いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ジャネット・デパルマ怪死事件について

1997年、地元の奇妙なスポットや伝説を伝えるミニコミ誌「ウィアード・ニュージャージー誌(Weird NJ magazine)」に届いた一通の投書により、すでに地元でもほとんど忘れられていた25年前の不可解な事件が掘り起こされた。

 

愛読者であったビリー・マーティンから届いた手紙は、「スプリングフィールド近くのフーダイル採石場で、儀式の犠牲とされるものがあったと思います。地元の犬が体の一部を飼い主に持ち帰ったことから捜査が始まった。それが本当なのか、それとも地元の言い伝えなのかは分かりませんが…」という不確かな情報に基づく調査依頼のような内容だった。

同誌は長年にわたって追跡取材を続け、共同創設者のひとりで編集者のマーク・モランは特派員ジェシー・P・ポラックと共にその事件の顛末を2015年『“悪魔の歯”に死す(Death on the Devil’s Teeth)』として上梓した。

追跡調査はネット記事によって拡散され、事件マニアの間で広く注目を集めることとなり、様々な議論を巻き起こした。

weirdnj.com

Death on the Devil's Teeth: The Strange Murder That Shocked Suburban New Jersey (True Crime)

 

事件の発生

1972年の新聞記事によれば、9月19日、ニュージャージー州ユニオン郡スプリングフィールドのウィルソン・ロードにある集合住宅地である飼い犬がどこからか大きな骨のようなものを咥えて帰ってきた。犬がじゃれつく「獲物」に気づいた飼い主が見とがめると、それは人間の右腕だった。驚いた飼い主はそれをバッグに保管して警察を呼んだが、集合住宅地周辺で遺体は発見されなかった。

大掛かりな捜索隊が組まれると、ほどなくワチュン居留地とバルタストール・ゴルフクラブの間にあったフーダイル採石場跡地(現在では州間高速道路78号線が通過する一帯)を囲む森の中で、右腕の失われた遺体が発見される。


見つかった遺体は腐敗が進んでいたが、着衣や歯型鑑定により6週間前から行方不明となっていたユニオン郡スプリングフィールドのクリアビュー・ロード4番地に住むジャネット・デパルマさん(当時16歳)と判明する。

パルマさんは、8月7日(月)の夜はバイトの予定があったが、その前に「友人の家に行く」と母親に告げた。普段は母親が車で駅まで送ることが多かったが、その日は申し出を断った。玄関を出る姿が最後の目撃となり、翌日、家族から捜索願が出された。

家の経済状況はミドルアッパークラスに属し、不自由はなかった。3男5女の8人きょうだいで、彼女は下から2番目だった。色恋や反抗期があっても不思議はない年齢であったが、家族に思い当たる節はなかった。その後も家族は周辺捜索を続けながら吉報を心待ちにしていたが、娘からも警察からも連絡は入らなかった。少女の16歳の誕生日から僅か4日後に起きた悲劇であった。

 

非協力な警察と匿名読者のもたらす噂

1997年10月にウィアード誌が投書記事を掲載して以来、事件を知っているという匿名読者たちから手紙が届き、現場状況などについて不可解な噂をもたらした。

 

・事件が起きるまでよくキャンプに訪れていたが、警官だった叔父があそこに立ち入るべきではないと警告しに来た。聞いたところでは、事件の詳細はその後も公開されなかったらしい。

・遺体は枝や丸太で組み合わされた棺のような囲みの内側に見つかり、周囲には枝木を組み合わせた十字架がいくつも配置されていた。

・遺体を囲むように切断された動物の瓶詰遺体が置かれていた。

・遺体は木でできた五芒星の上に横たわっていた。

・あの地域には魔女が住んでいると噂があった。

・周辺の木々に道標のような矢印が刻まれていた。

・失踪から2週間余りは彼女の噂でもちきりだったことを覚えている。犯人が見つかった訳でもないのに以降めっきり語られなくなったのは、それ自体が異常なことだ。

 

72年当時の僅かな報道を掘り返していくと、その不可解な事件は確かに存在した。

腐敗した遺体は、地元では「悪魔の歯」と呼ばれる高さ40フィートの崖の林野で見つかり、すでに傷みが激しかったこともあって身元はすぐに特定できず、歯科記録によって判明したことが判った。外出時と同じ青いシャツ、ベージュ系のズボンを履いていた。

遺体に骨折、弾痕、大きな外傷は確認されず、凶器等も発見されなかったため、詳しい死因は分かっていない。すでに腐敗と浸潤が進んでおり、精子や血液の検出、付着物の確認はできなかったため、強姦被害も明らかではない。後に公開された剖検書には「下着の中から第三者の陰毛は発見されなかった」とだけ記されている。遺体からは異常な量の鉛成分が検出されたが、それにも納得のいく説明は見つからなかったという。

ウィアード誌は更なる調査のため、地元警察にアクセスして捜査の進捗を教えてくれるよう頼み込んだが、その度に強い抵抗に遭い、末には「1999年のハリケーンで捜査ファイルも証拠品も水没し、損壊した」と突き返される始末だった。未解決であるにもかかわらず、もうその事柄には触れてくれるなとでもいう警察の態度は不信感を抱かせた。

 

被害に遭った少女は「ごく普通のティーネイジャー」と評され、物静かだが親切で、ユーモアとやさしさを備え、親友に対してよき隣人でありながら毅然とした態度をとることもあったとされる。ロック音楽が好きで、時々はパーティーにも参加した。ストレートヘアが流行っていたため、くせ毛を矯正しようと日々努力を重ねていたという。

家族は66年にニュージャージー州ローゼルから越してきたが、それほど社交的ではなかったとされる。理由は定かではないが、越してからはカトリックからアセンブリーズ・オブ・ゴッド・福音教会(ペンテコステ派)に改宗し、熱心に奉仕に努めていた。

キリスト教組織としては20世紀初頭に誕生した比較的新しい宗派で、全国で9番目の規模と決して異端な宗派ではない。宗派の特徴としては、信仰によって精霊による賜物(バプテスマ)として異言(グロソラリア。神の言語)を話す権利を有し、使徒として大使命(世界に福音を示すこと)を果たすことができると考えている。

だが伝統的にカトリックを信仰したイタリア系アメリカ人社会で改宗は珍しいことで、親族には「二級国民扱いされていた」と被差別意識を主張する者もいた。

 

当時の時代背景に目を向けると、60年代後半から反戦運動や保守的規範へのカウンターカルチャーとしてヒッピー・ムーブメントの一大潮流があった。若者を中心として消費社会や近代合理主義に対抗し、自然主義への回帰をそのライフスタイルで表現した。

更に反キリスト主義は、東洋思想、神秘主義サイケデリックドラッグ、セックス革命、サイエントロジー、終末思想などとの接近をもたらし、グループ独自の理想郷を求めて各地でコミューンが営まれた。最たる負の事例として、カルト教団マンソン・ファミリーによる連続殺人などの悲劇を生んだことでも知られる。

その一方でキリスト教保守派からもヒッピー・ムーブメントに触発されるかたちで、70年前後にジーザス運動と呼ばれる信仰復興運動が起こっていた。事件前の72年6月には大学生向けの社会活動・伝道団体キャンパス・クルセイドと共催でダラス・コットンボウルスタジアムを貸し切って音楽と伝道のための学生会議「Explo’72」を開催し、一週間で8万人もの学生参加者を集めている。メディアは「クリスチャン・ウッドストック」として肯定的に大きく取り上げた。

 

被害状況、犯行動機や容疑者がはっきりしないなか、一部のメディアは彼女の信仰とそうした世相をこの怪死事件に絡めた。

殺人捜査が魔術カルトに光を当てる

ニュージャージー州エリザベスタウンで発行されていた「デイリージャーナル紙」の記事は、「少女の死に関する捜査は、黒魔術と悪魔崇拝の要素に焦点を当てている」と伝え、管轄署の署長による「署の何人かが(捜査協力のため)魔女を連れて行ったと聞いているが、それについては何も知らない」との発言を引用している。記事はカルト宗派の魔術集会によって生贄にされたのではないかという儀式殺人説を提起していた。

被害者が通った教会の牧師も個人的な見解だとした上で、「彼女は信仰が厚く、友人たちにも神の教えについて話し聞かせていた」「その信仰心ゆえに(敵意を抱いた)悪魔崇拝者によって捕らえられたと信じている」と語った。

 

現場に近接するワチュン居留地はユニオン郡でも最大の自然保護区域で、固有種や希少動物も生息する手つかずの自然が多く、原住民の壁画洞窟や初期入植者の廃村跡など現代人にとってはミステリアスなシンボルが点在する。そのような場所に神秘のルーツを、あるいはオカルティックな陶酔感を求めて悪魔崇拝者や魔女が集っていたとしても不思議はないように思われた。

警察までもが蓋をしようとするその背景には、町が「第2のマンソン・ファミリー」や「魔女集会の巣窟」と喧伝されることを危惧したとも考えられた。マスコミが事件をセンセーショナルに報じれば、更にそうした集団の流入を招く恐れもあり、「町の平和を守る」ために事件そのものを隠匿したのではないか。

北米において住宅はステータスの側面が強く、社会的成功を見込める家庭では役職や企業の規模、ライフステージの変化に応じて、元の家屋を売りに出して新居を購入する機会が多い。高級住宅街において「治安の良さ」が付加価値となるため、住民側は資産価値を、自治体の側も町のブランドを守ろうとする。時代的に見てもそうした風評に対して過剰な防衛策をとったとしてもおかしくない。

しかしインターネットの普及以前にも拘らず、皮肉なことに事件そのものが忘れ去られても尚、四半世紀にわたってユニオン郡内でその「奇妙な噂」はしずかに継承されていたのである。

 

ジョン・リスト事件

パルマ事件発覚の10か月ほど前、同じニュージャージー州の高級住宅街ウエストフィールドで凄惨な一家5人殺しが発覚し、センセーションを呼んだ。

1971年11月、ヒルサイド431番地、会計士ジョン・リストの邸宅では、昼夜を問わずクラシック音楽が鳴り響き、夜は明かりが灯っていた。元々近隣住民との交流はあまりなかったが、家族を訪ねて度々来客があるようだがひと気がないとして警察に相談が寄せられていた。

12月7日になって警官が無施錠の窓を見つけ、邸宅に立ち入ると、ホールに並べられた寝袋の上に妻へレンと3人の子どもたち、2階寝室からはジョンの母エルマの射殺死体が見つかった。部屋は腐敗を防ぐために冷房がかけられたままで、凶器は9mmシュタイアー小銃、コルト22口径リボルバーであった。

学校へは病に伏している母方の祖母を見舞うためにしばらくノースカロライナ州に行くと休暇が届けられていた。牛乳、新聞の配送を断り、郵送物も局留めにするよう手続きが取られていた。

事件の発生は11月9日とみられ、ジョンは子どもたちが学校に出た後、母親と妻を射殺。帰宅した二女と二男を立て続けに後頭部から撃ち抜いた。自ら作ったサンドイッチを携え、車で銀行に出向いて自身と母親の口座を閉鎖する手続きを済ませた。長男の通う高校へ行き、彼のサッカーの試合を観戦した。帰宅後、長男を手に掛けようとしたが抵抗に遭い、何度か不発を繰り返したが事を成し遂げた。

 

リストの書斎机には地元教会の牧師宛に殺害を告白する5ページの手紙が残されていた。

仕事の失敗による解雇や多重債務により経済的破綻に陥ったことや、子どもたちは趣味にうつつを抜かして宗教的成長が見込めないこと、貧困によって悪意が蔓延れば家族が神の御心から離れてしまうため、そうなる前に家族を天国に送り出すことこそが唯一の「救済」である、と自己の行いを正当化する内容であった。

John List Family

リストは会計管理者として企業を渡り歩き、65年にはジャージーシティ銀行の副頭取兼監査役の座にまで就いた。敬虔なクリスチャンで日曜学校の教師も務めていた。立派な邸宅を構え、子どもたちも成長し、傍目から見れば社会的成功をおさめて満ち足りた生活のように見えたかもしれない。

だが内向的でプライドが高かったリストは、銀行閉鎖により失職したことを家族に打ち明けることができなかった。

妻へレンは長らくアルコール依存と(前夫による)梅毒に冒されており、「無精で偏執的な隠遁者」へと変貌していた。しばしば公の場で夫の性的能力に不満を漏らして屈辱を与えていたと言い、彼女の理解を得て共に新たな生活を築いていくことは絶望的に思われた。

男はようやく築いた成功者としての暮らしを手離すこともできず、生活保護の受給をも拒否していた。普段通り出勤するふりをして駅で新聞を読み耽りながら、母親の銀行口座から生活費を工面していたことを手紙で告白した。

 

犯行は極めて理知的に遂行され、現場はきれいに片づけられており、写真からは自身の顔を全て切り抜く周到ぶりだった。点けっぱなしにされていたラジオのキリスト教系チャンネルは偽装工作というより家族に捧げるレクイエムにも思われた。

リストの車がニューヨークのJFK空港で見つかり、本人の搭乗記録は見つけられなかったが「高飛び」とも推測され、全米に指名手配がかけられた。失踪直後に起きたハイジャック事件では、自暴自棄になったリストの犯行ではないかとも疑われ注目を集めた。

72年8月に無人となっていた邸宅は放火されたが、74年には同じ場所に別の邸宅が建てられた。彼はドイツ系アメリカ人でドイツ語を解することから国際手配までなされたが、消息は18年間ほぼ完全に途絶え、もはやコールドケースかと思われていた。

 

しかし捜査当局は、1989年に開始されたFOXテレビの公開捜査番組『America’s Most Wanted』に掛け合い、事件の再現ドラマ製作と追跡調査を依頼。

発見された2枚の写真を手掛かりに復顔を再現し、事件から18年経った「64歳現在のジョンの胸像」が公開された。ジョン・リストは敬虔なルター派信徒でその教義から整形手術はしていないと推測されていた。また心理学者は、成功の日々に執着して、若い頃と同じ眼鏡をかけるのではないかと理論づけた。

5月の放映は全米でおよそ2200万人の視聴者があった。その反響の中でバージニア州リッチモンドに住む女性から「隣人のロバート・クラーク氏に驚くほど似ている」という通報が入った。彼は会計士の仕事をしながら教会に通っていると付け加えた。

 

6月1日に逮捕され、ニュージャージー州当局に引き渡された男は半年以上にわたってロバート・クラークだと維持し続けたが、軍歴や指紋、現場で得られた証拠を突き付けられて、90年2月16日に自白を開始する。

ジョン・リストは2度の従軍によるPTSDの影響と失意とプレッシャーによる心神喪失だったと述べ、弁護側は牧師に宛てた手紙は秘密通信の暴露に当たり、法的証拠性をもたないと主張。

ニュージャージーからは電車でミシガン州へと移動し、その後、72年からデンバーに定住し、85年に陸軍のPX(基地内販売店)事務員のデロレス・ミラーと教会で知り合って結婚。夫婦は88年にバージニア州に引っ越して新たに会計事務所に勤めていた。

精神鑑定では強迫性パーソナリティ障害と診断され、「権威主義的な父親像」からの逸脱を忌避するために家族の殺害を正当化していると推察された。裁判所は被告人、弁護側の主張を斥け、第一級殺人5件すべてに州の最高刑となる終身刑を下した。


2002年にリストははじめてABCニュースの獄中インタビューに応じ、「汝殺すべからず」の教えに反した行動を深く反省し、許しを求めて祈ってきたと後悔を語った。なぜ自らの命を絶とうとしなかったのかと問われると、家族との再会を願っていた、自殺すれば天国に行くことは叶わなくなると述べた。その言葉は、牧師への手紙や裁判当時からほとんど認識のブレがない利己的な保身のように思われた。

ジョン・リストは肺炎をこじらせて医療センターに移送されたが、2008年3月に82歳で死亡した。逮捕に重要な役割を果たしたフランク・ベンダー制作の胸像はテネシー州アルカトラズ東部犯罪博物館に所蔵されている。

 

社会的成功者がファミリー・キラーへと変貌した本事件はニュージャージー州でも最も悪名高い事件のひとつとなった。ウエストフィールドはデパルマの暮らしていたスプリングフィールドから数マイルで、同様に「治安のよいエリア」と認識されており、事実、1963年以来ほとんど暴力犯罪が記録されていなかった。警察組織に凶悪犯罪の経験の蓄積がなかったことも両事件の捜査混迷の一大要因だったと見ることができる。

ともすればデパルマ事件後に警察署長がメディアに漏らした「魔女発言」は、証拠に基づく捜査状況というより、犯人の目星がつかないこと、自分たちの手には負えない事件であることを暗に示唆していたのかもしれない。

 

スーサイド・タワー

ワチュン居留地の南東に位置し、ユニオン郡スプリングフィールドに隣接するマウンテンサイドでは「スーサイド・タワー(自殺の塔)」と呼ばれるいわくつきのスポットがある。具体的な心霊目撃などの報告こそないが、実際に1975年1月16日、地元高校生グレッグ・サンダース(15歳)が自宅から800メートル離れた山の中腹にある給水塔から飛び降り自殺をしていた。

スーサイド・タワー

少年は名門私立校に通う優等生で、学友たちから慕われていた。学校関係者や家族の知人らは異変や事件の予兆らしきものはなかったと口を揃えたが、自殺を遂げるばかりか、少年は斧で両親をも殺害していた。

警察の見立てでは、現場となった自宅室内の状況から、銀行の副頭取をしていた父親トーマス(48歳)は夜9時ごろにリビングで襲われたと推測されている。キッチン方向に逃げのびようとしたが、三度にわたって斧で追撃を受け、身動きできなくなったところを更に8回ほど殴打されて絶命したものとみられた。母親ジャニス(44歳)は2階の寝室で夫の騒ぎを聞きつけ、階下に降りたところを襲われたと考えられたが、近隣住民で物音などに気付いたものはいなかった。

少年は最終的に手首を切り、遺書を手書きした後も死にきれなかったのか、高さ150フィートから転落することを選んだ。被疑者死亡により、犯行動機は明らかではないが、自殺して両親を悲しませることを避けるために先に殺した心中事件と信じられている。捜査関係者は、家庭に何か問題があった、少年に殺害や自殺する動機があったとしても、両親にしか知りえないことだと述べた。

 

だが一部報道では、級友の証言として次のような内容が伝えられた。授業中に騒ぎを起こして教師から注意を受け、そのことで教科を減点する旨のレターを両親に渡すようにと命じられた。グレッグは友人に「教師を殴ってもいいし、レターに細工をしてもいいし、自殺してもいい」と自らの選択肢を語っていた、と。

当時のメンタルヘルスケアの遅れや周囲の人々の不理解によってもたらされた悲劇と捉える見方もある。級友証言とされるものが事実か否かは定かではないが、「動機は両親しか知りえない」とした捜査関係者発言には、やはりどこか捜査熱意の低さも感じさせる。

そして少年や家族に「兆候はなかった」とするエリート社会の人間関係の中にも、安定した暮らしに「波風を立てずにおきたい」、事件と「関りになりたくない」心理があったのではないかという気がしてならない。

1960年代にできた貯水槽には展望台と螺旋階段が設置されていたが、事件後に撤去されている。少年が最期に目にしていたであろう夜景は永遠に封印されてしまった。

 

噂の真偽

ウィアード誌によるスプリングフィールドの退職警官への取材では、ジャネットさんの遺体発見場所は「パーティー会場だった」との見解が繰り返し語られた。

少女は10代の仲間たちとパーティーをし、薬物を過剰摂取したために命を落としたのではないかという仮説である。彼らは自分たちが犯した違法行為(飲酒、喫煙、薬物、乱交など)によって訴追されることを恐れて救助義務を怠り、昏睡した彼女を放置して逃げ去ったと見ていた。実際にジャネットさんの交友筋にも麻薬中毒者が確認されていたというのだ。

無論、社会的立場のある家の子どもたちであれば、法的逸脱が公になることを過剰に恐れもするだろう。そうした説明は、カルト教団による宗教的報復や魔女集会の生贄説に比べれば一般にも受け入れやすい説得力を持つように思えた。

 

ポラック氏はデパルマさんが失踪当日に会いに行こうとした従妹ゲイル・ドナヒューさんへの取材に2014年になって成功した。

ドナヒューさんは前夜知り合った2人の少年と一緒に遊ぶことを彼女に提案しており、デパルマさんは午前中に用事があったため午後1時20分頃に家を出て、母親には駅まで歩くと嘘をついて、8マイルの道程をヒッチハイクで駆けつけるつもりだと話していたという。

こうした証言は、16歳の少女がヒッチハイクや異性を交えたパーティーに抵抗感がなかった証左ともいえる。

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日本の秘密主義な刑事司法と異なり、アメリカでは公共団体の保管する文書や収集した情報は公共財として市民がアクセスする権限が広く認められている。

マーク・モランと特派員ジェシー・ポラック氏は上のような説明のみでは納得せず、真相解明を求めた。彼らの熱意はデパルマさんの甥にあたるレイ・サジェスキーさんの協力を得ることに成功し、専門家の助言を得て、警察の開示拒否に対する不服申し立て、州への開示請求を重ねて申請した。

そこから当局担当者の人事異動やコロナ禍による遅延を経て、2021年、ユニオン郡検察局から事件の捜査記録を入手する。

遺体発見現場を記した捜査官グレン・オーウェンズによる手書きメモは、遺体周辺の折れ重なった倒木を簡易的に描いたものが、偶々四角形を象っているかのように見える程度であった。遺体とともに撮影された現場写真と照らし合わせても、我々がイメージする「棺」や「祭壇」とは程遠い状況で、ひいき目に見てもイラストの稚拙さを「誇張した表現」であった。

また実際の現場に足を運ぶと、退職警官の話からイメージされたよりもはるかに草木が鬱蒼と生い茂った場所で、若者が「パーティー」をするにふさわしくないことは火を見るより明らかだった。

開示された書面にも、遺体周辺で見つかった遺留品はデパルマさんの所持していたポーチの中味(カギ、コンパクト、口紅、櫛、ティッシュ、ヴィックス吸入器、アイシャドウ)、サンダルのみで、家族から財布と十字架のネックレスが所在不明と報告されていた。

パイプや吸い殻、酒瓶や注射器、飲食物の類は一切記録されていないし、動物の死骸入りの瓶や木製の十字架があったとの報告もない。逆に退職警官はなぜ「パーティーで死んだ」という見解にたどり着いたのか見当がつかない。なぜ報道がオカルト的な要素に偏ることになったのか、どうして警察は証拠開示を、事件への再接近を頑なに拒み続けたのかという問題も残されていた。

 

ウィアード・ニュージャージー誌の導き出した結論は、事件そのものにオカルト的要素はなかった、オカルト的要素をメディアに流布することで、あまりにも手がかりの出ない捜査の失敗を揉み消そうとしたというものだった。

当時の地元警察の捜査能力について、私たちは詳細な情報をもたないが、現場状況から合理的に考えれば金銭ないし強姦目的の「流し」の犯行と目星が付く。だが今日のように防犯カメラや携帯電話もない、目撃者すら期待できない山間部で、死因さえ曖昧な死後1か月が過ぎた遺体が見つかっても、犯人の手掛かりは皆無に等しい。

筆者としては、警察組織の意向として揉み消す意図があったというより、捜査員の中にその宗教的意識から悪魔崇拝や魔女に激しい嫌悪を示す者がおり、過剰反応を示していたのではないかと考えている。その手の発言があったことを聞きつけたマスコミ側が誘導して署長の「魔女」発言が引き出されたように思える。捜査に進展がない以上、各紙が手を変え品を変えてコメントを引き出し、単に注目度を上げるために脚色した結果ではないかと推測する。

被害者の年齢から見ても、通報当初から家出人扱いされて真剣な捜索活動が為されてこなかった可能性が高い。そうした後ろめたさからの責任逃れ・批判逃れの側面もあったのかもしれない。

 

事件の現在地

オカルト的な噂の真偽は地方ミニコミ誌の尽力でほぼ解明されたように思えるが、事件そのものは発生から半世紀を経た今も解決されてはいない。

ニューヨーク市で家出人捜索を専門とする私立探偵をしていたキャリアを持つエドワード・サルツァーノ氏は、2010年代になって事件のことを知って調べ始め、被害者の衣類をDNA型鑑定にかけるよう当局に対して訴訟を起こした。遺族関係者でもないため訴訟資格はないとして棄却されたが、ユニオン郡検察局から「殺人特別委員会の捜査は現在も継続されている」との言質を引き出した。

サルツァーノ氏もまた運動能力が高くなかった被害者がサンダル履きで自発的に山に入ったとは考えられないとして「パーティー説」には否定的だ。また犬が咥えてきたというエピソードも脚色の疑いがあり、犯人がその自己顕示欲から右腕だけを住宅街に遺棄したものではないかと主張している。

彼はジャネット・デパルマさんの甥ジョン・バンシーさんらと共に不審死ではなく未解決事件として周知し、当局の捜査を前進させ真相を解明することを目的とした団体Justice for Jannetteを設立し、彼女の名前を冠した奨学金基金立ち上げのための寄付を募っている。

justiceforjeannette.com

 

証拠の欠如、捜査機関による妨害、時間的な風化などによって事件の実態解明は、ようやく振出しに戻った感がある。

だが近年、真犯人として有力視される情報がひとつ報告されている。

 

1980年5月、長年「ニューヨークの切り裂き魔」の異名で恐れられていた連続殺人犯リチャード・フランシス・コッティンガム(当時33歳)が逮捕された。

コッティンガムは売春婦を宿に連れ込み、ナイフを喉元につきつけて手首に手錠をかけ「他の女たちと同じように命令に従え」「お前は売春婦だから罰を受けなくてはならない」と脅迫しながら性的強要と暴行を繰り返した。彼女は男の命令に従うふりをして隙を窺い、枕元に男が隠していた銃を抜き取るとすぐに引き金を引いた。しかし男が脅しに使った銃はレプリカで着火せず、逆に男がナイフを手に襲い掛かってくると彼女は「オーマイゴッド!」と叫び声を上げた。騒ぎに気付いたモーテル従業員が警察に通報し、駆け付けた警官が男に本物の銃を突き付けて御用となった。

 

コッティンガムはニューヨーク州ブロンクスに生まれ、12歳でニュージャージーに移った。彼の父親は保険会社の副社長で、弟が二人いた。20歳からコンピューターオペレーターの職に就き、3年後に結婚し3児を授かった。不倫や精神的虐待、家庭放置などを理由に78年に離婚されたが、逮捕まで仕事は続けていた。

10代から殺人に手を染め、主に売春婦を相手にデートに誘い、アモバルビタールなどをレイプドラッグとして使用し、凶器で脅迫しながら性的暴行や筆舌しがたい拷問のかぎりを尽くした。ときに過剰な拷問が殺人へとエスカレートする場合もあったが、逃走されたり、女性の性的経験不足に腹を立てたりして性交に及ばず殺害することもあった。死亡させた数は100人は下らないと主張しているが、正確な数は判明していない。

殺害されて下水道に遺棄された犠牲者もあれば、モーテルや道端で瀕死のところを放置され、九死に一生を得た被害者もあった。67年から80年までの間に、ニューヨークのほか、フロリダ州コネチカット州ペンシルベニアボルチモア、そしてニュージャージーでの犯行が確認されており、被害者たちから奪った貴金属類をトロフィーと保管していた。

コッティンガムは「女が悪い」という理由で長らく無罪を唱えてきたが、84年までの裁判ですでに二百数十年にも及ぶ終身刑判決を受け、事実上、生きて監獄を出ることは不可能となった。

2000年以降、訴追免除を条件にその他の未解決事件、行方不明事件についても再聴取が行われており、数多の余罪について自白を開始し、裏取り捜査が続けられている。

そうしたなか2021年春、ジェシー・ポラック氏に対し、ヒッチハイク中だったデパルマさんを誘拐して殺害した可能性を示唆する書面を送った。コッティンガムの書面は『悪魔の歯に死す』2022年改訂版に掲載された。

2023年現在、コッティンガムは76歳。検察側は公式に受刑者の犯行と認めるに至ってはいないが続報が待たれるところである。

 

被害者のご冥福を心よりお祈りいたします。

 

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参考

NJ cold case: What happened to Springfield's Jeannette DePalma in 1972

1971 Family Killer Breaks Silence - ABC News

Judge tosses suit seeking DNA testing in teen’s mysterious 1970s death locals thought was satanic sacrifice - nj.com