いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

フィンランド・ボドム湖殺人事件

1960年、湖畔にキャンプデートへ訪れた男女4人の若者たちが何者かに襲撃され、3人が命を落とし、生き残った一人も当時の記憶を失うという事件が起きた。

フィンランド人にとってはなじみのある「青春の1ページ」とでもいうべき青年たちの幸福な余暇。それを文字通り血に染めた惨劇は、猟奇的事件に不慣れな人々に大きなショックと不安を与え、国民的な関心を集めた。だが事件の真相は明らかにならないまま、捜査は30年以上もの間、事実上凍結された。

2004年に事件の「唯一の生存者」が容疑を掛けられたことで再び大きな物議を醸した、フィンランド犯罪史上最も有名な凶悪未解決事件である。

 

■概要

1960年6月4日(土)、キリスト教の祝日ペンテコステを利用して、4人の青年たちがフィンランド南部ウーシマー県エスポー郊外にあるボドム湖へツーリングキャンプに訪れた。

メンバーは18歳の男子学生と15歳の女子学生各2名ずつで、青年たちは鋳造技術を、少女たちは主に裁縫等の技術を学んでいた。

左から、マイラさん、アニアさん、セッポさん、ニルスさん

マイラ・イルメリ・ビョークルンドさん(15)専門学校生

アニア・トゥーリッキ・マキさん(15)専門学校生

セッポ・アンテロ・ボアズマンさん(18)市民学校生

ニルス・ヴィルヘルム・グスタフソンさん(18)市民学校生

(※以下、4人の敬称略。ファーストネーム呼びとする。)

アニアとセッポは恋人になって数か月で、マイラとニルスはそれぞれ2人の友人として紹介されて数週間前に知り合った。知り合って間もないマイラとニルスだが双方に好意はあったのか、性的関係の有無などははっきりしない。

前月、セッポはアニアの女友達カイヤ・マルヤッタ・リナネンさんにも誘いをかけており、5人かもう一人加えて6人で行く可能性もあったが、カイヤさんは神学校の予定を優先したため不参加となった。アニアの父親はキャンプ計画を聞かされた当初、難色を示していたが、真っ当そうな青年2人を信用して送り出すことにしたという。

 

夏至フィンランドでは「白夜」となるため深夜まで陽が落ちることはない。4人は少年用バイク2台でツーリングデートを楽しみながら現地を訪れ、夕方6時過ぎ、ボドム湖南岸の岬にテントを張った。青年たちは遊泳や食事(男の子たちはアルコール)をひとしきり楽しみ、22時半頃に就寝したものとみられる。

マイラの手帳には次のような記述が残されていた。

“5日、ボドム湖への旅。セッポとニルスは酔っ払っていた。午前2時起床。セッポは釣りをしていた。”

筆跡鑑定によれば筆致はアニアのものとされている。若い彼らにゆっくり眠っている暇はなかったらしい。

5日11時過ぎ、大工のエスコ・ヨハンソンさんは息子2人を連れて湖水浴に訪れた。息子たちは浜辺を駆け、父親は小道で自転車を漕ぎながらその姿を見守り、目的地へと競走ごっこをするようにして向かっていた。

すると岬に破れて倒壊したテントを見つける。近づいてみると、テントは引き裂かれて血に塗れ、若い男女4人が頭を潰されて倒れていた。そこへデート中の若いカップルが通りがかったため、ヨハンソンさんは現場の保存を2人に任せ、慌てて電話ボックスを探し、11時30分頃にレッパヴァーラ警察署へ通報した。

 

署員らは11時45分頃に現場に到着し、中央刑事警察も駆け付けた。パーティーのうちマイラ、アニア、セッポの3人の死亡が確認された。少女2人の死因は頭がい骨骨折と脳挫傷、セッポは血液の溜飲による窒息と見られた。4人全員が殴打による打撲や擦り傷を負っており、マイラとセッポには複数の刺し傷もあった。現場目撃情報などと照らし合わせて、死亡推定時刻は5日4時から6時ごろとされた。

とりわけマイラへの攻撃は他の3人より凄惨を極め、死後に首元を15か所近くめった刺しにされており、ジーンズが下ろされて下半身がはだけた状態でテントの上に倒れていた。しかし遺体に強姦を受けた痕跡はなかった。翌6日には彼女の16度目の誕生日が控えていた。

唯一生存が確認されたニルスも頭部や顎に複数の骨折など重傷を負い、意識不明の状態で病院へ搬送された。数週間の入院を余儀なくされ、殴りつけられたダメージによる脳損傷など後遺症の疑いもあった。

 

■現場状況と初動捜査

テントは出入り口が東向きに据えられ、固定用ロープが切断されていた。血飛沫の状況などから見て、4人はテントの下敷きとなり、身動きできない状態で外部から攻撃を受けたと見られた。殴打には岩石の使用が疑われたが、周辺では鈍器や刃物といった凶器は発見されなかった

4人は靴を履いておらず、テント脇に女性用の靴2ペアが発見された。衣類や毛布、空き瓶やキャンプ用品の多くはテント内外に散逸しており、パンなどの食料はキャリーボックスに残されていた。

現場からは財布やオートバイの鍵、その他複数の所持品が見当たらなかった。事件翌日にテントから500mほど離れた岩穴周辺の茂みから衣服の一部とセッポとニルスの靴が発見されたものの、それ以外のものは発見されなかった。鍵を奪われた2台のオートバイはテントの傍に残されたままとなっていた。

後に親族が紛失を確認した主なものは、アニアの「財布、水着、タオル」、セッポの「ナイフ、レザージャケット、懐中時計、財布」、ニルスの「腕時計、可動式プライヤー、L型プライヤー、女性物のキャリーバッグ」である。

現場捜査を率いたアルヴィ・ヴァイニオ副判事(中央)

 

警察署員もペンテコステによる休暇が多く、動員に時間を要した。

初動捜査について、現場の初期状態に関する記録が取られていなかったこと、道路封鎖の遅れ、更に捜索隊にに寄せ集めの警官や志願兵が動員されたため却って指示系統が混乱し現場保存や証拠収集が困難となったことが後に問題視されている。7日には10数匹の警察犬も導入されたが、多くの人跡に荒らされた現場では役に立たなかった。

眼前には湖が広がっており、凶器などを遺棄するにはうってつけとも言える。湖岸一帯も探索されたが、60年当時のこと水中探査機があった訳でもなく、フロッグマン(水中捜査班)も限られており、見落としがなかったとは言いきれない。湖面に浮かぶドリンクボトルから採取された指紋も現在まで事件解決の役には立っていない。

捜査期間中、多くの野次馬が現場に詰めかけ、何らかの証拠が搔き消されたことも危惧された。紛失した品目の特定にも時間を要し、実際のところそれらを犯人が奪ったのかは不明であり、群衆の一部が湖に投げ捨てたり「記念品」として密かに持ち去ったりした可能性もある。

 

上の地図では赤いポイント地点、下のストリートビューは北の上空からドローン撮影されたもので左手の岬がキャンプ地である。

 

湖畔周辺の住民や観光客に聞き取りが行われたが、すでにその段階で帰宅した者もあったことから、新聞紙上で当時の湖畔来訪者を募るなどして計88人から情報を集めた。

有力な目撃情報として、5日午前3時45分頃、農業アイリ・ヨアンナ・カリャライネンさんは近くのサウナを訪れ、現場近くのビーチを通った。4時過ぎに物音がして岬の方を見ると、テントの一つ隣の岬で20歳未満の青年2人の姿が目に入った。2人は半裸でシャツの袖を体に結んでおり、一人はその場から去っていったという。状況から見れば、セッポとニルスの2人と推測される。

午前6時ごろ、少し離れた場所でバードウォッチングをしていた10歳の少年2人が、2台のバイクと地面に敷かれたテント、その上に寝そべる男性らしき脚を見かけた。少年たちは、5分か10分程前に何らかの物音を聞いていたが、キャンプ客が日光浴でもしていると思い、現場に近寄ることなく通報には至らなかった。

14歳のオラヴィ・キビラティ少年はボート釣行を約束していた友人が来るのを朝4時頃から待ちわびていた。暇を持て余して8時近くまでキャンプ場の西側で岸釣りをしていたが、6時頃にテントのあった岬方向から南方に向かって歩いていく明るい茶色(金)髪の男性の姿を目にした。物音や悲鳴は聞いてはおらず、男は身長170~180センチ、非常に薄手の上着と濃色のパンツを着用していたと話した。後に彼には近視等の視覚障害があったとして観測への影響も指摘されている。

 

人々の注目が高まる中、警察の得られた情報では犯人検挙はおろか動機の絞り込みさえ困難だった。被害者グループ周辺の人間関係の洗い出し、周辺地域に暮らす元囚人たちや要注意人物への調査など広範な人々を対象として地道な捜査が続けられた。疑惑の人物をあぶり出しては、捜査が進むほどに期待を打ち砕かれた。

犯人はなぜナイフと岩石を使ったのか、単独犯か複数か、性犯罪か物盗りか、メンバーと何らかのトラブルがあったのか、はたまた得体の知れない錯乱者や猟奇殺人者が付近に潜んでいたのか…事件解決のカギは、犯人と接触した唯一の生存者ニルスへの聞き取りにかかっており期待が高まった。

しかし6月23日にようやく叶った青年との面談でのやりとりは、捜査員を別の意味で驚かせた。事件の心的ショックや脳損傷の後遺症によるものか、事件当夜の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていたのである。意識を取り戻した当初には、自分が病院に運び込まれたと気づいて「バイク事故に遭った」と勘違いしていたという。

 

退院後、メディアへのコメントでニルスは次のように語っている。

「セッポと私は3時ごろ釣りに行きました。ですが釣果はなく、1時間程して女の子たちが眠るテントに戻りました。空はもう明るくなっていて、十字架の魂(※的確な翻訳ができず意味は不詳。オーロラなどの自然現象か?)は見えませんでした。気づいた時には病院にいました。」

「顔に合計10カ所ほどの刺し傷がありました。上顎と下顎がつぶれ、頭にも10センチほどの打撲傷がありました。石やパイプで殴られたのは明らかです。肘にも切り傷があり、両手の指関節を擦りむいていたので、(防衛のために)どうにか身をかがめようとしたのか…

右側で寝ていたので、頭の傷はすべて左側にできました。回復した後、平衡器官を損傷していたので歩行訓練のリハビリを必要としました。自分でテントから出たのか、引きずり出されたのかはわかりません。とにかく、殺人犯は私を水に引きずり込もうとしたのです。私のかかとの跡があったからです。彼は何かを恐れて堪えきれなくなったのか、最終的に私を倒れたテントの上に寝かせたままにしていきました。」

病院で伝えられた自身の容体と、捜査員の話から得られた現場状況が大半で、事件当時彼がその目で何を見たのかを口にしていないことが分かる。あのとき4人の身に何が起きていたのか、これでだれひとりとして知る者はいなくなった。青年たちが襲われたシチュエーション、事件の凄惨さと見えづらい犯人像、生存者の記憶喪失…まるで映画さながらの事件の奇妙な展開は謎が謎を呼ぶこととなった。

 

■容疑者

◆逃亡犯

最初に容疑を掛けられたのは、事件翌日の7日10時頃に付近の森で大工に話しかけた男だった。大工のペンティ・ヴァルティアイネン氏は薄汚れた見知らぬ男にタバコをせがまれたという。男は髭を生やし、薄い色のシャツを着ており、その胸と袖口には血痕があった、とヴァルティアイネン氏は証言した。

男は3月2日に作業施設から脱走し、指名手配を受けていたパウリ・クスター・ルオマ(24)と判明する。ルオマは少年時代から10年にわたって窃盗や強盗を繰り返した罪で収監されており、ボドム湖の240キロ北、レーンキポヤの労働施設から脱走した。男の身体的特徴は、身長177センチ、中肉体格で、髪はライトブラウン。にやにやとした外面と自己中心的な性格で知られていた。

 

逃亡中の強盗常習者が防御手段に乏しいキャンプ客に目を付けて金品を強奪するというのは充分に考えうる話であった。1対4ではリスクを伴うものの、就寝中を狙えば不可能なことではなく、うまくすれば「収穫」も大きい。

重点捜索の結果、7日午前中にそれらしき人物が食料を大量に買い込んでいたとの情報や、7日午後にはボドム湖から25キロ離れたセウチュラ市街にいたとの報告があり、付近に潜伏していることは確かだった。

しかしいざ逮捕してみると事件当夜の明確なアリバイが判明し、殺害への関与は認められなかった。

 

◆キオスクマン

地元住民の間では、湖畔近くで売店を営むカール・ヴァルデマー・ギルストローム氏(50) 、通称“キオスクマン”に疑いを向ける声が早々から挙がった。彼は行楽客やこどもにしばしば敵対心を示したため、エスカレートして事件に発展したのではないかというのである。

売店はキャンプ地から数百メートルの距離にあり、ハイカーや釣り人、キャンプやツーリングに訪れた行楽客たちの利用も少なくない。だが氏は普段から行楽客のバカ騒ぎやバイク、キャンピングカーの排気音を忌々しく思っていた。人々は、彼がテントの紐を切断して嫌がらせをしたり、ハイカーに投石したり、キャンプ客の車に散弾銃を向けるといった悪行を報告し、短気な乱暴者だと口を揃えた。ときに万引き対策としてリンゴの中に剃刀の刃を潜ませていたという猟奇的な面も聞かれた。これまでは彼の報復を恐れて通報できなかったのだという。

ギルストローム

ギルストローム氏は取り調べに対し、過去に犯した行楽客へのいくつかの罪を自供したが、青年たちの殺害については否認。弱いアリバイではあるが彼の妻も、事件当夜、夫はずっと家にいたと証言した。事件当時、青年たちが店に立ち寄るなどした様子は確認されず、家宅捜索でも事件に結び付く証拠はなかった。尚、若い女性への執着や性的倒錯などはなかったと言われている。

1969年8月、彼はボドム湖で溺死体として発見される。泥酔状態で湖に入ったとみられ自殺と判断された。

半世紀後、犠牲者たちと同世代の市議会議員ウルフ・ヨハンソン氏は地元郷土史の本を著し、ギルストローム氏犯人説を改めて支持した。地元では「事件の数日後に裏井戸を埋めていた」といった噂が飛び交ったとされ、警察による疑いは解かれたとはいえ、その死後も住民たちからの疑いは晴れることはなかった。彼は第二次大戦従軍による深刻なPTSDの過去、その後もアルコール依存を抱えていたとし、事件から9年後の自殺を「罪悪感によるもの」と主張している。

地元民から腫物扱いされていたものが、事件を機に、過去の腹いせや嫌がらせの対象へと転じたのは明らかであり、生き苦しさが積もり積もってキオスクマンの自殺の原因となったとも想像できる。事故か自殺かすっきりしないところではあるが、愛着ある土地を離れることができなかったようにも思える。

2005年、事件についてインタビューに答えた地元住民ビョーン・アールロース氏は、キオスクマンへの揺るぎない疑いを示した。理由のひとつは、長年DVに苦しめられた彼の妻が死の床で「事件当夜に夫が不在だった」と打ち明けていたというのである。さらにギルストローム氏は死の前日、飲み仲間とサウナに入り、酔った勢いで若者たちを殺害したことを示唆していたという。飲み仲間は警察にそれを伝えたが、警察はすでに容疑を解いていたこともあり、酔った上での戯言として相手にしなかった。酔いが醒めたギルストローム氏は「失言」を後悔して自ら命を絶ったのではないかというのである。

そうした地元の話を鵜呑みにすれば、ありえなくもないように聞こえるが、文字通り死人に口なしであり、「近隣住民による容疑者リスト」には生前も死後もずっと彼が挙がっていたことに留意せねばならない。町の変人、嫌われ者を、すでに亡くなった人物を真犯人と留保し続けることは地元民にとって心の平安にもつながっていたに違いない。

湖は彼にとって庭同然であったことから、周辺で彼にまつわる遺品が発見されたとしても何も不思議はなく、埋めるつもりだった古井戸にごみを捨てたことも事実あったかもしれない。2000年代に土地は人手に渡ったがその後も発掘調査は行われていない。遺族は、氏が死後も事件に結び付けられることを嫌ってDNA採取に応じることはなかった。

◆自白

別の容疑者にペンティ・ソイニネンがいる。ソイニネンは窃盗や暴力犯罪により、1960 年代後半に刑務所に送られた。男は獄中で青年たちの殺害を自供したと言われている。事件当時、彼は15歳で養護施設を脱走し、現場周辺地域に潜伏していたという。

ソイニネンには薬物やアルコールの乱用、精神疾患の病歴があり、それらを暴力性に結び付けて考えることもできるが、一方で妄想性障害や虚言癖も認められていたため、警察は自白を真剣に受け止めようとはしなかった。

 

犯罪者の中には、周りの囚人に対して凶悪性を誇示するために、実際の罪より大きな罪を犯したと自慢する場合もある。また裁判の引き延ばし等を目的に、余罪をにおわせるケースも存在する。

その一方、捜査官による暴行や尋問術によって容疑に掛けられた者の供述内容をコントロールし、「虚偽の自白」を引き出す冤罪の事例も洋の東西を問わず後を絶たない。

はたまた1932年のリンドバーグ実子誘拐殺人事件、1947年のブラックダリア事件、近年ではジョン・ベネ事件などメディアで大きく取り上げられた有名事件では無実の人間が自ら犯人を名乗り出る現象も知られている。

ソイニネンがそれらの事例に当てはまるのか、あるいは真犯人かは不明だが、1969 年、刑務所間を移動中にトイジャラ村の駅で首を吊って自ら命を絶ったと報告されており、真相は闇の中である。

 

催眠療法

7月までに50数件の情報が寄せられていたが犯人特定への筋道には至らず、初動捜査の混乱もあって捜査はすぐに暗礁に乗り上げた。犯人と直接対峙したニルス青年の失われた記憶を取り戻すことに希望が託され、60年代を通じて催眠療法による記憶の復元が試みられた。

催眠捜査は今日では有効性を否定されているが、当時の医学的知見からは目撃者や被害者の曖昧な記憶を回復・修復する効果が期待されていた(たとえば北米では1958年以来医師協会により催眠術が療法士資格として認められており、テキサス州では2021年まで法的に認められた捜査手法の一つとされてきた)。

得られる結果が絶対的証拠とされることこそなかったが、回復したニルスと目撃者のオラヴィ少年も60年7月から催眠捜査を受けることとなる。当初ニルスは加害者について「見上げると黒いマントをまとった真っ赤な目の男が目の前に立っていた」と発言し、鈍器について「鉄パイプ」様のものと示唆した。

 

キヴェラ病院の主治医ステンベック博士の催眠術によって導かれたニルスの証言では、22時半頃にテントで横になり、その晩、男女に親密な性交は行われなかったという。日の出前(日の出は3時6分とされる)にセッポが釣り道具を支度しているのに気づいて目を覚まし、一緒に岬の先端まで釣りに出た。しかし寒さのため、15分ほどでテントに戻ってくると、女の子たちも起き出していた。しばらくするとセッポも釣果なくテントに戻ってきて、再び眠りについた。

その後、テントの屋根が落ちて下敷きにされたこと、少女たちの叫び声を聞いたこと、何者かが仲間たちを鉄パイプで殴りつけナイフで切りかかっているのをテントの裂け目から目撃したと話した。博士によると、セッポ、少女たちが襲われた後、ニルス本人が攻撃された印象を受けたという。これに即して事件を捉えるならば、3人への襲撃で犯人が疲弊していたため、ニルスは致命傷を免れることができたともいえる。

犯人がテント内にいるのを青年2人少女2人と認識した場合、手ごわい相手、この場合は青年2人を先に倒したいと考えるのが一般的とも思われるが真相は分からない。

ニルスとオラヴィ少年2人の証言を総合すると、犯人の特徴は、20~30歳代、身長5’8ft(170㎝強)の中肉体型、丸顔のにきび肌、額が高く、金髪のストレートヘア、目は大きく、まっすぐな鼻、厚い唇、しっかりとした顎、短い首、太く大きな手、胸ポケットのある格子柄のシャツといった人物像が導き出され、上の似顔絵が作成された。

また近年になってから、「犠牲者たちの葬儀」の場面を映した一枚として下のような画像が出回っており、円で囲まれた男性との類似性が指摘されている。放火魔が現場に足を運ぶように、殺人犯が葬式に顔を出したとでもいうのだろうか。

画像の男は不気味なほどに似顔絵とよく似ている。だが出処が不明であり、別の場面での他人の空似や画像加工を疑いたくなるところである。少なくとも画像の男を見かけても、その印象を「20~30歳代」とは思わない自信がある。

 

◆スパイの男

事件翌日の6月6日、ヘルシンキ外科病院に訪れた奇妙な患者も重要容疑者のひとりと目されている。

男は酔っぱらいのように意識を混濁させながら、胃の不調を訴えていた。爪はどす黒く汚れており、服は汚れと血痕と思しき赤みを帯びた染みで覆われていた。緊急治療室へと担ぎ込まれたが、担当医は男が酩酊のふりをしているような疑いを抱いたという。

事件の報道が盛んになると男はぼさぼさのブロンドヘアを短く刈った。担当医と助手ヨルマ・パロ氏は、男は捜査の目を逃れるために病院に飛び込んできた犯人ではないかとの疑惑に至り、警察に通報。エスポー郊外、ボドム湖の現場から5キロほどの場所にある男の住所を伝え、「神経質で攻撃的」な性格であると報告した。

警察は男に簡単な事情聴取を行ったが、事件当夜のアリバイがあったため容疑者リストから早々に除外した。男の着衣に血痕の疑いがあることを医師は伝えていたが、シャツの血液鑑定は断られた。その後、催眠捜査による目撃証言や似顔絵が公開されたことでパロ氏の中で燻ぶっていた疑惑は確信へと変わった。

パロ氏はその後正式な医師となり、神経科クリニックや2001年まで健康省所轄の社会健康研究開発センターで研究教授を務め、在任中に著した医療ルポ『Suomalainen Lääkärkirja』(1994)は優れた評価を得た。引退後、『Bodomin arvoitus(ボドムの謎)』(2003)をはじめ立て続けに発表した3冊のボドム湖事件関連本の中で、この奇妙な患者・ハンス・アスマン犯人説を唱えた。

ハンス・アスマン氏

元刑事捜査官で事件ジャーナル『Alibi』誌編集長マッティ・パロアロ氏も、パロ氏が唱えたアスマン説を支持して共著を出版した。アスマン氏は2人が自説を公にするより前の1998年にスウェーデンで没している。パロアロ氏は、余命を悟ったアスマン氏本人から要請を受けて97年まで周辺取材をしていたという。

共著によると、アスマン氏はKGB(ソ連国家保安委員会)のスパイであり、捜査当局にとっては「触れてはならない人物」と判断されたか、何らかの圧力がかかって容疑を見逃されたと推察している。

 

ドイツ人のアスマン氏は若い頃、アウシュヴィッツの警備員として働いていたナチス親衛隊(SS)メンバーだったとする噂がある。1943年にロシアで捕虜となり、ナチスドイツに幻滅していたことからKGBのエージェントになることを選んだとされる。

戦後はフィンランド人のヴィエノさんと結婚して北欧に移り住んだが、1961年に妻に対する虐待の罪で服役し、70年代に正式に離婚した。パロアロ氏によると、その間、いくつかの謀議や事件に関与していたことをアスマン氏は仄めかしていたという。

そのひとつが53年に西海岸で起きた17歳のキリッキ・サーリ殺しである。少女が夜道を帰宅中に行方不明となり、5か月後に半裸状態の遺体が沼地で発見されたが、犯人に結び付く証拠がなく未解決となっていた。アスマン氏は、運転手の事故で殺してしまい、隠蔽のために湿地に少女を遺棄したと告白した。

元妻ヴィエノさんに対して行った取材では、キリッキ・サーリ事件の当時、確かにアスマン氏は車を凹ませる事故を起こしており、靴下を片方なくして足を濡らしたまま帰宅したことがあったと証言した。ほかにも国内のいくつかの未解決事件の現場にアスマン氏がいたことを裏付ける証言が得られたという。

著書では1960年に起きたボドム湖事件と、他に55年のエリ・イモ殺害事件、59年トゥリラハティのキャンプ場で起きた2女性殺し、63年のシルッカ・リーサ・ヴァリュウス殺しなどとの共通点を挙げ、アスマン氏による「連続殺人」との見方が提示され、フィンランド国民を驚嘆させた。

 

一方で、パロアロ氏からボドム湖事件について関与を問われたアスマン氏は「テントとナイフのことを知りたがっているのだろうが…」「詳細については触れない。認めることも否定することもない」と言葉を濁したという。

また著書では各事件の共通性から連続殺人犯像を導き出しているが、例えばトゥリラハティのキャンプ場では2人の遺体は埋葬されており、明らかな隠蔽の形跡が存在するなど、各事件には数多くの相違点も指摘される。

アスマン氏は「ペンナ・テルボ大臣が大統領選挙で決定的な投票を行ったが、その2週間後に(大臣は)亡くなった」と死の床で回顧したが、パロアロ氏はその発言を「1956年の大臣の交通事故死はアスマン氏による暗殺だった」と解釈している。懐疑派に言わせれば、パロアロ氏の解釈には論理的飛躍が大きく、アスマン氏の不明瞭な発言と各事件とを強引に結びつけようとする傾向がみられるという。

尚、ジャーナリストが裏付け調査を行ったところ、アスマン氏の妹はドイツ空軍から年金を受給されていることが確認された。戦後ドイツでは国防軍ナチス親衛隊の社会保障は明確に区別されており、SS将校は軍人恩給が支給されない。つまりアスマン氏はSSとは無関係と考えるのが今日では主流の見方である。

 

2005年、捜査当局はアスマン氏に関する調査記録を公開した。事件当夜、彼はヘルシンキ郊外に住む長年の浮気相手の女性(33)の部屋で過ごし、翌朝9時には彼女の家主が女性と食卓を囲むアスマン氏を見たことが記録されている。寝室のドアは施錠されていなかったが、人の出入りがあれば構造上誰も気づかないはずがなかった。アスマン氏の衣服に付いた赤い染みは、彼が仕事中に使用した「ペンキ」と記載されている。

パロ氏は「警察権力に対する妄信をやめよ」と30年来築かれた事件に対する既成概念を捨て去るよう主張する。どれほどアスマン関与説を否定する材料を提示したとて、その信奉者もまた同じような主張を繰り返し続けるだろう。捜査当局は彼らの著作について「フィクションに過ぎない」として一顧だにしていない。

今日でもフィンランドの未解決事件界隈ではアスマン氏が重要なフィクサーであるかのように語られることもあるが、「国中の未解決事件に関与した謎のドイツ人スパイ」の存在はあくまでミステリーファンの希望的支持によってのみ成立していると言えるだろう。そもそもキャンプデートに訪れた4人の学生たちはKGBのスパイが標的とするような要人とはいえない。アスマン氏は「自分はスパイだ」という誇大妄想に囚われたアルコール中毒者と個人的には考えている。

 

◆44年目の逮捕

1960年代を通じて取り調べの対象者は延べ4000人に上り、事件の長期化は生存者に対する多くのあらぬ予断を招いた。素人探偵たちはバードウォッチングのこどもや魚釣りの少年に対してでさえ、現場に近づかず通報しなかった行動を疑問視し、「真犯人を刺激しないために親たちが口止めしているのではないか」と囁いた。

当然、「パーティーで唯一の生存者」も疑惑に晒された。少女の死後も危害を加え続けた犯人がなぜ横に倒れていた彼だけを仕留め損ねたのか、青年の怪我は実はたいしたものではなく記憶を失ったふりをしているだけではないか…未解決事件にはよくあることだが、人々の深刻な猜疑心は事件の突破口を見いだせずに迷走し、挙句にその捌け口として目撃者や被害者遺族、身近な生存者への疑惑へと転化される。

ボドム湖事件はそうした状態のまま、人々の間で議論され尽くし、捜査は30年以上もの間、事実上凍結していた。

 

しかし2004年3月末、当局は突如としてニルス・グスタフソンを逮捕し、4月2日、3人の殺害容疑で収監した。事件から40年以上が過ぎ、バスの運転手として生計を立て、結婚して2児の父親となり、すでに年金暮らしを始めていたニルスにとって、こうしたかたちでの捜査の再始動は寝耳に水だった。

10月、中央刑事警察は採取された血液サンプルの分析から、ニルスの殺害への関与を裏付けられたと発表。事件当時は利用できなかったDNA型鑑定により重要な新事実がもたらされたと述べた。

この裁判はフィンランド国民の眠っていた記憶を呼び覚まし、インターネット上で情報がシェアされ、議論が再燃した。それを信じようと信じまいと、だれしもの脳裏を一度はよぎった「生存者犯人説」の行方を皆が固唾を飲んで見守った。2005年8月、エスポー地方裁判所で公判が開始される。裁判官らは実地検査を実施し、証人として3人の医師がニルスの怪我や後遺症について証言し、法廷には当時の現場に残されたテントが設置された。

事件当時のテント鑑識

検察側の見解によると、事件当夜、セッポとニルスは飲酒後に口論となり、その後、ニルスはマイラに性的アプローチを試みたが断られたと推測した。テントを追い出されたニルスは、マイラは自分よりセッポに好意があるのではないかと疑惑を強めて3人のテントを襲撃。嫉妬心からセッポを殺害し、そのまま自制心を失って皆殺しの犯行に及んだものと動機づけた。

遺体状況、とくにマイラの首にある深い刺し傷の痕跡に着目した。出血の少なさから死後に付けられた刺し傷と判断され、加害者の彼女に対する「強い怨恨」を示す証拠だと主張。検察側は「明らかに少女への嫉妬を示している」として、男女関係のもつれが惨劇の発端になったとの見方を示し、ニルスが負った怪我はセッポの反撃によるものとした。

ニルスは一貫して当時の記憶がないと主張し続けており、起訴内容を否認。公判中は声を荒げるようなこともなく、検察側の主張に対して首を横に振るなど落ち着いた反応を見せた。彼の弁護人リータ・レッピニエミ氏は、テント上で発見されはしたものの、血痕状態からニルスはテント内で襲撃されていたと主張した。

ゴムで縛られた古布(枕カバー)


また現場に残された枕カバーに付着していた精子も争点となった。枕カバーは、発見時は輪ゴムで筒状に丸めたものが2本発見されていた。月経だったマイラが生理用ナプキンに枕カバーを古布として代用し、テント外に捨てたものと推定されていた。(※当時は経血の吸収に不要となった古布を使用することが多かった)

そこに付着したニルスとも殺害されたセッポのものとも異なる精子の存在は、「部外者」がその場にいたことを示していると弁護側は述べた。青年たちの遺留品はテント等一部を除いて鑑定後に親族の許へ返却されたが、枕カバーだけは証拠品として保管されていた。それこそ当局が「三者の存在」を隠蔽しようとする何よりの裏付けであると主張した。

その意見に対し、検察官トム・イフストローム氏らは、精子は「キャンプよりずっと以前に付着していた可能性がある」と反論。発見状態から、マイラが使用直後に丸めて遺棄したとみるのが妥当であり、その間に精子が付いたとは思えない。犯人が捨ててあったナプキンに射精して後から丸めて元に戻すとも考えられない。だとすればマイラが過去の精子の付着に気づかずに転用していたとみるのが妥当というのである。

ニルス以外の過去の重要参考人についてもDNA型鑑定が行われたが、枕カバーの精子とはいずれも一致せず、犯人のものかそれ以外かも不明である。

 

離れた場所で発見されたニルスの靴には血痕が残されていた。分析によって犠牲者3名の血液成分が確認されたがニルスのものは検出されなかった。検察側は、これを3人の犠牲者が受けた襲撃とニルスの負傷が別々のタイミングに生じたため、つまりニルスは3人を襲撃した後で自らの手で自身を傷つけたのだと主張した。

事件の朝、バードウォッチングのこどもたちは倒れたテントの上に男性らしき脚を見、釣りをしていたキヴィラティ少年は事件現場の方角から海岸に向かっていく人影を見たと証言していた。検察側は、このときキャンプ地を後にした男こそニルスであり、第三者の存在を偽装するために自分の靴を遠くに隠しに向かったのだと主張した。

弁護側は、このとき見られた足こそ昏睡していたニルス本人だと反論した。青年たちは靴をテントの外に置いて就寝しており、血痕の付着は偶発的なものである。仮にニルスが靴などを隠しに行くことが可能だったとしても、発見されなかった財布やセッポの革ジャケットなどの所持品をどのように消し去ったのかは説明がつかない。事件から30余年もの月日の間には、現場となった岬の周辺では金属探知や発掘調査などが際限なく繰り返されてきたが、失われた所持品は見つかっていないのである。尚、証人となった元釣り少年は公判で「自分が見た金髪男性はニルスではない」と証言している。

検察側は、偽装工作のためにニルスが自傷した可能性に言及したが、証人の医師らは、総合的に見てそれらの怪我を負った状態で偽装工作を行うことは不可能だと証言した。ニルスの鼻腔には脳液が滴った状態で「差し迫った命の危険があった」こと、頬の一部裂傷は貫通しており、頭がい骨後部のひび割れなども「自傷」できる怪我ではないと説明した。

 

2か月に及ぶ審理の結果、彼が偽装工作したとする根拠、3人を殺害したことを裏付ける証拠は何一つなく、目撃証言も外部犯を示唆するものと判断され、無罪判決が下された。検察側は上訴せず、ニルスの無罪が確定。その後、州と国からおよそ63000ユーロ以上の賠償金が支払われており、これは通常の補償より3倍近く高い金額とされる。前例がないほどに国民的注目が集まった事件の影響力、公判での精神的負担を考慮した額と考えられる。

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会見に及んだニルスは、襲撃当時の記憶はないが、私が三人を殺していないことは断言できると述べた。ジャーナリストはニルスに殺害していないことを示す立証を求めたが、「私は無実であり、それはタマネギです(どこまでいっても答えが出ない)」と答え、不毛な“悪魔の証明”を退けた。

 

■余談

事件前年の夏、パウリ・ピリセンさんはマイラの恋人となった。キスを交わすことはあったが性交渉はなかった。彼は60年2月から陸軍に入り、しばらく2人は離れ離れとなっていた。

マイラの家には電話がなく、手紙でのやりとりを続けており、パウリさんはペンテコステの休暇で地元に帰ることを伝えていた。ヘルシンキの駅で会う約束をし、婚約を申し込むためにサプライズで婚約指輪まで用意していたが、なぜか恋人は友人たちと湖へ旅行に出ており、再会の約束も、結婚の夢も果たされなかった。

青年たちの悲劇の影にあったパウリさんの悲恋は、駅に現れなかった恋人マイラさんへの印象を大きく揺るがせる。彼女の中ではパウリさんは半ば「過去」になりつつあったのか、それとも郵便誤配などで悲運にも帰郷の報がうまく伝わっていなかったのか。

恋人の不在を知ったパウリさんは「事件」が起きたその晩、友人たちとバーで酔いつぶれるまで飲んで過ごしたという。翌日、マイラの母親に呼ばれてビョークルンド家を訪ねるとボドム湖での事件について聞かされ、恋人の所持品の確認を手伝った。母親は慟哭してうろたえ、祖父は怒りに任せて大きな声を上げていた。パウリさんは彼女が継父を恐れていたことを思い出した。実際に対面した継父は、部屋の中を右往左往するばかりだったと言い「非常に緊張していた」ように見えた。

事件から10数年後、偶然バーでニルス・グスタフソンと顔を合わせる機会があった。周囲から相手を紹介されたが、彼が事件の記憶を失っていることは知っていたこともあり、お互い大した会話のやりとりも続かなかった。2人とも相手を疑うあまり掴み合いになるようなこともなかった。唯一の生存者はそのときすでに酔っぱらってはいたが、すぐ隣に警官がいたことも影響したかもしれない。

パウリさんは事件当時アニアのことは知っていたが、セッポとニルスについては全く知らなかった。ボドム湖へのルートは大体頭に入ってはいるが現地を訪れたことはないという。

婚約する心づもりを決めて帰省してみれば、恋人に再会の約束を反故にされ、そのうえ別の男と泊りがけで旅行に出かけたと知れば、逆上するのがむしろ自然に思われた。事件当夜に一緒にいたのは飲み友達で、酔いつぶれれば記憶もどこか曖昧になり「弱いアリバイ」ともいえる。

飲み友達は車で「恋人たち」を捜しに出かける手伝いをすることもできた。深夜であろうと白夜である。バイクの横にあるテントの前に恋人の靴を見つければ「報復」は決して不可能とは言えない。パウリさんへの詳しい事情聴取は2003年、ニルスの裁判に際して行われたもので、事件当夜のパウリさんのアリバイを証言できる飲み友達はすでに亡くなっていた。

 

犠牲者遺族は4人からキャンプの行き先さえ聞かされておらず、有力な手掛かりは得られなかった。しかし噂や匿名通報によって、その後、マイラの継父ユッカ・イルマリ・タカラ氏に対して予備審問が行われたことも書き加えておこう。

通報内容は詳しく伝えられていないが、パウリさんの言うよう彼女は継父に怯える面があったとされている。ユッカ氏が妻(マイラの母)より9歳年下、マイラの10歳年上で年若かったことなどから、家庭内暴力ないしは義娘への性的虐待の類が疑われたと考えるのが一般的な見方だろうか。彼もバイクを所有しており、明け方に家人に気取られずに現場へ向かうことができたと推測されている。

もし以前から性的虐待を行うなどして義娘に強い束縛を強いていたとしたら、異性との交遊を聞き知って猛烈な嫉妬心に駆られ…などとも思わなくもないが、当然ユッカ氏と事件を直接結びつける証拠はない。また少なくともマイラの母は娘とパウリさんとの仲をある程度は把握していた。

仮に継父が結婚の申し込みに訪れたパウリさんを撃退したり、帰宅した義娘に折檻を加える程度なら現実的にまだ理解できる。だが義娘もろとも4人皆殺しにしようと襲撃したとする発想は、ニルス裁判における検察側の見立て以上に机上の空論じみている。

マイラが継父に対してどのような感情を抱いていたのか、虐待の有無は定かではない。だが一般的な「父親」に対する態度であれ「継父」に対するものであれ、年頃の少女が抵抗感を抱いたり拒絶に近い態度を見せることがあったとしても、私はそれほど不思議には思わない。

 

個人的に違和感を覚えるのが、金髪男性の「目撃情報」と現場からの「紛失物」との食い違いである。

事件当夜の現場の気温は分からなかったが、同じ南部のヘルシンキで6月の最低気温が約10度、最高気温が約20度である。到着後に遊泳していることからフィンランド人としての体感や当日の気象条件ではやや暖かかったのかもしれないが、明け方の釣りから犯行時刻とみられる5~6時にはさすがに冷えたには違いない。

現場からはセッポの「レザージャケット」が紛失しており、犯人が「防寒具」としてその場で着こんでもおかしくない。興奮と激しい運動の結果、体温が上昇していたとしても、返り血でも浴びていれば尚更「変装」のため着ていなければおかしい。だが釣り少年が早朝に見かけた金髪男性の上着は「非常に薄手のシャツ」とされていた。彼はレザージャケットをあえて手に持っていたのであろうか。

また財布や時計、ナイフの類はポケットにでも忍ばせることはできるが、ニルスの「女性物のキャリーバッグ」が持ち去られたのはなぜなのか。常識的に考えれば、すでに日が昇っているため、湖畔で「ブラウンとブルーのチェック柄」「サイズ45×30×18センチ程」のバッグ1つを抱えていれば人目に付く恐れがある。

一つ考えられるのが、盗品の靴や衣類をまとめてバッグに収めて移動しようとしたケースである。だがそれならば何も500メートル先で衣類や靴を捨てなくてもよさそうなものである。またレザージャケットや2人分の靴を収納していたとすれば、それなりの容量となる。金髪男性が「バッグを持っていた」「荷物を抱えていた」という証言にならないのも腑に落ちない。

可能性の一つとして、釣り少年が見かけた金髪男性と犯人は別人という展開も考えられよう。有力情報として「若い金髪男性」が犯人であるかのように取り沙汰されたことで、無実の当人が名乗り出ることを諦めたり、捜査員の中でも先入観に縛られて別様の容姿をした容疑者をリストから不用意に除外した可能性も大いにあると思う。ほとんど唯一といってもいい「具体的な犯人像」が仇となり真犯人の逃亡を許してしまったのではないか。

はたして犯人は半世紀の間に積み上げられた容疑者リストの中にその名を連ねていたのか。それとも続報が流れるたびにどこかで密かにほくそ笑んでいたのであろうか。

 

亡くなられた青年たちのご冥福をお祈りいたします。

 

 

参考

https://www.murha.info/rikosfoorumi/viewtopic.php?f=4&t=1194

https://web.archive.org/web/20090411121703/http://www.mtv3.fi/bodom/krp_esitutkintapoytakirja.pdf

https://truecrimedetective.co.uk/unsolved-mysteries-the-alleged-crimes-of-hans-assmann-5d4b78bfc190

https://www.mebere.com/finland-lake-bodom-murders-sketch-hans-assmann-funeral-picture-documentary