決死のカーダイブ
1974年(昭和49年)11月17日(日)午後10時過ぎ、大分県別府市の国際観光港第3埠頭・関西汽船フェリー乗り場の岸壁から乗用車が海に転落した。小雨交じりの肌寒い夜だったが近くにいた7名の釣り人たちがすぐに転落に気づき、車から脱出した成人男性一名を救助し、110番通報する。
救助された男性は、不動産業を営む荒木虎美 (47歳)。目撃者によれば、車は時速40kmほどで走行しブレーキを掛けるそぶりもなく漆黒の海面目掛けて突っ込んでいったという。唖然としていると5秒ほどで「助けてくれ」と声が聞こえ、男性が平泳ぎで岸壁に近づいてくるのが見えたため、釣り人らがたも網などで引き寄せた。
男は車内に運転していた妻玉子(41歳)、長女祐子(12歳)、二女涼子(10歳)の三人が取り残されたままだと言い、助けを求めた。
聞けば家族で関門橋へドライブに行った帰り道で、妻に運転を任せて自分は助手席で熟睡してはいなかったが目を瞑っていたという。妻の悲鳴と車の衝撃で目を開けるとすでに海中で水がなだれ込み、ドアが開かず割れたフロントガラスから無我夢中で脱出したと語った。
パトカーが到着し、男はただちに近くの内田病院に運ばれて検査を受けたが、両手の擦過傷以外にケガはなく、海水の吸飲もなかった。
大分県警は潜水隊を要請したが夜間の出動はできないとして朝まで待つように返答があった。業を煮やした見物人が知人のダイバーに要望し、午後11時過ぎから海中を捜索してもらうと、岸壁から沖合約11m、海面から深さ8m付近に車体を発見。白色の「日産サニー1000」で、車輪を上に向けた状態で沈没しており、内部に複数人の女性の姿が確認された。午後11時半ごろにクレーン車が到着し、引き揚げ作業が行われた。
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母娘三人の遺体は運転席後部に折り重なるようにして発見された。車は2ドアタイプでフロントガラスが完全に割れ、運転席側の窓は11.5cm開き、助手席側の窓は全開だった。ヒール靴を履いた母親の足が運転席側の窓からはみ出していたという。
翌日行われた司法解剖で、三人は水死とされた。妻玉子は頭部に外傷なし、右鼻翼2か所に創傷があったほか、両ひざに多くの皮下出血が見られた。後部席で寝ていたとされる長女、二女はともに鼓膜が破裂していた。
車両の検証では、灰皿が外れていて車内から見つからなかった。運転席のシートベルトは正常に機能したが、後付けで設置されていたものであった。運転席下にハイヒールの片方と女物のセーター、助手席前に懐中電灯と男物の靴片方が残されていた。助手席前のグローブボックスは閉じていたが、中からハンマーが発見された。
警察では、目撃者から聞いた転落状況の不自然さ、妻子が車内に残されているにしては落ち着いた夫の態度、助手席で目を瞑っていて転落するまで気付かなかったとする証言などに違和感がもたれた。
夫の虎美によると、下関までの行きは自分が運転し、帰りは九州に戻ったところで妻と交代したという。彼女はシートを最前部まで寄せてシートベルトを締め、背中にクッションを当てていた。大分県に差し掛かると、妻が別府湾の夜景が見たいと言い出して立ち寄ることになったとされる。
夜の悪天候での高速・長距離運転で疲労が蓄積していたことや、暗がりで濡れた地面と海面との境目の見分けがつきづらかったであろうことから妻の過失事故を推測する供述をした。証言通り、港にブレーキ痕やスリップ痕は見つからなかった。
追及は連日に及び、過失事故でないとすれば、長男と夫の不仲で妻が板挟みの立場にあったこと、虎美の女性関係の悩み、病弱で生理外の不正出血があったことから子宮がんの不安を抱いていたことなどから悲観的になり、無理心中しようとした可能性を挙げた。
だが自宅には長男が留守番しており、受験勉強を口実にドライブに同行しなかったと証言。いくら精神的に追い詰められていたとしてもまだ親の手が必要な子どもを天涯孤独の身にして先立とうというのも疑問に思われた。近隣住民には、長女が無理矢理ドライブに連れ出される様子が目にされていた。
虎美と玉子は三か月前、74年8月に再婚したばかりで三人の子どもたちは玉子の連れ子だった。夫は妻の戸籍に入った婿養子にあたり、荒木姓を名乗っていたが旧姓山口と言った。山口虎美には恐喝、傷害、放火、婦女暴行、詐欺など多数の前科があった。そして亡くなった三人には総額3億円を超える多額の保険金が掛けられていたことから、夫による保険金殺人の疑い が有力視されていく。
詐欺師の顔
自筆の経歴を見ていくと、山口虎美は1927年(昭和2年)大分県南海部郡青山村(現・佐伯市)の中農の家の長男として生まれた。43年、県立津久美工業から予科練に入り、指宿海軍航空隊に配属され、一等飛行兵曹となった。特攻兵に二度選ばれたが、機器のトラブルにより出撃を逃れたという。戦後、熊本高等工業に入学し、左翼関係の本を読み漁り、反権力思想に傾倒。48年、家庭の事情で中退し、郷里の中学教諭となったが、共産党の活動に専念していたことが仇となり、翌年「堕胎・恐喝」をでっち上げられ郷里にいられなくなったとされる。
しかし本件を調査した作家佐木隆三によると、敗戦時に18歳だった山口は鹿児島県指宿派遣隊で航空整備に従事する一等整備兵曹だったという。故郷に戻ってからは飛行服姿で材木の搬出や炭焼きする姿が見られており、47年12月に結婚。熊本高工の入学は確認できなかったが、同校の制帽姿で映る写真を旧友が所持していた。48年11月に代用教員に採用されて野球部コーチをして人気を博していたようだが、共産党の活動については確認が取れなかった。
在任中の49年2月に堕胎・恐喝罪 で逮捕され、懲役1年2か月執行猶予3年の前科が付いた。不倫相手の中絶を医師資格のない鍼灸師に依頼し、1500円を支払った。しかし女から強制わいせつ被害の訴えがあったとして山口が駐在の巡査になりすまし、鍼灸師に告発をちらつかせて800円を脅し取ったという事件であった。
中学校を解雇されて別府に移り住み、妻の父親が猟師をしていたことから獣肉の商いを始めた。だが商売は軌道に乗らず、翌50年の2月に店が全焼。わずか2週間前に16万2500円もの火災保険が掛けられていたことなどから検察庁が詳しく調査し、山口は放火と保険金詐欺 で起訴された。山口は失火を認めるも容疑を否認し、最高裁まで争ったが保釈中に窃盗・有価証券偽造行使で再逮捕され、併合審理で最終的に執行猶予なし・懲役8年が言い渡された。
別府区検の山本和夫副検事は『特異な保険金詐欺放火事件の研究』(1953、法務研修所)の中で山口虎美の印象を記している。「年少若輩の青年にしては、真の反抗精神というか、闘争心は相当なものである」とし、証拠物や供述調書にも因縁をつけて訂正を求め、窮すれば黙秘する周到さを備えていたという。育ちの卑しい不良者と違い、中学教員として幾分の教養があり、共産党かぶれした若僧には手を焼いたらしく、「海軍志願兵として自由奔放な生活をした結果か、農村青年としての純朴さは微塵もなく、凶悪不逞の輩の感があった」と書き残している。
サンフランシスコ講和条約による恩赦等で減刑され、55年12月に出所すると不動産・宅地造成業を始めた。先の裁判で妻が不利な証言をしたとして夫婦関係は破綻しており、60年4月に離婚。一男一女は元妻が引き取った。
不動産ブローカーは長続きしたが、県の認可を受けていない仲介業で口利きにより手数料をせしめる闇仕事だった。66年4月に公文書偽造・行使 により懲役1年6か月執行猶予5年の有罪判決を受け、翌年7月には共同経営者の妻との不倫トラブルで強姦致傷、脅迫、傷害 で逮捕され、懲役3年6か月の有罪判決で宮崎刑務所に収監された。
72年11月に出所するも、3か月後には恐喝未遂事件を起こし、転落事故当時は懲役6か月の判決を受けて上告中の身であった。その間、結婚相談所や福祉事務所などを訪ねるようになり、「子ども好きなので、母子家庭で育った子どもたちに父親の味を知らせてやりたい」「子どもは多いほど良い」などと言い、各所に未亡人の紹介 を求めていたとされる。
73年7月、夫を亡くして間もない荒木玉子さんを紹介されて懇意となり、9月には母子の暮らす借家の向かいのマンションに転居。ドライブに誘ったりプレゼントを贈るなど熱心なアプローチを続けた。74年3月にプロポーズし、8月に結婚した。しかし引き合わせた自治委員は男を毛嫌いし、長男が二人の結婚に反対していたことから婚姻の保証人を断っている。
その短い結婚生活もまともなものではなかった。玉子さんの親に挨拶に行ったのは11月に至ってからのことで、山口の親族には再婚を知らせてもいなかった。周辺住民も再婚を知らず、結婚前と同様に夫妻は借家とマンションでそれぞれに別居を続けており、父親らしく振舞うでもなく子どもたちからも嫌われていたと話した。玉子さんの姉が荒木に長男の進路を相談した際には「頭の悪い子を学校にやってもしょうがない」として大工か左官でもやればよいと返答したという。
明らかになっただけで事故当時の荒木は3人の女性と交際しており、マンションに通わせていた。妻も不倫相手の存在に気づいていたが、荒木は玉子さん以外の女は「遊び」だと説明して取り繕っていた。
市内で飲食店を営む女性とは玉子さんと同時期の73年7月ごろに知り合い、熊本に住む女性の養母にもあいさつに出向いていた。
73年9月にはかつてホステスをしていて面識のあった三児をもつ人妻と再会し、情交関係となった。玉子さんにプロポーズした翌月には、その人妻と20日間かけて四国・九州を巡るドライブ旅行に出ていた。彼女は男に言われるがまま家の権利書を渡し、架空の領収書を切っていた。
74年4月には海軍時代に過ごした鹿児島県指宿の下宿を訪れ、下宿の娘が独身だと知ると猛アピールしてプロポーズした。女性は「事故」の報道まで荒木が既婚者とも知らず、前月には彼女の職場の上司にまで挨拶していた。
警察で調べを進めていくと、荒木は玉子さんとの交際前後から複数の保険会社へ相談に訪れるようになり、再婚前後から事故の12日前までの間に6社、三人の死亡で総額3億1000万円以上の保険金が入る契約を結んでいた。
支払い時期はさまざまだが、月当たりに換算すると13万円(当時の国家公務員初任給の2か月分相当、サラリーマンの平均月給並み)とその収入に比して過大な保険料を支払っていたことになる。貯蓄型を断り、保障型か掛け捨てで契約し、他社で充分な保険に入っているなどとして荒木本人を被保険者とする保険をすべて断っていた。保険会社の中でも当初から詐欺を訝しむ向きもあったとされる。
「事故」の2日後に母子の葬儀が営まれたが、荒木は会場に少し顔を出しただけだった。妻の家族から荒木の画策で車を海に転落させたのではないかと詰め寄られる騒動があったが、男は激しく応戦したという。残された長男は長崎の祖父母の元へ引き取られていった。
水際の攻防
「事故」の10日後には荒木自ら別府署交通課を訪れ、事故証明書の交付を求めた。署員は事故か否か調査中でまだ結論が出ていないとして交付を拒否したが、荒木も容易に引き下がろうとはしなかった。
カメラを向けられると身の潔白を訴え、あらゆる疑惑に反論した。
過失による事故か妻の自殺説を唱え、葬儀に参列しなかったのは妻の親族から責められたためと言い、疑いが晴れたら供養するつもりだと語った。保険は子どもたちの将来のためだとし、受取人は自分の総取りではなく、子どもたちや自分の姪(妹の娘。連れ子がいては再婚の妨げになるとして戸籍上養子としていた)も含まれていると明かした。
子連れの未亡人と再婚しようが、多数の保険に加入しようがプライベートな事柄で、事故か否かとはそもそも無関係だと主張した。警察やマスコミの嫉妬が一方的に事件を煽っているだけだとして「(計画的に)できると思うならやってみたらどうですか?」と挑発的な言動を繰り返した。
そうした男の臆することなき言動や、不可解な夫婦生活と愛人たちの存在は否が応でも衆目を集めた。疑惑の渦中にありながら、12月4日に自ら釈明のためフジテレビ系ワイドショー『3時のあなた』に出演し、コメンテーターらとの論駁に応じた。
「妻子を生命保険に加入させて他人に殺害を頼んで保険金を詐取する話はよく聞くけど、私は一緒に海に落ちているんです。妻の運転する車に同乗し、危うく命を失いかけた被害者で、さらには愛する妻子を不慮の事故でいっぺんに失った“哀れな夫”であり“父親”なんです」
鑑識調査で、車両の底面にある4か所の水抜き穴の栓が全て抜き取られていたことが明らかとなり、水没の計画性がますます強く疑われた。しかし誰がハンドルを握っていたのか、確実なことは車内にいた4人にしか分からない。生還した荒木による殺害を決定づける証拠はなく、警察としては情況証拠を積み重ねていくほかなかった。 12月初頭、捜査員らは荒木のワイドショー出演を苦々しく思いながら、九州大学医学部牧角三郎教授に求めた法医学鑑定の報告を待ちわびていた。その結果、妻が運転していたにしては胸をハンドルに強打した影響がほとんど見られないこと、また助手席前方のグローブボックスの損傷具合を見るに玉子の右腕の皮下出血と一致しており、両ひざの皮下出血はもがいてできたケガではないかと示唆し、運転席にいたのは夫とする所見を得る。
さらに宮崎刑務所でかつて荒木(当時は山口)と同房だった受刑者から重要な証言が得られた。男はエドワード・ケネディの交通事故を引き合いに出し、「この方法ならば過失か計画的か見分けがつかない。一か八かだ」と保険金詐欺の手口をほのめかしていたというのである。
12月9日、別府署は別府簡易裁判所に逮捕状を請求。11日、荒木は『3時のあなた』に二度目となる出演の後、局の裏門から出ようとするや待ち構えていた捜査員に取り囲まれ、17時50分、殺人容疑で逮捕された。
荒木は大分で送検され、過去の恐喝や放火詐欺で世話になった木村一八郎弁護士を頼った。3人を殺害したとなれば死刑か無期懲役かが見込まれる重大事犯であり、前例のないマスコミの騒動も悩みの種となった。大分地検始まって以来の大騒動に福岡からも応援を得て捜査が続けられた。荒木は取調でも否認を続け、木村弁護士は物証も自供もなければ公判を競えると自信を見せたという。
しかし12月21日になって、別府市内の鮮魚商から有力な目撃証言がもたらされる。「事故」当夜、白いサニーが現場近くで走行しているのを目にし、運転手は50歳前後の大柄な男だったと証言する。夜間の車内からの目撃で、当時はもちろん荒木の顔に見覚えはなかったが、知人と同車種だったことから運転席を確認したと言い、その場所や時刻、男が運転していたという証言内容は信憑性が高いと考えられた。
別府、大分はおろか全国が注視する大事件で、鮮魚商の男性もそのとき目にした「サニーの男」は荒木に相違ないとすぐに気づいた。しかし2年前に子どもがひき逃げ事故に遭い、依然として犯人検挙に至っていなかったことから、男性は警察に対する不信感を抱いていた。また暮れの繁忙期に仕事を投げ出すわけにもいかず証言を避けていたが、忘年会の席上で「運転席にいたのは妻ではなく夫だった」と口を滑らせ、それが警察の耳に入り、熱烈な説得を受けて証言に応じたという。
国東(くにさき)の妻の実家から妻子を乗せて自宅に向かう道中で、日出(ひじ)警察署前の三叉路から国道10号に入ったところで白色のサニーと行き会った。信号待ちのタイミングで運転席をのぞき込むと荒木とよく似た男がハンドルを握っており、22時ごろ、国際観光港に向かって左折したと説明する。
全国区となった事件に警察庁も本腰を入れ、科警研が横浜港で4台のサニーやダミー人形を用いた検証実験を行い、転落状況や各人の受傷の具合などを確認。
明くる1975年(昭和50年)1月2日、大分地検は荒木を殺人罪で起訴した。
チャパキディック事件
“テッド”の愛称で知られるエドワード・ケネディ(1932-2009)の事件について見ておこう。彼は地方検事を経て62年に上院議員に就任したリベラリストで、63年11月にダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領の実弟、68年6月に大統領予備選の最中ロサンゼルスで暗殺されたロバートの実兄にあたる。
ロバートの死から一年後の69年7月18日、マサチューセッツ州のチャパキディック島で選挙運動員たちの慰労パーティーが開かれ、テッド・ケネディ(当時37歳)も出席していた。その深夜、彼の乗るオールズモビル・デルモント88がパウチャ池に架かるガードレールのない橋から転落。彼は泳いで難を逃れたが、同乗していたロバートの元秘書をしていたメアリー・コペクネ(28歳)が車内に閉じ込められて水死した。
テッドはパーティー会場に戻って従兄弟のジョー・ガーガン、共通の知人であるポール・マーカムに相談した。彼らはレンタカーで事故現場に行ったが強い流れで救助は困難だったという。かたや午前2時ごろに宿でテッドと会話したヨット仲間によれば、彼は普段と変わらぬ様子だったとされる。
翌朝8時過ぎ、釣り人らが池に沈んだケネディの車を発見して通報した。レスキュー隊とダイバーらが急行し、9時までに車内の遺体が確認され、ケネディ所有の登録車両と特定された。テッド・ケネディはその朝、親類や議員仲間にも連絡を取っていたが、事故車発見が伝えられる午前10時まで警察への通報を怠っていた。
遺体を回収したレスキュー隊の隊長は、後部座席のくぼみでシートを掴み、顔を上に向けていた彼女の姿勢から、転落時の衝撃や即座の溺死ではないと考えた。車内に生じた空気のポケットに顔を出して数時間は存命だったはずで、すぐに通報されていれば助かった公算が高いと発言した。
現場に呼び出された副検視官は、女性を偶発的な溺死と判断。アルコール含有量の分析が指示され、後に死亡前の一時間以内に最大5杯の酒を飲んだ「少量または中程度」の摂取が認められた。当局に確認したが、不正行為の兆候がない以上、検視は必要ないとされた。
Mary Jo Kopechne in 1962
パーティー参加者は6人の20代未婚女性と既婚男性らで構成され、コペクネは親友たちに退席を告げておらず、財布や鍵の入ったハンドバッグも会場に残したままだったことが明らかとなった。男女の宿泊地は別々だったが、妻子あるテッドがアバンチュールのために彼女を連れ出したのではないかと醜聞が聞かれ出した。
テッド・ケネディは、昼間日差しに当たりすぎたせいで具合がよくないので送ってほしいとコペクネから頼まれて23時15分ごろにパーティーを脱け出した、その直後の事故だったと述べた。
しかし19日0時30分に同僚と別れて帰路に就いた保安官代理のクリストファー・ルック氏は、0時40分ごろに男女が乗る不審な動きをする車と行き違い、道迷いかと思って声を掛けたがすぐに走り去ったと証言した。テッドはルック氏との遭遇を否定したが、氏が目にしたナンバーの特徴などがデルモント車と部分的一致を示した。死亡時刻は23時半から午前1時前後とされ、両者の言い分に1時間ほどの矛盾が生じたことから疑念がもたれた。
テッドはただちに通報しなかったことで執行猶予付き・2か月の禁錮刑(法定最低刑)を受けたが、過失致死などの嫌疑は免れた。マサチューセッツ州地裁ジェームズ・ボイル判事は「彼はすでにこの裁判所が課すことのできるどんな刑罰よりもはるかに多くの社会的制裁を受けており、今後も受け続けるだろう」と述べた。
テッドが代議士となる以前に起こした信号無視や無謀運転、パトカーとカーチェイスした遍歴が暴露され、飲酒や無謀運転の追及を避けたかったのではないかと噂された。彼は自身の不徳と悲劇の発端となった事実を詫びるとともに、「酒気帯び運転」やコペクネとの「私的な関係」の疑惑を否定するテレビ会見を行い、有権者に議員資格の是非を問うた(前回より10ポイント以上失ったが70年に得票率62%で再選した) 。
当時妊娠していたテッドの妻は三度目の流産に見舞われ、夫の事故がその遠因になったと囁かれ、国内有数のセレブ一族に「ケネディ家の呪い」と揶揄する者もあった。司法調査のために遺体を掘り起こす請願が提起されたが、コペクネの両親は一人娘の埋葬地を荒らさないでほしいと懇願し、裁判所は採掘の請願を却下した。ケネディ家からコペクネの両親に対し、保険会社を通じて14万1000ドルの和解金が支払われたとされる。
テッド・ケネディはこのスキャンダルによって事実上大統領職への道を断たれたが、その後も皆保険制度や選挙資金改革など多くの重要法成立に尽力し、40年以上の議員キャリアを全うした。チャパキディック事件 と呼ばれたこの出来事は少なくとも15のノンフィクション書籍の題材となり、小説のモチーフともなった。彼の死後に発表された回顧録『True Compass』(2009)でも、コペクネの死を招き、適切な対処を取れなかったことへの後悔が語られている。
この事故が国民的騒動となった背景として、セレブリティにして因縁めいた「ケネディ家」の大看板があり、政治的賛同者や敵対陣営からも懐疑的に捉えられたが故に予断が生じる素地が大きかったことがある。不審死というだけでなく、いわば陰謀論におあつらえ向きなシチュエーションを兼ね備えていた。
伝記作家ピーター・カネロスは、政治への関心とスピーチライティングの才能を持った才女コペクネがその人生を全うできなかったのに対し、テッドに第二の人生が与えられたのは「あまりにも不公平・あってはならない不正義(cosmically unfair)に思えた」と批判的に綴っている。
ジャーナリストのジャック・オルセンは、ケネディ信奉者の刑事によるある仮説を批判的に紹介している。テッドはルック保安官代理と遭遇した直後に、飲酒運転の尋問や不倫を疑われることを避けるために車を降りて、コペクネ自らの運転で転落したのではないかとする見方である。コペクネは身長157cmとテッドより30cmも小柄で、普段は小回りの利くフォルクスワーゲン・ビートルを運転していた。不慣れな夜道、アルコールと小さなアクシデント、乗りなれない大型車など悪条件が重なって目測を誤り、池に転落したのではないかという。
その晩、男女に何があったのか、車内でどんな会話が交わされたのかは明らかにならなかったし、テッドが何を語ろうとそれを信じる者はいなかったであろう。大統領候補選や民主党内の確執が報じられるたび、この出来事はテッドの人生とケネディ家を巡る悲劇のひとつとして語り草とされた。
終わりなき抗弁
3月17日、大分地裁で初公判が開始された。最大の争点は、運転手はだれか。
検察側は鑑定報告、実証データ、新たな目撃証言で公判維持に自信を深めていた。一方、着任時とは風向きが変わった木村弁護士は弁護団が結成できなかったことや高齢、多忙を理由に、第2回公判で辞任の意向を示した。裁判所は急遽、国選弁護人に山本草平、徳田靖之、小林達也の三弁護士を選任。荒木は国選弁護人を信用しておらず、木村弁護士がダメなら自身の弁論で潔白を証明する意気込みを見せたと言われる。
国際観光港での現場検証、横浜港での再現実験などを審理した上で、検察側は鑑定人牧角教授を証人に招き、妻が助手席側にいたと判断できると主張した。しかし弁護人から車内の傷が海中で付いたことの説明を求められると答えに窮し、乗車位置の判断は法医学の範疇を超えているのではないかと指摘される。また荒木も、妻の膝の皮下出血は展望台の階段で転んだ時にできたと主張した。
兵庫医科大・松倉豊治教授も妻は助手席側にいたことを示したが、受傷は着水前にハンドルを切った際に生じた遠心力で前もしくは右前方向の衝撃を受けたためと説明した。しかしその後、着水時の衝撃による受傷と証言を覆すも、弁護人から転落実験によると着水時の衝撃は大きくないことを指摘され、車両が離岸した瞬間の減速衝撃によるものと見解を迷走させた。
著名な医師と言えど、港から車で突っ込む事例に精通しているはずもなく、海中に晒された車や当時の法医学研究では精確な原因解明にたどりつかないことが浮き彫りとされる格好となった。
事件間際にサニーと行き会った鮮魚商の男性は、運転席の男と荒木を比較して「九分九厘似ている。間違いないと思う」と証言した。しかし警察の聴取では「荒木に酷似した男だが断定はできない」、検察では「確かに似た男だった」と述べており、弁護人は時間の経過とともに発言が断定的なものに変化している点を指摘した。
荒木が男性に対し「あなたが見たというのはこの私か」と横顔を見せつけると、男性は「いや、絶対にあんた本人だ。あの夜のあんたの顔を忘れることはできない」と声高に叫んだ。
鮮魚商は迷惑をかけたくないと言ってサニーを所有する知人の名を明かさなかったが、検察はその所在を掴み、79年3月になって車の写真を証拠提出した。77年3月に廃車されており入手できた写真は不鮮明だったが、1年型式が違うサニーと断定されたが、実際の色は青色 だった。弁護人は「普通は色で覚えるが車種・年式を知りながら色を間違えるなど全く不自然」と指摘した。
元同房者が服役中に荒木からエドワード・ケネディの事故の載った週刊誌を見せられ、出所後の74年7月に荒木を訪ねた際にも犯行計画を聞かされたと述べた。その後、元同房者は別の詐欺で逮捕されており、証人出廷の際も服役中の身柄だった。荒木は「裁判長はこんな懲役太郎の言うことをまさか信用するんじゃないでしょうね」と罵倒し、相手も激昂して罵り合いとなった。
また別の元同房者も荒木から「刑務所を出たら一発勝負をかける」と聞かされ、74年春に計画を持ちかけられたが断りの連絡を入れたと供述していた。しかし取り調べから約2年後の公判では「取調官に迎合して創作した」と証言し、全面的に覆した。
審理の渦中、大分合同新聞の読者投稿が波紋を呼んだ。その内容は、荒木が助手席に座っていても妻からハンドル操作を奪って転落させることはできたはずで、捜査当局や裁判所は「運転席問題に囚われすぎている」という至極もっともな市民感覚であった。
これに対し、大分地裁西村法所長が同紙に意見を寄せ、座席がどちらでもよいということはなく、いかなる被告であっても法の下の平等に則って証拠により有罪性が立証されねばならないと読者に対する説得的内容が述べられた。
日本で公判中に当該裁判所長が事件に関するコメントを表明することは異例であり、一歩間違えれば世論の誘導とも捉えられかねない。思えらくはセンセーショナルに騒ぎ立てることなく審理を見守ってもらいたい意向からそうした行動に出た(本人の意志ではなく「上」の意向かもしれない)と捉えることもできるが、その真意はなにか、心象はどちらに傾いているのか、にわかに疑念と憶測を呼んだ。
76年10月10日未明には、国際観光港第3埠頭の現場に突如白色のマツダファミリアが現れ、件の「事故」さながらに時速40kmで漆黒の海へダイブした。まもなく35歳の男が海面に浮上し、釣り人が慌てて110番通報した。35歳の男は「荒木の証言に疑問があったので実験した」と語り、「計画性があればほぼ助かることが分かった。裁判で証言してもよい」と述べた。
マスコミでは「カミカゼ実験」などと称されて話題となったが、話を聞かされた荒木は売名行為だとして歯牙にもかけなかったという。
1980年3月28日、大分地裁永松昭次裁判長は検察の求刑通り死刑を言い渡した。
運転者について、牧角鑑定の一部には事実認定において参考になる点もあるとして一部を採用、松倉鑑定を却下した。鮮魚商証言について、車体の色の不一致は不自然で証言を全面的には信用できないとしつつ、現に同型車両をもつ知人がいることから運転席を見ることも自然のなりゆきだとし、その名前を明かさなかったことも首肯できる理由と判断。目撃現場や時刻から見て、本件車両を運転していた被告人だと優に認定できるとした。
元同房者による犯行計画の供述については充分信用に足るとした。供述を翻した元同房者についても「被告人に恩義こそあれ恨みのない」立場から被告人の不利益となる法廷証言を避けようとしたとも考えられ、むしろ事前に取られた調書供述に信用性があると判断した。
また事故直後、荒木は姪を病院に呼び寄せ、転落車両とは別の車のトランクに入っている封書を開封せずにすぐに焼却するように厳命していた。その内容は明らかになっていないが、保険契約でもしばしば姪が受取人とされている事実から、仮に荒木が生還できなかった際に保険金が姪に入るように託した遺書だったのではないかと推量された。
社会的影響も大きい重大凶悪事件であり、何の落ち度もない母子らに対して一獲千金の欲にまみれた冷酷非道な犯行に及び、徹頭徹尾否認を続け反省悔悟の情も認められず、極刑をもって贖罪させるよりほかないと情状が告げられた。
78年6月には長男が証言し、「この男を死刑にしてほしい」と訴えていた。そのとき荒木は号泣し、「きみの誤解だ。大人になったらゆっくり話し合おう。きみの妹たちを死なせた十字架は一生背負う」と嘆いていたが、判決審を終えると「裁判長、控訴申し上げます」とつぶやいた。
翌81年5月に開始された控訴審で、弁護団は原審の認定に抗議し、改めて法医学鑑定や自動車工学の専門家による実証実験を求めた。
また一審判決文で触れられた「母子家庭の未亡人の物色」や再婚後も別居生活を送ったことについて、裁判官の価値観・道徳観による一方的な偏見であり、違法性もなければ犯罪準備にも当たらないと釈明された。
福岡高裁は成蹊大学江守一郎教授にフロントガラスの割れた原因や時期について鑑定を依頼したが、荒木は教授に自らの主張を訴えた上で「公正な鑑定」を求め、「もし国家権力の歓心を買わんがために迎合して曖昧なインチキ鑑定などなさった場合は、マスコミ注視の法廷において追及せざるを得なくなります」といった心理的威圧とも受け取れる手紙を送りつけた。
高裁は荒木に文書発信の禁止を命じ、「不正鑑定を阻むために必要な措置」であり「被告人の権利」を主張する荒木の異議申し立てを却下。国際港での実証実験を経て、82年11月、江守鑑定が提出された。
着水時の衝撃そのものでフロントガラスが割れることはなく、乗員の頭部が当たって突き破ったとすれば15Gの衝撃で頭部にかなりの損傷が生じるとした。またダッシュボードに残された擦り傷と車内に残されていたハンマーの金具丸面と形状が一致したことなどから、フロントガラスは着水後に人為的にハンマーで割られた ものと鑑定。ダミー人形や車内の破損状態から、助手席乗員が無傷ということはありえないとし、妻が助手席、荒木が運転席 に乗車していたと結論付けた。
江守教授の証人尋問でも、荒木は「車両は7年も使用しており、実験車とはガラスの疲労度も風化度も破壊応力も全然異なる」などと主張し、「海面への突入の衝撃や、浮遊物に当たったかもしれない」と水掛け論を始めたが、教授は「陸上で時速15kmで壁に激突した程度」に相当する衝撃でフロントガラスは割れない、前輪から着水して浮遊物は車体の外側に流れてフロントガラスには当たらないと反論した。
海中で車の内側から叩き割ったとなればガラス片の多くは車外に散乱すると考えられたが、引き上げ後の車内からはフロントガラスのおよそ3分の1程度のガラス片が残っていた。江守教授はダッシュボードの複数の傷と脱落した状態で海底から見つかった灰皿の状況から、一度叩いたときに衝撃で灰皿が外れ、二度三度と叩き割ったために灰皿の脱落した穴をまたぐ形で傷がついたものと説明した。だが証人尋問後に証拠提出された灰皿にはハンマーで叩いたような傷は見られなかった。
83年5月、高裁は北海道工業大の堀内数教授に、ダッシュボード表面の損傷は押収されたハンマーによるものか、傷の形成状況の鑑定を新たに依頼した。その結果、ハンマーによる形成と推定されたが、江守鑑定と異なり、フロントガラスを叩いたハンマーの跳ね返りでくぎ抜き部分が当たって生じた傷と鑑定した。また江守鑑定がハンマーの衝撃で脱落したとする灰皿は着水時の衝撃の歪みで飛び出したものと説明された。
弁護人は、科警研による実験で灰皿は脱落しなかったこと、堀内鑑定は実験を行っていないことを指摘し、経験則から導かれた推論ではないかと指摘。堀内教授は科警研の実験の条件を熟知していないため比較できないと保留したが、科警研の実験のように「垂直に」離岸した場合と江守鑑定のように「斜めに」離岸した場合では、ねじれが生じるため、灰皿への影響のちがいも生じうるとした。
弁護人は両鑑定について、一審判決を引き「予断を排し、誠実に証拠を取捨選択して、事実認定を積み上げ、鑑定の限界を認識して分かること分からないことを明確にしながら事実の真相を究明する姿勢に欠けていた」のではないかと厳しく批判した。
1984年9月4日、福岡高裁山本茂裁判長は控訴棄却を言い渡した。
鑑定から、運転者は予め身構えていないかぎりハンドルにみぞおち付近を打ち付けるが、妻にはその痕跡がなく、両ひざ付近4カ所の創傷がダッシュボードのへこみと一致することなどから、助手席にいたと認定し、ほぼ無傷で済んだ荒木がシートベルトもなく支えのない助手席に座していたとは考えられず、ハンドルや床に両手足を突っ張って衝撃に備えていたと見るのが合理的とする鑑定を採用。
灰皿は着水時の歪みによって外れたものと認定し、ハンマーでフロントガラスを破壊して脱出したことは明らかと判断した。結婚の経緯、保険加入の状況など一審判決を支持し、車もろとも転落させて溺死させて殺害した事実を是認するに足ると結論付けた。
荒木はただちに上告し、最高裁第一小法廷の係属で裁判長は角田礼次郎と決まっていたが、法廷に再び「荒木節」が響くことはなかった。
荒木は胃がんと診断され、87年10月に八王子医療刑務所に移管され、翌年開腹手術を受けたがすでに手遅れの状態だった。福岡への移管も認められず、1989年1月13日、がん性腹膜炎により逝去。享年61。
1月30日、最高裁第一小法廷は、被告人の死亡により公訴を棄却した。
所感
三人が溺死するなか、たった一人の生還者が詐欺師だったという本件。作家佐木隆三は鮮魚商や元同房者の証言などを証拠採用したことに関して「これがもし被告人に有利な証言ならば『到底措信しえない』と捨て去ったにちがいない」と疑念を呈した。
荒木は人を騙すことを生業とした面もあり、マスコミを使って「劇場型」へと誘導しながらも「心証をよくする」努力はできなかった。後の本庄保険金殺人や和歌山毒物カレー事件など、マスコミ、世論の形成や鑑定人の予断についても大いに議論の余地があろう。
陪審制のアメリカならばおそらく有罪と決していたであろうが、本件は慎重を期して再現検証や細部まで鑑定が重ねられ、それでもなお不完全な決着を見た。簡易化、迅速審理が貴ばれる今般の裁判員裁判ならばどんな結論に至ったであろうか。
常識的に犯罪者は人目を避ける行動を取りそうなところだが、あえて犯行を露見させる詐欺師や、疑われても意に返さない冷酷非道な殺人犯というのも数知れない。
77年にABCテレビのクイズ番組『夫婦でドンピシャ!』に出演した連続強盗殺人犯勝田清孝、78年にバラエティー番組『デートゲーム』に出演した連続強姦殺人犯ロドニー・アルカラ、94年に犯行をカモフラージュするため自ら妻子の捜索願いを届けた医師野本岩男、2006年に9歳の娘と親しくしていた近隣の7歳男児を殺めながらカメラの前で“被害者の母”を装っていた畠山鈴香など、その思考回路や心理状態は常人には理解しがたいところがある。
本稿では荒木を殺人犯と断定すまいが、ともあれ母娘のご冥福をお祈りいたします。