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気になる事件と考えごと

【みどり荘事件】大分女子短大生殺人事件

「気付いたら被害者の横にいたが、侵入した記憶も殺した記憶もない」アパート隣室に住んでいた男の供述は、自白というにはあまりに異様だった。13年余に及ぶ裁判の末、男は一審・無期懲役からの逆転無罪となるも、真犯人は捕まらないまま控訴時効を迎え、事件自体はコールドケースとなっている。

事件の発生

1981年(昭和56年)6月28日0時40分過ぎ、大分県大分市六坊町(現・六坊南町)にあるアパート「みどり荘」で、近くの芸術短期大学に通う1年生・Hさん(18歳)が死亡しているのが発見された。第一発見者は203号室でHさんと二人暮らしをする同じ短大に通う2年生の姉だった。

27日、姉妹はフォーク音楽サークルの仲間たちと、他大学と共催のジョイント・コンサートに参加していた。公演後、会場となった喫茶店で22時半ごろまで「打ち上げ」が催され、2人もそのまま出席した。姉は会計係を担当しており、別の店で行われることになった二次会にも同行したが、Hさんは「お風呂に入りたい」と言って先に帰宅することとなった。

Hさんを含め帰宅する女子学生3人を、男子学生Aさんが送り届けることとなり、Hさんとは23時15分頃、みどり荘近くの交差点で別れた。Aさんは女子学生たちをそれぞれの自宅近くまで送り届け、23時半頃に二次会へと合流したが、ほどなくして会はお開きとなった。

日付変わって28日0時半頃、サークル仲間に送られて姉がみどり荘に帰宅。部屋に泊めるつもりで友人女性Yさんも一緒だった。

鍵を回すも玄関ドアは開かず、元々「無施錠」だったことに気が付いた。玄関を開けると、目の前の台所でHさんが仰向けの状態で倒れていた。上半身は白い半袖Tシャツ、下半身は裸で、当初、姉は風呂場で体調不良になって倒れているのかと思ったという。だが首には当日履いていたオーバーオールが巻き付いており、すぐに事件性を察知した。

姉は半裸の妹を灯りの下にそのまま晒してはおけないと思い、咄嗟に部屋の灯りを消した。Yさんと共に先ほど送り届けてくれたサークル仲間らを探したが、彼らの姿は見えなくなっていたため、近くに住む短大の男子学生宅へと駆け込んだ。取り乱す2人から事情を聞いた男子学生は、0時51分に公衆電話から110番通報した。

 

現場の状況

みどり荘は木造モルタル2階建てのアパートで、すぐ北側が姉妹の通っていた芸術短期大学の敷地となる。建物の南側面に外階段があり、上下階とも4室ずつが横並びとなるかたちの計8室。住人は姉妹と同じような若い女性がほとんどで、玄関には来客の際に覗き見ることができるドアスコープが付いていた。「4」の数字を嫌って、部屋番号は103号室の隣が「105号室」、203号室の隣が「205号室」と割り振られていた。

浴槽には湯が張られ、玄関外にある風呂の焚口は点火されていた。帰宅したHさんが湯が沸くのを待っている間に事件が起きたと考えられた。周辺では物音や女性の声も聞かれており、総合すると27日23時半頃から発見された28日0時45分の間の犯行と推定された。

 

アパートの東隣の敷地に住む主婦は23時頃に床についたが、しばらくしてアパートの方から女の啜り泣くような、哀願するような声を聞いたという。はじめはケンカかと思ったが、やさしい声だったので(何かちがうな)と感じた。まもなくドタンバタンと物が倒れるような音が何度か聞こえ、みどり荘の方を見ると203号室はぼんやり明るく、202号室ははっきり灯りが付いており、205号室は豆電球のような薄暗い明かりで窓に女性の影が見えたという。

 

みどり荘の外階段を上がってすぐの201号室に住む女性Tさんは22時頃にベッドに入った。寝る前、隣の202号室のステレオの音が騒がしくなかなか寝付けなかったことを記憶していた。ようやく寝付けるかというところで、ドタンバタンと暴れるような大きな物音がして目を覚まし、はっきりとは聞き取れなかったが、合間に女性が「どうして、どうして」というような声がしていたと話した。

 

現場隣の205号室の住人女性Sさんは、時間を確認していた訳ではないが、犯行の一部始終と思われる状況を耳にしていた。23時40分頃に床に入って寝ようとしていると、そのうち「キャー」「誰か助けて」といった女性の悲鳴が聞こえて目を覚ました。

(階下で何かあったのだろうか)と不審に思って外の様子を窺うと、隣の203号室の灯りが見えた。話を聞いてみようと203号室のドアをノックすると、中から悲鳴が聞こえたので慌てて自室に逃げ戻り、タオルケットを被って息を殺した。壁の向こうからは「ううっ」といううめき声や、物が倒れるような大きな物音が聞こえ、Sさんは何が起きているのかと不安に駆られた。

だがその後、「どうして」「教えて」といった話し声が一分ほど続いたため、(悪ふざけでもしていたのか)と安堵し、トイレを済まして再び寝ようとした。するとドスンドスンと人が暴れるような音と同時に「神様お許しください」と泣き叫ぶような声が一、二分の間に十回くらい繰り返されたという。

その後、静かになったが、何者かが自分の部屋にもやって来るのではないかとSさんは恐怖し、部屋を抜け出すことを決意。すぐに着替えてツッカケを履き、近くの公衆電話へ駆け込むと、臼杵(うすき)の実家に電話して今から避難することを家族に伝え、タクシーを呼んだ。タクシーは10分ほどで駆けつけ、乗車は0時40分頃とされ、Sさんが悲鳴で目覚めたのは電話の15分か20分前くらいではないかと証言した。

被害者の部屋は乱雑に散らかっていたが、金品は奪われていなかった。

6畳間には、被害者の下着と、血液の混じった唾液が見つかった。Hさんは生理中で、下着には経血が付着していた。唾液はA型で、B型あるいはAB型の血液が混留していたことから、A型であるHさんが犯人に噛みつくなどして吐き出したもの、と推測された。また被害者の膣内から少量の新しい精子が検出され、陰毛にB型精液が付着していた。

室内からは姉妹と異なる指紋や毛髪が多数採取された。窓や天井裏からの侵入も物理的には不可能ではないが、そうした形跡はなかった。室内に土足痕や足跡はなく、犯人は玄関から履き物を脱いで部屋に上がったものとみられた。

検死の結果、死因は窒息死。犯人は手でHさんの首を圧迫した後、オーバーオールで更に首を絞めつけたと推認された。

 

隣人の逮捕

遺体発見の通報を受けて、渡辺誠一巡査が現場に到着したのは6月28日午前1時ごろのことだった。203号室の遺体を確認し、すぐに両隣の部屋を訪ねたが応答はなかった。パトカーが到着したため、室内の調べを他の捜査員に託し、巡査はアパート東隣の空き地へと捜索に回った。するとそこにアパート2階の窓から「何しよるか」と男の大声がした。先ほど応答のなかった202号室の住人・輿掛良一さん(当時25歳)であった。

巡査は部屋を訪れ、聞き取りを行ったが、男性は騒ぎで今しがた目を覚ましたばかりで何も覚えがないと言う。聞けば、午後3時ごろに起きて同棲相手と喧嘩になり、家出されてしまい、ウイスキーと食材を買いに出た後、部屋で一人、酒を飲みながら野菜炒めを食べ、テレビの野球ナイター放送やレコードに浸りながら酔っぱらって不貞寝をしていたというのである。

「一人で寝ていた」とはアリバイの不在に他ならない。別の建物の近隣住民でさえ女性の声や物音に気づいており、隣室にいて何も聞かなかったというのは不自然にも思われた。またみどり荘の住人で男性が輿掛さん一人だったことも分かり、再三再四の事情聴取が繰り返されることとなる。

 

地元紙は29日に「顔見知りの犯行か」と第一報を打ち、翌30日の夕刊では「重要参考人を呼ぶ-若い会社員を追及」と報じた。記事に名前こそ出なかったが、隣室に住みホテルに勤務する輿掛さんその人であった。重要参考人として、任意ながらポリグラフ検索や毛髪採取を求められ、警察は職場にも聞き込みに訪れ、輿掛さんは約1か月の休職を余儀なくされた。

当初、輿掛さんは「やましいことはなく、話せば分かってもらえる」と捜査協力のつもりで聴取に応じていたが、容疑を向けられていると分かるや「もう話すことはない」と任意聴取を断った。すると「マスコミに何を書かれるか分からないぞ」「やっていないならなぜ聴取を受けられないのか」と脅かされ、下着の提出や身体検査令状による陰毛の提出まで求められた。

Oさんとの同棲は解消して各々の実家へと戻ったが恋人関係は継続しており、双方の実家にも度々訪れていた。OさんもOさんの母親も、大人しい輿掛さんにそんな真似ができるはずがない、と端から疑うことはなかった。肩身の狭い思いをすることもあったが、8月には職場復帰も叶って同僚たちにも受け入れられた。警察の呼び出しも落ち着き、本人はようやく疑いが晴れたものと思って過ごしていた。

 

だが新聞紙面では、警察が被害者の交友関係、前歴者らのリストアップと洗い出しを終え、消去法を進めていることを伝え、依然として当初浮上した「若い会社員」への疑惑が残ることを匂わせていた。

12月11日、輿掛さんは職場の忘年会の後、同僚5人と乗ったタクシーの運転手とトラブルになった。そこで運転手を負傷させたとして輿掛さん一人が傷害容疑で逮捕されてしまう。輿掛さんは「酔っていたので記憶は定かではない」としつつ容疑を否認し、「なんで俺だけ逮捕されなきゃいかんのか」と怒りを見せた。

その年の大分では銀行強盗、連続放火と重大事件が続いており、何より半年近く進展のないみどり荘殺人の早期決着を求められていた。だが輿掛さんが任意聴取を拒否していたことから強制捜査がしにくくなり、タクシーでの一悶着は警察からすれば千載一遇の機会とも言えた。

ホテルの労組から依頼を受けた古田邦夫弁護士は、この傷害容疑をみどり荘事件の「別件逮捕」と見当づけ、最長23日間にもなる勾留は避けるべきと判断し、早期決着を図った。暴行の事実がなかったにせよ、ケガをした被害者がおり、輿掛さんが加害者メンバーであることは言い逃れようもない。タクシー事件の容疑を認めるように説得し、罰金2万円の略式命令となり、一週間で釈放された。

古田弁護士は、輿掛さんの第一印象を「無口な人」と感じていた。声を荒げて激昂するではなく、目を合わせることなくぽつりぽつりと不満や反論を漏らしていたという。この一件で輿掛さんの胸中には、なぜ自分の言い分を聞き入れてくれないのか、やってもいない罪を認めなければいけないのか、と弁護士のやり方に不満を持ったという。釈放に際して、周囲に詫びや礼に頭を下げねばならないことで煮え切らない思いもあったと想像される。

その後、同僚のひとりが「記憶はないが手が腫れていたので殴ったのは自分だと思う。迷惑を掛けてすまなかった」と輿掛さんに謝罪し、傷害容疑は濡れ衣だったことが判明している。

 

年が明けて82年1月14日、輿掛さんはOさんから「支配人が呼んでいる」と連絡を受けた。その日の地元紙で「隣室の男逮捕へ」との見出しが打たれており、「逮捕令状が請求された」というのである。

記事には、男に事件前にはなかった傷ができていたこと、声も物音も耳にしていないという不自然な供述ポリグラフ反応科警研の毛髪鑑定で現場に落ちていた体毛と男の毛が一致し、精液の血液型も一致したことが決め手となり「大分署が断定」したと書かれていた。寝耳に水の出来事で「自分のこととは思えなかった」が、勤務先に辞職願を提出せねばならなくなった。

とにかく母親に会っておかねばと実家に戻ったが外出中で、心配して駆けつけた友人と一緒に部屋にいたところ、逮捕状を持った刑事が現れた。すでに玄関前にはマスコミ各社や野次馬に取り囲まれており、顔を隠すといった配慮もないまま連行された。その様子に威圧されて無実を叫ぶこともできず委縮した輿掛さんだったが、その様子を報じた夕刊には、写真に「ムッツリとした犯人・輿掛」と銘打たれた。記事は、県警が容疑者逮捕を「さっそく霊前に報告」したと伝え、事件の決着を印象付けた。

 

逮捕当日から本格的な取り調べが開始され、真冬だというのに「換気のため」に深夜まで取調室の窓を開け放たれたままだったこともあり、輿掛さんは風邪をひいた。倦怠感や食欲不振が続く中、薬や治療の求めも許されないまま、連日9時間、10時間もの過酷な取り調べが続けられた。衰弱しながらも否認や黙秘を続けたが、逮捕から4日目の18日朝に「現場の玄関から出た」「203号室にいた」との自白供述に至った。

合同捜査本部による記者会見を報じる22日朝刊は「私に間違いない 恋人とけんか……カッと」との見出しで容疑者の自白を伝えた。「物証だけでも公判の維持はできる見通しで逮捕に踏み切ったが、本人の自供は強力な“つっかえ棒”になる」と独特の表現で自信を見せる藤内喜雄県警捜査一課強行特捜係長の弁を載せている。

「203号室にいた」ことを認めた輿掛さんは執拗な追及が続けられていたが、侵入経路や強姦や絞殺の具体的な犯行については「記憶がない」と一貫して供述しなかった。涙を流して「やった覚えはない」と訴えたが、捜査機関は犯人とする確信をもっており、証言できないのは脳機能のトラブル、記憶や情緒的な問題ではないかとして鑑定留置へと送る。取調官の原口警部補はそのときの様子を「どうしても(殺害について)覚えていないと言って歯がゆがっていた」と、後の公判で振り返っている。

3月15日、大分地検・江島寛検事は強姦致死、殺人の罪で輿掛さんを起訴した。

 

隣人の半生

輿掛さんは1956年(昭和31年)に大分県大野郡大野町の農家の第四子、三人姉妹の後に生まれた長男として大事に育てられた。農作業を手伝いながら明るく活発な幼少期を過ごし、人見知りで口数こそ多くなかったが、学業の出来は良かった。小学3年の通知表の所見には「悪は悪としてどこまでも追及していく、明るく茶目気あり」と記されている。

だが4年の頃に父親が糖尿病を悪化させて入退院を繰り返すようになると生活は一変。田畑の土地や飼っていた牛鶏ヤギ、農機具も全て手放さざるを得なくなり、生き物好きだった少年は家族を失ったように動揺していた、と母姉も語っている。家畜も農作業もなくなり、近所に女子しかいなかったこともあって外で遊ぶ機会も減っていった。

中学に入るころ、母親は看病のため大分市に移り住むこととなり、姉2人と実家で3人暮らしとなった。だれもいない電灯の付いていない家に帰るのが苦痛だったと言い、中学2年の2学期からは不登校となった。中学教諭も家族も原因が分からず、理由を聞いても本人も答えようとしない。神経内科の医師が往診して「自閉精神病質」との診断を受け、投薬療法が行われた。

姉たちが働いて2人の治療費などを負担し、母親も清掃の仕事でどうにか生活費を捻出する家計事情は火の車だった。少年は大分市で母親と同居しながら、一年遅れで中学を卒業。高校では試験の成績が良く級長に選ばれ、「学校に通う、バイトをする」と家族に約束して友達とバイクを乗るようになり、恋人もできた。免許取得などの費用を立て替えた姉は「友達ができて、家を出るきっかけになればと思ってバイクを認めた」と当時の思いを語っている。

 

だがバイク仲間が「目覚まし役」を任されるほど出席日数は芳しくなく、高校でも一年遅れの卒業となる。学校からの就職斡旋をもらえなかったが、家に勧誘のあった航空自衛隊に入隊を決め、家族は大喜びで若者の門出を祝福した。大型車や牽引車の免許が取れることから、飛行機の離着陸時の事故に備える消防隊を志望し、1977年に福岡県の築城(ついき)基地に配属された。

指示で隊の銃剣道大会に出場することとなり、基本動作をようやく身につけた程度だったが、あれよあれよと勝ち進み、基地代表の一人として合宿練習に参加することが決まる。新隊員としては唯一の代表メンバーで、周囲の先輩たちより技量・体力とも劣っていたことから、先輩隊員のU氏に目を掛けられて可愛がられ、彼の世話で同じ下宿先へと移った。

恋人との交際は続いており、高校時代の友人から車を借りてドライブに出かけることもあった。車を凹ませることもしばしばで、結局その車を買い取ることとなった。父親の体質を受け継いだのか、また普段より饒舌に喋れるようになるためか、酒好きとなった輿掛さんは、男社会で揉まれながら日常的に飲酒を繰り返すようになっていた。だが80年1月に飲酒運転で電柱に激突して車が大破する事故を起こし、隊を離れることを余儀なくされた。

「当直分隊全員で酒を飲み、同僚の下宿に置いていた車で下宿に帰ろうとしていたんですが、飲んでいたせいか、どうしてそんな道を通ったのか、何にぶつかったのかも分かりませんでした。寒かったのでヒーターを入れたため、暖まって居眠り運転になっていたのかもしれません」と後に語っており、九死に一生、鎖骨骨折だけで済んだのは不幸中の幸いだった。

 

入隊を誰よりも喜んでくれた父に合わせる顔がないという思いもあってか、3月に離隊後も地元には戻らず、三重県のホンダの工場や福岡でガードマンなどの職に就いた。だが仕事内容は肌に合わず、姉の勧めもあって大分市内の実家へと戻った。父親はその年の9月に脳溢血でこの世を去った。糖尿病で栄養摂取が困難となり、結核も悪化させていた。そのとき青年は自立の意志を強め、父と自分を苛む酒の誘惑を断とうと決意したという。

10月、姉の知人の紹介で、市内のホテル飲料部でウェイターとして働き始めた。早朝から午後まで、午後から深夜までの2つの勤務時間帯があり、男性は遅番になることが多いため、早起きを苦としていた輿掛さんには好都合だった。当時ホテル内では組合で問題になるほど職場恋愛が盛んで、輿掛さんも例に漏れず、ホテル内のビストロで働くOさんと知り合うと、すぐに公然の恋人関係へと発展した。

高校を出て春から勤め始めたOさんは、見た目は小柄で可愛らしい人形のようだが、口でポンポン言うタイプで、その反面、後腐れのないさっぱりとした気質であった。Oさんは、年長、パンチパーマ頭でどこかのっそりした風貌の輿掛さんを「おっさん」と呼んで慕っていたという。口数の少ない輿掛さんは「うんうん」と聞き役に回り、相性が良かったのではないか、と同僚は語る。

Oさんは父親を早くに亡くしており、母親が4人のきょうだいを養うという家庭環境が輿掛さんとよく似ていた。またそれぞれの友人がカップル同士だった影響もあって交際はすぐに進展し、2人は翌81年4月20日からみどり荘での同棲生活を開始する。輿掛さんは母親と姉にOさんを紹介しており、姉曰く輿掛さんの方が彼女にぞっこんだったという。輿掛さんとしては結婚について漠然とした期待はあったものの、資金を貯めたりといった具体的な行動には移していなかった。Oさんの母親は娘から「一人暮らしがしたい」と聞かされていただけで、同棲とは思っていなかった。

 

事件前の6月26日(金)は早番勤務で15時に終わり、輿掛さんはOさん、友人と3人でパチンコなどをして遅くまで遊んだ。27日(土)は輿掛さんもOさんも休みだったため、喫茶店や友人宅に寄って深夜に帰宅。就寝前と、昼頃に目覚めてからセックスをし、15時頃になってようやく布団から出だした。

買い出しの誘いを輿掛さんが無下に断ったことが発端となり、口論がエスカレートし、Oさんは「家に帰る」と言って17時頃に部屋を飛び出した。金の管理や寝起きなど何かとだらしない面があった輿掛さんと、思ったことをすぐ口に出すOさんにとって口論は日常茶飯事だったが、2か月余りの同棲生活で「家出」は初めてのことだった。

だが輿掛さんとしては、Oさんの気性からしてすぐに鎮静化するだろうという経験則もあり、翌日には嫌でも職場で顔を合わせるため、それほど深刻な不安はなかったという。

 

事件直後には冷静にも巡査の許可を得て、公衆電話からOさんの実家に電話を掛けていた。電話に出た彼女の母親に、みどり荘で事件が起きたことなどを伝えていた。恋人が家出してむしゃくしゃした感情はあったかもしれないが、事件前夜も当日も性交渉を重ねており、間を空けずに隣家の女性に襲いかかるというのは余程の色欲である。

警察としては、犯人は靴を脱いで部屋に上がったとみており、近隣住民が耳にしたという会話の断片や金銭的被害がないことからも「顔見知り」による犯行との見方を強めていた。だが「人見知り」だった輿掛さんは、薄い壁から漏れ伝わる生活音から姉妹が暮らしているらしいことは知っていたが、引っ越した際も住民らに挨拶はしておらず、交友はなかった。

しいてトラブルを挙げれば、203号室の目覚まし時計が早朝5時に鳴り止まないことがあって、夜勤明けだった輿掛さんたちの安眠が妨げられたことがあった。そのときばかりは後で苦情を言いに行ったが、玄関先で対応した女性(被害者の姉)が平謝りして大事には至らなかった。輿掛さんは、おそらくそのときが隣人と直接顔を合わせた唯一の機会ではないかとしている。

 

タクシー事件を担当した古田弁護士は、かねて輿掛さんからみどり荘の事件について「やっていない」とはっきり聞かされていた。そのため新聞の報道を受けて、警察による自白の強要を疑い、弁護依頼のないまま接見の機会を強引に取り付けた。

輿掛さんは再度犯行を否認したが、弁護の要請を躊躇した。弁護士不信もあったが、勤めを辞めていたため、その費用が真っ先に頭をよぎったのである。また古田弁護士と取調担当の藤内警部補との「会わせろ」「会わせない」の応酬の様子や、刑事のその後の態度から、警察の方が弁護士よりも力関係が強いように感じていたという。

古田弁護士は輿掛さんの家族から弁護の依頼を取り付けたが、刑事弁護の経験が浅いこともあって一人で冤罪弁護を担う自信がなく、同郷で知己のあった先輩の徳田靖之弁護士に相談した。すると徳田弁護士は、何らかの精神薄弱や異常酩酊の可能性もあるとして「責任能力の有無が争われる」との見解を示し、一緒に弁護に就くことを了承した。

 

麻酔面接

「思い出そうにも記憶がない」と口を閉ざすことでかろうじて自己弁護を続けていた輿掛さんに対して、藤内刑事は過去の自閉傾向等の影響や記憶障害を疑って精神科医に相談にも訪れていた。あるいは別人のように意識が切り替わる、いわゆる二重人格のような人格障害さえ想起されていたかもしれない。

鑑定留置は1月30日から3月10日まで続けられ、刑事責任能力を判定するために分裂病検査や飲酒実験などが一通り行われた。精神異常はなく、酩酊も一般的な「日常酩酊」で病的な疑いは否定された。夢遊症についても調査されたが異常行動は観察されなかった。

嘱託医・仲宗根玄吉医師は、ショック等によって一時的に記憶が抑圧状態に置かれて思い出せなくなる「心因性健忘」を疑い、自身の判断で3月6日に「アモバルビタール(日本での商品名は「イソミタール」)」を使用した面接を実施する。事前の説明や本人確認はなく、輿掛さんは「(反応を見るために)直接アルコールでも注射されているのかと思っていた」という。

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アモバルビタールは脳神経の鎮静作用から、鎮静剤や睡眠薬といった用途があるが、精神科医らは患者の「抑圧された記憶」を語らせる際に用いることもあった。仲宗根医師も深層心理に封印されているはずの「事件の記憶」を引き出そうと試みたのである。

自己統制が利かなくなり、朦朧とした意識の中、相手の言うことに促されやすくなる作用から、ナチスドイツなどが「自白剤」として使用していたことでも知られており、戦後ドイツなどでは使用が禁じられ、刑訴法にも麻酔分析の禁止が明文化されている。一方で、心的外傷(PTSD)の治療などにも用いられた歴史があり、一種の催眠作用、記憶の書き換えが生じるとの研究もある。

1993年に起きたマイケル・ジャクソン児童虐待疑惑の民事訴訟では、少年が精神科医に彼から性的虐待を受けたことを暴露したとされる。だが少年は性的被害の証言をする直前に、このアモバルビタールを使用された疑いが指摘されている。少年に虚偽の記憶を植え付けて偽証をさせるために彼の父親が投与させた、金銭目的の訴訟とも言われている(後にマイケル側は1530万ドルを支払い示談したとされ全容は公表されていない)。

今日では同薬の毒性、依存性、深刻な副作用などから推奨されておらず、とりわけアモバルビタールを用いた面接は、黙秘権など人権の侵害にあたるとして、法曹の場において国際的に広く禁じられている。日本の医学界・法曹分野では当時禁止の動きまではなかったが、一審31回公判でイソミタール面接の権威であった東京医科歯科大学教授・中田修氏は、面接を刑事事件の鑑定で為すべきではない、面接中の供述は信用できない旨を証言している。

 

輿掛さんは麻酔面接においても「自分は犯人はないから疑われても逮捕されるとは思わなかった」と述べ、強姦や殺害への関与を否認した。だが医師からの問い掛けによって「不意に目が覚め、音がしたので隣室の女性が男友達でも連れ込んだのかと思い、覗いてやろうと思った」「玄関が開いていて、入ってみたら被害者が倒れていた」「下半身を触ろうとしたが、死んでいると気づいて慌てて自室に帰った」旨の証言が引き出され、体験談さながらに記録された。

麻酔面接の2日後に行われた通常の面談時に尋ねてみると、輿掛さんは麻酔時の発言を何ら記憶していなかった。医師は「2日前、あなたはこう言っていましたよ」「なぜ今まで黙っていたのですか」と発言内容をひとつひとつ本人に確認していった。

輿掛さんに発言内容の記憶はなかったが「実際にこういう発言をしている」と繰り返されれば、それを覆す術もなく、もしかするとそうかもしれないと認める以外になかったと振り返っている。「記憶になくても夢遊病状態で隣の部屋に入った」と決めてかかった取調官と同様の自白の強要、刷り込みがここでも繰り返されてしまった。

あるいは輿掛さんにとって自分の「記憶の空白」が、警察の取り調べや麻酔尋問、医師の解説によって埋められていく、あたかも自分が知らなかった謎が解き明かされていくような錯覚すら味わっていたのではなかろうか。

鑑定書には「今回の発言は、自分の犯行を否定するために最近思いついた創作である可能性は否定できない。しかしこれを全くの創作であると断定もできないように思われる。これは今後の徹底的な真相究明を待つしかないであろう」と記されている。医師は、体験に基づいたことを言うとは限らないし、噓や願望を言うことかもしれず、真実とは言えない、裁判で証拠とすることはできないと証言している。

 

夢遊裁判

徳田弁護士は公判前々日の接見で、緊張を募らせ口の重い輿掛さんに「公判では記憶にあることを答えればいい」と話した。また「(犯行を)覚えていないと言うが、審理の結果、自分が犯人だと明らかになったら、極刑に処せられる覚悟はできているか」と問いかけ、輿掛さんは「そのときは覚悟しています」と答えていた。

 

82年4月26日、大分地裁で初公判を迎えた。

罪状認否で被告人は「被害者の部屋にいたことは覚えていますが、自分が(強姦殺人を)やったという記憶はありませんので、はっきり分かりません」と述べ、弁護団は、検察側の証拠は不十分で有罪と断じることはできないとした。

近藤道夫裁判長は「部屋にいた記憶はある」とする被告人の証言を訝しみ、糾問的に問い質している。質問に対し、被告人は、部屋に入るまでの記憶はなく気づいたら被害者の部屋にいたこと、すぐに自室へと帰ったことを答えた。

 

出廷した証人の中には、在学中から自衛隊時代まで交際したYさんの姿もあった。彼女は被告人が酒に酔うと、セックスの際に首を絞めたこともあったと述べ、翌日問いただすと記憶していなかった旨を証言。検察側は、被告人の酒癖の悪さ、女性に暴力を振るいながら記憶を飛ばしてしまう「夢遊病」のような悪癖の傍証とした。元交際相手Yさんとは長い付き合いだったが最終的に喧嘩別れのかたちとなっており、弁護側からはその証人適正に疑義がもたれた。

205号室の住人Sさんは「神様お許しください」の声について、犯人の声だったのではないかとの見解を示した。事件直後、はじめに聴き取りを行った渡辺巡査は「一般の人と変わらないように落ち着いた態度だった」と証言。警察や記者に対応する際、被告人と顔を合わせた201号室のTさんは、そのときの印象を「目が覚めたばかりのような感じだったが、特に変わった様子はなかった」と述べた。

 

輿掛さんの部屋の階下にあたる102号室の住人女性Iさんは、何度目かの聴取で「2階のどこかでの男女の騒乱を察知して注意を向けていた」と言い、騒ぎの後で周囲が静まり返った中、風呂場で人が水を浴びる音が聞こえたと証言。バスマットに滴るような音の具合から、「人が中腰になって水をかぶっているなと思う音」と具に証言している。

検察側は彼女の証言を重要視していた。というのも、被害者が生理中だったため、強姦した犯人の下半身には経血の付着が推測されていた。だが輿掛さんの部屋や提出させた下着から血痕は見つかっていなかった。取り調べでは輿掛さんから「下半身を洗った記憶はないが風呂は使ったかもしれない」との言質を引き出していたことから、犯行直後、下着を履かずに自室に戻り「風呂場で血を洗い落とした」とする仮説を立証したかったのである。

検証によりIさんは自分が聞いた水音は被告人が暮らしていた202号室のものとした。一方で、弁護側や裁判所はIさん証言に不自然な点があることも指摘している。他の近隣住民たちは、ほぼ同時刻にカンカンカン…という金属音を耳にしていたが、物音に細心の注意を向けていたはずのIさんはその音に全く気付いていなかった。音の正体は、205号室のSさんが公衆電話に向かう際に木のツッカケを履いて外階段を駆け下りたときのものであった。またIさんは風呂の水音よりもトイレの排水音の方がよく聞こえるとしていたが、Sさんが家を出る前にトイレを使用した音も耳にしていなかった。

捜査員が偽証を誘導したかどうかは不明だが、Iさんは事件の様子を知ってから水音供述を作話したように思われた。

 

検察側は、被告人の首や左手の甲に傷があり、被害者と争ってできたものと主張した。事件当夜の事情聴取で藤内警部補らは傷を確認しており、輿掛さんは心当たりがなかったため、首の傷は「虫に刺されたか何かで引っ搔いたのかもしれない」、手は「気付いていなかったが、仕事中にできたのではないか」と話していた。

だが証人として出廷した藤内警部補は、当時「事件当夜にできた新しい傷だ」と気付いており疑っていたと証言した。たしかに警部補が取った調書には「意識している間にできた傷ではなく、どうしても思い出せない空白の間にできた傷としか考えられません」と記されていたが、検察官が取った調書にはそうした供述はなく、仕事の作業中についた傷とされていた。警察は勤務先のホテルでの聞き込みで、ビールケースの搬送や机や椅子の移動作業でそうした些細な怪我を負うことは頻繁にあると確認済みだった。

検察側は九州大名誉教授の法医学者・牧角三郎氏に鑑定を依頼し、発赤現象(ひっかき傷)が残存する時間を検証してもらい、通常2~3時間で消えることが確認された。だが藤内警部補が手や首の傷を見とがめたのは朝6時半頃のことであった。そもそも熟練の刑事がみみずばれのような出来立ての傷を見つければ写真や記録に残さないはずがない。

だが事件から4年後の第33回公判に至って、作成者の署名のない事件翌日付の事件情報報告書なる内部文書が追加提出され、傷の状況として「赤みが出て表面は薄く膜でおおわれている」と記したメモが書きこまれていた。検察官は検証調書に当たるとして証拠採用を求め、裁判所はこれを証拠として採用する。そうした補充立証に出ていることからも直接証拠のなさが窺える。

 

異変

前述のように「犯行の記憶はないが、気付いたら203号室にいた」とする自白に沿って審理は進められてきたが、第12回公判の弁護人による被告人質問に及んで異変が起きた。ここにきて輿掛さんは「実際には203号室にいた記憶もない」と述べ、取調段階で警察から自白の強要があった、とこれまでの公判を根底から覆す発言をしたのである。

意に反する自白を取られながら司法の判断に一縷の望みをかけて、公判開始とともに身の潔白を訴える被告は稀に見られる。だが12回の審理にわたって虚偽の自白を維持し続けるのは異例であり、ここにきて変遷が起これば、公判での供述の信用全体が大きく揺らぐこととなる。

 

被告人は取り調べでの状況について「『眠っていて分からんと言ったら、お前が分からんだけで、夢遊病者みたいに隣に行っちょんじゃ』『お前が分からんでもお前は隣に行っちょんじゃ』と、そう言われたです」と明確に答え、意に反した供述を取られたと述べた。刑事から、新聞では報じていないが被害者の部屋からお前の指紋や陰毛も出ていると詰められ、記憶にはなかったが「部屋にいた」こと自体を否定する術はなかった。

「酒を飲んで眠っていて覚えていない」と繰り返し弁解しても、自衛隊時代の交通事故や12月の傷害事件など酒癖の悪さの例を挙げられ、「お前に間違いないのだ」と念を押された。取調官は被害者の遺体が写った現場写真を示して自白を迫り、「母親もどうなっているか分からないぞ」と家族の安否まで引き合いに出して心的圧迫を与えた。

逮捕から4日目、疲弊しきっていた輿掛さんが「母親に会わせてほしい」と涙ながらに懇願すると、藤内警部補は「上と掛け合ってやるから、お前もこちらの言うことを聞け」「事件について話せ」と交換条件を迫った。侵入経路や犯行状況について輿掛さんは何一つ返答できなかったが、どこから出たのかという問いに対して「玄関から出た」と口にした。これが犯行現場にいたことを認める供述とされ、自白調書が作成されていく。また現場写真を見せられていたため、倒れていた被害者の状況については詳しい供述が可能となった。

 

輿掛さんは公判が進むまで、被害者の部屋203号室に自分の指紋や陰毛があったと思い込まされており、弁護人らもそれを承知の上で弁護に当たっているものと考えていたという。

一審で証言台に立った藤内警部補は、「指紋が出た」といった虚偽の発言はなかった、自白の強要行為はなかったと述べ、改めて、現場から輿掛さんの指紋は検出されなかったことを明言。家族や亡き父親の話題に胸を詰まらせて自供する決心をしたようだとし、自白後に生前の被害者の写真を見せると被告人は手を合わせて拝んで反省を見せた、と語った。

〈冤罪〉のつくり方 大分・女子短大生殺人事件 (講談社文庫)

『〈冤罪〉のつくり方 大分・女子短大生殺人事件』を著したノンフィクションライター・小林道雄氏は、甲山事件『自白の研究』で虚偽自白生成のプロセスを分析した心理学者・浜田寿美男教授の指南を受け、輿掛さんが虚偽の自白を行い、それを事実と捉えて「自己同化」し、公判が進んでから「部屋にいなかった」と証言するまでの過程を概ね次のように分析する。

前述のように、輿掛さんには傷害事件での弁護士不信があり、公判前のやりとりでも口は重く、心を通わせない、もはや裁判でどうするつもりもない諦めに近い心境であった。だが審理の過程で、両弁護人の奮闘に勇気づけられ、第5回公判を過ぎるころには弁護人の主張に相槌や目配せを送るようになり、ようやく新たな信頼関係が再構築されつつあった。

裁判では、自身の供述やOさんの証言などが捏造されていたこと、現場にあったと信じて疑わなかった自分の指紋や陰毛は実在しなかったことなどが次々と明らかにされ、対する刑事らが口々に都合のよい嘘を並べ立てて責任を逃れようとすることにも腹の虫は収まらなかった。

社会から隔絶された長期勾留の中で警察に生殺与奪を握られ、人権を奪われた過酷な取り調べの渦中で「家族に会わせる」「治療を認める」といった刑事による施しは最後の頼みの綱でもあった。そうした環境に適応するためには否応なく「権威」に服従し、輿掛さんは警部補らに対して心のつながり、一種の信頼関係のようなものを築く必要があった。「記憶にない」と事実を言えば繰り返し怒鳴られ、彼らに人間性を認めてもらうためには、自身にとって不利益となる虚偽の自白をする以外に道は塞がれていたのである。

輿掛さんが裁判で目にしたものは、いわばそれまで警察に寄せた「信頼」に対する「裏切り」に等しかった。信頼すべき相手を誤っていたことが分かり、泥酔で記憶がなかったため「自分が本当にやっていないか不安だった」心理状態を逆手に取られ、自分がやったと「思い込まされていた」ことを確信するに至り、再び不当逮捕や自白強要に対する憤りを取り戻していき、遂に「呪縛」が解けるに至ったのであった。

過去の免田事件などの冤罪事件と同様、警察による代用監獄での「洗脳」ともいうべき自白強要の実態が明らかとされた。

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弁護側は検察論告に対して十二分に反証し、輿掛さんが犯人とは考えられないことを示したうえで真犯人像にまで踏み込んだ。無罪の確信こそ表に出さなかったが、弁論には絶対の自信を抱いていた。

だが判決審が二度延期となり予定より13か月遅れ、その間に陪席裁判官2人が入れ替わった。裁判長は近藤裁判長から寺坂博裁判長に交代して長く経っていたが、その訴訟指揮は弁護側からすれば検察官の弱点をカバーするような追認に終始していた。

判決審までの間、事件当夜テレビで放映されていた映画『荒鷲の要塞』を検証しての再審理が行われた。供述調書には、事件当夜、輿掛さんは物音で目を覚ましており、点けっぱなしにしてあったテレビで「酒場の場面」「螺旋階段をドイツ軍人が降りてくるシーン」が流れているを目にした、と記載されている。だが同日に「他のテレビで見た場面と混同していたことも考えられますから、私の間違いかもしれません」との供述も取られていたこともあり、公判では重要視されてこなかった。

だが実際見てみると、映画の最初のクライマックスともいうべきスリリングな場面(敵地に潜入した主人公らが酒場で会合していたところにゲシュタポが乗り込んでくる)で、該当シーンの放映は28日0時12分から13分ごろにかけて、つまり犯行の最中とみられる時間であった。弁護人たちは、他の映画や番組と混同するなどありえない、輿掛さんの目撃証言は事実だと確信した。

 

1989年(平成元年)3月9日、大分地裁・寺坂博裁判長は、検察の求刑通り無期懲役判決を下した。

輿掛さんは「裁判長が無罪と無期を言い間違えたのではないか」と思い、呆然として判決理由が耳に入らなかったという。

判決文は、科警研の毛髪鑑定によって被告人が被害者の部屋にいたことは否認しがたいものとし、弁護人の指摘に一定の理解を示しつつ「そうでない可能性もある」「不自然とまでは言えない」といった抽象的な表現で、矛盾点を煙に巻くような内容であった。弁護人らは結論ありきの不当判決を意識せざるを得なかった。判決審の期日延長、裁判官の交替に不自然さは拭いようもなく、穿った見方をするならばその判決を導くのに必要な手続きだったようにも思われる。

弁護側はすぐに控訴手続きに入るとともに、一審での反省を誓った。輿掛さん自身もなぜはじめから弁護士に心を開き、公判に向けてベストを尽くさなかったのかという強い後悔から、改めて連携を密にする姿勢へと変化した。不当判決への義憤や科学的検証の必要性から各方面に強い弁護士たちが集結され、最終的に13人の弁護団が結成される。更に法廷の外でも小林道雄氏らの援護射撃により冤罪世論も形成された。その後、みどり荘事件救援会として「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」が発足される。

 

欺瞞の鑑定

一審判決から約一年経過した1990年3月14日、福岡高裁控訴審が開始される。

有罪判決の核とされたのは、自白、毛髪鑑定、首と左手の傷であった。

被告人質問に多くの時間を割いて取り調べを再現し、虚偽自白の形成と供述の変遷について明らかにした。また弁護団は後者の背景として弁護活動での信頼関係が構築できていなかったことを詳らかにして自己批判した。

また事件当夜に輿掛さんを取材した朝日新聞記者T氏が出廷し、被告の事件当夜の行動について補強した。Oさん宅に電話を掛けるためにアパートを一時離れた輿掛さんは、T記者に声を掛けられ、被害者の隣人として住所・氏名・勤務先や部屋の間取りまで明かして10分程度の取材に応じていた。無論、真犯人が取る行動にふさわしくない。

一般人より観察眼の鋭い事件記者の目にも、不自然さや不審な点は見られておらず、逮捕の報があった際にはよもや犯人とは想像もしておらず「見る目がなかった」と後悔したと10年前を振り返った。みどり荘の周囲には警官、記者、衆人の目があり、証拠隠滅などを行う隙もなかった旨も裏付けられた。

 

弁護団は、福井中学生殺人事件で科警研の毛髪鑑定を挫いて一審無罪へと導いた吉村悟弁護士に教示を仰いだ。福井事件は81年と時期にずれはあったが、両事件とも科警研の三宅文太郎、佐藤元両技官が鑑定人を務めていた。

鑑定に用いられた毛髪はすでに使い果たされており、再鑑定は不可能であった。そこで毛髪の形態学的検査で同一性を識別できるとしているのは科警研グループのみだということ、分析化学的検査においても個人の識別に値しないことを明らかにし、科警研鑑定そのものに科学的根拠がないとして突き崩すこととなった。

九州大学理学部の数理統計の専門家である柳川助教授に科警研鑑定のデータについて再鑑定してもらうこととなる。基礎となる毛髪データ量が不足していること、各自のデータにばらつきが出ることから、統計学的処理以前の非科学的推理に過ぎないと批判し、統計的鑑定に必要な原理・原則をまとめた(柳川鑑定)。

これに対して検察側、鑑定人とも学術的に有効な反証を示すことはできなかった。

 

1991年5月の第8回公判で前田一昭裁判長は、当時血液型と併用すれば100万分の1の精度で個人識別が可能と言われるDNA型鑑定でシロクロ付けられるのではないか、と打診した。弁護団としては、自白の任意性のなさ、毛髪鑑定の非科学性の立証などによって無罪判決に導けるものと考えており、「青天の霹靂」だったとしている。裁判所の真意も読めなかった。

毛髪鑑定で科学的信頼性がおけないと主張しながら、片や導入されて間もないDNA型鑑定を試すというのは慎重にならざるを得ない。その時点で弁護団にDNA型鑑定の知識はほとんどなく、仮に予期せぬ鑑定結果となれば更に反証は困難となる。しかしながら勉強会や議論が進むうち、古い血痕や精液からも鑑定可能であることが分かり、受諾せざるを得ないとの認識に至る。

12回公判で、職権において鑑定試料として膣内容物付着のガーゼ片と現場遺留の毛髪の提出命令が下され、鑑定人として法医学者にしてDNA多型研究会運営委員長の肩書を持つ筑波大学・三澤章吾教授と補助に原田勝二助教授が決定された。

当初の予定より10か月遅れて93年8月12日に鑑定書が提出された。試料のうち約300bp以上の高分子DNAが回収されたものについて鑑定したこと、被害者から採取されたガーゼ片については(状態が悪く)第三者のDNAを同定しえなかったこと、現場遺留の毛髪の1本から輿掛さんと同一の型をもつDNAが検出されたことが記載されていた。

刑事捜査においてDNA型鑑定が広く知られるきっかけともなった足利事件飯塚事件などでは、試料の分解が進んでいなかったため高分子のDNAが科警研でMCT118鑑定にかけられた。だが本件では10年以上経過して低分子化して判定不能であったため、別の鑑定法が模索され、国内では実験が行われていなかったACTP2法を用いることとした。93年4月に開かれた法医学会で茨城県下の住民70名のDNAを分類したデータベースを発表してお墨付きを得、5月頃になって事件に係る鑑定を開始した。鑑定法も定まらないうちに鑑定を受諾し、「新たな実験」「実績づくり」に用いられたのである。

だが提出された鑑定書には53か所の誤りが認められ、後の訂正書では輿掛さんの型、被害者の型、作成日付までも訂正される始末だった。証人尋問で三澤教授は、自身が鑑定作業に関与しておらず、いつどのような工程で作業がなされていたのか関知していなかったことを認めた。鑑定書に記名、捺印こそしており、30分から1時間ほど読んだというが多くの誤りに気付かなかったのであれば内容が吟味されたとは言えようはずもなく、証拠能力を有するとは到底認められない代物であった。

実際の鑑定作業に当たった原田証人は、拡大した画像にトレーシングペーパーを当てて上から鉛筆やボールペンで各バンドの位置を書き写し、物差しで測るというアナログな最新技術の実態を語った。鑑定書に「同一の電気泳動パターンを示した」と記していた両バンドについて「高度に類似性が認められるという意味である」と証言を変え、弁護側からの更なる追及に「当時の分析方法でやったら、そういう結果になった。その後の技術水準から見れば、破綻していると言っても差し支えない」と鑑定の失敗を認めた。

だがこの鑑定の「誤り」は技術的水準以前の問題であることは火を見るより明らかだった。試料として採用された毛髪を弁護団が閲覧したところ、その長さは15.6センチで、輿掛さんの頭髪とは似ても似つかぬ代物だった。彼はホテル勤めであったことから常時短髪で、直毛のままだと逆立ってしまい見栄えが悪いとして、およそ月に1度のペースでパンチパーマを当てていた。弁護団は事件前後の写真やかかりつけの理髪師らに当たって証拠を固めていき、カットの際には2~3センチに切り揃えてからこてで巻くこと、伸びきっている時期でも5~6センチ程度でどう考えても10センチを超えないことが確認された。

被害者と姉は15~20センチ程度の頭髪だったため、警察では証拠品の分類でそれらを見分けることができたが、鑑定人は輿掛さんの髪型も知らないまま、裁判所から与えられた試料から「同一の電気泳動パターン」を示す毛髪を探していったにちがいない。

 

犯人像

弁護団側は輿掛さんの無罪立証のため「真犯人像」にも言及していた。

指紋や物証を残していない真犯人の人格に迫る重要な手掛かりとして、205号室のSさんが耳にした「神様お許しください」の叫びがある。強姦既遂であったことから男性の関与は明白である。だがSさんはその声を犯人のものと推測したが、検事の「男性の声だったか」の質問に「分かりません」と答えた。犯人は強姦、殺人を犯しながらも神に許しを請うたのであろうか。

犯人像として、神への帰依のある熱心な宗教者などが思い浮かぶ。狂乱の中、犯行に及んだあと、その罪を理解し、神に懺悔する姿が最も推測しやすいところである。罪の意識があり、自分の行いを認識できていた。その点だけ取ってみても輿掛さんの夢遊犯人説はありえない。

膣内から検出された精液はB型あるいはAB型とされていた。しかし一審で証拠開示されていなかったが、控訴審では被害者の首に巻かれたオーバーオールにはO型の陰毛が付着していたことが明らかとされた、複数犯である可能性も指摘されている。小林道雄氏も「連れの男が被害者を殺害しようとする状態を見ているもう一人」が懺悔していたのではないかとし、事によっては懺悔していたのは女性だった可能性を挙げている。

Sさんは、続く「懺悔のような声を聞いて何が起こっていると思ったか」との質問に対して「隣(203号室)の女の人がノイローゼか何かで気が狂っていて暴れ回っているのではないかと思った」と答えている。「懺悔は女性の声だった」とは明言されていないが、素直に受け取れば男の声を聞いてはいないように捉えられる。

被害者の姉や輿掛さんの知人らも、同年代の男性たちが頻繁に出入りしていたことを証言している。姉妹の学友だけでなく、友人の友人といったかたちで部屋を訪れる者もあったかもしれない。弁護団や小林氏が当初から輿掛さんの無罪を念頭にしていたことを差し引いて考えても、複数犯説は検討に値する視座である。

 

逆転無罪

1994年6月の原田証言を受けて新聞各紙は「DNA鑑定、当時は未熟」「現時点から見れば破綻」といった見出しを掲げ、科学鑑定の問題点を報じた。科学鑑定と言われれば揺るがしがたい証拠、客観的事実と門外漢ほど妄信しがちだが、本件の科学鑑定はことごとく正確さと公平性を欠いた恣意的に結論を導く手段、似非科学に過ぎなかった。

7月、弁護人は保釈請求を行う攻勢に出、検察側は異議申し立てを行うも裁判所はそれを却下。

94年8月1日、輿掛さんは福岡拘置所から保釈される。事件から13年、身柄拘束から12年8か月ぶりに自由を手にした。逮捕時25歳だった輿掛さんは38歳となっており、当時交際していたOさんはすでに家庭を築いて三児の母親となっていた。84年11月に切り替えられた夏目漱石福沢諭吉の札を初めて目にして「お金のようにないです」と目を丸くした。不当逮捕と冤罪裁判によって、あまりに多くの時間と労力が費やされた。

1995年6月30日、福岡高裁・永松昭次郎裁判長は原判決を破棄し、無罪を言い渡した。控訴審では新たな証拠調べの難しかった首と左手の甲の傷についても、被害者によって付けられたとする一審判断は根拠に乏しいとして却下された。科警研の毛髪鑑定、筑波大のDNA型鑑定を斥けたうえで、自白とされる供述についても写真を見ながら供述しているようで「実体験かは甚だ疑問」との見方を示し、供述の任意性を否定した。

更に「犯人は被害者と親しく且つ信頼関係のある者ではなかろうかと強く推測される」と真犯人像について踏み込んだ発言まで行った。これは一度は有罪判決が下され、社会から犯人と見なされた輿掛さんへの「疑惑」を払拭する意味合い、社会復帰に向けて障害を除くための配慮と捉えられている。退廷後、輿掛さんは公衆電話へと走り、家で待つ母親に完全無罪を真っ先に報告した。祝宴の席でも「飲んでいた時期より酒を断っていた時期の方が長くなった」と話し、酒に口を付けることはなかった。

しばしの静養と各方面への謝礼行脚に努めた輿掛さんは、1996年4月、大分市内で就職し、第二の人生をスタートさせた。輿掛さんの救援活動を支えた市民団体は氏の社会復帰を見届けたのち、否認事件の起訴前弁護の保障をもとめて当番弁護士制度を支援する会へと発展的解消を遂げた。