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気になる事件と考えごと

福岡美容師バラバラ殺人事件

1994(平成6)年、福岡県福岡市で発生した美容師女性の殺人・死体損壊遺棄事件について記す。

 

■概要

1994年3月3日午前、熊本県玉名郡九州自動車道・玉名パーキングエリアにあるゴミ集積場で、黒いビニール袋に包まれた切断された左腕を清掃作業員が発見した。その直後、福岡県山門郡の山川パーキングエリアのゴミ集積場からも右腕が発見された。

翌3月4日には、JR熊本駅のコインロッカーから黒いビニール袋にくるまれた胸部と腰部、さらに山川パーキングエリアで前日回収していた分のゴミの中から新たに左手首が発見された。

警察は切断状況やDNA型鑑定から発見された損壊遺体を同一女性と断定し、熊本・福岡両県警が身元確認を行った。

3月7日、家族から捜索願が提出され、身体的特徴や指紋が一致したことから、被害者は福岡市中央区神町の美容室「びびっと」に勤めていた美容師・岩崎真由美さん(30)と判明した。岩崎さんは全国コンクールのメイクアップ部門・福岡代表として全国2位になる腕前で、同店でも100名近くの顧客を抱える稼ぎ頭。「仕事一筋で若手指導にも熱心だった」と同僚からの信望も厚かった。

2月20日付で「びびっと」を退職し、3月から天神の新店に転職予定だったが、初出社となる1日から姿を見せず連絡がつかなくなっていた。連絡がつかず不安に思った家族が岩崎さんの自宅マンションを訪ねたが、室内はきちんと片付いており、失踪の理由も心当たりがなかったため通報。元同僚には、転職先の店では憧れだったTV関係のメイクの仕事もできるかもしれないとこれからの抱負を語っていた。

 

捜査本部は被害者の身辺調査に当たり、被害者宅マンションや勤め先などを家宅捜索。自宅の留守番電話のメッセージは2月27日以前のものは消去されていることが分かった。さらに美容室「びびっと」を経営する有限会社「オフィス髪銘家」事務所内から、被害者と同じB型の血痕反応が大量に検出され、職場関係者による犯行の線が強まる。発見された遺体はいずれも3月2日から3日午後の間に遺棄されたとみられ、同日のアリバイ捜査が続けられた。

 

■逮捕と報道

バラバラ殺人自体は珍しいものでもないが、被害者が美人で評判だったことや発見された胸部は乳房や内臓、尻や性器を抉り取られていたこと等から、男女の愛憎のもつれや性的異常者による犯行との見方もあり、マスコミはセンセーショナルに報じた。

専門家もその猟奇性に着目している。犯罪学に詳しい筑波大・小田晋教授は「死体の状況から見ても、性的満足を得ようとした快楽殺人でしょう」と雑誌に見解を寄せている。福岡大・平兮元章(ひらな・もとなり)教授は西日本新聞で「胴体から切り取られていた部分は性に関するもの。欲望の発現形態が非常に屈折していることの表れで、性的な殺人事件の可能性が大きい。さらに殺害後、死体を切り刻んでおり、死体愛好者的な面もうかがえる」と述べている。

 

岩崎さんのアドレス帳には200件ほどの記載があったが、周囲の人間によると色恋よりも仕事を優先するタイプとされ、交際相手は浮上しなかった。週刊誌等では「7年前」に熊本の男性と交際していた「らしい」ことや、94年の知人宛の年賀状に結婚を目指す「ような」添え書きがあったこと等を伝えている。

一方、93年11月には宅配便を名乗る人物から「住所を教えてほしい」との電話が自宅に入ったため勤め先の住所を伝えたがその後も荷物は一向に届かなかったり、94年2月に自宅の郵便受けに隠しておいたスペアキーが郵送物ごと盗まれる被害に遭ったり、無言電話が続いていたりと、彼女の周囲では不審な出来事が続いていたとも報じられている。

3月15日、捜査本部は「オフィス髪銘家」で5年ほど前から経理事務等を担当していた江田文子(38)を死体遺棄容疑で逮捕する。

江田は2月22日に同僚女性たちで開いた岩崎さんの送別会に参加しておらず、事件直後とみられる3月初旬に「新しいお店での活躍を祈っています」などと書いた被害者宛の手紙を送っていた。遺体が岩崎さんと判明した当時の取材では、彼女の転職について「自分の技術を広げるため、年齢的にも踏ん張りどころですから」と理解を示すような発言をしつつ、人柄については「別に悪くもなく、気にも留めなかった」「非常に気の強い人だった」と淡々と答えていた。

江田は容疑を否認し、事務所ポストにあったという被害者の時計とシステム手帳、「次はお前の番だ」等と書かれた脅迫状を提出して、自分も犯人から脅されていると主張した。

 

警察は江田の主張を鵜呑みにすることはなかったが、共犯者の存在が念頭にあったのか、現場を事務所兼自宅としていた男性経営者(37)も参考人として聴取を受けている。江田の逮捕後の報道でも単独犯行ではなく共謀した男性がいたとする複数犯説は消えなかった。

遺体発見当初から重要な手掛かりとされていた左手首を包んでいた企業PR紙は発行部数1200部と少なく、限られた地域でしか配布されていなかった。配布地域に住まいのあった江田は強い疑いをもたれていた。

逮捕の決め手とされたのは、本来は交通流速(渋滞状況)や到達時間予測に使われるTシステム(旅行時間測定システム)という道路監視システムだった。遺棄された3月2日から3日にかけての不審車両の追跡を行い、高速道路の通行券(通行券なしで料金決済をするETCシステムの開始は2001年)から指紋を採取し、江田が博多駅近くでレンタカーを借りていたことを突き止め、遺体運搬の証拠とされた。尚、Tシステムは1999年から車両追跡や犯罪捜査の目的でナンバープレートを照合するNシステムとも情報共有がなされている。

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1BnxTZ20bCo-Yflw4392C0_arvfU&hl=ja&ll=33.19542713001841%2C130.726237&z=9  江田は「ドライブに行っただけ」「パーキングに立ち寄ったが遺体を捨ててはいない」等と事件とのつながりを否認し続けていたが、3月21日頃から容疑について供述を始め、24日に死体遺棄を全面的に認める。25日、江田立ち合いのもと行われた熊本県阿蘇町乙姫での捜索で、供述通り両足が発見された。

続いて「殺害」の取り調べへと移り、4月4日に自供。単独犯行との見方が強まり、翌日、殺人容疑での再逮捕となった。

 

■女の半生

江田は福岡市内で公務員の父と元教師の母との間に生まれ、きょうだいは兄が一人いるが事件後、絶縁された。アパート経営をする資産家で経済的に不自由はなく、中学から短大まで地元の名門私立・筑紫女学園へ通った。獄中出版した手記『告白』(リヨン社)によると、父親は無口でおとなしかったが、母親は世間体や良識にこだわる人物で気位が高く押しつけがましい面があり、ときに人格を傷つけられることさえあったため、母娘の間には深い確執があったという。

短大卒業後はインテリア会社に就職するも1年で退職。22歳の頃、高校時代に発病した甲状腺機能障害がもとで入院し、その際、中絶手術もしている。78年に7歳上のタンクローリー運転手の男性と結婚。希望や理想があっての結婚ではなく、「母のそばを離れたい、この家から出たいという一念から」で、職業や容貌、人柄に至るまで「母が嫌うであろう人」を夫に選ぶことが「母への報復的な手段」だったとまで語る。

彼女は中絶経験から夫との性生活もなるべく回避したかったというが、2児を授かっている。義父母も彼女の父親の資産をあてにするところがあったと言い、夫家族との溝は一層深まっていった。86年、太宰府市の新興住宅街に新居を持ったが、2児の子育て、望ましくない結婚生活に疲弊し、やがて彼女は家の外へと救いを求めた。

1989年1月から百貨店のブティックで働くようになり、やがて「オフィス髪銘家」のO社長と知り合い、経理事務員として仕事を世話してもらうこととなった。売上金の管理や従業員十数名の給与、顧客管理などを一人で受け持ち、経営者男性も「頭の切れる女性」と評価しており、91年には「マネージャー」の肩書が与えられている。

社長の知人で会社の税務を担当していた税理士事務所の男性とドライブに出かけるなどして好意を抱くようになる。共に家庭を持つ身であったが、93年9月、従業員の慰安旅行でハワイに行き、そのとき男女の仲に発展した。その後、二人の関係は職場内でも公然の秘密として認知されており、二人は密会の場として家賃12万円のマンションを借りて通うようになる。

告白―美容師バラバラ殺人事件

江田より1年後に「びびっと」に勤め始めた岩崎さんは熱心な仕事ぶりで、美容師コンクールでも優秀な成績を上げるなど順調にキャリアを重ねた。税理士男性も江田の前で彼女の活躍を話題にすることがあった。家の外に安息の地を求め、ようやく運命の相手と愛の巣を築いたはずの女に嫉妬心が芽生えるのは当然の成り行きだった。税理士男性と彼女との関係に不信感を抱いたのである。

江田は岩崎さんへの尾行や素行調査を重ねた。周囲の人間からも情報を集めようとする江田の様子を察した税理士男性はもはや関係継続は難しいと考えるようになった。男の気持ちが自分から離れていくことで、江田はますます疑心暗鬼となり、岩崎さんに怒りの矛先を向けていく。1994年1月、男性は江田に別れ話を切り出した。

それまで江田が陰口を吹聴してきたことも影響してか、岩崎さんは93年11月に店を移りたい意思を経営者に伝えていた。94年2月、江田は岩崎さんを手続きの為と言って「オフィス髪銘家」に呼び出し、4時間にも及ぶ口論を繰り広げた。岩崎さんは待遇への不満や、過去に2人の美容師見習いが退職したことを自分のせいにされたこと等の不満を訴えたという。その翌日、税理士男性は密会用のマンションを解約したことを江田に伝えた。

 

■裁判

1994年5月、江田は夫との離婚が成立して旧姓・城戸に戻る(本稿では以下も江田に統一する)。

7月、福岡地裁で行われた初公判で、被告側は死体損壊・遺棄を認め、殺害については正当防衛を主張した。

検察側の主張によると、男性からマンション解約を告げられた翌朝、江田は被害者を「オフィス髪銘家」に呼び出し、再び口論となった。双方が押し問答となる中、江田は台所の出刃包丁で岩崎さんを切りつけ、馬乗りになって何度も首を刺した。出刃包丁は事件の2週間前に購入していたものであった。

事務所は経営者の自宅と兼用で、帰宅する夜までに遺体を始末する必要があった。江田は一人で遺体を運び出すことができず、工具箱にあったノコギリと出刃包丁で首と両手足、腰と手首を切り離した。作業は3時間20分程と推測され、黒いビニール袋やスーツケースに詰めて自宅に持ち帰り、現場となった事務所内を清掃。内臓などを近くのゴミ集積所に出し、19時から美容室で行われた研修に出席していた。

凶器の出刃包丁は走行中の車内から、右手首は玉名パーキングエリアのゴミ箱へ、頭部は自宅近くの集積所に遺棄したとされるが、発見には至らなかった。

 

95年8月、福岡地裁(仲家暢彦裁判長)は、被害者が包丁を向けたとする事実は認められず、「正当防衛を論ずる余地はない」と被告側の主張を却下。殺害直後に解体に取り掛かっておりスーツケース等での搬出など犯行に計画性があったと指摘し、「邪推から来た憎悪の念」を動機として「確定的殺意があったことは明らか」とした。被告には「虚偽の供述を繰り返すなど反省も見られない」とし、検察側の主張をおおむね受け入れ、求刑17年に対して懲役16年の判決を下した。

1997年2月、福岡高裁(神作良二裁判長)は控訴棄却。1999年9月、最高裁(亀山継夫裁判長)は上告を棄却し、懲役16年が確定する。

 

■終わらない事件

裁判で江田の単独犯が認定されたものの、ネット上では判決とは異なる「噂」が存在する。

江田の逮捕後、地元福岡のS病院の三男が自殺したという。この男は江田と愛人関係にあり、店の経理を誤魔化して金を貢がせていたが、被害者が不正な金の流れに気づいて告発しようとしたため殺害。男は捜査の手が及ぶことを恐れて自ら命を絶ち、地元有力者の子息ということで有力政治家の口利きによって江田との関係については一切が伏せられた、といった趣旨である。またその三男と美容室経営者は同性愛者で愛人関係だったという尾鰭までついている。

「噂」にはまだ続きがある。

自殺した男にはきょうだいがおり、兄は病院の跡を継ぎ、姉は結婚して神戸で暮らしていた。その姉こそ1997年に小学生5人を殺傷し世間を震撼させた神戸連続児童殺傷事件で自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年の「母親」なのだという。福岡の事件当時、酒鬼薔薇は小学生だった。事件後の供述で酒鬼薔薇は「人の死」に興味を持つようになったきっかけの一つに愛着のあった「祖母の死」を挙げているが、美容師バラバラ事件や「叔父の自殺」もトリガーなのではないかというのである。

犯人は「病院を継いだ長男」、自殺ではなく「海外逃亡」などバリエーションは諸説あるが、なぜそうした噂が語り継がれているのか

発端のひとつとして、事件当初は男性が主犯と信じられていたこと、江田の逮捕後も一部で共犯の男がいる可能性が囁かれたことが挙げられる。また江田が自著で生い立ちや結婚生活のみじめさを滔々と語るのに対して、犯行の核心部分については殺害を依然として否認し、「よく分からない」「霧の中のような出来事」「私ははめられた」等と曖昧かつ思わせぶりな表現が多かったことにも起因している。

「病院」は、患者の人生を左右する現場であることから、医療過誤がなくとも「やぶ医者のせいでもっと悪くなった」「家族を殺された」等と逆恨みされやすい立場でもあり、そうした自身の安全にも直結する噂は地域住民に共有されやすい。疑心暗鬼になる人ほど「悪い噂」に影響を受けやすい。S病院に恨みを持つ人や医療不信の強い人々がいるかぎり「悪い噂」は根治されず時を経てなお再生産が繰り返される。

さらに有力政治家が事件をもみ消したとするいわゆる「上級国民説」がとられている点も興味深い。一般大衆からすれば及びもつかない政治力によって警察権力を抑え、逮捕を免れている政治家もいないとは言い切れない。だが事件が長期未解決になると理由もなくそう信じ込みたがる陰謀層がネット上には頻繁に出現する(信じているというより噂の流布自体を楽しんでいる愉快犯が大多数とは思う)。

噂の発生の経緯を調べる手立てはないが、地元政治家にダメージを与えるために撒かれた怪文書などが火種となり、関係のあった病院が誹謗中傷を受け、政治家や病院を恨みに思う人々が「地元の噂」と触れ込み、陰謀論者がネットで焚きつけた結果…といった印象を受ける。

1994年というまだ携帯電話もインターネットも普及していない時期に発生した「男女関係のもつれ」という動機としては「ありふれた」ともいえる事件。それながらもその残忍な手口や加害者の特異なキャラクター、さらにインターネット黎明期に酒鬼薔薇事件と根拠なく結びつけられたことでその後も忘れ去られることなく「噂」を先行に語り継がれている。

 

刑期から言えば江田はすでに出所して社会復帰を果たしていると考えられる。他責傾向や虚言の激しい、今や高齢となった女は偽りの家族と別れ、実のきょうだいにも見捨てられ、孤独に生きているのであろうか。身勝手極まりない動機と凄惨な犯行は断じて許されず、たとえ一命を以てしても償えるものではない。いつしか呵責を負い、心からの後悔と反省の境地に至っていることだけを信じたい。

 

被害者のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。