母は荒野で踊り出す 映画『母なる証明』感想

これほど印象的な映画のオープニングシーンを見たことがない。

本作の主人公“母”役を演じたのは、韓国MBCで1980年~2002年まで放送回数1088回を数えた最長寿ホームドラマ『田園日記』で姑役を演じ、“国民の母”と呼ばれた大ベテラン女優キム・ヘジャである。

 彼女のことをよく知らない私たちはその突拍子もない幕開け、茫然自失とした不可解な表情(途中、顔を隠して笑っているのか泣いているのかも分からない)と“奇妙な-”としか形容しえないその動きにおかしみと不信感という相反する印象を抱く。いや、たとえ彼女のことをよく知っていたとしても不穏な物語であることを強く予感させるにちがいない。

 

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 『母なる証明(原題:Mother)』(2009・韓国/129分)

監督:ポン・ジュノ(『殺人の追憶』『パラサイト 半地下の家族』)

脚本:パク・ウンギョ(『ミスにんじん』『ラブ・リミット』)、ポン・ジュノ

出演

母:キム・ヘジャ(『晩秋』『マヨネーズ』)

トジュン:ウォンビン(『ブラザーフッド』『アジョシ』)

ジンテ:チン・グ(『26年』『セシボン』)

ミナ:チョン・ウヒ(『サニー 永遠の仲間たち』『優しい嘘』)

アジョン:チョン・ミソン(『殺人の追憶』『かくれんぼ』)

ジェムン刑事:ユン・ジェムン(『海にかかる霧』『オクジャ』)

廃品回収の男:イ・ヨンソク(『絶対の愛』『感染家族』)

 

あらすじ

静かな田舎町で漢方薬店を営む母は、息子トジュンとふたり暮らし。

トジュンは知的障害があって仕事に就かずふらふらしており、生活は楽ではなかったが、澄んだ瞳と純朴さをもつ彼のことを母親は溺愛していた。

ある日、トジュンが轢き逃げに遭い、友人ジンテと共にゴルフ場まで追いかけて、車の男たち(大学教授ら)に報復する騒ぎを起こす。警察のテキトーなとりなしで車の修理代金で和解することになったものの、ジンテは記憶力の悪いトジュンに濡れ衣を着せる。

母はトジュンにもうジンテと付き合わないよう諫めたが、トジュンは聞き入れない。ジンテと行きつけのパブ・マンハッタンで会う約束をしたが、すっぽかされて暴飲。泥酔して帰りの夜道で女学生アジョンに声を掛けるも岩を投げつけられ、ほうほうのていで帰宅すると母に抱き着くように眠る。

 

翌朝、町の高台にある空き家の屋上にアジョンの遺体が発見される。町では長い間、殺人事件が起きたことなどなく、警察も町民たちもやいのやいのの大騒ぎとなる。現場付近での目撃情報とゴルフ場から持ち逃げしていたゴルフボールが元となり、トジュンは殺人の容疑者として連行されてしまう。バカにされることを極端に嫌う性格が災いして、トジュンは警察がまとめた調書に拇印を押して犯行を認めてしまうのだった。

母は無実を訴えるも、警察には「解決済み」として相手にされず、腕利き弁護士に救済を求めるも乗り気ではなく息子の冤罪を晴らしてくれそうもない。真相を突きとめるため、母は単身でジンテの許を訪れる…

 

 

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 映画全体としては、ミステリー・サスペンスの手法を用いながらも現代社会への批判的描写、社会弱者の現実をあぶり出すポン・ジュノ監督らしいアプローチが随所に溢れる。

2000年代前半の韓流ブームで日本でも人気の高かったウォンビンが兵役と足の怪我のリハビリを経て5年ぶりとなるスクリーン復帰作としても当時注目を集めた。(ウォンビンの近況を調べたが、モデル・CMの芸能活動自体は継続しているものの俳優業では再び長いブランクが続いているとのこと。)

 

キム・ヘジャとの仕事を切望した監督は5年の歳月をかけて「だれもが共感する母」へと共に肉付けをしていった。ヘジャは極端な状況下で表出する人間の本質を描きたかったとする監督の期待に見事に応える名演を見せ、「演技者として監督は私に新しい服を着せてくれた」と感謝を示した。

今作で「母親」を題材とした理由は、それまでの作品(『殺人の-』『グエムル』)で男性性や「父性」を描くことに注力した反動と説明しており、本作冒頭のシーンについては「観客への宣戦布告」を狙ったものと語る。主人公の母に名前はなく、決まった「だれか」の物語ではなく、だれしもの母親がこの主人公であることを示している。

 

しかし本作は「殺人容疑をかけられた愛息の無実を信じ、真相究明に奔走する母親の強靭な愛を描いたヒューマンサスペンス」では終わらない。むしろサスペンスにしては強引に過ぎ、ヒューマンドラマにしては共感しがたい、何とも形容しがたい後味の悪さを醸している。

 

※以下ネタバレを含むため、作品鑑賞後に読むことをお勧めします。

(個人的には、障碍児を育てる親御さんにはおすすめしません。)

 

 

 

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ネタバレ

幾重にも張り巡らされた伏線によって、その小さな町を覆う停滞感、人々の暮らしの裏表、母子の秘められた物語へと誘う。

映画の前半で、母がトジュンの立ち小便に立ち会う一見すると滑稽なシーンがある。母はその様子を咎めることなくまじまじと見つめ、その痕跡を隠そうとする。言うまでもなく後半の、母が息子の罪を隠蔽しようとする展開を示唆したものである。

母は修理代を捻出するため、封印していた鍼(はり)治療を“闇”で行いながら借金を重ねる。母は漢方だけでなく指圧や鍼など民間療法全般に詳しい。狙いがあったかどうかは分からないが、西洋社会では産婆や民間療法に通じた“変わり者”の女性には、一種の“魔女”的な人物というステレオタイプが存在する。

 

母は川のほとりにあるジンテの家に忍び込み、事件の手掛かりになるものを得ようとする。そこへジンテとパブでトジュンに気のある素振りを見せていたミナが帰宅して、昼間からまぐわいを始める。おそらくジンテに両親はなく、ひとりで釣具屋を営んで貧しい生活を送っているのであろう。「当たり屋」や本格的な犯罪者にはならず、かろうじて「町のごろつき」程度で踏みとどまっている、と見ることもできる。

その後、母は発見したゴルフクラブを手に警察へ訴え出るが、口紅を血痕と見紛うという失態を犯し、疑われたジンテに慰謝料を支払うことになる。しかしジンテはトジュンのことを友達だと言い、母に「誰も信じるな」「その手で犯人を捜すんだ」と真相究明を促す。観客は、母の目を通して事件の解決を目指すとともに、その田舎町の実態を目の当たりにすることになる。

ベンツの教授、弁護士と検察などエリート層を醜く珍妙な人々として蔑み、違法取調べをする田舎警察、その立場にしがみつく公務員の妻などの中間層さえ情けを忘れた人々の滑稽なふるまいとして描いている。このような監督の人物造形の特色はひとによって好みの分かれるところかもしれない。この映画には「映画に出てくるような」善人はだれひとり存在しない。

 

■米餅少女 

町を見渡せる高台の廃屋の屋上という目立つ場所に置かれた女学生の遺体。

記憶力の悪いトジュンがこめかみをぐりぐりしながら「犯人の気持ちになって」考えたところ、被害者アジョンが「血を流していることをみんなに知らせるため」に建物の屋上に移動させたのではないか、という。

母がアジョンについて調べていくと、携帯電話の改造で小遣い稼ぎをする少女と出会う。アルコール依存で認知症の祖母を養うため、今でいうところのヤングケアラー(介護生活をする若者。学業不振や貧困問題と密接につながっている)が生活のために放課後売春を繰り返していたのである。それもいわゆる“パパ活”のような金持ち相手ではなく、同じ高校生や貧乏人を相手に、ときには金の代わりに「米」を受け取るほどの薄利多売ともいえるやり方で糊口をしのいでいた。

(アジョンの祖母は認知症ではなく単にアルコール依存で、アジョンに売春を強制する虐待を行っていたと見ることもできる。)

ジンテの協力によりアジョンを追う男子高生らを捕獲すると、アジョンの携帯電話には売春相手の男たちの写真が数十人分も収められており、だれに狙われてもおかしくない状況だったことが明らかになる。女子高生は自己防衛のために“変態電話”を使っていたのである。

 

■母と子

その一方で、トジュンは収監中にぼこぼこにされたことによって事件以前の重大な事実を記憶から呼び戻す。醜く膨れた顔の右半分を手で隠しながらつぶやく。

「母さんが俺を殺そうとした」「5歳のときだろ」「栄養ドリンクに農薬を入れて」

この演出は人間の表裏・二面性を感じさせるものである。もしかすると実はトジュンは何もかもはっきり認識し記憶しているのではないかと観客は不安に駆られるシーンでもある。

まさか息子に当時の記憶が残っているとは思いもよらなかった母は慄き、「悪い記憶や病気の元になる心のしこりを消してくれるツボがある」と慌てて記憶を消そうとしている。

トジュンの父親についてのエピソードは描かれることはないものの、子どもの頃のトジュンの写真を写真屋へ修整に出す際に一部分を母が破り捨てている描写から、そこには父親が映っており、病死や事故死などではなく家出や円満ではない離婚をしたものと推察される。

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生活に窮し、幼子を育てていく自信を失っていた母は農薬での無理心中を図る。毒性の高いグラモキソンを用いるつもりだったが、母は怖気づいてロンスターに変更したため、先に飲まされたトジュンは死にきれずに2日間下痢と嘔吐が続き、知的な後遺症が残った。悶え苦しむ我が子の姿を見た母は心挫けて心中を思いとどまり、その負い目もあってトジュンを必ずや守り育てると心に誓った経緯が分かるのである。

しかし純粋無垢のこどものような無邪気さを醸すトジュンの発達不全は、本当に農薬の後遺症なのだろうか。心中を図った経緯のひとつとして「息子の発達障害」があったとしてもおかしくはない(監督は否定している)。また妄想に過ぎないが、苦しみ悶える我が子の姿、自身の罪の重さに耐えきれなくなった母は、もしかするとトジュンの記憶を一度消していたのではないかとも思えるのである。

 

■2つの殺害シーン

トジュンはあの晩の記憶を取り戻し、アジョンの携帯電話を入手した母は彼女が撮影した中に犯人がいないかどうか確認させた。アジョンが示した画像には、町はずれの小屋に独居する廃品回収の老人が映っていた。

母は漢方医学のボランティア団体・恵民院(へミンウォン)を騙り、小屋を訪れると、老人はずっと誰かに打ち明けたかったのか「まあ世間話でも」と迎え入れ、徐に事件当夜のことを語り始める。

 「あの晩、俺はたまたまそこにいたんだ」「実はたまにあの家に行くんだ」「空き家だし静かでいい」と言いつつ、回想シーンでは用意してきた「米」がばっちり映っており、老人は当夜にアジョンを買春するつもりだったことが示される。

アジョンの後を追ってきた男は「男は嫌い?」と問いかける。

アジョンは岩を投げて男を追い返そうとし、 「ねえ、私を知ってるの?」と質問する。

「知らない」と答える男に「なのに、なぜ?」と悲し気に訴えるアジョン。

「私は男が嫌い。だから話し掛けないで、バカ野郎」

 “バカ”にされた男は岩を投げ返し、アジョンの後頭部に命中。

男は激しく動揺しどこかに電話を掛けようとするなどしていたが、ほんの僅かな時間でまるで記憶をそっくり失ったかのように「なんでこんなところで寝てるんだ」とアジョンに話し掛けると遺体を屋上へと引きづり上げた。

 母は信じることができず「見間違いよ!トジュンは犯人じゃない。すぐに釈放して再捜査するって刑事が言ったんです」と声を荒げる。

「トジュンに間違いない」 

現場検証のシーン、 「手を振るミナ」の手前で見切れていたが、老人がトジュンの顔を確認しに訪れている。岩を投げた後には、こめかみぐりぐりの「おかしな動き」まではっきり目撃されており、母はもはや言い返す術がなかった。

「ちゃんと捕まえたと思ったのに。ダメだ、俺が通報するしかない」 

老人が警察に電話を掛けようとする背後から母はスパナで一撃を喰らわせ、「違う、絶対に違う」と自分に言い聞かせるように殴り続けた。

やりきったように「息子をバカにするんじゃない」と言い放つと、道路に広がる立小便のように流れ広がる大量の血液を見て正気を取り戻す。

「どうしよう、どうしたらいいのお母さん」

 

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トジュンが殺害直後に電話を掛けようとしていたのは、おそらく警察や悪友ジンテではなく母親であることが推察される。トジュンのアジョン殺しと母による老人殺しを二重写しにすることで、「」の業を描いた名場面である。母が息子を殺人犯にしたくなかった想いの向こうには、心中で我が子を殺そうとした残虐性が息子に引き継がれることを是が非でも否定しようとする想いもあったように感じられる。

 

後日、店からジェムン刑事の来訪に気付いた母は実に複雑な表情をしている。自らの犯行が発覚したのではないかと怯えていたに違いなく、平静を装いつつもどうすればよいのか分からないような所在なさと(当て逃げシーンと同じ)緊張感を醸し出している。

 

祈祷院から脱走したジョンパル

刑事は“真犯人”としてジョンパルが逮捕され、トジュンが釈放されることを伝えた。

「冤罪事件」の解消が新たな冤罪事件を生む、という結末は“どんでん返し”というより逃れがたい“負の連鎖”である。人は善悪・白黒で描かれずすべて“グレー”であり、事件はたくさんのグレーが重なることで次第に“黒”に近づいて見えるようになる。最終的にアジョン殺しの濡れ衣を着せられることとなったジョンパルは、映画の前半で「祈祷院から脱走した」として捜索中であった。

 

映画とはやや逸脱するが、ジョンパルが逃げ出した“祈祷院”について詳しくないので少し調べてみると、孤児院のような場所で保護されていたというより、一種の矯正施設に近い印象を受けた。

韓国では人口の約56パーセントは無宗教ながら、キリスト教徒(プロテスタント系20パーセント、カトリック系8パーセント)が約3割を占めており、宗教人口としては最も多い。

韓国におけるキリスト教日韓併合下での抗日・独立運動の原動力となり、朝鮮戦争による平壌からの流入、米軍の庇護のもとその数を増やした。1970年代以降は民主化運動をリードし、プロテスタントによる仏教への攻撃と積極的な布教活動により急成長を遂げ、90年代以降は仏教徒の数を上回っている。

天道教統一教会といった新宗教も盛んであり、韓国に定着していく折衷の過程でシャーマニズム的影響が色濃く、分派しやすい傾向があるとされ、日本と違い政治運動にも深くコミットする特徴をもつと言われる。信徒引き抜きなどによる他派との対立や洗脳などカルト的新興宗教による社会問題や事件も少なくない。

 

祈祷院は祈祷に集中的に没頭するため、個人やグループで合宿しながら加護を祈る施設であり、教会に併設されている場合が多く、日本国内にも存在している。

シャーマニズムキリスト教における疾病観には、病気の原因は鬼神(不信心によって生じた悪霊)だとする考えがあり、信仰・祈祷によって鬼神を除くことで神の加護により治癒するものとされており、いわゆる“悪魔”や“憑き物”に近いものと認識される。

治療祈祷会では①病患者が一対一で神に祈祷するほか、②断食によって病魔の誘惑(食欲)に打ち克つデトックス法や、③一堂に集めて代表者に神癒的行為(神の加護)を示すことで集団的興奮状態を生み出し、自分にも何か変化が起きた、良くなった、という自己暗示にかける、④牧師が按擦・按摩を施しながら祈祷するといった方法が用いられる。

描かれていないため憶測にはなるが、もしかするとジョンパルのダウン症とみられる症状を祈祷によって除こうとする大人がいたのかもしれない。 

 

「アジョンの恋人」を自称するジョンパルは、実際にダウン症をもつ韓国の役者キム・ホンジプが演じている。血痕が付いたままのシャツを着ていた彼の証言では、行為の最中に彼女が鼻血を出したとしており、鼻血エピソードが絶妙な伏線になっている。

アジョンが携帯電話に撮りためた写真を消そうとしていたこと、写真の一部を現像しようとしていたこと、ジョンパルがトゲ山に逃げ込んだことを合わせて妄想を重ねていくと、もしかするとアジョンとジョンパルは本当に愛し合っており、駆け落ちを考えていたのではないかなどとも思えるが実際のところは分からない。

 

■「母親と寝る」と「女と寝る」、適切なセックスと強姦

下の記事では、ホンジプさんの母オクジャさんが実際の障碍者の恋愛はハードルが高いと話している。障碍者同士のミーティングなどで出会いの機会がない訳ではないが、「女性障害者の親たちは娘の恋愛、(更なる障碍児が生まれることを悲観して)出産を望んでいないようだ」としつつ、彼らにも愛する権利があると語る。

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日本でも障碍者向けの自慰介助サービスを提供するホワイトハンズなどが知られており、障碍者の性欲をタブー視しない取り組みが求められている。

 

2019年にベストセラーとなった宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』は、少年院での勤務経験から「非行少年」とされた少年たちには「認知」「感情統制」「身体的不器用さ」「対人スキル」「融通の利かなさ」が不足しているとして、「障碍者未満」のいわゆる“ボーダー”が多数含まれていることを指摘している。

現在の矯正施設ではソーシャルスキルレーニングとして認知行動療法が用いられており、他人に不快感を与えたり社会規範にそぐわない行動を社会的に正しい行動へと変えていく方法で、自分や相手、周囲の感情が分かるという前提に立って作成されたものである。しかし、人の話を聞く、言語を理解する、見る、状況や感情を想像する、善悪やTPOの判断といった前提となる条件が伴っていない少年が多いため、(認知行動療法なしに比べれば多少改善するものの)充分な成果が得られていないとしている。

鑑別鑑定で少年たちが様々な問題を抱えていることは指摘されていても、それらを改善するために、再犯を起こさせないために具体的に何をどう支援するか、といった視点が欠け、トレーニングプログラムを履修させるだけで実際身になっていないと危惧する。認知機能が低ければ、“適切な”セックスと強姦の違いを理解することが難しく、対人スキルが改善されていなければ塀の外で同じことを繰り返すことになる。

性犯罪者ははじめから異常性欲者なのではなく“適切な”交際や性交が理解できていない、という視点である。

 

話を戻すと、トジュンはおそらくジンテの真似をして「女と寝る」と意気込んでいたが、正しくセックスを知らないどころか交際相手さえいなかった。ジョンパルはアジョンと出会ったことでもしかするとセックスを経験したかもしれないが、彼にとっては売買春が交際であり「純愛」だった。

ジョンパルは精神薄弱などによって刑期は短くなる可能性もあるが、果たして更生できるかどうかは難しく、彼がトジュンの母に告げた「泣くなよ」の無垢なやさしさが一層「母のしたこと」の罪深さを抉り出す。

 

( 嘆かわしいことだが、ジョンパルは英語字幕などでは「crazy JP」と表記されることから、ダウン症の役者を「キチガイ日本人に見立てており反日的だ」とする非難も散見される。田舎町にわざわざ“親のない日本人のダウン症青年”を唐突に登場させることは文脈的に考えられず、ジョンパルを略してJPとしているにすぎない。被害妄想と嫌韓感情、差別感情による悪質な言いがかりであることは指摘しておきたい。)

 

 ■記憶

長距離バスで踊り出すエンディングはなじみのない人にはそれ自体が異様に見えるかもしれないが、タクシーやバスの運転手が眠気解消の目的で“ポンチャック・ディスコ”と呼ばれるチープなテクノ音楽をかける大衆文化がある。

ポンチャック化した歌謡曲を宴会などでみんなで歌い継いだり、長い道中で盛り上がったりというのは中高年層にはなじみがあるもの。日本では元バスガイドの歌い手・李博士イ・パクサ)が1990年代半ばに脚光を浴び、電気グルーヴ明和電機らと共作をリリースしている。

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エンディングにはポンチャックディスコに乗って他の乗客たちと狂乱的に踊るシーンが延々と続く。

母親目線ではなく、車外からそれを見つめるカメラ・アイは何を意味するのか。この踊りの意味を監督は観客に投げかける。

シンプルに考えれば、鍼で嫌な記憶をすっかり忘れて、踊ったことになる。

だが、観客は彼女が記憶を忘れる前にも老人殺害後に荒野で踊るシーンを目にしている。老人の小屋に鍼を忘れてきたことから、荒野で踊るシーンの際には記憶は失われていない。自分のしでかした大きな過ち(単なる殺人というではなく、息子の罪を隠蔽するという二重の過ち)から逃れるために、もはや踊るしかない心理状況の忘我の舞であった。

たしかに忘我の舞とポンチャックではかなり踊りのテイストが異なる。しかしこの対比の利いたふたつの踊りが、“同じもの”であった可能性は考えられないだろうか。

何もかも忘れた“フリ”をして踊り狂っていた、すなわち鍼によって「記憶を消す」という母の技術自体が眉唾であり、あくまで気休めに過ぎないのだとしたら。

 

これほどまでに多くの伏線と回収、更なる解釈の余地をまとめあげるポン監督の底知れない才能と意地の悪さに震えが止まらない。

 

 

 

『母なる証明』ウォンビン&ポン・ジュノ監督インタビュー “目”に隠された意味とは | cinemacafe.net 

日本刑事政策研究会:刑事政策関係刊行物

 韓国キリスト教会の信仰治療 現代シャーマニズム社会におけるキリスト教会,渕上恭子

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