いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ゲイリー・プラウシェの復讐

40年前、アメリカで移送中の犯罪者が被害者の父親に射殺される場面がTVカメラに捉えられ、世界的な話題となった。それは単なる衝撃映像としてではなく「親子愛」によってもたらされた復讐劇として受け止められている。

本稿では、被害者ジョディ・プラウシェが、家族のために、そして自分と同じような性暴力被害者たちに向けて体験を綴った著書『Why, Gary, Why?』を下敷きとして、事件を振り返りたい。事件後の家族の軌跡、ジョディの回復プロセスやその後の活動を知りたい方は原文を一読されたい。

“Why, Gary, Why?”: The Jody Plauché Story

 

家族

1945年、ルイジアナ州バトンルージュに生まれたレオン・ゲイリー・プラウシェは、子どもの時分から落ち着きのない多動性(ADHD)の気が強く、親も教師も手を焼く問題児だった。悪戯好きの性格は高校進学後も変わることなく大人たちを困らせたが、すばしこさが磨かれたのか、陸上スプリンターとして才能を開花させ、州記録を樹立するなどの活躍を見せた。何より持ち前の分け隔てない社交的で心優しい性格から、周囲の人々に愛された。

彼は地元のナイトクラブで3歳年下の歌い手ジューンを見初めると猛アピールを続け、彼女もあの手この手で自分を笑顔にしてくれるこの人とならば幸せになれるかもしれない、と勘違い。二人は1969年のクリスマス、交際期間わずか1か月で結婚を決めた。

ゲイリーはミシシッピ州ビロクシでアメリカ空軍の衛生兵として勤めることとなり、翌年、夫婦は長男ゲイリー・ジュニア(愛称“ババ”)を授かった。しかしジューンが気づいたときには、夫は彼女に笑顔と幸せをもたらす存在ではなくなっていた。その社交性が仇になったのか、ゲイリーはアルコールに依存し、妻や乳児を省みずに外泊を繰り返すようになり、たまに顔を合わせてもシラフなことはなかった。

ジューンがもはや彼を受け容れられないと別離を意識し始めた頃、第二子の妊娠が発覚し、当面の離婚を諦めることになった。厳格なカトリックの家で育った彼女に「赤ん坊を捨てて逃げる」という選択肢はそのとき用意されていなかった。

 

除隊後の1971年、ゲイリーは妻子と共にバトンルージュへ戻り、72年には二男ジョセフ・ボイス(“ジョディ”)が生まれた。だが最悪なことに彼が見つけてきた就職先は酒類卸売の仕事だった。彼は持ち前の陽気さによって酒場に重宝がられ、どこへ行っても飲み仲間たちから引っ張りだことなり、アルコール漬けの舌が渇く間もなくなった。

妻ジューンにとっては彼がコミュニティで人気を博すことさえも噴飯ものだった。夫が飲み屋で腑抜けている間も、彼女はホステス、ウェイトレス、調理場の下働き、清掃スタッフなどに奔走せねば家計が回らなかった。道行く誰もが顔見知りのような南部の小さな田舎町で国家資格も持たない余所者の彼女に「割のいい仕事」は残されていなかった。

さらに三男ジェフリー・マイケル(“マイキー”)はババやジョディ以上に多動性の気が強かった。後に重度の学習障害(LD)と失読症と判明するが、兄たちと違いスポーツへの関心は薄く学校生活にもなじめなかった。手に余る三兄弟に疲弊していたジューンは第四子の妊娠を知ると深く絶望して一週間枕を濡らしたが、不幸中の幸いというべきか待望の女児に恵まれる。

長女ジェニファー・ローレ(“シシー”)は母親と祖母の愛情を一身に受ける「プリンセス」で、尚且つ三人の荒くれたちに負けないほど「タフ」に育ち、10代にもなると大人びた美貌で兄の同級生たちからも熱視線を集めたという。

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ジューンが子育てを嫌っていた訳ではない。彼女の厳格さと子どもたちの資質とのギャップの大きさ、非協力的な夫と時間泥棒な仕事とのバランスが母親を疲弊させたのだ。

実際、二男坊がよそで誤った性知識を吹き込まれた際には5歳児には早すぎるくらいしっかりと「鳥とミツバチ(性教育を意味する慣用句)」を話し聞かせ、基本的なしつけ―ウソをついても必ずバレることや悪事は身を亡ぼすこと―を叩き込むのは怠らなかった。子どもたちの球技への強い興味に気づくとボールを「おあづけ」にすることで罰の効率化を実現し、彼らに自律的な規範意識を根付かせた。

テレビに子守を手伝わせることもあったが、映画やドキュメンタリー番組を教材にして一緒に物事の善悪を考えさせることで彼らの道徳感情を養った。おかげで四人の子どもたちは、母親同様、身近に潜み毒や病をもたらすヘビやネズミ、どこからともなく忍び寄る「人さらい」を恐れるようになった。

体力的に追いつかなくなったことで緊張の糸が切れたのか、四児が小中学校に上がる頃になると、ジューンの中ではもはや母親としての全責任を果たしたように感じられた。子どもたちは彼女の生きがいでもあったが、他の多くの主婦たちと似たように「大きな子ども」を含めた育児と低賃金労働に忙殺させられた半生を呪ってもいた。

10年余の絶望を経てジューンの記憶に「夫婦」の幸福な時間はほとんど残っておらず、ゲイリーに離婚を要求するための障害はなにもなかった。1983年6月頃に夫婦は別居状態に至り、子どもたちは母親の許で生活を送ることとなる。

 

コーチによるテスト

事件の「火種」は別居より少し前の1982年10月のこと、小学校で「空手教室」の入会チラシが配布されたことだった。二男ジョディはまともに目を通さずに捨ててしまっていたが、同級生の母親が空手教室に興味を示し、親しかったジューンに子どもたちを一緒に習わせてみないかと声を掛けた。ジューンは過保護なタイプではなかったが、精神鍛錬や規律訓練になると考えたのか、自身の休息時間の方を必要としていたのか、三兄弟をまとめて通わせてみることにした。

当初の講師はすぐに辞めてしまい、12月からレッスンを受け持ったのがジェフ・ドゥセットだった。ジェフは母親たちに子どもの内なる可能性について説き、これから交流試合や各州から精鋭たちが集まる公式大会に向けてトレーニングに励んでいくといった見通しを示し、差し当たりチームメイトの親睦を深めるため一緒にピザを食べたり映画を見に行ったりするつもりだと話した。

用心深いジューンは家族の後見役を担っていた叔父に連絡を取り、講師のジェフについて警察記録を確認してもらった。ジェフに前科は確認されず、母親は息子たちに課外の集まりへの参加を許可することにした。またジェフ・ドゥセットは20代半ばの若者だったが、両親の目には驚くほど子どもの扱いに長けていた。彼は「自分もまだまだヒヨッコなので」と恐縮したが、生徒や保護者達には仕事を放棄して失踪した前任講師よりも遥かに印象がよかった。

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ほどなく教室が移転してプラウシュ家とも近場だったことから、レッスン後はジェフが車で子どもたちを送り届けるようになった。子どもたちとすっかり打ち解けたジェフは、足元でアクセルやブレーキを操りながら、彼らを膝の上に乗せてハンドルを握らせることもあった。生徒たちにとっては良きコーチであり大きな友人でもあった。彼は帰りがけに生徒の親たちとも交流して信頼関係を深めていった。

1983年3月、ジェフは子どもたちを連れてヒューストンへ空手トーナメントの観戦とアミューズメントパークに立ち寄るツアーを提案。二男のジュディは週末にはバスケ、野球、サッカーのTV観戦を生きがいにしていたため家に残ったが、長男ババと三男マイキーは泊りがけのヒューストン旅行に参加した。

小旅行から戻った二人は素晴らしい時間を過ごしたらしく、枕投げやホテルの破壊、密かに持ち込んだ嗅ぎタバコで胃を壊した友人の話やマイキーが車に乗り遅れてガソリンスタンドに取り残されて人生初のパトカーを体験したといった土産話をジョディに聞かせ、「なんで来なかったんだ!」と何度も責めた。

この時期、プラウシェ家には叔父夫婦が毎週末従兄弟たちを連れて遊びに来ており、レッスン後に立ち寄ったジェフもボードゲームの輪に加わり、大人も子どもも彼が親戚の一人ででもあるかのように信頼しきっていた。

 

4月にはヒューストンで行われるトーナメント大会に出場することとなり、子守役として父ゲイリーも同伴した。生徒たちは自分たちの試合を終えた後も黒帯たちの試合に夢中だったが、ジョディだけは上の空で「(野球の)アストロズの試合を見に行こう」とジェフに声を掛けた。その悪意のない一言はジェフを不快にさせ、「きみが空手以外のことを望んでいると知っていたなら家族は参加を許してくれなかったぞ」「きみは最高の選手の一人なんだ。初参加で2位になるなんて快挙なんだぞ」と少年の自覚の足りなさを責めた。

夜はみんなでアイススケートを楽しみ、子どもたちは全身ずぶ濡れになってホテルに戻った。生徒6人はジェフとゲイリーの二手のベッドに別れて「すし詰め」状態で寝ることになった。その晩、ジェフと同じベッドに入ったジョディはなかなか寝付くことができなかった。大きな手が彼の体を弄り、時々陰部をなぞったりしたためだ。だが騒ぎにしてはいけない気がした10歳の少年は目を閉じて息を飲み、耐え忍ぶことを選んだ。

ジョディとジェフ

翌日は雨だったが、一行は予定通りアミューズメントパークを訪れ、水上ジェットコースターに乗った生徒たちはまたしても全身ずぶ濡れとなった。ジョディは白いズボンを履いていたため、透けてパンツが丸見えになった。ジェフが凍える小さなお尻に関心を示す言葉を掛けたが、少年は何も聞かなかったことにしてその場をやり過ごした。翌日、登校したジョディは、雨降りと寒さで行楽も台無しだったことや夜の不快な出来事を割愛し、自分たちがどれほどゴキゲンな週末を過ごしたかを吹聴した。

翌週、空手チームは公園でザリガニを茹でて人々に振るまうパーティーイベントを開催することになっており、ジェフは良い採集地を知っていると生徒たちを泊りがけでの「ザリガニ捕獲作戦」に誘った。彼は子どもたちの人心掌握に長けており、常に楽しい時間を提供した。沼地には冒険映画で見るよりもたくさんのヘビが群生し、間近でワニの捕食の瞬間を目撃するなど、少年たちにとってスリルに満ちた体験だった。

だがその晩のジェフはベッドの中でより攻撃的になり、ジョディの肌を直に触れ、何度もしつこくこすってきた。少年は痛みを感じて怒りを感じ「なぜ彼は寝ないんだろう」「どうしたら止めてくれるんだ」と疑問を抱いたが、男が企てた行為が単なる悪ふざけではなかったことを知るのはまだもう少し先の話だった。

ザリガニ採集はうまくいき、翌日のパーティーにも家族やたくさんの客が集まった。ボイルの最中、ジェフはジョディを呼びつけて耳元で囁いた。

昨晩のことを家族に話した?

「…何のこと?」

ジュディは寝入っていたため、質問の意味がよく分からないようなふりをした。ジェフはそれ以上何も言ってこなかったが、その後のできごとを思えば、このときおそらく少年の“芝居”に気づいていたに違いない。ジョディは男の課した厳しいテストに「合格」したのだ。

 

プライベートレッスン

ジェフは時々プラウシェ家に顔を出し、子どもたちと遊ぶだけでは飽き足らず、入浴中のジョディに背後から忍び寄って手淫を強制することもあった。心理的な抵抗感に反して、物理的刺激による興奮は避けようがないものだった。やがて精通の肉体的な快感とともに背徳的な恐怖を知った少年は、家族に講師への困惑を打ち明ける意欲を失ってしまう。

本の中でジョディは、一般読者に「肉体に伴う快感と、性的な非虐待経験に対する感情を混同しないでほしい」と釘を刺し、「性的虐待の被害者は自分の体が他人によって傷つけられたことに罪悪感を感じないでほしい」と述べている。

児童への性的虐待は暴力的行動支配と精神的孤立を植え付け、ジェフのように指導的立場(権威)を利用すれば感情支配や思想支配も容易になる。彼は子どもたちにとって熱心な指導者でありながら身近な憧れであった。性的虐待に強い抵抗はあったが、そんな尊敬の対象から特別な親しみを与えられること、認められていると錯覚させることでジョディに尊敬以上の念を抱かせた。

 

1983年4月半ば、再びヒューストンでの空手大会にエントリーし、このときは天候に恵まれて生徒たちはアミューズメントを満喫することができた。

その一方、トーナメントの帰りの車中で、ジェフは「今夜、きみのペニスをしゃぶってあげるよ」とジョディに耳打ちする。少年にとってそれは未だ「排泄器官」であり、なぜ男がそんなことを望むのか見当がつかなかった。ジョン・ウェインの映画を見終えて消灯となり、暗闇が生徒たちの寝息で包まれた頃、男はヘビのように布団の奥にもぐりこんだ。射精に達したジョディは、なぜ男がそんなことをしたがっていたのかを理解した。コーチは「次のステップ」へと進みたがっていたのだ。

翌月には顔を合わせる度ごとに、まるでSNSをチェックするくらい気軽に、「今からセックスするよ」とさりげなく少年に耳打ちした。かつて母親に聞き教わっていたおかげで、ジョディは男が自分をセックスの対象として見ており、その照準が自分の肛門であろうことに察しがついていた。ジョディの方から性的交渉を持ち掛けるようなことは一切なかったが、ジェフと出会ってからおよそ半年経った1983年5月頃には顔を合わせる毎にオーラルセックスとアナルセックスを強要されるようになっていた。

 

夏休みに入ると、テキサスで行われる全国大会の公式戦に向けて空手のトレーニングは本格的なものとなった。生徒たちは毎日8キロを走り、腹筋500回、ジャンピングジャック(跳躍と共に両腕両脚を広げる全身運動)を1000回、ストレッチとスパーリングに明け暮れた。真夏のトレーニングの最中にヒーターを点けるといった過剰なしごきもあったが、生徒たちはへこたれることなく、みるみる上達していった。

テキサスに住む叔父夫婦を訪問するため、ゲイリーもジューンと付き添うこととなり、家族はヒルトンホテルで宿泊。滞在していたレイ・チャールズを偶々目にして、その身長の低さに驚かされた子どもたちのテンションは最高潮に達していた。それまでの厳しい訓練、流した汗と涙によって雑念は洗い流され、ジョディもコンテストに集中し、培ってきたスキルをすべて出し切る心意気が定まっていた。

(…ぶっ飛ばしてやる!)

初戦。試合開始とともに得意のリッジハンド(親指を内側に折り、手の内側で打つ打撃)クリティカルヒットし、相手は泣きながら床に崩れた。審判は「これ以上リッジハンドで強打しないように」と警告した。ジョディは審判の注意に苛立ちながらも、再開の合図とともに体勢を入れ替え、先ほど打った同じ部位に今度は裏拳をお見舞いした。

「そんなに強く打たないようにと言ったはずだ!」と主審は咎める。

「今度はリッジハンドじゃない!」

相手はようやく立ち上がったが、すでに息が上がり、よろめいて足取りが重くなっていた。試合開始から45秒、得意の側方蹴りが決まって3ポイント目を奪った。もはや実力の差は明らかだが、勝敗は4ポイント先取で決するルールだった。ジョディは手を抜いて軽い裏拳をヒットさせて相手をマットに沈め、圧倒的勝利を収めた。

しかし結果よりも手加減されたことに侮辱を感じたのか、試合終了後に相手は憤慨し、退場しかけたジョディの背後から襲い掛かろうと突進してきた。状況を察した勝者が瞬時に回し蹴りを繰り出すと、敗者はもんぞりうって宙に弾き返された。厳しいトレーニング漬けの日々の成果とこれまでのフラストレーションを爆発させたジョディは、決勝戦まで向かうところ敵なしの実力を見せつけ、大会中にその名を知らしめた。

だが決勝戦の相手はジョディの打撃を回避するため時間いっぱいまで足を使ってマットを駆けまわった。どうにか1ポイント先取してはいたものの、もはやジョディには相手をぶっ飛ばしての完全優勝を決めることしか念頭になかった。距離を詰めては逃げられるの繰り返しで頭に血が上ったジョディは不用意に相手の懐に飛び込もうとし、相手の前蹴りをまともに受けてしまう。判定が認められれば2ポイント、逆転されかねない反撃だったが、すでに審判は「時間切れ」を宣告しており、ジョディは判定勝ちで優勝トロフィーを手にした。

皮肉なことだが、少年にとって連日力づくで破壊しようとしてくるコーチの相手に比べれば、大会の舞台ははるかに安全な場所だった。ジョディが軟弱だった訳でも、支配されやすい性格の少年だったという訳でもない。事実、表彰台で準優勝の相手から「本来なら俺が貰うべきトロフィーだ。お前も俺が勝ったことは分かっているよな」と挑発されたときも「もう時間制限もポイントもない。本当の1位を証明したいのなら受けて立つ」と度量を見せて敗者を黙らせる勝気な性格だった。それでも捕食者から見れば、彼は小さく従順な獲物にすぎなかった。

 

会場には滅多に会えなかった従兄弟たちも駆けつけており、その夜はホテルで一緒に過ごすことになった。ジェフはジョディの従兄弟とのやりとりの中で、他の生徒たち同様、友人同士のようなコミュニケーションを取って頭を小突いたりもした。だが翌日、それが叔父の耳に入ると、指導者としていかがなものかと難色を示した。さらに別れ際に、ジェフが普段からしているようにジョディの口元にキスをしたことに「大の大人があんなことをするなんて」と再び警戒感を示した。

ゲイリーとジューンは「あなたはジェフのことをよく知らないだけで、本当に素晴らしい人なんだ。子どもを傷つける意図はなかったし、彼はいつもそうやっているんだ」と理解を求めてその場を取りなした。夫婦からすれば、久しぶりの親戚同士の交流や息子の優勝の場に水を差されたくなかったのかもしれない。

だがジョディの両親はジェフを「よく知っていた」ために、その裏で息子の身にどんな禍が起きているのかまるで気づいていなかった。近視眼的には、子どもたちに慕われ、面倒見がよく、フレンドリーで、指導力のある良きコーチ以外の何者でもなかったのである。相手を「よく知っている」ことはその反面、警戒感が削がれていること、相手に懐柔されていることを意味する。叔父との小さな衝突は、現実を正しく理解するためには部外者の目も不可欠なことを示している。

 

逃避行

大会チャンピオンの名誉は地元テレビ局にも取り上げられ、チームは副知事から直々に祝福される機会まで設けられた。ジェフはオリジナルマグカップを手に記念撮影を行い、短い期間ではあったが―生徒の保護者ばかりか地域住民からも優れた指導者と褒めそやされた。

 

ジェフ・ドゥセットは1959年、3人の兄弟と2人の姉妹がいる大家族に生まれた。彼が10代の頃に父親が亡くなると、兄弟たちはルイジアナ州ゴンザレスで暮らし、母親と姉妹はテキサスへと移住した。真っ当な商売で家計を支える者もいたが、兄のサムは素行不良者で酒場で喧嘩に明け暮れ、州立刑務所で数年の服役を経験した。妹のカーラインは母親に児童売春を強要されて育ち、14歳で出産して以来レズビアンとして過ごした。

ジェフ本人の回顧証言によれば、8歳頃、母親の不倫相手から性的暴行を受けるようになり、彼女はそれを見てみないふりをしてきたとされる。アルコール依存症だった男は味をしめ、友人まで加えて少年への凌辱を繰り返した。14歳のとき、母親はまた別の深刻なアルコール依存者と交際しており、ジェフは激しく抵抗したが、力づくでレイプされた。不倫相手はジェフの怪我を「しつけのためだ」と説明し、彼女に子どもたちとの別居を薦めた。少年は性的虐待の原因を呼び寄せ、保護してくれなかった母親を憎悪していたが、別居によって兄弟が不憫な思いをすることにより逆に自責の念を植え付けられた。

17歳になったジェフは児童への性的虐待で身柄を拘束されることとなる。しかし母親が警察署内の人間と懇意にあったため、警察記録からは抹消されていた。

アメリカでは性犯罪者の80%以上が、自身の非虐待経験を主張し、俗説としても小児性愛の原因と考えられているが、うち50%はポリグラフ検査により虚偽という結果が報告されている。つまり小児性愛者が元・非虐待児であるとは必ずしも言えないということであり、ジョディは本の中でジェフの被虐待供述を虚偽と捉えている。

供述とポリグラフ検査の齟齬について、犯罪者が裁判で情状を有利にするための「言い訳」か、あるいはもっと深刻な場合、その性癖や犯罪を自己正当化するために記憶を捏造してしまっている可能性が考えられる。また捜査機関や裁判所、精神鑑定人の側に、性犯罪者への偏見や傾向的バイアスがかかり、「非虐待経験」を背景とする犯罪と判断してしまいがちだとも考えられなくはないだろう。

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私たちはジェフのような人物を「性犯罪者」「小児性愛者」というニュアンスでばかり捉えがちだが、ジョディは「優秀な詐欺師」と表現する。頭がきれ、一般的に風貌も悪くはなく、誠実に努力さえすれば「望みの女性を手に入れることはできたであろう」、「こどもに惹かれなかったならば成功を収めていたかもしれない」とまで言う。だが無論、彼が空手インストラクターとして子どもたち、大人たちの前で見せた誠実さ、フレンドシップ、娯楽の提供などは性的虐待を前提とした上でのなりすましにすぎない。

事実、空手教室以外の彼は典型的な詐欺を生業としていた。ルイジアナ州立大学のロゴを無許可でプリントしたバンダナを1ドルで大量生産し、衣料品チェーン店に2ドルで卸し、その金で生徒たちの送迎に使う大型車を購入した。非公式グッズは大量に売れ残り、負債を被った衣料品店はジェフを告訴して返金を請求していた。

州立大がフットボール大会で好成績を挙げたことに目を付けると「記念マグカップ」を販売しようと広告を打ち、多くの発注を受けたが著作権法に引っかかって大学のロゴやマスコットの使用が許可されずキャンセルが相次いだ。「優れた空手インストラクター」としてマグカップを手に記念撮影を行ったのもその販促が目的だった。彼はすでに多くの不渡小切手を出していたため、バンダナ訴訟のためかマグカップの補填のために、ジョディに母親の名前で小切手を偽造させたことさえあった。

衣料品チェーンからの告訴によりジェフは1984年3月に出廷を求められていた。訴追を避けるためには新たに1万ドルが必要だったが、マグカップでしくじった彼にもはや支払い能力はなかった。男はジョディに空手教室を近々閉じることになること、バトンルージュを離れなければならないことを伝えていたが、84年を迎えるとカリフォルニアに向かう予定を打ち明けた。

「そのときはお前も一緒に来るんだ」

男は少年に、金がないための夜逃げであると白状し、明確にそれがいつとは言わなかった。ジョディは恐怖心からではなく、“NO”という返事はできないと感じた。もはや一種の共犯関係にあり、彼と最後まで運命を共にするように感じていたのだ。ジェフは金と訴訟のことで兄弟たちと喧嘩になって部屋を追い出されて以来、プラウシェ家の外の物置で寝泊まりするようになった。父親が別居中で不在と見て、都合がいいと考えたのかもしれない。

1984年2月19日朝9時、ジェフはプラウシェ家のドアをノックした。彼はジューンに兄の手伝いでカーペット内装をしに遠出するから車を貸してくれないかと頼んだ。彼女は気前よく了承し、男は感謝を述べると、いつものように「ジョディ、一緒に乗って」と声を掛けた。エンジンをかけるとカーラジオからおしゃべりが流れ出し、男が真意を告げた。

カルフォルニアに行くんだ

 

ジェフはテキサスの母親の許に立ち寄り、数日を過ごした。その間、ジューンが息子の行方を追ってテキサスに電話を掛けて寄越し、「ジェフがジョディを誘拐した。すぐに返さなければ警察に通報する」と警告した。ジェフは母親に「戻る金がない」と嘘を言って猶予を求め、親戚中を回って金をかき集め、ロス行きの長距離バスチケットを2枚購入した。何も知らないジェフの母親は、子どもを返しにバトンルージュへ戻るものだと思い違いして二人が乗ったバスを見送った。

ジェフはバスの中でいつものようにジョークや思い出話を話し聞かせ、老婦人と仲良くなった。「仕事の面接にカリフォルニアへ。息子と一緒に引っ越すのだ」と話した。途中のエルパソでは一人の女性が警察に身柄を引き渡された。彼女は精神病院から逃げ出したらしく、車中で一晩中口淫しようとしたと後から聞かされた。アリゾナ州ツーソンに立ち寄った際、ジェフは口髭をそり落とし、バスの席に戻ると老婦人は「髭がないと随分ハンサムね」と目を丸くした。ジューンの通報と州境警備を恐れていたためだが、ジェフは「雇用先では顔髭を伸ばすことができないから、面接で雇用主が注意する手間を省いておこうと思ってね」と取り繕った。

ジョディが目覚めると、ジェフは後から乗車してきたリアという少女とイチャイチャしていたという。驚くべきことにジョディはそのときの感情を、大変ショックを受け、「嫉妬」して腹が立ったと記述している。少年は不貞寝しようとしたが興奮して眠れなかった。ジェフは口説いているふりをしているだけで、密かに彼女のハンドバッグの中味を抜き取ろうとしているのではないかとさえ期待したという。ジョディは異性愛者でジェフによる性的虐待を嫌ってはいたが、彼から施される支配関係を「特別な絆」であるかのように錯覚させられていた。「動物の毛づくろい」を由来とするグルーミングと呼ばれる手口である。

ジョディが「嫉妬」を覚えた心理的背景には、1973年の銀行強盗立てこもり事件で人質とされた人々が加害者に対して共感や恋愛感情に似た好意を覚えた「ストックホルム症候群」が読み取れる。生存が脅かされた人間はその生殺与奪を握る人物から、運動(拘束の解放)や会話、食事や排便の許可が認められると「命の贈り物」を授かったと誤認し、親の庇護を受けた赤ん坊のような「愛着」感覚が生じると考えられている。

日本では性犯罪者に女子高生が囚われて夫婦さながら過ごした「籠の鳥事件」が知られている。認知の不協和や心理的防衛反応を利用して広義のマインドコントロール状態に陥らせることが可能となる。

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ジェフは金をかき集めてカリフォルニアまでたどり着いたが、何か目的や知人の伝手があるという訳ではなかった。手元には数ドルしか残っていなかったが、彼は空手トーナメントで知り合ったインストラクター仲間に連絡を取るために空手雑誌を購入した。

「空手の遠征でロスに来ているのだが、乗ってきた車両が盗難に遭った。戻ったら返済するので、電信で送ってもらえないだろうか」

特別親しい間柄ではなかったがジェフの口八丁に乗せられた相手は疑いなく550ドルを都合してくれた。このとき彼が送金してくれなかったなら、ジェフは手許にいる少年を使って違法な商売に手を染めていたであろう。仕事が見つからず男はカリフォルニアに来てから大半を不機嫌に過ごしたが、上機嫌なときはジョディをディズニーランドに連れて行くこともあった。スペースマウンテン、カリブの海賊、イッツスモールワールドといったアトラクション、チョコバナナやお粗末なパエリヤで少年は満ち足りた時間を過ごしたという。

安モーテルに腰を落ち着けると、ジェフは少年のブロンズヘアを黒く染めた。監禁はなく、ジョディは自由に出入りして、温浴施設で泳いで過ごした。その間、ジェフはテレビを眺めたり、ジューンに連絡を取ったりしていたが、連れ去りから一週間後、少年に電話で母親と話すように言った。

息子を連れ去られたジューンは、叔父の支えや、かつての交際相手でバトンルージュの警官をしていたマイクに相談して精神的な破綻をどうにか堪えていたが、ジェフの妹ネルダから児童への性的虐待の過去を知らされて眠れぬ日々を過ごしていた。FBIにコンタクトを取り、通信傍受も行われていたが回線による逆探知まではできなかった。

ジェフは傍受に気付かぬ風で「NYにいる」と主張し続けていた。電話の最中、時間を尋ねられた詐欺師は咄嗟にLA時間を答えてしまったこともあった。さらに電話でジョディが「ドラマの撮影現場を見た」と話したことから、番組制作会社に確認が行われ、現場がシカゴかロスに絞り込まれていた。

2月29日、手持ちの金も大半が宿泊費に消え、すでに底を尽きかけていた。ジェフは家にコレクトコール(着信者払い電話)を掛けて親に金を無心するようにとジョディに命じた。電話口のジューンはマイクらの指示を受けて通話を終えた後、電話オペレーターに「通話時間と料金」を確認した。するとオペレーターは、通話時間と料金に加え、発信元の住所、部屋番号を明らかにした。マイクらはカリフォルニア州警察と現地アナハイム署に急ぎ連絡し、誘拐犯が滞在先とするモーテル38号室への突入準備を要請した。

その後、ジェフがジューンと電話でやりとりをしている最中、不意に扉がノックされた。すでに50名程の警官がモーテルを包囲しており、すぐに外カギが解除された。扉が開くと警官隊が銃口を向けて突入し、呆然自失の誘拐犯は大人しく受話器を置いて壁に向かって正座した。これがジョディの目にした彼の最後の姿となった。

 

ジョディの嘘

ジョディは「親友」を逮捕されたことにどこか理不尽な思いを感じていた。

予想通り警察署では性的被害の有無を問われ、「ジェフは体に触れませんでした」という嘘の主張を維持した。病院で検査を受けることになり、尿検査、血液検査、肛門検査がようやく済むと、未明に児童保護施設に身柄を移された。

目を覚ますと、子どもたちは前夜にグラミー賞を席巻したマイケル・ジャクソンについて熱く議論していたが、少年は会話に混じる気分に離れなかった。朝食後、他の子どもたちは庭に遊びに出たが、ジョディは一人で座っていた。職員の一人は彼の表情を読み取り、「まるで親友を亡くしたばかりみたいな顔をして。何か話したいことはある?」と尋ねた。心の中を言い当てられたかのように感じた少年は“NO”とだけ答えた。

翌日、長いフライトを終えてニューオリンズの空港に降り立った。母ジューンが待ちわびており、息子の黒髪を指さしてから駆け寄って抱きしめた。彼女は食事も睡眠も満足に取れなくなり、半月で7キロ近く痩せてしまっていた。後ろには地元記者とカメラのクルーが待ち構えていた。

「あなたのお父さんが連絡したの。さあ、笑顔で、再会できてうれしいよって顔を見せて」

そこには別居以来なかなか顔を合わせる機会もなかった父ゲイリーの姿もあった。両親と誘拐された少年との再会の場面はまるで「仲睦まじい家族」であるかのように報じられた。記者は一連の出来事についてどう思うかというような質問を投げかけ、少年は準備していた答えをスムーズに返した。

「よく分かりません」

後で見た当時のニュースには、空港の窓の外を眺め「弟の帰りを心配そうに待つ兄」ババのショットが数秒間流れたが、実際の彼はたくさんの飛行機に目を奪われていただけだったという。

再会を果たした父子

ジョディは帰宅後も事情聴取のためバトンルージュの警察に行かなければならなかった。マイクはジョークを言って緊張をほぐそうとしてくれたし、周りの警官も親切に応対してくれていた。取調官からジェフとの行動中にあったことを聞かれ、面白かった出来事や大都会で見かけたおかしな人々の話をすると彼らも興味深げに耳を傾けていた。

だがしばらくして「それで、きみが言いそびれているようなことをいくつか質問したいのだけれど」と一人が切り出すと、様子が変わった。

「ジェフはあなたに性的虐待をしましたか」

「ジェフはあなたの体に触れましたか」

カリフォルニアでも受けた似たような質問が際限なく繰り返された。だがそれまでの大人たちと違ったのは、彼らは語気を強めて明らかに“その事実”を認めさせようとしてきた事だった。少年は以前と同じ証言だけを返し、固く口を閉ざした。

人々はなぜ私がまだ嘘をついていたのか不思議に思っています。彼らはなぜ私がジェフを守っていたのか理解できません。第一に、私はジェフを守っていたのではなく、私自身を守っていたのです。もし私がジェフの話をすれば、誰かが私が話したことをジェフに告げるであろうことは分かっていました。

出所後、彼が怒って私の所へ来て、なぜ証言したのかと尋ねてくるだろうと。彼ならその日が来るのを待っているだろうと思いました。

結局、その場は時間切れとなり、取調官は強要を断念したが、「あの男は信頼関係を壊さないために少年を騙すことはしていなかったか、あるいは、彼は深刻な洗脳状態にあって虐待の事実を認めたがらないのかもしれない」と両親に伝えた。

 

黒髪をひどく嫌ったジューンは帰宅すると、息子のブロンズヘアを取り戻そうとあらゆる染料を試した。しかしオレンジ、紫、緑、パールオレンジ、限りなく黄色に近い金色とエスカレートするばかりで、元の色に回復するためには髪の成長を待つよりほかなかった。学校への復帰を前にジョディは髪色の説明をどうしようかと頭を痛めたが、級友たちは黒板に「おかえりジュディ」と大きく掲示して彼の無事を祝した。

ジョディは家族や友人たちに帰宅を歓迎されて週末を過ごしたほか、自分に関する各紙の記事スクラップを読み漁り、11歳なのに12歳と誤認した記者の調査能力の低さ、彼が「バカンス」や「ゲーム」と思い込んで連行されているかのような馬鹿げた推測記事に腹を立てた。

3月9日、直腸検査の結果で精子の存在が明らかとなり、ジェフのレイプが証明された。結果を伝えに来たマイクも、ジョディの両親も涙を流し、当初はカリフォルニア旅行中に発生したイベントだと考えられていたが、ジョディも事実を話さなければならないときが来たと思った。父ゲイリーは「クソ野郎め、ぶちのめしてやる」と繰り返し、母ジューンは「マイク、彼を殺してくれない?」と懇願した。

とりわけ両親のジェフへの絶対的な敵意と報復感情は、その振る舞いにによって彼に信頼を寄せ、自らその危険を引き寄せてしまったことへの裏返しでもあった。見知らぬ相手であっても許されないことをのうのうと平気な顔でやらかした男に一層の憎悪を滾らせるのは当然だった。これまでの苦悩を知るマイクも彼らの精神状態を理解し、暴言を咎めようとはしなかった。

「…ジェフはあなたを騙していたのね」

やつれた母親の言葉に、ジョディは「He did.」と答えるしかなかった。

それまでずっと一人で抱え込んできた世界の重荷から解き放たれた瞬間だった。

ジューンはマイクに息子の言葉を伝え、以後警察による追加取調を受けることはなかった。以前通りの学校生活、放課後の自由な時間を取り戻したジョディには、両親の夫婦関係以外はこのまま「修復」されていくかのように思われた。

 

父親の復讐

ある晩、ゲイリーが家を訪れ、子どもたちと一緒に大学バスケットボールの試合中継を観戦した。

ジョディは性的虐待に関して父親に直接語る機会はなく、母親には具体的な行為を伝えてはいたが「パパには言わないで」と約束していた。ジューンは「彼はあなたの父親で、性的虐待が行われた事実だけは知っておいてもらう必要がある」「それ以上のことは話さない」と言ってジョディを納得させた。

試合が終わると夫婦は外で長話をし、少年の心をざわつかせた。ジョディは部屋に戻った母親に何を話していたのかと尋ねると、ジューンは「彼には“話していいこと”以外は伝えていないわ」と言って息子を安堵させた。

 

マイクらはジェフの移送のため、3月15日木曜日にカリフォルニアへ向かい、翌16日夜9時半の便で戻ることになっていた。彼はジューンにその行程を伝えてはいたが、ゲイリーには告げなかった。ゲイリーはジェフへの殺意を依然として維持し続けており、彼に知らせてしまうのは危険に思われたからだ。そして数日前、ゲイリーが家族の許を訪れた目的はバスケ観戦のためではなく、クローゼットの上に隠していた38口径を持ち出すためで、マイクの判断は誤っていなかった。

移送中、ジェフは刑事の一人に「あなたはカトリック教徒か?」「告解したいことがあるから聞いてほしい」と言い出した。刑事は「司祭ではないから赦免はできないが、話だけなら聞いてやる」と応じ、最終的にジョディの他2人の児童への性的虐待を告白した。ダラス・フォートワース国際空港行きの機内でもジェフは涙ながらに告白を続け、子どもたちとその両親にメディカルケアを受けるように伝えたいと切望し、逮捕以来、2週間以上断食を続けているとも語った。

到着前、彼は、兄のサムは気違いなので、自分が捕まったと知れば脱走させようと企てるか、児童への性的虐待容疑と分かれば逆に自分を殺しに来るかもしれないとマイクたちに警戒を呼び掛けた。マイクたちも被害者の家族の動向に注意する必要があると考え、異変に気づいたら大声で叫んで床を叩くようにと申し合わせていた。

 

ゲイリーは激しい葛藤とリボルバー銃を抱えたまま、その日も地元のバーを訪れていた。隣に座ったボブは地元でABC系列局に勤めるディレクターのひとりで、元同僚だった。彼はいつジェフがこっちに連行されてくるか知っているかとゲイリーに尋ねた。ゲイリーは「いや、分からん。もうこっちに戻ってきてるんじゃないか」と返した。ボブは「確認してみる」と言って電話を掛けに向かい、戻ってきて「予定では今夜9時半の到着だそうだ」と伝えた。ボブは不憫な父親に「アクション」をけしかけたつもりはなく、取材対応のために事前に知っておいた方が都合がよいだろうと善意で教えたにすぎない。

それを聞いたゲイリーは慌てて妻に電話を掛けた。彼は、息子の身に何があったのか、男は具体的に何をしたのか、執拗に説明を求めた。ジューンは詳細の説明を拒んだが、父親は引かずに繰り返した。「ジョディにペニスをしゃぶらせたのか」と。押し問答の末、最終的に彼女は息子との約束を破り、口淫の事実を認め、そのほかの具体的な虐待についてもゲイリーに明かした。

3月16日、金曜日。その日、ゲイリーは子どもたちを学校終わりに迎えに行き、週末を一緒にキャンプ場で過ごすことになっていた。だが彼は両親に電話を入れ、その代行を頼んだ。

「なんでパパじゃないんだ」

上機嫌で下校したジョディは父親の不在に腹を立てていた。

その頃、当のゲイリーは「もう耐えられない。ジェフを撃とうと思う」と友人ジムに電話を入れた。彼の発言とこれまで聞かされていた経緯から事態の深刻さを感じ取ったジムは慌てて警察に通報した。

「友人が容疑者を襲撃しようとしている」

 

夜9時、バトンルージュメトロポリタン空港に到着したゲイリーは、白いキャップとサングラスで顔を覆うと、デニムとカウボーイブーツの間には硬いものをしっかりと差し込んだ。

当時、空港に到着して外に出るには、金属探知機のゲートの先に12台並ぶ公衆電話の列の前を通過して、エスカレーターか階段を使って地上階へと降りる必要があった。階段を上がったゲイリーは再びジムに電話を掛け、「空港にいる。今からやるつもりだ」と伝えた。報道カメラも公衆電話の前でセッティングを終え、その瞬間を待ち構えていた。

マイクを先頭に一行はアメリカン航空595便から空港へと降り立った。彼の脳裏には当然ゲイリーによる襲撃も想定されていたが、その視界には姿を捉えられなかった。

「…下りてきたようだ」

ゲイリーは興奮して電話口のジムにそう告げたが、先頭を歩くマイクの姿しか目に入らず、「ああ、あいつら別のルートから連れて行ったらしい」と口にした。

だがその瞬間、報道陣たちが動き出し、ストロボが一斉にたかれた。

「いや、あいつらだ。もうすぐ横を通り過ぎようとしている!」

マイクには電話中の男性の丸めた背中しか見えておらず、それがゲイリーとは識別できなかった。だが、ゲイリーにはマスコミの雑踏とストロボの明滅によってその接近がはっきりと読み取れた。

自分の背中がストロボを浴びた瞬間、ジムに「銃声が聞かれるだろう」と告げた。

移送中のジェフ・ドゥ―セ(手前)と銃を手に振り返るゲイリー(奥)〔YouTube

 

(下のリンクには襲撃時の大変ショッキングな映像が含まれるため、視聴には注意されたい。)

www.jodyplauche.net

ジェフは報道カメラにしばし気を取られた後、正面を向いて歩を進めていたが、少年の父親の姿は最期のその瞬間まで目に入っていなかったに違いない。銃弾の衝撃で横倒れになった男は胎児のような格好で床に崩れ落ちた。

Why, Gary?Why?

相棒の刑事が拳銃を構えようとすると、ゲイリーに気づいたマイクが即座に割って入った。

誘拐犯を射殺した父親は言った。

「あいつがあんたの家族にそんなことをすれば、あんただって同じことをしたはずだ。あんたは知らないのか、あいつがジュディに何をしたのか。父親ならだれでもやるはずだ。俺はそうせずにはいられなかった」

エイブラハム・マクガルは銃撃の一部始終を逃すことなくカメラに収めた。現場の混乱に乗じて、万が一警察に証拠品として押収されることがないよう密かにテープ交換まで済ませていたという。彼は後に国務省常駐顧問となり、憲法修正6条;すべての被告人は迅速な公開裁判を受ける権利があることを強調し、「検察は同情的な犯罪被害者を被告にすることを好まない」と宣言している。

ゲイリーに手錠をかけたマイクは計画的殺意に基づく第一級殺人ではなく、殺意はあったが計画性のない第二級殺人での手続きを申し伝えた。

10時前に妹の家から帰宅したジューンはリビングのTVを点け、「バートンルージュ空港で正体不明の襲撃者が誘拐容疑者を銃撃しました」と速報を耳にすると、腰を抜かしてその場から一歩も歩けなくなり、“No,No,No....”と絶叫して咽び泣いた。

父親による復讐の銃撃は、その夜のニュース、翌日の朝刊からひっきりなしに全米中の話題となった。

翌朝、祖父母は子どもたちを起こしてバトンルージュの家に送り届けた。すぐに叔父と母親が車で帰宅し、子どもたちを集めてなぜ父親がキャンプに行けなかったのかを説明した。幼かったシシーは「パパが刑務所に行っちゃう」と言って泣いた。

ジョディは父親がしたことに腹を立てて泣き出した。彼はジェフを憎むとともに、依然として虐待さえしなければ素晴らしい人間だと思い、一言で言えば愛していた。周囲の人たちは「ゲイリーがあなたの代わりにジェフを殺した」と口にしたが、少年は彼の死を望んではいなかった。ジョディは混乱して母親に怒りをぶつけたが、これは性的虐待の被害児童に典型的な「両価的な感情」である。その後、回復のプロセスを経て、本の中でジェフに対する様々な思いを綴っている。

全国的なニュースに付きまとった家族への憶測のひとつは、母親ジューンとジェフとの間に男女関係を疑うものだった。父親ゲイリーが別居中、自身のプライド故に「アルコールのせいで見限られた」と周囲の人間に言えず、まるでジェフが原因であるかのように仄めかしていたことも災いした。

いくつか見つかったジューン名義の不審な小切手、ジェフの兄弟が児童への性的虐待の事実に関知していないと主張したことなど、人々にそう思わせる理由はいくらでもあった。第三者からすれば、別居中の夫が怒り狂って殺害するならそういった「ありきたりな三角関係」の方が耳馴染みがよかったのかもしれない。

 

いずれにしても世論の大勢は父親の良心とプライドに理解を寄せ、ゲイリーの「正義」を認める声が圧倒的だった。保釈金や弁護費用の基金が組まれるとその呼びかけに10万ドルが集まった。アメリカでは日本に比べて自警意識が高く、「家族を守る父親」像には強い共感が得られ、英雄視する声さえ上がった。そうした民意は裁判にも色濃く反映された。

第二級殺人で裁判にかけられたゲイリーは、過失致死を争わないことを司法取引で認め、執行猶予7年、保護観察5年と300時間の社会奉仕義務を科すことが確定し、1989年に全刑期を終えた。

弁護側はジョディの虐待事実を知った後、一時的な精神錯乱状態にあったと主張した。精神科医エドワード・P・ユゼー氏は、犯行当時、善悪の判断が付いていなかったと診断。またジェフは操作性の高い人物で、プラウシェ夫婦の別居状態に乗じて家庭に介入していたとの見解を加えた。フランク・サイア判事は、新たな殺人を犯す危険性は事実上皆無であり、懲役刑はだれにとっても得策ではないと判断し、実質的に殺人罪としての量刑判断を保留した。

後年、成人したジョディは父子でTVトークショーにも出演して事件を振り返り、その後も著作や講演などを通じてグルーミング虐待や性暴行被害者に寄り添う活動を続けている。父ゲイリーは脳卒中により2014年に68歳で死去した。

 

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Book – Jody Plauche

'My dad shot my rapist karate instructor dead on live TV - people see it as act of love - not hate' - The Mirror US