかけるなど、過熱する報道に対して再三の忠告がなされるほどだった。

全国の女性弁護士会、婦人団体や住民団体らが法改正のデモに立ち上がり、悲劇を繰り返すなと一斉に声を挙げ、2014年1月には児童虐待に対する明確な規定を盛り込んだ特例法が制定された。その第一条には、児童を保護し、健康な社会構成員として育むことが社会の役割であることが標榜されている。

この法律により児童虐待の基準が具体的に明文化され、厳しい罰則規定も加えられた。それまで制限の多かった家庭支援センターや児童福祉相談員の権限(矯正プログラムの受講命令、児童の隔離保護の強制など)も拡充された。

 

揺れる刑事裁判

継母イム氏は2013年10月に傷害致死容疑で逮捕されたが、間もなくソリャンに宛てて手紙を送っていた。

「愛するおねえちゃんへ。お母さんと会えたら“必ず抱きしめて”、たくさん愛してあげるからね。」

手紙は、学校のことや体調に注意するように心配する“よき母親”の筆ぶりで、「勉強に困ったらおねえちゃん(イム氏の実娘)が教えてくれるから」「貧血にならないように万遍なく食事を摂って、うんちの確認もしなさいね」「お父さんに言って乳酸菌飲料を買ってもらいなさい」と日常生活にも気を配るような細かな指示が与えられ、「お母さんの愛情が足りず、小言ばっかりでごめんなさい」と綴られていた。

イム氏が拘置所から送った手紙〔朝鮮日報〕

しかしソリャンが受けた数多くの虐待エピソードを知った人々は、これを娘思いの継母がしたためた愛情深い手紙だとは捉えなかった。裁判で情況を図る証拠資料として使われることを見越して手配した偽装工作のひとつとみなされている。

「帰ったら一緒に旅行に行こうね」

「大変だとは思うけどお母さんが帰るまで待っていてね」

ようやく虐待から解放されたソリャンがそうした文言を目にしたとき、「継母がまたすぐに帰ってくるのではないか」「再び地獄の日々に連れ戻されるのか」と恐怖に打ち震えたにちがいない。継母がそこまで意図したものかは分からないが、ソリャンにとっては一種の牽制となり、結果的に保護入院から2か月以上、継母の虐待と妹の死の真相について口外することはなかった。

その心理的メカニズムは、物理的に逃亡可能な環境下にあっても逃げ出せずにいる誘拐監禁被害者が「見えない鎖」につながれた状態とよく似ている。

それまで暴行の一部を認める供述をしていたイム被告だったが公判ではそれすらも覆し、ソウォンへの傷害致死および暴行の一切を否認した。

「娘同士でケンカしてケガがあればその責任のすべては保護者である私が負います。上の娘を守ってやるために、その罪を背負う覚悟で虚偽の供述をしました」

「上の子は普段から親の愛を独占したい気持ちが強く、下の子の世話との間でよく苦労させられてきました」と陳述し、ソウォンを死なせたのはあくまでもソリャンだと主張した。

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ソリャンも公判当初は被告人側の非公開証人として、妹への加害行為を認める陳述を維持していた。しかし公判終盤の3月19日に至り、「自分は妹を殺さなかった」とそれまでの主張を撤回し、妹の死の原因は継母による暴行だと告白した。

「8月14日(救急搬送の2日前)の午前中、母(継母イム氏)が妹を叱って腹を15回くらい殴り、倒れたところを押さえて横腹を10回くらい踏みつけた。午後になっても妹は呻いたままで起き上がることができず、見かねた母は夕方にも10回以上殴った」と述べた。

そしてそれまでの虚偽の自白を続けた理由について問われると、少女は「言うことを聞かなければ、家族がバラバラになると思った」と述べた。

起訴段階で検察はイム氏に対して傷害致死罪を適用していた。これに対し、ソリャンの弁護人は、姉妹への継続的な虐待と病院への通報の遅れは殺意を裏付けるとして、殺人罪の適用を求めていた。だが過去の児童虐待関連死の判例と照らしても、凶器でも出ないかぎり殺人罪での公判維持は困難というのが検察側の見解だった。

しかしソリャンの新証言を受けて、検察は傷害致死から殺人罪へ、また暴行に関して父母の共犯としていた点を継母による単独暴行に公訴事実の変更を申請。保護期間中に心理療法を受けて態度が変わってきていること、また継母イム氏と再び一緒に暮らす必要がないと確信が得られ、真実を打ち明ける決心がついたようだと教授の所見が伝えられた。弁護人もソリャンから裁判長に宛てた「おばさんを死刑にしてください」との手紙を公開して世論を煽った。

父キム氏はそれまでも暴行には加担しなかったが、イム氏の虐待を止めず、姉妹を保護することもしてこなかった。ソウォンは二日間死線をさまよっていたが、キム氏はその最期を撮影してソリャンに見せたという。彼は「11歳のソリャンならば刑事罰に問われない」として替え玉での自首を提案し、継母イム氏は身振り手振りを交えて取り調べのリハーサルを念入りに行って、少女に虚偽の自白をさせていた。

その後、イム氏の実の娘が非公開証言を行ったが、被告席に立つ実母に対して虐待を認める不利な陳述をしたと伝えられている。

 

検察はイム氏に懲役20年を、虐待の隠蔽などに加担した罪で在宅起訴されたキム氏には懲役7年を求刑した。対するイム氏の弁護人は、「99の罪人を逃しても1人の冤罪被害者を生んではならない」との格言を引き、イム氏による殺害の証拠はないとして無実の主張を繰り返した。

取材陣に包囲されながら出廷するキム氏

2014年4月11日、大邱(テグ)地裁は、継母イム氏に懲役10年、父親キム氏に懲役3年を宣告した。量刑判断について、初犯であることを勘案すれば類似事犯との比較において決して軽い判決ではないと説明された。

しかし求刑の半分というあまりに軽い量刑に愕然とした伯母は「むしろ私を殺してください」と言って我を失い、医務室に搬送される一幕もあった。

機械的な罪状適用や量刑基準には国民から不満の声も大きかった。それでも過去の児童虐待死では、手足での暴行死には殺意の認定を立証することが難しく、傷害致死では懲役5年以下が相場であった。判決審には取材陣のほか、家族問題に関する団体、児童福祉団体や傍聴希望者100名余りが集まっていたが、その判決が伝わるや「死刑にせよ」のシュプレヒコールが湧き起こったとされる。

1997年12月以来、韓国では死刑執行が停止されており、国際的には「実質的な死刑廃止国」とみなされている。それにも拘らず、罪なき児童が被害者となった大事件ではしばしば死刑復活の声が再燃する。

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検察側は起訴の段階でソリャンの被虐待供述、継母による犯行の陳述を得られておらず、ソウォンの傷害致死を軸に事実認定を争ってきた。だが途中でソリャンの新証言を得たことから、児童保護法違反など一連の虐待を児童福祉法違反容疑で追加起訴した。

2014年11月17日、大邱地裁ペク・ジョンヒョン裁判長は、ソリャンの陳述には信憑性が認められるとして、姉妹への深刻な虐待や虚偽自白の強要といった公訴事実をほぼ全面的に認定。尊厳を踏みにじる行為に対して厳重な処罰が必要だとして、イム氏に懲役9年と120時間の治療プログラム履修、また出所後7年間の身上告知義務を課し、キム氏に懲役3年を追加宣告した。

https://legalengine.co.kr/cases/40026546

2015年1月、ソリャンと伯母夫妻の養子縁組が認められた。これによりキム氏とソリャンの法的親子関係は失効する。

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控訴審では併合審理とされ、傷害致死および児童福祉法違反の罪でイム氏に懲役15年、キム氏に懲役4年が言い渡された。

2015年4月10日、最高裁キム・シン裁判長は原審判決の適法性を認め、刑が確定した。

継母イム服役囚は2029年に出所予定である。

幼い依頼人(字幕版)

この事件は2019年に『어린 의뢰인(My first client、幼い依頼人)』として映画化され、R-12指定ながら国内で20万人が劇場に足を運んだ。作中で被害児童は12歳の姉と7歳の弟とされ、実母は亡くなっている設定が採られた。事件を忠実に再現するかたちではなく、児童福祉局に身を置く男性弁護士と姉弟との心の交流を軸に描いている。

制作決定が報じられると巷間には「生き残った姉への二次被害になりかねない」と懸念する声も聞かれたが、製作会社は少女本人とも交渉して「自分と同じような境遇の子どもたちを勇気づけるために」と映画化了承を受けた経緯を伝えた。またキャストやスタッフにも専門家による精神衛生対策を講じて撮影されたと説明している。

被虐待児を演じる子役の負担が心配されていたが、実際の現場では加害者の継母役を演じた俳優ユスンさんの精神的負担が大きかった。彼女は「直接的な暴力シーンの撮影前は気が重く、眠れなかった」と振り返り、「社会に一石を投じる作品になればと思います。問題意識をもつきっかけにしてほしい」と所信を伝えている。監督はユスン氏の心的負担を鑑み、加害者の継母にも被虐待歴があった、虐待の世代間連鎖を示唆する架空の設定を付け足すことにしたと明かしている。

ソリャンがお気に入りに挙げる作品

事件から10年後となる2022年、近現代史や事件の後日譚を紹介するSBSの教養番組『꼬리에 꼬리를 무는 그날 이야기(尻尾に尻尾を付けるその日の話)』が本件を取り上げ、虐待サバイバーとなった姉ソリャンにインタビューを行った。彼女はアートセラピストの勉強をしながら、「自分と同じ被虐待児童たちの助けになりたい」と語っている。

 

蔚山継母殺人事件

映画『幼い依頼人』では、「男児に金を盗まれた」と誤認した継母が致命的な虐待に及ぶという脚色になっている。このエピソードは同じ2013年に蔚山(ウルサン)で起きた別の児童虐待死事件をモチーフにしている。

両事件は同じく「継母」による児童虐待死事件として並行して報じられ、また裁判の渦中も国民的議論を巻き起こした。医療従事者や学校関係者ばかりでなく、近隣住民など地域社会においても児童保護への意識づけが助長された。それまでも児童虐待通報は増加傾向にあったが、2010年に1万人ほどだった通報件数は2014年に1万6千件にまで飛躍的に伸びている(このうち6割から7割程度が虐待事案と認定されている)。

以下では、蔚山広域市蔚州(ウルジュ)郡で起きた虐待死事件について見ていこう。被害者は蔚山湖延小学校に通う7歳の女児イ・ソヒョン(仮名)とする。

 

10月24日の深夜11時22分、「娘が風呂で溺れたらしい」「水を吐き出させようとしたり、人工呼吸や心肺蘇生を試みたりしたが反応がない」との119番通報が入る。

しかし駆けつけた救助隊員は保護者の証言を不審に思い、遺体状況から虐待死が強く疑われるとしてただちに警察に通報した。遺体の腹は異様に膨れ、24本ある肋骨のうち、16本までもが折れて肺を突き破っていた。

父親イ・ハクソン(事件当時46歳)は数年前にパク・サンボク(当時39歳)と内縁関係となり、妻(ソヒョンの生物学上の母親)と離婚。イ氏は娘の親権に執着し、元妻に発見されないように幼子を改名させていた。

イ氏は3年程前からパク・サンボクと同棲し、ソヒョンも彼女のことを「オモニ(お母さん)」と呼んでいた。ソヒョンは礼儀正しく学校の成績も優秀で、継母パク・サンボクは父母会の地区代表を務め、対外的には良妻賢母かのように思われていた。

近隣住民らは、彼女に法的な離婚手続きが済んでいない夫がいることや、中高生になる実の娘二人を置き去りにしてきたことなど知る由もなかった。パクは実子の学校生活に影響が出ること(いじめなど)を嫌い、正式な離婚に応じなかったとされる。

事件翌日は小学校の遠足で、ソヒョンは釜山の水族館に行けることを楽しみにしていたという。父の仕事の都合で前々から仁川への転居が決まっており、引っ越しの予定を先延ばしにして遠足に参加できるようにしてもらっていた。しかしそんな子どもらしい願いも叶う日は来なかった。

パク・サンボク

鑑識調査の結果、現場浴室には肉眼では確認できない広範な血液反応、つまり血が拭き取られた痕跡が明らかとなった。さらに亡くなったソヒョンは、少なくとも3年間にわたって虐待を受けていた事実が浮かび上がる。

彼らが浦項(ポハン)に暮らしていた当時、幼稚園の教諭がソヒョンの頭髪の一部が血液で固まっているのに気づき、確認すると頭の傷以外にも全身にアザが見られたことから児童福祉機関に通報した。背中を竹刀で殴打したことなどが認められ、福祉職員は保護者向けの育児セミナーへの参加を促すなどしたが、パク・サンボクはそうした提案や介入を拒んだ。

当時の児童保護関連法における法的措置の権限は限定的で、ほとんどの場合、福祉機関が家庭に介入したり強制的に隔離したりする効力を持たなかった(つまり「事件化」して凶行が明るみに出るときは「最悪の結末」を迎えた後だった)。

2012年5月には「門限を破った」との理由で太腿を蹴りつけて骨折させていたことも分かった。父イ・ハクソンは不動産のディベロッパーで各地を回るため、家を空けることが多く、パクに家事育児を任せきりにしていた。だが余程見かねたのか、その年の10月にはイ氏からパクに対して「娘への体罰を辞めるように」と忠告された。しかし彼が再び出張に出るとソヒョンは風呂場で熱湯を浴びせられるようになり、手足に少なくとも二度のやけどを負った。

イ氏はパクによる虐待場面を直接目にすることはなく、ソヒョンの脚の骨が折れた時は「階段から転落した」、やけどの際は「ボイラーの操作を誤った」、死亡した翌日も「遠足に出掛けていった」と聞かされていた。パクは娘の葬儀に訪れた知人たちにも不幸な事故で命を落としたと説明した。

事件が公になると、人々は女児が一年を通して長袖の服ばかり着せられていたことの真意に気づいたという。


先に触れたように、当初、パク・サンボクはソヒョンが数千ウォンを手にしていることを知り、自分の金を盗まれたと疑い詰問した。しかし娘が盗みを認めようとしないため激しい折檻になったと説明した。だが現実には、ソヒョンの転校(転出)の知らせを耳にした贔屓の美容院の店主が餞別のつもりで2万ウォンを持たせていたことが判明する。

自由に使える小遣いを持たされたことがなかったソヒョンは、転校を前に仲のよかった友人たちにキャンディーをプレゼントするため数千ウォンを使った。美容師から小遣いを貰っていたことを後から聞き知ったパク氏は、2万ウォンを渡すように要求し、すでに数千ウォンを使ったと知るや一層激烈な暴行を加えたとされる。

その後、女児は風呂に入ったが戻らないので確認してみると浴槽で溺死していたと主張した。「入浴」にはアザなどの発生時期を隠蔽する意図があったと捉えられた。法医学者の報告では、亡くなった女児の腕のアザの状態から見て、腹部を防御できないように両腕を強く掴まれていた可能性が指摘されている。また臀部から肛門にかけて広範囲に肉づきがなく、皮下組織に繊維化症状が現れていたという。これは破損した組織が回復される前に再度暴行を加えた場合に生じるという。

さらに女の余罪も明らかとなり世間から強い非難を招いた。事件の数か月前、ある保護者の自宅に集合して学校行事の打ち合わせが行われた際、化粧台に置かれていた約400万ウォン相当のリング2つが紛失しており、家宅捜索の際にパクが窃盗していた事実が判明する。亡くなったイ・ソヒョンはわずか2、3000ウォンの買い物で命を奪われるほどの咎を受けたというのにである。

拘置所に収監されるや、パク被告は不動産業の勉強を始めたことが漏れ伝えられ、これも大バッシングを受けた。すぐに出所するつもりの行動と捉えられ、罪の意識や反省するつもりがないサイコパスだとして市民社会の報復感情の火に油を注ぐこととなった。

父親イ氏は虐待に直接関与していないながらも幇助した罪で懲役4年が言い渡された。

一審でパク被告は、ソヒョンが死に至ったのは仮にも保護者である自分に責任があることは正しく、暴行に至ったことも事実ながら、殺害の意図は存在しなかったと主張した。検察は、3年以上にわたって内縁の夫や周囲の目を欺く卑劣な虐待と隠蔽を続けてきた常習性から殺人罪での死刑を求刑した。

チルゴックのソウォン事件と共に大きな注目を浴びた児童虐待事件ながら、かたや傷害致死、本件は殺人と罪状が異なったことでも物議を醸した。しかし一審蔚山地裁は、被告人らの供述と現場状況には相応の一致があり、その故意性まで判断することはできないとして、従来の児童虐待関連死と同様、過失致死罪の適用が妥当とし、懲役15年を言い渡した。

2014年10月、二審釜山高裁は、原審判決を破棄。血にまみれ顔面蒼白となった無抵抗な児童に対して一時間近くも腹部を執拗に狙って暴行を繰り返した事実、これまでの隠蔽行動や虚偽の供述から、死の危険性を十分に予測できた上での暴行加虐と認められ「未必の故意」があったと判断し、殺人罪を適用した。

電子追跡装置装着の義務付けが請求されていたが、この事件は家庭環境など特定の関係性のもとで生じた殺害であり、故意の殺人は否認しているが虐待事実については容認してその過ちを悔いており「再犯可能性は低い」と評価し、却下した。

被害状況は非常に深刻で、被害者は報復を恐れて長らく従順にして委縮した生活を強いられ、親族らに一生消せない遺恨を残し、再発防止を求めて厳罰を求める嘆願が寄せられるなど社会的影響も甚大だが、元夫との離婚や実娘との断絶、同居していた夫の父親との確執など心理的負担感が虐待の背景とされた。

未必の故意による殺人罪での最高量刑となる懲役18年が言い渡された。上告はなされず現在も服役中である。

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蔚山継母殺人事件/釜山高裁判決要旨

https://legalengine.co.kr/cases/E6N3gv_ZUmjJ0dSjHWl34g

釜山コーヒーショップ従業員殺人事件

15年目の検挙によって解決を見たかに思われた女性殺害事件。しかし厳格な司法の壁が最後に立ちふさがった。

 

漂う遺体

2002年5月21日(火)の深夜、釜山広域市沙上(ササン)区掛法洞(クェボッドン)にある喫茶店「太陽茶房」従業員のヤンさん(22歳)が帰宅途中で行方が分からなくなった。

喫茶店のある掛法洞は新羅大学のお膝元で周辺住民も多い商業区域。ヤンさんは午後10時に店を退勤し、午後11時ごろ、後輩女性と電話で会話したのを最後に消息を絶ち、翌日から無断欠勤が続いた。

日頃から交流のあったヤンさんの姉は妹と連絡がつかないことを不審に思い、数日経ってヤンさんの部屋を直接訪れたが、ドアは施錠されており、室内は普段と変わらず荷物が持ち出された様子もなかった。姉はその足で、妹の居場所を聞こうと「太陽茶房」を訪ねたが、同僚たちも連絡が取れず一様に首をかしげている始末だった。

 

その後も音沙汰はなく、結局家族は、失踪9日目に沙上警察署に行方不明を届けた。

しかしその翌日となる5月31日、女性は掛法洞から南西約16kmに位置する江西(カンソ)区鳴旨洞(ミョンジドン)を流れる西洛東江の河口付近で変わり果てた姿で発見される。

発見当時の現場


第一発見者は「城倉(ソンチャン)木材」付近を通行していた公共労働者で、堤防際に打ち寄せられている大きな漂流物を見つけて通報した。漂流していたのは黒と黄色の二種類のゴミ袋で、中からつぎはぎに覆われた女性の腐乱死体が発見される。遺体は着衣のままで手足とひざが拘束され、刃物で40か所以上を滅多刺しにされていた。

その後の司法解剖により、致命傷となったのは胸部2、3カ所の刺し傷で大量出血に伴う失血死と推定され、性的暴行の痕跡はなかった。

警察は殺人事件と断定して捜査を進め、遺体は行方不明となっていたヤンさんと特定される。関係者への聞き込みでは周囲とのトラブルも確認できず、交遊関係から容疑者らしい人物は浮かばなかった。

また事件の発覚まで10日を要したことや、現場が海に近い河口付近で潮流が入り混じるエリアだったことなどから、上流から遺棄されたものか、海から遡ってきたものかも判断がつかず、犯行現場の目星がつかなかった。

しかし6月になってヤンさんの預金口座から失踪直後に金が引き出されていたことが分かり、銀行の防犯カメラを確認したところ不審な男の姿が捉えられていた。

男の顔は半分隠れていた

失踪翌日の5月22日正午過ぎ、「太陽喫茶店」から程近い銀行で、20代半ばから30歳前後と見られる容疑者男性Aがヤンさんの口座から296千ウォン(およそ30万円)を引き出していた。普通体型、中短髪でひげはなく、「ニューヨーク・ヤンキース」の赤色キャップを目深にかぶり、顔の半分がはっきりと見えなかった。男は四桁のパスワード入力を二度誤り、一旦退店するもすぐに舞い戻り、三度目でパスワード解除に成功した。

当局は6月5日に預金が引き出されていた事実を確認。男性Aはその後引き出しに訪れていなかったことから、6月10日、銀行に口座の凍結を要請するとともに、市内の銀行に男性Aの画像付きチラシを配布して情報を求めた。

しかし、6月12日、掛法洞から北へ6.5km(電車で6駅)離れた北区徳川洞の銀行で「預金引き出しができない」としてヤンさんの口座の解約と残金500万ウォン(40-50数万円)近くの払い戻しが行われた。そこに現れたのは男性Aではなく女性二人組だった。

30代前半と見られる容疑者女性Bは、身長160cm前後、体重75kg内外の中太体型、おでこを出したセミロングヘア。一緒に来店した20代後半とみられる容疑者女性Cは身長160cmほどで中肉体型、肩にかかるパーマヘア。女性たちはAに比べて顔立ちや風体も捉えられていた。

赤い丸で囲んだのが容疑者女性B(左)とC(右)

左が容疑者女性C

家族や知人らの話では、被害者ヤンさんは明るく誠実な人柄で、将来は料理人を目指して倹約に励み、月100万ウォン(およそ10万円)近くを貯蓄に回していたという。警察は被害者と面識のある人物による犯行と想定し、口座のパスワードを聞き出すために過剰な刺し傷を加えたものと考えた。

当初、アリバイやヤンさんとの交流機会などについて虚偽の供述をしていた叔母に嫌疑が向けられていたが、銀行に現れた三者とのつながりは確認されず、金の出入りもなかったことなどから最終的に嫌疑は晴れた。捜査当局では関係者50人余りに再度事情聴取を行い、三者の情報を求めたが手掛かりは得られなかった。

防犯カメラの画像を基に、三者について懸賞金付きの公開捜索に切り替えられた。遺体が見つかった5月31日は、韓日共同開催されたアジア初となるFIFAワールドカップの開幕戦(ソウルで行われた開幕戦は前回優勝国にして前評判も高かったフランスが大会初出場セネガルに0対1で敗れる大波乱となった)と重なって事件が注目されづらかった事情もあった。

しかし有力容疑者の風貌や犯行エリアがほぼ判明していながらも有力な情報はもたらされることなく、捜査は暗礁に乗り上げた。そのまま行けば2017年には公訴時効満了を迎える予定だった。

しかし2015年、刑事訴訟法の改正により殺人罪の公訴時効が撤廃されたことに伴い、長期未解決事件(2000年8月1日以降に発生)の捜査が再始動することとなり、事態は急転直下を迎える。

 

15年目の進展

2017年8月31日、釜山警察庁・未解決専任捜査班は女性従業員殺人の容疑者3人を逮捕したと発表した。詐欺、私文書偽造・行使などは公訴時効10年を過ぎていることから女性B、Cは起訴できず、男性Aに対する強盗殺人罪の容疑に絞られた。

 

釜山警察では再捜査に伴って、2016年2月25日にfaccebook上で3容疑者の顔写真などを公開して広く情報提供を求めた。すると翌3月、「知人女性に似ている」旨の通報があり、身辺調査などを行ったところ、事件当時、女性BとCは沙上区の居酒屋に勤めていた元同僚と判明する。

4月、女性B、Cに詳しい事情を確認したところ、当時店の客として知り合った男性Aが主犯格だと主張し、自分たちは現金の引き出しを頼まれただけで男や金の出処について詳しいことは何もわからないと供述。

再捜査班は銀行周辺での通信記録1万5千件余りの照合を行い、女性たちとの通話記録のあった回線の割り出しに成功し、男性Aとみられる人物をあぶり出した。

記者発表の様子


男はかつて釜山の工場に勤めていたが、ギャンブル狂いで8000万ウォンまで借金を膨らませ、月100万ウォンの利息に苦しんでいた。事件発生から2か月後となる2002年7月に少女の売春斡旋により未成年者保護法違反容疑で逮捕され、懲役2年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受けていた。しかし翌03年に女性への強制わいせつにより再び逮捕、懲役7年が加算され、2012年3月まで服役していたことが判明する。

また2002年当時、男性Aと短期間同居していた女性E(非公表だが、Eの姉がAに売り渡し、売春を斡旋されていた元少女と推測される)を探し出し、「5月ごろ、丸みを帯びたゴミ袋を一緒に運ばされ、トランクに積んだ記憶がある。車にゴミ袋を積むこと自体が初めてのことで、袋の中身がやや水っぽい、普通のものではない感触だった。Aの気が立っていたので中身について聞けず、どこか分からないが平らな場所で下ろした」との言質を得た。

並行して監視カメラ映像の分析が行われ、顔面の形状や耳の角度、頭髪の生え際の分析、脚の癖など生物学的特徴から、捜査対象者と同一人物である可能性が高いと分析された。回収した筆跡の鑑定でも、預金引き出しの際にベースボールキャップの男が記入した筆致と類似性が高いとの結果が出た。

男性Aが当時乗っていた赤い国産スポーツカーはその後、人手に渡っていた。2013年に「破格値で譲り受けた」という人物は、1年ほどして自分で改造を加えようと後部シートのカバーを剥がしたとき、血のような赤黒い汚れを見つけて気分を悪くしたと語った。だが血痕か否か確認は取れておらず、当の車両はAの逮捕前に廃車されていた。

 

逮捕された男性Aは一貫してヤンさんの殺害・死体遺棄を否認。当初は当該銀行を利用した事実はないとしていたが、元妻、元同居男性、元同居女性E、旧友、元同僚らに個別聴取した結果、ビデオを見た全員がベースボールキャップの男はAで間違いないと回答したことなどを受け、「拾ったバッグから通帳を奪取して預金を引き出しただけ」と供述を変えた。

2017年9月15日放映の時事・社会問題を扱うドキュメンタリー番組『気になる話Y』では、検挙時の模様が一部公開された。容疑者Aは警察に取り囲まれてもタバコを吸う素振りを見せ、自分が犯人ではないとしながらも許しを請うような言葉もあったとされる。

前科で獄中にいた折、男はカトリックに帰依しており、以来「悪事から足を洗った」と主張。事実、週に2度の修道院通いと奉仕活動を15年間近く続け、模範的な信徒として知られていた。

本件での逮捕を受けて、Aは修道女に「自分は過ちを犯してなどいないのに、警察が物証もなしに心証だけで犯人に仕立て上げた」と話したという。「警察は自白と引き換えに量刑軽減の“ニンジン”をちらつかせてくるだろう、見当はつかないがそうなれば向こうの要望に応えるつもりだ」とまで内心を打ち明けていた。

しかし彼の打算はハズれ、そうした司法取引は交わされなかった。

 

審理の行方

日本の刑訴法をモデルとした韓国の刑事裁判でも、直接証拠や重要な手がかりが消失した場合でも、理性的推論と間接証拠の相互関連に基づき、公訴事実が立証可能とされている。だが有罪と認められるためには、間接的証拠を積み重ね「合理的な疑いの余地がない」程度にまで証明されなければならない。

釜山地方裁判所で初公判が開かれ、前述の通り、検察側は被告人A単独による強盗殺人を主張した。被告側は、預金の引き出しは事実としながら、通帳入りのバッグは拾得物で、被害者女性から強奪したり、殺害したりといったことはなかったと反論した。

検察は主に以下四つの情況証拠を提示した。

・女性の失踪から半日足らずのうちに被告人が預金を引き出している点

・Aが口座のパスワードを知っていた点

・元同居人Eによる「一緒にゴミ袋を運び出した」という証言

・Aが殺害への関与をほのめかしたとする警官らの証言

Aとヤンさんの間に面識の有無は不明だが、借金苦に喘いでいたAが強盗に及ぶことに不思議はなく、事実、男には夜道で女性を狙った強盗や強制わいせつの前科があった。しかし被害者と言い争う姿や刃物を突き付ける様子など犯行の過程は一切目撃されておらず、指紋付きの凶器やバッグなどの遺留品が見つかってもいなければ、まして遺体から男のDNAが検出された訳でもない。

犯人は彼女がいつも通帳を身に付けていたことを知っていて尾け狙っていたのか、事前に帰りが遅いことを知って家の近くで待ち伏せたのか、単に夜道で行き会った相手がたまたま彼女だったのか。そもそもどこで殺害されたのか、具体的な犯行や足取りは明らかにならなかった。

有罪の可否についての評決は9名からなる陪審団によって行われ、有罪7名、無罪2名とされた。女性B、Cを使っての追加引き出しは併合罪が適用され、40回以上もの残酷な刺し傷や反省悔悟もなく言い逃れとも取れる容疑否認の態度は量刑判断で大きく不利にはたらいた。

2018年1月9日、キム・ジョンス裁判長は無期懲役を宣告した。陪審団の量刑意見は、死刑3名、無期懲役4名、懲役15年2名であった。

 

被告人Aは事実誤認と誤審を、検察側は量刑の不服を訴え、双方が控訴する。

取り調べを受けたAは被害者の口座の四桁のパスワードを記憶していなかった。銀行で二度の暗証番号入力に失敗した後、バッグの中身を確認し直し「被害者の身分証や携帯電話番号から類推して」三度目に成功したと述べたが、警察の調べでは適合する数字や計算法は見つけられなかった。

すると同じくバッグに入っていた手帳に記載されていた「被害者の親の生年月日」の組み合わせだったと言い換えた。手帳は処分されており記載の確認が取れないものの、離れて暮らす両親の誕生日を手帳に記していたというのもにわかに信じがたい供述である。

また一般的に通帳を紛失すれば第三者に預金を引き出されないように、銀行に速やかに申告するものと考えられる。最初の引き出しに成功したとて、Aは20日近く経って尚も執着し、女性B、Cに口座の解約に行かせている。

これはAが、通帳紛失の届け出がなされていないこと、すなわちすでに預金者が死亡している事実を知っていたことを裏付けると検察側は主張した。

かつての同居人Eは、最初の聴取でアパートの場所さえ記憶していなかったが、その後の催眠調査や周辺の動画、画像を見せるなどしてAや同居当時の記憶を多少取り戻した。高裁は、調査の過程で記憶の歪曲や汚染が考えられるが、調査前の「ゴミ袋を車に乗せた」との証言は、Eにとって共犯を疑われかねない不利な供述であることからも、逆説的に信憑性が高いと評価した。

2003年3月ごろ、Aは夜間、高級車を運転する女性を相手に金品を強奪する犯行を繰り返しており、背後からロープで首を絞め、粘着テープによる拘束を行い、強制わいせつに及んでいたが、前科があることを以てして証拠もなく別の事犯にそのまま当てはめることはできない。

Aの携帯電話の検索履歴には、主に宝くじの当選番号や地図情報の記録が多かったが、2016年5月3日には「殺人公訴時効」、5月21日には「殺人公訴時効が廃止」を検索していた。

取調官によれば、Aは強盗殺人を否認しながらも「双方にとってベストな量刑はどれくらいか」「検事さまに善処の基準を教えてもらいたい」など、量刑について尋ねたり司法取引を匂わせる発言が出たのは不自然に感じられたという。

また他の警官らは、護送や家族との面会など私的な対話の場で「その日、喫茶店で見掛けて、帰りにドライブに連れて行った」「部屋に連れ込んだが、そのとき頭に血が上って、半狂乱になった」など犯行をほのめかすような発言がしばしば聞かれたと述べた。

これに対し、Aはタバコを貰う交換条件を引き出すために芝居を売っただけだと反論した。前科者のAは、正式な事情聴取で調書に取られなければそうした部外での発言は裁判で不利な証拠にはならないことを熟知していた。

被告人には自らにとって不利な証言を拒む権利が認められており、自供内容が変遷したことをもって犯罪性を問うことはできないが、Aの供述は全体的に信憑性が薄いと捉えられた。

弁護側は、被害者をよく知る某氏(おそらく叔母)を有力な容疑者として指摘しており、アリバイ供述、被害者との電話連絡の有無、被害者との面会時期などで偽の陳述を行っていた。事件前後の39時間にわたって携帯電話やインターネットの接続履歴がなかったことなどを不審点に挙げた。

また遺体の剖検で多量のアルコール分が検出されていたことから、5月22日12時過ぎのAによる引き出しの際に被害者が存命だったとすれば、拉致された後も酒を飲んでいたことになり、一般的な経験則に照らしても異例だと主張し、殺害には関わっていないことを裏付けようとした。

しかし高裁は、某氏への疑いが残るにせよ被告人Aの疑いが減衰することはないとした。またアルコールは職場帰りに口にしていたとも考えられ、22日昼の預金引き出しまで被害者が存命だった確証もなく、失踪当夜すぐに殺害されたと考えることも可能だとした。

量刑への異議に対して、法定刑は死刑または無期懲役が相当であり、罪状や被告人の情状に照らして一審陪審団の裁量が合理的な範疇から外れるものではないことを示し、シン・ドンホン裁判長は双方の控訴を棄却。一審判決の無期懲役を維持した。

被告人Aは上告する。

 

差戻し審

最高裁は、検察、弁護側の審理を尽くす場ではなく、高裁の事実認定に誤りはないか、法解釈に問題はないかをチェックする最終審査機関である。

2019年1月10日、最高裁ミン・ユスク裁判長は、原審(二審)判決を破棄し、釜山高裁への差戻し審理とする判決を言い渡す。その理由として、様々な「合理的疑い」が指摘される格好となったので細かい議論にはなるが詳しく見ていこう。

まず前提として、既存の間接証拠やAの自供から、預金引き出しの事実を以てして女性殺害の事実認定はできないことが確認された。

原審で殺害の有力証拠とみなされた元同居人Eの供述にはそもそも曖昧で、殺人という重罪に対してほぼ唯一ともいえる証拠であることを踏まえれば、より厳格な評価が必要だと最高裁は指摘している。

Eは、「おそらく2002年5月ごろ」、Aに「正方形の倉庫のような建物」まで連れて行かれ、「Aがゴミ袋を引きずってきて車のトランクに詰め」るように命じられたという。場所を移動して「セメントの床がある場所で袋を下ろし」た後、自分はしばらく「石の上に座って待っていた」と述べていた。それだけ聞いても殺人事件とは到底断定しえない。

また一人で引きずれる荷物であれば、犯行が露見するリスクを冒すことなくAが独力で車に積むこともできたのではないかという疑問が生じる。先述の通り、袋の中身について暴露や示唆はなく、トランクから出した荷物をAがどこでどう処理したのかという重要な情報も欠落している。

またEは「黄色いゴミ袋」については記憶していながら、Aの車両が「赤いスポーツカー」だった記憶は欠落しているなど具体性に欠け、不自然とまでは言えないが信用に足るとは言い難い内容だった。Eが被告人Aを殺人犯に貶めようとするほど怨恨が深いとは思われないが、捜査員の質問に同調したり、共犯の疑いを避けるために自己防衛をしているとも考えられる(あるいは何か後ろめたい余罪があったやもしれない)。

さらに死亡推定時刻についても疑問が残る。国立科捜研法医間の作成した死体検案書には「2002年5月22日未明(推定)」とあり、釜山科捜研では同じく「5月22日」とし、腐敗程度と捜査状況から推定されていた。肝臓および脾臓組織のアルコール濃度は0.074%と測定されていながら、警察ではその原因を掴みきれておらず、死亡日時の算定アルコール濃度の合理的な説明が不充分とされた。

またAの借金規模は8000万ウォン程度あり経済的困難に陥っていたが、複数のカードを駆使して利息分を返済しており、すでに債務不履行とされた額は1280万ウォン程度だった。延滞の可否や督促・取り立ての有無など、その状況が殺人の動機となりうるものだったのか客観的な資料から検討すべきと指摘された。

また被告弁護人から有力容疑者と指摘された「被害者をよく知る人物」に関しても、銀行のカメラ映像が発見されるまでは容疑者とみなされていたことは事実であり、より積極的な証拠調べが必要だったと見られる。

高裁への差戻しは事実上、最高裁が一審・二審での判決が拙速に過ぎると判断し、証拠調べが不充分と認めたことを意味する。

 

高裁差戻し審では改めて被告人の「推定無罪」の原則が確認され、一層慎重な裁定が求められた。2019年7月11日、キム・ムンヴァン裁判長は一審有罪判決を破棄し、無罪を言い渡す。

Aに犯行をほのめかすような発言があったことに関して、現にそうした発言があったにせよ、捜査員からのタバコの提供もまた事実であり、「見返り」に該当した。録音・録画や本人の認めた調書もなく弁護人の立ち合いもない、任意性と客観性が保障された環境下でなされた供述でない以上、会話の一部分だけを切り取って自白と断罪するのは不当であり、証拠能力がないとして却下された。

また被告人の供述調書にも適切な聴取の手続きが踏まれていなかったものが見つかり、証人出廷した該当検査官の陳述も証拠から却下されるなど、より厳格な審査が行われた。

元同居人Eは、2017年7月20日に水原(スウォン)西部警察署で初めての取り調べを受けており、捜査員から「Aの車の後部座席かトランクに何かを載せなかったか」「ゴミ袋に何が入っていたか」など死体遺棄を念頭に置いた質問を繰り返し尋ねられたという。

休憩を挟みつつ8時間以上の長丁場に及び、やがて署員は、楕円形の長細いゴミ袋を絵に書いたり、引き揚げられたゴミ袋の写真を見せるなどしたとされる。当初「記憶がない」とした事柄についても警察が得た情報が問答の中で断片的に伝えられて記憶が喚起されたり、Aに対する心証も(長時間の取調から逃れたい余り)暗示的に変容していったことが推測される。

催眠調査の証拠能力については各国で議論されているが、その評価は非常に難しい。本件では検査後にEの供述が部分的に具体化している。それが警察や検査官など外部からもたらされた情報による影響か、記憶の再現によって掘り起こされたE自身の記憶だったのかは定かでなく、また信憑性についても当初の供述との証明力の優劣も評価はつけがたい。

一方で、高裁は捜査機関に対し、人体に近いダミーを用いた搬入や遺棄の検証実験をしてはどうかと提起していたが、結局行われなかった。これはE証言で「AとEがトランクに載せた/下ろした」という出来事以外に説示されておらず、条件や二人の動作といった具体性を伴わないため再現しようがないことの証左でもあった。

 

検察は、Aによる第一次預金引き出しについて、パスワードの認証に二度失敗した後、銀行の地下に停めてあった車のトランクにいた被害者に直接確認しに行ったのではないかと推測していた。しかし銀行を出てから再び入店するまでわずか約1分10秒という短時間であった。急いで車に戻り、人目に気を配りながらトランクを開けて被害者を脅し、すぐに正しいパスワードを言わせて、後がないにもかかわらずその数字を即断で信用して入力できるのかについては、かねてより疑問視されていた。

検察のストーリーに説得力が乏しい分、焦っていたAが落ち着くために外の空気を吸いに出た、あるいは事前に被害者から聞いた数字を書き留めていたメモを再確認しに表に出たなどの方が自然な行動に思われる。被害者は当時複数の口座を使用しており、手帳に各口座のパスワードを記していた可能性もあながち排除しきれない。

Aの主張では、「21日午後8時ごろにバッグを拾った」と供述していたが、そのとき被害者はまだ喫茶店で勤務中だったことから明らかな虚偽と判断できる。捜査のかく乱を狙ったのか、単に彼女の勤務時間を知らなかっただけなのかは分からない。

女性の失跡からAによる現金の引き出しは12時間しか隔たりがなく、殺害との連続性が疑われる間接的事実のひとつとみなすのはごく自然な推論に思えるのだが、その他の客観的証拠が皆無に等しく被害者の動線が分からない以上、監視カメラ記録の証拠としての範囲は限定的なものに留まる。

繰り返しになるが、この裁判でAは「殺人罪」の容疑を掛けられ、検察側は彼が殺人犯だという合理的な説明をせねばならないのだ。

口座解約の依頼(2次引き出し)について、検察側の言うようにAは被害者が死亡していることを知っていたため執着して女性B、Cに依頼したという推論も可能である。しかしながら、同じく一般論で言えば、通話履歴を残し、銀行近くで待機するなど、Aの取った行動はリスクが大きすぎるようにも思える。B、Cが窓口での手続きに失敗すれば、深刻な刑事罰となることは目に見えていたはずだ。

口座解約は6月12日に行われたが、直前の6月10日に男性Aの捜索が開始されていた。当のAによれば強盗殺人容疑まで向けられるとは想定していなかったと言い、仮に解約が失敗しても先に引き出した分を返金すれば重い罪にはならないと考えていたという。

 

鑑定人による血中アルコール濃度の説明として、死体の腐敗によってもエチルアルコールが生成されると言い、飲酒により経口摂取されたアルコール分と区分できない方式で測定されたことから、その割合は計りかねると報告された。そのため飲酒の有無は不明であり、死亡推定時刻の算出への影響は排除された。(尚、それぞれのエチルアルコールの量を割り出す際には、腐敗の際に同時に生成される「エンプロピルアルコール」を測定することで腐敗により生成された分のエチルアルコールを算出することができる。本件当時はエンプロピルアルコールが測定されていなかった。)

男性Aは4つの金融企業から借金していたが、厳しい督促を受けていた情況はなく、それ以前にはなかった「殺害」に至る契機はどこにも見出されなかった。また2003年頃の強盗についても夜道での女性を狙った襲撃、テープを用いた拘束など類似点はあるものの、刃物を使用しておらず、同一犯行という確信につながる徴候は不足している。

弁護側が有力容疑者とした某氏は、差し戻し審で改めて証人尋問を受けたが、従前の陳述を再確認する程度で、依然として通信履歴などの客観的事実と食い違う部分もあった。某氏と被告人Aとの接点はなく、共犯とは見なせず、追加的な発言はなされなかった。

Aの元車両にあったとされる血痕様の汚れについて、40か所以上の刺し傷から鑑みて車内が殺害現場とは認めがたく、トランクから後部シートに血が滲むことも考えづらかった。誰の血液かも断定できない上、それが血痕か否かも定かでなく、証拠価値は認めがたいものと判定された。

2016年5月に「殺人罪公訴時効」「時効廃止」などをインターネットで検索していたことに関して、当時、本件を取り上げたテレビ番組の放映を見たためではないかとも疑われるが、番組視聴を裏付ける証拠はなかった。

また量刑や自白すれば減刑されるかなど取調官への質疑についても、有力な容疑者とされれば先々を不安に思い、どう立ち振る舞うべきかを逡巡するのが道理であり、そうした挙動をもって間接証拠とみなすことはできない。

この判決を受けて検察は上告した。

しかし2019年10月18日、最高裁キム・ソンス裁判長は、検察側の上告を棄却。釜山高裁での差し戻し審に法令違反はないとし、無罪判決が妥当と判断された。

 

所感

本件は初動捜査の遅れや情報リソースや証拠の不足が尾を引いたこと、あるいは別の事犯による長期服役が実質的な隠れ蓑となり、Aは捜査の網をすり抜けたと見なされている。

未解決専従班には「このように証拠認定を厳格にすれば、長期未解決事件の容疑者を捕らえることはますます困難になる」と無念を口にする者もあり、「今回の判決を受けて他の容疑者も無罪釈放されるのでは」との懸念も聞かれたという。事件を追った番組プロデューサーは、公訴時効廃止により再燃した長期未解決事件の捜査士気が全国的に減退するのではないかとの見解を示した。

法は何を守り、裁判所は何を裁くのか、考えさせられる顛末である。

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

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一審要旨

https://casenote.kr/%EB%B6%80%EC%82%B0%EC%A7%80%EB%B0%A9%EB%B2%95%EC%9B%90/2017%EA%B3%A0%ED%95%A9452

二審要旨

https://casenote.kr/%EB%B6%80%EC%82%B0%EA%B3%A0%EB%93%B1%EB%B2%95%EC%9B%90/2018%EB%85%B851

最高裁判決要旨

https://casenote.kr/%EB%8C%80%EB%B2%95%EC%9B%90/2018%EB%8F%8412374

釜山高裁差戻し審

https://casenote.kr/%EB%B6%80%EC%82%B0%EA%B3%A0%EB%93%B1%EB%B2%95%EC%9B%90/2019%EB%85%B828

第二次最高裁要旨

https://casenote.kr/%EB%8C%80%EB%B2%95%EC%9B%90/2019%EB%8F%8410489

別府三億円保険金殺人事件

決死のカーダイブ

1974年(昭和49年)11月17日(日)午後10時過ぎ、大分県別府市の国際観光港第3埠頭・関西汽船フェリー乗り場の岸壁から乗用車が海に転落した。小雨交じりの肌寒い夜だったが近くにいた7名の釣り人たちがすぐに転落に気づき、車から脱出した成人男性一名を救助し、110番通報する。

 

救助された男性は、不動産業を営む荒木虎美(47歳)。目撃者によれば、車は時速40kmほどで走行しブレーキを掛けるそぶりもなく漆黒の海面目掛けて突っ込んでいったという。唖然としていると5秒ほどで「助けてくれ」と声が聞こえ、男性が平泳ぎで岸壁に近づいてくるのが見えたため、釣り人らがたも網などで引き寄せた。

男は車内に運転していた妻玉子(41歳)、長女祐子(12歳)、二女涼子(10歳)の三人が取り残されたままだと言い、助けを求めた。

聞けば家族で関門橋へドライブに行った帰り道で、妻に運転を任せて自分は助手席で熟睡してはいなかったが目を瞑っていたという。妻の悲鳴と車の衝撃で目を開けるとすでに海中で水がなだれ込み、ドアが開かず割れたフロントガラスから無我夢中で脱出したと語った。

パトカーが到着し、男はただちに近くの内田病院に運ばれて検査を受けたが、両手の擦過傷以外にケガはなく、海水の吸飲もなかった。

大分県警は潜水隊を要請したが夜間の出動はできないとして朝まで待つように返答があった。業を煮やした見物人が知人のダイバーに要望し、午後11時過ぎから海中を捜索してもらうと、岸壁から沖合約11m、海面から深さ8m付近に車体を発見。白色の「日産サニー1000」で、車輪を上に向けた状態で沈没しており、内部に複数人の女性の姿が確認された。午後11時半ごろにクレーン車が到着し、引き揚げ作業が行われた。

イメージ

母娘三人の遺体は運転席後部に折り重なるようにして発見された。車は2ドアタイプでフロントガラスが完全に割れ、運転席側の窓は11.5cm開き、助手席側の窓は全開だった。ヒール靴を履いた母親の足が運転席側の窓からはみ出していたという。

翌日行われた司法解剖で、三人は水死とされた。妻玉子は頭部に外傷なし、右鼻翼2か所に創傷があったほか、両ひざに多くの皮下出血が見られた。後部席で寝ていたとされる長女、二女はともに鼓膜が破裂していた。

車両の検証では、灰皿が外れていて車内から見つからなかった。運転席のシートベルトは正常に機能したが、後付けで設置されていたものであった。運転席下にハイヒールの片方と女物のセーター、助手席前に懐中電灯と男物の靴片方が残されていた。助手席前のグローブボックスは閉じていたが、中からハンマーが発見された。

警察では、目撃者から聞いた転落状況の不自然さ、妻子が車内に残されているにしては落ち着いた夫の態度、助手席で目を瞑っていて転落するまで気付かなかったとする証言などに違和感がもたれた。

夫の虎美によると、下関までの行きは自分が運転し、帰りは九州に戻ったところで妻と交代したという。彼女はシートを最前部まで寄せてシートベルトを締め、背中にクッションを当てていた。大分県に差し掛かると、妻が別府湾の夜景が見たいと言い出して立ち寄ることになったとされる。

夜の悪天候での高速・長距離運転で疲労が蓄積していたことや、暗がりで濡れた地面と海面との境目の見分けがつきづらかったであろうことから妻の過失事故を推測する供述をした。証言通り、港にブレーキ痕やスリップ痕は見つからなかった。

追及は連日に及び、過失事故でないとすれば、長男と夫の不仲で妻が板挟みの立場にあったこと、虎美の女性関係の悩み、病弱で生理外の不正出血があったことから子宮がんの不安を抱いていたことなどから悲観的になり、無理心中しようとした可能性を挙げた。

だが自宅には長男が留守番しており、受験勉強を口実にドライブに同行しなかったと証言。いくら精神的に追い詰められていたとしてもまだ親の手が必要な子どもを天涯孤独の身にして先立とうというのも疑問に思われた。近隣住民には、長女が無理矢理ドライブに連れ出される様子が目にされていた。

虎美と玉子は三か月前、74年8月に再婚したばかりで三人の子どもたちは玉子の連れ子だった。夫は妻の戸籍に入った婿養子にあたり、荒木姓を名乗っていたが旧姓山口と言った。山口虎美には恐喝、傷害、放火、婦女暴行、詐欺など多数の前科があった。そして亡くなった三人には総額3億円を超える多額の保険金が掛けられていたことから、夫による保険金殺人の疑いが有力視されていく。

 

詐欺師の顔

自筆の経歴を見ていくと、山口虎美は1927年(昭和2年)大分県南海部郡青山村(現・佐伯市)の中農の家の長男として生まれた。43年、県立津久美工業から予科練に入り、指宿海軍航空隊に配属され、一等飛行兵曹となった。特攻兵に二度選ばれたが、機器のトラブルにより出撃を逃れたという。戦後、熊本高等工業に入学し、左翼関係の本を読み漁り、反権力思想に傾倒。48年、家庭の事情で中退し、郷里の中学教諭となったが、共産党の活動に専念していたことが仇となり、翌年「堕胎・恐喝」をでっち上げられ郷里にいられなくなったとされる。

しかし本件を調査した作家佐木隆三によると、敗戦時に18歳だった山口は鹿児島県指宿派遣隊で航空整備に従事する一等整備兵曹だったという。故郷に戻ってからは飛行服姿で材木の搬出や炭焼きする姿が見られており、47年12月に結婚。熊本高工の入学は確認できなかったが、同校の制帽姿で映る写真を旧友が所持していた。48年11月に代用教員に採用されて野球部コーチをして人気を博していたようだが、共産党の活動については確認が取れなかった。

在任中の49年2月に堕胎・恐喝罪で逮捕され、懲役1年2か月執行猶予3年の前科が付いた。不倫相手の中絶を医師資格のない鍼灸師に依頼し、1500円を支払った。しかし女から強制わいせつ被害の訴えがあったとして山口が駐在の巡査になりすまし、鍼灸師に告発をちらつかせて800円を脅し取ったという事件であった。

中学校を解雇されて別府に移り住み、妻の父親が猟師をしていたことから獣肉の商いを始めた。だが商売は軌道に乗らず、翌50年の2月に店が全焼。わずか2週間前に16万2500円もの火災保険が掛けられていたことなどから検察庁が詳しく調査し、山口は放火と保険金詐欺で起訴された。山口は失火を認めるも容疑を否認し、最高裁まで争ったが保釈中に窃盗・有価証券偽造行使で再逮捕され、併合審理で最終的に執行猶予なし・懲役8年が言い渡された。

別府区検の山本和夫副検事は『特異な保険金詐欺放火事件の研究』(1953、法務研修所)の中で山口虎美の印象を記している。「年少若輩の青年にしては、真の反抗精神というか、闘争心は相当なものである」とし、証拠物や供述調書にも因縁をつけて訂正を求め、窮すれば黙秘する周到さを備えていたという。育ちの卑しい不良者と違い、中学教員として幾分の教養があり、共産党かぶれした若僧には手を焼いたらしく、「海軍志願兵として自由奔放な生活をした結果か、農村青年としての純朴さは微塵もなく、凶悪不逞の輩の感があった」と書き残している。

サンフランシスコ講和条約による恩赦等で減刑され、55年12月に出所すると不動産・宅地造成業を始めた。先の裁判で妻が不利な証言をしたとして夫婦関係は破綻しており、60年4月に離婚。一男一女は元妻が引き取った。

不動産ブローカーは長続きしたが、県の認可を受けていない仲介業で口利きにより手数料をせしめる闇仕事だった。66年4月に公文書偽造・行使により懲役1年6か月執行猶予5年の有罪判決を受け、翌年7月には共同経営者の妻との不倫トラブルで強姦致傷、脅迫、傷害で逮捕され、懲役3年6か月の有罪判決で宮崎刑務所に収監された。

72年11月に出所するも、3か月後には恐喝未遂事件を起こし、転落事故当時は懲役6か月の判決を受けて上告中の身であった。その間、結婚相談所や福祉事務所などを訪ねるようになり、「子ども好きなので、母子家庭で育った子どもたちに父親の味を知らせてやりたい」「子どもは多いほど良い」などと言い、各所に未亡人の紹介を求めていたとされる。

73年7月、夫を亡くして間もない荒木玉子さんを紹介されて懇意となり、9月には母子の暮らす借家の向かいのマンションに転居。ドライブに誘ったりプレゼントを贈るなど熱心なアプローチを続けた。74年3月にプロポーズし、8月に結婚した。しかし引き合わせた自治委員は男を毛嫌いし、長男が二人の結婚に反対していたことから婚姻の保証人を断っている。

その短い結婚生活もまともなものではなかった。玉子さんの親に挨拶に行ったのは11月に至ってからのことで、山口の親族には再婚を知らせてもいなかった。周辺住民も再婚を知らず、結婚前と同様に夫妻は借家とマンションでそれぞれに別居を続けており、父親らしく振舞うでもなく子どもたちからも嫌われていたと話した。玉子さんの姉が荒木に長男の進路を相談した際には「頭の悪い子を学校にやってもしょうがない」として大工か左官でもやればよいと返答したという。

明らかになっただけで事故当時の荒木は3人の女性と交際しており、マンションに通わせていた。妻も不倫相手の存在に気づいていたが、荒木は玉子さん以外の女は「遊び」だと説明して取り繕っていた。

市内で飲食店を営む女性とは玉子さんと同時期の73年7月ごろに知り合い、熊本に住む女性の養母にもあいさつに出向いていた。

73年9月にはかつてホステスをしていて面識のあった三児をもつ人妻と再会し、情交関係となった。玉子さんにプロポーズした翌月には、その人妻と20日間かけて四国・九州を巡るドライブ旅行に出ていた。彼女は男に言われるがまま家の権利書を渡し、架空の領収書を切っていた。

74年4月には海軍時代に過ごした鹿児島県指宿の下宿を訪れ、下宿の娘が独身だと知ると猛アピールしてプロポーズした。女性は「事故」の報道まで荒木が既婚者とも知らず、前月には彼女の職場の上司にまで挨拶していた。


警察で調べを進めていくと、荒木は玉子さんとの交際前後から複数の保険会社へ相談に訪れるようになり、再婚前後から事故の12日前までの間に6社、三人の死亡で総額3億1000万円以上の保険金が入る契約を結んでいた。

支払い時期はさまざまだが、月当たりに換算すると13万円(当時の国家公務員初任給の2か月分相当、サラリーマンの平均月給並み)とその収入に比して過大な保険料を支払っていたことになる。貯蓄型を断り、保障型か掛け捨てで契約し、他社で充分な保険に入っているなどとして荒木本人を被保険者とする保険をすべて断っていた。保険会社の中でも当初から詐欺を訝しむ向きもあったとされる。

「事故」の2日後に母子の葬儀が営まれたが、荒木は会場に少し顔を出しただけだった。妻の家族から荒木の画策で車を海に転落させたのではないかと詰め寄られる騒動があったが、男は激しく応戦したという。残された長男は長崎の祖父母の元へ引き取られていった。

 

水際の攻防

「事故」の10日後には荒木自ら別府署交通課を訪れ、事故証明書の交付を求めた。署員は事故か否か調査中でまだ結論が出ていないとして交付を拒否したが、荒木も容易に引き下がろうとはしなかった。

カメラを向けられると身の潔白を訴え、あらゆる疑惑に反論した。

過失による事故か妻の自殺説を唱え、葬儀に参列しなかったのは妻の親族から責められたためと言い、疑いが晴れたら供養するつもりだと語った。保険は子どもたちの将来のためだとし、受取人は自分の総取りではなく、子どもたちや自分の姪(妹の娘。連れ子がいては再婚の妨げになるとして戸籍上養子としていた)も含まれていると明かした。

子連れの未亡人と再婚しようが、多数の保険に加入しようがプライベートな事柄で、事故か否かとはそもそも無関係だと主張した。警察やマスコミの嫉妬が一方的に事件を煽っているだけだとして「(計画的に)できると思うならやってみたらどうですか?」と挑発的な言動を繰り返した。

そうした男の臆することなき言動や、不可解な夫婦生活と愛人たちの存在は否が応でも衆目を集めた。疑惑の渦中にありながら、12月4日に自ら釈明のためフジテレビ系ワイドショー『3時のあなた』に出演し、コメンテーターらとの論駁に応じた。

「妻子を生命保険に加入させて他人に殺害を頼んで保険金を詐取する話はよく聞くけど、私は一緒に海に落ちているんです。妻の運転する車に同乗し、危うく命を失いかけた被害者で、さらには愛する妻子を不慮の事故でいっぺんに失った“哀れな夫”であり“父親”なんです」

 

鑑識調査で、車両の底面にある4か所の水抜き穴の栓が全て抜き取られていたことが明らかとなり、水没の計画性がますます強く疑われた。しかし誰がハンドルを握っていたのか、確実なことは車内にいた4人にしか分からない。生還した荒木による殺害を決定づける証拠はなく、警察としては情況証拠を積み重ねていくほかなかった。
12月初頭、捜査員らは荒木のワイドショー出演を苦々しく思いながら、九州大学医学部牧角三郎教授に求めた法医学鑑定の報告を待ちわびていた。その結果、妻が運転していたにしては胸をハンドルに強打した影響がほとんど見られないこと、また助手席前方のグローブボックスの損傷具合を見るに玉子の右腕の皮下出血と一致しており、両ひざの皮下出血はもがいてできたケガではないかと示唆し、運転席にいたのは夫とする所見を得る。

さらに宮崎刑務所でかつて荒木(当時は山口)と同房だった受刑者から重要な証言が得られた。男はエドワード・ケネディの交通事故を引き合いに出し、「この方法ならば過失か計画的か見分けがつかない。一か八かだ」と保険金詐欺の手口をほのめかしていたというのである。

 

12月9日、別府署は別府簡易裁判所に逮捕状を請求。11日、荒木は『3時のあなた』に二度目となる出演の後、局の裏門から出ようとするや待ち構えていた捜査員に取り囲まれ、17時50分、殺人容疑で逮捕された。

荒木は大分で送検され、過去の恐喝や放火詐欺で世話になった木村一八郎弁護士を頼った。3人を殺害したとなれば死刑か無期懲役かが見込まれる重大事犯であり、前例のないマスコミの騒動も悩みの種となった。大分地検始まって以来の大騒動に福岡からも応援を得て捜査が続けられた。荒木は取調でも否認を続け、木村弁護士は物証も自供もなければ公判を競えると自信を見せたという。

しかし12月21日になって、別府市内の鮮魚商から有力な目撃証言がもたらされる。「事故」当夜、白いサニーが現場近くで走行しているのを目にし、運転手は50歳前後の大柄な男だったと証言する。夜間の車内からの目撃で、当時はもちろん荒木の顔に見覚えはなかったが、知人と同車種だったことから運転席を確認したと言い、その場所や時刻、男が運転していたという証言内容は信憑性が高いと考えられた。

別府、大分はおろか全国が注視する大事件で、鮮魚商の男性もそのとき目にした「サニーの男」は荒木に相違ないとすぐに気づいた。しかし2年前に子どもがひき逃げ事故に遭い、依然として犯人検挙に至っていなかったことから、男性は警察に対する不信感を抱いていた。また暮れの繁忙期に仕事を投げ出すわけにもいかず証言を避けていたが、忘年会の席上で「運転席にいたのは妻ではなく夫だった」と口を滑らせ、それが警察の耳に入り、熱烈な説得を受けて証言に応じたという。

国東(くにさき)の妻の実家から妻子を乗せて自宅に向かう道中で、日出(ひじ)警察署前の三叉路から国道10号に入ったところで白色のサニーと行き会った。信号待ちのタイミングで運転席をのぞき込むと荒木とよく似た男がハンドルを握っており、22時ごろ、国際観光港に向かって左折したと説明する。

全国区となった事件に警察庁も本腰を入れ、科警研が横浜港で4台のサニーやダミー人形を用いた検証実験を行い、転落状況や各人の受傷の具合などを確認。

明くる1975年(昭和50年)1月2日、大分地検は荒木を殺人罪で起訴した。

 

チャパキディック事件

“テッド”の愛称で知られるエドワード・ケネディ(1932-2009)の事件について見ておこう。彼は地方検事を経て62年に上院議員に就任したリベラリストで、63年11月にダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領の実弟、68年6月に大統領予備選の最中ロサンゼルスで暗殺されたロバートの実兄にあたる。

ロバートの死から一年後の69年7月18日、マサチューセッツ州のチャパキディック島で選挙運動員たちの慰労パーティーが開かれ、テッド・ケネディ(当時37歳)も出席していた。その深夜、彼の乗るオールズモビル・デルモント88がパウチャ池に架かるガードレールのない橋から転落。彼は泳いで難を逃れたが、同乗していたロバートの元秘書をしていたメアリー・コペクネ(28歳)が車内に閉じ込められて水死した。

テッドはパーティー会場に戻って従兄弟のジョー・ガーガン、共通の知人であるポール・マーカムに相談した。彼らはレンタカーで事故現場に行ったが強い流れで救助は困難だったという。かたや午前2時ごろに宿でテッドと会話したヨット仲間によれば、彼は普段と変わらぬ様子だったとされる。

翌朝8時過ぎ、釣り人らが池に沈んだケネディの車を発見して通報した。レスキュー隊とダイバーらが急行し、9時までに車内の遺体が確認され、ケネディ所有の登録車両と特定された。テッド・ケネディはその朝、親類や議員仲間にも連絡を取っていたが、事故車発見が伝えられる午前10時まで警察への通報を怠っていた。

遺体を回収したレスキュー隊の隊長は、後部座席のくぼみでシートを掴み、顔を上に向けていた彼女の姿勢から、転落時の衝撃や即座の溺死ではないと考えた。車内に生じた空気のポケットに顔を出して数時間は存命だったはずで、すぐに通報されていれば助かった公算が高いと発言した。

現場に呼び出された副検視官は、女性を偶発的な溺死と判断。アルコール含有量の分析が指示され、後に死亡前の一時間以内に最大5杯の酒を飲んだ「少量または中程度」の摂取が認められた。当局に確認したが、不正行為の兆候がない以上、検視は必要ないとされた。

Mary Jo Kopechne in 1962

パーティー参加者は6人の20代未婚女性と既婚男性らで構成され、コペクネは親友たちに退席を告げておらず、財布や鍵の入ったハンドバッグも会場に残したままだったことが明らかとなった。男女の宿泊地は別々だったが、妻子あるテッドがアバンチュールのために彼女を連れ出したのではないかと醜聞が聞かれ出した。

テッド・ケネディは、昼間日差しに当たりすぎたせいで具合がよくないので送ってほしいとコペクネから頼まれて23時15分ごろにパーティーを脱け出した、その直後の事故だったと述べた。

しかし19日0時30分に同僚と別れて帰路に就いた保安官代理のクリストファー・ルック氏は、0時40分ごろに男女が乗る不審な動きをする車と行き違い、道迷いかと思って声を掛けたがすぐに走り去ったと証言した。テッドはルック氏との遭遇を否定したが、氏が目にしたナンバーの特徴などがデルモント車と部分的一致を示した。死亡時刻は23時半から午前1時前後とされ、両者の言い分に1時間ほどの矛盾が生じたことから疑念がもたれた。

テッドはただちに通報しなかったことで執行猶予付き・2か月の禁錮刑(法定最低刑)を受けたが、過失致死などの嫌疑は免れた。マサチューセッツ州地裁ジェームズ・ボイル判事は「彼はすでにこの裁判所が課すことのできるどんな刑罰よりもはるかに多くの社会的制裁を受けており、今後も受け続けるだろう」と述べた。

テッドが代議士となる以前に起こした信号無視や無謀運転、パトカーとカーチェイスした遍歴が暴露され、飲酒や無謀運転の追及を避けたかったのではないかと噂された。彼は自身の不徳と悲劇の発端となった事実を詫びるとともに、「酒気帯び運転」やコペクネとの「私的な関係」の疑惑を否定するテレビ会見を行い、有権者に議員資格の是非を問うた(前回より10ポイント以上失ったが70年に得票率62%で再選した)

当時妊娠していたテッドの妻は三度目の流産に見舞われ、夫の事故がその遠因になったと囁かれ、国内有数のセレブ一族に「ケネディ家の呪い」と揶揄する者もあった。司法調査のために遺体を掘り起こす請願が提起されたが、コペクネの両親は一人娘の埋葬地を荒らさないでほしいと懇願し、裁判所は採掘の請願を却下した。ケネディ家からコペクネの両親に対し、保険会社を通じて14万1000ドルの和解金が支払われたとされる。

テッド・ケネディはこのスキャンダルによって事実上大統領職への道を断たれたが、その後も皆保険制度や選挙資金改革など多くの重要法成立に尽力し、40年以上の議員キャリアを全うした。チャパキディック事件と呼ばれたこの出来事は少なくとも15のノンフィクション書籍の題材となり、小説のモチーフともなった。彼の死後に発表された回顧録『True Compass』(2009)でも、コペクネの死を招き、適切な対処を取れなかったことへの後悔が語られている。

この事故が国民的騒動となった背景として、セレブリティにして因縁めいた「ケネディ家」の大看板があり、政治的賛同者や敵対陣営からも懐疑的に捉えられたが故に予断が生じる素地が大きかったことがある。不審死というだけでなく、いわば陰謀論におあつらえ向きなシチュエーションを兼ね備えていた。

伝記作家ピーター・カネロスは、政治への関心とスピーチライティングの才能を持った才女コペクネがその人生を全うできなかったのに対し、テッドに第二の人生が与えられたのは「あまりにも不公平・あってはならない不正義(cosmically unfair)に思えた」と批判的に綴っている。

ジャーナリストのジャック・オルセンは、ケネディ信奉者の刑事によるある仮説を批判的に紹介している。テッドはルック保安官代理と遭遇した直後に、飲酒運転の尋問や不倫を疑われることを避けるために車を降りて、コペクネ自らの運転で転落したのではないかとする見方である。コペクネは身長157cmとテッドより30cmも小柄で、普段は小回りの利くフォルクスワーゲン・ビートルを運転していた。不慣れな夜道、アルコールと小さなアクシデント、乗りなれない大型車など悪条件が重なって目測を誤り、池に転落したのではないかという。

その晩、男女に何があったのか、車内でどんな会話が交わされたのかは明らかにならなかったし、テッドが何を語ろうとそれを信じる者はいなかったであろう。大統領候補選や民主党内の確執が報じられるたび、この出来事はテッドの人生とケネディ家を巡る悲劇のひとつとして語り草とされた。

 

終わりなき抗弁

3月17日、大分地裁で初公判が開始された。最大の争点は、運転手はだれか。

検察側は鑑定報告、実証データ、新たな目撃証言で公判維持に自信を深めていた。一方、着任時とは風向きが変わった木村弁護士は弁護団が結成できなかったことや高齢、多忙を理由に、第2回公判で辞任の意向を示した。裁判所は急遽、国選弁護人に山本草平、徳田靖之、小林達也の三弁護士を選任。荒木は国選弁護人を信用しておらず、木村弁護士がダメなら自身の弁論で潔白を証明する意気込みを見せたと言われる。

国際観光港での現場検証、横浜港での再現実験などを審理した上で、検察側は鑑定人牧角教授を証人に招き、妻が助手席側にいたと判断できると主張した。しかし弁護人から車内の傷が海中で付いたことの説明を求められると答えに窮し、乗車位置の判断は法医学の範疇を超えているのではないかと指摘される。また荒木も、妻の膝の皮下出血は展望台の階段で転んだ時にできたと主張した。

兵庫医科大・松倉豊治教授も妻は助手席側にいたことを示したが、受傷は着水前にハンドルを切った際に生じた遠心力で前もしくは右前方向の衝撃を受けたためと説明した。しかしその後、着水時の衝撃による受傷と証言を覆すも、弁護人から転落実験によると着水時の衝撃は大きくないことを指摘され、車両が離岸した瞬間の減速衝撃によるものと見解を迷走させた。

著名な医師と言えど、港から車で突っ込む事例に精通しているはずもなく、海中に晒された車や当時の法医学研究では精確な原因解明にたどりつかないことが浮き彫りとされる格好となった。

事件間際にサニーと行き会った鮮魚商の男性は、運転席の男と荒木を比較して「九分九厘似ている。間違いないと思う」と証言した。しかし警察の聴取では「荒木に酷似した男だが断定はできない」、検察では「確かに似た男だった」と述べており、弁護人は時間の経過とともに発言が断定的なものに変化している点を指摘した。

荒木が男性に対し「あなたが見たというのはこの私か」と横顔を見せつけると、男性は「いや、絶対にあんた本人だ。あの夜のあんたの顔を忘れることはできない」と声高に叫んだ。

鮮魚商は迷惑をかけたくないと言ってサニーを所有する知人の名を明かさなかったが、検察はその所在を掴み、79年3月になって車の写真を証拠提出した。77年3月に廃車されており入手できた写真は不鮮明だったが、1年型式が違うサニーと断定されたが、実際の色は青色だった。弁護人は「普通は色で覚えるが車種・年式を知りながら色を間違えるなど全く不自然」と指摘した。

元同房者が服役中に荒木からエドワード・ケネディの事故の載った週刊誌を見せられ、出所後の74年7月に荒木を訪ねた際にも犯行計画を聞かされたと述べた。その後、元同房者は別の詐欺で逮捕されており、証人出廷の際も服役中の身柄だった。荒木は「裁判長はこんな懲役太郎の言うことをまさか信用するんじゃないでしょうね」と罵倒し、相手も激昂して罵り合いとなった。

また別の元同房者も荒木から「刑務所を出たら一発勝負をかける」と聞かされ、74年春に計画を持ちかけられたが断りの連絡を入れたと供述していた。しかし取り調べから約2年後の公判では「取調官に迎合して創作した」と証言し、全面的に覆した。

審理の渦中、大分合同新聞の読者投稿が波紋を呼んだ。その内容は、荒木が助手席に座っていても妻からハンドル操作を奪って転落させることはできたはずで、捜査当局や裁判所は「運転席問題に囚われすぎている」という至極もっともな市民感覚であった。

これに対し、大分地裁西村法所長が同紙に意見を寄せ、座席がどちらでもよいということはなく、いかなる被告であっても法の下の平等に則って証拠により有罪性が立証されねばならないと読者に対する説得的内容が述べられた。

日本で公判中に当該裁判所長が事件に関するコメントを表明することは異例であり、一歩間違えれば世論の誘導とも捉えられかねない。思えらくはセンセーショナルに騒ぎ立てることなく審理を見守ってもらいたい意向からそうした行動に出た(本人の意志ではなく「上」の意向かもしれない)と捉えることもできるが、その真意はなにか、心象はどちらに傾いているのか、にわかに疑念と憶測を呼んだ。

76年10月10日未明には、国際観光港第3埠頭の現場に突如白色のマツダファミリアが現れ、件の「事故」さながらに時速40kmで漆黒の海へダイブした。まもなく35歳の男が海面に浮上し、釣り人が慌てて110番通報した。35歳の男は「荒木の証言に疑問があったので実験した」と語り、「計画性があればほぼ助かることが分かった。裁判で証言してもよい」と述べた。

マスコミでは「カミカゼ実験」などと称されて話題となったが、話を聞かされた荒木は売名行為だとして歯牙にもかけなかったという。

 

1980年3月28日、大分地裁永松昭次裁判長は検察の求刑通り死刑を言い渡した。

運転者について、牧角鑑定の一部には事実認定において参考になる点もあるとして一部を採用、松倉鑑定を却下した。鮮魚商証言について、車体の色の不一致は不自然で証言を全面的には信用できないとしつつ、現に同型車両をもつ知人がいることから運転席を見ることも自然のなりゆきだとし、その名前を明かさなかったことも首肯できる理由と判断。目撃現場や時刻から見て、本件車両を運転していた被告人だと優に認定できるとした。

元同房者による犯行計画の供述については充分信用に足るとした。供述を翻した元同房者についても「被告人に恩義こそあれ恨みのない」立場から被告人の不利益となる法廷証言を避けようとしたとも考えられ、むしろ事前に取られた調書供述に信用性があると判断した。

また事故直後、荒木は姪を病院に呼び寄せ、転落車両とは別の車のトランクに入っている封書を開封せずにすぐに焼却するように厳命していた。その内容は明らかになっていないが、保険契約でもしばしば姪が受取人とされている事実から、仮に荒木が生還できなかった際に保険金が姪に入るように託した遺書だったのではないかと推量された。

社会的影響も大きい重大凶悪事件であり、何の落ち度もない母子らに対して一獲千金の欲にまみれた冷酷非道な犯行に及び、徹頭徹尾否認を続け反省悔悟の情も認められず、極刑をもって贖罪させるよりほかないと情状が告げられた。

78年6月には長男が証言し、「この男を死刑にしてほしい」と訴えていた。そのとき荒木は号泣し、「きみの誤解だ。大人になったらゆっくり話し合おう。きみの妹たちを死なせた十字架は一生背負う」と嘆いていたが、判決審を終えると「裁判長、控訴申し上げます」とつぶやいた。

 

翌81年5月に開始された控訴審で、弁護団は原審の認定に抗議し、改めて法医学鑑定や自動車工学の専門家による実証実験を求めた。

また一審判決文で触れられた「母子家庭の未亡人の物色」や再婚後も別居生活を送ったことについて、裁判官の価値観・道徳観による一方的な偏見であり、違法性もなければ犯罪準備にも当たらないと釈明された。

福岡高裁は成蹊大学江守一郎教授にフロントガラスの割れた原因や時期について鑑定を依頼したが、荒木は教授に自らの主張を訴えた上で「公正な鑑定」を求め、「もし国家権力の歓心を買わんがために迎合して曖昧なインチキ鑑定などなさった場合は、マスコミ注視の法廷において追及せざるを得なくなります」といった心理的威圧とも受け取れる手紙を送りつけた。

高裁は荒木に文書発信の禁止を命じ、「不正鑑定を阻むために必要な措置」であり「被告人の権利」を主張する荒木の異議申し立てを却下。国際港での実証実験を経て、82年11月、江守鑑定が提出された。

着水時の衝撃そのものでフロントガラスが割れることはなく、乗員の頭部が当たって突き破ったとすれば15Gの衝撃で頭部にかなりの損傷が生じるとした。またダッシュボードに残された擦り傷と車内に残されていたハンマーの金具丸面と形状が一致したことなどから、フロントガラスは着水後に人為的にハンマーで割られたものと鑑定。ダミー人形や車内の破損状態から、助手席乗員が無傷ということはありえないとし、妻が助手席、荒木が運転席に乗車していたと結論付けた。

江守教授の証人尋問でも、荒木は「車両は7年も使用しており、実験車とはガラスの疲労度も風化度も破壊応力も全然異なる」などと主張し、「海面への突入の衝撃や、浮遊物に当たったかもしれない」と水掛け論を始めたが、教授は「陸上で時速15kmで壁に激突した程度」に相当する衝撃でフロントガラスは割れない、前輪から着水して浮遊物は車体の外側に流れてフロントガラスには当たらないと反論した。

海中で車の内側から叩き割ったとなればガラス片の多くは車外に散乱すると考えられたが、引き上げ後の車内からはフロントガラスのおよそ3分の1程度のガラス片が残っていた。江守教授はダッシュボードの複数の傷と脱落した状態で海底から見つかった灰皿の状況から、一度叩いたときに衝撃で灰皿が外れ、二度三度と叩き割ったために灰皿の脱落した穴をまたぐ形で傷がついたものと説明した。だが証人尋問後に証拠提出された灰皿にはハンマーで叩いたような傷は見られなかった。

83年5月、高裁は北海道工業大の堀内数教授に、ダッシュボード表面の損傷は押収されたハンマーによるものか、傷の形成状況の鑑定を新たに依頼した。その結果、ハンマーによる形成と推定されたが、江守鑑定と異なり、フロントガラスを叩いたハンマーの跳ね返りでくぎ抜き部分が当たって生じた傷と鑑定した。また江守鑑定がハンマーの衝撃で脱落したとする灰皿は着水時の衝撃の歪みで飛び出したものと説明された。

弁護人は、科警研による実験で灰皿は脱落しなかったこと、堀内鑑定は実験を行っていないことを指摘し、経験則から導かれた推論ではないかと指摘。堀内教授は科警研の実験の条件を熟知していないため比較できないと保留したが、科警研の実験のように「垂直に」離岸した場合と江守鑑定のように「斜めに」離岸した場合では、ねじれが生じるため、灰皿への影響のちがいも生じうるとした。

弁護人は両鑑定について、一審判決を引き「予断を排し、誠実に証拠を取捨選択して、事実認定を積み上げ、鑑定の限界を認識して分かること分からないことを明確にしながら事実の真相を究明する姿勢に欠けていた」のではないかと厳しく批判した。

 

1984年9月4日、福岡高裁山本茂裁判長は控訴棄却を言い渡した。

鑑定から、運転者は予め身構えていないかぎりハンドルにみぞおち付近を打ち付けるが、妻にはその痕跡がなく、両ひざ付近4カ所の創傷がダッシュボードのへこみと一致することなどから、助手席にいたと認定し、ほぼ無傷で済んだ荒木がシートベルトもなく支えのない助手席に座していたとは考えられず、ハンドルや床に両手足を突っ張って衝撃に備えていたと見るのが合理的とする鑑定を採用。

灰皿は着水時の歪みによって外れたものと認定し、ハンマーでフロントガラスを破壊して脱出したことは明らかと判断した。結婚の経緯、保険加入の状況など一審判決を支持し、車もろとも転落させて溺死させて殺害した事実を是認するに足ると結論付けた。

 

荒木はただちに上告し、最高裁第一小法廷の係属で裁判長は角田礼次郎と決まっていたが、法廷に再び「荒木節」が響くことはなかった。

荒木は胃がんと診断され、87年10月に八王子医療刑務所に移管され、翌年開腹手術を受けたがすでに手遅れの状態だった。福岡への移管も認められず、1989年1月13日、がん性腹膜炎により逝去。享年61。

1月30日、最高裁第一小法廷は、被告人の死亡により公訴を棄却した。

 

所感

三人が溺死するなか、たった一人の生還者が詐欺師だったという本件。作家佐木隆三は鮮魚商や元同房者の証言などを証拠採用したことに関して「これがもし被告人に有利な証言ならば『到底措信しえない』と捨て去ったにちがいない」と疑念を呈した。

荒木は人を騙すことを生業とした面もあり、マスコミを使って「劇場型」へと誘導しながらも「心証をよくする」努力はできなかった。後の本庄保険金殺人や和歌山毒物カレー事件など、マスコミ、世論の形成や鑑定人の予断についても大いに議論の余地があろう。

陪審制のアメリカならばおそらく有罪と決していたであろうが、本件は慎重を期して再現検証や細部まで鑑定が重ねられ、それでもなお不完全な決着を見た。簡易化、迅速審理が貴ばれる今般の裁判員裁判ならばどんな結論に至ったであろうか。

常識的に犯罪者は人目を避ける行動を取りそうなところだが、あえて犯行を露見させる詐欺師や、疑われても意に返さない冷酷非道な殺人犯というのも数知れない。

77年にABCテレビのクイズ番組『夫婦でドンピシャ!』に出演した連続強盗殺人犯勝田清孝、78年にバラエティー番組『デートゲーム』に出演した連続強姦殺人犯ロドニー・アルカラ、94年に犯行をカモフラージュするため自ら妻子の捜索願いを届けた医師野本岩男、2006年に9歳の娘と親しくしていた近隣の7歳男児を殺めながらカメラの前で“被害者の母”を装っていた畠山鈴香など、その思考回路や心理状態は常人には理解しがたいところがある。

本稿では荒木を殺人犯と断定すまいが、ともあれ母娘のご冥福をお祈りいたします。

京都府南丹市小5男児行方不明

2026年(令和8年)3月23日(月)午前8時ごろ、京都府南丹市園部町の園部小学校に通う5年生安達結希(ゆき)さん(11)の所在が分からなくなった。

25日から公開捜索とされ、警察、消防による捜索が続いているが、一週間経った3月30日現在もその足取りは分かっていない。似ている男子児童を見かけたなど心当たりのある方は、以下にご一報ください。

南丹警察署 生活安全課 0771-62-0110

京都府警 人身安全対策課 保護・行方不明係 075-451-9111

 

 

朝8時ごろ、父親が車で結希さんを学校敷地内の駐車場まで送り届けた。しかしその後、なぜか少年が教室に姿を現すことはなかった。降車地点から校舎まで100m、200mと伝えられ、徒歩で1、2分の距離とされる。

朝8時半の時点で担任は生徒の不在に気づいたが、その日は卒業式で準備に追われて慌ただしく、保護者への欠席確認の連絡をしていなかった。通常であれば学校から保護者に向けてメッセージアプリで確認のための連絡が送信されるという。

両親は下校の頃合いを見計らって11時半ごろに学校まで迎えに訪れていた。しかし式典終了後の11時45分、入れ違いに担任から母親に欠席確認の連絡が入る。そこで結希さんが朝から登校していなかったことが判明し、家族はすぐに警察に通報した。

校内には防犯カメラが設置されているがその姿は捉えられていなかった。

学校長、教頭は、「欠席が分かっていたにも拘らずご家庭への連絡が遅くなったことについては、卒業式であってもすぐに確認を取るべきだった」「担任以外の教員でもチェックをしておけば」と対応の不備を認め、「とにかく無事で見つかってほしい」とコメントを述べている。

www.pref.kyoto.jp

結希さんは、身長約135cmでやせ型の体格、髪は黒色で短髪。上の京都府警リンクに顔写真が公開されている(3月30日現在)。

同級生の母親は、結希さんについて「とても素直ないい子、明るい子」「かわいらしくて人懐こいタイプ」「突然いなくなるような子ではないと思う」と述べている。

失踪当時の服装は、以下。

  • 黄色い帽子
  • フリース(黒色×灰色)
  • 灰色トレーナー(胸にバスケットボールのロゴと「84」と記載)
  • ベージュ色のチノパン
  • 黒色のネックウォーマー
  • 白色の布マスク
  • 黒色のスニーカー
  • 黄色いランリュック

このうち29日(日)午前に町内の山中を捜索していた親族がランリュックを発見し、警察により本人のものと確認された。場所は学校から北西におよそ3kmとされる。

「ランリュック(ランリック)」は主に京都府南丹、山城地域、京都市で小学生の通学用カバンとして広く採用されている。1968年(昭和43年)に当時のランドセルよりも安価で軽量化した製品として開発され、ナイロン製で耐久性もある。京都以外だと滋賀県、大阪府、福岡県、埼玉県の一部エリアで使用される。

www.lmaga.jp

リュック発見場所周辺では重点捜索のために規制線が貼られたことが報じられており、リポート映像と照らし合わせると府道453号の通る園部町船坂付近と推定できる。グーグルマップ上では、小学校から徒歩で50分車ならわずか6分と表示される。

規制線は下の「待避所」の手前に設置されている。

 

読売テレビの報道によると、バス、電車の使用は確認できなかったとされている。

 

所感

園部町は人口およそ1万5500人、四方を山に囲まれた小さな町である。下のマップを見ても分かる通り、最寄り駅の「園部」は小学校の南東に位置しており、リュックの発見場所とは真逆である。

小学校は、北に園部川、西に半田川を臨み、校庭の南側は「園部公園」という緑地に囲まれている。アクセスとしては、南側にある園部公園多目的グラウンド方面からか、あるいは校舎北東側の国道9号、南丹警察署や市役所方面からに限られる。

尚、朝の始業前に正門は閉鎖されるが、1m程度の隙間があるため人の出入りは難しくはないという。

 

リュックの発見された山中では「周辺で他の所持品は見つかっていない」と伝えられていることから獣害の可能性は排除できるかと思う。峠道のガードレールの裏側で見つかっていたことが報じられた(4月1日追記)。おそらく捜索には警察犬が動員されると考えられるが、詳しい捜査状況は伝えられてはいない。

 

園部の気象情報を確認すると、最低気温2度、最高気温22度となっており、季節柄寒暖の差が非常に激しい。降水量を見ると、消息を絶った3月23日に1mmとあるがこれは前夜から未明にかけての降雨である。25日午後に19mmのまとまった雨が続き、26日にも0.5mmを記録している。追跡の困難が予想され、仮に遭難していれば低体温症などが懸念される。

府道453号をそのまま北進すると「中山峠」を越えて府道702号と交わり、京丹波町へと至るルートとなる。しかし規制線の先はすぐに険しい山道となる。単に京丹波町方面を目指すならば、小学校のすぐ近くを通る国道9号に出るルートが順当かと推測される。

 

3km程度ならば5年生でも歩ける距離にはちがいなく、少年が日頃どんな遊びや活動に親しんでいたのか情報はないが、筆者には自発的家出というより第三者の介入、事件性の疑いが強く感じられる。尚、これまでのところ身代金の要求、犯人らしき人物の目撃などは報告されていない。

まず人目の少ない地域といえども午前8時以降の明るい活動時間で「黄色い帽子」「“84”とプリントされた目立ちやすいトレーナー」「黄色いランリュック」という典型的な小学生の装いで学校から逆方向に歩いていれば「あの子、どうしたのかな?」と大人の目に留まるというもの。

ABEMA的ニュースショーの現地取材では、行方不明当日の同時刻ごろ付近を散歩していたという女性に話を聞いている。

「親と子どもと犬と散歩に行ったが、近くの公園に寄ったり、(学校横の)センター周りを散歩。全然人も車もいないし、見かけた人を覚えてるくらい。(結希さんは)見掛けていない。やっぱり子供が一人で歩いていたらパって目に付くからわかると思う。(公園で)おじいちゃんおばあちゃんがゲートボールしていたくらい」

times.abema.tv

記者は国道沿いは車の交通量が多いとし、「学校側から山の方へと伸びていく道」(時刻やルートは不明)を実際に歩いてみると、「人通りは少なく、30分経っても誰ともすれ違うことはなかった」とも伝えている。偶然、だれの目に触れることなく3kmも歩き続けることができたというのだろうか。

しかしながら、同級生の母親によれば、「卒業式当日はどうだったのか分かりませんが」とした上で、「普段は正門前(南側)と国道の横断歩道(北側)に教員が立っているので人目はあると思います」と話している(ABEMA的ニュースショー)。卒業式で職員の配置に手が回らなかったのか、それとも車で通過したため見逃されてしまったのか。

結希さんは身長約135cm(134.5cmとも)と、全国平均に照らせば9歳~10歳児程度で、比較的小柄で大人と見違えることはない。女児とも見紛うような端正な顔立ちの美少年と言ってよいだろう。目撃がない以上犯人の性別すら目星はつかないが、わいせつ目的で連れ去られた懸念もある。

ふたつめに、リュックの発見場所となった府道453号の条件である。たとえば「その先に親戚の家がある」など事情があれば、この道を目指したとも考えられるが、訳もなく虫捕りや川遊びに訪れるような場所とは考えづらい(個人的にはできれば昼でも通行を避けたい部類の悪路である)。

むしろ犯罪者視点に重ねるならば、小さな町で「人目を避ける絶好の場所」と言え、車移動での強制わいせつや死体遺棄にはうってつけに思えてしまう。無論、山に囲まれた彼の地では似たような条件の道や場所はどこにでもあるのかもしれないが。

内容物は伝えられていないもののランリュックには校章や結希さん本人のものとすぐに見分けがつくような記載や特徴があったはず。革製のランドセルと違い、処分に困るとも思えず、切り刻めば普通ゴミとしての廃棄も容易に思われる。

学校付近で見つかれば本人が邪魔に思って捨て置いたとも考えられるが、3km離れた山中での遺棄が意味するものとは何なのか。道路脇にぽつんと置かれてあったのか、斜面の上下にあったのか、中身に関することなどは情報がない。

昨今は児童もSNSなどでどこにいても不特定多数と知り合うことができ、のどかな田舎町で生活していてもいつなんどきも事件に巻き込まれる危険がつきまとう。また地方ほど防犯カメラや人目に付きづらいことから情報リソースに乏しくなり、捜査員や捜索動員の数にも限界があることから捜索活動は難航が予想される。

 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

1月に発生した新潟県十日町市女子中学生の行方不明も記憶に新しく、SNS上では無事の発見を祈るメッセージと共に、子育て中の親などには身近な不安を感じている声も目立っている。

一方でネット上には「朝から親と口論になっていたらしい」「父親とは血のつながりがない」など真偽不明のカキコミと共に、「そもそも朝、学校に送っていないのではないか」といった父親を疑う声が散見される。山梨キャンプ場で起きた小倉美咲ちゃん遭難事故でもイヤというほど見てきた根拠なき憶測や誹謗中傷のパターンである。

児童虐待の加害者は、9割が児童の親、保護者であるため、児童被害の事件では「第一に親、身内を疑う」のは鉄則である。しかしそれは現地の警察が充分に調査や対話を重ねたうえで行う仕事である。

自発的失踪や事故ではなく犯人が存在しているかもしれない。しかし私たち野次馬が裏付けの取れない情報で焚きつけてまで特定のだれかを犯人に仕立て上げるような誹謗中傷を拡大してはいけない。

だれしもが事件解決とその無事を信じてはいるが、警察OBや記者の執筆や配信稼業は閲覧数や視聴時間による収益化を目的とした活動であり、社会正義のためだけに情報発信をしている訳ではないことに留意されたい。踊る阿呆に釣られて踊らされてはならない。私たちはあくまで市民社会の強い関心によって、警察の捜索活動を注視し、後押しすることを目的とすべきであろう。

ご家族や友人たちとの再会が一日でも早く果たされることを願います。

 

〈4月5日追記〉

失跡から10日余りが過ぎたが、安達結希さんの行方は依然として分かっていない。僅かながら情報を補充する。地域社会にも不安は広がっており、日中でも公園で遊ぶ子どもたちの姿はほとんどないという。

まず教育委員会によると、学校から自宅まで約9キロと距離があるため、スクールバスでの通学が一般的だとされる。ネット上の報道ベースでは、結希さんに普段スクールバスの利用があったか否かについては確認できなかった。

行方不明当日、結希さんは携帯電話を所持していなかったことが明らかとされた。元々所持をしていなかったのか、普段は所持しているがその日は携行しなかったのか、ここも判断つきかねるところだ。しかしたとえばネットを介して知り合った第三者と待ち合わせての家出といった線はやや減退するかもしれない。

また2日後には習い事のピアノの発表会が控えていたが、事件を受けて催しは中止されたことが伝えられている。

南丹市内に7つある小学校のうち、園部小学校は最大規模で5年生は90名、他の学年も80から100名が在籍しており少人数という訳ではない(令和7年5月時点で全校生徒549名)。卒業式当日は5年生と卒業生のみ(生徒数190名)が登校するイレギュラーな日程だが、来賓や父母らの出入りが多くなるため、単純に「人目が少ないとも言い切れない

父親の車両は学校の防犯カメラに映り込んでいたが、「画角から外れていた」ため車から降りる結希さんの姿は捉えられていなかった。これが後に大きな疑惑を生む原因となった。

通学状況について、卒業生ら数名が取材に答え、その日の登校事情が語られた。結希さんが降車したとされる駐車場の手前で、8時前にスクールバスが到着しており、乗っていた児童は8時5分ごろには校舎に入ったと話している。

8時20分ごろまで校門近くでは児童の姿が見られ、卒業生のひとりは「歩いて行ってるなら会うはずなんですよ」と校舎に向かったり遠ざかったりする結希さんの姿を目にしなかったと語っている。先だって卒業行事のひとつとして5年生とのドッジボール大会が行われており、顔なじみになっていたという。

また「5年生は早くから予行練習みたいなのをしていて、先生たちも忙しそうだったのであまり見ていられなかったと思います」と当日の様子を振り返る卒業生もいた。学校は、欠席確認の連絡が遅れたことを「対処に不手際があった」として安達さんの家族に伝え、捜索への全面的な協力を約した。その後、他の保護者向けに失踪経緯や捜査状況について分かる範囲で説明する機会を設けると発表した。

 

先述通り、3月29日になって親族が園部町船坂近辺の山林で結希さんの黄色いランリュックを発見した。中には帽子とネックウォーマーが入っていたことが明らかとされた。

地元消防団長の話では、失踪当日の23日、翌24日も山中をくまなく見て回ったと言い、発見前日の28日の捜索には安達さんの親族も含め、多くの人が峠道の捜索に参加。地域住民によれば、家族は疲れた様子を浮かべ、祖母は涙に暮れていたと語る。

 

本件に注目する人々からは、それだけ捜した直後に親族の手で発見された点について不審に思う声が多く上がっている。繰り返しになるが、両親らも含め、近親者に嫌疑が向くことは捜査の鉄則であり、情報公開も厳しく制限される。取り調べに要する時間や取材対応がないことだけで、父親説や親族説を採るのは拙速である(無論、無実か否かは別問題)。カメラの前で何を語ろうと疑う人は疑い、信じる人は胸を痛めるだけだ。

5年生ともなれば顔見知りによる誘拐説が濃くなることも必定だが、身内に限らず、友人の親、習い事のコーチなども疑いなく接近可能であろう。

また仮に小学校から3km離れたランリュック発見場所までの最短ルート、府道54号に少なくとも2台、また山の手前にある摩気駐在所と園部船坂郵便局にも防犯カメラの設置がある。しかし付近の防犯カメラに少年の姿は映っていなかったと発表されている。

またリュック発見場所は峠道にある「ガードレールの裏側」に横倒しの状態で見つかったことが明らかとされ、目立った汚れはなかったという。言い換えれば、「山中」とはいえ「道路沿いに黄色いバッグが落ちていた」のであり、予想外の場所から出てきたという訳でもない。見落とされる可能性は限りなく低く、後日、情報かく乱を狙った何者かが置いていったと捉える方が自然に思われる。

また現場付近には小規模のため池があり、4月2日から京都府機動隊によってボートからの水中捜索、水中探査用ドローンで約3時間の捜索が行われたが、新たな遺留品の発見などには至らなかった。

近隣住民らは安達さん家族についてもいい人ばかりで恨みを買うようなことは一切ないと語っているが、ネット上では消去法的に父親や親族に対する疑惑を募らせる声が絶えない。そもそもの情報の少なさ、警察情報の偏り、それに比べて多すぎるマスコミの報道が、根拠なき予断、いわれなき誹謗中傷を生んでいるかに見える。私たちは謎解きパズルを楽しみたいわけではなく、少年の無事を祈るのだ。最終的にどういう結果となろうが、本件での情報の出し方は非常によくない。

学校の目の前で忽然と姿を消した少年の動線や、地元でも「そもそも林業関係者しか立ち入らない」と言われるような峠道に立ち入るためには、車両移動が大前提となる。事件当日だけでなく、事件前後にそうした「絶好の場所」を求めて不審車両が近郊を徘徊したにちがいないと筆者は見ている。

リュックの遺棄を犯人による峠道への捜査誘導と見るならば、犯人の拠点や少年の所在はその近隣ではないと捉えてよいかもしれない。

小中学校をはじめ、全国で新年度、新生活のスタートを切るこの季節、一刻も早く国民の不安を打ち消してくれる知らせが待たれる。

 

アメリカでの不可解な小学生失踪事例として、カイロン・ホーマンさん行方不明などがある。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

【映画】トンソン荘事件の記録(2023/韓国)

原題は『마루이 비디오(マルイ・ビデオ)』、日本語で言う「マル秘ビデオ」に当たる造語である。殺人事件など凶悪犯罪の証拠として収められた映像の中でも、暴力性や残酷さが高く封印されたものを指す隠語と説明されている。本作は15歳以上の年齢制限が設けられている。

トンソン荘事件の記録

監督のユン・ジュンヒョン(1974-)は本作の舞台でもある釜山出身。コンピューター工学を修めた後に映像作家教育院で学んだ異色のフィルムメイカーである。

2003年に『목두기 비디오(Mokdugi。ネックレス・ビデオ)』を自主制作。Webプラットフォーム上で初公開され、NAVERなどオンラインポータルサイトに移ってから人気に火がつき、マニアたちの支持を受けて劇場デビューにまでこぎつけた。

すでに『ブレアウィッチ・プロジェクト』(1999)が世界的なヒットを記録していたが、『ネックレス・ビデオ』は初の国産フェイクドキュメンタリーと評される。人気の追跡捜査テレビ番組『それが知りたい』の制作チームが実在する事件と誤認して調査に動いたとも言われ、実録ドキュメンタリーと見紛うばかりの迫真性が高く評価された。

二作目となる長編『그놈이다(FATAL INTUITION、あいつだ)』(2015)はテレビドラマで人気の若手俳優チュウォンを主演に迎え、公開初週で動員数1位を記録、3週で100万人の動員を達成した。最愛の妹ウンジを惨殺された兄チャンウは事件の手掛かりに乏しいなか、死を予見する少女シウンの協力を得て犯人と対峙するサイキックスリラーである。

1999年に起きた女子大生変死事件の被害者の父親が、慰霊祭で起きた出来事を天啓としてある青年に疑いを抱くようになり単独で追跡を続けたという逸話から着想を得たとされる(事件詳細は確認できなかった)。

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本作『トンソン荘事件の記録』は20年前の『ネックレス・ビデオ』でできなかったことを盛り込んだ公式リメイクとされる。

 

公式あらすじ

1992年、釜山の旅館「トンソン荘」で殺人事件が起きた。旅館のアルバイトの男が恋人を連れ込み、隠しカメラで部屋の様子を撮影。しかし、男はその部屋で恋人を殺害してしまう。逮捕された男は、心神耗弱による無罪を主張したが、判決は無期懲役。そして、仮釈放の1年前に自ら命を絶った。その殺害の一部始終が収められたビデオは、その残虐性から当局によって封印された。

しかし、検事の間で話題になったのは、殺害の様子ではなく部屋の鏡に映っていたものだった。それは、男でも恋人でもなく、そこにいるはずのない何かの姿。取材班は、その真相を突き止めるべく調査を開始。その様子を記録映画として撮影するが―。

 

演出面で「おどろおどろしい雰囲気がよい」との声が挙がる一方、時期や犯人の異なる3つの事件が入れ子構造になっているため登場人物が多くなり、編集構成が複雑で「理解が追いつかない」といった意見も目立ち、低調な評価となっている。

廃墟や心霊スポット探索のようなシーンが多く、はっきりと描出されない「得体の知れない何か」、「不穏さ」は多くの日本人にとってなじみやすいタイプのホラー映画と言えそうだ。

サスペンスのプロットにはいくつもの伏線が用意され、回収されていくことでカタルシスへと向かうが、90分に満たない中編ホラーでは散りばめられた伏線も編集の都合や作為によって放置されるケースが多い。いわゆる「オチ」がはっきり描かれることなく未消化のまま終幕する、もやが残るのもホラーや怪談の醍醐味のひとつである。

おそらくリアリスティックでサスペンスフルな前半と、心霊オカルト要素で畳みかける後半とのギャップや帳尻合わせによって、観客の多くがが消化不良を引き起こしているのではないかと感じられた。

特色として、記者やカメラマンたちが愚直なまでに表に出ずジャーナリスティックな視点で物語が進行する。それゆえに大ヒットした若い動画配信者たちによる心スポ探訪もの『コンジアム』(2018)のような気楽さやワクワクしたりゾワゾワするような没入感が得難い設定となっている。ノンフィクションを観るときのような客観的スタンスとなるため、肉感的に迫りくる恐怖は薄く、総じて物足りない印象となるのではないか(おしっこはちびるけど)。

 

前半詳細

⑴イントロダクション

2019年に撮影クルーが死亡・監督が行方不明となる事件が起こり、本編は彼らによってほぼ完成していた「お蔵入りとされていたドキュメンタリー作品」というファウンド・フッテージの体裁が採られている。

社会部のキム・スチャン記者が奇妙な噂のあるトンソン荘事件のマルイ・ビデオを入手して、その真相を突きとめようとするところから物語が始まる。以下ではキム監督と表記する。

ビデオ映像を見たという検察官へのインタビューに始まり、証拠物品などが眠る検察局の地下倉庫を探索するも発見できず。しかし故人である担当検察官の実家へ出向き、遺品の資料を漁ると一本のVHSビデオテープが見つかる。

見れば、殺人犯の男がホームビデオカメラで撮影したというオリジナル映像や、それを直接ダビングしたものではなく、奇妙にも「ビデオ再生中のテレビモニター」を再撮影した様子が記録されていた。

ビデオには恋人を殺害する男が映っており、犯行の前後には理性を失っているような不可解な挙動を見せていた。そして噂通り、その部屋の姿見に実在しないはずの黒い学生服、制帽姿の少年らしき人影が映り込んでいるのを確認する。はたしてこの少年は何者か、事件と関連があるのだろうか。

⑵旅館の主チョ・ヨンテ

被害者女性の家族は取材を拒絶。現場となった旅館を訪ねると今は労働者向けの宿泊所となっていたが、事件のあった部屋は気味悪がられて当時のままのかたちで封印されていた。

近隣住民に旅館の事件や少年に心当たりはないか尋ねて回ったが、有力な情報は得られなかった。しかしある不動産業者の話では、オーナーはかつて日本人墓地の上に建てられた邸で暮らしていたという。身内を亡くす不幸があってその家を手離し、この地に移ってトンソン荘旅館を始め、今は最上階で暮らしていることが分かった。

古い新聞記事を調べると、1987年5月5日「こどもの日」にアミドンで起きた一家心中で、17歳の長男チョ・ギョンホが母親と妹を殺害して焼身自殺を遂げた無理心中とされる。

インタビューに応じた旅館の主チョ・ヨンテ氏(70歳)は、心中した一家の父親は事件前に亡くなっていると言い、遠い親戚だった自分はその邸で家事雑用をしていたが、母子3人が亡くなったため家屋を相続したと経緯を明かした。

⑶アミドン母子心中事件

事件現場となったアミドンの邸は完全に廃墟と化していた。キム監督の後輩ホン記者は学生服姿の長男の写真を発見する。母と妹を殺害し焼身自殺を遂げたという長男チョ・ギンホこそ、例のビデオに現れた亡霊であるかに思われた。しかし、だとすればなぜ無関係のカップルの前に現れたのか。

廃墟には少女の声が聞こえるなど不穏な噂がつきまとい、地域でも忌み嫌われていた。ある婦人は、外で息子を撮影したビデオを見返すと、あの廃墟の前で撮ったシーンで「誰かを呼ぶような声」が入り込んでいたと振り返る。息子はその日熱を出し、気味が悪くてテープを捨てたと話した。

兄に殺害された長女チョ・ウンミの同窓生に話を聞くと、誕生会で彼女の家に招かれたとき夫婦喧嘩が始まって子どもたちは追い出されてしまったという。監督らが「父親はいないはずでは?」と尋ねるも、同窓生は「ウンミは“お父さん”と呼んでいましたよ」と答えた。

一家心中の第一発見者の女性はすでに高齢で会話が不可能となっていた。彼女の義理の娘に聞くと「義母はあまり話したがらなかった」とした上で、「事件後にある噂が立った」と口にする。その家にいた男が行方をくらませたため、真犯人は長男ではなくその男だったのではないか、と。「どこかを放浪している」、「どこかで旅館をやっている」との噂もあったという。

キム監督は宿の主チョ・ヨンテに再度取材を申し入れたが断られる。心中事件の担当刑事にその家の「父親」について探りを入れると、驚くことにチョ・ヨンテ氏はウンミの実父で、長男にとっては叔父にあたると明かした。父親不在の家に「弟」が通い詰めるうちに義姉と恋仲となり、一家の父親代わりになったのではないかと語った。

記者は刑事に「チョ・ヨンテが犯人ではないか」と疑問をぶつけると、当初は警察もそう考えたが、調べてみると彼は冷凍倉庫を所有する資産家で、実の娘を殺す動機もないとして嫌疑を逃れていた。邸も元々はヨンテ氏が所有していたのを兄の一家に譲ったものだったという。

アミドンは朝鮮戦争の避難民たちが集住するようになった歴史をもち、市は負の歴史を払拭しようと古い土地を買い上げて発展してきた。だが廃屋を含む一画は旧日本人墓地だったことも災いしてか、開発が容易に進まず長年放置されていた場所だった。

⑷女祈祷師

トンソン荘のビデオデータを再編集していたクルーがある奇妙な声の存在に気づいた。ちょうど姿見に制服少年が映り込んだ瞬間、たった一言「父さん」と呼び掛けていた。

かたや廃屋を訪れた後から、機材がひとりでに倒れて破損したり、カメラやPCが異常反応を示したりといった霊障とも思える怪現象に次々見舞われ、長男の写真を見つけたホン記者もインフルエンザで急遽入院していた。

助監督は廃屋の周囲にそう古くない祈祷の痕跡があることに気づいた。ひと月前に近くに移住してきた女性祈祷師によるものと分かり、何か思うところがあったのかと助言を求めた。彼女は無理心中事件については知らなかった様子で、邸内の撮影の様子を見せると、なぜかホン記者を見て「赤子が乗り移った写真を触ってる。彼女は今どこ?」と心配し、すぐに廃屋に行こうと提案した。長男ギンホ少年の写真が彼女の体調不良の原因になったというのだろうか。

「焦げ臭い。ここで何が起きた」

祈祷師が示したのはまさしく長男が焼死していた場所だった。彼女は米や小豆で邪気を清め、鶏を贄にして儀式を始め、廃屋に蠢く何かと交信を始める。撮影クルーには声も姿も捉えられない。

「そこで何してる。隣の男は誰だ」

祈祷師が二階へ向かい、扉を開けようとすると、建物の外からガンガンガンと大きな音が響いてくる。一行が外に駆けつけると、まるで彼らを閉じ込めるかのように敷地の境界が板で封鎖されていた。外側から釘で打ち付けられたようだった。これもまた霊障なのか、それとも…

「ここで取材を中止するべきだった」と監督のナレーションが挿入される。

⑸ヌリ福祉院

撮影クルーのひとりが疑念を呈する。

「“父さん”というのは、少年の実の父親のことではないか」

少年にとって元は叔父であったチョ・ヨンテ氏に“父さん”と呼びかけるのは不自然だと言い、施設で亡くなったとされる実父を指すのではないかというのである。心中事件の第一発見者の義娘も「長男は義理堅い性格で、叔父と母親がよい仲になって以後も絶対に“父さん”と呼ぶことはなかったそうです」と話していた。

事件の調書には、実父は「施設で死亡」とだけ記載されていた。記者たちは事件前に亡くなったという少年の実父の痕跡を探した。彼が事件と関わっているのだろうか。

実父が入所していたのは「ヌリ福祉院」という大きな施設で30年ほど前に閉鎖したという。福祉局で確認すると、1973年に開設されたが運営者による補助金の横領など不祥事が明るみとなり、87年に閉院したと教えてくれた。当時の入所者名簿をめくると、そのとき少年の実父チョ・ビョンソンは存命で、実際には閉院騒動に紛れて行方が分からなくなっていたことが判明する。

調査を続ける撮影クルーの事務所で、ある晩、警報機が鳴った。不審な男がドアを破壊して侵入し、放火する様子が監視カメラに捉えられていたが、帽子とマスクで人相などは分からなかった。

ヌリ福祉院の事件を担当した検事に事件発覚の経緯を聞く。彼が入院中、偶然にも5~6人の男たちが急患として担ぎ込まれ、喧嘩でもしたのか全員ひどい大怪我を負っていた。一人は体が黒く焼け焦げて、全身にアザがあった。ヌリ福祉院の患者たちと分かり、施設に調べが入ると、横領以外にも、監禁に暴行、殺害、死体遺棄など数々の不祥事や隠蔽が明るみとなった。

「まるで犯罪組織だった」

当時の捜査資料の中には、後に行方不明となるチョ・ビョンソンのプロフィールと古い写真も残されていた。見た目にもトンソン荘の主チョ・ヨンテ氏と瓜二つだった。調べていくと二人の生年月日まで同じと判明し、記者たちは同一人物なのではないかとする見方に傾いていく。

 

後半詳細

⑹ホン記者の異変

退院後、自宅療養中だったホン記者が自宅からいなくなった。母親は娘が失踪前に「クジラが…」と変なことを口にするようになったことを不安に思っていた。懸命な捜索によりアミドンの廃墟近くでホン記者が発見されるも、彼女は半裸姿で背中一面にアザのような跡があり、半狂乱になりながら素手で山肌を掘っていた。

キム監督が声を掛けると、ホン記者は「先輩、わたし捜さなきゃならないの…」と言って嘆いた。再び病院に運ばれた彼女は「匂わない?これは何のにおい?」と奇妙な訴えを繰り返した。

祈祷師に相談すると「あの娘は何かを捜している。見つけるまで霊が離れない」と危惧し、後日、アミドンの公園で霊媒の儀式が行われた。ホン記者にギンホ少年の霊を下ろし、その苦しみの訳を、その望みを直接問いただすほか手段はなかった。祈祷師は「胸のつかえが取れるまで思いのまま泣くがいい」とさまよう霊を慰めた。

やがてホン記者は「焦げたにおいがする」と言って半狂乱に陥り、「熱い!熱い!なんとかしてくれ」と見悶える。ギンホ少年は自ら焼死したのではなかったか?

祈祷師は用意しておいた桶湯に浸かるように促し、「もう熱くないだろう。願いは叶えてやったのだから、お前をこうしたのは誰か言ってみろ!」とホン記者の頭を湯に押し付ける。

「誰がお前をこんな目に遭わせた!」

しかしホン記者に憑いたチョ・ギンホ少年の霊は言葉を発しないまま、湯桶を出る。

「そうだ、捜しに行け」

祈祷師の声に背中を押されるようにして、次第に歩を進めていく。キム監督もカメラを手にホン記者の後を追うと、やがて凄まじい勢いで心中事件のあった邸へと駆けていく。

⑺双子

屋根裏部屋で何かを見つけ、涙するホン記者。手にしていたのは、一枚の写真だった。

チョ・ヨンテ氏、亡くなった母親、長男、長女、そしてヨンテ氏と全く同じ顔をしたチョ・ビョンソン氏が一堂に会していた。ビョンソン氏の手には火傷の痕跡か、包帯が巻かれ、車いすに座っている。彼らは全く瓜二つの双子だった。

写真には、87年5月4日の日付とともに「父さんが来た日」と記されている。

ヌリ福祉院の閉鎖が前日の5月3日。

そして母子心中の悲劇が起こるのは翌5月5日のこどもの日である。

事件のあったその日、少年の実父チョ・ビョンソンもこの家に戻っていたのだ。

心中事件の事情聴取の様子が録音されたテープには、捜査員と弟「チョ・ヨンテ」氏のやりとりが残っていた。

「名前を」

「……」

「名前を言って」

「…チョ・ヨンテです」

「住民登録番号は」

「分かりません。よく覚えてなくて」

「ご自分の番号なのに?では義姉さんとはいつから同居を?」

「娘が生まれてから一緒に」

「手のケガはいつ?」

「少し前に転んでしまって」

クルーが撮影したインタビューの様子を見返すと、旅館でインタビューに応じたチョ・ヨンテ氏の右手に古傷のあとが映り込んでいた。事情聴取を受けて「チョ・ヨンテ」を名乗っていたその人物は、退院して自宅に戻った兄チョ・ビョンソンだったのではないか。

その日、その家で彼らの間に何があったのか具体的なことは分からない。しかし自分に代わって一家に入り、嫁との間に娘までできていたことを知ったとなれば心中穏やかとはいかないにちがいなかった。

キム監督は、トンソン荘ビデオに聞かれた「父さん」と呼び掛ける少年の声は、「犯人は父親チョ・ビョンソンだ」と知らせたかったからではないかと推理し、一連のドキュメンタリーフィルムを結んだ。

 

⑻虫の知らせ

これ以降は2019年5月4日から撮影クルーが事件に巻き込まれていく内容となる。

その夜、自宅療養中のホン記者からビデオメッセージが入る。

「一緒に映画館に行ったよね」

「自転車に乗った少年が出てたでしょ」

「赤い洋館を買いたいとか」

「クジラを捕りに行くとか」

「なんて題名だったか思い出せない…」

「何のにおい?焦げたにおいがする」

「背の低い少年が言ってた。クジラを捕まえに行って赤い洋館を買いたいって」

「父さんにも何度も聞いたのに、なんで覚えてないって言うんだろう」

「なんで覚えてないなんて言うんだ、父さんの一番好きな映画だってば」

ホン記者はキム監督の存在を気に留めずほとんど一方的にしゃべり続ける。ギンホ少年が「父さん」に向けて発している言葉なのだろうか。やがて画像が乱れ、彼女は背後を気にし出し、「部屋に誰かいる!」とまたしても半狂乱の錯乱状態に陥った。

キム監督たちは慌てて事務所を飛び出し、車で彼女のアパートに急行する。

床には血が飛散しており、彼女の姿は見えない。

室内の監視カメラには、ホン記者が包丁で飼い猫を殺める様子が映っていた。

気づくと部屋の天井には、検察局の地下倉庫や廃墟の邸でも見られたどす黒いしみができている。寝室に入ると、8mmビデオカメラに接続されたテレビが点けっぱなしになっていた。

ホン記者の部屋には「トンソン荘」のオリジナル8mmテープが


寝室は壁までしみが侵食しており、8mmに入っていたテープを確認すると、いつ手にしたのか「トンソン荘ビデオ原本」と記載されていた。

すでに日付は心中事件と同じ5月5日になっていた。彼女は包丁を手にしたままどこへ身を隠したのか。

ここでホン記者がビデオ通話で語りかけた内容と、トンソン荘ビデオに記録されていた犯人の男の発言が全く同じ内容だったことが明らかにされる。

⑼祈祷場

キム監督らは、かつてトンソン荘事件の犯人が発見された山間部の祈祷場跡に向かった。祈祷場はすっかり荒み、すでに使われなくなって長い月日が経過していた。クルーは別々に山中を捜索していたが、カメラマンらは何者かに襲撃を受けて死亡する。

カメラを手にしたキム監督が廃寺の中に入ると、ロウソクがともされ、まだ比較的新しい子どもたちの遺影が数多く残されていた。そして部屋の隅ではホン記者が供え物のナシを頬張っていた。

遺影が一斉に落下し、気を取られた瞬間、キム監督は襲われてカメラが手から離れる。力ない声が彼の死を連想させる。

場面は切り替わり、カメラは奥手に血にまみれたホン記者の立ち姿を捉えている。何をしているのかはっきりとは分からない。

「父さん、何しに来たんだよ」

「どれだけ待ってたと思う」

「会いたくて、ずっと庭で待ってたのに」

「なんでぼくらにひどいことをしたんだよ」

するとフレームの外から男の声で返事が聞こえる。

「お前たちは自分たちだけで…」

「俺は地獄で…」

父が施設で苦しむ間も、妻子と弟が不自由のない生活を手にしていたことを知って恨んだのだろうか。

ホン記者は答える。

「父さん、もうぼくたち終わりにしよう」

そして彼女は右手の包丁を男に突き刺した。

⑽エピローグ

場面は切り替わり、「2019年5月30日」に至る。

警察は過去に一家心中があった廃墟を家宅捜索。階段下でチョ・ビョンソンの弟(チョ・ヨンテ)の遺体を発見。樽の中にコンクリートで固められていた。

その後、廃寺ではチョ・ビョンソンの遺体が見つかる。息子の位牌が一緒に見つかり、命日になると彼が訪れていたらしいことが分かった。

「ホン記者は存命で見つかるも精神に異常をきたしており、同僚の殺害について記憶にないと主張。警察は行方の分かっていないキム監督を捜索中」とテロップが入る。

 

場面が再び撮影クルーの事務所内の監視カメラに切り替わる。時刻は「2019年5月4日午前3時44分」を示しており、暗い部屋の中で監督かクルーのひとりが書架の資料を調べている。デスクトップには編集中と思しき動画が確認できる。

「あの日、父さんがぼくに泥棒を捕まえに行くぞと言ったんですよ。なので後からぼくも追いかけたんですが、そこにはもうだれもいなかった…」

そのとき壁の額縁には学生服姿の少年の影が浮かび上がっていた。

 

場面はさらに「2019年4月16日15時4分」にさかのぼる。撮影クルーの事務所の防犯カメラが、小さな段ボール箱を手にしたホン記者の姿を捉えている。

小包の中には「少しでもお役に立てればと」とトンソン荘事件の判事の母親名義のメモが入っていた。届いた荷物はトンソン荘事件の8mmオリジナルテープだった。

 

所感

本作を仕上げたユン・ジュンヒョン監督自身は、かねてより検察に眠るといわれる「マルイ・ビデオ」の噂(都市伝説?)に関心があり、また近現代史にまたがるようなストーリーを目指してこの複層的な作品の構想を練ったと話している。

チョ・ビョンソンによる一家殺害は、韓国が民主化される直前に起きた設定とされている。1974年生まれのユン監督にとって、軍事政権から文民統治への転換点となった87年(6月民主抗争)はそれほど強烈な激動期だったということも推測できる。「ヌリ福祉院」は軍事政権下の「膿」を表現していると言えるだろう。

筆者個人も娯楽映画としては不完全燃焼の感があるものの、封印された「マルイ・ビデオ」に秘められた過去の悲劇との連鎖を詳らかにしていくというコンセプトはファウンド・フッテージ(掘り起こされた)映画の中でも壮大で大胆な試みである。表現方法としては異なるが、Jホラーの金字塔『リング』シリーズに描かれた貞子の怨念のように知られざる過去へと立ち戻っていく展開はスリリングである。

ホン記者は亡霊の憑依によって撮影クルーとチョ・ビョンソンを殺害し、それは92年に起きたトンソン荘事件と同じ亡霊の仕業で、元をたどれば87年の母子心中もとい一家殺人の長男の霊に起因する事件と紐解かれていった。

精神疾患とされ、ヌリ福祉院でもトラブルを起こしていたビョンソンは狂人だったのだろうか?むしろチョ・ヨンテこそ、作中には描かれないが、双子の兄を病院送りにしてその妻を奪ったのではなかろうか。はたして母子は不自由なく暮らせていたのだろうか。父親の帰りを待ち続けたギンホ少年が叔父を「父さん」と呼ばなかったことから類推すれば、経済的に支配されていた関係性に見えなくもない。

しかし帰ってきたビョンソンは弟ヨンテのみならず皆殺しにして、長男に火まで放ったという構図に描かれている。

しかしなぜ長男の亡霊はチョ・ヨンテに成り変わった実父チョ・ビョンソンを直接的に呪えなかったのか、どうしてホテルを訪れたカップルの男性に乗り移り、女性を殺さなければならなかったのか(宿主である父親に損失を与えるため?)、考えるほどに疑問が生じてくる。ホン記者はビデオ原本を目にして急激に変調をきたしているが、男性はなぜ憑依されたのか。その経緯や怨情の矛先は一貫性が欠けているように思える。

またエンディングには襲撃を受けてカメラを落とし、力尽きたかに思われたキム監督の遺体が発見されないという謎まで付け加えている。チョ・ギンホ少年の亡霊は実父チョ・ビョンソンに「もう終わりにしよう」と語り、本懐を遂げたかのように描かれているが、キム監督の身に何が起きたのか推測するのも難しい。

 

韓国の宗教意識調査(2025年)では、プロテスタント系20%、仏教16%、カトリック系11%となっており、人口の約半数が特定の信仰を持たないと回答している。とくに18-29歳の若年層では72%が「無宗教」と答え、宗教離れが顕著とされ、逆説的に宗教人口の高齢化は一般人口を上回っていると分析されている。

『哭声/コクソン』や『破墓/パミョ』といったホラー作品のみならず『テムガ 偉大なるムーダン』といったコメディ作品でも、巫堂(ムーダン)が描かれたことをご記憶の方もあるかもしれない。ムーダンは半島の土着信仰、陰陽、風水、占術、お祓い、先祖供養が融合された民間信仰で、日本で例えるならば恐山のイタコや沖縄のユタ、ノロのような女性司祭である。テーブルで行われる簡易的な儀式もあるが、上位階級者による「グッ」と呼ばれる本格的儀式では、楽士隊に合わせて激しい歌舞を数時間かけて行い、憑依霊媒が施される。

韓国の人々の間では今も簡易的なムーダンが親しまれており、2022年の推計では30-40万人の巫堂・占い師がいるとされる。軍事政権下では弾圧を受け、蔑まれる職業とみなされ宣伝活動は新聞広告に頼っていたが、今日ではSNSや動画配信を介して人気を博するなど業態や社会的評価も一変している。映画や小説などに描かれる際には伝統文化のひとつとして再評価されていると捉えることもできるだろう。

本作でも女性祈祷師が登場するが、霊媒的語り部として効果的ではなかったように感じられた。霊の言葉や意図を引き出せそうでいて捉えきれず、どこまで理解しながら行動しているのか見えてこない。またストーリーの本筋の語り手であるキム監督とは対照的なアプローチによって、観客視点でも物語がどこに向かうのかつかみどころを欠き、混乱をもたらすだけだった。

先に述べたようにキム監督も横顔や後ろ姿、あるいはナレーションでドキュメンタリーフィルムに登場するが、あくまで黒子的な役割を全うする。その展開も足早で、説明や推理が明らかにされないまま、新たな局面へと転じてしまう印象を受けた。

ジャーナリスティックな描き方が披露されたことで、反面、検察局での証拠品探索や、福祉局での個人情報公開などといった現実離れした映画的ご都合主義が描かれると必要以上に引っかかってしまう。

5月4日に帰宅したチョ・ビョンソンらの集合写真を登場させるためにわざわざポラロイドカメラを使用している点なども記念写真にふさわしくない。朽ちて骨だけとなったチョ・ヨンテと一卵性双生児であろうチョ・ビョンソンをどうやって判別しえたのか、など細かいことを言い出せばきりがなくなる。

ただ韓国三大未解決として知られた華城連続殺人事件、もといイ・チュンジェ連続殺人事件の不適切な捜査状況などと照らすと、87年当時であれば閉院に伴う脱走者の安否確認は充分ではなかったと想像され、警察の怠慢や「無理心中」との事件処理も決して非現実的とは思われない。

洋の東西を問わず、埋もれた事件や封印されてしまった事実というものが人知れず眠っているのではないかと考えると背筋が凍る思いがする。

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