プチエンジェル事件について

2003年7月、東京都港区赤坂で発生した女児4人誘拐監禁およびその背後にあった組織的少女買春など、通称“プチエンジェル事件”について記す。公式には“解決済み”とされながら、一方では“日本の闇”とも称される怪事件である。 

 

本稿では、この事件の隠された真実を・・・等というつもりは毛頭ない。

被疑者死亡で捜査が打ち切られたことや被害女児らが未成年だったこともあり、情報のどれもが限定的であり、さればこそ“玉虫色”の怪事件として扱われている。

概要を確認した後、事件に係る噂などについて検討し、なぜ今日のようなかたちで伝えられているのかについて考えてみたい。

 

■危険なアルバイト

 2003年7月17日、東京都港区赤坂で女児が助けを求めて花屋へ駆け込み、12時14分に店員が「手錠をかけられた女の子が助けを求めている」と110番通報した。

駆け付けた警官が保護した少女から事情を聞き、目の前のマンションの一室を捜査した。部屋では女児3人が洋間、浴室などに拘束・監禁されており、部屋のリビングでは犯人の男性が死亡しているのが確認された。 

被害に遭ったのは、東京都稲城市の市立小学校に通う6年生(当時11歳から12歳)の4人。13日から行方が分からなくなり、捜索中だった少女たちである。

 

7月上旬、少女のうち三人が渋谷で性風俗アルバイトの勧誘を受けて、高級ホテルで男の面接を受けた。そのときは連絡先を交換して「いつでもおいで」と帰され、「会ってくれたお礼」として男から金を受け取っていた。

12日、少女たちは男から「部屋の掃除」を頼みたいと依頼され、三人のうちの一人は別の同級生を誘って、翌13日13時過ぎに渋谷で待ち合わせた。ほかの二人はまた別に連絡を取り、やはり13日に二人で来るように呼び出された。

13日、JR渋谷駅「モヤイ像」前で待ち合わせ、それぞれ男性とタクシーに乗り、赤坂のマンションへと連れて来られた。二手に分けて、故意に時間をずらして呼び出されたものと見られ、一斉に連れてくるより監禁しやすくする意図があったと考えられている。

後発の男は、先に着いていた男に女児2人を引き渡すだけで入室はしなかった。 

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マンションの11階にある部屋へ通されると、一人は階下のコンビニへお菓子や飲み物などの買い出しに行かせられた。その間、男は残った少女に「ここに来た意味わかるよね」と態度を豹変させ、手錠を付けて拘束。買い出しから戻った女児も同様に手錠を課せられ監禁された。

逃げようとすると手錠に水の入ったポリタンクや鉄アレイの重しを課せられ、少女たちは男にスタンガンを突き付けられて各部屋に閉じ込められていた。

男が同室を出た形跡はなく、監禁中も度々女児たちの前に姿を見せていた。監禁部屋の出入り口には、椅子や段ボールで逃走を妨げるバリケードが張られていた。

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13日深夜、女児らが帰宅せず、携帯電話もつながらないことから保護者が警察に捜索願を提出。保護者らは「近くの体育館に行く」「スーパーに行く」と聞かされており、級友には「渋谷でいいバイトがある」等と誘っていたこと等から、犯罪に巻き込まれた可能性もあると見て行方を捜していた。

 

男は16日に練炭自殺を図ったと見られ、ひと気がしなくなったのを見計らって17日に少女の一人が手錠を外して脱出。

脱水症状やショック状態の児童もいたため、3人が病院で診察を受けたが入院の必要はなく、夕方には無事退院し、渋谷署で両親らと再会し、自宅へ戻った。翌18日の終業式は4人とも欠席した。

 

■違法デートクラブ

死亡していた男性は、違法風俗店経営、わいせつビデオ販売をしていた吉里弘太郎(29)で、遺書などは残されていなかった。過去に高校生2人の買春の前科があり、まだ執行猶予中の身だった。

監禁現場となったマンションからは、女子中高生とみられる少女らの写真シール(被害女児とは異なる)、女性用下着や制服、名簿のほか約300万円の現金が押収されている。

 

吉里は“プチエンジェル”という女児専門の無店舗型デートクラブを違法に営業していた。プチエンジェルで働いていたことがある元関係者によれば、顧客名簿には2000名以上の名前があったとされ、会員になるには高い入会金を支払わねばならず、その利用者は企業経営者、医者、弁護士などの富裕層が主だったという。

 

プチエンジェルでは、少女らに警戒心を抱かせないように女子高生たちをスカウトマンに雇い、渋谷や新宿で「アルバイト」の勧誘をさせていた。中高生1人につき1万円、小学生であれば3万円がスカウト報酬として支払われた。スカウトマンが興味を示す少女を見つけてくると、吉里らが直接コンタクトを取った。

 

被害女児のひとりの自室から発見されたチラシには、「30分のアルバイト」「カラオケ5000円・下着提供10000円・ヌード10000円」等と書かれており、吉里の所持する携帯電話の番号も付されていた。

 

■不可解な結末

警視庁は4女児の行方不明を発表する一方で、氏名や学校名などプライバシーについては報道管制を取った(性犯罪に関連する可能性もあったことから保護者の意向があったものと考えられる)。

その一方で“プチエンジェル”のチラシにあった電話番号から吉里が浮上したため、同じ16日に「2002年3月の中学2年生の女子生徒(14)に6万円を支払い買春した容疑」で逮捕状が請求された。

 

17日、女児発見直後のTV報道には「複数の男女に監禁されていた疑いが強い」「男女2人が逃走している」とする内容も見られたが、翌18日の新聞記事では、吉里を指して「警視庁はこの男が4人を監禁した後、自殺したとみて調べている」と報じられた。

これについて「複数犯報道が急に単独犯と断定する表現に変わった」とする指摘も存在する。

だがこの男女とは、「タクシーで送り届けた男性」と「渋谷で少女をスカウトした女性」のことであり、男女複数名で監禁していたことを示すものではない。事件発覚直後の段階で、少女らの証言から吉里以外の関係者として「警察が男女の行方を捜していた」ものと考えられ、報道側の受け取り方の問題と考えられる。

 

赤坂のマンションは、11日に吉里とは別の男性名義で1カ月間の契約で借りられており、賃料(週9万数千円)は吉里が払っていた。

タクシーで送り届けた男性(24)はほどなく発見され、捜査一課が事情を聞き、関係先と見られる埼玉県内のコインロッカーを捜索した。男性は「女児たちを連れてきてくれと頼まれただけ」と監禁への関与を否定する説明をしており、監禁は吉里の単独犯行と見られた。

男性の家族の話と総合すると、男性は4年ほど前にチラシ配りのバイトで吉里と知り合い、仕事はないかと連絡を取ったところ、マンションの契約と13日の少女2人の引き渡しを要望されたのだという(7月22日、毎日)。

スカウト女性は未成年者であったため、取調べ内容の報道はほとんどされなかったと見られる。

 

調べにより、吉里が誘拐の前日に都内の量販店で、練炭や七輪、重しに使われた灯油用ポリタンク容器、金属製のおもちゃの手錠やアイマスク(4人分)などを買い込んでマンションに持ち込んでいたことが判明。22日の朝日新聞には「警視庁は当初から自殺するつもりだったのではないかとみている」と記されている。

 

さらに、吉里が埼玉県久喜市に借りていたアパートから1000本以上の少女たちの猥褻ビデオが押収された。1か月ほど前からアパートに帰っている様子はなかった。

 

現場は地下鉄赤坂駅から300メートルほどの位置にあり、衆議院議員宿舎の裏手。ホテルやマンション、企業の事務所、雑居ビルなどが密集している。 事件直後は消防車やパトカー、捜査車両など約30台が駆けつけ、近くの道路はすべて非常線が張られた。捜査員100人余りが動員されたという。

 

 

■単独犯

事件前の吉里は、赤坂のマンションでも久喜市のアパートでもなく、渋谷の高級ホテルなどを1か月ほど転々としていた。多額の預金があったとされているが、マンションを契約した11日に愛車のフェラーリ2台を手放している。

 

かつて父親は元朝日新聞社会部・部長を務めていたとされ、警視庁キャップの経験もあったともいわれる。1993年に難病を発症し、沖縄へ移住して療養生活を送っていたが、その後、自殺。いずれも動機は不明だが、99年に吉里の兄も自殺している。

吉里は沖縄へは付き添わなかったが、母親と弟は事件当時、沖縄在住と報道された。02年頃に横浜市内に二人の墓所を建てて以来、吉里は親類とも顔を合わせなかった。

 

吉里は東京芸大出身でデザインを専門としていたが、在学中は複数女性と“ヒモ”のような暮らしを送っていたとされる。ホストクラブでのアルバイト経験やパリ、ニューヨークへの遊学経験があり、外国人との交遊関係もあった。

その一方で、幼少の頃からひどいアレルギー性の皮膚炎に悩まされており、周囲には「きっかけがあれば死にたい」と漏らすこともあったという。

 

2001年春に児童買春容疑で書類送検。9月に久喜市のアパートから、大量の猥褻ビデオ販売チラシ、数十人分の顧客リストと見られるメモがごみとして廃棄されており、衛生組合が通報。埼玉県警は吉里をマークしたが、販売事実を確認することができず摘発には至らなかった。

 

吉里はホテルの高額な利用料を現金で支払い、プチエンジェルの少女たちの前でも羽振りのよさを見せていた。「少女買春で35億円稼いでいた」といったネット記事も多いが、筆者はこの預金額についてはやや疑わしい情報だと考えている。

かつて新聞記者で重要なポストを担った父親や家族には、一般的なサラリーマンより高額な保険が掛けられていたには違いなく、読売新聞では「多額の遺産を相続した」と記載されていることからいわゆる“実家が太かった”ことも考えられる。

だがそれだけの「資産家」が、趣味で少女買春や裏ビデオ販売といった危ない橋を渡ってまで稼ごうとするだろうか。残念ながら筆者にロリコン財産家の気持ちは分からないが、闇買春の管理者というよりも“買う側”の人間ではなかったかという気さえする。

少女買春が単価5万円、裏ビデオが1本1万円程だとしても35億円もの利益を上げるまでには莫大な量を捌かねばならない。それだけの規模で稼ぎ続けていたとするならば、やはり個人での管理売春だったとは考えづらいものがある。

 

■死因の謎

吉里は、椅子の上に大きなビニールシートを張り、テント状にして床に目張りをし、その中で七輪で練炭を焚いていたと報じられ、警察からは発見当初から「自殺」との見方が示された。

 

練炭は燃焼時1000度以上にもなることから、椅子の下で焚いていたとしても「熱でビニールが溶けてしまう」との指摘があり、ワイドショー番組でも検証実験が行われた。練炭の分量や燃焼具合がどれほどのものだったのか、ビニールシートの発見時の状態はどうだったのかは確認しようもない。

その後の解剖で、死因は急性一酸化炭素中毒と確認された。不完全燃焼であっても一酸化炭素中毒は起こりうることから、轟々と燃焼はさせずに自殺できた可能性もある。

また自殺を思いついたとして、夏の盛りに「練炭」を選ぶ点もやや解せない。トイレや浴室のように限られた狭い空間であればまだしも、広いリビングでわざわざビニールを張った中で行うというのは、変に手間をかけ過ぎな印象を受ける。

 

いずれにせよ「自殺」とする警察発表は「他殺を示す証拠」が出てこなかったことを意味する。明言されていないが、たとえば少女たちが「部屋には吉里一人だった」「他の人間の出入りはなかった」と証言すれば、その状況から自殺と断定せざるを得ない。

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 吉里の自殺に至った理由が、この事件の最大の焦点である。

ある日、突然糸が切れたように命を断つ者もあれば(首吊り、電車飛び込みなど)、自身の死に方や死後のことまで念頭に入れて事を運ぶ者もいるが、吉里は後者だった。

一般的に自殺と聞くと、「経済的な困窮」「老・病などによる絶望」「仕事や恋愛などによる精神的破綻」といった分かりやすい原因を求めがちである。悪徳稼業とはいえ金回りが良く、まだ若く交際関係も広い吉里が、なぜ死を決断したのかは一般にはやや理解し難い面もある。

だが家族関係が半ば破綻していたことからも、帰るべき自分の居場所のようなものはなく、捜査の網を掻い潜るような荒んだ生活で神経が磨り減らされていたのかもしれない。

 

マンションの契約、練炭などの購入から、少女たちの監禁と自殺を同時に計画していたものと考えて差し支えないと思う。単に練炭自殺を目論むのであればひと気のない山や海に出向いて車内で行えば済むことなのに、あえてそうはしなかった。車を売り払い、“死に場所”とするためわざわざ新たにマンションを契約するという行動は、一見不合理で腑に落ちない。吉里は自殺するために少女たちを必要としていた、という見方もできる。

少女買春歴のある吉里が「少女たちに囲まれて死にたい」といった願望を抱いたのだろうか。一か月に渡るホテル滞在中にも自殺を企図していた可能性はあるだろう。死を意識しての「最期の贅沢」だったと見ることもできる。一人で自殺することができなかった吉里が、自分を追い込むために意を決して女児を誘拐・監禁し、ようやくその思いを遂げたと見ることもできる。吉里は少女らを商売道具として悪用してきたが、死に際にあっても彼女たちを利用していた。

 

■自殺の理由 

自殺の背景として、吉里が反社会組織(暴力団・半グレなど)から睨まれていた可能性はある。

実態を知らないので憶測になるが、仮に吉里が個人で売春組織を立ち上げたとすれば、スカウト活動などからすぐに足が付き、渋谷界隈を根城にする関係者は黙っていないだろう。生きて逃げられない危機的状況であれば自殺という選択肢もおかしくはない。

逆に反社がバックについていたケースで考えてみると、吉里はビデオ販売や売春管理といった活動から抜けたかったが、辞めさせてもらえない苦境に立たされていたり、着服などの不正が発覚して「けじめ」を迫られていた可能性もある。

あるいは摘発を逃れるために吉里に全ての罪を着せて「トカゲのしっぽ斬り」をされたとする見方も根強い。遺書こそ残さなかったものの、死に際の罪の暴露として「売春組織」の存在を示す名簿等を現場に残したとも考えられる。

 

いずれにせよ想像の域を出ないが、筆者としては、吉里は組織の末端で、敵対する組織による「見せしめ」で自殺を強要されたのではないかと考えている。

第一に、警察の捜査の手際が良すぎること。もちろん初動捜査が早いことは称えるべきことだが、監禁現場が抑えられていない段階で逮捕状請求に至る潔さは事前にリークがあったのではないかと勘繰りを入れたくなる。手配の内容は誘拐監禁ではなかったものの、偶々タイミングが重なったという訳ではないだろう。つまりは、警察が暴力団からリークを得て、敵対する「反社の資金源(売春組織)潰し」の見取り図に乗っかった、という見方である。

第二に、4女児監禁の理由として強姦や売春、殺害の明確な意図が見られない点である。もちろん監禁状態があと数日も長引けば脱水症状などで女児たちに死の危険はあった。

だが監禁の意図が何だったのかと想像すると、単なる自殺では済まないようにしたかった、少女買春の存在を公にしたかったと見る方が自然ではないか。仮に全員が亡くなっていたとしても、残された証拠は「吉里が児童らを集めて買春組織を営んでいた」ことを示し、大筋は変わらない。敵対組織に対する警告・挑発の意味でも「男の自殺」だけでなく「児童買春組織」の告発が必要だったと解釈する方が収まりよく感じる。

第三に、 警察が顧客への追及をせず早期決着させた点である。風俗の客が偽名を用いるのは自明のことであり、夏目漱石や大物芸能人、時の総理大臣の名前があったとしても、そこは大した問題ではない。だがプチエンジェルの場合、無店舗型であったことから顧客管理を電話番号で行っていた可能性が高い(吉里も複数台の携帯電話を用いていたとされる)。顧客を特定できるのに、あえて摘発しなかったのはなぜか。

ひとつは未成年が売春当事者であり、立件が困難なこと。現在は強制性交などは非親告罪(被害者の告訴なしでも加害者を起訴できる)化されているが、事件当時は当事者不在では事件にできなかった。未成年者自らが(半ば同意して)売春したことを表に出して証言台に立つとはやや考えにくく、仮に告訴する少女がいたとしても、どれほどの刑罰が与えられるだろうか。

もうひとつは名簿を押さえておく必要があったこと。名簿の中身が詳らかにされないために警察関係者や政治家、テレビ関係者、皇族が含まれているといった噂が絶えないわけだが、実際のプチエンジェル利用当事者にとってはいつ摘発されるか分からない監視状態に置かれるため、一定の抑止効果はある。

捜査に協力した反社がいたと表沙汰になれば、警察としては至極きまりが悪い。警察が別の反社に名簿を流すとまでは考えにくいように思うが、名簿を押さえていることだけを表に出しておけば警察としては充分な収穫と考え、早期の幕引きに至ったのではないか。

 

■ジャーナリストの怪死

プチエンジェル事件に関する噂のひとつとして、「その闇に迫ろうとしたフリー・ジャーナリストが東京湾で謎の不審死を遂げた」という尾ひれが付くことがある。

 

2003年9月12日7時頃、東京都江東区海上で、フリーライターとして柏原蔵書(くらがき)、山口六平太のペンネームをもつ染谷悟さん(38)が遺体となって発見された。

上半身は鎖で巻かれ、手足はひもで縛られ、腰にはウェイトベルト(ダイビング用の重り)が付けられた状態で、背中に8か所の刺し傷があった。肺に達した刺し傷が致命傷と見られ、生前に溺れたことを示す所見は得られなかった(殺害後に沈められた)。

 

染谷さんは90年頃からライター業を始め、いわゆる“アングラ系”と呼ばれる雑誌等で裏社会の実話系記事を中心に執筆。関連著作には、犯罪的視点から“鍵”と業界の裏話をまとめた『鍵の聖書 鍵と鍵屋の選び方』(2002)、新宿歌舞伎町界隈の暴力団や風俗業などにまつわる『歌舞伎町アンダーグラウンド』(2003)がある。

 

東京水上署捜査本部は染谷さんが取材活動の中で何らかのトラブルに巻き込まれた可能性があると見て捜査。

その後の調べで、02年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、カメラやレンズ、パソコンなど77点を盗まれていたこと、03年1月にはベランダフェンスや窓ガラスの破壊、ドアが開けられないように玄関の隙間に物を詰められるなどの嫌がらせ被害を受けており、周囲に「中国人に狙われている。殺されるかもしれない」とも漏らしていた。

9月5日に知人と電話で話して以降の行方が分からなくなり、7日未明に染谷さんが直前に使用していたものとは違うアドレスから「しばらく、旅にでる事にします」という不審なメールが届いていた。また行方不明直後、豊島区・新宿区内の路上で染谷さんのカメラや三脚が発見された。

 

おそらくは、この段階で事件マニアの間で、染谷さんの不審死について、直前に起きた謎多きプチエンジェル事件を追っていたのではないか、という推察・仮説が生じたと考えられる。もちろん裏社会のライターとしては事件に関心があったかもしれないが、取材記事や「追っていた」とする証拠・報道は見当たらない。

 

2003年11月22日、東京水上署捜査本部は、錠前師・熊本恭丈(よしひろ)、元自衛官・藤井亮一を死体遺棄容疑で、元カギ会社社長・桜井景三を染谷さんの知人に対し、「事件について何も言うな。余計なことを話せば中国人を使って殺す」などと脅迫した容疑で逮捕。 翌年1月16日、殺人の疑いで再逮捕した(2004年1月16日、産経新聞)。

三者は2002年頃、染谷さんの契約反故などでそれぞれに金銭を騙し取られるなどの被害に遭っていた。また一度は契約履行や返済などを約束したものの染谷さんは再び行方をくらませ、業界内で悪質なリーク情報を撒く、すぐに特定されるような中傷記事を書くといった“反撃”を講じていた(詳細はH18東京地裁判例pdf)。桜井らはそれぞれ染谷さんに行方を追っていたが、03年7月頃から協力して追い込みをかけることを計画した。

 

03年8月下旬、染谷さんの行方を突き留めた桜井らは、共謀してレンタカーでの拉致を計画し、制裁を加えようと考えた。20時頃に染谷さんは行きつけの飲み屋に入店。三人は店外で待ち伏せたが、日付が変わっても出てこないことから桜井が入店し様子を窺った。しかし染谷さんは隙を見て非常階段から逃走。

店周辺を捜索したが見当たらず、三人は車で染谷さんの住む豊島区のマンションへ向かった。その間、染谷さんから無言電話を受け、4度目の電話で会話をすると「捜せるもんなら捜してみな。地球のどこかにはいるよ」と言われ、桜井は激昂した。

6日1時20分頃、マンションに到着。窓から室内へ侵入し、手やスラッパー(先端に金属が仕込まれた革の警棒)で染谷さんを暴行し、新宿区にある桜井のマンションへ拉致監禁。染谷さんは謝罪をせず、反抗的態度を取り続けた。解放すれば告発や記事に書かれる恐れがあったため、三人は殺害の準備に取り掛かった。

3時から明け方にかけて、居室内の指紋の拭き取りや染谷さんの所持品の処分、レンタカーの返却、染谷さんの携帯電話から「旅に出る」メールを知人宛に送った。早朝に一度解散し、知人から小型作業船を借りる約束を付け、ウェイトベルトを自宅から持ち込むなどそれぞれ準備をし、夜に再度集合。

22時頃、染谷さんを睡眠薬で眠らせて別のレンタカーで係留地へ移送した。エンジンをかけて沖へ出る途中、染谷さんが船から落ちたため、慌てて連れ戻し「なんで逃げたんだ」と問い詰めたが応答は不明瞭だった。海上で染谷さんの体にウェイトベルトを装着させ、針金で要所を固定。プッシュ式ダガーナイフで多数回突き刺した後、海へ突き落した。

翌日、染谷さんの部屋を掃除。それ以降も染谷さんの携帯電話から各人へ自発的失踪をほのめかすメールを送って、隠蔽工作を続けた。12日朝に岸壁付近に遺体が発見されると、3人はその日のうちに集まり、今後の連絡手段や偽名、逃走などについて話し合いを持った。

 

筆者としては、ライターの染谷さんが金銭トラブルなどで恨みを買って殺害された、という話が事実だと考えている。どこのだれが言い出したのかは分からないが(染谷さんが各所に恨みを買っていた節があることからライター筋から出た可能性もある)、同時期のプチエンジェル事件を盛り上げるための“燃料”にされたのではないかという印象である。

なぜ周囲に「中国人に狙われている」と語ったのかは定かではないものの、桜井らがその筋に捜索や嫌がらせを依頼していたのか、あるいは過去に中国人裏社会でも恨みを買う自覚があったとも考えられる。

 

本筋とは離れてしまうが、桜井は1990年代に業界初の鍵師養成所「鍵の学校」を運営し、メディアへの露出が多かった人物で、それまで個人経営が当たり前だった業界にチェーン展開を仕掛けるなど当時は知られた存在だった。2019年、宮城刑務所の刑務官・藤田晋悟(31)が桜井受刑者の弟らから計7回に渡り、現金合わせて138万円を受け取り、同受刑者への生活待遇に便宜を図ったことが発覚した。

 

■政治家叩き

2006年、『週刊現代』2006年6月3日号で、政治家・小沢一郎氏の政治資金管理団体陸山会」が都心をはじめとする一等地に多数の不動産を購入しており、その登記簿上の所有者が小沢一郎氏本人の名義とされていることから、個人資産との区別が不明確に管理されているとの批判記事を掲載。

小沢氏はこれを名誉棄損に当たるとして講談社と編集者らを相手に訴えたが、各マンションが陸山会による運営が為されているかは不明瞭であり、「個人資産と言われても仕方ない」という論評に非はないものとされ、小沢側の主張は退けられた。

2009年11月、市民団体は、陸山会が2004年に東京都世田谷区の土地購入について政治収支報告書に虚偽記載を行ったとして、政治資金規正法違反の容疑で告発。

このとき公開された陸山会の資産情報に記された「赤坂」に所有する土地が、4女児が監禁されていたマンションの所在地と番地が一致したことから奇妙な憶測を呼んだ。陸山会すなわち小沢氏がプチエンジェル事件あるいはプチエンジェルそのものに絡んでいるというのである。陸山会では赤坂周辺のマンション数か所を個人事務所、外国人秘書の宿舎などに使用していた。

 

筆者は、陸山会プチエンジェルとは無関係だと考えている。第一に陸山会が部屋を所有していたマンションの部屋と番地は同じだが、別の建物であること。第二に建物管理者(マンション)は別企業であること。

第三に事件のあった部屋は2003年7月11日(少女たちが監禁される2日前)から借りられており、実態としては「売春斡旋の事務所」としての機能を有していなかったことである。なかには「事件は赤坂で起きたのに報道が“渋谷”に変わった」などという見方もあるようだが、監禁事件は赤坂のマンションで起きたが、プチエンジェルのスカウトや派遣先は渋谷が中心だったことから「報道の切り取り方が変わった」と考えられる。

「政治的圧力が—」「報道規制が掛けられてー」といった憶測は、多分に“反小沢”“反民主党”“反中国”などの政治的バイアスが掛かっているか、陰謀論の風説に思考そのものが毒されているか、当時の国会での小沢叩きに乗じた愉快犯に過ぎないと考えている。

 

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ごく簡単に当時の小沢氏周りの政治動向について触れておく。

1993年、宮沢内閣不信任案が可決。賛成票を投じた羽田・小沢派は自民党を離党し、新生党を結成。自民は過半数割れで、8党派連立による細川護熙内閣が成立。

94年末に海部俊樹を党首とする新進党を結成。しかし羽田・細川らと溝が深まり、97年末に公明党が離脱し、新進党は分党。

98年に党首として自由党結成。野党第一党の座は民主党が得たものの、野党共闘により自民党をけん制した。しかし金融再生法を巡って民主党と対立。その後、野中広務を頼って自自連立交渉を進め、99年に与党復帰を果たした。

小沢復党かとも思われたが、自民党内の反小沢勢力の抵抗にあい、自自連立は一年で終焉。自由党内も連立離脱派(小沢支持)と残留派に分裂し、残留派は保守党を結成。自由党議席は衆参22に半減させたが、2000年衆院選では+4議席と善戦。

2001年、小沢塾を開設。7月の参院選では“小泉フィーバー”により野党は軒並み苦戦を強いられたものの自由党は6議席を死守した。

02年、小沢と民主党鳩山由紀夫により、民主・自由両党の合併が進められたが、合意形成が難航して鳩山は代表辞任を余儀なくされる。小沢は解党準備に向け、自由党から小沢の関連政治団体へ13億6816万円(うち政党助成金5億6096万円)の“寄付”を行った。

03年9月、民主党自由党が正式合併。「政権与党と総理を替える本格的政権交代が何よりも急務」とする大同小異の志のもと、小沢は民主党の菅現行体制維持し、「一兵卒に戻る」として役なしでの合流となった。11月衆院選は初のマニフェスト選挙となり、民主党は40議席増の躍進を遂げ、小沢は代表代行に就任した。

 

監禁事件のあった03年7月は合併に向けた最終調整が行われている渦中であった。仮に小沢氏に絡めた見方をしようとするのであれば、反小沢勢力による“小沢潰しの攻撃材料”として画策されたのであろうか。

たしかに若くして「剛腕」と称された政治手腕や、二大政党制実現に向けた政界再編の「壊し屋」としての権謀術数は、国会内外に多くの反小沢勢力を生んだことは確かである。しかし、小沢氏を貶める思惑があったとするならば、政治家本人の汚職の追及になるのではないか。2004年に発覚する年金未納期間があったことや06年以降に取り沙汰される資金管理問題など、当時の小沢氏は“叩けば埃が出る”状態だったともいえる。なぜわざわざ第三者を殺害して少女買春組織を明るみに出さねばならなかったのか、道理が通らない。

また陸山会所有のマンション付近で監禁事件が起きたことは事実だが、既述の通り衆議院議員宿舎がすぐ裏手に存在する。「政治家が関連していた」とする見立ては可能かもしれないが、特定の政治家を糾弾には不十分であり、むしろそうした発想に至ること自体「書き手に偏向した政治態度がある」ことを暗に示すことになる。

 

■噂と嘘 

皇族のペドフィリアや近親相姦のビデオが存在するといった風説の流布もある。そうした話題を積極的に取り挙げるサイトは、陸山会の噂同様、偏向的なテーマや主張を好んで扱っているように見受けられる。筆者にデマの証拠を示す術はないが、同様にそうした噂が真実である証拠を示す情報も存在していない。怪情報の流布そのものが目的だからである。

筆者は小沢氏や皇室に取り立てて強い思い入れはないが、自らの主張や非難の材料として無関係な人身売買、児童買春事件を“政治利用”することは自らの品位さえ貶める卑劣な愚行と言わざるを得ない。

 

90年代末、ネット上では匿名掲示板が増加し、2000年5月に起きた西鉄バスジャック事件では「犯行予告が書き込まれた」と話題になることもあった(後に掲示板の管理人が「警察からIPアドレスの開示請求はなかった」と説明しており、デマの可能性もある)。TVメディアでは、匿名掲示板について「便所の落書き」「犯罪の温床」といった負の側面ばかりを取り上げていた時期である。

2001年には「鮫島事件」と呼ばれる非実在の事件を不特定多数の書き込みによってさも存在するかのように噂し合うハイパー・リアリティな遊びが流行した。当時はスマートフォン光回線などもなくネット環境そのものが現在ほど整っていなかったこともあり、掲示板内のアングラ的な趣向や洒落を理解した上で「ネタ」として楽しむ文化が濃かった。そのため「深入りすると命取りになる」「公安が絡んでいる」「おっと、だれか来たようだ…」などとまことしやかな怖い噂として人気を博した。

2004年『電車男』書籍化などによって掲示板利用者が劇的に増加(05年ドラマ化により新規流入のピークを迎える)。同じ2004年に洒落怖『きさらぎ駅』が投稿されるなど、この時期は特に利用者同士のカキコミを通じての共同作業で様々な物語が生まれている。

 

見方を変えれば、プチエンジェル事件は匿名掲示板のアングラ期の終わりと流行期の間で発生・派生しており、かつてのアングラ趣味、ネタ的要素を多分に含んだまま、それ以降も語り継がれ、拡散されていったハイブリッドな存在と言える。事件報道が終わった後も、「警察権力が何か隠している」「マスコミの報道がおかしい」「政治的圧力が掛けられている」・・・といった具合に“闇の多い事件”として話を膨らませていくこと自体を半ば楽しんでいたのである。

さらに流行によって登場した“まとめサイト”はより恣意的にカキコミだけを拾い上げ、不特定多数によって(実際には一人二人かもしれない)噂される内容をより“人目に着きやすいかたち”にリフォームして人々に供給した。多くの人は過去の掲示板書き込みを一から順に辿ることなく、“掲示板の人々によってまことしやかに語られるストーリー”仕立てにまとめられた情報だけを消費するになった。

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こうした匿名性の濫用による「都市伝説化」は時を経て、富豪ジェフリー・エプスタインによる島での小児買春犯罪、“エプスタイン事件”でも踏襲されていく。匿名掲示板の集合心理や情報操作が、場所や言語を越えて実に似通ったものになっていく経緯は非常に興味深いが、筆者は深掘りするつもりはない。

 

 

事件には真実と虚像が入り混じり、それが事件をより魅惑的に感じさせる。本稿も無論虚像の一端を担っており、上の「見せしめ」説にも根拠は存在しない。私たちが事件と思ってみているものは、何なのか。知らず知らずのうちに自分の望む情報ばかりを追い、自分の望むかたちへと事実を歪ませて認識しようとしてしまう。

ひとは夢中になればなるほど騙されていることに気付かず騙されてしまう。騙しているのは匿名の他者なのか、読み手である私たち自身なのか。私たちを夢中にするものの正体を一度冷静になって見直す必要がある。

 

 

ハローキティ殺人事件について

1999年春、香港・尖沙咀で発生したとされる通称ハローキティ殺人事件について記す。
 本件は香港の凶悪事件でも極めて残酷な犯行とされ、その凄惨さは綾瀬女子高生コンクリート事件を彷彿とさせる。またその事件発覚の奇妙な経緯などから心霊現象の噂も絶えない。

事件の概略後、拷問の性質について触れ、追って心霊の噂について検討する。

 

■悪夢

1999年5月24日、香港・尖沙咀(ツィムサーツイ)警察署に九龍馬頭圍(マータウワイ)女童院(養護施設)のソーシャルワーカーから不可解な通報を受ける。

施設で保護している少女(13)が「若い女性の幽霊に悩まされている」と訴えるというのだ。少女のあまりの動揺ぶりを察して職員が話に耳を聞いたところ、その内容があまりに克明なので不安に思い、通報したという。

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左建物3階が現場 [via hk.appledaily.com 

 施設に入る前の彼女はいわゆる家出少女で、知人の家などを転々としながら当て所もなく暮らしていた。99年の旧正月の時季(2月半ば)、男性の誘いに乗って尖沙咀・グランビル通りにあるアパート3階の一室で生活するようになる。

その後、3人の男たちがその部屋で若い女性を監禁し、一か月近くに渡って凄まじい拷問を加えられた末に女性は死亡した。そのときの光景が脳裏に焼き付いて、被害女性の悪夢を見るようになったというのである。

 

少女は、男たちに靴箱に排便するよう強要されたと言い、犠牲となった女性はその糞便を完食させられていたことなどを話した。彼女を助けるどころか虐待に加担していたために罪悪感に苛まれ、自ら警察に通報することができずにいた。

だが尖沙咀は香港・九龍でも屈指の繁華街である。ソーシャルワーカーは、そんな街のど真ん中で遺体はどうしたのか、と少女に尋ねると、頭以外のほとんどを部屋で処理して捨てたと答えた。

夢の中に現れる女は、少女に向かって「把頭顱還給我(頭を返せ)」と呼びかけてくるのだという。

 

■悪臭

警察は当然、半信半疑ではあった。5月26日、事実確認のため、少女を伴なって事件現場とされるアパートへ捜査に入った。彼女は恐怖のあまり上階に上がることを拒否し、地上から部屋を指し示した。捜査員が指定された部屋の扉を開くと尋常ではない腐敗臭が立ち込めていた。

少女の通報以前にも、「悪臭がする」として地域パトロール員に住民から苦情が入っていたが、原因は“生ごみの匂い”と判断され、そのときは捜査は行われていなかった(関連はないとされたが、このとき担当した女性パトロール員は2000年9月に韓国人の恋人と練炭自殺で亡くなっている)。

 

電気を点けると、廊下の壁には汚れたハローキティの大きな人形(下半身が人魚タイプのもの)がもたれかかっており、台所の鍋の内容物には蛆虫が湧いて、いかにも混沌としたありさまだった。

外の庇の上に置かれた白いゴミ袋からは異様な腐敗物が発見された。またキティ人形の中に固形物があることを確認したため、鑑識の到着を待って開封したところ、中から女性のものとみられる頭蓋骨を発見する。

少女の訴えは嘘ではなく、確かに誰かがこの部屋で殺されていたのである。人形のほか、遺体の処理に用いたとされる土鍋やステンレス鍋、一時的に遺体を保管していた冷蔵庫、残されていたハンマーやトングなどが部屋から押収された。

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同26日、現地から連絡を受けた捜査員たちは、葵涌・石籬村のマンション17階に住む陳文樂(33)を緊急逮捕。翌27日には梁勝祖(26)が自ら投降した。捜査開始を知った梁偉倫(19)は中国本土に逃亡し、香港の捜査当局はインターポール、中国公安、入国管理局等に手配を依頼した。

2000年2月24日、身分証を持たなかった梁偉倫は広西チワン族自治区内で検挙され、後に指名手配犯と判明して、3月末に香港へ身柄が引き渡された。

 

2000年10月9日、香港高等裁判所で事件の陪審員裁判が開かれた。その凄惨さから証拠写真などの心理的悪影響を考慮しながらの公判となった。

女性一名に対する監禁、殺人、遺体の損壊と遺棄に関する起訴内容であったが、殺人事件を示す唯一の物証は人形から見つかった頭がい骨だけ。しかも念入りに煮沸されていたことで、DNA鑑定も適わなかった。白いゴミ袋に入っていた異物は心臓、肝臓、腸、肺などの内臓の一部とされたが死因の特定すら不可能だった

 

■悪魔

1999年3月17日、梁たちは陳の命令で樊敏儀さん(23)を彼女の自宅から件のアパート3階の部屋へと拉致した。梁たちは「なぜ金を返済しないのか、なぜ取り立ての電話に出ようとしないのか」と詰問しながら50回以上に渡って彼女を蹴り続けた。

ナイトクラブでホステス勤めをしていた樊さんは、97年に母親の医療費として、陳に数千香港ドルを借金した。この借金については、彼女に薬物依存があったことや陳がプッシャー(麻薬の売人)をしていたことからドラッグの代金だったのではないかとも言われている。

陳は“和胜堂”と呼ばれる反社会組織の元メンバーでポン引きの元締めをしており、梁勝祖と梁偉倫の2人に借金の取り立てを命じた。樊さんは妊娠後も接客を続けさせられていたが、陳は金利を上げるなどして完済させず、執拗に彼女を追い詰めていった。

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 陳は部屋のガラス窓に木板を張って、周囲に音が漏れないようにすると、およそ一か月に渡って彼女に対しておぞましい拷問を連日行った。樊さんには恋人が居り、捜索を続けていたがはたして発見、救出には至らなかった。

 

先に挙げた糞食のほか、男たちによる飲尿の強要もあった。女性の体に熱した油をかけて、木の棒で激しく摩擦して水膨れを引き裂くと、少女にその傷口へ辣油を垂らすように命じた。

男たちはストローを炙って溶けたプラスチックを足の裏に垂らしながら女性に笑うように命じるなどし、笑わなければ更なる拷問を加えた。足の裏は火傷で爛れ、自立困難になっていたが、男たちは腕をワイヤーで天井に固定して、衰弱した彼女を無理矢理立たせ続けた。

 ある晩、被害女性がトイレで瀕死の状態でいるのを見て、男は太腿をライターで炙って生存を確認した。 少女が見たときはまだ女性に反応があったものの、監禁から数週間して樊さんは息絶えた。

少女は、執拗に繰り返された広範な拷問内容について「楽しみのためにやっていたのだと思います」と虐待の異常性を端的に述べた。


3人の男たちは鋸を使って浴槽で犠牲者の遺体を解体。頭部、内臓、胴体は全て土鍋やステンレスの鍋で煮込んだ。少女も“調理担当”をさせられたほか、梁偉倫と3往復して遺体の一部が入ったゴミ袋をゴミ回収トラックに入れて処分した、と具体的に説明した。

陳は頭蓋骨を人形の中へ縫い込む際に「乖乖不要動,我幫你打扮(いい子だからおとなしくしてね、おめかししましょうね)」と冗談を言った。

 

被告らの供述によれば、残った残骸は「犬に食わせろ」と発案があったものの、小分けして埋め立て地などへ投棄していたとされる。その後、警察が近隣で発生したレイプ事件の捜査のために現場アパートへ聞き込み調査に訪れたため、残っていた内臓入りゴミ袋を慌てて(室外の)庇に投げ置いたと供述。

また、同アパートの住人の中には、深夜に女性の悲鳴を聞いた者、ナイフを上下する人影をビデオ撮影していたがデータを消してしまったと証言する者もいた。それらが事実とすれば、寸前のところで発覚を免れていたことになる。

その後、4人は事件発覚をおそれて、人形と残骸を捨て置いたまま、部屋を後にした。

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男たちは死体遺棄を認める一方で、殺人の意図については一様に否認した。お互いに犯行について責任転嫁を続けたが、梁偉倫、梁勝祖の二人は陳が首謀者であり自分たちは指示を受けていたと供述した。そして彼女の直接的な死因は、彼女自身によるメタンフェタミンの過剰摂取であると主張した。

 検察側は勿論のこと、多くの専門家によって、虐待による衰弱死と推量されたが、粉々にされ、鍋で煮込まれ、腐敗しきった臓物や頭蓋骨から、彼らの証言を否定する素材は得られなかった。

 

■判決

3人は精神鑑定の結果、反社会性パーソナリティ障害、性的倒錯や神経症が認定されたものの、刑事責任能力に問題はないとされた。

2000年12月6日、陪審団による審議は6:1で証拠不十分により、被告らに殺人ではなく過失致死の罪状を認めた(※本稿では事件の特性上、殺人事件のタイトルとした)。

 

阮雲道裁判長は、①犯罪の深刻さ②再犯の可能性③公衆の保護、の三原則に照らし合わせ、3人に対して最も重い量刑に当たる終身刑の判決を下した(当時の香港には死刑制度が存在しない)。再審には少なくとも20年の服役を要することとし、「近年、稀に見る残忍で変質的、堕落し、冷淡で凶暴、残虐な事件。禽獣にも劣る鬼畜の所業」とあまりの非人道性を厳しく断じた。

 

判決後、3人は直ちに控訴したが、首謀者とされる陳、逃亡を続けた梁偉倫については棄却された。梁勝祖については、樊さんが死亡する前日から現場に居合わせなかったことが認められ、直接的な過失致死を負わないものと判断された。04年3月、上告法廷(高嘉楽裁判長)により禁錮18年に減刑された。

 

事件中で唯一の物的証拠とされた被害者の頭蓋骨は、上訴審が終わり、事件発生からおよそ5年後の04年3月に家族の元に戻されて火葬された。1998年に生まれていた被害者の幼子はカナダへと移住した。

 

■綾瀬女子高生コンクリート詰め事件との類似

監禁には被害者の自由を奪う目的や閉鎖空間に置くことで暴力の発覚を免れる意図がある。他の監禁虐待事件からその拷問の傾向を考えてみたい。

①奴隷型・・・クリーブランド事件、新潟少女監禁事件など。主に性的暴行や金銭目的で拉致監禁し、暴力によって隷属・服従させることが目的のもの。

②支配洗脳型・・・北九州監禁殺人事件、尼崎事件など。とりわけこの二件は他人の家庭に侵入し、自らの腕力ではなく被害者やその身内同士で加虐させ合い、思考判断力を奪っていた。家庭そのものを乗っ取って集団支配する①より洗脳的な犯罪。

③特殊集団型・・・戸塚ヨットスクール事件、オウム真理教信者リンチ事件、ローマ・カトリック教聖職者による性的虐待など。全寮制の私塾や宗教団体などの特殊環境においては独自の理念や教義に基づく教育的指導と称して虐待が発生することがある。通常の監禁には含まれないが、アブグレイブ刑務所での捕虜虐待や左翼集団における内ゲバ(内部抗争)、相撲部屋におけるしごき、病院や福祉施設での虐待等もこれに近いものがある。

④一般集団型・・・堺市監禁殺人、金海女子高生殺人など。金銭目的などの恐喝からリンチへと発展し、加虐そのものが目的へと転じるケースが多い。

www.sankei.com

 

1988年11月から翌89年1月にかけて発生した綾瀬女子高生コンクリート詰め事件は上の分類でいえば④に含まれる。

この事件は足立区内に住む15歳から18歳の非行少年グループによって当時17歳の女子高校生がバイト帰りに拉致監禁され、およそ40日間に渡って暴行・強姦・殺人・死体遺棄を行った凶悪事件である。加害者への匿名報道や量刑の軽さは、その後の少年法改正の議論への引き金ともなった(一方で当時は被害者への保護規制がされておらずセカンドレイプともいえる報道・発言が行われた)。

 

主犯となる4少年は同区内の中学時代の先輩・後輩関係にあった(主犯格4人以外にも十数名が関わっていた)。彼らは高校を離脱しており、88年夏ごろから引ったくりや強姦事件を起こすなどしており、リーダー格のひとりは地元暴力団組織の構成員として的屋などの下働きをすることもあった。

当初は強姦・輪姦が目的とされたが、「さらっちゃいましょうよ」という発言から一人の少年の自室(親兄弟と同居)に略取監禁することが決められた。この少年の両親は共働きで、少年の家庭内暴力を恐れて適切な関与が為されておらず、不良少年たちのたまり場となっていた。

 

しかし裸踊りをさせる、陰部に鉄筋を指す、マッチ棒を指して着火する、肛門への異物挿入、皮膚にライターオイルをかけて着火するなど、おぞましい虐待はとりとめもなくエスカレートしていき、度重なる暴力に耐えかねた女性は「もう殺して」と哀願するようになった。こうした暴行に見られる嗜虐性は香港の事案と非常によく似ている。

被害女性は栄養失調と極度の衰弱により抵抗を示さなくなっていった。89年1月4日、少年の一人が賭けマージャンに負けた腹いせをきっかけにして、いつものように無抵抗の女性への暴行が始まった。飲尿強要や蝋燭を顔面に垂らすなどして凌辱し、転倒して痙攣を起こすなど女性の身体に重篤な事態が迫っていることを認識しつつも加虐を止めなかった(「未必の殺意」の認定)。キックボクシングの練習器具(重さ1.74キロの鉄球)などで勢いをつけて脚や腹部を強打した。その後、女性の太ももに着火行為を始めたが、やがて反応を示さなくなった。

 

翌日、少年らは殺害を隠蔽するため、遺体をバッグに詰め、トラックを借りてドラム缶やセメント、砂材などを調達。遺体をドラム缶に入れてコンクリートやブロックで固定し、不法投棄の多い江東区若洲にある埋め立て地に遺棄した。3月29日、コンクリート詰めの被害者の遺体が草むらで発見され、別件で逮捕され練馬鑑別所に送致されていた2少年に余罪を追及したところ、犯行が明るみとなった。

少年の保護者は、外泊を続ける女友達という認識で、一度は食事を与え、帰宅を促したこともあったが、少年が気付いてすぐに連行し、以後、女性が自発的に脱出を試みることはなくなっていった。女性は「逃げたら自宅に火を点ける」と少年たちに脅されており、捜索願を出させないために「すぐ帰る」と自宅へ電話をかけさせられていた。

 

また監禁は含まれていないが、1988年に起きた名古屋アベック事件も不良グループによる集団犯罪として似た傾向を有している。当初は恐喝目的で接近し、集団リンチから強姦、その後、犯行を隠滅するために絞殺して伊賀市山中に遺棄した事件である。こうした若者による暴力の残虐さをエスカレートさせていく無軌道な拷問殺人は、当時の一部マスコミによって“狂宴的犯罪”と呼ばれた。

いずれも互いの凶悪さを競い合うように拷問の嗜虐性はエスカレートし、当初から殺害の意図まではなかったにせよ、仲間内の関係性(教室内でいじめられっ子を庇えば自分に危害が及ぶと考える思考にも近いかもしれない)や、被害者を解放すれば事件が明るみになるという暗黙の了解などによって歯止めが利かなくなり、なし崩し的に殺害・遺棄へとつながっていく。

番長格の人物によるヘゲモニー(権力掌握)というよりは、仲間内での見栄の張り合い(凶暴さや異常さの誇示)が加害者相互を心理的監視下(共犯関係。逃亡と密告の禁止)に置き、「空気を読むこと」、いわば常軌を逸した“悪ノリ” と“忖度”によって助長された犯罪ともいえるだろう。

綾瀬の事件では被害者の顔面が変形し、衰弱していた12月時点からすでに後始末(殺害や遺棄の手段)について話し合いがなされていた。ハローキティ事件でも樊さんに多くの外傷を与えている時点で、すでに(売春斡旋などによって)借金の取り立てをすることは放棄していたものと考えられる。

多くの殺人事件で言えることだが、加害者の倒錯した思考において金銭的価値、性欲的価値を見出せなくなれば“モノ”の価値は失われる。彼らにとってはそれが人間であろうとも、愛着を失って不用品にされる人形と同じなのである。

 

■霊

殺害現場となったアパートは2012年に取り壊され、16年には新たにホテルが再建されている。

 しかしこの事件には心霊の噂が絶えなかった。公判の最中には、ハローキティ人形や鍋釜、冷蔵庫らが証拠品として提示され、その死臭は廷内のどこにいても漂ってきたという。

「ビデオ撮影をしたが消してしまった」と話した住人は、その後、アパート内で女性の幽霊に遭遇し、金縛りを経験するなどしたため、妻子を連れて転居した。

事件のことを知らずに4階に越してきた新しい住民は「夜中に下の階から女のすすり泣きが聞こえる」と友人に相談した。不安に思って確認したが、事件以降ずっと3階の部屋には住人はない状態だった。

心霊の噂に乗じた悪質な悪戯もあった。ある朝、現場近くの美容院の店員が店の前にキティ人形が置かれているのを発見した。ただそれだけの出来事であっても、事件を知る人々は、あたかも「頭部」が散髪を求めて彷徨ったかのような心象を抱いてしまう。その話がメディアに漏れて心霊騒ぎとなったが、後に閉店後に不審人物が置いていったものだと判明した。

2013年に香港の哲学者・陈定邦さんの妻がバーに訪れた際、通りの向かいの建物からじっと女性の頭がこちらを向いていることに気付いた。そのときは気付かなかったが、その建物は事件現場のアパート跡だったことが分かり、陈さんらは祭壇を建てて犠牲者を懇ろに弔った。

 

筆者は心霊や怪談を否定する人間ではないが、この事件に多くの怪異の尾ひれが付く原因を3つ挙げてみたい。ひとつは「少女の悪夢」から始まったこと。ふたつめは多くの香港人が見知った繁華街であったこと。みっつめは犠牲者の背景。

残虐極まりない殺害方法が詳らかにされる一方で「殺人罪」が適用されなかったことから犠牲者には怨念があって然るべきと思われた。また単なるナイトワーカーの事件としてではなく、厳しい生い立ち(樊さんもまた養児院育ちだった)を経て、幼子と恋人とに恵まれたところで命を奪われて、さぞや無念であったろう、と人々の情念に響いたことも大きいのではないか。

 

 

人間というのは不思議なもので、人殺しを罪と知りながらも人を殺し、人殺しを死罪にかけよと訴える。ある者には殺されて当たり前とまで考えながら、なぜこの人が死ななければならなかったのかとその理不尽に憤る。殺意は殺意を再生産する。香港映画の悪しき習慣として残虐性とグロテスクさを売りとする作品のモチーフにされる不幸はもはや筆舌に尽くしがたいものがある(せめて他のやり方があろうにと)。

行方不明事件が遺族を中途半端な悲しみや苦しみに縛り付けるのとは逆で、“霊になる”とはすなわち死者として認めること、慰むべき対象へと転じたことを意味する。無論、邪な好奇心で心霊を取り扱うべきではないとは思うが、怪談や心霊とされることで人々やその地域に記憶されること自体、筆者は悪いことではないと考えている。

 

被害に遭われた方々のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

*****

・参考

兇案點滴:女督察自殺亡 | 蘋果日報

■香港ニュースボット(2000年10月21日、明報網站)

香港高等法院判決文 

綾瀬コンクリート事件/東京地裁判例pdf

ジャック・ウンターヴェーゲルについて【ウィーンの絞殺魔】

 “ウィーンの絞殺魔”の異名でオーストリアの「シリアルキラーとして知られている」、ジャック・ウンターヴェーゲル(1950-1994)について記す。

 

■生い立ち

ヨハン・ジャック・ウンターヴェーゲルは、ウィーンのウェイトレスと見知らぬ米兵との非嫡出子として生を受けた。幼少期に母親が逮捕され、ヴィミッツという山村で暮らすアルコール依存症の祖父のもとで育った。

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Von Niki.L - Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=90677337

実母のまともな記憶はなく、祖父が持っていた彼女のヌード写真でその姿を知るのみだった。祖父は写真を手に「お前はこの“雌犬”の“穴”から出てきたんだ。お前のせいで時間も金も取られるってのに、あの雌犬は一銭だって送ってきやしない」と言って出来の悪い娘と幼いジャックを責め続けた。

祖父は貧困を理由に少年から教育の機会を奪い、盗みや詐欺、農場荒らし(動物窃盗)の片棒を担がせた(彼の幼少期の思い出の一つは、祖父のカード賭博のイカサマに加担したことだった)。10代になると、強盗のほか、売春のポン引き、性的暴行などに手を染めるようになっていった。

16歳で窃盗罪で逮捕されて以降、青年期のほとんどを矯正施設(少年院)との往復に費やすことになった。真っ当な生き方など教わってこなかった彼は、貧困と虐待が生み出した若年犯罪者の典型ともいえる前半生を送った。

 

■唯一の殺人 

1974年12月12日、ジャックが24歳のとき、ドイツのヘッセンに住む友人アネリーゼとクリスマス・パーティーの帰路で強盗をしようと思い立ち、車でドイツ人女性マーガレット・シェーファーの後をつけた。当然彼らはアルコールやドラッグの影響下にあった。

彼女の家に侵入すると、金を奪い、手かせを付けて、エヴェルスバッハの森へ拉致し、鋼棒で首と頭部を殴打した。着用していたブラジャーの紐を使って絞殺した。

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「彼女を殴ったとき、母のことを思い出した」

 

その発言には、彼の悲惨な生い立ちを供述に重ねることで情状酌量を求める意図があったのかもしれない。彼は裁判で強盗については認めたが、殺害の意志はなく過失致死だと主張していた。

だが私欲のためだけに18歳の女性の人生を踏みにじった罪が軽くなることはなく、1976年6月、ザルツブルグ地方裁判所終身刑を言い渡された。74年にストッキングで絞殺された23歳の女性殺害の嫌疑もかけられたが、こちらは証拠不十分とされた。

 

■転機

しかしジャックは獄中でのリハビリテーションの一環として読み書きを習得すると、詩や戯曲、自伝や小説といった執筆活動に勤しむようになる。サークルを作り、朗読会や子ども向け作品の制作も行った。

初等教育を受ける機会さえなかった彼の目覚ましい“変貌”ぶりは、ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネックアンドレア・ウォルフマイヤーらドイツ・オーストリア圏の知識人たちの目に留まる。

無学な殺人犯であっても再教育と良心のリハビリによって更生できることを証明する“模範囚”としてジャックを擁護し、終身刑で社会復帰への門戸が閉ざしてしまうのはおかしいとして、赦免・釈放を求めるキャンペーンが行われた。

 

83年に獄中から発表された自伝『Fegefeuer oder Die Reise ins Zuchthaus(煉獄または刑務所への旅)』はベストセラーとなり、88年にはウィルヘルム・ヘンストラー監督・脚本により映画化もされた。85年から89年にかけて12冊の文芸誌『ヴォルト・ブリュッヘ(ことばの架け橋)』を発行。この活動と執筆者たちは、ドイツの社会思想家インゲボルグ・ドレヴィッツによる囚人文学賞を受賞した。

彼の獄中作家としての活躍は米国でも反響を呼び、イギリスの連続殺人鬼“Jack The Ripper(切り裂きジャック)”をもじって“Jack The Writer(物書きジャック)”などと紹介された。

 

88年3月、刑法第46条が改正され、終身刑を受けた者であっても15年以上の服役を経て著しい更生が認められ、再犯はないと仮定される場合において、仮釈放を認める方針が加えられた。彼の刑期は16年に減免され、90年5月23日に仮釈放を認められることとなる。

 

■煉獄からの脱出

出所後、ジャックは著述のほか、公共放送のゲストや雑誌インタビューなどにも登場し、犯罪やセックスワークに詳しい元アウトローのジャーナリストとして精力的に活動を開始した。

ダブルのスーツを着こなし紳士然とした彼の振舞いは、不幸な生い立ちから見事に立ち直った“社会実験”の成功モデルであることを人々に印象付けた。彼は各種パーティーに引っ張り凧となり、Seitenblickegesellschaft、いわば社会的成功を遂げた文化人のひとりと捉えられていた。

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「これまでの人生はもうおしまいだ。次に取り掛かろう」

 

しかし、野に放たれた元囚人は、後半生をかけて社会に寄与する生き方を望んではいなかった。 

ジャックが出所して半年後、プラハ近郊のヴルタヴァ川でニーソックスだけを履いた全裸遺体が発見された。性的暴行の痕跡はなかったが、全身には多数の傷跡があり、死因は絞殺だった。その後もグラーツ、ルステナウ、ウィーンなどヨーロッパ各地で計8人のセックスワーカーの女性が殺害された。

そもそもオーストリアでは売春婦を狙った殺人は年間1~2件程度と極めてまれであった。遺体の多くは森などの屋外に遺棄されており、なぜ急にセックスワーカーばかりが立て続けに襲われるようになったのかは誰の目にも不審に思われた。(ウィーン医科大の法医学博士アンドレア・ベルツィアノヴィチの調査によれば、1959年~94年の間でオーストリア国内の売春婦の殺人は54人とされる)

 

警察は、ジャックへの疑いを強めていたが、いわば法律を変えてまで釈放した有名人を再逮捕するとなると捜査は慎重に慎重を期さねばならず、容疑者の断定を避けていた。

だがメディアはすでにシリアルキラーの存在を報道しはじめ、その中で元捜査官オーガスト・シェナーは各地の事件報告から、「元囚人」による犯行との類似性を指摘した。被害者たちはことごとくブラジャーの紐かストッキングで絞殺されていたのである。

さらに皮肉なことだがジャーナリストのひとりとして、ジャック自身もウィーン警察署長に取材をし、91年に“歓楽街の恐怖”としてセックスワーカー連続殺人についての記事を書いている。

 

91年6月から7月にかけて、ジャックは“仕事”のために訪米し、“ナイト・ストーカー”リチャード・ラミレスに倣ってロサンゼルスのセシルホテルに滞在していた。LAPD(ロサンゼルス市警)の送迎を受けながら、本来の仕事である犯罪や性風俗の調査、現地での雑誌の取材などをこなしている。彼の滞在した5週間の間に、周辺で3人のセックスワーカーの女性がブラジャーの紐で首を絞められる連続殺人が起きている。 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

帰国後、ジャックへの捜査が開始されたが、彼は事件への関与を否定し、表面上は捜査員に対して協力的だった。グラーツ警察はジャックへの監視警戒を続け、彼の述べたアリバイはいずれも成立しないことが判明すると、92年1月に証人尋問を求めた。

 

■逃亡と逮捕

しかしジャックは行方をくらませる。当時ウィーンで知り合った18歳の恋人ビアンカ・ムラックは、バー“マルディグラ”でホステスをさせられていたが、捜査の手が及ぶ前に彼女も行方をくらませていた。警察は、2月15日に二人に対する指名手配を公表した。

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Bianca Mrak

同日、ジャックはパリ、スイスを経由し、マイアミ行きの飛行機でアメリカへと高飛びした。その後、ビアンカの知人と連絡をとり、金や新聞記事をアメリカに送るよう手配をつけた。

しかしこの金策裏目に出た。オーストリアで騒ぎが大きくなると、送金役の人物(マヌエラ.O、アイリーン.Pとも言われる)が関係者から摘発を受け、警察の手中に落ちる。

92年2月27日、マイアミの銀行で原稿料の前借を受け取ろうとしたジャックとビアンカは、待ち伏せていたFBIに逮捕された。後年、ビアンカは自伝の中で、逃亡中は彼が有罪になるかどうかなんて考えていなかった、と記した。

陪審員の皆さん、私たちは今後2か月間、逃げも隠れも致しません。そして私は不毛なお芝居などしたくありません。どうぞお寛ぎください。ご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。何でも、本当に何でもお答えします。

ほら、私は殺人者ではないので、隠すものが何もないという大きな利点があります。私が嘘をついているのか、その目でご判断ください。(Vice.com)

オーストリアに身柄を引き渡されたジャックは11人の殺害容疑で起訴されたが、終始無実を訴えた。

検察側は遺体に付着した繊維痕の中から、ジャックが着用していたチーフやズボンと一致するものを検出していた。更に万全を期すため、オーストリアで初となる証拠品のDNA鑑定を行い、彼の車に残されたブロンドの毛髪が犠牲者ブランカ・ボコヴァのものと一致した。逆に見れば、そこまでしなければジャックを有罪にできなかった、彼の表向きの生活に決定的な“ボロ”が出なかったともいえるかもしれない。

 

■終幕

彼の日記には、673日間で152人の女性との快楽的関係が詩的表現で綴られていた。また勾留中に確認できただけで約40通のラブレターが、ときに写真入りで送られてきた。

精神科医ラインハルト・ハラーがジャックに女性ファンについて尋ねたところ、彼なりに3つの分類を示した。ひとつは殺人者と寝たいと望む古風で“お堅い”未亡人、ひとつは無実を確信して救いたいと願う人たち、そして自らの人生を「檻から出ることができない殺人者」に捧げるグルーピー(狂信的ファン)。彼は魅力的で人たらしの狡猾なプレイボーイだった。

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Jack Unterweger mugshot

しかし「現場近辺のホテルで読書をしていた」といった彼の不明瞭なアリバイは、陪審員の目にはもはや“下手な芝居”にしか映らなかった。担当弁護士アストリッド・ワグナーは、勾留中の彼に恋愛感情を抱いていたが、晴れて無罪に導くには経験が浅かった。

特別法医リン・ヘロルド博士は、犯行時の独特の結び目にはシェーファー殺害との共通点があったと指摘し、精神科医はジャックを自己愛性人格障害と診断したが刑事責任能力に問題はないとした。2件については遺体の損傷が大きく死因の特定ができなかったため罪に問えなかったが、9件に関してジャックの犯行と認められた。94年6月28日、仮釈放なしの「2度目の終身刑」判決が下された。

 

判決からおよそ6時間後、男は独房内で自らの靴とスウェットパンツの紐を使って首を吊った。上訴前(法律上は刑が確定していない状態)だったことから、彼は厳密には「連続殺人犯」ではない。若い頃、1人の女性を殺害した「元囚人」としてこの世を去ったことになる。

オーストリア国民党のマイケル・グラフは「彼の最高の殺人」と、“お決まりのやり方”で自死した元囚人に対して不適切な皮肉を述べた。

 

■真偽と妄想 

一般に流布されている彼の前半生(上記の“生い立ち”の部分)は、彼の自伝によるところが大きい。つまり“貧困と虐待の犠牲者”としてのエピソードは、彼の“シナリオ”という可能性も大いにある。

自らの学びや知識人との交流の中で、虚偽記憶が生成されたり、自分“たち”に有利なストーリーを形成したとしてもおかしくはない。かつて彼を擁護したリベラル派知識人たちは彼の中にひとつの神話を夢見たことを悟り、責任の一端を謝罪する者もいた。

 

RMAオーストリア地域新聞)系メディアmeinbezirk.atに掲載されたフリージャーナリスト、ピーター・プガニック氏の記事では、ジャックの小学校時代の「恩師」の娘にあたるイングリッド・サビッツァー・ヴィツムさんの証言を取り挙げている。

彼女が父親から聞いた話では、ジャックの祖父フェルディナンド・ヴィーザーはアルコール依存と賭博好きで知られていたという。次から次へと女性を連れ込んでは暴力を振るったため、女性たちはすぐに居なくなった。ネグレクト(育児放棄)された彼にトイレットペーパーの使い方を教えたのもその恩師だった。許しがたい家庭環境で育ったジャックは一年生の初めからすぐに周囲とケンカを始め、クラスの問題児だった。ジャックにひどい偏見を持つ牧師もいたが、恩師はその都度彼を庇っていた。そうしたこともあって彼は収監中も恩師に対して手紙を綴り、釈放後にも2度、華やかないでたちで恩師の元へ訪れたという。

 

上の記事を読んで、筆者は何の根拠もない妄想に囚われるようになった。

ジャックが自伝で「母親のヌード写真を見せられた」と記したが、はたしてそれは本当の母親だったのかという疑問はだれしも思い浮かべると思う。単に“女性”を指し示す意味でポルノ写真に映っていた第三者を使って「お前はここから生まれたんだよ」と説明したようにも思える。ひとつ疑い始めると、生い立ちのエピソード全てが創作であるようにも思え、どこまでが真実でどこまでがフィクションなのか非常に見えづらくなっていた。

だがジャックの祖父が女たらしで暴力的であること、実際にネグレクトな祖父のもとで育ったことが事実とすれば、更なる推論が思い浮かぶ。ジャックの祖父は「本当に祖父だったのか」という見方である。

 

たとえば、祖父が老年で授かった子どもなのではないか。要は、ジャックの祖父は彼の父親なのではないか、ということだ。祖父が「ジャックの母親」として見せていたヌード写真は逃げられた“元カノ”のものだったのではないか。父親自身が、あるいは彼を父親と認めたくなかったジャックが、父親の存在を曖昧にしてしまったという可能性である。

あるいは、祖父が自分の娘に性的虐待を加えて身ごもらせた可能性。つまり祖父であり、父親でもあるケースだ。ジャックの母親が親許に戻らない理由として十分に考えられる。

女性の出入りが頻繁だったことから考えると、祖父の恋人の連れ子だった可能性もあるのではないか。男の暴力に耐えきれず、実の母は逃げ出して、幼いジャックだけが残された。祖父は実は赤の他人というケースである。しかし捨て殺すにはあまりに不憫で忍びなく、とはいえ自ら育児ができる訳でもない。それゆえ次々と母親代わりとなる女性を求めて連れ込んでいたと見るのは非現実的だろうか。

 

 

 

知識人たちを魅了し、模範的な元囚人という肩書を手に入れた男は、はたして「浄化」することはなく、反社会的人格の上にハリボテの社会性を身に付けただけであったが、いずれにせよ彼の不幸な生い立ちはフィクションではなかったようだ。

 多くの犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

*****

・参考

"Jack Unterweger war ein Kind der Wimitz" - St. Veit 

10 Jahre nach Unterwegers Tod: Bianca Mrak rechnet ab! • NEWS.AT

Jack Unterweger: Der Party-Killer | profil.at

Jack Unterweger Teil I | Mord und Totschlag

http://www.causa-jack-unterweger.com/paypalipn/eBook_Wenn_der_Achter_im_Zenit_steht.pdf

リチャード・ラミレスについて【ナイト・ストーカー】

“ナイト・ストーカー”の異名で知られるアメリカのシリアルキラー、リチャード・ラミレス(1960~2013)について記す。

 

■生い立ち

1960年2月、リチャードはテキサス州エルパソのメキシコ移民の家で7人きょうだいの末っ子(五男)として生まれる。鉄道会社に勤める父親は敬虔なカトリック教徒で勤勉に働いたが、家庭内では妻子に暴力を振るった。

リチャードは2歳の頃、タンスによじ登ろうとして転落し、前頭葉損傷の大怪我を負った。さらに5歳の頃にはブランコが頭に直撃したことをきっかけにてんかんの発作を起こすようになった。虐待被害やこうした頭部への衝撃・損傷は、多くのシリアルキラーに見られる共通の兆候だと解されている。

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Richard Ramirez, mugshot, 1984

幼少から家族と教会のミサに通っていたが、皮肉なことに信心深い父親と神の教えである聖書は、彼を悪の道へと導くことになる。

 

成長

リチャードは少年時代から窃盗や軽犯罪の常習犯だったが、他の少年たちと積極的に徒党を組むことはなかった。後に獄中で回答したアンケートでは、「友達に好かれていると思うところは?」という質問に対し、「友達はつくらない、付き合うだけだ」と記している。

だが10歳頃になると、ベトナム帰りで元グリーンベレーの従兄弟ミゲルと関係を深めた。ミゲルは少年にマリファナの味を教え、戦地で女性に対して行った強姦や首の切断などの虐待について、写真を交えて語り聞かせた。

73年5月、ミゲルは家で妻と口論となり撃ち殺したが、目の前にいた13歳の少年が元軍人の犯行を止められるはずもなかった。男は精神障害とされて実刑を免れ、4年ほど保護施設に収容された。

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孤立を深めた少年はハードロックやホラー映画、大麻LSDを好み、聖書に書かれていた「悪魔」に魅せられ、悪魔崇拝へと傾倒していった。だが“アシッドキング”として知られるリッキー・カッソ(※)が“黒円の騎士団”で仲間とつるんでいたようなものとは異なり、グループ活動や儀式・魔術などの実践は行っていなかった。

(※リッキー・カッソも10代で悪魔崇拝者となった。1984年、17歳のとき、麻薬トラブルをきっかけに友人ゲイリー・ラウワーズを滅多刺しにし、目玉を切り裂いて殺害。“悪魔が殺った”“使い魔のカラスが食べた”と友人たちに吹聴して、森に埋めた遺体を見せて自慢した。事件発覚当初、黒円の騎士団はカルト教団だと報じられていたが、実態はヘヴィメタル・ロックやオカルト趣味を介してドラッグ売買をする不良グループだった。彼は逮捕の2日後に房内で首つり自殺した。)

 

以来、父親と反目して家から追い出され、姉夫婦と暮らすようになる。しかし姉の夫は性倒錯者で、女性を狙ったストーキングや“覗き趣味”を少年に仕込むことになる。

学校を中退してホテルに勤めるようになったが、客室への侵入と窃盗を繰り返し、レイプ未遂が発覚して職を追われた。

 

■LA

1982年、リチャードは故郷を離れ、カルフォルニアに移り住むと、コカインと強盗を繰り返すホームレスの日々を送った。路頭に迷いながら、車が見つかれば車上荒らしをしてそのまま座席で眠り、侵入しやすい家を見つけては金品を奪い、金ができれば簡易宿舎でドラッグに溺れ、自動車窃盗などにより短い服役を3度繰り返した。

 

当時、ロサンゼルス・ダウンタウンスキッド・ロウ(LAのドヤ街、犯罪多発地域)にも出入りし、セシルホテルでの滞在歴があったことでも知られている。

セシルホテルは1924年に開業後、27年にパーシー・オーモンド・クックが妻子との和解の失敗を苦に拳銃で自殺したことをはじめとして、2015年までに確認されているだけで16人に及ぶ自殺者・他殺による犠牲者・不審死が出ている。壁に狂気が宿る“The Suicide(自殺ホテル)”などと呼ばれるようになり、その荒んだ空気は新たな悲劇やシリアルキラーたちを呼び込んだ。

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男は14階の一部屋に一泊14ドルで滞在した。

知られるかぎり部屋の中で殺害したり、遺体を部屋に持ち帰ったことはなかったが、事後に血まみれになった衣服を路地裏のダンプスター(ゴミ集積用の大型容器)に捨て、裸足に血だらけの下着だけという姿で部屋に戻ってくることはあった。だがそんなやらかし立てほやほやのイカれた狂人にちょっかいを出す“愚か者”はそのホテルにはいなかった。

 

ホテルは600室ある半分が長期居住区・半分が通常の宿泊施設とされている。

かつて長期居住していたケネス・ギヴンス氏は、エリサ・ラムさんの失踪を追った犯罪ドキュメンタリー『事件現場から;セシルホテル失踪事件』(Netflix, 2021)に出演し、1980年代当時の無法状態について語っている。

「自分は6階より上に行くことはなかった。セシルの場合、大抵は高層階から死人が出た。やつらは野郎を捕まえてくると、部屋に拉致ってぼこぼこにしたあと、窓から放り投げることさえあった。気を付けていないと、翼なしでその高さから飛ぶ羽目になる」

 

(尚、2013年に同ホテルで起きたエリサ・ラムさんの事件、ラミレスに倣って同地で宿泊し3人のセックスワーカーを殺害したと見られている“ウィーンの絞殺魔”ジャック・ウンターヴェーゲルについては別稿をご参照いただきたい。)
sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 

 

■ナイト・ストーカーの誕生

84年6月28日、リチャードはロサンゼルス市郊外グラッセルパークのアパートの一室に侵入するも、大きな成果が得られなかったために住人のジェニー・ヴィンカウ(79)を強姦の上、めった刺しにして殺害した。この凶行により男は暴力の味を知り、やがて見境なく犯行を重ねていくことになる。

 

85年3月、リチャードはコンドミニアムのガレージに待ち伏せ、車で帰宅したマリア・ヘルナンデスを22口径で銃撃。続けて部屋の中にいた同居人デイル・オカザキを銃殺した。しかしマリアは発砲を受けた際、手で咄嗟に頭を庇い、奇跡的にも手に持っていた車のキーに銃弾が跳ね返たため、致命傷を負わずに済んだ。侵入者は顔を晒していながらも、命乞いする彼女を残して立ち去った。現場には男が被っていたロックバンドのキャップが残されていた。

その40分ほど後、モントレーパークの路上で一台の車を止めると乗っていた学生ツァイ・リアンユーを引きづり下ろして射殺し、車を強奪して逃走した。

その10日後の深夜未明、郊外の住宅街に住む夫婦宅を襲撃し、就寝中の夫ヴィンセント・ザザラの頭部を撃ち抜くと、妻マキシンに金品を要求。マキシンは侵入者が目を離した隙をついて防犯用ショットガンを身構えたが、弾丸が装填されていなかった。これに激怒したリチャードは彼女を射殺し、胸を切り裂き、目玉をほじくり出して持ち去った。

深夜のロス郊外で立て続けに強盗、強姦、殺人を繰り返す残忍な犯行に対し、メディアは“Valley Intruder(谷の侵入者)”と呼んで報道した。

 

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その後も、12歳の子どもをクローゼットに閉じ込めて母親をレイプする、高齢姉妹に瀕死の重傷を負わせながら女性の太腿や壁に口紅で「逆五芒星(悪魔のシンボル)」を描く、マチェーテ中南米で用いられる山刀・鉈)で喉を掻き切る、襲撃に用いたハンマーやバールをそのまま捨て置く、脅迫の際に悪魔への忠誠を誓わせるといった様々な手口が用いられ、多くの痕跡が現場に残された。

(後に彼の所持品として数多くのブロマイド、エロ写真が発見され、SMの加虐趣味やいわゆる“脚フェチ”だったことも知られている。)

 

猟奇性と大胆さはエスカレートし、LAの夏の夜を恐怖のどん底に陥れた。闇に紛れて家々を襲う黒づくめの殺人鬼、毛むくじゃらで虫歯まみれの悪臭を漂わせる不潔な悪魔は、新たに“ナイト・ストーカー”との異名が冠された。

 

彼の犯行はほとんどがその場の思いつきに過ぎなかった。生かすも殺すも気分次第、顔を見られても気にしなかった。当然コカインなどの影響で暴走していたこともあるだろう。

性犯罪には比較的、加害者の性向(被害対象者の人種・年齢・性別、外見的特徴、犯行手段など)が現れるものと考えられていたが、彼の標的は一貫性を欠いていた。従来のプロファイリングに当てはまらない性質だったことで、各犯行のつながりを発見するまでに大きな遅れを取った。

しかし現場に残された数々の証拠品、被害生存者の証言や周囲から得られたタレコミ、当時導入されたばかりの“指紋解析”により、前科のあったリチャード・ラミレスに容疑が絞り込まれていった。

 

■逮捕

アリゾナ州ツーソンにいる兄弟の元を訪れたリチャードは、不在と知ってやむなくLAに戻った。85年8月31日、男はエル・マトン(殺人者)と共にリカーショップに立ち寄ると、新聞に載った自分の指名手配写真を見て一貫の終わりだと悟った。潜伏を試みようとヒスパニック系住民の多く住む地域に立ち入ったが、住人たちはナイト・ストーカーを匿うことはなかった。

事件のせいで住民たちは警察や周囲から一層睨まれる生活を余儀なくされており、むしろ同じヒスパニックの面汚しとして、子どもや老人を犯した鬼畜として、犯人である彼を憎んでいた。住民らは市中で男を追い回し、横っ面に鋼棒で一撃を浴びせると、身柄を拘束してリンチに掛けた。彼らの怒りはすさまじく、冷血な犯行を繰り返して指名手配を受けた極悪非道な男は、その後駆け付けた警官に対して助けを請うたほどだった。

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 その後の彼は、悪びれる風もなく裁判やメディアを翻弄した。弁護士の選任や裁判所の地域に難癖をつけて公判を遅らせ、取材カメラを見つけると微笑みながら左手にある逆五芒星のタトゥーを掲げ「Hail Satan」と叫んでアピールした。挑発や罵倒といった悪態の限りを尽くし、神も社会も恐れぬ悪魔的言動によってグルーピー(狂信的ファン、追っかけ)を生み出した。

逮捕から3年以上経ってようやく審理が開始されるも、痴情のもつれから陪審員の一人フィリス・イヴォンヌ・シングルダリーが愛人に殺害されるなどトラブルが相次ぎ、「リチャードのために悪魔が裁判を妨害している」といった声すら聞かれた。

89年9月20日、13人の殺害、5人の殺人未遂、11人の性的暴行、14件の強盗による有罪判決を受け、延べ12回分の死刑と59年の懲役刑が下された。

 

死刑判決後、リチャードは記者団に対し「Hey, Big deal. Death always went with the territory. See you in Disneyland.(いやー、大したもんだ。人に死はつきもの。ディズニーランド(「刑務所」のスラング)でお会いしましょう!」 と述べた。

 

2009年、DNA鑑定の結果、それまで未解決となっていた9歳の少女メイ・レオンへの強姦殺人にも関与していたことが判明。グルーピーの一人だったドリーン・リオイは男の無実を信じて85年から75通もの手紙のやりとりの末、96年に獄中結婚していたが、少女に対する罪が明らかになるとパートナーに別れを告げた。

リチャードは獄中での多くの時間を再審請求に費やしたが、2006年に州最高裁はそれまでの死刑判決を支持、米最高裁は再審請求の最終棄却を決定し、ガス室送りを待つ日々を送った。2013年6月7日、男はB細胞リンパ腫(白血球のガン)による合併症によって、53歳で生涯を閉じた。彼の死後、遺体の引取手はしばらく現れなかった。

 

 

*****

・参考

US serial killer Richard Ramirez dies in hospital | US crime | The Guardian

戦争の闇を背負った子供たち アメリカで連続殺人鬼が多い理由 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

エリサ・ラム事件について

 2013年に起きたエリサ・ラム(藍可兒)の怪死事件について。

もしかするとその若いカナダ人女性の死因や経緯には本来“事件”と呼ぶべき要素は含まれていなかったかもしれない。しかし、今世紀、世界中で最も繰り返し検索され、言及され、検証され続けているその現象を、筆者はひとつの事件と捉えている。

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ロサンゼルスは歴史的に見ると温暖な気候を生かした農産・牧畜が中心の地域だった。19世紀半ばにメキシコから分離してアメリカ領になると、油田開発などにより急速な工業化・都市化が進んだ。1900年におよそ10万人だった人口は、20年代には100万人近くにまで急成長した。それまで東海岸中心だった映画界の変革によって映画の街ハリウッドが形成されたのもこの時期に当たる。

1924年、セシルホテルは主にビジネス旅行者や中産階級向けを見込んで700室を備える大型ホテルとして開業された。しかし直後の大恐慌の影響と長引く不況、LAハイウェイの開通、ダウンタウンの衰退などによって経営不振に陥り、ダウングレードを余儀なくされる。(※2011年以降、Hotel CecilはThe Stay on Mainに改称されたが、本稿では便宜上、よく知られている「セシルホテル」の呼称で扱う)

 

戦後は、スキッド・ロウ(ドヤ街)から1ブロックという立地も手伝って、麻薬使用や取引の場として、売春婦たちのプレイグラウンドとして、犯罪者たちの隠れ家として、人生に絶望し行き場をなくした人が最期に訪れる場所として使われることが多くなり、数々の悲劇を生んだ悪名高いホテルとして知られることとなる。

所有者が変わり、内部はリニューアルされた。2000年代後半はLAダウンタウン再開発の機運にともなって、外国人旅行者やユース向けの低価格ホステル路線へと軸足を移し、新たな歴史を歩み始めたかに思えた。

 

■失踪

2013年2月初旬、ロサンゼルスのダウンタウンでカナダ・ブリティッシュコロンビア州バーナビー在住の大学生エリサ・ラムさん(21)が行方不明になった。

彼女はブリティッシュコロンビア大学に通っていたが1月後半から長期の休みをつくって(授業を取らず)アメリカ西海岸をめぐる一人旅の最中で、 1月27日からセシルホテルに宿泊していた。

そもそも両親は娘の一人旅に乗り気ではなかったため、ラムさんは毎日カナダの親許へ安否確認の電話を入れていたが、その様子は明るかったという。2月1日から急に連絡が途絶えたことで親は心配となり、LAPD(ロス市警)へ捜索を依頼して、自らもLAへ向かった。ホテル側でも31日とされていたチェックアウトの予定がいつまでも更新されないことを不審に思って確認したが、彼女からの応答はなかった。

 

1月31日の午後、彼女は近くの本屋ラストブックストアで、土産に本やレコードを購入。「旅行の途中なので荷物が重くなる」といった話をしており、書店員ケイティさんは「とても社交的で活発、とてもフレンドリーでした」と彼女の印象を記憶していた。

しかしその晩、ホテルのロビーに一人でいるところを目撃されたのを最後に、彼女は行方をくらませていた。出入り口のカメラにも外出する様子は映っていなかった。つまりホテル内で忽然と姿を消してしまったのである。

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ホテルは共同部屋を含めておよそ600室あり、多数の利用客もいたため、即座に全室を確認することはままならなかった(殺人事件と断定されていないため強制捜査はできなかった)。警察犬を動員して可能な範囲で捜索を行ったが、追跡は失敗し、行き先は分からなかった。

5階にあった彼女の部屋は雑然としていたが、何者かに荒らされた形跡は確認されなかった。遺留品は、衣類やコンピューター、財布、処方薬、土産のほか、次の行き先へのバスのチケットも発見されており、自発的な失踪とは考えづらかった。

 

2月6日、LAPD強盗殺人課は「事件の可能性がある」として彼女の写真とプロフィールを公開し、翌日、記者会見を開いて市民からの情報を募った。身長約163センチ、体重52キロ、黒髪に茶色い瞳、英語と広東語に堪能な中国系カナダ人、と説明された(ご両親は香港からの移民だった)。

しかし、高校生以上の失踪者ともなると、世間は「自発的な家出」と見なす傾向が強い。「21歳のカナダ人女性が失踪」というニュースは、年間3000人以上の行方不明者が出る大都市ロサンゼルスでは注目を集めることはなく、有力な情報は得られなかった。

 

■最後の目撃者

失踪から2週間後の2月13日、失踪直前にエレベーター内の監視カメラに収められた映像が公開されたことにより、彼女は世界的な注目を集めることとなる。撮影は1月31日深夜0時過ぎとされる。

荒い画質によって時間表記がグリッチ上に潰れており、早送りやスロー再生、ジャンプカット(抜き取り)などの加工・編集を疑う向きが囁かれている。だがLAPDは動画について説明的なコメントを一切出していない。 尚、当時、ホテルのマネージャーを務めていたエイミー・プライスさんは、Netflixの事件ドキュメンタリー番組『事件現場から:セシルホテル失踪事件』(2021)に登場し、画像は編集されたものではないことを断言している。

赤いパーカーを着たラムさんは、エレベーター内に入ったかと思うと、外の様子をこわごわと窺ったり、隅に身を隠すようなそぶりを見せる。それはまるで誰かに追いかけられている様子を思わせる。

しかし全ての階のボタンを押したかと思うとエレベーターを降り、手をひらひらさせて“誰か”に身振り手振りをしながら話し掛けているかのような行動をとる。しかし相手の姿は映ることなく、結局、彼女はエレベーターで移動することなくフレームから去ってしまう。

(エレベーターのボタンに顔を接近させている様子は、人によって奇妙な動作に見えるかもしれない。これは、普段は眼鏡を必要としていたが、このとき裸眼だったためだと考えられている)

扉がなかなか閉まらない理由としては複数階のボタンとともに「HOLD(開けたまま)」ボタンを押してしまったことが指摘されており、一度HOLDしてから閉まるまで114秒かかったとする検証もある)

 

本人を貶すつもりはないが、公表された映像は見る者を不安にさせた。その様子は、夢遊病者のように脈絡がなく、精神錯乱者や薬物乱用者が幻覚を相手にしているようにも見え、あるいは“不可視な存在”に操られていたとする超自然的な憶測さえ呼んだ。多くの人の脳裏には、彼女の不可解な行動が一種の“悪魔憑き”のようなイメージと重なったのではないだろうか。

 

■見えない犯人

初期には、彼女がSNS上で「どこかいい場所を教えて」などと書き込みをしていたことから、ネット上で知り合った人物の存在を疑う者もいた。映像から見切れた位置にだれかパートナー(犯人)が居て、鬼ごっこやかくれんぼのようにふざけ合っていたのではないか、とする仮説もあった。

また彼女は旅の途中で携帯電話を紛失したことをブログに綴っていた。このことから旅慣れない彼女を狙った人物が電話を盗んでトラッキングし、ストーキングしていたのではないかとの推測もなされた。

また周辺地域の治安は悪く麻薬常用者も多い。人身売買や強姦を目論む犯人と知り合って、違法ドラッグを盛られて逃げ出したため奇妙な行動になったのではないかとする意見も見られた。とあるボディ・ランゲージの専門家は、そのジェスチャーから意味を導き出すことができず、パーティー・ドラッグやレイプ・ドラッグが使用された可能性を指摘した。

 

誘拐されたにせよ、ホテルであれば大型のトランクを持ち運んでも何ら疑われることはない。彼女を見つける手がかりさえ出てこない中、旅先で若い女性が一人でいればどんな事件に巻き込まれていても不思議はないように思えた。

北米でのオカルト的熱狂はすぐに中国の動画サイトに飛び火し、リリース10日間で300万再生、コメント数は4万件を超えた(多くの複製動画を生むとともに、その後1000万再生を越えた)。

 

■ したいことをする

ラムさんはいくつかのSNSやブログに取り組んでおり、2021年4月現在も閲覧可能な状態で残されている。それらは彼女のキャラクターを知る上で手掛かりになるが、穿った見方をすれば、ドラマ化や映画化の契約要件には「web上に彼女が生きていた“痕跡”を保存すること」も含まれていたのかもしれない。

慰霊の意味も込めて、生前の彼女について少しだけ触れておこう。

2010年からBlogspot上で『Ether field』というブログを開始。2011年3月から、tumbler上の『nouvelle / nouveau』(どちらも仏語で「新しい」を意味する形容詞。男性形をヌーヴェル、女性形をヌーヴォーと表す)というショートブログを開設。同時並行で続けていたが、2012年以降は主に後者をメインに投稿していた。

どちらもファッション誌のスナップやアートフォトを転載する記事が多い一方で、“自撮り”やライフフォトを掲載することはなかった。今日的なファッション・美容・ライフスタイル関連のインフルエンサーのように高度にデザイン化・専門化・商業化された統一感のあるものではなく、ときにフェミニズムや政治、ウェブ文化に関する持論などをとりとめもなく記すこともある、学生らしいブログである。

 

tumblerには『ファイト・クラブ』原作者としても知られる小説家チャック・パラニュークの「You're always haunted by the idea you're waisting your life(あなたは“自分は人生の無駄遣いをしているのではないか”という考えにいつも追われている)」という一文が掲げられている。閲覧者に向けられた諧謔性というよりかは、ブログ主自身に対する自省・自戒として掲げられたものと解釈できる。

 

公開捜査の段階で、彼女の両親は娘が精神疾患を抱えていることを明かすことを良しとしなかったが、ブログの自己紹介欄では「双極性鬱病など多くの問題を抱えている」とオープンにしていた。「人見知りではあるが、他人との会話を楽しんでいるし、むしろ必要なことだ」と記しており、ネット上での匿名のやりとりを期待し、「読者が私のことをどう思っているか知りたい」としてリクエストも行っていた。

投稿記事は、以前よりも短文が目立つようになり、とりとめのないインスピレーション、著名人の至言などが連日投稿されていた。「昼夜逆転」「ジャンクフードに運動不足」「仕事しんどい」と病苦で思うようにいかない生活や自分を卑下するような内容も見られた。

2012年4月のBlogspotでは、通学がままならず学業に失敗したことをひどく後悔する投稿もあった(本人には向学心があり、大学院への進学も考えていた)。

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筆者が彼女の文章を読んで感じたのは、自己肯定感の低さ(あるいは自己啓発意識の高さ)、米国に対するあこがれ(あるいはカナダに対する物足りなさ)、若者が誰しも抱く承認欲求(あるいは現状の評価に対する不満足や劣等感)、書く行為が好きだということ・・・彼女の内省的な感覚は、ブログやSNSをする人間にとってはごく当たり前のもので、精神障害による病的な影響や事件そのものとはあまり関係がないように思える。

ただ生前は記事にリアクションを寄せる読者はあまり多くはなかった(皮肉なことに彼女の死後、脚光を浴びることとなった)。これは仲間や誰かのために書かれた文章というより、彼女が自分自身のために続けていた習慣、一種の精神安定剤だったのだと思う。

 

2013年に入ると「西海岸旅行」についての投稿が散見されるようになる。

1月18日~バンクーバー、22日~サンディエゴ、26日~ロサンゼルス、その後、サンタバーバラサンタクルスサンノゼ、サンフランシスコを周る長期計画だった。

旅の冒頭から空港で迷子になって乗り継ぎに失敗し、(映画『ターミナル』の「トム・ハンクスのように」)毛布を借りて二晩を明かしたり、友人から借りていたブラックベリー(携帯電話)を紛失したりと、トラブルに見舞われながらも旅の様子をfacebookやtumblerで発信していた。交通手段は電車とバスに限られていたが、動物園やテレビの収録見学、徒歩での散策と、いろんな場所へ精力的に足を運んでいる。

今日はがっつり寝て、長めの熱いシャワー、3$の馬鹿げた夕飯を胃袋に流し込んだ。なんと生産的で楽しいことか。

サンディエゴに着いてからは、日常生活から完全に離れ、ガチでなんにもしていない。

私は自分のしたいことをする

結局、私は自宅の居心地のよさが好きで、時々、完全に暴走しちゃうところがあるんだよね。一目惚れした男の子にいきなり電話しちゃったりだとか・・・

ホステルでの人間観察が好き。 

がっつり休んで疲れも取れたし、明日からもっと外に出て冒険せにゃ・・・

1.水族館

2.動物園

3.博物館(無料なの‼‼)

4. コロナドかポイント・ロマでホエールウォッチング?

(意訳。2013年1月25日・サンディエゴ、『nouvelle / nouveau』)

1月14日の日記には、「気になる人がいるんだけどー」と「左手首にタトゥーを入れたコントラバス奏者の男の子」に関する記述が現れ、18・19日には「2回会った」だけで「イイ感じかなと思って」告ったけど、相手にその気はなく「拒否られた」と報告されている。

やりとりの詳細までは記されていないが、初出時の舞い上がった書きぶりや「玉砕」後の様子からして、「恋に恋してる」暴走モードの自覚はあった、それなりにダメージを受けてはいるが、自死を決断するような深刻な失恋ではなかったと想像される。

一種の躁状態だったと見ることも可能だが、彼女は自身の劣等感も手伝って、年齢の割には恋愛に奥手だったのかな、と感じた。

尚、彼がブログに登場するのは旅行間際なので、元々は“傷心旅行”にする意図はなかったと思われる。

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[by Jan Vašek via Pixabay]

旅行については、直前にも「オススメあったら教えてくれると嬉しい」とリクエストしていることから、厳密な予定や明確な目的があった訳ではなく、気の向くままに、半ばノープランで飛び込んだ感がある。だが引きこもりがちで「運動が必要だ」と自覚していた点から見ても、漠然と西海岸の晴れやかな気候を求めていたのかもしれない。

己の不甲斐なさやうまくいかない学生生活を変えようと、心機一転するために旅行を思いついたような印象を受けた。自分に対するフラストレーションを発散するバックパッカー、古風な言い方をすれば“自分探しの旅”とカテゴライズしてもよいと思う。

 

1月29日、LAに到着した彼女は、1920年代に建てられた宿泊施設に興奮し、愛読書だった『グレート・ギャツビー』の時代に思いを馳せて喜んだ。それが彼女自身による最後の投稿となった。

 

■水

その後、彼女の滞在先だったセシルホテルでは水道に関する苦情(濁っている、味や匂いがおかしい、シャワーの水圧低下等)が複数寄せられるようになった。

2013年2月19日の朝、原因調査に訪れたメンテナンス作業員が屋上に4つある貯水槽(1000ガロンの重力給水式)を確認したところ、その中のひとつから女性の遺体が発見される。

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21日、遺体がラムさんのものであることが確認されたが、警察は“事件”と“非常に奇妙な事故”の両面から捜査を続けた。遺体の状況には多くの疑問が生じ、より一層の物議を醸した。

①貯水タンクの上部ハッチ(重さ約9キロ)は開いていた(※)。

②タンク内の4分の3は水で満たされていた(遺体はタンクに浮かんでいた)。

③彼女は全裸姿だった(衣類等はタンク内にあり、カメラ映像で身に付けていたものと一致。赤いパーカー、黒い短パン、Tシャツ、サンダル、黒の下着、時計とカードキーが見つかっている)

④タンクは直径6フィート・高さ10フィート(約1.8メートル/3メートル)。脚立などは発見されなかった。

⑤タンク上部のハッチは約54センチ四方で狭く、捜索隊員は中に入ることができなかった(電動工具で底に切れ込みを入れて遺体を回収した)

⑥屋上に通じる扉は施錠され、警報アラーム装置も作動していたため、ゲストが意図せず(誤って)侵入することはできなかった。

⑦失踪中に警察犬を伴なって屋上でも捜索活動は行われていたが、追跡反応を示さず、タンク内の確認は行わなかった。

死因は特定されなかった

(警察の公式発表によれば、強姦による外傷、銃創や刺し傷などの他殺を示す証拠はなく、死因は不明だった)

(検死解剖では、肛門開口部周辺に血液が溜まっている指摘があった。担当した法医学者デビッド・クラッツォウ氏は、肛門部の変質は腐敗性によるものと説明しており、検体の分解によって「打撲痕などの外傷を確認することは困難」だと見解を示した。つまり外傷を受けた可能性を明確に否定するものではなく、腐敗の進行により外傷を確認できる状態ではなかったと解釈できる)

(薬物検査を担当したジェイソン・トヴァール博士は、体内から彼女が所持していた4種の処方薬成分が検出されたが、既存の毒物や違法薬物、アルコール類などは検出されていないと発表。しかし「Interestingly(興味深いことに)」処方薬の成分は、彼女の服用すべき規定量に対して極めて少なかった)

※①の上部ハッチの状態について、「閉じられていた」「施錠されていた」とする誤報が多く、余計に人々を混乱させ“怪死”の憶測を広げる結果につながった。

 

2013年9月、エリサの両親デビッドさんとインナさんは、セシルホテルを相手取り、施設の安全管理の責任を問う訴訟を起こした。出廷したメンテナンス作業員のサンティアゴ・ロペスさんは「ハッチが開いていて中を見ると、水槽の上部から約12インチのところにアジア人の女性が顔を上にして横たわっているのを見た」と当時の状況を証言している。

彼は水に関する苦情のあった各部屋を確認したのち、扉の警報ロックを解除して屋上階へ上がった。タンクは大型なので、上部ハッチにアクセスするためにハシゴを使用した。4つあるタンクのうち3つは蓋を閉じて施錠された状態で、1つだけハッチが開いていた。タンク内を覗いてみると、遺体と赤いパーカーが浮かんでいるのが見えたという。ロペスさんは本人との面識はなかったが、すでに警察に行方不明の捜査協力を行っていたため彼女が思い当たり、無線ですぐに通報を要請した。

尚、裁判ではホテル側の過失は認められなかった。

 

 

2013年6月22日、当局は、ラムさんの持病である双極性障害うつ病を主な原因とした「偶発的な事故」による溺死と判断し、捜査の終を宣言した。

彼女は当初、5階の別室で共同宿泊を行っていたが、ルームメイトのベッドに意味不明なメモを置くなどして苦情を受け、ホテル側から個室を割り当てられて移動していた。つまりすでにホテル到着の時点で、彼女には不可解な兆候が現れていたと受け取ることができる。死亡当時の彼女は処方薬が適切に使用されなかったことにより、症状が悪化していたとする見方である。

尚、彼女がどのように貯水タンクに入ったかは解明されていない

 

■妄想 

筆者も「病理的な妄想」が原因で起こった事故の可能性が極めて高いと考えている。憶測を述べるならば、彼女は自らの意思で休薬・断薬を試みていたのではないかという気がしてならない。

精神疾患の症状として、ものごとに不合理な自己解釈を当てはめてしまうこと、いわゆる強い「思い込み」がある。彼女の中で、恋も勉強も頑張りたいのに頑張れない、自分の病気が良くならないのは、「薬」の副作用なのではないかという考えに至ったとしても不思議はない(精神病と診断されていなくとも人はこうした発想に陥りやすい)。

あるいは旅による気分の高揚が、「薬なしでも大丈夫かもしれない」と彼女に思わせてしまったのかもしれない。彼女は新たな自分に生まれ変わるために、旅の途中で薬からの脱却を決意したのではないか。

たとえば共同部屋であれば、「あの人が自分の悪口を言う」「物を盗った」というような症状となって現れる(現れていた)かもしれない。だが個室に移された彼女は狭い部屋の中で一人ぼっちに浸りながら、「見えない敵」を生み出してしまった

人によっては休薬そのものを自殺行為と呼ぶかもしれない。だが彼女は「見えない敵」によって殺されたのである。

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“事故”の様子はたとえば次のように想起される。

悪質な妄想に耐えきれなくなった彼女は衝動的に部屋を飛び出す。だがホテル内の廊下は両側が部屋で埋め尽くされており、非常に閉塞感が強い。動画などを見れば分かるが、逃げ場のない空間であり、ますます「追いかけられる」心理が働く。

ようやく行き着いたエレベーター内での「隠れる」「見回す」動作は、非実在ストーカーの「存在」を示している。しかしボタンを押してもエレベーターは移動しない(「HOLD」ボタンを押したことによる)。彼女は「動かない」と錯覚したのか、エレベーターでの逃走を諦めて廊下に戻る。このとき不可解なやり取りによって、一時的に逃げ隠れる必要がなくなったのかもしれない。

しかし廊下で再び恐怖に駆られた彼女はいつしかフロアの隅へと追いやられていった。

追い詰められた彼女は窓の外に見えた非常階段へと飛び移った。しかし彼女は「上」に向かって逃げてしまう。

非常階段の最上部には屋上につながるハシゴが存在する(ある中国人動画クリエイターは、窓~非常階段~ハシゴを使ったルートはあまりに“脱出”が容易なので驚いたと語っている)。妄想はいつまでも彼女から離れようとはせず、屋上でも彼女を追い詰める。彼女は身を隠すため、配管やタンクの壁を伝ってタンクの上によじ登る(高校時代に陸上部だったため運動能力には長けていたものと考えられる)。

自ら逃げ場をなくしていった彼女は、タンク内に飛び込む。しかし着衣の重みで沈んでしまうため、慌てて着ていたものを脱ぎ捨てる。溺れなかったとしてもタンク内は大量の水に満たされており、閉塞空間である。屋外であれば周囲の灯もあるが、タンク内となれば完全な闇に包まれ、心理的パニックに陥っても不思議はない。

明晰な思考や判断力は奪われ、低体温で体力もみるみるうちに失われていく。たとえ開口部に手が届いたとしても、そこには彼女に襲い掛かろうとする“魔の手”が立ちふさがっていた。彼女は自らの妄想と意思によって、タンクの中に「閉じ込められていた」と考えられる。

 

■偶然 

現場が事件フリークにとって悪名高い“セシル”であったこと以外にも奇妙な偶然が重なった。

ひとつは、ウォルター・サレス監督の映画『ダーク・ウォーター』(2005)との類似性。

Jホラー映画の金字塔『リング』のコンビとして知られる鈴木光司原作と中田秀夫監督のタッグ作品『仄暗い水の底から』のハリウッド・リメイク版である。小説は“水”にまつわる7つの恐怖オムニバス集で、映画はその中の『浮遊する水』という短編をベースとしている。

ネタバレは自重するが、シングルマザーと幼い娘が引っ越してきた古びたマンションで様々な奇怪な現象に巻き込まれる内容で、「濁った水道水」、「貯水タンク事故」への疑惑、「エレベーター」でのパニックなど、事件と符合する描写は確かに多い。鈴木氏はかつての家事・育児経験、あるいは趣味のヨット航海など実体験の中から着想を得たと語っている。

 

もうひとつは、事件と同時期に「結核」が流行していたこと。

米国疾病対策センターは「ここ10年で最大の発生」としてスキッド・ロウでの結核の流行を食い止める措置を講じていた。その感染者特定に使用される標準検査キットのネーミングが“lam-ERISA”と呼ばれるものだった(結核に含まれるリポアラビノマンノンに反応して発色する酵素結合免疫吸着測定法の呼称で、人名を表すものではない)。

心ないオカルティストたちは喜々として事件に関連付けようとし、陰謀論のモチーフのひとつとなった。

 

また不可解な出来事として、彼女が行方不明となった後、2月7・13・16日にもtumblerの更新が計5回行われている。いわゆる“リブログ”と呼ばれる他人の投稿を再投稿する機能(Twitterでいうところのリツイート)で、生前の彼女も頻繁に行っていた。

これを彼女の霊的現象として捉える向きもある。だが彼女自身が何かしらの自動更新機能(人気投稿やお気に入りアカウントの投稿がリブログされるなど)を予めセットしていたか、何者かによってアカウントをハッキングされた、と見る方が妥当に思う。

あるいはレアケースではあるが「携帯電話を拾ったか盗んだかした人物」がアクセスしたと考える方がまだ現実的かと思われる。

 

■周辺事件と人種問題について

最後に異なる2つの事件の話を付け加えておきたい。

ひとつは、エリサの失踪とときを同じくして発生し、LAPDに不当解雇されたと訴えたクリストファー・ジョーダン・ドーナー事件である。

 

www.abc.net.au

正直さと誠実さを取り柄としていたドーナーは10代の頃から警官を志すようになり、南ユタ大学卒業後の2002年に米海軍予備役に入隊、その後、警察学校を経て07年にLAPDに就職した。

指導役の捜査官テレサエヴァンスとペアを組み、認知症統合失調症を抱えた市民が起こしたある騒動への対応を任された。その後、エヴァンスは厳しい業績評価をドーナーに下し、一方のドーナーは騒動を収めたエヴァンスには「当該市民への不必要な暴行があった」と内部告発した。

当該市民は「騒ぎの中で暴行を受けたこと」を家族に話していたものの、懲戒審査の公聴会では「質疑応答が困難」とみなされ、証言として認められなかった。結局、ドーナーの告発は虚偽と判断され、08年に解雇。激昂したドーナーは州控訴裁にLAPDを訴えるも、彼には「不当解雇」を立証する術がなく、11年10月、「ドーナーの主張を信用できない」とするLAPD側の主張が認められることとなる。

 

13年2月1日、ドーナーはジャーナリストに向けて自らの主張をまとめたDVD等を送りつけると、3日、カルフォルニア州アーヴァインで20代のカップルを射殺。一人はドーナーを非難した元上官の娘だった。4日、オンライン上でTo:Americaとするマニフェストを公開。

“will bring unconventional and asymmetrical warfare to those in LAPD uniform(ロス市警に対して従来とは異なる一方的な交戦を行う)” と復讐を宣言し、“Unfortunately, this is a necessary evil that I do not enjoy but must partake and complete for substantial change to occur within the LAPD and reclaim my name.(私も楽しんでいるつもりはない。残念ながら、これは私自身の名誉挽回、そしてLAPDの根本的な内部変革のための“必要悪”なのだ) ”と殺害の動機を公表した。

以降、名指しされた元上官ら数十名に対しボディガードが配備され、カルフォルニア州全域で厳重警戒態勢が敷かれた。

 

彼はロドニー・キング事件(1991。スピード違反をきっかけとしたカーチェイス後、警官隊が非武装のキングに対して50数回もの殴打を繰り返した事件。個人撮影によるビデオがメディアで紹介されると、アフリカ系アメリカ人に対する差別だとして翌年のロサンゼルス暴動に発展した)やランパート・スキャンダル(90年代後半、ランパートブロック担当の警官数十名が、証拠の捏造や偽証での不当逮捕、押収した麻薬の盗難・転売、銀行強盗など犯罪行為とそれらの隠蔽に関わったことが発覚した米国最大の警察腐敗事件。犯行の多くをギャングの仕業だとでっち上げていた)を引き合いに出して、警察組織の構造や権力の腐敗は変わっていないと訴えた。

マニフェストは告発文の体裁を取ったが、後半はほとんど理路整然としない内容であった。メディアはこれを「解雇の逆恨み」と表現した。しかし軍隊や警察で経験を積んだ彼の危険性は明らかだった(自身の射撃スキルを示すため、弾丸が貫通した2.5センチのコインと「1MOA(約91メートル)」と書いたメモがDVDに同封されていた)。

キング事件を例示していることからも、彼は不当解雇を人種差別問題だと認識していた。警察組織の面子をかけて、あるいは社会全体が警察への不満をバイラルする前に解決しなければならない極めて緊急性の高い重大事件として、LAPDは捜査に全力を挙げた。

 

エリサ事件と同時期に起きたこのドーナー事件はLAPDにとって最重要案件だったことは間違いない。警察に手抜かりや捜査漏れがあったかどうか筆者は確かめる術を持たないものの、「いつどこで何が起こるか分からない」性質上、ほかの事件捜査への心理的影響(注意力の低下)や、人員投入ができず集中捜査が行えないなどの物理的影響はあったといえるのではないか。

 

7日、警官2名が銃撃され一人が即死。数時間後、炎上したドーナーの車輛が発見されるが、本人は尚も逃走を続けたため、周辺地域で一斉捜索が開始された。10日、ドーナーをテロリスト認定し、100万ドルの報奨金を掛けて捜索を拡大。

12日、ドーナーがカージャックしたトラックが発見され、警察は追跡とともに包囲網を展開した。銃撃で警官一人を殺害ののち、山小屋に立て籠もった。警察は周辺を封鎖し、催涙ガスの使用と解体車を動員。ドーナーの降伏を求めた。やがて花火型の催涙ガス弾から小屋に発火。小屋内部での発砲によってガス爆発を起こし、小屋は大炎上した。その後、焼け跡からドーナーの遺体が発見され、銃創が確認されたことから自殺と断定された。

 

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もうひとつは、同年3月4日にLAから程近いオレンジカウンティーニューポートビーチで遺体となって発見されたティナ・ホアン事件である。ジャーナリストのマレリーズ・ファンデルメルウェ氏は、この事件とエリサ事件を関連付け、警察の捜査対応の遅れの背景に人種差別が含まれているのではないかと不信感を示している。

latimesblogs.latimes.com

ティナさんはビーチの砂に顔を埋めるようなうつ伏せ状態で発見され、当初から事件性が疑われた。検死で性的外傷は確認されなかったと発表されたものの、死因については不明とされた。現場周辺の治安はLAダウンタウンに比べれば良好だった。

彼女の居住地ベルフラワーから現場までは30マイル(約50キロ)ほど離れており、もっと近くにもビーチがあるにもかかわらずなぜこの場所に至ったのかは不明であった。

彼女は20歳のベトナムアメリカ人で、カルフォルニアネバダ、フロリダの三州で売春関連の逮捕歴があり、遺体発見の1週間前にも売春で逮捕され、3月末に出廷予定の裁判を抱えていた。

彼女を担当していた弁護士は、生後2か月の彼女の赤ん坊の安否を気遣った(詳報はないが無事を祈りたい)。OC保安局は5月になって彼女は「殺害」されたと断定したが、やはり正確な死因は公表されなかった。

 

ネット上では「近隣で起きた若い女性被害者」という共通点から早々にエリサ事件との関連を唱える者もあった。

だが捜査の遅れや不透明さに関して、アジア系人種、職業などに対する偏見や差別から捜査を怠ったとする疑いへと変化していった。

その後、近郊でセックスワーカーを狙ったシリアルキラーの逮捕はあったものの、本件はその犯行には含まれていなかった。はたしてこの事件はコールドケースとされたままである。

 

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 筆者は被差別意識に乏しいため、欧米でのアジア人差別の現状や根深さについてあまり把握できているとは言いがたい。21世紀の中国における驚異的な経済成長は、おそらく20世紀までのアジア人像とは違ったモデルを世界に印象付けている。さらに2019年後半に始まる新型コロナウイルス感染症Covid-19の世界的流行は、アジア系の人々にとって新たな人種差別やヘイトクライムの火種にされてしまった感もある。当たり前のことだが、アジア人嫌悪の状況は刻一刻と変化している。

エリサ・ラム事件は人種問題を孕むのかについては、他のヘイトクライムなどの考察を深めた上で今後の課題としていきたい。


 

最後になりましたが、エリサ・ラムさんはじめ被害に遭われたみなさんのご冥福とご家族の心の安寧をお祈りいたします。 God bless you. Good journey…

 

 

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参考

nouvelle/nouveau: Archive

lopez-declaration.pdf

Elisa-Lam-Autopsy-Report.pdf

Police arrest two men suspected in sex workers’ deaths – Orange County Register

Downtown LA’s Hotel Cecil could reopen in late 2021 - Curbed LA

Body of Woman Found on Sand in Newport Beach – NBC Los Angeles

Woman Found Dead on OC Beach Was Homicide Victim: LAist

The Elisa Lam mystery: Still no answers | Daily Maverick

ブラック・ダリア事件について

1947年、カルフォルニア州ロサンゼルスで発生し、半世紀以上を経た現在も語り継がれる戦後アメリカの象徴的な猟奇殺人、通称“ブラック・ダリア事件”について記す。

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Elizabeth Short, 1947, police bulletin LAPD

なぜマニアたちはアメリカの数ある事件の中で今もこの事件を追求するのか、という問いに対して、研究家の一人ラリー・ハルニッシュ氏は次のように答えている。

 “元祖”探偵たちのセオリーに従って、3つの理由を挙げてみましょう。

1つは、未解決であること。2に、そのニックネーム。そして3つ目は、犯罪の恐ろしい性質。いずれか1つの要素でも欠けていれば、誰も今日まで気に掛けることはなかったでしょう。

そして、もうひとつの要素を付け加えるとすれば、noir(仏語で「黒」)でしょうか。そもそもは第二次世界大戦後のロサンゼルスの出来事でしたが、今日ではノワール全体が非常に大きくなっています。それは、事件に新たな生命を吹き込んだと言えましょう。(CrimeReads.com

 

事件には一種の時代のムードが投影されることが多い。ハルニッシュ氏の言うよう、事件当時を直接知らない世代がこの事件について言及するとき、そこには“戦後の抱えた闇”に対するある種の憧憬、ロマンチズム、未知への探求心が刺激されることは否定しえない。フィクション/ノンフィクションの形式を問わず多くのクリエイターの想像力を掻き立て、創作へのインスピレーションを与えたことで、歴史的未解決事件であるとともに文化的アイコンのひとつともみなされている。

ブラック・ダリア (文春文庫)

代表的なものとしては、ジョン・グレゴリー・ダンの小説『The Confessions』(1977、未邦訳)と、本人が脚本を担当し、ウール・グロスバード監督により映画化された『告白』(1981)がある。またジェイムズ・エルロイの名声を高めた暗黒のLA4部作の一作目も本件を主題とした『ブラック・ダリア』(1987)であり、こちらも2006年にブライアン・デ・パルマ監督の手によって映画化されている。

 

■概要

1947年1月15日の10時40分頃、カルフォルニア州ロサンゼルス・レイマートパーク地区サウスノートンアベニューで、女性の変死体が発見された。

当時、周辺に中流向けの住宅はあったものの開発途上で、この通りにはまだ建物はなく空き地だった。第一発見者のベティ・ベルシンガーは幼い娘が路上にできた水溜まりで遊ぶのをたしなめながら、靴の修理を頼もうと店へ向かっていた。

「あれ、なぁに?」と、娘の無邪気な問いかけ。しかし母親は歩道脇の草むらに横たわる“不自然な人型”を見て言葉を失った。

「それは、とても真っ白で…店のマネキンが捨てられているのかと思いました」

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Norton Ave, LAPD

胴体を腰から上下に両断されて、血液が抜き取られており、太もも(後に「バラの花」のタトゥーがあった箇所と判明)や乳房の肉は薄くスライスされていた。灰色がかった瞳は見開かれ、顔の口角は両耳にかけて無惨なグラスゴー・スマイル(『バットマン』に登場する“ジョーカー”のような口裂け)に裁断され、はみ出た腸は丁寧に尻の下に敷かれていた。両肘は上方向に“くの字”型に曲げたポーズを取らされ、開かれた両脚はまっすぐに伸びていた。

 

LA警察は、発見現場に血痕が残されておらず、近くで「水で薄まった血液の入ったセメント袋」が発見されたことから、他の現場で殺害されてから袋で持ち込まれて遺棄されたものと断定。

その日は大寒波の影響で飛行機が欠便だった。LAエグザミナー紙の記者の提案により、社に設置されていたサウンドフォト(FAXの原型)を用いてFBIに指紋照合の依頼を試みた。米軍基地内での職歴と1度の逮捕歴があったため、わずか1時間ほどで被害者はエリザベス・ショート(22)であることが特定され、翌日には身元が公開された。

 

検死官は、死因を顔面裂傷による出血性ショック、頭部への殴打によるくも膜下出血によるものと断定。遺体発見時刻のおよそ10時間前となる14日深夜から15日未明にかけてを殺害時刻と推定した。

手足と首には結紮(けっさつ)痕が見られ、拘束されて虐待を受けたことを窺わせた。切断は死後に施されたもので、腰椎を切断する「半体切除」という術法と考えられた。臍(へそ)から恥骨上部にかけては108ミリの切開があった。肛門管に拡張が見られ、強姦の可能性が示唆されたものの、遺体は念入りに洗い流されたものと見られ、精液の検出はされなかった。

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Elizabeth Short [FBI Mugshot]

身長165センチ、体重52キロ、水色の瞳、茶色い巻き毛。

普段は黒のスーツ、襟なしのコート、ブラウスやカーディガン、黒革のハイヒール、ナイロンストッキング、ベージュの長手袋といった服装を身につけ、黒いハンドバッグや黒い手帳を持ち歩いていたこと、カクテルバー等のナイトスポットに頻繁に出入りしていたことなどが伝えられ、9日に車でビルトモア・ホテルを出て以降の消息が不明とされた。

 

■報道と偶像

 当時のロサンゼルスのマスコミ各社は急増する凶悪犯罪を種に過激なスクープ合戦を繰り広げていた。記者たちは警察署内で捜査員たちと懇意となり、フレッシュな特ダネにありつこうとデスクに通い詰めた。事件現場に警察より先に報道記者が到着していることさえあった。

第一報を受けた新聞社の編集者は「若い女性の全裸遺体」という犠牲者情報に、「美しい」という語句を付け加えた。女性解放よりはるか以前、新聞王ウィリアム・ハーストが健在の時代だった(cf.『市民ケーン』1941)。

 

各紙は犯罪にしばしばニックネームを付ける慣行があった。LAヘラルド紙は、近郊のドラッグストアの客が彼女のことを“ブラック・ダリア”と呼んでいたことを取材で聞きつけ、その呼称を採用した。これは彼女が印象的な黒髪の持ち主でしばしば黒い服装を身につけていたこと、あるいはジョージ・マーシャル監督によるフィルム・ノワールの犯罪映画『The Blue Dahlia;青い戦慄』(1946)に準えたものと考えられている。

フィルム・ノワールは1940年代から50年代にかけてハリウッドで量産された犯罪映画のジャンル。コントラストの強いシャープなモノクロ画面、スタイリッシュな構図が映像的特徴とされ、大都市の下層市民やギャング、精神を病んだ帰還兵、詐欺を目論む戦争未亡人など陰鬱な事情を抱えたキャラクターが登場し、ハードボイルドでありながら閉塞的な時代状況を反映した作風が多く含まれる。)

ある者は彼女が売春婦だったとほのめかし、ある者は戦争未亡人だと憐み、ある者は女詐欺師が報復を受けたんだろうと嘲り、ある者は野心的な若手俳優が“ハリウッド”の毒牙に掛かったと仮説を試みた。

 

LAエグザミナー紙は、身元が判明するとすぐにショートの実家に連絡を取り、「美人コンテストに優勝した」と偽って母親から多くの個人情報を引き出した。その後も情報協力の便宜を図る(資金提供)などしてニュースを大々的に報じた。父親は「あの娘は悪い男に唆されたんだ」と嘆き、警察への不満を語った。

ライバル紙・LAタイムズでも“色情狂による惨殺”と煽り立て、その後も各紙はスキャンダラスな報道を続ける。彼女が死の間際に性虐待を受けたとは当局から公表されていない。だが少なくともメディアと大衆による“セカンドレイプ”の犠牲者であった。

記者たちの自由闊達すぎる“捜査”により、読者は2か月以上に渡ってセンセーションを享受した。その一方で、初期の証拠は踏みにじられ、情報の捏造が相次ぎ、ときにはスクープを独占するために関係者への口止め工作さえ為された。

目撃者を騙る不届き者が量産されたことはいうまでもなく、発見から数か月で数十人の虚偽の自白者を生んだ。男性だけでなく「ショートが私の男を盗んだから切り倒した」と語る婦人陸軍部隊の元メンバー等、女性も数人含まれていた。その後も身内の関与を告発した者を含めれば延べ500人以上に上り、警察の捜査に甚大な支障をきたした。

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1月21日、ショートを殺害したと称する人物からエグザミナー紙編集部ジェームズ・リチャードソンの許へ電話が入る。その人物は報道記事について讃えた後、自分は最終的に自首するつもりであること、警察の追求が及ぶ場合はそうしない可能性もあること、ショートの形見を郵送することを告げた。犯行声明ともとれる内容だが、それだけで済んでいれば愉快犯による悪質ないたずらとも考えられた。

だが24日、アメリカ郵便公社で「ロサンゼルス・エグザミナー紙およびロス新聞各社」宛の不審な郵送物が発見される。封書前面には「Here is Dahlia’s belongings, letter to follow(ダリアの品物在中、追って手紙を送る)」と新聞の切り抜き文字で記されていた。中にはショートの出生証明書、名刺、写真、名前の書かれた紙片、75人分の記載がある「住所録」が入っていた。封筒はガソリンで洗浄されており、完全な指紋は採取できなかった。

同日、遺体発見現場から3.2キロ地点でショートのハンドバッグとハイヒールがゴミ箱の上に置かれた状態で発見された。こちらもガソリンで指紋を拭き消されていた。

この日をピークとして、その後、真犯人を示す事件の大きな展開はほとんどなかった。しかし記者たちは情報の余白を埋めるために、心理学者や精神科医、ミステリー作家らによって加害者と被害者に関する数多の偶像を「描かせた」。

 

■その生涯

ショートは1924年に(五人姉妹の)三女として生まれ、マサチューセッツ州ボストン郊外のメドフォードで育った。父親はミニゴルフ場の造成で生計を立てていたが、29年の世界恐慌で損害を被って破産、翌年にチャールズタウン橋に車を乗り捨てたまま失踪した。自殺として処理され、母親は簿記の仕事をしながらアパート暮らしで娘たちを養った。

ショートは白い肌と美しい黒髪の持ち主で、周囲からは当時のスター女優ディアナ・タービンに喩えられ、羨望の的だった。しかし気管支炎や喘息に悩まされ、15歳で肺の手術を要し、医師からは温暖な地域で過ごすように勧められた。冬はフロリダに住む知人家族の世話になりながらウェイトレスとして働き、夏は実家で家族と過ごす生活を送ることとなり、高校は中退した。

(メドフォード時代のショートは“可愛らしい少女”だった。そのため同郷の人物には「私はベス(エリザベスの愛称)を“ブラック・ダリア”と同一視することができません」とまで言う者もあった。)

 

42年、生死も不明だった父親から謝罪の手紙が家に届き、カルフォルニアの造船所に勤めていることが発覚。18歳のショートは父親を頼ってサンフランシスコ・ヴァレーホへと移住する(生き別れた当時ショートはまだ6歳だった)。

43年1月、父親のもとを去り、サンタバーバラの米軍施設にある小売店で職を得ると、友人や陸軍将校らと生活を共にした。9月23日、バーでの未成年飲酒により検挙され、数日の保護観察を経て実家に送還されるが、すぐにフロリダへ舞い戻った(当時は成人年齢が21歳だった)。担当警官は「きちんとした身なりで、バーフライ(バーを渡り歩いて酒を乞うアル中)とは程遠いものだった」「左足のバラのタトゥーをわざと見せるように座っていた」と当時の印象を語っている。

 

基地周辺にはダンスクラブが作られ、ラジオ収録、ミュージカル、ボクシングの試合などが慰問のために度々催された。戦時中に娯楽が享受できる数少ないスポットだった。

“戦争を知らない世代”が留意しなければならないのは、俳優やアスリート、社交場のホステスたちは、金や自分への見返りのためではなく、将校たちのために率先してもてなしたという点だ。

もちろん地位のある将校と縁故になりたい下心や、結婚したい願望もあっただろうが、自分たちの代わりに命を賭けて国を守る英雄たちを信頼し、心からもてなすことこそが非軍人にできる社会奉仕であった。多くの若い女性は、ドレスを身にまとい将校たちを喜ばせるダンサーやホステスの務めに対して、(一種の愛国心とともに)憧れを抱いていたのである。

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ショートは、事故で療養中だった航空部隊将校のマシュー・マイケル・ゴードン・ジュニア少佐と親密な交際に至り、彼からのプロポーズを受け入れたと周囲に語っていた。しかし終戦目前の45年8月10日、出征先の中国・ビルマ・インド戦線で墜落死してしまう。終戦後、ショートは傷心を癒すため、しばしメドフォードの実家で過ごした。

46年7月、航空部隊ジョセフ・ゴードン・フィックリング中尉を頼ってLAに転居。ハリウッド大通りにあるフロレンティン・ガーデンズ・ナイトクラブでウェイトレス(ダンサー見習い?)として職を得ると、店の裏の寄宿舎に身を寄せた。

 

余談ではあるが、フロレンティン・ガーデンズは1938年開業の最大500人規模のイタリア料理店で、バンドの生演奏やダンス・パフォーマンスを提供するステージを売り物にしていた。戦時下に休暇中の軍人たちが憩う社交場となった。42年、後にマリリン・モンローの名で時代の寵児となる16歳のノーマ・ジーン・ベイカーが披露宴を開催した場所としても知られている。

ショートに関する“噂”の一部には、無名だったベイカーがヌードモデルをして糊口をしのいだことに代表される当時の無名女優たちの歴史が多分に織り込まれている。

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Florentine Gardens [1939, The L.A.Times]

戦後も帰還兵や水兵たちはハリウッドに癒しを求めて集まった。ある者は“将来の銀幕デビュー”を夢見て、またある者は恋人や一夜のパートナーを求めて、夜の街へ繰り出したことだろう。そんな都会の片隅で、エリザベス・ショートもまた夜な夜なバーを渡り歩く生活を送っていた。

 事件後の48年に所有者が変わり、コットンクラブに改称。水着姿の女性ダンサーたちがステージパフォーマンスを披露するクラブへと業態を変えた。

 

■被疑者

警察は、顔に刻まれた“グラスゴー・スマイル”からショートに対する個人的な怨恨を読み取った。さらに“切断”には解剖の医学的知識が用いられた可能性が高いとされ、あるいは死後に「持ち運び」を容易にするために解体したとの見当をつけていた。

容疑者や仮説についていくつか触れておきたい。

■老外科医の「秘密」

冒頭に挙げたハルニッシュ氏は90年代半ばに調査を始めた遅咲きのマニアだった。そのため既に“ブラック・ダリア”は様々な“神話”に塗れ、真実を見えづらいものにしていた。

彼は新聞の校閲編集者としてのスキルを用いて、過去の記事から“確定的事実”のみを抽出する消去法的アプローチによって、伝説に埋もれた真の“エリザベス・ショート”を掘り起こそうと試みた。

FBIの伝説的プロファイラーとされるジョン・ダグラス氏に事件への見解を請うたときのこと、彼は「自分の近所のことをどれくらい知っていますか」とハルニッシュに尋ねた。そのとき意外にも自分の行動範囲についてさえあまり多くを知らなかったことを再認識させられた。

またダグラスは、車で1時間も走れば海や山へ行ける距離であるにもかかわらず、「近くに住宅がある空き地」を投棄(展示)場所としたことから、犯人には近隣住民への“見せしめ”の意図があったと推察した。つまり容疑者は当時の近隣住民とつながりがあった、という見立てである。

ハルニッシュは現場周辺3600ブロックについて、事件の起きた“開発前”どころかメキシコ統治下時代の歴史からしらみつぶしに調査を開始した。彼はダリア・フリークでも、素人探偵でもない、生粋の“調査オタク”だった。ときに当時のギャング集団の行動や他の事件との関連を疑い、ときに関係者を捜してはインタビューを試み、かつての住民同士の関係性さえ把握するようになった。そして彼はある“老外科医”に思い至る。

 

外科医ウォルター・ベイリーは1946年10月に妻と別居するまで、遺体発見現場の空き地から1ブロック離れたノートンアベニューで暮らしていた。彼は個人開業医としてだけではなく、郡病院や大学准教授としても知られたLAでは著名な医師の一人だった。周囲から“紳士”と評される温厚な人物で、自ら人助けを買って出る人格者として知られた。

医学会の第一線から退いた後、見習い医師であったアレクサンドラと親密な関係となり、離婚を決意して別居。ベイリーは、離婚協議中の妻ではなく新たなパートナーに遺産を託すよう遺言を書き換えた。

48年1月、彼が肺炎で亡くなると、未亡人は相続権を得たアレクサンドラを訴えた。その言い分は、彼女が「夫の秘密」を握っていたために強請(ゆす)って遺言を書き換えさせたにちがいない、という言いがかりに近いものだった。裁判では「ベイリーの秘密」の中身についてまともに検討されることなく、アレクサンドラの相続無効を主張した未亡人の訴えは退けられている。無論、亡きベイリーに具体的な容疑は何もかけられなかった。

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ベイリーは解剖学的知識を持ち合わせており、事件当時67歳と高齢で、ショートの遺体をそのまま抱えて移動することは困難に思われた。また検死により、彼は脳卒中脳軟化症の進行が確認されており、前頭葉認知症などの疑いもあった。医師時代の知人たちはベイリー氏が“愛人騒ぎ”を起こしていたなど思いもよらず、晩年には現役時代とは異なる「人格的な変化」が生じていたことも十分に考えられた。

彼の娘はショートの姉夫婦と親交があり、二人の仲人まで務めた間柄だった。ベイリー本人とショートとの直接的な交際の証拠は発見されなかったが、結婚式やその後の家族的交流などで一時的な接点があったとしてもおかしくはない。老いた人格者が地に足つかない若者に「困ったらいつでも頼りなさい」と連絡先のひとつでも渡していたとておかしくはない。

ベイリーには二人の娘があったが、ともに養子であった。1920年に交通事故で最愛の一人息子を11歳で亡くしていたことが娘たちを迎えるきっかけだった。その不幸な少年の命日は1月13日であり、つまりショート失踪の9日~殺害推定時刻の15日未明の間に当たる。

 

疾病による人格の変容、老境での離婚協議による過重のストレス下で気力体力は相当に磨り減っていたことは想像できる。もしそんな平静ではない老医師のもとへ僅かな縁を頼って突然押しかけ、「あら、この男の子は?」などと不注意にも亡くなった息子のことを思い出させるような人物がいれば、思いがけず暴力衝動に駆られたとしても不思議はないように思われた。

 

■潔白な浮気者

警察は、失踪前の1月9日、“ショートを最後に目撃した人物”としてロバート・マンリー(24)に嫌疑の目を向けた。

マンリーは妻が妊娠中だったことにかこつけて、サンディエゴで出会ったショートに下心を抱いたことを認めたが、セックスはしていないと証言した。彼女に「姉妹がLAに遊びに来るから」と言われて、9日の午後、ビルトモア・ホテルに素直に送り届けた。

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Robert Manley, Lie detector test [Tessa LAPL]

彼は逞しい体躯であったが、精神障害による幻聴症状があり、軍を退役後はセールスマンをしていた。嘘発見器で二度に渡って鑑定されたものの、供述との齟齬は発見されなかった。

捜査によって、彼が過去に暴力を振るった経歴がないこと、医療的訓練を受けていないこと、解体技術を持つ医師などとの人脈を持たないこと、遺体発見直前の14日から15日に掛けて完璧なアリバイが成り立つことが判明し、ほどなく容疑者リストから外される。マンリーは“浮気者”ではあったが“シロ”であることが証明された。

後に発見されたハンドバッグやハイヒールをショートの所持品と確認したのも彼である。当然マークされている渦中で郵便物を送ったり、荷物をゴミ箱の上に置きに行ったりということは考えられない。

だがそれでもメディアや大衆は(半ば面白がって)彼に疑惑と好奇の目を向け続け、「結婚生活や赤ん坊がマンリーの精神的負担になっていたのではないか」といった憶測が消え去ることはなかった。

マンリーの病状は悪化し、54年にパットン州立病院に入院。86年1月に偶発的な転倒事故によって亡くなった。

 

■実業家の「住所録」

犯人からの郵送物にあった「住所録」、その表紙には元々の所有者を示すマーク・ハンセン(事件当時55)の名が付されていた。

1890年にデンマークで生まれたハンセンは、1919年に渡米し、各地に劇場や飲食店を所有するやり手の実業家となった。30年代にハリウッド界隈に進出し、フロレンティン・ガーデンズをはじめ演劇事業で名を馳せた。ショートは写真家シド・ザイードの紹介で1946年5月から10月の間、マークのゲストハウスを間借りしていた。

 

47年1月8日、ショートは滞在先のサンディエゴからマークに電話を入れている。しかし彼は当局の調べに対して、服や帽子を買い与えていた事実を伏せ、ショートとの交際事実はなかったとする、矛盾した証言をいくつか行っている。事件後に送付された「住所録」はマークの所持品だったが、「我が家からショートが持ち去ったのでしょう」と説明し、彼女を流れ者扱いした。

それらが彼の社会的保身のためなのか、犯行を隠蔽するためなのかははっきりしていないものの、ショートとルームメイトをしていた若手俳優アン・トスらの証言により容疑者リストに記載されることとなる。

 

49年の大陪審に出廷したアンは、「お互いマークに告げ口されることを恐れてそれほど干渉し合わなかった」としつつ、二人とも雇い主であるマークに気に入られようとしていたこと、やがてショートは(暴力を受けたかは分からないが)マークを恐れるようになったこと、などを証言。ショートの印象について、自分と同じ俳優を目指すショーガールの卵で、マークの数多くのガールフレンドの一人のように思えたと述べている。

彼女はショートから、「何度かマークがちょっかいを出そうと迫ってきたので、処女だと偽って彼を振り払った」という話を聞かされていた。ショートが一度“家出”したものの行く宛てがないと言って戻ってきたことや、マークに隠れてどこかに電話する姿も目撃したことなどの証言もあった。アンによれば、電話の相手はコロンビアスタジオで働くモーリス・クレメント(ベンジャミン・バグシー・シーゲルやミッキー・コーエンらのギャング組織、売春宿主ブレンダ・アレンら売春シンジゲートとのつながりもあった)だとされた。

 

11月、ショートはマークが連れ込んでいた他の女性とケンカになり、彼はショートに出て行くように命じた。その際、アンはショートを気の毒に思って逃亡を手助けし、周囲には「田舎に帰った」と嘯いて行き先を明かすことはなかった。アンの連れ合い達はマークと懇意にしていたため、彼女自身はマークから手荒な真似をされずに済んだという(従属的な立場にはなかった)。

またアンは、47年1月2日にショートから金を貸してほしい旨の手紙が送られてきたとも話した。未解決事件ライターとして知られるブレンダ・ホーゲンは著書の中で、ショートの忍び先であったドロシー・フレンチ宅に見知らぬ2人の男性と1人の女性が来訪したこと、ショートとフレンチは居留守を使ったことを示し、何者かに追われていたことがサンディエゴに旅立った原因ではないかと推測している。

(画像左がアン、一番右が1月までショートを泊めていたドロシー・フレンチ。)

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さらにアンは「彼女は他の女の子たちと違った」と“ブラック・ダリア”の噂を否定する発言を行った。こんなことを言っても自分には何の得にもならないけど、と前置きしたうえで、ショートは深夜まで酒を酌み交わしたり煙草をふかしたりといったあざとい演出はせず、23時までには帰ってくる“まともな子”だったと擁護している。二人で遊びに行くような親密さではなかったが、同情的な仲間意識をもつ特別な関係性を窺わせる。

またショートは未成年飲酒による逮捕歴があり、遺体からは少量のアルコールが検出され、バー通いでも知られているが、アンの証言からも分かるように“バーフライ”のようなアルコール中毒者ではなく、もっぱらソフトドリンクを好んだともいわれる。

 

マークは若い女性たちを“食い物”にしていたことで知られていた。明確な原因は不明だが、49年には彼のクラブのダンサーのジャン・スパングラーが行方不明になっている。同年、元交際相手のダンサー、ローラ・タイタスから恨みを買ってマークは銃撃を浴び、重傷を負った。何人かの医師とも親交があり、(証拠は出ていないが)闇社会とのつながりも噂された彼は50年代まで主要な容疑者の一人であり続けた。

 

■魅力的な容疑者

 すでに述べたように、この事件は虚偽の自白者だけでなく、自分の身内を犯人だと告発するケースが多いことでも知られている。

元LA警察の刑事だったスティーブ・ホーデル氏は、2003年に告発本となる『ブラック・ダリア・アベンジャー』を発表し、1999年に亡くなった自分の父ジョージ・ホーデルこそが犯人だと主張した。スティーブは元々ブラック・ダリア事件のマニアではなかったが、父親の遺品にあったブロマイド写真の女性が気に掛かり、調べたところブラック・ダリアなのではないかと考えるようになった。

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By Steve Hodel - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61289103

ジョージ・ホーデルは1907年に生まれ、ロサンゼルスに暮らすユダヤ人家庭で十分な教育を受けて育った。少年時代にピアノの天才として知られるようになると、セルゲイ・ラフマニノフが彼の演奏を聞きに訪問した。IQテストで186点を獲得し、15歳でカルフォルニア工科大学に飛び級。教授の妻との不倫が発覚するなどして1年で退学したが、彼は真剣に家庭を築こうと考えていたとされる。

その後、モデルのドロシー・アンソニーと結婚し、カルフォルニア大学で医学の学位を取得。郡衛生局長に就任するなど社会的成功をおさめ、ロサンゼルスの上流社会とつながりを深めた。退廃美やシュルレアリスム、サドマゾヒズムなどの文化・哲学に傾倒し、写真家マン・レイ、映画監督ジョン・ヒューストンら芸術家たちのパトロンとなった。

45年、ロイドライト(フランクロイドライトJr)設計によるジョン・ソーデン・ハウス(通称“ジョーズハウス”)を購入し、ハリウッドの若い芸術家たちを集めて怪しい饗宴を愉しんだ。

1949年10月、前妻の連れ子であった14歳の娘・タマルに性的暴行を行って告訴され、3人の目撃証言がありながらも無罪とされた。だが「異常性欲者」として、1950年に警察の監視下に置かれることとなる。

“Supposin’ I did kill the Black Dahlia? They couldn’t prove it now. They can’t talk to my secretary anymore because she’s dead.

They thought there was something fishy. Anyway, now they  may have figured out. Killed her,I did kill secretary...

(私がブラック・ダリアを殺ったと思っているのか?やつら(LA警察)は今もって解決できていない。あいつらは私の秘書と話すことができない、なにせもう亡くなっているのだから。何か匂うと考えたんだろう。とにかく、あいつらは今になってようやく分かったんだ。秘書は殺された、彼女は私が殺ったんだ)

テープは失われているが、警察の監視に気付いたジョージ本人が盗聴器に向けて言い放った挑発の“写し”が捜査資料として残されていた。45年までジョージの秘書を務めたルース・スポウルディングはオーバードーズにより亡くなったが、何枚かの書類が焼却されていたため、当時ホーデルに殺害の嫌疑が向けられていた。証拠不十分で立件されなかったものの、ルースはジョージの誤診や医療制度を悪用した不正請求を告発しようとしていた。

ジョージの周囲には常に犯罪の香りが付きまとい、当時のLA警察を黙らせるだけの地位と財力、コネクションを備えた人物だった。50年にアメリカから離れ、90年までフィリピンなどで生活し、生涯で多くの妻を娶った。

 

21世紀になって現れた“魅力的な容疑者”は大きな反響を集め、2004年には米CBSのドキュメンタリー番組『48 hours Mystery』でも特集が組まれている。

 ジョージ自身には解体できる技術はなかったと考えられているが、当然、知人には腕利きの外科医も存在し、金で雇うこともできただろう。彼がショートに個人的な恨みがあったかは分かっていないが、穿った見方をすれば、悪趣味が高じてパーティーの余興に“生贄”を買い付けたなども考えられる。

stevehodel.com

ティーブ氏は上のサイトで現在も調査中であり、続編も執筆中だとしている。

筆者個人としては、女性のブロマイドはショートには見えないし、手紙の筆跡も似ているようには思わない。だが、当時の警察・検察の腐敗を踏まえて考えると、「変態趣味+金持ち」による快楽殺人というプロファイルは存外とありうるのではないかと思う。

 

クリーブランド・トルソー事件

別名“キングズベリー・ランの屠殺者(マッド・ブッチャー)”とも呼ばれるオハイオ州クリーブランドで1934~1938年に起きた連続殺人との関連を疑う者もいる。

 

禁酒法時代、シカゴ・ギャングの顔役として一時代を築いたアル・カポネは、エリオット・ネス率いる財務省捜査チームの摘発により密造酒の流通や脱税の罪で懲役に科せられた(ネスの自伝『アンタッチャブル』(1987)の映画化もブライアン・デ・パルマである)。

1935年12月、ネスはクリーブランドの公共治安本部長に就任。クリーブランドは鉄鋼業・石油産業(ロックフェラーのお膝元)を中心に多くの労働者が流れ込み、アメリカ第6の規模を誇る工業都市であった。ニューヨークとシカゴを結ぶこの街もギャング組織の強い影響下にあり、長引く大恐慌の影響で街にはスラムが発生するなど、混沌とする時代状況の中で市民の期待は大きかった。

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Shantytown, Cleveland

1935年9月、キングスベリー・ランにあるジャッカスヒル地区で2つの男性の遺体が発見された。指紋鑑定により、ひとりは逮捕歴のあったエドワード・アンドラッシー(28)と特定。彼はギャンブル・飲酒・売春の多い歓楽街/第三警察区(The Roaring Third)内によく出没し、ホモセクシュアルと噂されていた。もう一体は40歳前後と見られたが、“John Doe”すなわち男性身元不明者とされた。靴下だけ履いた状態の全裸姿で性器が抉られており、皮膚には化学防腐剤が施されていた。両手首に擦過傷があり、検死官は死因を斬首によるショック死(生前に斬首された)と断定した。

翌36年1月、工場脇に2つの木製バスケット籠が置かれているのが発見された。中にはパンや野菜でも包むように新聞紙でくるまれた女性の半身遺体が入れられていた。10日後に別の通りで頭部が発見され、飲食店員や売春婦などをしていたフローレンス・ポリリオと判明。彼女の遺体は、死後硬直の後、裁断されたものと判明した。

6月、ズボンにくるまれた男性の頭部、翌日にはその首以外は無傷の遺体が発見された。綺麗な指紋と6つの特徴的なタトゥーが採取されたが身元は判明せず。その年の五大湖博覧会の会場で、“タトゥーマン”のデスマスク(顔の複製)とタトゥーのモデルが展示され、10万人もの来客の目に触れたが、特定されなかった。

翌7月、人口の少ないブルックリン地区の用水路で40歳代男性の下半身と足の一部が発見され、近くで血まみれの衣類と頭部が発見された。こちらはすでに死後2カ月ほど経過しており、やはり身元不明とされた。

9月、またキングスベリー・ランで、男性の下半身が未着衣の状態で発見された。頭部、胴体は見つからず、身元不明とされた。検死官ピアス氏は、関節離断の断面がなめらかだったことから、人体の解剖学に精通しているか、剛力で全くためらいのない大胆な殺人者だと指摘した。この時期になると、クリーブランド中のラジオ、新聞メディアは連日この連続殺人について報道するようになった。

翌37年2月、エリー湖岸の遊園地ユークリッド・ビーチパーク付近で20歳代半ばとみられる女性の首なし遺体が発見され、“Jane Doe”すなわち女性身元不明者とされた。また同地で1934年9月にも女性の下半身(膝下は発見されず)が発見されており、身元不明のまま“The Lady of the Lake; 湖の乙女”と呼ばれていた。見解は諸説あるものの、クリーブランド警察博物館では彼女を“victim 0(第ゼロ犠牲者)”と表記している・・・

 

・・・捜査官らは繁華街やスラムを重点的に、延べ5000人にも及ぶ聞き取り調査を行ったが本星にたどり着くことはなく、連続殺人は止まらなかった。犠牲者はその後も1938年8月まで断続的に発見され、少なくとも12人の犠牲者が同一犯によるものと考えられた(最後の2件は発見が遅れたため、殺害時期は38年4月までとされる)。

犠牲者は20歳前後から50歳前後と推定され、性別や人種による一貫性はなく、関係性や共通項は不明瞭であった。犯行の特徴としては、斬首による殺害が多いこと、胴体の切断が多いこと、男性は去勢されることが多いこと、いくつかは防腐処理を施していたこと等が挙げられる。また身元が判明した2人は下層社会に属しており、身元不明者が大半であることから、身内のいない下層社会の住民、セックスワーカー、浮浪者、遠方からの漂流民などが標的にされたと考えられた。

 

エリオット・ネスは2度、有力な容疑者に対する取調べを行っている。フランク・ドルザルは一度はポリーロ殺しの自供をしたものの、「自白の強要があった」として撤回。その後、彼は獄中で不審死を遂げており、多くの人は彼を冤罪・無実だと考えている。

もうひとりの外科医フランシス・スウィーニーは、極度のアルコール依存と精神病質(第一次大戦での頭部外傷の後遺症とも言われる)によって妻子への虐待のある人物で、2度のポリグラフ嘘発見器)テストでグレーの判定が出ていた。しかし彼の親族はネスの政敵でもあり、決定的証拠が揃わないかぎりは裁判で勝機がないものと考えられた。その後、フランシスは精神病院への入退院を繰り返し、起訴されることなく64年に死去した。

ネスは12人目の犠牲者発見から2日後、犯人が“獲物”を物色する場としたスラム街そのものを焼き打ちして事件の根絶を図り、公式にはそれ以降、犯行は止んだとされた。しかし“治安回復”“犯人逮捕”といった市民の期待には充分に応えきれないまま、4年後に表舞台を去った。

(その後、転落した人生を送りつつ武勇伝を酒のつまみに余生を過ごしていたところ、スポーツライターだったオスカー・フレイリーと知り合い、57年に共著『The Untouchables』が誕生。出版直前にネスは亡くなり、彼の抱えていた負債は印税によって返済された。)

 

1936年7月から40年9月にはペンシルベニア州ニューキャッスル近郊でも首なし遺体が発見される事件が相次ぎ、両都市はボルチモア-オハイオ鉄道でつながっていたことから同一犯の可能性が指摘されている。

またクリーブランド警察ピーター・メリロは、1920年代から50年代にかけて40件以上の未解決殺人に関与した可能性があると述べている。

Severed: The True Story of the Black Dahlia

LA育ちの俳優・ハードボイルド作家として知られるジョン・ギルモア氏の著書『切断』(1994)は、“ブラック・ダリア事件”を扱った作品で現在まで最もよく知られるもののひとつである。この中では、ジョーゼット・バウアドーフ強姦殺人の有力容疑者だったジャック・アンダーソン・ウィルソンがショートの殺害にも関与していたとする説を採用している。

ジョーゼット事件を担当した刑事ガーナー・ブラウン警部補は、ウィルソンが「ブラク・ダリアの真犯人を知っている」とする告発テープを聞いた。しかしその内容があまりに詳細で「犯人にしか知りえない情報」を含んでいたため、ウィルソン本人が殺害した可能性が高いと見当づけた。しかし参考人として尋問を予定した矢先に、寝煙草による火災により当のウィルソンが焼死。

警部からその話を仕入れた新聞記者が記事にしようとすると、社の上層部からストップがかかったという。ジョーゼットの父親が金融業界の大物であったため、報道を自粛するよう上層部に圧をかけたものと考えられた。

ギルモア氏は記者からその話を聞いて書いている。つまり知人(記者)の知人(ブラウン)による考察で、しかももう裏を取りようもない(被疑者死亡)という、まるで小説のような話だ(小説だ!)。

 

アルコール依存症で多くの強盗殺人の疑いを掛けられていたウィルソンは、同じくトルソー事件の嫌疑も向けられていたことから、 “ブラック・ダリア”は“ジョーゼット”に加え、“トルソー”事件にまで接続する仮説が生み出されることとなった。それぞれの犯行の特徴は異なり、シリアルキラーたちはメディア報道を通じて共鳴的な相互作用を得ていたかもしれないものの、すべてを同一犯とみなすのは些か短絡的にも思う。 

『切断』の刺激的な内容は多くの支持を集め、“売春婦”“バーフライ”といった“ブラック・ダリア”像を植え付けることに成功したが、ハルニッシュに言わせれば「50パーセントのフィクションと25パーセントの誤解」が含まれているという。

ギルモア自身が役者・タレントとして戦後ノワールやハリウッドの事情に通じ、さらにビートニク文化からの薫陶を受けている。彼の父親がLA警察だからといって彼自身に捜査分析力があったとは思われず、その作風は魅力的なハードボイルド時代小説のひとつと言っていい。筆者としては、資料的価値には乏しいものと考えている。

 

■性の疑惑について

彼女の物語をある意味で魅力的にし、最も不鮮明にしている要素として、セックスに関する事柄について避けて通ることができない。

たとえばヌードモデルやポルノ映画に出ていた、あるいはコールガール、売春婦だったとする噂について、元主任刑事ハリー・ハンセンは「同じ名前の売春婦と混同されていた」と否定しており、未だかつて彼女のヌード写真や映像は出回っていない(存在していたとすれば流出しない理由がない)。また解剖所見では、彼女に妊娠・出産の経験は認められなかった。

『The Confessions』でそのような人物像として描かれたことが「売春婦神話」を補強した最大の要因とされるが、ジャック・ザ・リッパーをはじめ古今東西を問わず「売春婦」は社会的立場が弱い女性としてシリアルキラーの標的にされてきた歴史とも関連があるだろう。また市民は「被害者は売春婦」とする偏見を強化することで、事件を自分たちとは違う裏社会の話と捉え、心理的距離をとりたい防衛本能のようなものが働いているかもしれない。

たしかにショートは強い結婚願望や男性への寄生的な依頼心を感じさせる。しかし金のために身体を売っていた事実は確認されておらず、見境なく誰とでも寝る異常性欲者でもなかった。アンの証言から考えても「性に奔放」というよりは、交際男性や友人の家を渡り歩く「家出少女のライフスタイル」によって、人が集まるバーに通っていたと考える方が自然ではないか。

筆者の感覚で言えば、性に自覚的な“パパ活”女子のごとき投機的な目的意識よりも、成り行き任せの“神待ち”少女のような警戒心が薄い印象を受ける。

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対極的な噂として、性腺発育不全(先天性の生殖器未発達)いわゆる「幼児性器」により彼女はセックスができなかったとする説も存在する。

だがLA地方検察局のファイルには、彼女と性交渉を持った3人の男性に取調べを行ったことが記録されている。解剖所見によれば「彼女のuterus子宮は小さかった」と記されていたが、今日でいうアンドロゲン不応症のような性器の形成不全や「正常ではない」ことを示す報告はされていない。

またショートをレズビアンバイセクシャルとする噂、同性愛者の社交場での捜査記事も存在する。たとえば「ショートにセックスの誘いを断られた男性」に聞き取りをすれば「あいつは男と寝ない。レズだ」といった暴言は得られるだろう。

また「子宮が小さい」とする所見から、「男性との性交渉がない」可能性や「男性拒絶」とする見方につながり、そうした疑いを向けられたのではないか。

警察は「切断」理由のひとつとして「犯人が一人で動かすのが難しかった」とも考えており、女性容疑者の線も捨ててはいない。警察から「容疑者は男性に限定されない」と聞かされれば、話題性を狙ってショートをレズビアンバイセクシャルに見立てて新たな「女性犯人像」を考案する作家がいてもおかしくはない。

 

虐待について、彼女の乳房に煙草の火傷痕があったとする噂がある。これは事実無根であり、ショート事件より数週間後に起きた家出少女の事件が混同されている。少女は自ら煙草で火傷をつくって「誘拐犯から逃げてきた」と嘘の証言をして家に出戻ったという事件である。

また「胃の内容物から糞便が検出されたこと」については、消化残滓と「切断」に起因するもので食糞行為(プレイ、虐待)を示すものではない。私たちの好奇心や想像力はときとして厄介な方へ奇怪な方へ歪な方へと事実を捻じ曲げる。

 

 ■やわらかい記憶

 ここまで見てきたように、エリザベス・ショートの死には、戦後アメリカン・ノワールの、大都会LAと文化的中心地ハリウッドの、どこにでもいる家出少女たちの、様々な歴史文化が上書きされている。

(日本でそうしたスケールで類似した事件は思いつかないが、過剰報道が被害者の性格を「つくっていった」側面でいうと、後に佐野眞一氏によって「メディアが発情した」と表現された東電OL事件(1997)などは近いかもしれない。なぜ被害者は昼はエリートOL、夜は立ちんぼ(フリーの売春婦)という二重生活を送らなければならなかったのかについて様々な見解が提示され、彼女の「心の闇」に多くの女性がジェンダー的共感を示した。)

 

古い精神医学においては「虐待経験」が疾病の原因だとする理論に引っ張られるかたちで、多くの患者に「経験したことのない虐待の記憶」が植え付けられていたことが知られている。

カルフォルニア大学教授で認知科学の専門家エリザベス・ロフタス氏は、記憶生成のメカニズムを解明するため“虚偽記憶”の植え付け実験を行い、「記憶はwikipediaのように書き換えが可能なものだ」と実証した。

さらにロフタスはトラウマの植え付けだけでなく、ポジティブな記憶操作によって食生活の改善やダイエットのような人々の思考・行動習慣を変えることができることを示した。催眠療法のような特殊な誘導を介さず、“親のしつけ”のように情報の刷り込みによって虚偽記憶の植え付けは可能だとしている。

 虚偽の記憶を確実に見破る方法はなく、実証を重ねていくことでようやく反証できる(誤った目撃証言による逮捕者の冤罪を晴らすためにDNA鑑定が利用された)。これは逆にいえば、反証しえない事柄について私たちは「虚偽記憶」を証明できないことをも示している。

 

筆者の考えでは、多くの大衆は当時のLAやハリウッド文化、ノワール的風潮を“ブラック・ダリア”に上書きし、自白者や告発者たちは自己暗示のようなかたちで自身が「物語」の登場人物であると思い込んでしまったものと考えている。

 

“I never knew her in life. She exists for me through others, in evidence of the ways her death drove them”

(私は生前の彼女を知ることはない。彼女の死に駆り立てられたひとびとの“証拠”を通して、その姿を現すのだ)


― James Ellroy, The Black Dahlia

 

エリザベス・ショートが生前最後に目撃されたビルトモアホテルでは、彼女への弔い酒として“Black Dahlia”の名を冠したカクテルが提供されている。シトラスウォッカやシャンボールリキュール、カルーアが含まれる特別メニューだが、現地で飲むことはおろか、酒が飲めない筆者にとってはその味を想像することさえできない。

 

*****

・参考

Dr Francis Edward “Frank” Sweeney (1894-1964) - Find A Grave Memorial

Torso Murders - Cleveland Police Museum

Heaven Is HERE! Larry Harnisch's Site on Elizabeth Short, the Black Dahlia

The Black Dahlia: The Long, Strange History of Los Angeles’ Coldest Cold Case ‹ CrimeReads

The Black Dahlia in Hollywood

埼玉朝霞少女誘拐監禁事件について

2014年に埼玉県朝霞市で発生した女子中学生の誘拐および約2年に渡る長期監禁事件について、事件の風化阻止と防犯啓蒙の目的で記す。

 

尚、少女を狙った略取誘拐(連れ去り)・監禁事例について、過去エントリーでも取り扱っているので比較参照されたい。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 

■概要

2014年3月10日17時ごろ、埼玉県朝霞市でパート勤務から帰宅した母親は、娘の不在と郵便受けに入れられていた“奇妙なメモ”に気付き、20時過ぎ、警察に届けを出した。 

■消えた中学生

行方が分からなくなったのは市内中学1年生のSさん(13)。

メモには「家も学校もちょっと休みたいです。しばらく友達の家です。さがさないでください」と署名入りで書かれており、一見すると、思春期の家出を思わせる内容だった。

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しかしSさんは過去に家出をしたことがなく、当日の朝もそれ以前も普段通りに過ごしており、家族は家出の原因として思い当たる節が全くなかった。

母親によれば、彼女は普段遊びに行くときは「だれと・どこへ」出掛け、「何時までに帰るのか」を必ず伝える習慣があったという。

学校では合唱コンクールの実行委員を務め、習い事のバレエなどにも熱心に取り組む真面目な生徒だった。その日も通常通り授業を受け、15時過ぎに下校していたことが確認された。

また財布や現金、携帯電話は自宅に置かれたままで、私服などを持ち出した形跡すらなかった。素直に考えれば、帰宅することなく下校中に失踪したものと考えられた。家の郵便受けにわざわざメモだけを残して身支度もせずに家出する、というのはどう考えても不可解だった。

 

 埼玉県警は警察犬を導入したが、家から200メートルのところで匂いは途切れた。

近隣から得られた情報では、15時45分頃、自宅付近で見知らぬ男性と会話している姿が目撃されており、道を尋ねているような雰囲気だったという。

事件や事故に巻き込まれた可能性なども視野に入れ「特異行方不明者」扱いで捜査は開始され、13日、Sさんの写真を公開して情報提供を呼び掛けた。

名前や特徴だけでは多くの情報は集まらない、しかし情報公開すれば発見された後の娘の生活に支障が出るかもしれない。また全国手配を知った犯人が動揺して殺害に及ぶかもしれない。Sさんの両親も悩み抜いての決断だった。

14日、学校周辺の河川敷を朝霞署や機動隊隊員ら30名で捜索。行方につながる手掛かりを探した。

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■手紙

3月19日、埼玉県の「上尾郵便局」の消印でSさんからの手紙が自宅に届く。同じ埼玉県内ではあるが、上尾市とSさんとのつながりに心当たりもない。捜索の呼びかけでも情報は何ひとつ出てこなかった。

「元気に過ごしている。迷惑かけてごめんなさい。半年ぐらいで帰ります」

本人の意思で失踪しているかのような文面だった。鑑定により本人の筆跡らしいことも確認された。

「チャットで知り合った高校生といる」と書かれていたことから、県警は自宅パソコンや携帯電話を解析したが、不審人物とのやりとりの形跡は見つからなかった。

 

その後、半年どころか1年経っても音沙汰はなく、警察の捜索活動も次第に規模が縮小されていった。両親は、警察にまで見捨てられたような心細さを感じたという。

しかし、周囲の捜索支援者、Sさんの同級生らとともに、2年間でおよそ30万枚ものビラを配布し情報提供を求め、テレビの公開捜査番組などへも出演して呼びかけを続けた。

番組に登場した専門家は、メモと手紙について「筆圧」や「フルネームで署名されていたこと」などから、だれかに強制的に書かされた可能性を示唆。番組では、周辺で不審な若い男性が徘徊していた情報なども伝えられた。

両親は、周囲から「親のせいで家出した」等のいわれなき中傷を受けることもあったという。娘が生きているか殺されているかも分からない不安や自責の念に終始苛まれた。それでもSさんはどこかで必ず生きていると信じ続けることを諦めなかった。

 
■間違い電話

2016年3月27日正午過ぎ、自宅の電話に出たSさんの母親はしばし言葉を失った。

「お母さん?」

はじめは間違い電話かと思ったが、声の主は、娘の名を名乗った。

Sさん本人からの電話だった。

声に元気はなかったが、Sさんは体調について「大丈夫」と言い、失踪前と変わらない調子で短いやりとりを交わした。

 Sさんが近くに駅員を見つけることができなかったため、母親は警察に通報して保護してもらうように指示した。

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その後、本人と母親からの通報を受けた警察は、東京都の東中野駅構内でSさんを無事保護。怪我などはなく、学生証を所持していたことからすぐにSさん本人と確認。

中野署から埼玉県・新座署に送り届けられ、家族は2年ぶりの再会を果たした。

 

Sさんは失踪時のことを「自宅付近から、面識のない男性に車で無理矢理連れ去られた」と説明。

脱出について「男は秋葉原に行くと言って外出した」「帰りが遅くなりそうだったので、隙を見て逃げ出した」「これまでは外から鍵を掛けられて逃げ出せなかった」と話し、2年間に渡って男性の家に監禁されていたことが明らかになった。

 
■発見当初の報道

15時45分頃、帰宅途中だったSさんは、自宅前で車から降りてきた見知らぬ男にフルネームで呼びかけられる。

「ご両親が離婚することになった。弁護士から話があるので来てほしい」と車に誘導された。同行を拒否すると腕を掴まれて後部座席に無理矢理乗せられた。その際に「さがさないでください」という内容のメモを書かされた。

アイマスクで目隠しされた状態で移送され、男が住む千葉市内のマンションに連れ込まれた。監禁同居を強いられ、そこでまた嘘の手紙を書かされた(Sさん自身は上尾市には出向いていない)。玄関やベランダは外側から施錠されており、共に外出する際も男に腕を掴まれていて逃げ出せなかったという。

 

その間、男からは「両親に捨てられた」と吹き込まれていたが、1年後にインターネットで両親が一生懸命チラシ配りをしている様子、自分を捜索してくれていることを知った。男の説明が嘘だと分かったことで、逃走意欲を回復してその機会を窺っていた。

食事は与えられており、「材料のほとんどは自分がインターネットで買っていた」「(男の分まで)食事を作らされることもあった」と説明した。

 

2016年2月末、男は中野区東中野3丁目のマンションへ転居。秋葉原に出掛けると言って玄関を出た際、普段掛けている外鍵のロック音が聞こえなかった。Sさんは以前に部屋で見つけて隠し持っていた500円硬貨と身分証となる生徒手帳を手にマンションから脱出し、駅で公衆電話を探した。

 

■血まみれの男

3月27日午後、少女の監禁が明らかとなった一方で、犯人の行方が分からなくなっていたことから、警察は未成年者誘拐の容疑で寺内樺風(かぶ)(23)を公開手配。

翌28日の3時半頃、静岡県伊東市内で新聞配達員から「血だらけの男が歩いている」との通報が入る。発見した配達員は、頭から全身血まみれになった男が手を挙げている姿を見て、ひき逃げの被害者だと思った、と述べている。

「死のうとしたが死にきれなかった。警察を呼んでほしい」

発見現場は市内から南に約6キロの山間部で、夜間に人の往来はない地域。駆け付けた警官が男の身元を確認したところ、捜索中の寺内と判明。

 

首などに怪我を負っており自殺を図った可能性があるとして、入院後の回復を待って、31日に逮捕状を執行した。事前に中野区の自宅マンションで進められていた家宅捜索では、Sさんの制服やジャージが発見され、ドアに設置された外鍵が押収されていた。

退院後、捜査本部のある朝霞署へヘリで移送。調べに対し、容疑を認め、「中学生の頃から女の子を誘拐したい願望があった」「ネットの地図アプリで誘拐する場所を探した」などと供述し、Sさんとの面識はなかったと話した。

 

 

■犯人の二重生活

誘拐・監禁という卑劣極まりない犯行は多くの非難を呼び、少女の脱出と犯人の身柄確保の流れに世間の注目が集まった。さらに犯行当時、寺内は大学在学中で、身柄確保となる4日前に卒業証書を授与されたばかりだったことも話題となった。2年もの間、自宅に少女を監禁した状態を誰にも気づかれず、通学やバイト、就職活動までこなしていたことになる。

 ■学生生活

大阪教育大付属池田中学・高校時代は成績優秀で、部活や生徒会には属さず、友達の輪にも加わらずに過ごしていたとされる。当時を知る女性教諭は、面談時の様子を、こちらの問いかけに対して「はい」「いいえ」としか返答せず「少し困惑することもあった」と記憶していた。周囲とトラブルを起こすでも疎外されているという訳でもない、「自分の世界に生きていたのだと思う」と述べている(2016年3月29日、産経新聞)。

2011年に千葉大学工学部情報画像学科に入学。12年後期から1年程の休学期間があったため、大学には延べ5年間在籍した。休学中はカナダへ語学留学し、その後、アメリカ・カリフォルニアのパイロット養成校に通って、13年9月に自家用セスナ機の免許を取得している。留学中、ジェット機のコックピットで撮影した自分の写真などをFacebook上に公開していたが、帰国以降その更新は途絶えた。

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復学しておよそ半年後の14年3月に誘拐を実行。監禁中にあたる平成26年度(2014年4月~15年3月)の履修は11科目、翌27年度は週に一度の演習ゼミだけだった。

学内での行動に異常はなく、演習ゼミではインターネット上の商品評価分析を研究。泊りがけのゼミ合宿や飲み会にも参加し、授業を無断欠席するようなことはなかった。目立って活発な性格ではなかったがコミュニケーション能力に問題は見られず、成績は普通程度。卒業後には消防設備関連の就職も決まっていた。履修状況から見ても学業は十分「良好」にこなしていたと考えられる。

■学位問題

3月27日に寺内の公開手配を受け、千葉大では学内外から卒業認定の再検討や何かしらの処分を求める意見が挙がった。28日午後には公式サイトに徳久剛史学長より「本学卒業生の未成年誘拐について」と題された謝罪文が公開され、会見では渡辺誠理事が卒業取消などの処分も検討すると発表。

学則では、在籍中は「学内外での重大な非違行為を行った場合」に停学措置が可能とされている。しかしこの時点で寺内は正式には「逮捕」されておらず、「学位認定」と事件には関係がない、といった声もあった。在籍は3月末までとされるものの、一度認定した修了資格を取り消すことや遡って停学とする措置は可能かを検討するため、前代未聞の懲罰委員会が開かれた。

31日、寺内逮捕を受け、大学は「社会規範の遵守」に違反した疑いがあるとして、卒業認定の取り消し及び卒業留保(留年)とする裁定を下し、4月以降は休学扱いとした。

 
■“一人暮らし” 

2016年2月まで暮らした千葉市稲毛区内の住居は、大学からすぐそばにある築30年超の古びたマンションの最上階。間取りは2Kで家賃は4~5万円、物音を立てれば周囲の部屋に筒抜けのようなつくりだという。だが級友はおろか隣人さえも監禁されていたSさんの存在に気付くことはなかった。マンション住人によれば、友達などといる様子や騒ぎ声などもなく、買い物も少量だったとされる。近隣で生理用品などの購入歴もあったが、不審に思われることはなかった。

学友に対し、寺内は“彼女がいる素振り”を見せたこともあったが、実際に会うことも追及することもなかったので、それが被害者を示していたのかどうかは分からないという。

大阪池田市の寺内の実家は貸し家だが、父親は防犯グッズの販売会社を経営し、経済的に不自由はなく、教育熱心だったとされている。子どもの頃から学業優秀でまじめとされ、地域行事に参加した際は年下の子たちの面倒見も良かったと評されている。寺内の幼少期を知る人物(68)は、「異性とのトラブルなども聞いたことがない」と語っている。

千葉で一人暮らしを始めてからも大阪の実家、祖父母のもとへ年に2回は顔を出し、妹とは二人で旅行に出掛けるなど、家族関係は良好だったと見られ、祖母は「いつもごく普通の、おとなしくて、優しい子でした。そんな樺風と今回の事件が頭の中でどうしても結び付けられない」と語った。寺内の身柄確保、容疑について概ね認めた報道などを受け、3月末までに父親が営む防犯グッズ販売会社のサイト上では、顧客・取引先に向けた謝罪文と当面の営業自粛が掲載された。

 

比較的恵まれた環境に育ち、外ではそれなりに充実した学生生活を送りながら、自宅で監禁を続けた犯人の特異な二重生活はワイドショーを数日間賑わせた。しかし多くの視聴者には、人並みか、それ以上に恵まれた若者がなぜこんな異常犯罪に手を染めなければならなかったのか、まだ何か釈然としない気持ちが残されたままだった。

 

■裁判

2016年9月27日、さいたま地裁(松原里美裁判長)で初公判が行われた。

罪状は、未成年者誘拐、窃盗、監禁致傷(監禁と心的外傷後ストレス障害PTSDを与えた致傷行為)。

被告は、起訴事実を概ね認めたが、監禁致傷について「数日から数週間、監視したのは事実だが、2年間に渡って監視していた意識はない。彼女を家に置いたまま外出したり、アルバイトに出ていた」と一部について否認した。

弁護側は、起訴内容については争わず、寺内の刑事責任能力に疑いがあるとして、精神鑑定を請求し、その後実施された。

 

■洗脳計画

第一回公判の起訴内容から、事件の流れを改めて整理したい。

 

寺内は親元を離れて一人暮らしを始めることになった2011年頃から、「女子中学生か高校生を誘拐・監禁したい」というかねてからの願望を具体化する準備を進める。CIAの洗脳実験資料、オウム真理教の洗脳ビデオ、新潟県三条市の少女誘拐監禁事件といった過去の犯罪資料などから知識を得、実際の犯行のイメージを膨らませていった。

被験者は自分より弱い女子中高生とし、どうしたら発覚しないか考えた。どうするかは成長した段階で考えればいいと思った」

「監禁して社会から隔離し、抑圧を加えるとどうなるのか観察したかった」

2013年9月、留学から帰国して千葉市のマンションを借りた。12月に東京・神奈川で6組12枚の車輛ナンバープレートを窃盗。犯行車両に付け替えてNシステム(車輛ナンバー読取システム)や監視の目を掻い潜り、捜査のかく乱を狙ったものだ。

土地勘はなかったものの、千葉の自宅から60数キロ離れた朝霞市新座市を「田舎過ぎず都会過ぎずいい場所」として候補地に挙げ、14年2月には周辺の中学校の行事予定などを確認して、決行の段取りを練った。

3月4~6日にかけて両市内を徘徊し、一人で下校する女子生徒を盗撮。Sさんに当たりを付けて自宅を確認した。玄関表札では苗字しか分からなかったが、庭にあった植木鉢には彼女のフルネームが書かれていた。

 

3月10日、下校時刻を見計らってSさんの自宅前で待ち伏せ、誘拐を決行。自発的失踪を偽装するために家族宛てのメモを書かせた。これは「捜索届による事件化を防ぐ」目的で“失踪マニュアル本”に紹介されていた手法を悪用したものだった。

千葉へ戻る車中で、寺内は予め音声合成ソフトで作成していた「臓器売買に関する音声データ」をSさんに聞かせる。「両親が離婚するというのは嘘だ」「あなたの家には借金があり、両親はあなたの臓器を売って金をつくろうとしている」などと言って、少女を困惑させた。犯行で使われた白色の軽自動車は、後に中野区へ引っ越す前に処分している。

千葉県にある自宅マンションで監禁を開始し、またも偽装のためにSさんに“手紙”を書かせた。物理的な暴力行為には及ばなかったが、寺内は嘘で塗り固めた「洗脳」を試みる。「お前は借金のカタとして私に売られたんだ」などと脅迫し、Sさんに「私は捨てられた。帰る場所はない」「私はいらない子」といった文言を繰り返し書かせ、復唱させた。

19、20日頃には飲み物に薬物を混入してSさんに飲ませた。これはアサガオ類の種から抽出したLSA(リゼルグ酸アミド)というLSDリゼルグ酸ジエチルアミド)と似た分子構造を持つ成分で、古来より儀式や民間療法で幻覚剤として使用されたものである。向精神薬としての効用はLSDの1割にも満たず、嘔吐や下痢、ときに激しい拒絶症状などの副作用をもたらす。Sさんも食後に体調不良を訴えていたが、寺内は「寝れば治る」と言って放置した。

21日にはSさんが「逃げたい」と書いたメモが発見されたため、すぐに南京錠などが買い足された。監禁には、外鍵のほか、スマートフォンから室内の様子が見られる監視アプリ、盗撮用のメガネや腕時計なども用いられており、少女との会話を全て文字に起こしたメモも見つかっている。

 
■涙の理由

誘拐から1か月ほど経った14年4月、寺内が「夕方まで出かける」と外出した際、鍵がかかっていなかったため、脱出を試みたこともあった。11時頃に部屋を出ると、近くの公園へとたどり着いたSさんは子連れ女性に「ちょっといいですか。聞きたいことがあるのですが」と声を掛けたが「忙しいから無理」と断られた。自動車に乗った人と目が合って、声を上げようとしたが車はすぐに去ってしまった。周辺に公衆電話は見つからず、一度部屋に戻った。諦めきれず再び公園を訪れ、今度は年配の女性に「ちょっといいですか」と声を掛けたが「無理です」と断られた。

「全く話を聞いてもらえずショックで絶望した。誰も話を聞いてくれくれないんじゃないかと思った」

「捨てられた、帰る場所がないという言葉が頭の中をぐるぐるして、涙は自然と出なくなり、嬉しい悲しいという感情がなくなった」

 寺内が話した通り、誰も自分に味方してくれないのだとSさんは心が折れ、マンションの部屋に戻ったという。結果的に見れば、こうした「人々の拒絶」も少女の逃走意欲を削いでしまったことになる。

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寺内はSさんを連れて外食や買い物をすることもあり、留守中は宅配業者からの荷物の受け取り、一人での買い出しをさせられることもあった。食事のほか、女性誌なども買い与えられ、閲覧制限が掛けられていたもののYouTubeやアニメ番組のサイトなど一部のインターネットの使用も許可されていた。

ときに閲覧履歴もチェックされたが、Sさんは隙を見て「自分を捜してくれている両親の姿」を目にする機会があった。「私たちは味方だよ、ずっと待ってるよ」と訴える両親を見て、涙が溢れた。一度は折れた逃走意欲が、失われていた感情がまた沸沸と呼び覚まされた。絶対に逃げたい、家族のもとに帰りたいと思った。

 

■罪の意識

2016年11月2日、第2回公判で被告人質問が行われた。検察側の「犯行は実験のような感覚だったのか」という問いに、寺内は「完全にそのような認識だった」と答え、「高校、大学を通じ、周りの人間とは、人間ではなく動物というか生物と接している感覚がある」「中学時代の人間関係のこじれから、社会性を培う機会がなく感情が退化した。人の気持ちを知りたいという動機付けができた」と自らを振り返った。

罪の重さについては「車や美術品を盗むより断然軽い罪と思っていた」と述べつつ、傍聴席にいるSさんの母親に向けて「全く行う必要のない行為をしてしまい、身勝手で申し訳ない」と頭を下げた。

 

Sさんの調書の最後では、「刑務所から3~5年で出て来られるのはイヤだ。10年以上入っていてほしい。一生刑務所から出て来られないように、無期懲役にしてほしい」と強い処罰感情を示す言葉もあった。

意見陳述で、Sさんの父親は「被告は一人の少女の人生を、私たち家族の生活を壊しました」「減刑なんてとんでもない。どんなに反省して、罪を償ったところで許しません。被告の両親も許さない。刑期が終わっても許さない」と訴えて厳罰を求めた。

母親は、「いっそ死んでしまえば娘を探しに行けるのにと思った」と捜査当時の苦悩や葛藤を語り、Sさんが外出や入浴に支障をきたしているPTSDの状況に触れ、社会復帰や人間性が回復できるのかといった将来への不安を述べた。寺内に対して「二度と娘の前に現れないで」と激しい憤りをあらわにした。

 

事件発覚以降、寺内のSさんに対する扱いが報じられると、臨床心理や犯罪心理の専門家たちは「ペット=愛玩動物」のようだと評した。寺内の語った「監禁して観察したかった」という興味本位の動機はおそらく事実であり、監禁を「実験」、少女を「被験者」、周囲の人間を「動物」と表現した感覚も、彼の本意だと筆者は考えている。

寺内は、他者への共感性が低く、良心は欠如しており、家族や学校といった社会生活に適応し、必要な場面と判断すれば「謝罪」することもできる性格の持ち主である。事件を通して見る寺内の性質はいわゆる“サイコパス”に当てはまるのではないかという印象を拭いえない。

 

サイコパスは「病気」ではなく“極端な性格”を指している。その気質を生かして社会的成功を収める者も居り、人口の1パーセント以上はサイコパスに当てはまるとされている。生活に支障がある場合にはパーソナリティ障害の一種と解釈されるが、無論、サイコパス全般について、「=障害者」、「=犯罪者」、「=こわい」とイメージさせたい意図はない。

特性に傾向はあるものの、虐待やDVといった反社会性の高まるケースから、社会規範を破ることなく生活を送ることができる範囲まで、その程度にもグラデーションがある。質問方法や採点などに訓練が必要なため専門家以外が「診断」に用いてはならないが、下のPCL-Rチェックリストの項目を見るだけでもその性質を知る参考になるかと思う。

 

  1. 口達者/表面的な魅力
  2.  誇大的な自己価値観
  3. 刺激を求める/退屈しやすい
  4. 病的な虚言
  5. 偽り騙す傾向/操作的(人を操る)
  6. 良心の呵責・罪悪感の欠如
  7. 浅薄な感情
  8. 冷淡で共感性の欠如
  9. 寄生的生活様式
  10. 行動のコントロールができない
  11. 放逸な性行動
  12. 幼少期の問題行動
  13. 現実的・長期的な目標の欠如
  14. 衝動的
  15. 無責任
  16. 自分の行動に対して責任が取れない
  17. 数多くの婚姻関係
  18. 少年非行
  19. 仮釈放の取消
  20. 多種多様な犯罪歴

 

 犯行には虚言や操作的洗脳=マインドコントロールが顕著に見られた。セスナ機の操縦といった趣味も、日常生活では味わえない強い刺激を求めてだったのかもしれない。

 
■不自然な言動

裁判は一時中断され、約半年に及ぶ寺内の精神鑑定が行われた。

鑑定後の第4回公判(2017年7月4日)以降、出廷する寺内の挙動に変化が生じる。薄ら笑いを浮かべたかと思えば急に真顔になったり、奇声を上げる、首をぐるぐると回す仕草、突飛な返答といった不自然な言動が目立つようになった。

「結局、何が悪かったのかよく分からない」

「被害者に勉強をさせようとしたが、させられなかったのは残念」

「いじめを機に社会性を培う機会がなくなり、人の気持ちが理解できなくなった」

「何かしろという指令があった。磁力で動かされるような感じ」

(取り調べで「指令」について説明しなかったことについて)「常識だからみんな知っていると思った。高校の頃から思考が盗み出される経験をしてきた」

 

検察側は「(他人の気持ちが理解できないことは)自閉症スペクトラムの傾向にとどまり、症状は犯行の背景的要因に過ぎない。劣等感の代償として犯行に至った可能性があり、完全責任能力が認められる」と指摘。その際、寺内の“遺書”と題された書面が読み上げられ、「重大な事件を起こし、重い責任を感じている」などと書かれていた。

 

弁護側は、「他者への共感性が乏しく、犯行の乏しい計画性は統合失調症が影響していると考えられる」とした医師の意見書を紹介。証拠調べ中の寺内の発言に、「集団ストーカー被害をやる輩がいなければ本件犯行は起こりえなかったとする主張があったことを挙げ、犯行前から統合失調症に罹患していた可能性を指摘した。

論告求刑の最後に発言の機会を与えられた寺内は「おなかがすきました」と述べた。

 

8月29日の判決公判で、寺内は奇声を挙げながら入廷するや、「私はオオタニケンジでございます」と言いながら着席。

身上確認の質問に対してでたらめの返答に終始し、「私は日本語が分からない」と発言したため、裁判長が問いただすと「私はオオタニケンジでございます」と答えた。職業を「森の妖精です」と答え、ここはどこかの問いに「トイレです。私はお腹が空いています。今なら一個からあげくん増量中」と返した。

 

松原裁判長は、弁護人に「ずっとこの調子なのですか」と尋ね、弁護人は「今朝からこの調子です」と答えた。一時休廷して寺内が落ち着くのを待ったが、回復が見られなかったため、判決言い渡しの延期が宣言された。

 

こうした不自然な言動、「指令」や「集団ストーカー」といった不規則な発言内容は精神性疾患を思わせるものもあり、「森の妖精」「からあげくん」といった寺内の挙動が報じられるとインターネット上では詐病狂言とするバッシングが相次いだ。専門家には、判決が近づいたことで精神的動揺、一種のパニック状態になってそうした行動になったのではないかとする見解もあった。

 

■判決

2018年3月12日、改めて判決公判が行われた。寺内は前回とは違い、落ち着いた様子で質疑にもしっかりと応答した。

 

松原裁判長は、発覚を免れるために行われた偽装工作などから「(被告に)違法性の認識はあった」と完全責任能力を認定した。また監禁の期間について「支配下から脱出することは困難」だったとして起訴内容通り約2年とする判断を示した。

 

「(被害者は)心身共に成長する期間を失われ、想像を絶する大きな打撃を与えた」「同種事案の中でも顕著に長い」と誘拐監禁の卑劣さと悪質さを非難。しかし監禁中の物理的拘束は大半に渡って緩やかで、被告からの暴行・暴言は認められないことなどから量刑への考慮を示した。懲役15年の求刑に対し、「検察の主張する求刑は重過ぎると言わざるを得ない」として、懲役9年の有罪判決を下した。

 

両親は、判決公判前の12日に「法廷での(寺内の)言動を見ると全く反省する様子もなく、犯した罪と向き合うこともないようだ」、13日の判決後に「反省や更生ができるとは思えません。もっと厳しい判決を出してほしかったと思います。残念でなりません」と弁護士を通じてコメントを発表。前年7月の論告求刑後には、刑期上限の引き上げといった「刑法改正の趣旨が反映されていない」と話していた(2018年3月23日、産経ニュース)。

さいたま地検はその判決を不服として、3月20日付で東京高裁に控訴した。

 

2018年10月3日、東京高裁(若園敦雄裁判長)で控訴審初公判が行われた。

弁護側は一審での「完全責任能力の認定」に事実誤認があったとし、対する検察側は「犯行の悪質性を正しく認識していない」として、双方が量刑を不当と主張した。

 

翌19年2月20日の判決公判で、若園裁判長は「洗脳という心理操作で心理的拘束を行ったことを重視すべき」と指摘。少女が一時脱出できたことを「物理的拘束が緩やかだった」と判断し量刑軽減の評価を下した一審判決に対して、「この事件の監禁の特質を見誤っている」「心理的拘束の悪質性について正当に評価されていない」と批判。

情状の余地を認めず、懲役12年を言い渡した。

 

■所感

上掲の「籠の鳥事件」ではストックホルム症候群といわれる犯人への同情や親しみ、愛着にまで変容するなど、人間の心は思いがけない事件に巻き込まれると理性を越えた防衛反応を示すこともある。寺内はそうした人間の心理的動揺を狙って、マインドコントロールを試みた。その“実験”は幸いにも失敗した訳だが、仮に別の少女であれば、あるいは精製された合成ドラッグ等が用いられていれば、また違う結果になっていたかもしれない。一審判決が破棄されたこと、心理的拘束への過小評価を是正した控訴審の判断は、今後につながる重要な判決である。

 

寺内が犯行を具体化し始めたのは北米留学中のことで、帰国後に千葉に2Kの部屋を借りたのは監禁を企図してなのではないかとする見方もある。海外生活やセスナ機操縦といった興奮に飽き足らず、留学中に次なる刺激を求めていたことになる。当然、かねてより女子中高生に対する歪んだ願望を抱いていたものとは思われるが、そこには国外で起きた誘拐監禁事件が直接的な契機になったのではないかと考えられる。

 

ひとつは、先の記事でも触れた“オーストリア少女監禁事件”。1998年に9歳で誘拐されたナターシャ・カンプシュさんはおよそ8年後となる2006年、犯人が電話をしに外へ出た隙に逃亡。逃亡を知った犯人は線路に身を投げて絶命した。

彼女は地下室に閉じ込められ、食事も満足に与えられずに奴隷働きをさせられ、繰り返し強姦を受ける日々を過ごしたが「叫ぶことはありませんでした。私の体が叫べなかったのです。でも無言で叫んでいました」と監禁当時を振り返っている。10年に自伝『3096Tage(3096日)』を出版し、これを映画化したものが寺内の留学中だった2013年2月末に公開されている。

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もうひとつは、2013年5月に発覚したアメリカ・オハイオ州の民家で約10年もの間、3人の女性が監禁されていた“クリーブランド事件”。3人はそれぞれ別の部屋に監禁され、鎖で身体拘束され、食事は一日にハンバーガーをひとつ与えられる日々を過ごした。犯人に度重なる暴行を加えられた上、流産や出産を強いられた凄惨な事件である。

犯人はスクールバスのドライバーで近隣住民には社交的と見られていた反面、DVで1996年に妻子が逃走しており、その後もストーカー行為を繰り返す等していた。禁錮1000年の判決を受けた一か月後に獄中で自ら命を絶った。北米で連日繰り返されたニュース報道を寺内が目にしていてもおかしくはない。

 

根拠のない妄想に過ぎないが、準備段階での念入りな様子から鑑みるに、寺内はSさん逃走のその日、あえて無施錠にして出て行ったような気がしてならない。少なくともマインドコントロールの“実験”が思ったような効果を得られていない、思考操作が不完全な自覚はあっただろう。すでに監禁生活は2年近くを経て、多少の“興味・関心の低下”、“気のゆるみ”もあったかもしれない。

Sさんは(「無駄な抵抗」をせず機を窺っていたことからも)とても慎重さを備えた人柄であり、監禁生活はおそらく表面上は穏やかだった。彼女の今後の人生をどうするつもりか考えがなかった寺内は、その関心を「逃げるかどうか」という“スリリングな実験”にシフトしていたのではないか。「逃げられたらどうする」「発見されたら俺はどうなる」という状態に陶酔していた可能性を感じる。

 

余談にはなるが、事件の記事を読んだり書いたりしていて思うのは、事件の記事や動画等をエゴサーチする元受刑者がいるやもしれないな、ということである。筆者としては、残酷な犯罪行為をした人物だからといって第三者による人格否定や罵詈雑言が許されるとは考えていない。善人ぶるつもりはないが、面白おかしくこき下ろしたり「殺処分」を声高に要求する一部の“ネット市民”の感覚の方が(どういう人なのかな…意外とすぐ近くに居たりして…)と時に恐怖に駆られる。

商業目的ではない単なる雑記なので、私見や憶測、余談を交えながら書くことにはなるが、本人が読んだ時に社会への新たな怒りや憤りを再生産しないような内容を心掛けたいと考えている。希望的観測というよりただの希望でしかないが、本件のような若い年代の受刑者たちには、その後の人生を以て「更生」を信じさせてくれることを願っている。

 

ご両親の懸命な捜索によって娘さんの強い信頼が回復して脱出するに至った極めて貴重な事例ではあるが、希望を捨てずに行方不明者を捜索し続ける不明者家族らにとっては大変勇気づけられることであろう。

被害者の心身の回復とご家族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

・参考

 ■少女を「ペット」のように感じていた寺内樺風の勘違い 洗脳されているフリだった? | デイリー新潮