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気になる事件と考えごと

佐賀女性7人連続殺人事件【水曜日の絞殺魔】

1975年から89年の間に佐賀県で発生し、同一のシリアルキラーによる犯行も疑われる7つの誘拐殺人、いわゆる“佐賀女性7人連続殺人事件”について記す。

すでに公訴時効により4件がコールドケースとなったが、7件の連続性についても考えてみたい。長い期間をかけて狭い地域で繰り返されてきた犯行と考えると、北関東連続幼女誘拐殺人事件とも重なるものがある。

 

7つの殺人事件を結び付ける共通点として、被害者が全員女性金品狙いではないこと、佐賀市を中心として半径20キロの狭い範囲で発生していること、被害者たちが行方不明となった日時が1件を除いて「水曜の夕方から夜」にかけてであること、死因不明の3件を除き「絞殺か扼殺による窒息死」であることが挙げられる。こうした特徴から犯人について“水曜日の絞殺魔という呼称も存在する。

 下の地図の「紫マーク」は行方不明になったと思われる地点、「橙色マーク」は遺棄された現場付近のおおよその位置関係を示したもの(正確な位置を示すものではない)。

 

■概要

ここでは遺体の発見時期ではなく行方不明となった順に、事件①~⑦、人物A~Gと表記する。

 

①1975(昭和50)年8月27日、杵島(きしま)郡北方町大渡在住の中学生Aさん(12)が自宅から失踪。28日0時半頃に母親が勤め先から帰宅すると、Aさんの姿はなく、電気やテレビは点けっぱなしの状態で布団が敷いてあった。80年6月27日、須古小学校プール横トイレの便槽内から白骨化した遺体となって発見された。死因は不明。

Aさんは母娘2人暮らし。普段は母親がAさんを学校まで迎えに行き、勤め先のスナックの控え室で勉強させ、仕事を終えると一緒に帰るという生活を送っていた。

失踪当日は夏休みの宿題をするために偶々自宅に居り、母親が出勤後も友人を招いて遊んだりして過ごしていた。友人は19時頃に帰宅し、その後、Aさんの行方が分からなくなった。自宅は物色された様子もなく、金品などが奪われた形跡はなかった。

プール開きに先駆けて80年6月18日に衛生作業員が汲み取りを行っていたが、その際に「便槽内に石がいっぱい詰まっていた」と学校側に話していた。プール横トイレは、山の斜面に接しておりバキュームカーが横付けできない立地だったため、2年に1度、便槽の蓋を開けずに便器側から汲み取り作業を行っていた。校内で先に発見された②Bさんの遺留品捜索の際、教頭は捜査員にその話を伝えた。汲み取り口の蓋を開けて確認すると、遺体の上に約30個の石(「大小100個」とも)が敷きつめられた状態でその下に遺体が発見された。失踪時と同じ着衣だとして、Aさんの母親により本人と確認された。

 

②1980年4月12日、杵島郡大町町(おおまちちょう)福母在住の飲食店アルバイト従業員Bさん(20)が一人で留守番していた自宅から行方が分からなくなった。同年6月24日16時頃、自宅から約5キロ離れた須古小学校の北側校舎にある低学年トイレの汲み取り作業中に便槽から全裸の遺体で発見された。

Bさんは6人家族だったが、弟は県外で働いており、父親は建設作業の事故により入院中、母親はその付き添いで家を空けており、姉と妹は知人宅に外泊に出ていたため、家には偶々Bさん一人だった。履物は残されており愛用のネグリジェがなくなっていたことから、23時30分頃には勤務先から帰宅し、就寝の前後に何者かに連れ去られたと考えられた。その後の調べで3月末に購入したばかりの腕時計がなくなっていたことも判明した。

Bさんは明るく真面目で勤務態度は良好。だが店の雑記帳に「考えることすらあの人のことばかり」という文言を書き残すなど恋愛関係で悩みを抱えていた節があったという。過去には睡眠薬による自殺未遂を2度繰り返し、「20歳の誕生日に自殺する」と周囲に話したこともあった。

失踪直後の16日頃には自宅に「娘ハ帰ラナイダロウ」「苦シメ」といった文言の手紙が父親宛に届き、若い男性の声で「人探しのテレビに出るな」といった脅迫電話も数回掛かってきた。

遺体は①より②の方が先に発見されている。肺に異物は含まれていなかったことから殺害後に便槽内に遺棄されたと見られた。死後20~60日程度は経過したものと見られ、腐乱状態で顔は判別できず、指紋から行方不明中のBさんと判明。死因は特定されなかったが目立った外傷はなく、絞殺の可能性が指摘されている。

一方で、27日の捜査によれば、便槽付近に血液反応は検出されなかったものの、プールの男子更衣室の床と壁から多量のルミノール反応が確認された。しかし当時の鑑定技術のためか、血液反応と被害者らとの関連は明らかにされていない。

業者によれば前回の作業は4月21日で、そのとき槽内に異常は確認されなかった。また6月10日の大掃除の際、便槽付近で児童が両手に一握りずつの「赤い髪の毛」を発見しており、便槽の蓋にも同様の髪の毛が付着しており、その後の調べで共にBさんの毛髪と確認された。

①②については大町署、白石署による合同捜査本部が設置された。7つの事件の内、本件のみ被害者は水曜日ではなく土曜日に失踪している。

 

③1981年10月7日、杵島郡白石町東郷在住の縫製工場勤務Cさん(27)が、退社後の17時30分頃に近くのスーパー駐車場で赤茶色の車に乗った30代と思しき男性と親し気に話している姿を同僚に目撃されたのを最後に失踪した。同月21日、最後の目撃地点から約40キロ離れた三養基(みやき)郡中原(なかばる)町の空き地で、首に電気コードを四重に撒かれた絞殺遺体で発見された。

Cさんが勤めていた縫製工場は、現在のJR北方駅西側、住所で言うと北方町志久である。発見現場は柵がされており、容易に侵入できる場所ではなかったとされる。遺体はネーム入りの作業着姿のままで、腐乱が進行していたが着衣の乱れはなかった。

Cさんは行方不明となる前に連日欠勤しており、5~6日間の行動が分かっていない。会社には「母親の看病のため」と説明されていた。

 

④1982年2月17日、三養基郡北茂安町白壁在住の小学生Dさん(11)が、下校途中の16時20分過ぎに友達と別れたあと行方が分からなくなった。心配した家族は20時40分頃に警察に届け出、翌18日朝から消防団員ら150人が約3キロの通学路を重点的に捜索し、正午前に北茂中学校体育館北側のミカン畑で、ランドセルを背負ったままストッキングで絞殺された遺体となって発見された。③発見現場の空き地から約2キロ。

Dさんの通学路はおよそ3キロほどの区間で、民家のまばらな丘陵地を通るルート。友人とは学校近くで別れていた。発見現場は自宅と小学校のちょうど中間地点だった。遺体はうつ伏せ、下半身は裸で性的暴行が目的だったと考えられている。

近隣では白い車に乗った30代から40代の不審者が主婦や女児に声を掛けていたとされる情報が複数寄せられた。主婦が北茂安町内のバス停で待機していると「乗っていかんですか」と声を掛け、しつこかったため警察を呼びますよ(大きい声出しますよ、とも)と断ったところ睨みつけて去って行った。鼻筋の通った目のきつい細面の男だとされる。

14時30分頃、バス停から約5キロ離れた小学校付近で白い車に乗った男が「ピンクレディーの写真を見せてあげる」と下校途中の女児に声を掛け、女子便所に連れ込もうとして大声で泣かれたため退散した事案が発生していた。

15時10分頃、北茂安町で女子中学生2人に声掛け、15時30分頃には女子小学生3人に「家まで送る」といった声掛け事案が報告されている。

行方不明から2日後の19日、北茂安町、学校、保健所に宛てて、誘拐を示唆する手紙が届いたとする情報もある。犯人が殺害当夜か翌朝にも投函していなければ間に合わないものと思われるが真偽は分からない。

 

④の事件から7年後となる1989年1月27日18時前、北方町大峠(現在は志久に編入)で近隣の主婦(55)が花を摘もうと車を降りると、崖下に⑦の遺体を発見して警察に通報。捜査を始めると、わずか1~2メートルの間隔を置いて死亡時期や状態の異なる⑥、⑤の遺体も発見された。付近に下着などが点々と遺棄されていたが、他の遺留品は不法投棄に紛れてしまい発見できなかった。

⑤~⑦については発見場所の地名から「北方事件」とも呼ばれ、この3件について2002年に容疑者が逮捕・起訴された。

⑤1987年7月8日、武雄市武雄町富岡在住の飲食店従業員Eさん(48)が退勤後に同僚と温泉街のスナックで飲み、近くの西浦通りで別れた21時30分以降、自宅までの約1キロの間で失踪。Eさんは同僚にもう一軒行こうと誘っていたが、同僚は電車の時刻があると言って断っていた。89年1月27日、北方町大峠の雑木林で白骨遺体となって発見された。死因は不明。

9日0時を過ぎても帰宅しない妻を心配して夫は、こどもや同じ勤め先だったEさんの姉、Eさんの同僚ら、心当たりに連絡を取ったが行方は分からず。勤務先までの徒歩5分ほどの経路を探し回ったが見つけられず、捜索願を提出した。

1年半後に発見された白骨遺体は歯型によってEさんと判明した。

 

⑥1988年12月7日、杵島郡北方町志久在住の主婦Fさん(50)が、夕食後の19時20分頃、「ミニバレーボールの練習に行く」と言って700メートルほど離れたスポーツセンターに徒歩で向かったまま失踪。89年1月27日、北方町大峠の雑木林で腐乱状態で発見された。死因は扼殺。

郵便局に勤める夫と3人の娘が居り、長女は嫁いで夫と同じ郵便局で働いていた。そのため、勤務時間中はFさんが長女の子どもの面倒を見ていた。

19時過ぎに次女が仕事の休憩時間に一時帰宅すると、Fさんは食事を終えてバレーの練習に行く支度をしていた。普段はバレー仲間と2人で練習に通っていたが、この日は友人が休んだため偶々一人で向かった。次女が仕事を終えて22時50分頃に帰宅すると、Fさんの姿はなく、あまりに遅いため問い合わせたところ、Fさんが練習に来ていなかったことが判明。家族で探しに出るが見当たらず、翌8日2時過ぎに捜索願を提出。

失踪から1週間後の昼間、自宅に不審電話が入る。夫が電話口に出ると、中年男性の声で「奥さん見つかったそうですね」と言われ、どこで見つかったのかと尋ねると「焼米(やきごめ)の方」と近くの地名を答えた。男性の名前を聞こうとすると「あんたの知った人間だ」と言って通話は途切れた。電話は録音されており、佐賀弁に関西弁が混じっていたとされ、その後も自宅や夫の勤め先には無言電話が数十件も続いた。

その後、北方中学校付近を車で通りがかった人物から、19時30分頃にFさんらしき人物と自転車を降りた様子の30~40歳くらいの女性が立ち話をしていたとの目撃情報もあった。

スポーツセンターから遺体発見現場まで約3キロ。発見された遺体は腐敗が進んでおり、胃の内容物が未消化のままであったこと等から、出掛けた直後に殺害されたものと推定されており、頸部に皮下出血と筋肉内出血、骨折が認められたため死因は扼殺とされた。また練習に持参したバッグや運動靴は見つかっているが、常用していた眼鏡は発見されなかった。

 

⑦1989年1月25日、杵島郡北方町大崎在住の縫製工場勤務Gさん(37)は19時頃に帰宅して長男、実母と夕食をとっていたが、19時20分頃に電話で呼び出された。食事を済ませると、作業着から白のカーディガンとスカートに着替え、身支度をして軽自動車で外出。武雄市内にあるボウリング場駐車場に車を残したまま行方が分からなくなった。89年1月27日、北方町大峠の雑木林で遺体となって発見。死因は扼殺。

Gさんは③Cさんと同じ北方町志久にある縫製工場に勤めており、前年から夫と別居して長男を連れて実家に戻っていた。電話に出たGさんは「今どこにいるの」などと話し、20秒ほどで通話を切った。家族には「友達の車がパンクした。山内町まで送ってくる」と言い残していた。

失踪の翌朝となる26日8時頃、登校途中の小学生がGさんのショルダーバッグを発見。翌27日9時頃に祖母が駐在に届けた。財布の中身はほとんど空の状態で、軽自動車の鍵も入っていた。遺体発見から約1時間後、Gさんの自宅から約3キロ離れた高雄市内のボウリング場でGさんの軽自動車が発見される。施錠されており、車内に乱れはなかった。白色のトヨタ・クレスタが駐車場に来てGさんが助手席に乗った、との目撃情報もあった。

遺棄現場周辺2キロ圏内で、Gさんの化粧品店ショッピングカードやメモ帳、商品券、運転免許証入れ(現金4500円が入ったまま)など、バッグから持ち去られたとみられる所持品が見つかったが、犯人の指紋は採取されなかった。

行方不明当時と同じ服装で発見されており、胃の内容物から食後約1時間以内に死亡したものとされた。また体や下着に付着したO型の精液も検出されており、外出した当日ではなく、前日に付着したものと推定された。衣類に付着した唾液のDNA型が後の容疑者逮捕の決め手とされる。

 

 

■重要参考人U

①②の遺体発見から半年後の1981年3月12日、重要参考人として浮上していた武雄市在住の農業Uさん(当時29)が3年前に起こした暴行事件で逮捕される。

UさんはBさんが行方不明となる以前からBさんの姉と交際していた。結婚を考えていたがBさんの家族からは反対されていたという。UさんはBさんの勤める喫茶店にもよく出入りしていた。一方でBさんが店の電話から若い男性に電話を掛けることもあったとされる。店の雑記帳にBさんが恋愛に悩んでいるような文言が記されており、Uさんについて姉とBさんとの二股交際も噂されていた。

またAさんの母親が勤めるクラブにも繁く通っていた。両事件では土地勘があり、両者とも屋内で抵抗した痕跡などがなかったことから「2人に面識のある人物」が犯人像とされており、日頃から素行不良とされていたUさんが別件逮捕での追及を受けることとなった。

Uさんは須古小学校の出身で、自宅も程近い場所にあった。Bさんの失踪当日4月12日は23時頃まで佐賀市内のバーで酒を飲んだ後、朝方帰宅したという不明瞭なアリバイだった。

Uさんは別件の暴行容疑については認めたものの、Bさん殺害については関与を否定。家宅捜索により「娘ハ帰ラナイダロウ」の手紙と同じ便箋を発見し、筆跡鑑定によって脅迫の容疑で逮捕したが、Uさんは否認を続けた。県警はUさんの交友関係も次々と逮捕して情報を引き出そうとしたが、事件に直接つながる証拠は得られることなく、Uさんへの追及は打ち切られたとされる。

①から④の事件については、一度も起訴されることなく公訴時効が成立した。

 

■容疑者M

1989(平成1)年11月、覚せい剤取締法違反で服役中のMさん(当時26)が任意の取り調べに対し、⑤~⑦のいわゆる北方事件について犯行を認める供述を行い上申書が作成される。しかしMは直後に否認に転じた。

Mさんは84年7月20日に窃盗・覚せい剤使用の罪で執行猶予付きの有罪判決を受けたあと、北方町の実家に戻って農業手伝いをし、12月から鹿島市生コンクリート輸送の運転手の職に就いた。85年頃には覚せい剤使用を再開し、86年に結婚。実家で母親、妹、嫁と4人で暮らしていたが、浮気やDVがあったとされる。87年10月、覚せい剤使用で再び逮捕、12月に懲役1年2か月の実刑判決を受け、服役した(88年3月に妻と離婚)。

88年9月に仮出所し、再び運輸ドライバーの職を再開。12月初旬、⑦Gさんが嫁ぎ先から北方町大崎の実家に戻っていることを知り、連絡を取った。Gさんは12月から89年1月にかけて19時頃に電話を受けて、しばしば外出するようになった。Gさんは一緒に住む母親らには事情を語らなかったが、妹にはMさんとの交際関係を打ち明けていた。

公訴時効が迫った2002年6月、佐賀県警は鹿児島刑務所に服役中のMを⑦Gさん殺害の容疑で逮捕。7月2日に⑤Eさん殺害容疑、9日に⑥Fさん殺害容疑で再逮捕。

同02年10月に佐賀地裁で公判が開始され、検察側は死刑を求刑。しかしM被告による犯行を裏付ける物証の乏しさ、さらに上申書は限度を超えた取調べ(平均12時間35分の取調べが17日間連続で行われていた)での取調官による誘導と強制によって作成された違法収集証拠であり、任意性にも疑いがあるとして証拠能力を否定。05年5月、無罪判決が下される。 

2007年3月、福岡高裁(正木勝彦裁判長)で行われた二審において、検察側は被告の車内にあった写真の付着物から検出したミトコンドリアDNAが⑥Fさんのものと一致したとの鑑定結果を提出し、状況証拠から殺害があったと主張。弁護側はミトコンドリアDNA鑑定では「同じ型を持つ人は20人以上おり、(被害者)女性の特定にはつながらない」と反論。有罪とする根拠たりえず、一審同様に無罪と判断され控訴棄却。4月2日、検察側は上告を断念し、Mさんの無罪が確定した。

初動捜査のミスや自白頼みの捜査体質、さらに遺体から採取した証拠品の紛失などが明らかとなった県警は、「判決を真摯に受け止める」としながらも捜査については「適正だった」「また県民が安心して暮らせるよう捜査を尽くした」と説明。却って市民の不安を打ち消せないままに捜査終結という最悪の結末を迎えた。

 

■DNA型鑑定と冤罪、足利事件飯塚事件

1990年5月、栃木県足利市のパチンコ店から4歳女児が攫われ、近くを流れる渡良瀬川河川敷で翌朝遺体となって発見された。「子ども好きの独身男性」というプロファイリングから園児の送迎バス運転手をしていた菅家利和さん(事件当時43)に疑惑が向けられ、91年12月、違法採取された体液のDNA型が被害者の下着に付着していたものと一致したとして逮捕された。

菅家さんは実刑判決を受け服役生活を余儀なくされたが、支援者らの働きかけにより、2009年5月にDNA型の再鑑定への道が開かれ、その結果、2010年3月、再審無罪が確定した。再審開始前の2009年6月、伊藤鉄男次長検事が「真犯人と思われない人を起訴、服役させ、大変申し訳ない」と無実を前提とした異例の謝罪を行った。女児殺害の真犯人逮捕には至らず公訴時効が成立した。

足利事件の背景として注目されるのは、DNA型鑑定技術の未熟さと技術導入のために「結果・実績」が求められていたことと、その実績を打ち消さないために長らく再鑑定が忌避されてきたことである。当時の鑑定法は「MCT118型」検査という1989年ごろに導入されたもので、その精度は「1000分の1.2」の確率で他人と一致する可能性があるものだった。また読み取りに修練が必要なことから鑑定人によって異なる結果が導かれかねない不安定な手法だった。当時の見込み捜査の誤り、犯行の実証的な裏付けではなく自白ありきの捜査体制と虚偽供述の強要、捏造の有無については明らかではないものの「科学捜査」偏重によって生み出された冤罪である。尚、現在では「MCT118型」検査の導入は時期尚早だったと評されている。

2003年、血液や汗、皮脂から検出される塩基配列の繰り返しが個人によって異なることから、4個の塩基配列を基本単位とする「STR型」の鑑定法へと切り替わり、自動分析装置フラグメントアナライザー導入により「1100万人に1人」まで精度を向上させた。06年以降は「約4兆7千億分の1」の出現頻度で個人識別が可能となる。さらに2019年には新たな検査試薬が導入されたことで飛躍的に精度が向上し、「565京分の1」という確率で個人を識別できる(2019年2月28日、日経)。

DNA型鑑定導入開始から20年間でその精度そのものは飛躍的に向上されており、遺留DNA型からの事件解決も着々と進められている。その一方で、和歌山毒物カレー事件の冤罪疑惑でも取り沙汰されている通り(こちらはDNA型鑑定ではないが)、人的な過誤や科学捜査による冤罪被害に結び付けられないようDNA型採取やその運用により一層の留意が必要となる。「565京分の1」の確率で犯人だという鑑定結果を示されてしまえば、一般人にはそれを覆す術はないに等しい。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

1992年2月、福岡県飯塚市の小学1年生2人が登校中に行方不明となり、翌日隣接する甘木市で強姦遺体で発見された。被害者の失踪現場や遺留品が見つかった山間部での「ワゴン車」の目撃情報から福岡県内で127台が該当車両とされ、94年6月、近くに住み、該当ワゴン車の一台を所有していた久間三千年が逮捕される。

一貫して犯行を否認したが、車の目撃証言のほか、被害者に付着していた繊維痕が被告人の車両のシートと酷似していたこと、被害者は失禁しており被告人車両シートに尿痕があったこと、犯人に陰茎出血があり被告人の病状に一致していること、被害者に付着していた犯人の血液型、DNA型が被告人と同一のものと認定され、99年9月に福岡地裁は死刑判決を下した。2001年10月、福岡高裁は控訴棄却、06年9月に最高裁は上告を棄却し、久間の死刑が確定した。

この事件でも「MCT118型」のDNA型鑑定が用いられ、科警研の担当者も足利事件とほぼ同様のメンバーであったことや、目撃証言の不審さなどから、「東の足利、西の飯塚」と冤罪疑惑が取り沙汰されている。

2007年1月以降、(当時)日本テレビ報道部・清水潔氏が中心となって特別番組『ACTION』、『バンキシャ!』などで、1979年以降に群馬・栃木県境で発生したいわゆる北関東連続幼女誘拐殺人事件の再検証キャンペーン報道を張り、足利事件で逮捕された菅家さんの冤罪とDNA型再鑑定の必要性を訴えた。2008年10月17日、足利事件で再鑑定実施の見通しが発表。しかしその1週間後となる24日、森英介法相が死刑執行を命令し、28日、判決確定から約2年で久間の死刑が執行された。

法的には判決確定後、執行までの期間は(心神喪失者や懐胎中の場合を除き)「6か月以内」と規定されており、その裁量は法務大臣にある。一方で、現実には「6か月以内」に刑が執行されることは極めてまれで、死刑確定から執行まで平均すると5~10年程度であり、執行の遅れに対する批判もある。また再審請求中であっても死刑執行をしないという考え方ではない。

しかし、冤罪の懸念もあり、マスコミによる大々的な冤罪報道で「MCT118型」DNA鑑定の問題点が明らかとなりつつあった渦中で、飯塚事件の執行が行われたことについて日本弁護士連合会は「異例の早さ」との表現を用い、「本件の問題点を覆い隠すための死刑執行ではないかとの疑問が指摘されています」と疑義を呈している。

「北方事件」でMさんが(再)逮捕されたのが2002年6月。上の両事件と同じように虚偽供述を強要されていたが、DNA型鑑定の進歩によって当時の技術の拙さが示されるかたちで、公判により紙一重のところで冤罪が回避されたことになる。

 

■便槽と事件

現代では下水道処理が人口の約80パーセントにまで普及し、「便槽」そのものに馴染みがない世代や地域も多くなったが、はじめの事件が起きた1975(昭和50)年で下水道の人口普及率は23パーセント、1985(昭和60)年で36パーセントであるから汲み取り式便所はまだまだ多かった時代である。便槽や浄化槽は定期的に汲み取り作業が行われるものの日頃から好んで中を検めることもなく基本的には人目に付きづらい。そのため多くの事件で「死体遺棄の現場」とされ、現在でも嬰児遺棄事件などの現場となることが多い。

1974年に兵庫県の知的障碍者施設で発生した甲山事件では、3月17日夕方、19日夕方と男女2人の園児(ともに12歳)が立て続けに行方不明となり、19日夜に施設の浄化槽内でともに溺死体となって発見された。現場状況や蓋の重さが17キロあったことなどから内部犯による殺人事件との見方が強く、勤務状況や園児の証言、遺体発見時や葬儀での取り乱した様子から22歳の女性保育士に容疑が掛けられ、98年3月まで冤罪を争うこととなった。全容は解明されていないが、園児らが蓋を開けて遊んでいた際の落下事故との見方もある。

1989年に発生した福島女性教員宅便槽内怪死事件では、2月末の4.9度という寒空に26歳の成人男性が半裸姿で直径36センチの狭い便槽の中にすっぽりと収まっていた。死後2日程経っており、死因は圧迫による呼吸困難および凍死とされ、覗き目的で自ら侵入したものとされたが、その後も真相究明を求める声は大きかった。第三者による強制を疑うものや原発利権との関係までも取り沙汰されたが真相は闇の中である。

事件性は薄いとされるが、2010年5月には新潟県上越市の公園にある公衆トイレの便槽内で、5月4日から行方不明となっていた同市・男性(42)が遺体となって発見されている。司法解剖の結果、死因は溺死や酸欠による呼吸機能障害。男性は身長170センチ、マンホールの直径は約35センチ、深さ約1.5メートルと小さく、外傷や着衣の乱れなどもなかったことから自発的に入った可能性が高いと決着された。19日11時15分頃、汲み取り業者が作業中に遺体を発見。作業は前年8月以来だった。

2015年12月、愛知県新城市で起きた一人暮らしの女性(71)を襲った事件では、住所不定・無職男性(40)が顔面を複数回殴るなどの暴行を加えて死亡させ、内縁関係の女性(42)と共謀して、被害者宅から150メートル離れた廃屋の便槽内に遺棄。16年1~3月にかけて被害者名義のキャッシュカードで現金約17万6000円を引き出していた。16年10月、白骨遺体となって発見された。

今や都市部ではほとんど姿を消したように思うが、人の暮らしあるところに便槽はあり、「遺体を隠す」場所としては決して突飛な発想ではない。しかし排泄物の貯め置き施設であることからも、被害者を人とも思わぬ非情さ、ときに凌辱せしめんとする冷酷さを感じさせるものがある。

 

■性犯罪か否か

上記7件について殺人犯による明らかな性的暴行の痕跡が残されていたのは、④Dさん(11)のみであり、⑦Gさんは性交渉の痕跡はあったものの当時の交際相手Mのものであり殺害との直接的関連を示すものとは言えない。②Bさんも衣類は剥がされていたものの暴行については明らかにされてはいない。遺体の多くが腐敗や白骨化によって検証不可能だった側面もあるが、殺害の動機として性的欲動があったのか否かは大部分が判然としていないのである。

性犯罪について考える際にネックとなるのが、我々自身の性指向である。7件を同一犯と想定したとき、一般的な性情と照らし合わせると、下は11歳から上は50歳という対象年齢は同一人物の性嗜好としては「幅が広い」印象を受ける。

また自らの性指向との非対照性から、幼女を対象とした犯罪者を即ち小児性愛者と決めつけたり、高齢女性への性的暴行と聞けば「犯人はそういった嗜好の持ち主なのだ」と考えがちである。しかし、数多ある学校教諭による児童への性的虐待、老人介護施設での高齢者への性的虐待は加害者生来の気質だけでなく、肉体的に抵抗力が低い対象で己の肉欲を満たそうとする「代替的な手段」である場合が多い。下の記事のように、高齢女性が好みというより「身近な弱者」を標的とすることが第一の背景と言えるだろう。

www.afpbb.com

news.yahoo.co.jp

被害者の年齢層が広い性的暴行目的の事件として思い浮かぶのは、1986~91年にかけて韓国・華城(ファソン)で発生した連続殺人事件である。13~71歳の女性10人が強姦され絞殺された。2006年に公訴時効15年(当時)が成立してコールドケースとなっていたが、2019年、重要未解決事件捜査チームが最新のDNA鑑定技術を華城事件に導入。その結果、94年に妻の妹(20)を暴行して絞殺した罪で釜山刑務所で無期懲役囚となっていたイ・チュンジェのDNA型と一致したことが判明した。イはその後の調べに対し華城事件に加え、4件の殺人、30件余りの性的暴行を自白。しかし時効の壁により、量刑は変わらず無期懲役とされた。

bunshun.jp

衝撃の真犯人判明によって、「華城8件目の犯人」とされ20年間に渡って投獄されていたユン・ソンヨさんの無罪が確定するとともに、韓国警察による失態、検察による冤罪の実態も明らかとなった。真相を告白したイ受刑囚は「証拠隠滅もしなかったのですぐに警察が来るだろうと思っていたら来なかった。どうして捜査線上に自分の名前が挙がらないのか不思議だった」と振り返る。3回の尋問を受けていたが、警察側では「血液型が不一致」として追及を免れていたとされる。

冤罪が晴れたユンさんは自分が逮捕されることになった理由として「カネも後ろ盾もなく、力もなく無学だから、警察は目を付けたのではないか」と語った。見込み捜査の誤りがその後も真犯人を野放しにし、さらには冤罪をも生み出してしまった最悪のケースである。

 

国内の連続強姦殺人との相似は見られるだろうか。

1945~46年に東京近郊で食料提供や就職斡旋を持ちかけて山林に誘い出し強姦殺人に及んだ小平義雄は40歳前後のときに17~31歳の女性7人を手に掛けた。

1971年、大久保清は36歳のとき、ベレー帽にルパシカ姿の画家を装って真新しいマツダ・クーペで群馬県内を駆け回り、僅か2カ月足らずの間に150人近くの女性をナンパ、うち30人近くが乗車したと言い、10数人と関係を持った。16~21歳の女性8人を殺害し、遺体を造成地等に埋めていた。

2017年8月から10月にかけて神奈川県座間市のアパートで白石隆浩(逮捕当時27)も殺害した9人のうち1人は男性(行方不明となった女性を探しに来たため発覚をおそれて殺害)だったが、金銭目的と性欲の捌け口として15~26歳の自殺志願女性を標的とし、SNSでコンタクトをとって自宅に招き、酒や睡眠薬などで昏睡させ絞殺。独力で解体し、一部を可燃ゴミとして処理し、残った骨などを収納コンテナに詰めて部屋に保管していた。

上の三者は自分より若年の20歳代前後の女性を標的としていた。以下では、とくに幼女を標的とした事案についても手短に触れておく。

1979年以降、群馬県、栃木県の県境近辺で断続的に発生した北関東連続幼女誘拐事件では犯人は未だ捕まっていないが、4~8歳の女児4人(ないし5人)が標的になったと考えられており、渡良瀬川周辺に遺棄した。

1988~89年に相次いで発生した東京埼玉連続幼女誘拐事件では当時26歳の宮崎勤が4~7歳の幼女ばかりを狙う卑劣な犯行を繰り返した。その後の精神鑑定によって宮崎は精神分裂病統合失調症)の疑いや人格障害解離性同一性障害)が認められた。小児性愛者や死体性愛(死姦の様子をビデオ撮影していた)の疑いもあったが、本質的な性倒錯ではなく、「成人女性の代替」として女児を対象としたと指摘されている。

2017年に千葉県松戸市で発生した女児殺害事件では、保護者会元会長男性(逮捕当時46、2021年9月現在上告中)がベトナム国籍の9歳女児にわいせつ目的で誘拐殺害した疑いがもたれている。男性は東南アジア系の女性が好みだったとされ、周囲に「若ければ若いほどいい」などとも話していた。遺体は利根川付近に遺棄された。松戸から利根川を跨いで約20キロ離れた茨城県取手市で2002年に発生したフィリピン国籍の小3女児行方不明事件についての関連も取り沙汰されている。

2004年11月に奈良で発生した小1女児殺害の小林薫(事件当時35)、2018年5月に新潟市で発生した小2女児殺害の罪に問われている元会社員(事件当時25)らは過去に同様の前科があり小児性愛者と推定されている。

 

■関連と犯人像

佐賀の事件に戻ろう。下は各事件に符合する(と考えられる)特徴を色づけした簡易表である。遺棄現場の状況から⑤⑥⑦の北方事件が同一犯によるものとする見方には異論はないかと思う。

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①被害者の失踪は1975年8月、遺体は山の斜面に接するプール脇便槽にあり、槽内の遺体の上には大量の石が積まれていた。石を載せたのはなぜか。便槽を上から見下ろした犯人は、より人目に晒すまいと遺体をどうにかして底へ沈めたいと考えたに違いない。犯人が汲み取り時期が「2年おき」であることを知っていたかは分からないが、校舎よりはプール脇トイレの方が利用者は少なく、単純に発覚まで時間が稼げそうな印象を抱く。

2年前の78年、4年前の76年に汲み取り作業員が異常を感じていなかったかどうかは不明だが、作業員とて内容物を終始確認している訳でもなく、単に気付かなかった、石の混入を児童の悪戯か何かと思って報告せずに見過ごしていた等のケースもあるだろう。時が経ち、遺体の変質や傾き具合により80年になって積み石が崩れて混入が増えたとも考えられる。死亡時期は定かではないが、2年前にはまだ生きていた、2年前までは別の場所に遺体があった(2年以内に改めて便槽に遺棄された)、と考えるよりは、業者が蓋を開けなかったことも手伝って槽内で「偶々5年近く発覚を免れていた」と見る方が自然ではないか。

犯行は夏休みの終わりであり、失踪現場から4キロ余り、まして小学校の最も目立ちにくいと思われる便槽に遺棄していることから考えて、学校職員や卒業生、あるいは被害者の同級生とは言わないまでも近くの中高生が犯人だったとしてもおかしくはない。過剰ともいえる「石」での隠蔽は恐怖心の表れや後ろめたさ、犯人の幼さ・未熟さを表すものかもしれない。だがAさんは中学生であることからペドフィリアによる犯行も疑われ、だとすれば「小学校の便槽」というのも以前から犯人の「のぞき」のテリトリーだった可能性もある。

Aさんの母親について「スナック勤務」「スナック経営」と表記のブレがある。

 

②被害者Bさんの失踪は80年4月、遺棄現場は北側校舎便槽である。①Aさんの失踪から5年近いブランクが生じており、異なる便槽ではあるが同校内であることから同一犯の可能性は高い。⑤⑥⑦の北方事件にもいえることだが、犯罪者は一度「首尾よくいったやり方」を度々踏襲する。

本件は行方不明となったのが「土曜日」だが、比較的深夜に絞られるため、犯人が夜勤の仕事でなければそれほど曜日にこだわる理由にはならないかもしれない。

「室内に抵抗の跡がなかった」とされるが、玄関をノックされれば母親が病院から帰宅したかと早合点して解錠する可能性も高いように思う。あるいは玄関先から物音がして戸を開けると…といった状況もありうるか。

4月12日に行方不明となったが、21日の汲み取り時には槽内に異常は見られなかった(こちらの汲み取りは便槽の蓋を開けて行われる)。6月10日に校庭で被害者の髪の毛が発見されていたことと照らし合わせてみると、4月21日から6月9日までの間に遺棄されたものと考えられる。つまり4月12日から21日までの少なくとも9日間以上は犯人が別の場所で遺体を管理していたことになる。無論、自宅ではなく、人目につかない作業小屋や廃屋、山林などに放置していたものを移したのかもしれない。

Bさんは20歳で、Aさんと8歳の差があり、仮に両事件が同一犯による犯行であればペドフィリアという分類からは外れることになる。むしろ2人の知人ということになれば、Aさん殺害時に10代半ば、Bさん殺害時に20歳前後の「同年代」による犯行との見立ての方が当てはまりそうなものだが、そうした該当者は警察も調べ尽くしていよう。

「土地勘がある」のは間違いなさそうに思うが、はたして警察の見立て通り2人と面識のある人物だったのか。重要参考人Uさんであれば警戒されず2人と接触することも容易だったかもしれない。Bさんが思いつめやすい性分であることと照らし合わせて考えると、姉との離縁を迫られ、自殺をほのめかされるなど口論となり…といった殺害の動機は考えやすい。しかしこの晩、Bさんは家に一人になることをUさんに伝えていたのであろうか。密通ともいえる相手をわざわざ自宅に招くものなのか。

Uさんの立場上、Bさんの家族からは「恨まれている相手」として強い疑いを抱かれたものと考えられ、険悪さは一層増していたであろうことから悪質な手紙や電話での嫌がらせについてはUさんの犯行である可能性は高い。だが殺害した当人だったとすればわざわざアシが付くような真似を繰り返すとも思えない。

遺体発見から半年後、Uさんが逮捕されたとき29歳、その5年前となれば24歳前後。①Aさん(12)行方不明時の母親の年齢は定かではないが、仮に20歳のとき産んだ子だったとすれば32歳。年齢だけ見れば、年上の女性に熱を上げたり、若い男を手玉に取ったりといった男女関係もありえそうなものだが、Uさんに非行があったことを思えばたとえAさんの母親と険悪になればその場で手を上げるか、店の物を壊す等の暴挙に出そうなものである。母親にしても控え室に「我が子同伴」の店内で、「一人娘を攫われる」ほどの恨みを買うような出来事があったのかは疑問である。

Bさんの帰宅が23時半と深夜であり、通常であれば「家に人がいる時間帯」である。Uさんのように親しい間柄で本人から「今日は帰ったら一人だ」「家に誰もいない」と直接知らされていなければ家人全員の不在までは想定できないように思う(あるいはBさんが帰宅するまで邸内が真っ暗だったことを見ていた人物となろうか)。逆にいえば、「Bさんしか家にいない」ことを知るためには、彼女が自ら玄関の鍵を開けたり、帰宅と共にリビングなどの照明が点灯することを見ていた可能性がある。室内を荒らした形跡もないことから、犯人は「だれもいない家」に目を付けていたわけではなく、始めから「Bさんの連れ去り」が目的だった。とすれば、彼女を尾行してきた人物がいたと考えられる。

先述のようにAさんの母親には「スナック勤務」「スナック経営」と情報のブレがある一方で、時期こそ重ならないもののAさんの母親が勤めていたクラブにBさんの母親も勤めていたことがあるというネット情報も存在する。これが事実とするならば、単なる偶然にしては出来過ぎており、さすがに小さな町のスナックに5年間も通っていれば顔は差すだろう。Uさん逮捕を目論んで警察がリークした怪情報なのか、近隣住民の様々な噂話のひとつなのかは分からないが、本稿では事実としては扱わず保留としておきたい。

 

③では、佐賀市を越えて三養基郡中原町の空き地に遺棄され、首にはコードが四重に巻かれた状態だった。それだけでも①②とはかなり様相が異なるが、行方不明現場から須古小学校までは5~6キロとやはり同じ生活圏と言ってもよい近距離である。仮に同一犯だったとしても、すでに須古小学校で①②の遺体が発見されてしまったことからカモフラージュのためにやや遠方への遺棄を選んだのであろうか。

地図を見れば、鳥栖~佐賀~長崎をつなぐ長崎街道を基とした国道34号が通っており、目撃地点から遺棄現場まで車であれば約1時間の道程である。さらにスーパーマーケットでCさんが「赤茶色の車に乗った男性」と会話している姿を目撃されている。見ず知らずの人間が「Cさんらしき人を見かけた」のではなく、同僚が証言していることから情報の精度は極めて高い。その男性がCさんを車に乗せて近郊で殺害し、その足で34号を北上したものと考えられる。

だが34号以北や武雄市以西に向かえばいくらでも山林が広がっており、北方~武雄周辺は白石平野の稲作地帯に向けて数多くの「溜池」が存在する。単純に人目を避けて遺棄するのであれば、40キロも移動せずともそうした場所の方が発見までの時間稼ぎになりそうなものである。

作業着姿で発見されていることから素直に考えれば行方不明となった当日に手を掛けられ、犯人の「帰り道」に遺棄していったように思える。最終目撃現場と遺棄現場の中間に位置する「佐賀市」は言うまでもなく犯人の所在の第一候補となる。みやき町以東に位置する都市圏としては、佐賀県鳥栖市、福岡県久留米市が、更に北上すれば福岡市もおよそ80キロ、車で2時間半かからない距離である。また上述の飯塚事件が発生した福岡県飯塚市も車で2時間半の距離であり、佐賀の女児被害①④事件と飯塚事件との関連を疑う説もある。

7日に消息を絶って発見が21日と、その間に「2週間」のブランクがある。遺体は2週間どのような状態だったのか、ずっと同じ場所に置かれていたのか、あるいは後日持ち込まれたものなのかは判断がつかない。

 

④Dさんは放課後の下校路での連れ去り事案であり、発生時刻が夕方16時過ぎで最も早い。ランドセルを背負った状態で事に及んだのか、遺体にランドセルを背負わせたものかは不明だが、連れ去り場所から遺棄現場まで距離もなく、極めて手際のよい犯行といえる。一方、周辺で多数の声掛けが確認されており、連れ去りに複数失敗もしている。

バス停で声を掛けられて撃退した主婦の年代は定かではないが、小学生から主婦まで標的に考えていたとすれば正に手当たり次第である。犯行に使われたストッキングの入手経路は洗い出しが行われたのかといった情報はないが、首を絞めるためにわざわざ買ったとは考えにくく、下着泥棒ないし連続強姦魔の可能性が高い。部屋から連れ去ったと見られる①②と大きく異なる点として、大胆過ぎるほど人目に付く形で略取を試みていたことが挙げられよう。

①④は被害者の年代が近い。しかし「遺棄現場」に注目すれば、前者は明らかに隠蔽を目論んだプール脇便槽、かたや後者は中学校裏手のみかん畑であり、隠し通そうとする気は毛頭なく犯人はとにかくすぐに遺棄してこの場を去りたかったことを窺わせる。この連れ去りと遺棄の性質のちがいから、①②と、④は別の犯人による事件ではないかと筆者は考えている。

一方で③との比較では「発生時期」「遺棄現場」こそ近いものの、大きく異なる点として④は連れ去り現場のすぐ近くで遺棄しており、ほとんど「その場に捨て去った」ような印象を受ける。自宅付近での犯行や遺棄を行うとは考えづらく、犯人は近隣の住人ではないと見てよいのではないか。

 

⑤⑥⑦については遺棄現場の状況から同一犯との見方で捉えている。①~④、⑤~⑦との共通項を挙げるならば、(②を除いて)犯行が「水曜日」、(①⑤を除いて)「絞殺」「扼殺」の可能性が高いこと、③Cさんと⑦Gさんの勤務先が同じということである。しかし小さな町で主婦が条件に合う働き口を探すとなると自ずと勤務先は重複するとも考えられ、犯人が縫製工場の関係者であるとは言い切れない。つまり共通項はそれほど多くはないのである。

「絞殺」「扼殺」について考えてみれば、刃物と違って事前に購入したりせずとも紐状のもので代用でき、出血が少なくて済む。場当たり的な殺害方法として、強姦殺人鬼の常套手段であり、凶器と犯人が直接結びつきづらいことから、結果的に犯人を絞りづらくする犯行ともいえる。また刃物であれば強盗などで相手に対して威圧・脅迫的態度を誇示する効果もある一方、「紐」にそうした圧力効果は期待できない。刃物を見た相手が「恐れおののく様子」や相手を「命令に従わせること」よりも、車などに誘い込んで間近で「もだえ苦しむ様子」を好む異常性欲があったのかもしれない。

 

2006年7月、2ch掲示板に立てられたスレッドに興味深い記述がある。転載はしないが、2007年5月14日のハンドルネーム「とろ」氏によるカキコミで、⑤~⑦の北方事件について「3人には小学校に通う子供が居る」との共通点から、犯人として或る「教師」を挙げ、通報したとしている。

matsuri.5ch.net

たしかに律義に「水曜日」に犯行を繰り返すルーティンがあったとすれば、規則的な働き方をする人物だった可能性は高くなる。また少女から中年主婦という幅のある年齢層についても「生徒」「保護者」の年齢層と重ねて考えれば、にわかに現実味を帯びた推理に思える。しかし被害者の年齢から鑑みて、「3人に小学校に通う子供が居る」という前提が事実かどうかは(筆者には確かめる術もないが)やや信頼が置けない。

③Cさんに関する情報はあまり多くないが、失踪前に5日間ほど欠勤している点は気掛かりである。この期間に「犯人」と知り合った、急速に親密な関係になったとしてもおかしくない。スーパーの駐車場で見ず知らずの男が「ナンパ」したと考えるより、「仕事帰りに待ち合わせしていた」と見る方が自然に思える。

⑤、⑥についてはほとんど連れ去りのような状況が想像されるが、⑦について電話の相手は以前からの不倫関係が疑われる。携帯電話もなかったことから「家の電話」や「アポイントメント」が重要な役割を果たしていた当時、GさんがMさんとは別の交際相手がいたとしても通信履歴から抽出される可能性は高い。電話の相手はMさんだったのか、それともMを犯人に仕立てるために流布された情報なのか判断が付きづらい。

だが③と⑦を「知人女性を狙った殺害」と捉えることもできなくはない。③の目撃情報を頼るならば、③当時は30代、その8年後の⑦当時は40代というところか。「主婦を狙った」というより学生や若い女性をナンパしても相手にされないため、年配女性へとシフトしたとも考えられる。

 

半ば強引な道筋ではあるが、筆者は犯人が3人いるものと考えている。

「①②の犯人」は小学校にゆかりのある覗き魔・ストーカー犯、「④遠方から三養基郡へ訪れた小児性愛者」、「③と⑤⑥⑦の異常性欲殺人鬼」の三者である。とりわけ③と⑤の事件の間には、6年近くのブランクが生じており、地元警察も余罪については念入りにたどったものと考えられる。もちろん鳴りを潜めていたとも考えられるが、むしろ窃盗など性犯罪以外の罪で逮捕・収監されていたのではないかとも想像される。

89年に犯人が40代だったとなれば、いまや既に70代の高齢者。犯行を続けているとは考えにくいものの、他にも明らかにされていない行方不明者や事件とのつながりがあるかもしれない。犯行の性質上、他言している可能性などは低く、時代と共に生活も様変わりしてしまっていることで発覚を免れている側面もあろう。しかし警察はもとより私たち市民の側も、犯人の目の黒い内は真相解明への意欲を失ってはならない。

七名の犠牲者のご冥福と遺族の心の安寧、事件が一刻も早く解決されることをお祈り致します。