1986年から91年にかけて韓国・京畿道(キョンギドウ)華城(ファソン)の一帯で女性たちを恐怖に陥れた連続事件。その後も韓国三大未解決事件のひとつとして語り継がれ、だれもが解決を諦めかけていた2019年、真犯人が明らかとなった。
事件の発生
韓国北西部に位置する首都ソウルの中心市街から南西約30kmに位置する華城一帯で、1986年2月頃から婦女暴行や強姦事件が頻発していた。報告されたものだけで7件に及び、女性たちは身に着けていた下着やストッキングで縛られるなどした上、殴打や刃物による切りつけなどの危害も受けていた。
その後も似たような事例は相次ぎ、周辺では91年までに発覚しただけで10件の強姦殺人が発生し、連続殺人事件として大きな注目を集めることとなる。
以下では、各事案について発生順に紹介する。尚、地名の漢字は当て字とする。
①
86年9月19日の午後、華城郡泰安邑安寧里(アンニョンリ)の牧場主が草原の中に高齢女性の遺体を発見する。下半身が露わにされており、両脚を交差した状態で見つかったことから、犯人が人目につきづらい牧草地まで引きずってきたものと推測された。
女性は15日から行方が分からなくなっていたイ・ワンイムさん(72歳)と判明。前日、現場近くで暮らす娘の家に泊っており、娘たちが起床するより前に「野菜の行商」に出たものとみられていた。
検死によると、死因は絞殺で、性的暴行の痕跡は認められなかった。娘の家から発見現場まで約10分の距離で、推定による死亡時刻は15日午前6時頃とされた。遺体や現場の周辺からは、指紋、足跡、体毛といった犯人の遺留品は発見されなかった。
②
10月23日の午後2時頃、泰安邑鎮安里(チナンリ)の農業用水路の中から裸の女性の遺体が発見された。致命傷となった死因は特定されなかったが、胸や背中に刺し傷があり、首にストッキングが巻きついていたことからも他殺であることは明らかだった。
被害者は松炭(ソンタン)市に住む家事手伝いパク・ヒョンスクさん(26歳)で、20日の夜から行方が分からなくなっていた。20日、パクさんはバスに乗って泰安邑松山里(ソンサンリ)で下車し、修養中の母親を訪ねて夜まで過ごした。知人が村の外れまで彼女を見送り、パクさんは1km先のバス停に向かって土手道を歩く姿が最後の目撃となっていた。
衣類は農水路の土手に捨てられており、遺体に強姦の痕跡と精液の検出があったものの、血液型の分析に失敗。周辺で発見された牛乳パック、煙草の吸殻、毛髪を分析し、国立科学捜査研究所で分析の結果、B型と判定された。
③
発見まで時間を要したものの、第3の被害者は86年12月12日に行方不明となったクォン・ジョンブンさん(25歳)であった。
クォンさんは工場での勤めを終えて、バスで水原(スウォン)市細柳洞(セリュドン)に向かい、夫と夕食を共にした。先にクォンさんがひとりで帰路につくこととなり、夜10時半頃にバスに乗車。11時過ぎに安寧里三通りで下車して家に向かって歩く姿を最後の目撃として、行方不明となった。
4か月後の87年4月23日、クォンさんの自宅から50mほどの田地で補修作業をしていた農夫が遺体を発見した。下半身は露出しており、口にストッキングとガードルで猿ぐつわをはめられ、血に塗れた下着が顔に被されていた。
腐敗が進行して目視による身元特定や死因特定などは困難だったが、所持品のネックレスに名前が刻み込まれていたため身元が特定された。帰宅直前に襲われ、農閑期だった田圃に埋められたものと推測された。
④
クォンさんの事案から僅か2日後、86年12月14日に第4の事件は起きた。イ・ゲスクさん(22歳)は仕事の後、水原市内の喫茶店でお見合いをし、夜10時頃に相手と別れた。華城市正南面(ジョンナムミョン)でバスを降りた後に消息を絶った。11時頃に自宅から約1km地点で近隣住民と会ったのが最後の目撃となっていた。
1週間後、21日の正午過ぎに関港川の土手で遺体となって発見される。頭にはガードルをかぶせられ、両手はブラウスで後ろ手に拘束され、ブラウスを剥がした後で再び上着を着せられていた。検死の結果、死因はストッキングで首を絞められたことによる窒息とされ、性的暴行のうえ傘で乱されたことが確認された。失踪当日は雨が降っており、帰路で襲われたものと見られたが、B型の血液型が検出されたが被害者の血液型もB型だったため犯人の遺留血液かははっきりしなかった。
この時期まで公には連続事件との見方はされてこなかった。その後、大々的に報じられるようになると、88年にソウル五輪を控えていた時期だったことから外交的にデリケートな問題に発展しかねないとして、棚上げしてきたのではないかとの憶測も囁かれるようになる。
⑤
1987年1月11日の朝、田圃の稲わらを運搬作業中の農夫が若い女性の遺体を発見した。被害者は、前日から帰宅していなかった泰安邑黄渓里付近に住むホン・ジニョニャンさん(18歳)と判明。10日に会社に履歴書を提出した後、水原市北門近くで友人と会い、夜8時半頃に泰安邑方面行きのバスに乗った。50分頃に最寄りのバス停で下車後に襲われたと見られた。
両手は下着で縛られていたが、服は全て着たままの状態だった。検死によれば、ショールで絞殺されたと見られ、性的暴行の痕跡があった。検出された精液には血液が混じって判別不能だったが、衣類や陰毛などに付着した血液はすべてB型を示した。
4回目の事件を除く4件が泰安支署から半径2km以内で起きていたため、警察は同一犯による連続殺人と断定し、警戒態勢を敷いた。
この事件の3ヶ月後、第3事件の遺体が発見される。
⑥
87年5月9日、下校中の子どもたちが墓所の隣の雑木林で、女性の半裸遺体を発見する。
2日深夜から行方が分からず捜索中だった泰安邑鎮安里に住むパク・ウンジュさん(29歳)と判明する。
2日の夜は大雨となり、パクさんは帰りの遅い夫のために傘を持って、9時半ごろに最寄りのバス停へと向かった。夫は水原市方面からバスに乗り、夜11時頃に自宅最寄りのバス停に着いたが、バス停にも家にも妻の姿はなかった。2日後に捜索願を出し、警察の周辺捜索によりバス停近くの田圃で彼女の履いていたサンダルが発見されていた。
見つかった遺体は上半身が露わな状態で、両手を後ろ手に拘束され、首にはブラウスと下着が巻かれていた。死因は絞殺で、性的暴行の痕跡もあった。手口の類似性から見て、同一犯による一連の犯行とみられたが、上着に付着していた精液はA型を示した。警察は、被害者の夫がA型であることから犯人由来の精液ではないのではないか、と推測した。現場には234㎜程の足跡が確認された。
⑦
1988年9月8日9時半頃、八灘面(ハッタンメン)嘉在里の農水路でアン・ギスンさん(54)が遺体となって発見された。
7日、アンさんは長男が水原市内で営む食堂の手伝いをした後、夜8時40分頃にバスに乗り、自宅最寄りの嘉在里で降車した後、行方が分からなくなっていた。深夜になっても帰らないことを心配した夫が、夜明けとともに親類総出で捜索に当たり、夫のいとこの妹が血まみれになって草むらに倒れている遺体を発見した。
遺体は両手をブラウスで縛られ、靴下とハンカチで猿ぐつわを噛まされた状態で、スカートは履いていたが犯人が後から無理やり元に戻そうとした形跡があった。死因はブラウス紐による頸部圧迫での窒息死、性的暴行に加え、再び乱行が見られた。膣内には三日月形に刻まれた桃7片が見つかり、第4事件と同じく傘で突いた痕跡があった。
連続事件として周辺では警戒を呼びかけていたものの犯行を止められず、更には卑劣で残忍極まりない手口はセンセーションを巻き起こし、華城警察署長は退任となった。
だが犯人は田圃に足跡を残しており、その行く先が水原方面行きのバス停だったことが判明し、バス運転手らに事情聴取をしてモンタージュの作成に成功した。
⑧
88年9月16日に泰安邑鎮安里で発生した第8事件は、現場状況や手口から連続事件を真似た模倣犯との見方があり、結果的には犯人検挙に過剰な執念を燃やした警察が冤罪被害を生み出した。
被害者のパク・ヤンさんは74年生まれで当時14歳だった。15日は夜11時過ぎまで家族とテレビを見るなどして過ごし、11時20分頃に自室に入って就寝していたと見られる。翌朝6時50分頃、母親が娘の部屋を訪れるとドアのガラス部分が割れており、布団の中から死亡した娘を発見する。着衣には乱れがあり、首には圧迫痕があった。死亡推定時刻は16日未明前後とされた。
被害者の布団から、犯人由来と見られる陰毛が採取され、分析を日本に依頼すると、一般人の300倍以上のチタン元素が検出された。警察ではこの分析結果を特定の職業などに由来すると見て調査を集中させ、被害者と同じ村に住み、耕運機修理センターに勤務するユン・ソンヨ氏(22歳)が逮捕された。国立科学捜査研究所で同位元素鑑定の結果、現場で発見されたものとユン氏の体毛が似ているとされ、ともにB型だった。
ユン氏は犯行を否認したが、警察では、彼が幼少期からポリオ(急性灰白髄炎、脊髄性小児麻痺)患者であったことや一家離散の厳しい生い立ちなどから、鬱積した劣等感や女性に対する憎悪感情を抱えており犯行動機になった可能性があると見ていた。
「連続殺人」で一躍注目を浴びてしまった華城警察は、汚名を晴らすべく不当逮捕や違法捜査も躊躇しなかった。ユン氏は、厳しい取調に堪えきれず虚偽の自白をしたと述べて無実を主張したが、国選弁護人は「障害があるから減刑してほしい」と言うばかりで被告人の主張に聞く耳を持たなかった。
裁判では自白調書が支持され、体毛の同一性は高いと判定された。当時の韓国ではDNA型鑑定が導入されておらず(日本では89年にMCT118型鑑定が捜査に実用化され、本格運用は92年から)、体毛鑑定の精度は鑑定人の経験則に依存するもので、個人識別の証拠に耐えうるとは言い難かった。つまり直接証拠と言えるものは虚偽とされる自白のみだった。
そもそも麻痺で脚が不自由だったことから犯行は難しいとされ、審理は最高裁まで続いたが、家屋に侵入しての手口の相違が認められることから一連の連続犯ではなく単発の強姦殺人として、無期懲役が確定する。
⑨
ユン氏の逮捕で連続事件が終結するとの見方もあったが、その期待はあえなく裏切られる。1990年11月16日の朝9時ごろ、泰安邑陵里に住む少女キム・ミジョンさん(14)が野山で無残な亡骸となって発見された。前日に学校から帰宅せず、夜を徹して家族や親戚が周辺を捜索しており、第一発見者は彼女の叔父だった。
15日、清掃当番で他の生徒より遅めに友人と帰路に就き、二人は夕方5時頃に別れた。その後、トラックで走行中の畜産業男性が、少女と紺色のスーツ姿の若い男性と会話している姿が目撃された。また陵里から程近い石材店のそばでは、20代の青年と思われる人物が腕を振り回しながら少女を追いかけるような様子が見られていた。
遺体は上下制服姿だったが、ストッキングで両手両足を拘束され、下着で猿ぐつわをされていた。検死の結果、被害者は性的暴行を受けた後、筆箱にあった文房具用ナイフで胸を20回あまり滅多刺しにされた上、ストッキングとブラウスで絞殺されていた。更に膣内からは被害者の所持品であるカトラリー、フォーク、ボールペンなどが入れられていた。
被害者は昼食に弁当のチャプチェ(春雨と牛肉・野菜の炒めもの)を食べていたが、胃からは未消化の雑炊が検出された。被害者は犯人と共に雑炊を食べていたか、犯人に無理やり口に押し込まれたとも推測された。現場には争って抜け落ちたものか、被害者とは異なる40本ほどの毛髪が発見され、血液型はB型とされた。
⑩
1991年4月4日、華城郡東灘面の半松里の野山で重機を運転中の農夫が女性の遺体を発見して通報した。女性は現場から200mほどの場所に住むクォン・スンサンさん(69歳)で、前日に水原市内の長女の家から帰宅途中で、夜8時ごろに最寄りのバス停を下りた後に襲われたものとみられた。
遺体は下着を脱がされ、黒いストッキングが首に巻かれた状態で、猿ぐつわや手足の拘束はなかったが、陰部に靴下が挿入されていた。他の事件では被害者の衣類を用いた絞殺という特徴があったものの、検死による死因は絞殺ではなく窒息死であったことから、模倣犯との見方もあった。
靴下からB型精液と指紋が採取され、華城、水原地域一帯でリストアップされた3千人ほどの容疑者、約4万人の参考人と照合したが一致したものはなかった。
第10事件以降、連続事件は忽然と止んだ。犯人が別の地域に移住したのか、はたまた命を落としでもしたのか。
2001年には行政区分が変わり、華城郡から華城市に昇格。旧水原郡の東部と旧南陽郡の西部での地域格差はあるものの、現場周辺の景色も大きく変わりつつある。人口増加率は高く、工場進出も盛んな地域で、高層マンションの隣に田園風景が広がるといった光景もよく目にされる。
2003年には本件をモチーフとしたキム・グァンリムによる作劇『私を見に来てね』に着想を得て、ポン・ジュノ監督が映画『殺人の追憶』を発表。作品は国際的な評価を受けるとともに、「韓国のジャック・ザ・リッパー」などとして事件そのものを世界に知らしめることとなった。
捜査はその後も引き続き、捜査員延べ205万人を投入したが、はたして確たる連続犯は見つからないまま、すべて時効となった。
時効の壁
1954年に成立した韓国刑法は当時の日本の刑法を参考にしたもので、殺人罪時効は15年とされていた。本連続事件、91年1月にソウルで発生した“イ・ヒョンホくん誘拐殺人”、同年3月に大邱(テグ)で発生した“カエル少年事件”は「韓国三大未解決事件」と呼ばれ、メディアやネット上で盛んな議論が行われたが、2006年までにすべての公訴時効が成立してコールドケースとなった。
2003年9月から04年7月の10か月間で少なくとも20人を殺害した近代韓国最悪のシリアルキラーとも呼ばれるユ・サンチョルは、逮捕後、マスコミから華城連続殺人の犯人についてコメントを求められた。「犯人が捕まらないのは、すでに死んだか、他の事件で刑務所に収監されているからであろう」と見解を示し、「連続殺人犯はそうした制裁が無ければ決してやめられないから」との持論を述べている。
日本では2005年に公訴時効の改正(最長15年から25年に延長された)が成立し、韓国国内でも時効期限の見直しを期待する世論は高まっていた。2005年8月にもウリ党議員から殺人罪時効を20年に延長する刑事訴訟法改正案が提出されていたが、政局に左右されて国会での法案審議は足止めされ、改正が実現したのは時効成立後の2007年のことだった。
2011年11月、障碍者と13歳未満の児童を対象とした性的暴力犯罪に対する時効撤廃を盛り込んだ「ドガ二(坩堝)法」を制定。
時効延長の改正やドガ二法は遡及して適用されなかったため、それ以前の被害者遺族たちが涙を呑む様子はメディアでも度々報じられて物議を醸した。日本では先んじて2010年に殺人罪等の公訴時効撤廃が行われたことも影響があったかもしれない。大邱でキム・テワンくん(6歳)が何者かに硫酸を掛けられて死亡した事件(1999年)が時効を迎えると再び大きな話題となった。2015年7月、殺人罪の時効を廃止する刑訴法改正案が成立すると、被害者の名を冠して「テワニ法」とも呼ばれた。
公訴時効が延長・撤廃されればすべての事件が解決できるというものではないが、家族を失った遺族の悲しみや命を奪われた被害者たちの無念は時間とともに失われるものではない。遺族や世論がそうした感情を後押しし、多くの凶悪事件の前に立ちはだかってきた時効の壁を突き動かした。
真犯人の特定
2019年9月18日、京畿南部地方警察庁の捜査本部は、第9事件で採取されていたDNAを増幅、復元させる最新手法により再鑑定した結果、収監中のイ・チュンジェ受刑者(発表当時56歳)の型と一致したことを発表した。当初、イ受刑者は容疑を否認したが、他の事案のDNA型再鑑定でも一致が確認され、容疑を全面的に認めた。
イ受刑者は25年前に義妹に対する強姦殺人の罪で無期懲役となり、釜山で服役する模範囚だった。獄中では集会活動に熱心に取り組み、親切で他の囚人たちとも円満だった。
20年12月28日、20代の頃に犯した本連続事件とそれ以外の殺人合わせて14件、わいせつ犯罪や強盗など9件の余罪が確認されたが、時効により公訴権なしとして罪科は加算されないこととなった。
来歴
1963年生まれのイ・チュンジェは、華城郡泰安邑鎮安里の出身で、何度か転居はしたものの、30年間、華城の地を離れることはなかった。幼少期を知る住民らは「受け答えもできる性格のよい子だった」と振り返り、同窓生も「とてもやさしい友人」と記憶していた。両親や弟も「静かで内省的な人」「兆候は全くなかった」と語り、その後の義妹殺しについても「偶発的な出来事」と解されていた。
イ本人によれば幼少期に近所の年上女性から性的暴行を受けていたとされ、国民学校時代に弟が目の前で溺死したことに大きな衝撃を受けたという。水原市の高校に進学し、卒業した83年に陸軍に入隊し、戦車操縦士として服務し、86年1月に陸軍兵長として兵役満期を迎えた。
元々は内向的な性格だったが、自分の操縦する戦車がリード役となって他の戦車や歩兵らがついてくる経験に達成感を得、主導権を握る喜びを感じるようになったのではないかとの分析が為されている。役務態度は良好で、休暇返上で戦車の整備に当たるほどの熱の入りようだったという。
除隊後は華城郡にある電気部品会社に勤務したが、仕事帰りに無差別強姦を開始し、その後、殺人にも手を染めることとなった。90年の初夏、ソウル市竜山区に本社を置く建設会社に転職。無免許でフォークリフトを操り、工事現場を転々とした。91年頃から忠清北道清原郡の農工団地にある資材会社に勤務し、経理を担当していた妻と出会って、92年4月に結婚し、一児を授かった。だが会社が倒産して以降、逮捕されるまで定職に就かず妻がアルバイトなどをして生計を支えた。
親戚関係は良好で、義父の農作業の手伝いをし、義母が食事を差し入れるなど交流もあった。だが、家庭内では幼子に打撲傷を負わせ、妻には灰皿を投げつけ、下血するほど暴行を繰り返すなどDVは熾烈を極めていた。イは妻に対しても性倒錯を発露させ、性行為を強要し、妻は泣きながら警察に助けを求めることさえあった。その後の従順な服役態度と合わせて考えると、位階秩序に順応し、自分よりも下とみなす相手に対しては高圧的・加虐的に接したものと解釈できる。他の家族や周囲から見れば、普段はおとなしいが一旦火が点くと止められない性格と受け取られていた。
義妹殺し
93年12月、イの虐待に堪え切れなくなった妻は家を出た。妻や妻の家族が離婚協議のために連絡を取ると、イは「ただじゃ済まないからな、よく覚えておけ」「他の男と再婚できないように妻の体に入れ墨を彫る」などと言って脅した。
94年1月13日の午後、イは妻の妹に「うちまで荷物を持ってきてほしい」と連絡を取った。イは睡眠薬入りの飲み物を提供したが、彼女は薬効が現れる前に「友達と約束がある」と言ってすぐにその場を離れようとした。パニックになったイは彼女を拘束し、午後6時半頃に性的暴行を加え、鈍器で殴りつけ首を絞めて殺害。自宅から880m程の金属スクラップ場に死体を遺棄し、翌日、素知らぬふりをして義父と共に行方不明届を提出した。
遺体は15日に発見される。青いカバーで覆われ、頭にはビニール袋とジーンズが被せられ、両手は破れた下着で縛られており、全身がストッキングとバッグの紐などで括られていた。警察に食って掛かったり悲嘆にくれたりする他の家族とは対照的に、イは感情を露わにすることなく墓前にたたずむばかりだった。
前日の通話記録からイへの容疑に切り替わり、近隣住民の証言から、事件翌日の早朝にイの家で浴槽からバケツで水を汲み上げるような音が聞かれたこと、夕方には床一面に洗濯物が散らばっていたことが判明し、証拠隠滅の工作と推測された。家宅捜索でテープの束に被害者の頭髪が見つかり、死体を縛っていたストッキングはイの妻が普段使用していた製品と一致する。鑑識により、洗濯機の台座から被害者の微量の血痕が検出され、イは逮捕された。
このときイが逮捕されていなければ、妻やそのほかの女性たちへと被害が拡大した可能性も大いにありうる。
イは義妹から激しい非難を浴びたことで怒りに任せて犯行に及んだ、とあくまで偶発的な出来事を主張したが、被害者から受けたという非難の様子について聞かれると、「なんでこんなことをするの?」という一言しか再現できなかった。
一審、二審では死刑が言い渡された。最高裁は、妻や家族に言い放った脅迫行為や、殺害から遺棄まで約4時間20分という迅速な犯行(偶発的殺害の場合、平均して6時間程度を要すると言われる)から、犯行の計画性については認定した。しかし殺害に至るまでの計画性を認める決定的な証拠がないと判断。95年1月、無期懲役に減刑され、確定した。
仮にこのとき死刑判決が確定し、速やかに執行されていたならば、華城連続殺人は永久に未解決となっていた可能性が高い。
不祥事の発覚
連続事件の真犯人は最終的に明らかとされたが「めでたしめでたし」では済まされなかった。同時に、過去30年来の警察の捜査に多くのミスや不祥事も明らかとされたためである。
母親による証言
DNA型の一致が公表されたことを受け、記者は入院中だったイ受刑者の母親(75歳)のもとに訪れ、取材を行った。モンタージュ写真を見せられた母親は、目を丸くして「うちの長男によく似ているようですが」と口にした。
モンタージュは87年9月に起きた第7事件の後で全国に配布されたものだが、母親は「こんなものがあるなんて初めて知った」「よそでは知らないが、私たちの村では出回らなかった。村の住民が見ていれば、すぐにうちに駆け付けただろう」と話した。当時、警官が家々を回っている話は耳にしていたし、村人と連続事件について話したこともあったが、家に警察が手配書を持ってきたり事情を聞きに来たこともなかったし、自分たちとは無関係だと思い、あまり気にしたことはなかったという。
DNA鑑定で真犯人である確率はほぼ確定的だと記者から伝えられると、母親は「親思いのよい子だったので、絶対にそんなことをする子ではない。もし本当にそんなことをしていれば私が気づいたはずだ」と主張。「頭が真っ白。こんなことになるなんて」「生きた心地がしない、近所の人に合わせる顔がない」と、現実とは受け止められない心境を吐露した。もし真犯人というのが事実だった場合はどうするかと尋ねられると、「本当に申し訳ないが、息子がそんなことをするはずがないと信じている」と言い、「法に従って罰を受けなければならないのではないか」とうなだれた。
警察発表では、連続事件当時、イ・チュンジェに対しても第6事件(87年5月発生)後に3度の警察調査が行われていたと伝えられた。母親の証言とどうして食い違いが生じたものか。ネット上では「母親は息子が犯人だと以前から知っていて庇っている」とする声も多く挙がったが、「警察が捜査漏れの事実を隠蔽しているのでは」との見方もあった。
血液型鑑定の疑惑
事件当時の捜査員らは、イ受刑者の自白報道を受けてコメントを求められるや、感動や捜査陣の研鑽への感謝とともに「受刑者は本当に自白したのか」と疑念に似た声も挙がった。確かに獄中では、自身の犯罪歴を自慢したり、「箔」をつけるために虚偽を吹聴する受刑者もいる。事件当時に奔走した刑事たちからすれば、あれだけやってホシが浮かばなかったのはなぜなのか、という忸怩たる思いもあったにちがいない。
イ逮捕のきっかけとなった義妹殺しにも強姦、絞殺、ストッキングや下着による拘束など、連続事件と同様の特徴が踏襲されている。当該地域に暮らしており、年齢層、人相書きなども近しいイ・チュンジェに捜査の手がこれまで一切及んでこなかった訳ではなかった。警察は過去3度の調査があったとしており、第7事件でモンタージュ作成に貢献したバスガイド、第9事件で少女が男と会話する様子を目撃した人物は、人定調査で見せられたイ・チュンジェの写真に反応を示していた。夜間の目撃証言は信ぴょう性が低下することもあるが、結果的に重要証人たちがないがしろにされていたことになる。
しかし当時の捜査陣営では、精液などから犯人は「B型」であることが決定的とされており、B型鑑定に執着するあまり、「O型」のイ・チュンジェへの追及は積極的に行われていなかった。
10年以上にわたって40件以上の殺戮と食人に勤しみ、「ロストフの切り裂き魔」と恐れられたウクライナの狂人アンドレイ・チカチーロは、精液から特定される血液型反応と実際の血液型が異なる極めてまれな体質の持ち主だったことから、捜査の網をすり抜けてきたと言われる。
だがイの場合はそうした特異体質ではなく、初期捜査での鑑定の誤りないしはコンタミネーション(証拠汚染)が以後の鑑定にも影響を与えて「B型犯人説」が維持されたものと考えられている。だが10件の連続事件があった5年近くの間、偶然にも同じ誤りが偶然にも繰り返されたというのであろうか。断定することはできないが、いずれかの段階で「O型」との鑑定結果が出ても、「そんなはずがない」として「B型」鑑定が捏造されてきたと考えるのが自然である。
華城連続事件は、捜査網をかいくぐって挑発的に同地域で犯行を重ねているようにも見え、犯人には強い反社会性があり、知能犯であるかのように扱われることさえあったが、総じて言えば強姦魔による衝動的で杜撰なやり口だった。未解決事件の大半で「初動捜査のミス」は指摘されることだが、各現場での捜査不足と犯人に直結する「血液」という重要証拠の「誤認」の代償はあまりにも大きかったと言わざるを得ない。
またイの自白により第1事件も早朝ではなく、深夜から未明にかけての犯行とされた。被害者の外出理由は不明だが、深夜の外出だと判明していれば連続事件としての捜査はもっと早まっていたかもしれない。
水原華西駅女子高生事件とミン少年の死
第6事件から半年余りが経った1988年1月4日、水原市華西洞の田圃で近郊に住む女子高生(18歳)の遺体が発見された。下半身は剥き出しで、両手と首がストッキングで縛られており、下着で猿ぐつわを噛まされていた。顔面は腫れ上がり、強姦の形跡があった。少女は87年12月24日の夕方に母親とけんかとなって家を出たまま行方不明となっており、殺害はその日の深夜か25日未明と推定された。
捜査当局は周辺で悪い噂の堪えない16歳の不良少年2人組が事件当夜に火遊びをしていたとの情報を得、刑事が少年の一人を問い詰めると「ミンが殺害を仄めかして水原を離れた。赤いジャンパーを預かっているように頼まれた」と供述。ミン少年の所在を確認すると、29日から水原を離れて叔母の家を訪れていた。自白を迫ると、「少女をナイフで脅して口をふさぎ、角材で殴って犯した後、首を絞めた。遺体は藁の山に隠した」旨を供述。少年2人は「もうひとりが主導した」と相互の主張は食い違いを見せたが、少女の服装や現場の地理を答え、自白を元に脅迫に使ったナイフ、ストッキングを切るのに使用したナイフを発見した。
余罪を追及すると、華城郡正南面でも一人殺したと自白した。刑事が「どうやって往復できたのか」と聞くと、「検問や捜査を掻い潜るため、線路に沿って歩いた」と話した。解決は決定的にも思われたが、捜査チームは更なる物証として被害者が奪われたと見られる腕時計の発見を求めた。「公園の隠れ家で捨てた」という証言から、連れ立って現場を訪れるとミン少年が山中で逃走。捕まって再び収監されたが、逃走と捕獲のやりとりの中で後頭部を強打したが深刻な事態であることに気付かず放置され、37日間の脳死状態に至り、死亡した。
もう一人の少年は「警察の拷問により虚偽の自白をした」と無実を主張して、裁判でも認められた。ミン少年の「死亡事故」は、青少年に対する拷問・不当捜査の疑いで大々的に取り上げられ、捜査チームは糾弾された。当時、剖検を行ったソウル大学の法医学者イ・ソンユン教授は「暴行による死亡ではなかったと推認される」と所見を示したが、関係者は懲戒のほか、職権乱用や暴行致死の罪で懲役1~6年の実刑を言い渡された。
下の週刊タブロイド紙「日曜新聞」2008年の記事(イの自白より前)では、少年が犯人だと主張する元刑事の主張を紹介している。処分を受けて尚も自分の正義を信じて疑わないのか、名誉回復のための主張か、その真意は定かではない。
下は、イ受刑者の自白により少年の冤罪が明らかとされた後のソウル新聞記事で、転居を余儀なくされた少年の家族の証言を伝えている。ミン少年の父親は息子の汚名を濯ぐ機会もなく2004年に他界。警察による無実の証明や公式の謝罪は行われていない。
ユン・ソンヨ氏の冤罪
前述の通り、第8事件は連続事件ではないとされるもユン・ソンヨ氏が無期懲役判決とされ、20年間の服役を余儀なくされた。2003年、収監中に受けた取材で、「あのとき自白していなければ、私はこの世にいなかったでしょう」と語り、過酷な拷問の恐怖と悔しさに胸を詰まらせた。氏は模範囚として刑期が短縮され、2009年に仮出所する。
後のドキュメンタリー番組で、どうしてあなたが逮捕されたと思うかとの問いに、ユン氏は「金も後ろ盾も力もなく、無学だったことから警察は目を付けたのではないか」と答えた。氏は収監中も身の潔白を主張したが、真犯人が出てこなければ再審請求も意味をなさないだろうと長らく断念してきた。
8度に渡る再聴取の後、2019年10月1日、警察はイ受刑者の全面自供を発表。だが当初14件の自白のうち、メディアでは「模倣犯罪」とされた第8事件を除外する9件+5件の自白と報じられた。警察による冤罪の発覚逃れのための作為的除外があったのか、メディアによる誤認報道だったのか、見解が分かれる部分である。
2020年11月2日、水原地裁においてユン氏の再審裁判が開かれた。イ受刑者が「証人」として出廷し、第8事件について公開自白を行った。連続事件の再捜査について「来るものが来たと思った」とそのときの心境を語り、冤罪被害となったユン氏に対して謝罪の意を示した。
男は31年前に第8事件の被害者少女らが住む家の二軒隣に住んでいた。侵入した部屋の状況まで克明に描いて見せ、下着を逆さまに着せてしまったことなどを打ち明けた。真犯人だけが知りうる「秘密の暴露」であり、ユン氏の冤罪が晴らされると同時に、警察によるユン氏への自白強要が裏付けられる格好となった。
軍事政権下だった当時(1987年まで)、公安警察で「顔のない拷問技術者」との異名で恐れられたイ・グンアンが本件取り調べにも動員されたとの噂もあるが、真偽は不明である。当時の取調で拷問が用いられたことは韓国メディアで数限りなく報じられる公然の事実となっている。警察は「証拠がはっきりしたので拷問の必要はなかった」旨の証言を行った。裏を返せば、証拠が出ない場合は拷問を行って自白させていた事実を暴露したに等しい。
ユン氏は3日3晩寝かせてもらえず自白させられたと主張したが、検察側が提出した捜査記録では「逮捕2日目」に自白したことになっており、捜査記録の信ぴょう性についても疑念がもたれた。刑期の短縮も「捜査機関や司法機関は冤罪と知っていたからではないか」といったよからぬ妄想は膨らむ。
ユン氏は誤認逮捕による刑事補償金25億ウォンのほか、拷問および自白の強要について18億ウォンの国家賠償を得た(2020年の為替レートで1億ウォンはおよそ905万円相当)。
華城小学生失踪事件
事実上コールドケースとなっていた華城郡泰安邑小2女児の行方不明事案も、イ受刑者の犯行だったことが自白により判明する。
89年7月7日12時半頃、キム某ちゃん(8歳)は授業を終えて下校中に忽然と姿を消した。当然連続事件との関連も想起されたに違いないが、その後捜査の進展はなく、少女の家族は再会できることだけを信じて、30年間引っ越しもせず無事を祈り続けた。
イ受刑者による「遺留品と共に遺棄した」との自白を受けて警察は再捜査に乗り出したが、その結末は更なる警察への疑惑と物議を醸した。実際には89年末に女児のリュックや下着が発見されていたとの記録が確認されたが、家族には遺留品の発見は伏せられており、単純失踪として処理されて現物は保管されていなかったのである。
家族は過去2度にわたって再捜査要請を却下されており、「当時の警察官を呼んで発掘作業をすればもっと早く進むのではないか」と怒りを露わにした。親族の一人は憤慨して、「遺留品を隠蔽し『失踪』として黙認した警察が、遺体を隠さなかった保証はあるのか」と問い詰めたという。
当時の捜索に参加していた地域の防犯隊長は「紐で両手を縛られた遺骨が見つかり、刑事が無線で『シャベルを持ってこい』と捜査員に指示していた」と証言する。同時期、家族や従姉妹は警察から少女の「縄跳び」について質問を受け、「縄跳びが好きでいつも持ち歩いていた」「木製の持ち手で…」など細かく答えていた。
当時の担当刑事は「そういった噂を耳にしたことはあるが、自分は関知していない」などと釈明したが、当時の捜査チーム7名と検査官1名が職権乱用などの容疑で立件された。なぜ「埋め戻し」による隠滅が行われたのか。確証は得られていないが、第8事件でユン・ソンヨ氏が逮捕されていたことにより、「第9事件を起こしてはならない」とする保身や上層部から何らかの指示があったものと推測されている。
2020年7月、被害者の兄がイ受刑者と接見。受刑者は協力的な態度で談話に応じ、当時なぜ犯行に至ったのかは自分でも説明がつかないと述べ、「その日、自分に会っていなければ死ぬこともなかった、残念だ」と語り、遺体の発見を望んだという。イの陳述によれば、山で自殺しようとロープを持っていたが、少女を目にして考えが変わり犯行に及んだとしている。
その後の土地開発によって現場周辺の山林は大きく変貌しており、追加の遺骨捜索は事実上不可能とされた。遺族は政府・警察を相手取る民事訴訟を起こし、22年11月、国に慰謝料2億2000万ウォンの支払いを命じた。
拡大した被害者
ユン氏以外にもB型の男性たちは、強制的に続々と検挙されて取り調べを受けた。警察の嫌疑が晴れたのちも、家族関係の悪化や周囲からの醜聞、いじめなどが原因となって自殺した男性が少なくとも4人はいたことが確認されている。
93年に嫌疑を掛けられ、釈放後も拷問による後遺症と深刻なうつ病に苛まれたキム・アムゲ氏は、95年に国を相手取って損害賠償訴訟で勝訴した。アメリカ在住の心霊術師の情報提供だけを頼りに取り調べの対象にしたとされ、当時の警察がどれほど追い込まれていたか、無謀な捜査ぶりだったかが分かる。しかし周囲から氏への疑惑は止むことなく、97年に自ら命を絶った。
それどころかキム氏の死後、家族に対しても「真犯人であることを隠すために妻が夫を毒殺した」といった根も葉もない誹謗中傷にまでエスカレートした。心霊術師はその後もネット上で持論を展開し、家族は名誉棄損で民事訴訟に勝訴したが、アメリカに居住のため刑は執行されなかった。
あらぬ嫌疑を掛けられた人々以外に、当時の女性たちも様々な面で被害者と言えた。行動制限はもちろんのこと、いつ標的にされるかという心理的負担もあった。連続事件に直接関連していなくとも、とりわけわいせつ犯罪の被害者たちは「よもや自分も殺害されていたかもしれない」と一層トラウマを深めたにちがいなく、大事件の渦中だからこそ被害を告発しづらい状況になっていたことも推測される。
2019年にイ受刑者の写真が公にされると、自分も被害者かもしれないという女性も名乗り出た。1984年に華西駅からも程近い水原郡瀬流洞の自宅前で遊んでいたところ、イ・チュンジェによく似た男に刃物で脅され被害に遭ったが、大人には絶対に話さないと約束したことで開放されたという。
また捜査関係者の中にも苛烈な捜査要求に堪えきれなかったのか、第一線から退いた者、過度のストレスで心身を害して自殺を選択した者もいた。容疑者とされた人々や捜査関係者らに不幸や自殺が相次いだことから、「華城怪談」と呼ばれる逸話としてまことしやかに語られてきた。今日では、警察による不当捜査や世論による抑圧に対する一種の警鐘として語られていくこととなろう。
映画『殺人の追憶』は当然脚色も多いが、容疑者として描かれたパク・ヒュンギュは、除隊して工場労働者として生活を送り、DNA型鑑定の結果、捜査線上から除外されるなど、実際のイ・チュンジェとも共通点が多かったことで再び注目を集めた(イの場合は血液型や足型の不一致により除外)。
遺族に配慮し、しばらく公表を控えていたというが、ポン監督によればモデルとなった人物が実在し、工場労働者にはやや不釣り合いな繊細な性格で、ユ・ジェハ(※)の音楽が好きだったという。嫌疑が深まりDNA型鑑定まで行われたが不一致とされ、97年に健康上の理由で亡くなったとされる。
(※クラシックやジャズを大衆音楽に取り込んだ独自の音楽世界を表現し、ソロアーティストとして87年8月にアルバム『愛しているから』でデビュー。それまでの大衆音楽とは異なるテイストは音楽マニアの間で話題となった。デビュー後、一度のテレビ出演をしただけで、11月1日に交通事故により25歳でこの世を去った。評価は徐々に高まり、伝説のアーティストとして語り継がれる。)
ユン氏の再審裁判で証言台に立った際、イ受刑者は(請求人の)弁護士から「『殺人の追憶』を見たことがあるか」と尋ねられ、「刑務所で見た」と答えた。「事実と違う部分がたくさんあって、あの事件のことを気にして見てはいなかった。つまらないとは思わなかった」と述べた。
かつてポン監督は「最後の場面で(執念深い刑事役の)ソン・ガンホの目が犯人を真っ直ぐに見つめるようにして締めくくりたかった」とエンディングシーンの意図をメディアで発言していた。「犯人の誇示的な性格から、自分を扱った映画を見に劇場に訪れるであろう」とまで犯人心理を推測していた監督も、よもや逮捕されているとまで予想してはいなかった。
収監中であることを言い当てたユ・サンチョルが勝ったとは言わないが、常識人が描く風景と、凶悪犯が実際に目にする景色とでは、どれほど想像力のかぎりを尽くしてみても似て非なるものなのかもしれない。
被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。