いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

母は荒野で踊り出す 映画『母なる証明』感想

これほど印象的な映画のオープニングシーンを見たことがない。

本作の主人公“母”役を演じたのは、韓国MBCで1980年~2002年まで放送回数1088回を数えた最長寿ホームドラマ『田園日記』で姑役を演じ、“国民の母”と呼ばれた大ベテラン女優キム・ヘジャである。

 彼女のことをよく知らない私たちはその突拍子もない幕開け、茫然自失とした不可解な表情(途中、顔を隠して笑っているのか泣いているのかも分からない)と“奇妙な-”としか形容しえないその動きにおかしみと不信感という相反する印象を抱く。いや、たとえ彼女のことをよく知っていたとしても不穏な物語であることを強く予感させるにちがいない。

 

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 『母なる証明(原題:Mother)』(2009・韓国/129分)

監督:ポン・ジュノ(『殺人の追憶』『パラサイト 半地下の家族』)

脚本:パク・ウンギョ(『ミスにんじん』『ラブ・リミット』)、ポン・ジュノ

出演

母:キム・ヘジャ(『晩秋』『マヨネーズ』)

トジュン:ウォンビン(『ブラザーフッド』『アジョシ』)

ジンテ:チン・グ(『26年』『セシボン』)

ミナ:チョン・ウヒ(『サニー 永遠の仲間たち』『優しい嘘』)

アジョン:チョン・ミソン(『殺人の追憶』『かくれんぼ』)

ジェムン刑事:ユン・ジェムン(『海にかかる霧』『オクジャ』)

廃品回収の男:イ・ヨンソク(『絶対の愛』『感染家族』)

 

あらすじ

静かな田舎町で漢方薬店を営む母は、息子トジュンとふたり暮らし。

トジュンは知的障害があって仕事に就かずふらふらしており、生活は楽ではなかったが、澄んだ瞳と純朴さをもつ彼のことを母親は溺愛していた。

ある日、トジュンが轢き逃げに遭い、友人ジンテと共にゴルフ場まで追いかけて、車の男たち(大学教授ら)に報復する騒ぎを起こす。警察のテキトーなとりなしで車の修理代金で和解することになったものの、ジンテは記憶力の悪いトジュンに濡れ衣を着せる。

母はトジュンにもうジンテと付き合わないよう諫めたが、トジュンは聞き入れない。ジンテと行きつけのパブ・マンハッタンで会う約束をしたが、すっぽかされて暴飲。泥酔して帰りの夜道で女学生アジョンに声を掛けるも岩を投げつけられ、ほうほうのていで帰宅すると母に抱き着くように眠る。

 

翌朝、町の高台にある空き家の屋上にアジョンの遺体が発見される。町では長い間、殺人事件が起きたことなどなく、警察も町民たちもやいのやいのの大騒ぎとなる。現場付近での目撃情報とゴルフ場から持ち逃げしていたゴルフボールが元となり、トジュンは殺人の容疑者として連行されてしまう。バカにされることを極端に嫌う性格が災いして、トジュンは警察がまとめた調書に拇印を押して犯行を認めてしまうのだった。

母は無実を訴えるも、警察には「解決済み」として相手にされず、腕利き弁護士に救済を求めるも乗り気ではなく息子の冤罪を晴らしてくれそうもない。真相を突きとめるため、母は単身でジンテの許を訪れる…

 

 

*****

 

 映画全体としては、ミステリー・サスペンスの手法を用いながらも現代社会への批判的描写、社会弱者の現実をあぶり出すポン・ジュノ監督らしいアプローチが随所に溢れる。

2000年代前半の韓流ブームで日本でも人気の高かったウォンビンが兵役と足の怪我のリハビリを経て5年ぶりとなるスクリーン復帰作としても当時注目を集めた。(ウォンビンの近況を調べたが、モデル・CMの芸能活動自体は継続しているものの俳優業では再び長いブランクが続いているとのこと。)

 

キム・ヘジャとの仕事を切望した監督は5年の歳月をかけて「だれもが共感する母」へと共に肉付けをしていった。ヘジャは極端な状況下で表出する人間の本質を描きたかったとする監督の期待に見事に応える名演を見せ、「演技者として監督は私に新しい服を着せてくれた」と感謝を示した。

今作で「母親」を題材とした理由は、それまでの作品(『殺人の-』『グエムル』)で男性性や「父性」を描くことに注力した反動と説明しており、本作冒頭のシーンについては「観客への宣戦布告」を狙ったものと語る。主人公の母に名前はなく、決まった「だれか」の物語ではなく、だれしもの母親がこの主人公であることを示している。

 

しかし本作は「殺人容疑をかけられた愛息の無実を信じ、真相究明に奔走する母親の強靭な愛を描いたヒューマンサスペンス」では終わらない。むしろサスペンスにしては強引に過ぎ、ヒューマンドラマにしては共感しがたい、何とも形容しがたい後味の悪さを醸している。

 

※以下ネタバレを含むため、作品鑑賞後に読むことをお勧めします。

(個人的には、障碍児を育てる親御さんにはおすすめしません。)

 

 

 

*****

 

 

 

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ネタバレ

幾重にも張り巡らされた伏線によって、その小さな町を覆う停滞感、人々の暮らしの裏表、母子の秘められた物語へと誘う。

映画の前半で、母がトジュンの立ち小便に立ち会う一見すると滑稽なシーンがある。母はその様子を咎めることなくまじまじと見つめ、その痕跡を隠そうとする。言うまでもなく後半の、母が息子の罪を隠蔽しようとする展開を示唆したものである。

母は修理代を捻出するため、封印していた鍼(はり)治療を“闇”で行いながら借金を重ねる。母は漢方だけでなく指圧や鍼など民間療法全般に詳しい。狙いがあったかどうかは分からないが、西洋社会では産婆や民間療法に通じた“変わり者”の女性には、一種の“魔女”的な人物というステレオタイプが存在する。

 

母は川のほとりにあるジンテの家に忍び込み、事件の手掛かりになるものを得ようとする。そこへジンテとパブでトジュンに気のある素振りを見せていたミナが帰宅して、昼間からまぐわいを始める。おそらくジンテに両親はなく、ひとりで釣具屋を営んで貧しい生活を送っているのであろう。「当たり屋」や本格的な犯罪者にはならず、かろうじて「町のごろつき」程度で踏みとどまっている、と見ることもできる。

その後、母は発見したゴルフクラブを手に警察へ訴え出るが、口紅を血痕と見紛うという失態を犯し、疑われたジンテに慰謝料を支払うことになる。しかしジンテはトジュンのことを友達だと言い、母に「誰も信じるな」「その手で犯人を捜すんだ」と真相究明を促す。観客は、母の目を通して事件の解決を目指すとともに、その田舎町の実態を目の当たりにすることになる。

ベンツの教授、弁護士と検察などエリート層を醜く珍妙な人々として蔑み、違法取調べをする田舎警察、その立場にしがみつく公務員の妻などの中間層さえ情けを忘れた人々の滑稽なふるまいとして描いている。このような監督の人物造形の特色はひとによって好みの分かれるところかもしれない。この映画には「映画に出てくるような」善人はだれひとり存在しない。

 

■米餅少女 

町を見渡せる高台の廃屋の屋上という目立つ場所に置かれた女学生の遺体。

記憶力の悪いトジュンがこめかみをぐりぐりしながら「犯人の気持ちになって」考えたところ、被害者アジョンが「血を流していることをみんなに知らせるため」に建物の屋上に移動させたのではないか、という。

母がアジョンについて調べていくと、携帯電話の改造で小遣い稼ぎをする少女と出会う。アルコール依存で認知症の祖母を養うため、今でいうところのヤングケアラー(介護生活をする若者。学業不振や貧困問題と密接につながっている)が生活のために放課後売春を繰り返していたのである。それもいわゆる“パパ活”のような金持ち相手ではなく、同じ高校生や貧乏人を相手に、ときには金の代わりに「米」を受け取るほどの薄利多売ともいえるやり方で糊口をしのいでいた。

(アジョンの祖母は認知症ではなく単にアルコール依存で、アジョンに売春を強制する虐待を行っていたと見ることもできる。)

ジンテの協力によりアジョンを追う男子高生らを捕獲すると、アジョンの携帯電話には売春相手の男たちの写真が数十人分も収められており、だれに狙われてもおかしくない状況だったことが明らかになる。女子高生は自己防衛のために“変態電話”を使っていたのである。

 

■母と子

その一方で、トジュンは収監中にぼこぼこにされたことによって事件以前の重大な事実を記憶から呼び戻す。醜く膨れた顔の右半分を手で隠しながらつぶやく。

「母さんが俺を殺そうとした」「5歳のときだろ」「栄養ドリンクに農薬を入れて」

この演出は人間の表裏・二面性を感じさせるものである。もしかすると実はトジュンは何もかもはっきり認識し記憶しているのではないかと観客は不安に駆られるシーンでもある。

まさか息子に当時の記憶が残っているとは思いもよらなかった母は慄き、「悪い記憶や病気の元になる心のしこりを消してくれるツボがある」と慌てて記憶を消そうとしている。

トジュンの父親についてのエピソードは描かれることはないものの、子どもの頃のトジュンの写真を写真屋へ修整に出す際に一部分を母が破り捨てている描写から、そこには父親が映っており、病死や事故死などではなく家出や円満ではない離婚をしたものと推察される。

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生活に窮し、幼子を育てていく自信を失っていた母は農薬での無理心中を図る。毒性の高いグラモキソンを用いるつもりだったが、母は怖気づいてロンスターに変更したため、先に飲まされたトジュンは死にきれずに2日間下痢と嘔吐が続き、知的な後遺症が残った。悶え苦しむ我が子の姿を見た母は心挫けて心中を思いとどまり、その負い目もあってトジュンを必ずや守り育てると心に誓った経緯が分かるのである。

しかし純粋無垢のこどものような無邪気さを醸すトジュンの発達不全は、本当に農薬の後遺症なのだろうか。心中を図った経緯のひとつとして「息子の発達障害」があったとしてもおかしくはない(監督は否定している)。また妄想に過ぎないが、苦しみ悶える我が子の姿、自身の罪の重さに耐えきれなくなった母は、もしかするとトジュンの記憶を一度消していたのではないかとも思えるのである。

 

■2つの殺害シーン

トジュンはあの晩の記憶を取り戻し、アジョンの携帯電話を入手した母は彼女が撮影した中に犯人がいないかどうか確認させた。アジョンが示した画像には、町はずれの小屋に独居する廃品回収の老人が映っていた。

母は漢方医学のボランティア団体・恵民院(へミンウォン)を騙り、小屋を訪れると、老人はずっと誰かに打ち明けたかったのか「まあ世間話でも」と迎え入れ、徐に事件当夜のことを語り始める。

 「あの晩、俺はたまたまそこにいたんだ」「実はたまにあの家に行くんだ」「空き家だし静かでいい」と言いつつ、回想シーンでは用意してきた「米」がばっちり映っており、老人は当夜にアジョンを買春するつもりだったことが示される。

アジョンの後を追ってきた男は「男は嫌い?」と問いかける。

アジョンは岩を投げて男を追い返そうとし、 「ねえ、私を知ってるの?」と質問する。

「知らない」と答える男に「なのに、なぜ?」と悲し気に訴えるアジョン。

「私は男が嫌い。だから話し掛けないで、バカ野郎」

 “バカ”にされた男は岩を投げ返し、アジョンの後頭部に命中。

男は激しく動揺しどこかに電話を掛けようとするなどしていたが、ほんの僅かな時間でまるで記憶をそっくり失ったかのように「なんでこんなところで寝てるんだ」とアジョンに話し掛けると遺体を屋上へと引きづり上げた。

 母は信じることができず「見間違いよ!トジュンは犯人じゃない。すぐに釈放して再捜査するって刑事が言ったんです」と声を荒げる。

「トジュンに間違いない」 

現場検証のシーン、 「手を振るミナ」の手前で見切れていたが、老人がトジュンの顔を確認しに訪れている。岩を投げた後には、こめかみぐりぐりの「おかしな動き」まではっきり目撃されており、母はもはや言い返す術がなかった。

「ちゃんと捕まえたと思ったのに。ダメだ、俺が通報するしかない」 

老人が警察に電話を掛けようとする背後から母はスパナで一撃を喰らわせ、「違う、絶対に違う」と自分に言い聞かせるように殴り続けた。

やりきったように「息子をバカにするんじゃない」と言い放つと、道路に広がる立小便のように流れ広がる大量の血液を見て正気を取り戻す。

「どうしよう、どうしたらいいのお母さん」

 

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トジュンが殺害直後に電話を掛けようとしていたのは、おそらく警察や悪友ジンテではなく母親であることが推察される。トジュンのアジョン殺しと母による老人殺しを二重写しにすることで、「」の業を描いた名場面である。母が息子を殺人犯にしたくなかった想いの向こうには、心中で我が子を殺そうとした残虐性が息子に引き継がれることを是が非でも否定しようとする想いもあったように感じられる。

 

後日、店からジェムン刑事の来訪に気付いた母は実に複雑な表情をしている。自らの犯行が発覚したのではないかと怯えていたに違いなく、平静を装いつつもどうすればよいのか分からないような所在なさと(当て逃げシーンと同じ)緊張感を醸し出している。

 

祈祷院から脱走したジョンパル

刑事は“真犯人”としてジョンパルが逮捕され、トジュンが釈放されることを伝えた。

「冤罪事件」の解消が新たな冤罪事件を生む、という結末は“どんでん返し”というより逃れがたい“負の連鎖”である。人は善悪・白黒で描かれずすべて“グレー”であり、事件はたくさんのグレーが重なることで次第に“黒”に近づいて見えるようになる。最終的にアジョン殺しの濡れ衣を着せられることとなったジョンパルは、映画の前半で「祈祷院から脱走した」として捜索中であった。

 

映画とはやや逸脱するが、ジョンパルが逃げ出した“祈祷院”について詳しくないので少し調べてみると、孤児院のような場所で保護されていたというより、一種の矯正施設に近い印象を受けた。

韓国では人口の約56パーセントは無宗教ながら、キリスト教徒(プロテスタント系20パーセント、カトリック系8パーセント)が約3割を占めており、宗教人口としては最も多い。

韓国におけるキリスト教日韓併合下での抗日・独立運動の原動力となり、朝鮮戦争による平壌からの流入、米軍の庇護のもとその数を増やした。1970年代以降は民主化運動をリードし、プロテスタントによる仏教への攻撃と積極的な布教活動により急成長を遂げ、90年代以降は仏教徒の数を上回っている。

天道教統一教会といった新宗教も盛んであり、韓国に定着していく折衷の過程でシャーマニズム的影響が色濃く、分派しやすい傾向があるとされ、日本と違い政治運動にも深くコミットする特徴をもつと言われる。信徒引き抜きなどによる他派との対立や洗脳などカルト的新興宗教による社会問題や事件も少なくない。

 

祈祷院は祈祷に集中的に没頭するため、個人やグループで合宿しながら加護を祈る施設であり、教会に併設されている場合が多く、日本国内にも存在している。

シャーマニズムキリスト教における疾病観には、病気の原因は鬼神(不信心によって生じた悪霊)だとする考えがあり、信仰・祈祷によって鬼神を除くことで神の加護により治癒するものとされており、いわゆる“悪魔”や“憑き物”に近いものと認識される。

治療祈祷会では①病患者が一対一で神に祈祷するほか、②断食によって病魔の誘惑(食欲)に打ち克つデトックス法や、③一堂に集めて代表者に神癒的行為(神の加護)を示すことで集団的興奮状態を生み出し、自分にも何か変化が起きた、良くなった、という自己暗示にかける、④牧師が按擦・按摩を施しながら祈祷するといった方法が用いられる。

描かれていないため憶測にはなるが、もしかするとジョンパルのダウン症とみられる症状を祈祷によって除こうとする大人がいたのかもしれない。 

 

「アジョンの恋人」を自称するジョンパルは、実際にダウン症をもつ韓国の役者キム・ホンジプが演じている。血痕が付いたままのシャツを着ていた彼の証言では、行為の最中に彼女が鼻血を出したとしており、鼻血エピソードが絶妙な伏線になっている。

アジョンが携帯電話に撮りためた写真を消そうとしていたこと、写真の一部を現像しようとしていたこと、ジョンパルがトゲ山に逃げ込んだことを合わせて妄想を重ねていくと、もしかするとアジョンとジョンパルは本当に愛し合っており、駆け落ちを考えていたのではないかなどとも思えるが実際のところは分からない。

 

■「母親と寝る」と「女と寝る」、適切なセックスと強姦

下の記事では、ホンジプさんの母オクジャさんが実際の障碍者の恋愛はハードルが高いと話している。障碍者同士のミーティングなどで出会いの機会がない訳ではないが、「女性障害者の親たちは娘の恋愛、(更なる障碍児が生まれることを悲観して)出産を望んでいないようだ」としつつ、彼らにも愛する権利があると語る。

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日本でも障碍者向けの自慰介助サービスを提供するホワイトハンズなどが知られており、障碍者の性欲をタブー視しない取り組みが求められている。

 

2019年にベストセラーとなった宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』は、少年院での勤務経験から「非行少年」とされた少年たちには「認知」「感情統制」「身体的不器用さ」「対人スキル」「融通の利かなさ」が不足しているとして、「障碍者未満」のいわゆる“ボーダー”が多数含まれていることを指摘している。

現在の矯正施設ではソーシャルスキルレーニングとして認知行動療法が用いられており、他人に不快感を与えたり社会規範にそぐわない行動を社会的に正しい行動へと変えていく方法で、自分や相手、周囲の感情が分かるという前提に立って作成されたものである。しかし、人の話を聞く、言語を理解する、見る、状況や感情を想像する、善悪やTPOの判断といった前提となる条件が伴っていない少年が多いため、(認知行動療法なしに比べれば多少改善するものの)充分な成果が得られていないとしている。

鑑別鑑定で少年たちが様々な問題を抱えていることは指摘されていても、それらを改善するために、再犯を起こさせないために具体的に何をどう支援するか、といった視点が欠け、トレーニングプログラムを履修させるだけで実際身になっていないと危惧する。認知機能が低ければ、“適切な”セックスと強姦の違いを理解することが難しく、対人スキルが改善されていなければ塀の外で同じことを繰り返すことになる。

性犯罪者ははじめから異常性欲者なのではなく“適切な”交際や性交が理解できていない、という視点である。

 

話を戻すと、トジュンはおそらくジンテの真似をして「女と寝る」と意気込んでいたが、正しくセックスを知らないどころか交際相手さえいなかった。ジョンパルはアジョンと出会ったことでもしかするとセックスを経験したかもしれないが、彼にとっては売買春が交際であり「純愛」だった。

ジョンパルは精神薄弱などによって刑期は短くなる可能性もあるが、果たして更生できるかどうかは難しく、彼がトジュンの母に告げた「泣くなよ」の無垢なやさしさが一層「母のしたこと」の罪深さを抉り出す。

 

( 嘆かわしいことだが、ジョンパルは英語字幕などでは「crazy JP」と表記されることから、ダウン症の役者を「キチガイ日本人に見立てており反日的だ」とする非難も散見される。田舎町にわざわざ“親のない日本人のダウン症青年”を唐突に登場させることは文脈的に考えられず、ジョンパルを略してJPとしているにすぎない。被害妄想と嫌韓感情、差別感情による悪質な言いがかりであることは指摘しておきたい。)

 

 ■記憶

長距離バスで踊り出すエンディングはなじみのない人にはそれ自体が異様に見えるかもしれないが、タクシーやバスの運転手が眠気解消の目的で“ポンチャック・ディスコ”と呼ばれるチープなテクノ音楽をかける大衆文化がある。

ポンチャック化した歌謡曲を宴会などでみんなで歌い継いだり、長い道中で盛り上がったりというのは中高年層にはなじみがあるもの。日本では元バスガイドの歌い手・李博士イ・パクサ)が1990年代半ばに脚光を浴び、電気グルーヴ明和電機らと共作をリリースしている。

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エンディングにはポンチャックディスコに乗って他の乗客たちと狂乱的に踊るシーンが延々と続く。

母親目線ではなく、車外からそれを見つめるカメラ・アイは何を意味するのか。この踊りの意味を監督は観客に投げかける。

シンプルに考えれば、鍼で嫌な記憶をすっかり忘れて、踊ったことになる。

だが、観客は彼女が記憶を忘れる前にも老人殺害後に荒野で踊るシーンを目にしている。老人の小屋に鍼を忘れてきたことから、荒野で踊るシーンの際には記憶は失われていない。自分のしでかした大きな過ち(単なる殺人というではなく、息子の罪を隠蔽するという二重の過ち)から逃れるために、もはや踊るしかない心理状況の忘我の舞であった。

たしかに忘我の舞とポンチャックではかなり踊りのテイストが異なる。しかしこの対比の利いたふたつの踊りが、“同じもの”であった可能性は考えられないだろうか。

何もかも忘れた“フリ”をして踊り狂っていた、すなわち鍼によって「記憶を消す」という母の技術自体が眉唾であり、あくまで気休めに過ぎないのだとしたら。

 

これほどまでに多くの伏線と回収、更なる解釈の余地をまとめあげるポン監督の底知れない才能と意地の悪さに震えが止まらない。

 

 

 

『母なる証明』ウォンビン&ポン・ジュノ監督インタビュー “目”に隠された意味とは | cinemacafe.net 

日本刑事政策研究会:刑事政策関係刊行物

 韓国キリスト教会の信仰治療 現代シャーマニズム社会におけるキリスト教会,渕上恭子

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北九州連続監禁殺人事件(2/2)

2002(平成14)年に発覚した福岡県北九州市の連続監禁殺人事件について記す。

前半では事件発覚からの報道の流れを俯瞰し、松永・緒方の略歴、いくつかの結婚詐欺と第1の殺人を扱った。後半となる本稿では、緒方家6人への監禁殺人、犯行の性質などについて見ていきたい。

 

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■湯布院事件・門司駅事件

少女の父親の死後、松永らはHさんを新たな「金主」として結婚詐欺を行ったが、前述のように逃走を許してしまう。その後、次の標的が見つからず苛立つ松永は緒方に対して「今度はお前が金をつくる番だ」と150万円を工面するよう命じた。

緒方は「指名手配をされているので逃走資金が必要だ」と母親を頼ったが、すでに親類への詐欺やこれまでの度重なる無心によって、このとき新たな借金の要請は退けられる。

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1997年4月7日、松永が別の潜伏先に移動した際、緒方は自分で稼ぐしかないと決意して、1歳になったばかりの次男を親類へ預け、単身で大分県の湯布院へ向かった。

旅館や飲食店で住み込みの仕事を数日かけて探し歩き、14日、一軒のスナックを紹介された。スナックの女将は、物静かな女の様子に訳アリだとは感づいたが働いてもらうことにした。しかし翌日、緒方は店へ出てこなかった。店には便箋が一枚置いてあり、「主人が亡くなったので急遽帰らなければならなくなりました」と丁寧な字で手短かな詫びと礼が述べられていた。

緒方は湯布院に来てから子どもの様子を聞くために実家に連絡を取っていたが、面接を受けた翌日、妹から「松永が飛び降りて亡くなった」と聞かされた。父・譽さんも「亡くなったのは本当だ。とにかくすぐに帰るように」と言い、こどもたちの心配もあって慌ててスナックの女将に詫び状をしたためるとすぐに小倉に戻った。

 

マンションでは緒方の家族が待っており、和室に遺影が置かれ、線香が焚いてあった。現実とは思えなかったが、遺影に手を合わせ、渡された遺書を読んだ。出会った頃の思い出に始まり、「これからのことをよろしく頼む」と父娘の件について後を緒方に託すかたちで締めくくられていた。自分がいなくなったことで松永をそこまで思い詰めさせてしまったのかと考えると涙がこぼれた。

残念だったな

押し入れから出てきた松永が殴り掛かって号令をかけると、緒方は家族総出で羽交い絞めにされ、暴行された。その後、何日も松永から凄まじい制裁を受けたはずだが緒方はしばらくの間、解離症状にあったと見られ当時の記憶を喪失している。

松永と離れてからのあらゆる出来事を分刻みで詰問され、質問に答えても通電、答えられなくても通電、本当のことを言っても「嘘をいうな」と通電され、それからことあるごとに手足、指、顔面、乳首、陰部などあらゆる箇所に通電を浴びせられる日々が続いた。顔への通電は激痛が走り、一瞬でも意識が遠のいて目の前が真っ白になり恐怖を感じた。足への通電が繰り返されたせいで、親指の肉は欠け、薬指と小指は癒着した。松永は緒方に対しても、少女の父親と同じように死ぬんだと言い放った。

周到にも湯布院で世話になったスナックの女将などに嫌がらせの電話を掛けさせて、つながりを断絶させている。またこのときにも「裏切ったけじめを取れ」と緒方に命じ、ラジオペンチで両脚の小指と薬指の爪を剥がさせていた。こうした執拗な虐待も裏を返せば松永は緒方の逃亡、裏切りを最も恐れたからだと見ることができよう。

 

どうやって松永が緒方家の面々を取り巻きにおいたのかは明らかではない。だが家族には、緒方の度重なる無心、親類や地元の知人に対する詐欺行為や嫌がらせ電話など、これまでの身勝手な行いによって信頼関係が崩れており、被害者意識さえあった。

松永はそうした家族の歪みを見抜いて巧みに煽情し、「緒方が殺人を犯して逃亡した」「警察に見つかれば大変なことになる」と緒方家を強請り、戻らせるためにひと芝居打たせたことは想像に難くない。松永としては緒方が心変わりして事件が表沙汰になることを是が非でも阻止しなければならなかった。

裁判傍聴を続け、事件を追ったノンフィクション『なぜ家族は殺し合ったのか』を著した佐木隆三氏は、「“純子は殺人を犯している”“守ってくれるのはもはや松永さんしかいない”と父親(譽さん)は思っていたと思う。松永は(緒方の)逃走があって、家族を巻き込むことに成功した」と述べている。

 

家出によって緒方が“序列”の最下層に置かれると、いささか奇妙にも感じられるが少女の立場がやや好転する。父親亡き後、浴室に監禁されていたが、理不尽な虐待からは免れて中学に通うことを許され、帰宅してからは家事や子守りを割り当てられた。松永の子どもと同じ食事をし、テレビを見、入浴することができるようになった。緒方の食事や排泄、こどもと接近していないか等を少女が見張って松永に逐一報告する係とされた。

 緒方がようやく外出を許されたのは、約1か月後の1997年5月、松永の新たな交際相手への手紙を投函するために下関へ出たときで、このときも見張り役に少女が付き添った。執念深い松永は事あるごとに「自分に歯向かった者には10年くらいは同じことを蒸し返す」と自負していたため、緒方はこんな生活が10年も続くのかという絶望が脳裏をよぎった。

役目を終えて電車が門司駅に着くころには、誰にも見つからないように自殺しようと決意を固め、駅のホームで2度の逃走を試みた。だが松永の指示で足元がサンダル履きだったこと、少女が忠実に見張り役を遂行したことから未遂に終わり、帰宅後にはそれまで以上の制裁が待ち受けていた。

「なぜ逃げた」と詰問する松永に、緒方は「電気が怖かったんです」と答えると、「お前だって(亡くなった少女の父親に対して)電気を通したじゃないか」と責められた。「電気は私の友達です、と言って笑え」と命じ、緒方が言われたとおりにすると松永は嬉しそうにそれを見て笑った。緒方は1か月にも渡って度々失神するまで通電を受け、この時期も記憶を失っており、後から松永に吐血していたことなどを知らされるほどに虐待は苛烈を極めた。

 

■布石

緒方の由布院逃走をきっかけに、松永は緒方一家への関与を再び深め、門司駅逃走未遂によって改めて“標的”とされていく。松永の「思うままにならない相手」に向けられる報復感情や執着心も顕著だが、一方で結婚詐欺は思うように捗らず、少女の父親の殺害などによってフラストレーションが高まり、暴力の“リミッター”が壊れたタイミングだったと見ることもできる。

少女の父親がいなくなり今までのように安易に転居を繰り返せないとなると、逃亡潜伏と結婚詐欺を続けていくやり繰り自体も困難になる。発覚逃れのために殺してしまうくらいならば、いちどきに大金を得たいとする方針転換もあったのではないか。

 

松永は緒方の母・静美さんが「もう金がない」と送金を断るようになったことから、父親を引きずり込もうと画策する。緒方に命じて、3月末にアパートの家財道具を売却するよう静美さんに依頼した。後になって松永が「知らないうちに家財道具を売り払われた」と静美さんを糾弾し「窃盗罪で逮捕される」と脅迫した。強引に“弱み”を握って、狙いの本丸を呼び込もうとしていたのである。

由布院逃走後、「別れるなら別れるでいいから、お前の両親も交えてきちんと話をしよう」と言われ、父・譽(たかしげ)さん、母・静美さん、妹・理恵子さんが久留米から北九州に頻繁に呼び出されるようになった。仕事を終え、片道2時間近くかけて到着するや深夜2時頃まで緒方の処遇について議論が交わされた。

詳細は緒方も聞かされなかったため分からないが、松永は家族の不満や憤りの矛先を巧みに回避しながら、自分たちの安泰を守るためには金銭的解決が一番だというように誘導していったことは言うまでもない。

 

恨みこそあれ血のつながった身内が目の前で通電の拷問を受けるさまを見せつけられた緒方一家の恐怖は想像を絶する。冷静な判断力があれば、すぐに警察への通報や法律家に相談するのが当然と思うかもしれないが、そんなことをすれば次は自分たちが緒方のような悲惨な目に遭わされるかも分からない。かねてから松永は右翼や暴力団員とのつながりもあると吹聴されていたため、緒方の家族は体面と身の安全のために逆らうこともできなかった。

さらに松永はここでも緒方の“弱み”であるこどもをダシに、「離縁するならばこどもたちは引き取る」と条件づけた。緒方家としては、跡取りは妹夫婦になっており、松永と縁が切れるのならばそれでも構わないと思ったかもしれない。だが緒方の自子に対する並々ならぬ執心を松永は熟知しており、その読み通り「子どもを取られるくらいなら」と松永についていくことを決断するのである。

そして緒方家は、いわば犯罪者である緒方を松永が保護してきた経費と迷惑料、今後も時効まで匿ってもらうためにあらゆる金策を繰り返す。1997年4月から12月にかけて緒方家は総額5200万円以上を捻出したとされる。

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とりわけ一家の主である譽さんは勤めの農協団体で次期理事長とも目される実直な人物だった。一族本家の家長たる自負や生真面目さ、世間体を気にする性格は松永に目を付けられた。緒方に落ち度があれば一家が連帯責任を負う等とする念書を多数取らされたことに加えて、遺体解体現場の配管交換を行わせて証拠隠滅に加担させたことで、告発をより困難なものにした(だが実際には解体後に緒方が既に交換していた)。

春から急に仕事を休みがちになり、普段身なりもきっちりしていた譽さんが着の身着のまま髭も剃らず、サンダル履きで現れるなどの明らかな変調が見られるようになると、職場の人間たちも度々気に掛けたが、本人は大丈夫と言うばかりで弱みを見せようとはしなかった。

譽さんは緒方のために多額の金が必要だと説明して親戚中に借金をして回った。親類から高齢の父親(緒方の祖父)を一人残して連日連夜家を空ける理由を聞かれても「話せばお前たちにも迷惑をかける」と頑なに説明を拒んだ。

急激な生活変化や心労のためからか、7月には病院で不安やストレスによる緊張性頭痛と診断され、8月には十二指腸潰瘍穿孔等で緊急手術を受け、9月後半まで自身も入院を余儀なくされた。しかしその間も、夏には高齢の父親を一時入院させ、8月29日には本家の土地、建物を担保に農協から3000万円の借り入れを行った。

9月23日に親族会議が開かれ、若夫婦らはどこに行ったのか、長年緒方家にまとわりつく松永に騙されているのではないかと親類たちから追及もあった。しかし譽さんは「悪い人ではない」と松永を擁護するだけで、居場所や金の使途を明かそうとはしなかった。

退院後も自宅へ帰ることはなく度々欠勤を繰り返し、11月28日を最後に人前に姿を現さなくなった。職員が電話で確認した際にも「もう出ていけない」と返すだけだったという。

 

緒方の妹の夫・主也(かずや)さんに対しては松永も慎重にならざるを得なかった。主也さんは緒方と血縁関係になく、1986年に婿養子に入ったため緒方と直接面識がなかった。結婚の際にも電話で罵詈雑言を浴びせられるなど「家族に迷惑ばかりかける義姉」という印象を抱いており、緒方に同情心を抱かないことが予想された。さらに前職が警察官であったため、体力に加えて正義感の強さや犯罪に抗する防衛力があることも懸念されていた。

当初は客人として丁重に迎え酒宴でもてなして親睦を深めた。すでに緒方の父母、妹から聞き出した情報を頼りにしながら、「養子に来たあなたに緒方家の土地を譲渡する約束が不履行なのは騙されているからだ」と不信感を植え付けていき、やがて妻・理恵子さんの男性遍歴や過去の妊娠・中絶を引き合いに出して「理恵ちゃんにも騙されているんですよ」と煽った。

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やがて主也さんも「仕事から帰ると静美さんに野菜の収穫作業を手伝わされた」等の緒方家での小さな不満を挙げるようになると、松永は「よき理解者」として援護射撃を行った。成婚時に緒方家が約束してそのままにされていた田地譲渡の念書を譽さんに作成させる等している。

かたや理恵子さんが夫に対する愚痴や不満を発すれば松永もそれに乗じて主也さんを非難し、あたかも仲介人であるかのように両者の言い分、暴露を引き出した。夫婦関係は急激に悪化していき離婚話に誘導するなど、主也さんを家庭内で孤立させるために松永が巧みに裏で立ち回った。

誉さんが農協から3000万円の借り入れを行う際、主也さんは連帯保証人となっている。だが松永は主也さんの記載の誤りを指摘して「文書偽造罪になる」と脅した。その後、誉さんのときと同様に浴室タイルの張替を手伝わせて証拠隠滅の負い目を背負わせている。そして8月に小倉で祭りが行われるタイミングで、彩ちゃんと優貴くんを連れてくるように誘い、まんまと人質にとったのだった。

8月末、優貴くんの通う保育所に主也さんが訪れ、職員に「熊本に引っ越すので退園します」と涙を浮かべて残念そうに告げた。妹一家は本籍や住民票の移動を行い、9月にはそれまで彩ちゃんが通っていた久留米市内の小学校から熊本県玉名市内の小学校に転校させたが、この年は延べ8日しか登校しなかった。 付き添いの「母親」を名乗る女性は学校側に、親戚を名乗る者から聞かれても住所は絶対に明かさないように、たとえ他の者が迎えに来ても引き渡さないようにと厳命し、登下校も車で送迎していたという。

 

■同居

9月26日、松永、緒方は緒方一家を伴なって親類(母・静美さんの姉)の家を訪れている。一時間ほど世間話をした後、松永が「緒方家の跡取りは誰か」と緒方家の面々に執拗に問いただし、緒方家の跡取りは緒方純子であり、その跡取りは長男であると何度も声を揃えて唱えさせた。

親族は何が起きているのか内情までははっきりしないが松永が緒方家を取り込もうとしていることを察知し、このままでは本家の財産が丸ごと奪われると強く危惧し、調査や警察への相談も行っている。 

10月には親戚筋の警察官2名に一家の捜索を依頼。妹一家の転居先である熊本県玉名市内のアパートを突き止めたが、家族と会うことはできなかった。部屋の家賃、光熱費などは支払われていたが、居住実態はなく、松永の指示による偽装工作のひとつだったとみられる。

親族らの働きかけにより11月頃にはかつて詐欺容疑の担当だった柳川警察署も捜索を再開し、緒方家周辺で張り込みや聞き込みを行っていた。このとき緒方の母・静美さんや妹・理恵子さんと接触することができたが、結局松永らの所在を突きとめるには至らず。警察の動きを知った松永は片野のマンションから距離を置いて却って警戒を強めた。

誉さんの兄弟らは、まだ担保にされていなかった緒方の祖父名義の田地を売却させまいと、11月に所有権移転の仮登記を行っている。 緒方は仮登記抹消を求めて交渉したが親族らは断固としてそれを拒否した。

 

主也さん一家は9月頃から片野のマンションで監禁生活をさせられるようになり、10月末で仕事を退職。誉さん、静美さん夫婦はホテル暮らし等の後、12月頃にはそこに加わった。

少女や緒方の証言では、監禁されて以降の緒方一家は少女の父親と同様に奴隷のように扱われた。外出の制約はもちろんのこと、台所に布団も与えずに寝かせ、家族間で話し合いをさせるとき以外は会話も禁じられ、一日一度の食事やトイレ使用の制限、何時間もの起立や蹲踞の姿勢を強制するなど生活全般に渡って虐待を加えた。

通電は、一家がマンション通いをしていた6月頃から緒方の逃亡に関与したとして静美さんに対して始まり、最終的には共同責任として幼い優貴くんを除く全員が対象となった。理恵子さんが返事をするときに出る「あっ、はい」という癖が耳障りだ、彩ちゃんが食べかけのお菓子を許可なく食べた等といった理不尽な理由での通電もあった。

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10月頃に松永は主也さん一家とホテルに宿泊した際、当時“序列”の最下位におかれていた理恵子さんをけしかけて偽計を仕掛けている。盗聴器を部屋に仕掛け、主也さんの口から松永の悪口を引き出したり、緒方殺害を仕向けるように命じたのである。主也さんは簡単に誘導にはなびかなかったものの、理恵子さんに怒って暴力を振るった。言うまでもなく松永に「妻を殺害しようとした」と上申書を作成させられて脅され、その後の通電理由に度々用いられた。

家族を罠にかけるほどまでに松永の命令は絶対的であり、善悪の道理や合理的判断ではなく「松永の一存」を最重要とする集団心理に陥っていた。こうした集団管理の術は松永がワールド時代に身につけたものである。通電虐待に加え、いつどんなかたちで自分が最下位にされるか分からない相互不信によって家族関係を崩壊させ、実権を掌握していったのである。

 

■「おじいちゃんなんてしんじゃえ」

親類らに土地を売買させない「仮登記」をされたこと、さらに警察の捜査が再始動していることにも松永の苛立ちはあったにちがいない。12月の同居以来、譽さんが親類に仮登記の入れ知恵をしたのだろうと連日の電気責めで無理矢理口を割らせようとした。土地を売ることもできず、借金もとうに限度額になっており、全員が無職となった緒方家は、詐欺師にとってもはや吸い取る旨味もない“用済み”の存在となっていた。

 

1997年12月21日、例によって緒方家の今後の身の振り方や金策について話し合いをさせるため、松永は一家を部屋に集めた。松永は「口のきき方」や「偉そうな態度」を理由に譽さんに電撃を加え続けた。

翌朝、誉さん、静美さん、主也さん、理恵子さんの4人は別の物件にある荷物を回収するよう指示されて熊本へ出掛けた。緒方は4人からの電話連絡を受ける役目であったが、松永から風呂に入る許可が与えられて入浴した。

その間、松永は彩ちゃんに冷蔵庫から調味料を持ってくるように命じたが、見つけることができずに立腹し、急遽誉さんたちが出先から呼び戻された。彩ちゃんは日頃、冷蔵庫を開けたことはなく、普段から使っている少女でも調味料を見つけ出すことができなかったという。

後に緒方は、彩ちゃんが調味料を見つけられないことを織り込み済みで松永は指示を出し、それを口実に通電をする心づもりだったのではないかと推測している。

 

誉さんたちを帰宅させると、松永の説教が始まり、連帯責任からかやがて彩ちゃんではなく譽さんが通電を受けることとなった。指と腕に始まり、次々とクリップの位置を変えて通電が行われたが、誉さんはいつも通り目をつぶって無言で耐えた。両乳首に通電する段になって、松永は代われと言って緒方にその任務を押し付けた。

緒方はこれまで何度も通電を代行した経験はあったが、他人の乳首に通電するのは初めてだった。「大丈夫かな」と不安を漏らす緒方に「大丈夫、大丈夫」と松永は促す。このとき緒方には父親に憎しみの感情はなかったが、本心でなくとも精いっぱい非難し、プラグをコンセントに刺した。すると正座のまま微動だにしなかった誉さんの上半身がゆっくりと斜め前に倒れ、額を床に着けた。

緒方は自身の乳首への通電経験から、身悶えこそすれ床に頭を着けて倒れ込むというのはオーバージェスチャーではないかと思い「何をしているんだ。顔を上げろ」と老父を叱責し、再び通電した。慌てて松永が通電を制すと、彩ちゃんが声を上げて泣き叫んだ。松永が人工呼吸をし、他の大人たちには心臓マッサージや足を揉むように指示したが、息を吹き返すことはなかった。

 

遺体を囲んで話し合いがもたれ、緒方家は当然葬式を挙げることを望んだ。だが遺体が他人の目に触れれば警察沙汰になることは当然予想され、松永は「緒方が捕まれば親戚にも迷惑が掛かるぞ」と脅して、少女の父親のときに行った処置をほのめかした。

緒方は、自分は捕まってもいいから葬式を挙げてやりたいと心中に思ったが、少女の父親を解体して遺棄した手前、手前勝手な言い分を口に出すことができなかった。

緒方家に選択肢などなかった。静美さんが「そうします」と答えると、松永はやり方は緒方に指示を仰ぐように伝え、「借用書」を書かせて解体道具の費用を立て替えた。優貴くんは玄関に締め出されていたため祖父の死に立ち会うことはなかった。少女はこどもたちと一緒に旅館で過ごすように指示された。

しかし松永は、祖父の死に立ち会っていた彩ちゃんだけをマンションに呼び戻した。かつて聞き出していた久留米で生活していた頃のエピソードを悪用して、「彩ちゃんが神社で『おじいちゃんなんてしんじゃえ』とお願いしたから死んじゃったんだよ。彩ちゃんのせいで死んだんだ」と言い聞かせ、10歳の少女に解体現場に立ち会わせて罪悪感を負わせ、口止めを行った。

緒方、静美さん、主也さん、理恵子さん、彩ちゃんの5人は約10日間かけて解体、血抜き、煮込み、ミキサー、ペットボトル詰め、投棄の作業を進め、その間、松永は和室に閉じこもったきりだった。

 

裁判では、通電が日常的に行われていた範疇の虐待であり、事前に解体準備などもされていなかったこと、事件直後の蘇生行為などから、2人に殺意はなかったとされ、傷害致死罪とされた。

 

■母の前歯

年が明けると、電撃の標的は主に静美さんに替わった。松永は少女を助手のように使って、手足、顔面、陰部などに通電虐待を繰り返した。半月ほどすると、静美さんは食事や水、薬を一切受け付けなくなり、「アア」「ウウ」と奇声を発し、会話や意思疎通が成立しなくなった。松永は「頭がおかしくなった」と判断して、浴室に移動させた。

静美さんは無抵抗に浴室で監禁されていたが、奇声を上げ続けた。松永はしきりに「声が漏れて通報されるかもしれない」と危惧し「早く始末しろ」などと怒って、1月20日頃、静美さんの処遇について緒方、主也さん、理恵子さんが台所に集められ話し合いの場が設けられた。

緒方らは、他のアパートへの転居や精神病院への入院などを提案した。しかし、松永は「外に出して余計なことを喋られれば警察に通報される」「借金だらけのくせにそんな費用がどこにある」と悉く緒方らの出す案を却下し、「知恵と金を貸してやったのは俺だが、俺は関係ない。(譽さん殺害が発覚して)困るのはお前たちだ」「あと1時間で結論を出せ」と言い残して和室に入った。「あと何分だぞ」と松永が3,4回顔を出して急かしたが、3人は松永を納得させられる案が思い浮かばず議論は堂々巡りを繰り返した。

やがて制限時間が迫ると、松永は「金は貸してやってもいい」と言った。これまでの静美さんを外部に移す案が否定されていたこと、誉さんの解体に際して解体道具の購入代金を松永が立て替えていたことなどから、緒方が「これは“殺せ”ということかな」とつぶやくと、夫婦のいずれかがうなだれたまま「多分そうでしょうね」と言った。自ら犯行のすべてを明確に指示するのではなく、真綿で首を締めつけるように相手に忖度を迫って意思決定させる松永の責任回避の手口、性格が見て取れる。

無論、3人には静美さんを殺したい動機があった訳ではなく、松永を納得させてその場を収めるため、指揮者の望んでいるであろう“最適解”を導き出したに過ぎない。提案すると、松永は満足げに「お前たちがそうしたいならそうすればいい」と答えた。

 

松永は「いつやるんだ」と言ったため、主也さんは慌てて「良くなるかもしれないので、もうしばらく様子を見ましょう」等と猶予を求めると、怒った口調で「これ以上酷くなったらどうするんだ。暴れる様になったら困るのはお前たちだろう。やるんだったら早くやれ」と即時決行を求めた。3人は異論を唱えることができなかった。このときはじめて確定的殺意のもとに殺害が実行されることになった。

殺害方法についても話し合われ、刃物は血が飛ぶし、刺される方も苦しみが長引くとして、電気コードで絞殺することに決まった(譽さんの場合は偶然が重なって亡くなったと考えていたため、「通電で殺害する」という発想は出なかったと緒方は証言する。また松永は日頃から暴行を加える際、血液が飛び散ることを極端に嫌っており、口にティッシュを詰めさせてから殴るほどだった)。

松永から電気コード借用の許可を得ると、「主也さんは首を締めなさい。理恵ちゃんは足を抑えて」と松永が分担を決め、緒方と彩ちゃんは「何もするな」と指示されたため、洗面所で様子を見ていた。

主也さんは浴室で寝ている静美さんの肩付近にしゃがんで、電気の延長コードを首に一重に巻き付け、理恵子さんは膝付近にしゃがんで体を覆いかぶせるようにして足を抑えた。主也さんが義母の寝顔を見つめた後、手に力を込めて絞め上げると、静美さんは「グエッ」と声を上げて脚をじたばたと動かし、しばらくして動かなくなった。事前に松永から「動かなくなっても絞め続けるように」と言われていたため、主也さんは5分か10分かして「もういいですか」と背後の緒方に許可を求めてからコードを緩め、和室で待機していた松永に「終わりました」と報告した。

 緒方は法廷で悲しいとかかわいそうとかそういう感情すら浮かばなかったと殺害状況を克明に語った。母親の死に顔を目の当たりにしたとき「母の口から前歯が出ていました。自分も前歯が出ていますから、『私もあんな風に歯が出た状態で死ぬんだろうな。私のときは口にガムテープを貼ってもらおうか』という気持ちになった」と心情を述べた。

 

彩ちゃんも駆り出され、4人はほとんど不眠不休で解体作業に追われた。静美さんの遺体は脂肪がついていて切断しづらく、大腸には多量の便が残っていたので悪臭がひどかった。遺体の状況を松永に報告するのは緒方の役割で、「ペットボトル容器を半分に切って絞り出せ」と指示されたため、腸の中味を絞ってトイレに流した。匂いを誤魔化すため、大量の茶葉を入れて煮込み、生姜を混ぜてミキサーにかけた。

少女は和室で子供たちの面倒を見ていたため静美さん殺害と解体の一部始終にこそ立ち会ってはいないが、緒方家と松永の様子、解体時の匂いで静美さんがいなくなった理由は察しがついた。作業は一週間ほどで完了し、跡形もなく消えてしまった。

 

■感情の振り子

1998(平成10)年1月末、少女、主也さん、優貴くんを片野のマンションに残し、松永、緒方、緒方の長男と次男、理恵子さん、彩ちゃんは東篠崎のマンションへ移動した。

その理由について、部屋が手狭で松永が風呂に入れなかったこと、妹一家を分断することで逃亡を防ぐためではないか、と緒方は推測している。夫婦が結託することもできなくなり、一方が逃げればもう一方の人質がどうなるか分からないため、むやみな行動は抑止される。主也さんと少女の行動を制限するため、毎日駐車場に車を移動させるなどして逃亡のないことを確認した。また片野のマンションの見張り役となった少女に対し、松永は主也さんへの色仕掛けをやってみろと指示していた。

 

松永は買い物など家のこまごまとしたことを理恵子さんに指示するようになり、それ以外のときは彩ちゃんと共に浴室へ閉じ込めていた。起きている間は裸同然の姿で洗い場に立たせ、寝るときは浴槽で体育座りを強制、食事はマヨネーズを塗った食パン数枚、菓子パン、カロリーメイト等を与え、排泄の制限も行った。

緒方によれば、このとき理恵子さんは急激に痩せ細り、耳が聞こえづらくなっていた。松永の指示は事細かすぎたり、気まぐれに変わったり、あるいは「それくらい自分で考えろ」と曖昧に指示したり、聞き返して松永の気を損ねれば通電されるなどしたため、理恵子さんは益々萎縮し、命じられた指示を度々取り違えた。四つん這いにさせられ、膝を床に着けない姿勢のまま、両顎や性器に通電された。恵理子さんはランク付けの最下位に置かれていたのである。

 

浴室にいるよう指示したのは自分であるにもかかわらず、松永は「理恵子らがいるから風呂に入れない」と難癖を付けるようになった。だが緒方が2人を移動させて浴室を清掃すると言っても、あれこれと自分勝手な都合を挙げて入ろうとはしなかった。また同時期に、「理恵子は頭がおかしいんじゃないか」「母親みたいになったらどうするんだ」などと少なくとも4、5回は口にしていたという。

緒方は「(指示が通じないのは)耳が悪いからではないか」と答えたり、理恵子さんを叱責する等してその都度取りなしていたが、同じようなことを何度か聞かされるうちに松永は妹を殺そうとしているのではないかと考えるようになった。

 

2月9日深夜、松永は「今から向こうに行く。“向こうに行く”とはどういうことか分かるだろう」と緒方に目配せした。「向こう」とは距離にして数百メートル離れた場所にある片野のマンションを指している。緒方は、松永のこれまでの理恵子さんに対する言動、また東篠崎のマンションは音が外部に漏れやすく、煮炊きするコンロがなく、ユニットバスで作業しにくいなど、殺害・解体には不向きであることから「殺害のための移動」を示唆しているのだと察した。

主也さんを呼び出して全員が片野の部屋へ移動し、到着すると松永は「理恵ちゃんは風呂場で寝とっていいよ」と言った。緒方、主也さん、彩ちゃんを台所に集めると、「俺は今から寝る。緒方家で話し合って結論を出しておけ」と言って3人を洗面所に押し込むと、「俺が起きるまでに終わっておけよ」と松永はドアを閉めた。

 

離れて暮らしていたため事情を呑み込めない主也さんに緒方は東篠崎での経緯を聞かせ、松永の指示の意味を確認し合った。

「“殺せ”っていうことよね」「そうでしょうね」

殺害は、静美さんを絞めた電気コードが処分するつもりで玄関に置いてあったため、再びそれを用いる手筈となった。それでも主也さんはすぐには納得できず、母親と生活していた彩ちゃんに「本当にお母さんは頭がおかしいと」と尋ねた。彩ちゃんはその日の夕方、松永の指示を巡って母親と激しい口論になったことを伝え、「たしかにお母さんは頭がおかしいみたい」と結論付け、緒方もそれに同意する説明を加えた。

主也さんは松永の出した指示の意味を呑み込みつつ、「優貴はお母さん子で懐いているから、殺されたらどんな思いがするだろう。母親がいなくなったことを優貴にどうやって説明すればいいんだろう」と嘆いた。緒方も本心では妹を殺害したかったわけではないため、それを聞いて何とか殺害を回避したいと思った。

松永の指示は例によって婉曲的だったため、「話し合いで殺すかどうか結論を出せ」ということか「起きるまでに殺しておけ」という意味なのか不明瞭だった。そこで主也さんは「もう一度尋ねてみたらどうか」と提案した。連絡役となる緒方は、寝ている松永をいちいち起こして「指示が分からない」等と言えば機嫌を損ねて自分が通電されると即座に思った。

しかしこの場で殺害を回避するには聞き直すほか手段はない。3人で話し合い、松永の責任逃れの性分から「“今すぐ殺せ”ということなのですか」という風に聞けば、「そんなこと言っていない」と返答することが予想され、時間稼ぎになると考えた。窮余の一策として、緒方は「これ以上の名案はないと思った」旨供述している。

 

しかし意を決して緒方が洗面所から出ようとすると、ドアノブが動かない。コードを取りに出た際には正常に動いたものがびくともせず、主也さんが力を込めても微動だにしない。元々その洗面所のドアは調子が悪く、同じようなことがしばしばあった。緒方は公判で「天に見放されたような気持ち」になったと話している。

すでに洗面所に押し込まれてから2、3時間近くが経過していた。松永が起き出して「終わって」いなければ、自分たちが通電されるという恐怖が蘇ってきた。もし一時的に殺害を回避できたとしてもいつかは自分たちが手を下さなければならなくなることには変わりなく、その分、ひどい虐待が続いて妹が苦しむのではないかと言い訳めいた考えが緒方の頭を錯綜した。沈黙を破って緒方がその思いを2人に告げると、主也さんが「それだったら自分がやります」と答えた。

父親はコードを手にして浴室のドアを開け、娘に横たわる母親の膝元を抑えるように指示した。首元にコードを掛けようとしゃがみ込むと、衰弱した妻は目を開き、夫が手にした電気コードに気付いた。

「かずちゃん、わたし、死ぬと」

「理恵子、すまんな」

細い首元にコードを交差させると、父親は両腕に力を込めて引っ張り、10歳の娘は母親の両膝を体重をかけて抑え込んだ。

3人の様子を洗面所側から見ていた緒方は、主也さんに任せるのは申し訳ないという思いと共に、目の前の家族に対して疎外感を感じていたという。姉は妹のつま先を持ち、「先に逝って、待ってて」と小さくつぶやいた。公判でも語られているが、緒方は松永に共謀を強いられる中で「どうせ自分自身も殺されるから」という気持ちが常に頭のどこかにあった。死に際の妹は声を出すことも脚を動かして抵抗することもなかったという。

主也さんは5分か10分程してコードを緩め、「とうとう嫁さんまで殺してしまった」と洗面所ですすり泣いた。彩ちゃんは、静江さんが亡くなった際に松永が「亡くなった人が迷うことがないように」と胸元で両手を組ませていたのを思い出し、母親の手を組ませた。その後、3人は無言のまま呆然と時が流れるのを待った。

 

30分程して、外側から洗面所のドアが開いた。松永である。男は浴室内を一瞥すると怪訝そうな表情で「なんてことをしたんだ」と言った。主也さんと緒方は驚いたように顔を見合わせた。緒方は「ひょっとしたら自分の勘違いだったのではないか」「主也さんに悪いことをした」と罪悪感に駆られた。

「なんでやる前に聞きに来なかったんだ」と説明を求められたため、緒方は逡巡して確認を取ろうとしたがドアが開かなかったことを伝えると、「そんなことだろうと思って、早めに目が覚めた。お前は運が悪いな」等と言った。

「運が悪い」とは、ドアの故障だけでなく、譽さんが死亡した際もたまたま緒方に通電の役目を替わったタイミングだったことを含んでいた。緒方はこの口ぶりから、やはり松永は殺害を指示していたと確信し、白々しいなと反感を抱いた。責任転嫁はいつものやり口だと知っていてもこのときばかりは緒方も強い嫌悪感を感じたと証言する。

和室で寝ていた少女が松永に起こされて洗面所に顔を出すと、「こいつら理恵ちゃんば殺しとるばい。関りにならん方がいい。行こう、行こう」などと言って再び部屋に帰した。少女によれば、こどもたちを寝かしつけて自分も寝ようとしたところ、松永も横で寝ていたように思うとし、松永は殺害には直接関与していなかったことを証言している。

緒方は松永に解体の相談をすると、「こんなところで解体されても困る」等と言う一方、「持ち出して外でばれたら俺が迷惑だ」等と言って、3人に解体の許可を求めるように仕向けた。また遺体の手が胸元で組まれているのを見咎め、「死後硬直が始まると外れなくなるからすぐにほどけ」と指示した。

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「お前たちが勝手にやったことだ。巻き添えにされてこっちは迷惑だ」と松永は「予期しなかった」殺害を口では咎めつつも、3人に懲罰を加えることはなかった。

明るい時間帯は外出を禁じたため、2月10日夜になってから解体道具を購入。解体の最中も松永は「急がないと通電するぞ」と言って主也さんの二の腕にクリップを付け、電気コードを首に巻かせて作業させた。

普段は食パンなどを与えられていたが作業中の食事はクッキーやコーラ、ジュースに一時切り替わることもあった。粉々にした骨片や液状にした肉片を詰めるため、大量のクッキー缶やペットボトルが必要とされたからである。

 

裁判では、少女が主に別宅で過ごしており経緯の把握が困難だったこと、殺害・解体時はほぼ別室にいたことなどから、概ね緒方の供述が採用された。松永は理恵子さん殺害を示唆するような発言は一切しておらず、寝て起きたら事が終わっており、後に主也さんから「緒方に指示されて殺害した」と聞かされたと述べた。

しかし、少女の断片的供述と緒方の証言が合致することや、静美さん殺害における松永の指導的立場やこれまでの言い逃れと責任転嫁、相手に婉曲的に指示する“処世術”と照らし合わせても、緒方の証言は大きく矛盾しないものとされた。

 

公判で松永は、緒方の母・静美さんのみならず妹・理恵子さんにも迫られて、97年に(あるいは学生時代にも)肉体関係を持ったと証言している。

また緒方によれば、松永は理恵子さんを寵愛するようなことはなかったが、98年頃には「誘われたが関係を持たなかった」「ふくよかな方が好みだからしなかった」等と男女関係を否定する発言を行っていた。だが緒方の経験上、松永には誤魔化すためにこちらが気付いていないことまで口火を切って話し出す癖があり、これは裏返しに理恵子さんと「肉体関係があった」ことを示す発言と認識していた。

 緒方はトイレの監視役だったため、生理用ナプキンを渡すのもその役割のひとつだったが、夫婦が不仲となる時期から死亡するまでの間、理恵子さんに生理がなかったという。松永は理恵子さんの生理について気に掛けたり、生理がないと報告すると「急に痩せたり体調変化で止まったりすることもある」と自分を納得させるように話すこともあった。

同居当時は気付いていなかったが、後にして思えば理恵子さんへの集中的な陰部への通電は流産させるため、殺害を急いだのは妊娠発覚を免れるためだったのではないかとして、理恵子さんが松永の子どもを宿していたとの見方を緒方は述べている。

 

■ビール

理恵子さんがいなくなった2月下旬から“標的”とされたのは主也さんであった。

あるとき階下の住人が「うちの部屋の前の通路に大量の小便をして悪臭がひどい。足跡がこの部屋まで続いていた」と苦情を言いに来る出来事があった。応対した緒方は機転を利かせ、長男を引っ叩いて謝罪してその場を収めた。報告を受けた松永は激怒して、主也さんと彩ちゃんに通電して「お前たちのどちらかがペットボトルの小便を捨てたんだろう」と追及し、数日後に主也さんがそれを認めた。

小便の溜まったペットボトルを流しに行くのは緒方の役目だった。緒方いわく、ペットボトルが一杯になってしまい自分で中味を捨てるしかない状況だったが、勝手にトイレを使えば音で松永が目を覚まして怒られるし、外出すればいつ見つかるかも分からないため遠くに捨てに行く余裕もないと考え、慌ててマンション通路に流さざるをえなかったのではないかと推量している。

主也さんもそれまでの家族と同様に、陰部を含む身体各部への通電・虐待が繰り返され、衣食住のあらゆる場面、外出、姿勢などすべてに過酷な制約が課された。かつてはがっちりしていた体格も、日に一度マヨネーズを塗った食パン6枚と水だけを与えられる生活になって劇的に痩せ衰えた。浴室内で生活させられ、連日立たされ続けるせいで脚はむくみ、太腿の肉は削げ落ちてふくらはぎと同じくらいの太さになり、膝が異常に大きく見えた。

 

主也さんは時間ごとに車を別のパーキングへ移動させる役目を命じられていた。しかし3月下旬、歩行が困難な状態になり、どうにか車の移動を終えたものの、帰ってから「きついので横にならせてもらえませんか」と松永に申し出た。同居が始まってから約半年ほどの間、主也さんは弱音らしい弱音を吐いたことはなく、余程の変調をきたしていたと考えられる。

ときを同じくして嘔吐と下痢も続いていた。松永は勝手にトイレを使うことを許可しなかったため、ビニル袋に吐いたものを緒方がトイレに流す役割だった。パンの枚数は4枚に減らされていたが、吐き気で時間内に食べきれないと容赦なく通電にあった。下痢がひどくなると大人用おむつを履かせたが、漏らせば「おむつがもったいない」と言って通電が加えられ、おむつに付いた大便を食べさせることも何度かあった。

 

しかし4月に入ると主也さんの下痢や嘔吐の症状はやや落ち着きを見せた。そのため、7日、松永は大分県中津市に住む愛人に会いに行く際の車の運転を主也さんに命じた。依然具合は悪そうではあったが「大丈夫です」と言い、約2時間ほどの道程を運転した。

松永が逢瀬の間、主也さんと監視役の緒方と次男の3人は家族を装い、飲食店で夕食を取りながら待機した。主也さんは丼ものとミニうどんのセットを時間をかけて完食。食後も飲食店に残っていたが、松永から「もう少し食べていていい」と連絡が入る。主也さんはメンチカツを追加注文し、残さず食べた。その後、4人はマンションに帰宅し、主也さんはいつも通り浴室のすのこの上で横になった。

 

翌朝、彩ちゃんが「お父さんが昨夜これだけ吐きました」と吐瀉物の入ったビニル袋を3つ差し出した。緒方が浴室を覗くと、「寝ていい」と言われたとき以外はいつも直立していた主也さんが、そのときは横になったまま上半身を少し持ち上げるだけだった。心配して「大丈夫ね」と安否を尋ねたが返事はなく、代わって彩ちゃんが「ずっと吐いてるんです。様子が変なんです」と訴えた。

報告を受けた松永は「欲張って脂ものなんて食べるから具合が悪くなるんだ」と非難し、市販の胃腸薬を1日3回と水道水を与えるよう緒方に指示したが、主也さんはいずれも口にして30分もすると全て吐き出した。

翌10日には自力で上半身を起こすこともできないほど衰弱し、彩ちゃんが顔の横にビニル袋を出す役割になった。「どうせ吐くなら与えなくていい」と松永は薬の服用をやめさせ、与えられた食パンや栄養ドリンクは主也さん自ら断った。通常なら拒否などすれば通電制裁の対象とされるところだが、このときは松永も「無理に食べさせないほうがいいだろう」と許可した。

それ以前の体調不良の症状は一進一退だったため、9日朝の嘔吐もいずれ良くなるだろうと楽観視していた、と緒方は語っている。「でも翌日には、病院に連れて行かない場合の死の危険を感じました」と述べ、母・静美さんの入院を拒否されていた前例から病院には連れていけないものと考え、自らの未必の殺意を認めている。

その後も主也さんは水や栄養ドリンクを飲んでもその度にすぐに吐くを繰り返した。浴室が静かになると松永も「もう死んでるんじゃないか」等と口にした。

13日、松永はオールP(カフェイン等を主成分とする眠気覚まし・強壮ドリンク)と缶ビールを与え、世話をしていた彩ちゃんは「オールPは全部飲んだ」と緒方に報告。それを聞いた松永は「水や他の商品は吐くのにオールPは吐かんのやけんな」と揶揄した。その後、松永は洗面所から空のビール缶を持ってきて「ビールも飲んだぞ」と緒方に言った。尚、ビールを能動的に飲んだのかどうかは誰も確認していない。

それから1時間か90分ほどして緒方が浴室を覗くと、彩ちゃんが「お父さんが死んだみたいです」「30分くらい前に気付いたら息をしていませんでした」と無表情のまま小声で言った。腹を抱えるように体を丸めて横たわった姿勢で眠ったような穏やかな表情で息を引き取っており、ビールなどを吐いた形跡はなかった。報告を受けた松永は「でもビールも飲んだから、これで本望だろう」と自分に言い聞かせるように言った。

少女の証言では、主也さんが亡くなる前、洗面所にいた松永がビールを持ってくるよう命じており、主也さんの死後に「死ぬと思ったけん、最期にビールを飲ませてやった」と語っていた、と述べている。事実であれば、松永にも主也さんが生命の危機にあると認識していたこと、病院に連れていって保護すべき作為義務を看過したことを示しており、松永にも未必の殺意があったことになる。

松永は、その日のうちに緒方と彩ちゃんに解体作業を開始させた。開腹すると、少し緑がかった粘着性のあるタールのような液体が腹部全体に広がり、腐敗臭のような重い臭いがした。2人での作業は難航し、松永はトイレの度に状況確認に顔を出し、断片が大きすぎると指摘したり、「急げ。電気を通すぞ」と作業を急がせたりした。 

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1997年6月に片野のマンションに通い始める以前の主也さんの健康状態は概ね良好であった。しかし7月には「食べると腹が痛い。食欲はあるが吐き気がする。全身に倦怠感がある」等の症状を訴えて病院で診察を受け、40日間ほどの間に何度も通院している。血液検査の結果、肝機能に異常あり、中性脂肪が高く、飲酒によるアルコール性慢性肝炎と診断され、内服薬の処方や点滴を受けていた。点滴の際には5分も経たずにいびきをかいて眠った。だが8月末を最後に通院しなくなっていた。 

 司法鑑定に当たった医師の所見では、約半年の間、主也さんは著しい低栄養状態に置かれたため「高度の飢餓状態」にあったとされる。また虐待による過度のストレス、免疫力の低下、肝機能障害から(閉塞や穿孔といった)何らかの胃腸管障害が生じ、体内の消化吸収や食物運搬が不能となり、反射的に嘔吐や下痢を引き起こしていたと考えられ、死因を「胃腸管障害による腹膜炎」と推認した。

通常、腹膜炎には激しい痛みを伴うものの、「弱音を吐かない」主也さんの我慢強い性格や痛みを訴えたところで更なる虐待を受ける可能性が想像されたことから3月下旬まで口に出せなかった可能性は高い。また半年もの間ずっと慢性的な腹痛が続いていたことで更なる異変に対して鈍くなっていた、あるいは栄養失調等の影響で神経伝達に異常が生じて痛みを感じづらくなっていた可能性も言及されている。

 

■家族

主也さんの遺体の解体は4月末ごろまで続いた。5月に入ると、松永は緒方家の遺児2人の今後について思案を始め、「緒方家の問題だろう。お前が何とかしろ」と緒方に言うようになった。松永にとってこどもたちは大人たちを監禁支配しやすくするための“枷”であり道具でしかなかった。その大人たちがいなくなった今、そのまま養育を続ける意義はなくなる。

緒方の中では2人は聞き訳がよく手がかからないため、面倒を見てもいいという考えもあった。だが松永は「手許にいると生活費がかかる」と言い、「緒方家(親戚)に帰してはどうか」と提案したこともあったが、「やったことを喋ったらどうするんだ」「こどもだけ帰して他の大人たちが帰らなければ追及される。他言しない保証が持てるのか」と否定されていた。

 

5月10日頃、「優貴くんは殺害を直接見た訳ではないから解放しても大丈夫ではないか」と緒方が言うと、松永はようやく本音を漏らす。「今は知らないと言っても彩が事の経緯を告げれば、復讐しようとするかもしれない。どちらかを生かすにはどちらかを殺さなければならない」と、源平合戦で平家がこどもに情けをかけて逃したものの後々義経に復讐された例に挙げ、「早めに口封じしなければならない」と申し向けた。

緒方は松永の復讐される話を真に受けた訳ではなかったが、自分が家族を巻き込んだ負い目、2人を遺児にしてしまった責任、自分に金策がないことから反論ができず、「そうするしかないでしょうね」と同意した。法廷では「松永に反論する言葉を持っていなかった。優貴くんを助ける方法ではなく、殺害を自分自身に納得させることにしか頭が働きませんでした」と打ち明けている。

 

松永は緒方に優貴くん殺害を納得させると、彩ちゃんの説得を始めた。

「これからどうするね。緒方の家に帰るのか」

彩ちゃんは2人で緒方の家に帰り、祖父母や両親については他言しないことを約束した。松永は親族からこれまでの所在や何をしていたのかなど聞かれたらどうやって答えるのかと執拗に次々と問い詰めていった。

「彩ちゃんが何も言わなくても優貴くんは大丈夫か。何も言わないと責任が持てるのか」

当初は毅然と「何も言わせません」と答えた彩ちゃんだったが、「何も知らないからこそ正直に答えてしまうこともある」「優貴くんが何か口走って警察が動いたら、彩ちゃんも捕まってしまうよ」「俺にとっても不利益が生じる。その責任を彩ちゃんは持てるのか」と追いつめられ、沈黙してしまった。

「もし彩ちゃんが生きていたいんだったら、優貴くんを殺した方がいいんじゃないか」

「お父さんお母さんもいないし、生きていても可哀想じゃないか。優貴くんだってお母さんに懐いていたんだし、お母さんの所に連れて行ってあげた方がいいんじゃないか」 

 何も言えなくなった10歳の女児は、最後に「そうします」と男に同意した。

 

事前に解体道具を多めに購入して準備を整え、5月17日午後、松永は二人に決行を指示した。緒方は静美さん、理恵子さんのときと同様に電気コードを用いて自分が首を絞めるといった。しかし松永は頑として「2人で絞めろ」と命じ、ぐったりしてからも更に念を入れて絞めること、絞め終わったら心音で死亡を確認することを指示した。さらにこのときは少女にも現場に立ち会うように命じている。

姉は弟を台所に呼び寄せ、「優貴、お母さんに会いたいね」と語りかけると、弟は「うん」と言って頷いた。姉は弟をその場に寝かせると「お母さんの所に連れて行ってあげるね」と言って、首の下に電気コードを通した。それまで殺害の場面を目にしたことがなかった5歳の男児は不思議そうな顔で姉の動作を見ていた。

左右に姉と緒方がしゃがみ、コードの先端が交わるように受け渡し、足元には少女が覆いかぶさった。緒方は、男児になるべく不安を与えないように急がなければという気持ちだったと振り返る。両側からコードが引っぱられると、男児は足をばたつかせたが、やがて動かなくなった。姉と緒方が心音が停止していることを確認し、松永に報告した。このとき緒方は松永の言を信じ、これで彩ちゃんは助かる、これ以上身内を殺さずに済むと思った。

 

少女はしばらく子守り役のため和室で生活していたが、優貴くんの解体作業が終わると松永は「もう甘くしない」と追い出し、彩ちゃんと一緒に台所で眠るように命じた。

少女は基本的に緒方家の人間と親しくすることはなかったが、彩ちゃんとは年齢が近かったこともあって束の間の親交が芽生えたと話す。97年夏に訪れた当初は、一緒に部屋の掃除をしながら当時の人気アイドルグループの歌を唄ったり、テレビを見ながら好きなバンドの話をしたり、みんな一緒に和室で眠りにつくことも許されていた。父親を失い、孤独と恐怖を深めるなかでささやかな救いのひとときであったと想像される。

松永は連日彩ちゃんに通電して「告げ口するつもりじゃないか」と責めたて、「何も言いません」と訴える日々が続いていた。緒方はそれを口止めのための“再教育”だと受け止めていた。少女もこの時期は通電される機会が増えていたが、居眠りやおねしょ、返事をしないといった細かなことで彩ちゃんに対する通電の方が激しかったと証言する。

緒方によれば、当時松永は彩ちゃんを頻繁に洗面所に連れ込み、一日に何回も、毎回一時間以上かけて何かを言い聞かせるようになった。会話の内容は分からなかったが、緒方家に帰した時のことを打ち合わせているのだと緒方は思っていた。

10歳の少女はすでにがりがりに痩せ細り、2歳児の次男の紙おむつが入るほどであったが、松永はそれまでの食パン4枚の食事をさらに減らすよう緒方に指示した。理由を尋ねると「太っていたら大変だろ」とだけ答えた。

緒方は自分の希望的観測は誤りで、優貴くんのときに解体道具を多めに購入したのは松永が“次”を見越していたからなのだと察した。 

食事を減らしてから数日後、洗面所から出てきた松永は「彩ちゃんもそうすると言ってるから」と一緒にいた彩ちゃんに同意を求めた。俯いたまま小さく頷いた。

彩も“死にたい”と言っている

 緒方は通電と詐術によって催眠的に自死を受け入れるように誘導していたのではないかと推測している。またこのときには緒方も殺害を止めさせようとはしなかった。自分自身が生きていてもつらいだけだし早く殺してほしい願望をずっと抱いてきたことから、彩ちゃんがそう思ったのだとしても仕方がない、と思ったという。実行を任されることになる「自分への言い訳」ではなく本心だったと筆者は思う。

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 98年6月、緒方と少女に彩ちゃんの殺害が命じられた。姉は3週間前に弟が息を引き取った台所の床に自ら横になり、黙って電気コードが首に巻きつけられるのを受け入れた。緒方と少女は左右からコードを引っ張ったが、少女の力が弱かったため、頭が徐々に緒方のほうにずれてきた。「ちゃんと引っ張らんね!」と緒方が叱りつけ、少女も精いっぱいの力でコードを引っ張り続けた。目は閉じたまま暴れもせず、眠ったように「白くてきれいな顔」をしていた。遺体を浴室に移してから次第を報告すると、松永は解体前にこどもたちを連れて別のマンションへと移動した。

緒方は少女とともに電気コードで「絞殺」したと供述したが、少女はやや異なる証言を行った。その日、少女は別のマンションに移動するために荷造りや運び出しを行っていた。台所で松永と緒方が彩ちゃんへの通電を始め、少女は移動作業中にその様子を見たという。太腿に通電を受けた彩ちゃんはひくひくとしゃっくりをするように音を立てて痙攣を始めた。30分ほどして音がしなくなり、目を閉じて全然動かなくなったので「死んじゃったかもしれない」と思った、というのである。

松永は「息を吹き返すかもしれんけ見とけよ」と緒方に言い残してマンションを移動し、少女に「あんたも逃げたら(緒方のように)一家全滅になるよ」と脅した。少女は祖父母のことを思って恐怖した。片野のマンションに戻るよう指示されたが解体を手伝わされると思って気が重かった、とそのときの心境を振り返る。部屋では緒方が遺体の顔に白い布を被せて待っており、首に巻きつけた紐を一緒に引っ張っるように命じられた、と話した。二人の話に齟齬があった理由は分からないが、解体についての内容では再び一致を見せた。

松永は解体現場のマンションには近づかなかったが、頻繁に電話を掛けてきて「急がないと(暑さで)腐る。とにかく急げ」と命じたり、「なんで俺が子どもたちの面倒を見なくてはならないんだ、お前の子どもだろ」と緒方に当たったりした。

 

緒方家から収奪した資金もやがて底を尽くと、松永は結婚詐欺を再開。緒方は子どもを人質に預かり、少女が幼子の面倒を見る生活が続けられた。やがて少女が中学を終え、祖父母の許へと脱走する日まで。

 

■判決 

2005年3月2日の論告求刑で検察側は「善悪の箍(たが)が外れた発案者・松永と盲目的に指示に従う実行者・緒方は“車輪の両輪”」と表現し、両人に死刑を求めた。(これに対して佐木氏は著書の中で両被告の関係性を「鞭を振るう御者と走る馬」と表現している。)

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同年9月28日、福岡地方裁判所小倉支部(若宮利信裁判長)で開かれた一審判決では、2人に死刑が言い渡された。少女の父親に対する殺人罪、Hさんに対する監禁致傷、強盗、詐欺罪はすべて認められた。緒方一家6人については全て殺人罪が求刑されていたが、上述の通り、緒方の父・誉さんについては傷害致死罪とし、母・静美さん、妹・理恵子さん、義弟・主也さん、甥・優貴くん、姪・彩ちゃんの5人については共謀による殺人罪を認定。一部の犯行には緒方一家も加担させて行われたものとした。

松永を「首謀者」として「責任を全て緒方被告らに押し付け、反省の態度もない。残虐性が顕著で嗜好性さえ疑われ、矯正の見通しは立たない」と断じ、緒方を虐待の被害者でもあったこと、謝罪の気持ちを示して自白し、真相解明に寄与したことを認めた。しかし、松永に完全に同調し、主体的・積極的に加担しており、矯正不可能とはいえないが情状をもってしても死罪に余りあるほどにその罪責は並外れて大きいと説明。

「不自然で事実を歪曲している」として供述のほとんどを退けられたかたちの松永は判決を不服とし、即日控訴。緒方本人は死刑判決を受け入れるつもりでいたが、事件の核心である虐待支配の構造や心理操作・影響の追究を求めた弁護団に説得され、10月11日付で控訴に踏み切った。

 

 控訴審では、一審で罪を認めていた緒方側が「心神耗弱による無罪」を主張。松永が緒方に対して行ったDVについても取り上げられ、緒方の心理鑑定を行った精神科医中谷陽二氏が出廷し、被虐待者としての心理状態・心神耗弱が詳らかにされ、DV被害者支援の専門家・石本宗子氏によりDV被害者の受ける心理的抑圧の様子や、合理的判断が困難となり犯罪に加担することもありうることが示された。

豊田氏によれば、これは緒方が「一切の罪を認めない」と言いだしたわけではなく、弁護団側が犯行実態のさらなる究明(なぜ家族同士で殺し合わなければならなかったのか)と被虐待者の「責任能力を争点とするための狙いだったと推測している。これにより、なぜ緒方たちには松永の犯行を止められなかったのか、逃げ出せなかったのか、抵抗できなかったのか、という被害者心理の核心部にまで迫ることができた。

2007年9月26日、福岡高裁(虎井寧夫裁判長・やすお)は松永の控訴を棄却。2人に死刑を言い渡した1審での判決を破棄し、「虐待により強い支配や影響を受け、正常な判断力がある程度低下していた」ことを認定しつつ、善悪の判断能力に問題はなかったとして緒方に無期懲役の判決を下した。松永を恐れて追従的に関与し、事件後は「真摯に反省し人間性を回復している様子」が窺え、情状は松永とは格段の差があるものとして、獄中での贖罪の機会を与えた。

10月9日、福岡高等検察庁は緒方の無期懲役判決について、責任能力と共同正犯を認めながらの死刑回避は判例違反だとして最高裁への上告を行った。高井新二次席検事は「7名の命を奪う殺害行為の中心人物であり、松永被告との関係を優先し、幼い子どもらの死体を切り刻んだ行為は著しく人道に反する」と指摘し、虐待被害は死刑回避の理由にはならないとした。

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2011年12月12日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)はこれまで通りの主張を繰り返した松永の上告を棄却し、死刑が確定。27歳になった監禁されていた元少女は「死刑判決だけでは許せない。みんなが受けた苦しみと同じような苦しみを感じて、刑を受けて罪を償ってほしい」とコメントを発表した。

検察側からの緒方に対する上告についても同日付で棄却が決定。「被告自身も異常な虐待を受けて正常な判断能力が低下していた」「証拠が極めて乏しい事件を自白し、事案解明に大きく寄与した」などとし、「量刑が甚だしく不当とはいえない」として検察側の上告を退け、無期懲役が確定した。



■所感

筆者は、松永を虐待者、あるいは姑息な詐欺師だと捉えている。その供述調書には、自分で責任を負わないために直接手を下さない、他人にやらせてその旨味だけを食い尽くす、という男の“人生のポリシー”が述べられていた。既述のように松永の目的は金銭の剥奪に始まり、発覚や逃走のリスクから根こそぎ収奪して金主を殺害・抹消した方が割に合うのではないか(いざというときは緒方に責任を被せればよい)と方向性をシフトさせていったようにも見える。

暴力団からは逃げ回り、騙せると踏んだ相手は金づるにした挙句、骨の髄まで貪り尽くすように加虐性欲の餌食にした。結果として猟奇殺人者にしてしまったのは、虐待者・詐欺師の段階で逮捕できなかった、野放しにしてしまった結果と言えなくもない。だがたとえ若い時分に逮捕されて数年服役したとて男の加虐性向や支配欲といった歪んだ性衝動、詐術による責任転嫁のやりくちが「更生」できたかどうかは疑わしい。

警察の目をくらまし、被害者の心理を掌握する自らの狡猾さに溺れ、殺人の事実すらなきものにしようとした小心者の詐欺師は破滅への道を突き進んでいった。男は逮捕から免れるスリルを、検察との「死刑」を巡る攻防を、ゲームを攻略するかのように心底楽しんでいたのではなかろうか。どのような心情であったにせよ、被害者を手玉に取り、人道を著しく逸脱した諸々の犯行は到底許されるものではない。

よく比較される尼崎連続殺人死体遺棄事件もそうだが、被害を最小限に抑えるためには初期の段階で警察への通報や法律家への相談を行う以外になく、どうすれば発生を防ぐことができるかは社会に突き付けられた課題である。

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学生時代、“腕っぷし”で「支配者」にはなれなかった松永は、自らの力を自分より弱い相手や女性たちを言いなりにさせることに心血を注ぎ、自分の“ワールド”を築こうとした。ワールド時代に巡り合った電気ショックは使い勝手の良い拷問器具であった。殴る蹴るといった暴行よりも省エネで、即座に恐怖を植え付けやすいとすぐに感じ取った。

「通電」による精神的影響は人体実験することもできず詳しい研究が進んでいるとはいえないものの、物理的暴力とは異なる刺激をより直接的に脳に伝達することから恐怖の植え付けなど一層深刻な影響を及ぼすと考えられる(緒方は顔面への通電で「思考判断が奪われた」と述べている)。ラットの恐怖条件付け実験のごとく、「電気通すぞ」と言えばワールドの従業員たちは恐れおののいて命令に従った。

松永らは物証に電気コードを残してはいたが、刃物や銃火器、鈍器と違い、被害者に火傷の痕跡はできるが血飛沫を飛ばすこともなく、「凶器」となった証拠を残しにくい点も都合がよいと考えていたかもしれない。

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監禁下での心理については、ミルグラム実験スタンフォード監獄実験を例に挙げるまでもなく、過酷な環境下に置かれると自己保存のための防衛反応によって倫理や道義に反した状況判断さえも行うことは広く知られている(いわゆるストックホルム症候群のような広義のセルフ・マインドコントロール状態といえるかもしれない)。 

緒方自身、松永の命令を聞き逃したことを感づかれると懲罰を受けるので、命令を推量して手加減したと思われないように、相手により強烈な必要以上の暴力を課すこともあったと話している。被虐待者には社会通念や合理的判断などよりも「どうすれば制裁を回避できるか」「危害を免れるか」が最優先され、結果として“庇護者(加虐者)”の意思を忖度して動くようになる。

 状況は異なるが、以下のような他の監禁事件の被害者たちも様々な「見えない枷」を負わされ、意識や行動規範の変容が見て取れる。被虐待下や生命の危機が迫る極限下において、それまで通り平静を保てる人間などいないのである。

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さらに目的や規模こそ異なるが、集団の相互監視や身内の遺体処理などの非人道的な管理手法はナチス下での強制収容所のあり方を想起させる。松永は過去の犯罪や集団心理にも通じていたことから“下敷き”にしたことも考えられる。

1930年代末からヨーロッパ各地でユダヤ人らの強制収容が活発化すると、親衛隊(SS)の人員だけで収容所全体を管理しきれなくなった。そこで親衛隊人員の代役として囚人の中からカポKapo(班長)を抜擢し、使役の監視など囚人管理を代行させた(囚人機能システム)。

他の囚人からすればカポは「SSの犬」であり裏切者として恨みを買った。他の囚人とは別の居住区を割り当てられ、機能的人材と見なされれば食事や煙草、衣服といった特権を与えられたため、カポは評価を上げることに心血を注いだ。冷酷に任務を遂行し成績を上げれば武装親衛隊に取り立てられる者さえいた。処刑執行の業務こそ任されてはいなかったが、カポとなった犯罪者らはこぞって暴力的に振舞ったため、ときに死者さえ出すこともあった。

またゾンダーコマンド (特命部隊)に配置された囚人は、処刑された囚人の遺体処理を専門業務とさせられた。ガス室の遺体を運び出す係、毛を剥ぎ取る係、歯を抜く係、焼却係、遺骨を砕く係、灰を川に捨てる係…と分業されていた。彼らは大量虐殺を認識している「機密保持者」だったことから他の囚人たちから隔離され特権が与えられたが、中には家族や同胞たちの処理を強制されることもあり、自殺する以外に任務から離れる方法はなかった。

(※余談。公的文書こそ残されていないものの、ゾンダーコマンドになった囚人自らが地中に埋めるなどして残した手記などはアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所博物館に収められている。余談にはなるが、ネメシュ・ラースロー監督によるゾンダーコマンドを題材にしたハンガリー映画サウルの息子』(2015)は、主人公の周囲で何が起きているのかを映像的・音響的に極限的心理を表現しており、「ホロコーストドラマの新形態」として高い評価を得ている。)

 

緒方の無期懲役については、「追従的立場」とはいえ全事件に関与した中心的人物と見るか、松永による「精神支配」を受け続けた被害者性を重視するか、によって意見が分かれるところだとは思う。 

緒方の行為自体は許されざるものには違いなく、減軽ありきの、いわゆる司法取引的な誘導で証言したという見方をする人もいるかもしれない。だが仮に緒方ひとりを野に放ったとて再犯性は非常に低いと推量される(横領詐欺くらい考えそうなものだが、金策尽きて湯布院で職探しするような人間である)。いくつかの監禁事件と比較しても、松永によるマインドコントロールは「犯罪史上まれにみる冷酷、残忍な」手法であり、こどもも人質にとられた状況にあっては強烈な拘束力を持っていたことは間違いない。

裁判所が人間性の回復を十分に慮る場所でなければ、機械に裁かせればよいのであって、「死刑回避」というよりも松永と同じ「極刑」に躊躇せざるを得ない事情を酌んでの量刑判断と理解される(たとえば死罪の中にも等級があったならば松永より等級の低い死刑にされたかもしれない)。

DV被害によってパートナーに従属化して犯罪に加担する事件や、いじめの中心人物からの報復を恐れて協力したり黙認されるケースは今日でも少なくない。2001年10月にいわゆる DV防止法が施行されたタイミングということもあり被虐待者に対する量刑判断を特に重要視したとも考えられるが、前代未聞の犯行、その後にも大きな影響を与える判例であることを踏まえれば最善の判決だったと私は思う。 

 

 

参考

■小野一光氏による文春連載記事。

「5分以内に爪を剥げ」監禁少女の脱走に激高した男はラジオペンチを手渡した | 文春オンライン

 

連続殺人犯 (文春文庫)

連続殺人犯 (文春文庫)

 

■豊田正義氏による渾身の犯罪ノンフィクション。

■Electrical Abuse and Torture: Forensic Perspectives, Ryan Blumenthal and Ian McKechnie,2017 https://www.researchgate.net/publication/319402365_Electrical_Abuse_and_Torture_Forensic_Perspectives

■一審判例https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/111/008111_hanrei.pdf

北九州連続監禁、緒方被告の無期懲役確定へ: 日本経済新聞

北九州連続監禁殺人事件(1/2)

2002(平成14)年に発覚した福岡県北九州市の連続監禁殺人事件について記す。

当初こそ少女監禁事件と報じられるも、犯人の男女が逮捕されると、通電による拷問とマインド・コントロールを用いた恐るべき犯行手段、少なくとも7人の死者を含む甚大な被害の実態が明らかにされ、そのおぞましさにテレビ報道が控えられたとも言われる事件である。

 

 前半では事件発覚からの報道の流れを俯瞰しつつ、主犯とされた男女の略歴を振り返り、第一の殺人を取り上げ、後半では残る殺害やその犯行の性質について見ていきたい。

 

 

■少女の告白

2002(平成14)年、1月30日未明、北九州市門司区の祖父母の許へ孫娘から一本の電話が入る。

「朝の5時にそっちに行く」

突然のことに老夫婦は戸惑ったが、怯えた様子の少女を二人は黙って受け入れた。しばらくぶりに会った孫娘の顔や身体には複数の痣があった。数日して落ち着いてから事情を尋ねると、少女は「父親に叩かれた」と明かした。

 

少女が小学生の頃に、父親は祖父母に何度か金を無心しに来たことがあった。そのとき仕事でトラブルになった話をして以来、すっかり疎遠になり7年程は会っていなかった。そもそも父親は高校卒業後に家を出て以来、祖父母(少女の父親にとっては、実の母親と再婚相手に当たる)とまともに連絡を取り合うことはなかった。はじめて孫の顔を見せに来たときにはすでに離婚しており、祖父母は“少女の母親”と顔を合わせたことさえなかった。

祖母の方は、その後も時々呼び出されては孫娘と会って小遣いを渡しており、そのとき聞かされる「神戸に仕事に行っている」「小倉でパチンコをしている」といった少女の話しぶりで、息子もどうにかやっているのだろうと信じていた。

少女は回復して落ち着きを取り戻すと、「バイトをしたい」と言いだし、飲食店の面接を受けて合格。親しい伯母に頼んで銀行口座を開設してもらい、祖父母に「高校にも行きたい」とも話していた。

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2月14日、少女の伯母が老夫婦の許を訪れた。するとその晩、見知らぬ男が突如来訪し、驚く老夫婦に土下座して非礼を詫びると、「少女を迎えに来た」と言って事情を説明し始めた。

少女の父親の知人・ミヤザキと名乗るその男は、多忙な父親に頼まれて、しばらく素行不良な少女の面倒を見るために預かっているのだと話した。さらに男は改まって、少女の伯母と親密な交際をしているのでこの場を借りて御挨拶をさせてほしい、と婚約を申し出た。

男の丁寧な態度と流暢な喋りに気を許した老夫婦は、息子と孫娘が世話になり、先だって離婚したばかりの娘までもが懇意にしている人物だと信じ込み、食事を支度して話を聞くことになった。

 

少女は再び怯えた様子でふさぎ込み、ミヤザキの“おじちゃん”についていくことを嫌がったが、男は「あなたたちが思っているような子ではない」と祖父母に少女の悪事を吹き込んで不安を煽り、「父親が怖いのでしょう」「18歳になったら自由にすればいいから」と取り成した。心配する祖父母に「明夜には引き渡す」と約束して説き伏せ、泣き出した少女を強引に連れて帰った。

しかし去り際に孫娘から渡された走り書きのメモには「おじちゃんの話はぜんぶうそ かならずむかえに来て」と書かれていた。

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翌日、ミヤザキは都合が悪くなったとして、少女の引き渡しを拒否。2月20日、孫娘から再び電話があり、「もう会いたくない」「余計なことはするな」「健康保険の手続きを取り消せ」と祖父母への態度を豹変させた。どういう風の吹き回しかと祖母は立腹したが、話しても埒が明かない。

つい先日、少女に頼まれて健康保険の加入手続きをしたばかりでとても喜んでいたのにこれはおかしい、と祖父は察した。電話の受け答えにも違和感があり、だれかに横から指示されているように感じられた。

 

半月が経った3月5日0時頃、またも少女から祖父母の許へ電話が入り、「明日の朝、また出て行く。5時頃に電話する」と言って切れた。早朝、呼び出された仏具店へ車を飛ばすと、身を潜めていた少女が泣きながら駆け寄ってきた。

祖父は祖母を家に帰し、孫娘とふたりきりでドライブに出掛けた。黙って俯いたままの孫娘の心中には何か言いたいことがあるに違いなく、祖父も今度ばかりは実際のところ父娘に何が起きているのかを知らねばならないと心に決めていた。静かな場所で車を停め、思い切って孫娘に“父親の安否”を投げかけた。

すると黙り込んでいた少女の目にみるみる涙が溢れ、「もうこの世にはおらん」と堰を切ったように泣き出して語り始めたのだった。彼女が肌身離さず持ってきたビニールバッグの中には、両親の結婚式の写真と、赤ん坊だった頃の自分を抱く父親の写真が入っていた。

 

■逮捕

少女は、それまで先のミヤザキと、モリという女に7年近くもの間、監禁状態に置かれ、電気コードを当てられて虐待されていたことを打ち明けた。彼女が小学5年生のとき、父親は死に、遺体は解体して、フェリーから海に捨てたと話した。共犯を認める誓約書を書かされ、「ばれたらお前も死刑だ」と脅され、警察にも学校にもずっと通報できなかった。

警察もすぐには信じられないという様子だったが、彼女の全身につけられた生々しい虐待の痕跡、涙ながらの訴えとその具体的な内容は信憑性があるものに思われた。被害届を受けた小倉北署は児童相談所へ保護を要請。捜査員は事情聴取と共に事実確認に奔走した。

 

少女が2度目の脱出をしたその日から祖父母宅にはミヤザキとモリから脅迫電話が繰り返され、翌日には家に押しかけて少女を返すように迫った。しかし老夫婦はシラを切り通し、嫌がらせに耐えながら押し問答を続けた。 

3月7日、ミヤザキとモリに対して、少女に対する(祖父母宅から連れ去って以降の)約20日間の監禁・傷害の容疑で逮捕状が下りた。警察は朝から祖父母宅に張り込みを開始。

モリから祖父母の許に電話が入り、少女を解放することを認める代わりにこれまでの養育費と迷惑料として500万円を要求した。交渉の名目でミヤザキとモリを祖父母宅に呼び出すと、21時頃、2人が現れたところを待ち伏せていた捜査員らが緊急逮捕した。

 

翌日の逮捕報道は、「男女2人に監禁・虐待された少女を保護」「自分で足の爪を剥がせと命令」「父親の知人だった男女2人は小学5年生頃から父娘と同居するようになった」「少女は2人に連れられて小倉北区内を数回転居」といった内容で、男女は氏名を含めて黙秘しており、父親は「行方不明」とされた。

 

2000年に新潟で起きた少女に対する長期監禁事件(佐藤宣行)もまだ記憶に新しかったことから、当初の報道では“少女への性的搾取”や“人身売買”を目的とした誘拐監禁かとも思われた。 

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■初期報道

逮捕当初の報道は、主な「監禁」先とされた小倉北区片野と、主に男女が「居住用」に使い、少女が脱出してきた東篠崎の2つのマンションがあったことを伝えた。

1995年7月頃から2002年1月まで少女が監禁されていた片野のマンションは、少女の伯母の名義で契約されており、捜査に入ったとき、部屋には引っ越しの荷物が梱包されていた。

尋常ではない数の消臭剤が置かれ、各部屋、トイレ、浴室に至るまで南京錠が取り付けられ、窓には目張りの板が施された異様な空間だった。押収されたものの中には、犯罪の構成要件や時効、刑罰等について解説する専門書なども含まれていた。

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幼い男児らが部屋にいる姿も目撃されており、モリはマンション住人に「人から子どもを預かっている」などと説明していた。

のちに「一晩中ノコギリの音が聞こえた」といった証言や、過去に階段で人の糞尿が放置される出来事が相次いで異臭騒ぎになっていた時期があったことも報じられた(住民が異臭について警察に届けを出したが捜査は行われなかった)。

 かたや少女が逃げ出してきた東篠崎のマンションは「サクライトシノリ」名義で契約され、荷物は整理されており、男女の身元を示すものは何も発見されなかった。2000年頃には小学生の女児2人が出入りする姿が何度か目撃されたと報じられた。

 

少女の話では、部屋は施錠されていたわけではないが「日中は大抵2人が家にいた」「働いている様子はなかった」と言い、どうやって生計を立てていたのか不明とされた。食事はある程度与えられており、近くのコンビニ店員によれば2週間に1度程度は少女が単身で買い出しに訪れていたという。町内では、少女とその“おば”が同居しているものと認識されていた。

 

一見するとサラリーマン風のミヤザキと目立たない主婦に見えるモリは、共に偽名を使用していたことが判明。捜査員が「あまりに平凡で、これが本当に容疑者かと思わず何度も顔を確かめた」と言うほど、男女はどこにでもいる市民然とした風体だった。

男は雑談には応じる一方で調書作成には応じず、女を「内妻だ」と語り、曖昧な関係性を示した。女は完全に黙秘を決め込み、実名や犯行については頑なに供述を拒否していた(2003年3月10日、西日本新聞)。

犯行内容に口をつぐむ容疑者は数あれど、名前すら明かさない強硬な態度は警察権力を敵視する政治犯くらいのもので滅多にいるものではない。あまりに不可解な男女、ごく限られた警察発表やTVの近隣取材などから得られる奇妙で断片的な情報の数々に、工作員による拉致説カルト教団など特異な背後関係を疑う向きもあった。

 

■少女と4人のこども 

少女は小中学校を4度転校し、中学時代の3年間で200日近く欠席していたが、“おば”を名乗る女性(モリ)から欠席の連絡をこまめに受けていたため、学校側は軟禁状態に気付かなかったという。高校は3、4校受検して合格もあったが、結局通わなかった。

かつての同級生たちは少女を、休みがちで「おとなしくて目立たない子」と記憶していた。中学1年のときの同級生は、少女の髪がザクザクに切られた状態で登校したことがあったと話し、「一緒に住んでいる人にやられた」と親ではない人物と暮らしていることを明かしていた(2002年3月11日、毎日)。

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さらに「別のマンションで小さな子の面倒を看させられていた」という少女の証言に続き、10日、小倉北区泉台のマンションから「小学生前後の男児4名が(逮捕同日の7日に)保護されていた」ことが発表される。幼児監禁をも疑わせる全容の見えない事件は人々にますます不穏な印象を抱かせた。

 

泉台の1DKのマンションも少女の伯母の名義で契約されており、やはり身元を示す物品は出ていなかった。こどもたちはTVを見るなどして過ごしていたようだが、部屋にこども用玩具すらなく、就学手続きも行われていなかった。5歳と9歳の男児は捜査員に「イシマル」姓の偽名を名乗り、生年月日も数日ずらして証言していた。

部屋には「といれに行くじゅんばん」「さわいだひとはあさごはんぬき」「もしちゅういをしてもなおらないときはひもでしばる」「ひるはでんきはつけない ゆうがた7じからつける」といった生活の細かなルールが書かれた貼り紙が掲げられていた。

マンション住民らによると「2,3年ほど前から複数の小さなこどもが騒ぐ声や若い女性がしかりつける声が聞こえていた」と言い、ドアを内側からどんどんと叩く音に気付いた住人もいたという。

 

11日、「6歳の双子」の父親が確認された。小倉北署の調べによれば、父親に生活力はあるが以前から双子を男女に預けていたと話しており、「略取誘拐」には当たらないもののこどもたちの所在については関知していなかった。児童相談所では養育環境を調査・調整した上で引き渡す予定とした。

残る5歳・9歳の男児について、少女は逮捕された2人のこどもだと聞かされていたと証言し、裏付けが急がれた。

 

12日の新聞では、少女の証言として、父親は「(自分を監禁し逮捕された男女)2人に殺された」と供述していることが報じられ、殺人事件の様相を呈していたが物的証拠は何ひとつ挙がっていなかった。 

男女2人は実名不詳のまま福岡地検小倉支部に送検され、その際、多くの報道陣が取り囲んだ。男は捜査員に白いジャンパーをかけてもらって顔を隠したが、女はそうした遮蔽の提案を断り、カメラに顔を晒して過ぎ去った。彼らがはたして何者で、一体何を企み、何をしていたのか、この時点では誰にもわからなかった。

 

■起訴

 3月13日、押収物から身元確認を進めた結果、2人は、元布団販売会社社長・松永太(40)と元幼稚園教諭・緒方純子(40)と特定された。

また時効(7年)はすでに成立したが、90年代前半に2人は福岡県警柳川署から詐欺容疑などにより逮捕状が出されていたことも判明。

緒方の住民票には5歳と9歳になる男児が確認され、その後、DNA鑑定によって、松永との実子であると断定された。

 

 3月14日、松永・緒方の担当弁護士による会見が開かれ、被疑者らと交わされたやりとりや弁解録取の内容が伝えられた。

監禁については、少女に現金などを持たせ、一人で外出もさせていたこと、室内に鍵は置かれていたことなどから容疑を否認。

さらに、少女は2人に引き取られる以前に虐待を受けており、服薬が必要なほど情緒不安定で自傷癖などがあったとし、緒方に敵意を示して暴行を奮うなどしていたため、手が付けられなかったと説明。“爪剥ぎ”の命令は行っていない、とかかる容疑を否認した。少女の父親についても、殺害はしていない、所在は分からないと答えた。

すべてが少女の虚言、でっち上げ、「あの子はおかしい」と主張し、警察の強制捜査は「少女の供述を鵜呑みにした勇み足」だと非難している、と弁護人は伝えた。

(後に、少女が保護された北九州市児童相談所・南川喜代晴署長は記者会見で「嘘をついたり、話の辻褄が合わなくなることはなく、整合性がとれている」と証言し、少女は「命令されずに自分で体を傷つけたことはない」趣旨の話をしているとして、松永らの発言を否定している。)

 

3月15日、捜査本部は、少女の父親を殺害した容疑で関係先3か所のマンションを家宅捜索。片野のマンションでは「解体があった」とされる浴室のタイルや排水溝の残土までもが証拠品として押収された。

黙秘が続くことも予想されたため、捜査員たちは物証で固めるしかないとして奔走した。押収品には「通電」に使われたと見られる1メートルほどに切られた電気コードのほか、ノコギリも発見されていたが、刃こぼれひとつない新品で「解体」に使用された痕跡はなかった。

 

その後の周辺捜査でいくつかの余罪が浮上してはいたが、松永はのらりくらりと雑談でかわす余裕を見せ、緒方は完全黙秘を貫き、留置場では弁護士に差し入れさせた法律書を読み耽っていた。

少女の父親は生存していれば40歳になる年齢だが、松永らと同居するようになった6年近く前から完全に消息を絶っていた。失踪の直前、元同僚が彼と懇意にしていた松永に所在を確認した際には「浴室で倒れ、頭を打って亡くなった」などと答えていたことが判明した。

少女の証言でも、父親の死亡時の状況については、拷問等によって殺害されたのか、病死した後に電気ショックを施したのか断定できず、確定的殺意の有無を証明する決め手には欠けていた。

 

3月22日、毎日新聞では少女の母方の親族の証言を取り上げている。少女の両親が離婚する際、母親が引き取ることを考えていたが、父親は娘(少女)との同居に執着していたと振り返った。95年頃には少女が母親の職場に電話をかけて窮状を訴え、後日学校で会う約束をした。しかし少女が「母親に会う」ことを父親に伝えたため、父親は「もう会いに来ないでくれ」と元妻を追い返したという。

親族は「『18歳まで預かって育ててほしい』と頼まれていたという容疑者の話はおかしい」と話した。

 

また95年7月下旬、少女の父親名義で消費者金融4か所から計100万円ほどの借入記録があることも報じられた。居住地はいずれも祖父母の住所が記載されており、手続きが本人によるものかは不明。少女は96年初めごろに父親は死亡したと証言しているが、99年7月にも父親名義で新たな借り入れの申し込みが記録されていた(滞納者リストに記載されていたため新規の借り入れはできなかった)。

 

3月29日、福岡地検小倉支部は2人を、2月15日から3月6日にかけて少女を監禁し暴行して右腕打撲傷、頸部圧迫創、右足親指の爪剥離など全治1か月の怪我を負わせたとして監禁致傷罪で起訴。

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 起訴状によれば、連れ戻された少女は「今度逃げたら父親のところに連れていく」「逃げても探偵を使って探し出す。見つけたら打ち殺す」などと2人から脅迫を受け、「養育費として借用した2000万円について毎月30万円以上ずつ支払う」「仮に逃走した場合、元金は4000万円に増加する」といった文言に署名・捺印させられていた。

2月19日、電源コードの線に金属クリップをつなぎ、少女の腕などに固定して、コンセントをプラグに差して通電させて足蹴にし、血で「もう二度と逃げたりしません」と血判状を書かせていた。さらに少女にラジオペンチを渡し、「5分以内に爪を剥げ。剥げんやったら剥いでやる。あと1分しかないぞ」と右足親指の爪を自ら剝離させ、治療せずに放置。その後も洗濯ひもで首を絞めるなどの暴行が連日繰り返されたとしている。

 

■結婚詐欺師

4月4日、福岡県警は松永と緒方を女性Hさんに対する監禁致傷容疑で再逮捕、25日に起訴された(5月16日には同女性に対する詐欺、強盗の容疑で再逮捕、6月に起訴)。

2人は1996年末から小倉南区のアパート2Fで扉を南京錠で施錠してHさんを監禁下に置き、電気コードとクリップを用いて「通電」の虐待を連日行い、「逃げようとしたら電気を流す」などと脅迫。97年3月16日にHさん(35)は和室窓から飛び降りて逃走しようと試み、腰や背中を強打して腰椎圧迫骨折や左肺挫傷を負うなどして救急搬送され、130日以上の入院を余儀なくされた。

 

1995年、夫の親友が「京都大学卒の塾講師」として村上博幸を二人に紹介した。紹介した夫の親友こそ「少女の父親」で、村上は松永の偽名であった。松永は父娘とHさん夫婦の許を訪れて、手土産や口達者で女性の気を引き、すぐに夫婦生活の不満を聞き出すほど信頼を得るようになった。

「塾講師の稼ぎは月100万円くらい」「実家は村上水軍の当主」「東大卒の兄が東京で医師をやっている」などと嘘八百を並べ立て、Hさんは素直にすごい人なんだと信じ込んでしまった。その年のクリスマスには松永と逢瀬を繰り返すようになり、ラブホテルで相対性理論に関する教育番組のビデオを見せながら松永自らHさんに解説して聞かせたこともあった。女性はすっかり騙されて敬意さえ抱いていたという。

 

翌96年1月、松永に求婚されたHさんは即答で結婚の約束をしてしまい、翌月には夫と別居して、3人の子どもを連れて実家に戻る。その3か月後には協議離婚が成立した。その間にHさんは松永のこどもを身ごもったが、「女性は離婚してすぐには法律で再婚できない。今のまま産めば親のいない私生児になってしまう。今回だけは」と堕胎させている。(当時は父性推定の混乱を防ぐ目的で再婚禁止期間が6か月だった。2016年の改正により100日間に短縮された。)

しかし松永は塾講師を辞めたと言い、新生活の資金などと称して金の無心を始め、すでに結婚するつもりでいたHさんは消費者金融から250万円を借りて渡してしまう。前夫が可愛がっていたからと説得して長女を引き渡し、長男は塾通いのためにHさんの実家に残して、Hさんは3歳の次女だけ連れて松永との同居生活をスタートさせる。

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しかし松永は、すぐに事情があって行き場がない「姉と甥っ子」をアパートに同居させる。緒方と2人の男児である。96年10月頃、松永はそれまでの温和な態度を豹変させ、HさんにDVを加えるようになり、緒方に通電を指示してHさんが痙攣するさまを愉しそうにニヤニヤと笑って眺めた。

Hさんが嫌がる目の前で次女に通電したり、逆さ吊りに振り回すこともあった。こどもを人質に捕られ、携帯電話でこまめに連絡を取ることを強制されたHさんはホテルの勤めに通いながらも逃げ出すことはできず、帰宅すれば夜毎虐待される日々が2か月ほど続いた。

退職してからは四畳半の和室に閉じ込められ、食事、排泄、入浴に制約を設けられ、見張り役として片野のマンションから少女が連れてこられた。

上半身裸で蹲踞(そんきょ。膝を折って爪先立ちする姿勢)させられ、両乳首にクリップを装着され、心臓が止まるのではという不安と息苦しさを覚えた。胸にドンという電気の衝撃があり、仰向けに倒れたこともあった。膝の後ろに通電されると足が跳ね上がって倒れた。ほとんど全身に通電されたが、乳首が一番つらかった。乳首は特にデリケートなので、ちぎれるような痛みがあり、心臓がバクッとして、死の恐怖に襲われ、終わってもビリビリ感、脈打つ感覚が残った。眉毛への通電では、目の前に火花が散って真っ白になり、そのまま失明する恐怖を覚えた。(供述調書)

別れたいと口にすれば通電され、我が子への虐待を強制されて、通電されたくない一心で泣く泣く命令に従えば「手を抜いた」と通電され、いつ何がきっかけで通電されるか分からない不安に常におびえ、「意思も気力もなくなり、命令通りに動く“操り人形”になった」とHさんは述懐している。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210608071559j:plainFelixMittermeierによるPixabayからの画像


同居した当初はいずれ「姉」たちも出て行くものと信じていたが、一向に退去する様子はなく虐待生活は続いた。消費者金融での借入はもちろんのこと、カードで金目のものを買わされてはすぐに全て売り払って現金に換え、両親や知人に無心して約200万円を工面してもらうなど、あらゆる金策に走らされた。その一方で偽装工作として、Hさんを前夫や前夫の親と面会させ、離婚後の生活が順調そのものであるかのように振舞わせたこともあった。

 

97年1月頃、松永と緒方に「あんたにサラ金から借りてもらった金は使ってしまい、もう残っていない。あんたの生活費に使ったのだから自分たちには責任はない。あんたは内縁でもなんでもなく、赤の他人なんだから」と言われて、当初から松永に結婚の意思などなく、2人で自分を金づるにする目的だったのだと悟った。

3月、松永の口から「電気を通して死んだ馬鹿なやつがいる」と煽られて、Hさん自身も死の恐怖に駆られた。16日3時頃、窓から飛び降りて逃走。腰骨を折りながらも這うようにして近隣の事務所に救助を求めた。松永たちはHさんを発見できず、翌日には運送業者を手配して片野のマンションに転居した。

10日後、前夫の自宅付近の路上で大きな火傷痕のある幼女が発見される。Hさんの脱出後、松永らが連れ去っていたHさんの次女を置き去りにしたものであった。

 

Hさんは身体的回復後も娘を残して自分だけ逃げ出したことで自責の念に駆られ、慢性複雑性PTSDの後遺症に苛まれ、精神病院への入院を余儀なくされた。

少女監禁が明るみとなってから警察が事情を聞くために2人の写真を見せると、Hさんは震え上がり、脱出から6年を経て尚、著しい恐怖心を示した。捜査本部からメディアに対し「女性を割り出さないように」と取材規制が厳命されたという。

 

■双子の母

監禁致傷容疑での再逮捕後、4月には児童相談所で保護された男児4人が小学校に通い始めたことを伝えていた。

11日の朝日新聞が伝えるところでは、児相職員の「これからどうしたいか」という問いかけに対し、最年長となる緒方の長男(9)は「人生をやり直したい」「あまり面白いことがなかったから。0歳からやり直したい」と話したとされる。

学校では友達も増えて「友達が多くて名前を覚えるのが大変」と笑顔で話し、施設での暮らしについて「3食温かいご飯が食べられる」と楽しそうに過ごしていることが報じられ、人々の涙を誘った。

 

3月10日に面会した父親に続き、14日に母親・Tさん(37)も双子との面会が行われていた。

面会前、このTさんに関する一部報道には、2000年7月頃、北九州市内のスナックで知り合った「野上恵子(緒方の偽名)」に夫からのDV被害を相談したところ、「子どもを連れて逃げた方がいい」と勧められて頼ることになったという経緯が伝えられていた。

野上の手引きで8月頃に家出、小倉北区のマンションで数か月暮らし、山口県徳山市(現・周南市)の飲食店で寮生活をしながら働くようになったところ、夫と思われる人物に託児所を嗅ぎつけられたので緒方に双子を預かってもらうようになった、という内容だった。そのときの話で松永に当たる男性については何も触れられていなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

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だが3月15日、徳山市で開かれた記者会見でTさんはそれまでとは異なる経緯を明かし、こどもは引き取りたいが夫の元へ戻る気はない意向を示した。

 

Tさんは、1989年頃に“探偵事務所”の電話広告を見て知人捜索を依頼する。

当時、松永は地元である福岡県柳川市で詐欺行為を繰り返していた。その標的を探すために架空の探偵会社の広告を出して、浮気問題などの事情を抱えた“獲物”を漁っていた。

松永は普段から白衣や聴診器、医学書等を持ち歩き、全国を駆け回る有能外科医で探偵もしていると騙っていた。電話を手に専門用語を交えて投薬や検温などの指示を出しながら「定期的に患者の容態を教えてくれ」等と会話し、専門書を見せながら医薬品の解説をするといった手の込んだ芝居で、Tさんはその「探偵」を医師だと信じ込んでしまった。

調査終了後も電話がきていたが、Tさんは結婚後に連絡を断った。だが96年頃、久しぶりに松永から再び連絡が入るようになり、当時悩んでいた夫のDVや姑問題の話を出すと、松永に「こどもを連れて逃げてこい」と家出を持ち掛けられたという。

家出の支度金などとして2000年から02年にかけて親の遺産1635万円を含め、生命保険の解約や消費者金融などあらゆる金策を尽くして約3000万円を支払っていた。質屋での換金の見張り役などには少女が付き添うこともあったという。

 

Tさんの場合、厳しい監禁や暴行はなく金だけをむしり取られるような状況ではあったが、

①松永が結婚を持ちかけて女性を唆す

②夫や家族と引き離す(周囲の人間から遠ざける

金を工面させる

こどもを人質にとる

といったHさんと同様の手口が見られ、その他の多くの被害者とも一致する。

Tさんは双子の養育費として月々15万円以上を支払っており、松永たちの当面の生活費のために「外飼い」「一時キープ」されていた存在と言えるかもしれない。

 

過去の報道で話したことは、聞かれたらこう話すようにと松永から予め言い含められていた虚偽の説明であった。詐欺師は相手を騙すだけでなく、相手にも周囲の人間の目を欺かせるという強い洗脳支配を及ぼして偽装工作を図っていた。

他の監禁事件でも「逃ようと思えば逃げられたのになぜそうしなかったのか」「なぜ機会があったのに周囲に相談したり通報しなかったのか」といった被害者バッシングが横行する。

しかし洗脳被害者の変質した思考判断基準において、抵抗や逃走、告発は自身の死に直結する。「自らの命を守るため」に防衛反応として逃走や告発が「できない」のである。Hさん、Tさんだけでなく、脱出した少女、そして共犯とされる緒方にもこうした洗脳傾向が明らかとなる。

 

■消えた一家

3月の段階で少女の供述の中には、自分の父親以外に「もうひとり」殺されたとする人物がいた。緒方の母親である。

 

3月14日の朝日新聞は、「両容疑者は夜逃げ屋として消費者金融業界で有名だった」、多重債務者の借金を一本化する「整理屋」などと紹介しつつ、緒方の実家について「土地持ちの兼業農家だったが、父親ら家族も96年8月、盆前の墓掃除を最後に見かけなくなった。近所の住民は『借金の返済を迫られ、夜逃げしたらしい』と話している」とする失踪に関する記事を出している。

また3月後半にはテレビ報道は減っていたが、新聞の地方版や雑誌などでは少女の証言や二人の地元取材を基にした報道などが続けられた。

 

福岡県柳川市の松永の実家と久留米市にある緒方の実家は15キロ程離れていたが、城島町にある同じ県立高校へ進学。その後、松永は不純異性交遊が原因で学校を辞め、転校した。

松永は頭の回転が速く弁が立ち、中学までは成績も優秀だったが大言壮語のホラ吹きで、相手を見て手下のように扱う「上に弱く下に強い」いじめっ子とされ、教師からの評判は良くなかった。

旧友の証言によれば、親の干渉がなかったこともあって松永の部屋は“溜まり場”だったと言い、高校に入って不良になり、男性慣れしていなさそうな女性を次々に篭絡させるスケコマシ(いわゆる「やりちん」)だった。

対する緒方は地元名家の出で、厳しいしつけを受けた「礼儀正しい優等生」と伝えられる。

 

高校卒業後、松永は実家が営む布団の訪問販売事業を継ぎ、マルチ商法的な手法で荒稼ぎし、夜の街でも羽振りが良く「10年後には柳川を制覇する」などと豪語し、82年に結婚。一方、緒方は福岡市の短大保育科を出て、82年から幼稚園に勤務。当時の保護者によれば「愛嬌のいい『よか先生』」として、別々の人生を歩んでいるかに見えた。

だが近隣住民によれば、緒方は「暴力団とのトラブルから、保証人になった親も巻き込み、相当の金額を搾り取られた」との噂があった。幼稚園を無断欠勤して85年2月頃に解雇され、実家からも姿を消していた。その後、緒方は松永の許へ転がり込み、事実上の「内縁関係」となり、経理事務員として事業にも加わるようになった。

 

90年頃には大牟田市の自動車販売店の整備士らに言いがかりをつけ、暴力団風の男10数人で取り囲むなどして4人から合わせて1500万円以上を恫喝(立件できず)。

3階建ての新社屋兼住居をつくり「ワールド」という社名に改称。画商、金融業、インテリア販売など事業を多角化させていたが多くは名ばかりの覆面事業ばかりで、実質的には詐欺と恐喝による自転車操業だった。

92年、松永の本妻はDVに耐えかねて子どもを連れて保護施設に逃走し、調停を申し立てて離婚が成立している。その夏にワールドは不渡りを連発した。柳川信用金庫で約束手形の支払い延長を求めて紛糾した松永は机を破壊し、職員を脅迫したとして告訴される。更に架空契約による数百万円の詐取なども明るみとなり、柳川署から指名手配が出される。会社兼自宅ビルを残して二人は逃亡し、北九州市などに潜伏したとされる。

緒方家は長女の純子が家出したため、妹が婿養子を迎えて跡取りとなった。しかし借金取りが訪れるようになり、97年に父親は勤めを辞め退職金を返済に充てた。同年8月、自宅と敷地を担保に農協から3000万円の借入を行い、一家は蒸発。親族は失踪届を出していたが、返済が滞ったため緒方の実家は競売にかけられていた。

 

5月6日の読売新聞は、少女の証言として、緒方家の6人ともかつてマンションで同居していたが、「(緒方の)母親はある日、口から何かを吐いて倒れ、そのまま動かなくなった」ことを伝えた。記事では「生死にかかわる何らかの事件に巻き込まれている可能性もあるとみて、福岡県警の捜査本部は所在確認を進めている」としたが、少女のこれまでの言質を信用するならば、緒方の家族にも最悪の末路が予想された。

 

“一家失踪”に松永と緒方が関与していることはほとんど事実のように伝えられたが、はたして背後に何があったのか、そもそも6人もの人間を「消す」ことが可能なのか、その真相が公にされるにはまだ時間を要した。

殺害現場とされた可能性が高い片野のマンションは現場保存のため警察に借り上げられた。ゴールデンウィーク明けには、自発的に失踪することが難しいとして緒方の妹の長女(緒方の姪)・彩ちゃん殺害の容疑でマンションの捜査令状が出され、配管や浴槽などを解体して押収・鑑定にかけられた。

 

■少女の父親

3月28日の読売新聞は、両容疑者と少女の父親との接点を報じた。

92年、両容疑者が詐欺容疑により北九州市内で潜伏先を探していたときに不動産会社に勤めていた父親と知り合い、その後も「住民票の取れない債務者の住宅のあっせん」を父親に頼むようになり、接近したとしている。

だが、松永らは「夜逃げ屋」ではなく「逃亡していた側」である。「夜逃げ」とされた実態は、HさんやTさんのように騙した女性を監禁状態に置く目的だった。自分たちの身元が割れないように偽名と他人の住民票を使いながら転居を繰り返し、口八丁で少女の父親に違法契約を認めさせていた。そして今度は違法契約の“弱み”を逆手にとって父親に強請りをかけ、次第に取り込んでいった。

 

4月1日の毎日新聞では、92年当時、少女の父親が再婚を前提に同居し、少女も「お母さん」と呼んで慕っていた女性の存在を報じている。少女の父親が松永らと急速に接近して以来、生活態度が豹変し、別居することになったとされる。 

女性には3人の連れ子が居り、父親と少女と6人で門司区のマンションで2年半余りを共に生活した。同居当初は家事も積極的に行い、子煩悩な父親だったと言い、お互いの子どもたちも2人によく懐き、生活は順調だった。父親に数百万円の借金こそあったものの、ライトバンを買ってキャンプや旅行に出かけるなど、2人の稼ぎを合わせれば暮らし向きも悪くなかった。

しかしある晩、父親が「すごく頭のいい人と知り合った。その人と事業を始める」と言い始め、コンピューター技術者を名乗るミヤザキ(松永の偽名)とつるむようになった。ミヤザキはコンピューターを駆使した競馬予想ビジネスを考案したと言い、結局女性が事務所の備品等に30万円、コンピューター関連の費用70万円を立て替えることになった。

しかし父親はミヤザキと連日飲み歩くばかりでコンピューターは埃をかぶったままとなり、女性が金を出し渋ると消費者金融に新たな借金をつくるようになった。顔色や体調は見るからに悪くなり、女性に対しても暴言を吐くようになって生活は荒み、それまでとは人も生活も一変した。

 

94年9月頃、父親は突然女性に別れを切り出して、少女を連れて社宅へ移った。別居前の最後の食事会にはミヤザキも同席していた。

席上で、少女は女性に手紙を渡した。その文面には「お母さんからいつも怖い目で見られて、いつか殺されるかと思った」と書いてあった。ショックを受けた女性は「本当にそんな風に思っていたの」と尋ねると、少女は声を上げて泣き崩れたという。

「実の子と同じように可愛がっていたのに、手紙の衝撃は10年近く経っても消えない。自分を少女たちから引き離すための手紙で、(少女の)本心ではないと思う」と振り返った。少女は監禁から脱出後の事情聴取で、6人で一緒に暮らしていたときが一番楽しかったと話していた。

 

別離から3か月後、少女の父親は姉(少女の伯母)に名義人になってもらい、片野のマンションを契約して松永、緒方、緒方の長男との5人暮らしを開始した。

尚、2002年4月8日の報道で、その伯母も、松永から「少女がトラブルを起こして逃げ出したから連れ戻すのに協力してほしい」「少女が18歳になって手が離れたら結婚しよう」と唆されて祖母宅への引き込み役を協力したことが伝えられている。少女の伯母は弟の死亡について認識しておらず、松永らの共犯者ではなく単に「利用されていた側」のひとりだった。

少女の父親もまた、他の女性被害者たち同様、こどもを人質にとられ、松永らの手練手管により孤立無援な状況へと差し向けられていたのである。

 

■見えない被害者たち

松永らは逃走・潜伏の資金を得るため、結婚詐欺を繰り返した。上で述べたように女性を孤立無援状態にして支配を強めるために複数の物件を借りていた。尚、監禁事件で2人の顔や名前が明るみとなって以降、3月時点で10数件の詐欺被害が寄せられたとされている。松永の周辺では表沙汰にならなかったケース、時効や証拠不十分などで立件されなかったケースもある。

 

1994年3月、大分県別府市の海で投身自殺をしたSさんも松永の結婚詐欺の被害者のひとりだったと見られている。

Sさんは20歳の頃に松永と一時的に交際していた。不動産や保険を扱う会社の事務員として働いていたSさんは、結婚して夫の実家で暮らすようになり、3人の子どもにも恵まれた。しかしその後、夜な夜な家を空ける日が増え、父親に借金を申し出るなど異変が起きていた。銀行口座の動きなどから、93年1月頃には松永と最接近していたものと見られている。

Sさんの父親が、子どもを放ってどこでなにをしているのかと問い詰めると、知り合いに「緒方さんという可哀そうな女の人」がいて援助が必要なのだと話した。母乳も出ずミルクも買えず生まれたばかりの赤ん坊に米のとぎ汁を飲ませている、その夫も病気で働けず…と、松永が騙ったと思しきお涙頂戴のストーリーを復誦した。

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93年5月、Sさんは実家に電話を入れ、子ども3人を連れて別府に家出をしていることを告げた。後の警察の調べでは実際にはこのとき北九州市内にいたとされ、捜索を免れるために噓の証言をしたと見られている。父親は幼子を抱えたSさんの安否を気遣って、言われるまま別府の郵便局留めでできる限りの送金をしたが、何に使い込んでいたのかは分からなかった。

家出から1,2か月してSさんの父親は捜索願を出したが、本人が警察に言って取り消したという。夫と共に別府の旅館宿を探して回ったが当然見つからず。10月、三女が椅子から転落する事故で亡くなったと連絡が入り、親は遺骨を持って帰るように説得した。しかしSさんが帰宅することはなく、後日、鳥栖駅前のコインロッカーのカギが実家に送られてきたという。その後、Sさんは残る2人の娘を託児所に預け、親に引き取りに行かせている。

 

父親が送金を止め、帰るように強く迫ると、Sさんは弁護士の名前と連絡先を伝え、そこに連絡するように言った。「弁護士」は松永による詐称と思われ、電話を掛けても「本人に伝えます」と対応されるだけだった。

Sさんが自殺する2日前、親子の最期の会話となった電話は“事故死”した幼娘の保険金の話だった。死後に分かったことだが、Sさんは消費者金融から250万円以上を借り入れ、自身の生命保険を解約して約200万円を受け取っていた。保険金と合わせて計1300万円近くを送金していたが、死後、彼女の口座には3000円の残高しかなかったという。

先に挙げたHさん、Tさんと似たような状況が想像される事案だが、Sさんは事件性なしの自殺と判断され、三女の死亡も事件として取り扱われることはなかった。

 

〈略年表〉

1989年頃、Tさん、探偵事務所(松永の架空会社)に連絡を取る

1990年・少女の父親が離婚。少女が祖母宅に一時預けられる

1991年・少女の父親が不動産会社に転職。保険外交員の女性と交際開始

1992年・4月、少女と父親が内縁女性らとの同居を開始

1992年・松永の妻子が逃走、後に離婚

1992年・松永名義のビル内で公務員が監禁、3000万円以上の詐取被害

1992年・脅迫・詐欺が事件化し、松永と緒方が逃亡。

 (松永らが逃亡先を探す中で少女の父親と知り合う)

1993年・緒方、長男を出産

1993年・Sさん、詐欺被害の疑惑(娘死亡)

1994年・3月、Sさん、水死体で発見

1994年・少女の父親が松永らと親交。姉(少女の伯母)を松永に紹介。内縁女性と別居。

1995年・Hさん家族に松永を紹介。後、片野のマンションで松永らと同居

(少女の父親が殺害されフェリーから遺棄された疑惑。失踪人扱いとされる)

1996年・3月、緒方、次男を出産

1996年・Hさん離婚、松永らと同居、監禁被害

1996年・Tさんが松永との連絡を再開

1996年・緒方の父が退職。

1997年・1月、松永ら、北区東篠崎のマンションを契約

1997年・3月、Hさん、窓から脱出して重症

1997年・緒方、次男出産

1997年・8月、緒方の父名義で久留米農協から家の改築費用名目で3000万円の融資を受ける。一家が姿を見せなくなる

1997年・9月、緒方の妹一家が玉名市のアパートに転居

(緒方の母が殺害された疑惑)

1998年・5月、緒方の妹一家4人が熊本県玉名市のアパートから行方不明

(緒方の姪が殺害された疑惑)

1999年・担保とされていた緒方家実家が競売にかけられる

1999年・緒方家の親族が知人に緒方家のトラブルを相談

1999年・10月末で緒方の妹夫婦が退職

2000年・少女、中学卒業。高校進学せずこどもたちの世話など。

2000年・8月、Tさん家出

2001年・4月、Tさん、徳山へ(のち託児所に不審電話)

2001年・8月、Tさんが泉台のアパートの名義人になり、緒方に双子を預ける

2002年・1月30日、少女、祖父母宅に逃走→2月15日、松永が連れ戻す

2002年・2月20日頃、松永が祖父母に健康保険解約を迫る。バイト先に履歴書を破棄するよう依頼。

2002年・3月6日、少女が再度脱出し、通報。監禁が発覚

2002年・3月7日、松永、緒方を逮捕

 

■親の顔

2002年6月3日、福岡地裁小倉支部で、少女に対する監禁致傷とHさんに対する監禁致傷について審理が開始された。

当初は捜査中につき証拠開示が間に合わなかったこと、少女の事件に関して「父親の殺害」を含む起訴内容があったことから、弁護側は罪状認否を保留。

 

7月31日の第2回公判で検察側の冒頭陳述が行われたが、このとき印象的な場面が見られた。少女の実名は伏せられており、緒方の2人のこどもについては実名のまま述べられたことから、緒方は「どうして私の子の実名が出なければならないんでしょうか」と抗議した。松永や弁護団もそれに追随するかたちで配慮すべきだと声を上げた結果、裁判長は「これからは長男、次男とします」と方針を改める一幕があった。

翌8月1日の西日本新聞の裁判を伝える記事では「初めて見せた“親の顔”」という主見出しが付された。 この段階で2人は黙秘を続けており、詐欺・監禁・虐待といった凶悪な犯行が露見する一方で、その人間性や犯人とこどもたちとの関係などのプライベートな側面が報じられていなかったことから、この抗議は一種の驚きをもって受け止められた。

弁護側は少女への暴行、脅迫について概ね事実と認めたものの(父親の殺害を思わせる脅迫内容については否認)、前述の通り監禁は成立せず、傷害罪のみとした。またHさんからの金銭授受については認めるものの、監禁、暴行、脅迫は否認して無罪を主張した。

 

9月初旬には、警察が大分県竹田津から山口県徳山間のフェリー航路にあたる海底を捜索。100余片の回収物を分析にかけたことが報じられ、少女の父親か、緒方の姪か、はたまた6人か、と立件されていない家族の死亡について触れる憶測報道もあった。(回収物に遺骨等は含まれていなかった。)

 

 9月18日、福岡県警は、緒方の姪・彩ちゃん(10)殺害の容疑で、松永、緒方を逮捕した(10月8日起訴)。捜査本部による記者会見では、2人が彩ちゃんを電撃死させたとする少女の供述内容の信憑性が高いとして逮捕に踏み切ったと説明。両容疑者が少女に書かせた「彩を殺害した」とする念書の存在も犯行を裏付ける証拠とされた。

1997年4月頃から翌98年6月頃まで松永らと少女は緒方の家族6人とも犯行現場となった片野のマンションで同居していたとし、98年6月7日夕方頃に凶行に及んだものとした。また逮捕当初に弁護側が述べた被疑者らの弁解内容について、2人は否認していることが明らかとされた。

これが両容疑者にかけられたはじめての「殺人」容疑であり、「少女特異監禁等事件」とされていた名称は「監禁・殺人等事件捜査本部」に変更された。

 

翌19日、殺人容疑での逮捕は新聞各紙で取り上げられたが、新たな問題も発生した。

小野一光氏の連載記事#18によれば、福岡地検記者クラブに所属する記者らを緊急に招集したという。このとき新聞で父親の氏名が公表されたことに、少女が大きく動揺したため、父親の実名や少女の素性に関する報道は控えるように要請があったという。警察が捜査に支障をきたすとして報道規制をかけることはあるが、地検が報道陣に対してそうした要請をすることは異例とされる。

警察、検察は半年をかけて少女と信頼関係を築いてどうにか幾つかの立件までこぎつけたものの、依然として少女の証言は必要不可欠であり、裏を返せば犯人の自供も、殺害を裏付ける決定的な証拠も揃っていない実情があった。

彼女自身、驚くべき記憶力と精神力でここまで捜査協力に努めてきたが、心身ともに想像を絶するほどの苦痛を長期間受けており、他の被害者同様にPTSDを負っており、周囲の反応に動揺するのも当然のことと言えた。

事件そのものの残虐性・凄惨さもさることながら、保護対象となる未成年被害者の多さや被害者たちに残るPTSD心的外傷後ストレス障害)への配慮、また事件関係者の多さに比してカメラの前に登場できる人物の少なさ、警察、検察、弁護団側からの度重なる自粛要請などが「テレビ向けではない」と判断された事情といえるかもしれない。

 

10月12日には、新たに緒方の父・譽(たかしげ)さん殺害の容疑で2人を逮捕した。時期は1997年12月下旬とされ、手口は通電による感電死で、彩ちゃん同様に解体して大分県沖に遺棄したものと説明された。2人は例によって被疑内容を否認した。

 

■ふたつの転向

しかし10月23日、松永・緒方の弁護団記者クラブ向けにコメントを発表した。緒方本人の意思により「私の家族のこと、松永のことを考えて、事実をありのままにお話する気持ちになりました」と話しており、これまでに出た報道内容そのままをすべて認めるのではなく事実を正確に供述したいとの申し出があったという。

これまで共に黙秘を続けていたことから同一の弁護団であったが、解体されて新たに弁護団が選任されることとなった。緒方は新任の弁護団に対して、法廷できちんと対応するので接見内容については喋らないでほしいと口止めし、転向の理由についても上の文言以上の説明はなされなかった。

 

以後、松永も黙秘を続けるわけにはいかなくなり、捜査官からは緒方の供述の裏付けを求められ、調書作成に応じる姿勢を見せた。緒方家6人を片野のマンションに住まわせていたこと、少女の父親を含む7人が死亡したことを認めつつ、犯行については「自分に殺す動機はない」「殺害の指示を出してはいない」「殺害に関与していない」「不慮の事故ないしは緒方とその家族がやった」とする主張を行った。

11月22日、松永の弁護団による定例会見では、松永が主張する“親族の死亡事故”を秘匿した理由について、柳川時代の指名手配があったため、自分たちの身元判明をおそれたためだ、と説明された。最初に“事故”で亡くなった緒方の父・譽さんの遺体を細かくして海に投棄したことに関して、松永は「死者を弔う“水葬”の意味があった」などと主張。

さらに電気コードを使用した“通電”についても供述は及んでいた。以前はコードが剝き出しで皮膚がケロイド状にただれたが、自分がコードの先にクリップを付ける“改良”を加えたことで、少女にも傷痕こそ残ったがケロイド状になるほどではなかった、とさも自分の手柄であるかのように述べた。公判では通電理由に「学校の先生が𠮟るときに生徒にげんこつするのと同じ気持ち」と表現している。

だが豊田正義『消された一家』によれば、通電コードは元々は松永の会社にいた元従業員があそびで考案したもので、当初は痛みも「チクリチクリ、ピリピリする程度」の微弱電流に調整された代物とされる。それを面白がった松永は威力を最大級にするため導線を剥き出しにして、従業員らに対する拷問器具へと変貌させ、愛用するようになったという。事実、調べを受けた元従業員の腕や脚などには“改良”前に受けた痛ましいケロイド痕が残されている。

 

松永の供述は日常的な虐待、通電については認めつつ、殺害の場面に話が及ぶと「緒方家の問題」なので自分は居合わせず、緒方や緒方の家族から事後に聞かされて驚いた等とする、奇妙なほどに松永が殺害に「関与しない」ストーリーが展開されていく。

少女の証言と緒方の供述は近しいものであったが、松永の供述内容はそれらと大きく異なっていた。(後に松永は緒方と警察がグルだとして、緒方のストーリーありきで裁判を進められたとして「冤罪」を主張する。)

緒方が報道に対する不満と事実を示したいという心境に至ったのに対して、松永は「詐欺師」として頑として殺害を否認する証言をでっち上げるという対照的な転向を示した。自分に都合よく物事を解釈する歪曲や誇張、事実の矮小化、法廷での茶化した表現など信用性の低い証言を続けており、筆者にはそうした詭弁や被害者への侮辱にさえ思える発言を記す度量はない(そうした“松永劇場”については豊田氏の著書などに詳しい)。

その後、松永が緒方に罪を擦り付けるような供述をしていることを伝えられた緒方は「ああ、そうですか」と淡々としていたという。松永の性分を知り尽くしている緒方からすれば想定の範囲内といった反応とも取れるが、そうした肝の座り方にも絶望を味わい尽くした人間の底知れなさを感じる。

 

逮捕、起訴、裁判のながれに沿って記述すると時期や順序が前後して理解しづらい面もあるため、以下では少女の証言と緒方の供述、裁判で明らかにされた内容を基本的な事実として、時系列に沿った筋書きにしてみたい。

 

 

■ 家出と三角関係

松永と緒方は同じ高校に入学したが、在学当時は全く交流がなく、実際に知り合ったのは卒業後の1980年夏頃のことだった。

松永からの「きみに借りた50円を返却したい」という奇妙な電話がきっかけとなって、2人は出会う。緒方に金を貸した覚えはなく、断ろうとしても松永の方がどうしても折れようとはしなかった。男は卒業文集を見ながら電話を掛けており、女に会うためについた出まかせであった。

厳格なしつけを受けた箱入り娘だった緒方は、このとき男性との交際経験がなかった。高級車に乗って現れた妙に垢ぬけた男が自分を口説こうとする素振りに対して、却って警戒心を強め、軟派な誘惑には乗らなかった。

一年後、緒方はまたもや松永から電話で無理矢理呼び出され、交際相手と近々結婚することになったと告げられる。緒方に恋愛感情はなかったため、嫉妬もなく淡々と話を聞くだけだったが、帰り際に車中で強引にキスをされた。このときもそれ以上のことはなく門限までに2人は別れた。

82年1月25日、松永は高校時代から交際していた年上の女性と結婚した。翌年、女性は松永との間に男児を出産するが、妊娠中の82年10月頃に松永はまたしても緒方と接触し、そのときはじめて肉体関係を持った。

この松永の緒方に対する執着は恋愛感情だったのか、攻略できないゲームをどうにかしてクリアしたいというような欲望だったのかは分からない。「望んでした結婚ではない」「妻のお腹の子は自分の子じゃない」と結婚の不満を語り、その後も人目を忍んで不倫を続けた。

 

後の裁判で緒方は「恋愛に溺れてはいけないと自制はしていました」と語り、両親の期待に沿うために養子縁組をしなければならないことも頭にあったと説明。それでも親が決めた相手以外の男性と「結婚するまでに一度くらいは恋愛経験をしてみたい気持ちもあった」と当時の心境を吐露している。旧家の慣習に束縛された緒方には、「妻の父親に事業の資金援助をしてもらったので、別れたくてもすぐに別れられない」と嘆く男に対して親近感も芽生えていたのかもしれない。

緒方から家への不満や結婚に対する意識などを聞き出すともに、家柄や資産状況を把握した松永はすでにその矛先を女の「家」へと向けていた。「離婚が成立したら結婚しよう」「きみが家の犠牲になるのはおかしい。家を出られないのなら、自分が仕事を辞めて緒方家に入る」などと求婚のアプローチを受け、高価なプレゼントを贈りながら自分に滾々と愛情を注ぐ松永への想いで緒方も冷静さを失っていった。

 

84年秋頃、緒方が妻子ある男性との交際を叔母に明かしてしまい、両親にも不倫関係が知れるところとなり、当然大反対された。叔父は、松永が緒方家のみならず母親の実家の資産状況まで調べていることを察知し、男の狙いは財産だと緒方を叱責。松永側も「お前の家族は俺を信用していないのか」と憤慨し、母親に会わせるように迫った。

やむなく佐賀県内の料亭で顔合わせをさせると、松永は緒方への真摯な愛を語り、軽妙な会話で母・静美さんの笑いを誘って心象を一変させた。その後、父・譽さんの前でも好印象を与え、両親は松永との関係に強く反対はしなくなり、静美さんに至っては松永の良いところを親類に話し聞かせるほど前向きだった。男女は婚約の確認書を交わす。

 

裁判での検察側冒頭陳述によれば、この時期、松永は「緒方の行く末を案じていた静美さんに、人目のないところで別れ話を相談しようと持ちかけてラブホテルに連れ込み肉体関係を結ぶようになった」とし、その頃から静美さんは交際に反対しなくなったとされている。

松永はこれを静美さんの方から積極的に誘ってきたと話し、当時それを信じた緒方は「同じ血が流れているのが嫌になる」と憤慨した日記をつけている。後に緒方は法廷で「松永は女を道具にする人ですから、合意による関係ではなく、強姦という形で関係を持ったのだと思います」「もし松永との関係を続ける中で、母が女としての喜びを感じる瞬間があったとしても、私は母を憎みはしません」と静美さんを擁護している。肉体関係があったのか、強姦か任意の性交かを確かめる術はない。

松永は法廷で、緒方への暴力を振るった大きな要因として、静美さんから緒方の男関係などを吹き込まれていたからだとする主張を行い、加害の責任を母娘の確執へと転嫁している。

 

男はそれまでの献身的な態度を豹変させ、「お前のせいで妻に不倫がばれた」「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ」等と責め立てるようになり、緒方が男友達の話を出すと過去を詮索し、激しく糾弾して暴力を振るうようになった。

緒方は松永の信用を取り戻したいと必死の思いで、言われるがまま友人や親類に嫌がらせの電話を掛けて人間関係を自ら断っていった。「どうしたらいいの?あなたの言う通りにする」という当時の緒方の心理状態を、豊田氏は「典型的なバタードウーマン(DVの被害女性)の心理状態」と指摘している。その年の終わりごろ、松永は自分への愛情の証として、緒方の右胸に煙草の焼き印で、右大腿部に安全ピンと墨汁で「太」の名を刻むことを強要し、緒方はそれを承諾した。

虐待による自己嫌悪、周囲の人間との断絶によって心身が追い詰められていった緒方は、幼稚園勤めを続けながらも、夜毎の罵倒と暴力、セックスを松永の「愛情」として耐え忍んだが、85年2月、勤務中に貧血を起こして倒れた。

「こうなったのも全部自分が悪い」「大切な人たちに迷惑をかける自分などいなくなった方がいい」と思い詰め、2月13日、睡眠薬数錠を服用した上で左手首を切ってバケツに浸け自殺を図った。家族の発見により病院に搬送され、一命を取り留めたが、女はかつて思っても見なかった煉獄ともいうべき人生に身を落としていく。

〈略年表〉

1978年・松永、緒方が同じ県立高に入学(後、松永は転校)

1980年・緒方が短大保育科に進学

1980年・松永、大学中退後、父親の布団販売業を手伝う

1980年・松永が卒業文集を見て緒方に連絡を取る

1981年・松永が布団訪問販売会社「ワールド」設立

1982年・1月、松永が結婚

1982年・緒方、短大卒業後、幼稚園に勤務

(10月頃、松永と緒方が肉体関係を持つ)

1983年・少女の父親が結婚

1984年・少女生まれる

1985年・緒方、分籍して松永の許へ 

 

 85年2月15日、松永は入院していた緒方を福岡県三潴(みずま)郡にあった社宅アパートに連行して、顔を殴りつけ「自殺は狂言だろう。周囲にも迷惑をかける」「残された家族がどんな思いをすると思うか」と説諭した。緒方は松永の言葉にショックを受けるとともに人間的な敬意を抱き、親元を離れて松永と一緒に生きていくことを決意し、そのまま居ついて幼稚園の教職も捨てた。

3月には2人で緒方の実家に赴いた。緒方は「念書を貰えなければ自殺する。ソープで働く」と世間体を気にする両親を脅し、松永も「このまま放っておいたらまた自殺しようとするかもしれないし、ますます堕落する。自分の言うことなら聞くので、自分に預けてくれれば責任は持つ」と言って、両親に長女の分籍を認めさせた。

 4月には久留米市の別のアパートに緒方を移し、松永は柳川市から日を空けず通うようになった。人間関係を断ち切り、完全に松永の庇護下に置かれた緒方は益々依存を深めていった。女はそれまでの人生を一切捨て、男と手を携えて新たな人生をやり直そうと藻掻いていたのかもしれない。

 

■ワールド

81年5月頃、松永は布団販売会社「ワールド」を設立し、実質的な経営者として振舞った。設立当初こそ父親から引き継いだ顧客もあって、高級布団を月に30組売り上げて1000万円程の利益を上げたが、いつまでも同じように売れ続けるはずがない。

松永は暴力団との関係をちらつかせて逃げても無駄だと従業員たちを脅し、知人や親族に「会社が潰れそうだから助けてくれ」と泣き落としで強引な売り込みをかけさせ、断られれば脅迫や詐欺まがいの手を使ってでも契約を結ばせた。

さらに名義貸しや架空契約をさせて形式上の「売上」をつくらせ、従業員に借金を強制して支払いを立て替えさせることもあった。そうした違法契約のために松永は信販会社の担当者を接待して、証拠写真を強請りのネタに使い、顧客の信用審査を甘くしたり、契約の決裁を早くさせるなど融通を計らせていた。

小野氏による文春記事では、ワールド時代の松永に影響を与えた人物として、オレオレ詐欺から結婚詐欺、金融、投資といったあらゆる詐欺に通じていた親戚の“Zさん”に注目している。若い松永に地元ヤクザや権力者に関する情報を与え、詐欺のノウハウや偽装工作を仕込み、カモの紹介なども行った。松永の親類は(後の「松永太の長男」を除き)一切取材には応じておらず、存命中、どこまで松永に関わっていたか等は伝えられないが、“詐欺師”としての松永を育てた、いわば指南役ともいえる存在と見られている。

 

脱走者も多く、常に新たな従業員を補充する必要があったため、支払い能力がない人間に自社で働くように仕向け、“生け捕り”にすることもあった。十二畳一間の共同部屋に連れ込むと、従業員たちに先ずリンチさせて反抗心をへし折って服従させた。一方では、従業員たちを犯罪行為に加担させることで共犯関係をつくり外部告発されにくくする狙いがあった。

販売実績の乏しい従業員には他の従業員たちからも容赦なく暴行を加えられ、食事の制限や水風呂など過酷な虐待が待ち受けていた。日頃から従業員を順位付けしておくことで反乱を抑え込み、いつ自分がやられる側になるか分からない環境で相互不信に陥った。彼らは常に松永の顔色を窺うようになり、互いに監視し合っていたため不満を抱いても結束して抵抗できない状況下に置かれていた。

もはや従業員とは名ばかりの松永の“あやつり人形”のようにも思えるが、小野氏の取材した元従業員のひとりは、松永への恐怖心とともに憧れや尊敬のような感情もあったと話す。大言壮語を掲げ、とっかえひっかえに愛人をつくり、他人から金を騙し取ることに躊躇しない松永は、従業員から「ヤクザの親分」のように尊敬されていたという。そのやり口は、報酬以上に過酷な労働を強いるブラック企業どころではなく、実質的には問答無用に犯罪行為に引きずり込む、まさしく暴力によって支配された反社会集団であった。

 

やがて顧客の支払いが滞納されるなどして信販会社からも契約を解除され、84年頃には経営は傾いていた。しかし、両親の反対を押し切って父親名義で銀行から5000万円を借りて事務所兼自宅の3階建てビルを新築。1階には家族が住み、3階には緒方を住まわせるようになった。この時期に「電気」が拷問道具に採用されたとされる。

経理や金融機関との交渉を任された緒方も、知人に詐欺商法を仕掛けて金を掠め取った。不出来があれば松永から容赦ない暴力を受けてはいたが、従業員からすれば「金づる」として使い捨てにされた他の愛人たちとは一線を画した「姐さん」的存在だったという。チョップで喉を潰されたり、正座にかかと落としをされて太腿の筋を傷めて歩けなくなることもあった。傍から見れば理不尽な暴力にも緒方は抵抗どころか声も挙げず「自分が悪いからだ」として甘んじて受け入れる特異な存在だった。

バットによる殴打か膝蹴りかで緒方が膵臓を傷めてのたうち回って入院した際、激しい虐待の痕跡を認めた病院から警察に連絡が回り、松永が出頭要請を受けた。同じくDVに怯えていた元妻は「ああ、これで終わった。みんな暴力から解放される」と安堵したというが、数時間の聴取だけで松永は帰ってきた。元妻はその後、松永の支配を逃れるために家を出、緒方が内妻に収まる。逮捕状が出されて逃亡生活が始まる直前の92年はじめ、緒方は松永の子どもを身に宿していた。

 

■最期のエゴ

松永は堕胎を勧めたが、緒方の出産への意志は固く、逃亡中の93年1月に長男を出産した。その後、松永は「こどものために」更なる犯罪に身を染めるように緒方を誘導することになる。詐欺師の目から見ても緒方の「我が子に対する情愛」は目を見張るものがあったのか、とりわけ人妻を誘惑の毒牙にかけて子どもを人質にとるようになった。

 

ここで裁判中の緒方の転向について私見を述べてみたい。基本的には、父・誉さんの殺人罪容疑での逮捕直後に態度を変えたこと、譽さんへの確定的殺意を否認して傷害致死を訴えたことから、“父親殺しの否定”が転向の動機だと捉えられている。

緒方の我を曲げない性格からして捜査当局の筋書きに対して「そうではない」と強く訂正を求めたかったことは確かである。だが両親や妹夫婦、何の罪もない姪と甥への贖罪の意識とともに、積極的に自白することになった動機としては“親としてのエゴ”があったのではないかと思う。

幼稚園での児童との触れ合いは当時の彼女にとって被虐待生活を忘れさせる唯一の時間であり、その後の詐欺・逃亡人生においても「二度とやり直せない」人生経験として特別な意味があったはずである。何の罪もない、未来に開かれた存在としてのこどもたちは、社会にとっての希望であり、自己嫌悪に苛まれていた緒方にとって心の救いであったに違いない。

また松永と不倫を始めた当時は、家柄や両親に対する疎ましさや恨みが強かったが、はたして彼女は「家」のためではない生き方を選び、結婚をせず「私生児」として子どもを産んだ。その決断に至る背景には、自分の家庭以外にも様々な親子関係を垣間見てきた経験から、何かしらの理想の子育て像もあったのではないかと想像される。自分を縛り付ける忌々しい「家」との決別であると同時に、婚姻による「新たな呪縛」を我が子には課したくないという思いもあったのではないか。

 

松永にとって自分の血を分けた子どもたちにどれほど関心があったのかは多く伝えられないが、長男を抱っこする写真が残されていることや通電虐待を加えていない事実からも、少なからぬ愛着はあったと考えられる。あるいは松永なりの緒方への敬意や愛情表現として「我が子に危害は加えない」という一線を守ったとも言え、仮に我が子に手を出せば緒方が反旗を翻すおそれも感じ取っていたかもしれない。

だが緒方は我が子をして自分と同じような道を辿らせたくはなかったに違いなく、勝手な想像にはなるが緒方家のみならず「松永の子」にもしたくはなかったのではないかと筆者は考えている。

厳しくしつけられ、家柄から、親に敷かれたレールの上から外れることの許されなかった箱入り娘は、残虐極まりない松永の“あやつり人形”へと人生を一変させた。しかし家のものでも松永のものでもない緒方がかろうじて守ってきた権利、プライド、最後に残されたアイデンティティこそが“子どもたちの親であること”だった。

 

緒方は自らの罪状を認識しており、殺人罪で起訴されてからは死刑を受け容れる心境でいた。自分の身はこの際どうなろうとも残された我が子に対する心残りはあった。憎しみの果てに起こした自分の行いが結果的には家族を死に導いたものの、両親から受けた愛情を振り返れば、悲しみや後悔とともに彼らへの感謝もあったのだろう。

自分が黙ったまま死刑になれば、我が子らは親を愛することも信じることもできない。愛してくれ信じてくれとは言わないが、最低限自分の間違いを認めてけじめをつけてから子どもの前では親らしく死にたい、と決心したように感じられてならない。彼女を男の許に縛り付けた鎖もこどもなら、獄中で男の精神的支配から解放したのもこどもだったと私は思う。

 

■消失

92年以降、松永らは北九州市内で少なくとも6か所以上の潜伏先を移っており、Sさんの自殺直後にも捜査の手が伸びることを恐れて転居することになった。それらの仲介を行っていたのが少女の父親で、契約の際、緒方が他人の名義を使用していても詮索してこないため松永たちの贔屓となっていた。捜査が及ばぬようにしたい緒方の要望から、父親は退去点検の便宜を取り計らい、敷金で返却された10万円を受け取っている。

そうした男の職業倫理や金に関するいい加減さは、松永に付け入る隙を与えてしまう。94年4月頃、競馬予想ビジネスをする投資して一儲けしないかという口車に乗せられた少女の父親は、女性と別れて父娘2人暮らしを始めた。

しかしすぐに言われるがまま少女を松永たちの元へ預け、月16万円という高額の養育費を搾り取られることになる。仕事が終わると片野のマンションへ行き、21時頃から明け方まで酒宴に興じる生活を送った。

少女の父親は酒が入ると無頼漢気取りになる悪癖があった。酔っ払った際、仕事での自らの不正行為について話してしまい、松永に「事実関係証明書」を書かされて、まんまと強請りのネタを与えてしまう。

さらに職場で発生した窃盗事件についても松永に「自白」を強要され、果てには娘に対する性的暴行を認める証明書まで書かされている。松永のビジネスパートナーになるつもりが、まんまとあやつり人形にさせられてしまったのである。

 

少女は裁判で、事実関係証明書を書かせる松永の手口について証言している。松永は少女に父親がした悪事を証言させていき、10個なら10個言わないと怒られるため、返答に窮した少女は「嘘」の悪事をでっちあげる。それを松永が採用して、父親が詰問を受けた。いつしか父親の監視と悪事の報告が少女に課される「仕事」になっていった。

水を満たした洗面器に娘の顔を近づけ「認めないなら娘を水に浸ける」と脅されて、父親は我が子を守るために、たとえ嘘でも無実でも悪事を認めるほかなかった。「少女に対する性的暴行」も少女が言わされ、父親が認めさせられた「嘘」のひとつで、そうした「事実関係証明書」は父親の死後に大半がシュレッダーにかけられたが100枚近く存在していた。

緒方によれば「松永は酒の肴に通電している印象があった。通電理由は些細なことばかりで覚えていない」と語る。通電の前には通電される理由が述べられ、説教や尋問を交えながら1時間以上に渡って続けられた。終わると松永は「ご苦労さん」と言って酒を振舞ったという。

 

そんな生活が長続きする訳もなく、少女の父親は職務怠慢で固定給を下げられ、歩合給を得ることも難しくなり、95年2月頃には勤務先を辞職。松永たちのいる片野のマンションで同居するようになる。

米か麺、あるいはカロリーメイトやバナナだけといった粗末な食事を1日2回、制限時間数分の内に完食することを強要された。制裁として数日間与えられないことや大量の水ばかりを与えられることもあった。食事というより餌、栄養補給というよりも人としての尊厳を失わせるための罰ゲームであった。

松永は、同居当初78キロほどあった父親の体重は半年で50キロ程にまで落ち込んだが60キロ台まで回復したと嘯いたが、裁判では「医学的にあり得ない」として却下されている。12月頃には異常な言動やろれつが回らないことが多くなり、歩行も困難になっていった。

食事の最中にも耳や顎にクリップを付けられ、通電を受けて口の中のものを吹き出すと、「もったいない」と𠮟りを受け、拾って口に詰め込まされた。不潔が嫌いな松永は、父親に冬でも冷水シャワーは毎日浴びさせ、着替えがないため洗濯中は全裸で乾くのを待たされていた。排泄も制限され、小便はペットボトル、大便は日に一回と決められていた。我慢できずに大便を漏らすと罰として便を食べさせられ、尻を拭いた紙まで水を与えて飲み込ませた。パンツに付いた便までチュウチュウと吸わせられていた、と少女は人間扱いされていなかった父親の姿を証言している。

 父親のいびきがうるさいとして「檻」と呼ばれる玄関に設けられたすのこ板でできた囲いの中で父娘揃って体育座りで眠らされ、その後、所定位置は浴室になった。移動させられるときは「床が汚れる」のを嫌った松永は、足元に新聞紙を引かせた。冬でもごく稀に暖房の使用(布団乾燥機で代用したが効果はほとんどなかった)や毛布を与えられるだけで、新聞紙5枚を掛けて寝るのが当たり前だった。

父親は少女が学校に行くときも帰ったときも浴室に立たされていた。少女も在宅中は父親と共に深夜まで立たされ、朝になると学校に通う生活を送った。少女も学校給食こそあったが、栄養状態やストレスの影響からか貧血や吐き気、生理不順など発育不良が慢性化していた。

 

松永は「金をつくれ」と直接口にはしなかったが、金を要求していることを相手に忖度させるように追い詰め、少女の父親もあらゆる手を尽くして1000万円ほどの金を工面した。当然、貸してくれる相手もいなくなり、当初は心配していた友人・知人も離れていく。金が作れなくなると通電虐待は一層凄惨さを増し、指に直接導線を巻かれての際には肉が溶けてケロイド状になり、骨まで見えるほどで応急処置こそ試みられたが指と指が癒着してしまった。

父親は通電の影響から自力で両腕を上げられなくなり、食事にも娘の介助が必要となった。「手首から白い糸が出ている」などといよいよ言動が怪しくなっても、松永は病院へ連れていくどころか「リハビリ」と称して通電を与え続け、命じられる緒方も手加減ひとつしなかった。少女は2人が悪魔に見えたと話す。あるときには通電された父親の気がふれて、「いつも娘がお世話になっています。ここまでやってこれたのは宮崎様(松永の偽名)のおかげです」と土下座した。1年程の同居生活で変わり果てた少女の父親に関して、緒方は「廃人に見えた」と率直に述べている。

 

1996年2月26日、学校から帰宅した少女は、浴室で父親が漏らした大便の片付けを命じられる。その時期には父親は痩せこけて全身に痒疹(ようしん)と瘡蓋(かさぶた)ができ、骨や筋と目玉だけが浮き出て表情はなく、抵抗の意思や気力など消失した「生ける屍」のような状態だった。

緒方の証言では、娘が浴室を清掃する間、父親は自力で台所へ移動した。その後、浴室へ戻すと、あぐらをかいて頭を垂れて両手を前に伸ばす前屈のような姿勢のままほとんど動かなくなり、突然、グォーグォーといびきのような音を立てて昏睡した。

異常を察知した松永は「あんたがご飯を食べさせてないけやろうが」と緒方を責め、台所に出して仰向けに寝かせた。そのときにはいびきは止み、目を閉じていた。松永は呼吸、心音、脈拍、瞳孔の状態から死亡を確認したが、暖房器具で体を温めたり、人工呼吸をしたり、心臓マッサージや足を揉ませたりといった「救命措置」を行った。蘇生の可能性にかけて何度か通電も行ったが、父親は再び目を開くことはなかった。

その後、松永は飲酒をしながら「掃除のときに浴室で頭を叩いたから死んだんだ」と少女に責任を被せるなどして、その旨の事実確認証明書を作成した。日頃から少女に命令して父親の体を噛み付かせていたことから、「あんたの歯形が残ってるから、病院に連れて行けば警察にバレて逮捕される」と脅かした。「バラバラにして捨てるしかない」と緒方と少女に解体を命じ、死因を特定するために臓器や脳みそを取り出して観察したりもしたが素人目に分かるはずもなかった。

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シャワーで血抜きをして解体し、出来るだけ細かく刻んだ肉片や臓器を長時間鍋で煮て柔らかくなったものをミキサーにかけて液状にすると、ペットボトルに詰めて公園の公衆便所に流させた。粉砕した骨や歯は味噌と一緒に団子状に丸め、クッキー缶10数個に詰め込んで、後日フェリーから遺棄した。解体に使ったノコギリや刃物は川に捨て、衣類はシュレッダーで刻んで廃棄、風呂場にはビニールを敷いて作業をしていたが更に念を入れて掃除した。父親の死後およそ1カ月をかけて、3人はその痕跡を消した。解体完了の翌日、緒方は病院に担ぎ込まれ、次男を出産した。

 

臨月で解体作業を続けた緒方の信念にも異様さを感じるが、これも出産に間に合わせるため、(松永の虐待への懸念から)こどもを守るために作業を急いだと見ることもできる。緒方は生前に少女の父親を実家に帰してはどうかと松永に提案していたことを後に明かしたが、それは人命を守るためではなく「面倒を看るのが嫌だ、不経済、長男の教育によくない、不衛生、精神的な負担が大きい等の理由」と説明された。金を作れなくなった段階で、2人にとって少女の父親は役立たずの邪魔者でしかなかった。

松永には「記録」を取る癖があった。写真で数々の強請りや詐欺を行い、事実関係証明書を書かせては脅迫を続けたように、父親との監禁生活の最中も多くの写真が撮影されており、皮肉なことにそれが虐待と衰弱の「証拠」として多く採用された。

緒方が黙秘を続けていた当時、捜査官に瘦せ細った少女の父親が虚ろな目で蹲踞させられている写真を見せられており、公判で「(当時、死ぬとは思っていなかったが)客観的に見て『ああ、死んでしまう』と思うくらいひどく、自分たちがやってきたことについてショックを受けた」と語っている。

少女の父親は、ときに松永の懲罰の対象となるような緒方の失敗を庇って自らを犠牲にしたり、刻々と死に近づきつつある悲惨な状況下にありながら「元気な赤ちゃんを産んでくださいね」と緒方に声をかけたことさえあったという。

 

公判では、1994年6月から96年1月頃までに撮影された少女の父親の写真資料9点(偶然写り込んだものも含む)と各供述とを照合して、医師による健康状態・死因の鑑定が行われた。肝・腎機能障害等の多臓器不全、栄養失調によるビタミンB群等の不足により末梢神経障害を発症し、アンモニア等の有害物質が処理されずに脳神経障害に至って言語障害、心理異常に至ったとする知見を述べ、殺人罪の実行行為に該当すると推認。

被告人らが行った人工呼吸等の「救命措置」は、父親の身体に異変が起きていても虐待を続け、生活改善を行わずに衰弱・悪化させた「殺意の認定」の事情に比べれば微々たるものでしかないとされた。

 

(下リンク、後半へ続く)

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 

 

 

参考

■小野一光氏による文春連載記事。記者目線で追う捜査の舞台裏が臨場感たっぷり。相関図が大変分かりやすかったので真似させていただいた。

「5分以内に爪を剥げ」監禁少女の脱走に激高した男はラジオペンチを手渡した | 文春オンライン

10人の連続殺人犯の声を綴った 『連続殺人犯』(文春文庫)では、松永との拘置所でのやりとりに焦点を絞り、その心性を「屈託のない悪魔」と表現する。

連続殺人犯 (文春文庫)

連続殺人犯 (文春文庫)

 

■豊田正義氏による渾身の犯罪ノンフィクション。DV関連の造詣に深く、凄惨極まりない虐待描写や複雑に絡み合う人間関係とその情念が精緻に描出された“血なまぐさい”一冊。法廷を爆笑させたという「松永の松永による松永のための」物語に興味がある方は必読。

■Electrical Abuse and Torture: Forensic Perspectives, Ryan Blumenthal and Ian McKechnie,2017 https://www.researchgate.net/publication/319402365_Electrical_Abuse_and_Torture_Forensic_Perspectives

■一審判例https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/111/008111_hanrei.pdf

北九州連続監禁、緒方被告の無期懲役確定へ: 日本経済新聞

広島県府中町主婦失踪事件について

2001年9月、広島県安芸郡府中町のマンションに住む主婦が失踪した事件について、風化防止のために記す。

失踪までの経緯やそのタイミング、失踪後に届いた“駆け落ち”を示唆する不可解な手紙など謎が多く、事件性が囁かれている。

 

また状況などは異なるものの、同じように「主婦」が忽然と姿を消した事案として、「群馬県赤城神社主婦失踪事件」、「大分県日出町主婦失踪事件」についても取り上げているので参照されたい。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

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 本稿では事件概要の後、国内の行方不明者についての大枠に触れ、後半で各疑問点について検討する。

 

 

■概要

・不可解なドタキャン

2001(平成13)年9月24日10時頃、広島に住む主婦・田辺信子さん(50)の許に友人のNさんから電話が入り、昼食に出掛けようと誘いがあった。

そのとき信子さんはまだ寝起きで身支度が整っていなかったため、Nさんに「シャワーを浴びたい」「用意ができたら電話する」と返事をした。また信子さんは入院した夫の許へ着替え類を渡しに行くつもりだったため、一緒に昼食を食べてから病院に行くということで了承した。

 

11時20分、信子さんからNさんに「用意ができた」と電話が入り、Nさんは「迎えに行くからマンションに着いたら電話を掛ける」と返答し、信子さんの暮らす安芸郡府中町青崎にあるマンションへ車で向かった。

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11時48分、Nさんの携帯電話に信子さんからの呼び出しが入った。そのときNさんは運転中で既に信子さんの住むマンション付近に差し掛かっていたため、電話に応答せずに運転を続け、そのうちに呼び出し音は切れた。

11時50分、Nさんは信子さんの住むマンションの下に到着。信子さんの携帯電話に掛け直したが、電話先から「あー」とだけ聞こえて数秒ですぐに切れてしまった。

Nさんは不可解に思ったが、電話に出たのだからすぐに出てくるだろうと思い、そのまま車中で待機していた。

12時頃、Nさんは信子さんが降りてこないので、再度電話で呼び出そうとするが、また「あー」「うー」とだけ声が聞こえて、すぐに切れてしまった(※疑問1)。

待てども信子さんは一向に姿を見せず、2,3分おきに呼び出しを試みたが、その後応答はなかった。

12時21分、しびれを切らしたNさんはマンション3階の信子さんの部屋を訪ねるも、玄関は施錠された状態で室内から応答はなかった。

12時30分頃、約束を反故にされたと思ったNさんは立腹してその場を後にした(※疑問2)。

 

・事件の発覚

Nさんはその後も信子さんと連絡が付かず不安に思ったため、19時30分頃、入院中の信子さんの夫に連絡を取り、「信子さんが病院に行っていないか」と確認を取った。だがその日、信子さんは夫の見舞いに訪れていなかった。

20時頃、Nさんと信子さんの夫は、マンションの部屋を訪れた。施錠されており、中から応答はなかった。信子さんの夫はそのとき部屋の鍵を持ち合わせていなかったため、鍵屋を頼んで解錠した。

マンションの隣室には義母(夫の母親)が住んでおり、耳が遠く、足が不自由で移動に車椅子を必要としていた。昼間にNさんが部屋の前に訪れた際には玄関前に車椅子が広げて置いてあった。しかし夜には畳まれた状態で所定の位置に片付けられていた。義母に後で確認したところ、車椅子について知らないと答えた(※疑問3)。

 

20時30分頃、夫とNさんは入室したが、部屋を荒らされたような形跡はなく、洗濯物は干したままの状態で、入院先の夫に届けるために袋に支度してあった着替えがそのまま残されており、「ごく自然な状態」だった。

スリッパは若干乱れていたものの、信子さんが身支度を整えたらしくシャワーを使った形跡が残り、化粧品は部屋に残されたままだった。

しかし信子さんが普段持ち歩いている「ショルダーバッグ」がなくなっており、中身は夫への見舞金など現金25万円程度、夫の障害手帳、携帯電話、その他カード類などが入っていたものとみられた。テーブルの上には着替え袋から出したと思われる夫婦の診察券が残されていた(※疑問4)。

 

その後、親しくしていた女友達8人に連絡を取り、手分けして捜索したが発見されず。22時頃、連絡を受けた信子さんの兄が広島市東警察署に通報した。

 

・「ふたりを探さないで」

翌25日、信子さんの夫とNさんら友人たちは広島市東警察に赴き、事情を話して捜査を依頼するも、警察署員は「こどもではないのだから」と「家出人」扱いの行方不明者として対処。

9時10分、信子さんの携帯電話に掛けると呼び出し音はあったが応答はなし。

その後、警察が電話会社に調査を依頼したところ、21時10分に呉駅付近で携帯電話の反応がなくなったとされた。府中町青崎から呉駅まではおよそ20キロ離れており、車で30分ほどの距離である。

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29日朝、自宅郵便受けに差出人不明の手紙が届いているのが発見される。

私もやっと妻子と別れ、はれて信子と一緒になることが出来ました。ふたりを探さないで下さい。

 とワープロかパソコンを使ってタイピングされた文字で書かれていた(※疑問5)。

消印は9月26日付で福山郵便局とされていた。青崎から福山までは90キロ以上離れている。

 

マンションには2か所の階段があったが、信子さんは心臓病の持病があり、激しい運動を避けるために普段からエレベーターを使用しており、自発的に外出したとすればエレベーターに乗ったと考えられた(※疑問6)。

自宅マンションの防犯ビデオを警備会社に確認するも、「11時から9時」の時間帯にエレベーターを使用して昇り降りしたのは60歳前後の男性ひとりだけだった(別の階で降りたため警察は調査せず)。

 

9月30日、手紙と防犯カメラの画像を持参して、広島市東警察に行き、事件としての捜査を再度依頼。警察が現場検証に訪れたが、自室に争った形跡などは確認されず。

部屋の鍵が掛けられていたこと、送られてきた手紙の内容などから自発的失踪と判断され、夫らの必死の訴えも空しく本格的な捜査に進展することはなかった。

部屋には信子さんの父親が信子さんのために蓄えた1000万円ほどが入った預金通帳が残されたままになっており、その後も出金などの動きは見られなかった。

 

その後、2005年11月14日(月)放映の事件捜査番組『奇跡の扉 テレビのちから』に「50歳妻が謎失踪」と題する特集が組まれたことで広く知られることとなった。

 

■被害者と親族間トラブル

失踪した田辺信子さん(旧姓梶谷)は1951年8月8日生まれの当時50歳。1988年に結婚し、子宝には恵まれなかったが、2人でよく旅行に出掛けるなど「おしどり夫婦」として知られていた。

失踪後に届いた手紙には不倫関係を匂わせる文言があったが、親しくしていた友人らにそうした愛人関係は全く思い当たらなかった。

2001年に夫が癌で倒れて入退院を繰り返し、信子さん失踪時には仕事で指を負傷して入院を余儀なくされていたが、信子さんは毎日夫を見舞うなど甲斐甲斐しく看病していた。

夫によれば、その信子さん自身も心臓病の他、癌と便秘を患っていたと言い、薬は部屋に残されたままだった。

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その後、夫は妻の失踪が解決どころか本格的な捜査さえされないまま、失意のうちに病死。信子さんの兄とその知人らは、インターネット上でホームページを立ち上げ、夫方の親戚との遺産トラブルに巻き込まれたとの「仮説」を示し、失踪の事件性を訴えて再捜査を求めた。

義母の預金管理を信子さんが任されており、夫方の親戚男性から家に押し掛けられて嫌がらせを受けていたという。かつて友人が居合わせていた折にも「殺すぞ」などと怒鳴ったことがあったというのである。そのため信子さんは転居も検討していたとされる(※疑問7)。

すでに義母も高齢で、信子さんの夫も癌を発症して入退院を繰り返していたこともあり、そうした立場の人物がいたとすれば遺産目当てに信子さんをなきものにしようと考えてもおかしくはないように思えた。

信子さんの兄らによる推理では「殺人事件のにおい」がすると疑惑を抱いているが、その夫方の親戚男性には捜査機関によるアリバイ確認すら行われていない。

その後、信子さんの兄が立ち上げたホームページ等の情報は消されており、現在では限られた情報しか伝えられていない(※疑問8)。

 

■日本の行方不明者の状況について

参考として警察庁発表の資料をもとに、近年の国内の行方不明者の状況を簡単に触れておきたい。

平成18(2006)年以降、年間の行方不明者の届出受理数は、ほぼ横ばいで8万人を超えており、男女比はおおよそ男64:女36の割合である。

尚、令和2年度はコロナ禍による外出自粛などの影響により77022人と、前年度より約1万人の大幅減少となった。

 

年代別では20代、続いて10代が多い。また70代・80代以上の高齢者に増加傾向が顕著にみられ、関連して「認知症またはその疑い」があると申し出のあった不明者も全体の2割前後を占めている。9歳以下のこどもの届数も増加しており、背景として離婚率の増加と単独親権制度に抗する親・元親による拉致によるものと考えられる。

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所在確認等数についても、ほぼ横ばいで8万人を超えており、行方不明者の9割以上はその後、所在が確認されている。男女比はおおよそ64:36の割合であり、性別によって所在確認される率が大きく変わる訳ではない。

 

下は過去5年分の【年度ごとの行方不明届出数/所在確認等数】。

H28・・・84850/83865

H29・・・84850/81946

H30・・・87962/84753

R1・・・86933/84362

R2・・・77022/79640

「所在確認等」という表現には、生きて所在が確認されたもの、死亡確認されたもの、その他届け出が取り下げられたものの数が含まれている。行方不明者届を取り下げるには様々な理由が考えられるが、失踪者が戻ってきたり、後になって連絡が付いた場合などがある。

令和元年中では総数84362人の内訳として、所在確認71910人、死亡確認3746人、その他8706人である。

令和2年中では総数79640人の内訳として、所在確認66166人、死亡確認3830人、その他9644人である。

 

 届出人から申告のあった【原因・動機】は以下。

疾病関係(認知症含む):25~30パーセント

家庭関係:16~19パーセント

事業・職業関係:10~13パーセント

学業関係:2~3パーセント

異性関係:1~2パーセント

犯罪関係(会社の金の使い込み、売上金持ち逃げなど):0.5~0.7パーセント

その他(遊び癖、放浪癖など):19~23パーセント

不詳:16~19パーセント

「異性関係」は全体の1~2パーセントと数字の上では少なく、人数にして年間1300~1800人程度である。具体例は不明だが、夫婦やカップル間でのケンカ、結婚に反対されたり不倫などによる駆け落ち、失恋や離婚のショックとみられる蒸発、などが含まれるだろうか。

届出人が申告する動機のため、交際や不倫といったプライベートな事情について把握していないこともあるだろう。また家族やカップル間で虐待やDVがあれば届出人が申告をためらうこと等も考えられ、「不詳」に含まれている数も少なくないように思われる。

 

所在確認等までの期間は、届け出の「受理当日」、「2~7日」が圧倒的に多く、所在が確認される人の70パーセント以上が失踪届出から一週間以内に発見されている。いわゆる徘徊などの事案が全体の5分の1程度と非常に多いためすぐに発見されるケースが多い。また家出人が数日経ってから家族に連絡を寄越すなどが考えられる。

令和元年であれば、所在確認等の総数が84362人に対し、受理当日が34993人、2~7日は26958人。

令和2年であれば、所在確認等の総数が79640人に対し、受理当日が34636人、2~7日は23002人。

「8~14日」「15日~1か月」「1か月~3か月」「3か月~6か月」「6か月~1年」「1年~」の各範囲でばらつきはあるものの概ね各2000~3500人程度。母数は不明ながら、届出をしてから「2年以上」が経過していても、令和元年で4946人、令和2年で5869人と少なくない人数の所在が確認されている(捜索断念などの理由で届出の解消も多くなるため、必ずしも全員が発見されている訳ではない)。

 

■「主婦」の失踪

 経済力がなく行動手段がない子どもの不可解な失踪であれば、「特異行方不明」(事件性がある可能性が高い)事案として早期発見のための大規模捜索や捜査活動が行われる場合もある。

だが成人の場合は、現場に血痕が残されていたり部屋に荒らされた形跡があるといった事件性が明らかでなければ自発的失踪(家出人)として処理されることが多い。

大分県日出町の光永マチ子さん失踪の事案でも自発的失踪として対処され、警察は一度警察犬を連れてきただけで失踪現場と考えられた自宅内の鑑識などは行われなかった。たしかに多くの行方不明者は後に所在確認されてはいるが、何年たっても発見されず「神隠し」「長期失踪」事件化するケースも後を絶たない。

上で見たように、毎年80000人以上もの行方不明者届が申請されることから、ある程度の割り切りも必要というのは理解できる。だが失踪から数週間経過したものは関係者に再聴取し、事件性の有無について再検討の機会を設けるなど、柔軟な運用も併せていければ見つかる行方不明者、解決できる事件もあったのではないかと思われてならない。

 

■検討にあたって

被害者遺族も同様だが「失踪者家族」が顔や名前を晒して積極的に捜索協力を訴えることには大きなリスクを伴う。1994年に起きたつくば母子殺人事件(野本岩男)や2011年に起きた日出町2歳女児失踪/死体遺棄事件(江本優子)のように、実際には身内が捜索願を提出して隠蔽しようとするケースも存在するため、世間から真っ先に疑惑の対象とされてしまうためだ。

赤城神社の事案では「家族の証言しか出てこないのはおかしい」「そもそも法子さんは現地に行ってないのではないか」といった夫方親族による殺害隠蔽説を唱える者もいる。記憶に新しいところでは2019年の山梨キャンプ場女児失踪でもそうした身内を疑う声、いわれなき非難や誹謗中傷も大きな問題となった。社会心理として一定の人々にはそうした主張が受け入れられやすいのかもしれない。

もし仮に身内が「殺人犯」だったとして、テレビ番組に出演したり自ら情報発信したりして失踪の事件性を訴え出るだろうか。自身の関与を否定するための偽装工作だと考えても「失踪」の注目度を高めるのは悪手であり、却って疑いの芽を自ら拡散させることにつながる。警察との係わりにしても、失踪時の届け出や基本的な事情聴取だけで「家出人」扱いにしておいた方が便宜がよく、「特異失踪者」扱いの本格捜査を求める必要性はない。

そのため積極的に捜索活動を行う親族ら(信子さん失踪であれば夫や兄)について、失踪や殺害には関与していないと見るのが妥当だと考える。注目を浴びるために公表したり、捜査を掻い潜ることに快感を覚える倒錯者やソシオパス、心身の喪失で犯行の記憶や意識がない等のケースはゼロとは言わないが極めてレアケースであり、議論の余地もないため本稿では取り扱わない。

  

■ 自発的失踪について

・不倫説・・・専業主婦は勤め人に比べて時間の融通が利きやすいためか、誰にも知られることなく不貞を行っていたのではないか、駆け落ちに走ったのではないかとする推理は主婦失踪案件では多く見受けられる。不倫は、人間関係としての実態を他人と共有しない隠れた交際であるため、第三者からすれば根拠なく「疑惑」にしやすいのである。

不倫の原因としては、配偶者との性的不一致や性格的なすれちがい、家庭生活そのものに対する不満など様々かと思うが、そうしたプライバシーに関わる他人への憶測が多くの人の好奇心を刺激するためでもある(まさしく筆者が行っていることにほかならない)。

だが実際に配偶者と離れて不倫相手と一緒になりたいという心境にまでなれば、(DVなどがあればまた別ではあるが)「駆け落ち」を決意する前に一度は「離婚」を切り出すのが当然のなりゆきのように思われる。

恋愛に年齢は関係ないとは言うものの、一般的な感覚としては赤城神社事案の法子さんのように産まれたばかりのお孫さんがいるような状況ではそうした情熱も下火になると想像される。

府中町の信子さんにしても、以前からの義母の介護に加え、夫の入退院で慌ただしくなり、自身も持病の不安を抱える中で愛人との逢瀬を続け、見捨てるように逃走できるほどのエネルギーがはたしてあったのかは甚だ疑問である。

 

・DV説・・・主婦が姿を消す理由として、夫や家族から妻へのDVがあったのではないか、暴力夫や「家」から逃げ出したのではないかとする憶測も多く囁かれる。たしかに夫は入院中で手元にまとまった現金があるタイミングは逃走に打ってつけに見えなくもない。

だが少なくとも信子さんやマチ子さんには親しい友人達が多くおり、3者とも結婚してからそれなりの期間が経っているのに周囲のだれも気付かないというのも不可思議な話である。

DV被害者によっては第三者に相談・告発できないほどの恐怖におびえて自ら被害を隠蔽するケースも存在する。もしかすると外部には全く隠し伏せられていた家族の軋みやDV等もあるかもしれない。

しかし、さすがにそこまで思い詰めて家出を決意していたとすれば「友人とのランチ」には断りを入れるだろう。

 

体調の不安・・・気に掛かった点として、信子さんは心臓病と癌、赤城神社の法子さんは耳の障害(めまい等の症状からメニエール病とも言われている)といった持病を持ち、日出町のマチ子さんも病名こそないがその日は朝から具合がすぐれなかったことが指摘されている。三者とも予期せぬ体調異変が想定されることは気掛かりな共通点である。

家族関係(介護、育児、親戚付き合い)で心身に負担が掛かっていたことも懸念され、解離性障害(一時的な心神喪失)などの発症も考えられなくはない。また急な発作や昏睡等のおそれも考えられ、何者かに暴行されたとすれば大声を上げたり抵抗することも難しかったかもしれない。

さらに失踪後、医者にかかった記録がない点は留意せねばならない。若い健康体であれば何年も病院にかからずに維持できることもあるだろうが、妙齢で持病持ちともなれば、よほど経済力がなければ無保険診療を受け続けるというのはやや考えにくいものがある。まして信子さんは心臓病と癌であり、薬も持たず家出を企図したとは考えられない。

 

金銭管理・・・注目すべきは、信子さんは25万円ほどの現金がバッグ内にあったとみられているものの、三者とも預金を引き出していない点である。「金に不自由のない不倫相手」が存在し、足が付くと考えて金を引き出さないという可能性は否定しない。また夫が全面的に金銭管理をしていたとすれば、手許に金がなくても逃げ出す可能性はあり、失踪後も手を付けない理由にはなる。

だが若者ならばいざ知らず、家出する身になって考えれば事前に逃走や新生活の資金があるに越したことはない。とりわけ信子さんに関しては、父親がいざというときのために蓄えてくれていた預金にさえ手を付けていない点は理解に苦しむ。

   

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自発的失踪であれば、発覚を遅らせたい意思がはたらくものであり、こうしたタイミング、バッグと25万円という装備で出立を決意するとは一般的な50代の行動として考えにくい。

筆者としては自発的失踪の線は低く、三者による連れ去りなど不測の事態が起きた可能性が高いと考えている。疑問点の確認をしながらどういった状況が想定されるか考えてみたい。

 

■疑問点

※①「呼び出し」と「あー」「うー」

信子さん側からNさんに掛かってきた電話は何だったのか。急な来客など予期せぬ用事が入ってしまい、“ドタキャン”や時間変更の連絡を入れようとしたのか。それとも思わぬトラブルに巻き込まれて助けを求めようとしたのか、急な発作に襲われて意識朦朧の中、リダイアルボタンを押したのか。

 

掛け直してつながった際に聞こえた「あー」「うー」は助けを求めていたのか、苦しみ悶えていたのか。そもそも信子さんが発した声だったのか、別のだれかの声だったのか、はたまた何かの音が電話を通してそのように聞こえていた可能性もある。文字情報からは声量や声色、電話口との距離感などが伝わりづらく様々な想像ができてしまう。

「悲鳴のような」と表現される場合もあるが、電話口でそう思っていれば※②腹を立てて帰宅することもなかったと思われ、失踪状況が明白になった後で「もしかするとあれは悲鳴だったのかもしれない」と思い直したのかもしれない。

 状況が読めないのは、2度の応答があったがともに数秒で切れてしまったという点。いわゆる電波が弱い状況だったのか、誤操作があったのか。

 

※②友人Nさんはなぜ帰ってしまったのか

私たちは事後的に信子さんが失踪することを知っているため、「なぜNさんはしばらく信子さんの部屋に向かわず車で待機していたのか」、「なぜ信子さんの発作を疑ってすぐに通報しなかったのか」と感じがちで、友人を責めたくなる気持ちも理解できなくはない。更には家出を知りながら虚偽の証言をしているのではないかとする友人協力家出説すら存在する。

おそらくNさんと信子さんはこれまでにも一緒にランチに出掛けることが何度かあり、信子さんはどれくらいでNさんが到着するか、どこに車を停めるかも概ね了解済みだったと考えられる。「着いたら電話する」約束であるから、「あー」「うー」と会話にはならなかったが一応、向こうも電話(Nさんの到着)には気付いている。11時50分に到着して30分近く階下で待っていたのは気が長いようにも思えるが、「そのうち来るだろう」という判断自体はおかしくはない。

 

過去に信子さんの発作や苦しんでいる場面に遭遇したことがなく、たとえば「心臓が悪くて、階段だと心拍数上がっちゃうからいつもエレベーターなの」と聞かされていた程度であれば“中高年あるある”ではないがあまり深刻に捉えていなかったことも充分にあり得る。ついさっき電話で話していた相手が「発作」ましてや「誘拐」などとは思い至らず、腹を立てて帰ることも普通にあり得るのではないか。

そのときのNさんの身になって考えてみれば、目の前で人が倒れている訳でもなく、友達が「30分ほど電話に出ない」「部屋から応答がない」だけで救急に通報するというのは相当な判断力、決断力が迫られる場面である。

また逆説的に、朝に電話した際の信子さんには健康上の違和感はなく、「あー」「うー」の声は発作やアクシデントを感じさせる緊迫感はなかったとも捉えられる。

自ら救急や警察に通報した経験のある人がどれほどいるのかは分からないが、身近に発作で倒れた人がいたり、医療従事者や警察など突発的な事態を想定して行動する訓練や経験がなければ、実際にすぐ通報行動を取ることは難しいように思う。

 

Nさんが信子さんの家出を手伝ったとする仮説も考えにくい。家出を協力した直後にわざわざ入院中の夫を呼び出してまで早急に失踪を発覚させる必要がないのである。

また携帯電話の発着信について詳しい時刻が出ている以上、通信記録が残されており、夫や兄らもそれを確認した、午前中の信子さんとの電話のやりとりの事実はあったと推測される。

 

※③義母の車椅子

赤城神社事案では夫の「実家」に訪れ、夫方親族と一緒に出掛けていた先で失踪したことから、親類との間に軋轢があったのではないかといった「家」の問題にフォーカスする説も存在する。

信子さんの夫が長男だったか否かは不明だが、「介護」 を必要としていた義母を引き取って面倒を見ていた。亡くなった義父の遺産は義母に相続されていたが、その預金通帳の管理を信子さんが行っていたことから、義母は自身で金銭管理できない状態、認知症や寝たきりに近い状態だったと推測される。

本来は義母が乗るための車椅子であることから、元の置き場所は信子さん夫婦の部屋ではなく義母の部屋に置かれていたと見るのが妥当。それが一時的に廊下に出ていた、後に元の位置に戻されていたならば、「義母の部屋」に出入りができた人物が動かしたことになる。

 

また通常であれば失踪を知った夫は隣室にいた母親に真っ先に「信子さんの行方を知らないか」「何か異変はなかったか」「誰か部屋に来たか」「車椅子を動かしたか」など状況を詳しく確認しそうなものである。しかし「後日」確認したとされていることからも義母の部屋の鍵が夫婦の部屋になかったか発見できなかった、あるいはすぐに義母に確認したが認知や証言能力が不確かですぐに回答が得られなかったのかもしれない。

車椅子の用途としては、「祖母を室外に出す」「台車代わりに物を載せて運ぶ」ことが考えられ、たとえば義母の部屋に出入りできる第三者信子さんを載せて外に運び出そうとしていた可能性もある。

 

※④テーブルの上の診察券

信子さん自身が支度や確認のために出したものか、第三者が何かを探そうとして出したものかは判然としない。

仮に第三者が探していたとして着替え袋から何を見つけようとするだろうか。これから何かを探そうとしていたがほとんど手つかずのまま中断して診察券だけが出ていたことも考えられるが、金目のものや重要書類を探していたとは少し考えづらい。

あるいは「診察券」そのものに記載された情報(たとえば夫の入院先を確認するため)が必要だったのか。

 

※⑤不倫をほのめかす手紙

たとえば三重県加茂前ゆきちゃん失踪事件で送られてきた怪文書のように、すでに失踪が周知された時点での手紙であれば、無関係者による悪質ないたずらとも考えられる。だが信子さんの場合は失踪初期段階での怪文書であるため、近親者や事情を聞かされた友人ら、警察や病院関係者、もしくは「失踪に関与した人物」でなければ怪文書を送りつけることはできない。

たとえば犯行現場で「置手紙」を用意できず後から偽装工作するのであれば、2014年に発生した埼玉朝霞少女誘拐監禁事件(寺内樺風)のように、信子さん本人に強制して「家出の手紙」を書かせる方が信憑性や説得力が増すものと考えられる。

なぜ本人に書かせなかったのかを考えると、信子さんがどこかに監禁されるなどして誘拐犯とは別々の場所いたため書かせることができなかったか、あるいは信子さんが文字を書くことができない状況だったと考えるのが自然だ。

またワープロ文字であることから、「失踪に関与した人物」本人ではなく、別の協力者、共犯者が代筆して投函したこと等も考えられよう。

 

※⑥エレベーターの謎

エレベーターを使用せずに信子さんが移動したと見られる点でもやはり第三者の介入を窺わせる。第三者が信子さんを攫う目的で昼間にわざわざスーツケース等を持参して階段を上ってくることもやや考えにくいため、信子さんを強制的に階段から降りさせたか、背負って階段から運び去った可能性が高い。

しかし夫らは失踪した24日21時までのエレベーター映像しか確認していないため、可能性としては動けない状態の信子さんを一時的にマンション3階に隠し置き、24日21時以降(たとえば25日未明など)に移動させた可能性もある。

 

※⑦夫方親族への疑惑

ネット上で親戚への疑いを書き込むということ自体がやや信じられないことのように思われるが、それほど信子さんの兄にとっては強烈な疑い、相応の確信を抱かせる人物ということなのであろう。

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その後、癌で闘病する信子さんの夫は親族女性(疑惑の“夫方親族男性”の姉に当たる人物)の介助を受けながら、「信子さんは生きている。夫の友達が、信子さんが男といるのを見たと言っていた」「(信子さんの義母)のところに出入りしている人が『信子さんは男と逃げている』と言っていた」と聞かされていた。

信子さんの兄が夫からその話を聞いて、その証言者を紹介してほしいと親族女性に頼んだが、会わせてもらうことはできなかったという。

また信子さんの兄が夫の見舞いに訪れた際には、机の上に「遺書らしき文書」があったと言い、財産を(行方不明中の)信子さんではなく夫方親族らに相続するよう説得していたのではないか、と推測している。

 

だが親族姉が「信子さんを見た人がいる」と信子さんの夫に話したのは、病床で弱気になった信子さんの夫に希望を持たせるため、「男と逃げている」と話したのは焚きつけて奮起させるために場当たり的についた善意のウソだった、といった見方もできなくはないのではないか。

夫が親族姉を疑ってゼロからそうした嘘をついたとは考えにくいが、たとえば「私の知ってる人で信子さんによく似た人を見たって人がいるのよ。早く良くなって確かめに行きましょう」「(義母のところに来る)訪問介護の人に“信子さんがいなくなっちゃったから訪問介護を頻繁にお願いすることにしたんだ”って話したら『男の人と逃げちゃったのかもね』なんて言うのよ。まったく何考えてるのか、信じらんない」といった話しぶりだったとしたらまた意味が変わってくる。

 

※⑧遺産の行方

 「ふたりを探さないで」の手紙、「男と逃げているのを見た人がいる」といった親族姉の証言が功を奏したのか、まともに取り合わなかったのかは分からないが、警察は親族弟のアリバイ確認すらしないまま真相は明らかにされず、信子さんは所在確認されることはなかった。関係者筋の記述にも明示されてはいないが、義母や夫が亡くなった後、夫方親族らが相続した可能性は高い。

動機としては充分に考えられるものの、夫方親族男性らが信子さん失踪に関与していた証拠はない。過去に信子さんが夫方親族男性の脅迫で警察を呼んだこともあったという話もあり、地元署内では「親族関係に問題あり」と認識されて、却って不可触を決め込まれていた可能性すら感じさせる。

 

私たちが現在得られる情報は、「信子さん本人や友人」→「信子さんの夫」→「信子さんの兄」→「兄の友人」というフィルターを通して伝えられたもののみであり、何人かの伝聞や書き下し作業の中で、聞き手の解釈が加味され、その間に削ぎ落された情報も多いように感じられる。その情報だけを信じれば「親族姉弟が関与している」ようにしか読めないようなバイアスがすでに幾重にも掛かってしまっている。

たとえば親族弟が脅迫した件でも、単刀直入に「殺すぞ」と言いながら部屋に押し入ってくれば恐怖でしかないが、それまでの会話の流れでそうした脅迫めいた文言が出たものと考えられる。説得に応じない信子さんに対して「話にならんのう、いてまうぞ、われ」と言ったり、「わしらが財産管理するけ、あんた早う消えてくれんかのう」等と横暴な要求ではあったにせよ、何がしかの言い回しがあったと推量される。

 

筆者が公正中立だとは思わないし、警察や大手メディアが必ずしも正しい訳でもないが、果たして私たちが知りうる情報のどの部分が事実なのか、どの部分が発信者の解釈なのかは慎重に読み解かなければいけない。

 

■所感

歪な親族関係と遺産相続、介護や重い病といった様々な要素が絡み合う主婦失踪事件である。一応ここでは信子さんの兄の友人が伝えた情報を元に状況を妄想して終わりにする。

 

急なランチの誘い、午後には夫の病院への用もあって、普段より長く家を空けることになる。となれば、出掛ける前に義母の世話をできるだけ済ませておきたかったと考えるのが筋だろう。

自室の戸締りをして義母の部屋を訪れ、おおよその手筈が整ったところで友人に「用意ができた」と連絡を入れる。

だがそこに折悪く男が現れた。入院した夫の話、遺産相続の話といつも以上に主婦を責めたてて話を止めない。夫がいない隙をついて、時間をかけて相続を放棄させんとして現れたのかもしれない。

行けなくなったと連絡するためか、助けを求めてだったのか、主婦は電話を掛けて友人を呼び出そうとするが応答がない。バッグを持って義母の部屋から出ようとすると男は行く手を遮る。

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「お願い、出して」と声を上げると男は咄嗟に主婦の口を覆う。

「おとなしくしろ」

男は抵抗しようとする主婦を押さえつけてテープで口を塞ぎ、後ろ手に拘束する。

「!」

主婦は急に無抵抗になり顔をしかめてうずくまる。

男は主婦の持病までは関知しておらず、その様子を見てパニックに陥ったかもしれない。

「(このまま放置すれば勝手に死ぬかもしれない。夫は入院中ですぐには戻らないし、義母には直接目撃されていない。だが万が一、息を吹き返したら…)」

男は仲間に連絡を取り、どうすべきかを電話で相談。

その間、主婦は息も絶え絶えにバッグから携帯電話を取り出し、手探りで友人のNさんに連絡を取ろうとするがつながらない。

「(このままだと殺される)」

友人からコールバックが入る。「通話ボタン」を押すことができたものの、呼吸もままならず腹に力がこもらず声にならない。拘束された状態での手探りで操作を誤り、通話を切ってしまう。そこで主婦の意識は混濁し、以後電話に応答することもなかった。

 

主婦を部屋に置いたままにすれば男が疑われることになるため、一時的に連れ去り、後で行き倒れなど自然死・突然死を装って遺棄する等が計画された。男は部屋にあった車椅子の支度をし、部屋にいた痕跡が残らないよう確認したあと、昏睡した主婦と荷物を載せてエレベーターへ向かう。

「!」

エレベーターは「1F」に呼び出されており、このままでは鉢合わせになりかねない。男は慌てて義母の部屋に戻り、玄関前に車椅子を放り出して主婦を部屋に押し込む。

玄関で聞き耳を立てると、気配は隣の部屋の前に訪れ、インターホンを鳴らす。

 

 しばらく経って男はだれもいないことを確認し、車椅子を元に戻すと、車を階段出入口付近に回して、主婦とバッグを担いで階段から脱出。すぐに警察が来るおそれもあるため、友人が立ち去って30分以内にはその場を後にしたものと考えられる。

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24日昼に失踪、25日夜には呉駅付近に出向いており、26日には「手紙」を福山で投函しており、男の居住地などは不明だが東進していることから、岡山・兵庫・鳥取方面の山中やダム湖などへと向かったのではないか。

そのように考えると、すぐに警察によるアリバイ捜査が行われていればと思わずにはいられない未解決事件である。

 

 

■参考

行方不明者|警察庁Webサイト

『令和2年における行方不明者の状況』警察庁生活安全局生活安全企画課https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/R02yukuefumeisha.pdf

友人の妹(かぎりなく殺人事件のにおいのする失踪事件)

 

大分県日出町主婦失踪と2つの事件について

2011年9月、大分県日出町で主婦が白昼に自宅からいなくなったとされる不可解な事件である。発生当時、同じ町内で起きた2つの未解決事件(女児連れ去り、高齢夫婦殺害)との関連が噂され、注目を集めた。

警察は主婦失踪について事件性を認めず「自発的失踪」とし、2つの事件については決着を見たものの、その結末にはやはり多くの謎が残されているように筆者は感じている。

本稿では同時期・同地域に起きた3事案を取り上げ、関連やそれぞれの疑問などについて考えてみたい。

 

 

■概要

2011年9月12日(月)、主婦の光永マチ子さんは朝から体調がすぐれず支度が遅れてしまったため、こどもたちを車で学校に送った。

だが9時45分頃、長女の前歯がかけてしまったと小学校から連絡が入り、マチ子さんはすぐに車で娘を迎えに行き、最寄りの歯科医院へと連れて行った。治療を終えた後、一度スーパーに買い物に立ち寄った(11時20分頃の防犯カメラに2人の姿が映っている)。

11時半ごろに長女を再び小学校へと送り届けた際、「めまいがするから家で寝ている。終わったら電話して」と長女に伝え、そのまま消息を絶った(※)。

 

大分県日出町(ひじ)は別府湾を南方に臨む人口28000人ほどの小さな町である。日出町大神(おおが)にある一家の自宅は田畑に囲まれており、隣の家まで150メートル離れており、夫婦と長男(10)・長女(7)の4人で暮らしていた。町の中心部からはやや離れており、どこに出掛けるにせよ車がないと不便な土地柄である。

マチ子さんはとても慎重な性格だったため在宅中でも必ず戸締りする習慣があったが、15時頃、長女が歩いて帰宅したとき玄関の鍵は掛けられていなかった。自家用車は家に置かれており、長女を学校に送った後に一度は帰宅していたものと見られたが、家の中に母親の姿はなかった。

いつも帰宅時には家で待ってくれていた母親が不在で、心配になった長女は父親と祖母に電話を掛け、母親の不在を伝えた。

 

その日のマチ子さんはTシャツに7分丈のパンツといった普段通りの装いだった。家のものを確認したところ、マチ子さんの「バッグ」「財布」「(普段使用していた)モノトーン色のポーチ」「家と車の鍵」「健康保険証やクレジットカード」「白い花飾りのついたビーチサンダル」といった日常的に身に付けていたもののほか、(過去に家から持ち出したことのない)愛用していた「自身の枕」、さらに長女がタオルケット代わりに使っていたアニメキャラ(プリキュア)がプリントされた「バスタオル」が紛失していた。

携帯電話は布団の傍に置かれたままで、衣類などを持ちだした形跡はなく、失踪以後も保険証やキャッシュカード、クレジットカードの利用は確認されなかった。冷蔵庫にはその日スーパーで買ったものと思しき「ペットボトルのお茶」が飲みかけの状態で残されていた。

 (※マチ子さんは長女に「病院に行く」と話していたとする情報もあるが、「携帯電話が布団の傍に置かれていた」情報を正しいとすると、別れ際には「家で寝てるから~電話して」と伝えたのではないかと考えられる。「今から病院に行く」という断定的な伝言ではなく、歯科医院や車中で「調子悪いから病院行こうかな」等のニュアンスの会話が交わされていたのかもしれない。しかしその後病院で診察を受けた事実は確認されなかった。)

■その後 

夫はメディアの取材にも積極的に応じ、「妻が何かしらの事件に巻き込まれた、連れ去られたと思っています」と真相究明の訴えを続け、事件の周知と情報提供を求めて各種ブログ、SNSに窓口を開設していた。

9月12日(月)より妻のマチ子が行方不明になっています。
家を出て行かなければならない理由には思い当たらず、私達家族には連れ去られたとしか言えない状況です。
女性が家出をするのに、化粧道具はおろか、着替えの一枚も持たず、数千円程度の所持金で財布と家の鍵、今後乗らないであろう車の鍵の入ったバッグを肩から掛け、今まで持ち出したことのない枕を脇に抱え、ビーチサンダルの軽装でなど有り得るのでしょうか?
妻の行方に繋がる情報を集めたいと考えています。
皆様へご協力をお願い出来ませんでしょうか?
宜しくお願い致します。


マチ子ですが身長152~153㎝、体重43~45kgの小柄で痩せ型体型です。
髪は肩よりやや長めで天然パーマがやや強く、毛先がクルンと巻いた感じです。
9月12日(月)は非常に暑く、黒っぽい胸に白地で文字だかデザインだかが入ったTシャツでした。
かなりの寒がりですので、今現在、外出出来る環境にいるならば当然、換わっているとは思われます。
家族が一番の人ですから、子供にばかり目が向いているかもしれません。
全く何処かにみたいな心当たりが無いだけに何処をどう探せばイイのかと途方にくれている有り様です。
妻の非常事態に何も出来ない自分が悔しく、情けないばかりです。
皆様のご協力だけが頼りに成りつつある状況です。
宜しくお願い致します。

 

***

補足です。
声は年齢を下回る感じで、高めの声です。
普段は髪は後ろで一つに束ねていることが多いです。
行方不明当日も髪は纏めていました。

小中学校、高校と別府市ですし、就職も別府市内でしたから基本的には自分一人で県外へ行ったことがないといつか話をしていた記憶があります。
家族で出掛ける時も県外での一般道での運転は極力避ける方でした。
慎重な性格で石橋を叩いても渡るのを躊躇する位ですから、派手な行動などをしているとは考え辛いです。
実際、ここまで全く目撃情報がない以上、妻が表に出られる生活を送らせて貰っているか疑問です。
それでも、情報が寄せられることを期待しています。

***

妻のマチ子が行方不明になって6週間を経過してしまいました。
この6週間、妻マチ子の目撃情報すら出てきません。
マチ子は今、どのような状態でいるのでしょうか?
表に出られない状態なんでしょうか?

何処かで子供逹に会いたい気持ちと家に帰りたい気持ちを持ち続け、目の前の恐怖と戦っている妻をどう励まし、どうやって探し出してあげられるのか?
何も出来ない今の自分を責めるしか出来ません。
皆様の目を頼りに妻マチ子の情報を集めたいと思います。
どうかお願い致します。

友人達には子煩悩として知られており、失踪のつい3日前には仲間たちでカラオケで盛り上がり、そのときも不審な様子は見られていなかった。近々予定されていた小学校の運動会や親戚の結婚式、自分の誕生日などを楽しみにしていたと言い、急に居なくなる動機は見当がつかなかった。

自宅内の詳しい鑑識は行われなかったが、警察犬が一度動員されたと言い、玄関先から行方を見失ったとされる。失踪から約1か月後、自宅に女性の声で「助けて」とひとことだけ告げる電話がかかってきたことがあったが、マチ子さん本人によるものかイタズラによるものかははっきりしない。

 

 

 光永さん宅は周目に付きづらいことから居空きを狙った侵入者が現れたのか、あるいはこどもの帰りを待つ母親が一人在宅していることを前々から知っていた者による計画的な連れ去りとも考えられた。夫や知人たちは思い当たる節がないと訴えるものの、部屋が荒らされた様子もないことから、不倫相手との駆け落ちなども否応なく想像されてしまう。 

しかし警察は事件と断定するに足る証拠が見つからないことから、主婦の自発的失踪として対処した。

 

その後、夫の各ブログ投稿、一部アカウントは削除され、掲載されていたmps等の行方不明者捜索サイトからも名前が消されている。ブログには夫や妻マチ子さんへの誹謗中傷コメントが書き込まれ、地元でも様々な噂が流布したという。また削除前の記事には、警察の本格的捜索にもつながらずいつまでも現状のまま情報募集を続けてもいられない、妻の免許更新が行われないようであれば捜索アカウントを消す旨の告知があったとされる。

捜索を断念したとも捉えられる夫のカキコミ削除について、ネット上では「駆け落ちしていた」「すでに帰ってきた」等の匿名カキコミもいくつか存在しており「解決済み」とする噂もあるが、その真偽は定かではない。

 

 ■小さな町の大事件

マチ子さん失踪の翌日である9月13日13時45分頃、日出町川崎にあるスーパーで2歳女児の行方不明事件が発生している。

近隣に住む主婦(34)が駐車場に車を停めて僅か5分程の買い物(弁当を購入)の間に、車内に残していた女児(2歳10か月)がいなくなったとして店員らと近隣を捜索。「(女児は)眠っていて起きなかった。買い物で少し離れていただけなのに、どうしよう」と母親はうろたえた。14時頃には110番通報して娘の行方不明を訴えた。 

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女児は身長約90センチ、体重約12キロ、足は筋力不足で自立歩行ができなかった。そのため自力で車外に出ること、遠くに出歩くことは不可能だと母親は訴えた。

「カメラはありませんか」

白のワゴン車は店舗出入口から20メートルほど離れた一角に駐車されていた。店内には10台の防犯カメラがあったが、駐車場向きには設置されていなかった。母親はすぐに買い物を済ませるつもりでいたため、エンジンを掛けてエアコンが付いたままの状態でドアは施錠しておらず、後部座席に設置されたチャイルドシートのベルトはロックされていなかった。

スーパーは駅から約200メートルに位置し、交通量のある県道沿いの拓けた場所で、周辺には住宅や店舗なども多く「人目に付きやすい場所」といえた。母親が入店する際に行き違いに店を出たというタクシー運転手(43)は、当時駐車場には2,3台の車が停まっており、「1人が荷物を積んでいたが、変わった様子はなかった」と証言。警察が防犯カメラの映像を確認したところ、母親が店内にいたのは約3分ほどだった。

白昼堂々と街中で、ほんの短時間の僅かな隙を狙って誘拐する人間がいるのかと恐怖と疑念が人々の脳裏を交錯した。

 

同11年3月には熊本県熊本市のスーパーで3歳女児の連れ去り殺人が起きていたことも事件性を想起させた。買い物中の両親から女児が一人離れてトイレに向かったところを攫われた事件である。防犯カメラの解析と情報提供から失踪翌日に同市内に住む大学生の男(20)が逮捕されたが、同店トイレに女児を連れ込んで間もなく殺害。娘を捜索していた両親は店内トイレにも探しに行ったが、犯人の男が「使用中」だった。男は遺体をリュックに入れて持ちだし、約700メートル離れた人目に付かない水路脇に遺棄していた(なお2013年に無期懲役が確定している)。

一方で日出町の女児失踪について、誘拐にしてはあまりに手際が良すぎること、不審者や「乗車していた女児」の存在が確認されていないこと、母親の言動などに不信感を抱く声も少なくなかった。秋田児童連続殺害事件(2006年、畠山鈴香)の騒ぎを重ねて、母親による自演自作を疑う向きもあった。「乳幼児の不審死」の第一の嫌疑は保護者に向かうのが常道とされる。

 

9月15日、日出警察署は、身代金目的の可能性が低く、緊急性が高い事案として公開捜査に踏み切った。女児の服装は、ピンク色に大きなハートマークがあしらわれたTシャツ、黒字に赤白のチェック柄のスカートといういで立ちだった。

女児がいなくなったとされるスーパーはきしくも失踪した日にマチ子さん母娘が買い物に立ち寄っていた店と同じだったため、2日連続で起きた失踪に何か関連があるのではないかと注目が集まった。警察は関連性については「今のところ分からない」と濁し、マチ子さんの夫は「女児とは面識がない」と声明を出したが、女児の両親とマチ子さんの年代も近いことなどから様々な憶測が囁かれることとなった。

 

またマチ子さん失踪より2か月半前の6月27日には、農業を営む80代の高齢夫婦が自宅で不審死を遂げていた。日出駅から南東へ約1キロほど離れてはいるが、女児がいなくなったスーパーと同じ日出町川崎で発生した事案である。

28日に行われた司法解剖の結果、殺人事件と断定され、日出署は捜査本部を設置。夫(86)の死因は腹部1か所を内臓に届くほど深く刺されたことによる失血死、妻(84)は背中1か所に浅い刺し傷があったが死因は特定されず2人に抵抗した痕跡(防御創)はなかった。発見時にはすでに死後4日程が経過しており、おりしも連日30度近い猛暑が続いた影響で身元特定が困難なほど腐敗が進んでいた(後に歯型から住人夫婦と特定された)。

 

23日午後の時点で2人を目撃した人物が居り、生存が確認されている。その後、夫婦の姿が見えないことを不審に思った親類が連絡を取り、27日19時頃に付近に住む長男・長女・別の親族女性の3人が高齢夫婦宅を訪問。

玄関・勝手口とも施錠されており、1階周囲は雨よけの引き戸も閉められて室内が見えない状態だった。3人は敷地内にあった「置き鍵」を使用して勝手口から入室。室内の照明は点いておらず、男性は1階・書斎テーブルに寄り掛かるように、女性はテーブル脇の床にうつぶせで倒れている状態で発見された。

現場は2階高窓が解錠されていたが人が出入りした形跡などはなく、血痕は遺体のあった書斎以外で確認されなかった。2人の着衣は普段日中に着ているものと同じで、新聞受けには25日以降の新聞がたまっていたことから、24日の日中に殺害された可能性が高いとされた。

「とにかく真面目で人当たりの良い人」「トラブルの話は聞いたことがない」と近隣住民は首を傾げるも、現場に凶器はなく、室内が荒らされた様子もないことなどから、顔見知りによる犯行、怨恨による他殺の可能性を視野に入れて捜査が続けられていた。

この高齢夫婦の自宅は、マチ子さんが長女と治療に訪れた歯科医院の斜向かいにあった

 

6月24日頃・親類が高齢夫婦の安否を確認

6月27日19時頃・長男ら3名が高齢夫婦の遺体発見

6月28日・司法解剖で刺殺とされ、捜査本部立ち上げ

9月12日正午~15時頃・マチ子さん失踪(事件性なしとして半月公表されず)

9月13日14時前・2歳女児行方不明

→全国ニュースに大きく取り上げられる

日頃は平穏な小さな町の半径1.5キロという狭い範囲で3か月の間に立て続けに3件もの大事件が発生したことでマスコミは騒ぎ立てた。そのため「失踪した主婦が誘拐したのではないか」といった説や「犯人が主婦に目撃されたと思って攫ったのではないか」といった3事件を結び付ける様々な憶測が囁かれた。

高齢夫婦殺害、主婦失踪、幼児誘拐と三者三様の事件に、町民たちも何が起きているのか分からず不穏な空気に包まれた。 

 

■ いくつかの結末

・母親のウソ

女児失踪から約5か月後の2012年2月5日、女児の母親・江本優子(35)が夫に付き添われて出頭し、死体遺棄容疑で逮捕された。数日前から不眠や食欲不振などが続き、5日朝、夫から事情を問われて、遺棄を告白したという。

私は殺していない。娘が自宅で死んでいるのを発見し、動転して隠してしまった」

連れ去りの通報は虚偽と認め、供述によってスーパーから約3.5キロ、自宅から約3キロ離れた日出町大神(きしくもマチ子さん宅と同じ町内)の雑木林の地表近くで女児の骨が発見された。穴を掘って埋めた痕跡はなく落ち葉が被っただけでほとんど地表に露出した状態で、着衣や所持品は発見されなかった。

 

江本の夫はフェリー会社に勤務しており、業務で10日間ほど家を空けることもあった。女児失踪時にも仕事で家を空けており、その日の夜に帰ることになっていた。小学1年の長男は軽度の情緒障害(注意欠如多動症ADHDとみられる)を抱えており、学校への送迎や夫不在中の2児の世話は江本ひとりで行っていた。

ワイドショーなどでは、故郷の国東市から3年前に越してきたため周囲に相談相手がいなかった、育児の悩みや疲れを抱えていたのではないかとする論調もあった一方で、同じような障害児の保護者に苦労や不安を打ち明けることもあったと伝えた。知人女性は「お兄ちゃんは動き回るし、下の女の子はあまり動けないので、お母さんは大変だった」と証言している。

夫方の親類によれば、江本は医者に長男の障害も「だんだん良くなる」と言われており悲観はしていなかったという。車も子どもたちのために内装や後部チャイルドシートが確認しやすいように専用ミラーを装着するなど工夫を凝らし、長男の通う小学校のPTA役員を自ら引き受けるなど育児に熱心な様子もあり、周囲の人間も虐待や育児ノイローゼの兆候は見られなかったと話す。

江本の母親によれば、孫娘の脚の発育状況も「筋力が付けば大丈夫」と医者に言われており以前より成長も見られていたと言い、「育児も孤独も、普通の母親によくある程度ではないかと思います」と母親の立場から娘の状態を冷静に捉えていた。

江本の父親は「こどもが居らんようになったということはずっと信じとったから(自分には事故か事件かどういう訳なのか)何も分からんで、ただ(孫娘が)死んだっていうことだけ(しか分からない)」と娘の逮捕に驚きを隠さなかった。

 車で1時間ほどの距離に離れて暮らす夫の父親は「心細いからか(江本から)しょっちゅう電話がかかってきました」「私らがもっと面倒見てあげていたら」と後悔の色を滲ませ、「『じいじ、抱っこ』とよちよち歩きながら抱き着いてくる(孫娘の)仕草が今も思い出せる」と胸を痛めた。

 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210702105612j:plainChristian AbellaによるPixabayからの画像

 

2012年4月18日、大分地裁(真鍋秀永裁判長)で公判が開始された。発見された遺骨から死因の解明は困難とされ、殺害に関する目撃証言や物証も存在しないことから、検察側は死亡の経緯には触れず(事実上、殺人罪での起訴を見送り)、死体遺棄による懲役2年を求刑。江本は起訴事実を認め、弁護側は執行猶予を求め、即日結審した。

5月29日の判決審で、真鍋裁判長は「刑事責任は重いが、結果的に自白して家族に謝罪し、反省している」として被告に懲役2年・執行猶予3年の判決を言い渡した。

江本の証言によれば、9月13日の朝、自宅2階の寝室で毛布にくるまった状態で女児が死亡しており、「気が動転して」遺体をワゴン車に乗せ、長男を学校に送り届けた後、町内を走り回り墓地付近の雑木林に遺棄したとされる。

 

ワイドショー等の論調は基本的に「児童虐待」「育児ノイローゼ」を抱えた母親による犯行であろうとする見方で取り扱われた。だがはたして本当にそうだろうか。この事件はまた違った捉え方ができるように感じる。

スーパーの防犯ビデオ解析で江本の実際の行動が確認されるなど、女児行方不明の当初から警察は母親に相当な嫌疑を向けていた。任意の事情聴取とはいえ、江本は精神的プレッシャーや捜査員からの揺さぶりも受けていたに違いない。

しかし5か月もの間、うたわなかったのはなぜか。メンタルを崩していたとすればもっと早々に白状して楽になろうとするのではないか。遺棄された状況から考えても「絶対に見つからない自信があった」「隠し通そうとした」ようには到底思えない。

なぜ「私は殺していない」のに通報や病院へ連れていくなどせず遺棄する行動に出たのか。仮に江本の言う通り「私は殺していない」のが事実だとすれば、熱中症や睡眠中の呼吸困難などによる病死や事故死、それとも「別の人間が殺した」ということだろうか。江本が娘の死に際を目撃したかどうかは分からない。だが母親は娘の遺体を見たとき、咄嗟に“ある事故”を連想してしまったのではないか。

自ら遺棄し、娘がいなくなった理由を“連れ去り”かのように隠蔽工作した行動は、犯罪以外の何物でもない。しかし警察から自分が疑われていると察した母親は“娘の死”をどのように伝えるべきか迷った末に長く自白を拒んでいたようにも思える。

 

筆者には、遺体がどんな状況だったのか(眠ったように息をしていなかったのか、明らかな殺害の痕跡があったのか等)は分からないし、だれが殺害した可能性が高いというつもりもない。仮に“ある事故”が事実として起こり、江本が誰かを庇っていたとしても擁護するつもりもない。

江本が自らの過誤を覆い隠すために苦し紛れの言い訳をしたとも十分に考えられ、取調べに耐えた「5か月」は別の意味を持つのかもしれない。墓地付近に遺棄したことについては僅かばかりの弔いの意思とも捉えられ、地表付近に遺棄したのは焦りや計画性のなさを感じさせる。だが裏を返せば、衣服を着せていない点や獣害予防のために地中深くに埋めなかったことは遺体の風化や散逸、故人の特定困難を想定していたかのようにも見受けられる。

ネット上では、こどもたちの障害・生育の遅れも江本による捏造なのではないかとする非難めいた憶測も見られた。たしかに記事やニュースで得られる情報からは、病気の子どもを甲斐甲斐しく世話すること(ときにこどもの疾病を捏造して周囲に熱心に世話しているように見せること)で自らの心の安定を図る代理ミュンヒハウゼン症候群のように見えなくもない。

だが夫が帰ってくれば通報は免れず、通報されれば自分や残された我が子が疑われ一生が台無しになる、発覚を免れるにはどうすれば…気が動転して解離状態に陥り、そうした発想や行動に及ぶことも現実にありうるのではないかとも感じられる。

2歳女児への不憫さは残るものの、状況証拠だけで母親の殺人罪をも決めてかかる冤罪裁判にしなかった司法判断は「母親が殺害した確定的証拠が得られなかった」ことを示している。母親のウソと供述、裁判の“玉虫色の決着”をそれぞれどう捉えるべきかは各人の判断に委ねたい。

 

 ・密室と消えた凶器

高齢夫婦殺害の捜査本部は110人態勢で現場調査や人間関係の洗い出しなどに奔走したが、容疑者の特定は難航した。

2011年12月半ばに見つかっていない凶器の発見を目的として、夫婦宅の南側・東側にある2か所のため池(水深1~2メートル)の水を抜く大規模捜索を実施。農業用池のため農閑期まで捜索を控えていたもので、底泥を浚ったり、金属探知機をかける等して3日間に渡って捜索が続けられたものの、拾得物の大半は劣化した空き缶で凶器らしいものは発見されなかった。

 

はたして捜査本部は第三者による犯行の手掛かりをつかむことができず、事件そのものの見立てを180度転換させた。

・2階窓は解錠されてはいたが第三者による侵入の痕跡が認められず、夫婦宅は「密室」状態だったこと

・夫の傷の状況から失血死するまで数時間存命だった可能性があること

・死亡推定時刻に妻とは半日から数日程度のずれがある

 との見方を強め、夫が妻を殺害後に自殺した無理心中事件との見解に至ったのである。

 

捜査本部の見立てでは、動機として2011年3月に妻が大病を患って手術を受けており、夫が家事や介護を行っていたが、自らも重い病気を抱えており、介護疲れや先行きへの不安から無理心中に至ったのではないかと結論付けた。

凶器については傷の形状・深さなどから夫婦宅の台所にあった3本の包丁が使われた可能性が高いとしたが、断定はされていない。2013年4月23日に夫を容疑者死亡として大分地裁書類送検した。

 

警察の見立て通りとすれば、夫は書斎で妻を背後から切りつけて殺害したのち、自らの腹部を内臓に達する程に深く突き刺し、それら血液をルミノール反応が出ないほど丹念に洗ってから、その間も一滴の血も垂れないように書斎に戻り、息絶えたことになる。洗い流したとて水場や排水管には相当量の血液反応が検出されたはずであり、それをずっと見逃してきた、1年以上も気付けなかったというのであろうか。

腐敗状況が進んでいたことで司法解剖に「ぶれ」が生じてしまうことやある程度の「幅」のある見当が必要なのは理解できる。だが4日間ばかりで2つの遺体にそれほどの「死亡時刻のずれ」が生じるものなのであろうか。“刺されてから1時間程度は生きていた可能性がある”、“半日から数日の生存日数のずれがあったとしてもおかしくはない”、という個々の鑑定が誤りだと言いたい訳ではない。

発見当初に「殺人事件」と断定されたのは司法解剖の結果を受けての判断であった。傷口の状態から刺された向きや力の加減、刃物の形状が導かれ、該当する刃物が「密室」から発見されなかったために「他殺」と断定されたものではなかったのか。それまでの判断を一転させるかのような決着は、死亡状況を断定できないことを逆手にとって無理矢理に捻り出した結論に思える。

導き出される断定的事実は「他殺か自殺かも分からなかった」「凶器は発見できなかった」のである。警察の「無理心中」という結論は、どこか事件の決着を急いだような、捏造の可能性すら感じさせるもののように筆者は思う。

 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210702111302j:plainMichelle ScottによるPixabayからの画像

 

すでに「解決された」事件ではあるが、警察とは異なる見方は成り立つものなのか、本筋から脱線して「無理心中ではなかった」可能性を検討してみたい。 

地方の戸建て住宅などでは都市部やマンション世帯に比べて施錠率の低さが指摘されており、「置き鍵」自体もそれほど珍しい行為ではない。小学生くらいの子どもがいる家庭では鍵を忘れたり紛失したときなどに締め出されないように、戸外の目立たない場所に予備の鍵を隠し置くことはままある。だが高齢夫婦のこどもたちはとうに成人であり、なぜこの家に置き鍵が存在したのかはやや疑問に感じられる。

たとえば夫婦が農作業を行う際には紛失のおそれから鍵を携帯していなかったことが考えられるだろうか。もしかするとかつて締め出されてしまったなどの経験があって、忍ばせていたものかもしれない。高齢で物忘れや失くしものが増えており、念のために…といった事情も考えられる。

2011年6月30日の朝日新聞は、長男ら3人が訪れた「玄関も勝手口も施錠されていたため周辺を探したところ、勝手口を出た付近に置かれた机の引き出しから鍵が見つかったという」と伝えており、素直に読めば、こどもたちは「置き鍵」の存在や隠し場所を知らなかったことになる。しかし置き鍵がいつ誰によって置かれたものなのかは不明であり、もしかすると犯人が宅内で鍵を得て、勝手口から逃走の際に使用し、目についた机に放り込んで立ち去った等も考えられる。

 

「介護疲れ」「老老介護」「将来を悲観」などは今日的事件の動機とされるトピックとしてよく見かけられ、ある程度の説得力がある。しかし、高齢夫婦は他に身寄りがなかったわけではなく、周囲には日頃から安否を気に掛けてくれる親類が居り、長男、長女も遠くない地域で暮らしていた。

そうすると却って、そもそもなぜこどもたちは高齢夫婦宅の、彼らにとって「実家の鍵」を所持していなかったのかが不自然に思えてくる。2人暮らしで周囲にも親族らが暮らしていたとはいえ、ともに高齢で、妻は同年に手術を受けるなどしており不測の事態も十分に考えられ、同居できない事情があるにせよ直系家族が合鍵を管理しておくのが当然の備えとも思える。

また日頃夫婦は施錠する習慣が薄かった可能性もある。近隣住民や地元の親しい出入り業者(農業関係、金融機関、民生委員、医療介護関係者など)は施錠管理の甘さを知る機会は十分あったと考えられる。

 

いくつか説を挙げて考えてみよう。 

①強盗説。農作業などで外出している隙に夫婦宅に侵入するも、夫婦が帰宅して遭遇、殺害に及んだとするもの。矛盾点として、室内に荒らされた形跡がないことや、猛暑で人通りこそ少なかったかもしれないが夫婦宅の立地自体は人目に触れやすい場所だったこと等から盗みに入ったものではないと考えている。

②知人説。第一発見者とは異なる親族や地縁者などによる犯行。夫婦の在宅時に訪問し、事に及んだとするもの。

③家庭内トラブル説1。夫婦と親族との間に確執があり、怨恨なのか保険金・遺産目当てかは分からないが、殺害が計画されたのではないかとするもの。既述の通り、身内が3人揃って鍵を持っていなかったことには大きな疑問符が付く。保険金や遺産があったとすれば受取人と考えられるこどもたちは真っ先に関与が疑われるケースといえる。

だが警察も第一発見者のアリバイは入念に確認しているはずであるし、仮に保険金や遺産目的で殺害していれば好んで第一発見者にまでなる必要はない。筆者としては第一発見者3人は関与していないと考えている。

④家庭内トラブル説2。親族が嘱託殺人を行った(第三者に殺人を依頼した)とすればどうか。依頼者のアリバイの問題はなくなり、凶器も持ち出し処理ができる。さらに勝手口前にあった机を使って犯人から依頼者へ鍵の受け渡しをしたようにさえ思えてくる。

しかしここにも多くの矛盾が生じる。

ひとつは金目当てで請け負う人物がいたとして、殺害後にやはり金目のものに手を付けるのではないかという点。だがこれも親族らが気付かなかっただけで幾ばくか盗られていた可能性もないではない。

ふたつめは不確実な殺し方だという点。偶々相手を刺して倒れて動かなくなれば「殺してしまった」と思うだろうが、はじめから殺害目的であれば呼吸や脈、心音、瞳孔など死亡の確認まで行うものではないか。即死する程の致命傷を負わせた訳でもなければ、滅多刺しや殴打を繰り返したわけでもなく、妻に至っては背中に浅い刺し傷である。

みっつめは「密室」であった点。あえて施錠までする必要はなく、部屋を荒らしておけば「強盗殺人」にカモフラージュできていたであろうにそうしなかった。逆に端から「自殺」を偽装するのだとすれば刃物を処理する必要はなかった。「犯人」は確実に発覚をおそれて密室をつくっているのである。

 

さらに気に掛かるのは、「雨よけの引き戸」が閉じられていた点である。

参考までに隣接する杵築市の2011年6月の気象データから「日付/1日の合計雨量/最高気温/日照時間」だけを抜粋する。数値の違いこそあれ、日出町川崎も降雨状況や気温変化は概ね近しいのではないかと思う。梅雨時ということもあり15日から一週間の長雨が続いており、21日から急激に暑さが増して、23日、犯行があったと思われる24日はすっかり晴れている。

15日/9.5ミリ/23.0度/0.0時間

16日/95.0ミリ/19.0度/0.0時間

17日/4.0ミリ/24.8度/0.2時間

18日/29.0ミリ/22.2度/0.0時間

19日/53.5ミリ/21.4度/0.0時間

20日/93.0ミリ/24.6度/0.2時間

21日/8.0ミリ/29.1度/6.0時間

22日/3.0ミリ/29.4度/1.2時間

23日/0.0ミリ/33.2度/8.4時間

24日/0.0ミリ/31.0度/12.6時間

25日/14.5ミリ/31.1度/8.0時間

26日/3.0ミリ/29.8度/0.1時間

27日/5.0ミリ/29.1度/0.5時間

25日以降の新聞(おそらく朝刊)は新聞受けに残されていたこと(言い換えれば24日以前の新聞は室内に存在していたと見てよいのかと思う)、遺体の着衣が普段昼間に着ているものだったこと(詳細不明だが部屋着とは異なる作業着や割烹着等であろうか)から、24日午前から部屋着に着替えるまでの間に犯行が行われたことは確かであろう。

普通であれば30度を超える暑さで昼日中に引き戸を閉めたままにする家があるはずもない。高齢夫婦に引き戸を毎日開け閉めする習慣があったかは不明だが、おそらく24日の日中、引き戸は開いていたと見てよいのではないか。

三者が殺害の発覚をおそれて部屋のカーテンを閉めて目隠しにするのであれば分かるが、犯人はご丁寧に引き戸まで閉めて逃げたのであろうか。外部犯であれば引き戸で隠すという発想よりも逃げることが先決である。とすれば、警察の想定通り「心中」を発覚されまいとしてやはり高齢夫婦が閉めたものであろうか。

だが心中直前に(普段の習慣と言われてしまえばそれまでだが)新聞受けからその日の朝刊を抜いたり、わざわざ部屋着から着替えたりする必要はない。朝まではそうした日常行動を取りながら、なぜ心中しなければいけなかったのか。妻の殺害方法に関しても、背後から刃物で浅く切りつけるよりも就寝中に事を遂げる方が心理的な負担感もないだろう。

一部には、遺族に保険金を残す等の目的で“殺人”に見せかけて自殺を試みたという説も存在する。やったことがないので正確なところは分からないが、自分の腹を刺してから血がこぼれないように気を配りつつ刃物を丹念に洗って…という、可能かどうかも分からない命懸けの“無謀な賭け”に出るよりは、たとえば不慮の火災などを装う方が苦もなく確実な方法に思える。

 

最後に、匿名掲示板に書かれた不確定情報として⑤家庭内トラブル説3について触れておきたい。第一発見者ではない親族のひとりが遺体発見時に消息が掴めず、その後ほどなく(自殺か他殺かは不明だが2つの失踪事件より前に)亡くなったとするカキコミが存在する。

事実だとは思わないが、仮にそうした人物がいたとすれば、夫婦との接触が容易でトラブルは生じやすく、犯行は衝動的かつ不確実な形態となり、発覚への恐怖心から現場を過剰に「密室化」したことは充分に考えられる。その家の構造を以前からよく知る人物であれば引き戸で覆い隠そうとする行動にも納得がいくのである。また警察の見立てのように夫が刺された後も存命だったとしても身内であれば通報しようとしなかったことにも合点がいく。

諸説を挙げてきたがすでに無理心中の結論は覆るものではない。夫婦が高齢であったことからご遺族らも捜査を早々に終えてほしい等の要望があったのかもしれない。明確な時期は不明だが2013年時点ですでに老夫婦宅は取り壊されている。字義通り不審死としか言いようがない不可解さ・不透明さを感じさせる結末だが、詮索はここまでとする。

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マチ子さんが犯行現場を偶々目撃した説については、ないと考えている。

上の地図では各所の大体の位置関係を示している。郵便局は小学校のすぐそばにあり、スーパーや総合病院は日出駅近く、町役場などは陽谷駅の南にあり、駅北側は飲食店や小売店で栄えており、日用的な買い物などは両駅付近で事足りる。歯科医院周辺は住宅街となっており、その更に南方は農地や工場が点在する。

あくまで筆者の推論にすぎないが、マチ子さん宅から用もなく足を延ばすことは考えづらい位置関係と見ている。

 

筆者にはソースが発見できなかったが、幾つかのYoutubeチャンネルでは「マチ子さんは老夫婦の遺体が発見される3日前の6月24日に老夫婦宅前の歯科医院を訪れている」と説明している。もしマチ子さんのその日の来院が事実だとすれば目撃者説は真実味を帯びて感じられるかもしれない。

 だが6月24日から9月12日までの間、次にいつ来るかも分からない相手を殺害現場の目と鼻の先で連日見張り続ける犯人など現実的に居るだろうか。筆者であれば口止めなど考えずに一目散に高飛びするが、もしかするとそうした執念深い犯人もどこかにいるのかもしれない。

同時期に同じ町内で起きた高齢夫婦の不審死、主婦の失踪、2歳女児の失踪は、全く偶然に立て続けに起こった事案だと筆者は考えている。

 

 

■行方

主婦失踪に話を戻そう。

なかには夫に嘱託殺人の疑いを抱く者もいるが、夫が失踪に関わっているとすればホームビデオの公開や積極的なメディア出演など行うはずがなく、何年にもわたってブログやSNSで地道に捜索を続けることは考えられない。夫が失踪に関与していないことは決定的である。

こどもたちは母親の失踪後、祖父母宅へ移り転校し、夫一人がしばらく元の住居で妻の帰りを待ち続けた。こどもたちは手のかからない年代に成長していくが、だからこそ貴重なこども時代に傍で成長を見守ってやれない父親としての苦しみや不安があったであろうし、妻の帰りを切実に願いつつも捜索活動から撤退する、新たな家庭生活へと踏み出す決断をしたとしても何もおかしいものではないのである。

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いくつか仮説を取り上げた後、自説を述べて終わりとしたい。

① 自発的失踪・単身家出説・・・たとえばDVなど家庭内に問題を抱えており行方をくらませたとするもの。友人に一度も相談することなく、実家などにも連絡しない、預金も手付かずで健康保険証も使用しない、それほど強固な失踪をほとんど別府周辺から離れたことがない人間が単独で続けられるだろうか。また失踪日の動向からしても、長女の歯が欠けるという不測の事態で半日を費やした直後に決行するとはまず考えられない。

②自発的失踪・駆け落ち説・・・失踪のパートナーが存在したとすればどうか。相手に経済力や生活力があれば、偽名で全くの別人として生きていくことも可能かもしれない。だとすると携帯電話は追跡されることを嫌ってあえて置いていった可能性も出てくる。事件捜査されないことで携帯電話のデータ復元・解析などもされていないと考えられ、完全に否定することはできない。

③自発的失踪・疾病説・・・体調不良の原因が心身の抑圧からくるものだったと考えると解離性障害などの心神喪失に陥って、不測の行動をとることも考えられる。だがそうした状態で車を使用せず、忽然と姿を消すことは可能だろうか。 徒歩で移動していれば、警察犬が家の前で嗅ぎ失うとも考えづらい。

④計画的誘拐説・・・マチ子さんが昼間にひとりで在宅していることを知っている人間が誘拐したとするもの。ストーカーであればそれ以前に何かしらの兆候(嫌がらせなど)があると考えられ、周囲に相談していないことからその線は薄いように感じられる。となれば知人関係や近場の出入り業者などとなる。故郷である別府市もおよそ15キロ、車で30分程の距離にあるが、日出町大神の住所まで知っている旧知の人間はかなり限られる。周辺地域であればそれなりに人の注意も向くことから難しいとも思うがないとは言い切れない。

⑤偶発的誘拐・送迎説・・・体調不良によりマチ子さんが知人やタクシーに病院までの送迎を依頼し、相手が衝動的に誘拐したとするもの。「枕」「タオルケット代わりのバスタオル」が持ち去られた理由と絡めてよく挙がる説のひとつではある。

知人であれば、近距離に居り、平日日中に時間がつくれて、夫より頼みやすい人物ということになり、シンプルに考えれば第一に連絡を取りそうなのは親しくしているママ友かと思われる。だが普通のママ友であれば監禁場所などは所有していないと考えられ、多少の妬み嫉みこそあれ殺害遺棄するほどの動機があったとも考えづらい。

タクシー運転手が男性であれば強引な連れ去りも可能であり、独身者などであれば自宅に連れ込もうとしたかもしれない。地元タクシー会社などは夫も利用確認などしているものと考えられるが、警察の捜査に比べれば運行記録や車載カメラ確認といった強制力もなく、誤魔化されてしまう可能性もある。

しかし、いかに具合が悪いとはいえ「花飾りのついたサンダル」で病院に行こうとするだろうか。

⑥偶発的誘拐・強盗説・・・家の車があるにもかかわらず侵入したということは、居空き(在宅中の空き巣)をするつもりだったのか、女性ひとりと見て強盗できると踏んだのか。いずれにしても周囲にひと気のない場所で、侵入するには好都合に見えたのかもしれない。

 

筆者は⑥偶発的誘拐・強盗犯による連れ去りのように考えている。

「枕」「バスタオル」の持ち去りについて、それらを寝具として見るか、「血痕が付着した」などの証拠隠滅と取るか、あるいは犯人が捜査を攪乱するために…とまで考えを広げるかで事件の捉え方そのものの全体像が変わってくる。枕とバスタオルには本来とは別の用途があったのではないかと見て、猿ぐつわや目隠しの代用にしたと推論する。

体調不良の主婦が横になっていると、侵入者が現れる。

驚いた主婦は咄嗟に声を上げようとしたのではないか。

侵入者は主婦を押し倒すと傍らの枕で顔を塞ぎ込み、悲鳴を上げられないようにした。

「金はどこだ」

主婦は帰宅後そのままにしていたバッグを指さす。

しかし顔を見られた上ではこのまま置いていくわけにもいかない。

犯人は紐状のものを持参していたか、室内で適当に見つけたのか、主婦を後ろ手に縛り上げ、手近にあったバスタオルで顔に枕を縛り付けた。

「立て」

犯人はバッグひとつを抱えて主婦を玄関まで引っ張っていき、手っ取り早いサンダルを履かせて、車に押し込んだ。

 ネット上では「窓とカーテンが開いていた」とする情報も流れているが、筆者はそうした情報のソースに当たれていない。体調不良で仮眠していたとすれば、残暑厳しい時期(杵築の気象データによれば、2011年9月12日12時~15時にかけてほぼ晴天で気温は29~30度程度で推移)であるからそうしていてもおかしくないようにも思われる。眠っている間に先んじて拘束された可能性もある。

またマチ子さんの「とても慎重な性格」は平時においては防犯意識・戸締り行動となって現れたが、体調不良や日中だったこともあり窓を開けて寝るといったある種の油断を招いたかもしれず、もしかすると「万が一、娘からの電話に気付かず寝過ごしてしまったらどうしよう」と変に気を回して玄関を無施錠にして寝ていた可能性もあるのではないかと感じられた。

犯人像としては当時30~50前後の独身男性。肉体的に屈強なタイプではなく、脅迫には刃物などを見せたが、その場で暴行に及んでいないと見られることから比較的おとなしい気性の持ち主と考えられる。別府から大分界隈で窃盗や強盗などの前科・累犯があるかもしれない。 車で家に連れ去った後、監禁し、強姦や共同生活を強いているのではないか。

そのまま具合を悪くされたり、暴行や殺害の可能性もあるとは思う。だが過去のエントリーでいくつかの少女監禁事件について取り上げたこともあり、失踪から10年を経た現在でもマチ子さんはどこかで我々の思いも及ばぬかたちでご存命のように思え、命さえあれば逃走や解放もありうるのではないかと感じている。

 

失踪者のお体の無事と一日でも早い御帰還、ご家族の心の安寧をお祈りします。

 

 

■参考

【行方不明】光永マチ子さんを探しています。

大分の2歳女児不明、母親を死体遺棄容疑で逮捕: 日本経済新聞

逮捕の母親、夫に告白後に出頭 大分女児遺棄容疑: 日本経済新聞

大分女児死体遺棄事件の容疑者女 義父にSOSを出していた|NEWSポストセブン

大分女児遺棄事件 マスコミ報道される「原因に育児の悩み」は本当か |AERA dot. (アエラドット)

女児遺棄、母に猶予判決 大分地裁「責任重いが反省」: 日本経済新聞

民家に高齢男女の遺体、腹や背に刺し傷 大分・日出: 日本経済新聞

赤城神社主婦失踪事件について

1998年5月3日、群馬県宮城村(現・前橋市)三夜沢の赤城神社に訪れていた主婦が忽然と姿を消した“平成の神隠し”とも言われる未解決事件のひとつである。

 

■概要

1998年5月2日(土)、千葉県白井市に住む主婦・志塚法子さん(48)は夫と娘、産まれたばかりの孫の4人で、ゴールデンウィークを利用して夫の実家である群馬県新田郡新田町(現太田市新田)を訪れていた。

翌5月3日午前、夫方親族を含む7名(夫・法子さん・娘・孫・叔父・叔母・義母)は車2台に分乗して、一緒に買い物に出た。その際、義母の思いつきで「見頃だから」と、赤城山中腹の南方に位置する宮城村(現前橋市)の三夜沢赤城神社ツツジを見に行くこととなった。

三夜沢赤城神社は関東を中心に約300ある赤城神社の本宮とされる中のひとつ。神社へと向かう参道には松並木や約4000本のヤマツツジがあり、境内には湧水があることでも知られる。新田から三夜沢までは約25キロ、車で40~50分ほどの距離である。


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11時半ごろに到着すると現地はあいにくの雨。女性ら5人は出歩くことを躊躇して車で待機し、夫と叔父だけが参拝に向かった。すると後になって法子さんが「折角来たのだからお参りしてくる」とカバンや財布は持たず、お賽銭用に101円だけを持って、遅れて車を出た。

 

その後、赤ん坊がぐずったため娘が車外であやしていたところ、境内から数十メートル外れた別の方角に佇む母親らしき姿を見掛けている。どうしてあんなところにいるのかなと感じたが、数十秒ほど目を離すと姿は見えなくなっていた。

 

駐車場から拝殿までは杉林と境内を抜ければ3分もかからない近距離に位置し、雨降りとはいえ明るい時間帯に迷うような場所ではない。しかし参拝と水汲みを終えて戻ってきた夫と叔父は、法子さんを見掛けなかったと家族に告げた。

当時、駐車場には20台程度が止まっていて人出は多く、翌日は祭りが予定されていたため準備などで普段より人の出入りも多かった。とはいえ人ごみに紛れてしまうような大混雑ではなく、そう広くもない境内で行き違いになるとも考えづらかった。

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娘は心配になり、法子さんが車を出てから約6分後に探しに出たが姿はなかった。そのとき帽子を目深にかぶった3人組とすれ違ったと証言している。その後、家族総出で捜索したが発見できず。

13時半ごろ、大胡警察署に捜索願が出され、その日の16時頃には招集された警察・消防ら80人体制で周辺を捜索。山狩りや警察犬による追跡も行われたが、警察犬は雨の影響もあってか車通りのある付近で追跡をやめてしまった。その後、10日間で延べ100人を動員して捜索や周辺への聞き込みが続けられ、上空からヘリによる捜索も行われたが手掛かりは得られなかった。

失踪翌日の4日、三夜沢赤城神社から北へ3キロほどに位置する「赤城不動大滝」周辺の林道で似た人を見掛けたという情報もあったが、真偽は定かではない。

 

法子さんは身長156センチ体重54キロで、眼鏡をかけており、失踪時は「赤い傘」、「ピンクのシャツ」に「黒いスカート」、「ハイビスカスの飾りが付いた青いサンダル」と比較的目立ついでたちをしていたが、寄せられた情報は20件ばかりと少なく発見には直接結びつかなかった。

 

■その後

失踪から7か月後、テレビ局に寄せられた同日同時刻帯の境内を撮影したホームビデオに写っていた「赤い傘の女性」について、家族は「違う」と証言。また更に映像を確認した結果、杉林の奥にも「誰かに傘を差し伸べるような動きをする別の女性らしき姿」が僅かに写り込んでいたが特定には至らなかった。

また失踪後に千葉県の自宅に無言電話がかかってきたことがあり、ナンバーディスプレイに表示された局番からは鳥取県米子と大阪方面と推測されているが、法子さんとの関係は不明である。

 

2006年、テレビ朝日系列の公開捜査番組『奇跡の扉 テレビのチカラ』で特集され、サイキック捜査で知られるゲイル・セントジョーン氏による透視が行われたことで(その筋では)知られている。

氏は、参道から外れた場所で男性に「手を貸してほしい」と助けを求められ、車に乗せられたとする暴行目的の連れ去り説を主張。付近の山中で解放されたものの、意識が朦朧とするなか森で遭難してしまい、すでに亡くなっているとする透視結果を示したが、遺体や有力な手掛かりになる物証などは発見されなかった。

 

懸念材料として、法子さんは右耳に持病を抱えており、低気圧になると激しい眩暈に襲われて立てなくなることもあった。普段は補聴器を使用していたものの、このときはカバンの中に置いたままで装着していなかった。

自宅から150キロほど離れており周囲の土地勘もあまりなく、ほとんど何も所持していない状態だったため安否が気遣われた。

しかし家族の番組での呼びかけや県警らによるビラ配りの甲斐もなく、失踪から10年後の2008年6月に失踪宣告の手続きが為され、捜索は打ち切られている。

 

■地理的条件など

法子さんは過去にも三夜沢赤城神社に何度か訪れたことがあったとされ、第一駐車場(下地図ピンク部分)から正面鳥居へは向かわず、杉林の中を通る抜け道から拝殿方面へ向かったものと考えられている(下図の緑色ルート)。

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下のGoogleマップ右手に見える鳥居の奥に階段があり、真っすぐ上っていくと拝殿がある。中央に覗く赤い屋根は集会所、その裏手にトイレがあり、左手の道を進むと一家が車を停めていた第一駐車場がある(上図のピンク色エリア)。

また自動販売機もこの交差路にあるため、社殿に向かわずトイレや飲み物の調達などに立ち寄ったとしても迷うことは考えにくい。

降水状況については、夫と叔父は傘を差さずに出ていることから本降りだった訳ではなく、小降り程度だったと考えられる。

女性らが境内に向かわなかった理由としては、神社までの参道で花見は堪能していたこと、孫が赤ん坊で抱っこしていなければならない(濡らしたくないし、抱っこしていると傘が差せない)こと、あるいは人数分の傘がなかった等が思いつく。

 

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拝殿から奥には散策路があり、キャンプ場や山中へとつながっており、その途中には周辺観光スポットのひとつとして「櫃石(ひついし)」がある。長径4.7m 、短径2.7m、高さ2.8m、周囲12.2mの巨石で、古墳時代中期の祭祀に使われた磐座(いわくら)とみられる遺跡である。

地形としては、社殿に向けて緩やかな上り斜面で、社殿の奥からはより傾斜がきつくなる。神社地点から櫃石までのルートは約1500メートル、標高約560~約870メートル(片道約50分)であるから、整備されているとはいえ「山登り」と言ってよい。

サンダル履きで雨降りのなか、櫃石を目当てに山中に入っていくことは現実的には考えづらい。(途中の分岐で「櫃石左へ千三百米」と標識があるため、仮に「見てみようかな」と軽い気持ちで入山したとしてもここで引き返すだろう)

 

下の地図の赤色ピンが「赤城神社拝殿」、青色ピンが「櫃石」、紫色ピンが失踪翌日に目撃情報があった付近の「赤城不動大滝」を示している。

神社から不動大滝まで一日あれば歩けない距離ではないが、この県道16号(大胡赤城線)は冬季には封鎖されるほどの急こう配の道である。車通りが多いとは思えないが、この山中の一本道を何時間も歩いていれば、さすがにもっと目撃情報があってもおかしくない。また道中には温泉旅館、ホテルが数軒あるため、遭難や心身の不調があれば救助を求めるなり電話を借りるなりするのではないか。

筆者としては、近辺の宿泊者や写真撮影などのために車を降りた人物を誤認した情報ではないかと推測する。

 

10日間で捜査員延べ100人と聞くと少ないように感じられるが、駐車場から神社敷地にかけては手入れが行き届いており、決して広くはない。山の中腹に位置するとはいえ遭難の危険性は低いと判断されたためと捉えることもできる。

山歩きの経験がある人は分かると思うが、サンダル履きでは平坦な舗装路と違ってすぐに脱げてしまい、しかも雨降りとなれば山道を進むことは考えられない。また正規ルートから外れた場合、足元は枝葉でぶかぶかに緩み、たとえ登山靴であっても進行は困難である。

単独事故説にしても、すでに何度か来訪したことがある場所で山道へ迷い込む可能性は低く、遺留品もなく遭難したり、転落したりする可能性は更に低い(傘、眼鏡、サンダル、101円の小銭などは落下しそうなものである)。

 

また神社前にはバス停があるものの便数や利用者は限られており、失踪当日のバスドライバーや周辺のタクシー業者くらいは警察も抜かりなく聴取していると考えられる。

 

■諸説

◆自発的失踪

不倫駆け落ち説・・・かねてより不倫していた相手と示し合わせて失踪したとするものだが、1時間ほど前に義母が思いついた場所で待ち合わせ、駆け落ちしようとすることは不可能と見てよいだろう。

仮に不倫相手がいたとすれば住んでいた千葉県白井市近郊の人物と考えられる。白井市から赤城神社まで車で約2時間半の距離であり、呼び出されてすぐに駆け付けられる距離ではない。

仮に駆け落ちだとすれば、法子さんが夫の実家に行くのに合わせて、こっそり現地まで同行していたことになる。日頃地元で不倫していたとして、わざわざこのタイミングを選んで駆け落ちを試みるチャレンジャーはなかなかいないのではないか。

 

親族トラブル説・・・夫親族と折り合いが悪く、衝動的に失踪したとする説。一般に嫁姑トラブルや「家」は嫁にとってストレスの原因となりやすく、親族中からイジメを受けるといった環境であれば失踪する動機になるであろう。世間体や捜査の追及をおそれて家族らが事実を一部歪曲して証言している可能性もなくはないように思われる。

 

夫DV説・・・夫からDVを受けるなどして前々から家出を考えていたとする説。これも主婦失踪ではすぐに挙げられる動機の一つである。

出先で拘束が弱まったことや地元よりも顔が差さないこと等からあえてこのタイミングを利用して逃走したと考えることもできる。

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◆事件

失踪捏造説・・・DVや親族トラブルで身内が法子さんを殺害してしまい、その発覚を免れるため失踪を捏造した(そもそも神社には来ていなかった)とする説。

捜査の目をごまかすために出先で失踪を届け出、夫も娘も夫親族も口裏を合わせて「殺害の隠蔽」を行っている、もしかするとそういう陰険な家や悲惨な境遇もありうるかもしれない、と考えると悪寒が走る。

例えば1994年に起きたつくば母子殺人事件(野本岩男)のように家出を偽装するために捜索届を提出するケースや、失踪直後に地元新聞など最小限の取材に応じる程度であれば理解できる。

 

誘拐説・・・その場で目を付けられて連れ去られたとする説。白昼堂々、人出のある神社で誘拐するとは通常ではやや考えづらい。

それならば1978年に起きた織田作之介ちゃん轢き逃げ連れ去り事件のように偶発的な事故から連れ去りに発展というケース(事故誘拐説)はありうるだろうか。折しもお昼時で出入りの多かった駐車場などでは交通事故の可能性は高まる。耳に不安のある法子さんであれば、山の高低差や天候による気圧の変化、旅先での注意力散漫、周囲の往来などによって、車の接近に気付きづらい条件もあったかもしれない。

しかし駐車場内であれば悲鳴や衝撃音、血痕など、目撃者がいなくとも何かしらの異変が察知されていそうなものである。たとえば出血を伴わない軽度の衝突で法子さんを転倒・昏睡させてしまい、慌ててそのまま運び去った可能性はゼロとはいえない。

 

特定失踪者説・・・いわゆる北朝鮮による拉致被害を疑う説。過去に各地で多くの拉致被害が存在すること、米子、大阪方面からの無言電話や娘が目撃した「帽子を目深にかぶった三人組」などから想起されたものと考えられる。

たしかに海沿いでの発生が多いとされるが内陸地であっても特定失踪の疑いはあるとされており、群馬県でも「北朝鮮に拉致された疑いを否定できない失踪者」の事案は極少数存在している。拉致のプロによる犯行であれば悲鳴や証拠を残さずに連れ去ることも可能かもしれない。

しかし筆者は詳しくないため完全に否定するつもりはないが、工作員と言うのは、山の中腹の、ゴールデンウィークで賑わう神社で真昼間から拉致の機会を窺っているものなのだろうか。

 

■展開

本件について出回る情報の多くは、当時同行していた夫親族らが番組出演して公になったものである。『テレビのチカラ』は失踪から8年後の2006年に放映されており、殺人であれば当時は「時効前」。殺人犯が時効前にわざわざ公に話題を蒸し返すはずがなく、失踪者家族は断じて犯人ではない

またDVや親族トラブルが原因と考えられれば、やはり捜索に消極的になる動機としてはたらく(目立ちたくない、蒸し返したくない)と考えられる。

失踪者家族は切に法子さんの発見を望み、周知による情報提供に一縷の望みを託して番組出演に踏み切ったのだと筆者は思う。

 

番組で取り上げた最大のポイントは「失踪から7か月後」に局に送付されたホームビデオ映像だが、その信憑性については些かあやふやだ。

①ホームビデオそのものが番組側の「仕込み」の可能性、②ホームビデオが送付されてきたのは事実だが番組の都合により一部に手を加えた可能性(たとえば「誰かに傘を差しだしている女性」らしき映像を差し込むなど)、③「赤い傘の可能性が高い」という鑑定結果などである。

仮にこのホームビデオ映像がなければ、ほとんど目撃情報もない失踪であり、番組で取り上げられたとしてもここまで周知されることはなかっただろう。なぜ警察ではなくテレビ局に映像を送る気になったのか等疑問は膨らむが、いずれにせよ映像に写り込んでいた人物がだれであろうと法子さん発見に結びつく類のものではない。

 

自発的失踪の異形として、突発的な記憶障害や解離性障害への疑いがある。ショックな出来事や過度のストレスによって、部分的に記憶や人格を失ってしまい、その間、それまでとは別の人間であるかのような心神喪失状態に陥って行動したのではという見方も散見される。

しかし、自分が誰なのか分からない、なぜその場にいるのか分からない状態だったとすれば、101円しか手元になく移動手段もない人間がどこに行けるだろうか。

周囲の人間に話をして警察や病院に連れて行ってもらうか、近隣の民家に救助を求めるか、その場で困惑して助けを待つ状況になるだろう。いずれにしても周囲の人間が救いの手を差し伸べれば、公的保護や支援の対象となり、すぐに確認・発見されていると考えられる。

 

法子さんの持病は公表されていないが、耳の不調、眩暈の症状などからメニエール病ではないかと推察されており、事故説に結び付けられる場合が多い。

だがメニエール病の発作など心身の不調に陥った場合、たとえば平衡感覚を失っていたとして山道をぐんぐん登っていくことはまず考えられない。へたり込んで助けを求めたり、その場に倒れ込むなど身動きが取れなくなる状態が予想される。

 

お賽銭のために持っていったという「101円」という金額について、とくに意味はないと考えている。財布にあまり小銭がなく、1円ではさすがに足りなく思うし、100円だと偶数になってしまうので「101円」になった等の些細な理由ではないか。家族が「101円」を記憶していたことについても「あら、百円玉しかないや」「だれか小銭持ってる?」等といったやりとりがあったと推測する。

なかには「101円」に様々な意味付けをする考察もあると聞くが、多くの人が「101円」を印象的に・不可解に感じるのは「一般的にその金額をお賽銭にしないから」である。身内にだけ伝わる特殊な意味、暗号だったとすれば、宗教説も真実味を帯びてくる(だがそうは思わない)。

 

娘が最後に目撃した林間に「佇んでいた母」について、筆者は誤認の可能性も十分あると考えている。赤ん坊の相手をしながら100メートル程先の木立の隙間に見えた「佇む女性」をパッと見て母親だと認識するにはそれという「材料」があったはずである。

感覚的なものなので「間違いなく母親だった」と言われてしまえばそれまでだが、多くの人は親や知り合いだと思って声を掛けようとしたら別人だったといった経験が一度や二度はあるのではないだろうか。人間の感覚は非常に繊細な反面、常に精密とは限らない。

娘が嘘をついていると言いたい訳ではなく、「赤い傘を差した女性」や「遠目に似たような体格でピンクのシャツを着た人」が視界に入ればはっきりと顔を認識することなく先入観で「お母さん」と思ったとしても不思議はないように思うのだ。「赤い傘」や「ピンクのシャツ」は妙齢の女性が身に付けるには決して珍しい色ではない。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210625161439j:plainRoberto Lee CortesによるPixabayからの画像

同様に、失踪初期に目撃したという「帽子を目深にかぶった三人組」についても、それと聞けばいかにも不審な輩を思い浮かべがちだが、帽子以外の特徴、性別や年代が示されていないことを考えても、それほど強烈な印象もなく視界を通り過ぎたのであろう。

たとえば「傘を忘れてきた3人家族」や「神社とのやりとりで出入りしていた祭関係者」が雨を避けるために頭を覆って足早に過ぎ去ってもさほど違和感はないシチュエーションなのである。

 

■再考

筆者としては、第三者によって連れ去られた誘拐のケースを再考(妄想)してみたい。

 

テレビのチカラ』に登場したセントジョーン氏の透視・推理した強姦目的の複数犯による連れ去りは、例えば下の美浦村女子大生事件など略取誘拐の典型例のひとつである。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 複数犯による強姦目的の連れ去りは、比較的若い男性らが若い女性を狙う場合が多い。無論、年配であっても強姦に及ぶ異常性欲者はおり、若者であっても年配者を好む性癖はなくはない。

だが「複数犯」で中年女性をターゲットにするということはそうそう考えられず、仮に中年女性を狙う計画があったにしても山中のこうした場所よりかは平地や市街地で物色する方が悪目立ちしないだろう(当時は市街地でも現在ほど監視カメラは多くなかった)。

 

人出のある神社で白昼堂々の誘拐を計画していたとは考えづらく、あるとすればかなり衝動的・突発的な犯行ではないか。たまたま神社を訪れていて、法子さんに心奪われてしまうとすればどのような人物が考えられるのか。

 

当時は「パワースポット」や「御朱印」も今ほど注目されておらず、寺社を巡るような若い人の比率は極端に低かった。しかも京都や鎌倉の古刹、日光のようなメジャーどころと比べれば周辺も目立って観光地化されてはおらず、地元人向けないし知る人ぞ知るスポットという感がある。

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その人物もおそらくは近場に住み、見頃のヤマツツジをお目当てに神社参道を訪れた。ファインダー越しに見える雨露の滴る赤や橙の輝きに幾ばくかの気分の高まりがあった。

休憩がてら神社境内を訪れ、杉林などを撮影するも物足りなく感じたのか、道行く赤い傘の女性に声を掛けた。昔の連れ合いや母親に似た面影でもあったのかもしれない。

「すいません、ちょっと…」

会話を交わし、被写体になってほしいとお願いして、参拝者の邪魔にならないように少し脇道に入った。近づいてはっきりと喋りかけないと女性は耳が聞こえづらいらしかった。雨の木立に映える赤い傘、素朴で気取らない柔和な表情、ぎこちなくもどこか愛らしいポーズ。

何とかして彼女との会話を続けたいと思った。しかし女性には連れがいるらしく、参拝に戻りたい素振りを見せる。

 「現像できたら送ります」

ペンと紙がないのを口実に半ば強引に駐車場まで連れていき、女性に名前や住所をメモ書きしてもらう。

彼女は他のだれかのもの。連絡先を聞いたところで会いに行く勇気もない、そんなことは自分自身が一番よく分かっていた。

(ならばいっそ…)

そう思ったときにはメモに集中していた彼女を車に押し込んでドアをロックし、運転席に飛び乗ると、男は後戻りのできない道へと発進していた…

 

 

群馬県及び隣県に住む40代から60代後半、旅行やカメラを趣味とする普段は物静かな独身男性による単独誘拐という(乱暴な)妄想である。

出入りの多い駐車場は、事故の危険もあるが「死角」も多い。真横の車に人が乗っているかどうかは見えても、数台向こうの車中では何が起きているかも分からない。

例えば具合を悪くしていたところ介助の素振りで車中に連れ込まれるといった状況も想像できる。意識の混濁など症状によっては悲鳴を上げたり抵抗することも難しかったかもしれない。

それこそ記憶障害になってどこかで別人としての人生を歩んでいたり、あるいは東京豊島区女子高生誘拐こと【籠の鳥事件】のように犯人との共生関係に置かれていたとしても無事に生き抜いていてほしいと願う。

 

失踪者の御帰還と関係者のみなさんの心の安寧をお祈りいたします。

北海道・恵庭OL殺人事件について

2000(平成15)年、北海道千歳市恵庭市又はその周辺で発生した殺人・死体損壊事件、いわゆる恵庭OL殺人事件について記す。

遺体発見から2か月後に被害者の同僚女性が逮捕され、殺人などの罪で懲役16年が確定した。すでに刑期を終えているものの、検察の杜撰な捜査への指摘や状況証拠のみで有罪判決が下されたなどとして冤罪が問われている事案である。

www.jiji.com

事件から20年以上を経て、加害者とされた女性の供述の変遷やメディアでの取り扱い、捜査当局と弁護団側との主張の食い違いなどから、その内実は玉虫色を帯びてしまっている。本稿で犯人像やだれがシロかクロかを論じる意図はなく、裁判やネット上で取り上げられる事件の争点について考えや感想を述べる。

 

■概要

3月17日8時20分頃、恵庭市北島の農道脇に黒く焦げた焼死体が発見された。

第一発見者は幼稚園の送迎バスの運転士で、通園ルートの途中で「黒い物体」を見掛けたので確認してほしい、と子どもを送り出しに来た主婦に頼んだ。主婦が自家用車で現場へ向かってみるとあばら骨の浮いた人間の焼死体だと分かり、近くの親類を連れて再度確認し、慌てて消防署へ通報した。

現場は北広島駅から東へ約6キロ(車で約10分)、恵庭駅から北へ約15キロ(車で約20分)と市街地からは離れた原野と農耕地が広がる一角。農家が僅かに点在するばかりで街灯もなく、最も近い住宅でも400メートルほど離れた場所にあった。

東には千歳川が行く手を遮る土地柄、昼夜を問わずほとんど往来はない。未舗装の道路は中央部こそ濡れた砂利道が露出していたが、両脇には圧雪が残り、遺体周辺の雪が融解していた。

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被害者は、千歳市キリンビール工場内にある日本通運事業所に勤務する契約社員・橋向香さん(24)だと早期に判明する。

遺体発見と同じ17日(金)、帰宅も出社もしていないことを心配した家族から13時頃に捜索願が出され、身体的特徴が近いことから遺留品の靴を確認してもらったところ本人のものと一致したためであった(指紋による照合は翌18日)。

 

道路とほぼ平行に仰向けで発見された遺体は、タオルのようなもので目隠しされ、右腕は「く」の字型に曲げて背中の下、左腕は胸の上にあり、股関節は左右に大きく開脚した状態で、足からやや離れて左足の靴が残っていた。

死亡推定時刻は退社した21時30分から23時頃の間。死因は頸部圧迫による窒息死と推認された。絞殺後に灯油類をかけて燃やされたとみられ、一部は内臓まで炭化しており、特に頸部、陰部の燃焼が激しかった。

また現場周辺では16日の23時15分頃に「オレンジ色の明るい光と煙を見た」との目撃情報が複数得られた。

 

翌18日20時20分頃、香さんの車(三菱パジェロジュニア)が勤務地から僅か200メートル離れたJR長都(おさつ)駅南口駐車場西側の路上に、施錠された状態で停められているのが発見された。車内から検出した指紋38点には勤務先関係者らのものは確認されなかった。

およそ1か月後の4月16日、勇払(ゆうふつ)郡早来(はやきた)町にある「早来町民の森」で焼け焦げた香さんのハンドバッグの中にあったとみられる遺留品(自動車のキー、メガネケース、香水瓶、電卓等)が発見されたが、ハンドバッグそのものは発見されていない。

 

千歳市の職場を中心に見ると、苫小牧市の北部にある香さんの自宅までは、南東へ約15キロ、車で約20分強の道程である。遺体発見現場となった恵庭市北島は、北へ約15キロと正反対の方角に当たる。

現場付近での目撃情報と併せて考えれば、香さんは21時30分に職場を離れ、23時過ぎには殺害されて現場へと運ばれ火を点けられたことになる。

 

 

■三角△関係

3月17日(金)午後、遺体が香さんだと推認されたことで、千歳署はその日のうちに勤務先の運送会社事業所に捜査員を送り込み、聞き取り調査や指紋などの試料採取が行われた。

16日(木)の夜、香さんは担当業務をすでに終えていたが、連休前の伝票整理に追われる同僚を待っていた。20時30分頃、香さんは自宅へ「帰りが遅くなる」と電話を入れ、家族に22時から放映されるテレビドラマの録画を依頼している。香さんが同僚と職場を出たのは21時30分頃で「今度カラオケに行こう」等と話して駐車場の入り口で別れて以降、足取りが分からなくなっていた。

また香さんは同じ職場の男性と交際していたことも判明する。交際相手のIさんは詳しく事情を聞かれたが、二人の交際は日も浅く、殺害の動機となるようなトラブルは確認されなかった。事件当夜、香さんたちが退社後もIさんは同僚5人と残業しており、完全なアリバイが成立していた。

 

17日15時20分頃、捜査員が香さんの携帯電話を2階女子更衣室ロッカー内にあった作業着の左胸ポケットから発見する。電源が入っていない状態で、向きが逆さまだった(当時の携帯電話には突起物となるアンテナが付いていた。生地を傷めることなどから自ら胸ポケットに仕舞う際にはアンテナを上向きに入れるのが一般的だが、発見時は下向きだった)。発信履歴は消えていたが電話会社への照合で、死亡推定時刻より後に架電していた事実が判明する。そのため香さんが職場に忘れていったものではなく、犯人が香さん殺害後も生存していたように見せかけるアリバイ工作をして、ロッカー内に戻したと考えられた。

そして、事件当夜に一緒に職場を出たこと、電話の履歴照会、Iさんの元交際相手だったことなどから、同僚の大越美奈子さん(当時29歳。元受刑者。本稿では「-さん」表記とする)に疑惑が向けられる。

同僚によれば、16日20時頃には大越さんは残務処理に追われながら「私を置いていかないでね」と香さんに釘を刺しており、香さんも「今日は放しませんよ」と返すなど意味深長な会話が交わされていたと言い、それまで二人が一緒に退社したことは一度もなかったため、退社後に何か約束していると思ったという。

 

大越さんは1998年1月から同運輸会社に勤め始め、9月頃から同僚には伏せてIさんとの交際を始めた。同じ98年11月に香さんも入社し、当初は大越さんやIさんと別棟での勤務だったが後に同じ部門へ配置となった。翌99年の暮れごろから大越さんとIさんとの関係にはほころびが生じていたとされ、2000年2月末に結婚観のちがいなどを理由に破局状態になる。直後から大越さんはIさんと香さんとの仲を疑い、電話で知人に失恋の不安やショックを相談していた。Iさんは職場の飲み会で意気投合した香さんに思いを寄せており、3月11日に告白して2人は交際関係となる。事件は香さんたちが交際を始めた僅か5日後に起きた。

その間、香さんは買い換えて間もない携帯電話に頻繁に無言電話を受けていた。近しい人間にしか番号を伝えておらず、思い当たる節はないと家族に話していた。ほとんどが短い呼び出しで切れてしまい、応答してもすぐに切断された。その無言電話の主こそ他ならぬ大越さんだった。当初は香さんの連絡先を知らない、電話をかけたことはないと証言し、携帯電話のメモリにも番号登録はされていなかった。しかし香さんの携帯電話を照会すると多くの着信履歴が確認され、後の家宅捜索で「連絡先が記されたメモ」が発見される。

公判で明らかとされた大越さん側からの電話の発信回数は、検察側によれば12日に21回、13日に128回、14日に54回、15日に13回、16日7時40分までに4回と、5日間で合わせて220回。弁護側はそれら発信のほとんどは呼び出し音が鳴る前にためらって切断したものだとし、課金記録にある各日6回、8回、3回、1回、0回と合わせて18回の架電を認めている。

検察側の数字を見るに、強烈な嫉妬心、執着、怒りをも窺わせる夥しい回数である。香さんは元々大越さんと特に親しくしていた訳ではなかったが、無言電話の主を知ってか知らずか、殺害される前夜となる3月15日23時頃に「この頃大越さん苦手で困ってます。へるぷって感じー」というメールを同僚に送っていた。

取調官による証言では、3月27日時点で大越さんはすでに参考人ではなく被疑者として行動監視が行われていたとされる。捜査当局は早々に「恋愛、三角関係のもつれ」を殺害の動機とみて彼女に強い疑いを抱いていたことになる。

 

■逮捕

社内の人間関係などから警察は早々に大越さんに目星をつけ、3月20日頃にはすでに内偵が開始されていた。疑惑を持たれていることは、長時間に及ぶ聞き取りや多田さん夫妻らの進言から彼女も察していた。

多田さん夫妻は大越さんの地元、勇払郡早来町(現勇払郡安平町早来)で喫茶店などを営んでおり、小学生の頃から習字を習うなど懇意な間柄であった。彼女の弁護を担当する伊藤弁護士と引き合わせたのも夫妻の尽力による。

 

4月14日、千歳署は大越さんに任意同行を求めた。大越さんが取調室で「任意だったら帰ります」と言うと、取調官は有無を言わさず9時から23時まで聴取が続けられた。初日から「お前がやったんだ、お前しかいない」「会社の人もみんなお前がやったと疑っている」「お前は鬼だ」「ごめんなさいと言ってみろ」と威迫的な人格否定や自白の強要が続けられ、意識が朦朧とすると急に目の前の机を叩かれ「まさか寝てるんじゃないべな」と怒鳴りつけた。

4月15日昼に伊藤秀子弁護士が大越さんと面会。それ以後、警部の態度が掌を返したように変わったとされる。しかし伊藤弁護士が出張で面会に来られないタイミングを見計らうかのように、警察は再び大越さんに過酷な取調べを行う。

多田さんが千歳署に迎えに行くと、大越さんは自力で階段を下りられないほどに精神的ダメージを受けていたという。支え手を離して大越さんが倒れてしまったとき、警部は「演技だ」と言い放った。涙を流し、口もきけない状態の大越さんをそのまま帰す訳にもいかず、食事や会話ができるまで落ち着かせると深夜0時近くにもなった。

 

4月22日、大越さんは心身に支障をきたし、任意出頭を拒否。24日には札幌市・平松病院の精神神経科を受診。過度の緊張による「心因反応」と診断され、安静が必要だとして26日から翌5月22日まで入院を要した。

退院に合わせて、自白の強要など違法な取調べを受けたことによる心因反応について、道警を相手取り、国家賠償法に基づき慰謝料500万円を請求した(後に棄却された)。

当時のことを大越さんは公判で下のように陳述した。

「22日、退院祝いに友人からプレゼントをもらった…みんな枕元に並べ、ぬいぐるみも、服も、みんなからの手紙も、お守りも、他にもたくさんの気持ちがうれしくてみんな並べた。あんなに安心して夜眠れたのはあの日が最後だった。翌日の朝6時に刑事が来た」

香さんの遺体発見から約2カ月経った5月23日、殺人及び死体損壊、遺棄の容疑で大越さんは逮捕された。

 

■裁判の概要

2000年10月に札幌地方裁判所で初公判が開かれた。大越さんは取り調べ段階から一貫して容疑を否認し続けた。捜査当局も大越さんが殺害に直接かかわったことを示す証拠は得られず、情況証拠の積み重ねによって事実と推認させる、いわば消去法的に「加害者は被告人以外に考えられない」との結論に導く法廷戦術をとった。

検察側の主張は、被告人が恋愛関係のもつれによる強い怨恨から車中で首を絞めて殺害し、23時過ぎに恵庭市北島の農道で遺体に灯油をかけて火を放ったというもの。

弁護側は、被告人には犯行が不可能だったとして無罪を主張した。また焼死体の下半身が開脚されたような姿勢であったこと、陰部の燃焼が激しかったことなどから男性複数人による性的暴行が疑われ、証拠隠滅のために着火したとする見立てを示した。

2000年10月  札幌地方裁判所にて初公判(佐藤学裁判長)

2003年3月  有罪判決、懲役16年

2004年5月  控訴審初公判(長島孝太郎裁判長)

2005年9月  控訴棄却

2006年9月  最高裁島田仁郎裁判長)は上告を棄却

2006年10月  弁護側異議申立が棄却され、一審判決の懲役16年が確定

2012年10月  再審請求

2014年4月21日、札幌地裁(加藤学裁判長)は再審請求を棄却

2018年8月12日、刑期満了で出所

2018年8月27日、札幌高裁再審棄却

2021年4月15日、最高裁再審棄却

札幌地裁は被告人に懲役16年の有罪判決を下すも、確定的な証拠が存在しないため新証言や実証実験などが重ねられ、係争は長期化した。刑期を終えた2018年9月4日、記者会見に臨んだ大越さんは「必ず真実を見抜いてくれる裁判官がいることを信じて戦っていきたい」と再審で無実を証明する意欲を示した。

以下の項目ではその変遷を追うのではなく、間接証拠に関するいくつかの争点について切り分けてみていこう。

 

■いくつかの争点

■動機

検察側は殺害の動機をいわゆる「三角関係のもつれ」として捜査の初期段階から大越さんに捜査の焦点を絞っていた。

3月17日時点でIさん、大越さん、香さんの関係を知る社内の人物は、Iさんと大越さんを除けば同僚女性ただ一人だった。調書では3月20日付けで同僚女性が3人の関係について言及、26日には「大越さんが犯人だと思う」とも述べている。だが実際には18日時点で署内に「大越班」が設置され、19日には行動監視が行われていた。

 

3月4日(土)、Iさんは香さんを誘って明け方近くまで室蘭方面へドライブに出掛けた。6日(月)、香さんのIさんに対する態度がそれまでと違うことを察した大越さんは二人の関係を怪しむようになる。翌7日(火)、Iさんは携帯電話を紛失し、翌日キャリアに連絡して使用停止手続きをとった。

3月8日(水)の夜にIさんが香さんを自宅へ送り届けたこと、11日(土)夜には長都駅前に二人の車が並んで停められていたことを知ってショックを受けたことなど、大越さんはかつての交際相手に電話で度々相談していた。

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大越さんの供述によれば、Iさんとの結婚は意識したことはなかったが少なからずショックを受けたと言い、当時Iさんが携帯電話を紛失中で思いをぶつけることもできず、無意識のうちに香さんの番号をリダイアルしてしまったまでで、嫌がらせの意図はなかったと説明している。3月12日にIさんから正式に別れを告げられて、翌13日にきっぱり別れる決心がつき、多田さんの店を訪れた際にも「気持ちの整理がついた」と話していた。

だが知人らは以前大越さんから「彼氏に結婚したいと言ったら、ちょっとそれは考えられないと言われた」「結婚する気あるのと聞くと、もう1週間か10日待ってくれと言われた」旨を聞かされていた。

Iさん自身も結婚への意識について「ゼロではない(遊びの付き合いではない)」思いで交際していたと認めている。2月27日に大越さんへ「結婚する妥協線が見えない」と告げると、「もう少し考えて」などと哀願されたと証言する。

控訴審の中で大越さんは、結婚したいと思っていたのは1998年まで交際していた男性で、迷惑が掛かると思いこれまで明かせなかったと証言した。しかし事件後にもIさんに宛てて「解決したら、一晩、Iの時間を私に下さい。Iのとなりで眠らせてください」との内容の文をシステム手帳で作成していたことが家宅捜索の結果分かっている。弁護側が主張するように「(殺害する)動機はなかった」かもしれないが、本人の証言には矛盾があり、Iさんに何がしかの未練を抱いていたことが窺える。

 

◾️体格差

香さんは身長162センチ以上、体重約52.5キロ、中学時代はテニス部、高校時代は陸上部で鍛えられ、体力があった。一方、大越さんは身長147センチ、体重51.2キロ(数か月前の健康診断での計測時。弁護側は事件当時46キロだったとしている)と小柄な体格で、生まれつき右手薬指・小指に短指症がありバランスが悪く「片手で丼が持てない」非力とされ、握力は右手19キロだった。

鑑定では、気管内部に煤がなく、気道にも熱傷がないことから火を点けられる前に「絞殺」されていたと推認されたが、扼殺(手による絞殺)かロープ状のものが使用されたかといった点までは明らかにされていない。だが体格差や体力面から見ても、いさかいが起きたとなれば激しく抵抗されることは疑いなく、大越さん単独で絞殺できたとする起訴内容は不合理極まりない、と弁護側は主張している。

たしかに身長では被害者の方が大越さんよりひと回り大柄な印象である。立ち姿勢でまともに対峙すれば小柄な大越さんは首元に手を掛けることも難しいだろう。

また「タオルで目隠し」されていたという事は、事実上「手・腕」も拘束されていたことになる。単に「背後から不意をついて絞殺」といった場面であればタオルやベルト、ロープ状のものを使えば不可能ではないが、レスラーのように屈強でもなく特殊な訓練を受けてもいない女性が抵抗されずに単独で手を拘束できたとは考えづらい。優に御することができたとすれば、体格や体力に勝る男性による犯行か、薬物等で昏睡させてか、あるいは催涙スプレーやスタンガンなどの凶器でダメージを与えてから、拘束し犯行に及んだのではないか。

弁護側は元東京都監察医務院長・上野正彦氏の見解と合わせて、「夜間の屋外」で開脚状態で発見されたにもかかわらず性的暴行の疑いを持たず「精液鑑定をしていなかった」点について監察解剖の不備を指摘している(鑑定は後に科捜研が実施)。

2018年の2度目となる再審請求では、東京医大吉田謙一教授が証人尋問に立ち、死因について「左目瞼結膜、口腔粘膜及び左側頭筋膜下に溢血点」があること等から「頸部圧迫による窒息死」との推認が為されているが、溢血点は窒息以外でも生じうるとして慎重さに欠けると指摘した。

筆者も性犯罪の可能性は否定しないが、「夜間の屋外」とはいえ「3月の北海道」の雪上で行為に及ぶのかという素朴な疑問はある(が道民ではないのでイメージが湧きづらい)。いずれにしても遺体の焼損によって「凶器」「犯行様態」が鑑定では測りづらくなっていることは確かであり、少なくとも検察側の主張や一審判決のように疑う余地なく大越さんの単独犯行だと認定するのは拙速な印象をぬぐえない。

 

■携帯電話の発見状況

先述の通り、香さんの携帯電話は3月17日に職場2階の詰所にある女子更衣室の彼女のロッカーから発見され、上着の胸ポケットに逆さ向きに入れられていたり、発信履歴が消されていたりといかにも不自然であったが指紋は検出されなかった。道警は携帯電話会社(北海道セルラー)に通信記録の照会を依頼し、翌日には関係データが取得できた。

16日23時過ぎに遺体は焼却されていたにもかかわらず、17日に7回の発信が認められた。

00:05:31-00:05:49 ビール工場代表番号

00:05:56-00:06:00 Iさん携帯電話

00:06:04-00:06:05 ビール工場代表番号

00:06:29-00:06:49 ビール工場施設管理室

03:02:09-03:02:15 Iさん携帯電話

03:02:19-03:02:25 ビール工場施設管理室

03:02:38-03:02:55 ビール工場施設管理室

その後、12時36分に電源が切られ、15時5分頃にロッカー内で電話が発見された。なぜ午前中に入っていた電源がこのタイミングで切られたのかは不明である。

詰所は事件の約20日前に施設1Fから2Fへ移動されており、ロッカーに名札は貼られていなかった。部外者が人知れず詰所に侵入し、個人のロッカーを特定してまで電話を置いていくことは物理的に不可能ではないが考えにくい。

担当部署の従業員は10名、うち女性は香さんを含めて4人であった。「女子更衣室」と聞くと、男子禁制の場であるかのような印象を抱きがちだが、実際には冷蔵庫などを利用するために男性従業員が立ち入ることもあったとされる。午前中に配送センターと同じ電波圏内にあったことは分かっているが、いつどのタイミングで犯人がロッカーに電話を入れたのかは不明であり、女性従業員による犯行とは断定できない。

 

そもそもなぜ犯人は携帯電話をロッカーに持ち込んだのかは合理的な説明がつかない。遺体は人通りが少ない場所とはいえ目に付きやすい状態で遺棄され、事実半日も経たずに発見された。焼損が激しかったものの焼死体はすぐに香さんの行方不明と結びつけられることも見当はつく。ロッカーに入れておけば、女性従業員が疑われると考えたのか、あるいは捜査員が来ると知って慌てて持ち主に返したのか。

検察は、殺害時点では発着信履歴に「Iさんの携帯電話」は残っておらずすぐにリダイアルできる状態ではなく、犯人はわざわざアドレス帳にあった45件の登録番号から「Iさんの携帯電話」を選んで架電したと説明し、大越さんとの関連性を指摘。すでに終業している職場や7日から紛失していた「Iさんの携帯電話」であれば、23時頃にかけても応答も返信もないと知っていたからこそ発信相手に選んだのではないかとした。たしかに「勤務先の番号」と「個人の連絡先」では発信者の僅かな意識のちがいを感じる。

しかし結果論から言えば、香さんの携帯電話から架電したことで却って「犯人性」のある痕跡を通信データ上に残してしまったことになる。余計なことをせず他の所持品同様に損壊・遺棄していれば、わざわざアリバイ工作をする必要もなかったのではないか。

逆説的に見れば、犯人は殺害後も香さんの携帯電話を手放せない事情があったのではないか、とも考えられる。たとえば持ち帰ってメール内容を全て確認したかったか、あるいは「誰か」から掛かってくるはずの電話を待っていたというような事情が犯人にあったのではないか。しかし電源を入れたまま肌身離さず携帯していればすぐに見つかってしまう。そのため一時しのぎのつもりで香さんのロッカー内に「預け置いた」ように思えなくもない。

 

■アリバイ崩し

大越さんは3月16日21時30分頃に職場の駐車場入口で香さんと別れた後、車で数分の場所にある恵庭市住吉町の書店に立ち寄って1時間ほど滞在し、24時頃に帰宅して、入浴後に刺身でビールを飲み、翌17日2時30分頃には就寝したと説明した。当時の書店には監視カメラの記録もなく、店員などによる目撃証言も得られていない。

警察の調べで、23時36分に同じく住吉町にあるガソリンスタンドで給油を行なっていたことがレシートの打刻から判明。その後の調べで、防犯カメラ映像から23時30分43秒に来店したことが確認される。また3月17日1時43分頃には早来のコンビニを訪れており、缶ビール、お菓子、女性誌を購入していた。

 

道警は当初、遺体発見現場周辺で「炎」について複数の目撃情報を得ていた。

Mさんは時計が「23時から23時5分の間」であることを確認してすぐに2階に上り、廊下の窓越しから南8号線道路に炎が上がっているのが見えたと一審で供述。検察官が少々時間に幅を持たせた方がいいように述べ、本人も重大事件であるために慎重を期して4月6日付け調書では「23時頃から23時15分頃の間」と幅を持たせている。

550メートルほど離れた場所に住むOさんは検察官調書で「23時10分頃から15分頃」に炎を見たと供述していたが、時計が若干進んでいたため正確な時刻を差す内容かは不確かだとされた。しかし炎のサイズについてMさんのものより大きかったこと、初めに目にしたときより5分後ないし15分後に再度見たときには1/3ほどの大きさに縮んで消えかかっていくところだったことを述べている。

判決では、Mさんが燃え始めの段階で見つけ、別の場所からOさんが更に大きくなった炎に気付き、その後鎮火していたもの、として相互に補完する内容だとまとめられた。

しかし再審請求審で明らかにされたOさんの初期の供述(事件翌日の警察調書)では、「23時15分頃」「納屋の間口と同じくらいの大きな炎」「太陽が地平線に落ちるときのようなオレンジ色」とより印象的・具体的な供述を行っている。はじめは犬の散歩の出がけに見掛け、その5~15分後に1/3ほどに小さくなったとし、帰りの23時40分過ぎにははじめと同じくらい大きな炎を見たと言い、帰宅して17日0時過ぎにはまたその炎が1/3くらいに小さくなっていた、と1時間近くに渡って炎を断続的に観察していたことが判明する。つまり一審では検察側が都合のよい部分だけを切り取って採用していた捏造証拠ということになる。

 

もう一人のQさんは、北広島駅へ家人を迎えに車で通った際の証言をしている。23時5分頃に自宅を出て南8号線と西8号線の交差点のやや東に「ブレーキランプを赤く点灯させたボンゴ車」と並ぶ小さな車の後部が見えたとし、車越しに炎のような光は見られなかったとしている。23時15分頃に北広島駅から自宅へ戻る車中で、行きのときより東側の位置に2台とも移動しており、小さい車の付近で赤い光のようなものが見えたと供述した。しかし目撃の翌日に取られた警察官調書では、往路で2台の車とテールランプだったかも分からないが赤い光らしきものを見た、23時30分頃の復路では意識してみていなかった旨供述していた。また車の特徴についても聴取当時は不鮮明だったものが、2年4か月後の公判供述では「大きい方はクリームがかった白、小さい方は黒か紺だったと思う」とより鮮明な内容になるなど、信用性に欠けるとして裁判では斥けられている。

車の位置や車種について証言にぶれがあることは否めず、信用性の面では劣るようにも思えるが、当初警察も周辺でボンゴ車の捜索を行っている。2台の車輌があったとすれば大越さん単独犯説は根底から覆る重要証言である。当局が相当するボンゴ車が見つけられなかったことからこの証言を退けたとみるのは穿ち過ぎだろうか。

逮捕状では「23時15分頃」とされていた焼却時刻は、起訴状で「23時頃」に改められ、裁判所は少なくとも「23時5分頃」には開始されていたものとして認定された。

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複数回の検証実験では、遺体発見現場から香さんが訪れたガソリンキングまで車で19分から25分前後かかることが分かっている。検察の主張に沿うならば、現場周辺に友人が住んでいたためそれなりに土地勘があり、夜間のドライブも慣れていた大越さんならば、殺害後の興奮状態で街灯もない真夜中の凍結した凸凹道でも法定速度以上で走行可能だったのかもしれない(ないと思う)。

弁護側は、こうした犯行時刻の変遷を「23時30分」に給油していた大越さんのアリバイを崩すために、犯行後でも23時30分に給油に行くことは可能だと立証するために作為的に「早めた」と見ている。

 

だが検察側の筋書きのように、事前に燃料まで準備して殺害に及ぶ犯人が鎮火も待たずに慌ててその場を後にし、にもかかわらず肝心の車がガソリン切れでスタンドに駆け込むような“失態”を犯すものであろうか。仮に、そうした間の抜けたアクシデントがあったとして、その後深夜のコンビニに立ち寄って缶ビールとお菓子と雑誌を買って帰るという大胆不敵な行動を取り得るものだろうか。

もちろん殺害直後に何食わぬ顔で日常生活を送る犯人もいるにはいるし、アリバイ工作のひとつとしてコンビニへ来店したのかもしれない。見方によっては給油すらも急場のアリバイ工作に受け取れるかもしれない。

だが取調べや公判で泣きじゃくったり卒倒してしまう大越さんが、殺害直後にそうした大胆な行動がとれたとは俄かに信じがたい。検察側の言い分を聞けば大越さんの供述には不可解な面も目立つ。ストーキングを疑わせる行動や「犯行につながってもおかしくない」と思わせる心象はゼロとは言えない。しかし「犯人が取ったとみられる行動」と「大越さん本人が取った行動」との間にはどうにもピタリと重ならないギャップがあるように感じられる。

 

■グローブボックスで見つかったロッカーキー

4月14日、県警は大越さんの車両の検証を行い、助手席前グローブボックス内から被害者のロッカーキーを発見した。しかし被害者をはじめ女性従業員らはロッカーの施錠をしておらず、香さんがロッカーキーを持ち歩いていたとは考えられない。ロッカー内部の小物受け皿に置いたまま保管されていた可能性が高い。検察側はこれを被告人がバッグをグローブボックスに押し込んだ際に落下させたものとして証拠採用した。

弁護側は、発見の経緯が不明瞭で、正式な手続きを踏まずに認定された違法証拠だとし、被告人の嫌疑を深めるための「捏造」を疑わせるものとした。たしかに無施錠のロッカーキーが外部で、それも目下「被疑者」とされる人物の車のグローブボックスから発見されるというのはあまりに出来過ぎた話に思える。

たとえば大越さんは勤務先で車をいじれる人物にパンクしたタイヤの交換を依頼しているが、そうしたタイミングを見計らって犯人が大越さんに濡れ衣を着せようとロッカーキーを忍ばせた可能性もゼロではない。

だが偶々バッグからロッカーキーがこぼれ落ちたり、偶発的なタイミングで犯人が濡れ衣を着せようとしたと見るより、車両検証の際に「警察が持ち込んだ(捏造した)」と見る方が理に適っている。無論そうした証拠はどこにも存在しない。

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また車両検証では助手席マットから灯油成分が検出されたが、車内から被害者の血痕や毛髪、指紋、尿などは検出されなかった。弁護側によれば、検察側の言い分通り車内で絞殺に及んだとすれば抵抗や尿漏れなどが起こるがそれらの痕跡は一切出ていないと主張する。だが被害者は当時生理中であったことから、ナプキン類に吸着してシートに尿が残らなかったことも推測されている。犯行後に車内を多少クリーニングすることは可能にせよ、血液や尿の付着があればシートの張替など大掛かりな手間を要する。仮にそこまで入念な証拠隠滅を行う人物であれば、灯油の付着した床マットをそのままにはしていないだろう。

 

■犯行後の足取り

上述のように、犯人は犯行後に被害者の携帯電話で7回発信している。当時は2020年現在と異なり、GPS機能による位置の特定ができないながら、利用基地局との通信情報を照らし合わせて犯人のおおまかな動線が導き出された。

 下はおおよその位置関係を示すために作成した地図であり、便宜上マーカーが付されており、青いルート線が表示されているが正確な位置・足取りを示すものではない。ひとつの目安とされたい。

「赤色マーカー/A」遺体発見現場である恵庭市北島(16日23時過ぎに火柱目撃)

「B」千歳市新富の基地局エリア(17日0時5分頃に4回の発信)

「C」安平町早来北進の基地局エリア(17日3時5分に3回の発信)

「紫色マーカー」大越さんが給油した恵庭市のガソリンスタンド(16日23時30分)

「緑色マーカー」被害者の車両発見現場(18日)

「黄色マーカー」被害者の勤務地

「灰色マーカー」被害者の遺留品発見現場(4月16日)

 大越さんが23時30分に立ち寄ったガソリンスタンドから法定速度でそのまま直帰したとすると、犯人が電話を掛けた時間帯とは誤差が生じる。

だが大越さんが立ち寄ったガソリンスタンドから犯人が電話を掛けたBエリアは国道36号線でつなぐことができ、2度目に電話を掛けたCエリアから外れはするものの、大越さんの居住地も早来であった。だれが電話を所持していたかは不明だが、検察の示すように「国道36号線を恵庭市から千歳市方面へ南下、その後、東進して安平町早来へ」という動線は概ね重なる

さらに17日、大越さんは職場である配送センターに8時20分頃出社。被害者の携帯電話には9時29分から11時52分までの間に15回の着信(勤務先など)があり、いずれも同職場を含むエリアをカバーする基地局で受信されたものであった。つまりは、17日の朝には携帯電話は勤務先に移動していたことになる。

 

アリバイ工作の観点から見れば、すでに終業後の勤め先や交際相手が紛失した携帯電話に「香さんが」電話を掛けたように見せかけるのは不合理である。大越さんと同様に香さん「も」当然勤務先や「Iさん携帯電話」に繋がらないことを分かっていたからだ。

GPS機能がなかった当時、電波の受信基地局から携帯電話の位置を逆算する手法は、捜査関係者や携帯電話関係者以外にはあまり広く認知されていなかったとも言われる。おそらく犯人は「どこかに発信しておけば香さんが生きていた証拠になる」程度に考え、自らの発信エリアが把握されることなど露も考えてはいなかったのではないか

また犯人は7回の発信を行いながらも、なぜ携帯からその発信履歴を消していたのか。さながら事件直後の自分の過ち(香さんが掛けるはずがない相手に発信していたこと)に気が付いて慌てて消したかのようにも思える。

 

■タイヤの損傷

3月20日、大越さんは被害者の通夜に出席した後、カーケア用品店を訪れている。その際、点検係のスタッフが左前タイヤ(冬用のスタッドレス)の接地面に焼け溶けた痕跡を確認し、そのまま走行を続けると危険がある旨を伝えた。後の4月10日には職場で夏用タイヤに交換してもらい、4月14日の検証時に車に積まれたままになっていた冬用タイヤが押収された。

検察側の鑑定意見書によれば、損傷は深さ5ミリ、9×10センチ大で、物理的損傷や化学的変化、急ブレーキなどによるものではなく、「摂氏250度から290度の高熱を帯びた物体に数分以上触れて出来たものと推定」された。通常使用で生じる損傷とは考えられず、当局は「被害者を焼損させた際に被告人車両が近くにあったことのほかには考えにく」いと主張し、犯人性を示す間接事実に挙げた。

だが遺体発見現場は凍てついた農道であり、一帯では鉄片などの高熱を帯びる可能性のある物体は発見されていない。2メートルもの火柱を上げて燃え盛る遺体のすぐ近くに車両を停めていれば、常識的に考えても「9×10センチ大」のタイヤだけの損傷で済むとは思えない。バンパーが焼け付いたり、車体に焦げや煤跡も認められていない。

伊藤弁護士が自動車工学の専門家に確認したところ、熱した鉄片などの上に載ってできたとは考えられず、急ブレーキの際にできた傷との見方を示したと言い、あるいは誰かが意図的にタイヤを削ったのではないかとの自説も述べている。

 

遺体発見時、通報者はよほど慌てたのか誤って消防に通報してしまったため、現場には消防隊が先に到着した。すぐに警察も呼ばれたが、第一発見者らを含め、多数の車両が乗り入れたことになる。それら事件とは関係しない車両を除いて2~3種類のタイヤ痕が採取されたが、検察側はそれらの捜査は行っていないとして弁護側の開示要請を拒否した。それらの中に「ボンゴ車」等のものがあったか否かは不明である。だが事実として、遺体発見現場に大越さんの足跡や日産マーチのタイヤ痕、遺体を引きずる際にできたような痕跡は検出されていない

 

■灯油の購入

遺体の燃焼に用いられたのは灯油類(ガスクロマトグラフィーによる鑑定上は灯油か灯油型航空機燃料のいずれか油種を判別できない)とされ、捜査員たちはその出処を追って給油所などで聞き込みを行っていた。4月14日、大越さんの車両検証により、事件前夜の3月16日0時頃に千歳市末広のセイコーマートふくみやでポリタンク入りの灯油10Lと杏露酒を購入したレシートが押収されてようやく出処が判明する。

購入の目的について、以前住んでいた(父親の勤め先の)社宅の立ち退きが迫っており、近々荷物の片付けをしに行く必要があり、その際の暖房用に使うためだと供述。しかしふくみやで販売していたものと同一成分の灯油は大越さん周辺では見つからなかった。

というのも4月1日頃、職場関係者から給油所で大越さんの捜査が行われていることを聞かされ、怖くなってポリタンクごと千歳市内の草むらへ投棄したのだという。だが購入したまま未使用の灯油10Lが存在すれば「犯行に使っていないこと」の裏付けとなり、警察の疑惑は大きく減退させられる。自分に有利な証拠となるものをなぜ遺棄してしまったのかは説明がつかない。

また遺棄の翌日頃には「ないと却って怪しまれる」と思い直し、北広島市内にある別のセイコーマートでまた新たに灯油を購入し、社宅へ運んでいた。前日頃に草むらに遺棄したのであれば、まだ現場にそのまま残っている可能性が高いにもかかわらず、なぜ探しに行かなかったのか。

大越さんは3月16日から4月1日頃まで車内に2週間近く灯油を積みっぱなしにしていたとする説明もやや解せない。自宅と同じ早来町内にある社宅に下ろすことがそれほど手間だったとも思えない。灯油をめぐる大越さんの一連の行動、証言に疑問がもたれた。

 

また同じく車両検証で、助手席床マットから灯油成分を検出。大越さんは「助手席に灯油を積んでいた際に蓋が緩んでいてこぼしてしまった」と述べている。検察側は購入直後に未使用のタンクの蓋が緩んでいたとは俄かに信じがたいとし、灯油を使用(タンクの蓋を開閉)したことの証左だとする。

大越さんは一連の灯油の買い直しについて長らく弁護人にも秘匿し、ふくみやで購入した灯油を社宅へ運んで未使用のまま警察に押収されたかのように伝えており、初公判が迫った9月頃になって買い直しをした事実を弁護人に明かした。弁護団は「遺棄した」とされる灯油を重要証拠になるとして捜索したが発見には至らなかった。大越さんは灯油に関する秘匿・虚偽供述をしていた理由について、「本当のことを言えば弁護人に逃げられてしまう不安があったから」と説明している。

尚、第14回公判で灯油を分析した道警科捜研技官は「灯油の成分については分析できなかった」と証言している。衣類や目隠しのタオルからも成分が分析できなかったのであろうか。少なくとも大越さんが購入した灯油と現場から採取された灯油の成分が一致したという事実はない。

 

■ドングリ山の遺留品

4月15日16時20分頃、「早来町民の森」内の路肩で被害者の鞄に入っていた遺留品の残焼物が発見された。大越さん宅から約3.6キロと車であればすぐの距離である。その日は事情聴取が開始され、家宅捜索や車の検証を受けた翌日である。

第一発見者は「学校のドングリの子孫を残す会(以下ドングリ会)」に所属する地元の会員で、翌16日に会長に連絡を取った。同会の会長は、大越さんを支援する多田さんであった。多田さんは伊藤弁護士を札幌に送り届け、24時近くになって焼き跡の現場に訪れ、車のキーなどもあったため処分せず警察に通報した。

大越さんもまた「ドングリ会」のメンバーで、活動の一環で同地を訪れたことがあった。聴取を受けた会社関係者には彼女以外に早来町を生活圏とする人物はいなかった。捜査当局は発見現場を「土地勘がある者でなければ容易に行きつけない場所」とし、大越さんにも「土地勘のある場所」だったとしている。

10日(月)夜から11日(火)朝にかけて激しい降雨があったが、残焼物には雨に打たれた痕跡がなく、雨が止んだ11日昼以降に発見現場で灯油類を用いて焼かれたものと考えられた。また多田さんは観察目的で毎月2,3回森を訪れることがあったが、13日(木)17時過ぎに車で通った際には焼いている様子や焚火痕には気付かなかったという。

また多田さんは四駆車のジムニーで森の未舗装路を時速10キロ程の低速で走行したが、ぬかるみだらけでタイヤは泥で真っ白になったという。しかし同13日22時前に大越さんが喫茶店に訪れていたが、彼女のマーチは汚れていなかった、山には行っていないと思う、と証言した。

焼かれたのは13日17時以降から15日(土)16時20分頃の間に絞られるものの、職場への勤務、多田さんの店への来店、警察の行動監視、14日・15日の事情聴取の合間を縫って、大越さんが遺留品を焼きに行くというのは極めてリスクが高く、現実的に困難に思える。

10日夜~11日朝 激しい降雨(近隣では土砂崩れ)

13日 多田さん巡回、車中からは焚火痕は見られず。夜、大越さん来店。

14日 大越さん任意事情聴取。車両押収。

15日 事情聴取2日目。多田さん、伊藤秀子弁護士を大越さんに引き合わせる。

同夕方 「ドングリ会」会員が遺留品の焼け跡発見。

16日 24時頃、多田さんが焼け跡を確認して通報。

他方で、より遺留品の発見を免れようとするのであればそもそもなぜ燃えにくいものを燃やそうとしたのか疑問が生じる。山林内の地中に埋めたり、海川へ遺棄する等の方が発見されづらいように思われる。

大越さんの最大の支援者ともいえる立場の多田さんによる目撃やアリバイの証言は、第三者の立場からすると「客観的証拠」としてはやや信用性に欠ける印象を抱かざるを得ない。大越さんの支援者が大越さんに代わって焼却したとまでは思わないし、多田さんの証言が「虚偽である」と示す根拠はないが、立場上どうしても大越さんを庇う証言に聞こえてしまうのである。しかし多田さんは奥様が細かに日記を付けており、信用性の高い内容であることも確かなのだ。

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犯人が大越さんに濡れ衣を着せるために大越さん宅の近くに遺棄した可能性はあるだろうか。たとえば「ドングリ会」会員以外でも、昔馴染みの地元民、あるいは親友、恋人のような近しい間柄であれば、大越さんの会での活動について耳にしていた可能性は充分にある。しかし濡れ衣を着せたいのであれば、大越さんの自宅付近に放置すればよいまでで、わざわざ火を点けたり、いつ発見・通報されるか定かではない(ともすれば通報されずに処分されかねない)森林公園の路肩に遺棄する必要性はない。

残燃物について言えば、いかにも燃え残りそうな内容物にもかかわらず、燃え殻を埋めるなどして始末していないこと、基本的に人通りは少ない場所ではあるが目に付きやすい状態で残されていたことなどから、「燃焼状況を最後まで見ていなかった」と推認され、そこはかとなく焼死体との相似を感じさせる。犯人は着火直後に現場を去ったとするならば、「証拠品の完全な隠滅」というよりも「手許に置いておけない」「場当たり的な遺棄」「(指紋などの)直接的な証拠を隠したかった」「時間がない」といった背景が想像される。遺体も遺留品も、あまりに粗雑で不完全な隠蔽なのである。

捜査当局は、大越さんが4月1日に買い直し、社宅に運んだ灯油の残量が9.5リットルだったことから、差分の500ミリリットル程を遺留品の焼却に使ったのではないかとしている。だがあえて穿った見方をすれば、焼死体の状況に近づけるためにわざわざ「火を点けた」とも、あえて「燃えにくいもの」を燃え殻にして残したようにも思えてしまう。はたしてそんなことが可能だったのはだれなのか。

 

■燃焼実験

検察側の主張によれば、10リットルの灯油を遺体にかけて火を点け、すぐにその場を離れたとしている。弁護側ははたして10リットルの灯油で人体をそこまで焼損することは実際に可能なのか疑問を呈した。被害者の遺体を扱った納棺業者は「灯油を何回もかけてじっくり焼いたか、ガソリンかジェット燃料で焼いたように思われる」旨の供述をしたと弁護側は述べている。

2012年9月、弁護側は再審請求のための新証拠として、弘前大教授・伊藤明彦氏らに豚を使った燃焼実験を依頼。伊藤教授は東住吉放火殺人事件(※)の検証などでも知られる熱工学の専門家である。

灯油10リットルを全身に万遍なくかけた場合、すぐに2メートルほどの火柱を上げて激しく燃え、3分ほどで炎は半分以下となり、着火から約10分でほとんど鎮火した状態になった。また現場状況を再現するため薄く雪を敷いた上で実験は行われたが、表面が焦げただけで内部は全く熱変化は受けておらず、背中の接地面はきれいなままで実際の遺体ほど大きな損傷(一部は骨が剥き出しになっていた)や内臓の炭化は確認されなかった。遺体は約9キログラムの体重減があったが、灯油10リットルでの検証では4キログラム弱の減少であった。検察側は「豚と人間は違う」といった反論に終始し、判決はその主張を認めた。

科学的検証の結果は、発見された遺体の状態や検察側の主張とは大きく食い違うもので、仮に「灯油」で遺体の焼損状態にするまでには、背中まで焼くために何度も転がしながら傍で注ぎ足し50リットル、約2時間にわたって炎をピーク状態にし続ける必要があるとされた。弁護側は、遺体の状態や路面に残った煤は燃料が灯油ではなく、発熱量が高いガソリンやジェット燃料だったことを示唆するものとしている。

※東住吉事件。1995年7月、大阪市東住吉区の住宅駐車場で火災が発生し、母親と内縁の夫、長男は屋外に脱出したが駐車場に隣接する浴室で入浴中だった長女が焼死。当時200万円の借金を抱えていたこと、死亡時支払い1500万円の学資保険を長女に掛けていたことなどから母親と内縁の夫による保険金詐取目的の放火殺人が疑われた。再現実験によりシャッターが閉じられた駐車場は密閉状態で、車の燃料タンクの不具合でガソリンが気化し、風呂釜の種火に引火した可能性が高いと判断され、冤罪が認められた。

 

 

■所感

2003年5月に滋賀県の湖東記念病院で発生した「人工呼吸器取り外し事件」では当時看護助手をしていた西山美香さん(当時24歳)が殺人の被疑者とされ、1年以上もの取調べの末、「職場での待遇に不満があり、呼吸器のチューブを外した」と自供した。目撃証言や犯行の証拠はなく「自白」のみで逮捕され、裁判になって無実を主張したが懲役12年の実刑判決を受けた。

通常であれば1、2通で済むはずの供述調書は30通を超え、加えて56通もの上申書(当局への自供文書)や犯行の再現映像など、西山さんの「自白」は幾重にも塗り固められていた。

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中日新聞編集委員秦融氏は西山さんの周辺取材や家族に無罪を訴える膨大な手紙などをきっかけに冤罪の疑惑を強め、取材班と弁護団が協力して行った獄中での鑑定の結果、西山さんに軽度の知的障害、発達障害愛着障害が診断される。二度目の再審請求で「警察官からの誘導があり、迎合して供述を行った可能性がある」と裁判のやり直しが認められ、2020年に無罪が確定した。

西山さんはそれまで日常では障害が気付かれにくいグレーゾーンとして生活し、コミュニケーションがうまくいかず、つじつまの合わない嘘を後先考えずに言ってしまう癖があった。密室で連日行われる事情聴取の特殊環境のなかで、西山さんは担当の男性取調官の言う通りにすれば怒鳴られなくて済む、優しくしてもらえるという思いから「やってもいない犯行」を自白してしまったのである。

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西山さんに限らず、そうした特殊環境に置かれれば普段通りの心理状態でいられようはずもない。日本の刑事事件における有罪率は99パーセント以上だが、西山さんのように当局に目を付けられ、「犯人」に仕立て上げられた人は一人や二人ではないように思う。数々の獄中体験本や『ケーキの切れない非行少年たち』などでも、グレーゾーンとされる人々の多さを窺い知ることができる。取調官が「マインドコントロール」したとまで言うつもりはないが、脅しに屈しやすい、優しさに脆い、家族にこだわりが強いなど様々な被疑者の特徴と自白の引き出し方は十分に心得ている。取調官にとって「真犯人」や「事件の解明」より何より、目の前の被疑者から「自白をとる」ことが仕事となる。

すなわち障害者であると断定するつもりは一切ないが、供述の変遷や味方であるはずの弁護士にもすぐに心の内を見せなかった点、当時の情緒やちぐはぐな行動に、多くの人が大越さんに対してどこか不安定な・不可解な印象を受けたことは否めない。だが私自身、メディアに追い回されたり、警察から強い疑いを向けられたりすれば、どれほどの動揺が我が身に起こるやも分からず、つじつまの合わない供述や不可解な行動をとったりすることもあり得るのではないかと思っている。

 

「疑わしきは被告人の利益に」という近代裁判の原則は広く知られるところだが、有罪率99%以上というのは、裏を返せば裁判官の仕事は99パーセント以上がシロかクロかの見極めではなくその罪状認定と量刑判断だともいえる。たとえれば警察が材料を集め、検察が調理味付けした料理に裁定を下すのが仕事の99%であり、ほとんどの裁判官は出された皿を引っくり返すような真似はしない。

しかし本件発生より数か月前、出された皿を引っくり返すような判決が下された事件があった。1984年に札幌市豊平区で発生した9歳児の行方不明事件で、その後遺骨が発見されたこと等から98年12月に当時付近に住んでいた女性が殺人の疑いで逮捕・起訴されたいわゆる「城丸君事件」である。詳述は別の機会とするが、検察側は動機や殺害方法は不明のまま、遺骨を密かに保管していた状況証拠と事件への関与をほのめかす供述を以て事実認定した。被告人は黙秘を貫き、2001年5月、多くの状況から被害者は被告人の犯罪的行為によって死亡した疑いが強いとした上で、殺意の認定には至らず無罪とされた。

無罪判決を下したのは札幌地裁元総括判事・佐藤學氏、すなわち2000年10月の初公判から恵庭OL事件の裁判長を務めてきた人物である。その佐藤氏は2002年3月をもって依願退官し、第35回公判から担当判事が交替している。きしくも城丸君事件、恵庭OL事件を担当してきた小林俊彦検事も4月1日付けで東京地検に異動となっている。佐藤氏は全国的に注目を集めた城丸君事件がひと段落して肩の荷を下ろしたい心境になっていても不思議ではないし、検事の人事異動も異例のことではない。だが公判が佳境を迎える最中での交代劇は様々な憶測を呼んだ。

道警最悪の不祥事といわれた稲葉事件(※※)や北海道警裏金事件(※※※)を挙げるまでもなく、当時の北海道警では不正を黙認するどころか大義名分のために手段を択ばない歪な組織体質が蔓延していた。ひとりの捜査員や取調官、裁判官が悪いというようなものではなく、関連団体とのかかわりの中で脈々と受け継がれていた談合的側面もあったにちがいない。「99%」をかぎりなく100%に近づける努力として捜査技術が磨かれるのはありがたいことだが、数字のために湖東事件の西山さんのような「新たな被害者」を生み出すことはあってはならない。

各人が組織の掲げる正義のために「職務を全うしているだけ」の“前に倣え”状態なのかもしれない。だが推定無罪の原則の上では、「十中八九クロである」とでも言うような判決は到底容認できるものではない。捜査手法や証拠保全体制など当局にも数々の失態は認められ、あまりに多くの矛盾点を突かれている。状況証拠のみによる事実認定は反対事実の存在を許さないほどの確実性を以て判断されねばならない。「被告人以外に真犯人がいたとしてもおかしくない」疑いの余地がある時点で、有罪性を争うことはできない。捜査権限のない一般市民に代わって治安を守り、事件を解決に導くことが警察の仕事だが、「事件をつくる」権限は与えられていないはずだ。

もしもの話をしても無意味だが、一審当時に裁判員裁判が行われていれば判決は変わっていただろうかと思うことがある。自分が裁判員のひとりだったならばはたして冤罪を疑っただろうか。20年以上を経て、今なお事件には多くの疑念が抱かれながらも再審の壁がその「進展」を阻んでいる。

※※2002年7月、現役警部だった稲葉圭昭氏が覚せい剤使用所持、銃刀法違反で逮捕され、その後の捜査で警察庁の掲げた「銃器摘発キャンペーン」や暴力団関係者との癒着などを背景に、実績づくりのための偽装摘発が半ば組織的に行われていたことが露見した。

※※※2003年11月、北海道新聞の調査報道により旭川中央警察署の不正経理が告発される。道警の体質改善を期して元釧路方面本部長原田宏二氏らは過去の組織的な裏金作りを暴露。処分者は3235人にも上り、道議会でも不正問題の全容解明を求める声は上がったがすべて否決された。論陣を張っていた北海道新聞では「道警の泳がせ捜査失敗疑惑」の記事で裏付け不足の不適切な内容があったとしてお詫び記事を掲載し、取材班を事実上解体する。この道新側の急ブレーキについて、上層部の不正流用が発覚するなど警察の介入が背景にあったと原田氏は示唆する。