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東京豊島区女子高生誘拐事件【籠の鳥事件】

1965年に東京都豊島区内に発生した女子高生誘拐および“飼育”とも表現される半年間の同棲生活を続けた事件、通称“籠の鳥事件”について記す。

 

■事件の発生

 1965年11月25日の夜、東京都豊島区の共栄女子商業高校に通う3年生・Aさん(17)は、西武線椎名町駅から雨の中、家路を急いだ。部活の後、友人たちと書店や軽食に立ち寄ったため、帰りが遅くなってしまった。

角園九十九(40)は普段と異なるルートで家路につくと、偶然にもその少女を見つける。尾行を始めると、Aさんは折り畳み傘を差して手がふさがった状態に。角園は背後から接近すると、金属の靴ベラを首筋に当て、左腕を首に巻き付けた。

「騒ぐと殺す、傘を畳め」

身の危険を感じたAさんは抵抗せず男の指示に従う。角園はレインコートの中に彼女を抱え込み、人目に付きづらい道を選んで歩きながら、年齢や名前を確認。Aさんは男の質問に正直に答えた。バイクなどとすれ違うこともあったが発覚は免れ、角園はAさんを自宅アパートへと連れ込んだ。

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[by Michael Gaida, via Pixabay]

部屋に着くと角園はAさんに手錠をかけ、目と口に絆創膏を貼って騒げないようにすると、果物ナイフを突きつけて服を脱ぐように指示。強姦に及ぼうとするも、Aさんが痛がって拒絶したために断念し、絆創膏を外してナイフを首筋に当てながら口淫を強要した。

翌日、Aさんは「逃げないから」と手錠を外すよう懇願し、角園はそれを承諾。以来、角園はAさんに対する態度を軟化させ、度々強姦を試みたり愛撫や口淫で性欲を満たしはしたものの、彼女に対して丁寧に接するようになったとされる。

誘拐から4日目にはAさんを家に一人残して、角園は下着、ワンピース、オーバー等の衣類、女性向け雑誌、ミシンや布地を買い与えた。Aさんは身の危険を感じることも少なくなり、その後、約半年間に渡って角園の部屋で生活を共にすることとなる。

 

Aさんは帰りが遅れるときは家に連絡を入れる習慣があった。だがその晩は連絡もなく、終電の時間を過ぎてもAさんは帰らなかったことから、両親は長崎2丁目交番に通報した。しかし署員に、友達のところで外泊しているのではないか、とあしらわれ、後日届け出するように促された。翌日以降もAさんは帰宅することはなく、学校にも姿を現さなかった。

両親は目撃情報を求めて街頭にビラを掲示。Aさんは学校での成績は優秀で、既に製薬会社の内定も受けており、資格試験の結果を待ちわびていた時期だった。異性関係はなく、冬休みには友人たちとバイトや旅行の計画を立てていた。やがて「理由なき家出」としてマスコミにも報じられることとなる。

 

■欲望 

角園は1922(大正11)年、神奈川県生まれ。幼いときに母親を亡くし、11歳のときに父が再婚して、妹と2人の弟が生まれた。大戦中に一家は満州へ移住したが、成人していた角園は日本に残り、終戦時には海軍中尉となっている。戦後、一家は満州から引き揚げたが、父親が亡くなると実家とは疎遠になった。

戦後は新聞販売や出版業に就き、47年に結婚。女児を授かったがその後、離婚。定職にはつかなくなり、得意の英語を生かして外国人相手にフリーの観光ガイドをするなどして生計を立てていた。窃盗の前科があり、63年7月に府中刑務所を出所後、翻訳家・語学講師をしている「日野雅史」と詐称して豊島区長崎4丁目にアパートを借りた。

I'm lonely man, I have to find for a peach,and it must be white ripe peach.

(俺は孤独な男、白く熟した桃を見つけなければ)

 誘拐より遡ること3か月前の65年8月、角園は、ウィリアム・ワイラー監督のサイコスリラー映画『コレクター』を観て、強く感化されたことを日記に記している。63年に出版されたジョン・ファウルズの同名小説を原作とするもので、文学、映画ともに高い評価を得ており、後世のシリアルキラーたちに影響を与えたともいわれる。

コレクター (字幕版)

蝶採集を趣味とする孤独な男フレディは裕福な中産階級の美学生ミランダに密かに憧れを抱き、叶わぬことと知りながらも恋慕していた。サッカーくじで大金を得たフレディは郊外に別荘を買い、ミランダにクロロホルムを嗅がせて略取するとその地下室へ監禁する。

フレディは紳士的な振る舞いと贈り物で誠意を尽くせば、やがて彼女も心を開き、自分を愛するようになるのではないかと期待していた。ミランダに性暴力をしないと約束し、1か月という期限を設けて「逃亡しないこと」を同意させる。

角園はフレディの異常な“愛情”に激しく共感し、自らも“コレクション”を求めるようになる。近所に住む女性会社員に目を付け、「俺の生贄が帰ってきた。こんな夜中に。今のうちに楽しんでおくがいい。そのうち必ずモノにしてみせる」等と日記に書き、歪んだ性欲を募らせていった。しかし覗きで彼女の弛んだ腹を見て失望し、新たな獲物を探した。日記には「俺は若い女が大好きだ。また、豊満なのもいい」と当時の流行歌手の名を挙げている。

Aさんを目にすると角園はもはや衝動を抑えきれなくなった。だが強姦は遂げられず、かといってそのまま解放する訳にいかない。どうしたものか悩んだ末、やはりフレディのごとく彼女との相思相愛を求めたのだった。

(尚、事件とは無関係かもしれないが、少女性愛小説として知られるウラジミール・ナボコフ『ロリータ』は55年にフランスで出版、58年アメリカで話題となり、59年に邦訳。スタンリー・キューブリック監督による映画版は62年に公開されており、当時、角園が見聞きしていてもおかしくはない。)

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12月4日、アパートに風呂がなく、手配書の回っている銭湯に行くこともできずにいたため、二人は静岡県伊東のホテルに宿泊。宿帳には「日野雅史43歳・著述業」「みどり17歳」と記入。みどりは別れた妻との間に生まれた娘の名前であり、角園はAさんに「パパ」と呼ばせて父娘関係を偽装した。

その後、角園は風呂の設置を管理人に要望したが断られ、たらいを買ってきて行水をして凌いだ。管理人夫妻は少女との同棲を知っていたが、寄り添って歩くなどの仲睦まじい様子から角園の若い恋人だと思っていた。ままごとのような同棲生活は続き、66年1月半ばには合意のもと二人は性交を果たした。角園はAさんのために家具を買い揃え、「日野みどり」名義の口座をつくって貯金を始めた。

 

■ふたりの関係

同年5月18日、Aさんの母親が確認し、目白署は角園を逮捕、Aさんを無事保護した。目撃者からの通報により捜査・発覚したものであった。二人は「渋谷ハチ公前で偶然出会って親しくなった」旨の供述をしたが、後に二人による偽証であったことが判明。マスコミが報じた“理由なき家出”説に乗じた口裏合わせが行われていたのだ。なぜ逃亡せずに「異常な同棲」を半年に渡って続け、加害者を庇うような証言をしたのか、Aさんの“奇妙な言動”は注目を集めた。

 

Aさんの証言では、監禁当初は「逃げたら殺す」と脅迫されていたため逃げることができなかったが、角園から受けた口淫などの凌辱によって「もうこんな体では逃げて帰っても仕方がない」と考えるようになったという。角園に素性を明かしてしまっていたため、逃げたところで追いかけてくる。家族に迷惑をかけるくらいなら自分一人が犠牲になればいい、と諦観に至ってしまった。
また、「諦めはあったけれど、生活しているうちには楽しいこともあった」「服、下着、靴などを買ってもらった時には嬉しかった」「(角園がAさんのために)貯金しているのも知っていた」等とも述べており、半年の間、暴力と恐怖に占有され続けていた訳ではなく、怒りや憎しみ以外の複雑な感情があったことが伝えられている。

 

ストックホルム症候群

Aさんに生じた心理的変化、加害者に対して同情や好意を抱くことは、現在では“ストックホルム症候群”の名称で広く知られており、心的外傷後ストレス障害PTSD)の一種として捉えられている。

 Aさんの場合、生命の危機を覚える脅迫や強姦によって精神的衝撃を受け、たとえ逃げても元の生活には戻れないとする学習性無力感が生じていた。また角園の心情や願望について聞かされ、強姦目的ではあるが殺害が目的ではないとして、彼女自身も角園の意思に応じるようになった。やがて敵意や恐怖心が薄れ、生活を共にする中で好意・愛着に近い感情が生じたものと解釈される。

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本事件のおよそ8年後となる1973年8月23日、スウェーデンストックホルムにあるノルマルム広場の信用金庫を、仮釈放中のヤンエリック・オルソンがサブマシンガン武装襲撃。(当初9人、のちに解放して4人の)銀行員を人質に取り、行内に6日間に渡って立てこもった。テレビで生中継され、スウェーデン全国民が固唾を飲んで見守る大事件となった。

現金300万クローネ、服役中のクラーク・オロフソンの解放、銃と防弾チョッキ、逃亡の許可を要求。オロフソンは数多くの強盗殺人、警官殺し、脱獄などによって国内で最も知られたプロの犯罪者で、オルソンはかつて矯正施設で旧知の間柄だった。警察は要求の一部を受け入れてオロフソンを合流させると、オルソンは「さぁ、パーティーはこれからだ」と息巻いた。

一方で政府は、犯人に人質を連行されてはならない、と警察に厳命。警察は犯人たちが立てこもった金庫室を封鎖し、食料提供を拒否する兵糧攻めによって圧力をかけた。その後、金庫室に穴を開けて投降の説得を行う強硬策に出るも、犯人らは銃撃で抵抗。

27日、オルソンは安全に脱出させなければ人質を即座に射殺すると首相を脅迫。翌28日の人質とされているクリスティアン・エンマークさんからの電話内容はスウェーデン国民を更に驚かせた。電話口のエンマークさんは、「犯人は2人とも私たちに危害を加えません。それどころか我々は彼らを信頼しています。私が怖いのは、警察が攻撃することで私たちを死に至らしめることです。信じないかもしれませんが、ここでは万事うまくやっています」と身の安全を知らせるとともに、犯人に対する信頼を表明。さらに首相オロフ・パルメの強硬策に対して不満を表し、犯人たちと脱出することを許可するよう訴えた。

それは彼女一人の意思や犯人に脅迫されて出た言葉ではなく、人質の総意だった。以前にも、人質は犯人に同調するかのような行動を見せていた。あるときは警察の狙撃から犯人たちを守るために人質たちが身を挺して「盾」となった。犯人が人質にトイレの使用を認めた際には、人質に逃走を促したい警察の思惑に反して、全員が犯人のもとへ戻ったこと等が確認されている。

 

当時、スウェーデン警察のコンサルタントとして事件を担当した精神科医・犯罪学者ニルス・ベエロット教授は、事件の極限状態において被害者が犯人に共感や好意といった心理的つながりが生じていたことを指摘し、ノルマルム広場シンドロームストックホルム症候群と呼ばれることになる。

精神科医フランク・オックバーグ博士は、そうした被害者の変化を“幼児化”という言葉で説明している。事件の極限下で被害者は拘束などの制約によって自力で食事や会話、排せつができない状況に置かれる。そのとき犯人からまるで「親」さながらに「食事」や「行動許可」を与えられることで、被害者は自らの捕虜状態に「原初的なポジティブさ」「幼児的快楽」を獲得する。自分のいのちを握っているのは、ここで自分を生かしてくれているのは「犯人」なのだ、というアンビバレントな依存感情が生じるものとした。

1970年代以降、犯罪心理学者や精神科医らはこの現象に注目し、自己欺瞞的な心理制御のはたらきから、セルフ・マインドコントロールの一種ともされる。立てこもりやハイジャック事件、誘拐監禁、虐待についても類似した被害者の心理行動の変化・加害者への適応を報告した。

1996年12月に起きた在ペルー日本大使館立てこもり事件では、反政府組織14人が大使公邸で行われていた祝賀パーティーを襲撃・占拠し、当初621名が人質に捕られた。交渉に伴い、女性・高齢者ら人質の一部は順次解放されたが、最終的に残された72人は127日間もの監禁を受けた。だがテロリストは当初から人質殺害の意図は少なく、フジモリ政権の政治的転換と投獄された同胞450人の解放が目的とされた。

邸内では共にサッカーの試合をしたり、音楽を聴いたり、日本の政治構造のレクチャーを求めて議論を交わすこともあったという。事前に「武力突入があれば一緒に死んでもらう」と述べながらも、コマンドー部隊による武力突入の際、ゲリラ兵は捕虜に対して発砲を行わなかった。こうした犯人側が捕虜に対して抱く同情的感情について「リマ症候群」という言葉が用いられた。

人質の一人だった小倉英敬氏は、犯行グループは襲撃当初から「殺人を犯さないように心掛けていた点が顕著に見られた」と著書『封殺された対話 ペルー日本大使公邸占拠事件再考』で記している。そうした心理学用語以上に、邸内では人間的な関係が成立していたことを重視すべきと述べ、人質を道連れにしなかったのは「彼らが人間性を失っていなかったからである」と断言している。

 

2010年、ナターシャ・カンプシュさん(2006年オーストリア少女監禁の被害者)は、ガーディアン紙のインタビューに対して、ストックホルム症候群は「被害者が不合理な選択をした」とする非難を含んでいるとして、そのラベリングを拒絶した。むしろ犯人に同調すること・親和的態度を示すことで生命の危機を回避する生存戦略的コミュニケーションであると述べている。

 

■「その後」と所感

保護されたAさんは両親との再会で「お父さん、歳とったね。お母さん、痩せたのね。心配をかけてごめんなさい」と詫び、家に帰ってから泣き崩れたという。1966年11月10日、東京地裁は角園に懲役6年の判決を下し、その後、最高裁は上告を棄却、刑が確定した。

後年、ノンフィクション作家・松田美智子さんによる『女子高校生誘拐飼育事件』、それを原案とした和田勉監督の映画『完全なる飼育』などで再び話題となった。

 

角園は異常性欲に映画が“妄想的バイブル”化して犯行へと至った訳だが、その素地には身寄りがなく定職に就かない生活から社会的孤立感を深めていたことがある。医師ではないので診断を下すわけにはいかないが、彼が「英文による日記」というパーソナルな世界に耽溺していったことも、現実世界における自信のなさの表れを示すものと考えられ、窃視障害(のぞき)やストーキング行為という“間接的な接触”で性欲を発散させていた。そうした潜在的な異常性欲は今日でも比較的ポピュラーであり、結果的には加害者/被害者という対立概念を揺るがすような怪事件となったものの、どこで起きてもおかしくはない。

生還できたことは奇跡的な幸運だが、やはり彼女もその後の人生において多くの犠牲を払ったことは確かである。現在よりも野蛮な好奇や厳しい中傷(より女性差別的な)を受けたであろうこと、性暴力からの回復プログラムやメンタルケアなどの被害者支援が未熟であったろうこと、理解者の乏しさなどを考えると居たたまれない。

カンプシュさんの言葉を踏まえると、「ストックホルム症候群」の概念にも時代とともにステレオタイプや手垢のついた偏見や俗信が付随していることに気付かされる。精神疾患に類する病理分類や概念などもそうかもしれない。事件の枠組みを捉えるうえで有効な手段といえるが、被害者、加害者、あるいはその家族といった「個人」の人格や属性を紋切り型に決めつけてしまうおそれもある。たとえばペルーで人質とされた小倉さんの発言についても「ストックホルム症候群でテロリストを擁護しているのではないか」という捉えられ方もされかねないのである。それでは「友達のところに外泊してるのでは」とあしらった警察署員とそう変わらないではないか。

人間は想像より遥かに複雑な“生きる力”を備えている。

被害に遭われた方の心身の回復と安寧をお祈りいたします。

 

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参考

Natascha Kampusch: Inside the head of my torturer | Natascha Kampusch | The Guardian

Nils Bejerot, narkotikamissbruk, serievåld, socialpolitik, Norrmalmstorgsdramat,

人質と犯人の奇妙な共感、「ストックホルム症候群」事件から40年 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

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