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気になる事件と考えごと

広島市南区小学生姉弟行方不明事件

1980年(昭和55年)に広島県広島市で発生した留守番中の小学生の姉弟が二人一緒に姿を消した不可解な行方不明事件について記す。

二人は特定失踪者(北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者)とされており、基本情報は特定失踪者リストおよび特定失踪者問題調査会代表を務める荒木和博さんのBLOGに依るものとする。

本稿は北朝鮮による拉致の可能性を否定するものではないが、あえて別の可能性についても考えてみたい。無論二人の無事を願う思いで記すが、限定的な情報からの憶測として事故や死亡の可能性にも言及することをご理解いただきたい。

 

■概要

3月29日(土)夕刻、母親は普段通り子どもたちの夕食の支度を終え、広島市南区の団地にある自宅アパートから仕事に出掛けた。深夜2時頃に帰宅すると、部屋で眠っているはずの子どもたち2人の姿がなかった。

玄関はきちんと施錠されており、夕食は食べ終えて食器は流しに運ばれていた。母親の布団も敷いてくれており、部屋はいつもと変りない様子だった。

行方が分からなくなったのは1歳違いの姉弟で、小学6年生の藤倉紀代さん(きよ・12)、小学5年生の靖浩さん(11)。まもなく中学進学と6年生への進級を控えていた。

藤倉紀代さん

https://www.chosa-kai.jp/archives/missing/%e8%97%a4%e5%80%89%e3%80%80%e7%b4%80%e4%bb%a3

藤倉靖浩さん

https://www.chosa-kai.jp/archives/missing/%e8%97%a4%e5%80%89%e3%80%80%e9%9d%96%e6%b5%a9

 

部屋から特別何かを持ち出したというような形跡はなく、服装も普段の外出時のものと思われた。子どもたちに部屋のカギを持たせていたが、日頃子どもたちだけで遠出することはなく、所持金も小遣い程度で大金は持たせていなかった。

母親はすぐに親戚などに連絡を取って行方を捜したが何の手掛かりもなく、二人そろって家出とは到底ありえないとして捜索願を提出。

姉・紀代さんは30日(日)に友達と遊ぶ約束を電話でしていたことが分かったものの、母が勤めに出て以降の姉弟の行動は全く分からなかった。

 

■拉致、行方不明、誘拐事件

政府の認定拉致被害12件17名の事案も1977年~83年に発生しており、調査会による「昭和53年から56年にかけて起きた事件」資料を見ても北朝鮮による拉致工作が活発な時期と符合する。また1980年1月には産経新聞が「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」との見出しで北朝鮮による拉致疑惑をはじめて報じた時期でもある。

昭和53年から56年にかけて起きた事件【調査会NEWS3027】(R01.7.12)

 

通常であれば児童ひとりの行方不明でも大きな騒ぎだが、なぜか2人の事案については発生から1年ほど経って地元中国新聞がやっと載せるという小さな扱いだった。見出しには「家出の…」と記載され、記事は「警察は誘拐や事故などの線も視野に200人体制で周辺での捜索を行った」旨の内容だったが、家族は警察が電話の逆探知装置を設置したり、張り込みに来たりといった捜査をした記憶がないと話している。

母親は何年も何年も子どもたちの帰りを待ちわびながらも暮らしに追われた。その後の警察の捜索はどうなったのか、よき報せは届かなかった。時代は巡り、北朝鮮による拉致問題が国民的議論となり、家族会の働きかけ等によって国も重い腰を上げ、遂に5人の拉致被害者が帰国を果たす。

拉致被害者はもっといる、自分の家族も拉致被害者ではないか。多くの行方不明者家族、専門家らが声を上げ、2003年に特定失踪者問題調査会が立ち上がった。何の頼りにもならない捜査機関に失望していた藤倉さん姉弟の母親が調査会に依頼したのは、行方不明から27年後となる2007年2月のことである。

現地調査や聞き取りをした荒木氏の推測では、広島県警は自発的失踪の「家出人」として捜索願を処理し、事件捜査や積極的な捜索活動も行わなかったが、後になって事件性を懸念して、新聞に記事を出させた可能性があるとしている。

一年もの間、手つかずにしてきた事案を取り繕う意味で新聞社に情報をリークしたと荒木氏はみており、筆者もその点については同意見である。警察が何をきっかけとして記事を出させようと判断したのか、その目的ははっきりとは分からない。

 

だが今日確認できる児童の行方不明事案だけでも、1975年には大阪市住吉区で13歳女子生徒、石川県珠洲市で14歳男子生徒が、1976年に北海道根室市の6歳女子生徒、1977年には新潟市横田めぐみさん(13)、1981年奈良県橿原市の14歳女子生徒など、各地で毎年のように発生している。

また警察白書によれば昭和55年度(1980年)は身代金目的誘拐事件が全国で13件と過去最多を記録している。

1980年1月に愛知県豊中市で起きた歯科医師の長男(7)が攫われた事案では身代金3000万円の要求や犯人が息子の同級生を狙った犯行、47時間後に保護されたこと等で注目を集めた。

翌月には対象年齢こそやや異なるものの富山長野連続誘拐事件(広域111号事件、赤いフェアレディZ)が発生し、富山県の18歳女子生徒、長野市信金女性職員(20)が殺害された。

8月に山梨県で起きた「司ちゃん事件」では、近所のこどもたちに「ソフトボールのおじちゃん」と呼ばれて親しまれていた梶原利行(当時38)が5歳男児を誘拐。事前の下調べもなく一般的サラリーマン家庭の子が無作為に標的とされたことが社会不安を呼んだ。初動捜査で別人に疑惑の目を向けていたこと等が問題視されて大きな話題となった。

12月には愛知県名古屋市で大学に通う女性(22)が殺害され、生きているように装って身代金を要求するという卑劣極まりない事件も起きている。

婦女子を標的とした身代金誘拐が頻発したことから、81年には警察組織全体で行方不明、とりわけ児童の係る事案への対応方針に見直しが迫られたと想像される。県警は放置してきた藤倉姉弟の事案が問題視されることを避けるため、記事を書かせて捜索の「既成事実」を捏造させたと疑われる。

 

■体格・特徴など

当時の体格や特徴などから分かることはないか。

紀代さん

身長150センチ体重38キロ、やせ形の体格

顔は面長で色黒、髪の毛を腰まで伸ばしていた

服装は、フード付きの紺色スモッグに白色セーター

靖浩さん

身長140センチ体重30キロ

肌は色黒、坊主頭

服装は、「阪急」の野球帽、紺色ビニール製ヤッケ、濃色のジーンズ、白色ズック靴

 

二人とも大柄な体格ではないが、乳幼児のように片手で抱えられるものではない。大人一人で部屋から抵抗する姉弟を強引に連れ出すのは屈強な男性でも至難の業である。それも夜中に騒がれずに遂行できたとは現実的にはやや考えづらい。

身代金目的の誘拐であれば二人を一緒に攫う必要性には乏しい。相手の資産の有無によって身代金の要求金額が異なることはあるが、人数によって金額が比例する事例など聞いたことがない。藤倉さん家族は集合住宅に暮らす一般庶民であり、直接部屋を訪ねるリスクを負うよりかは外出中を狙うのが筋だろう。

また強制的な連行とすれば、履物くらいは履かせるかも分からないが、少年にビニール製ヤッケ野球帽まで持たせるだろうか。自身のトレードマークのように外出時にはいつも被る習慣があったか、ヤッケと共に「雨除け」として能動的に被った可能性が高い。後述するが29日は朝から深夜未明にかけて一日中降ったり止んだりの天候であった。

拉致であれば複数人で連れ去ったか、あるいは単独犯であれば「母親が事故に遭った」等と虚偽誘導して車に乗せるといった手口が考えられる。そうした手口がとられたとすれば、夜は母親が仕事で家を空け、こどもだけで留守番していたことを下調べしていた可能性が高い。

また、これは邪推になってしまい、関係者に失礼とは思うがあくまで仮定の話として書かせていただく。

公開されている情報では「父親」の存在が一切出ておらず、偶々記載がないだけなのか、離婚、死別されたのか、その存否が気にかかった。いわゆる「未婚の母」や離婚等により姉弟の父親が存命であったならば「自分の子どもを攫う」可能性もあるのではないか。

1980年当時は少なかったかもしれないが、今日では離婚夫婦間で親権、養育権を巡って誘拐騒動となるケースも少なくない。母親がいない隙を狙って父親が部屋を訪れ、間違いを犯したとしても不思議はなく、結果的に母親をひとりにさせてしまった罪悪感からこどもたちも再会できずにいるのかもしれない。

 

■検討

日本で把握されている北朝鮮による拉致被害児童は、横田めぐみさんのほか、渡辺秀子さんの子ども・高敬美さん(こう・きよみ、6)、剛さん(つよし、3)がいる。敬美さんと剛さんは父親が在日朝鮮人の元工作員でいわば「人質」として拉致されたことは確定しているが、日本国籍を保持していないため政府認定被害者にはカウントされていない特異なケースである。

 

では一般家庭の姉弟が一緒に行方不明になるとは、どういった状況が考えられるのか。

ひとつは前述のように、留守番中に「母親が事故に遭った」など虚偽誘導されて部屋から連れ出されたケースが挙げられよう。

外出して事故に遭った可能性も考えられる。

1995年10月、大分県宇佐市の実家で暮らす18歳の弟が、福岡から帰省した20歳の兄と車で弟と出かけたまま行方不明となった事案でも自発的な失踪の理由は見当たらなかった。17年後、2012年9月に工事の為に水抜きしたため池から車と遺体が発見された。運転を誤って転落したとみられるケースである。

似たような事例として「坪野鉱泉神隠し事件」「広島県世羅町一家失踪事件」などが思い浮かぶ。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

藤倉さん姉弟の自転車については特に言及されていないため、自転車使用の形跡はないと思われるが、10代前半にもなればこどもたちの行動を完全に把握することは親でも難しい。

荒木氏の調査報告では、「当時の居住地は住宅街の中にあり、周辺には子供が夜間に買い物等に行ける場所もなく、雨が降る中、傘も持っていないことなど、2人が自らの意志によって失踪した可能性はほとんどないと思われる」とされている。

居住地が分からないため推測にはなるが、コンビニやスーパーがなくても自動販売機くらいはあったかもしれない。親の目を離れて近所の友達の家や公園、夜の校舎でおしゃべりしに集まろうとしていたかも分からない。たとえ遠くに行くことができなくとも「大人」の目の届かない場所をこどもたちは知っているものだ。

出掛ける途中、誤って一人が水路や河川に転落し、もう一人が救助しようとして二人もろとも流された可能性も十分にありうる。

尚、1980年3月の広島市内の気象状況を付記しておくと、25日から28日にかけては降水量なし。不明当日29日は朝から深夜にかけて降ったり止んだりの天気で総雨量22㎜。翌30日は降水量なし。31日には夕方から翌4月1日未明にかけて総雨量36.5㎜を記録している。

いずれも強い雨ではないが、失踪直後の時期は雨で水が濁り、発見しにくい要因になった可能性はある。詳細な居住地は分からないが、広島市南区は瀬戸内海に面しており、比較的早い段階で海まで流されることも想像される。

 

■こどもの拉致はあったのか

北朝鮮による拉致は何の目的で続けられてきたのか。工作員養成のためとすれば、成熟までコストのかかる子どもを狙う必要はないのではないかという素朴な疑問もある。しかし2011年12月、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称「救う会」)主催のセミナーで、脱北兵が「工作員に育てるため外国の子どもたちを拉致することがあった」と報告している。

北朝鮮統一戦線部幹部チャン・チョルヒョン氏によると、金正日総書記の「現地化」指令と呼ばれるもので、それが1977年頃に世界的に起きたこどもを標的とした拉致の頻発につながったとしている。

「現地化」とは、国外の子どもを北朝鮮式に育てて工作員とする方針である。民主主義や社会主義国家とはかけ離れた封建社会ともいえる異質な北朝鮮の体制下では大人を「主体思想」に「再教育」して工作員にすることが困難とされたため、そうした戦略が採用された。しかし拉致されて集められた子どもたちは情緒的な安定を欠いてしまい、教育がうまくいかなかったという。

そのため80年代初頭から半ばに「シバジ」工作を始めた。拉致してきた外国人男性に北朝鮮女性をあてがい、国産のダブル(ハーフ)の工作員を養育しようとしたのである。80年に北朝鮮曽我ひとみさんと結婚し、2004年に来日したチャールズ・ジェンキンズさん(2017年没)も、そのまま北朝鮮に残っていれば自分たちの子どもたちもスパイに使われかねないことを危惧していたとされる。

www.sukuukai.jp

 

■所感

現在も特定失踪者リストには100名近くの名が連なり、事実拉致されている被害者もいれば、2022年3月に国内で発見されたHさんのようにそうではない方も幾ばくか含まれているだろう。

拉致なのか外出先での何らかの事故なのか、今すぐにそれを確認する手立てはない…警察が頼りにならない…しかし何より不明者の無事を祈りたい…再会することだけを考えている…。リストに掲載される情報は捜索の手がかりとしてはとても僅かな量だが、そこに込められた家族の様々な思いもリストから読み取ることができる。

ご家族が一日でも早く再会できることをお祈りいたします。