いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

Highway of Tears 涙のハイウェイ

カナダ・ブリティッシュコロンビア州内陸部のプリンス・ジョージは人口7万人を抱えるある州内最大の都市だ。そこから太平洋を臨む西部の都市プリンス・ルパードへとつながるおよそ724kmのハイウェイ16号は、1960年代末から今日に至るまで多くの悲劇を生み、“Highway of Tears (涙のハイウェイ)”と呼ばれるようになった。

ハイウェイ16号沿いにはヒッチハイク禁止を呼び掛ける看板が

カナダ国家警察(王立カナダ騎馬警察;RCMP)によればこのハイウェイ近郊では、女性13人が殺害され、5件の失踪事件が起きたと報告されている。だが地域住民らの訴えによれば不自然な失踪や犠牲者の数は40人以上ではないかとも推定されている。

2005年、ブリティッシュコロンビア州を管轄とするRCMPのE部門では、ハイウェイ16号及び沿線で発生した多くの女性失踪または殺害事件の連続性・関連性を調査する指令が下される。そのプロジェクトは、天に向かう魂を迎え入れるイヌイットの女神Panaと連結され、E-Pana計画と呼ばれる。

E-Panaは、①被害者が女性であること②失踪時に目撃者のない孤立環境に置かれていた等のハイリスク行動があったこと③ハイウェイ16号、97号、5号、24号の近くが失踪現場あるいは遺体発見現場であること④事故・自殺・DVによる死亡根拠がなく、容疑者が特定できないことを基準として被害者リストを作成。報告された18人のうち、13人はティーネイジャーの少女で、10人がカナダ先住民の子孫であった。

 

2016年の国勢調査によればカナダの総人口は3520万人で、バンクーバートロントモントリオール三大都市に1250万人が生活する。21.9%が国外出身者(過半数が中華系)で占められる移民国家で、大都市圏ではその割合がより大きくなり、国の人口増を牽引している。先住民族は約170万人、人口のおよそ5%を占め、50以上の民族が全国に630以上のコミュニティに分かれて暮らすが、その大半が内陸部の遠隔地にあり、涙のハイウェイを生み出した文化的背景として語られる。

以下、個別事件の概略を見たのち、カナダの歴史と先住民(ファースト・ネイションズ)の迫害に注目してみたい。

 

乾かぬ涙

〔1〕グロリア・ムーディ(26歳・先住民族)…1969年10月25日、ウィリアムズ湖のバーを出て以来、目撃者がなく、その後、10キロ離れた牧場の森の中で遺体となって発見された。

〔2〕ミシュリーヌ・パレ(18歳・白人)…1970年7月にハイウェイ29号のフォート・セントジョン近郊で目撃されていたが、8月8日、ハドソンズ・ホープ近くで遺体となって発見された。

〔3〕ゲイル・ウェイズ(19歳・白人)…クリアウォーター出身の彼女は1973年10月にカムループス方面までヒッチハイクする姿が最終目撃となり、翌74年4月にハイウェイ5号沿いの溝で遺体となって発見された。RCMPはボビー・ジャック・ファウラーに嫌疑をかけたが、彼を有罪とする決定的な証拠は存在しなかった。

〔4〕パメラ・ダーリントン(19歳・白人)…73年11月、カムループス在住の彼女は地元のバーへ行くためヒッチハイクしていたが、翌日公園で殺害されているのが見つかった。同じくボビー・ジャック・ファウラーに嫌疑が向けられた。

〔5〕モニカ・イグナス(15歳・白人)…1974年12月13日、学校から帰宅途中、ハイウェイ16号沿いのソーンヒルを一人で歩いているところを目撃されたが、4か月後に目撃地点から数キロ東の砂利場で絞殺遺体となって発見された。失踪当夜、現場付近では男女が乗った車が停車されていたのが目撃されていた。

〔6〕コリーン・マクミレン(16歳・白人)…1974年8月、ラックアッシュの自宅を出てヒッチハイクで友人宅へ向かったものと見られたが、1か月後に遺体となって発見された。2012年、DNA型鑑定によりアメリカ人ボビー・ジャック・ファウラーが強姦殺人犯と特定されたが、当人は06年にオレゴン州の刑務所で死亡していた。男は事件当時ブリティッシュコロンビア州で働いていた。

ボビー・ジャック・ファウラーのマグショット

〔7〕モニカ・ジャック(12歳・先住民族)…1978年5月6日、メリットの二コラ湖近くで自転車に乗っていたところ行方不明に。遺体発見は1996年6月のことで、林業従事者が20キロ離れた山の伐採道路で作業中に白骨遺体を発見する。

その後、11歳少女キャスリン・メアリー・ハーバート殺害の潜入捜査の過程で、被疑者ギャリー・テイラー・ハンドレンがジャック殺害について犯行を自白する。2019年、第一級殺人で有罪判決が下された。

〔8〕モーリーン・モ―シー(33歳・白人)…1981年5月8日、サーモン・アーム付近でヒッチハイクしていたのが最終目撃。翌日、16キロ離れたハイウェイ97号の出口で遺体となって発見され、ひどい殴打痕が確認された

〔9〕シェリーアン・バスク(16歳・白人)…1983年5月3日、アルバータ州ヒントンから失踪。最終目撃地点はハイウェイ16号近くで、数日後、アサバスカ川付近で彼女の遺留品とみられる衣類、血痕が見つかる。

〔10〕アルバータ・ウィリアムズ(24歳・先住民族)…1989年8月25日に失踪し、1か月後、プリンス・ルパード近郊のタイイー陸橋近くで絞殺遺体となって発見された。遺体には性的暴行の痕跡が確認されている。

〔11〕デルフィン・ニカル(16歳・先住民族)…1990年6月14日、ハイウェイ16号でブリティッシュコロンビア州スミザーズとテルクワの自宅間をヒッチハイク移動しようとしていたがそのまま行方不明に。

〔12〕ラモーナ・ウィルソン(16歳・先住民族)…1994年6月11日、スミザーズの友人宅に向かうためヒッチハイクしていた。10か月後、ハイウェイ16号の空港近くで遺体となって発見される。近くに彼女の遺留品が整理しておかれており、他にもロープ、ネクタイ、ピンク色の水鉄砲などが付近で見つかった。

初期入植者と先住民族をルーツとするエスニシティである「メティ」の映画監督クリスティン・ウェルシュは、この少女の死をメインテーマとしてドキュメンタリーフィルム『Finding Dawn』(2006)を制作した。

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〔13〕ロクサーヌ・ティアラ(15歳・先住民族)…1994年11月、プリンス・ジョージから失踪。バーンズ湖近くのハイウェイ16号の外れで遺体となって発見された。

〔14〕アリーシャ・ジャーメイン(15歳・先住民族)…プリンス・ジョージ在住だった彼女は、1994年12月9日にハイウェイ16号に近い小学校の傍で遺体となって発見された。

〔15〕ラナ・デリック(19歳・先住民族)…1995年10月7日、ヒューストンのノースウェスト・コミュニティカレッジの学生だった彼女は、テラス近くのガソリンスタンドでヘーゼルトンの自宅方向に歩いているのが目撃されていたが、以後、消息を絶った。

〔16〕ニコール・ホア(25歳・白人)…アルバータ州出身の彼女はプリンス・ジョージ近郊で植樹の仕事に就いていた。2002年6月21日にハイウェイ16号でプリンス・ジョージからスミザーズ間でヒッチハイクしている姿が見られていたが、以後、消息を絶った。2009年8月、殺人により終身刑となっていたリーランド・スイスを重要参考人として、当時彼が所有していた近郊の山林や付近のゴミ捨て場などの捜索が行われたが手掛かりは得られなかった。

〔17〕タマラ・チップマン(22歳・先住民族)…2005年9月21日失踪。ハイウェイ16号、プリンス・ルパードの工業団地近くでヒッチハイク中に消息を絶った。モリスタウン・ファースト・ネーションの出身。

〔18〕アイエラ・サリッチ・オージェ(14歳・先住民族)…プリンス・ジョージの中学に通っていた彼女は、2006年2月2日から行方が分からなくなり、2月10日、東へ15キロ離れたテイバー山近郊のハイウェイ16号沿いの溝で遺体となって発見された。

上記以外でも少女や女性の行方不明者は各地に点在し、時期や地理的に近接するケースも多い。しかし通報・捜査の遅れや目撃情報の不足、そして犯罪性が確認できない自発的失踪の可能性等によりリストから外れているものもある。E-Panaでは少女や若い女性に限ってリストアップしたが、少年や中高年女性、LGBTQの失踪者・犠牲者も当然存在したと見るべきだ。全てが連続犯によるものとは考えにくく、ボビー・ジャック・ファウラーのように重犯罪者が関与したケースもあれば、単発的な犯行やグループ犯罪の場合もあるだろう。

事件当初から注目されたのは非先住民のホアさんのケースであった。アルバータ州では捜査のための手厚いチャリティ支援活動が行われた。またリスト外の失踪者マディソン・スコット(20歳)の場合も家族に豊富な資金やネットワークがあったことから、看板やポスターの設置、専用ウェブサイト等に資金を割くことができた。対照的に、大半の先住民の家族は貧困と阻害、社会的リソースの不足から効果的な事件啓発や捜索活動はままならず、被害者遺族らの連携や啓発運動も長らく進んでこなかった。

1990年、モヒカン族がゴルフ場開発に反発して固有領土を訴えたことをきっかけに、先住民たちによる様々な抗議行動がカナダ全土に拡大した。橋や鉄道、主要道路の封鎖や送電塔の破壊行為などが繰り返され、警察や軍との武力衝突も頻発した。92年5月、ノースウェスト準州の領土を分割し、後に約17500人のイヌイットによる自治区ヌナブト準州として認められることとなる。

ハイウェイ16号周辺での失踪や殺人事件の頻発、とりわけ先住民女性の被害が多いことは90年代から指摘が挙がっていた。だが議会や行政は採算が取れないとして先住民居留地と都市部をつなぐ路線バスの導入をずっと先送りにしてきた。自前の産業もなく、多くの者が働き口に事欠きながらも暮らしてきた先住民たちが自前で共同バスを維持することなど夢物語だ。人々はハイウェイを横断する車に、見知らぬ人々の善意に頼って生活することを強いられてきた。

ようやく2000年代になって涙のハイウェイが国民的議論となり、改めて先住民政策の弊害や地理的な生活の不便さ、長年維持され続けてきた経済格差、都市部とは異なる危険と隣り合わせの日常が浮き彫りとなったのである。隔離と自治だけでは解消されない、守るべき尊い命の問題が突き付けられた。

2007年以降、RCMPは750件のDNAサンプルを収集、2500件の再聴取、1413人の関係者を調査し、100件のポリグラフ検査を実施したと報告している。しかし人権団体の調査によれば、先住民に対する偏見や差別から捜査はないがしろにされ、むしろ女性たちの飲酒や路上売春などを疑って、その被害の深刻さが過小評価され、被害者に落ち度があったとして責任転嫁されていたとの報告もある。

The Country Boy Killer: The True Story of Cody Legebokoff, Canada's Teenage Serial Killer

2010年に逮捕されたコディ・アラン・レゲボコフは、2年間で4件の殺人を犯し、涙のハイウェイに新たな悲劇を積み重ねた。1990年生まれのカナダ最年少のシリアルキラーのひとりとしても知られる。

11月27日21時45分頃、車で走行中の新人警官が、山の伐採道からハイウェイ27号に進入してくるレゲボコフのピックアップトラックを見とがめる。極寒の真夜中、人里離れた山道をうろついているのは不審に思え、当初、森の奥地で密猟でもしていたのではないかと疑い、検問停車を求めた。車内には血まみれのマルチツールやレンチ、似つかわしくないバックパックが置かれ、中にあった財布には「ローレン・レスリー」名義の小児病院カードが見つかった。

血痕について質問されたレゲボコフは「シカを棍棒で打ち殺した」と答えたが、荷台に獲物を載せてはおらず、「田舎者なので、遊び半分でやったことだ」と言い逃れをした。警官は野生生物保護違反で男を逮捕し、トラックのタイヤ痕と山中の足跡をたどっていくと、雪の中に埋もれて発見されたのは殴り殺されたシカではなくローレン・レスリー(15歳)の遺体だった。

その後の取り調べと家宅捜索、DNA型鑑定などにより、ジル・ストチェンコ(35歳) 、ナターシャ・モンゴメリー(23歳)、シンシア・マース(35歳)の3人の死との関連が新たに判明した。レゲボコフはコカイン中毒者でしばしばセックスワーカーを利用して、異常性欲の捌け口とした。若年のローレン・レスリーは片眼の視力が50%、もう片方が全盲の少女で国内SNSネクスピア」を通じて知り合ったという。半世紀近くに渡るハイウェイの悲劇は新たな手口を組み入れながら、また次の世代へと継承されていたのである。

 

カナダの成り立ちと先住民政策

日本人にはややなじみの薄い植民地主義とその後の多文化主義となったカナダの歴史を簡単に見ておこう。

15世紀末、イングランド王ヘンリー7世治世下で派遣されたジョン・カボットがカナダ東端のニューファンドランドを発見し、以降は西欧諸国に豊かな漁場として認知されることとなるが、英国による植民地化は主に五大湖以南の大西洋沿岸部で展開されていく。16世紀になるとフランスがセントローレンス川下流域の探検を進め、インディアンたちとの毛皮貿易の拠点として、17世紀初頭、ケベック州にヌーベルフランスと呼ばれる居留地を興して統治を開始した。

植民開始当初、北米全土のインディアンが115万人、うちカナダには22万人程度が存在したと推測されている。フランス人植民者たちは多くの部族と同盟関係を結び、当初の交易は両者にとって有益であったとみられ、入植した白人男性と原住民女性との結婚も行われていた。部族とヨーロッパ人との橋渡し役として、毛皮貿易が衰退する19世紀初頭まで数世代にわたって文化的・生物的混交は続き、双方をルーツとし独自の文化や言語をもつ混血先住民「メティ」が成立する。

フランス人が持ち込んだブランデーは先住民の社会秩序に深刻な悪影響を及ぼしていたが、見てみぬふりで取引は拡大を続けた。植民者はインディアン居留地を設けて改宗や教育による「文明化」を試みたがうまくいかず、ヨーロッパからもたらされた天然痘やはしか、インフルエンザや赤痢といった疫病が先住民族をさらに苦しめる脅威となった。

18世紀、英仏間の対立が北アメリカ植民地にも飛び火し、それぞれの植民地と同盟を結んだ先住民族を巻き込み、各地で抗争や代理戦争が繰り広げられた。1763年のパリ条約でフランス側はケベック州植民地を放棄し、以後はイギリスの支配下となった。フランス系植民者は約65000人おり、すべてカトリック信徒であった。英国議会はイングランド国教会への強制改宗ではなく融和策を選択し、フランス民法典とカトリックが容認された(1774年ケベック法)。戦争とイギリス統治への転換は、それまでフランス人植民者との友好関係を築いてきたインディアンやメティに敵対感情を植え付けた。

1763年、英国議会はインディアンとの衝突状態を避けるため、それまでの主従隷属を強制する方針から、交易相手として一定の土地と独立性を認める共存統治に政策転換。オタワ川より西岸の五大湖北部(現在のオンタリオ州)をアッパー・カナダ、東岸のケベックと大西洋沿岸地域をロウア―・カナダに区分して統治した。またアレクサンダー・マッケンジーら商人たちはアッパー・カナダ、ロッキー山脈を越えての更なる西部探検を推し進めた。

1783年、東部植民地13州に端を発するアメリカ独立戦争終結し、グレートブリテン王国アメリカの独立を承認する。敗れた王党派(ロイヤリスト)ら35000人は北進してケベック州東部やセントローレンス川の南に位置するニューブランズウィック、さらに東のノバスコシアへと流入した。

1812年に第二次独立戦争ともいわれる米英戦争が勃発すると、アメリカはロイヤリストの駆逐とカナダの占領を目指したが、ケベックへの侵攻は半ばで撃退された。防衛戦での勝利は英/仏の垣根を越えたカナダ人としての国威につながり、政府樹立を求める機運にもつながっていく。

戦後は開拓と企業誘致が加速し、本国での穀物法(安価な外国産小麦輸入を禁じ、穀物価格の高値維持を目的とした地主向けの保護政策)と人身保護法の廃止の影響もあり、移民が激増する。アッパー・カナダを中心に多くのコロニーが設けられ、8万人程度だった非インディアン人口は1830年までに22万人、1850年までに80万人にも膨れ上がった。だが一方では入植推進のためにもたらされた多額の補助金を握る統治階級の腐敗が表面化し、暴動や反乱が両州で頻発する事態となった。

新規入植者たちによってもたらされた改革の機運は、英国議会にアメリカ独立戦争の記憶を思い起こさせた。ヴィクトリア女王はカナダ総督ダラム伯爵ジョージ・ラムトンから、植民地に自治を認めれば忠実に従うであろうとの報告を受け、1840年、連邦制の導入を決める。植民地に立法府が認められ、カナダ東・西へと地域区分は改められ、両州から議員が選出されることとなる。暴動による国会議事堂消失などに遭いながら移転を繰り返し、連邦政府は65年にオタワを首都とすることで落ち着いた。

旧来の連邦法は東部に住むフランス語話者とそれ以外の人々との平等化を目指して策定されていた。そのため西部でのイギリス系入植者の急増に伴って、法解釈の齟齬や行政面での支障が生じるようになり、議会はねじれ現象による機能不全を起こした。英国議会はカナダ統一のため、1867年英領北アメリカ法を制定し、英連邦下に自治領カナダ政府を認める。

1871年国勢調査では総人口3689257人。初代首相となった保守党ジョン・マクドナルドは改革党(自由党の起源)に政局安定のための大連合を求め、国家基盤の整備に奔走した。国境区分が不明瞭だった西海岸ブリティッシュコロンビアも領地に加え、五大湖や河川の利用、漁業権についてもアメリカ政府との間で条約を制定。1885年には大西洋岸から太平洋岸までを東西を横断するカナダ太平洋鉄道が完成した。

カナダの先住民居留地分布

連邦カナダでは、フランス系、イギリス系植民者の双方に配慮がなされ、多文化国家としての道を歩むこととなる。その一方で、1876年にはインディアン法を定め、先住民族を「保護区」に定住させて管理しようとした。当初は「同化」政策として、伝統的衣装を奪い、宗教行事や酩酊物の使用を禁止し、キリスト教への改宗を推し進め、農業を奨励し、「文明化された」と認められた暁には参政権を認めることとした。だが先住民たちは民族的アイデンティティや伝統的な慣習を完全に放棄することはなかった。

1883年には寄宿学校制度が導入され、先住民族の子弟らを親元から引き離し、130ある寄宿学校や工業学校で教育を受けることを強制する。制度は1996年まで存続したが、先住民族を「野蛮人」「未開人」とみなす植民地主義が色濃く、こどもたちへの精神的・肉体的虐待の実態が明るみとなり今日では大きな批判を受けている。寄宿学校や教会の運営を任された聖職者たちは、こどもたちに強制労働を課し、性暴力の餌食にもしており、寄宿生の失踪・不審死が異常に多いばかりか、妊娠した女生徒は暗黙の裡に堕胎させられてきた。寄宿学校跡地にはそうした「墓標なき墓」が数百単位で見つかっている。

先住民への迫害はカナダ建国に伴う歴史的事実として捉えられ、2006年にはインディアン・レジデンシャル・スクール和解協定が成立。歴史的事実として継承されること、新たなパートナーシップの構築、和解とその癒しが約束された。2008年には政府と国民を代表してスティーブン・ハーパー首相が寄宿学校制度の過ちを謝罪した。

 

現在地

RCMPの2014年報告によれば、1980年以降の過去30年間で殺害された先住民女性の数は1049人、行方不明者は172人とされていた。

しかし2016年、連邦政府は、改めて行方不明および殺害された先住民女性・少女に関する全国調査を開始し、不釣り合いな非暴力率に対処する具体的な行動計画や予防策につなげると明言した。カナダ先住民相キャロリン・ベネットは、他殺が疑われるにもかかわらず自殺・事故死・過失死・自然死として処理された先住民女性は数千人にも及ぶと試算し、これまでの捜査当局の怠慢を非難した。

2019年の最終報告書では、先住民女性は他の女性より暴力を受ける可能性が12倍高く、殺害される可能性は7倍近いと結論付けた。これまでの法制度が先住民、とりわけ女性、少女、2SLGBTQQIA(いわゆるLGBTQに「2スピリット」「クエスチョニング」「インターセックス」「アセクシュアル」を加えた性的マイノリティ)の基本的人権を永続的に侵害してきた事実上の「ジェノサイド(大量虐殺)」に相当するとし、カナダ先住民の安全・正義・健康・文化の向上に向けた231の対策を提案し、包括的な改革を求めた。

先住民女性の生存権を訴える市民運動

世論の圧力を受けて、ブリティッシュコロンビア・トランジット協会はハイウェイ16号に3つの新規バス路線を提供することを約束し、2018年の州運輸省の報告では年間5000人近い利用者があったという。しかし請け負っていた民間バス会社の事業撤退によりサービス提供はコロナ禍前から中断され、即効的な対処さえも思うようにはならない現実を突きつけた。

建国以前から存する民族問題、広大な国土で孤立するコミュニティと都市の問題、先住民に対する差別・搾取・迫害の歴史など、涙のハイウェイは一朝一夕に解決できない多くの課題を孕んでいる。涙をぬぐい、もう二度と同じような悲劇で頬を濡らさないためには何が必要なのか、国民的議論は現在も続いている。

 

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