いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

北海道・恵庭OL殺人事件について

2000(平成15)年、北海道千歳市恵庭市又はその周辺で発生した殺人・死体損壊事件、いわゆる恵庭OL殺人事件について記す。

遺体発見から2か月後に被害者の同僚女性が逮捕され、殺人などの罪で懲役16年が確定した。すでに刑期を終えているものの、検察の杜撰な捜査への指摘や状況証拠のみで有罪判決が下されたなどとして冤罪が問われている事案である。

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事件から20年以上を経て、加害者とされた女性の供述の変遷やメディアでの取り扱い、捜査当局と弁護団側との主張の食い違いなどから、その内実は玉虫色を帯びてしまっている。本稿で犯人像やだれがシロかクロかを論じる意図はなく、裁判やネット上で取り上げられる事件の争点について考えや感想を述べる。

 

■概要

3月17日8時20分頃、恵庭市北島の農道脇に黒く焦げた焼死体が発見された。

第一発見者は幼稚園の送迎バスの運転士で、通園ルートの途中で「黒い物体」を見掛けたので確認してほしい、と子どもを送り出しに来た主婦に頼んだ。主婦が自家用車で現場へ向かってみるとあばら骨の浮いた人間の焼死体だと分かり、近くの親類を連れて再度確認し、慌てて消防署へ通報した。

現場は北広島駅から東へ約6キロ(車で約10分)、恵庭駅から北へ約15キロ(車で約20分)と市街地からは離れた原野と農耕地が広がる一角。農家が僅かに点在するばかりで街灯もなく、最も近い住宅でも400メートルほど離れた場所にあった。

東には千歳川が行く手を遮る土地柄、昼夜を問わずほとんど往来はない。未舗装の道路は中央部こそ濡れた砂利道が露出していたが、両脇には圧雪が残り、遺体周辺の雪が融解していた。

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被害者は、千歳市キリンビール工場内にある日本通運事業所に勤務する契約社員・橋向香さん(24)だと早期に判明する。

遺体発見と同じ17日(金)、帰宅も出社もしていないことを心配した家族から13時頃に捜索願が出され、身体的特徴が近いことから遺留品の靴を確認してもらったところ本人のものと一致したためであった(指紋による照合は翌18日)。

 

道路とほぼ平行に仰向けで発見された遺体は、タオルのようなもので目隠しされ、右腕は「く」の字型に曲げて背中の下、左腕は胸の上にあり、股関節は左右に大きく開脚した状態で、足からやや離れて左足の靴が残っていた。

死亡推定時刻は退社した21時30分から23時頃の間。死因は頸部圧迫による窒息死と推認された。絞殺後に灯油類をかけて燃やされたとみられ、一部は内臓まで炭化しており、特に頸部、陰部の燃焼が激しかった。

また現場周辺では16日の23時15分頃に「オレンジ色の明るい光と煙を見た」との目撃情報が複数得られた。

 

翌18日20時20分頃、香さんの車(三菱パジェロジュニア)が勤務地から僅か200メートル離れたJR長都(おさつ)駅南口駐車場西側の路上に、施錠された状態で停められているのが発見された。車内から検出した指紋38点には勤務先関係者らのものは確認されなかった。

およそ1か月後の4月16日、勇払(ゆうふつ)郡早来(はやきた)町にある「早来町民の森」で焼け焦げた香さんのハンドバッグの中にあったとみられる遺留品(自動車のキー、メガネケース、香水瓶、電卓等)が発見されたが、ハンドバッグそのものは発見されていない。

 

千歳市の職場を中心に見ると、苫小牧市の北部にある香さんの自宅までは、南東へ約15キロ、車で約20分強の道程である。遺体発見現場となった恵庭市北島は、北へ約15キロと正反対の方角に当たる。

現場付近での目撃情報と併せて考えれば、香さんは21時30分に職場を離れ、23時過ぎには殺害されて現場へと運ばれ火を点けられたことになる。

 

 

■三角△関係

3月17日(金)午後、遺体が香さんだと推認されたことで、千歳署はその日のうちに勤務先の運送会社事業所に捜査員を送り込み、聞き取り調査や指紋などの試料採取が行われた。

16日(木)の夜、香さんは担当業務をすでに終えていたが、連休前の伝票整理に追われる同僚を待っていた。20時30分頃、香さんは自宅へ「帰りが遅くなる」と電話を入れ、家族に22時から放映されるテレビドラマの録画を依頼している。香さんが同僚と職場を出たのは21時30分頃で「今度カラオケに行こう」等と話して駐車場の入り口で別れて以降、足取りが分からなくなっていた。

また香さんは同じ職場の男性と交際していたことも判明する。交際相手のIさんは詳しく事情を聞かれたが、二人の交際は日も浅く、殺害の動機となるようなトラブルは確認されなかった。事件当夜、香さんたちが退社後もIさんは同僚5人と残業しており、完全なアリバイが成立していた。

 

17日15時20分頃、捜査員が香さんの携帯電話を2階女子更衣室ロッカー内にあった作業着の左胸ポケットから発見する。電源が入っていない状態で、向きが逆さまだった(当時の携帯電話には突起物となるアンテナが付いていた。生地を傷めることなどから自ら胸ポケットに仕舞う際にはアンテナを上向きに入れるのが一般的だが、発見時は下向きだった)。発信履歴は消えていたが電話会社への照合で、死亡推定時刻より後に架電していた事実が判明する。そのため香さんが職場に忘れていったものではなく、犯人が香さん殺害後も生存していたように見せかけるアリバイ工作をして、ロッカー内に戻したと考えられた。

そして、事件当夜に一緒に職場を出たこと、電話の履歴照会、Iさんの元交際相手だったことなどから、同僚の大越美奈子さん(当時29歳。元受刑者。本稿では「-さん」表記とする)に疑惑が向けられる。

同僚によれば、16日20時頃には大越さんは残務処理に追われながら「私を置いていかないでね」と香さんに釘を刺しており、香さんも「今日は放しませんよ」と返すなど意味深長な会話が交わされていたと言い、それまで二人が一緒に退社したことは一度もなかったため、退社後に何か約束していると思ったという。

 

大越さんは1998年1月から同運輸会社に勤め始め、9月頃から同僚には伏せてIさんとの交際を始めた。同じ98年11月に香さんも入社し、当初は大越さんやIさんと別棟での勤務だったが後に同じ部門へ配置となった。翌99年の暮れごろから大越さんとIさんとの関係にはほころびが生じていたとされ、2000年2月末に結婚観のちがいなどを理由に破局状態になる。直後から大越さんはIさんと香さんとの仲を疑い、電話で知人に失恋の不安やショックを相談していた。Iさんは職場の飲み会で意気投合した香さんに思いを寄せており、3月11日に告白して2人は交際関係となる。事件は香さんたちが交際を始めた僅か5日後に起きた。

その間、香さんは買い換えて間もない携帯電話に頻繁に無言電話を受けていた。近しい人間にしか番号を伝えておらず、思い当たる節はないと家族に話していた。ほとんどが短い呼び出しで切れてしまい、応答してもすぐに切断された。その無言電話の主こそ他ならぬ大越さんだった。当初は香さんの連絡先を知らない、電話をかけたことはないと証言し、携帯電話のメモリにも番号登録はされていなかった。しかし香さんの携帯電話を照会すると多くの着信履歴が確認され、後の家宅捜索で「連絡先が記されたメモ」が発見される。

公判で明らかとされた大越さん側からの電話の発信回数は、検察側によれば12日に21回、13日に128回、14日に54回、15日に13回、16日7時40分までに4回と、5日間で合わせて220回。弁護側はそれら発信のほとんどは呼び出し音が鳴る前にためらって切断したものだとし、課金記録にある各日6回、8回、3回、1回、0回と合わせて18回の架電を認めている。

検察側の数字を見るに、強烈な嫉妬心、執着、怒りをも窺わせる夥しい回数である。香さんは元々大越さんと特に親しくしていた訳ではなかったが、無言電話の主を知ってか知らずか、殺害される前夜となる3月15日23時頃に「この頃大越さん苦手で困ってます。へるぷって感じー」というメールを同僚に送っていた。

取調官による証言では、3月27日時点で大越さんはすでに参考人ではなく被疑者として行動監視が行われていたとされる。捜査当局は早々に「恋愛、三角関係のもつれ」を殺害の動機とみて彼女に強い疑いを抱いていたことになる。

 

■逮捕

社内の人間関係などから警察は早々に大越さんに目星をつけ、3月20日頃にはすでに内偵が開始されていた。疑惑を持たれていることは、長時間に及ぶ聞き取りや多田さん夫妻らの進言から彼女も察していた。

多田さん夫妻は大越さんの地元、勇払郡早来町(現勇払郡安平町早来)で喫茶店などを営んでおり、小学生の頃から習字を習うなど懇意な間柄であった。彼女の弁護を担当する伊藤弁護士と引き合わせたのも夫妻の尽力による。

 

4月14日、千歳署は大越さんに任意同行を求めた。大越さんが取調室で「任意だったら帰ります」と言うと、取調官は有無を言わさず9時から23時まで聴取が続けられた。初日から「お前がやったんだ、お前しかいない」「会社の人もみんなお前がやったと疑っている」「お前は鬼だ」「ごめんなさいと言ってみろ」と威迫的な人格否定や自白の強要が続けられ、意識が朦朧とすると急に目の前の机を叩かれ「まさか寝てるんじゃないべな」と怒鳴りつけた。

4月15日昼に伊藤秀子弁護士が大越さんと面会。それ以後、警部の態度が掌を返したように変わったとされる。しかし伊藤弁護士が出張で面会に来られないタイミングを見計らうかのように、警察は再び大越さんに過酷な取調べを行う。

多田さんが千歳署に迎えに行くと、大越さんは自力で階段を下りられないほどに精神的ダメージを受けていたという。支え手を離して大越さんが倒れてしまったとき、警部は「演技だ」と言い放った。涙を流し、口もきけない状態の大越さんをそのまま帰す訳にもいかず、食事や会話ができるまで落ち着かせると深夜0時近くにもなった。

 

4月22日、大越さんは心身に支障をきたし、任意出頭を拒否。24日には札幌市・平松病院の精神神経科を受診。過度の緊張による「心因反応」と診断され、安静が必要だとして26日から翌5月22日まで入院を要した。

退院に合わせて、自白の強要など違法な取調べを受けたことによる心因反応について、道警を相手取り、国家賠償法に基づき慰謝料500万円を請求した(後に棄却された)。

当時のことを大越さんは公判で下のように陳述した。

「22日、退院祝いに友人からプレゼントをもらった…みんな枕元に並べ、ぬいぐるみも、服も、みんなからの手紙も、お守りも、他にもたくさんの気持ちがうれしくてみんな並べた。あんなに安心して夜眠れたのはあの日が最後だった。翌日の朝6時に刑事が来た」

香さんの遺体発見から約2カ月経った5月23日、殺人及び死体損壊、遺棄の容疑で大越さんは逮捕された。

 

■裁判の概要

2000年10月に札幌地方裁判所で初公判が開かれた。大越さんは取り調べ段階から一貫して容疑を否認し続けた。捜査当局も大越さんが殺害に直接かかわったことを示す証拠は得られず、情況証拠の積み重ねによって事実と推認させる、いわば消去法的に「加害者は被告人以外に考えられない」との結論に導く法廷戦術をとった。

検察側の主張は、被告人が恋愛関係のもつれによる強い怨恨から車中で首を絞めて殺害し、23時過ぎに恵庭市北島の農道で遺体に灯油をかけて火を放ったというもの。

弁護側は、被告人には犯行が不可能だったとして無罪を主張した。また焼死体の下半身が開脚されたような姿勢であったこと、陰部の燃焼が激しかったことなどから男性複数人による性的暴行が疑われ、証拠隠滅のために着火したとする見立てを示した。

2000年10月  札幌地方裁判所にて初公判(佐藤学裁判長)

2003年3月  有罪判決、懲役16年

2004年5月  控訴審初公判(長島孝太郎裁判長)

2005年9月  控訴棄却

2006年9月  最高裁島田仁郎裁判長)は上告を棄却

2006年10月  弁護側異議申立が棄却され、一審判決の懲役16年が確定

2012年10月  再審請求

2014年4月21日、札幌地裁(加藤学裁判長)は再審請求を棄却

2018年8月12日、刑期満了で出所

2018年8月27日、札幌高裁再審棄却

2021年4月15日、最高裁再審棄却

札幌地裁は被告人に懲役16年の有罪判決を下すも、確定的な証拠が存在しないため新証言や実証実験などが重ねられ、係争は長期化した。刑期を終えた2018年9月4日、記者会見に臨んだ大越さんは「必ず真実を見抜いてくれる裁判官がいることを信じて戦っていきたい」と再審で無実を証明する意欲を示した。

以下の項目ではその変遷を追うのではなく、間接証拠に関するいくつかの争点について切り分けてみていこう。

 

■いくつかの争点

■動機

検察側は殺害の動機をいわゆる「三角関係のもつれ」として捜査の初期段階から大越さんに捜査の焦点を絞っていた。

3月17日時点でIさん、大越さん、香さんの関係を知る社内の人物は、Iさんと大越さんを除けば同僚女性ただ一人だった。調書では3月20日付けで同僚女性が3人の関係について言及、26日には「大越さんが犯人だと思う」とも述べている。だが実際には18日時点で署内に「大越班」が設置され、19日には行動監視が行われていた。

 

3月4日(土)、Iさんは香さんを誘って明け方近くまで室蘭方面へドライブに出掛けた。6日(月)、香さんのIさんに対する態度がそれまでと違うことを察した大越さんは二人の関係を怪しむようになる。翌7日(火)、Iさんは携帯電話を紛失し、翌日キャリアに連絡して使用停止手続きをとった。

3月8日(水)の夜にIさんが香さんを自宅へ送り届けたこと、11日(土)夜には長都駅前に二人の車が並んで停められていたことを知ってショックを受けたことなど、大越さんはかつての交際相手に電話で度々相談していた。

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大越さんの供述によれば、Iさんとの結婚は意識したことはなかったが少なからずショックを受けたと言い、当時Iさんが携帯電話を紛失中で思いをぶつけることもできず、無意識のうちに香さんの番号をリダイアルしてしまったまでで、嫌がらせの意図はなかったと説明している。3月12日にIさんから正式に別れを告げられて、翌13日にきっぱり別れる決心がつき、多田さんの店を訪れた際にも「気持ちの整理がついた」と話していた。

だが知人らは以前大越さんから「彼氏に結婚したいと言ったら、ちょっとそれは考えられないと言われた」「結婚する気あるのと聞くと、もう1週間か10日待ってくれと言われた」旨を聞かされていた。

Iさん自身も結婚への意識について「ゼロではない(遊びの付き合いではない)」思いで交際していたと認めている。2月27日に大越さんへ「結婚する妥協線が見えない」と告げると、「もう少し考えて」などと哀願されたと証言する。

控訴審の中で大越さんは、結婚したいと思っていたのは1998年まで交際していた男性で、迷惑が掛かると思いこれまで明かせなかったと証言した。しかし事件後にもIさんに宛てて「解決したら、一晩、Iの時間を私に下さい。Iのとなりで眠らせてください」との内容の文をシステム手帳で作成していたことが家宅捜索の結果分かっている。弁護側が主張するように「(殺害する)動機はなかった」かもしれないが、本人の証言には矛盾があり、Iさんに何がしかの未練を抱いていたことが窺える。

 

◾️体格差

香さんは身長162センチ以上、体重約52.5キロ、中学時代はテニス部、高校時代は陸上部で鍛えられ、体力があった。一方、大越さんは身長147センチ、体重51.2キロ(数か月前の健康診断での計測時。弁護側は事件当時46キロだったとしている)と小柄な体格で、生まれつき右手薬指・小指に短指症がありバランスが悪く「片手で丼が持てない」非力とされ、握力は右手19キロだった。

鑑定では、気管内部に煤がなく、気道にも熱傷がないことから火を点けられる前に「絞殺」されていたと推認されたが、扼殺(手による絞殺)かロープ状のものが使用されたかといった点までは明らかにされていない。だが体格差や体力面から見ても、いさかいが起きたとなれば激しく抵抗されることは疑いなく、大越さん単独で絞殺できたとする起訴内容は不合理極まりない、と弁護側は主張している。

たしかに身長では被害者の方が大越さんよりひと回り大柄な印象である。立ち姿勢でまともに対峙すれば小柄な大越さんは首元に手を掛けることも難しいだろう。

また「タオルで目隠し」されていたという事は、事実上「手・腕」も拘束されていたことになる。単に「背後から不意をついて絞殺」といった場面であればタオルやベルト、ロープ状のものを使えば不可能ではないが、レスラーのように屈強でもなく特殊な訓練を受けてもいない女性が抵抗されずに単独で手を拘束できたとは考えづらい。優に御することができたとすれば、体格や体力に勝る男性による犯行か、薬物等で昏睡させてか、あるいは催涙スプレーやスタンガンなどの凶器でダメージを与えてから、拘束し犯行に及んだのではないか。

弁護側は元東京都監察医務院長・上野正彦氏の見解と合わせて、「夜間の屋外」で開脚状態で発見されたにもかかわらず性的暴行の疑いを持たず「精液鑑定をしていなかった」点について監察解剖の不備を指摘している(鑑定は後に科捜研が実施)。

2018年の2度目となる再審請求では、東京医大吉田謙一教授が証人尋問に立ち、死因について「左目瞼結膜、口腔粘膜及び左側頭筋膜下に溢血点」があること等から「頸部圧迫による窒息死」との推認が為されているが、溢血点は窒息以外でも生じうるとして慎重さに欠けると指摘した。

筆者も性犯罪の可能性は否定しないが、「夜間の屋外」とはいえ「3月の北海道」の雪上で行為に及ぶのかという素朴な疑問はある(が道民ではないのでイメージが湧きづらい)。いずれにしても遺体の焼損によって「凶器」「犯行様態」が鑑定では測りづらくなっていることは確かであり、少なくとも検察側の主張や一審判決のように疑う余地なく大越さんの単独犯行だと認定するのは拙速な印象をぬぐえない。

 

■携帯電話の発見状況

先述の通り、香さんの携帯電話は3月17日に職場2階の詰所にある女子更衣室の彼女のロッカーから発見され、上着の胸ポケットに逆さ向きに入れられていたり、発信履歴が消されていたりといかにも不自然であったが指紋は検出されなかった。道警は携帯電話会社(北海道セルラー)に通信記録の照会を依頼し、翌日には関係データが取得できた。

16日23時過ぎに遺体は焼却されていたにもかかわらず、17日に7回の発信が認められた。

00:05:31-00:05:49 ビール工場代表番号

00:05:56-00:06:00 Iさん携帯電話

00:06:04-00:06:05 ビール工場代表番号

00:06:29-00:06:49 ビール工場施設管理室

03:02:09-03:02:15 Iさん携帯電話

03:02:19-03:02:25 ビール工場施設管理室

03:02:38-03:02:55 ビール工場施設管理室

その後、12時36分に電源が切られ、15時5分頃にロッカー内で電話が発見された。なぜ午前中に入っていた電源がこのタイミングで切られたのかは不明である。

詰所は事件の約20日前に施設1Fから2Fへ移動されており、ロッカーに名札は貼られていなかった。部外者が人知れず詰所に侵入し、個人のロッカーを特定してまで電話を置いていくことは物理的に不可能ではないが考えにくい。

担当部署の従業員は10名、うち女性は香さんを含めて4人であった。「女子更衣室」と聞くと、男子禁制の場であるかのような印象を抱きがちだが、実際には冷蔵庫などを利用するために男性従業員が立ち入ることもあったとされる。午前中に配送センターと同じ電波圏内にあったことは分かっているが、いつどのタイミングで犯人がロッカーに電話を入れたのかは不明であり、女性従業員による犯行とは断定できない。

 

そもそもなぜ犯人は携帯電話をロッカーに持ち込んだのかは合理的な説明がつかない。遺体は人通りが少ない場所とはいえ目に付きやすい状態で遺棄され、事実半日も経たずに発見された。焼損が激しかったものの焼死体はすぐに香さんの行方不明と結びつけられることも見当はつく。ロッカーに入れておけば、女性従業員が疑われると考えたのか、あるいは捜査員が来ると知って慌てて持ち主に返したのか。

検察は、殺害時点では発着信履歴に「Iさんの携帯電話」は残っておらずすぐにリダイアルできる状態ではなく、犯人はわざわざアドレス帳にあった45件の登録番号から「Iさんの携帯電話」を選んで架電したと説明し、大越さんとの関連性を指摘。すでに終業している職場や7日から紛失していた「Iさんの携帯電話」であれば、23時頃にかけても応答も返信もないと知っていたからこそ発信相手に選んだのではないかとした。たしかに「勤務先の番号」と「個人の連絡先」では発信者の僅かな意識のちがいを感じる。

しかし結果論から言えば、香さんの携帯電話から架電したことで却って「犯人性」のある痕跡を通信データ上に残してしまったことになる。余計なことをせず他の所持品同様に損壊・遺棄していれば、わざわざアリバイ工作をする必要もなかったのではないか。

逆説的に見れば、犯人は殺害後も香さんの携帯電話を手放せない事情があったのではないか、とも考えられる。たとえば持ち帰ってメール内容を全て確認したかったか、あるいは「誰か」から掛かってくるはずの電話を待っていたというような事情が犯人にあったのではないか。しかし電源を入れたまま肌身離さず携帯していればすぐに見つかってしまう。そのため一時しのぎのつもりで香さんのロッカー内に「預け置いた」ように思えなくもない。

 

■アリバイ崩し

大越さんは3月16日21時30分頃に職場の駐車場入口で香さんと別れた後、車で数分の場所にある恵庭市住吉町の書店に立ち寄って1時間ほど滞在し、24時頃に帰宅して、入浴後に刺身でビールを飲み、翌17日2時30分頃には就寝したと説明した。当時の書店には監視カメラの記録もなく、店員などによる目撃証言も得られていない。

警察の調べで、23時36分に同じく住吉町にあるガソリンスタンドで給油を行なっていたことがレシートの打刻から判明。その後の調べで、防犯カメラ映像から23時30分43秒に来店したことが確認される。また3月17日1時43分頃には早来のコンビニを訪れており、缶ビール、お菓子、女性誌を購入していた。

 

道警は当初、遺体発見現場周辺で「炎」について複数の目撃情報を得ていた。

Mさんは時計が「23時から23時5分の間」であることを確認してすぐに2階に上り、廊下の窓越しから南8号線道路に炎が上がっているのが見えたと一審で供述。検察官が少々時間に幅を持たせた方がいいように述べ、本人も重大事件であるために慎重を期して4月6日付け調書では「23時頃から23時15分頃の間」と幅を持たせている。

550メートルほど離れた場所に住むOさんは検察官調書で「23時10分頃から15分頃」に炎を見たと供述していたが、時計が若干進んでいたため正確な時刻を差す内容かは不確かだとされた。しかし炎のサイズについてMさんのものより大きかったこと、初めに目にしたときより5分後ないし15分後に再度見たときには1/3ほどの大きさに縮んで消えかかっていくところだったことを述べている。

判決では、Mさんが燃え始めの段階で見つけ、別の場所からOさんが更に大きくなった炎に気付き、その後鎮火していたもの、として相互に補完する内容だとまとめられた。

しかし再審請求審で明らかにされたOさんの初期の供述(事件翌日の警察調書)では、「23時15分頃」「納屋の間口と同じくらいの大きな炎」「太陽が地平線に落ちるときのようなオレンジ色」とより印象的・具体的な供述を行っている。はじめは犬の散歩の出がけに見掛け、その5~15分後に1/3ほどに小さくなったとし、帰りの23時40分過ぎにははじめと同じくらい大きな炎を見たと言い、帰宅して17日0時過ぎにはまたその炎が1/3くらいに小さくなっていた、と1時間近くに渡って炎を断続的に観察していたことが判明する。つまり一審では検察側が都合のよい部分だけを切り取って採用していた捏造証拠ということになる。

 

もう一人のQさんは、北広島駅へ家人を迎えに車で通った際の証言をしている。23時5分頃に自宅を出て南8号線と西8号線の交差点のやや東に「ブレーキランプを赤く点灯させたボンゴ車」と並ぶ小さな車の後部が見えたとし、車越しに炎のような光は見られなかったとしている。23時15分頃に北広島駅から自宅へ戻る車中で、行きのときより東側の位置に2台とも移動しており、小さい車の付近で赤い光のようなものが見えたと供述した。しかし目撃の翌日に取られた警察官調書では、往路で2台の車とテールランプだったかも分からないが赤い光らしきものを見た、23時30分頃の復路では意識してみていなかった旨供述していた。また車の特徴についても聴取当時は不鮮明だったものが、2年4か月後の公判供述では「大きい方はクリームがかった白、小さい方は黒か紺だったと思う」とより鮮明な内容になるなど、信用性に欠けるとして裁判では斥けられている。

車の位置や車種について証言にぶれがあることは否めず、信用性の面では劣るようにも思えるが、当初警察も周辺でボンゴ車の捜索を行っている。2台の車輌があったとすれば大越さん単独犯説は根底から覆る重要証言である。当局が相当するボンゴ車が見つけられなかったことからこの証言を退けたとみるのは穿ち過ぎだろうか。

逮捕状では「23時15分頃」とされていた焼却時刻は、起訴状で「23時頃」に改められ、裁判所は少なくとも「23時5分頃」には開始されていたものとして認定された。

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複数回の検証実験では、遺体発見現場から香さんが訪れたガソリンキングまで車で19分から25分前後かかることが分かっている。検察の主張に沿うならば、現場周辺に友人が住んでいたためそれなりに土地勘があり、夜間のドライブも慣れていた大越さんならば、殺害後の興奮状態で街灯もない真夜中の凍結した凸凹道でも法定速度以上で走行可能だったのかもしれない(ないと思う)。

弁護側は、こうした犯行時刻の変遷を「23時30分」に給油していた大越さんのアリバイを崩すために、犯行後でも23時30分に給油に行くことは可能だと立証するために作為的に「早めた」と見ている。

 

だが検察側の筋書きのように、事前に燃料まで準備して殺害に及ぶ犯人が鎮火も待たずに慌ててその場を後にし、にもかかわらず肝心の車がガソリン切れでスタンドに駆け込むような“失態”を犯すものであろうか。仮に、そうした間の抜けたアクシデントがあったとして、その後深夜のコンビニに立ち寄って缶ビールとお菓子と雑誌を買って帰るという大胆不敵な行動を取り得るものだろうか。

もちろん殺害直後に何食わぬ顔で日常生活を送る犯人もいるにはいるし、アリバイ工作のひとつとしてコンビニへ来店したのかもしれない。見方によっては給油すらも急場のアリバイ工作に受け取れるかもしれない。

だが取調べや公判で泣きじゃくったり卒倒してしまう大越さんが、殺害直後にそうした大胆な行動がとれたとは俄かに信じがたい。検察側の言い分を聞けば大越さんの供述には不可解な面も目立つ。ストーキングを疑わせる行動や「犯行につながってもおかしくない」と思わせる心象はゼロとは言えない。しかし「犯人が取ったとみられる行動」と「大越さん本人が取った行動」との間にはどうにもピタリと重ならないギャップがあるように感じられる。

 

■グローブボックスで見つかったロッカーキー

4月14日、県警は大越さんの車両の検証を行い、助手席前グローブボックス内から被害者のロッカーキーを発見した。しかし被害者をはじめ女性従業員らはロッカーの施錠をしておらず、香さんがロッカーキーを持ち歩いていたとは考えられない。ロッカー内部の小物受け皿に置いたまま保管されていた可能性が高い。検察側はこれを被告人がバッグをグローブボックスに押し込んだ際に落下させたものとして証拠採用した。

弁護側は、発見の経緯が不明瞭で、正式な手続きを踏まずに認定された違法証拠だとし、被告人の嫌疑を深めるための「捏造」を疑わせるものとした。たしかに無施錠のロッカーキーが外部で、それも目下「被疑者」とされる人物の車のグローブボックスから発見されるというのはあまりに出来過ぎた話に思える。

たとえば大越さんは勤務先で車をいじれる人物にパンクしたタイヤの交換を依頼しているが、そうしたタイミングを見計らって犯人が大越さんに濡れ衣を着せようとロッカーキーを忍ばせた可能性もゼロではない。

だが偶々バッグからロッカーキーがこぼれ落ちたり、偶発的なタイミングで犯人が濡れ衣を着せようとしたと見るより、車両検証の際に「警察が持ち込んだ(捏造した)」と見る方が理に適っている。無論そうした証拠はどこにも存在しない。

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また車両検証では助手席マットから灯油成分が検出されたが、車内から被害者の血痕や毛髪、指紋、尿などは検出されなかった。弁護側によれば、検察側の言い分通り車内で絞殺に及んだとすれば抵抗や尿漏れなどが起こるがそれらの痕跡は一切出ていないと主張する。だが被害者は当時生理中であったことから、ナプキン類に吸着してシートに尿が残らなかったことも推測されている。犯行後に車内を多少クリーニングすることは可能にせよ、血液や尿の付着があればシートの張替など大掛かりな手間を要する。仮にそこまで入念な証拠隠滅を行う人物であれば、灯油の付着した床マットをそのままにはしていないだろう。

 

■犯行後の足取り

上述のように、犯人は犯行後に被害者の携帯電話で7回発信している。当時は2020年現在と異なり、GPS機能による位置の特定ができないながら、利用基地局との通信情報を照らし合わせて犯人のおおまかな動線が導き出された。

 下はおおよその位置関係を示すために作成した地図であり、便宜上マーカーが付されており、青いルート線が表示されているが正確な位置・足取りを示すものではない。ひとつの目安とされたい。

「赤色マーカー/A」遺体発見現場である恵庭市北島(16日23時過ぎに火柱目撃)

「B」千歳市新富の基地局エリア(17日0時5分頃に4回の発信)

「C」安平町早来北進の基地局エリア(17日3時5分に3回の発信)

「紫色マーカー」大越さんが給油した恵庭市のガソリンスタンド(16日23時30分)

「緑色マーカー」被害者の車両発見現場(18日)

「黄色マーカー」被害者の勤務地

「灰色マーカー」被害者の遺留品発見現場(4月16日)

 大越さんが23時30分に立ち寄ったガソリンスタンドから法定速度でそのまま直帰したとすると、犯人が電話を掛けた時間帯とは誤差が生じる。

だが大越さんが立ち寄ったガソリンスタンドから犯人が電話を掛けたBエリアは国道36号線でつなぐことができ、2度目に電話を掛けたCエリアから外れはするものの、大越さんの居住地も早来であった。だれが電話を所持していたかは不明だが、検察の示すように「国道36号線を恵庭市から千歳市方面へ南下、その後、東進して安平町早来へ」という動線は概ね重なる

さらに17日、大越さんは職場である配送センターに8時20分頃出社。被害者の携帯電話には9時29分から11時52分までの間に15回の着信(勤務先など)があり、いずれも同職場を含むエリアをカバーする基地局で受信されたものであった。つまりは、17日の朝には携帯電話は勤務先に移動していたことになる。

 

アリバイ工作の観点から見れば、すでに終業後の勤め先や交際相手が紛失した携帯電話に「香さんが」電話を掛けたように見せかけるのは不合理である。大越さんと同様に香さん「も」当然勤務先や「Iさん携帯電話」に繋がらないことを分かっていたからだ。

GPS機能がなかった当時、電波の受信基地局から携帯電話の位置を逆算する手法は、捜査関係者や携帯電話関係者以外にはあまり広く認知されていなかったとも言われる。おそらく犯人は「どこかに発信しておけば香さんが生きていた証拠になる」程度に考え、自らの発信エリアが把握されることなど露も考えてはいなかったのではないか

また犯人は7回の発信を行いながらも、なぜ携帯からその発信履歴を消していたのか。さながら事件直後の自分の過ち(香さんが掛けるはずがない相手に発信していたこと)に気が付いて慌てて消したかのようにも思える。

 

■タイヤの損傷

3月20日、大越さんは被害者の通夜に出席した後、カーケア用品店を訪れている。その際、点検係のスタッフが左前タイヤ(冬用のスタッドレス)の接地面に焼け溶けた痕跡を確認し、そのまま走行を続けると危険がある旨を伝えた。後の4月10日には職場で夏用タイヤに交換してもらい、4月14日の検証時に車に積まれたままになっていた冬用タイヤが押収された。

検察側の鑑定意見書によれば、損傷は深さ5ミリ、9×10センチ大で、物理的損傷や化学的変化、急ブレーキなどによるものではなく、「摂氏250度から290度の高熱を帯びた物体に数分以上触れて出来たものと推定」された。通常使用で生じる損傷とは考えられず、当局は「被害者を焼損させた際に被告人車両が近くにあったことのほかには考えにく」いと主張し、犯人性を示す間接事実に挙げた。

だが遺体発見現場は凍てついた農道であり、一帯では鉄片などの高熱を帯びる可能性のある物体は発見されていない。2メートルもの火柱を上げて燃え盛る遺体のすぐ近くに車両を停めていれば、常識的に考えても「9×10センチ大」のタイヤだけの損傷で済むとは思えない。バンパーが焼け付いたり、車体に焦げや煤跡も認められていない。

伊藤弁護士が自動車工学の専門家に確認したところ、熱した鉄片などの上に載ってできたとは考えられず、急ブレーキの際にできた傷との見方を示したと言い、あるいは誰かが意図的にタイヤを削ったのではないかとの自説も述べている。

 

遺体発見時、通報者はよほど慌てたのか誤って消防に通報してしまったため、現場には消防隊が先に到着した。すぐに警察も呼ばれたが、第一発見者らを含め、多数の車両が乗り入れたことになる。それら事件とは関係しない車両を除いて2~3種類のタイヤ痕が採取されたが、検察側はそれらの捜査は行っていないとして弁護側の開示要請を拒否した。それらの中に「ボンゴ車」等のものがあったか否かは不明である。だが事実として、遺体発見現場に大越さんの足跡や日産マーチのタイヤ痕、遺体を引きずる際にできたような痕跡は検出されていない

 

■灯油の購入

遺体の燃焼に用いられたのは灯油類(ガスクロマトグラフィーによる鑑定上は灯油か灯油型航空機燃料のいずれか油種を判別できない)とされ、捜査員たちはその出処を追って給油所などで聞き込みを行っていた。4月14日、大越さんの車両検証により、事件前夜の3月16日0時頃に千歳市末広のセイコーマートふくみやでポリタンク入りの灯油10Lと杏露酒を購入したレシートが押収されてようやく出処が判明する。

購入の目的について、以前住んでいた(父親の勤め先の)社宅の立ち退きが迫っており、近々荷物の片付けをしに行く必要があり、その際の暖房用に使うためだと供述。しかしふくみやで販売していたものと同一成分の灯油は大越さん周辺では見つからなかった。

というのも4月1日頃、職場関係者から給油所で大越さんの捜査が行われていることを聞かされ、怖くなってポリタンクごと千歳市内の草むらへ投棄したのだという。だが購入したまま未使用の灯油10Lが存在すれば「犯行に使っていないこと」の裏付けとなり、警察の疑惑は大きく減退させられる。自分に有利な証拠となるものをなぜ遺棄してしまったのかは説明がつかない。

また遺棄の翌日頃には「ないと却って怪しまれる」と思い直し、北広島市内にある別のセイコーマートでまた新たに灯油を購入し、社宅へ運んでいた。前日頃に草むらに遺棄したのであれば、まだ現場にそのまま残っている可能性が高いにもかかわらず、なぜ探しに行かなかったのか。

大越さんは3月16日から4月1日頃まで車内に2週間近く灯油を積みっぱなしにしていたとする説明もやや解せない。自宅と同じ早来町内にある社宅に下ろすことがそれほど手間だったとも思えない。灯油をめぐる大越さんの一連の行動、証言に疑問がもたれた。

 

また同じく車両検証で、助手席床マットから灯油成分を検出。大越さんは「助手席に灯油を積んでいた際に蓋が緩んでいてこぼしてしまった」と述べている。検察側は購入直後に未使用のタンクの蓋が緩んでいたとは俄かに信じがたいとし、灯油を使用(タンクの蓋を開閉)したことの証左だとする。

大越さんは一連の灯油の買い直しについて長らく弁護人にも秘匿し、ふくみやで購入した灯油を社宅へ運んで未使用のまま警察に押収されたかのように伝えており、初公判が迫った9月頃になって買い直しをした事実を弁護人に明かした。弁護団は「遺棄した」とされる灯油を重要証拠になるとして捜索したが発見には至らなかった。大越さんは灯油に関する秘匿・虚偽供述をしていた理由について、「本当のことを言えば弁護人に逃げられてしまう不安があったから」と説明している。

尚、第14回公判で灯油を分析した道警科捜研技官は「灯油の成分については分析できなかった」と証言している。衣類や目隠しのタオルからも成分が分析できなかったのであろうか。少なくとも大越さんが購入した灯油と現場から採取された灯油の成分が一致したという事実はない。

 

■ドングリ山の遺留品

4月15日16時20分頃、「早来町民の森」内の路肩で被害者の鞄に入っていた遺留品の残焼物が発見された。大越さん宅から約3.6キロと車であればすぐの距離である。その日は事情聴取が開始され、家宅捜索や車の検証を受けた翌日である。

第一発見者は「学校のドングリの子孫を残す会(以下ドングリ会)」に所属する地元の会員で、翌16日に会長に連絡を取った。同会の会長は、大越さんを支援する多田さんであった。多田さんは伊藤弁護士を札幌に送り届け、24時近くになって焼き跡の現場に訪れ、車のキーなどもあったため処分せず警察に通報した。

大越さんもまた「ドングリ会」のメンバーで、活動の一環で同地を訪れたことがあった。聴取を受けた会社関係者には彼女以外に早来町を生活圏とする人物はいなかった。捜査当局は発見現場を「土地勘がある者でなければ容易に行きつけない場所」とし、大越さんにも「土地勘のある場所」だったとしている。

10日(月)夜から11日(火)朝にかけて激しい降雨があったが、残焼物には雨に打たれた痕跡がなく、雨が止んだ11日昼以降に発見現場で灯油類を用いて焼かれたものと考えられた。また多田さんは観察目的で毎月2,3回森を訪れることがあったが、13日(木)17時過ぎに車で通った際には焼いている様子や焚火痕には気付かなかったという。

また多田さんは四駆車のジムニーで森の未舗装路を時速10キロ程の低速で走行したが、ぬかるみだらけでタイヤは泥で真っ白になったという。しかし同13日22時前に大越さんが喫茶店に訪れていたが、彼女のマーチは汚れていなかった、山には行っていないと思う、と証言した。

焼かれたのは13日17時以降から15日(土)16時20分頃の間に絞られるものの、職場への勤務、多田さんの店への来店、警察の行動監視、14日・15日の事情聴取の合間を縫って、大越さんが遺留品を焼きに行くというのは極めてリスクが高く、現実的に困難に思える。

10日夜~11日朝 激しい降雨(近隣では土砂崩れ)

13日 多田さん巡回、車中からは焚火痕は見られず。夜、大越さん来店。

14日 大越さん任意事情聴取。車両押収。

15日 事情聴取2日目。多田さん、伊藤秀子弁護士を大越さんに引き合わせる。

同夕方 「ドングリ会」会員が遺留品の焼け跡発見。

16日 24時頃、多田さんが焼け跡を確認して通報。

他方で、より遺留品の発見を免れようとするのであればそもそもなぜ燃えにくいものを燃やそうとしたのか疑問が生じる。山林内の地中に埋めたり、海川へ遺棄する等の方が発見されづらいように思われる。

大越さんの最大の支援者ともいえる立場の多田さんによる目撃やアリバイの証言は、第三者の立場からすると「客観的証拠」としてはやや信用性に欠ける印象を抱かざるを得ない。大越さんの支援者が大越さんに代わって焼却したとまでは思わないし、多田さんの証言が「虚偽である」と示す根拠はないが、立場上どうしても大越さんを庇う証言に聞こえてしまうのである。しかし多田さんは奥様が細かに日記を付けており、信用性の高い内容であることも確かなのだ。

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犯人が大越さんに濡れ衣を着せるために大越さん宅の近くに遺棄した可能性はあるだろうか。たとえば「ドングリ会」会員以外でも、昔馴染みの地元民、あるいは親友、恋人のような近しい間柄であれば、大越さんの会での活動について耳にしていた可能性は充分にある。しかし濡れ衣を着せたいのであれば、大越さんの自宅付近に放置すればよいまでで、わざわざ火を点けたり、いつ発見・通報されるか定かではない(ともすれば通報されずに処分されかねない)森林公園の路肩に遺棄する必要性はない。

残燃物について言えば、いかにも燃え残りそうな内容物にもかかわらず、燃え殻を埋めるなどして始末していないこと、基本的に人通りは少ない場所ではあるが目に付きやすい状態で残されていたことなどから、「燃焼状況を最後まで見ていなかった」と推認され、そこはかとなく焼死体との相似を感じさせる。犯人は着火直後に現場を去ったとするならば、「証拠品の完全な隠滅」というよりも「手許に置いておけない」「場当たり的な遺棄」「(指紋などの)直接的な証拠を隠したかった」「時間がない」といった背景が想像される。遺体も遺留品も、あまりに粗雑で不完全な隠蔽なのである。

捜査当局は、大越さんが4月1日に買い直し、社宅に運んだ灯油の残量が9.5リットルだったことから、差分の500ミリリットル程を遺留品の焼却に使ったのではないかとしている。だがあえて穿った見方をすれば、焼死体の状況に近づけるためにわざわざ「火を点けた」とも、あえて「燃えにくいもの」を燃え殻にして残したようにも思えてしまう。はたしてそんなことが可能だったのはだれなのか。

 

■燃焼実験

検察側の主張によれば、10リットルの灯油を遺体にかけて火を点け、すぐにその場を離れたとしている。弁護側ははたして10リットルの灯油で人体をそこまで焼損することは実際に可能なのか疑問を呈した。被害者の遺体を扱った納棺業者は「灯油を何回もかけてじっくり焼いたか、ガソリンかジェット燃料で焼いたように思われる」旨の供述をしたと弁護側は述べている。

2012年9月、弁護側は再審請求のための新証拠として、弘前大教授・伊藤明彦氏らに豚を使った燃焼実験を依頼。伊藤教授は東住吉放火殺人事件(※)の検証などでも知られる熱工学の専門家である。

灯油10リットルを全身に万遍なくかけた場合、すぐに2メートルほどの火柱を上げて激しく燃え、3分ほどで炎は半分以下となり、着火から約10分でほとんど鎮火した状態になった。また現場状況を再現するため薄く雪を敷いた上で実験は行われたが、表面が焦げただけで内部は全く熱変化は受けておらず、背中の接地面はきれいなままで実際の遺体ほど大きな損傷(一部は骨が剥き出しになっていた)や内臓の炭化は確認されなかった。遺体は約9キログラムの体重減があったが、灯油10リットルでの検証では4キログラム弱の減少であった。検察側は「豚と人間は違う」といった反論に終始し、判決はその主張を認めた。

科学的検証の結果は、発見された遺体の状態や検察側の主張とは大きく食い違うもので、仮に「灯油」で遺体の焼損状態にするまでには、背中まで焼くために何度も転がしながら傍で注ぎ足し50リットル、約2時間にわたって炎をピーク状態にし続ける必要があるとされた。弁護側は、遺体の状態や路面に残った煤は燃料が灯油ではなく、発熱量が高いガソリンやジェット燃料だったことを示唆するものとしている。

※東住吉事件。1995年7月、大阪市東住吉区の住宅駐車場で火災が発生し、母親と内縁の夫、長男は屋外に脱出したが駐車場に隣接する浴室で入浴中だった長女が焼死。当時200万円の借金を抱えていたこと、死亡時支払い1500万円の学資保険を長女に掛けていたことなどから母親と内縁の夫による保険金詐取目的の放火殺人が疑われた。再現実験によりシャッターが閉じられた駐車場は密閉状態で、車の燃料タンクの不具合でガソリンが気化し、風呂釜の種火に引火した可能性が高いと判断され、冤罪が認められた。

 

 

■所感

2003年5月に滋賀県の湖東記念病院で発生した「人工呼吸器取り外し事件」では当時看護助手をしていた西山美香さん(当時24歳)が殺人の被疑者とされ、1年以上もの取調べの末、「職場での待遇に不満があり、呼吸器のチューブを外した」と自供した。目撃証言や犯行の証拠はなく「自白」のみで逮捕され、裁判になって無実を主張したが懲役12年の実刑判決を受けた。

通常であれば1、2通で済むはずの供述調書は30通を超え、加えて56通もの上申書(当局への自供文書)や犯行の再現映像など、西山さんの「自白」は幾重にも塗り固められていた。

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中日新聞編集委員秦融氏は西山さんの周辺取材や家族に無罪を訴える膨大な手紙などをきっかけに冤罪の疑惑を強め、取材班と弁護団が協力して行った獄中での鑑定の結果、西山さんに軽度の知的障害、発達障害愛着障害が診断される。二度目の再審請求で「警察官からの誘導があり、迎合して供述を行った可能性がある」と裁判のやり直しが認められ、2020年に無罪が確定した。

西山さんはそれまで日常では障害が気付かれにくいグレーゾーンとして生活し、コミュニケーションがうまくいかず、つじつまの合わない嘘を後先考えずに言ってしまう癖があった。密室で連日行われる事情聴取の特殊環境のなかで、西山さんは担当の男性取調官の言う通りにすれば怒鳴られなくて済む、優しくしてもらえるという思いから「やってもいない犯行」を自白してしまったのである。

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西山さんに限らず、そうした特殊環境に置かれれば普段通りの心理状態でいられようはずもない。日本の刑事事件における有罪率は99パーセント以上だが、西山さんのように当局に目を付けられ、「犯人」に仕立て上げられた人は一人や二人ではないように思う。数々の獄中体験本や『ケーキの切れない非行少年たち』などでも、グレーゾーンとされる人々の多さを窺い知ることができる。取調官が「マインドコントロール」したとまで言うつもりはないが、脅しに屈しやすい、優しさに脆い、家族にこだわりが強いなど様々な被疑者の特徴と自白の引き出し方は十分に心得ている。取調官にとって「真犯人」や「事件の解明」より何より、目の前の被疑者から「自白をとる」ことが仕事となる。

すなわち障害者であると断定するつもりは一切ないが、供述の変遷や味方であるはずの弁護士にもすぐに心の内を見せなかった点、当時の情緒やちぐはぐな行動に、多くの人が大越さんに対してどこか不安定な・不可解な印象を受けたことは否めない。だが私自身、メディアに追い回されたり、警察から強い疑いを向けられたりすれば、どれほどの動揺が我が身に起こるやも分からず、つじつまの合わない供述や不可解な行動をとったりすることもあり得るのではないかと思っている。

 

「疑わしきは被告人の利益に」という近代裁判の原則は広く知られるところだが、有罪率99%以上というのは、裏を返せば裁判官の仕事は99パーセント以上がシロかクロかの見極めではなくその罪状認定と量刑判断だともいえる。たとえれば警察が材料を集め、検察が調理味付けした料理に裁定を下すのが仕事の99%であり、ほとんどの裁判官は出された皿を引っくり返すような真似はしない。

しかし本件発生より数か月前、出された皿を引っくり返すような判決が下された事件があった。1984年に札幌市豊平区で発生した9歳児の行方不明事件で、その後遺骨が発見されたこと等から98年12月に当時付近に住んでいた女性が殺人の疑いで逮捕・起訴されたいわゆる「城丸君事件」である。詳述は別の機会とするが、検察側は動機や殺害方法は不明のまま、遺骨を密かに保管していた状況証拠と事件への関与をほのめかす供述を以て事実認定した。被告人は黙秘を貫き、2001年5月、多くの状況から被害者は被告人の犯罪的行為によって死亡した疑いが強いとした上で、殺意の認定には至らず無罪とされた。

無罪判決を下したのは札幌地裁元総括判事・佐藤學氏、すなわち2000年10月の初公判から恵庭OL事件の裁判長を務めてきた人物である。その佐藤氏は2002年3月をもって依願退官し、第35回公判から担当判事が交替している。きしくも城丸君事件、恵庭OL事件を担当してきた小林俊彦検事も4月1日付けで東京地検に異動となっている。佐藤氏は全国的に注目を集めた城丸君事件がひと段落して肩の荷を下ろしたい心境になっていても不思議ではないし、検事の人事異動も異例のことではない。だが公判が佳境を迎える最中での交代劇は様々な憶測を呼んだ。

道警最悪の不祥事といわれた稲葉事件(※※)や北海道警裏金事件(※※※)を挙げるまでもなく、当時の北海道警では不正を黙認するどころか大義名分のために手段を択ばない歪な組織体質が蔓延していた。ひとりの捜査員や取調官、裁判官が悪いというようなものではなく、関連団体とのかかわりの中で脈々と受け継がれていた談合的側面もあったにちがいない。「99%」をかぎりなく100%に近づける努力として捜査技術が磨かれるのはありがたいことだが、数字のために湖東事件の西山さんのような「新たな被害者」を生み出すことはあってはならない。

各人が組織の掲げる正義のために「職務を全うしているだけ」の“前に倣え”状態なのかもしれない。だが推定無罪の原則の上では、「十中八九クロである」とでも言うような判決は到底容認できるものではない。捜査手法や証拠保全体制など当局にも数々の失態は認められ、あまりに多くの矛盾点を突かれている。状況証拠のみによる事実認定は反対事実の存在を許さないほどの確実性を以て判断されねばならない。「被告人以外に真犯人がいたとしてもおかしくない」疑いの余地がある時点で、有罪性を争うことはできない。捜査権限のない一般市民に代わって治安を守り、事件を解決に導くことが警察の仕事だが、「事件をつくる」権限は与えられていないはずだ。

もしもの話をしても無意味だが、一審当時に裁判員裁判が行われていれば判決は変わっていただろうかと思うことがある。自分が裁判員のひとりだったならばはたして冤罪を疑っただろうか。20年以上を経て、今なお事件には多くの疑念が抱かれながらも再審の壁がその「進展」を阻んでいる。

※※2002年7月、現役警部だった稲葉圭昭氏が覚せい剤使用所持、銃刀法違反で逮捕され、その後の捜査で警察庁の掲げた「銃器摘発キャンペーン」や暴力団関係者との癒着などを背景に、実績づくりのための偽装摘発が半ば組織的に行われていたことが露見した。

※※※2003年11月、北海道新聞の調査報道により旭川中央警察署の不正経理が告発される。道警の体質改善を期して元釧路方面本部長原田宏二氏らは過去の組織的な裏金作りを暴露。処分者は3235人にも上り、道議会でも不正問題の全容解明を求める声は上がったがすべて否決された。論陣を張っていた北海道新聞では「道警の泳がせ捜査失敗疑惑」の記事で裏付け不足の不適切な内容があったとしてお詫び記事を掲載し、取材班を事実上解体する。この道新側の急ブレーキについて、上層部の不正流用が発覚するなど警察の介入が背景にあったと原田氏は示唆する。