いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

筑後市ボーナス強盗未遂事件

1964年、福岡県筑後市で下半期ボーナス約2400万円を運搬する市職員2人が殺害される事件が起きた。早期解決となったが毒殺の手口から「第2の帝銀事件」とも呼ばれ、今日の死刑制度の運用にも影響を与えたとされる。

事件の概要

1964年(昭和39年)12月15日(火)、福岡県筑後市山ノ井にある筑後市役所の会計課職員・井上忠幸さん(25)、橋本益夫さん(27)は職員に支給する冬のボーナス約2400万円を引き出すために町内の福岡銀行筑後支店を訪れていた。

9時半頃、手続きを終えた2人が車に戻ると、運転手・柴原恵さん(27)とは別にもう一人見知った顔が待ち受けていた。同市職員で市立病院の運転手をしていた津留静生(32)であった。津留は「事務長が市役所に行くと言っているから乗せていってくれ。肥後橋で待っているから」と用事を告げた。

津留は「二日酔いに効く」「疲れがとれる」と言って持っていた市販の滋養強壮剤「リポックD」を3人に配り、自分も1本を飲んで見せた。言われるがまま井上さんと柴原運転手がこれを飲むとその場に倒れて悶絶、橋本さんは口を付けた瞬間に苦みを感じて咄嗟に吐き出した。

津留は慌てて車を運転し2人を市立病院に送り届けたが、ともに意識不明の重体に陥る。更に病院まで運び終えた津留もその場で倒れ、重体となった。筑後署の調べでは、リポックDは瓶入りの溶剤で、3人と落ち合ったとき津留はこれを5本持っていた。病院側は内容物が腐敗していたのではないかとも疑ったが、同署は内容物の鑑定を進めるとともに、津留の回復を待って事情を確認することにした。銀行では官公庁などのボーナスの手続きで開店から混雑しており、店外で何が起きていたかは分からなかったという。尚、車に積まれたボーナスの現金は無事だった。

 

嫌疑

15日17時過ぎ、重体だった会計課の井上さんが病院で死亡。後日、柴原運転手も息を引き取った。県警鑑識課の調べで、瓶に残っていた薬剤から青酸反応が確認されたことから、ボーナスを狙った強盗殺人事件として筑後署に特捜本部を設置。間際にリポックDを勧めた津留による計画的犯行との見方を強め、唯一軽傷で助かった市職員に経緯を確認するなど捜査を本格化させた。
津留が持参した5本の内、1本は瓶が粉々に壊れており、1本は飲み干して完全に空、2本は飲み残しがあり、1本はビニールの蓋がしっかり閉めてあった。青酸反応が出たのは5本の内4本で、反応が出なかったのは壊れた瓶の残留物のみだった。

液体は薄い乳色で、反応があった液体は通常より匂いがやや強かった。販売経路をたどると、市内の「大学堂薬局」で顔なじみの城崎智恵子さん(44)から12月13日に購入していたことが判明。城崎さんの話によれば、津留は「リューマチの母に飲ませる」と話していたという。捜査本部は薬局の在庫品には異常がなかったことから、津留が購入後に毒物を混入したとの見方を強めた。8mfT1VjA8IGX0Oa1675440696_1675441081.jpg

津留は毎朝9時半頃に国鉄羽犬塚(はいぬづか)駅まで医師を迎えに行くことになっているが、この日は行っておらず、銀行付近でボーナス搬送の車を待ち伏せていたと推測された。また身辺調査の結果、津留は約1年半前に羽犬塚に家を新築していたが、半年前の6月初めに約150万円で手離しており、経済的問題を抱えている節も窺われた。
筑後市富重にある津留の実家を家宅捜索の結果、リューマチの母親のための栄養剤などが多数放置されていたが、そのうち内容物不明の瓶などを複数押収。鑑定の結果、洋服ダンスから見つかっていたハナラッキョウの瓶から青酸塩の粉末16gが発見された。

青酸性の毒物は即効性で、飲んでから2~3分の内には症状が現れることから、津留は病院に柴原さんたちを運び込んだ後に毒を飲んだものと推測された。つまりはじめに4人でリポックDに口を付けたときには、1人だけ無毒のものを飲んでいたとみられる。16日午後、治療が続く津留に殺人容疑で逮捕状が出された。

 

死刑判決

津留の症状は青酸中毒による重症ではなく「過敏性の特異体質のため、事件のショックで重症化した」と診断された。その後、回復した津留は12月28日になって容疑を完全に認める。橋本さんがドリンクを飲まずに吐き出してボーナス強奪の計画が失敗したため金を諦め、被害者を病院へ搬送後、偽装工作のために残っていた毒入りを口に含んですぐに吐き出したと供述した。

金銭強奪は未遂に終わり逮捕という結末を迎えはしたが、青酸入り薬剤を用いた殺害手段、相手を油断させるために自ら目の前で飲んで見せる誘導的手口から「第2の帝銀事件」とも呼ばれた。


一審では心神耗弱を理由に減刑を求めたが、計画的犯行のため認められずに死刑判決が下った。二審では強盗の犯意はなかったとして起訴内容の一部を否認し、強盗殺人ではなく殺人罪だと主張したが認められず控訴棄却。最高裁も上告を棄却し、1969年12月23日に津留の死刑が確定した。

犯行動機は「自宅の新築費用」や「板金塗装屋の開業資金」欲しさによる金銭目的とされた。獄中で知り合った死刑囚・免田栄(1949年逮捕、52年死刑確定。83年に再審で無罪確定)の残した手記によると、津留は「死ぬときはただでは死なない」と気丈に語り、福岡地裁久留米支部に再審請求を行ったが、74年7月に請求が棄却された。

 

背景

津留静生は1932年に8人きょうだいの五男として生まれる。中学卒業後、大工見習や工員などに就き、58年に筑後市役所の運転手となった。きょうだいから高齢になる両親の世話を押し付けられて一緒に暮らしていた。

60年に職場の女性と結婚。婚約の際、女性は両親との同居に納得してくれたが、古い家を改築して風呂を新設するようにと条件を付けた。津留は同居の為にその要望に応えたが、結局妻と姑の折り合いが合わず別居に至ってしまう。その後、子どもが生まれたのを機に父親に出資してもらい、家を新築して同居を再開した。しかし嫁姑の関係は悪くなる一方で、妻子はアパートを借りて別居。津留が週末にアパートに通う暮らしが続く。

板挟みとなった津留は、打開策として「大きな二世帯住宅に建て替えさえすれば万事うまくいく」との思いを募らせるが、改築やアパート代の負担がかさみ先立つものはなかった。家族崩壊の危機を自らの手で立て直そうと、すでに新たな設計図まで作っていた。

板金塗装の開業については、以前友人が事故車を塗装屋に出したところ一寸の作業で4000円も取られたため「非常に儲かる仕事だ」と憧れを抱いていたのだという。役所の運転手勤めでは給料もそうそう上がらない。板金塗装屋であれば大きな家で家族を食わせていける。親もカミさんも俺を認めてくれる…親の世話、妻子への気苦労を重ねながら連日連夜複雑な思いにさいなまれ、絵に描いた餅を夢想する日々。そんなとき総額1000万とも2000万ともいう「市役所のボーナス支給」の話を耳にして、現金輸送車を狙うことを思いついた。10man458a9640_TP_V4.jpg後年、事件の洗い直しを行った地元フクニチ新聞(92年廃刊)の記事には、金を強奪した後の逃走計画は白紙状態で「本気で金を奪う気があったのかどうか当時でも疑問視する捜査員がいたほどだった」と記されている。冤罪だとか背後に黒幕がといった陰謀論を持ち出す気はないが、第三者から見るとあまりにも短絡的な思いつきによる犯行に見える。実際に板挟みとなって家族の幸せを考えに考え抜いた結果がこれだとすれば精神疾患ではないものの病的なほどの視野狭窄、「思い込み」に陥っていたと感じざるを得ない。


自殺

事件から11年後の1975年10月3日、福岡拘置所で津留は左手首をカミソリで切り付けて獄中自殺を遂げる。明け方、異常な物音に気付いて看守を呼んだのは隣の房の免田栄だった。看守らが応急手当をしてすぐに医務室に担ぎ込まれたが、6時20分に死亡が確認された。享年43歳。10月3日の死刑執行が前日に伝えられていた。
死刑執行も公にはされなかった時代で、この獄中自殺が報じられたのは三週間後の10月26日になってからだった。当時の新聞では職員の談として「6月に福岡事件の西武雄死刑囚の死刑が執行されたが、津留は西の姿が見えなくなったことで“執行”に気付き、気が滅入っていたと考えられる」ともっともらしい自殺動機が記されている。

 

当時は確定死刑囚の面会や手紙のやりとりは所長の裁量に任されており、免田の手記によれば、死刑囚で野球チームを組んで慰問チームと対戦すること等もあったという。死刑囚同士の交流が禁止され、手紙や面会に厳しい条件が課される今日から見ると、当時の規則や制限には牧歌的、人情味とも思える緩さがあった。執行の通告も所によって前日や数日前に事前告知されていた。最期の家族面会が許されたり、所内でお別れ会が催されることさえもあったという。だが津留死刑囚の自殺によって、事前告知が事実上行われなくなり、執行当日の朝に伝えられるように運用が変わったと言われている。

 

獄中自殺した死刑囚

2023年1月14日、鳥取連続不審死事件の上田美由紀死刑囚(49)が食べ物を喉に詰まらせて窒息死したことが報じられて話題となった。ネット上では「自らも不審死か」と悪い冗談のような言葉も飛び交ったが、名古屋入国管理局でのウィシュマ・サンダマリさん死亡事件のように国家権力の統制下では死因すら自在に操られることが危惧される今日においては冗談とも言えなくなっている。

前述のように死刑執行の情報が公開されていないこともあるが、死刑が執行される者、死刑執行を待つ間に収監先で「病死」する者が大半で、戦後に獄中自殺した死刑囚は以下の4名とされている。

1975年9月5日 不詳
大田原女性セールスマン殺害。知人女性を撲殺。一審は無期懲役だったが二審で逆転死刑。1974年7月、上告取下げで死刑確定。
東京拘置所で鉄格子にシーツを縛って首つり自殺。享年34歳。
1977年5月21日(土)  山川真也
新潟デザイナー誘拐殺人。自動車セールスの客だった女性を営利目的で誘拐。映画『天国と地獄』を真似て列車での身代金を求めたが受け渡しに失敗。
東京拘置所で朝食中に窓ガラスを割って首を切って自殺。再審に向けて証人調べが始まったばかりだった。享年35歳。
1999年11月8日 太田勝憲
平取猟銃一家殺人。剥製加工業の太田は、猟銃を担保に毛皮の取引代金の支払いを先延ばしを、剥製業者の男性に頼み込むも、なじられ逆上。とっさに猟銃で撃ち殺した。事件発覚を恐れて妻、長女、次男も射殺した。
札幌拘置所で入浴中に剃刀で首を切って自殺。享年55歳。
2020年1月26日 矢野治
前橋スナック銃乱射。暴力団の抗争で、ターゲットの暴力団組長が飲んでいたスナックに、部下を送り込み銃を乱射させた。一般市民3人、護衛組員1人が死亡したが、肝心の組長は無事だった。2003年に死刑確定後、2014・15年に別の殺人事件を上申したが虚偽とされた。
東京拘置所内で布団の中で首を切って自殺。享年71歳。

上述の通り、津留が自殺するひと月前に大田原女性セールスマン殺害の犯人も自殺を遂げている。その死刑囚に事前告知があったのか等詳しいことは分からない。だが比較的若い年齢だったこと、確定から自殺まで14か月しか経っていないこと、一審での無期刑から二審での逆転死刑判決で上告を取り下げていることから見ても、早い段階で生きることへの執着を失い、絶望や諦念の境地に達してしまったとみることもできる。だが大田原の死刑囚、本件の津留と獄中自殺が立て続けに起きてしまったことで管理統制の見直しが図られたと考えられる。

死刑囚である津留たちはなぜおとなしく刑に服さず自ら命を絶ったのか。今後も様々な事件を考えていくうえで、死刑とはどういうものか、手短に触れておきたい。

 

死刑は絞首刑

今日の刑法では死刑は絞首刑と定められている。1868年(明治元年)に暫定刑法とされた仮刑律には、「刎(ふん)刑」(いわゆる斬首)や「梟(きょう)刑」(打ち首獄門の晒し刑)、磔刑、放火犯に対する「火罪」(火あぶり)、士族に対する「自裁」(切腹)など武家社会で培われてきた厳罰主義が踏襲されていた。

例えば、愛人の借財返済のため古物商・後藤吉蔵に近づき寝首を切って金を奪った「明治の毒婦」として知られる高橋お伝は1879年1月に市ヶ谷監獄で死刑執行されたが、8代目山田浅右衛門の弟・山田吉亮の手により斬首されている。山田浅右衛門は旗本・御家人ではないが江戸幕府で代々「御試御用(おためしごよう)」として仕え、試し斬りの名目で罪人斬首の任務を担った家柄で、維新後も「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕した。

刀の「研ぎ代」としての給金以外に、民間医療として肝や脳、胆汁など人間の臓器が薬として重用されたことからその販売事業でも収益を上げ、故人の供養に充てていたとされる。red-ribbon-centered.jpg欧米の近代法に倣い、「仇討ち」の禁止や見せしめ刑の廃止(小塚原刑場の廃止)など刑罰の簡略化や罪刑法定主義の基礎が整えられていった。それ以前は殺人や火付けを起こしてなくとも、窃盗だけで死刑になる者も多かった。

1880年公布・1882年施行の旧刑法より死刑執行は「絞首」のみと定められた。法学者ボアソナードがフランス刑法を範として立案し、啓蒙思想の影響が色濃く反映された特徴をもつ。だがすでにヨーロッパ社会では刑法典論争が活発化していた。ナポレオンが敗れ国家統一の機運が高まったドイツでは市民革命の影響が強い従来のフランス法では国家による処罰の権限に制約が大きいとの声が高まった。法もまた民族の共同性を示すものとして自国にふさわしい法律を整えようという動きである。

日本国内でもヨーロッパ諸国と異なる家族観や性差の趣意も存在する。また封建社会から近代国家への急激な変化に対応しきれていないとして、1907年(明治40年)ドイツ刑法を参考に現行の刑法が成立する。死刑については絞首刑に限定した方式が踏襲された。


永山基準

今日では永山則夫連続射殺事件で最高裁(1983年7月8日判決)が示した死刑適用基準の判例に従う。この基準は、永山基準と呼ばれ、第1次上告審判決では量刑基準として以下の9項目が提示されている。

犯罪の性質
犯行の動機
犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
結果の重大性、特に殺害された被害者の数
遺族の被害感情
社会的影響
犯人の年齢
前科
犯行後の情状

日本では先例に従う判例法主義が採用されている。過去の事例に倣うばかりの機械的な裁判のやり方に疑問を持つ人もいるかもしれないが、裁判官とて100年前と同じ物事の見方をしている訳ではない。判例に従いつつも、裁かれる事例がすべて異なるように、ひとつとして同じ判決というものはない。

仮に裁判官個人の資質・裁量で判決が下されることを想像すると、現代社会では「遠山の金さん」のようには「一件落着」しないことは明白である。近年では大事件についてワイドショーやインターネット上で強い批判を受けることで「すでに社会的制裁は受けている」といった情状理由をよく耳にするようになった。また裁判員裁判によって判例から外れた意見も判決文に反映される可能性はある。法令や一定の基準を遵守しつつも時代と共に判決は揺れ動いていることは確かである。

 

教誨師

死刑囚は親族、弁護士、事前に許可された僅かな人間としか接見を許されておらず、日常的には独房でほぼ孤立した状態に置かれ、その時を待ち続ける。だが本人が希望すれば月に一度30分ほどの教誨師との面談が許可されている。

教誨師は登録された数名の宗教家、篤志家らによって構成されており、報酬は交通費程度でほぼボランティアに近い。宗教的な法話や改悛懺悔のやりとりに限らず、檻の外での社会時世の感想や、今読んでいる本や流行歌についてのよもやま話など相談内容は様々だという。

能動的な矯正や信仰への導きでなくとも、罪の底で喘ぐ人間や、塀の外の「生」を渇望する者たちにとって話を聞くだけでも救済につながる。拘置所も精神的な安定のために死刑囚に接見申請を勧める。死刑執行への立ち合い機会はそう頻繁ではないが、前日に連絡が入り、翌朝には送迎車が用意される。担当死刑囚の見送りも重要な責務だが、死刑執行について家族や外部への他言は禁じられている。

 

執行について

死刑執行は、札幌刑務所、宮城刑務所、東京拘置所、名古屋拘置所、大阪拘置所、広島拘置所、福岡拘置所の7施設で行われる。土・日曜、祝日、年末年始(12月29日から1月3日)にかけて実施されることはない。

死刑囚は7時に起床、7時25分に朝食が開始される。執行通告は俗に「お迎え」と呼ばれ、平日の朝食後に行われると言われている。そのため食後の1時間ほどは死刑囚の舎房は静まり返り、看守の足音や挙動に耳を澄ませる。「お迎え」がないときは看守の「運動用意!」の掛け声とともに一気に場の緊張がほどけるという。

張り詰めた空気の中、数人の刑務官の足音が近づき、「出房」を告げられると刑場へと連行される。まず教誨室に通されると拘置所長から死刑囚に執行命令書が宣言される。なじみの教誨師との僅かな会話が許され、遺品整理や遺書の作成などが行われ、その場ではビスケットなどの菓子も提供される。

それが終わると奥にある前室に通され、白い布で目隠しをされ手錠を掛けられる。刑務官に広さ15畳ほどの執行室へといざなわれ、中央付近で制止を命じられる。ベージュ色のカーペットが敷き詰められた部屋の中央に1m四方ほどカーペットのない赤で縁取られた「定位置」がある。

この装置は床が開くときの轟音にちなんで「バタンコ」と呼ぶ。上部に備えた滑車から太さ約2cmのロープが吊り下がっている。死刑囚はその目で見ることはできないが、正面のガラスの向こうにある立ち合い室から検察関係者や所長が一部始終を監視する。ロープ先端の輪っかの部分には皮革が巻かれており、刑務官たちが手足を抑えながら首に輪をかける。隣りのボタン室では3人の刑務官が「舞台」が整うのを待機している。「押せ」という号令とともに刑務官各々の前にあるボタンを一斉に押す。3人の誰のボタンが稼働させたのか分からないようになっており、ボタン役の精神的負担感を軽減させる仕組みである。

死刑囚の足元の床板がバタンと大きな音を立てて開き、体は4m近く落下する。縄は身長や体重から逆算して、床上30cmに届く位置に長さが調整されている。下で待ち受ける刑務官は落下した体が激しく動かないように支える。落下の勢いと自重により脊椎が砕け、頚髄が断裂し、神経伝達は絶えて一瞬にして意識を失うと言われている。

医務官が絶命を確認するまで30分間そのまま待機するきまりがある。バタンコの下の床には、漏れ出た糞尿を片付けるための排水溝が設置されている。

教誨を受けない者は、早ければ起床から1時間後の8時には執行となる。その日「お迎え」があったことは死刑囚たちに瞬時に伝わり、自分の身の上と照らして神経をとがらせたり放心状態になったりする者もあるという。執行は新聞やラジオニュースなどでもそのまま伝えられている。

 

死刑は怖い?

百まで生きる人もいるが、はたして死なない人はいない。必ず誰しもに訪れるという意味で死はあらゆる人に平等に与えられた権利だ。それが「国家によって奪われる」と感じるならば死刑は刑罰として大きな意味をもつ。
津留はどうしても死刑になりたくなかった。執行を自らの手で回避したのである。男は生と死の狭間で揺れ動き、「刑罰としての死」を重く受けとめていたという点では、判決の意味はあったとみなすことができるだろう。あるいは被害者や遺族に対する謝罪や償いを放棄し、残された家族や縁者の心情を顧みない極めて自己中心的な選択とも言える。死刑囚ではなかったが、奈良県月ヶ瀬村で女子中学生を殺害した丘崎誠人元受刑者らも獄中で自殺を遂げた。

自分の死と向き合うことができない人間にはどんな刑罰が適切なのか。いわゆる「無敵の人」とカテゴライズされる自殺志願のテロリストに死刑は有効なのか。
内閣府・令和元年度 基本法制度に関する世論調査〕によれば、「死刑は廃止すべきである」9.0%「死刑もやむを得ない」80.8%「わからない・一概に言えない」10.2% となっている。

世論調査の回答者たちは当然過去に死刑囚になったことのない、善良な社会生活を営み、反社会的な犯人たちに敵対心を抱く真っ当な市民であろう。死刑を容認する、死刑制度を支えているのは私たち自身なのだ。