通称「レディ・キラー」、日本語で言う「女たらし(すけこまし)」の異名で知られるテッド・バンディは、しばしば北米史上最悪の連続殺人犯に挙げられる。三度の死刑判決を受け、30件の犯行を自白したが、遺体の未発見や証拠不充分により彼の死後もその全容は明らかになっていない。
うら若い女性たちの尊厳を踏みにじる残虐性は元より、脱獄して再起を図る執着心、法廷やカメラの前で自己弁護する知性と雄弁さを備え、犯行と並行して政治家の卵としてのキャリアを築きつつあった二重生活などそのパーソナリティーにも世間の注目が集まった。
多くのシリアルキラーたちがなぜ異常犯罪に走ったのか、裁かれる理由さえまともに把握できないなか、テッド・バンディは自分が今どんな罪を犯しているかを完全に理解し、どうすれば逃げおおせることができるのかを常に計算していた。世界を震え上がらせた現代的サイコキラーの典型にして、今なお伝説的に語り継がれる元死刑囚の実像に迫りたい。
その肖像
ベビー・ブーム真っ盛りの1946年11月24日、のちのテッド・バンディこと、セオドア(テッド)・ロバート・コーウェル は、当時22歳のルイーズ・コーウェルの長男として世に生を受けた。母ルイーズはペンシルベニア州フィラデルフィア出身で、テッドも乳幼児期を同地で過ごしている。だがその出生地はバーモント州バーリントンにある未婚女性向け産児施設「エリザベス・ランド・ホーム」であった。
赤ん坊の父親について出生届に記された名はでたらめで、ルイーズは「船乗り」あるいは「休暇中の米兵」と語ったこともあったが、今日まで生物学上の正式な父親は確認が取れていない。妊娠当時、不特定多数の相手と関係があったためなのか、相手が身分を偽ったためかは定かでない。ルイーズの妊娠期に妹はボーイフレンドの「ジャック」を紹介されたことがあった。彼は「感じがよく評判も良かった」が養育費の支払いを拒否してほどなく離れていったという。
父親不明のテッドは、母方の祖父母の元で育てられ、二人を「パパ」「ママ」と呼び、産みの母親ルイーズの「弟」として育てられた。この複雑な家族関係は、厳格なメソジスト派の信者だった祖父母が、社会的名誉や世間体を気にして「未婚の母」「私生児」のレッテルを嫌ったためと考えられている。
執行前のテッド・バンディを担当し、幾度となく面談を重ねた精神科医ドロシー・オトナウ・ルイスは、祖父サミュエル(サム)・コーウェルが彼の躁鬱症に深く関連するとの見解を示している。サムは「極めて暴力的で恐ろしい人物 」と評され、極端な人種差別主義者で、犬猫を平然と虐待し、機嫌を損ねる相手に対して容赦なく手を挙げた、とのバンディの証言を記録している。その一方で、幼少期には家庭内で強権的に振舞うサムに対して畏敬の念や愛着を抱いたともいう。祖母エレノア(1971年死没)は臆病で従順な女性で、晩年はうつ病を患い、外出恐怖症に苛まれていたとされる。
またルイス医師は後年の審問で、ルイーズの妹の証言として、寝坊した際、サムに階段から突き落とされて骨折したことや、15歳の頃、昼寝から目覚めると周囲に包丁が散乱しており、ベッドの傍には当時3歳のテッドが微笑んでいたというエピソードを報告している。家庭内のことで事実確認しようもないが、乳幼児期のテッドを取り囲む家庭環境は虐待疑惑を容易に想起させる。
後年、テッド・バンディ研究が進むと、その加虐性がサムから色濃く受け継がれたとの見立てから、「サムとルイーズの間にできた子だったのではないか」という近親相姦疑惑 が真剣に議論された。生育環境だけではなく、遺伝的要因もサムの強い影響下にあったのではないか、と。多くの凶悪犯罪者を調査してきたFBIのプロファイラー、ジム・クレメンテは、「遺伝子は銃に弾を込め、性格と心理がその照準を定め、個人の経験が引き金を引かせる」という比喩を用いて凶悪犯の成り立ちを説明している。
しかし2020年、バンディが恋人に送った手紙の切手から採取された唾液を用いたDNA型鑑定が行われ、サムとの父子関係を示す遺伝的指標が存在しない ことが確認されている。
祖父サミュエル・コーウェルは1983年に亡くなるが、近年の調査では、「アルコール中毒者で暴力的」といった従来の評価に疑問符が投げかけられている。住民の中には「立派な男」と記憶している者もおり、「一緒に過ごしたのは限られた時間ではあったが、よい思い出ばかり」と振り返る親戚の声も聞かれている。
無論、彼らがサムのよい一面しか捉えていなかったとも考えられる。だが事件記者やノンフィクション作家らの仕事はバンディの成育歴や人間関係を調査し、冷血な「サイコキラー」の源泉に迫ることである。連続強姦殺人で捕まった彼に強い拒否反応を示す人々への取材やセンセーショナルな発言を基にしながら、「祖父」を都合のよいキャラクターへと肉付けしていった偏向の可能性も小さくはないだろう。
1950年、周囲の勧めもあってルイーズは4歳になった息子を連れてフィラデルフィアの実家を離れ、西へ4000km以上離れたワシントン州タコマへと移住する。しばらくは親戚を頼り、息子の姓をネルソンに変えて新たな生活を始めた。翌年には教会のサークル活動などを介して軍の病院に勤める調理師ジョン・バンディと出会い、二人はほどなく結婚。テッド・ネルソンはジョニーの法的な養子として迎えられ、テッド・バンディ となった。
テッドはルイーズが「姉」ではなく「母親」だと早い段階で理解したという。やがて夫婦は四児に恵まれ、家族の中心は下の子たちへと移っていく。テッドには吃音症があり、学校ではいじめの標的とされ、内向的な性格を強めた。家族づきあいのあった人々によれば、物静かな少年だったが突如として怒りを顕わにすることもあって時折驚かされたという。
彼の友人らによると、少年時代のテッドは貧しい家庭環境を憂い、両親への恨み言をよく口にしていたという。また時期は定かでないが、テッドは自身の出生証明書を目にする機会があり、ジョンの実子でないことを知っていたとされる。彼がジョンを実の父親だと信じ、「普通の家族」でいられた期間は幼少期のごく短期間だけだった。
少年期のエピソードとして、猫に火を点ける虐待、落とし穴に罠を仕掛けて女児をケガさせた、年下の子どもたちを森に集めて脅し、服を脱がせたといった話が伝わっているが、これもまた事件を受けて後にバンディを毛嫌いする近隣住民や、極悪人に仕立てようとする記者らの作為が含まれていないとは言いきれない。
思春期になると少年は人付き合いからますます遠ざかった。家に居場所がなかったためか、深夜の徘徊と飲酒、「覗き」が密かな習慣となり、女性の部屋を観察しながら自慰に耽った。ときに車に細工を施して住民を困らせ、慌てふためく姿を眺めて悦に浸ることもあったという。
( バンディは 獄中での作家との手紙のやりとりの中で、「 友情の意味が分からず仲間を必要としなかった 。周囲からは孤立しているように見えたかもしれないが、孤独ではなかった」と言い、性暴力や犯罪に関する雑誌に夢中になっていたと語っている。)
(処刑の数時間前に行われた最期のインタビューで、バンディは少年時代に偶然目にしたポルノ雑誌に心奪われ、それがエスカレートして暴力性の源泉につながったと振り返る。ハードコアポルノやスラッシャー映画に触れる危険のある子どもたち、あらゆる男性には道を踏み外して「テッド・バンディになるおそれがある 」と警鐘を鳴らした。)
ウッドロー・ウィルソン高校3年時のバンディ
高校に入るといじめも落ち着き、「内気」な生徒として人並みに扱われるようになった。基本的に外出することはまれだったが、背徳感に興奮を覚えて万引きの常習者となり幾度か補導されたこともあった。唯一、ダウンヒルスキーには熱中した時期もあったが、用具は盗品、リフト券も本物は買えず偽造品でしのいでいた。
不安を内に抱えた青年へと成長したテッドだったが学業には優れ、65年にタコマの大学へ進学。翌年、ワシントン大学に編入し、中国語を学んだ。家庭からの自立心が彼を変貌させたのか、身なりを整え、人付き合いにも積極的になると、周囲には人当たりのよい好青年とみなされていった。
1967年、大学3年生となったバンディは「生涯で唯一本気で愛した女性」と語るダイアン・マージョリー・ジーン・エドワーズ と知り合い、およそ1年半の恋愛関係に至る。しかし勉学には身が入らなくなり、翌年には大学を中退。低賃金の職を転々としながら、共産党ネルソン・ロックフェラーの選挙事務所でボランティアを始めると、政界への進出を夢見た。
かたや大学を卒業した恋人のエドワーズはワシントンを離れ、就職のためサンフランシスコへ移住。バンディが会いに訪れても、口先ばかりで実のない大言壮語に呆れ、人生設計の未熟さを真っ向非難し、関係解消を求めた。失意に打ちひしがれたバンディはコロラドへ行き、その後、アーカンソー州やフィラデルフィアの親戚の元を訪れている。一時テンプル大学に在籍した折にはニューヨークに足繁く通い、心の傷を癒すためにポルノ文学に没頭したとされる。
(バンディは交際中も育ちのよいエドワーズに負い目を感じており、「向上心のなさ」や「打たれ弱さ」といった内面的なもろさをしばしば非難されていた。76年、心理学者から交際当時のバンディについて尋ねられたエドワーズは、「彼は強くなかった。男らしくなかった。彼が何かをして私が怒ると、彼は申し訳なさそうにしていました。彼は自己弁護をしなかったんです 」と述べている。)
( 後年、バンディ本人は「高嶺の花」だったエドワーズとの交際、そして失恋によって「強い刺激を受け、自分を見直すきっかけと向上心を与えてくれた」と肯定的に振り返っている。 ノンフィクション作家アン・ルールは、冴えないフリーター風情が世紀の凶悪犯へと転身する契機として、失恋後のモラトリアム期間に、自分の内面を見つめ直そうと考え、実の父親に会いに行ったのではないかと見立てているが事実関係ははっきりしない。)
バンディと女たち
1969年の秋、ワシントンへ戻ったバンディは、その後、足掛け7年にわたって親密な関係が続く女性と巡り合っている。ワシントン大学医学部で秘書を務めていたシングルマザー、エリザベス(リズ)・クロエプファー である。
リズ・クロエプファーはユタ州で裕福な医師の家に育った。内向的な性格だった彼女は大学で社交的に振舞う術として飲酒を覚え、やがて一学年下のパーティー好きな青年と結ばれた。妊娠して学生結婚したが、未熟な若者同士の夫婦関係はすぐに破綻を迎えた。彼女は大学を卒業後、実家を離れて自立しようとワシントンでの新生活を始めたばかりで同僚以外に知人がいなかった。
同僚とシアトルのバーを訪れたクロエプファーは、一人客の若い男と意気投合した。洒落た装いで知的な雰囲気をまといつつ、表情豊かで口を開けばおしゃべり上手。その法学生は彼女をダンスに誘い、一晩中笑わせてくれた。クロエプファーは羽目を外し過ぎて車が運転できなくなるほどに酔っ払っていた。男は彼女を家まで送り届けたが唇を求めるそぶりさえなく、翌朝は朝食の支度までしてくれた。再婚を焦るつもりはなかったが、3歳の娘モリーを可愛がる彼の様子を見て「完全に恋に落ちていた」とクロエプファーは振り返っている。
ワシントン大学では反戦運動が真っ盛りで、併せてウーマンリブの立場から多くの女子学生らもデモや暴動に参加していた。女性たちが雇用や家庭、性生活といったあらゆる面で男性と同等の自由を求めた「性革命」の時代であり、彼女たちには旧来の従属的な規範から外れたあらゆる選択肢が拓かれていた。稼ぎはないが家事や育児をしてよく笑わせてくれるバンディはクロエプファー母娘の新たな人生に向けて「理想のパートナー」に映った。
翌週には三人で旅行に出掛け、半年と経たず互いの故郷を訪れ、両親とも顔合わせをしている。しかし男は「やり遂げなくてはならないことがたくさんある」と言って結婚を急がないように思いとどまらせていた。
翌年、テッド・バンディは新たな目標意識を持って再びワシントン大学に入学し、心理学を専攻する。教授陣にも目を掛けられる優等生ぶりで周囲からの羨望を集めた。だがその学資や生活費の多くは恋人のクロエプファーが負担しており、彼女はしばしば男が金銭目的で自分や家族に寄生しているのではないかという不安に苦しめられた。
(逮捕後、バンディは「彼女の愛情の大きさが負担だった」と語り、彼女の読書趣味や政治信条、モルモン教徒である彼女の家とも相いれないものを感じたと吐露している。)
1970年、休暇中の三人
後にノンフィクション作家となるアン・ルールは、この時期、自殺予防ホットラインのボランティアの同僚としてテッド・バンディと交流を持った。電話口で親身になって相手の相談に応じるハンサムな青年の声は「思いやりに満ちていた」と振り返る。皮肉にもこのときの彼は何度となく「人の命の危機を救う側」にあったのである。
活動が深夜に及ぶと、彼は車でルールを家まで送り届け、別れ際には「何か起こるといけないから、しっかり戸締りをするようにね」と注意を促す誠実ぶりだった。後に事件を知ったアン・ルールは、「まさか西海岸で最も危険な男と、何度も車で二人きりで過ごしていたなんて…」と驚愕することとなる。
後にロースクールで下宿生活を共にした学友ダン・ラザレスも、若き日のバンディについて「美男子で聡明、話し上手で知的、控えめでありながら傲慢で、人の心を惹きつけるカリスマ性があった」「彼のようになりたかった(憧れていた)」と率直な思いを語っている。
72年にバンディはワシントン大学を卒業後、ダニエル・J・エバンス知事、共和党ロス・デイビスの元で働き、その手腕を評価されてUPSロースクールへの推薦状を手にした。73年夏に共和党の仕事でカルフォルニアを訪れたバンディは、最愛の女性ダイアン・エドワーズと再び親交を深めた。彼女はかつて未熟に感じたバンディの変貌や成熟ぶりに驚かされ、法律家、政治家としてキャリアを築きつつあることを大いに喜んだ。彼女もその後シアトルを何度か訪れ、テッドの「婚約者」としてデイビス知事らに紹介された。
しかし1974年1月、バンディは突然エドワーズとの連絡を一切絶った。電話や手紙はなしのつぶて、ようやく一か月後に電話に応じたバンディは、なぜ説明もなく一方的に関係を終わらせようとしているのかと詰問するエドワーズに「君が何を言っているのか全く分からないよ」と抑揚のない声でしらを切った。
後にバンディは、「彼女と結婚できることを自らに証明したかっただけだ」と当時の心境を振り返っており、エドワーズも“再会”以来のバンディの急速なアプローチは学生時代にフラれた元恋人への執拗な意趣返しだったと受け止めた。かたやバンディとクロエプファーとの関係は依然続いており、彼女はしばしば男の異性交遊に不信感を抱いてはいたがダイアン・エドワーズを直接知る機会はなかったという(75年に警察の事情聴取で初めてその名を聞かされた)。
本物の家族のように見えるリズ、モリー、テッド
リズ・クロエプファーはバンディの刑確定後、81年に回顧録『幻の王子—テッド・バンディと私の人生』を発表。近年、Amazonのドキュメンタリー番組への出演やネットフリックス映画の原案に採用されたことから増補して再版された。新たに追加された娘モリーの章では、「父親代わり」と思って慕っていたバンディに7歳頃から殴打や危険な遊びに晒され、露出や過剰な接触といった性被害を受けていたと綴られている。
テッド・バンディの大きな特徴として、犯罪者に多い「持たざる者」の類型には該当せず「多くのメリットを有する者 」の側だったことが挙げられる。複雑ながらも親・家族がおり、幼少期はいじめの標的とされながらも人並み以上の美貌に育ち、勉学や雄弁さで教授や学友らからも一目置かれていたと言ってよく、社会的地位のある人々の信望も厚く今まさに活躍の場を広げようとしているかに見えた。かりそめとは言え、擬似的な家族関係を築くことも彼には容易いことだったのかもしれない。
犯行とプロファイリングについて
最終的にテッド・バンディは死刑執行の数日前になって30人以上の殺害を自供する。しかしそのうち身元が特定されたのは20名に留まり、大半は遺体の未発見や被害者が特定不能、あるいは遺骨が見つかっても証拠不充分とされ、罪に問われてもいない。
殺人がいつ開始されたのかについても諸説定まっておらず、以下で紹介する被害者や行方不明者もすべてが彼の犯行だと確証が得られている訳ではない。一般人には理解しがたいところだが、死刑が見込まれる凶悪犯たちは捜査のかく乱を目論んだり、自らの虚栄心を満たしたりするために、やってもいない殺人について虚偽の自白を行うことがある。つまりバンディの最終自白もはたしてどこまでが真実かの線引きは、客観的証拠をもって立証するよりほかないのである。
ダイアン・エドワーズ
事件が繰り返されていた渦中にも、被害者たちの特徴として「真ん中分けの長い黒髪の白人女性」という共通項が指摘され、犯人の「好みのタイプ」だと捉えられていた。捜査官や犯罪心理の専門家、ノンフィクション作家らは、「学生時代に彼を拒絶したガールフレンド、ダイアン・エドワーズを投影して標的を選んでいる」、バンディが意図していないにしても彼女に対する「潜在意識としてのコンプレックス」が反映されており、犯行はエドワーズに対する代理報復感情に起因すると主張した。
(2000年代初頭のソウル20人連続殺人で知られるユ・ヨンチョルは、富裕層の家を襲撃する強盗殺人から途中で手口を切り替えた。マッサージ師やホテトル嬢を部屋に呼び出して犯行に及べば通報や発覚のリスクが低いと考えたためだ、とユ本人は説明したが、彼を捨てた元妻もマッサージ師だったことから代理報復の一種と捉えられている。)
こうした連続犯の場合、犯行の手口や被害者の特徴から動機や人物像を「解読する」ことが、テレビや映画における犯罪プロファイリングの「お決まり」となっている。俗に言う「刑事の勘」に比べれば、説得力がありそうな捜査手法だが、この仮説を聞かされた当のバンディは、女子大生を狙ったのは確かだが、「若くて魅力的だったからに過ぎない」として、その理論を嘲笑した。
事実、彼の手にかかればエドワーズ本人を襲撃する機会はいくらでもあったし、外見的特徴が当てはまらない被害者も複数いた。見知らぬ女性たちへのアプローチを繰り返す中で、拒絶されたり逃げられたりしたことも一度や二度ではない。そして多くは大学生や成人年代であったが、年端のいかない少女さえ2人含まれている。
バンディの犯行は「女性に対する異常な執着」ではあるものの一人の女性をつけ回すストーカー趣味は薄く、様々な土地で「レディ・キラー」となるナンパ師の傾向が強い。二十歳で味わったたった一人の相手に対する憧憬、劣情と執着がすべての犯行の源泉だとする見方はさすがにロマンチストすぎるかもしれない。客観的事実として言えることは、当時の北米では若い女性たちの間で中分けのロングヘアが流行していたというのが関の山であろう。
今日でもそうした「お決まり」のプロファイリングは、精度の高さゆえではなく「刑事の勘」より描きやすく見映えするため、あらゆるメディアで踏襲されている。犯罪心理学そのものを全否定したい訳ではなく、「真相」を求められるあまりマスコミや専門家たちは「犯人さえ知りえない事実」を描きがちな点は視聴者・読者各位にも注意が必要となる。犯人さえ意図していなかった「深層心理」といった「理由」をこじつけて「事件」を構築し、物語の空白を満たそうとするのはもはや作家の領分である。心理学者やプロファイラーの仕事は野次馬を納得させることではない。
■1974.01-07
先述の通りテッド・バンディは、1974年1月、ダイアン・エドワーズに対して一方的に距離を置いた。彼の中でこの時期に大きな変容が起きていたのか、それとももっと前から予兆や計画があったのか。いずれにしても時同じくして彼が拠点としたシアトル、その周辺地域では女学生らが立て続けに消息を絶つ不可解な事件が相次いだ。
被害者から犯人像が浮かび上がるのか
74年1月4日未明、シアトルの学生街に暮らすワシントン大学の学生カレン・スパークスのアパートに何者かが侵入し、激しい暴行を加えた。侵入者はベッドフレームの金属棒を用いてスパークスを殴打して昏倒させた後、同じ棒で性的暴行を加え、広範囲にわたる内臓損傷と膀胱破裂を引き起こした。数時間後、病院に搬送されたスパークスは一命を取り留めるも、恒久的な脳損傷と視力・聴力の著しい低下など甚大な後遺症が残った。
2月1日、ワシントン州立大学の学生リンダ・アン・ヒーリー(21歳)はこの日も朝から地元ラジオ局へスキーヤー向けの天候情報を収録しに出掛けるはずだった。しかし収録現場に彼女は姿を見せず、その日予定されていた家族との食事会の予定も無断欠席した。翌日の音楽の授業にも現れず、不審に思った同居人たちは彼女の部屋を検めた。ベッドは一見整えられていたが布団をめくってみるとマットレスまで大量の血に染まっていた。そして部屋にヒーリーの遺体こそなかったが、血塗れの寝間着が脱ぎ残されていた。
3月12日、シアトルからおよそ100km南西にあるエバーグリーン州立大学の学生ドナ・ゲイル・マンソン(19歳)の行方が分からなくなった。彼女はキャンパスで行われるジャズコンサートに行くと言って寮を出たが、構内でその姿は見られていなかった。当初は旅行に出掛けたものと誤解され、通報までに6日間を要したことで、その後の動線につながる情報が集まらなかった。
4月17日、シアトルから南東175km離れたセントラル・ワシントン州立大学に通うスーザン・エレイン・ランコート(18歳)が夕方、帰宅途中に行方が分からなくなった。彼女の身に何が起きたのかは判然としなかったが、2人の女子学生から14日と17日の夜にベージュ系のフォルクスワーゲン「ビートル」に乗った「腕を吊った男」が「本を運ぶのを手伝ってほしい」と声を掛けてきたとの情報提供があり、関連が疑われた。
5月6日、オレゴン州立大学の学生ロベルタ・キャスリーン・パークス(20歳)はコーバリスの寮を出て友人と会う約束をしていたが、約束の店に到着しないまま消息が途絶えた。シアトルから南におよそ420km離れたエリアである。
6月1日、シアトル・タコマ国際空港近くのビューリエンで22歳のブレンダ・キャロル・ボールが酒場を出た後、行方不明となった。最終目撃は駐車場で、腕を吊った茶髪の男と立ち話をしていたという。しかし彼女は冒険好きな性格だったため、人知れず旅行に出たとも考えられ、通報されたのは失踪から10日以上経ってからだった。
6月11日未明、ワシントン大学の学生ジョージアン・ホーキンスがボーイフレンドの寮から帰宅中に消息を絶った。試験前でスペイン語のノートを借りに行くと出ていったきり、深夜3時を過ぎても戻っていないことに寮の級友らが気づいた。ホーキンスは高校、大学在学中もオールA、ミスコンテストにも選ばれる才女で、ウォーターゲート事件に関心を持ち、ジャーナリストかニュースキャスターを志していた。学費に充てるため、17日から新たな仕事先も決まっていた。
毎月のように起こる女学生らの失踪に「連続殺人」の気配も色濃くなり、ルートとなる路地一帯を殺人課や鑑識課も総出で捜索したが、少女の遺留品や事件の痕跡は得られなかった。しかし、事件当夜、付近の路地裏で松葉杖を突き、ギブスをはめた男の目撃情報が複数寄せられ、薄茶色の「ビートル」までカバンを運ぶのを手伝ってもらえないかと頼まれた者もいた。
女学生らの相次ぐ失踪を受け、ワシントン州・オレゴン州のニュース番組で「茶色いビートルに乗る不審な男」への警戒が広く呼びかけられた。一方で、失踪現場周辺からは犯人につながる物的証拠が何も出ず、捜査は難航を極めていた。女性たちはどこへ連れ去られてしまったのか。
行方が分からなくなったのは若い白人女性で一様に美貌の持ち主ばかり。多くが栗色・長髪・中分けのヘアスタイルという特徴以外にも、失踪時の服装がスラックスやデニムパンツという共通点が見られた。彼女たちは平均女性よりも知的で、裕福な家柄に育ち、音楽やスポーツやダンスといった特技を備える者ばかりだった。また事件は大学の試験期間、そして奇妙にも大学構内の工事のタイミングとも重なっていた。それぞれの事情を洗っていくと、旅を好む以外でも、家族や恋人と喧嘩していた、ホームシックを口にしていた等、自発的失踪や自死の可能性を懸念せねばならないケースもあった。
この時期、テッド・バンディはシアトル犯罪防止諮問委員会の副委員長として働いており、女性たちに向けたレイプ被害予防のパンフレット作成などに追われていた。この時点では誰も知る由もないが、女性の犯罪被害を食い止めようとする旗振り役の立場であり、周囲の目を完全に逆手に取っていた。
また同時期、ワシントン州の政府機関である緊急サービス局(DES)で二度の離婚歴を持つ二児の母キャロル・アン・ブーン と懇意となっている。
事件で使用された愛車はアルカトラズ犯罪博物館に収蔵された
1974年7月14日、ワシントン州キング郡のサマミッシュ湖州立公園で、2人の若い女性が相次いで行方不明となった。夏の湖畔は連日イベントが催されており、キャンプや日光浴、ボート遊びを楽しむ若者たちのレジャースポットとして大いに賑わっていた。
昼下がり、タオルを広げて日光浴をしていた郡少年裁判所の保護観察官ジャニス・アン・オット(23歳)の元に、左腕を吊ったテニスシャツ姿の男が助けを求めた。
「車からカヌーを下ろせなくて困っているんだけど。駐車場はすぐ近くなんだ」
女性は二つ返事で男に従い、その場を後にしたが、いつまで経っても元の場所に戻ってこないことで周囲の人々は不審に思った。オットは前年結婚したばかりで、カルフォルニアの大学院に進んだ夫とは離れて暮らしていた。
19歳のデニス・マリー・ナスランドは恋人のケン・リトル、友人カップルのボブ、ナンシーと午後から遊びに訪れていたが、夕方近く、何も告げずにその場を離れると、そのまま消息を絶った。ナスランドは日中、事務員として働きながら、夜間学校でコンピュータプログラミングを学んでいた。
失踪当時、ケンとボブは軽食を取って昼寝をしていた。やがてひと気が少なくなるとボーイフレンドらは異変に気付き、空っぽのナスランドの車とビーチの間を右往左往した挙句、管理事務所に駆け込んだ。ナンシーによると、ナスランドは到着したときジアゼパム錠(抗うつ剤)を4粒服用し、その後は「気分がいい」と話していたという。
わずか4時間のうちに2件の拉致が疑われるとあって、通報を受けた捜査機関はすぐに捜索を開始する。深夜の押し込みや路地裏ではなく、多くの人出で賑わうレジャースポットで白昼堂々人目もはばからない、それもたった4時間余りで立て続けの犯行とあって、マスコミ報道もピークに達する。
警察の懸命の捜査にも拘らず、多くの人や車の出入りもあって、遺留品や事件の痕跡は見つけられなかった。しかし女性客たちへの聴き取り調査の結果、同日、他にも4人が不審な男から声を掛けられており、トイレの近くでデニス・ナスランドらしき女性が初対面らしい男と話しながら立ち去る姿を見た者が3人確認された。
17歳のドーン・サンダースも音楽仲間たちと車で公園を訪れており、日中、ギプスを付けた20代後半らしい男に声を掛けられた。
「車に積んだ荷物を下ろすのを手伝ってくれないか」
腕を骨折しているのだと察して、サンダースはすぐに快諾し、一人だけ車を降りた。男は「テッド」と名乗り、少女を車まで案内した。しかし聞かされていたような大荷物は見当たらず、不審に思ってその場から逃げだしたという。
「テッド」を名乗る男は用意周到にケガを偽装して女性を油断させ、車までおびき出して拉致したものと考えられた。過去の類似事件と同一犯とすれば、監禁場所や殺害現場となる根城がシアトル近郊にあるのではと推測された。捜査機関を挑発するつもりか慎重な「品定め」のためか、男は群衆に紛れて犯行に及んだのである。
目撃証言から描かれた「テッド」の似顔絵
ロースクール時代の学友ダン・ラザレスは、サマミッシュ湖事件を報じるニュースを眺めながら「VWに乗った“テッド”と言えば、バンディのことじゃないか」と友人たちと笑い話にしていたと振り返る。彼らの知るテッド・バンディは、むしろ凶悪犯とは似ても似つかない常識人で通っていたためである。
かたや報道や似顔絵を見たリズ・クロエプファー、アン・ルール、DES職員やワシントン大学の心理学教授ら4人は、半信半疑ながらも容疑者はテッド・バンディかもしれないと通報した。しかし日に最大200件もの情報提供を受けていた捜査員たちは、この時点で経歴のクリーンな法学生が連続凶悪犯だと真剣には捉えていなかった。よもや実名を明かして犯行に及ぶわけがないといった侮りもはたらいたのかもしれない。
■1974.09-11
74年9月初旬、バンディはユタ大学で法律を学ぶためにソルトレイクシティに到着した。しかし授業は全く理解できず、周囲の学生との圧倒的な「出来のちがい」に落胆し、ガールハントに耽るようになった。シアトルから頻繁に電話を掛けていたクロエプファーによれば、男はこの時期「少なくとも12人以上」とデートを重ねていたとされる。
その秋、ソルトレイクシティ近郊でも少女たちが毎月行方不明となる異常事態となった(このエリアの犠牲者は最大8人と目されている)。
バンディの最終自供によれば、犯行の「再開」はソルトレイクシティへの引っ越しの道中に始まったという。州間高速道路84号線を走行中、ヒッチハイクをする少女の姿が男の目に留まった。見た目は17歳前後で、身長約168cm、薄茶色の頭髪、ビーズのシンプルなネックレスを身に付けていた。男の記憶では、緑色の大きなリュックを背負った家出少女で「モンタナ州のどこかを目指していた」という。
バンディは強姦・絞殺した後、途中で遺棄して現場を離れたが、翌日再び戻ってきて遺体をポラロイドカメラで撮影し、切断して近くの川に捨て直したと供述。ガソリンスタンドのレシートから9月2日にボイジー空港近郊にいたことまで割り出されたが、「牧場風の家々を見かけた」という地理条件だけでは現場の特定がままならず、遺体の発見には至らなかった。被害者の身元は今も分かっていない。
9月6日、サマミッシュ湖州立公園から東へ3kmほど離れたイサクアでライチョウ狩りに訪れていた猟師二人が道路脇に人骨らしきものを見つけて通報した。前年サマミッシュ湖の公園で同日略取されたジャニス・オット、デニス・オスランド、また別の一体については後にボーイフレンドの寮から帰宅する途中でいなくなったジョージアン・ホーキンスの遺骨と特定される。この半年後にはイサクア近郊のテイラー山を訪れていた林業の学生たちが複数の頭蓋骨を発見して届け出た。歯の特徴などから、下宿先で襲撃されたリンダ・ヒーリーをはじめ、下校途中で姿を消したスーザン・ランコート、友人との約束に現れなかったロベルタ・パークス、空港近くの酒場を出た後いなくなったブレンダ・ボールのものと特定された。
(複数の遺体を同じ場所に遺棄する手口は、佐賀七人連続殺人とも通じるものがある。用済みの遺体に対する雑な扱いは、犯行の手練れと共に、事件の発覚や逮捕に対する恐怖心の欠落を感じさせる。)
後にブレンダ・ボールと特定された頭蓋骨
10月2日、ユタ州ホラディのオリンパス高校に通うナンシー・ウィルコックス(16歳) は「ガムを買ってくる」と自宅を出たきり、二度と戻らなかった。少女はブラウスに青色のコーデュロイパンツ姿で、自宅近くで身元不明の男性が運転する黄色いフォルクスワーゲン「ビートル」に乗車していたところを目撃された。
後のバンディの自白によれば、幹線道路沿いを歩いていたところを追尾し、ナイフを突きつけて車に乗せたという。果樹園に連れ込んでレイプに及び、自宅に連れ帰って24時間監禁して弄んだと語った。遺体は南へ320km離れたキャピトル・ルーフ国立公園付近に埋めたとされるが、発見には至っていない。
10月18日午後9時半ごろ、ユタ州ミッドヴェールのピザ店を出たメリッサ・アン・スミス(17歳)の行方が分からなくなった。9日後、近くの山岳地帯で全裸死体となって発見され、検視の結果、行方不明から最長で7日程度生存していたことが分かった。少女がミッドヴェール警察署長ルイス・スミスの娘だったことから、巷間では捜査機関への挑発との見方もあった。
10月31日、ソルトレイクシティから南に40km離れたリーハイで深夜にハロウィンパーティーを抜けてコンビニエンスストアに向かったローラ・アン・エイム(17歳)が消息を絶った。近くでヒッチハイクをする少女の目撃があり、拉致の疑いが強まった。1か月後、アメリカンフォークキャニオンと呼ばれる渓谷の道路沿いでハイカーにより全裸遺体が発見される。拘束や殴打の痕跡があり、遺体状況から20日程度は存命だった可能性があることが分かった。
スミスとエイムは共に殴打、強姦、肛門性交、ナイロンストッキングを用いた絞殺の痕跡や監禁が窺われたことから同一犯とみなされた。
(テッド・バンディは処刑直前に口頭でスミスとエイムの殺害を認めており、「洗髪や死に化粧を施して儀式を行った」と語っていたが、長らく確証を得られてこなかった。しかし2026年4月、ローラ・アン・エイムの死亡事件についてDNA型鑑定によりバンディの明確な関与が裏付けられ、本件の捜査終結が伝えられた。当局によれば新たに加わった鑑識技術により、古い試料の中から男性のDNA型プロファイルの分離に成功し、犯罪データベースとの照合でバンディのDNAと一致が確認された。事件当時12歳だった妹のミシェルさんは、家族ではすでにバンディによる犯行と受け止めていたと言い、今も多くの人々がローラの事件に関心を抱いていたこと、捜査が継続され正式な確認に至ったことに感謝を述べ、「真実が記録されたことで、ローラも本当に喜んでいると思う」と語った。)
11月8日、ユタ州マレーの大型商業施設でウィンドウショッピングを楽しんだ18歳のキャロル・アン・ダロンチは帰路に就こうと駐車場へ向かった。この商業施設はメリッサ・スミスが最後に目撃されたピザ店から1マイルも離れていない。
新車のカマロに乗り込もうとすると、「ローゼランド巡査」を名乗る男に「何者かがきみの車に乗り込もうとしていたと通報があった。確認させてほしい」と声を掛けられた。巡査を名乗る男は車が無傷であることを検めると、「念のために被害届に署名がほしいので分署までご同行願いたい」と言って自分の車に案内した。近くの小学校脇の路肩に車を停めると、男はダロンチの腕を掴み、左手首に手錠を噛ませた。さらに拳銃とバールで脅迫に及ぼうとしたため、彼女は死に物狂いで抵抗し、なんとか車外へ転がり出ると、偶々通りがかった車に助けを求めて難を逃れた。
「偽警官」はそれまで知られた手口と似ていないが女性を車に誘い出す「なりすまし」のレパートリーの一種と捉えられ、「ビートル」の特徴からもワシントン州近郊の「テッド」と同じ連続犯に違いなかった。生還者ダロンチはその後の裁判でも生き証人として重要な役割を果たし、言い逃れを続けようとするバンディに対して「奴の顔は決して忘れない」と断言し、判決の行方を決定づけることとなる。
同11月8日の夕方遅く、マレーから北へ30km離れたバウンティフルにあるビューモント高校の生徒デブラ・ジーン・ケント(17歳)が、学内で催された演劇公演の終了直後に行方がわかなくなった。演劇教師や生徒らは駐車場で見知らぬ男が徘徊していたことを報告した。講堂の周囲を探索しているとカギが見つかり、その後の調べで同日略取未遂の被害者となったキャロル・ダロンチが男に架せられた手錠のカギと判明する。俄然、同一犯による連れ去りが濃厚となり、ワシントン州との連携など捜査の拡充が行われる。
■1975.01-06
ワシントン州では被害者の遺骨の発見こそあったものの犯人につながる糸口とはならず、新たな犯行がなくなったこともあって捜査が暗礁に乗り上げていた。捜査官たちは、各地の住民データ、フォルクスワーゲンの所有者、過去の性犯罪者など各方面から多数のリストをかき集め、膨大なデータベースから割り出しを行うため、当時としては最新型の巨大演算装置(初期のコンピューター計算機)を導入した。何千人という候補者の中から上位者リストが4種目抽出され、その100名余の上位リストの中にはテッド・バンディの名も含まれていた。
ソルトレイクシティ近郊での連続失踪も大きな話題となり、シアトル近郊の連続事件との関連を巡ってマスコミも広く報道を繰り返した。記事を見たリズ・クロエプファーはキング郡警察署に二度目となる通報を行い、バンディがソルトレイクシティに転居したことなど詳しい事情聴取が行われた。
上位容疑者リストに名を連ねたテッド・バンディだったが、最も信頼できると思われていたサマミッシュ湖での「腕吊り男」目撃者による面通しで、奇しくも彼と特定できなかった。物証の欠如だけでなく、こうした証人の記憶違いまでもが凶悪犯に味方した。事実、男はヘアスタイルやひげ、眉、装いや表情を微細に変えることで、あるときは「スマートな青年」風、またあるときは「30代半ばのみすぼらしいやせ男」、「社会的地位のある実業家」などに擬態化し、その印象を使い分けていたと推測されている。固有の身体的特徴である「首元の大きなホクロ」はタートルネックなどで隠されているのが常だった。
クロエプファーはソルトレイク郡の保安事務所にも通報し、テッド・バンディは同地でも容疑者リストに書き加えられたが、やはり各事件と彼を直接結びつける法医学的証拠はないに等しかった。この先も多くの犯行を繰り返していくが、男は一度たりとも現場に指紋を残すことはなかった。また銃火器の不使用、鈍器や首絞めによる殺害もアシの付きづらさや処分の容易さから選んだ方法であった。
期末試験を終えたバンディは、1975年1月にシアトルへ一時戻り、クロエプファーと一週間を共に過ごした。クロエプファーはこれまでの通報や聴取内容を打ち明けることなく、8月にソルトレイクシティを訪問する約束を交わした。バンディは彼女の態度から何か変化を読み取ったのだろうか、それとも報道と捜査の過熱により余所へ目を向けさせたかったのかもしれない。犯行の舞台をコロラド州へと移し、大学生から標的を変えた。
「カメレオン」のように表情を変えるテッド・バンディ
1月12日、ソルトレイクシティから南東640kmに位置するコロラド州スノーマスビレッジが次なる事件の舞台となった。リゾート施設「ワイルドウッドイン」に滞在していた看護師のキャリン・アイリーン・キャンベル(23歳)が施設内で忽然と姿を消した。一か月後、敷地のすぐ外の道路脇で全裸死体となって発見され、特徴的な直線状の鈍器による殴打痕、鋭利な凶器による深い切り傷、左耳たぶの切り裂きなどが確認された。
3月15日の夕方、スノーマスビレッジから西へ140km離れたコロラド州ベイルに住むスキーのインストラクター、ジュリー・カニンガム(26歳)は友人と飲みに行く約束で、行きつけのバーへ向かう途中、消息を絶った。
バンディの供述によると、「スキー靴を運ぶのを手伝ってほしい」と声を掛け、手錠で拘束して拉致し、ベイルから140km離れたライフル近郊で性的暴行に及んだとされる。男は数週間後にもソルトレイクシティから6時間車を走らせ、彼女の死体に「会いに行った」という。
4月6日、25歳のデニス・リン・オリバーソンはユタ州とコロラドの州境に近いグランドジャンクションの実家へ自転車で向かったきり行方不明となった。彼女の自転車とサンダルは鉄道が走る高架橋下で発見された。
バンディの最終自白では、州境で犯行に及び、遺体をコロラド川に捨てたとされ、捜査によってガソリンスタンドのレシートから当日付近にいたことが裏付けられている。
5月6日、ソルトレイクシティから北へ255km離れたアイダホ州ポカテロのアラメダ中学校では12歳の少女リネット・ドーン・カルバーが行方不明となった。彼女はバンディによる最年少の犠牲者のひとりとみられている。その自白によれば、一人でいるところを車に誘い込み、ホテル「ホリデイイン」に連れ込んでレイプした後、スネーク川に遺棄したとされる。幾度となく周辺捜索が行われているもののこれまで遺体や遺留品は見つかっていない。
5月半ばには、交際していたキャロル・ブーンらワシントン州DESの同僚がソルトレイクシティのバンディのアパートを訪れ、一週間の同居生活を過ごした。また6月上旬にバンディはシアトルに戻り、このときもクロエプファーと一週間を過ごしている。彼女はやはり継続的な捜査協力について口外しなかった。男は来年のクリスマスを目途に結婚の話を進めようとしていたという。
6月28日、ユタ州バウンティフル出身のスーザン・カーティス(15歳)はプロボにあるブリガム・ヤング大学で催された青少年会議に出席した。会議の後、カーティスは黄色いイブニングドレスを着用し、学生センターで行われた食事会に参加。しかし「歯を磨きたいので寮へ戻る」と言い残して会場を後にすると、そのまま消息を絶った。
寮は会場から400mの近場にあったが、残されていた歯ブラシは直近で使用された形跡がなく、一度も帰宅していないと考えられた。彼女は運動神経がよく、以前から自転車で短い旅行に出掛けることがあったため、当初はまた数日で戻ってくるのではないかとの期待もあった。4日後、大学では「講義室で教科書を売ろうとしていた」彼女の姿が目撃されたとして生存の可能性が高いと考えられたが、その後の情報は全く途絶えてしまう。
バンディは最終自白でカーティスとの接触を認め、ユタ州プライスの幹線道路脇へ遺棄したと供述したが、遺体は発見されなかった。
逃げる男
1975年8月16日の夜明け前、ソルトレイクシティ郊外のグレンジャーを警戒中だったハイウェイパトロール隊が住宅街から高速で走り去る不審車両を追跡した。ボブ・ヘイワード巡査は運転手の男にIDの提示を要求しながら、「ビートル」の助手席がなぜか取り外されていることに気づいた。車内の捜索を求めると、スキーマスク、ストッキングで作られた別のマスク、バール、手錠、ゴミ袋、アイスピック、ロープの束などが見つかり、巡査は窃盗犯の疑いがあると推定し、その場で男の身柄を拘束する。
話を聞きつけたジェリー・トンプソン刑事は、前年のキャロル・ダロンチ略取未遂で手錠の使用、加害者の男や車の特徴を記憶しており、すでにクロエプファーの通報から「テッド・バンディ」の名も聞き及んでいた。家宅捜索の令状を取り、バンディの自宅アパートへ踏み込むと、「ワイルドウッドイン」にマークが付けられた観光ガイドブックやビューモント高校の演劇チラシが発見される。捜査員らの心証は疑惑から確信へと完全に切り替わった。
しかしバンディは依然として容疑を認めることなく、略取誘拐や殺人の罪に問えるだけの証拠も出揃わなかったことから、拘留満了を認められて保釈となった。シリアルキラーはしばしば「記念品」を収集することが知られているが、バンディの場合は「記念撮影」を行っていた。後年「家宅捜索のとき捜査員がポラロイドを見逃してくれたおかげで命拾いした」と言い、保釈後にすぐ処分したと語っている。
逮捕時に見つかった犯罪キット
ソルトレイクシティ警察は俄然テッド・バンディへの警戒を強め、24時間体制の監視下に置いた。捜査員がシアトルに飛び、交際相手リズ・クロエプファーへの事情聴取を行うと、ユタ州に引っ越す前に彼の部屋で「理解できないもの」をいくつか発見したと彼女は明かした。
必要のない松葉杖や石膏のパッケージがあったと言い、料理で使ったこともない肉切り包丁、手術用のゴム手袋、木箱入りの東洋風のナイフ、女性服の詰まった袋なども目にしたという。バンディには常に借金があったことから、「高価な品物はほとんど全て盗品ではないか」とクロエプファーは疑っており、新品のテレビとステレオについて詰問した際には「口外したらお前の首をへし折ってやる」と警告されたと告白した。またバンディは彼女が所有していた別の「ビートル」を借りて出掛ける機会も多く、トランクには「護身用」と言ってホイールレンチを積んでいたという。
9月、バンディは自身の所有する薄茶色の「ビートル」を10代の若者に売却。ユタ州警察はただちに車両を押収して徹底的な鑑識捜査を行い、複数の女性の頭髪を採取した。当時の頭髪鑑定は指紋やDNA鑑定と異なり、個人の識別はできなかった。鑑識官が色や太さ、毛質といった外形的な共通性を見分ける、いわば属人的な識別方法であり、裁判での法的な証拠能力は認められない。
しかしFBIの研究員ロバート・ニールは、「ワイルドウッドイン」で被害に遭った看護師キャリン・キャンベル、7日間生存していたとされるメリッサ・スミス、生還したキャロル・ダロンチの試料と「顕微鏡でも見分けがつかない」ほど似ていると指摘し、それぞれ面識のない被害者三人の頭髪が一台の車から発見されることは「信じられないほど稀な偶然」と結論付けた。
10月2日、バンディの面通しが行われると、ダロンチはすぐに「ローゼランド巡査」だと断定し、ビューモント高校の演劇関係者たちも当日徘徊していた「見知らぬ男」と認識した。バンディにはアリバイがなく、ダロンチへの監禁暴行および拉致未遂事件は立件の目途が立ったものの、連続殺人の容疑を固めるには物証がまだ充分ではなかった。両親が保釈金を支払い、バンディは裁判の開始までシアトルでクロエプファーと共に過ごした。彼女は捜査に協力し続けてきたが、その著書で「最後まで恋人の疑いが晴れることを願っていた」「(喧嘩や不信感もあったが)思い出されるのは彼との楽しい思い出ばかり」と述べている。
証人として出廷したダロンチ
翌月、連続女性誘拐殺人の合同捜査会議がコロラド州アスペンで開かれた。5州から集まった30人の刑事、検察官らはテッド・バンディが最有力容疑者との見方にまとまり、殺人罪の適用については更なる証拠固めが必要との見解で一致した。
翌76年2月にダロンチ略取未遂事件で裁判が行われ、誘拐、暴行の罪で有罪判決が下され、1年から最長15年の刑期が言い渡された。ユタ州刑務所で服役したバンディだったが、10月に道路地図、時刻表、社会保障IDといった「脱走キット」の所持が発覚して数週間独房へ送られた。
翌77年6月7日、殺人罪での予備審問のため、バンディはガーフィールド郡刑務所からピトキン郡裁判所への64kmを移送されていた。彼は弁護士を依頼せずに自己弁護を選択したため、手錠や足枷が免除されていた。その道中、バンディは「法律図書館で事件や裁判について調べ物をしたい」と陳情し、警備の隙をついて館内2階の窓から飛び降り てその場を逃亡した。
ただちに警戒態勢が敷かれたものの自然豊かな田舎町、脱走犯は検問を掻いくぐってアスペン山に南下し、狩猟小屋を見つけて備蓄されていた食糧や衣類、ライフルを盗んで再び山をさまよい歩いた。10日、マルーン湖畔に停車していたキャンピングトレーラーに侵入し、食料とパーカーを窃盗。着地の際に捻挫した右足首がままならず、ゴルフ場で車両を窃盗して逃走を続けた。
逃亡6日目、警官が蛇行運転する不審な車両に気づき、バンディは再逮捕される。車内にはバンディが裁判資料として事前に入手していたアスペン山の山岳地図が残されており、逃亡が計画されていたことを裏付ける決定的な証拠とされた。
越境殺人犯として最重要手配犯とされたテッド・バンディ〔FBI〕
友人や法律顧問らはガーフィールド郡刑務所に戻ったバンディにこれ以上変な気を起こさぬよう説得に当たった。公判前手続きでは検察側の証拠の一部が却下されるなど、バンディ側に有利に事が進んでおり殺人罪の適用は難航しており、自由の身になれるとの公算も高かったとされる。
しかし、バンディは再び脱獄を試み、刑務所の図面や金ノコを他の囚人から手に入れ、またキャロル・アン・ブーンに頼んで密かに現金5000ドルを持ち込ませていた。独房の男は天井の鉄筋の隙間に小さな穴を開け、夕方、ほかの囚人たちの入浴時間になると屋根裏の探索を繰り返した。「夜、天井裏(または床下)で何かが動いている」といった囚人たちの報告もあったが、所内では無視されていた。
ガーフィールド郡刑務所ではクリスマスになると軽犯罪による囚人の一部は家族の元へ一時帰宅が認められ、それに合わせて刑務所職員たちも休暇を取った。12月30日の夜、バンディはベッドの上に本の山と毛布で即席の人形をつくると、天井穴を抜けて看守らの暮らす寮に侵入した。そのとき妻と外出中だった主任看守の部屋のクローゼットから私服を盗んで着替えると、男は敷地正面玄関から堂々と「塀の外」に出ていった。
盗難車で山道を抜けようとしたがすぐに故障し、ヒッチハイクで100km東にあるベイルへ出た。そこからバスでデンバーへ行き、朝のうちに飛行機に搭乗した。刑務所職員たちが脱獄に気づいたのは31日の正午過ぎ。17時間以上前に娑婆に出た男はすでに東へ1900km離れたシカゴの地に降り立っていた。
男は列車でさらに東のミシガン州へ移動し、車を盗んでひたすら南下を開始し、1月7日にはジョージア州アトランタ、そこから長距離バスでフロリダ州に入った。このときテッド・バンディには、フロリダであれば何かしでかさないかぎり捜査の手は及ばないと考え、悪事から足を洗って偽名で合法的な仕事にありつこうという心づもりでいた。しかしIDもなしでの職探しはうまくいかず、結局かつてのように万引きや窃盗による「その日暮らし」に戻っていった。
再逮捕
1978年1月15日未明、すっかり寝静まっていたフロリダ州立大学の女子学生寮「カイ・オメガ」が突如として凄惨な事件現場と化した。
侵入者は眠っていたマーガレット・エリザベス・ボウマン(21歳)を樫の薪で殴りつけ、ナイロンストッキングで絞殺。続けてリサ・ジャネット・レヴィ(20歳)にも同様の暴行を加えた上、乳首を引き裂き、左臀部を噛みちぎり、ヘアミストのボトルで性的暴行に及んだ。
さらに隣室のキャシー・クライナー(21歳)は顎を折られ、肩にも深い裂傷を負ったが命に別状はなかった。カレン・チャンドラー(21歳)も襲われて脳震盪、顎の骨折、歯の喪失、指の粉砕骨折を負った。後にクライナーは「外から車のヘッドライトが接近してきたため犯人が逃げ出し、おかげで命拾いした」と振り返っている。
わずか15分ほどの間に4人が襲撃され、先の2名が死亡。30人以上が暮らす寮内での出来事にもかかわらず、侵入に気づいた者や目撃者は誰もいなかった。
同夜、8ブロック離れた地下アパートに暮らすフロリダ州立大学学生シェリル・トーマス(20歳)も覆面の侵入者によって襲撃された。一命を取り留めたものの、肩の脱臼、顎と頭蓋骨の5カ所を骨折し、左耳聴覚の消失と平衡感覚の障害を負い、彼女のダンサーとしてのキャリアが絶たれてしまった。
ベッドには精液のシミと犯人が被っていたパンティストッキングのマスクが残されており、後の鑑定で、付着していた頭髪がテッド・バンディのものと酷似することが判明する。凶器は「カイ・オメガ」寮と同じ薪が使用された。
最後の犠牲者となったキンバリー・リーチ
78年2月8日、フロリダ州レイクシティの中学1年生キンバリー・ダイアン・リーチ(12歳)は1限目の授業中に姿を消した。リーチは授業をさぼったり、学校を脱け出したりするようなことのない大人しい生徒で、友人たちは何かトラブルに遭ったにちがいないと直感した。家族や学校関係者は校内や近辺を捜し回ったが消息は掴めず、夕方5時半に警察に通報した。
学校の周辺では不審な白いワゴン車の徘徊が複数目撃されており、14歳のレスリー・アン・パーメンターは運転席の男に声を掛けられたという。近くにいた彼女の兄が気づいて詰め寄ったため不審なワゴン車は逃げ去った。幸いパーメンターは無事だったが、リーチも同一犯による連れ去りの疑いが濃厚となる。パーメンター兄妹は父親が刑事だったこともあり、男の容姿や車のナンバーを注意深く記憶していた。男はやせ型、茶髪の白人で30代半ばと見られ、同意の元、催眠療法による似顔絵の作成やその後の面通しにも協力した。
レイクシティではバンディによる新たな犯行に違いないとして全国からマスコミが押し寄せ、数週間にわたって町中が騒然となった。
2月10日、FBIはいまだ連続殺人犯とは断定できないながらも脱獄犯テッド・バンディを最重要指名手配犯として公表する。翌11日にはレオン郡保安事務所のドーズ巡査が覆面パトカーで巡回中にバンディらしき男が車を施錠しようとしているのを発見。男は身分証を持っていないと言い、巡査が懐中電灯で車内を照らしたところ、床に取り外されたナンバープレートが落ちていた。ドーズ巡査が車に戻って無線でナンバーを照会しようとすると男はその場から逃走した。ナンバーはパーメンター兄妹が伝えたものと一致しており、バンディとリーチ誘拐を決定づける有力証拠となった。
14日、警察は多角的な捜査結果によりキンバリー・リーチの家出の可能性は否定されたと発表し、翌15日には保安事務所よりリーチに関する情報提供に500ドルの懸賞金がつけられた。
フロリダ州立大学で盗まれた白いワゴン車
すでにバンディの現金は底を尽きており、厳戒態勢の市街を離れる手立てを求めて途方に暮れていた。
2月15日未明、フロリダ州ペンサコーラで警戒に当たっていたデイビッド・リー巡査が、ヘッドライトを点けずに走行する不審車両を見つけて停車を命じた。リー巡査は盗難車であることをすぐに確認し、「運転席から降りろ」と言うと、男は巡査の足を蹴ってすかさず逃走した。巡査が威嚇射撃すると男はその場に倒れ込んだため、様子を窺おうと接近すると男は不意に掴みかかって拳銃を奪おうとし、両者はもみ合いとなった。リー巡査が拳銃で三度殴りつけてどうにか制圧すると、男は「殺せばよかったのに」と口にしたという。
男は当初「ケネス・ミスナー」と名乗り、所持品にも同名義のカードや書類が出てきたが、その顔は最重要指名手配犯にして、「カイ・オメガ」寮襲撃やリーチ殺害の嫌疑がかかるテッド・バンディその人に他ならなかった。複数の捜査機関をたらいまわしにされ、連日徹底した追及を受けた後、ようやく男はその正体を明かした。バンディは殺害について認めなかったが、捜査員たちが遺体発見に協力するよう懇願すると、「あまりに凄惨な現場であなたには直視できないよ 」と口にした。
警察では、キンバリー・リーチ失踪の直前にバンディが「レイクシティ・ホリデイ・イン」に偽名で宿泊していたことを突きとめた。押収したワゴン車の床から血痕様のシミとそれを覆い隠すように撒かれた砂を発見し、検出された土壌サンプルや落ち葉を解析にかけ、州一帯を検索した。失踪から2か月後、スワニー川州立公園近郊の豚舎の廃屋で12歳の少女は変わり果てた姿で発見される。タートルネック以外何も身に付けておらず、残りの衣類はすぐ傍に置かれていた。腐敗が著しく検死でも死因の特定は難しく、「首周りへの殺人的暴力」という曖昧な表現に留まった。検視官は、少なくとも2度の強姦、性器の切断、喉の切り裂きがあったと結論付けている。
後年、リーチの友人は「12歳の私たちにはまだ想像もつかなかった。大人になってから、ようやくあのときの彼女の恐怖や、大人たちが話していたことの真の意味が理解できたのです」と語った。
78年7月18日、少女が誘拐される場面に遭遇したという唯一の証人、地元消防署で救命士として働くクラレンス・アンダーソンが警察に申告した。事件のあった日の「8時半ごろ、デュバル通りの西行き車線でフットボールジャージを着た少女が白いワゴン車に行く手を遮られて、運転席から出てきた男に乗せられていくのを見た」と言い、そのときの二人はニュースで度々目にするリーチとバンディに他ならないと確信していたが、恐怖心から半年近く通報できずにいたという。
諦めの悪い男
1979年6月25日、フロリダ州デイド郡巡回裁判所で「カイ・オメガ」襲撃事件の公判が開廷する。全米初となる生中継が行われ、五大陸から250名を超えるメディアが押し寄せる世界的な公開裁判となった。5人の国選弁護人がテッド・バンディの弁護団を務めたが、またしても被告人のバンディ自らが大部分で弁舌する大立ち回りを担った。O.J.シンプソン事件などに連なるその後の「メディア裁判」の先駆となった。
弁護団のひとりボリー・ネルソンは後の回顧録で、バンディが当初から正当な弁護活動を妨害したことを糾弾し、「どうやら彼にとっては(有利な判決よりも)どうやって自分が指揮を執るかが問題だったようだ」と皮肉を綴っている。
弁護団のひとりマイク・ミネルバによると、「カイ・オメガ」のボウマン、レヴィ、そしてリーチの殺害を認めることで死刑を免じる司法取引が持ちかけられていたという。この取引にバンディは、罪を認めて死刑を回避した後で、何年か待てば、証拠の紛失(アメリカの法執行機関は証拠管理の杜撰さが問題視されていた) 、証人の転出や死亡などで再審無罪を掠め取れる算段を立て、乗り気になっていた。しかしミネルバ曰く、「彼は全世界に向けて(カメラの前で)自分の罪を認めることができなかった 」ため、土壇場でこの取引を蹴ったとされる。
検察は、襲撃犯が被害者に残した噛み痕を最重要証拠として、法医歯学の権威リチャード・スーヴィロンとローウェル・レヴィンに鑑定を依頼し、バンディの歯型を復元して照合した。バンディは過去のダロンチ拉致未遂事件とあらゆる側面で異質の事件だとして襲撃犯ではないと主張した。
7月24日、陪審団は2件の殺人、3件の殺人未遂、住居侵入などで有罪を認め、裁判長エドワード・コワートは死刑を宣告。バンディは判決を不服としてフロリダ州最高裁に上訴したが、有罪評定と量刑判断に誤りはないとして棄却された。
歯型の一致を説明するスーヴィロン博士
度重なる延期の末、1980年1月7日にオーランドのオレンジ郡裁判所でキンバリー・リーチ事件の公判が始まる。先の「カイ・オメガ」裁判では前面に出て抗弁したテッド・バンディだったが、自己弁護を諦めて弁護団に主張を委ねた。その法廷戦術は、精神異常による心神喪失であった。
死刑判決から半年を経て、バンディにかつてのような堂々とした雄弁さや余裕の笑みや傍聴者を沸かせるジョークは失われ、意に反する証人たちの口を塞ぐことに情緒をかき乱された。検察は、学校周辺での「白いワゴン車の男」の目撃情報を中心に65名もの証人を集めていた。犯行の決定的瞬間に遭遇したクラレンス・アンダーソンの証言も、男と少女の特徴を確実に捉えていた。
車両から検出された血液はリーチと同じB型と判定されたが、当時の法医学分析では「個人の特定」には至らず、先述の通り、頭髪鑑定も確実な証拠能力は認められていない。検察側は、被害者の残された衣類について詳細な繊維鑑定を行い、バンディが逮捕時に着用していたジャケットに遺留品の繊維片が付着していたことを発見した。これによりバンディと被害者、点と点が一本の線でつながった。
2月7日、7時間の評議の末、陪審団は有罪を評決した。9日、量刑審理が開始されると、被告人は前代未聞の行動に出た。弁護側証人として出廷していたキャロル・アン・ブーンに対して公開プロポーズ を行い、彼女も死刑囚の求婚に応えたのである。フロリダ州法では裁判所での宣誓には口頭合意でも法的効力が認められるため、二人は正式に結婚した。
2月10日、テッド・バンディは通算三度目となる死刑宣告を受け、ハネムーンはレイフォード州立刑務所の死刑囚房で単身過ごすこととなった。
妻子と共に笑顔を見せるバンディ
余談として、州立刑務所では夫婦面会を正式には許可していなかったが、看守への賄賂によって「お目こぼし」が慣行となっていた。バンディの妻となったブーンは、夫と引き離されて約20か月後の81年10月24日に娘を出産している。
しかし「レディ・キラー」の異名は伊達ではない。バンディは獄中生活においても死刑囚としての処遇、食事や照明といった住環境などに不満を唱え、民事訴訟代理人ダイアナ・ワイナー弁護士を通じて度々改善を求めていた。彼女は他の弁護士たちが「適切な裁判の遂行」にのみ焦点を当てたのに対し、死刑囚と向き合いながら無理難題に応えて献身的に支援を続けていた。夫と子ども(82年出産)があり幸せな家庭を築いており、ワイナー自身は依頼人以外の関係や好意を公にすることはなかったが、若く聡明な女性というバンディの「好み」と合致していたことからゴシップ紙などでは「最後の恋人」とも噂された。
夫婦の面会は時の流れとともに失われていったが、弁護士との接見は許されていたため、ワイナー弁護士がバンディにとって最後の「特別な支え」だったことに誤りはない。しかし月3回にも満たない面会の頻度や、ワイナー夫妻がその後も良好な結婚生活を築いた事実からも、バンディと不倫関係だった可能性は極めて低い。
語る男
リーチ裁判終結後、バンディは長い再審活動を開始するとともに、自らの生い立ちや犯罪に手を染めた経緯、犯行の具体的な手口などを語り始めた。延べ150時間以上のインタビューを行ったノンフィクション作家スティーブン・ミショー&ヒュー・エインワーズの共著『殺人犯との対話』(1989)が広く知られ、バンディを描いたドラマやドキュメンタリー映画の底本とされている。
バンディは少年時代の窃盗から始まった「所有欲の充足」が強姦や殺人でも「根っこは同じ」だと言い、「究極の所有とは、命を頂戴することだった」と語った。彼にとって「殺人は単なる欲望や暴力の捌け口ではない」と言い、「被害者を所有し、自分の一部とすることで、二人がひとつになれる」、「殺害や遺棄した現場は神聖な場所となり、しばしば引き戻される」と神秘体験か何かのように反芻している。
86年に「カイ・オメガ」事件での刑執行が取り沙汰されると、FBI特別捜査官ウィリアム・ハグマイヤーらにそれまで詳らかにしてこなかった死体凌辱などについて語った。ときに何時間もかけて現場に赴き、一晩中死体の隣で過ごしたことや、自宅で髪を洗い、化粧を施したこともあったという。腐敗状況が許すかぎり死姦を繰り返し、テイラー山に遺棄した4人分の首はしばらくアパートに保管していたとも明かした。
作家アン・ルールは「死に至るまで、そしてその死後さえも被害者を凌辱し支配することに喜びを得るサディスティックな社会病質者」と評している。いよいよ死を目前にして、彼はようやく己の所業を語る気になったのだろうか。むしろ自身の異常性を後世にまで見せつけんがためのパフォーマンスだったのではないか、これこそが虚偽の自白だったのではないかと筆者には思えてしまう。
結局、予定期日の15時間前に控訴裁判所が裁定の不備を指摘したことで「カイ・オメガ」事件は差戻しの審理が決定され、執行は無期限の延期とされた。続くキンバリー・リーチ事件での執行も度々延期が繰り返された。これは弁護団の不服申し立てによるものではなく、裁判所内外の死刑廃止派が執行に強く反対したためと見られている。
(※本稿では割愛するが、アメリカの死刑制度は、州によってその可否、年齢や罪刑といった適用範囲、電気椅子や薬物注射などの執行手段も含め、大きく状況が異なる。死刑制度は憲法修正第8条の禁じる「残酷で異常な刑罰」に該当するのではないかとする解釈が19世紀から長きにわたって議論され続けてきた。1967年から約10年間は死刑執行が停止され、新たな死刑判決は減刑を受けて終身刑とされた。1977年1月の執行再開から2025年までの49年間に処刑された死刑囚は1654人。2026年現在は27州で死刑が適法とされており、約81.7%に当たる1352人はテキサスをはじめフロリダ、オクラホマなどの南部諸州に集中している。住民投票で州法が改正されたり、88年の大統領選でも死刑存廃は論争の的とされるなど、政局や社会情勢、凶悪事件の発生などによって存廃の行方が左右される。)
獄中も上訴のかぎりを尽くして徹底抗戦したテッド・バンディだったが、88年半ば、控訴裁判所からリーチ事件での刑執行の具体的な期日が発表される。
年が明け、89年1月18日、バンディは司法捜査官を呼び出した。これまで最重要容疑者とされていたワシントン州、オレゴン州での8件のほか、それまで知られていなかったアイダホ、ユタ、コロラドでの犠牲者の存在を告白した。逮捕から約10年、犯行から15年近くが経とうとしていたが、死刑囚の口から語られる犯行の様子や当時の心境は司法官に臨場感を感じさせ、誠意の表れに思われたという。
犯行を認めたサマミッシュ湖事件では、連れ去り現場の湖畔から約3km離れた場所に見つけておいた小屋でジャニス・オットを複数回強姦し、殴りつけて昏睡させた後、今度はデニス・ナスランドを連れて小屋に戻った。オットが昏睡状態から回復していたため、(どちらかは不明ながら)ひとりを生かしたまま目の前で「もうひとり」を殺害し、解体の様子を見せつけたと打ち明けた。
男は常に殺人に囚われ、犯行に没頭し、被害者に対する同情や躊躇など微塵もなかった。いわば殺人は、彼の人生における功績であり、「良き思い出」だった。
だが被害者について名前や会話まではっきりと記憶しているものもあれば、なかには行方不明者の届け出さえない女性や遺棄現場が特定できないケースなど不完全な情報も多くあった。「知っていたとしても/記憶にあったとしても教えない」といった男の発言から、捜査機関では執行の遅延を狙った時間稼ぎと捉えられた。コロラド州のマット・リンドヴァル刑事は、遅延を狙った策略であるとともに、自分以外に本当の遺棄現場をだれも知らない「完全な所有権」を有することの確認作業であり、自衛的必要と異常性欲との葛藤だと解釈した。
執行前夜、ジェームズ・ドブソン神父との間で行われた最期のインタビュー収録で、バンディは自身について「ただ一点(過剰な暴力的性嗜好)を除けば、自分は普通の人間だったと信じている」と語り、「翌朝、目を覚まして自分がやったことを思い出すたびにゾッとした。これまで自分がしてきたことに身の毛がよだつ」とこれまでも犯行の度に後悔があったと口にした。そして「信じてもらえないかもしれないが」とした上で、「20年以上前に自分が犯したおぞましい行為によって、被害者、その家族に対して取り返しのつかないことをしてしまったことを深く反省している」と謝罪を述べている。
1989年1月24日午前7時16分、電気椅子による死刑執行により死去。享年42。
刑執行の直前、家族への電話を許されたバンディは母親と話したあと、妻キャロル・アン・ブーンに電話を掛けた。しかし夫との関係が悪化して絶縁を心に誓っていたキャロル・アンはその電話に応答することはなく、結局、男は母親に二度目の電話を掛けたとされる。
司法記録によると、バンディの持ち物は全てダイアナ・ワイナー弁護士に寄贈された。これにはキャロル・アンとの結婚指輪や約700ドルの全財産が含まれていた。報酬額として決して大金とは言えないかもしれないが、自分に遺せる全てのものを預けたことからもバンディにとっての彼女の存在の大きさが分かる。
さらにバンディは遺言としてワイナー弁護士に最期の願いを託してもいた。刑が執行され、火葬された暁には、その遺灰をテイラー山に撒いてほしい というものである。男は死して尚、自分が殺した女性たちへの執着を諦めようとはしなかった。テッド・バンディとは人の心を持たない史上まれにみる快楽殺人者だったのか、それとも死体の山に恐怖する私たちの想像力と、慄く人の様子をのぞき見てほくそ笑む変態男の詐術によって生み出された幻影なのだろうか。