いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

千歳市女子中学生誘拐殺人事件

北海道千歳市、9月の昼下がりに起きた少女の失踪。19年後、予期せぬかたちで発見されたが…

 

消えた虫とり少女

1975年(昭和50年)9月21日日曜日の午後、千歳市の住宅街でひとりの少女が消息を絶った。行方が分からなくなったのは、富丘中学校1年生の千葉弓枝さん(12歳)。

午後6時半ごろに仕事から帰った父・富雄さん(当時39歳)が娘の不在に気づき、周辺の心当たりを捜したり親類に連絡を取るなどしたもののその安否さえ分からず、午後7時15分ごろに千歳署に捜索願を届け出た。

弓枝さんは1歳の頃に両親が離婚し、父親と祖母に育てられたが、前年に祖母が亡くなり、当時は父娘二人暮らしだった。

千葉弓枝さん(当時12歳)

富雄さんは大工をしており、その日も出勤は朝早かった。弓枝さんは午前9時半ごろに近所のクラスメートの家を訪ね、「スズムシを捕りに行こう」と誘っていたが、友人は勉強中だからと断った。

10時から10時半の間には、自宅前で自転車に乗った弓枝さんの姿を近くの主婦が目にしていた。また12時半ごろ、自宅方面へ小走りで向かう弓枝さんを顔見知りの小学5年生男子Cくん(10歳)が目にしていた。知人による目撃情報はこれが最後とみられる。

警察が捜索の結果、21日午後11時半ごろ、自宅から約450m離れた末広高台地区にある旧電子計算機専門学校(*)近くの路上で、弓枝さんの自転車が発見される。目の前は雑木林になっており、自転車は施錠された状態だった。近くの主婦の話では、午後1時ごろには同じ場所に停めてあったという。(*職能養成の訓練スクール。電子計算機/電卓は1960年代半ばから業務用に生産され、当初は20‐30kgと大型で高価だった。70年代に入って急速に小型化・低価格化が実現し、家庭用・個人向けにも普及していった。)

自宅には虫かごが残されており、もともと一匹だった虫が六匹増えていたことから、彼女は午前中に一人で昆虫採集へ赴き、一度は自宅に戻ったものと考えられた。

話を総合すれば、弓枝さんは昼過ぎまで虫捕りをした後、自転車を放置したまま一旦自宅に戻り、虫かごなどを置いて再び外出し、行方不明になったと推測された。

警察では事件、事故、家出を視野に捜査を開始し、周辺地域での事故の痕跡や目撃者さがし、交通機関の調査などに乗り出した。

通帳や腕時計、衣類などは手つかずのまま残されており、所持金は300円程度と見られている。父親には学校のこと、友人のことを何でも話し、仲は良かった。変わった様子は見られておらず、多感な年頃とはいえど、その状況から見ても自発的な家出の線は薄いように思われた。

 

不可解な脅迫電話

翌22日(月)の午後5時3分ごろ、千歳市役所に怪電話が入り、事件との関連が取り沙汰された。電話当時は身代金誘拐の可能性を考慮して、報道協定により非公開での捜査中だった。

電話は交換台を通して岩瀬正人助役(当時58歳)につながれた。電話の主は「女の子を誘拐した」と言い、身代金を要求する旨を話した。

電話の男は「きのう2時半女の子一人を誘拐した。身代金3000万円用意しろ。今日7時までに半分の1500万円を用意するように」と要求し、「さもなければ、7時半にもう一人やる。いいか、一人1500万円だぞ」と念を押した。

男は名を名乗らず、助役が「誘拐されたのはだれだ」と問いただすと、「そんなこと知るか。警察に聞け。警察に知らせてもいいぞ」と言い、1分ほどで(「約3分間くらい」とも)通話を打ち切った。

助役は「随分と図々しい男だな、というのが最初の感じ」と言い、おかしいとも思ったが、数字や時刻をきちんきちんと話すのでメモを取って対応していたという。男の声は40歳ぐらい、訛りや抑揚はなく比較的冷静な話しぶりだったが、聞き返すとムキになった感じになったと話している。

また市役所では直前の午後4時20分ごろに「市長を出せ」との電話が入り、代理で管理職職員が応対すると「●●通りの工事を早くしろ」と要求を言って切られた。その30分後に助役室に電話がかかり、秘書が応対したところ、こちらは無言で切られていた。

両方の電話に応対した受付係の話によれば、共によく似た男の声で、30-40歳ぐらいの落ち着いた口調だったという。ほかに似たような苦情や不審な電話はないことから、同一人物の可能性が高いと見られている。

その後、別の誘拐事案が報告されることはなく、受け渡し場所の指定など、続く脅迫電話も掛かってこなかった。

 

22日朝には、富丘中をはじめ近郊の学校で行方不明が周知され、児童・保護者らに警戒や情報提供を呼びかけていた。また現場周辺では捜査員や学校職員らによる捜索が行われていたため、それなりに多くの人々に知られていた。

一般的に、脅迫電話は誘拐から間を置かずに行われ、身代金準備の進捗を見ながら受け渡し場所や方法が指示されることが多い。また金を切望していれば、被害者の声を聞かせて生存を知らせるなどといった事前交渉が行われる。行方不明になってから24時間以上経ちながら、電話の男が少女の名前を知らないかのような素振りを見せていることや、市役所に電話を掛けている点などイレギュラーさが際立った。

警察では22日の怪電話を、少女の捜索を耳にした第三者による悪質ないたずらと判断し、23日(火)に公開捜査に切り替えられた。

 

身代金誘拐は、かつて資産家令嬢や著名人の子息を狙うことが多かったが、1960年に新聞報道に狼狽して7歳児を殺害した雅樹ちゃん事件、63年に4歳児が殺害され身代金50万円を奪われた吉展ちゃん事件など、一般家庭の子どもたちが標的とされることも当たり前となり、世の親・祖父母らを戦々恐々とさせた。

本件当時としては、74年8月、俳優の津川雅彦・朝丘雪路夫妻の長女(当時生後5か月)が自宅2階から午前3時頃に略取される事件が大きな注目を集めた。犯人は逮捕に至り、赤ん坊は犯人宅で41時間ぶりに無事に保護されていたが、マスコミでは両親への非難めいた論調もあり物議を醸した。

 

2台の車とナゾの女

自宅は千歳駅の北側、末広新町の住宅密集地にあった。

自転車が見つかったのは自宅から西へ約450m地点とあり(下の画像の左上部あたりか)、周辺に雑木林はいくつか散見されるが規模はそれほど広大ではない。しかし道警、機動隊員ら200名を超える一帯の捜索でも、自転車以外にめぼしい物証を発見することはできなかった。

徒歩圏内に工事現場など目立った危険箇所はなく、事故の痕跡は見当たらなかった。自転車の発見場所から警察犬を動員しての追跡も不調に終わり、駅の東を流れる千歳川でも約2kmにわたって捜索を行ったが手掛かりは得られなかった。

列車やバスなど交通機関を利用した形跡もなく、25日には南千歳駅の北に位置する東千歳駐屯地の森林地帯で一斉捜索、またヘリを動員して千歳市、千歳川、支笏湖方面での上空捜索を行ったが成果はなかった。

下は当時の千歳駅周辺の地図で、「+」マークが概ね千葉さん宅の位置を示している。画像左上の広い緑地が自転車の停めてあった雑木林とみられる。南北に千歳川が流れる。

1974-79千歳駅周辺〔地理院地図〕

弓枝さんは身長142センチでやせ型の体格、顔は面長で長髪だった。保健統計では、1975年の中学1年生女子(12歳)の平均身長は149.6cm(11歳児-144.2cm、13歳児-153.2cm)だったので、彼女は平均よりやや小柄である。

当日は、白の半そでブラウス(襟と首元に赤色のライン)、水色のジーパン、白い運動靴を着用。おとなしい性格で社交的ではなかったとされ、普段は一人か近所の年下の子たちと遊ぶことが多かったという。

春から通っていた富丘中学校は、昭和50年に青葉中学校から分離してできた新設校で、職員28名、児童数585名、14学級。事件の4日前に校歌が披露されたばかりであった。

公開捜査に切り替わり、父・富雄さんは、家出など思い当たる節はないと話し、今まで一度も家を空けたことがなく、それだけに不安が募るとこぼした。「一日も早く無事な姿を見たいだけ」とやつれた表情で記者団に語ったという。

母親については、祖母が「(弓枝さんの)物心がつく前に亡くなった」と言い聞かせて育ててきたという。

また富雄さんには当時再婚話が出ており、8月に弓枝さんが「新しいお母さん(継母)なんて嫌だ」と漏らしたことがあったと振り返っている。だがそれ以上に具体的な話はなく、富雄さんは「気になるような雰囲気ではなかった」と見ている。

やつれた様子の父・富雄さん

弓枝さん本人かは不確定ながら、いくつかの情報が伝えられている。

21日午後1時半ごろ、弓枝さんの自転車発見場所で、ブルーの乗用車(「ライトバン」とも)から降りた50歳前後の男と赤い帽子をかぶった中学生らしい女の子が話しているのが目撃されていた。

目撃したのは車で通りがかった学校の先生で、所属や年齢などは不明。髪は肩にかかるほどの長さで弓枝さんと同程度に思われたが、父親の話ではそうした帽子は持っていなかったとされる。

市内108つの町内会で全世帯に回覧を依頼し、弓枝さんに関すること、不審者や不審車両の目撃、そしてこの「赤い帽子の女の子」に該当する女子がいないか情報提供を求めた。続報は聞かれておらず、赤い帽子の子が特定されたのか否かはっきりしない。

現場周辺約260戸およびタクシーなどの聞き込みの中で、春から現場付近の末広、高台地区で挙動不審の若い男が徘徊していたとの噂が聞かれた。また自転車発見現場そばの住民の庭先から、2週間前の15日(日)に松の幼木2本が盗まれ、車で持ち去られたらしいとの報告も挙がった。

若い男と松の幼木とはあまり結びつかない気もするが、人口が急増していた集住地域だけに不審者や窃盗犯も頻繁に徘徊していたのだろうか。

市内の会社員Aさん(40歳)は午後1時5分頃、自転車のあった雑木林脇の道に出ようとしたところ、線路寄りの通りから「スプリンター」か「カローラ」と思われる白い乗用車が右折してきて自転車の前で止まるのを見ていた。運転していた30歳過ぎの小太りで作業服姿の男が車を降り、雑木林の中に居た少女と言葉を交わしていたという。少女は白っぽい服でブルーのズボン姿で、弓枝さんの当日の服装とよく似ていた。

Aさんはその後30分の間に2度同じ場所を通ったが、そのときは自転車しか見掛けなかったという。道警では、自転車や服装の一致などから弓枝さん本人と有力視し、最後に接触したとみられる「白い車の男」の行方を追った。

千葉さんの自宅と見つかった自転車

失踪から1か月後の地方紙では、捜査員100名体制で捜査を続けているが難航中と報じられている。周辺での聞き込み、青色と白色の不審車両の特定作業のほか、近郊の変質者や性犯罪前歴者の洗い出しといった捜査状況が伝えられた。

また父・富雄さんは過労と心労がたたり腸閉塞を起こして入院中であることや、「簡単に他人についていくような子ではないと思うが」と誘拐を危惧する言葉を伝えている。

さらに記事は、8月に千葉さん宅から500mほど離れたTさん宅に謎の女が訪ねてきたと報じている。女は35、36歳と見え、「中学生ぐらいの女の子と2人暮らしの千葉さんという人を知らないか」と聞いたという。

離婚した元妻や再婚が期待された相手のようにも思えるが、富雄さんにその女の心当たりは全くないと言い、女の素性は特定できていないと記事は伝えている。

2か月後、別の地元紙では、富丘中学校で行われた犯罪被害アンケート調査について報じている。調査は全校生徒に対して行われ、「何らかの被害を受けたことがある」と回答した生徒は177人(男子79人・女子98人)で、全体の31%にも上った。

男子は「脅された」「殴られた」など暴力関連が82%、女子は「手を握られた」「体を触られた」などわいせつ関連が50%を占めていた。とくに女生徒に対する加害者は「大人」が59%に上った。場所は、「学校」27件、「路上」51件、「近所」12件、「デパートやマーケットなど」が12件だった。被害児童の多くは、友人(40%)や親(30%)、学校の先生(8%)ら周りの人に相談していたが、「だれにも届けなかった」との回答も17%に上った

 

19年目の発見

1994年7月28日の夕方、千歳市中央の国道337号から東に約850m入った民有林で、人間の頭蓋骨の一部が発見される。

バイパス工事に向けて伐採作業をしていた胆振(いぶり)管内早来(はやきた)町(現・安平町)の造材業者男性(67歳)が、一部が土に埋まっている骨を見つけ、警察に知らせた。

千歳署ではほかの骨や衣服などがないか、付近一帯約1kmにわたって捜索を続け、「新たに人骨の一部を発見」したことが報じられているが、具体的な部位や量は不明である。

発見現場付近の捜索

調査した北海道大学医学部は、8月1日までに、頭蓋骨は下あごの部分がなく、死後5-25年経過しており、20歳以下の女性と推定される古い骨で、骨折などの外傷は見られないことを報告した。

その後、警察庁科学警察研究所の鑑定により、死後10年以上の経過、「親知らず」が生えかかるなど歯の状況から12歳前後、写真と頭蓋骨の骨格を照合する復元法(スーパーインポーズ法)によって、千葉弓枝さんと同一との結論が出された。

しかし娘の無事をだれよりも願っていた父親の富雄さんは、事件から数年後に千歳市を離れ、89年4月、兵庫県明石市で交通事故で死亡していた。千歳署では弓枝さんの遺骨について引き取り人となる親族を捜す、として事件の終結を伝えている。

殺人罪の公訴時効は1990年に完了しており、遺体発見後に誘拐殺人事件として再捜査が行われることはなかった。

 

所感

失踪の状況だけで判断すれば、第一発見者にして唯一の同居人である父親が容疑者となりそうなところだが、本件の報道では全くそうした論調が見られない。おそらく大工という職業柄もあって、現場の同僚らによる確固たるアリバイが成立したことから早々にリストから除外されたと考えられる。

また遺体の発見現場から逆算すれば、移動手段に自動車かバイクが使用されたと考えられるが、富雄さんが所有していたかどうかは紙面から確認できない。通報に目立った遅れもなく、弓枝さんが再婚に不安を覗かせていたことなど、自分に不利な印象となることまで証言していることからも、容疑者とは考えにくい。

9月24日の朝日新聞東京版は、弓枝さんが「スズムシを採りに行こう」と友人を誘ったと報じている。しかし北海道にスズムシは自生しておらず、存在するとしても移入してきたものとされる。単なる誤報だったのか、それとも少女は探求心の赴くままに、いないはずの秋の虫を探して雑木林へ向かったのだろうか。

 

本件で注目される怪電話について、筆者は、第三者による悪質ないたずらではないかと見ている。

どうして男は市役所に電話を掛けたのか。新聞報道では、千葉家の電話の有無について明確な情報を伝えていない。

昭和50年当時、テレビの世帯普及率は90%に上り、「一家に一台」が当たり前の時代であったが、家庭用電話機はそこまで普及してはいなかった。昭和40年代に「驚異的に普及」したが(「通信白書」)、それでも49年度末時点で100世帯当たり62.9台に留まっていた。

山村や漁村など遠隔地で物理的に送電網が行き渡らないエリアが多かったほか、出入りの多い集合住宅などでは共用電話で賄われるなど今日とは通信事情が異なっていた。また、かつて慶弔などの火急な用事を報せるには、電報が普及しており、ピークの昭和38年に比べればおよそ半減していたものの、49年度で4628万通の利用があった。

千葉家は駅から徒歩圏内にあり、必要な連絡は公衆電話で間に合ったとも考えられ、「自宅に電話がなかった」としてもそれほど奇妙なことではない。

しかし、市役所に電話を掛けるというのは、犯人の仕草としてやはりおかしい。児童を攫ったのならば、第一に自宅、それが駄目なら学校に電話を掛けるというのが道理ではないか。電話の主は、誘拐犯が真っ先に聞くはずの少女の名前も、どこの学校の所属かも「知らなかった」と見るのが妥当に思える。

この電話は金銭目的ではなく、直前にあった工事のクレームや無言電話を掛けた人物と同じく、市役所に対する不満の当てつけ、威力業務妨害のために少女誘拐を騙ったものと想像される。男が怪電話に及んだ動機は不明だが、長引く工事に不満を募らせる近隣住民を思わせる(そう考えると、無言電話、身代金電話の方が偽装工作であるかのように思える)。警察としては、逮捕に足る証拠はないまでも、電話の主の見当がついたのではないだろうか。

 

自宅から頭蓋骨の見つかった現場まで約10km。中学生なら徒歩で行けない距離ではないが、直前まで虫捕りに出掛け、その世話を父親に託して家出したと考えるのは難しい。いかに昆虫採集家であれ、あえて自転車を近所に残して遠方へ出向くのは不合理である。

死因も被害状況も全く見えないが、事件性だけは読み取れるという非常に厄介な事件だ。さらに19年という時間の経過があらゆる証拠を消し去っている。

捜査状況を聞く道警本部長

目撃のあった2台の車について不可解なのは、「白い車」が午後1時5分ごろ、「青い車」が午後1時半ごろと、立て続けに目撃されている点である。似たような、それでいて明確に異なる声掛け事案が30分程の間をおいて起きていたというのはどうしても不自然に感じてしまう。虚偽証言とは言わないが、日時や場所の事実誤認、不作為な記憶の歪みが含まれているように思えてならない。

両方とも誤りだった可能性もあるが、とくに「赤い帽子の女の子」の目撃には疑念が浮かぶ。フェンダーミラー(ボンネットの前方脇に付属するバックミラー)越しに見たという点でも精確性が薄いうえ、目撃者は「学校の先生」である。連日捜索状況を気に揉む立場だったことが想像され、それが不作為な記憶の歪みにつながったとも懸念される。

 

成人男性に比べれば腕力に劣れど、相手に警戒感を抱かせない「女性」による連れ去りについても検討してみよう。

なかでも北海道新聞が伝えた「ナゾの女性」の存在は興味を引く。「35、36歳」とみられる年齢層から、富雄さんの再婚希望者や離婚した元妻(弓枝さんの母親)ではないかといった想像力がはたらく。新聞に二人に関する情報は出ていないが、富雄さん本人は心当たりがないとしており、何かしら合致しない特徴があったのかもしれない。

筆者の推測としては、「中学生くらいの子と暮らす千葉さんを捜していた女性」は存在しないのではないかと考えている。というのも、訪問があったというTさん宅は千葉さん宅から500m離れており、周辺は住宅街で、同年代の子どもも多かった。8月から千葉さん宅を探し回っていたとすれば他にも多くの情報提供があるはずなのだ。

想像にはなるが、たとえば「8月に人探しに訪ねてきた女性があった。もしかすると千葉さん宅を探していたのかも」といった情報提供が、紆余曲折あってナゾの女の記事にすり替わっていったのかも分からない。

また富雄さんは娘が「継母になるのは嫌だな」とつぶやいたことを記憶してはいたが、再婚の障害になるほど心配してはいなかった。弓枝さんと再婚希望者に面識があったのか否かは不明である。だがたとえ富雄さんから女性に娘の不安を伝えていたとしても、常識的には「三人で会ってみて、仲良くなれそうか様子を見てみよう」というのが順序であろう。

離婚理由などは伝えられていないため、10年経っても元妻が富雄さんを恨みに思っていた可能性は排除できない。想像力をたくましくすれば、富雄さんが母親から娘を奪ったように思われるかもしれないが、実際の夫婦間のことは分からない。

しかし実の母親といえど、わずか1歳ほどで生き別れた、10年以上面識がない娘を認識するためには、自宅への張り込みなど周到な準備が必要となる。離婚してから千葉家に転居があったのかなどは不明だが、元夫に恨みを晴らすではなく、あえて成長した娘の命を奪うほどの強烈な残虐性があったとまではどうも思えない。

両人とも警察から参考人としてそれなりに詳しい調べを受けていると考えられ、アリバイや生活状況などにより容疑者から除外されたと判断してよいのではないか。また全くの第三者の女性が、少女を殺害または山中に遺棄したという状況も動機の面で考えづらいと言えよう。

 

さて、年齢の近い中高生ら少年(14‐19歳)による犯行の線もない訳ではない。

発見現場は自宅から約10km、歩きにしては遠いが、車やバイクであれば20分とかからない。山地や湖沼、川や海といった遠隔地などではなく、人目に付きづらいとはいえ平野部の雑木林だった。計画的な犯行であれば、広大な北海道のこと、もっと離れた場所に遺棄してもよさそうに思える。

厳密な死亡時期までは割り出せていないが、少なくとも骨格や歯の発育状態は12歳程度を示していた。つまり少女は別の場所で生活していて、しばらく経ってから死亡した訳ではなかった。

犯人が千歳市内の人間か否かは分からないが、おそらく連れ去りからごく短期間のうちに、「手っ取り早く」遺棄された可能性が高い。だとすると、性的犯罪の被害に遭い、口止めのために殺害されたという見立てが有力ではないか。

たとえば、昭和50年度の強姦での検挙総数4052人のうち、少年(14~19歳)は1330人、32.8%と非常に高い割合を占めている(「警察白書」)。それほど年も離れていない少年から「もっと虫が採れるところを知っている」などと言われて警戒感が薄れ、拉致される場面も想像される。

しかし殺人事件となると、検挙総数2179件中、少年は94人で4.3%、と非常にレアケースとなる。強姦犯の比率は20代後半がピークと言われ、性犯罪の中でも構成年齢が若い。かなり強引な言い方をすれば、「少年の強姦は少なくないが、殺しまではしない」ということもできる。

念のために記しておくと、少年犯罪の多くは、窃盗、バイクや自転車などの横領が過半数を占め、アンケートにもあったように恐喝や傷害など軽微な犯罪が大半を占める。少年犯の可能性を除外することはできないが、傾向としては、車を使った成人男性による蓋然性が高いと考えられる。

 

類似性の高い事例が、1961年に千歳駅の南側でも起きていた。北栄小学校4年生の女児(10歳)が千歳市幸町の自宅を出たきり消息不明となった。翌日、自宅から500m程離れた雑木林で遺体が発見され、性的暴行の痕跡があり、死因は首を絞められたことによる窒息死と判明した。犯人由来とみられるB型の体液、万年筆や弁当箱といった遺留品が見つかっていたが、こちらも犯人特定には至らなかった。

性犯罪は常習性が強いとされ、刑務所では今日のような行動療法に基づく改善プログラムさえ存在していなかった。14年という年月を隔ててはいるが、たとえばその間も別のいくつかの余罪で拘留されていたことなども考えられ、証拠はないが同一犯の可能性も拭えない。

今日的な事件観察では、北関東幼女連続殺人や埼玉・東京幼女連続殺人(宮崎勤元死刑囚)、奈良小1女児殺人(小林薫元死刑囚)といったネームバリューに意識が向きがちではあるが、幼女や年端のいかない少女らを狙う性犯罪者は昔から存在していたことには留意しておく必要がある。

 

本件でどうにも引っかかる点として、施錠されたまま見つかった自転車の存在がある。

10歳児の証言ながら(一緒に遊ぶ機会もあったであろう)隣家の少年が、自宅方面へ小走りに向かう弓枝さんを見間違えたとは思えない。なぜ彼女は自転車を残して自宅に駆け戻ったのか。そう離れていないとはいえ、自転車で訪れたのならば自転車に乗って帰るのが普通である。つまり、この時点でそうしない理由があったと深読みすることができる。

帰宅理由として「12時半ごろ」という時間帯から、昼ごはんを食べに戻ったことが思い浮かぶ。しかし昼食をとった形跡について情報はどこにも見当たらない。

おそらく虫かごを携えて帰宅した可能性は高い。しかし、なぜ再び、今度は虫かごを持たずに出掛けたのか。おそらく彼女は置いてきた自転車を取りに戻ったのである。

自転車は施錠された状態で見つかったが、彼女がカギを掛けたか否かは明らかではない。もうひとつ考えられる帰宅理由として、自転車のカギを開けるか壊すかするための道具を取りに戻ったことが考えられる。

 

たとえばこうした状況が思い浮かぶ。

虫捕りも一段落して昼食のために帰ろうとした少女は、自転車が施錠されていることに気づいた。彼女自身が閉めていてカギを紛失してしまったのか、あるいはどこかの悪ガキのいたずらか、悪意ある何者かがいやがらせに抜き取ったのかは分からない。とにかく自力では解錠できそうもなく、小走りに自宅へ戻った。

幸いにして父親は大工で、一般家庭に比べて使い古しの工具も多くあった。カギの形状は分からない。少女は虫かごを置いて、おそらく昼食も取らず、マイナスドライバーか、あるいはノミのようなものをひとつふたつ持ち出して自転車の場所に戻ってきた。

解錠しようとしていると、ほどなく一台の車が停まり、運転手が声を掛けた。

「なぁんだ、そういうことならおいちゃんの所にもいい道具があるから来てごらんよ」

当初は男もパンクか何かと思い、人助けのつもりで偶々声を掛けただけかもしれない。それとも以前から徘徊して犯行機会を窺っていた性的捕食者だったのか。人見知りな少女も「渡りに船」と思い、警戒心が緩んで知らない男の車に乗ってしまった。

やがて犯意を催した男はハンドルを町はずれへと切り、ひと気のない森林地帯へとアクセルを踏んだ……

 

昭和40年代にモータリゼーションが大きく進み、1975年(昭和50年)当時の自動車普及台数は乗用車・軽自動車併せておよそ3000万台だった。そうした人々の移動手段や行動範囲の変化は当時の犯罪捜査にも大きく影響したことであろう。

気の毒なのは我が子との再会を待たずに亡くなった父親である。せめて空の上で仲睦まじく過ごせていることを願ってやまない。

快楽殺人者テッド・バンディ

通称「レディ・キラー」、日本語で言う「女たらし(すけこまし)」の異名で知られるテッド・バンディは、しばしば北米史上最悪の連続殺人犯に挙げられる。三度の死刑判決を受け、30件の犯行を自白したが、遺体の未発見や証拠不充分により彼の死後もその全容は明らかになっていない。

うら若い女性たちの尊厳を踏みにじる残虐性は元より、脱獄して再起を図る執着心、法廷やカメラの前で自己弁護する知性と雄弁さを備え、犯行と並行して政治家の卵としてのキャリアを築きつつあった二重生活などそのパーソナリティーにも世間の注目が集まった。

多くのシリアルキラーたちがなぜ異常犯罪に走ったのか、裁かれる理由さえまともに把握できないなか、テッド・バンディは自分が今どんな罪を犯しているかを完全に理解し、どうすれば逃げおおせることができるのかを常に計算していた。世界を震え上がらせた現代的サイコキラーの典型にして、今なお伝説的に語り継がれる元死刑囚の実像に迫りたい。

 

その肖像

ベビー・ブーム真っ盛りの1946年11月24日、のちのテッド・バンディこと、セオドア(テッド)・ロバート・コーウェルは、当時22歳のルイーズ・コーウェルの長男として世に生を受けた。母ルイーズはペンシルベニア州フィラデルフィア出身で、テッドも乳幼児期を同地で過ごしている。だがその出生地はバーモント州バーリントンにある未婚女性向け産児施設「エリザベス・ランド・ホーム」であった。

赤ん坊の父親について出生届に記された名はでたらめで、ルイーズは「船乗り」あるいは「休暇中の米兵」と語ったこともあったが、今日まで生物学上の正式な父親は確認が取れていない。妊娠当時、不特定多数の相手と関係があったためなのか、相手が身分を偽ったためかは定かでない。ルイーズの妊娠期に妹はボーイフレンドの「ジャック」を紹介されたことがあった。彼は「感じがよく評判も良かった」が養育費の支払いを拒否してほどなく離れていったという。

父親不明のテッドは、母方の祖父母の元で育てられ、二人を「パパ」「ママ」と呼び、産みの母親ルイーズの「弟」として育てられた。この複雑な家族関係は、厳格なメソジスト派の信者だった祖父母が、社会的名誉や世間体を気にして「未婚の母」「私生児」のレッテルを嫌ったためと考えられている。

執行前のテッド・バンディを担当し、幾度となく面談を重ねた精神科医ドロシー・オトナウ・ルイスは、祖父サミュエル(サム)・コーウェルが彼の躁鬱症に深く関連するとの見解を示している。サムは「極めて暴力的で恐ろしい人物」と評され、極端な人種差別主義者で、犬猫を平然と虐待し、機嫌を損ねる相手に対して容赦なく手を挙げた、とのバンディの証言を記録している。その一方で、幼少期には家庭内で強権的に振舞うサムに対して畏敬の念や愛着を抱いたともいう。祖母エレノア(1971年死没)は臆病で従順な女性で、晩年はうつ病を患い、外出恐怖症に苛まれていたとされる。

またルイス医師は後年の審問で、ルイーズの妹の証言として、寝坊した際、サムに階段から突き落とされて骨折したことや、15歳の頃、昼寝から目覚めると周囲に包丁が散乱しており、ベッドの傍には当時3歳のテッドが微笑んでいたというエピソードを報告している。家庭内のことで事実確認しようもないが、乳幼児期のテッドを取り囲む家庭環境は虐待疑惑を容易に想起させる。

後年、テッド・バンディ研究が進むと、その加虐性がサムから色濃く受け継がれたとの見立てから、「サムとルイーズの間にできた子だったのではないか」という近親相姦疑惑が真剣に議論された。生育環境だけではなく、遺伝的要因もサムの強い影響下にあったのではないか、と。多くの凶悪犯罪者を調査してきたFBIのプロファイラー、ジム・クレメンテは、「遺伝子は銃に弾を込め、性格と心理がその照準を定め、個人の経験が引き金を引かせる」という比喩を用いて凶悪犯の成り立ちを説明している。

しかし2020年、バンディが恋人に送った手紙の切手から採取された唾液を用いたDNA型鑑定が行われ、サムとの父子関係を示す遺伝的指標が存在しないことが確認されている。

祖父サミュエル・コーウェルは1983年に亡くなるが、近年の調査では、「アルコール中毒者で暴力的」といった従来の評価に疑問符が投げかけられている。住民の中には「立派な男」と記憶している者もおり、「一緒に過ごしたのは限られた時間ではあったが、よい思い出ばかり」と振り返る親戚の声も聞かれている。

無論、彼らがサムのよい一面しか捉えていなかったとも考えられる。だが事件記者やノンフィクション作家らの仕事はバンディの成育歴や人間関係を調査し、冷血な「サイコキラー」の源泉に迫ることである。連続強姦殺人で捕まった彼に強い拒否反応を示す人々への取材やセンセーショナルな発言を基にしながら、「祖父」を都合のよいキャラクターへと肉付けしていった偏向の可能性も小さくはないだろう。

 

1950年、周囲の勧めもあってルイーズは4歳になった息子を連れてフィラデルフィアの実家を離れ、西へ4000km以上離れたワシントン州タコマへと移住する。しばらくは親戚を頼り、息子の姓をネルソンに変えて新たな生活を始めた。翌年には教会のサークル活動などを介して軍の病院に勤める調理師ジョン・バンディと出会い、二人はほどなく結婚。テッド・ネルソンはジョニーの法的な養子として迎えられ、テッド・バンディとなった。

テッドはルイーズが「姉」ではなく「母親」だと早い段階で理解したという。やがて夫婦は四児に恵まれ、家族の中心は下の子たちへと移っていく。テッドには吃音症があり、学校ではいじめの標的とされ、内向的な性格を強めた。家族づきあいのあった人々によれば、物静かな少年だったが突如として怒りを顕わにすることもあって時折驚かされたという。

彼の友人らによると、少年時代のテッドは貧しい家庭環境を憂い、両親への恨み言をよく口にしていたという。また時期は定かでないが、テッドは自身の出生証明書を目にする機会があり、ジョンの実子でないことを知っていたとされる。彼がジョンを実の父親だと信じ、「普通の家族」でいられた期間は幼少期のごく短期間だけだった。

少年期のエピソードとして、猫に火を点ける虐待、落とし穴に罠を仕掛けて女児をケガさせた、年下の子どもたちを森に集めて脅し、服を脱がせたといった話が伝わっているが、これもまた事件を受けて後にバンディを毛嫌いする近隣住民や、極悪人に仕立てようとする記者らの作為が含まれていないとは言いきれない。

思春期になると少年は人付き合いからますます遠ざかった。家に居場所がなかったためか、深夜の徘徊と飲酒、「覗き」が密かな習慣となり、女性の部屋を観察しながら自慰に耽った。ときに車に細工を施して住民を困らせ、慌てふためく姿を眺めて悦に浸ることもあったという。

(バンディは獄中での作家との手紙のやりとりの中で、「友情の意味が分からず仲間を必要としなかった。周囲からは孤立しているように見えたかもしれないが、孤独ではなかった」と言い、性暴力や犯罪に関する雑誌に夢中になっていたと語っている。)

(処刑の数時間前に行われた最期のインタビューで、バンディは少年時代に偶然目にしたポルノ雑誌に心奪われ、それがエスカレートして暴力性の源泉につながったと振り返る。ハードコアポルノやスラッシャー映画に触れる危険のある子どもたち、あらゆる男性には道を踏み外して「テッド・バンディになるおそれがある」と警鐘を鳴らした。)

ウッドロー・ウィルソン高校3年時のバンディ

高校に入るといじめも落ち着き、「内気」な生徒として人並みに扱われるようになった。基本的に外出することはまれだったが、背徳感に興奮を覚えて万引きの常習者となり幾度か補導されたこともあった。唯一、ダウンヒルスキーには熱中した時期もあったが、用具は盗品、リフト券も本物は買えず偽造品でしのいでいた。

不安を内に抱えた青年へと成長したテッドだったが学業には優れ、65年にタコマの大学へ進学。翌年、ワシントン大学に編入し、中国語を学んだ。家庭からの自立心が彼を変貌させたのか、身なりを整え、人付き合いにも積極的になると、周囲には人当たりのよい好青年とみなされていった。

1967年、大学3年生となったバンディは「生涯で唯一本気で愛した女性」と語るダイアン・マージョリー・ジーン・エドワーズと知り合い、およそ1年半の恋愛関係に至る。しかし勉学には身が入らなくなり、翌年には大学を中退。低賃金の職を転々としながら、共産党ネルソン・ロックフェラーの選挙事務所でボランティアを始めると、政界への進出を夢見た。

かたや大学を卒業した恋人のエドワーズはワシントンを離れ、就職のためサンフランシスコへ移住。バンディが会いに訪れても、口先ばかりで実のない大言壮語に呆れ、人生設計の未熟さを真っ向非難し、関係解消を求めた。失意に打ちひしがれたバンディはコロラドへ行き、その後、アーカンソー州やフィラデルフィアの親戚の元を訪れている。一時テンプル大学に在籍した折にはニューヨークに足繁く通い、心の傷を癒すためにポルノ文学に没頭したとされる。

(バンディは交際中も育ちのよいエドワーズに負い目を感じており、「向上心のなさ」や「打たれ弱さ」といった内面的なもろさをしばしば非難されていた。76年、心理学者から交際当時のバンディについて尋ねられたエドワーズは、「彼は強くなかった。男らしくなかった。彼が何かをして私が怒ると、彼は申し訳なさそうにしていました。彼は自己弁護をしなかったんです」と述べている。)

(後年、バンディ本人は「高嶺の花」だったエドワーズとの交際、そして失恋によって「強い刺激を受け、自分を見直すきっかけと向上心を与えてくれた」と肯定的に振り返っている。ノンフィクション作家アン・ルールは、冴えないフリーター風情が世紀の凶悪犯へと転身する契機として、失恋後のモラトリアム期間に、自分の内面を見つめ直そうと考え、実の父親に会いに行ったのではないかと見立てているが事実関係ははっきりしない。)

 

バンディと女たち

1969年の秋、ワシントンへ戻ったバンディは、その後、足掛け7年にわたって親密な関係が続く女性と巡り合っている。ワシントン大学医学部で秘書を務めていたシングルマザー、エリザベス(リズ)・クロエプファーである。

リズ・クロエプファーはユタ州で裕福な医師の家に育った。内向的な性格だった彼女は大学で社交的に振舞う術として飲酒を覚え、やがて一学年下のパーティー好きな青年と結ばれた。妊娠して学生結婚したが、未熟な若者同士の夫婦関係はすぐに破綻を迎えた。彼女は大学を卒業後、実家を離れて自立しようとワシントンでの新生活を始めたばかりで同僚以外に知人がいなかった。

同僚とシアトルのバーを訪れたクロエプファーは、一人客の若い男と意気投合した。洒落た装いで知的な雰囲気をまといつつ、表情豊かで口を開けばおしゃべり上手。その法学生は彼女をダンスに誘い、一晩中笑わせてくれた。クロエプファーは羽目を外し過ぎて車が運転できなくなるほどに酔っ払っていた。男は彼女を家まで送り届けたが唇を求めるそぶりさえなく、翌朝は朝食の支度までしてくれた。再婚を焦るつもりはなかったが、3歳の娘モリーを可愛がる彼の様子を見て「完全に恋に落ちていた」とクロエプファーは振り返っている。

ワシントン大学では反戦運動が真っ盛りで、併せてウーマンリブの立場から多くの女子学生らもデモや暴動に参加していた。女性たちが雇用や家庭、性生活といったあらゆる面で男性と同等の自由を求めた「性革命」の時代であり、彼女たちには旧来の従属的な規範から外れたあらゆる選択肢が拓かれていた。稼ぎはないが家事や育児をしてよく笑わせてくれるバンディはクロエプファー母娘の新たな人生に向けて「理想のパートナー」に映った。

翌週には三人で旅行に出掛け、半年と経たず互いの故郷を訪れ、両親とも顔合わせをしている。しかし男は「やり遂げなくてはならないことがたくさんある」と言って結婚を急がないように思いとどまらせていた。

翌年、テッド・バンディは新たな目標意識を持って再びワシントン大学に入学し、心理学を専攻する。教授陣にも目を掛けられる優等生ぶりで周囲からの羨望を集めた。だがその学資や生活費の多くは恋人のクロエプファーが負担しており、彼女はしばしば男が金銭目的で自分や家族に寄生しているのではないかという不安に苦しめられた。

(逮捕後、バンディは「彼女の愛情の大きさが負担だった」と語り、彼女の読書趣味や政治信条、モルモン教徒である彼女の家とも相いれないものを感じたと吐露している。)

1970年、休暇中の三人

後にノンフィクション作家となるアン・ルールは、この時期、自殺予防ホットラインのボランティアの同僚としてテッド・バンディと交流を持った。電話口で親身になって相手の相談に応じるハンサムな青年の声は「思いやりに満ちていた」と振り返る。皮肉にもこのときの彼は何度となく「人の命の危機を救う側」にあったのである。

活動が深夜に及ぶと、彼は車でルールを家まで送り届け、別れ際には「何か起こるといけないから、しっかり戸締りをするようにね」と注意を促す誠実ぶりだった。後に事件を知ったアン・ルールは、「まさか西海岸で最も危険な男と、何度も車で二人きりで過ごしていたなんて…」と驚愕することとなる。

後にロースクールで下宿生活を共にした学友ダン・ラザレスも、若き日のバンディについて「美男子で聡明、話し上手で知的、控えめでありながら傲慢で、人の心を惹きつけるカリスマ性があった」「彼のようになりたかった(憧れていた)」と率直な思いを語っている。

72年にバンディはワシントン大学を卒業後、ダニエル・J・エバンス知事、共和党ロス・デイビスの元で働き、その手腕を評価されてUPSロースクールへの推薦状を手にした。73年夏に共和党の仕事でカルフォルニアを訪れたバンディは、最愛の女性ダイアン・エドワーズと再び親交を深めた。彼女はかつて未熟に感じたバンディの変貌や成熟ぶりに驚かされ、法律家、政治家としてキャリアを築きつつあることを大いに喜んだ。彼女もその後シアトルを何度か訪れ、テッドの「婚約者」としてデイビス知事らに紹介された。

しかし1974年1月、バンディは突然エドワーズとの連絡を一切絶った。電話や手紙はなしのつぶて、ようやく一か月後に電話に応じたバンディは、なぜ説明もなく一方的に関係を終わらせようとしているのかと詰問するエドワーズに「君が何を言っているのか全く分からないよ」と抑揚のない声でしらを切った。

後にバンディは、「彼女と結婚できることを自らに証明したかっただけだ」と当時の心境を振り返っており、エドワーズも“再会”以来のバンディの急速なアプローチは学生時代にフラれた元恋人への執拗な意趣返しだったと受け止めた。かたやバンディとクロエプファーとの関係は依然続いており、彼女はしばしば男の異性交遊に不信感を抱いてはいたがダイアン・エドワーズを直接知る機会はなかったという(75年に警察の事情聴取で初めてその名を聞かされた)。

本物の家族のように見えるリズ、モリー、テッド

リズ・クロエプファーはバンディの刑確定後、81年に回顧録『幻の王子—テッド・バンディと私の人生』を発表。近年、Amazonのドキュメンタリー番組への出演やネットフリックス映画の原案に採用されたことから増補して再版された。新たに追加された娘モリーの章では、「父親代わり」と思って慕っていたバンディに7歳頃から殴打や危険な遊びに晒され、露出や過剰な接触といった性被害を受けていたと綴られている。

テッド・バンディの大きな特徴として、犯罪者に多い「持たざる者」の類型には該当せず「多くのメリットを有する者」の側だったことが挙げられる。複雑ながらも親・家族がおり、幼少期はいじめの標的とされながらも人並み以上の美貌に育ち、勉学や雄弁さで教授や学友らからも一目置かれていたと言ってよく、社会的地位のある人々の信望も厚く今まさに活躍の場を広げようとしているかに見えた。かりそめとは言え、擬似的な家族関係を築くことも彼には容易いことだったのかもしれない。

 

犯行とプロファイリングについて

最終的にテッド・バンディは死刑執行の数日前になって30人以上の殺害を自供する。しかしそのうち身元が特定されたのは20名に留まり、大半は遺体の未発見や被害者が特定不能、あるいは遺骨が見つかっても証拠不充分とされ、罪に問われてもいない。

殺人がいつ開始されたのかについても諸説定まっておらず、以下で紹介する被害者や行方不明者もすべてが彼の犯行だと確証が得られている訳ではない。一般人には理解しがたいところだが、死刑が見込まれる凶悪犯たちは捜査のかく乱を目論んだり、自らの虚栄心を満たしたりするために、やってもいない殺人について虚偽の自白を行うことがある。つまりバンディの最終自白もはたしてどこまでが真実かの線引きは、客観的証拠をもって立証するよりほかないのである。

ダイアン・エドワーズ

事件が繰り返されていた渦中にも、被害者たちの特徴として「真ん中分けの長い黒髪の白人女性」という共通項が指摘され、犯人の「好みのタイプ」だと捉えられていた。捜査官や犯罪心理の専門家、ノンフィクション作家らは、「学生時代に彼を拒絶したガールフレンド、ダイアン・エドワーズを投影して標的を選んでいる」、バンディが意図していないにしても彼女に対する「潜在意識としてのコンプレックス」が反映されており、犯行はエドワーズに対する代理報復感情に起因すると主張した。

(2000年代初頭のソウル20人連続殺人で知られるユ・ヨンチョルは、富裕層の家を襲撃する強盗殺人から途中で手口を切り替えた。マッサージ師やホテトル嬢を部屋に呼び出して犯行に及べば通報や発覚のリスクが低いと考えたためだ、とユ本人は説明したが、彼を捨てた元妻もマッサージ師だったことから代理報復の一種と捉えられている。)

こうした連続犯の場合、犯行の手口や被害者の特徴から動機や人物像を「解読する」ことが、テレビや映画における犯罪プロファイリングの「お決まり」となっている。俗に言う「刑事の勘」に比べれば、説得力がありそうな捜査手法だが、この仮説を聞かされた当のバンディは、女子大生を狙ったのは確かだが、「若くて魅力的だったからに過ぎない」として、その理論を嘲笑した。

事実、彼の手にかかればエドワーズ本人を襲撃する機会はいくらでもあったし、外見的特徴が当てはまらない被害者も複数いた。見知らぬ女性たちへのアプローチを繰り返す中で、拒絶されたり逃げられたりしたことも一度や二度ではない。そして多くは大学生や成人年代であったが、年端のいかない少女さえ2人含まれている。

バンディの犯行は「女性に対する異常な執着」ではあるものの一人の女性をつけ回すストーカー趣味は薄く、様々な土地で「レディ・キラー」となるナンパ師の傾向が強い。二十歳で味わったたった一人の相手に対する憧憬、劣情と執着がすべての犯行の源泉だとする見方はさすがにロマンチストすぎるかもしれない。客観的事実として言えることは、当時の北米では若い女性たちの間で中分けのロングヘアが流行していたというのが関の山であろう。

今日でもそうした「お決まり」のプロファイリングは、精度の高さゆえではなく「刑事の勘」より描きやすく見映えするため、あらゆるメディアで踏襲されている。犯罪心理学そのものを全否定したい訳ではなく、「真相」を求められるあまりマスコミや専門家たちは「犯人さえ知りえない事実」を描きがちな点は視聴者・読者各位にも注意が必要となる。犯人さえ意図していなかった「深層心理」といった「理由」をこじつけて「事件」を構築し、物語の空白を満たそうとするのはもはや作家の領分である。心理学者やプロファイラーの仕事は野次馬を納得させることではない。

 

■1974.01-07

先述の通りテッド・バンディは、1974年1月、ダイアン・エドワーズに対して一方的に距離を置いた。彼の中でこの時期に大きな変容が起きていたのか、それとももっと前から予兆や計画があったのか。いずれにしても時同じくして彼が拠点としたシアトル、その周辺地域では女学生らが立て続けに消息を絶つ不可解な事件が相次いだ。

被害者から犯人像が浮かび上がるのか

74年1月4日未明、シアトルの学生街に暮らすワシントン大学の学生カレン・スパークスのアパートに何者かが侵入し、激しい暴行を加えた。侵入者はベッドフレームの金属棒を用いてスパークスを殴打して昏倒させた後、同じ棒で性的暴行を加え、広範囲にわたる内臓損傷と膀胱破裂を引き起こした。数時間後、病院に搬送されたスパークスは一命を取り留めるも、恒久的な脳損傷と視力・聴力の著しい低下など甚大な後遺症が残った。

2月1日、ワシントン州立大学の学生リンダ・アン・ヒーリー(21歳)はこの日も朝から地元ラジオ局へスキーヤー向けの天候情報を収録しに出掛けるはずだった。しかし収録現場に彼女は姿を見せず、その日予定されていた家族との食事会の予定も無断欠席した。翌日の音楽の授業にも現れず、不審に思った同居人たちは彼女の部屋を検めた。ベッドは一見整えられていたが布団をめくってみるとマットレスまで大量の血に染まっていた。そして部屋にヒーリーの遺体こそなかったが、血塗れの寝間着が脱ぎ残されていた。

3月12日、シアトルからおよそ100km南西にあるエバーグリーン州立大学の学生ドナ・ゲイル・マンソン(19歳)の行方が分からなくなった。彼女はキャンパスで行われるジャズコンサートに行くと言って寮を出たが、構内でその姿は見られていなかった。当初は旅行に出掛けたものと誤解され、通報までに6日間を要したことで、その後の動線につながる情報が集まらなかった。

4月17日、シアトルから南東175km離れたセントラル・ワシントン州立大学に通うスーザン・エレイン・ランコート(18歳)が夕方、帰宅途中に行方が分からなくなった。彼女の身に何が起きたのかは判然としなかったが、2人の女子学生から14日と17日の夜にベージュ系のフォルクスワーゲン「ビートル」に乗った「腕を吊った男」が「本を運ぶのを手伝ってほしい」と声を掛けてきたとの情報提供があり、関連が疑われた。

5月6日、オレゴン州立大学の学生ロベルタ・キャスリーン・パークス(20歳)はコーバリスの寮を出て友人と会う約束をしていたが、約束の店に到着しないまま消息が途絶えた。シアトルから南におよそ420km離れたエリアである。

6月1日、シアトル・タコマ国際空港近くのビューリエンで22歳のブレンダ・キャロル・ボールが酒場を出た後、行方不明となった。最終目撃は駐車場で、腕を吊った茶髪の男と立ち話をしていたという。しかし彼女は冒険好きな性格だったため、人知れず旅行に出たとも考えられ、通報されたのは失踪から10日以上経ってからだった。

6月11日未明、ワシントン大学の学生ジョージアン・ホーキンスがボーイフレンドの寮から帰宅中に消息を絶った。試験前でスペイン語のノートを借りに行くと出ていったきり、深夜3時を過ぎても戻っていないことに寮の級友らが気づいた。ホーキンスは高校、大学在学中もオールA、ミスコンテストにも選ばれる才女で、ウォーターゲート事件に関心を持ち、ジャーナリストかニュースキャスターを志していた。学費に充てるため、17日から新たな仕事先も決まっていた。

毎月のように起こる女学生らの失踪に「連続殺人」の気配も色濃くなり、ルートとなる路地一帯を殺人課や鑑識課も総出で捜索したが、少女の遺留品や事件の痕跡は得られなかった。しかし、事件当夜、付近の路地裏で松葉杖を突き、ギブスをはめた男の目撃情報が複数寄せられ、薄茶色の「ビートル」までカバンを運ぶのを手伝ってもらえないかと頼まれた者もいた。

女学生らの相次ぐ失踪を受け、ワシントン州・オレゴン州のニュース番組で「茶色いビートルに乗る不審な男」への警戒が広く呼びかけられた。一方で、失踪現場周辺からは犯人につながる物的証拠が何も出ず、捜査は難航を極めていた。女性たちはどこへ連れ去られてしまったのか。

行方が分からなくなったのは若い白人女性で一様に美貌の持ち主ばかり。多くが栗色・長髪・中分けのヘアスタイルという特徴以外にも、失踪時の服装がスラックスやデニムパンツという共通点が見られた。彼女たちは平均女性よりも知的で、裕福な家柄に育ち、音楽やスポーツやダンスといった特技を備える者ばかりだった。また事件は大学の試験期間、そして奇妙にも大学構内の工事のタイミングとも重なっていた。それぞれの事情を洗っていくと、旅を好む以外でも、家族や恋人と喧嘩していた、ホームシックを口にしていた等、自発的失踪や自死の可能性を懸念せねばならないケースもあった。

この時期、テッド・バンディはシアトル犯罪防止諮問委員会の副委員長として働いており、女性たちに向けたレイプ被害予防のパンフレット作成などに追われていた。この時点では誰も知る由もないが、女性の犯罪被害を食い止めようとする旗振り役の立場であり、周囲の目を完全に逆手に取っていた。

また同時期、ワシントン州の政府機関である緊急サービス局(DES)で二度の離婚歴を持つ二児の母キャロル・アン・ブーンと懇意となっている。

事件で使用された愛車はアルカトラズ犯罪博物館に収蔵された

1974年7月14日、ワシントン州キング郡のサマミッシュ湖州立公園で、2人の若い女性が相次いで行方不明となった。夏の湖畔は連日イベントが催されており、キャンプや日光浴、ボート遊びを楽しむ若者たちのレジャースポットとして大いに賑わっていた。

昼下がり、タオルを広げて日光浴をしていた郡少年裁判所の保護観察官ジャニス・アン・オット(23歳)の元に、左腕を吊ったテニスシャツ姿の男が助けを求めた。

「車からカヌーを下ろせなくて困っているんだけど。駐車場はすぐ近くなんだ」

女性は二つ返事で男に従い、その場を後にしたが、いつまで経っても元の場所に戻ってこないことで周囲の人々は不審に思った。オットは前年結婚したばかりで、カルフォルニアの大学院に進んだ夫とは離れて暮らしていた。

19歳のデニス・マリー・ナスランドは恋人のケン・リトル、友人カップルのボブ、ナンシーと午後から遊びに訪れていたが、夕方近く、何も告げずにその場を離れると、そのまま消息を絶った。ナスランドは日中、事務員として働きながら、夜間学校でコンピュータプログラミングを学んでいた。

失踪当時、ケンとボブは軽食を取って昼寝をしていた。やがてひと気が少なくなるとボーイフレンドらは異変に気付き、空っぽのナスランドの車とビーチの間を右往左往した挙句、管理事務所に駆け込んだ。ナンシーによると、ナスランドは到着したときジアゼパム錠(抗うつ剤)を4粒服用し、その後は「気分がいい」と話していたという。

わずか4時間のうちに2件の拉致が疑われるとあって、通報を受けた捜査機関はすぐに捜索を開始する。深夜の押し込みや路地裏ではなく、多くの人出で賑わうレジャースポットで白昼堂々人目もはばからない、それもたった4時間余りで立て続けの犯行とあって、マスコミ報道もピークに達する。

警察の懸命の捜査にも拘らず、多くの人や車の出入りもあって、遺留品や事件の痕跡は見つけられなかった。しかし女性客たちへの聴き取り調査の結果、同日、他にも4人が不審な男から声を掛けられており、トイレの近くでデニス・ナスランドらしき女性が初対面らしい男と話しながら立ち去る姿を見た者が3人確認された。

17歳のドーン・サンダースも音楽仲間たちと車で公園を訪れており、日中、ギプスを付けた20代後半らしい男に声を掛けられた。

「車に積んだ荷物を下ろすのを手伝ってくれないか」

腕を骨折しているのだと察して、サンダースはすぐに快諾し、一人だけ車を降りた。男は「テッド」と名乗り、少女を車まで案内した。しかし聞かされていたような大荷物は見当たらず、不審に思ってその場から逃げだしたという。

「テッド」を名乗る男は用意周到にケガを偽装して女性を油断させ、車までおびき出して拉致したものと考えられた。過去の類似事件と同一犯とすれば、監禁場所や殺害現場となる根城がシアトル近郊にあるのではと推測された。捜査機関を挑発するつもりか慎重な「品定め」のためか、男は群衆に紛れて犯行に及んだのである。

目撃証言から描かれた「テッド」の似顔絵

ロースクール時代の学友ダン・ラザレスは、サマミッシュ湖事件を報じるニュースを眺めながら「VWに乗った“テッド”と言えば、バンディのことじゃないか」と友人たちと笑い話にしていたと振り返る。彼らの知るテッド・バンディは、むしろ凶悪犯とは似ても似つかない常識人で通っていたためである。

かたや報道や似顔絵を見たリズ・クロエプファー、アン・ルール、DES職員やワシントン大学の心理学教授ら4人は、半信半疑ながらも容疑者はテッド・バンディかもしれないと通報した。しかし日に最大200件もの情報提供を受けていた捜査員たちは、この時点で経歴のクリーンな法学生が連続凶悪犯だと真剣には捉えていなかった。よもや実名を明かして犯行に及ぶわけがないといった侮りもはたらいたのかもしれない。

 

■1974.09-11

74年9月初旬、バンディはユタ大学で法律を学ぶためにソルトレイクシティに到着した。しかし授業は全く理解できず、周囲の学生との圧倒的な「出来のちがい」に落胆し、ガールハントに耽るようになった。シアトルから頻繁に電話を掛けていたクロエプファーによれば、男はこの時期「少なくとも12人以上」とデートを重ねていたとされる。

その秋、ソルトレイクシティ近郊でも少女たちが毎月行方不明となる異常事態となった(このエリアの犠牲者は最大8人と目されている)。

バンディの最終自供によれば、犯行の「再開」はソルトレイクシティへの引っ越しの道中に始まったという。州間高速道路84号線を走行中、ヒッチハイクをする少女の姿が男の目に留まった。見た目は17歳前後で、身長約168cm、薄茶色の頭髪、ビーズのシンプルなネックレスを身に付けていた。男の記憶では、緑色の大きなリュックを背負った家出少女で「モンタナ州のどこかを目指していた」という。

バンディは強姦・絞殺した後、途中で遺棄して現場を離れたが、翌日再び戻ってきて遺体をポラロイドカメラで撮影し、切断して近くの川に捨て直したと供述。ガソリンスタンドのレシートから9月2日にボイジー空港近郊にいたことまで割り出されたが、「牧場風の家々を見かけた」という地理条件だけでは現場の特定がままならず、遺体の発見には至らなかった。被害者の身元は今も分かっていない。

 

9月6日、サマミッシュ湖州立公園から東へ3kmほど離れたイサクアでライチョウ狩りに訪れていた猟師二人が道路脇に人骨らしきものを見つけて通報した。前年サマミッシュ湖の公園で同日略取されたジャニス・オット、デニス・オスランド、また別の一体については後にボーイフレンドの寮から帰宅する途中でいなくなったジョージアン・ホーキンスの遺骨と特定される。この半年後にはイサクア近郊のテイラー山を訪れていた林業の学生たちが複数の頭蓋骨を発見して届け出た。歯の特徴などから、下宿先で襲撃されたリンダ・ヒーリーをはじめ、下校途中で姿を消したスーザン・ランコート、友人との約束に現れなかったロベルタ・パークス、空港近くの酒場を出た後いなくなったブレンダ・ボールのものと特定された。

(複数の遺体を同じ場所に遺棄する手口は、佐賀七人連続殺人とも通じるものがある。用済みの遺体に対する雑な扱いは、犯行の手練れと共に、事件の発覚や逮捕に対する恐怖心の欠落を感じさせる。)

後にブレンダ・ボールと特定された頭蓋骨

10月2日、ユタ州ホラディのオリンパス高校に通うナンシー・ウィルコックス(16歳) は「ガムを買ってくる」と自宅を出たきり、二度と戻らなかった。少女はブラウスに青色のコーデュロイパンツ姿で、自宅近くで身元不明の男性が運転する黄色いフォルクスワーゲン「ビートル」に乗車していたところを目撃された。

後のバンディの自白によれば、幹線道路沿いを歩いていたところを追尾し、ナイフを突きつけて車に乗せたという。果樹園に連れ込んでレイプに及び、自宅に連れ帰って24時間監禁して弄んだと語った。遺体は南へ320km離れたキャピトル・ルーフ国立公園付近に埋めたとされるが、発見には至っていない。

10月18日午後9時半ごろ、ユタ州ミッドヴェールのピザ店を出たメリッサ・アン・スミス(17歳)の行方が分からなくなった。9日後、近くの山岳地帯で全裸死体となって発見され、検視の結果、行方不明から最長で7日程度生存していたことが分かった。少女がミッドヴェール警察署長ルイス・スミスの娘だったことから、巷間では捜査機関への挑発との見方もあった。

10月31日、ソルトレイクシティから南に40km離れたリーハイで深夜にハロウィンパーティーを抜けてコンビニエンスストアに向かったローラ・アン・エイム(17歳)が消息を絶った。近くでヒッチハイクをする少女の目撃があり、拉致の疑いが強まった。1か月後、アメリカンフォークキャニオンと呼ばれる渓谷の道路沿いでハイカーにより全裸遺体が発見される。拘束や殴打の痕跡があり、遺体状況から20日程度は存命だった可能性があることが分かった。

スミスとエイムは共に殴打、強姦、肛門性交、ナイロンストッキングを用いた絞殺の痕跡や監禁が窺われたことから同一犯とみなされた。

(テッド・バンディは処刑直前に口頭でスミスとエイムの殺害を認めており、「洗髪や死に化粧を施して儀式を行った」と語っていたが、長らく確証を得られてこなかった。しかし2026年4月、ローラ・アン・エイムの死亡事件についてDNA型鑑定によりバンディの明確な関与が裏付けられ、本件の捜査終結が伝えられた。当局によれば新たに加わった鑑識技術により、古い試料の中から男性のDNA型プロファイルの分離に成功し、犯罪データベースとの照合でバンディのDNAと一致が確認された。事件当時12歳だった妹のミシェルさんは、家族ではすでにバンディによる犯行と受け止めていたと言い、今も多くの人々がローラの事件に関心を抱いていたこと、捜査が継続され正式な確認に至ったことに感謝を述べ、「真実が記録されたことで、ローラも本当に喜んでいると思う」と語った。)

11月8日、ユタ州マレーの大型商業施設でウィンドウショッピングを楽しんだ18歳のキャロル・アン・ダロンチは帰路に就こうと駐車場へ向かった。この商業施設はメリッサ・スミスが最後に目撃されたピザ店から1マイルも離れていない。

新車のカマロに乗り込もうとすると、「ローゼランド巡査」を名乗る男に「何者かがきみの車に乗り込もうとしていたと通報があった。確認させてほしい」と声を掛けられた。巡査を名乗る男は車が無傷であることを検めると、「念のために被害届に署名がほしいので分署までご同行願いたい」と言って自分の車に案内した。近くの小学校脇の路肩に車を停めると、男はダロンチの腕を掴み、左手首に手錠を噛ませた。さらに拳銃とバールで脅迫に及ぼうとしたため、彼女は死に物狂いで抵抗し、なんとか車外へ転がり出ると、偶々通りがかった車に助けを求めて難を逃れた。

「偽警官」はそれまで知られた手口と似ていないが女性を車に誘い出す「なりすまし」のレパートリーの一種と捉えられ、「ビートル」の特徴からもワシントン州近郊の「テッド」と同じ連続犯に違いなかった。生還者ダロンチはその後の裁判でも生き証人として重要な役割を果たし、言い逃れを続けようとするバンディに対して「奴の顔は決して忘れない」と断言し、判決の行方を決定づけることとなる。

同11月8日の夕方遅く、マレーから北へ30km離れたバウンティフルにあるビューモント高校の生徒デブラ・ジーン・ケント(17歳)が、学内で催された演劇公演の終了直後に行方がわかなくなった。演劇教師や生徒らは駐車場で見知らぬ男が徘徊していたことを報告した。講堂の周囲を探索しているとカギが見つかり、その後の調べで同日略取未遂の被害者となったキャロル・ダロンチが男に架せられた手錠のカギと判明する。俄然、同一犯による連れ去りが濃厚となり、ワシントン州との連携など捜査の拡充が行われる。

 

■1975.01-06

ワシントン州では被害者の遺骨の発見こそあったものの犯人につながる糸口とはならず、新たな犯行がなくなったこともあって捜査が暗礁に乗り上げていた。捜査官たちは、各地の住民データ、フォルクスワーゲンの所有者、過去の性犯罪者など各方面から多数のリストをかき集め、膨大なデータベースから割り出しを行うため、当時としては最新型の巨大演算装置(初期のコンピューター計算機)を導入した。何千人という候補者の中から上位者リストが4種目抽出され、その100名余の上位リストの中にはテッド・バンディの名も含まれていた。

ソルトレイクシティ近郊での連続失踪も大きな話題となり、シアトル近郊の連続事件との関連を巡ってマスコミも広く報道を繰り返した。記事を見たリズ・クロエプファーはキング郡警察署に二度目となる通報を行い、バンディがソルトレイクシティに転居したことなど詳しい事情聴取が行われた。

上位容疑者リストに名を連ねたテッド・バンディだったが、最も信頼できると思われていたサマミッシュ湖での「腕吊り男」目撃者による面通しで、奇しくも彼と特定できなかった。物証の欠如だけでなく、こうした証人の記憶違いまでもが凶悪犯に味方した。事実、男はヘアスタイルやひげ、眉、装いや表情を微細に変えることで、あるときは「スマートな青年」風、またあるときは「30代半ばのみすぼらしいやせ男」、「社会的地位のある実業家」などに擬態化し、その印象を使い分けていたと推測されている。固有の身体的特徴である「首元の大きなホクロ」はタートルネックなどで隠されているのが常だった。

クロエプファーはソルトレイク郡の保安事務所にも通報し、テッド・バンディは同地でも容疑者リストに書き加えられたが、やはり各事件と彼を直接結びつける法医学的証拠はないに等しかった。この先も多くの犯行を繰り返していくが、男は一度たりとも現場に指紋を残すことはなかった。また銃火器の不使用、鈍器や首絞めによる殺害もアシの付きづらさや処分の容易さから選んだ方法であった。

期末試験を終えたバンディは、1975年1月にシアトルへ一時戻り、クロエプファーと一週間を共に過ごした。クロエプファーはこれまでの通報や聴取内容を打ち明けることなく、8月にソルトレイクシティを訪問する約束を交わした。バンディは彼女の態度から何か変化を読み取ったのだろうか、それとも報道と捜査の過熱により余所へ目を向けさせたかったのかもしれない。犯行の舞台をコロラド州へと移し、大学生から標的を変えた。

「カメレオン」のように表情を変えるテッド・バンディ

1月12日、ソルトレイクシティから南東640kmに位置するコロラド州スノーマスビレッジが次なる事件の舞台となった。リゾート施設「ワイルドウッドイン」に滞在していた看護師のキャリン・アイリーン・キャンベル(23歳)が施設内で忽然と姿を消した。一か月後、敷地のすぐ外の道路脇で全裸死体となって発見され、特徴的な直線状の鈍器による殴打痕、鋭利な凶器による深い切り傷、左耳たぶの切り裂きなどが確認された。

3月15日の夕方、スノーマスビレッジから西へ140km離れたコロラド州ベイルに住むスキーのインストラクター、ジュリー・カニンガム(26歳)は友人と飲みに行く約束で、行きつけのバーへ向かう途中、消息を絶った。

バンディの供述によると、「スキー靴を運ぶのを手伝ってほしい」と声を掛け、手錠で拘束して拉致し、ベイルから140km離れたライフル近郊で性的暴行に及んだとされる。男は数週間後にもソルトレイクシティから6時間車を走らせ、彼女の死体に「会いに行った」という。

4月6日、25歳のデニス・リン・オリバーソンはユタ州とコロラドの州境に近いグランドジャンクションの実家へ自転車で向かったきり行方不明となった。彼女の自転車とサンダルは鉄道が走る高架橋下で発見された。

バンディの最終自白では、州境で犯行に及び、遺体をコロラド川に捨てたとされ、捜査によってガソリンスタンドのレシートから当日付近にいたことが裏付けられている。

5月6日、ソルトレイクシティから北へ255km離れたアイダホ州ポカテロのアラメダ中学校では12歳の少女リネット・ドーン・カルバーが行方不明となった。彼女はバンディによる最年少の犠牲者のひとりとみられている。その自白によれば、一人でいるところを車に誘い込み、ホテル「ホリデイイン」に連れ込んでレイプした後、スネーク川に遺棄したとされる。幾度となく周辺捜索が行われているもののこれまで遺体や遺留品は見つかっていない。

 

5月半ばには、交際していたキャロル・ブーンらワシントン州DESの同僚がソルトレイクシティのバンディのアパートを訪れ、一週間の同居生活を過ごした。また6月上旬にバンディはシアトルに戻り、このときもクロエプファーと一週間を過ごしている。彼女はやはり継続的な捜査協力について口外しなかった。男は来年のクリスマスを目途に結婚の話を進めようとしていたという。

6月28日、ユタ州バウンティフル出身のスーザン・カーティス(15歳)はプロボにあるブリガム・ヤング大学で催された青少年会議に出席した。会議の後、カーティスは黄色いイブニングドレスを着用し、学生センターで行われた食事会に参加。しかし「歯を磨きたいので寮へ戻る」と言い残して会場を後にすると、そのまま消息を絶った。

寮は会場から400mの近場にあったが、残されていた歯ブラシは直近で使用された形跡がなく、一度も帰宅していないと考えられた。彼女は運動神経がよく、以前から自転車で短い旅行に出掛けることがあったため、当初はまた数日で戻ってくるのではないかとの期待もあった。4日後、大学では「講義室で教科書を売ろうとしていた」彼女の姿が目撃されたとして生存の可能性が高いと考えられたが、その後の情報は全く途絶えてしまう。

バンディは最終自白でカーティスとの接触を認め、ユタ州プライスの幹線道路脇へ遺棄したと供述したが、遺体は発見されなかった。

 

逃げる男

1975年8月16日の夜明け前、ソルトレイクシティ郊外のグレンジャーを警戒中だったハイウェイパトロール隊が住宅街から高速で走り去る不審車両を追跡した。ボブ・ヘイワード巡査は運転手の男にIDの提示を要求しながら、「ビートル」の助手席がなぜか取り外されていることに気づいた。車内の捜索を求めると、スキーマスク、ストッキングで作られた別のマスク、バール、手錠、ゴミ袋、アイスピック、ロープの束などが見つかり、巡査は窃盗犯の疑いがあると推定し、その場で男の身柄を拘束する。

話を聞きつけたジェリー・トンプソン刑事は、前年のキャロル・ダロンチ略取未遂で手錠の使用、加害者の男や車の特徴を記憶しており、すでにクロエプファーの通報から「テッド・バンディ」の名も聞き及んでいた。家宅捜索の令状を取り、バンディの自宅アパートへ踏み込むと、「ワイルドウッドイン」にマークが付けられた観光ガイドブックやビューモント高校の演劇チラシが発見される。捜査員らの心証は疑惑から確信へと完全に切り替わった。

しかしバンディは依然として容疑を認めることなく、略取誘拐や殺人の罪に問えるだけの証拠も出揃わなかったことから、拘留満了を認められて保釈となった。シリアルキラーはしばしば「記念品」を収集することが知られているが、バンディの場合は「記念撮影」を行っていた。後年「家宅捜索のとき捜査員がポラロイドを見逃してくれたおかげで命拾いした」と言い、保釈後にすぐ処分したと語っている。

逮捕時に見つかった犯罪キット

ソルトレイクシティ警察は俄然テッド・バンディへの警戒を強め、24時間体制の監視下に置いた。捜査員がシアトルに飛び、交際相手リズ・クロエプファーへの事情聴取を行うと、ユタ州に引っ越す前に彼の部屋で「理解できないもの」をいくつか発見したと彼女は明かした。

必要のない松葉杖や石膏のパッケージがあったと言い、料理で使ったこともない肉切り包丁、手術用のゴム手袋、木箱入りの東洋風のナイフ、女性服の詰まった袋なども目にしたという。バンディには常に借金があったことから、「高価な品物はほとんど全て盗品ではないか」とクロエプファーは疑っており、新品のテレビとステレオについて詰問した際には「口外したらお前の首をへし折ってやる」と警告されたと告白した。またバンディは彼女が所有していた別の「ビートル」を借りて出掛ける機会も多く、トランクには「護身用」と言ってホイールレンチを積んでいたという。

9月、バンディは自身の所有する薄茶色の「ビートル」を10代の若者に売却。ユタ州警察はただちに車両を押収して徹底的な鑑識捜査を行い、複数の女性の頭髪を採取した。当時の頭髪鑑定は指紋やDNA鑑定と異なり、個人の識別はできなかった。鑑識官が色や太さ、毛質といった外形的な共通性を見分ける、いわば属人的な識別方法であり、裁判での法的な証拠能力は認められない。

しかしFBIの研究員ロバート・ニールは、「ワイルドウッドイン」で被害に遭った看護師キャリン・キャンベル、7日間生存していたとされるメリッサ・スミス、生還したキャロル・ダロンチの試料と「顕微鏡でも見分けがつかない」ほど似ていると指摘し、それぞれ面識のない被害者三人の頭髪が一台の車から発見されることは「信じられないほど稀な偶然」と結論付けた。

10月2日、バンディの面通しが行われると、ダロンチはすぐに「ローゼランド巡査」だと断定し、ビューモント高校の演劇関係者たちも当日徘徊していた「見知らぬ男」と認識した。バンディにはアリバイがなく、ダロンチへの監禁暴行および拉致未遂事件は立件の目途が立ったものの、連続殺人の容疑を固めるには物証がまだ充分ではなかった。両親が保釈金を支払い、バンディは裁判の開始までシアトルでクロエプファーと共に過ごした。彼女は捜査に協力し続けてきたが、その著書で「最後まで恋人の疑いが晴れることを願っていた」「(喧嘩や不信感もあったが)思い出されるのは彼との楽しい思い出ばかり」と述べている。

証人として出廷したダロンチ

翌月、連続女性誘拐殺人の合同捜査会議がコロラド州アスペンで開かれた。5州から集まった30人の刑事、検察官らはテッド・バンディが最有力容疑者との見方にまとまり、殺人罪の適用については更なる証拠固めが必要との見解で一致した。

翌76年2月にダロンチ略取未遂事件で裁判が行われ、誘拐、暴行の罪で有罪判決が下され、1年から最長15年の刑期が言い渡された。ユタ州刑務所で服役したバンディだったが、10月に道路地図、時刻表、社会保障IDといった「脱走キット」の所持が発覚して数週間独房へ送られた。

翌77年6月7日、殺人罪での予備審問のため、バンディはガーフィールド郡刑務所からピトキン郡裁判所への64kmを移送されていた。彼は弁護士を依頼せずに自己弁護を選択したため、手錠や足枷が免除されていた。その道中、バンディは「法律図書館で事件や裁判について調べ物をしたい」と陳情し、警備の隙をついて館内2階の窓から飛び降りてその場を逃亡した。

ただちに警戒態勢が敷かれたものの自然豊かな田舎町、脱走犯は検問を掻いくぐってアスペン山に南下し、狩猟小屋を見つけて備蓄されていた食糧や衣類、ライフルを盗んで再び山をさまよい歩いた。10日、マルーン湖畔に停車していたキャンピングトレーラーに侵入し、食料とパーカーを窃盗。着地の際に捻挫した右足首がままならず、ゴルフ場で車両を窃盗して逃走を続けた。

逃亡6日目、警官が蛇行運転する不審な車両に気づき、バンディは再逮捕される。車内にはバンディが裁判資料として事前に入手していたアスペン山の山岳地図が残されており、逃亡が計画されていたことを裏付ける決定的な証拠とされた。

越境殺人犯として最重要手配犯とされたテッド・バンディ〔FBI〕

友人や法律顧問らはガーフィールド郡刑務所に戻ったバンディにこれ以上変な気を起こさぬよう説得に当たった。公判前手続きでは検察側の証拠の一部が却下されるなど、バンディ側に有利に事が進んでおり殺人罪の適用は難航しており、自由の身になれるとの公算も高かったとされる。

しかし、バンディは再び脱獄を試み、刑務所の図面や金ノコを他の囚人から手に入れ、またキャロル・アン・ブーンに頼んで密かに現金5000ドルを持ち込ませていた。独房の男は天井の鉄筋の隙間に小さな穴を開け、夕方、ほかの囚人たちの入浴時間になると屋根裏の探索を繰り返した。「夜、天井裏(または床下)で何かが動いている」といった囚人たちの報告もあったが、所内では無視されていた。

ガーフィールド郡刑務所ではクリスマスになると軽犯罪による囚人の一部は家族の元へ一時帰宅が認められ、それに合わせて刑務所職員たちも休暇を取った。12月30日の夜、バンディはベッドの上に本の山と毛布で即席の人形をつくると、天井穴を抜けて看守らの暮らす寮に侵入した。そのとき妻と外出中だった主任看守の部屋のクローゼットから私服を盗んで着替えると、男は敷地正面玄関から堂々と「塀の外」に出ていった。

盗難車で山道を抜けようとしたがすぐに故障し、ヒッチハイクで100km東にあるベイルへ出た。そこからバスでデンバーへ行き、朝のうちに飛行機に搭乗した。刑務所職員たちが脱獄に気づいたのは31日の正午過ぎ。17時間以上前に娑婆に出た男はすでに東へ1900km離れたシカゴの地に降り立っていた。

男は列車でさらに東のミシガン州へ移動し、車を盗んでひたすら南下を開始し、1月7日にはジョージア州アトランタ、そこから長距離バスでフロリダ州に入った。このときテッド・バンディには、フロリダであれば何かしでかさないかぎり捜査の手は及ばないと考え、悪事から足を洗って偽名で合法的な仕事にありつこうという心づもりでいた。しかしIDもなしでの職探しはうまくいかず、結局かつてのように万引きや窃盗による「その日暮らし」に戻っていった。

 

再逮捕

1978年1月15日未明、すっかり寝静まっていたフロリダ州立大学の女子学生寮「カイ・オメガ」が突如として凄惨な事件現場と化した。

侵入者は眠っていたマーガレット・エリザベス・ボウマン(21歳)を樫の薪で殴りつけ、ナイロンストッキングで絞殺。続けてリサ・ジャネット・レヴィ(20歳)にも同様の暴行を加えた上、乳首を引き裂き、左臀部を噛みちぎり、ヘアミストのボトルで性的暴行に及んだ。

さらに隣室のキャシー・クライナー(21歳)は顎を折られ、肩にも深い裂傷を負ったが命に別状はなかった。カレン・チャンドラー(21歳)も襲われて脳震盪、顎の骨折、歯の喪失、指の粉砕骨折を負った。後にクライナーは「外から車のヘッドライトが接近してきたため犯人が逃げ出し、おかげで命拾いした」と振り返っている。

わずか15分ほどの間に4人が襲撃され、先の2名が死亡。30人以上が暮らす寮内での出来事にもかかわらず、侵入に気づいた者や目撃者は誰もいなかった。

同夜、8ブロック離れた地下アパートに暮らすフロリダ州立大学学生シェリル・トーマス(20歳)も覆面の侵入者によって襲撃された。一命を取り留めたものの、肩の脱臼、顎と頭蓋骨の5カ所を骨折し、左耳聴覚の消失と平衡感覚の障害を負い、彼女のダンサーとしてのキャリアが絶たれてしまった。

ベッドには精液のシミと犯人が被っていたパンティストッキングのマスクが残されており、後の鑑定で、付着していた頭髪がテッド・バンディのものと酷似することが判明する。凶器は「カイ・オメガ」寮と同じ薪が使用された。

最後の犠牲者となったキンバリー・リーチ

78年2月8日、フロリダ州レイクシティの中学1年生キンバリー・ダイアン・リーチ(12歳)は1限目の授業中に姿を消した。リーチは授業をさぼったり、学校を脱け出したりするようなことのない大人しい生徒で、友人たちは何かトラブルに遭ったにちがいないと直感した。家族や学校関係者は校内や近辺を捜し回ったが消息は掴めず、夕方5時半に警察に通報した。

学校の周辺では不審な白いワゴン車の徘徊が複数目撃されており、14歳のレスリー・アン・パーメンターは運転席の男に声を掛けられたという。近くにいた彼女の兄が気づいて詰め寄ったため不審なワゴン車は逃げ去った。幸いパーメンターは無事だったが、リーチも同一犯による連れ去りの疑いが濃厚となる。パーメンター兄妹は父親が刑事だったこともあり、男の容姿や車のナンバーを注意深く記憶していた。男はやせ型、茶髪の白人で30代半ばと見られ、同意の元、催眠療法による似顔絵の作成やその後の面通しにも協力した。

レイクシティではバンディによる新たな犯行に違いないとして全国からマスコミが押し寄せ、数週間にわたって町中が騒然となった。

2月10日、FBIはいまだ連続殺人犯とは断定できないながらも脱獄犯テッド・バンディを最重要指名手配犯として公表する。翌11日にはレオン郡保安事務所のドーズ巡査が覆面パトカーで巡回中にバンディらしき男が車を施錠しようとしているのを発見。男は身分証を持っていないと言い、巡査が懐中電灯で車内を照らしたところ、床に取り外されたナンバープレートが落ちていた。ドーズ巡査が車に戻って無線でナンバーを照会しようとすると男はその場から逃走した。ナンバーはパーメンター兄妹が伝えたものと一致しており、バンディとリーチ誘拐を決定づける有力証拠となった。

14日、警察は多角的な捜査結果によりキンバリー・リーチの家出の可能性は否定されたと発表し、翌15日には保安事務所よりリーチに関する情報提供に500ドルの懸賞金がつけられた。

フロリダ州立大学で盗まれた白いワゴン車

すでにバンディの現金は底を尽きており、厳戒態勢の市街を離れる手立てを求めて途方に暮れていた。

2月15日未明、フロリダ州ペンサコーラで警戒に当たっていたデイビッド・リー巡査が、ヘッドライトを点けずに走行する不審車両を見つけて停車を命じた。リー巡査は盗難車であることをすぐに確認し、「運転席から降りろ」と言うと、男は巡査の足を蹴ってすかさず逃走した。巡査が威嚇射撃すると男はその場に倒れ込んだため、様子を窺おうと接近すると男は不意に掴みかかって拳銃を奪おうとし、両者はもみ合いとなった。リー巡査が拳銃で三度殴りつけてどうにか制圧すると、男は「殺せばよかったのに」と口にしたという。

男は当初「ケネス・ミスナー」と名乗り、所持品にも同名義のカードや書類が出てきたが、その顔は最重要指名手配犯にして、「カイ・オメガ」寮襲撃やリーチ殺害の嫌疑がかかるテッド・バンディその人に他ならなかった。複数の捜査機関をたらいまわしにされ、連日徹底した追及を受けた後、ようやく男はその正体を明かした。バンディは殺害について認めなかったが、捜査員たちが遺体発見に協力するよう懇願すると、「あまりに凄惨な現場であなたには直視できないよ」と口にした。

警察では、キンバリー・リーチ失踪の直前にバンディが「レイクシティ・ホリデイ・イン」に偽名で宿泊していたことを突きとめた。押収したワゴン車の床から血痕様のシミとそれを覆い隠すように撒かれた砂を発見し、検出された土壌サンプルや落ち葉を解析にかけ、州一帯を検索した。失踪から2か月後、スワニー川州立公園近郊の豚舎の廃屋で12歳の少女は変わり果てた姿で発見される。タートルネック以外何も身に付けておらず、残りの衣類はすぐ傍に置かれていた。腐敗が著しく検死でも死因の特定は難しく、「首周りへの殺人的暴力」という曖昧な表現に留まった。検視官は、少なくとも2度の強姦、性器の切断、喉の切り裂きがあったと結論付けている。

後年、リーチの友人は「12歳の私たちにはまだ想像もつかなかった。大人になってから、ようやくあのときの彼女の恐怖や、大人たちが話していたことの真の意味が理解できたのです」と語った。

78年7月18日、少女が誘拐される場面に遭遇したという唯一の証人、地元消防署で救命士として働くクラレンス・アンダーソンが警察に申告した。事件のあった日の「8時半ごろ、デュバル通りの西行き車線でフットボールジャージを着た少女が白いワゴン車に行く手を遮られて、運転席から出てきた男に乗せられていくのを見た」と言い、そのときの二人はニュースで度々目にするリーチとバンディに他ならないと確信していたが、恐怖心から半年近く通報できずにいたという。

 

諦めの悪い男

1979年6月25日、フロリダ州デイド郡巡回裁判所で「カイ・オメガ」襲撃事件の公判が開廷する。全米初となる生中継が行われ、五大陸から250名を超えるメディアが押し寄せる世界的な公開裁判となった。5人の国選弁護人がテッド・バンディの弁護団を務めたが、またしても被告人のバンディ自らが大部分で弁舌する大立ち回りを担った。O.J.シンプソン事件などに連なるその後の「メディア裁判」の先駆となった。

弁護団のひとりボリー・ネルソンは後の回顧録で、バンディが当初から正当な弁護活動を妨害したことを糾弾し、「どうやら彼にとっては(有利な判決よりも)どうやって自分が指揮を執るかが問題だったようだ」と皮肉を綴っている。

弁護団のひとりマイク・ミネルバによると、「カイ・オメガ」のボウマン、レヴィ、そしてリーチの殺害を認めることで死刑を免じる司法取引が持ちかけられていたという。この取引にバンディは、罪を認めて死刑を回避した後で、何年か待てば、証拠の紛失(アメリカの法執行機関は証拠管理の杜撰さが問題視されていた)、証人の転出や死亡などで再審無罪を掠め取れる算段を立て、乗り気になっていた。しかしミネルバ曰く、「彼は全世界に向けて(カメラの前で)自分の罪を認めることができなかった」ため、土壇場でこの取引を蹴ったとされる。

検察は、襲撃犯が被害者に残した噛み痕を最重要証拠として、法医歯学の権威リチャード・スーヴィロンとローウェル・レヴィンに鑑定を依頼し、バンディの歯型を復元して照合した。バンディは過去のダロンチ拉致未遂事件とあらゆる側面で異質の事件だとして襲撃犯ではないと主張した。

7月24日、陪審団は2件の殺人、3件の殺人未遂、住居侵入などで有罪を認め、裁判長エドワード・コワートは死刑を宣告。バンディは判決を不服としてフロリダ州最高裁に上訴したが、有罪評定と量刑判断に誤りはないとして棄却された。

歯型の一致を説明するスーヴィロン博士

度重なる延期の末、1980年1月7日にオーランドのオレンジ郡裁判所でキンバリー・リーチ事件の公判が始まる。先の「カイ・オメガ」裁判では前面に出て抗弁したテッド・バンディだったが、自己弁護を諦めて弁護団に主張を委ねた。その法廷戦術は、精神異常による心神喪失であった。

死刑判決から半年を経て、バンディにかつてのような堂々とした雄弁さや余裕の笑みや傍聴者を沸かせるジョークは失われ、意に反する証人たちの口を塞ぐことに情緒をかき乱された。検察は、学校周辺での「白いワゴン車の男」の目撃情報を中心に65名もの証人を集めていた。犯行の決定的瞬間に遭遇したクラレンス・アンダーソンの証言も、男と少女の特徴を確実に捉えていた。

車両から検出された血液はリーチと同じB型と判定されたが、当時の法医学分析では「個人の特定」には至らず、先述の通り、頭髪鑑定も確実な証拠能力は認められていない。検察側は、被害者の残された衣類について詳細な繊維鑑定を行い、バンディが逮捕時に着用していたジャケットに遺留品の繊維片が付着していたことを発見した。これによりバンディと被害者、点と点が一本の線でつながった。

2月7日、7時間の評議の末、陪審団は有罪を評決した。9日、量刑審理が開始されると、被告人は前代未聞の行動に出た。弁護側証人として出廷していたキャロル・アン・ブーンに対して公開プロポーズを行い、彼女も死刑囚の求婚に応えたのである。フロリダ州法では裁判所での宣誓には口頭合意でも法的効力が認められるため、二人は正式に結婚した。

2月10日、テッド・バンディは通算三度目となる死刑宣告を受け、ハネムーンはレイフォード州立刑務所の死刑囚房で単身過ごすこととなった。

妻子と共に笑顔を見せるバンディ

余談として、州立刑務所では夫婦面会を正式には許可していなかったが、看守への賄賂によって「お目こぼし」が慣行となっていた。バンディの妻となったブーンは、夫と引き離されて約20か月後の81年10月24日に娘を出産している。

しかし「レディ・キラー」の異名は伊達ではない。バンディは獄中生活においても死刑囚としての処遇、食事や照明といった住環境などに不満を唱え、民事訴訟代理人ダイアナ・ワイナー弁護士を通じて度々改善を求めていた。彼女は他の弁護士たちが「適切な裁判の遂行」にのみ焦点を当てたのに対し、死刑囚と向き合いながら無理難題に応えて献身的に支援を続けていた。夫と子ども(82年出産)があり幸せな家庭を築いており、ワイナー自身は依頼人以外の関係や好意を公にすることはなかったが、若く聡明な女性というバンディの「好み」と合致していたことからゴシップ紙などでは「最後の恋人」とも噂された。

夫婦の面会は時の流れとともに失われていったが、弁護士との接見は許されていたため、ワイナー弁護士がバンディにとって最後の「特別な支え」だったことに誤りはない。しかし月3回にも満たない面会の頻度や、ワイナー夫妻がその後も良好な結婚生活を築いた事実からも、バンディと不倫関係だった可能性は極めて低い。

 

語る男

リーチ裁判終結後、バンディは長い再審活動を開始するとともに、自らの生い立ちや犯罪に手を染めた経緯、犯行の具体的な手口などを語り始めた。延べ150時間以上のインタビューを行ったノンフィクション作家スティーブン・ミショー&ヒュー・エインワーズの共著『殺人犯との対話』(1989)が広く知られ、バンディを描いたドラマやドキュメンタリー映画の底本とされている。

バンディは少年時代の窃盗から始まった「所有欲の充足」が強姦や殺人でも「根っこは同じ」だと言い、「究極の所有とは、命を頂戴することだった」と語った。彼にとって「殺人は単なる欲望や暴力の捌け口ではない」と言い、「被害者を所有し、自分の一部とすることで、二人がひとつになれる」、「殺害や遺棄した現場は神聖な場所となり、しばしば引き戻される」と神秘体験か何かのように反芻している。

86年に「カイ・オメガ」事件での刑執行が取り沙汰されると、FBI特別捜査官ウィリアム・ハグマイヤーらにそれまで詳らかにしてこなかった死体凌辱などについて語った。ときに何時間もかけて現場に赴き、一晩中死体の隣で過ごしたことや、自宅で髪を洗い、化粧を施したこともあったという。腐敗状況が許すかぎり死姦を繰り返し、テイラー山に遺棄した4人分の首はしばらくアパートに保管していたとも明かした。

作家アン・ルールは「死に至るまで、そしてその死後さえも被害者を凌辱し支配することに喜びを得るサディスティックな社会病質者」と評している。いよいよ死を目前にして、彼はようやく己の所業を語る気になったのだろうか。むしろ自身の異常性を後世にまで見せつけんがためのパフォーマンスだったのではないか、これこそが虚偽の自白だったのではないかと筆者には思えてしまう。

結局、予定期日の15時間前に控訴裁判所が裁定の不備を指摘したことで「カイ・オメガ」事件は差戻しの審理が決定され、執行は無期限の延期とされた。続くキンバリー・リーチ事件での執行も度々延期が繰り返された。これは弁護団の不服申し立てによるものではなく、裁判所内外の死刑廃止派が執行に強く反対したためと見られている。

(※本稿では割愛するが、アメリカの死刑制度は、州によってその可否、年齢や罪刑といった適用範囲、電気椅子や薬物注射などの執行手段も含め、大きく状況が異なる。死刑制度は憲法修正第8条の禁じる「残酷で異常な刑罰」に該当するのではないかとする解釈が19世紀から長きにわたって議論され続けてきた。1967年から約10年間は死刑執行が停止され、新たな死刑判決は減刑を受けて終身刑とされた。1977年1月の執行再開から2025年までの49年間に処刑された死刑囚は1654人。2026年現在は27州で死刑が適法とされており、約81.7%に当たる1352人はテキサスをはじめフロリダ、オクラホマなどの南部諸州に集中している。住民投票で州法が改正されたり、88年の大統領選でも死刑存廃は論争の的とされるなど、政局や社会情勢、凶悪事件の発生などによって存廃の行方が左右される。)

獄中も上訴のかぎりを尽くして徹底抗戦したテッド・バンディだったが、88年半ば、控訴裁判所からリーチ事件での刑執行の具体的な期日が発表される。

年が明け、89年1月18日、バンディは司法捜査官を呼び出した。これまで最重要容疑者とされていたワシントン州、オレゴン州での8件のほか、それまで知られていなかったアイダホ、ユタ、コロラドでの犠牲者の存在を告白した。逮捕から約10年、犯行から15年近くが経とうとしていたが、死刑囚の口から語られる犯行の様子や当時の心境は司法官に臨場感を感じさせ、誠意の表れに思われたという。

犯行を認めたサマミッシュ湖事件では、連れ去り現場の湖畔から約3km離れた場所に見つけておいた小屋でジャニス・オットを複数回強姦し、殴りつけて昏睡させた後、今度はデニス・ナスランドを連れて小屋に戻った。オットが昏睡状態から回復していたため、(どちらかは不明ながら)ひとりを生かしたまま目の前で「もうひとり」を殺害し、解体の様子を見せつけたと打ち明けた。

男は常に殺人に囚われ、犯行に没頭し、被害者に対する同情や躊躇など微塵もなかった。いわば殺人は、彼の人生における功績であり、「良き思い出」だった。

だが被害者について名前や会話まではっきりと記憶しているものもあれば、なかには行方不明者の届け出さえない女性や遺棄現場が特定できないケースなど不完全な情報も多くあった。「知っていたとしても/記憶にあったとしても教えない」といった男の発言から、捜査機関では執行の遅延を狙った時間稼ぎと捉えられた。コロラド州のマット・リンドヴァル刑事は、遅延を狙った策略であるとともに、自分以外に本当の遺棄現場をだれも知らない「完全な所有権」を有することの確認作業であり、自衛的必要と異常性欲との葛藤だと解釈した。

執行前夜、ジェームズ・ドブソン神父との間で行われた最期のインタビュー収録で、バンディは自身について「ただ一点(過剰な暴力的性嗜好)を除けば、自分は普通の人間だったと信じている」と語り、「翌朝、目を覚まして自分がやったことを思い出すたびにゾッとした。これまで自分がしてきたことに身の毛がよだつ」とこれまでも犯行の度に後悔があったと口にした。そして「信じてもらえないかもしれないが」とした上で、「20年以上前に自分が犯したおぞましい行為によって、被害者、その家族に対して取り返しのつかないことをしてしまったことを深く反省している」と謝罪を述べている。

1989年1月24日午前7時16分、電気椅子による死刑執行により死去。享年42。

刑執行の直前、家族への電話を許されたバンディは母親と話したあと、妻キャロル・アン・ブーンに電話を掛けた。しかし夫との関係が悪化して絶縁を心に誓っていたキャロル・アンはその電話に応答することはなく、結局、男は母親に二度目の電話を掛けたとされる。

司法記録によると、バンディの持ち物は全てダイアナ・ワイナー弁護士に寄贈された。これにはキャロル・アンとの結婚指輪や約700ドルの全財産が含まれていた。報酬額として決して大金とは言えないかもしれないが、自分に遺せる全てのものを預けたことからもバンディにとっての彼女の存在の大きさが分かる。

さらにバンディは遺言としてワイナー弁護士に最期の願いを託してもいた。刑が執行され、火葬された暁には、その遺灰をテイラー山に撒いてほしいというものである。男は死して尚、自分が殺した女性たちへの執着を諦めようとはしなかった。テッド・バンディとは人の心を持たない史上まれにみる快楽殺人者だったのか、それとも死体の山に恐怖する私たちの想像力と、慄く人の様子をのぞき見てほくそ笑む変態男の詐術によって生み出された幻影なのだろうか。

ライルズ・チャップマンの失踪

2013 年 12 月 18 日(水)午後7時過ぎ、アラバマ州南東部ドーサン市の実家にいたジェファーソン・ライルズ・チャップマン(当時25 歳)は寝室から文字通り「飛び出していった」。クリスマスを控えて地元に戻っていた彼は、その夜ボクサーパンツ一枚きりで靴も履かずに戸外へと走り去り、そのまま消息を絶つ。

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買い物から戻ったライルズの父親と妹は、当初長男が玄関を開けようとしないことを不審に思ったが、解錠して中に入った。するとライルズは「(何かに)追いかけられている」と叫びながら半狂乱で部屋を飛び出すと夜の住宅街へと走り去ったという。
およそ 30 分後、ボカージュ地区の入り口近くを車で通りがかった彼の友人が、息を切らした様子で闇夜にさまよう裸のライルズを目にしていた。しかし、その目撃以来、彼の行き先は明らかにならなかった。
前の晩は庭先でライトアップの支度をしながら凍えていたにもかかわらず上着やズボンすら身につけず、財布や携帯電話も実家に残されたままになっていた。刃物や銃を所持しているなど自傷他害のおそれがあれば早急な対処が必要だが、それもはっきりしないため、当初は警察でも対応に窮したと思われる。

だが調べていくと、その日、ライルズは仕事を失っていたことが明らかとなる。成人の場合、児童失踪のように、即時的に、州全域へと一斉に周知されるシステムはない。彼の両親は警察の捜査にしびれを切らし、「まだドーサン市から遠くないエリアにいるはずだ」としてFacebook 等SNSでの拡散、地域ラジオへの出演、私財を投じて地域の電光掲示板などを使った捜索支援と情報提供の呼び掛けを続けた。

https://maps.app.goo.gl/cy552iBfUXADkaJt8?g_st=ic
警察には市内各所のモーテルや炊き出しでよく似た男性の目撃証言が複数件寄せられた。
後に友人の一人はフロリダ州パナマシティのクラブで彼を見かけたと主張したが、画像やビデオで捉えられた姿はひとつもなかった。

ライルズ・チャップマンは身長約 185cm、体重 82kg、ブラウンヘアの短髪に青い瞳という白人男性としては一般的な体格だったこともあり、寄せられた目撃証言も個人の特定にはつながらなかった。目にされたときはもちろん何かしらの衣服を身に付けており、彼の特徴ともいえる幾つかのタトゥー(背中の「CHAPMAN」、左腕の「Life Goes On」、背中に施された天使の羽やハートの図柄、「SAYLOR GRACE」、腰の「MARY CATHERINE」、薬指の「Chelsie」)を認識した目撃者もなかった。

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ライルズには別れた元妻と二人の娘がいた。11 月 25 日に投稿された彼の最後の Twitter には「娘にサヨナラを言わなきゃいけないときの気持ちや、彼女がママと一緒に立ち去るのを見送っているときの思い、そして次にいつ会えるか分からないという現状は言葉に尽くせない…」と苦しい胸中が綴られている。彼のアイコンに使われていた画像は、幼い娘を抱きかかえる若い父親の姿であった。

報道には出ていないが、そうした事情から警察もライルズの別れた元妻や娘の元に現れる可能性を考慮していたことが推測される。父母の別を問わず、離婚後の実子誘拐事件というのも少なくない。しかし彼から何らかのコンタクトが送られてくることはなかったようだ。
両親が暮らしていたボカージュ地区は町で最も裕福なエリアとされ、家出の原因は経済的な困窮とは結びつかないと考えられた。またライルズはコベナント・ユナイテッド・メソジスト教会の熱心な信者で、信者たちは彼の無事と帰還を祈ってキャンドルを焚いて励ましの祈りが捧げられたという。
翌14 年 1 月に入ると、警察では周辺の森林捜索を実施する。自死を図っておらずとも、真冬の森をさまよって動けなくなり遭難死することは現実的に起こりうる事態である。それはまた逆説的に、ライルズのその後の足取りなどが確認できなかったことを想像させる。

一方で、近くには主要幹線道路である国道 84号線が通っており、そこまで出ればヒッチハイクでの移動も不可能ではないとする地域住民の意見もある。車で1時間半ほど南下すればフロリダ州のパナマシティ、北へ4時間半も走ればジョージア州都の大都市アトランタへの接続も可能な地域である。中には、彼は妻子との別れや失職を苦に思い、見知らぬ街で別人として人生を仕切り直そうとしているのではないかという見方もあった。

1 月 17 日、失踪から一か月目にして、ドーサン市長マイク・シュミッツ、地方検事ダグ・ヴァレスカとチャップマンの家族が会見を行った。警察は、この失踪を取り巻く状況は他の行方不明事件とは異なるとしながらも、詳細については説明できないとした。またヴァレスカ検事は、「あなたが何をしたとしても私たちが解決に導く」とカメラを通じてライルズ・チャップマンに呼びかけた。
病歴が報じられたことはないが、精神疾患の場合、10代半ばから20代前半での発症傾向が顕著であり、当時25歳の彼も人知れず罹患していたとしても不思議はない。クリスマスという家族や大切な人たちと過ごすための時季が、娘に会いたい一心の彼に大きな負荷を掛けていたのではないか。また仕事内容や正確な理由は明らかにされていないが、失職がさらなる追い撃ちとなって制御不能な錯乱に陥ったのではないか。

あるいは淋しさを埋め合わせようと薬物を濫用していたとの疑いも囁かれている。公開情報が限られるなか、「苦労知らずの金持ちのボンボン」という偏見がそうした憶測を広めた。いずれも証拠はなく、想像の域を出るものではない。

警察は「あらゆる状況を視野に捜査を継続する」ことを約束した。会見後、Facebook の捜索ページフォロワーは 1 万人近くに上り、家族は帰還を信じて思い出の写真やビデオメッセージ、誕生日の祝福メッセージなどを公開しているが、その後も本人からの音信や追跡につながる有力情報は得られていないようだ。
チャップマンの家族は失踪の要因や独自の仮説を提示していないが、当初から彼が地元ドーソン市からそれほど遠くへは行かないだろうとの見方を示していた。裕福な家の 4 人兄弟として不自由
なく育てられ、おそらく地元には同じような資産家の子息らとの交遊関係があったと推測される。古くからの親友らが彼を匿い、逃亡を手助けすることも不可能ではないのかもしれない。無論、地元警察とて交友筋を洗ったはずだが、踏み込みがたい一線というものもあるだろう。証拠や裏付けのある話ではないが、経済的余裕と 25 歳という若さも手伝って、ライルズの周囲に「第二の人生を手助けできる」人物がいたとしても夢物語とは思わない。


2022 年 8 月、アラバマ州法執行機関(ALEA)はライルズ・チャップマンを成人行方不明者データベースに登録した。https://www.namus.gov/MissingPersons/Case#/23335/details?nav
2026 年現在、ライルズの娘は 8 年生を修了し、ハイスクールへと進級したことが報告されている。

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確たる証拠がなければ、家族はその死を容易には受け入れることができない。まるで単身赴任中の彼に宛てたメッセージのように「ライルズ、子どもの成長はあっという間だよ」と記し、孫娘の進級を伝える両親の笑顔には胸を打たれる。

依然としてその行方や足取りはつかめず、再会の目処など皆目立たないなかでも、家族はそうしてたくましくも今という人生を歩んでいるのだ。

 

墨田区竪川第一公園バラバラ殺人事件

被害者男性は身元不明、付近では重要参考人となる男女の目撃があったが、20年以上経った現在もその行方は分かっていない。


「事件当時、行方不明になった知人がいる」「それらしき男・女に心当たりがある」「事件をほのめかす人物を知っている」など情報があれば、警視庁までご通報されたい。www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp


事件の概要

2004年(平成16年)5月12日(水)午前1時過ぎ、東京都墨田区江東橋4丁目の竪川(たてかわ)第一公園でホームレスの男性が植え込みの中からナイロン製の大きなスポーツバッグを発見し、中味に違和感を感じて巡回中の警官に届け出た。

警官が中に入っていたビニール袋に包まれた肉の塊を検めたところ、手足と首を切断された男性の胴体であることが判明。警視庁は殺人、死体損壊・遺棄事件として本所署に捜査本部を設置した。

同型のスポーツバッグ(警視庁公開)

 

調べによれば、死亡した男性は20~40代。脚、腕、首の付け根をそれぞれ鋭利な刃物により切断され、背中・胸などに5カ所の刺し傷があった。発見時は死後1日から2日程度の経過と目され、都指定の半透明ごみ袋を3枚重ねにした状態でバッグに入れられていた。体の他の部位はいまだ見つかっていないものの、死因は失血死と見られている。

血液型はAB型と判明し、黒っぽいブリーフ下着を着用していたが、適合する行方不明者は見つかっていない。

 

スポーツバッグは幅30cm×60cm、高さ38cmのもので、調べにより事件直前に付近の店で購入した男女の存在が浮上した。事件への関与が疑われるとして似顔絵が公開されたが、有力な情報に乏しくその足取りは掴めていない。

女性は茶髪風か?

女の特徴は、当時20代くらい、身長155cmくらいの細身体型で、長袖ブラウス、黒いズボン、ヒールのサンダル靴を着用し、ハンドバッグを所持していた。

男の特徴は、当時20~30歳くらい、身長170~180cmのがっしりした体型、坊主に近い短髪で、黒っぽい長袖シャツにズボンというラフな装いだった。

 

所感

身元不明遺体ということもあり大きな話題になりにくく埋もれてしまった長期未解決事件という感がある。

事件前の同2004年4月には戦地イラクで日本人人質事件(高遠菜穂子さん、今井紀明さん、郡山総一郎さん)が起き、事件直後の5月には日朝首脳会談が開かれ、拉致被害者家族5人の帰国が大々的な話題となっていた時期に当たる。

 

昼間でもどこかひっそりとした雰囲気

江東区亀戸にも同名の区立公園(遊具の特徴から通称“テントウムシ公園”と呼ばれる)が存在するが、事件のあった墨田区の竪川第一公園は首都高の高架下に設けられた細長い緑地公園である。錦糸町駅から南へ300~400mほどの商業市街地にあるも、児童向け遊具はあまりなくネット上のクチコミなどでは「薄暗い」といった声が目立つ。高架下で雨を避けられることからホームレスにも重宝されていた。

しかしながら植栽にバッグ、中にはビニール袋入りの胴体となれば、これほど早期でなくとも発見されることは免れようがない。男女には車や免許といった遠方へ遺棄するための手段がなかったと捉えてよいかもしれない。一方で、遺体が発見されてもやむをえない捨て方であることから、すでに移動の準備があった(遺棄直後に墨田区を離れた)と考えるのが自然であろう。

 

事件の10年前となる1994年には、福岡美容師バラバラ殺人、同じ東京都では武蔵野市・三鷹市をまたぐ井の頭恩賜公園でバラバラ遺体が発見されて話題となった。

福岡の事件は男女関係のもつれが発端とされ、遺体は駅のコインロッカーや高速道路のパーキングエリアなど各地に遺棄され、頭部と凶器は未発見となった。腹部を滅多刺しにして内臓がえぐり出されるなどの強い猟奇性と行動力から複数犯説も取り沙汰されたが、同僚女性による単独犯だった。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

井の頭公園バラバラ殺人は未解決のまま2009年に公訴時効が成立している。この事件では園内設置のゴミ箱7か所から計27個の切断部位が発見され、特異なことに血液が抜かれ、電動のこぎり様の工具で20cm×30cm大に切り分けられていた。指紋やDNAから被害者男性が特定されるも交友筋から殺害動機や怨恨などは浮かばず、その異様な犯行ぶりと翌年発覚したオウム真理教関連事件からカルト説、「動機なき殺人」の傍流として人違い殺人説まで取り沙汰されているが真相は明らかにされていない。

本件では、遺棄現場近くでのバッグ購入、都指定のゴミ袋、市街地ながらも比較的目立たない場所に遺棄していること、胴体しか見つかっていないことなどから想像するに、やはり近場に殺害現場があったと捉えるのが自然に思われる。男女の年柄からすれば、動機は男女関係のもつれか、あるいは金銭やビジネス上のトラブルといったところか。

他の部位に関しては、ゴミとして処分したり、海川へ遺棄して発見を免れたものと推測される。しかし大きすぎる胴体の処分に困り、解体を断念して、近場ででも遺棄するために大きなスポーツバッグを購入せざるをえなかった。彼らは急いでその場を離れなければならなかった。

おそらく錦糸町駅や公園の周辺に男女の住居や勤め先など、殺害・解体現場となりうる拠点があったはずだ。しかし家主や拠点のオーナーも事件に絡んでいたのか、それとも単に「事故物件」となることを避けるため口が重くなったのか、男女について知らぬ存ぜぬを通して事件の隠蔽に加担したように思えてならない。

インターネット上には男女の似顔絵を頼りに国籍まで識別できる方々もいらっしゃるようだが、筆者の目には日本人にも韓国人にも中国人にもフィリピン人にも見える。国籍が違えば被害者の身元不明もさもありなんと思うかもしれないが、東京には日本中から若者が流れ込んでおり、ご存じの通り年間失踪者は8~9万人前後あり(8割方は短期間で発見に至る)、その6割近くが男性である。前科持ちでDNAを採取されていたり、特徴的な手術痕やタトゥーでもないかぎり、国籍を問わず身元特定は至難の業である。

福岡美容師バラバラ殺人では、遺体を包んでいたチラシの配布地域からも加害者の居住エリアの絞り込みが行われた。そうした物証のなさが本件のネックであり、そして唯一の証拠ともいえるバッグから引き寄せた男女の似顔絵も、実物は日々刻々と変貌を遂げてしまっているかもしれない。髪型や色を変え、ときに顔立ちさえも変えているかもしれないが、殺人者が罪を償うこともなしに善人に生まれ変わることは断じてない。

一日も早い捜査の進展と事件の解決を願います。

チルゴック児童虐待死事件

 

11歳の殺人者

2013年8月16日金曜日の夜、慶尚北道漆谷(チルゴック)郡倭館邑に暮らす8歳の女児が腹痛で倒れたと通報が入り、搬送先の病院で死亡が確認された。救急隊が駆けつけた時点で女児に呼吸や脈はなく、腹部が異様に膨れ上がっていた。腸が破裂しており、死因は外傷性腹膜炎と診断される。

母親は児童福祉局に連絡し、「娘が亡くなったのだが葬儀をどうすればよいか。補助金などは出るのか」と問い合わせた。同局の社会福祉士は以前から彼女の言動に不信感を抱いており、「生活保護受給世帯しか葬儀補助金は支給されない」と伝えてその場を収め、児童虐待死の疑いがあるとしてすぐに警察に通報した。

警察は医療機関に遺体状況などを確認し、女児の自宅を訪問して通報に至るまでの経緯などを聞いた。一家が暮らすチルゴック郡倭館は、韓国第4の都市大邱(テグ)広域市の北西約25kmに位置するいわゆる郊外地域である。両親と姉妹は2か月前にその集合住宅へ越してきたばかりだった。

両親は何事が起きたのか目にしてはいないが、気づいたときには下の子が激しい腹痛を訴えており、上の娘に問いただすと妹への暴行を認めたと証言。すぐに治療費が工面できなかったため通報が遅れたなどと説明した。

親の証言通り、亡くなった女児の実姉(当時11歳)が妹への暴行を認める供述をしたことなどから、捜査員は署に連行して詳しい事情を聞くこととした。

本稿では、本事件を取りあげて全国的に注目を集める契機となったSBSの追跡調査番組『それが知りたい』に倣い、亡くなった妹を「ソウォン(“願い”)」、実の姉を「ソリャン」の仮名で呼ぶこととする。一部マスコミでも「ソウォン事件」の呼称が用いられた。

ソウォンの身体には無数の暴行の痕跡があった

被害者の姉ソリャンは「妹に人形を取られたので、腹が立って拳で5回ほど殴りかかり、脚でお腹を何度も蹴った」と身振り手振りを交えながら捜査員に説明した。

しかし医療機関の報告によれば、遺体には全身数十か所にアザができており、目の内出血も認められた。頭部とあごには縫合した古傷が見られ、腕は関節が曲がらないほど歪曲する(骨折の放置による)など、長期にわたる暴行の兆候が認められたという。医師は「平均的な11歳女児が負わせたケガとは到底思えない」と見解を示した。

近隣住民も母親の怒声や激しい騒音、女児たちの泣き声を幾度となく耳にしており、虐待はほとんど周知の事実として知られていた。半年前には小学校から児童福祉局に通報が入り、福祉局員らが家庭訪問を行っていたが、両親は虐待を認めず、親権を盾に介入を拒否していたという。

姉妹の両親は下の娘ソウォンが生まれてすぐに離婚しており、1年半前から実父と内縁の女性との同居が決まり、四人暮らしが始まったという。警察では児童福祉局のこれまでの調査結果などを踏まえ、姉妹の継母イム氏を追及する。彼女は殺害を認めることはなく、暴行については、姉の言うことを聞かなかった罰としてソウォンを平手で一発だけ叩いたと主張した。

取調官はソリャンが両親から偽証を強要されているおそれもあると見て、当初から慎重な聞き取りを行っていたが、少女は身柄を引き離されても証言を曲げようとはしなかった。そのため、当初、事件は11歳の姉の加害による8歳の妹殺しという構図で報じられた。

 

少女の告白

なぜ少女は継母の虐待について語ろうとせず、妹殺しを名乗り出たのか。

過去に児童福祉士や警官らが事情を聞きに訪れた際、姉妹はケガや悲鳴について尋ねられても姉妹喧嘩や「自分の不注意でケガをした」などと答えていた。虐待の事実確認が取れないことから強制保護などの対策が講じられることはなく、継母には口頭注意や育児相談の案内などで済まされ、事態は好転しなかった。

児童への聞き取り調査は通常、保護者同伴のもとで行われる。しかし事実を語ろうとすれば、継母からの激烈な「しつけ」が待ち受けていたことから姉妹は被虐待の事実を知られないよう隠蔽していたのである。

あるとき、虐待に耐えきれず一日中本屋で時間を潰していたソリャンに、警官が話を聞きに来たことがあった。少女は勇気を振り絞って継母から暴力を受けている事実を打ち明けた。しかし警官は「それでもきみは家に帰らないといけない」と促すだけだったという。

2012年5月から1年以上続いた壮絶な虐待生活によって姉妹は肉体的にも精神的にも継母によって支配されていた。周囲の大人たちに助けを求めても虐待がなくなるどころか、継母に知れれば逆効果になることを理解し、学習性無力感に陥り、助けを求めることさえ諦めていた。幾度かの試みも救済にはつながらず、「大人は自分たちの味方ではない」と刷り込まれていった。そして妹を失い、取り残されたソリャンの目には、「死ぬまでこの地獄からは抜け出せない」ように映ったのではないか。

事情聴取を受ける姉ソリャン(中央)

姉妹の実父キム氏には大学教授の姉がおり、キム氏の離婚後、まだ幼い二児を家に引き取り、約5年にわたって我が子同然に育ててきた。警察から事情を聞かれたこの伯母は、ソリャンの供述内容を真っ向から否定した。彼女は、継母イム氏による虐待を確信しており、ソウォンの死の真相にちがいないと断言する。

1年半前にキム氏から「これからは自分たちで育てる」と言われて、伯母は姉妹を返した。だが様子を見に行くと姉妹は体中にケガを負い、イム氏は「全然言うことを聞かないのでよくケガしてしまうんです」と説明した。長年姉妹をしつけてきた伯母には彼女の言葉が真実とは思えなかった。一方のキム氏は子育てに関心がなく、内妻の体罰に見て見ぬふりを決め込んでいた。

姉妹は長らく伯母に育てられてきた

ソリャンが親許に戻されることを危惧した伯母から相談を受けた弁護士は、慶北大学病院に入院させる手続きを取った。虐待に詳しい児童心理学者チョン・ウンソン教授は心理セラピーを重ね、少女が極度の人間不信に陥っていると判明する。

チョン教授は継続的ケアの必要から「今の彼女に必要なのは安全だ」と訴え、マスコミに「知られない権利」への理解を求めた。少女をカメラから遠ざけつつ、自らが矢面に立つことで虐待問題への意識づけを行い、関心の矛先を「虐待を繰り返さない」ための社会提言に向けるべきだと啓発した。

2014年1月に開かれた非公開の少年裁判でもソリャンは依然として妹への加害行為を認めていた。しかし裁判所は、少女の証言には信憑性がなく、継母による虐待が疑われるとして、保護処分なしの判断を下した。

ソリャンが大邱市内の児童保護施設に送致されてからも、伯母は献身的な生活支援や通院のサポート、少女自身の言葉が出てくるのを待ちながら対話を続けた。やがて少女の口から継母との暮らしや妹の死について少しずつ語られるようになった。

一年半前、伯母の家から父親のもとに帰された当初は姉妹も新たな生活に期待を抱いていたが、継母の「しつけ」は度を越えて厳しかった。姉妹が寄り道をして帰宅したり、わがままを口にするなど気に入らない点があれば、正座を強要したり、食事を抜いたりと容赦なく体罰を与えた。

「偏食がひどい」と言って二日間食事を与えられず、唐辛子ばかりを無理に口に詰め込まれたこともあった。トイレを流し忘れたときには食事に排泄物を混ぜて与えられ、家のトイレの使用を禁じられ、すべての用便を学校で済ませてから帰るように無理難題を命じられたという。

下の子に粗相があれば姉にも責任の一端があるとして妹への体罰を強制されることもあったと言い、そのたびにソリャンは罪悪感に苛まれながら妹の頭を叩くなどした。

近隣住民らは騒音だけでなく、冬に下着姿でベランダに締め出される姉妹の姿を目の当たりにしていた。暴行は恒常化しており、顔や全身の傷が学校教諭らの目にも留まったが、法的制約によって介入を拒まれた。

縄で首を絞めて失神させたり、意識を失うまで浴槽に沈められたりといった拷問まがいの目にも遭ったと言い、両親が数日間家を空ける際に姉妹はトイレに監禁されていたと語った。ときにドラム式洗濯機に閉じ込められてスイッチを入れられたことさえあったという。

映画『어린 의뢰인(幼い依頼人)』より

過去、ソリャンが児童福祉局に「妹が従兄弟(伯母の息子)から性的暴行を受けた」と通報していた事実も確認された。姉妹は身体検査を受けたが性的暴行の兆候は確認されず、社会福祉士はイム氏に警察への通報を勧めた。しかし継母はなぜか警察沙汰にすることを拒み、局員たちの目にはそうした騒動もどこか奇妙に映った。

イム氏は教会や学校でも「伯母の家に預けていた娘が性的暴行を受けた」と触れ回っていた。後の調べにより、イム氏は伯母家族の社会的信用を損なわせるため幼い姉妹に性被害を演技させていたことが明らかとなった。虐待を疑ってかかる伯母を逆恨みしたイム氏は、伯母家族と姉妹を遠ざけようとしていたのである。

伯母は継母抜きで姉妹に会おうと小学校を訪れたが、ソリャンは悲鳴を上げて教師に助けを求めたことがあった。イム氏は周到にも姉妹に伯母の悪口を吹き込み、もし会いに来たら拒絶して周囲に助けを求めるように命じていたのである。

そんなイム氏の元夫は、「彼女は口を開けばウソか金のことばかりだった」と振り返り、彼女が狂言自殺を繰り返したことが離縁の理由だったと述べた。彼女はキム氏と内縁関係となるまで「二人の実の娘は自分が育てる」と言って譲らなかったが、それも養育費をたかるための口実であろうと元夫は語っている。

逮捕収監される継母イム氏


韓国の児童虐待死は平均して年間40件前後発生し、人権意識が定着した1990年代後半以降はとくに大きな話題を集めてきた。本件では、とりわけソウォンの落命まで454日間にわたって延々と虐待が続けられたこと、さらに周囲の大人たちが気づいていながらも法的制約の壁によって救う手立てが何もなかった事実が大きな物議を醸した。

かつての日本と同様、韓国でも「子育て」に侮辱や体罰、強要が当たり前のように染みついていた。児童の尊厳はしばしば傷つけられ、自由を過度に制限され、その罪と責任は「家庭の問題」として棚上げされてきた。ときに死に追いやられてきたにも関わらず、事件として起訴されても量刑は不当に軽く扱われてきた。何の罪もない姉妹を、救えたはずの子どもたちの命を、この社会は守ろうとしてこなかったのである。

弁護団体や伯母の訴え、『それが知りたい』等での放映を受けて全国的な話題となり、マスコミ各社が「疑惑の姉妹殺人」とその裁判の行方をセンセーショナルに報じた。ソリャンの入院先の病院には潜入取材が試みられ、カルテの一部がリークされるなどし、イム氏の実の娘が通う学校にさえ取材陣が押しかけるなど、過熱する報道に対して再三の忠告がなされるほどだった。

全国の女性弁護士会、婦人団体や住民団体らが法改正のデモに立ち上がり、悲劇を繰り返すなと一斉に声を挙げ、2014年1月には児童虐待に対する明確な規定を盛り込んだ特例法が制定された。その第一条には、児童を保護し、健康な社会構成員として育むことが社会の役割であることが標榜されている。

この法律により児童虐待の基準が具体的に明文化され、厳しい罰則規定も加えられた。それまで制限の多かった家庭支援センターや児童福祉相談員の権限(矯正プログラムの受講命令、児童の隔離保護の強制など)も拡充された。

 

揺れる刑事裁判

継母イム氏は2013年10月に傷害致死容疑で逮捕されたが、間もなくソリャンに宛てて手紙を送っていた。

「愛するおねえちゃんへ。お母さんと会えたら“必ず抱きしめて”、たくさん愛してあげるからね。」

手紙は、学校のことや体調に注意するように心配する“よき母親”の筆ぶりで、「勉強に困ったらおねえちゃん(イム氏の実娘)が教えてくれるから」「貧血にならないように万遍なく食事を摂って、うんちの確認もしなさいね」「お父さんに言って乳酸菌飲料を買ってもらいなさい」と日常生活にも気を配るような細かな指示が与えられ、「お母さんの愛情が足りず、小言ばっかりでごめんなさい」と綴られていた。

イム氏が拘置所から送った手紙〔朝鮮日報〕

しかしソリャンが受けた数多くの虐待エピソードを知った人々は、これを娘思いの継母がしたためた愛情深い手紙だとは捉えなかった。裁判で情況を図る証拠資料として使われることを見越して手配した偽装工作のひとつとみなされている。

「帰ったら一緒に旅行に行こうね」

「大変だとは思うけどお母さんが帰るまで待っていてね」

ようやく虐待から解放されたソリャンがそうした文言を目にしたとき、「継母がまたすぐに帰ってくるのではないか」「再び地獄の日々に連れ戻されるのか」と恐怖に打ち震えたにちがいない。継母がそこまで意図したものかは分からないが、ソリャンにとっては一種の牽制となり、結果的に保護入院から2か月以上、継母の虐待と妹の死の真相について口外することはなかった。

その心理的メカニズムは、物理的に逃亡可能な環境下にあっても逃げ出せずにいる誘拐監禁被害者が「見えない鎖」につながれた状態とよく似ている。

それまで暴行の一部を認める供述をしていたイム被告だったが公判ではそれすらも覆し、ソウォンへの傷害致死および暴行の一切を否認した。

「娘同士でケンカしてケガがあればその責任のすべては保護者である私が負います。上の娘を守ってやるために、その罪を背負う覚悟で虚偽の供述をしました」

「上の子は普段から親の愛を独占したい気持ちが強く、下の子の世話との間でよく苦労させられてきました」と陳述し、ソウォンを死なせたのはあくまでもソリャンだと主張した。

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ソリャンも公判当初は被告人側の非公開証人として、妹への加害行為を認める陳述を維持していた。しかし公判終盤の3月19日に至り、「自分は妹を殺さなかった」とそれまでの主張を撤回し、妹の死の原因は継母による暴行だと告白した。

「8月14日(救急搬送の2日前)の午前中、母(継母イム氏)が妹を叱って腹を15回くらい殴り、倒れたところを押さえて横腹を10回くらい踏みつけた。午後になっても妹は呻いたままで起き上がることができず、見かねた母は夕方にも10回以上殴った」と述べた。

そしてそれまでの虚偽の自白を続けた理由について問われると、少女は「言うことを聞かなければ、家族がバラバラになると思った」と述べた。

起訴段階で検察はイム氏に対して傷害致死罪を適用していた。これに対し、ソリャンの弁護人は、姉妹への継続的な虐待と病院への通報の遅れは殺意を裏付けるとして、殺人罪の適用を求めていた。だが過去の児童虐待関連死の判例と照らしても、凶器でも出ないかぎり殺人罪での公判維持は困難というのが検察側の見解だった。

しかしソリャンの新証言を受けて、検察は傷害致死から殺人罪へ、また暴行に関して父母の共犯としていた点を継母による単独暴行に公訴事実の変更を申請。保護期間中に心理療法を受けて態度が変わってきていること、また継母イム氏と再び一緒に暮らす必要がないと確信が得られ、真実を打ち明ける決心がついたようだと教授の所見が伝えられた。弁護人もソリャンから裁判長に宛てた「おばさんを死刑にしてください」との手紙を公開して世論を煽った。

父キム氏はそれまでも暴行には加担しなかったが、イム氏の虐待を止めず、姉妹を保護することもしてこなかった。ソウォンは二日間死線をさまよっていたが、キム氏はその最期を撮影してソリャンに見せたという。彼は「11歳のソリャンならば刑事罰に問われない」として替え玉での自首を提案し、継母イム氏は身振り手振りを交えて取り調べのリハーサルを念入りに行って、少女に虚偽の自白をさせていた。

その後、イム氏の実の娘が非公開証言を行ったが、被告席に立つ実母に対して虐待を認める不利な陳述をしたと伝えられている。

 

検察はイム氏に懲役20年を、虐待の隠蔽などに加担した罪で在宅起訴されたキム氏には懲役7年を求刑した。対するイム氏の弁護人は、「99の罪人を逃しても1人の冤罪被害者を生んではならない」との格言を引き、イム氏による殺害の証拠はないとして無実の主張を繰り返した。

取材陣に包囲されながら出廷するキム氏

2014年4月11日、大邱(テグ)地裁は、継母イム氏に懲役10年、父親キム氏に懲役3年を宣告した。量刑判断について、初犯であることを勘案すれば類似事犯との比較において決して軽い判決ではないと説明された。

しかし求刑の半分というあまりに軽い量刑に愕然とした伯母は「むしろ私を殺してください」と言って我を失い、医務室に搬送される一幕もあった。

機械的な罪状適用や量刑基準には国民から不満の声も大きかった。それでも過去の児童虐待死では、手足での暴行死には殺意の認定を立証することが難しく、傷害致死では懲役5年以下が相場であった。判決審には取材陣のほか、家族問題に関する団体、児童福祉団体や傍聴希望者100名余りが集まっていたが、その判決が伝わるや「死刑にせよ」のシュプレヒコールが湧き起こったとされる。

1997年12月以来、韓国では死刑執行が停止されており、国際的には「実質的な死刑廃止国」とみなされている。それにも拘らず、罪なき児童が被害者となった大事件ではしばしば死刑復活の声が再燃する。

www.seoul.co.kr

検察側は起訴の段階でソリャンの被虐待供述、継母による犯行の陳述を得られておらず、ソウォンの傷害致死を軸に事実認定を争ってきた。だが途中でソリャンの新証言を得たことから、児童保護法違反など一連の虐待を児童福祉法違反容疑で追加起訴した。

2014年11月17日、大邱地裁ペク・ジョンヒョン裁判長は、ソリャンの陳述には信憑性が認められるとして、姉妹への深刻な虐待や虚偽自白の強要といった公訴事実をほぼ全面的に認定。尊厳を踏みにじる行為に対して厳重な処罰が必要だとして、イム氏に懲役9年と120時間の治療プログラム履修、また出所後7年間の身上告知義務を課し、キム氏に懲役3年を追加宣告した。

https://legalengine.co.kr/cases/40026546

2015年1月、ソリャンと伯母夫妻の養子縁組が認められた。これによりキム氏とソリャンの法的親子関係は失効する。

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控訴審では併合審理とされ、傷害致死および児童福祉法違反の罪でイム氏に懲役15年、キム氏に懲役4年が言い渡された。

2015年4月10日、最高裁キム・シン裁判長は原審判決の適法性を認め、刑が確定した。

継母イム服役囚は2029年に出所予定である。

幼い依頼人(字幕版)

この事件は2019年に『어린 의뢰인(My first client、幼い依頼人)』として映画化され、R-12指定ながら国内で20万人が劇場に足を運んだ。作中で被害児童は12歳の姉と7歳の弟とされ、実母は亡くなっている設定が採られた。事件を忠実に再現するかたちではなく、児童福祉局に身を置く男性弁護士と姉弟との心の交流を軸に描いている。

制作決定が報じられると巷間には「生き残った姉への二次被害になりかねない」と懸念する声も聞かれたが、製作会社は少女本人とも交渉して「自分と同じような境遇の子どもたちを勇気づけるために」と映画化了承を受けた経緯を伝えた。またキャストやスタッフにも専門家による精神衛生対策を講じて撮影されたと説明している。

被虐待児を演じる子役の負担が心配されていたが、実際の現場では加害者の継母役を演じた俳優ユスンさんの精神的負担が大きかった。彼女は「直接的な暴力シーンの撮影前は気が重く、眠れなかった」と振り返り、「社会に一石を投じる作品になればと思います。問題意識をもつきっかけにしてほしい」と所信を伝えている。監督はユスン氏の心的負担を鑑み、加害者の継母にも被虐待歴があった、虐待の世代間連鎖を示唆する架空の設定を付け足すことにしたと明かしている。

ソリャンがお気に入りに挙げる作品

事件から10年後となる2022年、近現代史や事件の後日譚を紹介するSBSの教養番組『꼬리에 꼬리를 무는 그날 이야기(尻尾に尻尾を付けるその日の話)』が本件を取り上げ、虐待サバイバーとなった姉ソリャンにインタビューを行った。彼女はアートセラピストの勉強をしながら、「自分と同じ被虐待児童たちの助けになりたい」と語っている。

 

蔚山継母殺人事件

映画『幼い依頼人』では、「男児に金を盗まれた」と誤認した継母が致命的な虐待に及ぶという脚色になっている。このエピソードは同じ2013年に蔚山(ウルサン)で起きた別の児童虐待死事件をモチーフにしている。

両事件は同じく「継母」による児童虐待死事件として並行して報じられ、また裁判の渦中も国民的議論を巻き起こした。医療従事者や学校関係者ばかりでなく、近隣住民など地域社会においても児童保護への意識づけが助長された。それまでも児童虐待通報は増加傾向にあったが、2010年に1万人ほどだった通報件数は2014年に1万6千件にまで飛躍的に伸びている(このうち6割から7割程度が虐待事案と認定されている)。

以下では、蔚山広域市蔚州(ウルジュ)郡で起きた虐待死事件について見ていこう。被害者は蔚山湖延小学校に通う7歳の女児イ・ソヒョン(仮名)とする。

 

10月24日の深夜11時22分、「娘が風呂で溺れたらしい」「水を吐き出させようとしたり、人工呼吸や心肺蘇生を試みたりしたが反応がない」との119番通報が入る。

しかし駆けつけた救助隊員は保護者の証言を不審に思い、遺体状況から虐待死が強く疑われるとしてただちに警察に通報した。遺体の腹は異様に膨れ、24本ある肋骨のうち、16本までもが折れて肺を突き破っていた。

父親イ・ハクソン(事件当時46歳)は数年前にパク・サンボク(当時39歳)と内縁関係となり、妻(ソヒョンの生物学上の母親)と離婚。イ氏は娘の親権に執着し、元妻に発見されないように幼子を改名させていた。

イ氏は3年程前からパク・サンボクと同棲し、ソヒョンも彼女のことを「オモニ(お母さん)」と呼んでいた。ソヒョンは礼儀正しく学校の成績も優秀で、継母パク・サンボクは父母会の地区代表を務め、対外的には良妻賢母かのように思われていた。

近隣住民らは、彼女に法的な離婚手続きが済んでいない夫がいることや、中高生になる実の娘二人を置き去りにしてきたことなど知る由もなかった。パクは実子の学校生活に影響が出ること(いじめなど)を嫌い、正式な離婚に応じなかったとされる。

事件翌日は小学校の遠足で、ソヒョンは釜山の水族館に行けることを楽しみにしていたという。父の仕事の都合で前々から仁川への転居が決まっており、引っ越しの予定を先延ばしにして遠足に参加できるようにしてもらっていた。しかしそんな子どもらしい願いも叶う日は来なかった。

パク・サンボク

鑑識調査の結果、現場浴室には肉眼では確認できない広範な血液反応、つまり血が拭き取られた痕跡が明らかとなった。さらに亡くなったソヒョンは、少なくとも3年間にわたって虐待を受けていた事実が浮かび上がる。

彼らが浦項(ポハン)に暮らしていた当時、幼稚園の教諭がソヒョンの頭髪の一部が血液で固まっているのに気づき、確認すると頭の傷以外にも全身にアザが見られたことから児童福祉機関に通報した。背中を竹刀で殴打したことなどが認められ、福祉職員は保護者向けの育児セミナーへの参加を促すなどしたが、パク・サンボクはそうした提案や介入を拒んだ。

当時の児童保護関連法における法的措置の権限は限定的で、ほとんどの場合、福祉機関が家庭に介入したり強制的に隔離したりする効力を持たなかった(つまり「事件化」して凶行が明るみに出るときは「最悪の結末」を迎えた後だった)。

2012年5月には「門限を破った」との理由で太腿を蹴りつけて骨折させていたことも分かった。父イ・ハクソンは不動産のディベロッパーで各地を回るため、家を空けることが多く、パクに家事育児を任せきりにしていた。だが余程見かねたのか、その年の10月にはイ氏からパクに対して「娘への体罰を辞めるように」と忠告された。しかし彼が再び出張に出るとソヒョンは風呂場で熱湯を浴びせられるようになり、手足に少なくとも二度のやけどを負った。

イ氏はパクによる虐待場面を直接目にすることはなく、ソヒョンの脚の骨が折れた時は「階段から転落した」、やけどの際は「ボイラーの操作を誤った」、死亡した翌日も「遠足に出掛けていった」と聞かされていた。パクは娘の葬儀に訪れた知人たちにも不幸な事故で命を落としたと説明した。

事件が公になると、人々は女児が一年を通して長袖の服ばかり着せられていたことの真意に気づいたという。


先に触れたように、当初、パク・サンボクはソヒョンが数千ウォンを手にしていることを知り、自分の金を盗まれたと疑い詰問した。しかし娘が盗みを認めようとしないため激しい折檻になったと説明した。だが現実には、ソヒョンの転校(転出)の知らせを耳にした贔屓の美容院の店主が餞別のつもりで2万ウォンを持たせていたことが判明する。

自由に使える小遣いを持たされたことがなかったソヒョンは、転校を前に仲のよかった友人たちにキャンディーをプレゼントするため数千ウォンを使った。美容師から小遣いを貰っていたことを後から聞き知ったパク氏は、2万ウォンを渡すように要求し、すでに数千ウォンを使ったと知るや一層激烈な暴行を加えたとされる。

その後、女児は風呂に入ったが戻らないので確認してみると浴槽で溺死していたと主張した。「入浴」にはアザなどの発生時期を隠蔽する意図があったと捉えられた。法医学者の報告では、亡くなった女児の腕のアザの状態から見て、腹部を防御できないように両腕を強く掴まれていた可能性が指摘されている。また臀部から肛門にかけて広範囲に肉づきがなく、皮下組織に繊維化症状が現れていたという。これは破損した組織が回復される前に再度暴行を加えた場合に生じるという。

さらに女の余罪も明らかとなり世間から強い非難を招いた。事件の数か月前、ある保護者の自宅に集合して学校行事の打ち合わせが行われた際、化粧台に置かれていた約400万ウォン相当のリング2つが紛失しており、家宅捜索の際にパクが窃盗していた事実が判明する。亡くなったイ・ソヒョンはわずか2、3000ウォンの買い物で命を奪われるほどの咎を受けたというのにである。

拘置所に収監されるや、パク被告は不動産業の勉強を始めたことが漏れ伝えられ、これも大バッシングを受けた。すぐに出所するつもりの行動と捉えられ、罪の意識や反省するつもりがないサイコパスだとして市民社会の報復感情の火に油を注ぐこととなった。

父親イ氏は虐待に直接関与していないながらも幇助した罪で懲役4年が言い渡された。

一審でパク被告は、ソヒョンが死に至ったのは仮にも保護者である自分に責任があることは正しく、暴行に至ったことも事実ながら、殺害の意図は存在しなかったと主張した。検察は、3年以上にわたって内縁の夫や周囲の目を欺く卑劣な虐待と隠蔽を続けてきた常習性から殺人罪での死刑を求刑した。

チルゴックのソウォン事件と共に大きな注目を浴びた児童虐待事件ながら、かたや傷害致死、本件は殺人と罪状が異なったことでも物議を醸した。しかし一審蔚山地裁は、被告人らの供述と現場状況には相応の一致があり、その故意性まで判断することはできないとして、従来の児童虐待関連死と同様、過失致死罪の適用が妥当とし、懲役15年を言い渡した。

2014年10月、二審釜山高裁は、原審判決を破棄。血にまみれ顔面蒼白となった無抵抗な児童に対して一時間近くも腹部を執拗に狙って暴行を繰り返した事実、これまでの隠蔽行動や虚偽の供述から、死の危険性を十分に予測できた上での暴行加虐と認められ「未必の故意」があったと判断し、殺人罪を適用した。

電子追跡装置装着の義務付けが請求されていたが、この事件は家庭環境など特定の関係性のもとで生じた殺害であり、故意の殺人は否認しているが虐待事実については容認してその過ちを悔いており「再犯可能性は低い」と評価し、却下した。

被害状況は非常に深刻で、被害者は報復を恐れて長らく従順にして委縮した生活を強いられ、親族らに一生消せない遺恨を残し、再発防止を求めて厳罰を求める嘆願が寄せられるなど社会的影響も甚大だが、元夫との離婚や実娘との断絶、同居していた夫の父親との確執など心理的負担感が虐待の背景とされた。

未必の故意による殺人罪での最高量刑となる懲役18年が言い渡された。上告はなされず現在も服役中である。

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蔚山継母殺人事件/釜山高裁判決要旨

https://legalengine.co.kr/cases/E6N3gv_ZUmjJ0dSjHWl34g

釜山コーヒーショップ従業員殺人事件

15年目の検挙によって解決を見たかに思われた女性殺害事件。しかし厳格な司法の壁が最後に立ちふさがった。

 

漂う遺体

2002年5月21日(火)の深夜、釜山広域市沙上(ササン)区掛法洞(クェボッドン)にある喫茶店「太陽茶房」従業員のヤンさん(22歳)が帰宅途中で行方が分からなくなった。

喫茶店のある掛法洞は新羅大学のお膝元で周辺住民も多い商業区域。ヤンさんは午後10時に店を退勤し、午後11時ごろ、後輩女性と電話で会話したのを最後に消息を絶ち、翌日から無断欠勤が続いた。

日頃から交流のあったヤンさんの姉は妹と連絡がつかないことを不審に思い、数日経ってヤンさんの部屋を直接訪れたが、ドアは施錠されており、室内は普段と変わらず荷物が持ち出された様子もなかった。姉はその足で、妹の居場所を聞こうと「太陽茶房」を訪ねたが、同僚たちも連絡が取れず一様に首をかしげている始末だった。

 

その後も音沙汰はなく、結局家族は、失踪9日目に沙上警察署に行方不明を届けた。

しかしその翌日となる5月31日、女性は掛法洞から南西約16kmに位置する江西(カンソ)区鳴旨洞(ミョンジドン)を流れる西洛東江の河口付近で変わり果てた姿で発見される。

発見当時の現場


第一発見者は「城倉(ソンチャン)木材」付近を通行していた公共労働者で、堤防際に打ち寄せられている大きな漂流物を見つけて通報した。漂流していたのは黒と黄色の二種類のゴミ袋で、中からつぎはぎに覆われた女性の腐乱死体が発見される。遺体は着衣のままで手足とひざが拘束され、刃物で40か所以上を滅多刺しにされていた。

その後の司法解剖により、致命傷となったのは胸部2、3カ所の刺し傷で大量出血に伴う失血死と推定され、性的暴行の痕跡はなかった。

警察は殺人事件と断定して捜査を進め、遺体は行方不明となっていたヤンさんと特定される。関係者への聞き込みでは周囲とのトラブルも確認できず、交遊関係から容疑者らしい人物は浮かばなかった。

また事件の発覚まで10日を要したことや、現場が海に近い河口付近で潮流が入り混じるエリアだったことなどから、上流から遺棄されたものか、海から遡ってきたものかも判断がつかず、犯行現場の目星がつかなかった。

しかし6月になってヤンさんの預金口座から失踪直後に金が引き出されていたことが分かり、銀行の防犯カメラを確認したところ不審な男の姿が捉えられていた。

男の顔は半分隠れていた

失踪翌日の5月22日正午過ぎ、「太陽喫茶店」から程近い銀行で、20代半ばから30歳前後と見られる容疑者男性Aがヤンさんの口座から296千ウォン(およそ30万円)を引き出していた。普通体型、中短髪でひげはなく、「ニューヨーク・ヤンキース」の赤色キャップを目深にかぶり、顔の半分がはっきりと見えなかった。男は四桁のパスワード入力を二度誤り、一旦退店するもすぐに舞い戻り、三度目でパスワード解除に成功した。

当局は6月5日に預金が引き出されていた事実を確認。男性Aはその後引き出しに訪れていなかったことから、6月10日、銀行に口座の凍結を要請するとともに、市内の銀行に男性Aの画像付きチラシを配布して情報を求めた。

しかし、6月12日、掛法洞から北へ6.5km(電車で6駅)離れた北区徳川洞の銀行で「預金引き出しができない」としてヤンさんの口座の解約と残金500万ウォン(40-50数万円)近くの払い戻しが行われた。そこに現れたのは男性Aではなく女性二人組だった。

30代前半と見られる容疑者女性Bは、身長160cm前後、体重75kg内外の中太体型、おでこを出したセミロングヘア。一緒に来店した20代後半とみられる容疑者女性Cは身長160cmほどで中肉体型、肩にかかるパーマヘア。女性たちはAに比べて顔立ちや風体も捉えられていた。

赤い丸で囲んだのが容疑者女性B(左)とC(右)

左が容疑者女性C

家族や知人らの話では、被害者ヤンさんは明るく誠実な人柄で、将来は料理人を目指して倹約に励み、月100万ウォン(およそ10万円)近くを貯蓄に回していたという。警察は被害者と面識のある人物による犯行と想定し、口座のパスワードを聞き出すために過剰な刺し傷を加えたものと考えた。

当初、アリバイやヤンさんとの交流機会などについて虚偽の供述をしていた叔母に嫌疑が向けられていたが、銀行に現れた三者とのつながりは確認されず、金の出入りもなかったことなどから最終的に嫌疑は晴れた。捜査当局では関係者50人余りに再度事情聴取を行い、三者の情報を求めたが手掛かりは得られなかった。

防犯カメラの画像を基に、三者について懸賞金付きの公開捜索に切り替えられた。遺体が見つかった5月31日は、韓日共同開催されたアジア初となるFIFAワールドカップの開幕戦(ソウルで行われた開幕戦は前回優勝国にして前評判も高かったフランスが大会初出場セネガルに0対1で敗れる大波乱となった)と重なって事件が注目されづらかった事情もあった。

しかし有力容疑者の風貌や犯行エリアがほぼ判明していながらも有力な情報はもたらされることなく、捜査は暗礁に乗り上げた。そのまま行けば2017年には公訴時効満了を迎える予定だった。

しかし2015年、刑事訴訟法の改正により殺人罪の公訴時効が撤廃されたことに伴い、長期未解決事件(2000年8月1日以降に発生)の捜査が再始動することとなり、事態は急転直下を迎える。

 

15年目の進展

2017年8月31日、釜山警察庁・未解決専任捜査班は女性従業員殺人の容疑者3人を逮捕したと発表した。詐欺、私文書偽造・行使などは公訴時効10年を過ぎていることから女性B、Cは起訴できず、男性Aに対する強盗殺人罪の容疑に絞られた。

 

釜山警察では再捜査に伴って、2016年2月25日にfaccebook上で3容疑者の顔写真などを公開して広く情報提供を求めた。すると翌3月、「知人女性に似ている」旨の通報があり、身辺調査などを行ったところ、事件当時、女性BとCは沙上区の居酒屋に勤めていた元同僚と判明する。

4月、女性B、Cに詳しい事情を確認したところ、当時店の客として知り合った男性Aが主犯格だと主張し、自分たちは現金の引き出しを頼まれただけで男や金の出処について詳しいことは何もわからないと供述。

再捜査班は銀行周辺での通信記録1万5千件余りの照合を行い、女性たちとの通話記録のあった回線の割り出しに成功し、男性Aとみられる人物をあぶり出した。

記者発表の様子


男はかつて釜山の工場に勤めていたが、ギャンブル狂いで8000万ウォンまで借金を膨らませ、月100万ウォンの利息に苦しんでいた。事件発生から2か月後となる2002年7月に少女の売春斡旋により未成年者保護法違反容疑で逮捕され、懲役2年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受けていた。しかし翌03年に女性への強制わいせつにより再び逮捕、懲役7年が加算され、2012年3月まで服役していたことが判明する。

また2002年当時、男性Aと短期間同居していた女性E(非公表だが、Eの姉がAに売り渡し、売春を斡旋されていた元少女と推測される)を探し出し、「5月ごろ、丸みを帯びたゴミ袋を一緒に運ばされ、トランクに積んだ記憶がある。車にゴミ袋を積むこと自体が初めてのことで、袋の中身がやや水っぽい、普通のものではない感触だった。Aの気が立っていたので中身について聞けず、どこか分からないが平らな場所で下ろした」との言質を得た。

並行して監視カメラ映像の分析が行われ、顔面の形状や耳の角度、頭髪の生え際の分析、脚の癖など生物学的特徴から、捜査対象者と同一人物である可能性が高いと分析された。回収した筆跡の鑑定でも、預金引き出しの際にベースボールキャップの男が記入した筆致と類似性が高いとの結果が出た。

男性Aが当時乗っていた赤い国産スポーツカーはその後、人手に渡っていた。2013年に「破格値で譲り受けた」という人物は、1年ほどして自分で改造を加えようと後部シートのカバーを剥がしたとき、血のような赤黒い汚れを見つけて気分を悪くしたと語った。だが血痕か否か確認は取れておらず、当の車両はAの逮捕前に廃車されていた。

 

逮捕された男性Aは一貫してヤンさんの殺害・死体遺棄を否認。当初は当該銀行を利用した事実はないとしていたが、元妻、元同居男性、元同居女性E、旧友、元同僚らに個別聴取した結果、ビデオを見た全員がベースボールキャップの男はAで間違いないと回答したことなどを受け、「拾ったバッグから通帳を奪取して預金を引き出しただけ」と供述を変えた。

2017年9月15日放映の時事・社会問題を扱うドキュメンタリー番組『気になる話Y』では、検挙時の模様が一部公開された。容疑者Aは警察に取り囲まれてもタバコを吸う素振りを見せ、自分が犯人ではないとしながらも許しを請うような言葉もあったとされる。

前科で獄中にいた折、男はカトリックに帰依しており、以来「悪事から足を洗った」と主張。事実、週に2度の修道院通いと奉仕活動を15年間近く続け、模範的な信徒として知られていた。

本件での逮捕を受けて、Aは修道女に「自分は過ちを犯してなどいないのに、警察が物証もなしに心証だけで犯人に仕立て上げた」と話したという。「警察は自白と引き換えに量刑軽減の“ニンジン”をちらつかせてくるだろう、見当はつかないがそうなれば向こうの要望に応えるつもりだ」とまで内心を打ち明けていた。

しかし彼の打算はハズれ、そうした司法取引は交わされなかった。

 

審理の行方

日本の刑訴法をモデルとした韓国の刑事裁判でも、直接証拠や重要な手がかりが消失した場合でも、理性的推論と間接証拠の相互関連に基づき、公訴事実が立証可能とされている。だが有罪と認められるためには、間接的証拠を積み重ね「合理的な疑いの余地がない」程度にまで証明されなければならない。

釜山地方裁判所で初公判が開かれ、前述の通り、検察側は被告人A単独による強盗殺人を主張した。被告側は、預金の引き出しは事実としながら、通帳入りのバッグは拾得物で、被害者女性から強奪したり、殺害したりといったことはなかったと反論した。

検察は主に以下四つの情況証拠を提示した。

・女性の失踪から半日足らずのうちに被告人が預金を引き出している点

・Aが口座のパスワードを知っていた点

・元同居人Eによる「一緒にゴミ袋を運び出した」という証言

・Aが殺害への関与をほのめかしたとする警官らの証言

Aとヤンさんの間に面識の有無は不明だが、借金苦に喘いでいたAが強盗に及ぶことに不思議はなく、事実、男には夜道で女性を狙った強盗や強制わいせつの前科があった。しかし被害者と言い争う姿や刃物を突き付ける様子など犯行の過程は一切目撃されておらず、指紋付きの凶器やバッグなどの遺留品が見つかってもいなければ、まして遺体から男のDNAが検出された訳でもない。

犯人は彼女がいつも通帳を身に付けていたことを知っていて尾け狙っていたのか、事前に帰りが遅いことを知って家の近くで待ち伏せたのか、単に夜道で行き会った相手がたまたま彼女だったのか。そもそもどこで殺害されたのか、具体的な犯行や足取りは明らかにならなかった。

有罪の可否についての評決は9名からなる陪審団によって行われ、有罪7名、無罪2名とされた。女性B、Cを使っての追加引き出しは併合罪が適用され、40回以上もの残酷な刺し傷や反省悔悟もなく言い逃れとも取れる容疑否認の態度は量刑判断で大きく不利にはたらいた。

2018年1月9日、キム・ジョンス裁判長は無期懲役を宣告した。陪審団の量刑意見は、死刑3名、無期懲役4名、懲役15年2名であった。

 

被告人Aは事実誤認と誤審を、検察側は量刑の不服を訴え、双方が控訴する。

取り調べを受けたAは被害者の口座の四桁のパスワードを記憶していなかった。銀行で二度の暗証番号入力に失敗した後、バッグの中身を確認し直し「被害者の身分証や携帯電話番号から類推して」三度目に成功したと述べたが、警察の調べでは適合する数字や計算法は見つけられなかった。

すると同じくバッグに入っていた手帳に記載されていた「被害者の親の生年月日」の組み合わせだったと言い換えた。手帳は処分されており記載の確認が取れないものの、離れて暮らす両親の誕生日を手帳に記していたというのもにわかに信じがたい供述である。

また一般的に通帳を紛失すれば第三者に預金を引き出されないように、銀行に速やかに申告するものと考えられる。最初の引き出しに成功したとて、Aは20日近く経って尚も執着し、女性B、Cに口座の解約に行かせている。

これはAが、通帳紛失の届け出がなされていないこと、すなわちすでに預金者が死亡している事実を知っていたことを裏付けると検察側は主張した。

かつての同居人Eは、最初の聴取でアパートの場所さえ記憶していなかったが、その後の催眠調査や周辺の動画、画像を見せるなどしてAや同居当時の記憶を多少取り戻した。高裁は、調査の過程で記憶の歪曲や汚染が考えられるが、調査前の「ゴミ袋を車に乗せた」との証言は、Eにとって共犯を疑われかねない不利な供述であることからも、逆説的に信憑性が高いと評価した。

2003年3月ごろ、Aは夜間、高級車を運転する女性を相手に金品を強奪する犯行を繰り返しており、背後からロープで首を絞め、粘着テープによる拘束を行い、強制わいせつに及んでいたが、前科があることを以てして証拠もなく別の事犯にそのまま当てはめることはできない。

Aの携帯電話の検索履歴には、主に宝くじの当選番号や地図情報の記録が多かったが、2016年5月3日には「殺人公訴時効」、5月21日には「殺人公訴時効が廃止」を検索していた。

取調官によれば、Aは強盗殺人を否認しながらも「双方にとってベストな量刑はどれくらいか」「検事さまに善処の基準を教えてもらいたい」など、量刑について尋ねたり司法取引を匂わせる発言が出たのは不自然に感じられたという。

また他の警官らは、護送や家族との面会など私的な対話の場で「その日、喫茶店で見掛けて、帰りにドライブに連れて行った」「部屋に連れ込んだが、そのとき頭に血が上って、半狂乱になった」など犯行をほのめかすような発言がしばしば聞かれたと述べた。

これに対し、Aはタバコを貰う交換条件を引き出すために芝居を売っただけだと反論した。前科者のAは、正式な事情聴取で調書に取られなければそうした部外での発言は裁判で不利な証拠にはならないことを熟知していた。

被告人には自らにとって不利な証言を拒む権利が認められており、自供内容が変遷したことをもって犯罪性を問うことはできないが、Aの供述は全体的に信憑性が薄いと捉えられた。

弁護側は、被害者をよく知る某氏(おそらく叔母)を有力な容疑者として指摘しており、アリバイ供述、被害者との電話連絡の有無、被害者との面会時期などで偽の陳述を行っていた。事件前後の39時間にわたって携帯電話やインターネットの接続履歴がなかったことなどを不審点に挙げた。

また遺体の剖検で多量のアルコール分が検出されていたことから、5月22日12時過ぎのAによる引き出しの際に被害者が存命だったとすれば、拉致された後も酒を飲んでいたことになり、一般的な経験則に照らしても異例だと主張し、殺害には関わっていないことを裏付けようとした。

しかし高裁は、某氏への疑いが残るにせよ被告人Aの疑いが減衰することはないとした。またアルコールは職場帰りに口にしていたとも考えられ、22日昼の預金引き出しまで被害者が存命だった確証もなく、失踪当夜すぐに殺害されたと考えることも可能だとした。

量刑への異議に対して、法定刑は死刑または無期懲役が相当であり、罪状や被告人の情状に照らして一審陪審団の裁量が合理的な範疇から外れるものではないことを示し、シン・ドンホン裁判長は双方の控訴を棄却。一審判決の無期懲役を維持した。

被告人Aは上告する。

 

差戻し審

最高裁は、検察、弁護側の審理を尽くす場ではなく、高裁の事実認定に誤りはないか、法解釈に問題はないかをチェックする最終審査機関である。

2019年1月10日、最高裁ミン・ユスク裁判長は、原審(二審)判決を破棄し、釜山高裁への差戻し審理とする判決を言い渡す。その理由として、様々な「合理的疑い」が指摘される格好となったので細かい議論にはなるが詳しく見ていこう。

まず前提として、既存の間接証拠やAの自供から、預金引き出しの事実を以てして女性殺害の事実認定はできないことが確認された。

原審で殺害の有力証拠とみなされた元同居人Eの供述にはそもそも曖昧で、殺人という重罪に対してほぼ唯一ともいえる証拠であることを踏まえれば、より厳格な評価が必要だと最高裁は指摘している。

Eは、「おそらく2002年5月ごろ」、Aに「正方形の倉庫のような建物」まで連れて行かれ、「Aがゴミ袋を引きずってきて車のトランクに詰め」るように命じられたという。場所を移動して「セメントの床がある場所で袋を下ろし」た後、自分はしばらく「石の上に座って待っていた」と述べていた。それだけ聞いても殺人事件とは到底断定しえない。

また一人で引きずれる荷物であれば、犯行が露見するリスクを冒すことなくAが独力で車に積むこともできたのではないかという疑問が生じる。先述の通り、袋の中身について暴露や示唆はなく、トランクから出した荷物をAがどこでどう処理したのかという重要な情報も欠落している。

またEは「黄色いゴミ袋」については記憶していながら、Aの車両が「赤いスポーツカー」だった記憶は欠落しているなど具体性に欠け、不自然とまでは言えないが信用に足るとは言い難い内容だった。Eが被告人Aを殺人犯に貶めようとするほど怨恨が深いとは思われないが、捜査員の質問に同調したり、共犯の疑いを避けるために自己防衛をしているとも考えられる(あるいは何か後ろめたい余罪があったやもしれない)。

さらに死亡推定時刻についても疑問が残る。国立科捜研法医間の作成した死体検案書には「2002年5月22日未明(推定)」とあり、釜山科捜研では同じく「5月22日」とし、腐敗程度と捜査状況から推定されていた。肝臓および脾臓組織のアルコール濃度は0.074%と測定されていながら、警察ではその原因を掴みきれておらず、死亡日時の算定アルコール濃度の合理的な説明が不充分とされた。

またAの借金規模は8000万ウォン程度あり経済的困難に陥っていたが、複数のカードを駆使して利息分を返済しており、すでに債務不履行とされた額は1280万ウォン程度だった。延滞の可否や督促・取り立ての有無など、その状況が殺人の動機となりうるものだったのか客観的な資料から検討すべきと指摘された。

また被告弁護人から有力容疑者と指摘された「被害者をよく知る人物」に関しても、銀行のカメラ映像が発見されるまでは容疑者とみなされていたことは事実であり、より積極的な証拠調べが必要だったと見られる。

高裁への差戻しは事実上、最高裁が一審・二審での判決が拙速に過ぎると判断し、証拠調べが不充分と認めたことを意味する。

 

高裁差戻し審では改めて被告人の「推定無罪」の原則が確認され、一層慎重な裁定が求められた。2019年7月11日、キム・ムンヴァン裁判長は一審有罪判決を破棄し、無罪を言い渡す。

Aに犯行をほのめかすような発言があったことに関して、現にそうした発言があったにせよ、捜査員からのタバコの提供もまた事実であり、「見返り」に該当した。録音・録画や本人の認めた調書もなく弁護人の立ち合いもない、任意性と客観性が保障された環境下でなされた供述でない以上、会話の一部分だけを切り取って自白と断罪するのは不当であり、証拠能力がないとして却下された。

また被告人の供述調書にも適切な聴取の手続きが踏まれていなかったものが見つかり、証人出廷した該当検査官の陳述も証拠から却下されるなど、より厳格な審査が行われた。

元同居人Eは、2017年7月20日に水原(スウォン)西部警察署で初めての取り調べを受けており、捜査員から「Aの車の後部座席かトランクに何かを載せなかったか」「ゴミ袋に何が入っていたか」など死体遺棄を念頭に置いた質問を繰り返し尋ねられたという。

休憩を挟みつつ8時間以上の長丁場に及び、やがて署員は、楕円形の長細いゴミ袋を絵に書いたり、引き揚げられたゴミ袋の写真を見せるなどしたとされる。当初「記憶がない」とした事柄についても警察が得た情報が問答の中で断片的に伝えられて記憶が喚起されたり、Aに対する心証も(長時間の取調から逃れたい余り)暗示的に変容していったことが推測される。

催眠調査の証拠能力については各国で議論されているが、その評価は非常に難しい。本件では検査後にEの供述が部分的に具体化している。それが警察や検査官など外部からもたらされた情報による影響か、記憶の再現によって掘り起こされたE自身の記憶だったのかは定かでなく、また信憑性についても当初の供述との証明力の優劣も評価はつけがたい。

一方で、高裁は捜査機関に対し、人体に近いダミーを用いた搬入や遺棄の検証実験をしてはどうかと提起していたが、結局行われなかった。これはE証言で「AとEがトランクに載せた/下ろした」という出来事以外に説示されておらず、条件や二人の動作といった具体性を伴わないため再現しようがないことの証左でもあった。

 

検察は、Aによる第一次預金引き出しについて、パスワードの認証に二度失敗した後、銀行の地下に停めてあった車のトランクにいた被害者に直接確認しに行ったのではないかと推測していた。しかし銀行を出てから再び入店するまでわずか約1分10秒という短時間であった。急いで車に戻り、人目に気を配りながらトランクを開けて被害者を脅し、すぐに正しいパスワードを言わせて、後がないにもかかわらずその数字を即断で信用して入力できるのかについては、かねてより疑問視されていた。

検察のストーリーに説得力が乏しい分、焦っていたAが落ち着くために外の空気を吸いに出た、あるいは事前に被害者から聞いた数字を書き留めていたメモを再確認しに表に出たなどの方が自然な行動に思われる。被害者は当時複数の口座を使用しており、手帳に各口座のパスワードを記していた可能性もあながち排除しきれない。

Aの主張では、「21日午後8時ごろにバッグを拾った」と供述していたが、そのとき被害者はまだ喫茶店で勤務中だったことから明らかな虚偽と判断できる。捜査のかく乱を狙ったのか、単に彼女の勤務時間を知らなかっただけなのかは分からない。

女性の失跡からAによる現金の引き出しは12時間しか隔たりがなく、殺害との連続性が疑われる間接的事実のひとつとみなすのはごく自然な推論に思えるのだが、その他の客観的証拠が皆無に等しく被害者の動線が分からない以上、監視カメラ記録の証拠としての範囲は限定的なものに留まる。

繰り返しになるが、この裁判でAは「殺人罪」の容疑を掛けられ、検察側は彼が殺人犯だという合理的な説明をせねばならないのだ。

口座解約の依頼(2次引き出し)について、検察側の言うようにAは被害者が死亡していることを知っていたため執着して女性B、Cに依頼したという推論も可能である。しかしながら、同じく一般論で言えば、通話履歴を残し、銀行近くで待機するなど、Aの取った行動はリスクが大きすぎるようにも思える。B、Cが窓口での手続きに失敗すれば、深刻な刑事罰となることは目に見えていたはずだ。

口座解約は6月12日に行われたが、直前の6月10日に男性Aの捜索が開始されていた。当のAによれば強盗殺人容疑まで向けられるとは想定していなかったと言い、仮に解約が失敗しても先に引き出した分を返金すれば重い罪にはならないと考えていたという。

 

鑑定人による血中アルコール濃度の説明として、死体の腐敗によってもエチルアルコールが生成されると言い、飲酒により経口摂取されたアルコール分と区分できない方式で測定されたことから、その割合は計りかねると報告された。そのため飲酒の有無は不明であり、死亡推定時刻の算出への影響は排除された。(尚、それぞれのエチルアルコールの量を割り出す際には、腐敗の際に同時に生成される「エンプロピルアルコール」を測定することで腐敗により生成された分のエチルアルコールを算出することができる。本件当時はエンプロピルアルコールが測定されていなかった。)

男性Aは4つの金融企業から借金していたが、厳しい督促を受けていた情況はなく、それ以前にはなかった「殺害」に至る契機はどこにも見出されなかった。また2003年頃の強盗についても夜道での女性を狙った襲撃、テープを用いた拘束など類似点はあるものの、刃物を使用しておらず、同一犯行という確信につながる徴候は不足している。

弁護側が有力容疑者とした某氏は、差し戻し審で改めて証人尋問を受けたが、従前の陳述を再確認する程度で、依然として通信履歴などの客観的事実と食い違う部分もあった。某氏と被告人Aとの接点はなく、共犯とは見なせず、追加的な発言はなされなかった。

Aの元車両にあったとされる血痕様の汚れについて、40か所以上の刺し傷から鑑みて車内が殺害現場とは認めがたく、トランクから後部シートに血が滲むことも考えづらかった。誰の血液かも断定できない上、それが血痕か否かも定かでなく、証拠価値は認めがたいものと判定された。

2016年5月に「殺人罪公訴時効」「時効廃止」などをインターネットで検索していたことに関して、当時、本件を取り上げたテレビ番組の放映を見たためではないかとも疑われるが、番組視聴を裏付ける証拠はなかった。

また量刑や自白すれば減刑されるかなど取調官への質疑についても、有力な容疑者とされれば先々を不安に思い、どう立ち振る舞うべきかを逡巡するのが道理であり、そうした挙動をもって間接証拠とみなすことはできない。

この判決を受けて検察は上告した。

しかし2019年10月18日、最高裁キム・ソンス裁判長は、検察側の上告を棄却。釜山高裁での差し戻し審に法令違反はないとし、無罪判決が妥当と判断された。

 

所感

本件は初動捜査の遅れや情報リソースや証拠の不足が尾を引いたこと、あるいは別の事犯による長期服役が実質的な隠れ蓑となり、Aは捜査の網をすり抜けたと見なされている。

未解決専従班には「このように証拠認定を厳格にすれば、長期未解決事件の容疑者を捕らえることはますます困難になる」と無念を口にする者もあり、「今回の判決を受けて他の容疑者も無罪釈放されるのでは」との懸念も聞かれたという。事件を追った番組プロデューサーは、公訴時効廃止により再燃した長期未解決事件の捜査士気が全国的に減退するのではないかとの見解を示した。

法は何を守り、裁判所は何を裁くのか、考えさせられる顛末である。

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

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一審要旨

https://casenote.kr/%EB%B6%80%EC%82%B0%EC%A7%80%EB%B0%A9%EB%B2%95%EC%9B%90/2017%EA%B3%A0%ED%95%A9452

二審要旨

https://casenote.kr/%EB%B6%80%EC%82%B0%EA%B3%A0%EB%93%B1%EB%B2%95%EC%9B%90/2018%EB%85%B851

最高裁判決要旨

https://casenote.kr/%EB%8C%80%EB%B2%95%EC%9B%90/2018%EB%8F%8412374

釜山高裁差戻し審

https://casenote.kr/%EB%B6%80%EC%82%B0%EA%B3%A0%EB%93%B1%EB%B2%95%EC%9B%90/2019%EB%85%B828

第二次最高裁要旨

https://casenote.kr/%EB%8C%80%EB%B2%95%EC%9B%90/2019%EB%8F%8410489

別府三億円保険金殺人事件

決死のカーダイブ

1974年(昭和49年)11月17日(日)午後10時過ぎ、大分県別府市の国際観光港第3埠頭・関西汽船フェリー乗り場の岸壁から乗用車が海に転落した。小雨交じりの肌寒い夜だったが近くにいた7名の釣り人たちがすぐに転落に気づき、車から脱出した成人男性一名を救助し、110番通報する。

 

救助された男性は、不動産業を営む荒木虎美(47歳)。目撃者によれば、車は時速40kmほどで走行しブレーキを掛けるそぶりもなく漆黒の海面目掛けて突っ込んでいったという。唖然としていると5秒ほどで「助けてくれ」と声が聞こえ、男性が平泳ぎで岸壁に近づいてくるのが見えたため、釣り人らがたも網などで引き寄せた。

男は車内に運転していた妻玉子(41歳)、長女祐子(12歳)、二女涼子(10歳)の三人が取り残されたままだと言い、助けを求めた。

聞けば家族で関門橋へドライブに行った帰り道で、妻に運転を任せて自分は助手席で熟睡してはいなかったが目を瞑っていたという。妻の悲鳴と車の衝撃で目を開けるとすでに海中で水がなだれ込み、ドアが開かず割れたフロントガラスから無我夢中で脱出したと語った。

パトカーが到着し、男はただちに近くの内田病院に運ばれて検査を受けたが、両手の擦過傷以外にケガはなく、海水の吸飲もなかった。

大分県警は潜水隊を要請したが夜間の出動はできないとして朝まで待つように返答があった。業を煮やした見物人が知人のダイバーに要望し、午後11時過ぎから海中を捜索してもらうと、岸壁から沖合約11m、海面から深さ8m付近に車体を発見。白色の「日産サニー1000」で、車輪を上に向けた状態で沈没しており、内部に複数人の女性の姿が確認された。午後11時半ごろにクレーン車が到着し、引き揚げ作業が行われた。

イメージ

母娘三人の遺体は運転席後部に折り重なるようにして発見された。車は2ドアタイプでフロントガラスが完全に割れ、運転席側の窓は11.5cm開き、助手席側の窓は全開だった。ヒール靴を履いた母親の足が運転席側の窓からはみ出していたという。

翌日行われた司法解剖で、三人は水死とされた。妻玉子は頭部に外傷なし、右鼻翼2か所に創傷があったほか、両ひざに多くの皮下出血が見られた。後部席で寝ていたとされる長女、二女はともに鼓膜が破裂していた。

車両の検証では、灰皿が外れていて車内から見つからなかった。運転席のシートベルトは正常に機能したが、後付けで設置されていたものであった。運転席下にハイヒールの片方と女物のセーター、助手席前に懐中電灯と男物の靴片方が残されていた。助手席前のグローブボックスは閉じていたが、中からハンマーが発見された。

警察では、目撃者から聞いた転落状況の不自然さ、妻子が車内に残されているにしては落ち着いた夫の態度、助手席で目を瞑っていて転落するまで気付かなかったとする証言などに違和感がもたれた。

夫の虎美によると、下関までの行きは自分が運転し、帰りは九州に戻ったところで妻と交代したという。彼女はシートを最前部まで寄せてシートベルトを締め、背中にクッションを当てていた。大分県に差し掛かると、妻が別府湾の夜景が見たいと言い出して立ち寄ることになったとされる。

夜の悪天候での高速・長距離運転で疲労が蓄積していたことや、暗がりで濡れた地面と海面との境目の見分けがつきづらかったであろうことから妻の過失事故を推測する供述をした。証言通り、港にブレーキ痕やスリップ痕は見つからなかった。

追及は連日に及び、過失事故でないとすれば、長男と夫の不仲で妻が板挟みの立場にあったこと、虎美の女性関係の悩み、病弱で生理外の不正出血があったことから子宮がんの不安を抱いていたことなどから悲観的になり、無理心中しようとした可能性を挙げた。

だが自宅には長男が留守番しており、受験勉強を口実にドライブに同行しなかったと証言。いくら精神的に追い詰められていたとしてもまだ親の手が必要な子どもを天涯孤独の身にして先立とうというのも疑問に思われた。近隣住民には、長女が無理矢理ドライブに連れ出される様子が目にされていた。

虎美と玉子は三か月前、74年8月に再婚したばかりで三人の子どもたちは玉子の連れ子だった。夫は妻の戸籍に入った婿養子にあたり、荒木姓を名乗っていたが旧姓山口と言った。山口虎美には恐喝、傷害、放火、婦女暴行、詐欺など多数の前科があった。そして亡くなった三人には総額3億円を超える多額の保険金が掛けられていたことから、夫による保険金殺人の疑いが有力視されていく。

 

詐欺師の顔

自筆の経歴を見ていくと、山口虎美は1927年(昭和2年)大分県南海部郡青山村(現・佐伯市)の中農の家の長男として生まれた。43年、県立津久美工業から予科練に入り、指宿海軍航空隊に配属され、一等飛行兵曹となった。特攻兵に二度選ばれたが、機器のトラブルにより出撃を逃れたという。戦後、熊本高等工業に入学し、左翼関係の本を読み漁り、反権力思想に傾倒。48年、家庭の事情で中退し、郷里の中学教諭となったが、共産党の活動に専念していたことが仇となり、翌年「堕胎・恐喝」をでっち上げられ郷里にいられなくなったとされる。

しかし本件を調査した作家佐木隆三によると、敗戦時に18歳だった山口は鹿児島県指宿派遣隊で航空整備に従事する一等整備兵曹だったという。故郷に戻ってからは飛行服姿で材木の搬出や炭焼きする姿が見られており、47年12月に結婚。熊本高工の入学は確認できなかったが、同校の制帽姿で映る写真を旧友が所持していた。48年11月に代用教員に採用されて野球部コーチをして人気を博していたようだが、共産党の活動については確認が取れなかった。

在任中の49年2月に堕胎・恐喝罪で逮捕され、懲役1年2か月執行猶予3年の前科が付いた。不倫相手の中絶を医師資格のない鍼灸師に依頼し、1500円を支払った。しかし女から強制わいせつ被害の訴えがあったとして山口が駐在の巡査になりすまし、鍼灸師に告発をちらつかせて800円を脅し取ったという事件であった。

中学校を解雇されて別府に移り住み、妻の父親が猟師をしていたことから獣肉の商いを始めた。だが商売は軌道に乗らず、翌50年の2月に店が全焼。わずか2週間前に16万2500円もの火災保険が掛けられていたことなどから検察庁が詳しく調査し、山口は放火と保険金詐欺で起訴された。山口は失火を認めるも容疑を否認し、最高裁まで争ったが保釈中に窃盗・有価証券偽造行使で再逮捕され、併合審理で最終的に執行猶予なし・懲役8年が言い渡された。

別府区検の山本和夫副検事は『特異な保険金詐欺放火事件の研究』(1953、法務研修所)の中で山口虎美の印象を記している。「年少若輩の青年にしては、真の反抗精神というか、闘争心は相当なものである」とし、証拠物や供述調書にも因縁をつけて訂正を求め、窮すれば黙秘する周到さを備えていたという。育ちの卑しい不良者と違い、中学教員として幾分の教養があり、共産党かぶれした若僧には手を焼いたらしく、「海軍志願兵として自由奔放な生活をした結果か、農村青年としての純朴さは微塵もなく、凶悪不逞の輩の感があった」と書き残している。

サンフランシスコ講和条約による恩赦等で減刑され、55年12月に出所すると不動産・宅地造成業を始めた。先の裁判で妻が不利な証言をしたとして夫婦関係は破綻しており、60年4月に離婚。一男一女は元妻が引き取った。

不動産ブローカーは長続きしたが、県の認可を受けていない仲介業で口利きにより手数料をせしめる闇仕事だった。66年4月に公文書偽造・行使により懲役1年6か月執行猶予5年の有罪判決を受け、翌年7月には共同経営者の妻との不倫トラブルで強姦致傷、脅迫、傷害で逮捕され、懲役3年6か月の有罪判決で宮崎刑務所に収監された。

72年11月に出所するも、3か月後には恐喝未遂事件を起こし、転落事故当時は懲役6か月の判決を受けて上告中の身であった。その間、結婚相談所や福祉事務所などを訪ねるようになり、「子ども好きなので、母子家庭で育った子どもたちに父親の味を知らせてやりたい」「子どもは多いほど良い」などと言い、各所に未亡人の紹介を求めていたとされる。

73年7月、夫を亡くして間もない荒木玉子さんを紹介されて懇意となり、9月には母子の暮らす借家の向かいのマンションに転居。ドライブに誘ったりプレゼントを贈るなど熱心なアプローチを続けた。74年3月にプロポーズし、8月に結婚した。しかし引き合わせた自治委員は男を毛嫌いし、長男が二人の結婚に反対していたことから婚姻の保証人を断っている。

その短い結婚生活もまともなものではなかった。玉子さんの親に挨拶に行ったのは11月に至ってからのことで、山口の親族には再婚を知らせてもいなかった。周辺住民も再婚を知らず、結婚前と同様に夫妻は借家とマンションでそれぞれに別居を続けており、父親らしく振舞うでもなく子どもたちからも嫌われていたと話した。玉子さんの姉が荒木に長男の進路を相談した際には「頭の悪い子を学校にやってもしょうがない」として大工か左官でもやればよいと返答したという。

明らかになっただけで事故当時の荒木は3人の女性と交際しており、マンションに通わせていた。妻も不倫相手の存在に気づいていたが、荒木は玉子さん以外の女は「遊び」だと説明して取り繕っていた。

市内で飲食店を営む女性とは玉子さんと同時期の73年7月ごろに知り合い、熊本に住む女性の養母にもあいさつに出向いていた。

73年9月にはかつてホステスをしていて面識のあった三児をもつ人妻と再会し、情交関係となった。玉子さんにプロポーズした翌月には、その人妻と20日間かけて四国・九州を巡るドライブ旅行に出ていた。彼女は男に言われるがまま家の権利書を渡し、架空の領収書を切っていた。

74年4月には海軍時代に過ごした鹿児島県指宿の下宿を訪れ、下宿の娘が独身だと知ると猛アピールしてプロポーズした。女性は「事故」の報道まで荒木が既婚者とも知らず、前月には彼女の職場の上司にまで挨拶していた。


警察で調べを進めていくと、荒木は玉子さんとの交際前後から複数の保険会社へ相談に訪れるようになり、再婚前後から事故の12日前までの間に6社、三人の死亡で総額3億1000万円以上の保険金が入る契約を結んでいた。

支払い時期はさまざまだが、月当たりに換算すると13万円(当時の国家公務員初任給の2か月分相当、サラリーマンの平均月給並み)とその収入に比して過大な保険料を支払っていたことになる。貯蓄型を断り、保障型か掛け捨てで契約し、他社で充分な保険に入っているなどとして荒木本人を被保険者とする保険をすべて断っていた。保険会社の中でも当初から詐欺を訝しむ向きもあったとされる。

「事故」の2日後に母子の葬儀が営まれたが、荒木は会場に少し顔を出しただけだった。妻の家族から荒木の画策で車を海に転落させたのではないかと詰め寄られる騒動があったが、男は激しく応戦したという。残された長男は長崎の祖父母の元へ引き取られていった。

 

水際の攻防

「事故」の10日後には荒木自ら別府署交通課を訪れ、事故証明書の交付を求めた。署員は事故か否か調査中でまだ結論が出ていないとして交付を拒否したが、荒木も容易に引き下がろうとはしなかった。

カメラを向けられると身の潔白を訴え、あらゆる疑惑に反論した。

過失による事故か妻の自殺説を唱え、葬儀に参列しなかったのは妻の親族から責められたためと言い、疑いが晴れたら供養するつもりだと語った。保険は子どもたちの将来のためだとし、受取人は自分の総取りではなく、子どもたちや自分の姪(妹の娘。連れ子がいては再婚の妨げになるとして戸籍上養子としていた)も含まれていると明かした。

子連れの未亡人と再婚しようが、多数の保険に加入しようがプライベートな事柄で、事故か否かとはそもそも無関係だと主張した。警察やマスコミの嫉妬が一方的に事件を煽っているだけだとして「(計画的に)できると思うならやってみたらどうですか?」と挑発的な言動を繰り返した。

そうした男の臆することなき言動や、不可解な夫婦生活と愛人たちの存在は否が応でも衆目を集めた。疑惑の渦中にありながら、12月4日に自ら釈明のためフジテレビ系ワイドショー『3時のあなた』に出演し、コメンテーターらとの論駁に応じた。

「妻子を生命保険に加入させて他人に殺害を頼んで保険金を詐取する話はよく聞くけど、私は一緒に海に落ちているんです。妻の運転する車に同乗し、危うく命を失いかけた被害者で、さらには愛する妻子を不慮の事故でいっぺんに失った“哀れな夫”であり“父親”なんです」

 

鑑識調査で、車両の底面にある4か所の水抜き穴の栓が全て抜き取られていたことが明らかとなり、水没の計画性がますます強く疑われた。しかし誰がハンドルを握っていたのか、確実なことは車内にいた4人にしか分からない。生還した荒木による殺害を決定づける証拠はなく、警察としては情況証拠を積み重ねていくほかなかった。
12月初頭、捜査員らは荒木のワイドショー出演を苦々しく思いながら、九州大学医学部牧角三郎教授に求めた法医学鑑定の報告を待ちわびていた。その結果、妻が運転していたにしては胸をハンドルに強打した影響がほとんど見られないこと、また助手席前方のグローブボックスの損傷具合を見るに玉子の右腕の皮下出血と一致しており、両ひざの皮下出血はもがいてできたケガではないかと示唆し、運転席にいたのは夫とする所見を得る。

さらに宮崎刑務所でかつて荒木(当時は山口)と同房だった受刑者から重要な証言が得られた。男はエドワード・ケネディの交通事故を引き合いに出し、「この方法ならば過失か計画的か見分けがつかない。一か八かだ」と保険金詐欺の手口をほのめかしていたというのである。

 

12月9日、別府署は別府簡易裁判所に逮捕状を請求。11日、荒木は『3時のあなた』に二度目となる出演の後、局の裏門から出ようとするや待ち構えていた捜査員に取り囲まれ、17時50分、殺人容疑で逮捕された。

荒木は大分で送検され、過去の恐喝や放火詐欺で世話になった木村一八郎弁護士を頼った。3人を殺害したとなれば死刑か無期懲役かが見込まれる重大事犯であり、前例のないマスコミの騒動も悩みの種となった。大分地検始まって以来の大騒動に福岡からも応援を得て捜査が続けられた。荒木は取調でも否認を続け、木村弁護士は物証も自供もなければ公判を競えると自信を見せたという。

しかし12月21日になって、別府市内の鮮魚商から有力な目撃証言がもたらされる。「事故」当夜、白いサニーが現場近くで走行しているのを目にし、運転手は50歳前後の大柄な男だったと証言する。夜間の車内からの目撃で、当時はもちろん荒木の顔に見覚えはなかったが、知人と同車種だったことから運転席を確認したと言い、その場所や時刻、男が運転していたという証言内容は信憑性が高いと考えられた。

別府、大分はおろか全国が注視する大事件で、鮮魚商の男性もそのとき目にした「サニーの男」は荒木に相違ないとすぐに気づいた。しかし2年前に子どもがひき逃げ事故に遭い、依然として犯人検挙に至っていなかったことから、男性は警察に対する不信感を抱いていた。また暮れの繁忙期に仕事を投げ出すわけにもいかず証言を避けていたが、忘年会の席上で「運転席にいたのは妻ではなく夫だった」と口を滑らせ、それが警察の耳に入り、熱烈な説得を受けて証言に応じたという。

国東(くにさき)の妻の実家から妻子を乗せて自宅に向かう道中で、日出(ひじ)警察署前の三叉路から国道10号に入ったところで白色のサニーと行き会った。信号待ちのタイミングで運転席をのぞき込むと荒木とよく似た男がハンドルを握っており、22時ごろ、国際観光港に向かって左折したと説明する。

全国区となった事件に警察庁も本腰を入れ、科警研が横浜港で4台のサニーやダミー人形を用いた検証実験を行い、転落状況や各人の受傷の具合などを確認。

明くる1975年(昭和50年)1月2日、大分地検は荒木を殺人罪で起訴した。

 

チャパキディック事件

“テッド”の愛称で知られるエドワード・ケネディ(1932-2009)の事件について見ておこう。彼は地方検事を経て62年に上院議員に就任したリベラリストで、63年11月にダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領の実弟、68年6月に大統領予備選の最中ロサンゼルスで暗殺されたロバートの実兄にあたる。

ロバートの死から一年後の69年7月18日、マサチューセッツ州のチャパキディック島で選挙運動員たちの慰労パーティーが開かれ、テッド・ケネディ(当時37歳)も出席していた。その深夜、彼の乗るオールズモビル・デルモント88がパウチャ池に架かるガードレールのない橋から転落。彼は泳いで難を逃れたが、同乗していたロバートの元秘書をしていたメアリー・コペクネ(28歳)が車内に閉じ込められて水死した。

テッドはパーティー会場に戻って従兄弟のジョー・ガーガン、共通の知人であるポール・マーカムに相談した。彼らはレンタカーで事故現場に行ったが強い流れで救助は困難だったという。かたや午前2時ごろに宿でテッドと会話したヨット仲間によれば、彼は普段と変わらぬ様子だったとされる。

翌朝8時過ぎ、釣り人らが池に沈んだケネディの車を発見して通報した。レスキュー隊とダイバーらが急行し、9時までに車内の遺体が確認され、ケネディ所有の登録車両と特定された。テッド・ケネディはその朝、親類や議員仲間にも連絡を取っていたが、事故車発見が伝えられる午前10時まで警察への通報を怠っていた。

遺体を回収したレスキュー隊の隊長は、後部座席のくぼみでシートを掴み、顔を上に向けていた彼女の姿勢から、転落時の衝撃や即座の溺死ではないと考えた。車内に生じた空気のポケットに顔を出して数時間は存命だったはずで、すぐに通報されていれば助かった公算が高いと発言した。

現場に呼び出された副検視官は、女性を偶発的な溺死と判断。アルコール含有量の分析が指示され、後に死亡前の一時間以内に最大5杯の酒を飲んだ「少量または中程度」の摂取が認められた。当局に確認したが、不正行為の兆候がない以上、検視は必要ないとされた。

Mary Jo Kopechne in 1962

パーティー参加者は6人の20代未婚女性と既婚男性らで構成され、コペクネは親友たちに退席を告げておらず、財布や鍵の入ったハンドバッグも会場に残したままだったことが明らかとなった。男女の宿泊地は別々だったが、妻子あるテッドがアバンチュールのために彼女を連れ出したのではないかと醜聞が聞かれ出した。

テッド・ケネディは、昼間日差しに当たりすぎたせいで具合がよくないので送ってほしいとコペクネから頼まれて23時15分ごろにパーティーを脱け出した、その直後の事故だったと述べた。

しかし19日0時30分に同僚と別れて帰路に就いた保安官代理のクリストファー・ルック氏は、0時40分ごろに男女が乗る不審な動きをする車と行き違い、道迷いかと思って声を掛けたがすぐに走り去ったと証言した。テッドはルック氏との遭遇を否定したが、氏が目にしたナンバーの特徴などがデルモント車と部分的一致を示した。死亡時刻は23時半から午前1時前後とされ、両者の言い分に1時間ほどの矛盾が生じたことから疑念がもたれた。

テッドはただちに通報しなかったことで執行猶予付き・2か月の禁錮刑(法定最低刑)を受けたが、過失致死などの嫌疑は免れた。マサチューセッツ州地裁ジェームズ・ボイル判事は「彼はすでにこの裁判所が課すことのできるどんな刑罰よりもはるかに多くの社会的制裁を受けており、今後も受け続けるだろう」と述べた。

テッドが代議士となる以前に起こした信号無視や無謀運転、パトカーとカーチェイスした遍歴が暴露され、飲酒や無謀運転の追及を避けたかったのではないかと噂された。彼は自身の不徳と悲劇の発端となった事実を詫びるとともに、「酒気帯び運転」やコペクネとの「私的な関係」の疑惑を否定するテレビ会見を行い、有権者に議員資格の是非を問うた(前回より10ポイント以上失ったが70年に得票率62%で再選した)

当時妊娠していたテッドの妻は三度目の流産に見舞われ、夫の事故がその遠因になったと囁かれ、国内有数のセレブ一族に「ケネディ家の呪い」と揶揄する者もあった。司法調査のために遺体を掘り起こす請願が提起されたが、コペクネの両親は一人娘の埋葬地を荒らさないでほしいと懇願し、裁判所は採掘の請願を却下した。ケネディ家からコペクネの両親に対し、保険会社を通じて14万1000ドルの和解金が支払われたとされる。

テッド・ケネディはこのスキャンダルによって事実上大統領職への道を断たれたが、その後も皆保険制度や選挙資金改革など多くの重要法成立に尽力し、40年以上の議員キャリアを全うした。チャパキディック事件と呼ばれたこの出来事は少なくとも15のノンフィクション書籍の題材となり、小説のモチーフともなった。彼の死後に発表された回顧録『True Compass』(2009)でも、コペクネの死を招き、適切な対処を取れなかったことへの後悔が語られている。

この事故が国民的騒動となった背景として、セレブリティにして因縁めいた「ケネディ家」の大看板があり、政治的賛同者や敵対陣営からも懐疑的に捉えられたが故に予断が生じる素地が大きかったことがある。不審死というだけでなく、いわば陰謀論におあつらえ向きなシチュエーションを兼ね備えていた。

伝記作家ピーター・カネロスは、政治への関心とスピーチライティングの才能を持った才女コペクネがその人生を全うできなかったのに対し、テッドに第二の人生が与えられたのは「あまりにも不公平・あってはならない不正義(cosmically unfair)に思えた」と批判的に綴っている。

ジャーナリストのジャック・オルセンは、ケネディ信奉者の刑事によるある仮説を批判的に紹介している。テッドはルック保安官代理と遭遇した直後に、飲酒運転の尋問や不倫を疑われることを避けるために車を降りて、コペクネ自らの運転で転落したのではないかとする見方である。コペクネは身長157cmとテッドより30cmも小柄で、普段は小回りの利くフォルクスワーゲン・ビートルを運転していた。不慣れな夜道、アルコールと小さなアクシデント、乗りなれない大型車など悪条件が重なって目測を誤り、池に転落したのではないかという。

その晩、男女に何があったのか、車内でどんな会話が交わされたのかは明らかにならなかったし、テッドが何を語ろうとそれを信じる者はいなかったであろう。大統領候補選や民主党内の確執が報じられるたび、この出来事はテッドの人生とケネディ家を巡る悲劇のひとつとして語り草とされた。

 

終わりなき抗弁

3月17日、大分地裁で初公判が開始された。最大の争点は、運転手はだれか。

検察側は鑑定報告、実証データ、新たな目撃証言で公判維持に自信を深めていた。一方、着任時とは風向きが変わった木村弁護士は弁護団が結成できなかったことや高齢、多忙を理由に、第2回公判で辞任の意向を示した。裁判所は急遽、国選弁護人に山本草平、徳田靖之、小林達也の三弁護士を選任。荒木は国選弁護人を信用しておらず、木村弁護士がダメなら自身の弁論で潔白を証明する意気込みを見せたと言われる。

国際観光港での現場検証、横浜港での再現実験などを審理した上で、検察側は鑑定人牧角教授を証人に招き、妻が助手席側にいたと判断できると主張した。しかし弁護人から車内の傷が海中で付いたことの説明を求められると答えに窮し、乗車位置の判断は法医学の範疇を超えているのではないかと指摘される。また荒木も、妻の膝の皮下出血は展望台の階段で転んだ時にできたと主張した。

兵庫医科大・松倉豊治教授も妻は助手席側にいたことを示したが、受傷は着水前にハンドルを切った際に生じた遠心力で前もしくは右前方向の衝撃を受けたためと説明した。しかしその後、着水時の衝撃による受傷と証言を覆すも、弁護人から転落実験によると着水時の衝撃は大きくないことを指摘され、車両が離岸した瞬間の減速衝撃によるものと見解を迷走させた。

著名な医師と言えど、港から車で突っ込む事例に精通しているはずもなく、海中に晒された車や当時の法医学研究では精確な原因解明にたどりつかないことが浮き彫りとされる格好となった。

事件間際にサニーと行き会った鮮魚商の男性は、運転席の男と荒木を比較して「九分九厘似ている。間違いないと思う」と証言した。しかし警察の聴取では「荒木に酷似した男だが断定はできない」、検察では「確かに似た男だった」と述べており、弁護人は時間の経過とともに発言が断定的なものに変化している点を指摘した。

荒木が男性に対し「あなたが見たというのはこの私か」と横顔を見せつけると、男性は「いや、絶対にあんた本人だ。あの夜のあんたの顔を忘れることはできない」と声高に叫んだ。

鮮魚商は迷惑をかけたくないと言ってサニーを所有する知人の名を明かさなかったが、検察はその所在を掴み、79年3月になって車の写真を証拠提出した。77年3月に廃車されており入手できた写真は不鮮明だったが、1年型式が違うサニーと断定されたが、実際の色は青色だった。弁護人は「普通は色で覚えるが車種・年式を知りながら色を間違えるなど全く不自然」と指摘した。

元同房者が服役中に荒木からエドワード・ケネディの事故の載った週刊誌を見せられ、出所後の74年7月に荒木を訪ねた際にも犯行計画を聞かされたと述べた。その後、元同房者は別の詐欺で逮捕されており、証人出廷の際も服役中の身柄だった。荒木は「裁判長はこんな懲役太郎の言うことをまさか信用するんじゃないでしょうね」と罵倒し、相手も激昂して罵り合いとなった。

また別の元同房者も荒木から「刑務所を出たら一発勝負をかける」と聞かされ、74年春に計画を持ちかけられたが断りの連絡を入れたと供述していた。しかし取り調べから約2年後の公判では「取調官に迎合して創作した」と証言し、全面的に覆した。

審理の渦中、大分合同新聞の読者投稿が波紋を呼んだ。その内容は、荒木が助手席に座っていても妻からハンドル操作を奪って転落させることはできたはずで、捜査当局や裁判所は「運転席問題に囚われすぎている」という至極もっともな市民感覚であった。

これに対し、大分地裁西村法所長が同紙に意見を寄せ、座席がどちらでもよいということはなく、いかなる被告であっても法の下の平等に則って証拠により有罪性が立証されねばならないと読者に対する説得的内容が述べられた。

日本で公判中に当該裁判所長が事件に関するコメントを表明することは異例であり、一歩間違えれば世論の誘導とも捉えられかねない。思えらくはセンセーショナルに騒ぎ立てることなく審理を見守ってもらいたい意向からそうした行動に出た(本人の意志ではなく「上」の意向かもしれない)と捉えることもできるが、その真意はなにか、心象はどちらに傾いているのか、にわかに疑念と憶測を呼んだ。

76年10月10日未明には、国際観光港第3埠頭の現場に突如白色のマツダファミリアが現れ、件の「事故」さながらに時速40kmで漆黒の海へダイブした。まもなく35歳の男が海面に浮上し、釣り人が慌てて110番通報した。35歳の男は「荒木の証言に疑問があったので実験した」と語り、「計画性があればほぼ助かることが分かった。裁判で証言してもよい」と述べた。

マスコミでは「カミカゼ実験」などと称されて話題となったが、話を聞かされた荒木は売名行為だとして歯牙にもかけなかったという。

 

1980年3月28日、大分地裁永松昭次裁判長は検察の求刑通り死刑を言い渡した。

運転者について、牧角鑑定の一部には事実認定において参考になる点もあるとして一部を採用、松倉鑑定を却下した。鮮魚商証言について、車体の色の不一致は不自然で証言を全面的には信用できないとしつつ、現に同型車両をもつ知人がいることから運転席を見ることも自然のなりゆきだとし、その名前を明かさなかったことも首肯できる理由と判断。目撃現場や時刻から見て、本件車両を運転していた被告人だと優に認定できるとした。

元同房者による犯行計画の供述については充分信用に足るとした。供述を翻した元同房者についても「被告人に恩義こそあれ恨みのない」立場から被告人の不利益となる法廷証言を避けようとしたとも考えられ、むしろ事前に取られた調書供述に信用性があると判断した。

また事故直後、荒木は姪を病院に呼び寄せ、転落車両とは別の車のトランクに入っている封書を開封せずにすぐに焼却するように厳命していた。その内容は明らかになっていないが、保険契約でもしばしば姪が受取人とされている事実から、仮に荒木が生還できなかった際に保険金が姪に入るように託した遺書だったのではないかと推量された。

社会的影響も大きい重大凶悪事件であり、何の落ち度もない母子らに対して一獲千金の欲にまみれた冷酷非道な犯行に及び、徹頭徹尾否認を続け反省悔悟の情も認められず、極刑をもって贖罪させるよりほかないと情状が告げられた。

78年6月には長男が証言し、「この男を死刑にしてほしい」と訴えていた。そのとき荒木は号泣し、「きみの誤解だ。大人になったらゆっくり話し合おう。きみの妹たちを死なせた十字架は一生背負う」と嘆いていたが、判決審を終えると「裁判長、控訴申し上げます」とつぶやいた。

 

翌81年5月に開始された控訴審で、弁護団は原審の認定に抗議し、改めて法医学鑑定や自動車工学の専門家による実証実験を求めた。

また一審判決文で触れられた「母子家庭の未亡人の物色」や再婚後も別居生活を送ったことについて、裁判官の価値観・道徳観による一方的な偏見であり、違法性もなければ犯罪準備にも当たらないと釈明された。

福岡高裁は成蹊大学江守一郎教授にフロントガラスの割れた原因や時期について鑑定を依頼したが、荒木は教授に自らの主張を訴えた上で「公正な鑑定」を求め、「もし国家権力の歓心を買わんがために迎合して曖昧なインチキ鑑定などなさった場合は、マスコミ注視の法廷において追及せざるを得なくなります」といった心理的威圧とも受け取れる手紙を送りつけた。

高裁は荒木に文書発信の禁止を命じ、「不正鑑定を阻むために必要な措置」であり「被告人の権利」を主張する荒木の異議申し立てを却下。国際港での実証実験を経て、82年11月、江守鑑定が提出された。

着水時の衝撃そのものでフロントガラスが割れることはなく、乗員の頭部が当たって突き破ったとすれば15Gの衝撃で頭部にかなりの損傷が生じるとした。またダッシュボードに残された擦り傷と車内に残されていたハンマーの金具丸面と形状が一致したことなどから、フロントガラスは着水後に人為的にハンマーで割られたものと鑑定。ダミー人形や車内の破損状態から、助手席乗員が無傷ということはありえないとし、妻が助手席、荒木が運転席に乗車していたと結論付けた。

江守教授の証人尋問でも、荒木は「車両は7年も使用しており、実験車とはガラスの疲労度も風化度も破壊応力も全然異なる」などと主張し、「海面への突入の衝撃や、浮遊物に当たったかもしれない」と水掛け論を始めたが、教授は「陸上で時速15kmで壁に激突した程度」に相当する衝撃でフロントガラスは割れない、前輪から着水して浮遊物は車体の外側に流れてフロントガラスには当たらないと反論した。

海中で車の内側から叩き割ったとなればガラス片の多くは車外に散乱すると考えられたが、引き上げ後の車内からはフロントガラスのおよそ3分の1程度のガラス片が残っていた。江守教授はダッシュボードの複数の傷と脱落した状態で海底から見つかった灰皿の状況から、一度叩いたときに衝撃で灰皿が外れ、二度三度と叩き割ったために灰皿の脱落した穴をまたぐ形で傷がついたものと説明した。だが証人尋問後に証拠提出された灰皿にはハンマーで叩いたような傷は見られなかった。

83年5月、高裁は北海道工業大の堀内数教授に、ダッシュボード表面の損傷は押収されたハンマーによるものか、傷の形成状況の鑑定を新たに依頼した。その結果、ハンマーによる形成と推定されたが、江守鑑定と異なり、フロントガラスを叩いたハンマーの跳ね返りでくぎ抜き部分が当たって生じた傷と鑑定した。また江守鑑定がハンマーの衝撃で脱落したとする灰皿は着水時の衝撃の歪みで飛び出したものと説明された。

弁護人は、科警研による実験で灰皿は脱落しなかったこと、堀内鑑定は実験を行っていないことを指摘し、経験則から導かれた推論ではないかと指摘。堀内教授は科警研の実験の条件を熟知していないため比較できないと保留したが、科警研の実験のように「垂直に」離岸した場合と江守鑑定のように「斜めに」離岸した場合では、ねじれが生じるため、灰皿への影響のちがいも生じうるとした。

弁護人は両鑑定について、一審判決を引き「予断を排し、誠実に証拠を取捨選択して、事実認定を積み上げ、鑑定の限界を認識して分かること分からないことを明確にしながら事実の真相を究明する姿勢に欠けていた」のではないかと厳しく批判した。

 

1984年9月4日、福岡高裁山本茂裁判長は控訴棄却を言い渡した。

鑑定から、運転者は予め身構えていないかぎりハンドルにみぞおち付近を打ち付けるが、妻にはその痕跡がなく、両ひざ付近4カ所の創傷がダッシュボードのへこみと一致することなどから、助手席にいたと認定し、ほぼ無傷で済んだ荒木がシートベルトもなく支えのない助手席に座していたとは考えられず、ハンドルや床に両手足を突っ張って衝撃に備えていたと見るのが合理的とする鑑定を採用。

灰皿は着水時の歪みによって外れたものと認定し、ハンマーでフロントガラスを破壊して脱出したことは明らかと判断した。結婚の経緯、保険加入の状況など一審判決を支持し、車もろとも転落させて溺死させて殺害した事実を是認するに足ると結論付けた。

 

荒木はただちに上告し、最高裁第一小法廷の係属で裁判長は角田礼次郎と決まっていたが、法廷に再び「荒木節」が響くことはなかった。

荒木は胃がんと診断され、87年10月に八王子医療刑務所に移管され、翌年開腹手術を受けたがすでに手遅れの状態だった。福岡への移管も認められず、1989年1月13日、がん性腹膜炎により逝去。享年61。

1月30日、最高裁第一小法廷は、被告人の死亡により公訴を棄却した。

 

所感

三人が溺死するなか、たった一人の生還者が詐欺師だったという本件。作家佐木隆三は鮮魚商や元同房者の証言などを証拠採用したことに関して「これがもし被告人に有利な証言ならば『到底措信しえない』と捨て去ったにちがいない」と疑念を呈した。

荒木は人を騙すことを生業とした面もあり、マスコミを使って「劇場型」へと誘導しながらも「心証をよくする」努力はできなかった。後の本庄保険金殺人や和歌山毒物カレー事件など、マスコミ、世論の形成や鑑定人の予断についても大いに議論の余地があろう。

陪審制のアメリカならばおそらく有罪と決していたであろうが、本件は慎重を期して再現検証や細部まで鑑定が重ねられ、それでもなお不完全な決着を見た。簡易化、迅速審理が貴ばれる今般の裁判員裁判ならばどんな結論に至ったであろうか。

常識的に犯罪者は人目を避ける行動を取りそうなところだが、あえて犯行を露見させる詐欺師や、疑われても意に返さない冷酷非道な殺人犯というのも数知れない。

77年にABCテレビのクイズ番組『夫婦でドンピシャ!』に出演した連続強盗殺人犯勝田清孝、78年にバラエティー番組『デートゲーム』に出演した連続強姦殺人犯ロドニー・アルカラ、94年に犯行をカモフラージュするため自ら妻子の捜索願いを届けた医師野本岩男、2006年に9歳の娘と親しくしていた近隣の7歳男児を殺めながらカメラの前で“被害者の母”を装っていた畠山鈴香など、その思考回路や心理状態は常人には理解しがたいところがある。

本稿では荒木を殺人犯と断定すまいが、ともあれ母娘のご冥福をお祈りいたします。