いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

今市小1女児殺害事件について

2005(平成17)年、栃木県今市市で7歳女児が学校から帰らず、翌日、茨城県の山林で遺体となって発見された。8年半後に逮捕された男は無期懲役が確定するも、逮捕の経緯などから冤罪が強く疑われている。

 

事件の発生

2005年12月1日(木)、栃木県今市市(現・日光市)に住む小学1年生・吉田有希ちゃん(7)が学校からの帰宅途中で行方が分からなくなった。

通学路はおよそ2km(1.8kmとも)の道のりで、14時50分頃に学校から約700m西に位置する土沢三叉路で同級生3人と別れて以降、消息が途絶えた。

いつもは姉ら上級生と下校していたが、木曜日は授業数の関係で1年生だけで先に下校することになっていた。そのため木曜日は祖母が途中まで出迎えに行くようにしていたが、この日は用があって行けなかったという。

帰宅しないのを心配した祖母らが近所を探したが見当たらず、仕事から帰宅した母親が学校へ連絡。教職員らと周辺を探し回ったが見つからず近くの駐在に届けた。18時半頃からは警察、消防団、近隣住民らとともに一帯を捜索したが、農村地域で街灯も少なく、手掛かり一つ見つけることはできなかった。今市市内の天候は晴れ、最高気温8度、最低気温は1度となる冬らしい寒空でその安否が危ぶまれた。

翌2日には地元紙朝刊が少女の行方不明と県警の捜索活動開始を報じ、結果的には後追いするようにして県警は公開捜査に踏み切った。しかし、その日の14時ごろ、少女の自宅から65キロ以上離れた茨城県常陸大宮市三美のヒノキ林で変わり果てた姿となって発見される。

現場周辺は山林と畑に囲まれた山間部で、茨城県道102号長沢水戸線が通っていたが、近隣の民家からは1kmほど離れた人通りのほとんどない場所である。県道には県外の車も通ることもあり、時季によって山菜採りや栗拾い、狩猟などで山に入る人もいるという。

遺体は、県道から車1台分の林道に入り200mほど上った地点で斜面の約10m下に見つかった。発見者3人は狩猟ではなく、野鳥の違法捕獲の下見のためにこの場所を訪れていたという。遺体はマネキンかと見紛うほど真っ白になっており、口元と胸の刺し傷から僅かに血が出ていた。現場に血だまりなどはなく、少女の血痕は切り傷か鼻血程度の微量しか確認されなかった。タイヤ痕やスニーカーの足跡が採取されたとの報もあったが、続報は聞かれていない。

行方不明時、有希ちゃんは金縁の眼鏡を掛け、黄色の通学用ベレー帽に赤いランドセル、白いトレーナーとグレーのパーカー、紺色のジーパン姿だったが、通学路や遺体発見現場周辺から遺留品は見つからなかった。

通学路周辺では警察犬も動員して足取りを追ったが、同級生たちと別れた三叉路を左折して120m前後の未舗装路とのT字路付近で匂いを見失ったという。

 

司法解剖では、遺体の手足、口に粘着テープを貼られて拘束された痕跡が認められた。頭には壁のような平らなものにぶつけた痕跡、顔の左目には殴打痕、胸部に10か所の刺し傷があり、中には背中に達する深い傷もあった。死因は心臓を刺されたことによる失血死でほぼ即死状態とみられ、凶器は細長い形状の刃物とされたが特定には至らなかった。およそ1.5リットル程度とみられる体内の血液はほとんど残っていない状態だった。

また遺体の胸部、腹部から被害者のものとは異なる体液が検出され、DNA型鑑定に回された。

死亡推定時刻は明確な時刻は伏せられ、行方が分からなくなった1日14時50分ごろから2日朝までの間とされる。胃から1日の学校給食以外にも未消化物が確認され、犯人が食べさせた可能性があるとして、捜査本部は現場間にあるコンビニなどから防犯ビデオ映像を提出させた。

栃木県は1979年から90年代にかけて県南部の足利市群馬県との県境で起きたいわゆる北関東連続幼女誘拐殺人事件などの影響もあり、こどもを狙った犯罪に対する住民の意識・関心は高い。また事件当時は、2004年冬の奈良小1女児事件、2005年11月の広島小1女児事件など、幼い少女を狙った「わいせつ目的」の誘拐・殺人事件が立て続けに発生しており、一連の事件と照らし合わせて報道されることで世間にはロリコン」不審者による犯行という見方が流布された。

 

栃木・茨城両県警の合同捜査本部には、事件直後から不審者や不審車両の情報が多く寄せられ、「日光宇都宮道路」大沢インターチェンジで同年代の女児を乗せた白っぽいワゴン車の通過情報が報じられるなど早期解決も期待された。しかし半年後にはプロファイリングによる犯人像が公表される展開となり、捜査は行き詰まりの様相を呈した。

翌2006年には遺族らによる任意団体が犯人逮捕に結びつく情報提供に懸賞金200万円を創設し、広く情報を求めた。

 

被害者について

有希ちゃんは6月12日生まれ血液型O型で、祖母と両親、姉と妹の6人暮らし。事件当時の体格は身長約118センチ、体重19キロほどだった。

父親は害虫駆除の会社に勤務し、事件当時は八丈島に出張中だった。母親はパート勤めのほか、深夜に清掃のアルバイトを掛け持ちするなど働きに出ており、子どもたちの面倒は主に祖母がみていた。

一家は5年前に新居を構えたが、そうした事情もあって家のことに手が回らないのか玄関のガラスは割れたまま、自宅前には破損した廃車が処理されずに置かれていた。周辺住民は1歳違いの姉と妹と3人でにぎやかに遊ぶ姿をよく見聞きしたという。ボール遊びや自転車乗りもいつも一緒だったと言い、春には有希ちゃんも自転車の補助輪が取れてうれしそうにしていたという。

前年まで通っていた保育園の卒園文集には「ゆうえんちをつくりたい」と大きな夢を掲げていた有希ちゃん。担当していた保育士は「とてもおとなしい子」で大人に対してすぐ懐くようなタイプではなかったと話した。同級生の親は、運動会でのかけっこやダンスなど何でも一生懸命にがんばる姿が印象にあると話している。

 

司法解剖を終え、12月3日夜、遺体は今市市の自宅に返された。6日告別式が営まれ、生前に好きだったという「世界に一つだけの花」の曲が流れる中、同級生、学校関係者ら200名に見送られた。同級生や近所の友達らは、有希ちゃんの好きだったうさぎのぬいぐるみやグッズを持ち寄って早すぎる別れを惜しんだ。

地域住民、学校関係者らも事件の再発防止に向けて動いた。最後の目撃場所となった三叉路付近は、事件後、見通しが利きやすいように林が拓かれ、歩行者に注意喚起を促す看板も設置された。周辺地域にも児童らの安全対策として街灯350基が設置された。

2009年3月、ご家族は転居。有希ちゃんの母親は2015年にご病気で亡くなられている。

 

不審者情報と防犯意識

住民によると、有希ちゃんの行方が分からなくなった三叉路付近は人通りがあまりなく、昔から痴漢や露出狂、こどもに飴を与えようと声を掛けてくる「飴おじさん」など、不審者の出没しやすい道だったという。かつて三叉路の先は造成地とされたが開発途中で放置されて家はまばらで、空き地には草木が伸び放題となり、三叉路は雑木林に囲まれた死角になっていた。

小学校周辺ではこの2年間で12件の不審者情報があり、近くでは女子高生が追いかけられる被害が立て続けに起きていた。2年前に一人捕まったが、その後も車での付きまとい事案等が報告されていた。また有希ちゃんの自宅から600m程離れた街道沿いでは、事件前日の11月30日15時ごろ、幼児を乗せた通園バスに向かって下半身を露出する男がいた、との通報もあった。

 

同じ事件前日の11月30日、髪がぼさぼさでひげを伸ばし眼鏡をかけ、折り畳み自転車に乗った中年男が女児に声を掛けていたのを付近の父兄が目撃し、不審に思って声を掛けると「何もしていない」と言って慌てて立ち去ったため、有希ちゃんの通う小学校へ届け出ていた。

12月初旬の新聞記事も、「子どもの話では最近、自転車に乗った中年の男に『気をつけてなー』と話し掛けられることがあったと聞いている」と有希ちゃんの同級生の母親(37)の証言を伝えている。

当初、警察は似顔絵を作成して自転車男の情報を求めた。その後、判明した人物の自宅を3度訪れて事情を聞けば、広島市の女児殺害事件(11月22日発生の木下あいりちゃん事件)を受けて、自身にも孫がいることから不安に思い、自発的にパトロールに周っていた住民だったと判明した。

 

今市市では1997年から児童の安全対策として緊急避難場所「ひなんの家」制度を始めており、該当の店や個人宅にこどもが助けを求めて駆け込むことができた。だが現場周辺は100m間隔に民家が点在する程度で、有希ちゃんの通学路方面に「ひなんの家」は2軒しかなかった。

小学校では新入生に「防犯ブザー」を携帯させていたが、そうした場所でブザーを鳴らしたとしても家の中にいる人の耳には届かなかった可能性が高い。また11月から保護者ボランティアによる学校周辺のパトロールを行う「スクールガード」制度が4校で試験導入されていたが、有希ちゃんの通う学校は対象校から外れていた。

事件後、地域では「大沢ひまわり隊」という自主防犯団体が発足し、遠隔地にはスクールバスも試験導入され、それまで教育機関や生徒保護者を対象に伝えていた不審者情報を地域ボランティアなどにもメールで知らせる仕組みを整えた。隊員たちが登校時の見守り活動を、下校時には保護者が迎えを当面続けることとなった。

今市市は2006年に日光市へ統合されることとなる。23年現在、日光市市長を務める粉川昭一氏は当時のPTA会長で「ひまわり隊」の初代隊長を務めた人物である。見守りや送迎は保護者らの負担も小さくはないが、子どもたちの命を絶対に守るという思いが親世代のみならず、祖父母世代や地域に今も根付いている。

 

きれいな目をしたお兄ちゃん

事件直後、また別の不審者情報にも注目が集まった。

事件発生の半月前、11月16日15時ごろ、有希ちゃんの自宅から南西約1.5km離れたスーパー「S」の駐車場で隣接するクリーニング店の女性が「有希ちゃんとみられる女児」を目撃していた。このスーパーは有希ちゃんの母親が過去にパート勤務していたこともある店舗だった。

目撃した女性によると、ランドセルを背負い黄色い帽子をかぶった女児2人がスーパーの駐車場にいたので「こんなところで遊んでいると危ないよ」と声を掛けると、女児は「目のきれいなお兄ちゃんと待ち合わせをしている」「前も2、3回待ち合わせしたけど、会えなかった。今日は来るかな」などと話したという。

待ち合わせ場所はスーパーの向かいにある銀行の駐車場らしく、通りを見ながら車が来るのを待っている様子だった。やがて友達が「帰る」と言い出し、女性も店に来客があったためその場を後にした。後日、報道で有希ちゃんの顔を見て驚いて通報したという。

そのとき女児は、「いつもは黒い車」「今日は黒じゃないかもしれない」と言い、女性が黒いワゴン車を指さして確認すると「もっと低くて大きい車」と答えた、とも報じられている。

 

警戒心が強かったとされる有希ちゃんだが、相手が「知らない大人」ではなく、遊んだり菓子をもらったりして以前から顔見知りだったとすれば不信感を抱かず車に乗ることも想像された。

さらに「目のきれいなお兄ちゃん」という表現も話題となり、犯人は「若い男性」との推測が立てられた。ネット上では、外国人やハーフ説、カラーコンタクトレンズなど瞳の色に特徴があるとみる意見のほか、アイメイクや長いまつ毛をしていた、薬物使用等により瞳孔が開いていたなどの声も挙がった。

 

一方で、クリーニング店の情報提供者と思しき女性に後追い取材を掛けた記者もいた。声をかけると「わっ、私の命をどうしてくれるのよ‼」と声を荒げて店内に閉じこもってしまった、と女性の挙動不審を示唆する記事を掲載している。

また有希ちゃんの弔問に訪れた近隣男性の談話として、有希ちゃんの母親が「うちの子はあんなとこには行きません」と涙ながらに報道内容を否定していたとの記事もある。気になる情報ではあるが、その信憑性はやや疑わしいと言わざるを得ない。

 

不審車両情報

12月5日読売新聞は、有料道路「日光宇都宮道路」の大沢料金所の防犯モニターに、有希ちゃんとみられる女児と男が乗った白い小型のワゴン車が映っていたことをスクープ報道した。

失踪現場と発見現場をつなぐルートとして、犯人は宇都宮市方面に向かったと考えられ、「大沢」は失踪現場から南東に約1.2kmの最寄りインターであることから有料道路を使用した可能性が指摘された。大沢料金所は無人で、通過車両と運転席を確認するモニターで管理されていた。捜査本部はさらに映像分析を進めるとともに現場付近でのワゴン車の目撃情報を求めた。

その後、有希ちゃんの両親にも確認が行われたが「似ているけどはっきりしない」とされ、「ナンバープレートも偽造の可能性もあるとみて慎重に捜査を進めている」との記事も出ており、早期の容疑者特定には結びつかなかった。肉親でも断定できないとなると、証拠になり得ないほど不鮮明な映像だったか、別人である可能性が高い。

 

有希ちゃんと三叉路まで一緒にいた同級生3人に当時の状況を確認すると、下校中に「白い車を見た」との証言が挙がった。ひとりは「泥がついて汚れている白い車」だと言い、別の子は「小さい車」と話した。

話によると、4人が学校から三叉路に向かって歩いているときに白い車が追い抜いていいった。その後、三叉路で有希ちゃんと別れた後、有希ちゃんが向かった方角からそのときの車がUターンして学校方向に引き返していったという。

タイミングからして有希ちゃんを目撃したり、すれ違ったりした可能性のある車両だが、証言をどこまで重要視するか難しいところである。ひとつは小学1年生では、自宅のものと同一車種だったり、特に車好きという訳でもなければ特徴などの説明が困難なこと。

また彼女たちが偽証しているとは思わないが、有希ちゃんと別れた後に少女たちは三叉路を背にして歩いていたはずがどうして有希ちゃんが去った後に白い車のUターンに気づけたのか、記事では目撃状況がはっきり捉えきれない。三叉路に差し掛かる前に見た車と三叉路を過ぎてから見た車がはたして同一車両と言い切れるのかなど疑問は残る。

 

失踪現場付近の住民女性(65)は、「昨年冬ごろまで、大きな白い乗用車がエンジンをかけたまま通学路に止まっているのをよく見かけた。中に男の人が乗っており、ひと気のない所に止まっていたので孫に注意するように言っていた。最近も同じような車を目撃したと話す近所の人もいる」と話している。

現場近くに仕事で通っていた男性は、事件前の11月22日から30日の期間中、汚れているのかクリーム色なのか白っぽい軽ワゴンが造成地の通路で停まっていたのを2回見たと通報した。男性が見かけたのは午前中で、事件後は見ていないという。

別の男性もほぼ同じ場所で「白か灰色っぽい軽自動車に乗った三十代の、車上生活者に見えるような男」を複数回目撃しているという。

周辺地区を担当していた郵便局員は、「若い男性が乗った白いセダン車」を見ていた。

別の記事では、「スモークフィルムでリアウィンドウを隠した黒の高級車」「同じくリアウィンドウを隠した白い大型ワンボックスカー」がマークされていると報じられ、ある記事では12月8日に警察から「グレーの軽自動車」について聞き込みを受けたとの近隣住民証言も出ている。

 

常陸大宮市の発見現場付近でも不審車両の情報提供が相次いだ。

発見と同じ12月2日の朝8時20分頃、「栃木ナンバー」の白っぽいワゴン車が異常に遅いスピードで走行していた、と通勤途中の女性が通報している。「運転していた男性はジャンパーのようなものを着ており、若くはなかった」と言い、スピードが出せる道にもかかわらず「時速40kmほどでノロノロと走っていた」としている。

10時過ぎ、現場から約500m離れた道路脇で紺色の軽乗用車が道路わきの狭いスペースにエンジンを切って駐車していたのが目撃されている。

14時前、近くの道路を埼玉ナンバーの四駆車が時速20キロほどの低速で走行していたとの目撃もあった。

 

白いワゴン車、ワンボックスカー、セダン車等の不審車両情報はその後も度々報じられるが、記者やメディアによって栃木県の自動車事情について誤報も紛れているものと疑われる。複数の記事を参照すると白いワゴン車について「栃木ナンバー」「とちぎナンバー」「宇都宮ナンバー」の表記が存在した。

事件からはやや逸れてしまうが、県内では2023年現在「那須」「宇都宮」「とちぎ」の三種の車両ナンバー区分があり、2005年当時は「宇都宮」「とちぎ」の2区分、1999年11月15日までは漢字の「栃木」ナンバーのみだった。


1999年11月15日に「栃木」ナンバーは廃止となり、県南の〔足利市栃木市佐野市小山市下都賀郡〕を管轄とする「とちぎ」ナンバーとそれ以外をを管轄する「宇都宮」ナンバーとに分かれた。たとえば古い「栃木」ナンバーであれば今市市も対象に含まれるが、新「とちぎ」ナンバーであれば今市市は含まれない。

地元メディアは当然そのことを分かった上で報じているはずだが、全国紙や雑誌、TV、ネットメディアへと情報が伝達される間に元情報が書き換わっている可能性が高い。発見現場となった茨城県常陸大宮市でも隣県の新ナンバー導入について多少は知られていたとは思うが、目撃者はナンバー区分を意識して通報したのか、警察署はどこまで意識して聴き取りを行ったのか、報道各位の間で正確に伝わったのかは分からない。

 

「犯罪者予備軍ロリコン

インターネットの掲示板では、事件直前の11月28日から30日16時55分にかけて「下校途中の女の子を一人連れ去るだけだ」「学校付近はくまなく調査済みだ」などといった女児誘拐の犯行予告が疑われるカキコミが投稿されており、関連が噂された。事件後のカキコミはなく、捜査本部もハンドルネーム「犯罪者予備軍ロリコン」のカキコミについて把握し、解析を進めた。

一部雑誌には捜査関係者談として「発信元は関西で、いたずらだったようです」と報じられたが、虚偽の犯行予告と知ってか知らずかカキコミと事件の関連を疑うような後追い記事は後を絶たなかった。情報の裏付けよりも話題性が優先されて拡散力を持つのは今日のネット記事と変わりない。

そのほか警察は「秋葉原ロリコンショップ」「県内の幼女虐待愛好家のグループ」にも聞き込みを広げたとも報じられており、それだけではないだろうがロリコン犯との見立てで捜査班が組まれていたことになる。

 

早すぎた公開捜査

12月1日14時50分に行方が分からなくなり、命にかかわる事態とはいえ、僅か一晩での公開捜査というのは日本では異例の早さともいえる。夜間の捜索は不十分で迷子や事故の可能性も残されており、営利誘拐などの事態もまだ排除しきれない段階にもかかわらず、県警は2日9時に公開捜査に踏み切った。

一部には、失踪翌日の公開捜査の前段に地元新聞の先走り報道があったと伝えられた。行方不明当初、家族の要望もあって、警察も事件内容がつかみ切れていないことから報道を差し控えるように告知し、マスコミ間でもまだ記事にしない紳士協定が内内に形成されていたという。しかし下野新聞が2日朝刊で先んじて行方不明と捜査の開始を公にしてしまったため、情報を非公開にしておく意味がなくなり、公開捜査に切り替えられたとされている。

被害者の死亡推定時刻が明らかにされないこともあり、下野新聞の記事を見て警察の動きを察知した犯人が、帰すわけにはいかなくなって凶行に及んだ可能性は捨てきれないとの非難もある。

 

長期化

事件から1か月後、今市の失踪現場周辺では、警察は20歳代らしき長髪の男性、丸顔の男性の2種類の似顔絵を持って聞き込みに回っていたとされる。

また白色のワゴン車に乗る人物に疑いの目を向けたとの報道もあった。男は引きこもりの生活を送っており、高校1年の頃、小学生の体を触るなどして二度の補導歴があった。捜査本部がいかなる情報を掴んだかは不明だが、証拠不十分だったと見られ、検挙には至らなかった。

事件から3か月後、今市市内の飲食店主、兄、甥の3人が福島県会津若松市練炭自殺したことも関連が疑われた。当時27歳の甥に小児性愛の気があるのではないかと周辺で聞き込みが行われていたためである。3月10日には死因の特定のため家宅捜索が入ったが、女児失踪の当日は3人とも店の営業でアリバイが裏付けられ、自殺の動機は借金苦からと判明した。

 

2007年7月、捜査特別報償金の指定事件とされ、有力情報に対して最大で総額500万円の支払いが発表された。栃木・茨城両県警の合同捜査本部は連携が取れておらず、凶器や防犯カメラ映像といった有力な証拠は得られないまま捜査は長期化していった。

栃木県警も成果を求められてか、それまで男手ばかりだった聞き込みに女性捜査官チームを動員しての再度の聞き取りを行うなど地道な捜査を展開したほか、一部雑誌には地元の占い師に捜査協力を仰いだとする記事もあった。

 

93事件

2007年8月19日、匿名掲示板に「茨城の未解決事件なんだが、遺体の様子が似てないか」と投稿があり、「偶然とは思えない」「似ているというより同一犯ではないか」と話題となった。

1993年1月に発生した元美容師女性の殺人事件で、投稿者が93番目のカキコミであったことからスレッドでは通称「93事件」と呼ばれた。2008年に時効を迎えることから地元紙などで取り上げられたが、事件の知名度は高くなかったこともあり、驚きをもって比較・議論がなされた。

詳しくは下の過去記事を参照いただければと思うが、ここでは遺体状況に着目して両事件を照会していく。

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今市の事件について、当初の報道では刺し傷は「10数か所」とされ(後の裁判では10か所)、凶器は幅約2センチの「細長い刃物」と見られたが依然として特定されていなかった。そもそも力の弱い7歳児を殺害する目的であれば、刃物を用意せずとも手や紐で窒息死させる方が手間はかからず、事件の不可解な点の一つでもあった。

取材を受けた地元の刃物店店主は、形状から近いものとして「繰小刀(くりこがたな)」を挙げている。大工職人や彫刻家が木の細かい曲面を抉り削りする道具である。

また成人相手であれば息を吹き返す恐れなどから繰り返し刺すことも分かるが、今市の場合、「念入りに刺した」とは別の目的が疑われた。残留血液や現場の血痕が少なく「血抜き」されたと見られる状況や、胸の刺し傷の配置がどことなく幾何学的な、規則的な印象を与えることから何らかの「儀式」のための殺人ではないかといった説も噂された。

単に「10か所もの刺し傷」と聞くと、犯人が刃物を振り回すようにして立て続けに刺したような場面が思い浮かぶ。だが今市の鑑定関係者の見解として、細長い鋭利な刃物を胸に垂直に立て、刺さっていく感触を味わうかのようにまっすぐに突き刺したものと報じられており、「創洞の長さ(刺し傷の深さ)も三か所ほど深いものがあったが、あとはほとんど同じ長さだった」、「一度刺した刃を止め、その後、さらに力を込めて深く刺しこんだと見られる傷もあった」などの記述もある。

元東京元都監察医務院長の法医学者・上野正彦氏は、やみくもにめった刺しすれば刃物の抜き差しで角度が異なるため、傷跡のずれから見分けがつくとし、「創縁がきれいということはそのずれがないということ」と見解を述べている。

つまり犯人はやみくもに連続して刺したのではなく、たとえは悪いが「黒ひげ危機一髪」のように慎重な動作を繰り返したのである。当初、着衣のまま殺害されたとの記事もあったが、傷跡には繊維痕などが残されていなかったことから、全裸姿の無抵抗状態で刺されたものと推測される。

 

元美容師女性は死亡当時22歳で、免許取得のために通っていた石下町の自動車学校を10時半頃に出たのを最後に消息を絶ち、失踪翌日の夕方に約30キロ離れた筑波山東部の山道で全裸遺体となって発見された。

投稿者「93」は、女性の遺体を鑑定した筑波大学・三澤章吾教授『法医学事件ファイル 変死体・殺人捜査』(2001、日本文芸社)を引きつつ、以下のような類似点を挙げた。

①遺体が洗ったようにきれいだったこと

②10か所以上の鋭利な刺し傷による失血死

③凶器は幅1~1.5㎝、長さ10㎝以上の鋭利なノミ、あるいはヘラのようなものが推測されたこと

④遺棄現場が峠の林道だったこと

⑤発見現場に血痕が残っていないこと

刊行は2001年のため、当然、今市事件との関連などについては記されていない。

だが掲示板へのカキコミ当時は、茨城県内で五霞町の女子高生(2003年発生。東京都足立区在住)、阿見町の茨城大生(2004年発生。2017年に至って3人の外国人が実行犯と特定された)、岩井市(現・坂東市)の女子高生(2006年発生)など若い女性を狙った殺人事件が多く未解決で連続犯行説も真実味を帯びて捉えられていた。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

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文字情報で受ける印象は、年齢こそ違えど確かに類似性を感じる部分がある。だが当時の新聞報道や現場状況を詳しくたどると細かな違いも認められる。

ひとつに三澤教授の著述では「めった刺し」という表現が使用されている点。上野先生によれば、今市の被害者はめった刺しとは異なる整った創縁だと指摘されている。胸部の傷は13か所とされ、多数の刺し傷を意味する慣用表現として「めった刺し」と記したのか、傷跡の角度や深さにばらつきがある字義通りのめった刺しと判断したのかは読者には判然としない。

また両事件とも遺体に抵抗した痕跡はなかったとされているが、93事件では、首にも刺し傷が認められ、太腿に切り傷、足裏にも上半身とは別の凶器による傷痕があったとされる。頭部2か所に皮下出血、首には細い紐のようなもので絞められた痕も確認されており、複数の凶器の存在からも周到な殺意が読み取れ、いわゆる防御創はないが、殴って、絞めて、刺してといった犯人の執拗な攻撃性が推測される。

刺した凶器についても「鋭利なノミ、あるいはヘラ」と曖昧で、大別すれば木工用の彫刻刀と大別できることから上記の「繰小刀」様のものを想像してしまうかもしれない。だが実際のノミといえば下の画像のような形状である。木材のほぞ穴、ふすまや障子などの桟(溝)の加工などに使われ、背の部分を槌で打つなどして用いられる。今市で使用の刃物は「片刃の刃物」とされており、ヘラはともかくとしてもノミとは印象が異なる。

ノミのイメージ

今市事件では、加害者像として多くのメディアは「ロリコン犯」との見方で記事を構成した。更に事件から半年後、捜査本部は「連れ去り現場から半径5キロ圏内に住む、20~30歳代の男性」というプロファイリングまで公開して情報を募っている。

93事件では当初から「顔見知りによる怨恨」の線、被害者と同年代の20歳前後の男性が捜査対象の主軸とされた。交友関係での捜査が行き詰って以降は、筑波山周辺の暴走族との見方へと広がり、犯人像が定まらなかった。被害者の実家は発見現場からそう遠くない筑波山の北面に位置する真壁郡真壁町(現在の桜川市)であり、やはり近郊に住む同年代の顔見知りとの線が踏襲されていた。

最終目撃地点について、今市では人目に付きづらい三叉路であったが、93事件の自動車学校周辺は住宅街で車通りも絶えない地域である。タクシーやバスの利用はなかったことや自宅アパートに戻った形跡がないことから、自動車学校の近辺でだれかの車に乗って移動したことが推測される。

 

発見現場について、今市事件の常陸大宮市の現場は県道からだれでも入ることはできる山道だが通り抜けは出来ず、途中から未舗装となる、一般車両の侵入は想定されていない管理者専用に近い道である(上のストリートビュー)。

かたや93事件の現場は曲がりくねった細い道ではあるが舗装された県道で、通行量は少ないものの土浦市と石岡、笠間方面をつなぐ山越えの峠道として利用される生活道路であった(現在は山を貫くトンネルが開通しており、サイクリストやハイカーの通行が多い)。事故でひしゃげたガードレールが目に付く急カーブの連続である。ともに不法投棄などが多い場所ではあるが、「山道」という字面でもその性質は大きく異なる。

遺体についても、今市では手足や頭部に粘着テープで拘束した痕があったが、93事件ではそれはなかった。一方でネックレス2本、イヤリング1つ、右手に2本のリングを装着したままであった。性的暴行について地元紙などでも明らかにされてはいないが、成人に近い年齢も考慮に入れれば入浴や性行為などのために被害者自ら衣服を脱いでいた可能性も排除できない。捜査陣も近隣のホテルなどを確認に訪れている。

 

筆者の見解としては、今市事件と93事件の犯人は全く別人と考えている。

ひとつは被害者の年代・外形的なちがいが大きいことである。成人を殺めた人物なら子どもだって殺せるだろうという見方もあるかもしれない。だが被害者に照準を絞って考えると、ランドセル姿の少女を襲うような卑劣な犯人が身長159センチの平均的な体格の成人女性を狙ったとはどうしても思えない。今市事件の犯人は故意か無意識かは別としても、明らかに自分よりも非力な相手を対象に選んだのだ。

まずこどもを歯牙にかけ、次いで中高生へと対象範囲を広げ、後年、成人をも襲撃するといった発展的な犯行ならば想像がつくが、12年前に成人を襲った人間が7歳児へと標的を広げるだろうか。

また地理的観点からも異なる印象を受ける。今市の場合、なぜ山深い日光や鬼怒川方面ではなく70キロ近く離れた里山の畑の脇にある小高い山の林道へ遺棄したのかも大きな疑問となる。茨城県であれば常陸太田よりもさらに北、福島県との県境に近い大子、北茨城方面の渓谷が思いつくが、失踪現場との距離だけで見れば日光や鬼怒川の方が近い。また合理的に考えれば、遺体を載せたままドライブすることや宇都宮という都市部を抜けて東進するのは大きなリスクを伴う。

その点で、93事件は自動車学校付近からも東に目視できる距離にある筑波山方面に遺棄する感覚は理解しやすい。よほどの異常者でなければ遺体を身近には置きたくない、自分が毎日通るような道には捨てられない、より遠ざけたいと考えるのが隠蔽の心理である。それも筑波山の東側に遺棄していることから逆算すれば、犯人は山という心理的な障壁の向こう側に遺体を追いやりたかった、筑波山よりも西側を生活圏とする人物という推測も成り立つのではないか。

 

上は今市の三叉路から発見現場までの単純な検索ルートである。殺害現場は別にあるとしても70キロ以上東進して遺棄している。栃木県内でも茂木町周辺まで来れば遺棄現場と同様かそれ以上にひと気の薄い山林はそこかしこにある。

仮に93事件で連れ去り場所から30キロ程度離れた場所に遺棄して捜査の目をはぐらかすことに「成功」した犯人であれば、2倍以上も離れた距離に遺棄しようと思うだろうか。同程度か、成功体験による気の緩みからもっと近場で済ませようとするのが自然に思われる。

地理関係に着目した場合、今市事件の犯人は「県境」という心理障壁、かつ県警の捜査の枠を越えて遺棄したかった栃木県側、更に言えば宇都宮周辺の人物ではないか、と筆者はみている。

 

足利事件とDNA型鑑定

1990年5月に栃木県足利市で当時4歳の女児が殺害された足利事件では、「独身男性で子ども好き」とのプロファイリングに基づく捜査、女児の下着に付着した精液からMCT型118法によるDNA型鑑定を有力証拠として、翌91年12月に菅谷利和さん(当時45歳)が逮捕され、犯行を自供した。

だが当時、警察庁科警研に導入されたばかりのDNA型鑑定技術は1000人に1.2人の一致を特定できる精度(単純計算すれば日本に同じ型の人間が12万人いる程度)とされ、電気泳動の条件による変動があり、目視による判定で客観性に乏しい(技官の熟度等によって異なる判定を下す可能性が大きく、再検証ができない)代物であった。

一審第6回公判から否認に転じたが、1993年7月、宇都宮地裁(久保真人裁判長)は無期懲役判決を下す。96年5月、東京高裁(高木俊夫裁判長)は控訴棄却。その後もDNA型再鑑定を求めたが認められず、2000年7月17日、最高裁(亀山継夫裁判長)は「DNA型鑑定の証拠能力を認める」判断を下し、無期懲役が確定する。

 

2008年1月、日本テレビ清水潔らは足利事件の冤罪キャンペーンの論陣を張り、自供の矛盾やDNA型再鑑定の必要性を繰り返し訴えた。宇都宮地裁(池本寿美子裁判長)は菅谷さんの再審請求を棄却。しかし即時抗告を受けた東京高裁(田中康郎裁判長)はDNA型の再鑑定を認める決定を出し、弁護側、検察側双方で鑑定人を立てた。

2009年4月、弁護側推薦の鑑定人である筑波大・本田克也教授、検察側推薦の大阪医科大・鈴木廣一教授の両人とも付着精液と菅谷さんのDNA型は一致しないものと判定。6月、刑執行の停止手続きが行われ、菅谷さん17年ぶりの釈放。10月から宇都宮地裁で再審公判が開始され、両鑑定人とも逮捕時の実験写真では「鑑定不能」と判断し、科警研の鑑定における不手際、不当な取り調べ実態などが明らかにされた。

2010年3月26日、宇都宮地裁(佐藤正信裁判長)は「当時のDNA型鑑定に証拠能力はなく、自白は虚偽であり、菅谷さんが犯人でないことはだれの目にも明らか」として無罪を言い渡す。宇都宮地方検察庁は上訴権を放棄し、無罪判決が即日確定となった。

 

今市事件でも遺留品がほとんどない中、犯人に直結する証拠と期待されていたのが「遺体に付着していた体液」であった。

2009年、足利事件のDNA型再鑑定が決定し、被害者遺留品へのコンタミネーション(試料汚染)の有無を確認するため、当時の県警捜査関係者60人のDNA型も照合に掛けられた。すると県警捜査1課幹部のDNA型が、「今市事件」の遺体付着体液と一致したことが明らかとなる。足利の再鑑定を機に、今市のコンタミが4年越しで判明したのである。

遺体から体液が検出された当初、新聞各紙では飛沫した汗や唾液のように推測されたが、後の『冤罪file』掲載の片岡健氏による記事では、捜査幹部が「遺体に素手で触った」と伝えている。

 

栃木・茨城両県警は、それまで他の事件逮捕者や任意協力を得た地域住民ら数千人の試料を採取し、照合作業を進めていた。鑑定技術の精度向上はなされたが、事件発生から3年以上もの間、捜査幹部のコンタミネーションを見抜けなかったことは、現場保存と試料採取という基礎捜査、DNA型鑑定の運用に大きな課題があることを浮き彫りにした。

法医学者である日本大学・押田茂實教授は「警察官が事件現場を汚すのはよくある話で、これまで出てこなかっただけ。どういう経緯で付着したか追及しないと、また同じことが起きる。警察も捜査員のDNAをデータベース化する必要があるだろう」と提言。

龍谷法科大学院村井敏邦教授(刑事法)は「遺留DNAは状態が良くても被疑者のものと断定するのは難しい。今回の事例はどんなに慎重に捜査しても被疑者以外のDNAが混入し、DNAに頼る捜査の危険性を示している。多方面から証拠を収集することが重要だ」と鑑定結果に頼りすぎる捜査に警鐘を促している。

足利事件では当時の鑑定精度の低さもあり証拠能力は限定的であったが、今日、何かの誤りで自分のDNAが遺体から検出されてしまった場合、その精度に対する国民の信頼から見ればもはや逃れようがないようにも思える。直接証拠がなく、早期解決の手段が限られるほど捜査機関も「DNA依存」となり、そうした危険に陥りやすいとも言えそうだ。

2008年までの捜査チラシでは件の体液を手掛かりに、犯人像として「冷酷で残忍な男ですと赤文字で強く謳っていた。DNA型頼みの捜査を徹底すれば、汚染したとされる捜査幹部が犯人として検挙されるところだが県警はそうはしなかった。コンタミ発覚後の09年夏に制作された広報物ではその赤文字が削られており、毎日新聞にその理由を問われた捜査関係者は「『冷酷で残忍な男』という表現が変なので削除しただけ」と説明した。

捜査の手づまりから犯行車両の特定も思うようにいかず、頼みの綱と思われていたDNA証拠も捜査関係者の汚染によるものと判明し、4年がかりの捜査は大きく後退したかに見えた。

 

別件逮捕

発生から8年半が経った2014年6月3日、偽ブランド品販売などの商標法違反で逮捕・起訴されていた栃木県鹿沼市西沢町に住む無職、勝又拓哉(32歳)が、今市での女児殺害を認める供述をしたとして再逮捕された。死体遺棄罪はすでに公訴時効。

記者会見に臨んだ県警の阿部暢夫刑事部長は、自供内容として「私がYちゃんを殺害したことは間違いありません。今言えることはごめんなさいということだけです」との発言を伝え、「慎重かつ粘り強い捜査を継続し、自信を持って容疑者を逮捕するに至った」と総括した。

供述内容は変遷したが、その後、「わいせつ目的」で車で拉致し、鹿沼市内の「自宅アパート」でわいせつ行為に及び、発覚を恐れて「常陸大宮市の山中で殺害・遺棄」したと自白内容が明らかにされた。6月24日、殺人罪で起訴。

 

ニュースでは地域住民の「容疑者の逮捕でほっとした」、被害者遺族の「本当に良かったです」といったコメントを並べ、待望の決着を印象付けた。更に勝又の義理の父親も取材に対して「ひきこもりだった」「いつか逮捕されると思っていた」などの非難を述べて報道を過熱させた。

事件当時の勝又は古いトヨタ・カリーナEDに乗っており、「白色ワゴン車」に比べて注目されていなかった郵便配達員の目撃した「白いセダン車」「若い男」に当てはまるとされたが、どういう経緯で無数にある白いセダン車から犯行車両が特定されたのかは明らかにされていない。事件後に該当車両は廃棄されており犯行を推認させるような証拠は見つかっていない。にも拘らず「証拠隠滅か」と逆手にとって報じられ、疑惑をエスカレートさせた。

押収された勝又のパソコンからは女児を撮影した画像が発見されたとして、人々の疑惑を確信へと導いた。たとえば6月6日の産経新聞では下のように報じている。

捜査関係者によると、勝又容疑者のパソコンには幼児性愛や猟奇的な内容の画像や動画数万点が保管されていた。インターネット上にあったとみられる有希ちゃんの画像もあった。

一部のデータが消去された痕跡があり、合同捜査本部が復元したところ、女児を撮影した不鮮明な画像を発見。この画像が事件前後に撮影された有希ちゃんとみられる。

また勝又はランドセルなどの遺留品について、ゴミに出したと供述し、近隣住民はそれを裏付けるかのように「ゴミ置き場にランドセルが捨てられていたことがあった」と語った。

一部週刊誌は、勝又がTwitter上に投稿していた「ランドセルはよ!!実装はよ!スク水+ランドセル、最強の組み合わせ!!」という文言を取り上げて、「ランドセルに強い関心があったらしい」などとロリコン趣味を印象付けたが、実際の投稿を見てみれば当時やっていた「RPGゲームのアバターに関するつぶやきキャンペーン」に対する反応であることは一目瞭然であった。

 

別件での逮捕は1月29日で販売目的の偽ブランド品所持による現行犯逮捕、商標法違反での起訴は2月18日。本来であれば5月下旬にも執行猶予付き判決が出る見通しの事案だったが、男は拘置所には送られず不当な長期勾留と殺害事件での自白強要が続けられた。

「今日は認めるまで寝かせない」「殺してごめんなさいと50回言うまで晩飯抜きだ」といった恫喝が繰り返され、勝又は恐怖心からそうした要求に逆らえなかった。左頬を平手打ちされて椅子から転げ落ち、壁に額を打って全治一週間の怪我を負ったこともあった。

後の公判で、担当していた取調官は「被告人が取り調べ中に突然自ら壁に頭を打ち付けたのです」と証言して恫喝や暴行を否認している。だが連日執拗な人格攻撃を浴び続けて堪え切れなくなり、体をパイプ椅子に結束された状態で3階取調室の窓から飛び降り自殺まで図ったと勝又本人は振り返る。

9月には情報提供者2名に対して捜査特別報償金および遺族らによる謝礼金が支払われており、提供者や証言内容は明かされていないが、別件逮捕のきっかけになったと見られている。また6月10日の朝日新聞では、警察は2006年段階で複数回の任意聴取を行っており、その際には関与を否定していたと報じている。捜査は前述の「誤ったDNA型」に基づいて、一度はシロと判断されていたが、コンタミネーションの発覚によって対象者の絞り込みが振り出しに戻ったことで、改めて追及が行われたとしている。

 

波乱万丈

台湾の出身、複雑な家庭環境で育った勝又拓哉の場合、多くの日本人にはその心的理解が難しいかもしれない。

彼は1982年に台湾人の両親との間に、チェン・ファンチェンの名で生を受けた。両親は早くに離婚。美容師をしていた母親は日本の専門学校で学ぶために単身で来日し、2歳上の姉と拓哉は台北の父親の許で育てられる。

母親は紹介で日本人男性と結婚することになるが、その際、「台湾にいる連れ子は養育しない」約束があった。しかし台湾で拓哉の実父が服役することとなり、母親はそのまま置き去りにできないとして子どもたちを今市の家に引き取った。

再婚相手にも3人の連れ子がいたが、義父は拓哉たちを快く思わなかったため、新しい家族とすぐには馴染めなかった。6年生のとき、少年は有希ちゃんと同じ大沢小学校に転入した時期があったが、日本語が話せなかったこともあって友達はできず、3か月でビザの期限が切れて台北に戻ることとなった。

警察は勝又が大沢小に通った経験があることから「土地鑑がある」と判断したが、一般的な地元の小学生たちのように毎日周辺で遊びまわっていた訳でもなく、日本語も分からず、義父から疎まれてたった3か月通っただけの場所に「土地鑑」といえるほどの記憶がはたしてあっただろうか。土地鑑にこだわるのであれば、県警は過去の卒業生数千人を遡って捜査したのだろうか。

実父は拓哉を工場働きさせてその給料を取り上げるなど養育環境が危ぶまれ、母親は再び子どもたちを日本に連れ戻した。義父家族はその後も今市の家で暮らしていたが、母親は宇都宮市に部屋を借りてそこに拓哉たちを住まわせ、市内の公立中学へ編入させ、両方の家を行き来しながら養育を続けた。

出自だけで差別感情を抱く人もいるかもしれないが、そうでなくとも大半の日本人は1980年代、90年代の台北事情や子どもたちの暮らしぶりがどんなものだったのか情報を持ち合わせていない。マスコミも生い立ちまで詳しく報じないため、彼の人格形成をなぞったり、事件に至るまでを想像で補完したりするには素材が不足している感がある。

 

中学を卒業後、勝又は日光市内のホテルに就職。コンビニバイトや派遣登録の仕事もしたが長続きはしなかった。やがて義父の商売が不調に陥り、母親は骨董品の輸入・販売で一家の生計を支えることとなった。無店舗型で関東近郊の露店市などを周り、勝又も自動車免許を取って運転や商売を手伝ったり、インターネットでの売買も行っていた。幸い母親の商売は順調で、夫の親や子どもたち、自分の子どもたちをどうにか養うことができていたという。

しかし母親に重い病気が判明し、保険適用外の治療が必要となったことから、それまで以上の稼ぎが必要となった。やむにやまれず知人の依頼をきっかけに「偽ブランド品」の売買に手を広げたが、骨董市の運営や同業者からそれを咎められた。正規に店を出せず、駐車場で密かに販売したり、地元暴力団から締め出しを食うトラブルに見舞われることもあった。

 

事件当時は鹿沼市樅(もみ)山町のアパートで姉と暮らしていた。母親が家を空けがちなため、別宅で暮らす義理のきょうだいたちが幼い頃には送り迎えや食事の世話に通って家族のつながりを深めた。弟妹らが中学・高校へ通うようになると、学校帰りなどに兄姉の暮らすアパートに立ち寄り、マンガを読んだりゲームで遊ぶ溜まり場のようになっていた。

警察の見立てでは、女児失跡の三叉路から約25キロ、車で40分ほど離れたこの部屋が殺害現場とされた。だが日頃から人の出入りが多く、2階にあった部屋へと続く階段は外から吹きさらしのため女児を部屋に連れ込むにも人目を避けられないため現実的ではない、と勝又の家族は語る。樅山町から常陸太田市の遺体発見現場まで70キロ以上、最短でも1時間半を要する。

2009年頃にアパートを出て、母親と3人の弟妹とともに一軒家で生活するようになり、日本国籍を取得した。定職には就いておらず、昼夜逆転生活を過ごしていたため、周囲からは「大人しい感じの今どきの若者」と見られており、どんな生活ぶりかは知られていなかった。

メディアはさも怪しげに「謎多きインドア生活」などと想像を搔き立てたが、現実にはパソコンを使って今で言うところの「転売ヤー」として収益を出してFXで資産運用しており、PCゲームやマンガを趣味としていたためインドア生活だったに過ぎない。

新聞や雑誌記事では押収品に複数のナイフがあった、大量のフィギュアがあったと書き立てられた。だが凶器に使用可能なサバイバルナイフの類ではなくトルコ石の装飾の付いたターコイズナイフなど鑑賞向けのもの、事件内容からして美少女ものフィギュアと誤解を招きがちだが、世界的な人気アニメのキャラクターフィギュアで、いづれも商売のために自宅で保管していたものだった。

2台のPCから被害者とみられる少女の画像、児童ポルノや猟奇画像を収集していたといった報道もあったが、家族も共用するPCだったため、見せられないようなものがあったとは考えにくいという。また同居していた姉がコンビニなどで売っているホラー漫画が好きで買い集めていたため、それが警察の目に留まってそうした誤報につながったのではないかと推測している。

そりの合わなかった義父はメディアの前で「(勝又の)ワゴン車に男児用1個、女児用3個のランドセルが積まれているのを見た」と発言し、まだ余罪があるのではないかと世間を震撼させた。いつの出来事かははっきりしないものの、現実に照らし合わせれば、弟妹やその友人たちを車で送迎していた時期か、あるいは母親がランドセル販売を試みた時期もあったというので単に積載されていた売り物を誤解したのかもしれない。

弟妹の友人たちも勝又と一緒に遊んでいたが、当時ロリコンの性癖を疑わせる様子はなかったと言い、逮捕後も「あのお兄ちゃんがそんなことするなんて思えない」と無実を信じているという。過去に同年代の女性と交際していた時期もあり、家族は彼がメディアで言われるようなロリコンだと考える理由が思い当たらなかった。

 

母親曰く、偽ブランド品に関しては逮捕も想像にはあったが、今市女児殺害に結び付けられるなんて露とも思わなかったという。

商標法違反の裁判には20人程の傍聴が集まり、留置場の母子は手紙で「なんであんなにいっぱい人が来たのだろうね」、「暇な人で偽ブランド品に興味があるような人もいると思うよ」などとやりとりしながら不思議がっていた。逮捕当初は勝又に殺人発覚を杞憂する素振りはなかった。母親も取調中の雑談で今市の事件に話が及び、世間話のように「知ってますよ」と答えていた。

母親は懲役1年6か月、執行猶予3年で仮釈放されるが、勝又は接見禁止、手紙のやりとりも禁じられてしまう。彼女は息子の無実を信じており、重い持病や彼の性格から「99%、私のために自白したんだと思う。私を早く外に出して病院に行かせようとしたのでしょう」と推測している。後に勝又本人の口から、取り調べで「家族も責任を取らされる」と脅され、母親や家族の安否を思って虚偽の自白に傾いたと告白している。

母子は茨城県那珂市の一条院で月に一度開かれる骨董市に出店していた時期があり、警察はその往復で常陸大宮市の遺棄現場にも土地鑑があったと決めてかかった。たしかに遺棄現場は宇都宮市と一条院の間に位置してはいるが、母子が現場沿いの県道を通ったことは一度もなかった。

現場近くは400メートル先に斎場がぽつんとあるだけで民家も見えない、周りには山林と田畑しかない一本道。仮によそから来た人間が県道を通ったことがあったとしても、減速することなく素通りするような地点にある車一台分の細い林道を記憶していたとは到底考えられない。

 

一審

2016年2月29日、宇都宮地裁裁判員裁判による初公判が開かれた。

被告人の犯行を裏付ける凶器やDNA型といった物的証拠はない中、検察側は自白と状況証拠の積み重ねで拉致、殺害と死体遺棄を立証。被告人は公訴事実を全面的に否認し、弁護人は無罪を主張した。

アリバイ

すでに勝又に事件当夜の記憶はなかったが、馴染みにしていた宇都宮市内のレンタルショップに彼の利用履歴が残されていた。

検察側は、それまで公判で証拠採用の前例がなかった自動車ナンバー自動読み取り装置、通称「Nシステム」の記録の一部を証拠請求し、宇都宮市内3箇所で被告人の車両の通行記録があったと明らかにした。女児の失跡から約12時間後となる2時20分に宇都宮市鐺(こて)山町の国道123号を東進し、6時12分には西に走行していた。走行が記録された地点から遺棄現場まで30キロ以上離れており、未明から早朝にかけての遠出を常陸大宮の現場に向かう犯行前後だったと想定した。

記録を照会した警察官は「2日未明と6日に現場方向に向かった記録があった」と述べ、「6日について、“犯人は現場に戻る”というが、証拠隠滅に向かったのではと思った」「ほとんどは鹿沼市内を動いているという印象を持っていた」と疑念を抱いた旨証言した。検察はそれを自宅と遺棄現場との往復したことを示す客観的事実のひとつと主張した。

事件発覚から4日後になって、「証拠隠滅に向かったのでは」と疑う警察官の想像力の欠如には呆れてしまうが、肝心の茨城県常陸大宮市の現場界隈に出没した記録はなく、そちらに想像力を使い果たしてしまったのかもしれない。どこから来てどこへ向かったのか分かるのか、と弁護側に問われると、警察官は「分かりません」と答えた。レンタルショップ以外に深夜、彼が何をしていたのかは明らかではないが、殺害前後にアリバイ工作するためレンタルショップに立ち寄ったとでも言うのか、その推認力は限定的と言わざるを得ない。なぜその晩の動線となりそうな全地点での記録を明らかにしていないのか。

ネコの毛

検察側は麻布大獣医学部の村上賢教授を証人として出廷させ、被害者の遺体に付着していた「獣毛」のミトコンドリアDNA型鑑定の結果を説明させる。

教授曰く、採取された獣毛はネコの毛であり、ネコを71グループに分類した場合、「被告の飼っていたネコと同一グループのもの」とした。更に同グループ570個体中3個体(0.53%程度)しか現出しない珍しい型だとし、「同じネコの毛と見て矛盾しない」と証言した。「矛盾しない」という表現は、鑑定技術や確率論として「同一である」とは断定できないが、同じネコの毛の蓋然性が高いとの意味である。

ミトコンドリアDNAは母性遺伝で、核DNAとは異なった遺伝様式をとるため、系統関係を明らかとする際に用いられる(近年では遺骨から母親との血縁関係が証明された山梨キャンプ場行方不明の事例が記憶に新しい)。勝又が自宅で拾いネコを飼っていたのは事実だが、野生ネコは生涯に数十匹の子を産むため、県内に同じ系統のネコが数百匹いても不思議はない。

ネコと勝又さん

そもそも人間のDNA型鑑定とは異なり、動物のDNA型鑑定技術は今日でも確立されているものではなく、個体識別はできない。それを公判に耐えうる客観的な証拠と捉えてよいものか。後の控訴審で弁護側証人に立った京都大・宮沢孝幸准教授は「被告の飼っていたネコのDNA型は国内に約2割いる種類」とし、「1本の獣毛から判断するのは不適切」と主張。獣毛のDNA型データから見れば、「被告のネコに由来しない可能性が高い」と反論を受けた。

殺害状況の食いちがい

調書に記された自白では、被害者の両手両足をガムテープで拘束した状態で山道に立たせ、左手で肩を押さえたまま、右手のナイフで10回くらい刺し、5回目くらいで被害者は膝から崩れたがそのまま刺し続けたとされている。

事実とすれば、前半に垂直方向に刺したとして後半では上から下向きに異なる角度から刺したことになるはずだ。だが強い力で肩を掴まれていたような痣はなく、前述のように刃物は胸に対してほぼ垂直方向で均一に近い力で刺されていた。心臓を突き刺していながら山中に血痕はほとんどなく、遺体から下向きに流れた跡も存在していない。

体内に残存する血量は少なく、1リットル以上の流出が推認される。また弁護側は、遺体の直腸温度や胃の内容物、死後硬直などから見て死亡時刻は起訴状に書かれた「12月2日午前4時頃」よりも早い「1日夕方から夜」と主張した。

女児の司法解剖を担当した筑波大・本田克也教授は「弁護側」証人として出廷し、死後硬直の体勢は遺棄現場の斜面に放置された状態では説明がつかず、車のシートで寝た状態で硬直したと推測できるとした。約1万体の司法解剖を手掛けたベテラン法医の経験則や4度もの現場検証の結果、「被告の供述とされるものは、解剖所見が示す事実に全く合致しない」と述べ、「被告は犯人になり得ないと、女児のご遺体が語っている」とまで断言する。

本来であれば捜査側は逮捕前にも解剖の詳細を知りたがるものだが、本田教授は6月の逮捕後まで検察の接触はなかったという。その後、検事から送られてきた質問状では「右側頸部の表皮剥奪はスタンガンによるものとして矛盾はあるか」と記されていた。教授が解剖結果を示した際には「スタンガン」についてひとことも記しておらず、凶器はスタンガンを含めて一切発見されていない。後に被告の自白調書を見ると「スタンガンで脅した」旨があり、検察側は傷痕を自白と強引にすり合わせようとしたものと推測できた。

これに対し、検察側証人となった東大大学院・岩瀬博太郎教授は周辺状況などから遺体状態は変わりうるとし、死亡推定時間は遺体のみで細かく断定できるものではないと反論した。

また検察側は、その動機として「わいせつ行為」を主張し、被告をあくまでロリコン犯に仕立てることに強いこだわりを見せた。着衣は脱がされていたが、(県警捜査幹部のコンタミネーションを除けば)精液や唾液、汗などは付着しておらず、陰部裂傷などわいせつ行為を示す客観的証拠は存在していない。「わいせつ行為」は警察と検察側の想像の産物としか言えず、犯人の動機を示す証拠は明らかではない。

自白の任意性

被告人質問では、取り調べについて「殺していないと話すと検事に怒鳴られるため、それも言えなくなった」と述べ、恫喝のショックでパニックになり、度々中断したこともあったと証言し、取調官から暴行を受けたり自殺未遂を図ったことを述べた。怖くて頭が真っ白な状態で、訳も分からず言われるがまま自白調書にサインしてしまったという。「否認すれば死刑になるかもしれない」「自白すれば刑が軽くなる」等と言われ、心が傾いたと自白までの経緯を説明した。

これに対し、担当検事も出廷し、取り調べの際に「人を殺したことあるよね」と聞くと、被告は取り乱して動揺を見せ、「もし殺していないのなら、あんな態度は取らないと思った」と述べた。威圧的態度や自白の強要はないとして、当事者の説明は大きく食い違いを見せた。また3月に額に傷を負ったことについて、被告は「刑事にびんたされて頭から壁にぶつかった」としたが、検事は「取り調べ中に自傷行為に及んだと警察から報告を受けた」と述べ、主張は対立した。

取調べの可視化

裁判員たちの心象を大きく左右したのが、被告と検察のやりとりを録音録画したテープだった。これは過去の冤罪事件でも度々問題とされてきた密室での不当な取り調べの反省を踏まえて、2016年の刑事訴訟法等の改正により、裁判員裁判対象の検察官独自捜査事件(全事件の3%未満)について被疑者取り調べの全面録画が義務付けられたことによる。

判決後の会見で、裁判員たちは「あのビデオが無ければよく分からなかった」「状況証拠のみでは判断できなかった」と振り返っており、ビデオから自白の信憑性、任意性が後押しされたことを示した。裁判員からは「最初の自白が抜けていて、やるなら録音録画は全部徹底してやるべきだ」との声もあった。

撮影された約80時間のうち公開されたのは約7時間、それと聞けば結構な量に思えるが、3人の刑事たちによる152日間もの取り調べ、暴行被害や自殺未遂まであったとされる場面や自白に至るまでの経緯は記録対象とされていない。裁判員がすべての映像記録を確認するのは不可能にせよ、本来ならば弁護側の立ち合いや全取調べの可視化が認められるべきところである。

自白の強要があったとする弁論よりも、「犯人だとしても矛盾しない」状況証拠の積み重ねよりも、都合よく切り取られた約7時間の補助証拠が強い説得力を持ち、結果的に印象操作に用いられてしまった。映画『それでもボクはやってない』で裁判の理不尽さを描き、映像の力を熟知する周防正行監督は一審を全て傍聴し、実質的に検察側の証拠とされたことに警鐘を鳴らした。

冤罪事件をよく知る方であれば、無実の人間が虚偽の自白に陥る取り調べの危険性や心理変化はご承知かと思う。それでも犯行を認める供述場面の映像を目の当たりにすれば、無実の被告が心にもない自白を述べているようには思えない。無論、被告にも嘘や演技で自白している意図はなく、それまで警察に叩き込まれてきた虚偽の自白内容をなぞる以外に為す術がなかったのである。

 

2016年4月8日、宇都宮地裁・松原里美裁判長は、求刑通り無期懲役判決を下した。

検察側が挙げた状況証拠について「被告人が犯人の蓋然性は相当高いが、犯人と直接結びつけるものではない」、つまりそれぞれの客観的事実は被告の犯人性を認めるには充分と言えないと証拠性の弱さを指摘しながら、「自白は具体的で迫真性に富み、根幹は客観的事実と矛盾せず信用できる」と判断。結果だけ見れば自白偏重の有罪判決となった。

 

控訴審

2017年10月18日、東京高裁で控訴審の初公判が開かれた。弁護側は自白の信用性と任意性をめぐって再分析を重ね、東京医科大・吉田謙一教授らに法医学鑑定を依頼して、遺体や現場状況など客観的事実と自白との間にある矛盾を明らかにし、改めて無罪を主張した。

 

弁護側は、遺体の頭部に付着していたビニール製の粘着テープについてヒトDNA型鑑定を行い、被告のDNA型が検出されなかったことを説明した。これは一審の開始間際まで弁護側に存在が明かされていなかったため追及しきれていなかった部分であった。

ビニールテープを千切ったり巻きつけたりする際には素手で行ったと推測されるため、犯人の皮膚片などの付着が想像される重要な遺留品である。だが一審で検察側は、被告とは異なるDNA型を検出したが、栃木県警の科捜研の技官によるコンタミネーションがあったと説明し、裁判所もそれ以上は犯人追及に取り上げなかった。

元朝日新聞日光支局長・梶山天氏は、捜査側の証拠隠蔽に切り込んでいる(今市事件 異常事態を物語る様々な風景 - 梶山天|論座 - 朝日新聞社の言論サイト)。勝又の再逮捕前、2014年5月に神奈川歯科大・山田良広教授は県警からミトコンドリアDNA型鑑定を嘱託された。山田鑑定では、粘着テープ以外にも遺体表面の付着物や口腔内容物など約60点が試料とされたが、そのときも勝又のDNA型は一切検出されず、コンタミネーションが疑われる技官とも異なる三者のDNAが複数検出されていたと記事では報じている。事実とすれば、勝又の犯人性が排除される証拠となるべきものを検察側は開示しないのである。

 

検察側は遺体発見現場には10箇所でルミノール反応があったと証拠写真を上げていたが、弁護側が専門家と共に現場検証を行った結果、血液ではなく落ち葉に含まれる鉄分に反応していたことが判明した。任意の落ち葉に試薬をかければ、山道に点々と血痕があったかのような写真はいくらでも捏造することが可能であり、警察が挙げる証拠の杜撰さが示される結果となる。

また前述のように、獣毛のミトコンドリアDNA型鑑定は被告の飼い猫との同一性を推認させる証明力は一審よりも減退、更に自白で示された犯行の経緯や殺害状況と遺体から推認される状況との不一致は一層浮き彫りとなった。

しかし事実調べの終盤になって、東京高裁はあろうことか自白の核心部分ともいえる「殺害日時」と「場所」について検察側に訴因の変更を促したのである。

2005年12月2日午前4時ごろ、茨城県常陸大宮市三美字泉沢2727番65所在の山林の西側林道において

との文言を、検察側は

2005年12月1日午後2時38分頃から同月2日午前4時頃までの間に、栃木県内、茨城県内またはそれらの周辺において

と大幅に拡大。更に「わいせつ行為」の発覚を恐れて…といった殺害の動機部分も訴因から削除した。

「動機は不明ながら、三叉路付近での失踪から遺体発見までの間に、栃木か茨城の周辺で殺害された」など捜査しなくても言えることであり、立証を放棄したに等しい。それでも裁判所は訴因として認定してしまうのである。なぜ裁判長は差戻し審でなく訴因変更で強引に決着させようとしたのか。一審の裁判員が関知しない段になっての訴因変更が許されてしまえば「裁判員逃れ」も罷り通ってしまう。公正な裁判とは到底みなされないだけでなく、後の公判にまで影響を及ぼす判例主義においてこのような独善的な裁判運営が許されることがあってはならない。審理中の過ちを直ちに食い止める術はないものなのか。

 

2018年8月3日、東京高裁・藤井敏明裁判長は原審判決を破棄することを冒頭で述べた。その瞬間、勝又の母は息子の「無実」が認められたと思ったが、それは訴因変更により原審判決は追認できなくなったことを意味していた。

こと藤井裁判長が重視したのは、一審では解釈が分かれるとして棚上げとされた被告が再逮捕直後に綴っていた「母への手紙」だった。

「今回、自分で引き起こした事件、お母さんや、みんなに、めいわくをかけてしまい、本当にごめんなさい」

はたして「引き起こした事件」について具体的な内容は記されてはおらず、女児殺害を示すのか、商標法違反を示すのかは客観的に読み取ることができない。勝又本人によれば、自分が定職に就かず、お金のために違法な商売をさせてしまっていたことについて謝罪する文言だったが、留置担当の警官に「事件の具体的なことを書いてはいけない」と書き直しを命じられて、指示されるまま書き改めてできた文章だという。

一審で担当者は確かに書き直しを命じ、はじめの手紙は廃棄したと証言し、当初の手紙の詳しい内容までは明らかにならなかった。おそらく担当者も後々証言台に立つようなことになるとは思わず、規律に則って具体的な事件内容を書かせなかっただけと思われる。

しかし裁判長は、殺人事件と読むのが合理的であり、他に想定できないと判断。自白よりも前の時期に自発的に作成され、独立した証拠価値があるとしている。

 

一審判決が状況証拠の積み重ねよりも自白を重視したのに対し、控訴審では自白以前に状況証拠のみでも被告が犯人でなければ合理的に説明がつかないと判断した。また控訴審判決では、一審判決への影響で議論を呼んだ録音録画記録の取り扱いについては違法だとの見方を示した。一審での運営に誤りを認めながら、なぜ差戻しという方法を避けたのか。

粘着テープに存在しなかった被告のDNAについては手袋などの使用で回避しうるという理屈で、そもそも被告はテープに触れていない(犯人ではない)という疑いを一顧だにせず。第三者のDNAについても、指紋採取手続きなどDNA型鑑定前に混入した可能性もあり、犯人由来の蓋然性が高いとまでは言えないと一蹴している。

自白の任意性について、不当な長期勾留が認められるが自白の証拠能力を減じるものではないとし、怪我を負った直後の警察による取調段階では影響はあったかもしれないが、時間が経ってから行われた検察官の取調への影響はないと判断した。

44日間も立て続けに取り調べが繰り返されるなか、日々鍛錬に勤しむ警官に暴行を振るわれ恫喝を浴びせられ続けても、額の怪我のようにほどなく回復されると裁判官は考えているのか、よほどのタフガイに違いない。

自白内容と法医学鑑定には矛盾があり、自白による経過や犯行状況には信用性がないとしながらも、それ以外の状況証拠から見て被告が犯人であることは明らかであり、被害者を拉致し、殺害の上、遺棄したことについては信用性があるとした。つまり犯行の自白は信用できないが、犯意の自認については信用に足るというエキセントリックな解釈が行われたのである。

東京高裁が原審を破棄し、改めて導いた判決は、同じく無期懲役であった。

 

2020年3月4日、最高裁第2小法廷(三浦守裁判長)は上告棄却を決定。異議申し立ては棄却され、16日、勝又被告の無期懲役が確定した。

 

勝又の母親は病気を抱えながら月に数回、栃木から片道3時間かけて千葉刑務所に収監中の息子に会うために足を運ぶ。

2022年8月、控訴審で弁護を務めた「冤罪弁護士」として知られる今村核氏が逝去。

一念発起した勝又は高校卒業認定資格の勉強を続けており、弁護士やきょうだいらと共に再審に向けた準備を始め、獄中で筋肉トレーニングをして長期戦に臨む構えを見せているという。

 

 

所感

自白(ビデオ記録)で押し切った一審、その一審運営や判決を批判しながらも同じ罪刑に帰結した控訴審法曹界からも疑問の声が噴出するなか審理を避けたかのような最高裁。一審、二審が丸きり別の脈略から同じ判決に至っているだけに、再審請求ではどこを対決軸とし、いかなる新証拠を準備するかの判断は極めて難しい。暖簾に腕押しのような具合に、請求棄却が繰り返されることも予想される。

なぜ一審と二審に連続性がなく見えるのか。傍聴を続けた周防監督は2020年に行われたシンポジウムで次のように振り返っている。驚かされたのは、控訴審の裁判長の「俺が正しい判断をしてやる」と言わんばかりの「謙虚さが微塵もない」尊大な訴訟指揮の態度だったという。周防氏が今村弁護士に「(控訴審の藤井裁判長は)どうしてこんなに自信があるんだろうか」と話したら、「いや、自信がないんじゃないか」と答えたという。

確かに強権的な審理の背後には、遵法的な論理では望ましい結審に至れないという直感や焦りからそうした態度に出たようにも思える。それとも裁判報道や判決文では我々には伝わらない、裁判官ならではの嗅覚で被告に犯人性を察知したのであろうか。

勝又氏の名誉回復はもとより、被害者や被害者遺族にとってもこのような宙ぶらりんな結末は居心地が悪いのではないかと思う。充分な捜査、公正な審理が尽くされた上での決着でなければ意味がない。捜査機関も裁判所も未解決事件に生贄を供えるのが本来の仕事ではないはずだ。

そして法の下に生きる我々国民にとっても、こうした横暴な判例を生かしておいてはならない。一日でも早く再審の道が拓かれることを願っている。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。