ベトナム人技能実習生乳児死体遺棄事件

望まない妊娠による女性の「孤立出産」は今日も後を絶たない。更に本件の背景には「現代の奴隷制度」とも言われる外国人技能実習制度が深い影を落としている。

 

概要

2020年(令和2年)11月16日午前、熊本県芦北町(あしきたまち)で技能実習生として働いていたレー・ティ・トゥイ・リンさん(21歳)が自室で衰弱しているのを雇用主が見つけ、監理団体職員と共に病院に連れていった。

 

彼女の生命に別状はなかったが、夕方、職員から妊娠を疑われると、前日に部屋で死産していたことを告白した。棚に置かれた段ボール箱からは嬰児2名の遺体が見つかった。妊娠8か月から9か月の早産と見られる双子で、19日、医師の通報によりリンさんは死体遺棄の疑いで熊本県警に逮捕された。

警察発表に基づく報道以降、彼女は日本のみならずベトナムにおいても「何のために日本に行ったのか」「血も涙もない」と厳しい非難や中傷に晒された。だがその後、支援団体や弁護団らを介して彼女が取った行動や切迫した事情が明らかとされ、人々の辛辣な見方は一変させられることとなる。

 

母親の思い

リンさんは2018年に来日し、地域の人たちからも「がまだしなあ(働き者だねえ)」と言われるほど真面目な働きぶりで知られていた。勤め先のみかん農園は休みも年に10日ほどという過酷な労働環境とされ、ほとんど「働いて食べて寝るだけ」の生活だったという。

だが20年10月頃からは体調不良が目立つようになり、雇用主は13日に監理団体に伝え、団体は病院での診察を薦めていたが、本人は病院に行かずに勤務を続けていた。

 

技能実習の登録・渡航費用約150万円は両親が実家を売って工面してくれたもので、地方では年収30万円で暮らす人もいるベトナムでは高額な借金を負うこととなった。それでも3年の実習期間さえ乗り切れば大きな収入につながると期待された。彼女の一存ではなく、家族の希望も背負っての来日であった。

リンさんの給料は、居住費を引かれて手取り11万円程で、大半を家族への仕送りに充てていた。近所の商店主は「野菜や卵、特にもやしをよく買っていた。安いもやしで節約していたのかも知らんねえ」と話す。

リンさんは孤独感を埋めようとSNSを介して知り合ったベトナム人男性と交際関係となり、20年の春ごろに身ごもったことを自覚した。普段はパーカー姿で体型の変化は目立たず、周囲への発覚は遅れた。

「妊娠が発覚すれば帰国させられると思った」と彼女は言う。借金もあり、家族に心配を掛けたくない思いもあって、周囲の誰にも妊娠を打ち明けられなかった。12月の出産と見込んでぎりぎりまで働き、いよいよとなれば監理団体に相談することも考えていたという。だが予想より早く陣痛に見舞われ、単身での出産に至った。

 

血まみれの布団の上で子どもたちを冷たくすることはできなかった」とリンさんは当時の心境を振り返る。

死産直後で心身が限界を迎える中、リンさんはわが子に「強く」「賢く」の願いを込めて「コイ」「クオイ」と名付け、死産の日を記し、「双子の赤ちゃん、ごめんね。ナモアジダファト(仏教の祈りの言葉)。早く安らかな場所に入れるようにお願いします」と弔いの手紙を添えて、遺体をタオルで包み、箱に収めた。回復したらベトナム式の土葬をするつもりでいたという。

https://www.call4.jp/file/pdf/202108/2f65ccdfb670c5c609026a38c1d2e118.pdf

 

孤立出産

古くから望まない妊娠・出産の事例は数多く報告されており、過去には病院や養護施設など子どもの発見や保護が可能な場所に置き去りにされる傾向があった。だが発覚を恐れてか密かに出産して便槽に遺棄する例などもあり、1970年代には発見されづらい駅のコインロッカーなどへの捨て子・死体遺棄といった「コインロッカーベイビー」が頻発して社会問題となった。

胎児の父親や家族から出産の合意を得られない私生児というケースもあれば、学校や仕事のために妊娠出産そのものを隠そうとするケース、あるいは強姦被害などによる妊娠など、妊婦が孤立を深める事情は様々である。

出産は分娩時の身体的なリスクだけでなく、妊娠中のつわりや食事、行動の制約など多くの労苦を味わい、ホルモンバランスの急激な変化で体調不良や精神的に孤独を感じるなど、人それぞれに精神的苦痛が生じる。各人の経験の度合いにより、出産経験のある女性同士であっても辛苦が共感されづらいことさえある。

 

熊本県カトリック系診療所を前身とする医療法人聖粒会慈恵病院では、99年にドイツで普及した「ベイビークラッペ」を手本とし、2007年に「こうのとりのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」が設置されて大きな注目を集めた。届人は秘匿が守られ、遺児が迅速に保護される取り組みである。

その目的は第一義として赤ん坊の生命を守ることにあるが、人工中絶手術が受けられず出産前に相談に訪れることができなかった母親もまた社会的弱者であるとの救済的見地から、彼女たちに「子殺し」という最悪の決断を踏みとどまらせる役割も大きい。こうした取り組みは中世ローマで間引きが憂慮されたことから孤児院に普及し、今日では「棄てるため」ではなく「救うため」の場所として認知され、病院に設置されている。

2022年には北海道当別町にある妊娠・養育支援の市民団体「こどもSOSほっかいどう」でも「ベビーボックス」の名称で取り組みが開始されている。

 

女性が赤ん坊をひとりでに授かるはずがないにもかかわらず、とりわけ孤立出産の責任は「母親」に押し付けられてしまう。それでなくても虐待があれば「子どもを愛せない母親などいるものか」と非難され、子どもが凶悪犯罪を起こせば「どんなしつけをしてきたのか」と養育面でも母親の責任を問う風潮は依然として強い。男性への育児参加を称揚する女性たちでさえも、そうしたジェンダー不平等の価値観から抜け出すことは容易ではない。

 

慈恵病院・蓮田健院長は「孤立出産に至る女性は“弱い立場”の人たちです。リンさんのした行為が罪に問われれば、多くの孤立出産で死産したケースも犯罪と見なされかねません」と危惧し、審理の行方に注視した。

 

技能実習生と妊娠

外国人技能実習生制度は、実習経験を介して日本で培われた技術・技能を開発途上地域等へ移転することで経済発展を担う「人材育成」の名目で1993年に創設された。

だが適切な監査がなされてこず権利侵害が後を絶たないとして、国連から強制労働や性的搾取の温床だと勧告されてきた。米国務省による人身取引報告書でも毎年同様の指摘が繰り返されており、現地の斡旋企業による借金を前提とした送り出しの仕組みなど労働搾取構造の抜本的な改善と取り締まりを求めている。

建前はどうあれ「技能実習生がいないと成り立たない」業界もすでに多く、実質的には労働移民政策と捉えられている。またコロナ禍で多発した集団窃盗で実習を打ち切られたベトナム人らの犯行がクローズアップされた際には、排外主義的主張が沸き起こったことも記憶に新しい。

 

COVIDの影響により、前年度より10万件以上激減したが、令和2年度の認定は256,408件。男女構成は男性57.5%、女性42.5%。「20代」が合わせて約65%を占め、20歳未満と30代前半が各13%前後となっている。

業種は、建設関係と食品製造関係が各20パーセント前後を占め、機械金属関係が約15%、農業関係が約9%と続く。国籍はベトナムが56.1%と圧倒的に多く、次いで中国14.5%、インドネシア9.7%、フィリピン7.8%である。

事件のあった熊本県は農業関係での認定数が茨城県に次ぐ第2位、ベトナム人の農業実習先としては第1位であった。

https://www.otit.go.jp/files/user/toukei/211001-00.pdf

外国人技能実習生には労働基準法男女雇用機会均等法など日本の労働法が適用される。結婚や妊娠、出産を理由にした解雇が禁止されているばかりか、産前産後の休暇や育児の時間も保障される。雇用企業の健康保険が適用され、出産育児一時金の支給も認められている。

だが外国人支援団体によれば、派遣元や実習生にそうした仕組みが充分に周知されておらず、「監理団体が中絶や帰国を強いる場合もある」という。

2011年には、富山で中国人技能実習生が妊娠を理由に強制帰国させられそうになり流産した事案が発生するなど、。こうした事態を受け、19年3月には入国管理局などから監理団体に対して、妊娠などを理由にした不当解雇などを禁止する通知を出していた。

だが2017年11月から20年12月の間で、妊娠出産を理由に実習の中断を余儀なくされた実習生は637人に上り、このうち実習を再開できた人は僅か11人に留まる。

 

妊娠によって実習を途中で打ち切られたフィリピン人女性は「ひどい実態に目を向けるきっかけになってほしい」と東京新聞の取材に答えている。

女性は19年9月に来日して福岡県内の老人ホームで介護の仕事をしていたが、21年4月に実習生のパートナーとの子を妊娠したことが分かった。送り出し機関に相談すると、妊娠は契約違反だと告げられ、罰金を払って帰国しなければならないと言われ、監理団体からは暗に中絶を提案された。別の施設で働くパートナーは、監理団体から「中絶しないなら、二人に起こりうる全てのことを受け入れるように」と脅迫めいた警告を受けたという。

女性は帰国同意書にサインさせられ、寮から追い出された後、支援団体に保護されて帰国し、出産することができた。

妊娠が発覚すれば中絶を暗に勧められ、出産を望むのであれば自己都合による退職扱いで帰国するケースが多いとされる。

女性は、リンさんの行為についても「誰もサポートしてくれる人を見つけられない中で起きた悲劇だった」と話し、無罪を求めた。

 

出入国在留管理庁では、技能実習生向けのリーフレットに「日本では妊娠したことで仕事を辞めさせることは法律で禁止されています」「送り出し機関や管理団体が妊娠を理由に、実習継続の意志に反して帰国させることは許されません」「そうしたことがあれば外国人実習機構OTITへ相談してください」と記載している。

だが2022年の調査でも、実習生650名のうち26.5%が「妊娠したら仕事を辞めてもらう、帰国してもらう」などの不適正な発言を受けたと回答しており、実際に5.2%の人がそうした契約を結ばされていた。

 

すでに制度開始から30年が経ち、外国人技能実習制度は一般に広く認知され、登録団体への監査や実習生への支援も徐々に行われてきてはいる。だが多くの日本人にとっては労働環境や生活実態といった具体的な事柄、移民問題としての関心は深まっているとまではいえない。トラブルを起こせば自己責任論に帰せられる風潮は根強く、実習生への理解や問題への対処はなかなか進んでいない状況である。

 

スオンさんのケース

RCC中国放送は、広島県東広島市ベトナム人技能実習生・スオンさん(26歳)の事例を報じている。

リンさんと同時期の20年11月11日、スオンさんは1人で出産した女児をそのまま死なせ、敷地内に埋めていた。翌日、遺体は発見され「保護責任者遺棄致死」と「死体遺棄」で逮捕起訴された。

 

スオンさんはシングルマザーで、かつて台湾で働いていた母親と同じく、娘の養育費のために出稼ぎをする決意をした。自分は進学を断念したが、娘に同じような苦労をしてほしくなかったのだという。

リンさん同様、研修や渡航費として約150万円の借金を抱えた。製造分野での就労が叶わず、農業希望に変更した7回目の申請でようやく就労先が決まった。2019年12月に来日し、翌月から農園での作業を開始。日本語は片言にも満たないレベルだったが、仕事は見様見真似で要領を掴んでいった。

寮として民家が割り当てられ、もう一人の実習生と2人暮らし。家族と毎日のようにビデオ通話をしていたが、心配を掛けたくないため悩みを相談することはなかった。休日にはスマホベトナムのドラマを見て過ごした。

 

20年3月に生理が来なくなり、知人に通訳になってもらって広島市内のクリニックで受診。妊娠が確認され、医師は出産について妊娠22週目までによく考えるように伝え、東広島市内の病院を紹介した。医師には「喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えず、事実を受け止めているように思えた」と当時の印象を語る。

リンさん同様、妊娠が分かれば帰国させられる、借金が返せなくなるといった思いから、監理団体に相談することは憚られた。

2週間後、東広島の医院を訪れたスオンさんは、スマホの翻訳アプリと知人による電話での通訳により、窓口で人工中絶の意志を伝えた。だが受付で「通訳の付き添いがないとダメだ」という風なことを言われ、断られたと解釈して帰宅。日本語のできる知人に付き添いを頼んだが断られてしまった。

 

彼女は妊娠前に2人の男性と関係があり、彼女は避妊を望んだがコンドームは使用してもらえなかった。いずれの男性からも中絶を望まれ、結局どちらも音信不通となった。

ベトナムでは、日本で未承認の経口中絶薬が安価で販売されているといった国による事情のちがいもある。スオンさんも「探したが見つからなかった」と話している。専門家は、実習生の性交渉の禁止は現実的ではないとして、日本における避妊手段や購入方法など実用的な性教育を充実させるべきとしている。

妊娠22週目を過ぎ、出産が近づいた秋に胎児の状態を診てもらうため、再び東広島市の病院を訪れた。だがやはり通訳がいないことを理由に診察を受けることはできなかった。

ベトナムでは出産育児一時金のような制度はなく、出産費用は自己負担になる。彼女も収入の大半を仕送りしていたため、月の生活費は2万円程で出産費用の不安も大きかった。

他の病院に行っても日本語ができないからまた門前払いされるだけだろう、誰も助けになってくれない、とそれからすべてが嫌になってしまったという。

スオンさんは病院や知人らに相談こそしていたが、出産のための適切なサポートを受けることはできなかった。産みたいという希望も定まってはおらず、どこで産むか、どうやって育てていくかといった準備もしていなかった。ただ産まれるから産むしかないという心境のまま、出産に至っている。

監理団体では実習生に自分たちの立場や権利を守る法律についても講義で伝えているが、短期のうちに多くのことを学ばなければならない研修で内容は忘れられてしまった。「元気がない」といった変化は雇用主や団体も把握していたが、妊娠までは疑っていなかった。スオンさんによれば妊娠や出産について、監理団体に個別に相談できるような環境ではなかったとされる。

 

スオンさんは一人で出産したあと、全身の痛みやめまいに苦しみながらも出血を止めようと試行錯誤した。泣き喚く赤ん坊の泣き声が外に漏れて発覚するのを恐れて、口に粘着テープを張ったという。生まれたばかりの女児は羊水などで濡れていたこともあり、テープはすぐに剝がれてしまい、彼女は別の粘着テープを口に貼り直した。

司法解剖の結果、死因は窒息か低体温症とされ、産後1、2時間は生存していたとされる。彼女は「テープは鼻にかかってはいなかった」と主張しており、テープが直接の死亡原因かは不明である。外気温12、3度の11月の日中、スオンさんは産まれたままの女児の体を拭くこともせず、抱いたり毛布でくるんでやることもせず、床の上に放置されたまま息を引き取ったと見られている。スオンさんは出産当日も出勤し、体調不良で早退を申し出た際には、同僚から「赤ちゃんじゃないよね?」と尋ねられたが「大丈夫」とだけ答えていた。

裁判で検察側は、なぜ産前・産後に誰かに連絡を取らなかったのか、と様々な言い回しで尋ねようとしたが、彼女は長い沈黙を繰り返した。

「赤ちゃんが死んでしまってもいいと考えたのか」との問いに対しては、「そうは思っていなかった」と明確に否定した。どうして助けなかったのか、と尋ねられると、自身が疲れ切っていたことや動揺して連絡を取る発想に至らなかったと述べ、「自分勝手だった」と何度も詫びた。

スオンさんは庭に鍬で穴を掘り、遺体を段ボールに入れて埋めた。「愛しい気持ちで赤ちゃんを傷つけたくなかったから」と言って涙を拭いた。

結審で、裁判長から最後に発言を促されたスオンさんは、赤ん坊を「かわいい、やさしい」といった意味の「ニィ」と名付けていたと語り、「ニィちゃんごめんなさい。おかあさんをゆるしてください。この1年間あなたのことをずっと考えています。本当にごめんなさい」と謝罪した。

 

スオンさんの裁判は、求刑懲役4年に対して「懲役3年執行猶予4年」の判決が言い渡された。犯行様態は悪質ながら、「社会的に孤立した状態で出産当日を迎えた経緯には同情できる」とし、「本件犯行を被告人の身の責任とするのは酷である」と量刑理由を示した。

尚、音信不通となった元パートナーらは出廷さえ求められていない。

 

裁判の行方

リンさんの裁判の争点は、被告人の行為が「死体遺棄」に該当するか否かであった。

通常「遺棄」は、死者に対する一般的な宗教的感情や道義上首肯できないような方法での埋葬、冷遇放置、隠匿などの場合に用いられる。とりわけ近年では、家族の死後も届け出ずに自宅に隠匿するケースは多く聞かれるようになった。置き場所に困って解体して冷蔵庫に入れる、ゴミ袋に入れて押し入れや物置、ベランダに放置するといった殺意なき死体遺棄事件は少なくない。

 

検察側の主張によれば、二児の遺体は段ボール箱に二重に入れられ、テープで封をされていたことから、一般の荷物を装った隠匿に当たるとした。死産後も周囲に助けを求めれば、一般人も納得するかたちで弔うことが容易にできた、と主張した。

被告人は「遺体を捨てたり、隠したり、放置していた訳ではない」として無罪を主張。

弁護側は、被告人は二児が「寒くないように」タオルでくるみ、箱に入れたと説明。箱を二重にしたのも「棺」としての丈夫さを考慮したもので、隠匿の意図はなかったと主張。また墓地埋葬等に関する法律では、死後24時間以内の火葬・埋葬は禁止されている。彼女には葬祭の意志があり、「一時的に部屋に安置していた」ものだと述べた。

 

一審熊本地裁・杉原崇夫裁判長は、周りに隠したまま「私的に」埋葬するための準備であり、正常の埋葬準備とは異なるとした上で「国民の一般的な宗教的感情を害することは明らか」として、懲役8か月、執行猶予3年の判決を下した。

二審福岡高裁・辻川靖夫裁判長は、放置していたとまでは言えないが、二重の段ボールに入れて粘着テープで計13か所留めていたことが故意に遺体を隠した「遺棄」に当たるとして、一審判決を破棄し、懲役3か月、執行猶予2年とし、有罪が維持された。

 

リンさんは「妊娠を誰にも言えずに苦しんでいる技能実習生や、1人で子どもを出産せざるを得ない全ての女性のためにも無罪判決を願っています」と述べ、「私や外国人技能実習生は、働く機械ではなく人間であり、女性です」と理解を訴え、ニュースは次第に拡散されていった。

無罪判決を求める署名は延べ約9万5000筆に上り、多くは彼女がした行為は「追い詰められた彼女にすれば精一杯の弔いである」との見方であり、個人の責任に帰せられ罪に問われるのは理不尽だとした。

遠い異国の地で、子どもの父親や自分の家族、周囲の人々に頼ることができなかったリンさんの孤立感は並々ならぬものがある。弁護側は上告趣意書と共に、集められた嘆願署名約2万6000筆と共に出産経験者ら127人の意見書を最高裁に提出した。

 

2023年3月24日、最高裁・草野耕一裁判長は、一審二審の有罪判決を破棄し、逆転無罪を言い渡した。

判決後の記者会見でリンさんの弁護団は、「孤立と隣り合わせにある実習生が妊娠した時、果たして誰に相談すればよかったのかと。一生懸命に撮った行動が、簡単に犯罪に問われる社会にしてはならない。そんなメッセージが込められているのではないか」と最高裁の判決を評価した。

オンラインで会見に臨んだリンさんは、「無罪判決を聞き、本当に心から嬉しいです」と述べ、「私と同様に妊娠して悩んでいる実習生や女性たちの苦しみへの理解がなされ、逮捕や刑罰ではなく、相談できて安心して出産できる環境、そうした人たちが保護される社会に変わってほしい」と訴えた。

命を授かり、産み育てるという人間存在の根幹にかかわる権利さえ保障されないのならば、だれもそんな国で働こうとは思わない。悪質なブローカーに騙されるような人しか技能実習には訪れなくなるだろう。本件の無罪判決は30年間積み重ねた膨大な宿題の、たった1問がようやく解けたに過ぎない。何が「現代の奴隷制度」と指摘される所以なのか、今一度議論を深め、問題の見直しを急がれたい。

 

コイちゃん、クオイちゃん、ニィちゃんら、制度の狭間で失われた多くの小さな命のご冥福を祈ります。

 

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参考

ベトナム人技能実習生リンさんの死体遺棄罪刑事事件|公共訴訟のCALL4(コールフォー)

彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(1) | ニッポン複雑紀行

ベトナム人元技能実習生 赤ちゃん遺棄 逆転無罪判決… 広島では別の実習生が去年有罪確定 「責任」は母親だけ? 産んだばかりの娘を死なせ…裁判と20回の面会から | TBS NEWS DIG (1ページ)

福岡商業施設内女性殺害事件

2020年、福岡市の大型ショッピングモールで発生した女性刺殺事件。加害者である15歳の少年の壮絶な生い立ちでも話題となり、2023年、被害者遺族が加害者のみならず、国を相手取って矯正施設側の責任を求めて提訴した。

 

事件の概要

2020年8月29日(金)19時半頃、福岡県福岡市の大型商業施設「マークイズ福岡ももち」で客の吉松弥里(みさと)さん (21)が刃物で刺されて死亡した。夏休み最後の休日ということもあり、大勢の買い物客でにぎわう施設には悲痛な叫び声が響き渡った。

         

長さ約18.5センチの包丁を手に、1階女性用トイレから血まみれの姿で出てきたのは15歳の少年だった。取り囲まれた少年はゆっくりと歩きながら周囲を見渡すと、近くにいた母子(39・6)に目を付け、女児を楯にして逃走を図ろうと包丁を向けた。

現場に居合わせた消防局に勤める男性が少年に咄嗟に飛び掛かり、少年は押さえつけられて包丁を奪われ、抵抗をやめた。その後、駆け付けた警察官が銃刀法違反で少年を現行犯逮捕。

 

トイレでは女性が背中、鎖骨、腕などを10数回切りつけられて息も絶え絶えの状態だった。すぐに救急車で済生会福岡総合病院に搬送されたものの、出血性ショックによる死亡が確認された。

殺人容疑で逮捕された少年は、女性とは面識がなかったと言い、「女性に興味があり近づいた」と犯行動機を語った。偶然見かけた女性に性衝動で近づき、トイレに逃げ込まれて咎められたことに逆上して犯行に及んだという。

 

字面だけで見れば、変態かストーカーのようでもあるが、動機の理不尽さ、包丁を手にショッピングモールで滅多刺しといった実際の犯行はあまりにも異様で理解しがたいものであった。

その後、少年の障害や人格形成に関わる過去が詳らかにされていくことになる。

 

加害者の背景

少年は鹿児島県・薩摩半島の南端に位置する海辺の集落で育った。人口300人程で住民の大半は漁師か、かつて漁師だった高齢者ばかり。みんなが顔見知りで互いの家を自由に行き来し、店は小さな雑貨店くらいしかない。

父親は水産高校を卒業後、インドネシアで1年ほど過ごし、帰国してから鮮魚店で働いていた。母親は准看護学校で学び、准看護士として病院に勤めていた。2人が19歳のときに出会って、翌年結婚。99年に長女、2001年に長男、05年に当事件の加害者となる少年が生まれる。

保育所では多動や言語発達の遅れなどが見つかり、療育センターへ通った。他の子を叩いたり、注意した大人に噛みついたりと当時から粗暴性が目立っていたとされる。

 

少年は小学3年生でADHD(注意欠如多動症)の診断を受けた。発達障害と暴力に直接的な因果関係はないが、短気で家庭内暴力をふるう父親の存在が少年の発達心理に影響を与えたと見られている。父親から主に直接的被害に遭うのは母親と長男だったが、不条理な暴力のストレスからか長男は4歳下の弟に危害を加えた。

事件後、福岡拘置所で面会したノンフィクションライター石井光太氏に少年は「俺にとって兄は敵っていう感じです。恨みと怒りしかない」と語った。理由もなく殴る、首を絞める、エアガンで顔を打たれるといった暴力に少年は常日頃から晒されて育った。やがて長男はペニスや肛門を少年に舐めさせて自慰行為を満たす性的暴力へと転じていった。

 

母親にも発達障害があり、父親の暴力から子どもたちを守ってやることもできなかった。料理・洗濯・掃除などの家事ができず室内は足の踏み場もなかった。育児ネグレクトだっただけでなく、その上、自身も子どもに乳房を舐めさせる、自慰を手伝うなどの性的虐待をしていたとされる。

父方の祖父によれば、少年の母親はまともに受け答えもできず、事件を起こした少年よりも障害の程度が深刻だったという。父親は夜明け前から仕事に出、日が暮れてから帰ってくる生活で、家事や子どもたちの問題は放置され、外に愛人をつくって碌に帰らなくなった。

イメージ

少年自身の性的・身体的発育も一般より異常に早かったとされる。小学校に上がってすぐに陰毛や腋毛が生え、遅くとも小学校低学年で精通し、3年生のときには人目を気にせず自慰行為をしていたのを自立支援施設の職員が目撃している。

職員は「ちょっと油断すると、トイレとか、廊下とかでいきなり自慰を始めている感じ」だったと振り返り、大人や子どもの別なく性的なちょっかいを出し、叱ると怒って暴れ出すため介入を諦めていたという。

一般的には男児の陰毛の生え始めは小学校高学年頃、自慰行為を覚えるのは12歳前後が平均的とされる。石井氏は、少年の発育についてホルモン異常による制御不能な、ときとして性犯罪を引き起こす一因となりうる色欲異常、「ハイパーセクシュアリティ」ではないかと指摘している。

少年は石井氏に「都合が悪いことがあったら(自慰)していました」と告白している。長男が父からの暴力で貯め込んだストレスを弟に向けてうさを晴らすように、少年は周囲との摩擦で抱え込んだ負の感情を暴力衝動にし、それでも収まらなければ性欲を発散することで心的安定を図ってきたのである。

 

学校運営協議会の会長を務めていた少年の祖父は、小学3年生の頃には同級生も保護者も腫れ物扱いして、誰も好んで少年に近づこうとはしなかったという。田舎の小学校で学年1クラス、特殊学校もなく専門的なケアができる教諭もいなかったため、少年の抱える問題はどんどん悪くなっていったのではないか、と語る。

一方で、元担任教諭はその後の裁判で、少年の父親も、運営協議会会長の祖父もクレーマー気質で「お前の対応が悪いから」と罵声を浴びせられたことを証言している。またそうした家族の言い分を聞いてきたためか、少年も怪我をした際に「先生のせいにして、じいちゃんに辞めさせてもらう」と教諭を脅すような発言があったとしている。

 

少年自身も粗暴さが顕著になったのは小学3年生だった、と振り返る。きっかけは鹿児島市内で父親の愛人に引き合わされて一緒に遊ばされたことだった。それまではちょっと良い子にしておこうといった自制心もあったが、フィリピン人の愛人を目の当たりにして「そんなの意味ない、好き勝手にしようみたいな考えになったんです」と振り返る。石井氏は、父親が家庭に戻ってくることを期待していた少年の夢がその日を境に潰えてしまったのではないかと見ている。

少年は歯止めが利かなくなり、家では長男に逆上して包丁を持ち出し、店で注意を受ければ店員に噛みつき、学校では性的な自慢をしたり、股間を見せびらかすなどするようになり、ときに警察沙汰になることもあった。

 

家族は少年を精神科に連れていき、家では面倒を見切れないとして医療施設に預けることにした。児童心理治療施設、精神病院、児童自立支援施設医療少年院、少年院などをたらい回しにされ、7年ぶりに社会に出た。少年の仮退院に際して、母親は出身地に近い施設での受け入れを求めていたが、教育委員会が「再び人を傷つける恐れが高い」と懸念を示し、20年4月に要請を断念。福岡県内の更生保護施設に入ったが1日で抜け出し、その翌日に殺人事件を起こした。

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トラウマ

少年は福岡家裁から出身地である鹿児島家裁へと移送された。2021年1月に少年審判で刑事処分が相当であるとして、地検に「逆送」され、専門家による情状の鑑定が行われた。

考えを整理するのが苦手で、逮捕当初はコミュニケーションに難があった。弁護人が被害者の母親の供述調書を読むと、内容に聞き入って「読みたい」と言い、反省に向けた意志を示した。弁護人らとの手紙でのやりとりでも被害者や遺族の感情に想像を働かせる一方で、「反省したいが、この気持ちが本当に反省になっているのか分からない」等とも話していたという。

弁護人は起訴事実を認める方針を示し、「再犯は絶対に防がないといけない」とした上で、「被害者の悔しさ、自身の罪の重さに気づくと思う」と述べ、共感性の改善と心からの反省を求めて少年との接見を続けた。

 

吉松さんの母親は、少年の仮退院の経緯説明を少年院に求めたが、少年院側は個人情報を理由にそれを拒否。弁護人から法務省にも説明を求める手続きを取ったが有効な回答は得られず、少年が仮退院とされた改善・矯正の根拠は不明のままであった。

また吉松さんの母親は、少年の社会復帰に向けての見守り策を協議する「処遇ケース検討会」が開かれていなかった事実から、情報が十分に共有されていれば事件は防げたのではないか、と見通しの甘かった行政に対しても憤りを見せた。

 

2022年7月6日から福岡地裁(武林仁美裁判長)で行われた裁判員裁判では、少年が公訴事実をおおむね認めたため、刑事罰を科すべきか、保護処分にするべきかが主な争点とされた。

検察側は、性的行為を目的とした衝動で無差別的に女性を狙って追い詰め、盗んだ包丁で多数回刺した残虐性の高い犯行だと指摘し、「保護処分による更生の見込みは非常に乏しい」として成人と同様の刑事罰を求めた。

 

少年は、スタイルのいい女性を見かけて商業施設に入ったことは認めたが、その女性は見失ったという。包丁を盗んだのは空腹に耐えかねて自殺しようとしたためで殺害目的ではなかったと説明。被害者女性にトイレまで付いていった理由として当初「性的目的」と言っていたのは自暴自棄による発言だったと訂正した。

殺害までの経緯について。少年の悪い癖で相手の気持ちを考えずに自分を受け入れてくれると期待して近づいたが、驚いた被害者が包丁の持ち手を持って自首するように勧めてきた。少年にはその姿が仮退院で自分を受け入れてくれなかった母親の姿と重なったため、衝動的に刺したという。

被害者に対して「自分の勝手な行動で、将来のことなど、色んなものを奪ってしまった事は申し訳ないと思います」と謝罪の意を示した。一方で、拘置所で遺族宛てに謝罪の手紙を2通書こうとしたが、「書いた方がよいかと思って」「形として謝罪文があった方がいいと思って書いた」とも証言している。

被害者の代理弁護人からは「あなたがこの事件に向き合っているとは思えない。変われないからですか?」と問われ、「人間くずはくずのまま変われないと思う」と言い、「更生したい?」と問われると「できないと思う」「人はそんなに変われないと思う」と述べた。

 

弁護側は上述のような少年の過酷な生い立ち、DV、ネグレクト、性的虐待による深刻なトラウマが犯行の動機となった性衝動亢進に大きく影響していると主張し、更なる治療の必要性を訴えた。暴力性や集団行動を苦手とする特性が把握されながらも医療少年院では投薬治療が中心で心的問題が充分に改善されなかったことを原因とし、保護処分が妥当とした。

意見陳述で母親は「娘のことを思い出し、胸が締め付けられる」と沈痛な思いを述べた。遺族らは「可能な限り長く刑務所に入ってほしい」と訴えた。

 

7月25日に行われた判決審で、武林裁判長は「非常に残虐で凶悪な犯行。保護処分は社会的にも許容しがたい」として刑事罰を適用し、不定期刑の上限である「懲役10年から15年」の判決を下した。少年は判決前から、いかなる判決でも受け入れる意向を示しており、最終的な刑期は今後の服役態度などを考慮して決定される。

少年側、検察側双方が控訴しなかったため、2022年8月9日に刑が確定した。

2001年の改正少年法により、刑事罰の対象が「16歳以上」から「14歳以上」に引き下げられていたが、犯行時16歳未満の少年が殺人罪で受けた裁判員裁判は3人目。実刑判決とされたのははじめてのことである。

 

少年を巡る経緯

2019年 第3種少年院(医療少年院)に入る。後、九州の別の少年院に移管

20年2~4月 仮退院に向け、地元・鹿児島の施設に入所する方向で調整されたが受け入れられず

8月26日 少年院を仮退院し、福岡県内の更生保護施設に入所

27日 更生保護施設を抜け出す

28日 事件発生。銃刀法違反容疑の現行犯で逮捕。

9月 殺人容疑で再逮捕。約3か月の鑑定留置

12月 殺人等の非行事実で家裁に送致

21年1月 家裁が少年審判で検察官送致(逆送)を決定。福岡地検殺人罪などで起訴

22年7~8月 福岡地裁が少年に懲役10年以上15年以下の判決

 

投じられた一石

2023年3月、少年院が適切な矯正教育を怠ったとして、遺族は国を相手取り約6170万円の損害賠償を求めて福岡地裁に提訴する意向を明らかにした。少年事件で矯正施設側に責任を問うのは極めて異例である。

遺族は「事件を繰り返さないために、少年院の問題点を明らかにしたい」としている。また同時に少年、母親にも国と同額の賠償を求める訴訟を行うこととしている。

www.yomiuri.co.jp

 

公判で、弁護側は医療少年院での治療が不充分だったと指摘し、少年自身も「少年院での学びは特になかった」と述べていた。

22年7月、読売新聞が福岡拘置所で行った少年との面会でも「少年院は一言で言うとやさしかった。自分とちゃんと向き合わなかった」「腫物扱いされ、職員は関わってこなかった。口に薬を入れられていた記憶しかない」「事件は感情のままやってしまった。(教育や治療で)治ったかは分からないが、薬で落ち着いたから出られた」等と話していたという。

 

少年院で矯正教育に携わったことがある静岡県立大・津富宏教授は「事件との因果関係を認めるのは難しい面があるが、事件の経緯や矯正教育を広く検証することは必要」とし、「今回の訴訟は、矯正教育の在り方に影響を与える可能性もある」と述べた。

 

遺族側からの提訴には金額には代えがたい価値があり、加害者やその責任の一端を担う者たちは事件の報いとして、奪った人命の尊さを噛みしめる意味でも賠償に応じなければいけない。加害者を殺してやりたいほど憎くともその感情を堪え、それ以外で犠牲者のためにできることは全てしてやりたいと思うのが遺族感情なのである。

加害者の人格形成は家族の責任かもしれないが、その充分な改善を果たせないまま、いわば「薬漬けにして野に放った」かたちの少年院の責任を問うものである。この訴えは、本件のみならず、そうした運用を是認してきた法務省にもその抜本的見直しを突き付ける重大な意義のある訴訟となる。

判決如何ではなく、国、政治家たちはこの訴えに耳を傾けることができるのか、どう捉え、どうかたちにしていくのか。また我々国民に対しても、少年院だけではなく拘置所や更生施設の目指すべきかたち、累犯傾向の強い性犯罪対策を考えていくために投じられた一石といえよう。

被害者の命の輝きが将来の再発防止につながり、そして加害少年のような不幸を再生産しない世の中への道筋となることを願う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。

太宰府主婦暴行死事件

2019年(令和元年)、福岡県太宰府市で主婦が死亡した傷害致死事件について。主犯格の女は複数の被害者を抑圧してマインドコントロールしながら金銭をむしり続けていた。家族が相談に訪れていた警察の対応が事態を最悪の結末に導いたと批判を浴びた。

 

早朝の変死事件

2019年10月20日6時15分頃、福岡県太宰府市高尾1丁目のインターネットカフェの駐車場から「女性の意識がない」と男性が119番通報した。救急隊の到着時にはすでに女性は心肺停止状態で、病院に搬送されたがおよそ1時間後に死亡が確認された。

死亡したのは、佐賀県基山町の主婦・高畑(こうはた)瑠美さん(36)。

全身には多くの痣があり、筑紫署は車に同乗していた男女3人が瑠美さんの死亡の経緯を知っていると見て事情を聞いたが、「自分たちは殴っていない」と暴行の疑いについて否認した。

 

しかし翌21日、福岡県警は、博多区中洲3丁目から瑠美さんの遺体を車で運んだとして死体遺棄の疑いで同乗者の3人を逮捕。

逮捕されたのは

太宰府市青山1丁目に住む無職・岸颯(つばさ・24)

交際相手の無職・山本美幸(40)

福岡市博多区上川端に住むバー経営・M(35)

被害者の瑠美さんは事件当時、岸、山本と太宰府市内にあるアパートで同居しており、当初はMを含む4人は「知人関係」だと報じられた。

通報した岸容疑者は「車を運転しており、(後部座席にいた高畑さんの)様子を確認していないので分からない」と話し、山本は「寝ていると思った」などと容疑を否認。Mは「遺体を運搬した事実は理解している。他の2人に巻き込まれた気持ちしかない」と供述し、その言い分は三者三様となった(2019年10月21日朝日新聞)。

 

司法解剖の結果、死因は外傷性ショックで、5時頃、車で運び出されるより数時間前に亡くなっていたことが判明。皮下出血の様子から、下半身を中心に硬い棒状の凶器で執拗に殴られたものとみられた。

 

その後、山本らと瑠美さんの家族との間に金銭貸借トラブルが生じていたこと、さらに瑠美さんの遺族が6月から警察に14回の被害相談に訪れていたことが明らかとされる。

「警察がちゃんと対応してくれていたら、命がなくならなくても済んだかもしれない」

遺族は、岸、山本との同居について、瑠美さんは一種の洗脳状態に置かれていたと語り、事件の背後関係は一層いぶかしさを増した。

また家族の訴えを無視して脅迫の被害届を受理せず、「被害届等の意思」を「現在のところなし」、「解決済」と改竄して処理していた佐賀県警鳥栖署の対応にも問題が飛び火し、事件は注目を集めた。

 

佐賀県警の対応

事件の4か月前、瑠美さんが交通事故を起こして示談金として400万円近い支払いを求められた。相談を受けた家族は金を支度したが、示談書に書かれていた相手の住所や名前は偽造だと判明した。

さらに瑠美さんの職場からも家族に連絡があった。2か月近く無断欠勤していること、以前も目が虚ろだったこと、山本から職場に迷惑電話がかかってくることを聞かされる。

家族は瑠美さんの異変を知り、6月27日に山本に近づかせないようにしてほしいと警察に相談に訪れていた。しかし鳥栖署では「家族間の問題でしょう」「山本と一緒にいるのは瑠美さんの意思ではないですか」と言って取り合わない。ほどなく瑠美さんは佐賀県基山町の自宅アパートを出ていった。

事件2か月前、瑠美さんの妹は太宰府市にある山本たちが暮らす家を突き止め、瑠美さんたちと遭遇する。瑠美さんが車を運転しており、妹はお金や家のことを説明するように求めたが、うつろな表情をしたまま山本と話すように言うだけだったという。

山本、田中正樹の金銭要求は止むことなく、自宅・職場への嫌がらせはエスカレートしていった。夫と家族は、山本と田中からかかってきた金銭要求の電話を録音して再び鳥栖署を訪れた。

山本「あなたたちのおかげでめっちゃ借金が増えてさ、めっちゃ生活潰されてるんですけど。貸したお金は返済すると約束しておりますので、きちんと返済してください」

田中「弁護士入れたところで…。やれるもんやったらやってみ…。いい加減にしとけ、おりゃ」

3時間にも及ぶ理不尽な返済要求、高圧的な態度は脅迫以外の何物でもなかった。

youtu.be

相談を受けた署員は「払わなかったら殺すぞ、とか払わなかったらどうするっていうことがまだ出てきていなくて、今のところは脅迫だと断定できない」、「どうしようもない状況という感じではないので」被害届は受理できないと家族の訴えを退けた。

録音が3時間では長すぎる、どれが恐喝、脅迫、強要に当たるのか印をつけてきてください

家族が「そんなの素人に分かる訳ないじゃないですか」と憤慨すると、「今はネットで調べられますから」と巡査は答えた。自分たちの力ではどうにもならない、もう警察しか頼れないと助けを求めた一般市民を警察は難癖をつけて突き放したようにしか思えない。

 

家族が警察の理不尽な対応に絶望してから1か月後の10月20日、「事件」は起こってしまった。「事件は起きていない」「どれが恐喝、脅迫、強要かも分からない」という佐賀県警でも分かるような最悪の結果が現に起きたのである。

 

行方不明の兄

家事や子育てに勤しむ主婦が、一体なぜ赤の他人である山本らと同居するに至ったのか。ワイドショーではホストクラブのような場所で山本と一緒に映る瑠美さんの画像が繰り返し報じられたが、見るからに瑠美さんは“場違い”に見える。遊び慣れた風情を漂わせる山本や岸とは“不釣り合い”な印象を与えた。

 

長距離トラックのドライバー職で家を空けることも多かったという瑠美さんの夫・裕(ゆたか)さんによれば、瑠美さんは「無理だけはせんように、寝不足にならんように」とよく気遣ってくれていたと言い、「家のことを何でも自分からやってくれる良い嫁でした」と振り返る。

夫婦が暮らした佐賀県基山町のアパートの子ども部屋には2人のこどものために“生活のきまり”を書いた貼り紙が壁に残されており、彼女の誠実な人柄が窺える。

 

瑠美さんと山本らが接点を持ったきっかけは、10年ほど前に行方が分からなくなった瑠美さんの兄・亮太さんが関係していたという。

亮太さんは中学時代に山本美幸の2学年下の後輩で、当時親交があった訳ではないが顔見知りだった。2008年頃、亮太さんが勤めていた居酒屋で偶々山本と再会し、その後「おごってやる」などと言われて飲食などに度々付き添う仲となった。

だがその後、店の同僚が山本に借金をすることとなり、亮太さんは強引に借金の保証人にさせられてしまう。同僚は失踪し、50万円程の借金を亮太さんが肩代わりすることとなるが、「これまでの飲み代が未払いだ」等と様々な理由をつけられて金額は膨らみ続けた。

 

山本は筑後市に住む元暴力団員・田中政樹(45)を亮太さんに引き合わせる。田中は持ち前の凶暴さを剝き出しにして借金の返済を強く迫った。亮太さんは周囲に迷惑をかけてはならないと思い、田中の横暴に抵抗もできず従うしかなかった。

田中の恫喝まがいの取り立てに怯える亮太さんに、山本は「心配することはない」「働き口の口をきいてやる」と言って、愛媛、三重、広島といった県外での工場働きを勧めた。その給料は「借金返済」の名目ですべて山本らに奪われ、10年来にわたって月に数千円から数万円の微々たる生活費が与えられるだけの生活を送った。

 

しかし亮太さんはなぜ抵抗したり、その後逃走もせずに山本の言いなりを続けていたのか。

事件後、亮太さんは田中らによる家族への被害を恐れて逆らうことができなかったと胸中を語った。山本はさも匿ってやると言わんばかりに遠方での仕事を斡旋し、家族との連絡を一切断つように言い聞かせ、亮太さんを孤立無援に陥れていた。亮太さんは家族にだけは迷惑を掛けたくないと、山本の命じるままに従ったという。

しかし亮太さんの希望とは裏腹に、山本は瑠美さん一家にも接近し、「行方不明」となった兄の借金を払うように迫った。山本は瑠美さんをホスト遊びに連れ回して支払いを立て替えさせて借金の額をさらに膨らませ、彼女自身にも借金の一部を担わせることで精神的に束縛させていったとみられる。

夫・裕さんによれば、10年余りで支払った額は600~700万円にも及ぶという。いわば山本は亮太さんをきっかけに妹・瑠美さんを人質に取り、一家とのパイプ役として家族からも金を吸い上げていったのである。

事件後、太宰府市の三人が同居していたアパートからは、瑠美さんの遺したメモが発見されている。母親に金の工面を求める文言が書かれており、「(ムリって言われた時)」など電話口でどのように話すかを指示する詐欺のマニュアルのように細かく対応が記されていた。

 

事件発生の2日前、山本から亮太さんに電話が入っていたという。山本は瑠美さんに電話を代わり、電話口の瑠美さんは「どうしよう、山本さんを怒らせてしまった」「私、お母さんからも拒否されてるし、妹や家族全員からハブられている」と窮状を訴えた。

だがこのとき亮太さんは、「山本さんの言うことはちゃんと聞かんといかんよ」と怯える瑠美さんを諭し、それが兄妹の最後の会話となった。亮太さんは山本に「迷惑をかけてすいませんがよろしくお願いします」と恩情を訴えて電話を切ってしまった。

三者からすると、亮太さんに気骨が無さすぎるのではないか、なぜ早い段階で毅然とした態度・法的対応を取らなかったのか、という風にも映るかもしれない。しかし山本は抵抗しにくい相手を見抜いて弱みを握り、今すぐにも殺しかかってきそうな田中の凶暴さを利用して、相手の抵抗力を奪う。亮太さんも瑠美さんも孤立無援に置かれた心理状態、いわゆるマインドコントロール支配下に置かれ、山本らの言いなりになる以外に術がなかったのである。

 

主犯格の女

佐賀県基山町で育った山本美幸は、中学時代からヤクザとの関係を周囲に吹聴していたと同級生は語っている。喫煙やシンナー吸引をするスケバンだったが、徒党を組むタイプではなく親しい友人のいない「一匹狼」だったという。卒業後、後述する田中涼二と結婚して男児を出産したが育児放棄となって母親に預けて家を出た。

20代で貸金業を始め、中洲のホストクラブなどでしばしば派手に飲み歩いていたとされる。弱みのある相手に金を貸し付けてその金額を膨らませ、田中らと共に脅迫して金づるにしながら豪遊に耽ってきたと見られている。

 

この世のものとは思えないアザ

死体遺棄容疑で逮捕されたM氏は、山本とは10年来の知人だった。暴行に関与していなかったこと等から不起訴とされ、後に「文春オンライン」の取材に応じている。

M氏によれば、10月20日未明に経営しているバーに山本がホスト3人を引き連れて飲みにきたという。明け方近く山本の携帯に岸から「瑠美さんが息をしていない」と連絡が入り、うろたえる山本に懇願されて、その後、岸が瑠美さんを載せてきた車に一緒に乗ってしまった。

息をしていない瑠美さんの足は壊死したかのように斑状の「この世のものとは思えないアザ」があり、M氏は山本に尋ねると、木刀で殴った、バタフライナイフで刺したと虐待下に置いていたことを明かしたという。M氏は事件性と身の危険を感じ、車内でのやりとりをスマホで密かに録音した。

夜の中洲

山本は福岡・中洲の繁華街では派手な遊興で知られた存在で、「傍らには長年、常に訳アリの女性がいた」と語っている。ホストの借金で首が回らなくなり風俗で稼ぐような女性らに対し、家族に風俗働きのことを言うぞと恐喝するなどして金を引っ張っていたのではないかと推測している。

見習いホストで稼ぎのない岸は、経済的には山本に依存する生活を送っていた。「みゆ(山本)が脳みそでまこっちゃん(岸)が手足だったんだと思います」「そのやり方が上手くいって味をしめ、エスカレートしたのが今回の事件なんだと思います」と述べている。

 

元夫

「昔と何も変わっていない。人間じゃないですよね」

2020年10月、福岡TNCテレビ西日本は20年前に山本美幸と婚姻関係にあった元暴力団組員の男性に取材を行っている。

男は翌21年2月に飯塚市三児遺体事件(9歳養子の虐待死、2歳と3歳の実子殺害)が発覚した田中涼二被告である。当時無職だった田中は山本とは別の妻と離婚して三人の育児に追われていた。(一審で無期懲役判決。2023年2月現在、控訴審が行われている。)

www.youtube.com

インタビューの中で「(自分も一通りの悪事に身を染めてきたが)人に迷惑をかけて関係のない人間を苦しめるようなことをしたらいけないと思う」と山本を責める口ぶりで事件について語る。

 

話によれば、山本は若い頃から似たような手口で相手から金をむしり取っていたという。交際中の男性に「金を貸している」と言い、男性は借りていないと言い張ったが、山本は親交があった田中政樹に脅させ、涼二も命じられるがまま男性に暴行を振るい、金銭を収奪したことがあったと振り返っている。

山本はシガーライターを押し付けてみたり、カッターで爪を剝いだりといった暴力団員でもやらないような拷問を、「これ楽しいもんね、まだ分からん?じゃあもう一枚」とへらへら笑いながら平気でやって見せたという。

2022年の文春による取材では「山本とは二度と係りたくないので、今(三児の事件で)同じ福岡拘置所にいるが手紙を書く気にもなれません」と語っている。後に子殺しで捕まる元暴力団員にそこまで言わせる山本の本性とは何だったのか。

 

裁判

別の恐喝事件

2020年11月、山本、岸は、瑠美さんとは別の恐喝事件の審理に掛けられた。

2016年当時、女性Cさんが山本に総額5000万円の借金を抱えており、Cさんに好意を抱いていた男性Aさんから現金35万円余りを脅し取ったという事案である。

検察側の主張では、背後に暴力団がいるとAさんに信じ込ませ、反抗できない心理状態に仕向ける「常套手段」が踏襲されていた。給与が少ないとヘアスプレーに火を点けて「火炎放射器」の状態にして吹きかけたり、走行中の車両から被害者の顔を地面に近づける、模造刀で腹を刺すといった暴行をしていたとされる。

山本と岸は共に容疑を否認したが、瑠美さんの兄・亮太さんも証人として出廷し、Aさんが自分と同じように山本らに口座と車を取られて金を搾取されていたことを証言した。判決は恐喝罪で刑期は懲役6か月とされた。

 

兄貴分

続いて、脅迫に加担して詐欺や死体遺棄の共謀に問われた元暴力団員・田中政樹の公判が福岡地裁(足立勉裁判長)で開かれた。

田中は、裁判前の取材で、20年来の付き合いのある山本について「今でもかわいい妹分」とし、山本との金の脅し取りについては「10人いかんくらい」「二人三脚。阿吽の呼吸でやってきた」などと語っていた。瑠美さんの遺族について言葉を求められると、「ん-、どんな言葉も軽いな。一人死んどるのに申し訳ないでは軽い、そやろ?」と述べていた。

公判では恐喝未遂については認めたものの、死体遺棄や共謀については否認した。弁護人は、そもそも電話で会話しただけで現場にはいなかったことから共謀や遺棄には当たらないと主張した。

法廷では山本、岸と電話の相手である田中の会話音声が再生された。巻き込まれたM氏が車中で録音していたものである。

田中:殴ったの何時や

山本:昨日の夜中まで殴りよったかもしれん

田中:どの程度?

山本:木刀で

田中:顔殴ったりしとるわけじゃないんやろ

山本:私顔殴った

田中:警察は免れんやんけ。埋める以外

山本:でも埋めるとか無理よ、さすがに私はしきらん

岸:俺はできるけど

山本:全責任が私にくるんよ、もう

岸:下手な嘘つくより、ある程度本当に言って黙っとく。死人に口なしやけんね

田中:死人に口なしや

三者三様の鬼畜ぶりに呆れてものも言えない。

検察側は、死体遺棄の提案や口裏合わせについての指示などを積極的に意見していたとして、懲役2年6か月を求刑。足立裁判長は、「暴力団員を装っての脅迫的文言により重要かつ不可欠な役割を果たしている」と認定したが、死体遺棄については「車で運んだのは隠匿ではなく時間稼ぎ」だとして刑法上の遺棄には該当しないとしてこれを退け、懲役2年執行猶予4年の判決を下した。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/050/090050_hanrei.pdf

 

瑠美さん事件と山本の息子

2021年2月に始まった瑠美さんの傷害致死についての裁判では、山本と岸は異なる主張を行い、互いに責任を押し付け合うかたちとなった。

飲食代や生活費等として、瑠美さんに押し付けられていた総額6000万円以上の借用書を作成して、監禁状態において強硬に返済を迫り、虐待によって死に至らしめたものとされた。

山本は自分は手出ししておらず岸が暴行を繰り返した、止めようとしたが逆らうと自分が暴行されるため怖くてできなかったと主張、岸は山本の命令ですべて行ったと主張した。

年齢が近く知人関係にあった山本の息子と岸は、被害者が亡くなる5日前にラインアプリでメッセージのやり取りをしていた。瑠美さんと面識があったかは分からないが、彼女が監禁状態に置かれていたことは認識していたようだ。

息子:生きとる?

岸:左ひざの皿くだいた

息子:まじかよ 爆笑

岸:もごもごーって言ってたよ

死亡前日19日には息子と山本もメッセージのやり取りをしていた。

息子:(飲みに)いつ行くの~?

山本:きょうの瑠美の金集め次第かな

息子:今日も集めるんか 爆笑

山本:当たり前か 笑笑笑

本件で山本の息子は罪に問われてはいないが、そうなる日も近いのではないかと予感せずにはいられない。そうならないことを祈るばかりである。

2021年3月2日、福岡地裁(岡﨑忠之裁判長)は、死体遺棄については認定しなかったものの、両被告が私利私欲を目的に虐待行為を楽しんでいたことを指摘し、共に虚偽の弁解に終始しており、反省の態度が見受けられないとして厳しく断罪。山本に懲役22年、岸に懲役15年の判決を下す。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/847/090847_hanrei.pdf

 

検察、両被告人双方が控訴したが、12月3日、福岡高裁(根本渉裁判長)は死体遺棄については罪状認定せず、被告人の各控訴をいずれも棄却し、原判決を是認した。

両被告人とも上告せず、12月18日、一審での判決が確定した。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/825/090825_hanrei.pdf

 

■岸の証言と保険金殺人疑惑

山本美幸という人間はひとの皮を被った化け物ですよ」

4年間同居してきた岸颯は山本をそう表現し、公判でも自分のしてきたことは全て山本の指示による犯行だと主張した。化け物と4年も暮らしてきたのなら本人も化け物とそう大差ないという気もするのだが。

報道では「山本の交際相手」とされていたが、岸は恋愛関係を否定している。別の女性を介して同居するようになり、半ば強制的に遊びや犯罪行為に付き合わされてきたと感じていた。山本の方も、ひも状態の岸を追い出したがるような愚痴や相談をM氏に持ち掛けることもあった。

イメージ

岸は山本の指示で、亮太さんの戸籍上の養子に入り、金を工面したことがあったとも語る。また2016年2月には酒井美奈子さんという女性と入籍しており、その2週間後に美奈子さんは死亡している。死因は急性心不全

だが美奈子さんもまた山本らから暴行や虐待があったとされ、岸が保険金を得ていたことから殺害した疑いも持たれている。

瑠美さんの遺体を運んだ際の録音データでは、山本の口からは、なぜか3年前に「病死」したはずの美奈子さんの名が出てくる。

「美奈子の時はアザもなかったけん、良かっただけよ。アザがあったら絶対調べられる」

「戸籍調べられたらアウトよ。亮太のことから全部ばれるわ」

「亮太のことから美奈子のことまで全部や」

佐賀県警も疑惑については遡って捜査をしたはずだが、起訴に持ち込む証拠が集まらなかったのであろうか。

 

警察不信

一審判決後、裁判員も警察の対応の不備を問題視する発言を行った。

2021年1月、県警・杉内由美子本部長は内部調査の結果、鳥栖署の一連の対応は適切だったとする会見を行った。「直ちに危険が及ぶ内容ではないと判断した」と繰り返し、鳥栖署の対応に誤りがなかったとする説明に終始。

激烈な恫喝に対して「脅迫だと断定できない」と言い放つ判断力、現に人が殺されても尚「直ちに危険が及ぶ内容ではない」と断言できる豪胆さには恐怖を覚える。日頃から罪を認めようとしない凶悪犯を扱ってばかりいると、口を割らない、謝罪しないことこそ正しいと信じ込めるようになるのであろうか。

 

3月、佐賀県公安委員会・安永恵子委員長は一連の対応に不備があったとは認められないとし、遺族が求める第三者による再調査を拒否した。

遺族は、県議会に再調査の嘆願を提出したが、10月1日、不採択が決定する。再調査に賛成した議員は2人だった。

佐賀県警は裁けんけい」と言われる巷間の揶揄ではないが、遺族に対する冷酷とも取れる硬直した態度、自浄作用のなさは、県民に警察不信・政治不信を植え付けた。無論そうした警官だけとは思わないが、桶川ストーカー事件での教訓は生かされてこなかったのか、他人事のつもりなのか、といった憤りを覚えずにはいられない。

死体が出てから捜査するのも警察の重要な仕事だが、市民の安全を守ることこそ目指すべき警察の姿であると筆者は思う。警察に見放されたとき、「人の皮をかぶった化け物」に目を付けられてしまった小市民にどんな自衛策があるというのか。

 

自分勝手

2022年11月10日、主犯格・山本受刑者が服役していた佐賀県の麓(ふもと)刑務所で体調が悪化し、その後死亡したことが報じられた。死亡時期は8月頃と見られている。

テレビ西日本では、山本は病名は不明だが事件前に入院していた時期があったとし、新型コロナの集団感染により死亡したと伝えている。

 

ノンフィクションライター・高橋ユキ氏は服役中の岸受刑者と手紙でやりとりを続けており、「デイリー新潮」の記事で岸からの手紙を公開している。

高橋氏に知らされるまで山本の病死を一切知らずその事実を知って気が動転したこと、去来する複雑な感情を綴っている。

約4年間生活する中で本当に様々なことがあり、正直私は山本さんに対し『早く死んでくれないかな…そうすれば、周りの人がどれだけ助かることか…。そして、死ぬならできる限り苦しんでほしい』とまで願い、今回の事件によりその気持ちは一層強くなりました。なので、今回の山本さんが亡くなった知らせは私にとって嬉(「喜」の誤りか)ばしい瞬間のはずなのですが、最初に感じたのは、何とも言えない悲しみでした。

『大宰府主婦暴行死事件』主犯の「女帝」獄中死に「逃げてんじゃねぇよ」 “元交際相手”の共犯が手紙で初めて明かした複雑な胸中 | デイリー新潮

岸は、山本に対しても受刑生活で反省し、被害者や遺族への償いをすべきだと願っていたと言い、自分勝手に周りの人間を巻き込んで散々迷惑な事をしておきながら「死んで逃げてんじゃねえよ」と怒りの感情を表している。一方で、「そんな方法でしか自分を表現できない不器用な人生を送った山本さんに少し憐れに思います」とも記している。

 

私利私欲のために他人を人とも思わない冷酷さ、監禁やマインドコントロールの手口から松永太らによる北九州連続監禁殺害事件を彷彿とさせるものがあるようにも感じられた。受刑からそれほど間を置かず病魔で逝くという身勝手な決着に何か煮え切らないものが多く残る事件である。

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被害者のご冥福をお祈りいたします。

メラニー・ウリベ殺人事件とエタ・スミス

1980年、米カルフォルニア州ロサンゼルス郊外で発生した看護師女性の拉致事件。早期解決に導いたのはある女性の超自然的能力がきっかけだった。

 

◆事件の発生

1980年12月15日(月)、カルフォルニア州ロサンゼルス郊外にあるパコイマ記念病院に勤める看護師メラニー・ウリベさん(31)が夜勤の定刻を過ぎても姿を現さなかった。
彼女は8歳の子を持つシングルマザーで、時間厳守の性格、それまでの真面目な働きぶりからも無断で欠勤するとは思えなかった。雇用主は不思議に思い、念のために彼女の自宅に電話を入れるも応答はない。
親しかった同僚のシャーリーさんらは心配して周辺を捜して回り、万が一の事態に備えて警察に行方不明の届け出をした。警察はメラニーさんのルームメイトであるルビーさんに話を聞いたが、出勤のため家を出て以降は分からないと話した。
 
大まかな地理関係を確認しておくと、メラニーさんが暮らすバーバンクはロサンゼルス中心市街から10数mile北に位置にしており、バーバンクから勤め先のあるパコイアまで北西に10mile(10mile=およそ16km)、車で20分程である。バーバンク、パコイアの北東部には広大な渓谷・丘陵地が広がっていた。
 
 
16日5時頃、パコイマのブロモント通りで車が炎上しているとの通報が入った。原因は放火と見られ、確認するとメラニーさんが通勤用に使用していた新式のピックアップトラックと判明する。
しかし車内に遺体や所持品はなく、彼女の生死や行方は依然として不明のままであった。
 
一方、メラニーさんの通勤ルートでは、通勤途中だった19時45分頃に犯行現場が目撃されていた。信号待ちで停車の際、2人組の男が左右のドアから車内に押し入り、男たちに挟まれた女性が悲鳴を上げていたというのである。
車はその場を走り去ったが、「交差点で何かものを投げ捨てるのを見た」との情報から付近を捜索。拾得物をルビーさんに確認してもらうと、側溝で発見されたウエットティッシュの箱がメラニーさんが車に常備していたものと同じであることが判明する。
捜査員は拉致・誘拐との見方を強めるも、物証はティッシュボックスのみ。男たちはどこのだれか、彼女は何の目的でどこへ連れ去られたのかも定かではなかった。
捜査当局はメディアに協力を要請して広く情報を募った。近くの丘陵地では大規模捜索が行われ、通勤ルート周辺での戸別訪問も並行して続けられた。
 

メラニーさんは身長約5ft2in(157cm前後)、ブロンドヘア、ブラウンアイ。家を出たときの服装は、看護師の白い制服、革のジャケット、茶色のセーターを着用していた。前の週には付近で7歳の少女が遺体となって発見されていたこともあり、市民は不安を募らせ、早急な捜索が求められた。

 

◆エタ・スミスの「ビジョン」

17日、ラジオニュースを聞いていた地元バーバンクに住むエタ・ルイーズ・スミス氏(32)は、事件に関する「ビジョン」で脳裏を支配された。
スミス氏は当時ロッキード社の航空宇宙工場でキャリアを重ねる実業家で2児を育てるシングルマザー。自身を「超能力者」だと主張したことはなかった。
後年のインタビューでは、子どもの頃から「予知」体験をしたり、学習していないことをすでに知っていたりといった経験はあったが、そうした特殊な経験や能力について母親以外には明かしてこなかったという。
 
生活エリアはそれほど離れていないもののスミス氏はメラニーさんと知り合いだったわけでもなく、周辺で事件について見聞きしたこともない、他の市民同様、報道以上の予備知識はなかった。
しかしラジオが「警察により自宅周辺での聞き込み捜査が行われている」と伝えた直後に、「彼女は家にいない」という声のようなものを聞いた。
すると映画のシーンのように「渓谷」の鮮明なビジョンが映り、それがどうしても頭から離れなかった。地名も正確な位置も分からない。だがそこに映り込んだ「白い何か」がメラニーさんの看護服だったように感じられ、事件との関連を否応なく想起させた。
スミス氏は捜査員から変人扱いされることも承知の上で、捜査当局に情報提供に赴いた。それは売名や偏執ではない、善良な市民としての使命感によるものであった。
 
ロス市警のベテラン捜査官リー・ライアン氏は、スミス氏の来訪を歓迎した。
「どうしてもお話しておかなければならないことがあります」
彼女の社会的キャリア、メラニーさん失踪に利害関係のない立場であること、彼女自身が証言に葛藤していた様子から、良心による証言だと信頼してリー捜査官は耳を傾けた。
《郡北部の渓谷エリア、曲がりくねった山道、それはやがて未舗装の砂利道に変わる。》
《植え込みが見え、その向こうに、何かはっきりとはしないが「白い何か」が見える。》
 
「ビジョン」を地図と照らし合わせるように促すと、彼女の指は人里離れたサンフェルナンド渓谷の僻地「ロペス峡谷」へと向かった。
リー捜査官は当地での捜索を約束し、翌朝また署に来てくれるようスミス氏に告げた。
 
今でこそ周辺に幹線道路が整備され、ロペス峡谷も新興住宅街へと変貌しているが、当時は辺境の山地で「アンヘレス国立森林公園」の一部だった。
 

◆発見

《警察は話を聞いてくれはしたが、はたして捜索、発見はいつになるのか。》
《自分の証言だけで本当に捜査してもらえるのか。》
《自分の力でメラニーさんの救出や犯人逮捕ができるわけではない。》
《しかし生存の可能性を考慮すれば事は一刻を争う。》
・・・
 
時刻はすでに16時を回っていたが、スミス氏は自宅に戻ると幼い2人の子どもたちと面倒を見てもらっていた20歳の姪を車に乗せ、一路、地図にあったロペス峡谷へと飛ばした。突き動かされる彼女の脳裏には、山の頂へと向かって歩く少女の「ビジョン」が浮かんでいたという。
 
ひと気もない峡谷。
車を降りると恐怖心や「ここを離れたい」という思いがこみ上げる。後にスミス氏は語る。
 
「私はトラウマと恐怖を感じていました。そして内側からチクチクと刺激するエネルギーのようなもの。アドレナリンが急上昇したときのような感覚でした」

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しかし季節は12月、17時ともなればすでに暗くなり見通しも聞かない。
3人は上れるところまで行ってはみたものの事件の手掛かりは何もなかった。
捜索を諦めかけて下山の途中、スミス氏はダートの路面にまだ新しいタイヤ痕があることに気づいた。そして、なぜかそれがメラニーさんの車のものと確信した。
土に指を入れてみると、そこには様々な感情が溢れており、その多くを占めたのが「恐怖」であった。彼女はそれがメラニーさんの感情であると認識し、しばしその場から動くことができなくなった。
 
やがてそこから更に下っていくと、娘のティナが茂みの中に何かあると伝えた。事前に「白い何か」を見つけたら教えるように、と母親から聞かされていたためである。
スミス氏はティナに言われた茂みの奥を覗いてみると、それまでの考えが誤解だったと気づかされる。メラニーさんの看護服だと思い込んでいた「白い何か」とは、彼女の勤務用の「ナースシューズ」だったのだ。
うつ伏せの状態で発見された彼女は残念ながらすでに事切れていた。しかし手掛かりも目印もない夜の山中で、彼女たちはその遺体を発見したのである。
 
 

◆2つの逮捕

遺体の発見を通報したスミス氏は、その夜、2人の取調官から事情聴取を受ける。
彼女もそれは「第一発見者」として当然の責務と思い、記憶のかぎり包みなく話した。発見までの経緯を一通り話し終えると、刑事は「よし、では最初から」というやりとりが何度も続き、いつしか彼女は自分が「容疑者」として取り調べを受けていることに気づいた。取調官は氏の証言に齟齬が出ないか粗を捜しており、やがて一人が怒鳴ったり椅子を蹴ったりするようになっていたという。
 
「街でカージャックに遭った」「後に放火された車が見つかった」という以外報じておらず、発見場所の渓谷へは捜索隊すらまだ立ち入ってもいない。生死さえも分からない中、夜の山奥に女子どもが人捜しに出向くだけでも不可解である。そのうえ手掛かりもなしにどうやって茂みに捨てられた遺体を発見できるというのか。彼女が事件と係りのある「共謀者」と推測する以外に合理的な説明がつかない、というのが捜査員の見方であった。
 
ビジョン」について問われてもスミス氏には満足な説明ができない。そもそも事件の「ビジョン」が浮かぶことさえ生まれてはじめての経験なのだ。自ら志願して2種類のポリグラフ検査を受け、いずれも取り乱すことなくクリアし、取調官に理解を求めた。しかし捜査員たちは、最終的にスミス氏を殺人ほう助の容疑で逮捕、勾留した。
 
後にスミス氏は「家でも牢屋でもいいからとにかく休みたいほど疲労困憊でした。逮捕だと言われて真実かブラフかも気に留められなかった」と逮捕の瞬間を振り返る。
発見前に「ビジョン」を聞かされていたリー捜査官は、遺体発見について「運ではなかった、彼女はその場所に確信を持っていたと思います」と述べ、「彼女は事件についてはっきりと分かりすぎているからこそ犯人ではない。彼女の発見がなければこれほど迅速に解決に至らなかったか、未解決のままだったでしょう」と見解を示した。
 
メラニーさんの遺体発見が報じられると、「犯人らしき男を知っている」という匿名情報が警察に舞い込んできた。
12月20日、情報提供者は、ある診療所で男たちが自身の犯行や隠蔽について語り合っているのを耳にしたと証言。パトリック・コンウェイ刑事にその男の名を伝えた。
口の軽さが災いして発覚につながったのは、パコイマ出身のノーマン・ウィリスだった。だが彼は当時17歳で刑事による取り調べを免れる。彼の両親が本人を問い詰めたところ、麻薬の売人で仮釈放中だったルイーズ・モーガン(20)の名前が挙がった。
捜査員はモーガンをすぐに逮捕して追及に及んだ。モーガンは当初犯行を否認したが、翌21日にはスペンサー・ネルソン(21)との共謀を認めた。
 
3人は金銭目的でカージャック強盗を企て、そのまま15mile離れたひと気のないロペス峡谷の森へと拉致して性的暴行に及んだ。2人は彼女をそのまま山中に放置する気でいたが、スペンサー・ネルソンは違った。メラニーさんを縛るため、2人がロープを取りに車へと戻った隙に、ネルソンは巨大な岩で彼女を後ろから殴りつけて撲殺。ネルソンには少女誘拐の前科があり、逮捕されれば後がなかったため「次は殺すことに決めていた」という。彼らは窃盗罪と第一級殺人罪終身刑となり、カルフォルニア州で収監された。
 
同時にスミス氏が事件に関与していない事実が判明し、拘留4日目にして釈放が認められた。その後、冤罪に対して公式に謝罪が行われたが、釈放時には「謝罪も感謝もなく、ドアを開けてさようなら」だったという。
 
 

◆裁判

スミス氏は殺人容疑で裁判にかけられることこそなかったが、6年後、警察署を相手取り「不当逮捕」の賠償請求訴訟を起こすことになる。
彼女は勤務先で最高のセキュリティクリアランスを与えられた立派な実業家としてコミュニティでの地位を築いていた。しかし遺体発見という捜査協力に対して突然の逮捕が付きつけられたことでそれまでのキャリアを失った。名誉は傷付けられ、汚名を着せられたのだ。
逮捕時には子どもたちがどうなるのかという大きな不安を抱え、一度社会から向けられた「疑惑」「好奇」は当然彼らの将来にも禍根を残す。また丸裸にされての身体検査や、勾留中に赤痢に罹患して体調を悪化させた等心身への苦痛も伴った。
彼女の情報提供や被害者捜索は市民の善意ある行為であり、逮捕・勾留には正当な理由が存在しないとして、弁護士は750,000ドルの損害賠償を求めた。
 
高等裁判所で行われた審理で、警察側は手掛かりがない中での遺体の発見こそ犯人しか知りえない「秘密の暴露」に当たるとし、逮捕の正当性を主張した。だがその理屈が通ってしまえば、あらゆる第一発見者は「第一発見者である」というだけで逮捕されても問題がないという理屈になってしまう。
実は犯人の一人が話しているのをスミス氏が耳にしており、ただ通報するのではなく「ビジョンを見た」という手の込んだ話をでっち上げたとする説が唱えられ、しばしば彼女の売名行為が疑われた。
ある女性警察官は、勾留中に彼女が事件を基に本を書いたり、映画を作ったりすることを話していた、と証言して売名説を補強しようとした。スミス氏は「状況があまりに奇妙で、まるで映画のようだ」と言及したが、「有名になりたいとは思っていない」と証言している。
そもそも彼女は自ら超能力者であると主張していない。これまでの輝かしいキャリアを棒に振ってまで「超能力」で名を売ることにメリットがあるのだろうか。
 
警察はその超自然的な奇跡を受け入れがたいとして、事実を「犯罪」と結びつけて曲解した。果たしてノーマン・ウィリスが秘密を隠し通せる犯罪者であったなら、スミス氏の逮捕・勾留はもっと長引いたにちがいない。ましてや真犯人たちが逮捕されず、刑事裁判にまで至っていたならば彼女や子どもたちはどうなっていたのか。
警察には当時被害者救出や犯人につながる証拠は何一つなく、スミス氏を逮捕するに足る証拠もなかった。「信じがたい」「ただ疑わしい」という心証だけで、彼らは捜査協力者を「犯罪者」とみなしたのである。
最終的に陪審員たちは、逮捕されるいわれはなかったとして彼女に26,184ドルを支払うことを評決した。
「無実の人が殺され、その人の死がなぜか私にまで及んできたのは何だったのだろう。生涯を通じて説明のつかないことがたくさん起こるのは、人生のミステリーの一つだと思います」

スミス氏はとても敏感な面のある人間だと自ら認めているが、「霊感がある」とは主張しないし、そうした特殊な能力によって利益を得ようともしない。それでも多くの人は彼女が犯行に関わっていると考え「たがる」。

メラニーさんもスミス氏も職業こそ違えど年が近いシングルマザーで、同じ地域に暮らしていればどこかで接点があってもおかしくはない「ように思える」。
実はスミス氏が人を介して殺人依頼をした、金やロッキード社の権力で警察を丸め込んでいる、黒人の若者3人を騙し込み…等といった陰謀論は世に出尽くしたうえで、彼女が殺害に関与した証拠は40年来ひとつとして示されていない
 
超自然的な力は科学ではない。日本でも千里眼事件があるが、いつ何どきのいかなる状況でも定則的効果が発揮されるという訳ではないからこそ、その力は人知では捉えきれない、理解を越えた「超・能力」なのである。
 
「一週間も彼女のことが頭をよぎらないことはないでしょう。私は彼女を知りませんでした。時々、彼女は私と一緒にいて、私を導いてくれているのかもしれないと感じることがありますが、彼女のおかげで私のその後の人生は変わったのだと思います」
 
メラニーさんのご冥福を祈りますとともに、ご遺族、エタ・スミス氏らの心の安寧を願います。
 
 
 
◆参考
 

飯塚事件について

1992年(平成4年)、福岡県飯塚市で起きた7歳児2人の殺害遺棄事件は同じ町内で起きた過去の事案との連続犯行が疑われ、2年半後に近くに住む中年男性が逮捕された。

男は一貫して容疑を否認するも、いくつもの状況証拠から死刑判決を下され、刑は執行された。しかしその後も導入から間もなかった当時のDNA型鑑定や精緻すぎる目撃証言などについて冤罪疑惑がつきまとっている。

 

■遺体の発見

1992年2月21日(金)12時10分頃、福岡県飯塚市から甘木市(現・朝倉市)方面へとつながる国道322号・通称「八丁峠」の崖下10m付近に女児2人の遺体が発見された。

甘木市秋月野鳥(あきづきのとり)と呼ばれる地域で、旧秋月藩の城跡に近く、古処山(862メートル)の三合目付近に位置する。市内の最低気温は氷点下2度、当時の捜査員は、現場の山は時折雪がちらつく寒い日だったと振り返っている。

国道といっても周囲は木々が鬱蒼としており、つづら折りの急カーブがいくつも連なる険しい峠道で昼間でも交通量は極少ない。難路のため、地元の人間は近くの国道200号「冷水道路」に迂回するのだという。

 

第一発見者の男性(52)は営林関係の仕事でその道を利用しており、小用を足すために路肩に停車したまでで全くの偶然による発見で、当初はマネキンが捨ててあると思って驚いたと証言する。周囲に家はなく、まず子どもが徒歩で通りがかるような場所ではない。

通報を受けた甘木署は、前日朝から通学途中で行方不明となり捜索活動が続けられていた飯塚市立潤野(うるの)小学校1年生Aさん、Yさん(ともに7)とみて連絡を取り、21時に親族が遺体を本人と確認した。2人の遺体は司法解剖のため九州大学に運ばれた。

 

自宅から発見現場までおよそ29キロ。2人の遺体は重なるように倒れており、上半身の衣服は登校時のままで、下着が剥ぎ取られて下半身が露わな状態、靴を履いていなかった。顔などに殴られたらしい皮下出血が見られ、首には絞められたような痕跡があった。

福岡県警捜査一課は二児の自宅に近い飯塚署に捜査本部を、遺体発見現場を管轄する甘木署に準捜査本部を設置し、殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した。翌22日には、遺体発見現場から数キロ離れた八丁峠沿道の山中で二児のランドセル、衣類、靴の片方などが発見された。

上のマップでは便宜上「八丁峠の地蔵」と銘打たれている地点までのルートを示しているが、この地点は遺留品発見現場であり、遺体発見現場は更に南に4km程の地点である。

 

■連続犯

2月20日朝7時40分頃、Aさん宅にYさん、近くに住む同級生が集合し、3人で学校に向かった。10分ほどしてYさんが「行きたくない」とぐずり出し、同じクラスのAさんがそれをなだめるようにして遅れを取るかたちとなった。結局、別のクラスの同級生は一人だけ先に登校した。

Aさん宅から学校までおよそ1.5キロの道のりで、同級生と離れてしまったのは学校まで残り500メートルといった辺りだった。

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毎朝交通指導に立つ男性(64)は、いつもは8時前に通りがかる3人組の姿がないことに気づいていた。8時10分近くになって1人が通っただけだったので、あとの2人は先に行ったのだろうと思い、15分頃に帰宅したという。

二児が通りかかったのは男性の帰宅直後とみられ、8時20分頃に100m先の地点で目撃されていた。

8時30分頃には学校まで残り300メートルの農協付近の三叉路で、学校とは逆方向に歩く姿が通勤中だった農協職員に目撃されていた。だがその3分後に同じルートで出勤してきた同僚は女児たちの姿には気づかなかったという。

下のストリートビューが最後の目撃地点とされる三叉路付近だが、古くからの住宅地で道路は入り組んでいる。住宅は高い外塀で覆われ、道路の見通しは利かないものとみられる。

 

定刻の8時20分になっても2人は教室に姿を見せず、当初は道草でもしているのではないかと思われた。話を聞いた司書補助の職員が周辺を探して回ったが、行方は露として知れず、担任の犬丸千秋教諭は保護者に連絡を取った。

その日、Yさんの母親が市街の病院に出掛けることになっていたので、それを心配して「2人で病院に向かったのではないか」とも推測されたが、母親は8時45分頃に車で出かけ、10時頃には診察を終えて帰宅しており、病院でも二児が訪れた様子はなかった。その後も2人とも家に帰ってこないことから12時半に捜索願が出された。

失踪当時、Aさんは身長116センチ、体重19キロ、おかっぱ頭で、白ジャンパーにチェックのスカート、ピンクのランドセル姿で黄色い傘を持っていた。Yさんは身長118センチ、体重22キロ、黄色のジャンパーに赤い襟付きトレーナー、赤いキュロットスカート、茶色のランドセル姿だった。

 

二児が通っていた市立潤野小学校は4時間目で授業を打ち切り、教職員やPTA会員ら35名で通学路周辺を捜索。関係者らは、二人で励まし合ってどこかで無事にいると固く信じていた。夜には飯塚署員ほぼ全員に当たる約100人を動員し、地元消防団らも捜索に加わった。

翌21日に予定されていた授業参観は父母集会に切り替えられ、捜索状況の説明などを行い、当面は保護者付き添いでの集団登下校を要請した。「数か月前から小学校周辺で不審者が出没している」「女子高生が車に追いかけられた」といった報告もあった。

しかし18時過ぎのテレビニュースで二児と見られる遺体発見の報が流れると、職員らは驚きと落胆に包まれた。

 

同校では3年前の1988年(昭和63年)12月4日(日)にも明星寺団地に住む1年生女児Mさん(7)が行方不明となっていた。

Mさんは9時半頃に弟と一緒に近くの友人宅へ遊びに出掛け、その後自宅から150m離れた宅地の建築現場で一人で遊んでいたところを近くの子どもが目撃したのを最後に消息を絶った。道迷いや事故、誘拐など事件に巻き込まれた可能性もあったが有力な手掛かりはなかった。

雑木林の一斉捜索、周辺の大小15のため池で水抜きが行われるなど大掛かりな捜索活動が行われたが遺留品も見当たらず、捜査は事実上の凍結状態とされていた。

 

二児がいなくなった92年当時といえば、世間では東京埼玉連続幼女誘拐殺人(広域重要指定117号事件)の衝撃もまだ記憶に新しく、90年5月には栃木県足利市で4歳女児が犠牲となった事件で91年12月に犯人が逮捕されて話題となっていた。91年の1~11月に幼児対象誘拐は54件と前年同期より9件増加していた。

捜査本部は両事案の関連を視野に、88年のMさん行方不明についても再捜査を決定する。連続犯を野放しにする訳にはいかないと総力を挙げて捜査に臨んだ。

 

■22日

2月22日未明、九州大学医学部・永田武明教授による司法解剖で、死因は首を手で絞められての窒息死(扼殺)と確認された。Aさんは頭部、Yさんは顔に殴られた跡があり、両者とも手足に擦り傷、陰部に姦淫による損傷があった。

死亡推定時刻は20日15時から同19時の間とされたが、胃の残留物の状態から、二児の殺害に時間差があったか、あるいはコメの未消化物が含まれていたことから犯人がおにぎり等を与えていた可能性も考慮された。

捜査本部は、車に乗った犯人が二児を連れ去って暴行に及び、殺害後に峠道で遺棄したとの見方を強め、変質者の洗い出しに全力を挙げた。

 

遺体発見現場では鑑識作業を急ぐとともに、周辺での遺留品の捜索に機動隊約200名を動員した。

10時45分頃、遺体発見現場から北に約4キロ離れた甘木市嘉穂町の境界にあるスギ林でランドセルや傘、キュロットスカート、下着、靴下など被害者の遺留品が発見された。靴は片方ずつしか見つからず、下着には各被害者の尿斑が付着していた。

 

22日朝、二人は二日ぶりの無言の帰宅となった。Yさんの葬儀は24日の午前、Aさんの葬儀は同24日の午後にそれぞれ営まれることとなった。

22日15時頃、Aさん宅に犯行を匂わすかのような不審電話があった。遺族が告別式などの段取りに追われており、知人男性が代わりに「もしもし」と電話口に出ると15秒ほど沈黙が続き、低い押し殺したような声で「Aちゃんらと一晩過ごさせてもらった」といった内容のことを喋って通話は切れた。捜査本部は犯人の可能性もあるとして録音機材を設置したが、その後はかかっていない。

 

■初期報道

二児が学校に来なかった理由やその後の足取りもはっきりとしないなか、いくつかの目撃情報が上った。飯塚市内のおもちゃ店で20日14時頃に2人と見られる女の子がぬいぐるみを見ていたもの、同市本町の商店街で同19時半頃に少女2人が中年男2人に話しかけられていたとするもので、被害者との関連の確認を進めた。

 

周辺の不審者情報も多く寄せられた。

潤野小学校区では92年に入って、「白色軽乗用車」に乗った男が6年生女子にコートの前を開いて裸体を露出した事件があった。

二児の通学路近くの商店で目当てのマンガが買えなかった男子二人に「マンガがある店を知っている。一緒に行こう」と中年男性による声掛け事案もあった。

事件前の2月15日には男が4年生女児3人を集め小用を足すという露出事案も発生していた。

また同区と、隣接の若菜小学校区では「白い車」が児童をつけ回すケースが相次いで報告されていた。車の横を児童が通り過ぎると発進し、振り返ると停車する怪しい動きをしていたという。

こうした情報もほとんど地域住民に共有されておらず、飯塚署さえ把握していないものも多かった。3年前のMさん行方不明の教訓が生かされてこなかった実態が露呈した。

背景には都市の遷移も考えられた。かつて筑豊炭鉱が栄え、炭住(炭鉱労働者向けの長屋住宅)も多く見られたが、30年前に閉山後、労働者の多くが町を離れた。その後、元々の農村地域の色が強まっていたが、80年代後半に入って再び新興住宅が増え始め、潤野小学校も生徒数560名近くに増加していた。田舎の長閑さ、子どもの増加、新旧住民の結びつきの弱さが影響して犯人に付け入る隙を与えてしまったと見る向きもあった。

 

遺体発見現場から数百メートル甘木市街寄りの国道322号脇で、2月21日未明に不審な「白いセダン」が駐車されていたと複数の目撃情報がもたらされた。ヘッドライトを点灯させた状態でトランクを開けていたとされ事件との関連が疑われた。

現場から南に3キロほど山を下った甘木市秋月地区でも「白い車の男」の付きまとい事案が頻発していた。91年11月頃には女児が「学校に送ってやろう」と誘われていた。

生徒らは逃げて無事だったが、その前後にも30から40歳代の男が「たばこを買ってきて」「学校はどこね」などと声を掛ける事案が確認されていた。

3年前のMさん行方不明の前後にも秋月地区で拉致未遂の事案が続発していたことから、八丁峠の南・北に土地勘があり、周辺を行き来しての同一犯も疑われた。

 

2月26日には車に乗せられたAさんらしき目撃情報もあった。潤野小学校から南東約800メートルの福岡県穂波町の交差点で自営業男性(39)が信号待ちをしている際、横に停車した白色ハッチバック式小型車に目をやると、後部席に女児が床にひざまずき座席に手を突いたような後ろ向きの格好でうずくまっていたという。

女児は身を隠すような不自然な姿勢で、目を見開き怯え切った表情に見えた。目撃者は運転手の顔やナンバーは見ていなかったが、22日の新聞に掲載された顔写真によく似ていたことですぐに気づいたという。

 

27日夕刊では、早くも「捜査難航」の見出しが付けられた。

捜査本部は連日430人体制の動員で、飯塚市内約2万9千軒の大掛かりなローラー作戦を実施したほか、遺棄現場に通じる周辺ルートにも聞き込み対象を広げ、八丁峠につながる道では日夜検問を張っていたが直接犯人につながる情報は得られていなかった。変質者の情報収集、遺留品の分析など「あらゆる方向に間口を広げて」捜査したが、車を運転する変質者という犯人像から絞り込みが進まなかった。

白い車の目撃や不審情報も車輛特定にまでは至らず。遺留品発見現場では、たこ焼きや焼きそばが入っていたと見られる持ち帰りパックが発見されたが被害者は食べた形跡がなく、犯人が途中で購入したとの見方もなされた。

捜査陣の間でも、目撃情報の精度や死亡推定時刻の食い違いで評価が分かれ、①朝の内に拉致されて早い時間帯に殺害、②午後に本町商店街近くで拉致され、夕方以降に殺害、③朝に犯人と接触し、商店街で別れた後、午後に再会して連れ去られた、といった見方がなされ、③の見方では顔見知り説も浮上する。

 

■T証言と容疑者の浮上

しかし3月初旬、峠道での別の目撃情報から、飯塚市に住む無職・久間三千年(54)に嫌疑が向けられることになる。

88年の行方不明直前にもMさんが久間宅で遊んでいる姿を見たとの情報からリストにも名前が挙がっていた人物である。Mさんが連れていた弟が久間の長男と友達で一緒に遊びにきたとされる。

 

久間は1938年に飯塚市に隣接する山田市(現・嘉麻市)に生まれ、地元の定時制高校を中退。19歳で山田市職員として市長公用車の運転手などを続けた。だが1977年、20年間務めた役場を依願退職し、退職金や株を元手に貸金業などをした時期もあったが定職には就かなかったとされる。母親、妻、長男と飯塚市の一軒家で暮らし、Mさん失踪当時は町内会長も務めていた。

久間の妻の証言では、自分は産みっぱなしで外に出て仕事をし、子育ては久間に任せきりだったという。妻の送迎も久間の日課であった。子どもの喜ぶことを何でもしてやりたいという子煩悩で、テレビで面白そうな場所を見かけるとよく連れて行ったという。

久間の愛車マツダステーションワゴン・ウエストコーストは1982年3月から83年9月まで製造販売されたマツダのボンゴ車種では最上位グレードで、同車は1991年末で全国に2854台登録されていた。

新たな目撃情報は、3月2日、地元・甘木市森林組合の男性職員Tさんからもたらされた。

二児の失踪直後となる2月20日11時頃、昼食を摂るために車で山を下っていたところ、「紺色のワゴン車」に男が「乗り降りしていた」のを見かけたというもので、目撃地点が被害者の遺留品発見現場と合致。犯人が遺棄していた可能性が高いとして、9日には実況見分が行われた。

Tさんは甘木市側を目指して走行しており、紺色のワゴン車は飯塚市側を向いて停車していた。Tさんは男が何をしているのか不審に思い、横を通り過ぎる際も更に振り返って見たという。証言によれば、通称八丁峠「第5カーブ」付近の対向車線の路肩に停めてあった車に向かって斜面から一人の男が上ってきたと言い、Tさんの車が接近すると男は足を滑らせたように前のめりに躓いて両手をついたという具体的な内容だった。

Tさんは仕事で訪れた現場を日記に記載しており、2月20日という日付の確度は高い。

 

4月20日の読売新聞では、同車のほかにも2件の目撃情報を伝えている。

ひとつは潤野小校区に隣接する穂波町若菜小校区での目撃で、20日8時半すぎ、T字路で女性が停車中に前方を大型でやや古いタイプの黒色乗用車が横切った。運転していたのは中年男性で、後部座席に乗った女児二人をしかりつけ、女児たちは窓にへばりつくようにしており、助けを求めているようにも見えた、という。
もうひとつは潤野地区で20日9時ごろ、紺色ワゴン車に女児二人がおびえた様子で乗っているのを、女性商店主が見たといい、「後輪がダブルタイヤだった」という点は八丁峠の目撃車両と類似していた。捜査本部は紺色ワゴン車に焦点を絞り、筑豊地区で使用されている約1600台に絞って捜査を進めることとした。

捜査本部は車両の特徴が一致したことから参考人として久間に任意聴取を行うも、Tさんへの面通しでは峠で目撃した男かどうかは分からなかった。

久間は談話には応じていたが事件に話が及ぶと一貫して否認し、ポリグラフでも大きな成果が得られず、3月下旬に毛髪の任意提出を求めた。現場や遺体から採取されていた血痕等の試料と一致するのではないかと警察庁科警研に送られ、血液型鑑定のほか、導入されたばかりだったDNA型鑑定にかけられた。

当時は血液型と合わせて1000人に1.2人の低い精度とされたが、異同識別鑑定の結果、犯人由来と見られる血痕と久間のDNA型が一致したとの報告が入る。今日のDNA型鑑定のように個人識別が可能なレベルになく、全国に同じ型をもつ人間が12万人近くいる程度の分類で、それだけを以てして犯人と断定する証拠にはなりえない。

地元紙は鑑定精度の低さとスクープ報道を天秤にかけ、結局「重要参考人浮かぶ」と匿名記事を打った。その日、久間の妻は在宅しており、記事を読んで嗅ぎつけた共同通信の記者が久間の家を訪ねてきたことを記憶していた。久間は重要参考人の記事を見て「この分なら犯人は捕まりそうだね」などと記者に言い、記者も「あなたじゃなさそうですね」などと話していたという。

 

■逮捕

福岡地検はその精度の問題からDNA型を決め手として立件するには不安が残るとして、県警の逮捕に待ったをかけ、更なる物証の提出を求めた。自白が得られないことで焦れる県警は残っていた試料で東京大学帝京大学の法医学教室にもDNA型鑑定を依頼したが、同一の型は出なかったとの結果が届き、久間の逮捕は見送られる。

だが捜査陣は久間の行動確認で、マツダ・ボンゴを売却できないかと複数の中古車業者に打診していたことを掴んでいた。また普段はそんな様子はなかったが、このときは座席シートを取り外すなど念入りに車内の清掃を行っており、周囲の人間は不思議に思っていたという。捜査関係者から見れば「犯人」が証拠隠滅をしていると疑うのも当然だった。

一方、妻はその行動について、久間は警察不信ででっち上げの証拠捏造を警戒し、警察に何かされた場合でもすぐに分かるよう、「自己防衛」のために清掃していたと振り返っている。

 

2月中は「あらゆる方向に間口を広げて」捜査に当たっていたはずの捜査陣は、3月上旬の「車両目撃情報」を契機として久間への異様な執着に転じた。3年前に行方が分からなくなったきりのMさん、そして二児の連続犯との見方が捜査陣を奮い立たせていた。

通常であれば参考人対象の行動確認は秘密裡に行われるものだが、近隣住民の目でもそれと分かる尾行、見張りを、昼夜を問わず連日続けていたという。捜査員は聞き込みの際にも、余計な先入観を与えないように具体的に誰をマークしているとは住民らに伝えないよう注意を払うのが原則とされる。警察が探りを入れていると犯人側に気取られれば自殺、逃亡などの恐れも生じるためである。

しかし本件では久間の顔写真を見せて聞き込みに回っており、もはや公開指名手配と変わらない有様だった。無言の圧力のつもりなのか、過度の自信がなせる業なのか、典型的な「見込み捜査」と言わざるを得ない。地域住民には警察が久間に注視していることは周知の事実となっていた。

久間も衆人環視に置かれていることを承知でメディア取材に応じ、女児との面識はなく事件とは無関係だと主張し、八丁峠も十数年前に通過したことはあるが下車したことはない、だから現場から自分の体液が見つかるはずがない、と話した。犯人呼ばわりする捜査によって自宅に脅迫電話が来るようになったと述べ、警察のやり方に対して怒りを露わにした。

93年9月29日朝には、久間宅で出したごみ袋を無断で持ち去ろうとしたことから一悶着となり、久間が剪定鋏を手に抗議してもみ合いになった末、県警捜査一課と飯塚署の巡査長(31・48)が全治5~10日の軽傷を負った。傷害による現行犯逮捕となり、処分保留の釈放とされ、間もなく10万円の罰金刑が確定した。新聞記事では捜査員二人は「通学路の安全確保を兼ねて私服で警戒していた」と記載されている。

 

92年9月26日に久間が下取りに出したマツダ・ウエストコースト車両は県警が買い取り押収し、事件の痕跡が残されていないか10月5日まで鑑定を実施。その後、93年末になって3列目(後部)座席シート及びフロアマットに血痕、尿痕が見つかっていたことが明らかとされた。

科警研は尿は判別できなかったが、血痕の血液型は「O型」で被害者の一人と一致するとした。

83年7月に新車で購入し6年間乗っていた前オーナーは、主に大工仕事の足替わりに使用し、購入直後から座席にはシートカバー、フロアには玄関マットのような足拭きを敷いて使用していた。休日には自家用として夫婦と3人の子どもを乗せることもあったが、家族にO型の者はなく、当時使用中に流血や尿漏れがあった記憶はなく、他人に車両ごと貸すことはなかった。89年7月に下取りに出したものを、中古車販売店が購入し板金塗装修理後、展示販売した。

久間はその車を9月末ごろに中古で購入して、3年間使用した。主に母親、妻、長男を乗せており、久間以外の3人はO型だった。高齢の母親、幼い長男も居り、弟(O型)の家族や長男の友人家族を乗せたこともあったが、取り調べ段階で久間や妻らは尿漏れの心当たりはないとしている。足のけがをして流血した母親や擦りむいた長男を乗せたことはあったが、シートに血が付着したかは記憶にないとした。

また被害者の毛糸の下着に付着していた繊維片を、「東レ」、「ユニチカ」の繊維研究所に持ち込んで鑑定を依頼。微量の繊維ではあったが東レ製とほぼ断定、染色成分がマツダ・ウエストコーストで使用されていた特殊な座席シートに使われたものとほぼ一致するとの結果を得た。科警研による血痕鑑定に時間を要したのは、この外部鑑定で使用されたシート生地・スポンジ等試料のやりとりのためとされる。

 

久間の事件当時の行動は、8時10分頃に妻を職場に送り届けた後、その足で山田市に住む母親にコメを持っていき、帰りにパチンコ屋に立ち寄ったというものだった。13時頃に帰宅し、15時頃に長男が下校し、17時頃に妻を迎えに行ったという。

パチンコ店の映像記録は残っておらず、身内の証言はアリバイ証拠にならないため、行動の裏付けができなかった。捜査陣は周辺地域の同型車両9台の持ち主のアリバイを全て確定させることで、久間のアリバイの弱さを際立たせ、久間以外には犯行は不可能だったとする結論を導いた。

 

現場付近での目撃証言、DNA型鑑定だけでは不安視されていたが、ここにきて新たな状況証拠が加わったことで、福岡地検はゴーサインを出さない訳にいかなくなった。事件から2年7か月が経過した1994年9月23日、福岡県警は死体遺棄の容疑で久間三千年を逮捕。

逮捕時、自宅にいた久間は妻に「動くな」と言い残して出ていった。捜査員の目から見ても、家族がいるためか抵抗することなく従ったとされる。

 

捜査一課特捜班・飯野和明氏は、逮捕後の副取調官として事情聴取に同席し、取調を主導した福田係長と久間のやりとりを傍で見ていた。福田係長と久間は任意聴取ですでに面識があり、「調べ尽くしたがやはりお前しかおらん」というような応酬を繰り返し、時折「飯野、ちょっと出ておれ」と二人きりでの密談もあったという。久間は当初雑談にも応じており、感触は悪くなかった、これはいけるかなというような期待が感じられたと飯野氏は振り返る。

2022年12月に放映されたNHK『正義の行方 飯塚事件 30年後の迷宮』では、久間の妻や捜査関係者、地元紙記者ら多数の当事者の証言からそれぞれの「真実」に迫ろうというコンセプトで描かれる。当初雑談にも応じていた久間が警察不信に陥り口を閉ざした契機として「妻との面会」があったとされる。

福岡県警捜査一課・山方泰輔捜査一課長は、久間は妻子を横浜の親類のもとに移したがっていたようだと振り返る。山方氏は、久間の言質から「これはもうすぐうたう(自供する)な」、いよいよ自白する心づもりを決めたとの心証を得ていた。久間の弁護士に連絡を取り、特別面会許可を取って久間の妻を連れてくるようにと伝えた。

だが久間の妻の話とは大きな食い違いがある。弁護士は「警察から連絡があって、離婚の話し合いのためであれば面会が許されるそうだ」と久間の妻に話していたという。妻は警察に離婚の相談をしたことなどなかったため奇妙に思ったが、逮捕後一度も面会しておらず、ひょっとすると夫がそう考えて言い出したことなのかもしれないと考え、面会の手続きをしてもらうことにした。だが夫と対面して「“離婚の話し合いのため”と言われてきたんだけど、お父さんが警察にそう頼んだの?」と尋ねると、「いや自分も頼んじょらん」との返答があった。

久間の妻は、「結局私たちが家を離れて主人から離れれば、もうあんた(久間)のことを諦めたわい、という形で持っていくつもりだったのかな」と、警察には久間を孤立させて自白に追い込む意図があったのではないかとの見方を示している。

久間は妻との面会後、それまでと一変して雑談にも応じなくなり口を噤んで「貝のようになった」と飯野氏は述べる。「もう、とにかく自分じゃない、俺じゃない」と、そのとき腹積もりを決めたのではないかと推測している。

 

■発見

県警では逮捕以前からMさんの行方不明も久間による犯行との印象を深めており、逮捕直後から庭が掘り返された。久間の妻は警察がなぜそんなことをしているのか分からなかったが、捜査本部は以前からこの庭に目を付けていた。

連日の行動確認で、久間が庭先に出てくる姿が頻繁に目撃されていたことから、庭先にMさんの遺体を埋めているため連日気になって仕方ないのではないかと推測していたのである。だが見当は外れ、久間家の庭には穴だけが残された。

妻との面会後、久間が口を噤んだことで取調は暗礁に乗り上げた。何とか打開策をと再びポリグラフに頼ることとなった。殺害した人数を調べに掛けた際、久間は「2人」には反応せず「3人」に反応があったと飯野氏は言う。Mさんだと確信し、検査官が追及を重ねていくと遺棄した範囲が絞りこまれ、最終的に「明星寺団地のヒノキ林」とされた。久間の自宅、Mさん宅からも1キロと離れていない町内であった。

 

11月11日朝に開始された捜査員約120人態勢、消防団の応援を求めて行われた再捜索は僅か30分でほぼ決着した。遺体こそ出なかったものの、車一台が入れる道幅の細い林道から約10メートル地点に子ども用の赤い上着と赤いトレーナーが発見されたのである。

最終目撃のあった建築現場から約100メートルの雑木林の斜面で、当時は雪があったとされるが、これまでなぜ発見されていなかったのか当時捜索に参加した住民らも驚きを見せた。午後の捜索に備えて弁当を用意していた捜査幹部すら「正直言って驚いた」と話している。

読売新聞は「斜面の草むらに1、2メートル離れて無造作に捨てられていた」とし、朝日新聞は衣類の状態について「あまり傷んでいなかったという」と伝えている。

西日本新聞記者・宮崎昌治氏は、警察による捏造ではないと信じているとしつつ、「5年も6年も雨風に晒されている状態ではなかった、と」「何でそんな服が今頃出てくると?」「そんなきれいな状態で服が見つかるはずない」と疑問に思ったと振り返る。

発見現場付近にはゴミ集積場があり、周囲にも不用品が散乱していたため、他にも遺留品が紛れていないか確認が急がれた。

Mさんも失踪時、赤地に白色の横縞が入ったトレーナー、赤いジャンパーを着用しており、同11日17時20分にMさんの母親(47)がMさんのものと確認した。

飯塚署で記者会見した永留慶造署長は「当時は事件に巻き込まれたのかどうか分からなかった。自宅周辺のため池や側溝などは徹底的に調べたが、少し捜索が足りなかったかもしれない」と語った。6年ぶりとなる発見で、県警はMさんが事件に巻き込まれた可能性が極めて高くなったとした。

久間はMさん失跡についての関与を否認しており、93年のメディア取材でも、失踪当日9時ごろに他の子どもたちと一緒にMさんも遊びに来て菓子を配り、その後9時半ごろにまた子どもたちが菓子を貰いに来たときMさんはいなかった、と証言していた。

証拠確認を否定する久間の妻 『正義の行方 飯塚事件30年後の迷宮』より

山方捜査一課長は発見された衣類を久間の妻に見せ、ポリグラフで特定された場所から発見されたと告げると「ああ、やっぱりお父さんやったんですね」と漏らしていた、と振り返る。

番組制作側からそうした発言の有無について問われた久間の妻は、「それはないです、見てないです」と即答している。見つかった衣類はおろか具体的な証拠を今まで見せてもらったことはないと全面的に否認しており、早すぎる衣服の発見についても疑問視していると語った。


その後、初公判を目前に控えた95年2月9日から同じ山林で再捜索が再開された。前回の捜索以降、「失跡当時、動物の死体のような臭いがした」との情報が寄せられていたという。朝日新聞では、捜査幹部の話として久間に発見された衣類を見せたところ「骨も一緒に見つかったのか」と質問する等、同じ場所に遺体があることをほのめかすような発言があったとしている。

翌10日にはジャンパー発見場所付近のゴミ捨て場の土中から「こどもの骨らしき骨片」3点が見つかり、いよいよMさんではないかと注目された。捜査幹部によれば「埋めている感じではなく、長い間に骨の上にゴミや土が積もったようだった」とされ、骨片は小さく、髄液などは残っておらず、当時の鑑定技術では仮に人骨と判明してもMさんのものか否か解析することは不可能であった。

事実は「ゴミ捨て場から不審な骨が僅かに見つかった」というもので、それが人かどうかもはっきりしておらず、久間に結び付く証拠は一切出ていない。しかし報道を見れば「久間」を「Mさん」と結びつけて捉えるのが人情というものである。どこまで作為があったのかは不明だが、そうしたメディアを利用した劇場型ともいえる警察の捜査が、地域社会や国民の久間に対する印象形成に大きく作用したことは疑いようもない。

 

■裁判

95年2月20日福岡地方裁判所(陶山博生裁判長)で初公判が開かれた。

殺害現場や殺害時刻、具体的な犯行手順などは明らかにはならなかったが、検察側は「八丁峠の目撃証言」「DNA型鑑定」「車内の血痕」「繊維鑑定」ほかあらゆる状況証拠から重ねて見れば、被告人による計画的犯行は明らかであり、それ以外の人物による犯行とは認められないとした。

これに対し、被告人は「私は起訴事実のようなことを、絶対にしていません。全く、身に覚えがありません」と全面的に容疑を否認。弁護側はDNA型鑑定は犯人性を示す決定的な証拠となりえないことを示し、個々の証拠は久間による犯行と断定できないものだと主張する。

 

本件の特異性として、被害者の局部(膣内容物、周辺付着物)に精液や唾液は検出されず、犯人由来と見られる血液が付着していたことが挙げられる。検察側は久間の病歴から、犯行時に亀頭から流血していた可能性を示唆し、犯人性を疑わせる強い証拠とした。

1991年10月頃、久間は喉が渇く、体重が6kg減る、歯茎が腫れる、太腿が吊る、光に目が痛む、陰茎の亀頭粘膜が痛むといった症状に見舞われ、11月に病院に行くと血糖値502の異常値を示し、糖尿病と診断され、入院治療を薦めて別の病院を紹介していた。だが久間は長男の世話もあり、入院はできず自宅で食事療法をしていたとしている。

92年3月21日の捜査員との談話では、病状について「両足が痛いし歩けない。目も曇って悪くなる一方だった。陰茎の皮が破けてパンツにくっついて歩けないほど血がにじんでしまう。オキシドールをかけたら飛び上がるほど痛かった。シンボルが赤く腫れ上がった。事件当時ごろも挿入できない状態で、食事療法のため体力的にもセックスに対する興味もなかった」と話し、8月には親類にも同様の趣旨の話をし、同行していた新聞記者もそれを録音していた。

病状が事実とすれば、事件発生時も陰茎は出血を伴っていた、ないしは容易に出血しうる状態だったと推認される。だが公判に至って、久間は来院後の食事療法で20日から1か月程して、事件前の91年11月終り頃には完治していたと供述する。

診察したY医師は、被告人は仮性包茎(平時は亀頭が包皮を被った状態で、勃起や手で剥くことができる状態のこと。真性包茎は剥くことができない状態)で包皮内板(亀頭と包皮の接触部)および亀頭が炎症を起こしていたと証言した。

弁護人は別の医師による診察で仮性および真性包茎とは認められていないことから、Y医師の証言は信ぴょう性が低いとした。

当初、久間は犯行を否定する材料として「亀頭包皮炎」の症状を訴えていたが、DNA型鑑定により「犯人由来と見られる血液」の存在を知ったことから公判では「治っていた」と証言を一転させたと捉えることができ、裁判官は「到底信用できない」と結論付けている。

久間の妻は公判で「治っていたと思う」「病院の紹介状を捨てた記憶がある」と証言したが、捜査段階では久間の性器の状態については「全く分からない」と相反する証言をしていた。

薬局経営者や元店員らは、久間が湿疹など皮膚病に効果のある「フルコートF」を月に1度程度購入していたと証言している。ステロイド成分含有で効き目が強く、過敏症状や副作用が出ることもあるとして店の人間は客に勧めていなかったが、久間は商品名を名指しして買っていったため記憶にあるという。だが久間も妻もその購入事実を一貫して認めなかった。陰茎患部に使用していたかは判然としないが、なぜ購入事実を偽らなければならないのか。

 

取り調べでは記憶にないとしていた車内の尿痕と血痕について、公判では自分がけがを負って運転したことは複数回あった、90年2月頃に妻が流産した際に下着に血がついていたがどの席に乗せたか記憶になく付着していたかは気付かなかった、長男や妻の母親だった可能性もあると久間は述べた。

取り調べ段階との齟齬について追及された妻は、取り調べを受けることになって当時は混乱しており「そういうふうには言っていないと思いますけど分かりません」と曖昧な応答に終始した。とくに以前は「車内で出血したりおしっこを漏らしたりすれば、後始末が必要になったりするはずですが、そういうことをした記憶もありません」と断定的に否定する供述をしていながら、後になって実母の排尿の可能性を否定できないのは明らかに不自然とされた。

 

1999年9月29日、福岡地裁は「状況証拠を総合すれば被告人が犯人であることは合理的な疑いを超えて認定できる」と判断し、求刑通り死刑判決を言い渡した。久間は即刻控訴し、その後も一貫して無実を訴える。

2001年10月10日、福岡高等裁判所(小出錞〔じゅん〕一裁判長)は控訴を棄却。

2006年9月8日、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は上告を棄却。久間の有罪は覆らず、死刑が確定する。

捜査陣営は被害者の無念を晴らそうと残酷極まりない犯人を生かしておいてはいけないと強い信念をもって捜査に当ってきた。徹底的な裏付けに基づき、確固たる自信を持って裁判所の導いた死刑判決に誤りはないとしている。

 

■死刑執行

2008年10月28日、死刑執行。

妻によれば、久間は教誨師に最期まで無実を訴えていたと言い、執行後、教誨師は久間の息子に対し「お父さんを誇りに思っていていい」「絶対自分は違うと言っているからお父さんを信じてあげなさい」との言葉を託したとされる。

再審請求の意志を知りながら迅速な手続きに至らなかった弁護人らは取り返しのつかないことになった自責の念にさいなまれたと言い、遺族らと共に再審準備を急いだ。

久間三千年

事件発生当時、西日本新聞で事件担当サブキャップを務めていた傍示(かたみ)文昭氏は、それまで久間の犯行として報道を続けてきた立場から、死刑確定の報を受けて第一に安堵した、ホッとした、とそのときの本音を語る。だがそれと同時に、公判中も審理、決定、証拠の採用のされ方に、「本当に久間三千年が犯人なのか」と疑問が浮かぶことがあった、本当は違うんじゃないかという気持ちもあったと吐露している。

死刑確定から2年後の執行を知ったときにはあまりにも早すぎるので「何なんだ、これは」「なぜこんなに早いのか」と感じたという。

 

刑事訴訟法第475条は死刑執行は法務大臣の命令によると規定されている。他の刑罰と異なり、執行について徹底して慎重な運用が求められている。

第2項で、死刑の執行の命令は、判決確定から6か月以内にしなければならない旨が規定されているが、法務省では訓示規定であると解されている。2023年現在、100余名の死刑囚が執行されずにいる状態である。

執行の公表が98年11月から行われるようになり、2007年12月以降は執行死刑囚の情報が公表されるようになったが、確定から執行までの平均は5~6年程度とされる。確定順に執行される訳ではなく、選定の基準もブラックボックス化されているが、捜査や事実認定の中に問題点が見いだされれば再審などとの兼ね合いからスムーズな執行にはなりづらいとされる。

手続きのながれとしては、管轄する検察庁から上申を受けて、法務省刑事局がそれまでの公判記録を精査し、執行に問題がないと確認されれば「死刑執行起案書」が作成される。これが各部局の稟議に掛けられ、最終的に法相が決裁する。執行は最終決裁・執行命令から5日以内と規定されている。

 

死刑確定から執行までの期間が短いものとして、古くは栃木雑貨商一家殺害(1953年)の菊地正は55年6月28日に上告棄却で確定し、11月22日に執行されている。これは上告中に菊地が脱獄しており、再収監されて死刑が確定した直後にも妹が金鋸や安全剃刀を密かに差し入れしようとするなど再度の脱獄の恐れからだったと言われている。

近年では大阪の付属池田小事件(2001年)を起こした宅間守が死刑確定からおよそ1年で執行されているが、罪状は疑いようもなく、自身も「命をもって償いたい」と述べ、控訴を取り下げて裁判で争う姿勢すら示さない異例の事案であったことから単純な比較はできない。

 

久間の執行にゴーサインを出したのは、2008年9月に発足した麻生太郎内閣で法相に就任したばかりの森英介法務大臣であった。時同じくして執行命令が出されたいわき資産家母娘殺し(2004年3月)の高塩正裕(享年55)は、判決を不服としたが被疑事実は認めており、自ら上告を取り下げ06年12月に死刑が確定していた。同じ「確定死刑囚」でも捜査段階から一貫して否認を続け、再審の意志もあった久間とはやはり事情が異なるのである。

執行後、法務省で会見に及んだ森法相は「法の求めるところに従い、粛々と自らの職責を果たしました。遺族にとって痛恨極まりない事件であり、慎重かつ適切な検討を加えたものです」と述べている。

 

■足利冤罪事件とMCT118型鑑定

久間の死刑執行からおよそ半年後となる2009年6月4日、栃木県足利市の4歳女児が殺害されたいわゆる足利事件に驚くべき動きがあった。

足利事件は1990年5月12日に4歳女児が失踪し、翌日近くを流れる渡良瀬川河川敷で遺体となって発見された。プロファイリング等により元幼稚園バス運転手・菅家利和が浮上し、警察庁科学警察研究所によるDNA型鑑定で犯人由来とみられるものと菅家のDNA型が一致したとして、91年12月1日に任意同行。自白を得、翌2日に逮捕。一審の途中で被告人は否認に転じたが、無期懲役判決が下され、2000年7月17日に最高裁が上告を棄却して無期懲役が確定した。

2008年から日本テレビ清水潔記者らが中心となり目撃証言の食い違いやDNA型鑑定に疑義を呈するなどの冤罪キャンペーンを展開。12月、東京高裁・田中康郎裁判長は検察側・弁護側双方が推薦する鑑定人によるDNA型の再鑑定を認めた。ともに犯人由来と見られるDNA型とは一致しないとの結論を受け、高裁は刑執行の停止、菅家の釈放を命じたのである。再審では主にDNA型鑑定の信用性と自白について争われ、2010年3月26日、無罪が確定する。

宇都宮地裁で行われた再審公判では、弁護側推薦の鑑定人だった筑波大学・本田克也教授に証人尋問が行われ、犯人由来と見られるMCT118型を新たに特定し、科警研の鑑定が当時としてもいかに誤ったものであったかまで言及した。検察側は科警研所長・福島弘文氏を証人申請し、当時の方法としてMCT118型鑑定に誤りはなかったとし、旧鑑定を擁護する立場を示した。


2009年10月28日、弁護団飯塚事件の再審請求を申し立てた。弁護団が争点として着目したのは「DNA型鑑定」と「八丁峠での目撃証言」だった。

きしくも飯塚事件科警研鑑定も足利事件と同じMCT118型で行われ、担当技師も複数重複していた。弁護団は筑波大・本田教授に鑑定を依頼した。

本田鑑定では、科警研が犯人の血液型をB型とした解離試験に誤りを指摘し、AB型と見る方が矛盾がないとした。またHLADQα型についても誤りがあることを指摘している。

左がネガを撮影したもの、右が証拠提出された写真

2012年10月、弁護団科警研が鑑定に使用したネガフィルムの撮影を許可された。専門家による検証で裁判で証拠された写真はデータが加工されていると指摘され、弁護団は「改竄されている、もしくは捏造されていると解釈せざるを得ないのではないか」と糾弾した。

上の画像の左がネガフィルム、右が検察側が裁判で提出した犯人由来と見られる試料を鑑定した際の写真である。右の写真は不鮮明な中に赤色でマーキングが施してあり、久間の毛髪から出た「16-26型」で一致すると説明された。だが本田教授の見解では、ネガで見ても26型が出現しているとは到底言えないという。

光量や焼き付け時間を調整すれば、もっと鮮明化できたはずのところ科警研はなぜ不鮮明な暗い写真を使用したのか。他のエキストラバンドの存在を隠すために故意に不鮮明な画像を用いたとしか考えられない、というのが弁護団による主張である。

一枚のネガだけで判別することはできないが、左のネガから切り取られた「41-46型」に相当する部分にも反応らしきものが出ていると本田教授は指摘する。つまり久間とも被害者とも異なる「真犯人」の可能性があるデータを隠蔽したとの疑いも掛けられた。

科警研は切り取った部分はエキストラバンド(無関係な反応)なので切り取ったに過ぎず、複数回のチェックによってエラーと確認済みだとしてネガフィルムの改竄を否定している。

これに対し、弁護団側はエラーチェックで行われた複数回の実験結果の公開を求めたが、現存しないとして科警研から断られた。

 

2013年1月、弁護団は検察にDNA型鑑定の試料と実験データの開示を求めたが、すでにないとの回答だった。技官が退官したときに実験ノート等と共に処分したのではないかとしている。

試料の使い切り、データの未保存、ノートの処分…研究者から見れば再現性のない実験結果とも捉えられ、弁護側からすれば、久間が車を売却する際に行った清掃よりもはるかに周到な証拠隠滅と捉えられても致し方ない。

山方捜査一課長は、誤認逮捕を隠すために無理やり犯人をでっちあげようとする刑事はおらず、科警研にしても無実の人間を犯人に仕立ててやろうと捏造することなどありえないとしている。

 

前述の通り、足利事件飯塚事件のMCT118型鑑定はほぼ同じ時期に、同じような顔ぶれの技官らの手により、大きな差のない技術水準で鑑定が行われたと言ってもよい。飯塚事件の鑑定試料は、足利事件や東電OL事件の試料などとは違い加害者の精液単体ではなく、今日の鑑定でも高度な技術を要する被害者との「混合体液」が試料とされた。

当時のMCT118型鑑定の技術水準ではたして「証拠」として挙げるにふさわしいものだったのであろうか。背景にはDNA型鑑定の実績を挙げて、全国の科捜研への技術導入を推進したいとする上層部の思惑があったとみられている。

弁護団は、失敗ともいえる実験結果を隠蔽するため、加工を重ね、実験データやノートを廃棄し、自らの実験の正当性を主張する義務さえ放棄したのではないかと指摘。「科学的に信頼される方法で行われたと認めるには疑いが残る」とされた足利事件の鑑定より劣悪な実験結果であり、証拠能力が認められる余地がないことは明白だとしている。

 

■T証言と厳島鑑定

当初の検察の主張から確定判決まで、3月初旬に八丁峠での目撃者がいたことが分かり、9日に詳細な見分調書が作成され、11日に久間の車両が目撃された特徴に一致することが判明したというストーリーラインがあった。

だが後に公開された捜査資料から、見分調書作成前の3月7日に捜査員が久間の車の特徴を下見し「ラインはなかった」と報告していたことが発覚する。マツダ・ボンゴは当時のCMでも車体にストライプの「ライン入り」が宣伝されていたが、標準仕様ではなくオプションのひとつである。

弁護団はこれを逆手にとって、T証言は捜査員が予め得ていた久間の車両の特徴に合致するように誘導して作成されたものと主張した。

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森林組合に勤める女性から「その日に峠で不審な男を見た人がいる」との情報を得、捜査員は3月2日に初めて目撃者Tさんと接触。そのときTさんは「男が車を乗り降りしていた」「紺色のワゴン車を見た」と証言した。

9日には実況見分が行われ、峠道を3回上り下りして目撃地点を確認し、細かくは下のように詳述した。

1,車のナンバーは不明

2,標準タイプのワゴン車

3,メーカーはトヨタや日産ではない

4,やや古い型

5,車体は紺色

6,車体にラインは入っていなかった

7,後部タイヤはダブルタイヤ

8,後輪のホイルキャップの中に黒いラインがあった

9,窓ガラスは黒く車内が見えなかった

10,頭が禿げ上がっていた

11,髪は長めで分けていた

12,上着は毛糸

13,胸元はボタン式

14,薄茶色の

15,チョッキ

16,その下は白いカッターの長袖シャツ

17,年齢は30から40歳

18,右の雑木林から出てきて

19,慌てて前かがみになって滑った

Tさんは時速25~30キロで峠道を下り、第5カーブでワゴン車が目に入ってからすれ違うまで、その目撃はほんの数秒間の出来事である。車に特別詳しくなくても、自分と同じ車種や家族や知人が使用するものと同型車両などであれば印象に残るかもしれないが、証言中にそうした裏付けはない。

また2、4、5のような車両の外面的な印象であれば多くの人が瞬時に読み取ることは可能だが、当該車両は高級スポーツカーなどのように稀有な特徴を備えた車という訳でもない。Tさんは仕事柄、ワゴン車を目にすることは多かったかもしれないが単なる「紺色の古い型のワゴン車」のホイールキャップやラインの有無、後部タイヤまで注視し、何日も前のことを細かく記憶している人間がそうそういるものだろうか。

ほぼ同時に不審人物についても挙動だけでなく、はっきりと風貌まで捉えている。だが年代や頭髪などは久間と一致しているようには思われず、久間の所持品に該当しそうな衣服も発見されなかった。判決文では被告人に円形脱毛症があったことから禿げ上がっているように見えたと推察している。

 

弁護側はT証言の信ぴょう性を確認するため、控訴審の途中で日本大学心理学教室・厳島行雄教授に行動心理の実証実験を依頼。八丁峠・第5カーブで45人の被験者に類似した経験をしてもらい、1週間後に記憶の再現を行った。T証言のような詳述をできた者は一人もいなかった。しかし実験時期は季節が異なり、使用したのが同型車両ではなく擬似的な様態だったこと等から実験結果は信用できないとして控訴審では却下された。

再審請求に当たり、同型のマツダ・ボンゴ車を使用するなど条件をより合わせて、再検証・再鑑定を実施。同じく詳述できた被験者はいなかった。

鑑定では「事後情報効果」という概念で、捜査員から事後情報が与えられたことを示された。「車のボディにはセンターラインが入っていなかった」といった否定形での記憶は喚起するのが非常に困難な情報であるという。

当時の特捜班長・坂田政晴氏が実況見分を指揮して、死刑事件だから後になって再審で弁護士から突かれないよう注意を払い、矛盾が出ないよう何遍も現場検証を重ねて調書をつくったという。まるで未来から来た人の発言のようではあるが、再三再四、事細かく聴取を重ねたことは事実であろう。

捜査員による積極的な誘導工作があったかは定かではない。しかし久間の車両の特徴を知ったうえで聴き取りを行えば、「車体にラインは入っていたか」「あれば覚えているんじゃないか」「リアウィンドウはどうなっていたか」「何か張っていなかったか」といった照合作業が無意識にも進められた可能性は高い。

また「肯定的フィードバック」という概念でTさんの心理状態を説明している。「ここが遺留品の現場だ」と知らされれば誰しも事の重大性から事件解決に協力したいという意識化に置かれ、捜査員とのやり取りの中で僅かな反応にも忖度し、肯定的に引っ張られていくことはおかしなことではない。

善良な市民として捜査協力したTさんが偽証しているとは全く思わない。だが人間の記憶ほど曖昧なものもない。裁判ではTさんの証言に矛盾があっても記憶違いで認められ、久間や妻の証言に矛盾があれば否定される、ただそれだけのことである。

 

2014年3月、福岡地裁は再審請求を棄却。DNA型鑑定の証拠能力に「慎重な評価をすべき状況に至っている」ことは認めたが、「他方でこれが一致しないと認めることもできないのであり、両者の可能性がある」とし、他の重層的証拠から犯人性は揺るぎないとして、弁護側から提出された証拠の明白性を認めなかった。

検察側は、3月7日の久間の車両確認の前にも、4日にTさんに聴取を行っていたとする報告書を提出。車両の特徴として「後輪がダブルタイヤだった」との証言が4日時点で得られていた、つまり少なくともダブルタイヤについては捜査員の影響とは考えにくいとする内容で、弁護団の主張を部分的に崩した。

そもそも捜査資料や証拠が全て開示されないことで、弁護側は余計な開示請求手続きをする必要に迫られ、検察の「後出しじゃんけん」との戦いを強いられているのである。

 

■現在地

免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件、これまでに4つの事件で死刑確定からの再審無罪があった。判決を変更すべき明らかな証拠が新たに発見されたと認められ、再審が開始されれば無罪になる公算は大きい。だが筆者は飯塚事件に関しては再審が開始されることはないと考えている。執行死刑囚の判決文を後から書き換えるということは死刑制度の根幹を揺るがす問題だからである。

昭和23年3月12日の最高裁大法廷判決など、死刑は残虐刑には当たらない合法的・合憲な処罰とされ、今日も遺族感情やいかなる厳罰も生命には代えがたいとする社会倫理などから死刑容認が国民の80%を占めると言われている。再審開始決定を出せば組織からつまはじかれ、80%の民意が牙をむき、裁判官は法廷を下りることを余儀なくされる。

久間の犯人性について、決定的証拠はないと弁護団は言う。だが久間を無実と立証しうる証拠も揃ってはいない。筆者の心象としては久間が限りなく「グレー」ではあるが、不適切な捜査で久間と敵対し、家族を持ち出して「貝」にさせてしまったのは警察の失策である。事件の真相解明を困難にしたと言わざるを得ず、状況証拠の積み上げによる判決に対して執行は拙速の感も否めない。「疑わしい」を積み重ねれば死刑は執行してよいものなのか、再審議論の余地は本当になかったのか。

執行までの過程について、法務省はDNA型鑑定の問題も当然把握していた、議論が飛び火する前に執行したと捉えるのが自然ではないだろうか。ブラックボックスは開示されず、さりとて刑事局の検事たちが自然発生的に執行への順位を早めることができたとは思わない。問題は、DNA型鑑定の全国への普及を推進した警察庁長官ら、上層部の後押しがあったのか否かである。

 

NHK『正義の行方 飯塚事件 30年後の迷宮』では、2017年から行われた西日本新聞での検証報道についても伝えている。

編集局長になった傍示文昭はかねてから払拭できなかった冤罪の疑念に決着をつける思いで飯塚事件の特集を決定。「重要参考人浮かぶ」と報じた彼らにとって、久間の逮捕、刑の確定、再審の棄却に「一種の安堵感」を覚えつつも、久間犯人説のとっかかりとなった重要な柱「DNA型鑑定」がひっくり返されたことは大きな衝撃であり心のつかえともなっていた。

これまで飯塚事件・裁判報道に携わってこなかった先入観をもたない中島邦之、中原興平記者が抜擢され、ゼロベースからの再検証が続けられた。

二児の最終目撃地点・潤野の三叉路では、紺色のワゴン車が目撃されており、久間の車の特徴をはっきりと捉えていたが、証言は5か月後の7月30日とかなり時間が経過してから得られたものだった。疑念を抱いた中島らは1年以上かけて証言者を探し求め、中国地方に移住したことを突き止め話を聞くことができた。目撃者は「以前にその車の購入を考えていた」ためはっきりと覚えていたと語り、その様子に不審な点はなかった。

県警からDNA型鑑定を依頼された帝京大・石山昱夫(いくお)教授のDNA型鑑定についても疑念が浮かんだ。石山教授が94年1月に出した鑑定結果は、試料から久間のDNA型と合致するものは検出されず、第三者の型が検出されたというもの。しかしその後、依頼された試料が微量だったことなどを理由に「正確な鑑定ができなかった可能性がある」と主張を変えていた。

石山教授は一審の中(97年3月5日)で、警察庁幹部から「捜査の妨害になる」と口止めがあった可能性を示唆していた。教授への取材では、幹部から「先生の鑑定が出ると困る」とサジェスチョンを受けていたことを認めた。

事件発生当時、警察庁刑事局長でDNA型鑑定による捜査を全国に導入させる推進役を担い、94年から警察庁長官を務めた國松孝次(たかじ)氏がその人であった。飯塚事件を犯人逮捕の手前で足踏みさせ、科警研のDNA型鑑定結果を否定したとなれば面白く思わないのも当然である。

國松元長官は取材に対し、DNA型鑑定の権威・石山教授にレクチャーを受けに行ったが非公式な訪問で記録もないとし、当時頭にあった飯塚事件についても話したかもしれないと濁したが、「教授に圧力をかけた」との見方については繰り返し否定した。

検証報道の連載は2年間で延べ83回に及んだが19年6月にひとまず終了した。

 

2021年7月、弁護団は第2次再審請求の申し立てを行い、「二児を乗せた白い車」の新証言を提出した。

行方不明となった2月20日11時頃、遺留品発見現場から約15キロ離れた国道で白いワンボックスタイプの軽自動車を追い抜いた際、後部座席にランドセル姿の女児2人を見たというもの。目撃者は20日夜に行方不明の報を聞き、21日朝に110番通報したが、警察が聴取に来たのは一週間後だったという。

弁護側は新証拠を元に当時の捜査状況の開示などを求める方針。

潤野小は2018年に統廃合された

難路であった八丁峠は、2019年(令和元年)に国道322号バイパス「八丁トンネル」が開通している。再審に向けた新ルートはもはや「真犯人」を見つける以外に残されていないのかもしれない。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。

【The Watcher】ウェストフィールドの「監視者」

2014年、アメリカ・ニュージャージー州で夢のマイホームを手に入れた一家のもとに“The Watcher”を名乗る不吉な手紙が届けられ、彼らを恐怖に陥れた。

 

2018年11月にニューヨークマガジン社から『The Watcher』として出版され、22年に公開されたネットフリックス限定ドラマシリーズのベースストーリーとされた。

https://www.netflix.com/jp/title/81380441

興味深い内容だったため、『New York magazine』掲載のGerald Slota氏による記事の一部を翻訳・意訳して紹介する。章立て、文字の強調、構成などについて変更を加えた。

www.thecut.com

geraldslota.com

 

■夢のマイホーム

2014年6月のこと、デレク・ブローダス氏とその家族は、ニュージャージー州ウェストフィールドの「大通り657番地」に6つのベッドルームを持つ憧れの新居を購入した。

(*Boulevard657について、適当な日本語がないため本稿では「大通り657番地」と訳する。)

ウェストフィールドは世帯数およそ1万、人口3万人余と規模こそ大きくはない街だが、ニューヨーク・マンハッタンの南西16マイル、車で40分ほどの場所に位置する郊外の高級住宅地である。人口の85%以上を白人が占め、銀行家や証券マンなど富裕層が多く暮らし、治安の保たれている地域としても知られている。

若い単身者にはのどかすぎるかもしれないがリッチな子育て層には人気が高い。昔ながらのホームドラマのように「わが町へようこそ」と隣人たちの歓迎を期待して、人々はこの町での暮らしを選ぶ。日の当たる大通り、「大通り657番地」に100年以上前から建つこの家は地区で最も立派な邸宅のひとつだった。

夫デレクはメイン州の労働者階級で育ち、マンハッタンの保険会社でキャリアアップし、40歳で上級副社長となったいわば「成功者」。妻マリアは数ブロック離れた場所で幼少期を過ごしたことからこの町に強い思い入れがあった。一家が内見に訪れた際、5歳、8歳、10歳の3人の子どもたちは、早くも家の中のどの暖炉にサンタクロースが到来するかについて語り合った。

入居前に改装工事を必要としたため、デレクは業者と連日作業に当たっていた。

その日の作業を一段落させたデレクは、屋外の郵便受けに郵送物を確かめに出た。中には予期されていた請求書の束と、表に"The New Owner "とだけ書かれた珍しいカード型の封筒が入っていた。

宛名は手書きで、中にはタイプされたメモがあった。

「どうしてここに来た?」

「大通り657番地の力がお前を呼びよせたのか?」

 

■物語の始まり

その手紙の主は、不可解な物語を始めた。

大通り657番地は、もう何十年も私の家族のテーマであり、私は110周年を迎えるそのときを待ち続け、見守る役割を担わされている。

1920年代には祖父が、1960年代には父がこの家を見守ってきた。そして今、私の番だ。

この家の歴史を知っているか?大通り657番地の壁の中にあるものを知っているか?お前はなぜここにいる?じきに分かることだ。

手紙にはなぜか改築のために雇った作業員の様子が書かれていた。

この家を破壊するためか、大通り657番地を業者だらけにしてしまったようだな。チッ、チッ、チッ......悪あがきだ。お前だって大通り657番地を不幸にしたくはないのだろう

その週のはじめ、デレクとマリアは子どもたちを連れて新しい隣人に挨拶に出向いていた。子どもたちは隣人宅の傍で遊びながら待っていた。手紙の主はすでにその時点で新たな入居者の存在に気づいていたようだ。

お前らには子どもがいるな。やつらを目にしたよ。見たところ3人は数えた。これからもっと増えるのか?

私の希望通り、若人で家を満たしたいのか?私にとってはその方がいい。

お前の古い家は、育ち盛りたちには狭すぎたか?それとも、子どもたちまでここに連れてきたのはお前の強欲の故か?

名前が分かったら、呼びかけて、私のもとに連れてきてやろう

 

Who am I?(わたしはだあれ?)”

手紙の主は問う。

家の前を何百台何千台と毎日車が通りすぎる。

もしかするとその中に私もいるかもしれない。

大通り657番地にあるたくさんの窓から毎日道行く人々を見てみろ。

もしかしたら私もその中の一人かもしれない

手紙の主はこれが単なる脅迫状ではなく「パーティーを始めよう」と文通の始まりに過ぎないことを記し、最後に筆記体で"TheWatcher(監視者)"と署名していた。

 

時計は22時を回っており、新居にはデレク一人きりだった。彼は慌てて家中を駆け回り、外から中の様子が見えないように邸中の灯りを消し、ウェストフィールド警察に通報した。警官が家を訪ね、デレクから手紙を渡されると思わず「これは何だ?」と驚いた。彼はデレクに仕事やプライベートで敵対者に該当する人物がいるかを確認し、「監視者」による窓からの攻撃に備えて、裏口の建設機械を移動させるように勧めた。

デレクは急いで妻子のもとに戻った。妻子はウェストフィールドの別のセクションにある古い家に住んでいた。その夜、デレクとマリアは大通り657番地の前オーナーであるジョンとアンドレア・ウッズ夫婦にメールを送り、「監視者」に心当たりがないか確認を求めた。手紙には「ウッズに若人を連れてくるように頼んだら、その通りになったようだ」とウッズ氏の名も書かれていたからである。

 

翌朝、アンドレア・ウッズから返信があった。

引っ越しの前、ウッズ夫妻も「監視者」からの手紙を一度受け取っていたという。その手紙は「奇妙」であり、「監視者」の家族がこの家を観察しているというようなことが書かれていたが、その家で23年間暮らしてきて似たような経験や心当たりがなかったので、あまり考えずにその手紙を捨ててしまったという。

その日、妻マリアはウッズ夫妻を伴って警察署へ相談に訪れたが、レナード・ルゴー刑事から、手紙のことは周囲に他言せぬようにと釘を刺された。

 

■新たな生活

ブローダス家は、その後数週間、厳戒態勢で過ごすことを強いられた。

デレクは出張の予定をキャンセルし、マリアはわんぱく盛りの子どもを外に連れていくとき、常に声を荒げて制御しなければならなくなった。

手紙から一週間後、ブローダス一家は自分たちと同じように新しく越してきた家族を歓迎するバーベキュー会に参加したが、「監視者」のことは内密にしたまま住民たちとのやりとりを交わさねばならなかった。「容疑者候補」たちの間を無警戒に飛び回る子どもたちを叫ぶように制止させながら。

「みんな私たちの頭がおかしいと思ったに違いない」

近所の夫婦に挨拶したデレクは、婦人から何気なしに「近所に若い人が来てくれると助かるわ」と言われただけで肝を冷やした。またある朝、建設業者が新居を訪れると、前庭に打ち付けておいた重い看板が一夜のうちに剥がされていたこともあった。

最初の手紙が届いてから2週間後、マリアはペンキのサンプルを見るため新居に立ち寄り、郵便物を確かめた。

ようこそおかえりなさい、大通り657番地の新居へ

彼女はカード型の封筒に書かれた黒い太い文字に気付き、警察に通報した。

業者は忙しそうだな。お前が車一杯に積んだ私物を降ろすのを見ていたんだ。ゴミ箱はいい感じだな。

壁の中にあるものはもう見つかったのか?そのうち見つかるだろう。

今回、「監視者」はデレクとマリアに直接語りかけ、彼らの名前を「ブラダス夫妻」と綴りを間違えていた。「監視者」は請負業者がブローダス夫妻と話すのを聞いていたというのだろうか?

この数週間で家族のこと、とりわけ子どもたちについて多くを学んだと満足げに語る。手紙には、3人の出生順やマリアが叫んでいたニックネームが記されていた。

「お前らと、連れてきた若人の名前を知れて、うれしいよ」

「その子の名前を何度も呼んでいたな」

手紙の主は、その子が囲いのあるポーチでイーゼルを使っているのを見ていたらしく「彼女は一家の芸術家なのかい?」とおちょくった。

 

大通り657番地は、お前たちの入居を心待ちにしている。若人らがこの家の廊下を支配して以来、何年も何年も経っているのだ。お前はもうその家のすべての秘密を見つけたのか?

若人たちは地下室で遊ぶだろうか?それとも、怖くて一人では降りられないかもしれない。私がやつらならビビるだろうな。家のどの場所からも遠く隔てられているのだから。もしお前が2階にいれば、その叫び声に気づくこともない。
やつらは屋根裏で寝るだろうか?それとも全員2階で寝るのか?通りに面した寝室は誰が使うのか?引っ越してくればすぐに分かる。誰がどの部屋にいるか分かればこちらとしても計画を練るのに都合がいい。
大通り657番地の窓とドアを通じて、お前が家のどこにいるかを監視し、追跡することが可能だ。

Who am I?I am the Watcher. 

20年以上前から その場所を管理をしてきたウッズ家がお前たちに譲り渡した。去りどきだった。親切にも私が頼んでお前らに売るようにしてやったんだ。
一日に何度も大通り657番地を通る。それは私の仕事であり、人生であり、執念に他ならない。そして今、お前もブラダス家の一員だ。強欲さの産物へようこそ!その強欲さこそが過去3つの家族を大通り657番地に誘ってきたのだ。そして今、お前たちが私のもとにやってきた。

引っ越しの日をお楽しみに。こちらは全てお見通しだからな。

デレクとマリアは、この家に子どもたちを連れてくるのをやめた。いつ引っ越すか、いつ引っ越せるときがくるのかはもはや分かりかねた。

数週間後、3通目の手紙が届いた。

「どこに行ってしまったんだ?」

「大通り657番地はお前らがいなくてさびしがっているぞ」

 

■疑い

家を売りに出したとき、ウッズ夫妻のもとには希望額を上回る複数のオファーが入り、最終的にはブローダス一家と契約を結んだ。そのためウッズ氏は、当初「監視者」が家を購入できなかったことを逆恨みしている他の購入希望者の嫌がらせではないかと考えた。しかし希望者の一人は病気の悪化で入札を途中で辞退し、別の者らは皆すでに別の新居を見つけていた。

ウッズ夫妻のもとにはじめて届いた「監視者」の手紙を調査すると、ニュージャージー州北部カーニーの配送センターで処理されたものと分かった。まだ売却について仲介業者と一度打ち合わせをしただけで「FOR SELL」の看板すら出していない6月4日の消印だったことが分かった。

 

アンドレア・ウッズ氏はデレク夫妻の話を聞いて、「業者や君らの会話を耳にしているのならば、近隣住民の仕業ではないか」と話した。

デレクたちの工事もほとんどは内装作業で、周囲の住民も振動や機械音などに気づいていた様子もない。刑事に頼んで、ポーチの中にあるイーゼルが見える位置を確認してもらったが、家のすぐ裏か隣りにまで近づかないと見えないことが分かった。

 

あるときデレクは2軒隣のジョン・シュミット氏と会話を交わし、隣に住むラングフォード家について教えてもらった。

ペギー・ラングフォードは90余歳で、一緒に60歳代の子どもたちが何人か暮らしているという。シュミット氏は「ちょっと風変わりな家だが、害はない」と言い、マイケル・ラングフォードは定職に就かず無精ひげをたくわえ、古典小説に登場する隠遁者のような性格だと評した。

デレクはこの事件は解決したと思った。ラングフォードの家はイーゼルを置いていたポーチのすぐ隣に位置している。「監視者」の手紙には、父親が大通り657番地を観察し始めたのは1960年代、と書かれていた。家長のリチャード・ラングフォードは12年前に亡くなっており、現在の「監視者」は「20年近くはこの仕事をしている」と主張している。

 

ブローダス夫妻がその話をルーゴ刑事の耳に入れると、彼はすでに知っていたと言い、最初の手紙が届いた1週間後にマイケル・ラングフォードを連行して事情聴取をしていたのだという。

ルーゴ刑事によると、手紙にあった「物語」との符合について指摘したが、マイケルは手紙について何も知らないと否定したという。刑事は重ねて「現実のウェストフィールドは刑事ドラマのように一筋縄にはいかないんだ 」と話した。

確たる証拠は何も出ず、数週間後、警察署長は、自白がなければ署としてできることはあまりない、とブローダス夫妻に伝えた。

 

「私の子を脅した人がいるのに警察は "多分何も起こらないだろう "と言っているのです」

デレクは繰り返した。「“多分”では済まされないんだ」。

2通目の手紙の後、デレクは警察に、このままでは違う種類の事件を起こすことになると告げた。「こいつは私の家族を攻撃したんだ。私の故郷では、そんなことをすれば尻を鞭で打たれる」。
それからのデレクは取り憑かれたようだった。自宅にウェブカメラを設置し、夜な夜な暗闇の中でしゃがみ込み、至近距離からこの家を監視している者がいないかどうか自ら警戒に及ぶこともあった。探偵を雇い、近隣住民たちの身辺調査を行い、どの家にだれがいつから住んでいるのかを地図に記していった。家庭環境が手紙の内容と合致する家を調べ上げたが、60年代から暮らしているのはラングフォード夫妻だけ、条件に近い家でもほんの数軒しか該当しなかった。

「マリアには頭がおかしいと思われたよ」とデレクは当時を振り返る。

 

伝手をたどり、元FBI捜査官のロバート・レネハン氏とコンタクトを取り、調査資料を見せてその「脅威」に関する評価を請うた。レネハンは手紙の書法に見られる古風な特徴から書き手は年配者だとし、文学的素養が窺えるとした。

また怒りの度合いに比して驚くほど冒涜的な表現がないことから「マッチョではない」志向と言えた。もしかするとキアヌ・リーブス演じる連続殺人犯が刑事に付きまといを行う映画『The Watcher』を見ていたかもしれないとも考えた。

レネハンは「監視者」が脅迫を実行する可能性はないと考えたが、手紙には誤字や脱字が多く、ある種の不規則性を示唆していた。また、特に富裕層に向けられた「煮え切らない怒り」があった。手紙の主は「お前もウェストフィールドをダメにしているホーボーケン移民の一味か」など他所から町に移り住んでくるニュー・リッチたちを目の敵にする節があった。

夫妻の比較的控えめな改築にも憤慨していた。

家が傷んで泣いているじゃないか。お前らはド派手におかしく変えちまった。お前たちはこの家の歴史を掠め取っているのだ。この家は美しき過去と在りし日の姿を憂いて涙している。

1960年代は、大通り657番地にとって良い時代だった。私は部屋から部屋へと走り回り、そこに住む金持ちたちとの生活を想像していた。この家は活気に満ち、若い血が流れていた。それがだんだんと古びていき、私の父もそうなっていった。しかし、父は最期のそのときまで見続けていた。そして今、私は若い血が再び私のものになる日を見守り、待ち続けている。

 

■夢

レネハン氏は、元家政婦やその子孫を調べることを勧めた。おそらく「監視者」の動機は、自分では到底手の届かない邸宅を手に入れたブローダス家に対する嫉妬であろう、と見解を述べた。
しかし、依然として焦点はラングフォード家に絞られたままだった。ブローダス夫妻は警察と協力して、ラングフォード家に「家を取り壊す計画」を通知して揺さぶりをかけた。ルゴー刑事はマイケルに 2度目の事情聴取をしたが埒があかず、彼の妹アビーは警察が家族に嫌がらせをしていると糾弾した。

結局、ブローダス家はラングフォード家とのやりとりのために弁護士リー・レヴィット氏を雇った。相手方に、「監視者」の手紙と、彼らの家が「監視」に適していると判断するに足る資料を見てもらった。レヴィット氏によると、会談は緊迫したものになり、ラングフォード家はマイケルの無実を主張した。ある夜、デレクはラングフォード家の長女ペギーと対面し、家の間に8フィートの塀を作るよう要求する「夢」を見たという。

 

マリアもマリアでまた別の「夢」を見た。ある晩、彼女は「近くに住む何者か」の鮮烈な夢によって目を覚ました。「男は長靴を履き、熊手を持って、子どもたちを呼んで連れて行こうとしているのだけれど、私は間に合いませんでした」。

彼女はだれに対しても疑いの目を向けねばならなくなっていたため、日常生活が恐るべき迷宮の中を進んでいるかのように感じられた。買い物をしている人が自分の子どもたちを変な目で見ていないかどうか、顔色を窺いながら怪しいと感じた人物は何時間もかけてネットで検索して確認した。

だがラングフォード家以外の容疑者についても考慮すべき理由もあった。ひとつには、警察が初期段階でマイケルを聴取していたにも拘らず、その後、更にもう2通送りつけるというのはあまりに無謀としか思えない。

また他の近隣住民にも疑惑の芽がない訳ではなかった。私立探偵は、数ブロック以内に2人の児童性犯罪者を発見していた。裏に住む夫婦は、ブローダス家の敷地に妙に近い位置に庭用チェアを置いていた。ある日、窓から外を見たら、年配の男がその椅子に座っており、自宅ではなく、ブローダス家の方を向いていたという。

 

しかし、2014年の終わりには捜査は行き詰まった。

「監視者」はデジタル痕跡も指紋も一切残していない。ニュージャージー州北部の郵便箱から投函された可能性があるというだけでは捜査員を配置する術もなかった。手紙を読み取って手がかりを解析するか、あるいは社会病質者の無意味な戯言として片付けるか否か。

「干し草の山から針を探すようなものだ」と、捜査に携わったユニオン郡検察庁スコット・クラウス氏は言った。12月、警察はブローダス夫妻に、もう打つ手はないと告げた。デレクは神父に手紙を見せて相談したところ、邸で祈祷を捧げてくれた。

 

大通り657番地の改装は警報機の設置を含め、数か月で完了した。だが、いざ引っ越しを考えると、夫妻は不安にさいなまれた。子どもたちを外で遊ばせたり、友人たちを招くことができるだろうか。デレクは調教済みのジャーマンシェパードを飼うことを検討し、退役軍人向けウェブサイトに「毎日裏庭で体を鍛えるだけ」という求人さえ掲載した。

「私たちは要塞に閉じこもるためにあの家を買ったわけじゃない」とマリアは嘆いた。ときにデレクは警報に対応したり、用心のため夜中にナイフを手許に置くこともあった。「念願のマイホームに大喜びしていたのに、数日のうちに茫然自失になってしまったようでした」と出入りの塗装工ビル・ウッドワードは話した。「マリアさんは見ず知らずの私に助けを求めて泣きすがることもあった」。

一家の動揺が「監視者」にも伝わるのは無理もないことだった。

大通り657番地は私に敵対している。私を追いかけてくる。なぜなのか分からない、どんな魔法をかけたんだ?昨日の友が今日の敵になっちまった。

大通り657番地は私の持ち場だ。私は悪を退け、善に戻るのを待つ。それは私を罰することはない。私は再び立ち上がる。辛抱強く待つ、お前たちが若人たちを私のそばへ戻してくれるのを。

大通り657番地は若い血を必要としている。お前たちが必要なのだ。戻ってこい。かつての私のように、子どもたちをまた自由に遊ばせろ。大通り657番地で若人たちに眠りを与えよ。そのまま邸に手を加えずに、放っておいてくれ。

 

■決断

ブローダス夫妻は以前住んでいた家を売却したため、マリアの両親と一緒に住みながら、大通り657番地の住宅ローンと固定資産税を払い続けていた。

「想像してみてください。朝5時に行って、帰ってきて、また義父母の家で同じことを繰り返すのです」

雪が積もればデレクは両親の家とだれもいない新居の2軒分の雪かきに追われた。

2人は手紙のことをごく限られた友人にしか話さなかったので、他の人はなぜ早く新居へ越さないのかと尋ねた。ある者は「法的な問題だ」と言い、離婚を疑う者もあった。

「私は落ち込んでいました」とデレクは告白する。事実二人の間には喧嘩が絶えなくなり、寝入るために睡眠薬を必要とした。マリアは定期健診で医師が発する「お元気ですか?」という定型的な質問で涙を流し、セラピストに診てもらうことになった。事情を聞いたセラピストは彼女が心的外傷後ストレスに苦しんでおり、家を処分するまでは治らないだろうと言った。

 

半年後、一家はようやく手に入れ、リフォームまで終えたその家を手放す決意をする。当初は改装費用も含めた価格設定にしようとしたが、ニュージャージー郊外の不動産にはゴシップが付きまとう。なぜ買ったばかりの新居を改装までしてほとんど住むこともなく手放そうとしているのか。「訳アリ物件」の噂が既に広まりつつあったのである。

「物件を気に入っている」とある仲介業者はメールで連絡を寄越したが、「性犯罪者からストーカーまで根拠のない噂が飛び交っている」ため事情を聴きたいと要望を書き添えてきた。一家は経済的な打撃を回避する必要があったが、購入につながりそうな相手に対しては手紙の存在を明かし、契約者にのみ全文を公開する意向を不動産会社に伝えた。不動産会社は難色を示したが、当のデレクは言う。

「私たちは生き延びるためにするべきことを考え、できるかぎりのことをやった。だれもが同じように対応できるかといえば、私には分かりません」

 

夫婦は、もし前所有者のウッズ夫妻から「監視者」の手紙のことを聞かされていたら自分たちはどうしただろうかと考えた。ウッズ氏は脅迫ではなく「奇妙な」手紙という印象を持っており、家の面倒を見てくれてありがとうといった内容と記憶していた。また明らかに監視されているといった感覚もなく、その家で暮らした20年以上もの間、ドアに鍵を掛けることさえほとんどなかったという。

しかし、ブローダス夫妻は、その名を聞くだけでも忌まわしい手紙の主の存在について、懸案事項として「新しい入居者に告知されるべきだった」との考えに至る。邸宅購入から1年後の2015年6月2日、ウッズ家に対して「監視者」の手紙についても開示すべきだったとして民事訴訟を起こした。
ブローダス夫妻は「静かな和解を望んでいた」と言う。子どもたちもまだ「監視者」の存在を知らないし、弁護士もせいぜい小さな法律関係のニュースワイヤーが話題にする程度だろうと断言した。
 
そんな希望的観測は見事に裏切られ、テレビ番組がこの忌まわしき裁判について取り上げると、瞬く間にメディアスクラムが組まれ「大通り657番地」を囲い込み、300余の取材希望を受けた。危機コンサルタントの助言により、家族は子どもたちへの注目が集まるのを避けるため、公の場での発言は控え、知人のビーチハウスに退避を余儀なくされる。しかしそこでも家族や友人の健康不安などに見舞われ、平穏は得られなかった。
引っ越しを楽しみにしていた子どもたちにも新居を手離す理由を説明しておかなければならなくなった。だが「監視者とは誰なのか」「どこに住んでいるのか」「なぜ一家に対して怒っているのか」といった子どもたちの質問に対し、夫妻はほとんど答えを持ち合わせていなかった。
「ぼくらの住む町は思っているほど安全ではない、きみに夢中になっているブギーマンがいるんだ」
 

■反応

「監視者」という実在する、リアルな謎を安全な距離をもって解明する必要がある。
この話を報じたニュージャージー州周辺部のニュースwebサイト『nj.com』のコメント欄には、「監視者」が主張する「壁の中にあるもの」を見つけるために、地中レーダーでの探査を提案した人がいた。だが実際には施工業者がすでに検査確認済みで、問題として認められたのは「断熱材の不足」だけだった。
SNS掲示板「Reddit」のユーザーグループは、Googleマップストリートビューに執着した。657番地の前に駐車している車を見たあるユーザーは、「運転席にカメラを構えている男がいる」と思った。想像された容疑者候補は、裏切られた愛人、失敗した不動産業者、地元の高校生の創作プロジェクト、ホラー映画のゲリラ・マーケティング、若い愉快犯の暇つぶし、など多岐にわたった。
強気なネチズンの中には、なかなか引っ越しの決断に踏み切らなかったブローダス夫妻を弱虫だと思う人もいた。
「こんな病人(「監視者」)なんかに転入を阻止されるだなんて絶対にありえない。テロリストの要求に決して屈してはならない」
こうした言葉は一家を更に苛立たせた。デレクは言う。
「この人たちは誰も手紙を読んでいないし、自分の子どもが知らない誰かに脅かされたこともない」「こいつが手紙を書くだけで実際に攻撃を仕掛けてこないぼんくらなのか、どうやって判断する?もし何かが起こったらどうするんだ?」
 

「監視者」についてブローダス夫妻も警官も周辺住民に伝えてはいなかったため、近隣では不安が広がり、657番地の裏手でピアノを教えるローリー・クランシーさんは、「女子生徒の一人が怖がって大通りを歩けなくなってしまった」と嘆いた。

手紙の存在が公開された一週間後、ウェストフィールド町議会ではアンディ・スキビトクシー首長が説明責任を求められていた。「監視者の被害は1年間報告されていない」と話し、未解決であるにもかかわらず「警察は徹底的に捜査した」ことを強調して国民に不安の解消を訴えた。

何人かは地元紙に「近隣住民全体に何も明かすことなく徹底的な調査を行うというやり方に疑問を感じる」といった声を寄せた。

 

■捜査

国民的注目が集まる渦中で、ウェストフィールド警察のベテラン捜査官バロン・チャンブリスが捜査を引き継ぐことになった。前任者がマイケル・ラングフォードをマークしていたことももちろん知らされていた。

兄サンディによれば、マイケルは若い頃に統合失調症と診断され、他家の裏庭に入り込んだり、窓の中を覗き見たりする奇行で新規住民を驚かせることがあったとされる。だが旧知の住民は彼の奇行の大半は隣人への優しさだと語る。隣人ジョン・シュミットは「彼は毎朝わざわざ僕のために新聞を持ってきてくれるんだ」と話した。古くからの知人たちは彼が手紙を書くことができるとは思わなかったと語る。

 

チャンブリス捜査官は、封筒から検出されたDNA型が女性のものであったことから、マイケルの妹アビー・ラングフォードに注意を向けた。彼女が不動産業者として働いていたことも気がかりだったが密かに採取した彼女のDNA試料は封筒のものとは不一致だった。

それから程なくして検察局はラングフォード家への嫌疑は晴れたとする通知をブローダス家に送り、夫妻を驚嘆させた。彼らは検察局に近々ラングフォード家に対する民事訴訟を準備していると伝えていたため、訴訟を断念させるために捜査機関が嘘をついているのではないかと疑った。

サンディ・ラングフォード氏はその後メディアに対して、「私は1961年からここに暮らして以来、ひとつも問題など起こしてこなかった。それがこの男のせいで突然、人騒がせなことになってしまったんだ」と述べている。

 

疑惑を残したままブローダス夫妻は個人的な調査を再開させた。クリスマスカードの文字などで気づくかもしれないと期待し、「監視者」の手書きの封筒の写真を持って街を歩き回ったが、目ぼしい情報にはつながらなかった。通りの向かいの隣人がセキュリティ会社のCEOだったので、夫妻はその会社に筆跡の検索を依頼したが、何も見つからなかった。

さらに、有名な法言語学者ロバート・レナードを雇い、地元のオンラインフォーラムで類似する書き込みを調べたところ、目立った重複は見つからなかった。だが手紙の書き手は、領土を守る「壁」やその「守護者」たちが登場するファンタジー小説・ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』を見ているかもしれないと思ったという。

 

チャンブリス捜査官とウェストフィールド警察の調査もまた振り出しに戻った。警察はアンドレア・ウッズにDNAサンプルを要求し、21歳の息子に事情聴取したが、突然容疑者になったようで驚いていた。事件から1年経っても目新しい手がかりはなかなか見つからず、当初の警察の見立ても重要な手がかりを見逃すほど節穴であったことが判明する。

ブローダス夫妻が最初の手紙を受け取ったのと同じ頃、大通りに住む別の家族にも「監視者」から同じような手紙が届いていた。家主夫妻は長年その地に暮らしており、子どもも大きくなっていたことからそれほど脅威に思わず、ウッズ一家と同じように手紙を捨ててしまった。

しかし、ブローダス家のニュースが流れた後、彼らの子どもの一人がFacebookにそのことを投稿した。捜査当局がその家族に話を聞くと、ブローダス夫妻が受け取ったものと同類の手紙だったことが確認された。しかしその存在は事件をより混乱させるだけだった。「それ以上のことは特に分かりませんでした」とチャンブリス捜査官は言う。

 

ある夜、チャンブリス捜査官は相棒と一緒に大通りに停めたバンの荷台に座り、双眼鏡でこの家を観察していた。23時頃、家の前に一台の不審車両が停まった。追跡すると、657号と同じブロックにボーイフレンドが住んでいる近くの町の若い女性に行き着いた。女性に詳しく話を聞くと、ボーイフレンドは「本当に暗いビデオゲーム」にハマっていた、という。

チャンブリス捜査官は、封筒から検出した女性のDNA型について、犯人の恋人か協力者のものと考えていた。ボーイフレンドはすでに別の場所に住んでいたが、2回に分けて任意聴取を行うこととなった。しかし、彼は2回とも来なかった。彼を強制的に出廷させるだけの証拠がなく、メディアの注目も薄れたためこの事件を取り下げ、次のステップに進んだ。

 

■疑惑

ブローダス夫妻がストレスと恐怖に苛まれる一方で、ウェストフィールド周辺住民の多くにとっては、この話は不気味な都市伝説に過ぎず、勇気があればハロウィンの日に通りかかることができる家という程度に過ぎなかった。ウッズ家以前に住んでいた人たちは、誰もこの家のことを思い出せず、のどかなこの街に不吉なことが起こるとは想像もつかなかった。

近くに住むある女性は、このニュースが流れた後、10人ほどの近所の人たちと一緒に通りに出て、誰が手紙を出したのか謎を解いたという。そして結局、意見は次のように一致した。ブローダス夫妻が自分宛てに手紙を送ったのではないか?

 

ブローダス夫妻が購入してから後悔に悩まされたか、資金不足と売却逃れのために手の込んだ計画を練ったというのが「自作自演」説の中では有力視されている。あるいは、デレクが保険金詐欺を企てたか。あるいは事前に映画の話を持ちかけていたのかもしれない。(夫妻は『The Watcher』という映画を公開したLifetime社に対して、映画の内容に事件と酷似した部分があるとして中止勧告の文書を送付した)。地元民の中には、夫妻が10年の間に31万5千ドルの家から77万ドルの家、130万ドルの家へとグレードアップし、住宅ローンの借り換えをしたことを注目する人もいた。

この手紙が公開された数週間後、Westfield Leader紙が匿名の隣人を引用して、なぜブローダス家は引っ越してもいない家の改装を続けるのか、あるいは本当にそれだけの改装をしたのか、という疑問を投げかける記事を掲載した。さらにLeader紙は、マリアが子どもの写真を載せたFacebookページを公開していることを根拠に挙げ、家族の安全に対するコミットメントにさえ疑問を投げかけている。同紙は、警察がマリアのDNAを検査した結果、一致しなかったとも書いている。

 

どの理論も事件を立証するものではなかったがブローダス家はあらゆる疑問に答えていた。「30万ドルの家を10年で130万ドルにする方法とは?」と問うた記者にデレクは言った。「それがアメリカだ!」と。

だがそうした反論を表には出さず、彼らは心ない噂に晒され続けた。大通りのある住人は、「ウッズ家から何百万ドルもだまし取ろうという手の込んだ計画が進行中だ」と主張する手紙を編集者に書いた。ウェストフィールドの警官の中にも、この説を信じた者がいたとチャンブリス捜査官は言っている。ネット上では、さらに懐疑的な意見もあった。

「私は隣町に住んでいます。このような手紙がしばらく続いているのなら、もっと前に公表されているはずだ」とLordFlufferNutterはReddit上で述べた。購入した後になって前オーナーに補償を求める夫妻に対して「これは詐欺としか言いようがない」と責め立てた。

 

ブローダス夫妻は近隣住民が「監視者」のニュースにどう反応するか想像もしてなかったが、彼ら自身も10年間この地域に住んでおり、マリアの家族はもっと長い間このコミュニティの一員であったため、自分たちが詐欺師扱いされることは衝撃的だった。

デレクにとって、ウェストフィールドの人たちは、自分たちの住む町が危険であるかどうかを考えるよりも、陰謀論に傾倒しているように思えた。

「『35年もここに住んでいるんだから、何もないだろう』と言うのが自然な流れだ」と、デレクは言った。

「私の家族に起こったことは、自分たちは安全だ、自分たちの地域には精神病など存在しない、という彼らの主張に対する冒涜です。ウェストフィールドでこんなことが起こるなんて、みんな信じたくはないんだ」。

マリアは幼少期を懐かしく振り返るが、彼女が生まれたのは同地でジョン・リストによる悪名高い事件(*)を起こした後で、子どもの頃は町を走る奇妙なバンに注意するよう警告されていた時期も覚えているという。

「母はいつも私に、油断しないで、と言っていました。悪いことがいつも起こっているのではなく、悪いことはどこにでも起こるのだと。ここはメイベリー(**)なんだと思われたくなかったのでしょう」。

(*ジョン・エミル・リストは1971年11月に自宅で妻、母、3人の子どもを銃殺。牧師あての手紙に「世界にあまりにも多くの悪を見たので、魂を救うために家族を殺した」と記して消息を絶った。約18年後、公開捜査番組での人相再現などがきっかけとなり逮捕。5期の終身刑が課され、08年に収監先の医療機関で死亡。)

(**アンディ・グリフィス主演の60年代コメディドラマ『メイベリー110番』の舞台となったノースカロライナ近郊の架空の町。)

 

しかし、地元住民たちは、全国紙がウェストフィールドの評判を落とすことを心配しているようだ。放火や破壊行為、ブローダス夫妻が芝生の手入れをするかどうかなどを心配している人もいた。同市議会の近隣代表マーク・ログリッポ氏は、住民から聞いた声では「資産価値と近隣の汚名」が一番の関心事だったと語る。

ブローダス夫妻は、突然、家だけでなく町からも追放されたのだ。デレクはその土地を離れようとしたが、マリアは子どもたちを引き離すわけにはいかないと主張した。

「こいつは私たちから多くのものを奪ったのよ」とマリアは言った。「これ以上奪われたくないわ」。

「監視者」からの最初の手紙が届いてから2年後、ブローダス夫妻は家族からお金を借りて、町内にセカンドハウスを購入した。しかし、この町にいることはストレスになった。マリアは初めて娘を友達とプールに行かせた時、娘のiPhoneのトラッカーをずっと見つめていた。

国語の授業中、教師が小説に登場する家族がウェストフィールドに引っ越すべきかどうかという議論を生徒たちにもちかけた。生徒の多くは、治安の良さもあるためこの町で暮らすべきだと考えた。その後、ある生徒がブローダス家の子どもに、「あなたの家族が何と言おうと、ウェストフィールドは安全だと親が言っていたよ 」と発言したという。

 

■分譲計画

ブローダス夫妻は依然として大通り657番地をどうするかという問題に悩まされた。

州によっては、殺人事件や幽霊が出るような「一過性の社会情勢」を売り手に開示することを義務づけている。1991年、幽霊が出たという家に関する裁判で、ニューヨークの裁判所は「法律上、この家は幽霊が出る」と判決を下し話題となった(後に却下)が、ニュージャージー州にはそうした規制はない。

デレクはこの家を退役軍人省や特老ホームを手掛ける会社に貸すことさえ検討したが、2016年春、大通り657番地を再び市場に出すことにした。手紙の公開で注目されたことで以前よりも関心を集めるかもしれないと一縷の望みにかけたのである。

夫妻はオープンハウスを開催し、その後、署名したすべての人を調べ、その筆跡を「監視者」のものと比較するのに時間も費やした。だが購入希望者たちは興味を示しても夫妻の弁護士からその手紙を見せられるたびに手を引いた。

スタテン島から来た生意気な男が「"くそったれ、もっとまけろ "と言ったんだ」とデレクは回想する。「彼は手紙を読むと、それっきり音沙汰がなくなった」。

万策尽きたと思ったブローダス夫妻は、不動産関係の弁護士からある提案をされた。この家をデベロッパーに売り、そのデベロッパーが家を取り壊して、売れる家2軒に分割すればいいのだ。土地は100万ドルで売れるという。ウエストフィールドではそうした分譲地化はよくあることで、昔からの地元住民たちは不満に思っていた。それでも分割するには、地元の計画委員会が例外を認めなければならない。分割の見積もりを出すと2つの土地は、幅が67.4フィートと67.6フィートで、70フィート以上とする規定には僅かに及ばないことが分かった。

 

この提案が公にされたとき、ウェストフィールドのFacebookグループは大いに盛り上がった。ブローダス夫妻に同情する声もあれば、不動産は常にギャンブルであると指摘する声もあった。また、これは長い間の詐欺の集大成だと確信する派もいた。「この詐欺師の話の中で、この動きほど不穏なものはない」と地元の女性は言った。ブローダス家の息子のフットボールコーチは、「彼らは、初日からお手上げ状態だった」と書いている。

訴訟騒ぎで「監視者」を知った近隣住民たちは、警察からの命令に従って子どもたちを保護しようとしていることがブローダス夫妻に理解されていないと感じ、情報を共有しようとしない夫妻の態度を不思議に思った。

 

Facebook上ではしばしば次のようなやりとりが交わされた。

「"監視者"っつーのは、策略だったみたいね」

「オーナーは善人だ。そんなことはない」

「オーケー、知らんけど」

ブローダス夫妻の友人クリスティン・ケンプ氏は、あるFacebook掲示板で彼らを擁護しようとした。すると誰かが「"どうしてあなたに「監視者」の手紙は夫妻の自作自演ではないとわかるのですか "と尋ねたのです」とケンプは言う。

 

2017年1月、分譲の申請を決定するために開かれた計画委員会は、すでにこの問題に3時間のヒアリングを割いていた。100人以上の住民が集まった。そのうちの1人は、通りの向かいに住み、ブローダス家の子と同学年の娘がいて、この提案に対抗するために弁護士を雇っていた。(ここで新たな容疑者が浮上した。「監視者」以外の誰が、この家を守るために弁護士を雇うというのだろうか?)

ブローダス夫妻の弁護士ジェームス・フォアストは、3フィートの免除幅は、地図を掲示しているイーゼルほど狭かったと説明した。その地図には、このブロックにあるいくつかの土地が規定よりも現に小さすぎることが示されていた。

近隣住民は、この計画では木を切り倒さなければならないかもしれない、新しい家には美観上好ましくない正面向きの車庫ができるかもしれない、と懸念を表明した。フォアストは代替案として特老ホームの計画を何度もちらつかせながら、近隣住民に分譲化への理解を迫った。

 

弁護士による審議の後、近隣住民が次々と発言した。通りの向かいに住むグレン・デュモンさんは、この提案は「私たちが知っている大通りの600ブロックに終わりを告げるものだ」と言った。ブローダス夫妻の旧宅で誕生日パーティーをしたことのある女性は、大通り657番地をウェストフィールドのアラモ(傑出)と紹介した。

「私たちの住む地域は、芝生、照明、駐車場など、あらゆるものから常に攻撃を受けているのです。大通りで抵抗できないのなら、どこで抵抗すればいいのか」。アビー・ラングフォードさんは、「60年近く立派で美しい家を見てきた」「私道を眺めるのは嫌だ」と席を立った。

公聴会は4時間続いたが、その間、「ブローダス夫妻が夢の家を取り壊すに至った理由については、ほとんど議論されなかった」と向かいの住人トム・ヒギンズさんは言う。それでもヒギンズさんは「監視者」が新しい2軒の家に手紙を送らないという保証はないと指摘し、美観を優先させるべきだと主張した。

近隣の住民の中には同情的な人もいたが、彼らの関心は、ブローダス夫妻が経済的に何を得るか、そして自分たちが何を失うか、ということに終始していた。

23時半、理事会は満場一致でこの提案を否決した。

デレクとマリアは、「たとえ計画が通ったとしても、経済的な破綻を食い止めるだけだろう。住宅ローンと改築に加え、ウェストフィールドの固定資産税約10万ドル(町は救済要求を却下)を支払い、雨どいの掃除はもちろん、『監視者』の調査や家の処理方法の検討に少なくともその額は費やされた。夫妻は大通り657番地が美麗な通りに面した美しい家で維持する価値があることを認識していたが、隣人がこの状況のユニークさに気づかないことに驚いている。

「ここは私の街よ」と、マリアは言う。「私はここで育った。私はここで育ったし、戻ってきたし、子どももここで育てることにした。私たちがどんな目に遭ってきたか知っているはずです。あなたには、悪夢の2年半を、少しでも良くする力があった。でも、あなたはこの家が私たちよりも大切だと決めた。本当にそんな感じだった」。

この家を祝福祈祷したマイケル・サポリート神父は、計画委員会の会合に出席し、「この家はデマだと思う」と言う人が何人もいて驚いたと言った。「この話の人間的な要素は、近所の人たちにはちょっと伝わらなかったと思う」。

「監視者」は古く美しいその邸宅を、麗しき大通りをその変化から守ろうと表明していたが、思いとは裏腹に大通りの人びとは関係性を引き裂かれたのである。

 

■勝利宣言

計画委員会の分譲否決から間もなくして、ブローダス夫妻に朗報がもたらされた。大通り657番地を、成人した子どもと2匹の大型犬を連れた家族が借り受けることになったのだ。この賃借人は、Star-Ledger紙に「監視者」のことは心配していないと語ったが、契約書には新たに手紙が来た場合には出て行けるという条項があった。

2週間後、デレクは屋根に住み着いたリスを処理するために657番地に行った。賃借人から届いたばかりの封筒を渡された。

激しい風と厳しい寒さ

卑劣なデレクとその妻マリアへ。

この手紙は「監視者」が現れてから2年半後、突然やってきた。日付は2月13日、ブローダス夫妻がウッズ夫妻に対する訴訟で宣誓証言を行った日である。

「『監視者』は誰かしらだと?馬鹿者ども、こっちを向け」と書かれていた。

「『監視者』が誰だか知りませんか」と隣人の一人である私にさえ話したことがあったかもしれないな。あるいは、お前も知ったうえで、怖くて誰にも言えないのかもしれない。いいぞ、その調子だ。

他の手紙に比べてスタイリッシュではなく、怒りに満ちていて、書き手はこれまでの経緯を把握しているようだった。手紙の内容からは、地区一帯を占拠したマスコミの報道、これまでのデレクの密かな調査活動、そして家を取り壊そうとする試みも全て見てきたものとして書き出されていた。

大通り657番地は門を阻む賛同者の兵たちが立ち塞がり、お前たちの襲撃を耐え抜いた。

大通りの兵士たちは、私の命令に忠実に任務を遂行し、大通り657番地の魂を救ってくれたのだ。監視者、万歳!!

賃借人のことも書かれていた。彼はおびえながらも、ブローダス夫妻が家の周りにカメラを設置するならば留まることに同意した。そして手紙には、復讐には様々なかたちがあることが示されていた。

交通事故かもしれない。火事かもしれない。もしかしたら一向に治る気配がないのに、体調を崩しがちになるような軽い病気のようなものか。ペットの不審死。大切な人の予期せぬ死。飛行機や車や自転車の追突…

 

「まるで初心に帰ったような気分でした」とマリアは言った。しかし、それは同時に、捜査を活性化させる新たな証拠でもあった。デレクはその手紙を警察本部に持っていった。そこで刑事は近所の地図を見て、家を中心に直径300ヤードの円を描き、「監視者」がこの家のどこかにいるはずだと示唆した。デレクは円の中にさらに小さな円を描いた。「私の考えでは、この家は世界に10軒しかないうちの1軒だ 」。

ブローダス夫妻は事件を訴え続けたが、警察にはまだ証拠がなく、通りを見渡せば、誰の中にも「監視者」がいることが分かった。住人の話によると、父親がこの辺りで育ったティーンエイジャーや、時々フルートを吹いて近所を歩いている男性もいたそうだ。裏の老夫婦は47年前から住んでいる。ご主人は芝生に座ってブローダス家を眺めていた人物だった。彼らの娘の一人は、よりによって同じ区画で育った男と結婚していた。

しかし、これらの情報は、見方によって、すべてを意味することもあれば、何も意味しないこともあるような断片的なものだった。ブローダス夫妻は、何か変なものを見つけるたびに新しい名前を調査員に送っていたが、彼らが最も恐れていたのは、「監視者」が自分たちが疑いもしなかった人物である可能性であった。

 

■転移

デレクとマリアはその後、できる限りこの657番地の前を通らないようにしている。「美しい木々、美しい家々。でも、感じるのは不安だけなんだ」とデレクは言った。「夜中に目が覚めて、もしこんなことが起こらなかったら、私の人生はどうなっていただろう、と考えることもある。クリスマスを何度か失いました。5歳の子どもとのクリスマスはもう取り戻せないのです」。

ブローダス夫妻は、もう「監視者」にいつ襲われるかわからない恐怖におびえながら暮らすことはないが、手紙の余韻に浸ることは続けている。657番地には新しい借主が入居したが家賃収入だけでは住宅ローンをまかないきれない。子どもたちは時々、学校でからかわれる。噂は絶えない。しかし郊外に住んでいると、そう構ってもいられない。

サッカー場や駅でそれらしい人物を見かけると、ホッケーをしていて喧嘩になりそうなときと同じように心臓がドキドキするんだ」とデレクは言う。マリアは地域活動で計画委員会の責任者と顔を合わせ、終わった後で彼に言った。「あなたは毎日、私の家族を傷つけ続けているのよ」。

その後、計画委員会は、大通り657番地よりもさらに大きな特例措置を必要とする土地の分割を承認した。

 

ウェストフィールドに住むほとんどの人が、「監視者」についてもうほとんど関心を失ったとされる。不動産市場は好調で、多くの人がブローダス夫妻がまだ問題に対処していると知ると驚きを見せる。後知恵で、デレクとマリアは、早いうちに家を損切りして売っておくべきだったのではないかと考えた。数年間、何事もなく賃貸を続ければ売却先も現れるのではないかと期待している。検察庁は捜査を打ち切ってはいないが、「監視者」が発見される公算もなければ、万にひとつ逮捕できてもそれほど大きな罪には問えないだろう。

またウェストフィールドで匿名の手紙を送ってくるのは、もはや「監視者」だけではなくなっていた。2021年のクリスマスイブ、いくつかの家庭の郵便受けに封筒が入った。それはネット上でブローダス家を最も声高に批判していた人々の家に手渡しで届けられたものだった。

記者は何人かと接触し、数ブロック先の大通り沿いに住んでいた一人は、以前Facebookにこう書き込んでいた。「タールと羽毛の時代(***)に戻りたいよ。ちょうどいい夫婦がいるんだ!」と。(***タールと羽毛刑は、中世ヨーロッパから20世紀初頭まで多く見られた見せしめ刑)

手紙を受け取った別の家族は、「監視者」による手紙と同様に「奇妙な詩的さ」があったと言い、ブローダス家について不正確な憶測をしていると非難する内容だった、と明かした。タイプされた手紙には「ブローダス家の友人 」という署名があった。

 

手紙を書いた人物は「監視者」が匿名を好むだけでなく、煮え切らない恨みにも感染していることを明らかに認識していた。手紙を受け取った人たちは、誰が送り付けたのか分からないと話したが、記者はその文体になじみがあった。

記者はデレク・ブローダス氏にあなたが書いたものかと尋ねると、彼はしばらく間をおいて、書いたと認めた。妻にも伏せて自らの意志で書いたと。

家族にいわれなき非難を浴びせられるのを黙って見過ごすのは限界だったのであろう(手紙を受け取った人の一人は、夫妻に会ったこともないし、会う気もないと言っていた)。

「監視者」は657番地に取り憑かれ、デレクは「監視者」に取り憑かれ、あの手紙が引き起こしたすべてのことに取り憑かれるようになった。

「ガンのようなものだ」と彼は言った。「毎日考えているんだ」。

 

4通目の手紙にはこう書いてあった。

お前は家から軽蔑されているんだ

そして監視者は勝った

 

 

茂原女子高生行方不明について

2013年(平成25年)、千葉県茂原市で高校3年生の女子生徒がおよそ2か月半にわたって行方不明となった。大量のトマトを抱えたまま最寄駅から消息を絶っていたが、その後、自宅近くの神社で発見され、無事保護された。

事件性なしとされ、女子生徒は家族の元に戻ったとされているものの、行方不明の詳しい経緯は報じられず、家族の対応や長期にわたってどのように生還したのか、なぜ家のすぐ近くで野宿して過ごしたのかなど不可解な点が多く、原因に家族の宗教問題、今でいう「宗教2世」問題が絡んでいたのではないかとみられている。

 

■概要

2013年7月11日(木)、千葉県茂原市に住む県立岬高校3年生・中川沙弥香さん(17)が下校途中に行方不明となった。

その日は学校のテスト返却があり、普段より早い14時過ぎに授業が終わった。中川さんは外房線の電車で通学しており、高校から最寄りの長者橋駅で14時40分頃に乗車。15時15分頃、自宅から約2キロ離れた最寄りの本納駅で防犯カメラに映ったのを最後に消息が途絶えた。

失踪当時は制服姿で、白い丸襟のシャツに紺と白のチェック柄スカート姿、ローファー靴を履いて通学用のカバン所持金は1500円程とみられており、交通ICカードを所持していたが、本納駅を下車後に使用された形跡はなかった。

当日は家族から携帯電話に架電できていたが一度も応答はなく、2日後には電源が切れたのか呼び出し音も鳴らなくなったという。

 

失踪翌日の12日(金)、親は学校に「休む」と連絡を入れたが、欠席理由は特に告げられなかったという。家族は13日(土)になって警察に捜索願を提出した。

2週間後の7月27日になって自宅で鑑識捜査が行われたが、家出の書き置きや行き先などの情報は得られなかった。

その後、親の要請を受けて行方不明から約1か月後の8月6日(火)に公開捜査となり、駅からの通学路などで聞き込み捜査が行われた。だがテレビ取材に対して家族は「我が家では家出だと思っているんですけど」とどこか煮え切らない様子で答えており、視聴者からの不信を招いた。

8月7~9日にかけて31~45人体制で付近の山林などで大規模捜索が行われたが当時の所持品などの手がかりも見つからず、両親は駅前でビラ配りなどをしたが発見につながる有力な情報は得られなかった。酷暑の続く時期でもあり、少女の安否が気遣われた。

 

■大量のトマト

新聞、テレビなどでその名が報じられたのは8月の公開捜査以降のことである。

所持金をほとんど持たないとはいえ、意思のある17歳という年齢だけを見れば、自発的な「家出」の線は除外できなかった。他の同年代の事案と合わせてみれば、SNSや「出会い系」サイトなどを介して家族や友人も知らない人物とコンタクトを取って、交際したり、別の場所で暮らしていることも充分に考えられた。

周辺は農村部で自動車が生活の必需品となるため、18歳になってすぐに免許を取る同級生や頼めるような先輩がいてもおかしくない。恋愛関係などでなくとも、千葉県から都心部などへ車で連れ出して、家出を手引きする人物がいた可能性もある。

しかしネット市民のそうした推理の前に立ちはだかった最大の疑問が、彼女の最後の消息となった「最寄り駅の防犯カメラ映像」であった。彼女は通学カバンのほかに、数十個のトマトの入った袋を抱えていた。

彼女の通う園芸科ではトマトの栽培をしており、失踪当日、クラスメイト達と「おいしそう」と話しながらその収穫を喜んでいたという。学校から自宅最寄り駅まで来ていたことからも、「自宅に帰る意思があった」ように捉えることができる。

駅から自宅方面にかけて、小さな商店街があるものの昼間でも人通りはほとんどなく、駅近くの住宅街を抜けると田畑や林に囲まれた長閑な農村部の景色が広がる。しかしトマトを捨てたような痕跡も見当たらなかった。

 

■家族

8月、FNS系ワイドショーの取材に応じた中川さんの兄は、彼女が高校1年生のときに「体育祭を休みたい」という理由で家出をし、最寄り駅からひとつ隣の永田駅近くの公園に一人でいるところを両親に発見された過去があったと話した。

また「1か月前頃から進路問題で悩んでいた」「(失踪の)1日、2日前ごろには険しい顔つきをしていた」という。そのため家族内では当初「また家出したのではないか」という見方だったのだという。だが行方不明からすでに1か月が経過したこともあり、「連れ去られたんじゃないかと思っている」と話し、彼女の安否を危惧した。

 

しかしながら高校生の家出理由として「体育祭を休みたい」という中川さんの過去の動機にもどこか不自然さが感じられる。中川さんが家族にそう説明したのが事実だったにせよ、たとえば恋愛や自殺未遂など、何か別の理由で家を出たはいいが、結局家族にも本心を明かせなかった可能性はある。

また外泊の習慣や非行歴があった訳でもない17歳の女性が戻らないとなれば、その日の内に学校や警察に救援を求めるのが一般的な親心というものである。すぐに学校に相談することもなく、警察に通報しても1か月もの長期にわたって公開捜査を躊躇してきた理由があるのではないか。実は家族は失踪の事情を詳しく知っているのではないか、とする見方が生じるのもおかしなことではない。

学校でも問題行動は確認されておらず、テスト返却後も変わった様子はなかったとクラスメイトは証言する。家出とすれば夏休み目前というタイミングのこの時期に強行する必要はあまり感じられない。せめて一度帰宅して荷物を整理してから出立する訳に行かなかったのか。精神的に何か不安を抱えていたとしても、金や衣服も準備せず突発的に家出するとは無謀にも程がある。

しかし自発的失踪か、事件に巻き込まれたのかも不明のまま捜索活動は打ち切られた。

 

■発見

失踪から2か月半後の9月26日正午過ぎ、茂原市の自宅から400メートル程の場所にある「日枝神社」の境内で中川さんが発見された。

失踪時と同じ制服はすでにボロボロになっており、境内には紺色のスクールバッグが置いてあった。救急隊員に両脇を抱えられながらも自力で歩行し、病院に搬送されたが目立った外傷はなく、軽い脱水症状と衰弱はあったが命に別状はなかった。

その日の内に母親が面会し、本人確認を行った。

社は高さ・奥行きとも数メートルの小型なもので、室内は約3畳の板張り。すぐ近くに民家や小さな公園もあるが、道路からはやや高台に位置するため、社へお参りに来た人でなければよもや中に人がいるとは気づかない。

第一発見者の70歳代男性は、「(神社の中に)お供えものが置いてあるんです。お餅。もしかしたら、もうなくなっているかなと思って、(社の中を)見たら、その時に高校生らしき人の姿がうずくまっていたので...」と語った。

また男性は「チビタ」という名の柴犬を飼っており、女性週刊誌の取材に対して「8月下旬ごろから、チビタと社の前を通りかかると唸り始め、ワンワンと吠えていた」「普段は吠えない犬だからおかしいなとは思っていたが、今思えばチビタが第一発見者ですよ」と語っている。

保護された際、この女子高生は、警察官から「連れ去られたり、被害に遭ったりしたのか」と問われると、首を横に振り、「社を出入りしていたのか」との問いに対して首を縦に振ったという。しかし、そのほかに警察官が語りかけても無言で、具体的な話は出なかった。

兄は「つらいこともあったと思うので、いろいろと彼女の話を聞いてあげたい」とコメントした。だがネット上では、2か月半ぶりの保護にもかかわらず再会の喜びなどが少ないと訝しむ声は止まなかった。

 

9月27日の『夕刊フジ』で続報が伝えられた。

発見された社は「普段は立ち寄る人もほとんどいない」というひっそりした場所で、4日前に近隣住民が訪れた際に生徒の姿は見られなかった。周囲は野菜畑があり、捜査員の「野菜を食べていたのか」との問いかけに生徒はうなずいたという。体重は失踪時の45キロから30キロ近くにまで減少していたとされる。

さらに県警は「事件に巻き込まれた可能性は低いとみている」とも伝えている。

しかし2か月半後に自宅付近での発見という、家出らしからぬ家出は人々に強い疑念を抱かせ、発見によって人々の興味・関心はその真相へと移った。インタビューの様子などから、一部のネット市民には、家庭内での虐待を疑う向きや兄妹間によからぬ問題があったのでは、といった声も挙がっていた。

 

カルト集団・宗教・スピリチュアル産業の社会問題をいじるWebニュースサイト「やや日刊カルト新聞」では、家出の原因を彼女の家庭の「宗教問題」だとしている。

国内の統一教会(現・世界平和統一家庭連合)信者による内部告発や不正の刷新を求めるブログ「目安箱」では、発見当日の9月26日記事に「(彼女は日韓家庭6500双の二世)」と記述していた。つまり発見された少女が、合同結婚式で結ばれたいわゆる“祝福”夫婦の二世信者であることを伝えていた。

 

統一教会問題について長年追及してきたジャーナリスト・有田芳生氏も、自身のFacebook上で事件について次のように発信している。

2013年9月28日  ·

 9月28日(土)秋風が吹くようになった。千葉県茂原市で7月から行方不明だった17歳の女子高生が見つかった。彼女は1988年に行われた統一教会合同結婚式(6500組)に参加した日韓家庭の二世だという。統一教会では「祝福二世」と言われていて、「原罪のない子供」だとされる。ただし人それぞれ。生まれたときから信者として育てられ、悩んできた者も多い。私が知っている二世は高校を出るころに親から離れて自立を求めていた。繊細な年ごろにどんな思いを抱いていたのだろうか。彼ももう30歳を超えた。消息は途絶えたが、いまでもときどき気になっている。統一教会だけではなく信仰家庭の二世問題には外からはなかなか伺い知ることのできない重いものがある。

 

■宿題と現在地

2022年の安倍元首相銃殺事件で犯人に統一教会への深い怨恨が動機になったことが明らかにされて以降、教団の二世信者育成システムの構造的歪み、「虐待」ともいうべき養育実態は被害当事者らによって糾弾されてきたことは本稿で繰り返すまでもない。

当時の中川さんの身に何が起きていたのか、具体的なことは明らかにはされていない。だが宗教二世として自らの生い立ちなどを公表した小川さゆりさん(仮名)の証言と照らしても、年齢からして自我が確立されて、教会への信仰や家庭での養育方針に疑念を抱いていたことは容易に想像される。

自宅からそれほど遠くないながらも、教会信者が忌む「神社」という場所で過ごしていた点から見ても、信仰への抵抗感が動機の根底にあったと見ることができる。たとえば進路や恋愛、結婚など将来について家族間で意見の衝突となったことで、家を追い出された、着の身着のまま家を飛び出したような状況が当てはまるのではないか。

中川さんは自宅に帰されたとみられるがその後どうして過ごしているのか。他の家庭の事情に介入すべきではないが、こうした事例は表沙汰にされないだけで家庭内殺人や行方不明、虐待事案にも深く係わる問題を孕んでいる。

 

2022年9月5日、NHKで放映された「クローズアップ現代」ではフランスの新興宗教トラブルでの対策について伝えている。

フランスでは1970年代から新興宗教絡みのトラブルが相次ぎ、95年に「セクト(カルト)団体」を指定して公表。しかし一部の教団を法的に規制するとなれば、政治による宗教介入にほかならず、個人の信仰の自由を脅かすことにつながりかねないと問題視され、撤回を余儀なくされた。

議論の末、特定の団体を取り締まり対象とするのではなく、人権や自由を侵害する行為を明文化し、それを侵害するセクト的運動を規制するセクトが2001年6月に成立する。以下に上げる違反について、刑事上の有罪判決を複数回宣告された場合は解散宣告をすることができるものと規定した。

生命侵害

人の身体的・精神的完全性に対する侵害

人を危険に晒させる行為

無知と脆弱な状態に付け込む不法侵害

略取及び監禁

売春斡旋

人間の尊厳に反する労働

死体に対する侵害

差別

人格に対する侵害

未成年者及び家族に対する侵害

盗取、強要、詐欺、背信、財産の法的状況の詐称

不法な医師・歯科医・助産婦専門行為

不法な薬剤処方

虚偽広告

詐欺

食物・医薬品についての虚偽並びに不法売買

教義・思想・信条を対象とする規制ではなく、反社会的行動が組織的に行われた場合にその対象となる。2020年段階で実際に法人の解散命令が出たケースはないという。

小川さんらは自らの被害を明るみにすることで「教団の解散」を強く訴えてきたが、その後の報道などを見るに、旧統一教会問題は安倍晋太郎以来の「政治と教団の癒着」へと焦点が移ってしまった感がある。
「信教の自由」を建前に、市民の生活を脅かすカルト教団は旧統一教会に限ったものではない。オウム真理教事件以後もやり残してきた宿題を国会はどう処理し、今後もそうした被害の芽を潰していけるのか。法規制がなされたとて、実際に家庭に介入することになるのは、警察、教育現場の人びとや児童相談所などの保護施設の役割となる。今も苦しむ宗教二世、三世世代が解放されるのはいつになるのか。