いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

新潟少女監禁事件について

1990年に新潟県三条市で発生した未成年者略取(連れ去り)および2000年まで柏崎市で続けられた長期監禁、通称・新潟少女監禁事件について記す。

 

 略取・監禁は、言うまでもなく卑劣かつ被害者の人権を蹂躙する許すまじき蛮行であり、生還してもなお被害者やその関係者にとって大きな傷を背負わせる。本稿はその被害から、どういった背景から生じたのか、どのような被害があったのか等を改めて見直し、いつ自分や家族、隣人が巻き込まれるかも分からない悪行に対して社会はどのような対応が求められるかを考えることを目的としたものである。

 

過去エントリーでは、東京都豊島区で起きた誘拐と半年間におよぶ奇妙な同居が続けられた通称・籠の鳥事件(飼育事件)について記しているのでそちらも比較・参照されたい。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

■事件の発生 

1990年11月13日、新潟県三条市で小学4年生Fさん(9)が下校してこないため、心配した母親が19時半頃に警察へ通報した。三条署、学校関係者合わせて100人以上で通学路や周辺地域を捜索、翌14日には200人以上に増員されたが手掛かりは得られなかった。

15日には三条署内に機動隊ら100人以上からなる捜査本部を設置。上空からのヘリによる捜索や夜間検問など大規模な捜索でも成果を得られなかった。その間も近隣市町村や教育委員会を通じて情報提供を募るとともに、不審者情報の洗い出しなどが行われた。

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その後、事故の可能性は低いとして、連れ去り事案との見方が強まり、捜査一課が動員された。Fさんが通学路としていた農道は「土地勘のある人間でなければ通らない」とする見立てから、県央地域(三条市燕市など)で過去の性犯罪者ら1000人以上がリストアップされ、重点捜査が行われた。

当時は、同県での発生事案や全国的な手配にも関わらず情報が集まらないことから、北朝鮮による拉致被害の可能性なども疑われた。年明け以降からは、捜査規模も徐々に縮小を余儀なくされる。

 

(余談だが、米国では児童の失踪発生から48時間で生存率はおよそ50パーセントに低下とする試算もある。大人に比べて体力も低いことや営利目的ではない児童誘拐の場合、早期に殺害されるリスクが高まることから、より迅速な対応が不可欠とされている。そのため緊急性が高い児童の失踪事案の場合、テレビ・ラジオなどで“アンバー・アラート”という緊急警報が発令され、地域住民らに早期に周知される。また大型店舗、スタジアム、病院、遊戯施設などでは迷子・行方不明者が発生した場合、迅速な発見・通報のための“コード・アダム”というセキュリティ行動計画が敷かれている。)

 

■3364日後の発見

失踪から9年以上が経過した2000年1月28日、柏崎市四谷一丁目の民家でFさんが発見される。きっかけは前年末、犯人の母親(73)が「息子の家庭内暴力」について保健所に相談したことだった。医師は緊急の保護と治療を要すると判断し、提案により強制的な保護入院を行う手筈となった。保健所職員と医師らが玄関から中に入ると、目が痛くなるほどの強いアンモニア臭が充満していた。彼らが「息子」の部屋に立ち入ったことで前代未聞の長期監禁事件が発覚する。

 

部屋の主は無職・佐藤宣行(37)、20年近く“引きこもり”状態で過ごしていた。“二人暮らし”の母親は息子の暴力に怯え、接触を避けたいがために彼の居住スペースである二階部分にはもう何年も立ち入っていなかった。職員が二階に上ると、和室にはビニール袋に入れられた尿や大量の使用済みおむつが山積していたという。

佐藤は入院の提案に激しく抵抗したため、職員らは柏崎警察に応援を要請したが、「署員が出払っている」との理由で叶わず。医師はやむなく鎮静剤を注射して佐藤を昏倒させた。

騒ぎの後、部屋にあった毛布の塊が動いていたため確認すると、中から若い女性が発見される。名前などを確認したが応答は不明瞭で、佐藤の母親も彼女を「見たことがない」と言う。今から佐藤が入院することを説明し帰宅を促すも、女性は「ここに居てもいいですか」と答え、元々住んでいた家はどこかと尋ねると「もうないかもしれない」と話した。

その女性を家に放置する訳にも行かず、職員らは病院へと連れて行く。女性は血色が悪く、自力での歩行も困難な状態だった。彼女は「10年前に連れて来られて外に一歩も出ていない」と言い、車中で名前、住所、電話番号などを伝えた。職員は行方不明者としてFさんに心当たりがあったことから、病院から警察に通報。その後、捜査員が駆け付け、指紋の照合などにより身元が確認された。

 

その間、佐藤宅に残っていた職員のもとに警察から「人員が出せない」との連絡が改めて入る。職員は、佐藤を移送中であることと部屋で身元不明の少女が発見されたことを伝え、再度出動を依頼したが「そんなことまで押し付けないで、(少女について)そちらで確認してくれ。家出人なら保護する」と出動を拒否する態度をとる。以降、こうした警察の無責任な対応が公になると厳しい批判が集まることとなった。

同28日の夜、母娘は3364日ぶりとなる再会を果たす。

意識が回復後もショック状態にあった佐藤は入院を要し、退院後の2月11日に未成年者略取・誘拐、逮捕監禁致傷の容疑で逮捕された。

Fさんの父親はその後の会見で、一緒にドライブに出掛けたことや雪合戦をしたことなどFさんがようやく人間らしい生活を取り戻しつつあることを報告、「娘を一日も早く社会復帰させてやりたいという強い気持ちだけしかありません」と涙ながらに決意を語った。

 

■暴力支配と監禁生活

佐藤は紺色のクーペ(スポーツタイプの車型)に乗って、柏崎の自宅から1時間半ほど北上して三条市内に入ると、17時頃、下校途中のFさんを見つける。少女にナイフを見せ「おとなしくしろ」と脅してトランク内に押し込み、その後、別の場所で車載の粘着テープを使って緊縛した。尚、裁判では、過去に運転中、対人トラブルがあったことから防犯目的でナイフを載せていたと説明され、弁護側は計画性は低かったと主張している。

20時頃、自宅に到着すると、先にFさんを自室の外部に置き、佐藤自身は母親に気取られぬよう単身で玄関から入室。部屋からFさんを引きずり込んだ。

 

佐藤は「山に埋めてやる、海に沈めてやる」と殺害をほのめかしながら、「この部屋からは出られないぞ。ずっとここで暮らすんだ」「逃げたらお前の姉も同じ目に合わせる」とFさんを脅迫。階下の母親への発覚を恐れた佐藤の命令により、Fさんは声を上げることはおろか許可なくベッドから降りることすらできなかった。身体的拘束は約1年に渡って続けられ、その間も殴打やスタンガンで数百回に渡って繰り返し暴行を加えた。

大声を挙げたり暴れたりすれば佐藤の暴力がひどくなるため、Fさんは自分の体や毛布を嚙んで苦痛を耐え忍び、やがて感情を閉ざして抵抗することを辞めた。「殴られているのは自分ではない」と防衛機制を働かせるなど解離性障害の症状に陥っていたといわれる。後に発見されたランドセルの中のノートには、地獄の苦しみを紛らわせるためか、家族や自分の名前、学校の名前などがびっしりと書き込まれていた。

緊縛が解かれて以後も、Fさんは「見えない拘束」を課せられたかのような心理状態にあり、佐藤を刺激しないよう心掛けるようになった。長期間にわたって回避困難な虐待等の過度なストレス環境に置かれ、逃走や抵抗の意欲を減退させることを学習性無力感という。生き延びるために従わざるをえない状況下で、「逃げる」という選択肢は彼女に否定的な結果を想像させる。「逃げない」のではなく「逃げられない」のである。

 

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佐藤はFさんから逃走の意思を奪うと、やがてマンガや新聞、ラジオなどの情報を与え、97年頃には部屋にテレビも設置された。競馬や野球、F1や音楽といった佐藤の関心事や興味のある時事についてFさんも意見を求められ、会話を交わすこともあった。

レトルトやコンビニ弁当などの偏った「食事」は発育途上にあった彼女の肉体を蝕み、運動能力や免疫力をみるみる失わせていった。96年ごろ、Fさんの脚に痣を見つけた佐藤は、糖尿病を危惧して「運動しない以上は減らすしかない」との考えにより食事を一日一回に制限した。身長はやや伸びていたが、46キロあった体重は30キロ台にまで落ちた。体調管理のために佐藤が命じた運動は、ベッドの上での屈伸と、母親が不在のタイミングに限り許される室内での足踏みだけであった。

後の裁判で弁護側は、佐藤による監禁行為はFさんの健康を害したものの、体調への配慮も行っており、(虐待だけでなく)娯楽も与えていた、と主張して情状酌量を求めた。

 入浴は9年間で一度シャワーを浴びたきり、排泄はビニール袋に用を足した。佐藤は極度の潔癖により自宅のトイレが使えず、月に一度しか入浴しなかったため、それに倣ったものである。衣類は数年に一度、主に男性物を与えられていた。発見時には短髪で小ざっぱりした様子だったと伝えられている。

 

■不潔恐怖、家族関係、引きこもり

佐藤の父親は母親よりかなり年配で、佐藤は父親が62歳のときに生まれた子である。父親はタクシー会社の専務取締役を務めており、佐藤を「ぼくちゃん」と呼んで欲しがるものを何でも買い与えた。だが佐藤が小学生のとき、友人から父親の容姿や名前を「おじいちゃんみたいだな」とからかわれたことをきっかけに父親を毛嫌いするようになる。中学1年のときには「怖くて学校にいけない」と訴え、不潔恐怖症(極度の潔癖・妥協できないこだわりを示す強迫神経症。いわゆる“潔癖”といわれる現実的な汚れを嫌う衛生観念とは異なる)の診断を受けており、父親にもその傾向があったとされる。

高校卒業後、自動車部品の製造工員となるが遅刻を叱責され2カ月で辞めてしまい、以来、引きこもり生活を続けた。家庭内暴力エスカレートし、老齢となった父親を家から追い出した。父親は親類を頼った後、85年から老人介護施設に入居し、89年に死去している。一方で、母親が家を出て佐藤から離別しようとすると暴れて家に火を点けた。そうして母親に日用品の買い出し、競馬場への送迎、食事の世話を押し付け、佐藤の鬱憤が溜まれば家庭内暴力で発散する歪な母子関係が築かれた。

買った競馬雑誌のページが折れているから、と母親が店に交換を頼みに来るなど、周囲にもその主従関係のような母子の様子は知られていた。82年、展示場のカタログからセダンタイプの新車を購入し、すでに全額支払い済みであったにもかかわらず現物が気に入らないとして受け取りを拒否。母親は「息子が嫌だと言っているので、車を店に置かせてもらえないか」と相談に訪れ、最終的に中古車販売業者に売却した。犯行に使ったクーペもあまり乗らないまま車検切れとなり、同じく母親が売却している。

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89年6月に柏崎市内で女児(9)に強姦を企てて草むらに連れ込んだ。目撃した学校生徒が職員に知らせ、身柄を取り押さえられて現行犯逮捕。強制わいせつ未遂罪で起訴され、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受けたが、「再犯の可能性は低い」として保護観察はなく、その後の監督指導は母親に一任されていた。

母親なりの責任感もあって、佐藤を見捨てて逃げることもできず、歪な“二人暮らし”を続けざるをえなかった。このときの柏崎市での犯歴がデータベースに反映されていなかったとして、新潟県警“登録漏れ”“捜査漏れ”は大きく問題視された。Fさんに対する略取・監禁は執行猶予中の犯行だった。

88年から89年にかけては東京・埼玉幼女連続殺害事件(宮崎勤事件)が発生していたことから照らし合わせても、司法の判断・見通しはやや甘かった。県警に至っては怠慢どころか職務倫理を放棄していたとしか思えない。

 

2000年の事件発覚当初、「一緒に暮らしていて9年以上も気付かないはずがない」と佐藤の母親も世間から共犯視されたが、家宅捜索で2階に近づいた形跡がないこと等が確認され、起訴には至らなかった。

また近隣住民らは家庭内暴力の存在をすでに聞き知っており、母親がそれまでSOSを全く発してこなかったわけではなかった。96年1月19日には、佐藤の精神的混乱やエスカレートする破壊行動や暴力について柏崎保健所へ相談に訪れていた。職員は家庭訪問を打診したが、そのときは息子の反発を怖れて勧めを断っていた。その後、病院への通院が試みられたが佐藤は看護師をはね飛ばすなど激しく抵抗したため、外来診療には母親が代理で訪れ、処方を受けるようになった。

(その後、無診察投薬により担当医師らは書類送検を受けたが、結果的に母親が信頼を寄せることができたこと、投薬により佐藤の衝動行為を鎮静させ危機的状況に置かれた少女を生還させたこと等から起訴猶予処分とされた。一方で、無診察処方という「安易な対応」があったために介入が遅れたとの批判もあり、医療現場にどこまで措置・判断させるのかといった課題をもたらした。)

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尚、「引きこもり」は、アメリカ精神医学会で“症状”を示す用語として使われたsocial withdrawalが元であり、90年代後半に精神科医斎藤環氏が著書『社会的引きこもり』などで精神障害とは切り離した文脈で「社会参加できない状態にある成人」を示す概念として用いた。本件および2000年5月に起きた西鉄バスジャック事件以降、その存在は社会的に広く認知されることとなる。

また日本でDV防止法が施行されるのは2001年からであり、今日に比べ、家庭内暴力は依然として「家庭の問題」とする風潮が残っていた点にも留意が必要である。現在のように相談窓口はなく、行政機関や警察も対応しようとはしなかったため、夫を失った佐藤の母親にとってもはや精神病院だけが“蜘蛛の糸”だったのである。

 

■裁判

■異例の求刑

2000年3月、未成年者略取(連れ去り)・逮捕監禁致傷で新潟地裁へ起訴された。傷害については、心的外傷後ストレス障害PTSD)については被害者への精神的負担が大きいとして起訴事実から除かれており、両下肢筋力低下・骨粗鬆などの肉体的ダメージに限られた。

上述の通り、9年2カ月という長期監禁事件は前代未聞であった。当時の量刑基準では、未成年者略取が3年~5年以下の懲役、逮捕監禁致傷が10年以下の懲役とされており、観念的競合(ひとつの行為が複数の罪状に当てはまる場合、より重い刑が適用されること)により、最大で“懲役10年”しか課すことができなかった。

しかし被害者が受けた甚大な苦痛に対して懲役10年は不適当とした新潟地検・和久本圭介検事は、苦肉の策として佐藤が被害者の衣類としてあてがった「キャミソール3枚の窃盗(約2400円相当)」で追起訴し、併合罪として最重刑の1.5倍にあたる懲役15年を求刑。それでも尚不足として、未決拘留日数を算入しないことを訴えた。

弁護側は、略取は「時効」(5年)として免訴を求め、追起訴となる窃盗に関しては違法性は低いとして、「この窃盗を以て5年加重とすべきではない。被害者の受けた傷については認めるが、社会の処罰感情と(司法判断と)は別だ」と罪刑の均衡を求めた。

第5回公判では、被害者の両親が証人として出廷。裁判に出廷する両親に対し、Fさんは「(佐藤と)同じ場所の空気を吸ってほしくない」と佐藤に対する嫌悪感を示し、「私の前から、すべての人の前から、いなくなってほしい」という強い処罰感情を持っていることを陳述した。被害者Fさんの嫌悪・忌避感情を知った佐藤は、裁判の最後に「被害者には申し訳ないことをした」と謝罪した。

■精神鑑定

佐藤は起訴事実を認めたため、刑事責任能力の有無(刑法第39条心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減刑する)が争点となった。

佐藤は「二十歳ごろから幻覚が見え、幻聴が聞こえる」と証言しており、「暗い所で蛇がとぐろを巻いて動いているのが見えた」「他人が自分のことを『働いていない』と噂しているのが聞こえた」などの具体的な症状を述べていた。

公判前の簡易鑑定では、自己愛性障害、強迫神経症はあるが分裂症は認められなかったが、裁判を一時中断して再鑑定が実施された。

担当した犯罪心理学者・小田晋氏は、分裂病人格障害、強迫性人格障害自己愛性人格障害なども認められるが、物事の道理判断を喪失しているわけではなく、弁識に従って行動する能力に影響があるとして、刑事責任能力に問題はないことを報告した。

判決審で榊裁判長は、「事件発覚をおそれ、被害者を隠し続けた行為は合理的と言え、心神耗弱はなかった」と判定している。

■判決

新潟地裁・榊五十雄裁判長は懲役14年と裁決し、「その犯情に照らして罪刑の均衡を考慮すると,被告人に対しては,逮捕監禁致傷罪の法定刑の範囲内では到底その適正妥当な量刑を行うことができないものと思料し,同罪の刑に法定の併合罪加重をした」と説明。被告人なりに反省の態度を示していること、人格障害が行動に影響を与えていること、帰りを待つ母親がいることなどを斟酌し、未決拘留日数(350日)を算入して14年とされた。

控訴審・東京高裁(山田利夫裁判長)では、法定主義的裁量により監禁と窃盗とを個別に量定。窃盗品は返還されており実害は大きくない比較的軽微な罪との判断から、加重の程度は小さいものとされ合わせて懲役11年とされた。

上告審・最高裁深澤武久裁判長)は、併合罪について「不文の法規範として、併合罪を構成する各罪についてあらかじめ個別的に刑を量定することを前提に、その個別的な刑の量定に関して一定の制約を課していると解するのは、相当でない」との実用解釈を示し、一審判決を支持して懲役14年で結審した。

2005年の刑法改正では、こうした司法判断の経緯や人権意識の高まりなどと照らし合わせ、未成年略取・誘拐が最長で懲役7年、逮捕監禁致傷罪が最長で懲役15年とされた。

■その後

 佐藤の収監中に母親は認知症で面会ができなくなり、その後、老人介護施設で死亡。収監先の千葉刑務所で病状を悪化させた佐藤は、周囲から壮絶な苛めを受けていると外部の人間に訴えていた(確認のしようはないが幻聴などの被害妄想も大いにあったと筆者は思う)。職員の指図を受けたり、他の囚人たちと同じ刑務作業に服するといった「他者との関わり」は、佐藤にはすでに困難となっていた。八王子医療刑務所へ移管されて障害者2級手帳を受け、2015年10月に刑期満了の出所後、50歳代半ばで千葉県のアパート自室で病死した。

被害女性はPTSDの治療や歩行訓練など1年かけてリハビリに励み、その後は、農作業の手伝いやサッカー観戦をしたこと、自動車免許の取得などが伝えられた。健やかな回復と平穏な生活を祈るばかりである。

 

 ■動機・背景について

本件は冒頭に挙げた“籠の鳥事件”とは異なり、①わいせつ目的ではない、②物理的暴力が繰り返された、③生活能力のない引きこもりによる犯行、といった特徴が挙げられる。

①について、佐藤本人の性的嗜好が関わっていることからわいせつ目的である可能性も高い。当時は強姦に親告罪が適用されていたため、保護者・本人の希望や被害者保護の観点などにより起訴内容から除かれたとも考えられるが、これ以上の詮索は行わない。

(強制わいせつ、強姦罪などは親告罪に当たり、被害者は報復のおそれや衆目に晒されること、告訴・裁判への精神的負担等から「泣き寝入り」を余儀なくされるケースが多かった。2017年の刑法改正により、性犯罪の多くが非親告罪化された。)

 

佐藤は略取・監禁の動機について、「話し相手が欲しかった」「友達が欲しかったから、かわいい女の子を探していた」と供述した。上で述べたように、ラジオやテレビの内容についてFさんを話し相手にして過ごしていた。

取調べ中はFさんに対する謝罪の念は認められず、監禁時を「あのころは良かった、楽しかった」と回顧していたという(柏崎日報2000年2月15日)。引きこもりの佐藤は、外に出て交友関係を築くのではなく、子ども部屋で“思い通りのともだち”をつくろうとしたのである。

その屈曲した欲動の背景には、子どもの頃から異常なこだわりによって周囲の理解が得られず、排外的ないじめを受けてきたこと、対人関係をうまく構築できなかったことが大きく関係している。だれとも理解し合えない、その心の隙間を埋めるイマジナリー・フレンドの役割を、生身の人間、それも自らの暴力で屈服させることができる“少女”へと求めた。

佐藤にとってテレビを見ながらFさんと交わした会話は“友愛”の根拠となろうが、人形のように相手を意のままの状態に置くことは蹂躙行為に他ならない。自らの社会性や共感性の欠如に対し、佐藤は暴力という手段で「正当化」することしかできなかった。彼に必要だったのは神経症を制御する治療や心を通わせることのできる相手だったには違いない。しかし当人が治療を拒否し、家族がその状態を受け入れて「社会的引きこもり」となってしまったことで、その回復を、周囲からのアプローチをより困難なものにした。

 

■所感

仮に発見があと数年遅れて、たとえば佐藤の母親が倒れるなどしていれば経済的破綻が生じていたし、Fさんが発見時より体調を悪化させていても病院で治療を受けることはできなかったであろう。9年2か月という期間を生還したことはまさしく奇跡としか言いようがない。

昔から劣悪な環境で育った犯罪者というのは多くいたが、本件や宮崎勤、あるいは綾瀬女子高生コンクリート事件など、家族関係の希薄さを感じさせる事件がこの時期から表面化した印象を持つ(あるいはメディアの切り取り方がよりワイドショー寄りになった時期とも言えるかもしれない)。

2018年5月にも新潟市内で小学生女児を狙った殺害遺棄事件が発生し、21年4月現在も係争中である。事件発生から30年が経った今も、平日の夕方は、子どもたちにとって文字通りの“逢魔が時”となったままだ。

防犯ブザーの配布なども普及したが、その多くは電池切れとなり、犯罪に巻き込まれた子どもが実際に役立てることは難しい。見送りパトロールなど防犯活動も一部にはなされているが、スクールバス導入や地域社会の防犯啓蒙、大人たちによる目配せは、子どもを狙う卑劣な犯罪が根絶する日まで促進していかねばならない。

 

 

 

 ・参考

少女監禁事件:ノートに書き続けた家族と自分の名前(心理学総合案内こころの散歩道)