いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

なぜ韓国へ?—中村三奈子さん行方不明事件

留守中、自宅から消えた少女はなぜ韓国へと向かったのか、第三者の介入や北朝鮮による拉致も疑われる謎多き失踪について記す。

よく似た人物を見かけた、犯行を匂わせる話を耳にしたなど、心当たりのある方は以下で情報提供を受け付けている。

新潟県警察 長岡警察署 0258-38-0110

中村 三奈子さんをさがす会 090-4279-4724、MAIL; sagasukai98@gmail.com

中村三奈子さんをさがす会のブログ

中村 三奈子 | 特定失踪者問題調査会

 

失踪

1998年(平成10年)4月6日、新潟県長岡市に住む中村クニさんが仕事から帰ってくると、二女・三奈子さん(当時18歳)の姿がなく、行方が分からなくなった。

中村家では父親を早くに亡くし、長女は親許を離れて関西の大学に通っていたため、当時は教員勤めの母親クニさんと三奈子さんの二人暮らしだった。

その日もクニさんは寝ている三奈子さんに声を掛け、朝早くに出勤。夜7時過ぎに一度帰宅すると、普段であれば電灯が点いているはずが家中真っ暗だったため不思議に思った。どこかに出掛けているのだろうかとも思ったが、クニさんは町内の集まりがあったためすぐにコミュニティセンターへと出掛けて行き、夜8時頃に再び戻った。三奈子さんはまだ帰っておらず、不安になったクニさんは知人に確認を取ったり、図書館やビデオ店など立ち寄りそうな場所を方々捜し回ったがだれもその行方を知る者はなかった。

身長約165センチ、目が細く色白。当時は髪が長く三つ編み

三奈子さんは3月に県立長岡高校を卒業したばかり。新潟大学への進学を目指して地元の予備校に通うことになっており、その日は入学金を納めに行く予定だったが用意していた封筒の金は家に残されたままだった。

 

現在でこそ自宅周辺は住宅街となっているが、当時はまだ一画にしか住宅は建っておらず周囲に田圃が多かったという。三奈子さんは日頃の外出にはかかさず自転車を使ったが、それもなぜか置きっぱなしになっていた。遠出するにしても、自宅は駅から2キロ以上離れており、徒歩で30分ほどはかかる。

なくなっているのは財布と帽子くらいのもので、衣類や下着の抜けはなく、普段使っていたカバンや、気にして毎日塗っていたアトピー薬もそのまま置いてあった。一日待ってはみたものの、8日早朝に地元警察に届けを出した。しかし署員には「所持品が財布だけなら2、3日もすれば戻るでしょう」と当初は軽くあしらわれたという。

失踪時の服装は帽子とパーカー、デニム姿、スニーカーといった普段着姿、荷物は白い財布だけと見られている。

帽子は青系のチェック柄

 

不可解な状況

18歳というと進路、家族関係、恋愛などの悩みから自発的に家を出ることは充分に考えられる年齢だが、三奈子さんは周囲に悩みを打ち明けたり、家を出たい素振りを見せてはいなかった。むしろその年の正月には、親戚に「ママが独りになっちゃうから遠くには行かない」と言って母親の身を気遣ってさえいたという。

家出であればお金があるに越したことはない。だが「3万円借ります」というメモが見つかり、用意していた入学金50万円から実際に3万円だけ抜かれていたことが判明する。そのほかの所持金は1万円前後だったとみられ、どれだけ多く見積もったとしても5万円から8万円程度と推測されている。

ノンフィクションライター菅野朋子さんによる文藝春秋掲載の記事(初出2011年。菅野氏はソウル在住で渡韓時の捜索活動を支援している)では、チラシの下から見つかったメモに「3万円借りました。私の通帳からおろしてください」と書かれていたとされる。また部屋に貯めていた「10円玉貯金」も中身が空になっていたというが、その総額もたかが知れていよう。

クニさんによれば、失踪前夜も家出を思わせる兆候はなく、学校の掲示物の準備、紙の切り貼りなどを手伝ってくれていたという。生徒たちの様子などについてあれこれ話し聞かせ、いつもと変わらぬ様子であった。

近隣住民も三奈子さんがその日外出する様子を見かけておらず、実際にはいつどこでどうやっていなくなったのか状況が全くつかめなかった。

日常的に着用していたパーカー

クニさんが娘の部屋をあらためると、ゴミ箱から執拗に千切られた紙片が見つかり、つなぎ合わせると「新潟県」の売店で「証明写真」を撮ったレシートだと分かった。長岡から新潟までは電車を使っても1時間半以上かかり、当初は思い当たる節もなく不思議に思った。

だがほどなく写真は「パスポート」の申請に使用されていたことが判明する。申請は3月25日に行われ、4月3日に交付されていた。パスポートの発行手続きは地元長岡の出張所でも可能なので不思議に思われたが、県庁での手続きなら一週間ほど早く発給できたという。あえて新潟市まで出向いて3日に交付を受け6日に失踪とあらば、彼女は何か理由があってパスポート取得を急いでいたとも考えられた。

本来、発行には保護者の承諾を必要とするが、図書館のカードをつくる口実で親の保険証を借りたままになっておりそれを身分証にしたと考えられる。申請書類の保護者記入欄も彼女本人の筆跡と確認された。

パスポートということは、目的地は国外ということか。クニさんは空港や旅行会社をしらみつぶしに当たった。その後1か月ほど経って、航空券を購入した旅行会社を突きとめ、新潟空港にカメラ記録は残されていなかったものの、失踪翌日の4月7日9時40分発KE764便でソウル・金浦空港へ出国した記録が確認される。

旅行会社では、三奈子さんの名前で「中年のハスキーな声の女性(文春記事では「24、5歳くらい」とも)」が電話予約してきたという。クニさんによれば三奈子さん本人は“甘い声”だったと言い、印象論にはなるが電話の声とは異なるように思われた。

また女性は「なるべく早い韓国行きのチケットがほしい」「旅行は慣れているので当日に空港で発券する」と往復券を買い求め、ホテルの予約等は断った。だが三奈子さん本人は海外旅行の経験さえなく、そんなやりとりは不自然である。

空港業務員は当日「派手なブラウスを着た女性」に搭乗券を渡した、荷物は少なく人を探している様子できょろきょろしながら搭乗口方面へ向かったという。三奈子さんは普段からクニさんのおさがりなど落ち着いた色味の服装を好み、これも実像と食い違っていた。

当時の若い女性の間では安室奈美恵に影響を受けた「アムラー」やダンス・ボーカルユニットSPEEDの人気でゆるいシルエットのストリート系ファッションが流行していたが搭乗口の女性はそうしたスタイルとも異なっていたのであろう。

母親や友人たちに韓国への興味や家出、海外旅行を匂わせることもなかった少女がなぜ突然韓国に行かなくてはならなかったのか。

 

特定失踪者問題調査会では、パスポートの期限だった2003年、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない特定失踪者としてリストアップ(第四次公開)し、現在も調査・捜索活動を続けている。代表・荒木和博氏は「事前に本人がパスポートを申請するのはレアケース」と指摘する。元工作員らの証言によれば手口としては船による密航が主な輸送手段で直接平壌近くの港に上陸することが多いとされる。

金浦空港では三奈子さん名義の入国カードが提出されていたが、その写しを得られたのは2004年になってのことだった。筆跡は三奈子さん本人のものと確認された。また本来ならばホテル名などを記す「滞在先」の欄には波線が記されていた。入管関係者によれば「T/S(トランシップ)」、現地滞在ではなく「経由での乗り換え」を示すものではないかとされた。しかしその後も韓国国内での足跡も分からず、出国した記録も確認できなかった。本人が韓国に入国したとすれば、身分を隠して今も留まっているということなのか。

「韓国行きの航空券がほしい」新潟で18歳少女が謎の失踪…不可解な足跡にちらつく“ハスキー声の女” | 未解決事件を追う | 文春オンライン

菅野氏の記事によれば、座席名簿を見ると三奈子さんは三人掛けのシートの窓際、隣は空席、通路側に座った女性が「ハスキーな声で派手な服装らしいことが分かった」とされる。なぜ声や服装まで分かったのかは記事にはないが、三奈子さん出国への関与が疑われる。

女性は韓国出身で70年代に日本人男性の許に嫁ぎ、日本に帰化長岡市近郊に韓国式の寺院を建て、宗教法人の代表を務めていた。クニさんが女性に尋ねると、「(三奈子さんは)生きてますよ」と話したという。

後に菅野氏が取材で証言の根拠を尋ねると、

「韓国式の寺を建てるために設計師ら3人で視察に行った」

「近くに座っていた女の子については全く記憶にない。警察にもそう話した」

「生きていると言ったのは、その人の後ろにある者を見て話をするから」

「三奈子さんという女の子がおばあさんに連れられているのが見えたからそう答えただけ」

と言い、疑いを向けられることに憤慨したという。

韓国にいる宗教家女性の知人に取材すると、日韓サッカーW杯が終わった頃(2002年夏頃か)、「日本でいなくなった女の子について取り調べを受けたと文句を言っていた。『その女の子と金浦空港で一緒に出口まで出た。空港には男女二人が迎えに出ていて、ほんの少しの謝礼しかもらえなかったのに、こんなことになって』と」と彼女が話していたというのだ。

2021年10月の新潟経済新聞ではクニさん、菅野氏も参加した拉致被害・特定失踪者に関する市民集会を報じている。菅野氏の講演内容を文春記事と照らし合わせてみると、どうやら韓国の「知人」が一方的に宗教家女性を告発したらしく、捜査機関は曖昧な部分が多いと判断したとされる。宗教家の発言も情報としての信憑性が低く、知人との間で何かトラブルがあったか何かして、知人が虚偽通報したような印象を受けるが真相は分からない。

中村三奈子さんをさがす会と新潟県長岡市が「特定失踪者と拉致問題を考える市民集会」を開催 | 新潟県内のニュース

 

母親の思い

クニさんは調査会や拉致被害者の活動に積極的に参加し、「拉致被害者の奪還なくして特定失踪者調査の進展なし」と訴えている。国内での署名活動やビラ配り、講演活動などのほか、1999年から韓国へも10数回訪問し、大使館を通じてソウル鍾路警察に失踪届を提出し、データベース照会のために指紋やDNAも提出している。

2008年には高麗大学で韓国語の習得にも短期間挑戦した。現地支援者の提案でマスコミ各所にも報道協力を求め、2019年にはKBS1テレビの視聴者参加型歌番組へも出演。歌詞の慕情が娘との再会への思いに重なるとしてチョー・ヨンピル釜山港へ帰れ』を披露し、韓国市民に情報提供を呼び掛けた。少しでも娘の発見に役に立つと思えばなりふり構わず何でもやる、娘のために何かせずにはいられないという母の強い思いが伝わってくる。

ハングルで書かれたチラシ

 

失踪から四半世紀、三奈子さんもすでに40代半ばになる。人々の記憶に刻まれた彼女は、テニス、卓球、バレエに山登りと様々なスポーツに汗を流したスポーツ少女、大好きな栗を使ったケーキを誕生日に貰って大喜びした頃の笑顔のままだ。クニさんは「25年経った今の三奈子の姿が全く分からなくて本当に悔しいし残念です」と時の流れに悔しさをにじませる。

日々の出来事や家族の話を手紙にしたため、いつかどこかで三奈子さんに届くと信じてウェブ上で公開している。娘の誕生日にはかかさずプレゼントを用意し、マロンケーキやパイを焼いて、祝福のメッセージを送る。古いプレゼントは未開封のまま、包装が色褪せたり破れたりして、長い時間の経過を物語っている。

新潟県横田めぐみさんや曽我ミヨシさん・ひとみさん母子の拉致被害があったこともあり、メディアや市民の関心理解が比較的高い地域である。地元のコミュニティセンターでは一画に写真パネルや拉致問題の関連書籍などが常設展示されている。

クニさんは三奈子さんの母校で講演会を行い、平穏な日常を送れることのありがたみ、唐突に一方的に家族の幸せを奪い去る拉致の残酷さを子どもたちに語り伝えた。拉致問題に関する授業も取り組まれており、問題解決に向けたバトンを次世代へとつないでいる。

2019年に鍾路警察で作成された40歳予測似顔絵

新潟空港でも定期的にパネル展が開催され、発見に一縷の望みをかけた呼び掛けが続けられている。「写真もあの子が残していってくれたものですし、皆さんに伝わってほしい。三奈子のところにも届いてくれたらいいなと願っています」「本当に、どこへでも探しに行くので、見つかって、早く一緒に生活ができればという思いばっかりです」と再会への希望を語っている。

 

北朝鮮の状況

ご家族の意向や活動に冷や水を浴びせるつもりはないが、筆者としては本件に関して北朝鮮による拉致被害とは異なる印象を抱いている。先に北朝鮮情勢と拉致問題を振り返っておきたい。

対南工作員養成のために日本人拉致作戦を立案・指揮した金正日は、事件当時、国家元首となり独裁政権を築いていた。それだけ聞けば疑わしい相手に思われるかもしれないが、1991年に北朝鮮に留学した李英和氏が帰国前に現地有識者から聞かされたいわゆる「拉致講義」によれば、作戦は1976~87年で完了し、それ以外の時期にはやっていないとされている。無論、有識者の発言は個人によるものではないと考えるべきであろう。内容の全てを鵜呑みにすることはできないが、北朝鮮側はこの時点で拉致問題を対日交渉のカードとして切っていた。

国家主席金日成の没後1994年から体制が大きく移行し、96年から党員の大規模粛清が開始され、97年に後継者・金正日朝鮮労働党総書記に就任する。その間、朝鮮戦争後最大規模の大飢饉が発生し、人口2000万人のうち4年間で30万とも300万とも言われる多くの餓死者を出す未曽有の危機に陥っていた。ソ連崩壊の余波、農業の衰退、工業インフラの老朽化と燃料不足など、経済状況も苦境を極め立ち直りにも時間を要した。96年正月の労働新聞は、その国難をかつて日本統治下で抗日パルチザンとして乗り越えた国父・金日成のエピソードになぞらえて「苦難の行軍」と表現している。

そうした国民の危機的状況にもかかわらず、かねて核開発を外交カードとして利用してきた金正日は国費を軍事開発に傾注し、98年8月31日、中距離弾道ミサイルテポドン1号」を日本海・太平洋に発射。日本政府に強い警戒感を抱かせるとともに、核軍縮や査察の受け入れを強く求めるアメリカに対して揺さぶりをかけた。

 

1970年代後半に立て続けに起きたアベック失踪事件以来、国家ぐるみでの日本人拉致は警察関係者や専門家の間で強い「疑惑」とされてきた。1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の証言から、その動機や潜入工作の実像が明るみとなり、91年以来、日本政府としても国連などで拉致問題を提起した。北朝鮮側は「拉致講義」でその存在を匂わせておきながらも、公には認めようとはせず、返還に向けた協議などの具体的な進展はなかった。

97年に入り、脱北者の証言などから20年前に失踪した横田めぐみさんが北朝鮮へと拉致されており生存している可能性が高いとの情報がもたらされる。父・滋さんを中心に拉致被害者救出を求める「家族会」が組織され、国民的関心事となったが、北朝鮮側は依然その事実を認めなかった。双方が優位に交渉を進めたいという思惑から水面下での駆け引きが続いていたのか、日本側に交渉準備(交換の手札)が足りなかったのかは分からない。

2002年9月、総理大臣小泉純一郎らが訪朝。当時国防委員長だった金正日との首脳会談で北朝鮮側は初めて日本人拉致を認め、公式に謝罪した。これを受けて日本の世論も沸騰したが、北朝鮮側は拉致被害者の安否について不明・死亡との報告を続け、2004年に帰国が実現するのは地村さん・蓮池さん・曽我さん家族らに限られた。

国内状況を省みず独裁的な強権支配を敷いて“強請り”のごとき外交を展開してきた金正日が、80年代で外国人拉致を完全にストップさせたとは断言できない。しかし90年代初頭には金丸訪朝などもあって一時的ながら協調路線を取り、韓国・金大中政権の誕生で融和に向けた対南政策の転換、国内は新体制の構築と党内粛清に追われていた98年当時、「日本人女学生を拉致する必要があった」とは筆者には如何とも想像しがたい。

一方で、89年に金正日の専属料理人となり、自らの意思で日朝を行き来した藤本健二氏(仮名)のような人物もいた。藤本氏によれば、調理師会の会長の薦めで82年から83年にかけて平壌の寿司屋で働いた折に正日と知己を得、帰国後に再び呼び戻されることとなったとされる。党員として仕え、現地で妻子を持った。二男正哲、後に総書記となる三男正恩の遊び相手に指名されるなど料理人として以上の親交をもったという。

90年代には食材の買い付けなどで度々来日していたが96年には入管法違反で逮捕され、帰国後は北朝鮮からも監視対象とされていた。98年、北京に買い出しに行った際、日本の警視庁関係者に電話したことが盗聴されて露見し、1年半の軟禁拘束に置かれた。身の危険を感じた藤本氏は2001年に脱北し、日本のメディアに登場したり、国に金正日のプライベートに関する情報を提供していた時期もあったが、その後、再び平壌に戻っている。

女学生に藤本氏のような職能はないが、「若い女性」という面だけでいえば、来賓をもてなすために組織され「喜び組」とも称された舞踊集団や夜伽の相手となる外妾役に置くことなども懸念される。だが三奈子さんは韓国語ができず、舞踊や楽器の特技も聞かれない。またそうした人員の確保も当時は食うに事欠く北朝鮮国内から募ることが容易な状況であり、日本ではめぐみさんの拉致問題が紛糾していたことからも、あえてそこに日本人をあてがうリスクは採らないものと考えるがはたしてどうだろうか。

 

拉致説の検討

韓国国内でも北朝鮮による拉致被害は多く存在するが、朝鮮戦争の停戦以降、1950年代から70年代にかけて、延べ3835人が被害に遭い、うち3729人は漁業関係者、そのほか69年の大韓航空拉致事件の乗客や軍関係者、国外での拉致被害と続く。チュチェ思想への転向、スパイ養成に適さない場合は、日本人拉致被害者ほどの厚遇はなく工員や技術者に従事させられたと言われる。

2000年の南北首脳会談以来、帰還事業が急速に進んだが、今も500名以上が北朝鮮に残されていると推計されている。横田めぐみさんのように女学生が拉致されるケースは韓国内では認知されていない。

工作員金賢姫は、めぐみさんの場合、拉致してきた成人外国人に洗脳教育を施すことが難しいと分かって、より若年世代に目を付けていたのではないかと述べている。そのほか80年前後には外国人拉致被害者同士を結婚させ、北朝鮮で生まれ育った子どもをつかった工作員の養成も計画されていた。そうした経緯を見ても98年に至って18歳の女学生拉致というのは動機が見えづらいのである。

 

本件に関して、パスポート取得やいわゆる「背乗り(はいのり)」と呼ばれる諜報活動が目的ではないかとの声も聞かれる。想起されるのは、1980年6月に起きた大阪に住む調理師・原敕晁(はら・ただあき)さんの拉致、いわゆる辛光洙(シン・グァンス)事件である。

北朝鮮工作員として1973年(昭和48年)に日本に密入国した辛は、在日朝鮮人工作員(土台人)として組織する一方、韓国の情報収集も命じられていた。1978年に福井県で地村保志さんと後に妻となる富貴恵さんのアベックを拉致。さらに完全に日本人になりすました上で対韓工作を続けよとの指示を受け、1980年4月、在日工作員に次の条件に合った45~50歳前後の日本人男性を探させる。

・未婚で親類縁者がない

・パスポートを発券したことがなく、前科がない、当局に顔写真や指紋が押さえられていない

・借金や銀行預金がない

・長期間行方不明になっても騒がれる心配がない

鶴橋・千日前通りで「宝海楼」を経営していた在日朝鮮人大阪府商工会理事の李三俊は従業員の原さんに目を付け、「いつまでもこの仕事ではきついだろう。知り合いに事務職を募集している会社がある」とさる貿易会社の面接を受けるように薦めた。辛が専務、朝鮮学校の元校長だった金吉旭(キム・キルウク)が常務役を演じ、面接とは名ばかりで即採用が決まる。そのまま酒宴が開かれて泥酔した原さんは「別荘に行こう」と夜行列車に乗せられた。

大分県・別府で一泊した後、宮崎市の青島海岸へ連れて行かれると待ち構えていた工作員4人が原さんを目隠し拘束。ゴムボートで工作船に拉致され、4日後、平壌近郊の南浦港に着いた。原さんから家族構成や過去の生活歴の詳細を聞き出し、5か月後に再び密入国した辛は「日本人・原敕晁」として住民票を東京都に移し、自動車免許証、パスポート、国民健康保険証などを取得(辛は戦前の日本統治時代に日本で生活していたため順応が容易だった)。82年3月から計7回の出入国を繰り返し、各地で対韓工作活動や拠点づくりに勤しんだ。しかし85年2月、ソウルに潜入していた辛は関係者の通報により韓国当局によって逮捕。現地の調べによって原さんの拉致被害が明らかにされた。

辛は無期懲役囚として収監されたが、金大中政権下での南北会談によるいわゆるミレニアム恩赦により15年で刑期を終えて2000年9月、北朝鮮へと送還された。その後の北朝鮮側の報告によれば、原さん本人は78年に拉致されていた田口八重子さんと結婚したが、86年に肝硬変で亡くなり、八重子さんも同年に交通事故で死亡し、二人の墓地は洪水により流失したとされている。

 

一方、大韓航空機爆破事件の実行犯・金勝一と金賢姫の場合、蜂谷真一名義のパスポートは在日朝鮮人によって実在する存命の人物から借り受けたものが流用され、真由美名義のものは模して造られた偽造パスポートだった。

また安明進氏の報告によれば、金正日金賢姫が自殺を阻止されたうえに爆破工作の事実を暴露、転向した事に激怒し、女性工作員が当面登用されなくなったとされる。10年経って仮に18歳の優秀な女性エージェントが誕生していたとしても同じ轍を踏むとは筆者は思わない。

 

なぜ韓国へ?

本件では第三者による誘導・手引きが強く疑われる。だがその反面、三奈子さん自身もパスポート申請など少なくとも出国に同意しているように見えるのが単なる拉致事件とは大きく異なっている。

三者が日本人のパスポートを必要としていたのであれば、新潟での受け取り直後や自宅で奪えばよいのであって、わざわざ本人まで現地に連れて行く必要はない。彼女のものでなくても、たとえば若い女性の家に侵入窃盗を繰り返せばパスポートを入手すること自体は難しくないように思う。

通貨危機後の1998年、金大中大統領は経済再建に向けた一つの柱として文化産業振興を打ち出し、2000年代には映画、ドラマが続々と世界に向けて発信された。日本で大きなインパクトとなったのは2003年4月から放送されて「ヨン様ブーム」を巻き起こした純愛ドラマ『冬のソナタ』、翌年NHK総合で放送された『宮廷女官チャングムの誓い』が熱烈なファンを獲得した。だが韓流が日本の若者たちに浸透するのは2010年前後の東方神起や少女時代らK-POPが席巻するまで待たねばならない。その後、女性誌を中心として韓国美容・コスメやファッションにも注目が広がり、BTSやNewJeansは世界的な人気を博する若者の憧れとなった。

だが98年当時、女学生が韓国に行きたがる理由というのは何だったのか。年上女性は何の目的で誘導していたのか、少女は自分の行き先を知っていたのだろうか。子どもを車に乗せるのと、18歳を飛行機に乗せるのとでは訳が違う。

98年の韓国旅行者数は約200万人〔社会実情データ図録〕

書き置きのメモと3万円の抜き取りは何を意味するのか。50万円を丸ごと持ち去るのは親の厚意を踏みにじるようで心が痛んだのか、どこか控えめな態度は第三者ではなく本人の行動を思わせる。おそらく出国計画と共に予備校の入学金も彼女の算段に入っていたのであろうが、目的達成のために「不足分を補う」ような、やむをえずといった状況が窺える。「私の通帳からおろしてください」というメッセージも、深読みすればすぐには家に戻らない意志を感じさせる。

筆跡については、鑑定士の経験を要する属人的な測定技術となるため、DNA型鑑定のように99.9999…%で本人のものと断定することはできない。だがメモの短文だけではなく、住所氏名といった書きなれた記載事項もあったことから本人のものである可能性は極めて高いと見るべきだろう。これを単純に突き詰めて考えれば、本人に国外に出向く意思があったということになる。

三者の介入についてどのようなものが考えうるのか。事件直前まで進学校の高校三年生で、アルバイトの情報などはないことから、通っていた図書館などが接点になったと考えられる。さらに父親がなく母親は仕事で日中家を空けると分かれば連れ出しには都合がよい。

浪人生や予備校生を狙う学生サークルを装った新興宗教やカルトへの勧誘なども考えられなくはないが、足のつくやり方で国外から少女を攫ってくるほど強引なカルトならば他の面でもすぐに様々な問題が明るみとなるはずだ。たとえば92年に「合同結婚式」が日本でも話題となった旧統一教会のような大きな団体であれば、拉致のような手荒なやり方は回避されており、友好的な勧誘や「家庭」を土台にした信仰強制といった手段をとる。ありうるとすれば日本では知られていないような小規模団体になろう。

駆け落ちのようなかたちで家出をけしかけられたことも考えられるが、日本人同士はもちろんのこと、あるいは在日韓国人であれば3世世代と重なるが、やはりひとまず県外に逃れてから…というのが標準的な行動に思え、いきなり韓国には向かうとは考えにくい。やはり「韓国」行きに何らかの目的があったとみるべきだろう。

たとえば韓国からの留学生のような相手と恋愛関係になったとすれば、留学期間満了や卒業などを機に帰国するタイミングに合わせたということはあるかもしれない。だが、だとすれば相手は中流以上の家庭の育ちと想定され、親が子の失踪や女子連行を通報しないという選択肢はやはり考えづらい。それとも半島に渡った恋人たちは人知れず全く新しい人生を手にしたのだろうか。

イメージ

新しい人生という側面で言えば、韓国はかねてより美容整形大国として知られていた。今日では割合としては1000人当たり8.9件で世界一の整形率である。都市部の10代から40代女性に限ってみれば5人に1人が施術を受けているとも言われ、国外からもメディカル・ツーリズムを求めて多くの観光客が訪れる。

韓国の美容意識については様々な角度から論じられているが、口唇裂の再建手術への貢献で広く知られる形成外科医デビッド・ラルフ・ミラードによって美容整形がもたらされたと言われている。朝鮮戦争で韓国に駐留した彼は、アメリカ軍兵士の現地妻や娼婦たち、韓国人通訳らに「二重瞼」手術を施した。

その後も東アジア人に多い一重瞼や低い鼻といった特徴は、映画やドラマで目にする欧米人の「ぱっちりとした二重瞼」「彫りの深い顔立ち」に強い憧れを抱かせ、西欧的な美的観念を普及させた側面もあるかもしれない。だがそれよりも血統的に運命づけられ、幼少期から否応なく背負わされる身体的コンプレックスにメスを入れることで精神的解放に有益なことが韓国社会では肯定的に受け入れられた。

さらに2000年代のカメラ機能付き携帯電話とプロフィール画像をフィルターとしたコミュニケーションツールとして若者文化の中で美容術やルッキズムは強化され、K-POPアイドルたちのような「オルチャン(美女・イケメン)」と呼ばれる進化を生み出した。近年では大学受験を終えた高校生への「卒業祝い」や就職活動を控えた学生への「合格祈願」、親から一種の通過儀礼としてオペ費用が贈られることさえあると聞く。

最後に強引なこじつけにはなってしまうが、たとえば三奈子さんもひょっとすると自身の顔立ちや荒れがちな皮膚に想像以上の苦悩や劣等感を抱えていたかもしれない。だが腹を痛めて産んでくれた、長年懸命に育ててくれた一人親に向かってそうしたことを思っても口にできなかったのではないか。大切に思う相手だからこそ打ち明けられないこともある。

受験勉強で悶々とする日々を送るなか、ハスキーボイスの年上女性と知り合い、自分とは見た目も性格も異なる彼女につよい憧れを抱いたとすればどうか。「安く施術してくれる医者を知っている」「試験が終わったら一緒に整形しに行かない?」とアプローチされれば、進学に先立って自分自身を変えたいと心を動かされてもおかしくない。親に言っても反対されるだろう、ならば理由を告げずに事を済ませて戻ればだれも言い返せない。そんな若者の勢いに突き動かされた家出だったのではないか。

年上女性を頼り、術後の経過を見て戻ろうと考えていたところ、行った先で何がしかのアクシデントに見舞われたのか。頼れる人を失って帰りたくても帰れない、苦しい境遇を今も強いられているかもしれない。この年代の、大事に育てられてきた少女がふとしたきっかけからそれまでにない経験、大きな変化を求めることは間々起こりうる。動機が美容整形か否かは差し置いても、筆者は自発的家出もないとは言いきれない心象を抱いている。

 

三奈子さんのご無事と、ご家族が一日でも早く再開できることを祈ります。