いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

映画『哭悲/THE SADNESS』感想

台湾発エクストリーム級ホラー映画『哭悲/The Sadness』(2021)のあらすじ、監督・キャスト、感想など。

“ちょっと普通じゃない”脅威的なホラー映画なので、過度の暴力やスプラッター描写が苦手な方は見ないことをおすすめします。自発的にスナッフフィルムを漁っているタイプの方にはおすすめしたい作品であり、簡潔に言えば「大切な人には絶対見てほしくない」タイプの鬼畜映画です(褒め)。

klockworx-v.com

 

下は日本版予告。わずか15秒ですが本編の8割がバイオレンスとスプラッターで構成されているので、一見すると極力刺激を排除した「良心的な広告」のようにも思えますが、「へぇ、台湾ホラーか~」と初見の中華料理屋にでも入るような感覚でうっかり劇場を訪れると向う脛をへし折られたり、吐瀉ったりしかねない「危険なトラップ」にもなっています。

 

本作は第48回スイス・ロカルノ国際映画祭、第25回モントリオール・ファンタジア国際映画祭オースティン・ファンタスティックフェスト2021、第54回シッチェス・カタルーニャ国際映画祭など各国のジャンル映画祭を席巻。三池崇監督、寺田心主演『妖怪大戦争ガーディアンズ』とともに2021年のホラー映画界で極めて高い評価を獲得しました。

 

■あらすじ

物語の舞台は、一年以上にもわたって謎の感染症“アルヴィン”ウイルスへの対応に追われてきた台湾。不満を抱えた市民の間では「実はウイルスは存在しない」といった陰謀論まで囁かれ、当初の警戒感が解けてしまっていた。

主人公は台北で同棲中の若いカップル、写真家見習いのジュンジョーと会社勤めのカイティン。ジュンジョーがスマホで眺めるウイルスの動向に関するニュース動画では、研究者が「ウイルスの突然変異」を懸念し、国の防疫体制の遅れを批判している。親しい隣人は「体の具合はよくないが、病院で待たされるのはごめんだ」と院内感染を危惧しているかのように語っている。

 

いつものように朝ジュンジョーがカイティンをバイクで駅へと送る途中、血まみれの事件現場に遭遇する。このとき2人がそれと気付いていたかは分からないが、すでにウイルスの変異と感染爆発は始まっていたのである。

帰りがけにジュンジョーがなじみのファストフード店に立ち寄ってみると、錯乱した老婆が店主に襲い掛かり、目の前で人々が次々と豹変していく。バイクで逃げのびたジュンジョーだったが、部屋に帰ると隣人もすっかり変調をきたしており、植木ばさみでジュンジョーの指を切り落とす。町中で人々が暴徒化し、殺し合いを始めており、愛するカイティンの身にも危険が迫っていることを予感させた。

ウイルスは人の脳に作用して凶暴性を助長し、感染者たちは衝動を抑えられず思いつく限りの残虐な行為を行うようになり、ゾンビのごとくセルフコントロールが効かなくなりレイプを繰り返して増殖を続ける。暴力衝動から逃れられないことに対する罪悪感の表れなのか、嬉々として暴虐のかぎりを尽くす感染者たちの目には涙が溢れている。

 

電車で読書をしていたカイティンは隣席の中年ストーカーに声を掛けられ、不快感に思って席を外す。すると同じ車両にいた男が刃物で次々と乗客たちを刺し殺し始め、襲われた人々もすぐに別の人間に襲い掛かり、たちまち車内は阿鼻叫喚の殺戮が繰り返される。カイティンは目を負傷した女性を支えながら停車駅へと逃げのびるが、そのあとをウイルス感染したストーカー中年が延々と追いかけてくる。

 

狂気に蹂躙された世界で離ればなれとなり、生きて再会を果たそうとする男女。感染者の殺意から辛うじて逃れ、数少ない生き残りの人々と病院に立て籠もるカイティン。連絡を受け取ったジュンジョーは単身で彼女のいる病院を目指す。

 

■監督

監督、脚本はカナダ人のRob Jabbaz(ROB JABBAZrob jabbaz - YouTube)。

独学でアニメーションを学んだといい、初期の公開作品にはホラー要素はほとんど見られません。これまではサウンドクリエイションやアニメーション作品を中心にミュージックビデオなどを発表していました。

Rob Jabbaz - Yamaha Majesty from Rob Jabbaz on Vimeo.

 

Bei Hai / 北海‬ (animation Rob Jabbaz. music Howie Lee) from Rob Jabbaz on Vimeo.

 

ERA from Rob Jabbaz on Vimeo.

 

台湾へ移住後、2020年に発表されたショートSFフィルム『Clearwater』が高い評価を得ます。内容は、人知れない源流へと避暑に訪れた女性が、蚊を媒介として「得体のしれない何者か」と出会ってしまうホラームービー。

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台湾のMachi Xcelsior Studios(『月老 Yue Lao』『複身犯 Plurality』)が同作を高く評価し、初長編実写となる『哭悲』制作へとつながっていきます。

 

映画ドットコムの記事で、ジャバス監督はフェイバリット監督としてクローネンバーグ、日本人では『渇き。』などで知られる中島哲也、『TITANE』で高い評価を得たジュリア・デュクルノー、観客を混沌へと導くサフディ兄弟(『グッド・タイム』『アンカット・ダイヤモンド』)の名前を挙げています。

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通りで理性を逆撫でする訳だ・・・といったセンスを感じさせてくれます。

 

■キャスト、予告編

主演を務める雷嘉汭(Regina Lei)は2000年台湾出身の俳優。10代からCMやMV出演などで活躍し、2020年にオンライン小説を原作としたサスペンスホラーのオムニバスドラマ『76号恐怖書店』に小敏役として出演。22年11月にはLing Jing原作のサイキックホラー映画『Antikalpa』が待機しています。

恋人役の朱軒洋(Zhu Xuanyang)は1999年台湾出身の俳優で、同じくCMやMV、TVドラマなどで活躍する気鋭の若手俳優のひとり。高校バスケを舞台とした青春映画『The Second Harf』ではスター選手姜桐豪役を演じ、国内の映画新人賞、助演男優賞を獲得。22年公開を控えている柯震東監督『黒的教育(Black Education)』では主演を務めています。

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台湾版予告。本国での公開は2021年1月22日。

 

下↓は過激な暴力表現が含まれるレッドバンド予告。

 

 

 

■感想

ポストコロナ時代の「感染」をシンプルに「暴力スイッチ」に擬えたノンストップ・ウイルス・ホラーで受け入れやすい導入部でありながら、徹頭徹尾ヴァイオレンス描写極振りの姿勢を貫いたことに最大級の賛辞を送ります。

従来の「ゾンビ映画的」な脆さとして、感染者の知能や運動能力の低さ、そしてホラーマニア以外には意味が分からない数々の「お約束」などがあり、人によってはそれらの醸し出す極限下に似つかわしくない馬鹿馬鹿しさを愉しむ好事家もいるかと思います。ですが『ナイトオブザリビングデッド』誕生から早や半世紀、金字塔へのリスペクトやオマージュの数々、そうした法則性こそがゾンビホラーを「ジャンル化」させてしまう枷、負の側面につながっていることへ個人的には不満を抱いていました。

言うまでもなくゾンビには近代的「大衆」の隠喩が込められており、本作においても感染者たちは「意味もなく」衝動的に殺戮を繰り広げます。一方で、ロメロ的ゾンビに比べると「衆愚性」は薄れ、本作の感染者たちは感染前の記憶や知性が残存しており、暴力や強姦をしながら同時に号泣するという惨憺たる感情を表現しており、文字通り「哭悲」がタイトルとされています。モンスターでもクリーチャーでもなく、「善良な市民」という下敷きの上に「ウイルス」が作用しています。

現代映画における「大衆暴動」「衆愚」の代名詞はもはやゾンビのものではなく『JOKER』に見られるような先鋭化した下層市民、偏向したネット世論に突き動かされた盲目的な陰謀論者たち(Qアノンなど)に代表され、大衆そのものの意味とは解離しています。彼らはその信条を疑うことなく、彼らの頭の中では極めて「理性的に」反社会性を表明して暴力へと加担するのです。

不随意に、自身の記憶や感情とはアンビバレンスなかたちで暴徒化を余儀なくされる本作の感染者たちもまた一般市民ですが、性暴力を併記することでより原始人に近い、「動物的」な生命体として、理性ではどうにもならない感情のやり場のなさを描出することに成功しているといえるでしょう。

「ゾンビ化」は元の理性的人間へと還ることのできない不可逆性を以て、その暗い未来を暗示しており、本作でも俄かに踏襲されています。「涙」という記号的な「感情」は残しつつも、もはや自らの意志では抑制が効かない暴力性は、もはや人間が生まれながらにして背負う「原罪」のようにも感じられました。そうした意味では日常生活やSNS上で何気なく取った自分の行動や発言が、意図せずとも誰かしらを傷つけてしまう(自ずと暴力性を帯びてしまう)ことともどこか重なるような気がします。

延々と繰り返される、逃れることのできない暴力の連鎖の果てにみなさんは何を感じたでしょうか。

 

栃木県日光市フランス人女性行方不明事件

2018年(平成29年)夏、栃木県日光市で発生したフランス人女性の行方不明事件について記す。

日光は東京から約150キロ離れた山間の町ながら日光東照宮などの世界遺産を有し、国内外から年間1200万人(当時)が訪れる観光地として広く知られている。女性は日本語を独学し、単身で来日。日光を皮切りに約半月かけて本州各地を巡る観光計画を練っていた。

現在も行方は分かっておらず、事件に巻き込まれたのか、水難などの事故が起きたのかもはっきりしていない。

 

情報提供は

日光警察署 0288-53-0110 まで

 

■消えた旅人

2018年7月29日(日)、栃木県日光市を観光で訪れたフランス国籍で教員補助Tiphaine Véronベロン・ティフェンヌ・マリー・アリックスさん(36)の行方が分からなくなった。

ベロンさんは27日夜に来日し、成田空港から東北新幹線などを使って28日に日光入り。夕方4時頃、市内のホテルに2泊の予定でチェックインし、スマホアプリで家族へ日光のランドマークである「神橋」付近で撮ったムービーを送るなどしていた。夜に600メートル離れた大通りのコンビニへ買い出しに行ったことも分かっている(画像右上)。

 

身長162センチで体格は中肉、目はグリーンアイ。髪は茶色で、後頭部で束ねていた。当日の服装(画像右下)は白色系のノースリーブ、ベージュの短パン(バミューダパンツ)の軽装で、普段使用していた靴は薄いピンク色の柄物キャンバススニーカーだった。

 

行方不明当日となる29日にホテルの「食堂」で朝食をとる彼女の姿をフランス人やドイツ人旅行者ら5人が目撃しているが、10時頃に外出して以降、消息が途絶えた。30日のチェックアウト時刻を過ぎても戻らないことから、ホテルのオーナーが警察に通報。8月1日、ベロンさんの家族は在日フランス大使館から連絡を受けて事態を知らされた。

 

■不安

ベロンさんは1982年7月、レンヌ生まれ。84年からポアティエに移り住んだ。美術史の学位を取り、障碍児教育の助手を勤めていた。外国のアートや文化に親しみ、ロシア語や日本語を独学。また発作を伴なう持病(てんかん)があり、薬を服用していた。

 

8月4日、一家が来日。部屋には、キャリーバッグや着替え、パスポート、処方薬など荷物の大部分が残されており、ショルダーバッグ、財布、携帯電話といった手荷物と青色のポンチョだけを身につけていたとみられている。世話になった日本人に渡すつもりで母国から手土産まで持参しており、万が一の発作に備えて持病の説明が付された冊子も部屋に残されたままとなっていた。

8月6日、ポアティエに残っていた母アン・デサートさんはマクロン仏大統領に捜査を懇願する手紙を送る。妹シビルさんはベロンさんの写真を公開して情報提供を求めた(9月9日から付近で撮影した動画等の提供を呼び掛けている)。7日にはローラン・ピック駐日仏大使が栃木県警や県庁を訪れ、捜索への協力を要請した。

 

県警は事件と事故の両面から捜索を開始。10日、80人体制で憾満ヶ渕周辺、ドローンや警察犬を動員して対岸にある鳴虫山での遭難を想定して捜索を行った。13日、滞在した部屋でルミノール反応を検査したが、事件性を示す痕跡は確認されなかった。

ベロンさんは5年前に東京を訪れたことがあり、今回の旅では7月27日から8月15日まで日本に滞在する計画を立てていた。

30日に日光を離れ、青森県弘前市へと北上し、岩手県奥州市宮城県仙台市福島県会津若松市(角館)と東北各地を巡り、そのあと京都、神奈川へ向かう旅程がメモに残されていた。また各ホテルの宿泊代金は事前に支払い済みだったとして、兄は自発的失踪はありえないと話している。

憾満ヶ淵

周辺では危険を冒して写真を撮る旅行者の姿も

宿泊した施設は駅や東照宮から徒歩10分圏内にあるホステルで外国人利用者も多い。大通りからはやや外れた住宅地にあり、谷の麓に位置することから、夏場は木立を隔てて大谷(だいや)川のせせらぎや涼風を味わうことも出来る。

宿泊先のホテルから、地蔵が並ぶ人気スポットの憾満ヶ淵までは大谷川を挟んでおよそ500メートル。ルートは整備されているが付近から岩場や河川敷に降りることも可能で、フェンスなども少ないため転倒・転落事故が危惧されるロケーションである。中には岩場でセルフィ―を撮る旅行者の姿もあった。折しも行方不明当日は台風12号の影響で増水しており、一歩足を滑らせれば流されてしまう危険も考えられた。

 

テレビ朝日系『スーパーJチャンネル 追跡!真実の行方』で、現場を訪れた元兵庫県警の飛松五男氏は、見通しの利く散策ルートの状況などから「流されていれば絶対に分かる。すぐに通報が入る」と断言する。

仮に転落時、周囲に誰もいなかったとしても、下流には一日中多くの人がカメラを構える「神橋」や車が途絶えることのない日光街道があるため必ず人目につく、「発見されていないということは、流された可能性がないと言ってもいい」と述べている。万が一押し流されてしまった場合も、日光街道からさらに下った発電所の取水堰にある格子に引っ掛かるはずだと述べている。

神橋のすぐ下流に取水堰がある

直筆の旅程メモ。利用可能時間や料金が記されている。

ベロンさんのメモに大きく書かれた「影向石(ようごうせき)」は、瀧尾神社にある弘法大師ゆかりの拝み石である。境内入り口には日本語で書かれた掲示があり「案内を口実に女性に近づくものがおります」と不審者への注意を呼び掛けていた。周辺では付きまといや車へ乗せようとする不審者事案が報告されていた。

この不審者に関して「青い車」の目撃証言がある。兄ダミアンさんがSNSで行方不明当時の付近の情報を収集していたところ、29日15時頃にアメリカ人旅行者が撮影した瀧尾神社の写真の中に一角、駐車場の位置に「青い車」が写り込んでいた。

ダミアンさんは「(不審者情報の)看板を見てぞっとしました。妹は日本が安全な国だと思い込んで誰かについていったのかもしれません」と不安を募らせる。

 

また市内各所にベロンさんの情報提供を求めるビラが貼られているが、瀧尾神社に貼られた2枚は人為的に破られたような形跡があった。

現場を訪れた飛松氏は、選挙ポスターが敵陣営によって剥がされることを例に挙げ、「行方不明に関係ある者が剥がした可能性がある」と指摘。「瀧尾神社で連れ去られるなりした可能性がある。事件として捜査すべき」と述べている。

 

■家族による捜索活動

家族は日本の警察が事件捜査に積極的でないことを鑑み、本国に戻ってからも国を動かすべく様々なアピールを行った。

2018年10月17日、訪欧した安倍晋三首相(当時)とマクロン大統領が会談。フリー記者として会見に参加した妹シビルさんは捜査協力を直訴した。

11月2日、家族はアジアを担当する外交副顧問アリス・ルフォ氏と面会し、日仏の捜査連係を求めた。

10日、地元ポアティエで捜査要請を求める街頭行進が行われ、市民500人程が参加した。

ポアティエで捜査要請を求めるシビルさんたち

その後も家族は度々日本を訪れ、支援の要請、警察や大使館との会合、現場調査や周辺での聞き込みを続けてきた。

2018年10月26日に行われた大規模捜索では、水深の浅い一帯を歩き回るダイバー隊や遠巻きに付近を漂うヘリコプター捜索に対して、ダミアンさんは痺れを切らした様子だった。

2019年5月8日、ダミアンさん、シビルさんは山岳救助隊5人を帯同して来日。ダミアンさんは「両親は精神的にかなりつらそう。兄妹だけでもできる限り望みを持つようにしている」と不安と希望の交錯する家族の胸中を語った。

「川で何かがあった可能性を潰したい」と出水前の大谷川を中心に10日間の捜索を行う。これまでの県警の調べや地元住民の協力、励ましの声に感謝を示しつつ、「もう一度新たな視点で見つめ直してもらいたい」と捜査方針の転換を呼びかけた。

 

19年2月、SNS上ではDRAWING FOR TITIキャンペーンによりデザインイラストを募るなど、事件の風化阻止と捜索要請のアピールを続ける支援者たちの熱意をつないだ。

11月、支援団体UNIS POUR TIPHAINE創設。家族は4年間でおよそ7万ユーロ(940万円相当)をかけて日仏の弁護士、私立探偵(元憲兵で多くの難事件を解決に導いたプロファイラーとして知られるJean-François Abgrall氏)らに調査を依頼した。事故の可能性は低いとの見方を強め、日本の警察に積極的な犯罪捜査を要請するために現在フランス司法への働きかけを続けている。

女優ファニー・アルダン氏は捜索に要する渡航費などの支援を募るUNIS POUR TIPHAINEの動画に声の出演で協力している。栃木県内のフランス人留学生らは通訳やビラの配布などで現地サポートを行い、東京のフランス人コミュニティでもガレージセールやチャリティイベントを開催して事件の風化阻止と経済的支援を呼び掛けている。

 

日本でコンサルティングを依頼された小川泰平氏は「自分に直接関係ない情報というのは記憶からどんどん抜け落ちていく。捜査方針によって貴重な証言を得る機会が失われた可能性がある」と事故の見方が強かった初動捜査のミスが長期化を招いていると指摘する。家族の証言通り、事故や自殺の線はないと断言し、拉致監禁されている可能性を示唆した。

日光到着から行方不明までのベロンさんのGPS動線

上は27日から28日にかけてのベロンさんの携帯電話GPS動線。川を渡って一度憾満ヶ淵に立ち寄ったかのようにも見えるが、11時34分に周辺でぷっつりと通信が途切れている。

携帯電話事業Free創設者Xavier Nielの調査協力によれば、ベロンさんの携帯電話はボタン操作による通常の電源切断ではなく、バッテリーが引き裂かれたか、破壊されるなどして「激しく切断された」ものとされた。

 

2021年6月16日、捜索隊50人で行われた6度目の大規模捜索では大谷川にダイバーを投入。河川敷での捜索に加え、上空からヘリコプターも動員した。栃木県警では3年間でのべ6900人を動員して捜索を行ってきたが有力な手掛かりや情報は得られていない。

家族らは誘拐・監禁との見方を強めており、日本の警察が「行方不明」事案として通信記録の開示請求、単なるヒアリングではない事情聴取などの強制捜査を行っていないとして憤りを募らせ、フランス警察による現地捜査を望んでいるとも現地記事は伝えている。

日本のテレビには「日本が好きだったベロンさん」について語り、警察や支援者への協力を感謝する兄妹の真摯な姿が映し出されるが、意思疎通はもちろんのこと、人権意識などの文化的な齟齬、法的に立ちふさがる障壁や日仏間に横たわる外交関係など多くの困難に苦しめられている。

 

フランス人ジャーナリストLénaMaugerと彼女の夫で写真家のStéphaneRemaelによる共著『Les Evaporés du Japon(日本の蒸発)』(2014)の中で、「切腹」が武士の名誉を守る手段として尊重されてきた歴史のごとく、日本人は経済事情による屈辱に甘んじるよりも人生そのものを放棄する「夜逃げ」や自殺を選択する風潮が指摘されている。

そうした文脈から、日本の警察は成人の自発的失踪、蒸発を「尊重」し過ぎるあまり、ヨーロッパ諸国の捜査に比べて極端に消極的だとする主張もある。

 

 

■所感

ベロンさんは慎重な性格で、自ら危険を冒すような真似はしないと家族は主張する。川が増水していれば余計に川縁に近づくことはなかったかもしれない。

一部には宿泊施設の関係者に疑いの目を向ける声もあるようだが、営業時間中に拉致監禁や被害者を移動させることが可能だったとは思えない。

また寺社仏閣、山や自然公園など観光地での声掛け事案は日光に限らず全国的に発生しており、旅行者の警戒心の低さに付け込む不審者も存在する。「車で目的地まで送っていこう」等と声を掛けられ、親切心との誤解を招いて連れ去られたことが危惧される。

本格捜査の拡大、そして一刻も早い女性の発見を願っている。

 

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■〔2022年11月追加〕

2022年11月、兄ダミアンさんらが来日。日光署のこれまでの捜索に謝意を示すとともに、改めて今後の捜査協力を要請した。新型ウイルス感染拡大の影響により日本での捜索活動はしばらく中断していたため、今回の来日は3年ぶりのものとなる。

12月15日頃まで滞在し、以前に貼った情報提供を募るチラシが古くなっていることから貼り替えなどを行い、これまで手付かずだった中禅寺湖方面での捜索活動を行うとしている。

 

またFNNでは、事件当日7月29日のベロンさんのスマホの通信記録を入手した。

公開されたデータはフランス語で書かれており、宿泊先のWiFiを使用して接続された11時28分から40分までのグーグルマップの利用データである。フランス語であることからもFNNが記録を採取した訳ではなく、ダミアンさん側からのリークと思われる。

読み取れるところでは、11時30分頃に「仙台駅」「若林区」「仙台駅から山寺(立石寺)のルート」「日光の宿泊先から山寺へのルート」「太白区周辺」「宮城野区周辺」など仙台方面を確認。11時34分には日光の「憾満ヶ淵」、東照宮のある「山内」、宿周辺の「本町」を確認していた(地名はすべてローマ字)。

このデータから分かることは、宿泊先の主人による10時頃に出掛けたという証言は誤りで少なくとも11時40分までベロンさんは宿に残っていた可能性が高いこと。8月6~8日に仙台を訪れる予定だったことを鑑みれば三者による操作ではないと推測される。時間の記憶違いや人違いの可能性も大いにあるため、主人が「嘘をついている」とは断言できない。

 

朝食を終えたベロンさんはすぐに外出しようとはしていなかったことはほぼ間違いない。だがその日に向かう日光周辺の場所やルートを確認するのは分かるが、なぜ1週間後に訪れる仙台方面の地図を確認したのか。

考えられる状況としては、ベロンさんが日本での旅程を総ざらいするように再確認していたが、通信データが公開されていないだけの可能性がある(今回公開されたデータは約12分間の文字列27行のみ)。たしかに来日して間もないことから旅程の組み直しや再確認の必要があったかもしれない。だが各地の宿代は事前に決済しており大幅な変更は難しく、いずれも数秒~数十秒程度の極めて短時間の操作なのである。

 

筆者の憶測を述べれば、ベロンさんはこのとき今後の旅程について第三者に話をしていたのではないかとみている。自室に戻ったのか、あるいは旅館内の別の部屋に行ったのかは分からない。旅行客かスタッフか、「これからどこへ行くんだい?」と声を掛けられマップを見せながら会話を楽しんでいたのではないか。しかし相手は彼女の行き先には興味がなく、「近くを案内するよ」と連れ出した場面が想像される。

今回の捜索で彼女の無事が確認されることを、せめて悪い推測を拭い去る手がかりが発見されることを願っている。

 

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〔2023年7月21日追記〕

前年の中禅寺湖捜索では有力証拠の発見には至らず、依然として安否の知れないまま、行方不明からまもなく5年目を迎える。

兄ダミアンさんと妹シビルさんはフランスで多くのメディアに登場し、日本では失踪者が多く警察は事件捜査をしようとしないこと、携帯電話のデータ収集といった要請を拒否されたことへの不満を語り、私設調査について部分的に結果を公表しながら世論を喚起してきた。

2022年6月、事件発生からそれまでの独自調査をまとめた『Tiphaine où es-tu ? - La vérité sur la disparition de Tiphaine Véron au Japon(ティフェンヌはどこへ?——ティフェンヌ・ベロン日本失踪事件の真相)』を上梓。

ダミアンさんが妹の宿泊先での現場検証に立ち会った際、壁一面に飛散した血痕を思わせるルミノール反応を目にしたが、警察は充分な説明を行わずに血痕とは認めなかったことや、宿泊先の経営者夫婦は挙動不審に見え、自分たちを避けたがっているような印象を記した。既述のように事故の可能性は低く見え、事件性を感じさせる要素があるとして仏ポアティエ当局による日光での捜査を訴える内容である。

Tiphaine où es-tu ?

家族は膠着した捜査状況を解消するため、国連でもスピーチを行ってきた。拉致問題などを扱う強制失踪委員会から日本の警察に対して緊急措置として情報提供などを要請してきたが回答が得られず。2023年春、委員会は日本政府に対して強制失踪条約に基づき、「事件性が疑われる行方不明事案」として犯人特定に向けた事件捜査、家族やフランス当局に情報提供をするなど最大限連携するよう要請した。

令和5年7月19日(水)午後 | 官房長官記者会見 | 首相官邸ホームページ

7月19日午後の定例会見で、松野博一官房長官は委員会からの要請があった事実を認め、「政府としては然るべき回答を行っている。栃木県警において事案の認知当初から事件・事故の両面から不明者の捜索を行っているところであり、引き続き、発見に向けた捜索等が行われると承知している」とコメントした(8分43秒ごろ~)。

事件性に関しては、外務省を通じて4月までに「第三者が関与した情報は今のところ確認されていない」と回答していた。

 

 

参考:

◆支援団体unis pour tiphaine

https://www.unispourtiphaine.org/

 

津山市主婦行方不明事件

2002年(平成14年)、岡山県津山市で発生した主婦の行方不明事件について記す。

事件後、関与が疑われる男女2名が死亡したことから捜査は手詰まりとなり、20年経った現在も不明者は発見されていない。

www.pref.okayama.jp

事件について情報をお持ちの方は以下に提供をお願いします。

津山警察署 0868-25-0110

岡山県警捜査第一課 086-234-0110

 

■妻からの電話

平成14年6月3日(月)昼頃、岡山県津山市弥生町に暮らす主婦・高橋妙子さん(54)の行方が分からなくなった。

夕方17時半頃、夫で医師の幸夫さんが勤務先の病院から帰宅すると妻は不在だった。手付かずの昼食が残されており、テレビは点けっぱなし、風呂場の水道は出しっ放しといった状態に当惑していると、ほどなくして妻・妙子さんから自宅に2度に渡って電話が入る。

「もしもし妙子ですけど」

慌てる幸夫さんに「6時頃までには帰ります。身の危険はないから心配しないでください」と落ち着いた様子で話す妙子さん。

「どこにおるん?」と尋ねると「車でぐるぐる連れ回されて、いまちょっとどこ行っているか分からない。多分岡山くらいだと思います

「連れ回されとん?だれに?」と聞くと、「警察には言わないでください」と返答があり、そこで電話は切れてしまう。

はたして妙子さんは帰宅せず、幸夫さんは19時頃に警察に届けを出した。

岡山県警HP〕

同じ3日12時頃、妙子さんは両親に連絡を取っていた。

「お父さんに世話になったという男女2人連れが家に来ている」と話し、「会いたがっているので住所を教えた」と伝えていた。2人について「中年男性」と「若い女性」で「お父さんと娘さんのようだった」と話していたが、その後両親のもとにそうした客人が訪れることはなかった。

また妙子さんの財布は自宅に残されていたが幸夫さん名義のキャッシュカードだけが持ち出されていた可能性が高いとされ、同日中に預金のほぼ全額に近い現金およそ700万円が引き出されていたことも判明する。現金は3日13時半頃に津山市内のJA、夕方に岡山駅周辺のATMから計11回に分けて引き出されていた。

防犯カメラ映像により現金を引き出したのは妙子さんではなく、白いシャツに白いチューリップハットをかぶった若い女と判明する。津山市内で引き出しが行われたキャッシュコーナーは卸売市場の目立たない位置にあることから、女は土地勘のある人物とみられた。津山署は捜査本部を設置し、犯人の特定を急いだ。

 

■疑惑の男女

事件のあった6月3日朝に幸夫さんの勤務先病院に中年男性が訪れ、「高橋先生のお宅はどちらでしょうか」と問い合わせていたことが判明する。受付職員は男に住所を伝えてしまい、後から不審に思って高橋さん宅に電話で確認した際には、客人は来ていないとの返答だった。

6月8日より妙子さんの公開捜索開始。13日には県警HPで防犯カメラに映った女の顔写真を公開して情報提供を呼び掛けた。15日、津山・岡山市内で立て看板の設置やビラ配布、各地域回覧板などによって事件の周知と男女の身元の割り出しを急いだ。

18日、個別の事件としては異例ともいえる緊急署長会議が開かれ、県内23署の署長、犯罪対策官ら55名が出席して捜査の進捗状況などが確認された。緊急性がある事案として、周辺各県へ5万枚のチラシ提供、コンビニへの配布などが要請されることとなる。

21日、女は捜索願が出されていた鳥取県智頭町芦津在住の会社員(「スーパー店員」とも)吉田好江(33)と判明し、窃盗の容疑で引き続き捜査を行った。吉田は事件翌日の4日にもATMから現金の引き出しを行おうとしていたが、盗難届が提出されたことで取引が停止されており、ATM機にカードを回収されていた。カードに残された指紋が吉田のものと一致し、22日に全国に指名手配が行われた。

 

また日頃からパチンコ店などで吉田と一緒に遊興していた岡山県奈義町出身の元タクシー運転手男性(52)がマークされる。22日には任意での事情聴取も行われ、県警による身辺捜査が続けられていた。男は吉田に鳥取県智頭町のアパートを紹介し、吉田の自動車を売却する際にも工場との値段交渉を任されるなど親密な間柄と思われた。しかし男は事件への関与を否定し、周囲には警察に疑われて困っていると話していた。

24日早朝、家族に「仕事に行ってくる」と言い残し、津山市の鶴山(かくざん)公園の桜の木で首を吊って死んでいるところを発見される。同日行われた家宅捜索で、家族に宛てた遺書が複数見つかっている。

男の軽自動車からは微量の血液反応があり、DNA型鑑定の結果、妙子さんのものと一致した(7月)。Nシステムの解析により、妙子さん行方不明後の6月4日、5日に男の車が岡山県の新見インター付近・国道180号を約5時間のブランクを開けて往復走行していたことが分かり、周辺の山林やダム等での捜索も行われたが妙子さん本人につながる手掛かりは発見されていない。

 

■行方

吉田は公開捜査翌日の9日にアパート大家の許を訪れ、契約時に提出した身分証の写しなどを回収。10日、鳥取中央郵便局の消印でアパートの鍵を返送していた。11日には鳥取県内に住む母親の許に手紙が届いており、こちらも9日か10日頃に鳥取県内で投函されたとみられている。「心配かけてすいません。生きる気力がなくなった。お母さん、ごめんなさい」などと追いつめられた心境を語る記述も含まれていた。

公開捜査の写真を見て、心配した家族が警察に届け出た。母親が防犯カメラ映像を確認し、実家から吉田の指紋も採取・押収された。

警察は、吉田が事件当日の午後に津山線から岡山駅に一人で下車していたことを把握。高橋さん宅を離れた後、男が車で移送し、吉田が現金引き出しの別行動を取っていたことは掴んでいた。岡山駅周辺で金を引き出す際に、吉田は捜査かく乱のためかデパートで着替えを行っていたことも判明している。

6月26日には津山から西50キロの新見駅や新見高校付近、市内の飲食店などで目撃情報が相次いだことから、岡山・兵庫・鳥取三県の宿泊施設を一斉捜索。しかしその後の動向は知れぬまま、3か月以上が経過した。

 

9月23日午後、津山市から南西約35キロ離れた岡山市日応寺の山中で通行人が白骨化した遺体を発見。歯型やDNA型鑑定により吉田本人であることが確認された。遺体はロープで木に結ばれた状態で、現場から運動靴やバッグ、「生きることに疲れました」と書かれたメモ等が見つかっている。一方で吉田の所持金はごく僅かで、引き落とした現金700万円の使途などは判明していない。

 

■男女について

吉田は1998年に岡山県美作町(現美作市)の会社員と見合いで結婚し、夫婦仲は円満、夫方の家族とも問題はなかった。だが2000年1月に退職して以降、ギャンブルにのめり込み、翌01年になって吉田が消費者金融から多額の借金を重ねていたことが発覚した。吉田は借金について「パチンコと競艇に使った」と言い、総額2200万円以上にも膨れ上がっていたことなどから12月に離婚。家族らが肩代わりして約500万円を返済したが、その後、吉田の行方が分からなくなり家出人捜索願が出されていた。

調べにより、吉田は離婚前の2001年夏から02年5月末まで津山市内にアパートを借りていたことが判明。元夫は事件後、多額の借金についてギャンブル癖だけでなく誰かに騙されていたのではないかと語っている。

男の生活実態は不明だが、30年以上自衛隊に勤務し、同僚とのトラブルから退職してタクシー運転手となったものの、それも一年程で辞め、定職には付いていなかったと見られている。

男女は津山市内で趣味のパチンコなどを介して知り合った可能性が指摘されている。また妙子さんがかつて男が勤めていたタクシー会社を利用したことがある(「男が乗車させた」とも)との情報もあるが、なぜ妙子さんを狙ったのかといった犯行までの筋道は不明のままである。

吉田と男は、拉致や殺害の確たる証拠が出ていないこと等から「窃盗」の容疑で書類送検、被疑者死亡で不起訴処分となっている。妙子さんの安否、行方は現在もようとして知れず、岡山県警は捜査を継続している。

 

■被害者遺族

突然妻を失った幸夫さんは「何とか世間に訴えて妻の行方を捜したい」との思いからメディア取材への対応を続けていた。しかし誤報や根拠のないでまかせを繰り広げるマスコミ報道に精神的被害を受け「一体誰のための報道なのか」と憤りに震えた。

勤務先の病院にも不審な電話が相次ぎ、隣家の敷地に侵入してきた記者もいた。ほぼ一カ月の間、外出することも出来なくなり、心が不安定となって自殺も考えた。しかし熱心な捜査員らが泊まり込みで付き添い、その後も懸命な捜索活動を続けてくれたことが支えとなったという。

事件から2年も経つと過熱したメディアスクラムも沈静化し、「プライバシーを食い散らかして後は知らん顔」。事件のカギを握るとみられた男女が死亡したことで新たな手掛かりは得られぬまま、捜査も手詰まりとなった。その一方で、「事件というもの、事件・事故というものはその場限りではないんだ」という被害者遺族としての葛藤は強まっていった。

 

事件から4年後、独立した子どもたちに近い神戸市へ引っ越した。妻の帰りを待ち続けるため、捜索活動を続けていくためには「妻のいない人生を生きる」覚悟が必要だった。選挙や年金、保険の支払いなどの度に“二人分”の書類や手続きが必要となる。当初は「妻の存在」の証として肯定的に捉えようとしていた。しかしかたや国勢調査では「いないので書かなくていい」と妻の存在を否定される。事務処理の問題とは分かっていても、なぜ悲しい思いをしている人間に社会はこんな仕打ちを続けるのか。「妻の死」を受け入れたくはなかったが、2009年に失踪宣告の手続きを行い、法的死亡が認められた。

悲しみや怒りを抱え続けて生きていかなければならない苦しい思いを、他の誰にも味わってほしくはない。そうした思いから公的機関における被害者遺族の処遇改善の必要を強く訴えた。全国の犯罪被害者遺族による団体「あすの会」や「被害者サポートセンターおかやま」での活動を通じて、「だれもがある日突然当事者になりうる」という自らの経験を再び人前で語るようになった。犯罪被害者への理解、そして被害者・被害者遺族の生活保護・復帰に向けた公的支援を訴求することに注力した。「報道の自由は社会のためになってこそ。自分たちの報道が社会に貢献できているのか、常に自問自答してほしい」とマスコミにもくぎを刺すことを忘れない。

妻の法要を営むようになり、「自分の人生を生きる」ことになった今も、生活の節々で夫婦一緒にいたかったと感じることがあると幸夫さんは言う。「もし帰ってきたら『いままでどうしとったん。ようがんばった』と声を掛けるだろうな」と語っている。

高橋さん夫婦が結婚したのは1972年。妙子さんは乳がん手術を乗り越え、3人のこどもは無事独立し、老後は夫婦水入らずで旅行に出向く約束をしていたという。

僕の手で妙子の人生を見届けて、最後に閉めてやって、僕も閉める。いまのぼくの願い

事件から20年が経った現在も幸夫さんは妻と再会できることを心待ちにしている。

 

 

■所感

「被疑者死亡」で話を閉じることも出来るが、事件に残る謎、疑問点についてもう少しだけ考えてみたい。

2022年6月3日の山陽新聞は、死亡した岡山県の元タクシー運転手男性が当時捨てたゴミの中から事件につながる資料が見つかっていたことを伝えている。資料の詳細は明らかにされていないが、捜査関係者によれば精査した結果、事前の準備をしていた可能性が窺えたとしている。

まず吉田と元タクシー運転手男性が拉致に係わったことは事実と考えられる。また車内から血痕が見つかっており消息が20年途絶えてしまっていることから、残念ながら被害者の生存は可能性が薄いと見なさざるをえない。おそらくは自宅に電話を掛けてから間を置かずに殺害されたものと推測される。

 

男女の犯行動機は金銭目的が疑われるものの、なぜ妙子さんを狙ったのかについては疑念が残る。単純に考えれば、幸夫さんが医師であることから資産があるものと見込まれたようにも思える。

しかし第一に、犯人は高橋さんの自宅住所を知らなかった。それでいながら幸夫さんの勤め先を知っていたということは、犯人は幸夫さんと何がしかの接点があったか、幸夫さんに関する情報を得ていたことになる。津山市は県下第三規模の都市とはいえ人口10万人程度であるから、街中で本人も気付かぬうちに接点があったとしても不思議はない。あるいは男がタクシー業務で妙子さんを乗せた折に、夫の勤め先を話すなどしていたものか。

あるいは幸夫さんが精神科医であったことから、1994年に起きた「青物横丁医師射殺事件」や2021年に大阪北新地で起きた「メンタルクリニック放火殺人事件」のように医療トラブルや精神疾患などを背景とした「逆恨み」などの線も想像されるが、男女のいづれかに通院歴があったのかは伝えられていない(医療プライバシーに関わるため捜査段階で報じられることはありえないのだが)。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

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第二に、男女は高橋さん方を二度訪れたとみられる点。一度目の「ご両親に世話になっている」といったやりとりは家人の在宅状況の確認、下見のために行ったとみるのが妥当だろうか。一度やりとりを済ませていることから、再訪時には妙子さんも警戒感が薄れていたかもしれない。

 

第三に、犯人は妙子さんをどうするつもりで拉致したのかという点。金銭目的であるならば身代金誘拐ということになるが、妙子さんの入電の際には金銭の要求などを伝えていない。また男女について「親子のようだった」と親に連絡していることからも二人は妙子さんに接触する際、顔を晒していたと考えられる。そうなれば「生きたまま返すわけにはいかない」はずであり、殺害も視野に入れた誘拐だったことになる。

妙子さんの電話内容から考えると、犯人側が電話を掛けるように命じた訳ではなく、おそらくは妙子さん本人が「夫が帰ってくる時刻だから、行方が分からないと警察に通報するかもしれない」などと犯人を説得し、入電の機会を得たものと想像される。すぐ近くに犯人がいる状況下で「たすけて」とは言えなかったものの、夫は妻のSOSを感じ取った。

 

そもそも家すら知らない犯人が高橋さん宅の資産状況を把握しているはずがない。事件を知っている我々からすると、さも犯人ははじめから700万円を狙っていたかのように捉えてしまいがちだが、夫名義のキャッシュカードを妻が管理していることは犯人も犯行に及ぶまで知らなかったのではないか。拉致とともにカードだけを持ち出していること、13時半には津山市内で現金引き出しが開始されていることから高橋さん宅で金銭を要求する脅迫をしてすぐに暗証番号を聞き出したものとみられる。

 

明らかにされていない情報として、妙子さんが自宅に掛けた電話がどこで行われたものか報じられていない。男女いずれかの携帯電話からだったのか、あるいはどこからかの公衆電話だったのか、といった内容は警察も把握しているはずである。

 

元タクシー運転手の男の自殺について、任意聴取で潔白を主張したまま死亡したことから、「冤罪」なのではないか、吉田には「別の共犯男」がいたのではないかとする見方もある。だが逮捕前に「自殺」され、真相解明を永遠に遠ざけたことは言うまでもなく警察の「失態」である。2022年になって「事件につながる資料」の存在を示すことで、死亡した被疑者の犯人性は高まることになる。警察が自らの「失態」を更に裏付けるために状況証拠を捏造しているとは考えづらく、元タクシー運転手の男に関与の疑いが強い点は事実と捉えてよいかと思う。

また自殺の前日にマスコミから男に対する追及があった、いわばマスコミの行き過ぎた報道姿勢が男の自殺を招いたとも噂されるが、遺書の公開等がない以上、追い詰めたのは警察かマスコミかは水掛け論、真相は藪の中といえよう。

 

さらには男女の死が「自殺」ではなく「他殺」なのではないかとする見方も存在する。たとえば反社会勢力が裏で糸を引いていた、用済みとなった男女はそうした「事件の黒幕」によって口封じに殺害されたのではないかといった背景も思い浮かぶ。

たしかに吉田が借りていた2200万円以上もの金額からは一見大きな犯罪が絡んでいるかのような印象を受ける。だが彼女にそれだけの返済能力があったとは考えにくく、消費者金融(2000年で法定上限金利29.2%)だけでそれほど多くの借り入れが可能だったとは思えない。消費者金融での借り入れができない多重債務者らを対象とした「トイチ(10日で1割、金利365%)」「トサン(金利1095%)」「トゴ(金利1825%)」といった法外な高金利での貸し付け、いわゆる「闇金」で膨れ上がったとみてよいだろう。

闇金は原資より多く金を回収することが目的であり、債務者が女性であれば風俗に沈めるなどして返済を求めるのが常套手段である。想像にはなるが、吉田がアパート捜しを男に頼み、親にも告げずに鳥取県智頭町に身を潜めたのはそうした事情が差し迫っていたためと考えられる。

闇金からすれば債務者を殺害することにメリットは存在しない。行き過ぎた脅迫によって債務者を自殺に追い込む、暴行がエスカレートして死亡に至らしめるといった場面は想像できても、わざわざ自殺に見せかける工作までして殺害するとは考えにくい。闇金暴力団と言った「黒幕」から「誘拐や殺害の指示があって男女はそれに従った」とするのは些か無理筋な見方であり、警察が「自殺」と断定した理由には、遺体に第三者による暴行の痕跡等がなかったことも含まれていようはずだ。

 

なぜ侵入窃盗や強盗ではなく拉致だったのか、なぜ妙子さんを狙い、どこへ連れ去ったのかは判然としないが、借金苦に追い詰められた男女がやぶれかぶれに思いついた犯行というのが筆者の見立てである。窃取した金は借金返済に充てるつもりだったのか、2人で別天地を目指すための資金にするつもりだったのかは分からない。

吉田は事件から3週間後に岡山県新見市で目撃されており、おそらくは鳥取~岡山のテリトリーを離れることができなかったものと見受けられる。車がなかった吉田はバスや電車、タクシーを使って自らの死に場所を求め、岡山空港近くの山中へとたどり着いたのか。だが700万円の行方が知れないことを踏まえると、闇金業者に発見されて金を回収されたとも考えられる。吉田が指名手配犯となったことからこれ以上の回収は見込めないとして山に捨てられ、自らの手で幕引きを迫られたのではないか。

 

***

 

犯罪被害者シンポジウム~いのちの大切さを語り継ぐまちづくり(平成19年)

https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/local/work2008/s4-5.pdf

免田事件について

熊本県で起きた一家四人殺人事件で犯人とされた免田栄さんが2020年に亡くなった(享年95)。死刑を言い渡され、獄中から34年間にわたって無実を訴えながら再審請求を続け、6度目にして晴れて無罪判決を得た。

自由社会に帰ってきました」「浦島太郎になった気がします」

死刑台からの生還者として“自由”を取り戻した免田さんは、刑事司法のあり方や死刑制度の廃止についての講演活動、袴田事件はじめ冤罪が疑われる事件の再審支援などを続けながら、福岡県大牟田の炭鉱町で余生を送った。

死刑囚の再審無罪という歴史的転機を生き抜いた免田さんの半生と彼の人生を狂わせた事件について記す。

 

■事件概要

1948(昭和23)年12月29日深夜から30日未明にかけて、熊本県人吉市北泉田町の民家で一家4人が殺傷される強盗殺人事件が起きた。30日3時20分頃、歳末で夜警の見回りに出ていた次男らが家の前を通りがかると、母屋からうめき声が聞こえて異変に気付いた。

 

家は祈祷師を生業としており、白福角蔵さん(76)は咽頭部を刃物で刺されたほか、合わせて10カ所を滅多打ちにされ、頭部割創による脳挫滅および失血のため即死。妻トギエさん(52)も頭部7カ所を割られており、発見時には存命だったものの明け方に息を引き取った。長女イツ子さん(14)、二女ムツ子さん(12)は一命を取り留めたものの、同じく頭部に打撃を受けて1カ月以上の重傷を負った。

家族が寝ていた8畳間はまさしく血の海と化しており、角蔵さんの遺体脇には首を刺したとみられる折れ曲がった刺身包丁が落ちていたが、頭部を叩き割るのに使用された凶器は発見されなかった。盗品被害ははっきりしておらず部屋のタンス類に物色された痕跡があったが、包丁以外の遺留品や犯人の指紋などは検出されなかった。

 

二女ムツ子さんの証言によれば、犯人は年齢20~30歳ぐらいの若い男、国民服を着た長髪で、色黒な中背体型とされた。窃盗状況は判然とせず、2種類の凶器を用いて夫婦を執拗に襲った残虐すぎる手口から、人吉市警の捜査班では怨恨の線を念頭に捜査を行い、周囲の人間関係を洗ったが容疑者はすぐには浮上してこなかった。

 

熊本県南部、九州山地に囲まれた播磨地方の主要都市である人吉市は、古くから温泉地として知られ、播磨川に沿う湯前線熊本県八代~鹿児島県霧島を結ぶ縦貫鉄道肥薩線えびの高原線)が交わる九州南部の交通の要衝として栄えた。

戦中には川辺川東岸に海軍航空隊の基地がつくられ県内唯一となる全長1500m幅50mのコンクリート滑走路が敷かれ、若い兵隊たちが集められた(現在は錦町にその遺構や九三式中間練習機「あかとんぼ」等を展示する「にしきひみつ基地ミュージアム」がある)。

戦後の混乱期にあっては、鹿児島、宮崎から闇物資が流れ集まる中継地とされるなど人の出入りが多い地域であった。

 

年が明けて、現場から16キロ離れた免田村に住む男の情報が捜査班にもたらされた。調べを進めると事件当時、男は人吉市内に居り、年齢、服装、体格が目撃情報と合致していた上、その後、家から寝具を持ち出して山奥に出掛けていた。

1949年1月13日、播磨郡一勝地村にある山小屋へ警官隊を送り込み、木の伐採のために寝泊まりしていた免田栄さん(当時23)にピストルを突きつけて強制連行。当初は12月26日頃に山に入って以来、人吉市方面に降りたことはない等と話したがいずれも虚偽と確認される。免田村内での玄米一俵と籾7俵の2件の窃盗について自白したため緊急逮捕し、半日後には「祈祷師殺し」の聴取が開始される。だが免田さんは一家殺傷の嫌疑については一貫して否認した。

 

■警察組織について

捜査本部が置かれた人吉市警は、戦後の旧警察法で定められた「自治体警察」のひとつ。現代ではなじみがないため、ここで明治期から戦後の警察組織についておおまかに触れておく。

 

明治維新の後、薩摩藩士族を中心に各藩から選抜された邏卒(らそつ)と呼ばれる藩兵が組織されて東京府の治安維持に当たったが、廃藩置県に伴ってそれも廃止が決定する。先立って旧薩摩藩川路利良がフランスなど欧州各国の警察制度を視察・調査し、1874(明治7)年に警視庁が設立される。

川路は初代大警視(警視総監)に就き、「警察官ハ眠ル事ナク安坐スル事ナク晝夜企足シテ怠タラザルベシ」なる警察の心得を記した『警察主眼』を著し、「日本警察の父」と呼ばれた。設立当初は明治政権直属の武力として内乱の鎮圧に主軸が置かれたが、次第にその目的を治安維持の色に変えていった。首都警察たる警視庁に倣い、各都道府県でも直属に地方警察が配置されることとなる。

 

1881(明治14)年、帝国陸軍の下に憲兵が組織される。軍隊内における警察業務のほか、治安維持や要人警護、防諜任務など行政警察司法警察の職務も兼ねていた。大正期には民権運動や社会主義者など民間人への思想取締り、昭和期には軍の拡大によって朝鮮半島満州など占領地での治安維持や諜報任務、大戦末期には全国の市町村に配置され国家総動員体制を維持する役割も担った。終戦時の憲兵兵力はおよそ36000人とされ、家業を継ぐ者、全く別の職種に就く者が多かったが、その技能を活かして警察へと転じる者も少なくなかった。

1938年、張鼓峰事件でソ連労農赤軍捕虜と映る憲兵上等兵Wikipedia

間接統治を敷いたGHQは日本の警察を「天皇制維持を目的とした非民主的な組織」と糾弾して組織改革を迫り、治安維持法廃止や特高特別高等警察)解体を推進した。中央集権的な警察組織が見直され、アメリカの保安官制度に倣った自治体警察が人口5000人以上の市町村に設置し、その管理を民間人による公安委員会に委託した。この改革は、戦前・戦中の警察組織が一部軍閥や政党の利益や目的のために利用されていたことも背景とされる。

しかし戦後の混乱期にあって都市部の犯罪は増加しており、自治体にとってもその経費負担は甚大なもので人員や物資も不足しており、大都市を除けば署員10数名の小規模定員で広域犯罪には対応できない。また少数、地域密着であるがゆえに地元有力者や暴力団などとの癒着が生じやすい側面もあった。

 

1948年、市警管轄外を担当する国家地方警察が組織される。各地で頻発する労働ストライキ共産党に対する公安業務のため、非常時の警察統合権や施設管理権を握っており、財政余力もなく施設や物資に乏しい自治警よりも実質的に優位な立場であった。本事件の「祈祷師殺し」があったのはちょうど自治警と国警が並立されていた時期に当たる。

1950年、朝鮮戦争を機に自衛隊の前身となる警察予備隊が発足され、GHQに代わって国内の治安維持警察の役割を担うこととなる。当初、その任の多くは国家地方警察が代行していた。

 

地域によって自治警と国警の管轄範囲が重複するなど現場での影響も大きく、1951年には自治警の廃統合が認められ、1300以上あった町村警察のうち1000以上が廃止された。1952年、サンフランシスコ講和条約により日本政府が主権を回復。1954年の新警察法成立により国家地方警察と自治体警察は一本化され、警察庁と警視庁、道府県警による中央集権的な現行の警察組織に再編成されることとなる。

 

■裁判

1949年1月16日、免田さんは一度釈放が認められるも、三日三晩の過酷な取り調べからようやく解放されたと思ったのも束の間、即日改めて強盗殺人の容疑で緊急逮捕されて心が折れ、「祈祷師殺し」を全面自供した。

人吉署の仮庁舎には留置施設すらなく、取調べの間は睡眠や食事はろくに与えられていなかった。アリバイを主張すれば取調官に蹴り飛ばされたり警棒で殴られたりといった暴行や恐喝以外にも、極寒の中でシャツ一枚にされて凍えて言葉も発せない拷問状態に置かれていた、と後に免田さんは語っている。朦朧とする意識の中、警察が指示する筋書きに沿うように、ああではないかこうではないかとあらぬ供述を重ねていった。

同28日、住居侵入、強盗殺人、同未遂で起訴され、翌2月には熊本地裁八代支部で公判が開始される。

 

公訴事実によれば、48年12月、家業の畑仕事を嫌っていた免田さんは家族との折り合いも悪く、妻からも離縁を突きつけられて行く末に窮していた。家出のために実父の馬を売り払って4000円を得ると、29日、山林伐採の職を得ようと山鉈や作業着を携えて18時半頃の終列車で播磨郡一勝地村那良口の知人宅へ向かった。だが列車内で人吉市中青井町にある旅館兼飲み屋「孔雀荘」の女中に出会って飲食代のツケを請求されて支払うこととなり、残金が心もとなくなったため、辻強盗で金を得ようと通行人を物色した。適当な相手が見つからず、祈祷師として繁盛し金回りが良いと聞き知っていた被害者宅に山鉈を持って押し入り、物色中に家人に気付かれたため犯行に及んだものとされた。

12月29

18時28分、免田駅発人吉駅行きの列車に乗車

19時10分頃、人吉駅着。近くの飲食店で上着と荷物を預ける。

20時頃、孔雀荘で飲食後、風呂などに立ち寄る。

22時頃、辻強盗のため駒井田町の特飲街から中学校通りを徘徊。

23時30分頃、白福方へ侵入。犯行に及ぶ。

12月30

犯行後、東行して東人吉駅前、願成寺町を経て、旧人吉航空隊高原飛行場跡地に至り、開墾地に鉈を埋める。

5時頃、更に東進して実家のある免田村、木上町(現錦町)、深田村の境界にある「ぬつごう(六江川?)」と呼ばれる小川で着衣を洗う。

(家族らは、29日から1月9日まで免田さんが一度も帰宅していないと証言)

10~11時頃、人吉市の飲食店に戻り、預けていた荷物を引き取る。

人吉城址で17時頃まで休息する。

免田さんは起訴内容を概ね認めたが、殺意は否認。しかし第二回公判でアリバイの存在について言及、第三回公判では拷問による自白であると主張し、犯行について全面的に否認に転じた。

 

事件当初、被害者の頭部を滅多打ちした凶器は何が使われたのかはっきりしていなかったが、取調べの中で免田さんは「鉈を用いた」と自供し、知人宅で押収された山鉈に被害者3名(夫、妻、二女)と同じO型血痕が付着していた、とする警察鑑定が証拠として採用されていた。押収された免田さんの紺色の法被(半纏)、国防服、薄茶色の毛糸チョッキ、白色絹マフラー、地下足袋、軍隊手袋、褐色の羅紗ズボンといった所持衣類に血痕こそ認められなかったものの逃走中に「六江川」で洗ったとする「自白」もあった。

免田さんは、12月29日の事件当夜のアリバイについて、「孔雀荘」でツケを支払った後、同市駒井田町の特殊飲食店「丸駒」で接客婦石村文子さんと同衾していたと主張していた(特殊飲食店とは1946年公娼制度廃止から1957年の売春防止法施行にかけて売春婦を置いていた店、遊郭、赤線のこと)。しかし当の石村さんの証言には曖昧な面があり、泊まったのが事件のあった29日か翌30日のことか明確にならなかった。最終的に検察側の「30日丸駒泊」の言い分が採用され、免田さんのアリバイは失われてしまう。

それまでの「自白」や発見された凶器が重視され、1950年2月、死刑判決を下される。

 

1951年3月、福岡高裁は控訴棄却。12月、最高裁は上告棄却。死刑が確定し、以後30余年に渡る長い再審闘争が続くこととなる。

1952年6月の第一次再審請求、1953年2月の第二次再審請求は共に棄却。

1954年5月に行った第三次再審請求で熊本地裁八代支部・西辻孝吉裁判長は新鑑定を実施するなど積極的な審理を行い、1956年8月にアリバイ主張を認めて再審決定を下す。しかし検察側の即時抗告(不服申し立て)を受けて、福岡高裁は再審決定を取り消し、請求を棄却。最高裁もそれに追認する決定を下し、開きかけたかに思えた再審の「開かずの扉」は再び閉ざされてしまう。

1961年12月の第4次再審請求、1964年10月の第5次再審請求は共に棄却。

 

1968年4月、ジャーナリスト、婦人運動家でもあった社会党・神近市子衆議院議員が再審特例法案を提出。この法案は主に1945~52年にGHQ統治下で行われた裁判に光を当てたもので、手続きの公正さが不明瞭であること、新刑事訴訟法の施行前後で「自白偏重」が抜けきらない弊害から人権擁護上の問題があったこと、物的証拠がなく未執行死刑囚に無実を主張する者が多いこと等から再審を規定する内容であったが廃案とされる。

しかし法案提出を契機として、西郷吉之助法務大臣は「福岡事件」「帝銀事件」「市川賭博仲間殺人」「菅野村強盗殺人放火」「免田事件」「財田川事件」の6事件7人の未執行死刑囚の恩赦を検討するとし、翌69年に菅野村事件で戦後初の女性死刑囚となった山本宏子が無期懲役減刑された(山本は53年から拘禁による精神疾患が発症しており、人道的観点からの治療措置のための減刑ともいわれている)。

 

1972年4月の第6次再審請求は、76年4月に熊本地裁が請求を棄却する。しかし事件からおよそ30年後となる79年9月に至り、福岡高裁は再審開始の判断を下す。

それまでの「自白」の信用性そのものが低下したことや犯行後の足取り、検察側の「アリバイ崩し」証明の不明瞭さ、「凶器」とされた山鉈についての疑義などが理由とされる(後述)。

1980年12月、検察側は特別抗告を行うも最高裁はこれを棄却し、再審開始が確定する。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/563/023563_hanrei.pdf

 

■白鳥決定

1975年5月20日、固く閉ざされてきた再審裁判の「門戸」を開く重要な決定が下される。白鳥事件における「白鳥決定」である。

 

事件は1952年1月21日19時40分頃、札幌市警の警備課長白鳥一雄警部(36)が自転車で帰宅途中に何者かに背後から銃撃されて死亡したものである。白鳥警部は戦中、特高の外事係として活動し、戦後も公安として左翼監視、在日朝鮮人の密貿易や風俗営業の取締りを行っていた。48年3月に札幌市警に転任し、市内で催された原爆図の展覧会を「占領軍の指示」だとして中断させたほか、共産党員の検挙や運動弾圧をしたとして党関係者から敵視されていた。

中華人民共和国の建国、さらには朝鮮戦争と共産勢力の東アジア情勢は活発化していた。ソビエト連邦と接する北海道の中心都市札幌では、国警と市警のほか、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)や地元裏社会が反目や協力をしあいながら情報収集が行われており、白鳥警部もそうした渦中にあったとされる。前年に日米安保条約に署名し、アメリカから「反共」「レッドパージ」を託されていた吉田茂首相は、施政方針演説で「共産分子の破壊活動」に憂慮を示し、52年4月に破壊活動防止法を制定させた。

(※戦後GHQによる民主化への対抗運動としてデモや労働争議の動きが活発化した。これに対し、労組や共産党勢力の封じ込めを目的とした規制強化、警察力や軍備増強が行われた。国鉄三大ミステリーとも呼ばれる下山・三鷹松川事件のほか、青梅事件、辰野事件、菅生事件などでは反共プロパガンダ工作の疑いがもたれている。公職追放の解除、A級戦犯らの減刑などの動きと合わせて、そうした思想統制や弾圧は「逆コース」と称される。)

 

捜査当局は札幌の共産党が関連したとの情報を得、裏付けを進めた結果、地下軍事委員会・村上国治が北大学生らを指揮したグループ・中核自衛隊による犯行と断定し、10月に逮捕。村上は首謀者とされたが終始無実を主張。犯行に使用された32口径ブローニング拳銃は発見されなかったものの、中核自衛隊で銃器の製造研究が行われていたことや2年前の射撃訓練で使用した弾丸の線状痕が事件で用いられたものと一致するとして証拠採用された。

(※弾丸側面に刻まれる銃身の溝の発射痕を「線状痕」と呼ぶ。鑑定により銃器の特定などに用いられ「銃の指紋」等と言われることもある。しかし、廉価コピー品の流通、銃身の交換や改造、使用による変化や経年による腐食など、「指紋」のように形状に同一性が保たれるものではなく、厳密な個体識別は困難との指摘もある。)

 

1957年の一審で無期懲役の有罪判決、60年の二審では懲役20年の有罪判決となり、63年に上告が棄却され、村上は網走刑務所に収監された。

日本共産党は公式には事件への関与を否定。50年代前半には闘争路線を敷いてきたが1955年に極左冒険主義を戒める自己批判を宣言。冤罪キャンペーンを展開して白鳥事件の再審を支援した。村上は囚人の処遇改善運動を行うなどし、65年に再審請求、69年11月に仮出獄が認められ、その後も最高裁判所への特別抗告まで争った。

そもそも事件関与の決め手とされたのは元党員たちの証言であった。公安警察による共産党への締め付け、さらに党内部での厳しい規律統制や「査問」の恐怖から、脱党した者や転向者もいた。そうした元党員らの供述には疑惑がもたれ、結果として冤罪や謀略説への呼び水となった。作家松本清張が『日本の黒い霧』(1960)において村上を冤罪とする立場をとり、CICによる謀略説を主張したことでも知られている。

 

1975年5月20日最高裁は村上の特別抗告を棄却するが、再審開始は「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用され、「確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる」ものとする判断基準を示した。

それまで無罪を確定しうるに足る新証拠がなければ再審を行わないとする厳格な適用資格が踏襲されてきたが、それに比べれば緩和された条件が明文化されたことで再審裁判が活性化し、その後の四大死刑冤罪(免田・財田川・松山・島田事件)につながる。

chikyuza.net

村上が弁護士を通じて実行犯ら3名を国外逃亡させるように指示した文書が事件関与の証拠として採用されており、今日ではかつての実行グループメンバーも殺害計画は事実であると証言している。

狙撃手とされた佐藤博ら逃亡犯2名は1988年に病死。釈放後の村上は日本国民救援会副会長を務めるなどしたが自転車窃盗により解任され、94年に埼玉の自宅で火災に遭って亡くなった。亡命グループ最後の生き残りとなった鶴田倫也は北京外国語大学で教鞭をとるなどした後、事件から60年後の2012年に真相を明かさないまま亡くなり、遺言によって天津沖で散骨された。

 

■逆転無罪

1983年7月15日、熊本地裁八代支部・河上元康裁判長は「全証拠を検討した結果、被告人にはアリバイがあるとの結論に達した」とそれまでの事実認定を覆し、無罪判決を下した。

 

当時、裁判長を務めた河上元康さんは、2022年3月放映のNHK事件ドキュメンタリ『ストーリーズ 事件の涙』で当時のことをこう振り返っている。

「徹底的に(物証を)見直した。しかしね、(免田さんの)アリバイの証拠は全部一審で出ていた。ぞっとしましたよ、それを見て。僕は新しい証拠を調べた訳ではない」

 

あやふやな証人

免田さんの証言では、汽車で行ける那良口駅から知人の住む一勝地村まで四里半歩かねばならないため、そもそもは29日午前の汽車に乗るつもりであったとされる。しかし乗り逃して18時半の終列車で向かうこととなり、到着が遅くなることから人吉市内で一泊して翌朝発とうと考えた。列車で「孔雀荘」の女中と鉢合わせ、店へと足を運んでツケの支払いを済ませたが、混雑していてそこでは宿泊できなかったため「丸駒」に登楼したのだという。

コメ三升と作業着は持参していたが「凶器」とされた山鉈はそのとき携帯しておらず、29日夜に人吉駅に着いてすぐに食堂で荷物として預けた。30日8時半頃に丸駒を出て、荷物を引き取り、その日は一勝地村の知人の許で世話になった、と述べていた。

 

しかしアリバイ証人となるべき「丸駒」の接客婦・石村文子さんは多忙極める年の瀬のこと日時の記憶が曖昧だった。捜査当局の「(被告本人が)30日に会ったと言っている」等の誘導尋問に押され、来店日を事件翌日にずらされてしまったとみられている。

代金について免田さんは宿泊代と果物代合わせて1100円を渡したとしていた。石村さんはと言えば「上ってからすぐ1100円払われました」「帳面に、30日あやしみ1100円と書いてあった」(1949年3月一審2回公判)との証言以外にも、「1100円もらい、チップとして300円を取った残り800円を帳場に渡した」「帳面には金額800円と書いてあるのを見た」(同49年7月の5回公判)、「平素800円の料金だが正月だから色を付けてくれるよう頼むと、後からチップとして300円もらえた」(49年1月24日調書)、「身代として1100円、私にチップとして200円やりました」(54年12月証言)、「1200円もらって800円を帳場へ出し、400円でうどんや果物を買った」(再審3回公判)などと二転三転させている(再審では、石村さんが玉代から金をくすねていたことを明かしたくない心理もあるのではないかと指摘されている)。

尚、丸駒亭主の手帳には「29日800円、30日700円」と記載されており、石村さんが見たとする「30日(あやしみ)1100円」を記した帳簿は発見されていない。石村さんは「(30日の殺傷事件を聞き知っていた)同僚から、今夜のお客さんは何かそわそわして落ち着きがない、と注意を受けていた」ため帳簿に「あやしみ」と記してあったのだと思うと述べ、「31日に進駐軍の相手で鍋屋旅館に泊まった、(免田さんは)その前日に泊まった」といった尤もらしい証言も残しているが、丸駒の同僚らはそれらを否定、鍋屋旅館に該当するような進駐軍の宿泊履歴は確認されなかった。

 

石村さんは当時まだ16歳で年を偽って特飲店で働いており、警察に少なからず立場的な「負い目」があった。また裁判記録には彼女が小5で退学していること、知能程度や記憶力が低い旨が記されている。丸駒の亭主は「記憶の前後が混乱することがあり、時々興奮してカッとなり、後で何を言ったか分からぬことがある」と証言しており、おそらく彼女は知的障害、今でいうボーダー(境界知能・軽度の知的障害)などと類推される。湖東記念病院点滴事件(2003年)を例に挙げるまでもなく、警察がそうした証人の隙にうまく付け入り、証言を都合よく歪めてしまうことなど造作もないことに思える。

 

・山鉈と血液鑑定

「凶器」とされた山鉈と刺身包丁は、再審決定時には「いずれも所在不明」となっていた。上述のように警察機構の動乱の時期でもあり管理体制が杜撰だったためかは分からないが、証拠としての再提出を免れるための画策との疑惑も持たれている。

山鉈の形状について、発見されたものは薪割りの際に刃を傷めないよう先端に小さな突起が付いていたが、被害者の割創にはその特徴を有する損傷は認められなかった。

刃先イメージ

NHK『ストーリーズ』では免田さんが遺した自筆の手紙や裁判資料を取り上げている。当初は平仮名とカタカナ、誤字当て字が入り混じって解読も困難だったが、獄中で辞書を要望して次第に文字や文章も上達していったとされる。時期こそ異なるが、再逮捕や獄中での文字の獲得などは狭山事件(1963年)の石川一雄さんと重なる部分も多い。

免田さんは裁判記録を取り寄せて何百ページにも渡って書き写していた。死刑執行の恐怖に震えながらも、なぜ自分が死刑にならなければならなかったのかを模索し、再審開始を願いながらひたすらに挽回を期した獄中の日々を想起させる。写しの横には赤文字で疑問や矛盾点などを逐一指摘しており、凶器の「鉈」と記載されている箇所には、「ピストル」「日本刀」「棒きれ」「角材」「斧」等と変遷していき最終的に「鉈」が採用されたとする誘導尋問の経緯までもが細かく記されていた。

 

免田さんによれば、12月29日に丸駒、30日に一勝地村の知人宅で一泊した後もしばらく自宅には帰らず、方々の家を泊まり歩いて手伝い仕事などをしていた。オーバーコートやズボンなどを抵当にして金を借りてはすぐに飲み代などに使っており、31日以降の宿泊や質入れなどに関しては事実確認されている。山鉈は年が明けて49年1月9日に一度実家に戻って山仕事の支度として布団などの荷物と共に持ち出したものだと証言したが、客観的な裏付けは取れなかった。

「自白」では、犯行直後に東へ逃走し、川辺川を渡って高原(たかんばら)の旧日本軍滑走路付近の土中に山鉈を埋めたことになっていたが、証言とは食い違い、実際には一勝地村の知人宅から発見された。そのため警察側は、年が明けて山仕事での必要から1月10日頃になって掘り返したものとこじつけた。

 

血痕の有無を調べるルミノール試薬を用いた血液反応検査は、ABO型研究や法医解剖の権威として後に科学警察研究所所長を務めた古畑種基教授により1937年に新潟の家庭内殺人ではじめて導入されて以来、科学捜査の手法としてすでに知られていた(ルミノール試薬による検証は、同時期の下山事件などにも用いられている)。「川で洗い流した」だけで着衣や山鉈の「刃」に血液が認められなかったと断定された審理は不可解極まりない。

一家四人を22回にもわたって殴りつけた「凶器」にも関わらず、血痕が認められたのは「柄」の部分に「米粒大の半分」「粟粒大」とされるわずか数滴ばかり。血液鑑定は人吉市警から国家地方警察熊本県本部に依頼されたが、事件からすでに20日以上経っており「自白」によれば土中に埋められ保存状態もよくない微量の検体であるから、精確な鑑定を下すのは容易な仕事ではない。

それにも拘らず、市警の鑑識係の証言によれば検体提出からわずか半日足らずで鑑定結果を通達されたと証言し、(被害者3人と同じ)O型と結論されていた。検証の結果、当時の技術で精密な血液鑑定を導くには最低26時間以上は必要とされたはずで時間的に矛盾することが指摘され、不十分な鑑定だった可能性が高いとして証拠としての信用性に乏しいことが認められた。

 

・半仁田証言

再審で検察側は、免田さんの父・榮策さんの知人である半仁田秋義さんを証人として「アリバイ崩し(29日犯行、30日登楼説)」の筋書きを補強しようとした。

一審で検察側は、犯行後に免田村へ戻ったとする逃走ルートを主張したが、免田さんの家族は12月29日に家を出て以来、1月9日に夜具を取りに来るまで一度も戻っていないと証言していた。双方の言い分が正しければ、実家近くまで逃げ戻ったが立ち寄ることはできず再び事件を起こした人吉市へと舞い戻ったことになり、不可解な逃走経路には疑問がもたれていた。そこに事件から33年後「30日に実家で免田さんを見た」とする新証人が現れたのである。

半仁田さんは、事件発生直後の30日6時半頃に免田さんの実家を訪れた。「12月30日、朝の天気はいい天気」で「非常に寒く霜は若干下りていた」。半仁田さんが外から大きな声で呼び掛けると中から「半仁田さんじゃろう」と免田さんが応えたという。半仁田さんは「昭和23年10月末頃」に免田さんの父・榮策さんから「農耕用の馬車も引けるような馬」を注文されて親交があったと言い、馬の代金は「1万4000円か1万5000円」と当時のことを詳しく記憶していた。

そのときずぶ濡れの法被を着て、放心状態で竈に抱き着くような異様な姿で暖をとる免田さんを目撃したという。そう証言する態度は落ち着いており、「田んぼか何かで足を取られて転んだように泥まみれだった」と臨場感を持って述べ、厳寒期のことで強く印象に残っているというのも頷ける内容であった。居間へ通されて、榮策さんと一時間ほど一緒に「豚肉を肴に焼酎を四、五合」飲み交わしたと証言する。しかしその間、一般的な農家では朝食の支度をする時間帯だが、他の家族は一度も顔を見せず、物音ひとつしなかったと述べる。

 

この証言をもって検察は原審で主張した逃走経路を改め、免田さんは実家に立ち寄って着替えたため着衣から血痕が検出されなかったとする「着替え説」を展開した。

当初の免田さんの「自白」では「法被(半纏)」を着用していたとされ、前述のように押収品の中にも含まれていたが、血痕は検出されなかった。犯行現場から着衣を洗ったとされる「六江川」付近までおよそ3時間前後の道程である。逃走開始が30日0時頃とすれば3時前後の到着が見込まれるものの、「自白」では「朝方5時頃」とされている。疲労や暗闇での難渋を考慮しても逃亡者はとかく気が急くものが通常に思えるがあまりにも悠長な行動に思える。さらに日の出時刻は6時45分であり、真っ暗闇の中で付着した血痕をまっさらに洗い上げるなど到底不可能と言わざるを得ない。それと聞くと着替え説にも説得力があるように思える。

だが免田さんは29日夜に人吉市に着いてから翌30日午前にかけて飲食店に荷物として上着やコメ3升を預けたままになっており、犯行時刻に自身の「法被」を着用することは不可能だったと認定される。そうなると話しは一転して30日早朝に「ずぶ濡れの法被」を着ていたという半仁田証言は事実と矛盾する。犯行時や逃走時に着ているはずのない「法被」は、検察側の得た「自白」になぞって無理矢理持ち出された発言と考えられる。

 

これまで半仁田さんが証言を回避していた理由について、再審公判においては、埼玉に移り住んで勤め働きが忙しく長らく「新聞を読むこともなかった」が、退職して1981年4月に再審に伴って移送された記事を読んで、自分が見たことを話す気になったと述べた。

しかし出廷前の6月に検察官に証言した際には、「私なりに事件のことが気になり、榮が死刑判決確定後も何度か再審請求をしていることを新聞記事等で読んでわかっていましたが、私の体験に照らし、榮が犯人であると思っていたので、まさか再審が開始されるとは思ってもいませんでした。ところがこの度再審開始が確定して、裁判のやり直しが始まることを新聞やテレビで知り、私の目撃状況に照らせば榮が犯人であると思っていたので…」と以前から事件を注視していたことを話していた。

判決文では、検察官の言を借り、33年前の出来事に関して「枝葉末節部分について、あまりに詳細に記憶しすぎているのではないか」と疑問視され、却って「作為すら感じられるところ」と指摘している。事実、事件に関する証言は表現力に富み精緻に語られたが、半仁田さん本人が復員した時期や人吉から埼玉へと移り住んだ時期など事件前後の自身の事柄についてはむしろ記憶が曖昧だった。かつて免田さん方に出入りしたことがあったかもしれない心証を抱かせるものではあるが、秘密性のある(報道されていない)事実が含まれていないこと、すでに榮策さんが亡くなっていることもあって裏付けができない「危険な供述証拠」との見解から不採用とされた。

 

裁判所は(幻となった)三次再審決定を除き、「アリバイなし」の決定的証拠としてほとんどの面で「供述」に依拠してきたことを危惧した。供述は直接証拠ではあるが、記憶はだれしも移ろいやすく、その裏付けも難しく、証言の事実認定、どちらの言い分が真か偽かの判断は水掛け論に陥りやすい。そこで河上裁判長らは、各証人から得られた供述を物証と再度照らし合わせて免田さんの正月前後の行動履歴を徹底的に洗い直した。

29日に泊まったとする「丸駒」の出納簿などを見直しても、石村証言の「あやしみ」記載はなく、免田さんの宿泊日は判然としなかった。また免田さんが30日に訪れたとする一勝地村の知人も、年末に一晩泊めたことを記憶していたがやはり日付がはっきりせず12月25,26,30日と証言を変転させていた。しかし同人は証言内で「(免田さんが訪れたのと)同じ日にコメの配給を受け取った」と繰り返していた。認知記憶の性質として正確な日時で把握していなくても「○○したときに□□と会った」というような他の行動や出来事と結びつけての記憶は確証性が高いものとみなされる。当時の配給台帳等を照合し、23日と30日の配給事実が確認され、他の日の行動履歴や移動証明書の交付が28日であること等と照らし合わせた結果、一勝地村での宿泊が30日だったことが証明された。

供述という、揺らぎやすい「危険な証拠」に囚われることなく、物証主義が貫徹されたことで客観的にアリバイが証明され、当局は犯罪立証のために強引な「アリバイ崩し」が明るみとなる。判決文では「四人を殺傷し深夜一〇数キロを逃走して我が家のそばに至りながら家にも寄らず、体力を消耗していると思われるのに警戒のきびしい犯罪地の人吉市までそのまま歩き通し、人吉城趾で夜までぶらぶら時間をつぶしたということの不自然不合理さは検察官をして三三年目の証人半仁田秋義を法廷に立たしめ、その冒陳を修正せしめるほどのものがあったのではないか」と苦言を呈している。

 

・犯行時刻

解剖所見で角蔵さんの死亡は「食後経過時間4時間前後」とされており、屍体検案書によれば29日23時と推定されていた。免田さんの「自白」では「白福方に着いたのは午後十一時から十二時迄の間と思いますが時計を持って居ませんでしたから正確な時刻は判りません」という供述のみである。検察側は23~24時の間の犯行と推定した。

しかし二女ムツ子さんの証言によれば、21時半に就寝したとき父・角蔵さんはアンコを食べていたという。これを「食後経過時間4時間前後」と照らし合わせると、死亡推定時刻は30日1時30分頃以降までずれ込むことになる。

第一発見者の二男らが異変に気付いたのは二度目に自宅前を通った3時20分頃で、母屋からウーンウーンとうめき声が聞こえて事件が発覚した。通報は3時30分と40分に2回記録されており、この点は動かしがたい明白な事実である。だが一度目に自宅前を通りがかった30日1時30分~2時15分にも同じように外から様子を窺ったが、その際に異変はなかったという。

うめき声をあげていた長女イツ子さんの証言によれば、夜警が近づいてくる足音に気付いて声をあげたとされ、兄が来たときには襲われてから何時間も経っていたとは思われない。一審の検察側は被害女児の証言をショック状態で信用性がおけないものと一蹴したが、当時の医師は「脳実質や骨には異常はなく、大体応答できました」と述べており、意識に別状はなかったと考えられる。つまりは免田さんの「自白」抜きで考えた場合、実際の犯行は「23~24時」よりもっと後、二男の見回り一周目と二周目の間である「2~3時」頃の間に起きたと考える方が自然だと裁判長は指摘している。

さらに「時計を持っていなかった」はずの免田さんは年明けに「時計」を質入れして金を借り受けた事実が確認されており、電車の乗降のあった29日夜にも当然身につけていたと考えるべきである。しかして「自白」の信用性は高いとは言えず、「29日丸駒泊」のアリバイが証明されて、免田さんの無実が認められることとなる。

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■自由

出所後の免田さんは獄中で教誨師として知り合った潮谷総一郎さんを頼って熊本市の慈愛園に身を寄せた。文字通りの「戦後」だった逮捕当時から高度成長を経て、世の中はひともモノも大きく様変わりしていた。社会人としての感覚を取り戻すまでに時間がかかり、人付き合いや金の使い方で身を持ち崩すこともあったという。

そんな折、免田さんの許に一本の電話が入る。「講演を頼みたい」と持ち掛けたその女性は、福岡県大牟田市民運動を行っていた後の妻・玉枝さんである。

玉枝さんは前々から冤罪裁判の支援者だった訳ではなく、報道で免田さんのことは知っていたが取り立てて事件に強い関心はなかったと振り返る。彼女自身は若い頃に勤めで係わった三池闘争で社会運動に関心を持ち、その後は合成洗剤追放の市民運動などに参加していた。集会に当時“時の人”だった免田さんを呼べば人が集まるとの目論見から連絡を取ったと告白している。

長きにわたり再審闘争を続けてきたことからどれほど凄まじい精神力の持ち主かと思っていたが、実際に会ってみると「普通の人だったのでびっくり」「こんな人が何で34年間戦えたのかな」と興味を抱き、集会への招聘は実現しなかったものの毎月のように面会するようになった。

 

あるとき記者から「大牟田に行く用がある」と聞き、免田さんは「大牟田なら玉枝さんがいる」と思って呼び出し、記者を交えて一緒に食事の席を持った。うどんを啜り、お酒も入っての賑やかな宴となったが、後日、そのときの肩を組んだ写真がすっぱ抜かれ、写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)の紙面を飾る。何ということもない身の上話に加え、さも話したことのように「もうじき結婚」と尾鰭が付けられてしまった。

親兄弟は「こんな写真が出て、もう嫁の貰い手がないぞ」と紛糾し、交際・結婚には大反対。しかしそんなすったもんだの出来事が却って二人を後押しするようなかたちであれよあれよと結ばれ、ともに余生を歩んでいくこととなる。

 

無実を取り戻し、社会復帰を果たしたとはいえその後の暮らしにも困難は付いて回った。「人権が回復されていないんですよね。非常に肩身の狭い思いをしました。回復しないんです。元の人間に返してほしい」と生前の免田さんは語っている。「人殺しをしてうまく逃げた」「ごね得だ」などと誹謗中傷を浴び、嫌がらせや非難を浴びせられた。結婚当初の数年、免田さんは酒に酔うと「俺が死刑囚だからか」と食って掛かり暴力を振るったり、眠れば「死刑執行」の夢にうなされて飛び起きたりすることもあったという。

妻・玉枝さんも人に後ろ指さされたり、嫌がらせの電話や手紙に苦悩する夫の姿を記憶している。「あれだけ、34年という長い苦労をしてきて、まだこんなものが付いてくるかと思うと、免田には嫌がらせの声を聞かせたくなかった」と苦い思いを振り返る。

 

生きづらさを覚えたのか、妻に肩身の狭い思いをさせまいと考えたのか、熊本の地元には帰らず、玉枝さんの地元大牟田の炭鉱町に暮らした。大牟田での暮らしは性に合ったらしく、「気を使わなくていい」炭鉱夫たちと焼酎を酌み交わし、周りに理解者も増えた。ささやかな庭の畑で野菜や花を育てては配って回っていたという。

講演依頼は時代と共に減り、事件の風化を実感した。晩年は認知症を患い、市内の高齢者施設で過ごし、最期は妻に看取られて静かに息を引き取った。

 

再審の重い扉を開いたパイオニアであると共に、その後も冤罪死刑囚らにとって希望の光となった。2013年に米寿を迎えた免田さんは、事件のことをふりかえった際、「一番憎いのはマスコミです」と語った。

84年から30年近く身近で取材を続け、段ボール20箱分に及ぶ資料を免田さんから託された熊本日日新聞の元記者高峰武さんはその言葉にぎょっとしたという。逮捕当時は日日新聞でも「金に詰まった青年の仕業」と免田さんの悪行として大きく書き立てた。当然警察関係者や住民の噂が基になった記事内容とは思われ、再審時期には182回に及ぶ再検証の連載を行ってきたが、まだ事件の検証が不十分であること、事件の教訓が社会に生かされていないことを突きつけられているような気がしたと高峰さんは語る。

防犯カメラやドライブレコーダー、PCやスマートフォンといった機器の発達、DNA型鑑定といった科学捜査の技術は発展せども、人を疑うのも人ならば、人を裁くのも人であることは今も昔も変りない。かえって個人メディアが幅を利かせる昨今ではだれしもが第三者への攻撃や誹謗中傷に加担しかねない状況になっている。悪い噂や危険性は「正義」の名の元に拡散され、「社会悪」のレッテルを容易に張られてしまいかねない。警察や報道局のような公権力をもたない一般市民にも事実の検証や内省的態度は一層求められている。「自由」であるということは何もかもが野放しの原始社会であってはならない。各人の自由が保証される調和と節度を弁えた不断の努力の積み重ねがあってはじめて成り立つ営みである。

免田さんの遺した資料は広く活用されることを考え、現在は熊本大学に収蔵され、高峰さんたちは市民研究員として資料の解析や当時の関係者への取材を続けている(http://archives.kumamoto-u.ac.jp/inventory/Menda/MI01.pdf)。

 

 

 

NHK「事件の涙」

https://www.nhk.jp/p/ts/GP9LGJJN9N/

・日本記者クラブ/高峰武 「あっちで覚えた」死刑から再審無罪の免田栄さん

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/31752

・刑事弁護OASIS毛利甚八 事件の風土記⑴免田事件

https://www.keiben-oasis.com/430

・免田事件再審をふりかえる 2014年12月座談会(東京経済大学『現代法学30号』)

https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/10782/1/genhou30-16.pdf

・死刑囚 志ネットワーク 上甲晃さんによる記事

https://kokorozashi.net/?p=336

https://daihanrei.com/l/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%E5%85%AB%E4%BB%A3%E6%94%AF%E9%83%A8%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%94%EF%BC%97%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%81%9F%EF%BC%89%EF%BC%91%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA

旭川中2女子いじめ凍死事件

2021年、北海道旭川市で中学生が凍死した事案は、生徒らによるいじめが原因だった可能性が指摘されている。被害者へのいじめは亡くなるおよそ2年前に発覚し、加害者生徒らは少女を一度は自殺未遂へと追いやった。しかし相談を受けた中学校サイドはそれを「いじめ」と判断することなく、少女はPTSDにより転校を余儀なくされ、命を絶った。

2022年5月現在も、いじめや学校側の対応について調査が進められている。事件の風化防止、そして社会から根絶を求められながらも実現しないいじめの問題について考える目的で記す。

 

■概要

2021年3月23日、北海道旭川市永山中央公園の積雪の中から、凍った少女の遺体が発見される。先月から行方が分からなくなっていた2キロ程離れた同市内に住む中学2年生広瀬爽彩さん(14)である。

 

所在が分からなくなったのは2月13日(土)18時頃で、母親が仕事の用事で家を空けたわずか一時間程の間に起きたできごとだった。出掛ける前、夕飯は外で食べようかと母親は提案したが、娘は「お弁当買ってきて。気を付けて行って来てね」と言って送り出し、それが親子の最後の会話となった。

仕事中の母親の許に警察から連絡が入り、娘の安否確認を求められた。携帯電話は不通だった。自宅アパートに戻ると電気は点いていたが、部屋にいるはずの娘の姿はなかった。

17時半頃、爽彩さんはゲームを介して交友していた知人数人に宛てて、メッセージアプリのLINEで「ねぇ」「きめた」「今日死のうと思う」「今まで怖くてさ」「何も出来なかった」「ごめんね」と別れを告げていた。メッセージに気付いた知人が警察に通報して連絡先を伝え、警察が爽彩さんと連絡を取ろうとするもつながらず、自宅アパートにも気配がなかったため母親に連絡したという。

 

18時時点で気温はすでに氷点下、旭川はこの時期でも未明ともなればマイナス10度を下回ることもある。リュックと長靴は部屋からなくなっていたが上着や現金は部屋に残されたままで、Tシャツにパーカー、薄手のパンツという軽装で外出したものとみられた。携帯電話は外出時に電源が切られていたためGPSでも行動範囲が絞り込めなかった。緊急性が高いとしてパトカーや警察犬、翌日には上空からヘリでの捜索も行われたが発見に至らず。

その後も親族やボランティア、学校関係者らが連日周辺を捜索、ラジオでの呼びかけ、札幌市内でもビラ配りを行うなど懸命の捜索活動を続けたが手詰まりとなり、3月4日から公開捜査に切り替えられた。そして行方不明から38日目の3月23日午後、母親に悲報が伝えられた。

 

■死んでも誰も悲しまない

爽彩さんの母親は、娘について「やんちゃですごく明るくて、年下の子に対して優しくて、荷物を持ってあげて帰ってきたり、傘を貸してあげたりしていた」と振り返る。幼い頃から絵や詩を書くのが好きな子で家中に落書きされたといい、多くのイラストが大切に保管されている。中学進学に際しては希望に満ち溢れ、いずれ生徒会に入りたいから学年委員になる、部活もやりたいし、塾も通いたい、英会話も続けたい、とキラキラ輝いていたという。

だが入学したての2019年4月下旬頃から娘の身に異変を感じていたと語る。快活だった笑顔は消えて部屋に籠ることが多くなり、泣き声や「ごめんなさい」「殺してください」と言っている声が聞こえるようになった。

5月、生まれて初めて母親に「死にたい」と口にしたが詳しい理由を語ろうとはしなかった。夜中に「先輩」から呼び出しを受けるようになり、外出を阻止すると爽彩さんは怯えて泣き出したという。以前はカラフルで明るいイメージだったイラストもモノトーンの不穏なテイストへと画風が変化していた。

「爽彩が死んでも誰も悲しまないし、次の日になったらみんな爽彩のことは忘れちゃう」

これまでにない娘の変調を危惧した母親は「いじめ」を疑い、中学校に相談した。

しかし、担任は「(呼び出した生徒たちは)ふざけて呼んだだけです」「おバカな子たちだから気にしないでください」等とその場しのぎの対応をするばかりで、「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか」と取り合わないことさえあったという。

実際、呼び出しを受けて公園に駆け付けても呼び出した側のメンバーは誰もいないこともあった。爽彩さん本人も担任に相談したこともあったが、「相手には言わないでほしい」と約束したにもかかわらず、その日のうちに加害生徒に直接話をされてしまったと言い、「担任とは二度と会いたくない」と不信感を抱いていた。

 

爽彩さんが進学したH中学校は学区の都合上、同じ小学校の出身者は少なく、クラスにはなかなかなじめなかった。爽彩さんは放課後、塾が始まるまでの時間を近くの児童公園で勉強や読書をして過ごすようになり、そこをたまり場にしていた同校の上級生らと顔見知りになった。当初は「荒野行動」というスマホゲームを一緒にプレイする仲だったが、他校の生徒らも加わって、次第に爽彩さんを標的にしたわいせつな会話が繰り返されるようになっていった。

6月3日

「裸の動画送って」

「写真でもいい」

「お願いお願い」

「(送らないと)ゴムなしでやるから」

止むことのないわいせつ画像を強要するメッセージ、できなければ報復するとの台詞を真に受けてしまった爽彩さんは、自身の裸の画像を送信してしまう。それをダシにして、いじめや脅迫はエスカレートし、グループLINEなどで彼女の画像は拡散されていった。

6月15日、たまり場の公園に呼び出された爽彩さんは、複数人の小中学生に取り囲まれ、その場で自慰行為をやって見せるように求められた。人が来るとまずいから、と小学校の多目的トイレに連れ込まれるなど執拗な強要を受け、爽彩さんは助けを求めることも出来ず従うしかなかった。

 

2019年6月22日、母親の許に学校から電話が入り、爽彩さんが公園脇のウッペツ川に入水したと告げられる。10人程の生徒らに取り囲まれて性的な要求を受けていたと見られ、高さ3.5~4m程ある土手から岸辺に降り、川に飛び込んだという。膝まで水に浸かった状態で、学校に電話を掛けて「死にたい」と訴えた。駆けつけた男性教諭に抱えられても「死にたい、生きたくない」と泣き叫ぶパニック状態に陥っていた。

幸い体にケガはなかったものの爽彩さんはその日のうちに精神科に保護入院することになった。だが当初、母親は病院への付き添いを拒まれていた。本人がパニック状態だった事情もあるが、警察から事情を聞かれた加害少年らが「(爽彩さんは)親からの虐待を苦にして川に飛び込んだ」と虚偽の説明をしていたため隔離措置が取られていたのである。

 

すぐに虐待の疑惑は解けて2日後に面会できたものの、娘の携帯電話を確認すると公園で「友人」と称していた生徒たちから爽彩さんを心配するようなやりとりは一切なく、LINEのメッセージを遡ると性的画像を要求するやりとりが残されていた。本人に事の経緯を確認すると、公園で囲まれて「今までのことを全校生徒に拡散する」と脅されて、「死ぬから画像を消してください」と答えたという。すると「死ぬ気もないのに死ぬとかいうなよ」と煽られて飛び込まざるを得ない状況に追い込まれた、と説明した。

対岸から事態を目撃した通報者は「一人の女の子をみんなが囲んでいて、あれはいじめだよ。女の子が飛び込んだ時にはみんなが携帯のカメラを向けていた」と話したという。

 

看病と心労がたたって母親も体調を崩しがちとなり、代理人として弁護士を立てて学校側とやりとりを行おうとしたが、学校側は弁護士の介入に態度を硬化させ、母親単独での面会を求めた。無理を押して母親が教頭に掛け合うと、LINEでのやりとりを一枚一枚写真に撮って、生徒らへの事実確認を約束する。だが加害生徒への聞き取りは行われ、調書が作成されたものの学校側は「いじめ」と判断することはなく、生徒らとの話し合いの場を設けることで事態の収束を求めた。

母親によれば、8月、教頭から「画像の拡散は校外で起きたことなので、学校は責任を負えない」「悪戯が過ぎただけであっていじめではないし、悪気があった訳ではない」と説明を受けた。「何をどこまでされたらいじめですか、もっとひどいことをされなければいじめにならないのですか」と質問すると、教頭は「加害者の子たちにも未来があるんです。お母さんはどうしたいのですか」「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。ひとりのために10人の未来を潰していいんですか」と返答したという。

 

他校の加害生徒とその保護者側から謝罪の場を設けてほしいと要請があった。爽彩さんが通っていたH中学では弁護士の同席を頑として認めず、それを認める他校とは別々の機会に「謝罪の会」を設けることとなった。本人は出席できる状態ではなかったものの、他校では学校長の謝罪から始まり、各加害生徒と保護者が個別に謝罪の場をもった。中には「自分たちは見ていただけ」と居直る生徒もいたが、泣いて謝る保護者の姿もあったという。

9月になって開かれたH中学の「謝罪の会」は、「弁護士立ち合いであれば教員は同席しない」として教員不在、ミーティング用の教室だけを提供するかたちで行われた。同校4人の加害生徒のうち、ひとりはいじめについて尋ねられても「証拠はあるの?」と逆に突っかかるような態度で謝罪や反省の色もなく、その保護者も「うちの子は勘違いされやすい。本当は反省している」等と取り繕うだけで、閉会後、爽彩さんの母親は「一体何のために集まったのか分からない」と親族に漏らしたという。

その後も同校に聞き取りの調書を見せてほしいと要望し、弁護士を通して学校と市教委側に開示請求を行ったがすべて拒否されている。

 

いじめの存在を把握した旭川中央署少年課が捜査を開始。加害少年らは携帯電話のデータを消去していたものの復元され、わいせつ動画や画像の存在が明らかとされた。わいせつ画像の撮影強要や流布は児童ポルノ法違反に該当するが、流布した加害少年は14歳未満だったため「触法少年」という扱いでの厳重注意。その他、加害メンバーとみられる生徒らも強要罪の疑いで取り調べを受けたが、証拠不十分で厳重注意処分とされ、刑事責任を問われることはなかった。

当然、加害生徒らのスマホ内のわいせつ画像データは事情聴取の席で消去されたが、翌日にはバックアップしてあった保管データを再流用して拡散は続けられていた。謝罪はおろか微塵の反省すらしていなかったのである。

 

爽彩さんは退院後の8月、別の中学へ転校を余儀なくされ、自宅も転居した。しかし通学の意志はあるものの「生徒たちが怖い、目が合うだけでも怖い」と感じてしまう心的外傷後ストレス障害PTSDにより不登校状態になり、買い物などの外出でも同年代の目を恐れ、引きこもり状態になってしまった。

爽彩さんはいじめの被害状況を自ら親に詳しく説明することはなかったが、あるとき母親が学校側の説明を書き留めていたノートを目にした際、「こんなんじゃない。ママ、本当にこんなの信じているの」と泣きながら怒ったという。

 

2019年9月、H中学校と旭川市教育委員会は爽彩さん本人に聞き取り調査をすることなく「いじめと認知するまでには至らない」と結論付け、調査を終了した。しかし地域情報誌『メディアあさひかわ』が自殺未遂の背景にいじめがあった、学校・市教委側は事実を隠蔽しているとした記事を発表。学校側は10月1日に記事の内容を「ありもしないこと」「根も葉もない記事」といじめを真っ向から否定する校内向けの文書を配布した。

報道を受けて、道教委は事実関係を確認するよう市教委に指導通達するも、市教委は「話し合いで区切りはついている」「こども同士の関係性から、いじめとは判断していない」として再調査を行うことはなかった。

 

蜘蛛の糸

自殺未遂後、外出が困難になった爽彩さんだったがネットゲームの交友関係と連絡を取り合い、しばらくして人伝にプログラミングの勉強も始めていたという。中学入学前から交友があったゲーム友達は、いじめが激しくなってから情緒不安定になっていたようだと振り返る。PTSDのフラッシュバックによるものか、感情の浮き沈みがあったと語っているが、自分をいじめる相手への悪口というよりは「自分が悪い」と考えがちで、そうした話の後も聞き手の知人に気を遣って「気まずい話をしてごめんね」と謝っていたという。

 

また苦しい胸中や心の声をSNS上で発信するようになった。転校から9か月後、2020年5月21日のツイートでは希望に満ちていた中学1年のはじめをまるで遠い過去のことのように綴っている。

「私は前の学校でいじめを受けていました。酷いものなのかも私には分かりません。辛いのかももう分かりません。でも私の中に深く残っていることは確かです。その時の話をしたいと思います。まず私はその時。中学生になりたての中一でした。勉強は学校始めたてのテストで学年5位でした。私の唯一の誇り。」

一方で、いじめについて「先輩たちに驕るお金は塾に行った際のご飯と飲み物代だった」「八割以上は先輩たちへのお金になってました」「すべて私のせいです。私が悪くて私以外何も悪くない。先輩たちがいじめをしてきたのもきっと私が悪いように思えます。私は何もできていなかったのだから、当たり前なのではないかと思ってしまいます」と書き込み、自分の行動に全ての非があったかのような認識に陥ってしまっている。虐待を自然な行為として受け入れようとする自責の反応は、DV被害者など被虐待症候群;BPS(Buttered Person Syndrome)にも見られる徴候である。

 

事件のおよそ3か月前となる2020年11月7日、ツイキャスでゲーム実況等を行う配信者なあぼうさんに爽彩さん自らいじめや不登校について相談している。

「すごい簡単に内容を説明しますと、まず先輩からいじめられていたんですよ。色んなもの驕らされたりとか、ちょっと変態チックなこともやらされたりしたんですけど。そういうことにトラウマがあって学校自体に行けなくなってしまって、学校に行くためにはどうしたらいいんだろうって考えたときに何も自分じゃ思いつかなくて。で、学校側もいじめを隠蔽しようとしていて。」

「人が怖いし人と話すのも苦手だし、人に迷惑かけるのも怖いし…みたいな感じになってしまっていて。人に迷惑かけることがいけないことだって思っている節が私の中であって」

なあぼうさん「迷惑かけてもいいだろう、別に」

「それがなんか怒られるんですよ」

なあぼうさん「だれに?」

「周りのネットの人だったり、お母さんだったりとか。たまにお母さんは通話の内容を聞いているので、それもあるのかな」

なあぼうさん「なんでそんな怒られるのを嫌がるの?」

「失敗するのが怖くて。失敗しないと成長しないのも分かってる」

なあぼうさん「失敗したらそれで終わりじゃないじゃん」

「そうなんでしょうね、いろいろな人からも言われる」

「私自身すごいメンタル状況が不安定で、それでなんか学校に行くと1,2時間でギブアップしちゃうんです、基本的に。でも自分の気持ちはそうなんですけど、だけどなんかみんなには期待されるみたいな、それがちょっと怖くて」

なあぼうさん「みんなになんで期待されるの?」

「分からないけど、たぶん元々ができたからじゃないかな…」

音声のみでの出演で、はきはきとした口調で淀みなく語り、詳細ないじめ内容こそ触れていないが現状の不安やとまどいを伝え、しっかりと自己分析をしている様子が窺える。

爽彩さんはなあぼうさんに自作のイラストを披露し、「これは自分のちゃんとした世界観を持っている人だよね!」と褒められると「ありがとうございます」と少し照れたように答え、「好きなことというか得意なことを伸ばして仕事にできたら一番楽しいだろうなって」と考えを語り、「なんか褒めてくれるからちょっと調子に乗ってる」と明るくはにかむような場面もあった。

配信後には番組視聴者からのSNS上での反響をうれしそうに母親に見せていたという。高校進学への意欲も見せており、母親は立ち直りの兆しを信じて見守っていた。撮影や拡散などいじめの手段とされたのもスマホだったが、彼女が助けを求めることができたのもネットゲームやインターネット上での交流だった。

 

公的な福祉では救いきれない子どもたちへの生活支援を行う市民団体「子どもの権利条約旭川市民会議」ではいじめや自傷といった悩みを抱えるこどものための電話相談を2016年より開設しており、爽彩さんもツイキャスでの相談と同時期に電話を掛けていた。

「小学校のときからいじめを受けていて、中学に入ってからひどくなった」。元旭川市議で同団体代表を務める村岡篤子さんが「どんないじめだったの?」と電話越しに問いかけると爽彩さんは「嫌なこと」と答えて泣き出したという。村岡さんは過去の例から「性的なこと?」と確認すると、「撮影されて、拡散された」と答えた。当時、村岡さんは「拡散」という言葉について校内で噂を広められたという程度の意味で解釈していたが、後に「インターネット上で不特定多数に情報を晒される行為」だと知ってショックを受けたと悔やむ。

「どういう解決をしたいか」と問うと「死にたい。リスカリストカット)した」と返答があったという。村岡さんは「リスカ、痛いよね」と受け止め、保護者との面談を持ち掛けたが「考えておきます」と言葉を濁された。保護者や学校に伝えて、その後何かあればまた連絡を頂戴と伝えると、「分かりました」と言ってその後連絡は途絶えたという。

村岡さんは「しっかりした子」とその印象を語り、経験上、相談者は人に話すことで気が晴れることもあるのでその後電話がないのもそういうことかと思っていた。しかし翌年2月後半、行方不明で捜索中だった爽彩さんのチラシを見て、電話相談をくれた子だと思い出したという。

 

同団体では2021年4月までの5年間で「いじめ・不登校」に関する相談は1518件あり、旭川市内の小中学校に教職員との面談の申し入れを329回行っていたが、実際に面談できたのはわずか8回だったという。

市教委辻並浩樹教育指導課長は「各学校においていじめと認知した事案は教育委員会に報告が必要で、その際に関係機関や団体など学校外部との連係状況等についても学校対応の経緯として報告をもらうことになるが、当該の民間相談施設との連携状況については報告では把握していない」と述べている。それに対し、旭川市能登谷繁議員は、「門前払いですよ、ほとんどこれだと。結局、学校も教育委員会もこれら(いじめや不登校)の問題に聞く耳を持っていなかったのではないか」と指摘。辻並課長は、個人情報の管理から民間施設との連携は難しいと説明している。

村岡さんは「市役所の業務時間内に電話を掛けてくることはほぼない」と語り、助けを必要とする子どもたちの窮状と、現状の仕組みでは社会からシャットアウトされている現実を訴える。学校、市教委にとって「いじめ」など存在しないに越したことはない、しかし現に「いじめ」が根絶されることがない以上、救済の窓口をせばめる言い訳はあってはならない。「大人たちの対応」が声なきこどもたちの声を黙殺し、文字通り「見殺し」にしているのだ。

 

■事件の表面化

積雪の中で凍死した少女が何を理由にそうした行動をとったのかは明言されてはいない。だが精神の不調、PTSDをもたらした最たる要因である壮絶な「いじめ」について、見てきたように中学校は認めることなく封殺の態度を貫き、十分な対処をしてこなかった。

 

遺体発見から3日後、文藝春秋社の文春オンラインへ支援者から「真実を調べてあげてほしい」「無念を晴らしてあげたい」とメッセージが届き、現地入りした取材班は4月15日から特集記事で事件を大きく取り上げた。市や学校には全国から苦情や問い合わせが殺到した。

当時の校長は、取材に対し、爽彩さんと加害生徒との間に「トラブル」があったことについては認めつつも、それは「いじめ」に当たらないとの見解を示し、加害生徒には適切な指導を行ってきたとの説明に終始している。

一方で、爽彩さんには小学校からの引継ぎ事項としてパニックになることがよくあったと伝えられていたため特別な配慮をしていたともいう。自殺未遂の2日前に電話で母親と喧嘩になり、携帯を公園に投げて帰ってしまったことがあったと語り、家庭環境について子育てに苦労しているという認識があったと述べている。学校側としては立ち直りの問題解決に向けて長いスパンでケアを要すると考えていたが、突然転校することになってしまった、爽彩さんの亡くなった理由が子どもたち同士のトラブルが原因かどうかは分からないとの見方を示す。

娘の遺体は凍っていた 旭川女子中学生イジメ凍死事件 (文春e-book)

爽彩さんの母親は10年ほど前に離婚してシングルマザーとして一人娘を大事に育て、爽彩さんも母親の交際相手と気さくに打ち解けるなど家庭関係は良好だったという。だが「とても繊細な性格」があり、宿題をやったのに家に置き忘れたりすると嫌になって帰宅してきてしまったり、走って追いかけられたりするとパニックになることがあり、事情を知らない先生に追いかけられた際には教室の窓から外のベランダに飛び越えたことがあったと振り返る。

『娘の遺体は凍っていた』(文藝春秋社)収録の母親による手記『爽彩へ』では、自閉症スペクトラムアスペルガー症候群の診断を受け、コミュニケーションの困難さ(言い回しやニュアンスが理解しづらく、字義どおりに受け取ってしまう)や強いこだわりが出るタイプ(こだわりを外れる事象への対応が苦手で癇癪やパニックになりやすい)だったことを綴っている。

新聞は通常の事件報道でそうした被害者の病歴やプライバシーに触れることはあまりないが、本件に関しては重要な視点のひとつである。いじめ成立の背景に係わるのはもちろんのこと、学校側のまるで腫物を扱うかのような対応、教頭、校長らの態度・見解の裏には、障害児童に対する不理解と差別意識が横たわっていることは明らかである。

 

2021年4月22日、旭川市西川将人市長(当時)はこれまでの対応に事実誤認の可能性もあるとして、いじめの有無に関する再調査を明言。26日には国会審議の俎上にも挙げられ、萩生田光一文部科学大臣旭川市のこれまでの対応に釘を刺したうえで、重要事案として位置づけ、文科省職員ないしは自身も含む政務三役を現地に派遣する可能性を示唆した。

爆破予告が届くなど緊迫した状況で、同26日にH中学で開かれた保護者説明会は紛糾。保護者からの事実確認や学校対応に関する質問に対し、「事件について詳細はお話できない」「第三者委員会の調査報告を受けて今後に活かす」といった返答を繰り返した。事件後に他校から赴任した校長ばかりが陳謝するだけで、事件当時を知る教頭や担任から詳しい説明や謝罪はなく、前任の校長はその場に出席することもなかった。

翌27日、市教委は「女子生徒がいじめにより重大な被害を受けた疑いがある」とそれまでの判断を覆し、いじめ防止対策推進法に基づき「重大事態」とし、5月に医師、臨床心理士、弁護士ら外部有識者による第三者委員会を設置した(https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/218/266/270/d073659_d/fil/040210_taisakuiinkaimeibo.pdf)。外部から選出すべき調査チームであるにも関わらず、かつて他校で校長を務め市教委とつながりのあった人物や、被害者が診療を受ける病院関係者が含まれるなど、その人選について見直しを求められる一幕もあった。

 

2021年9月に行われた旭川市長選挙でもいじめ問題の真相究明は大きな論点の一つとされた。4期15年を務めた前任者の後継候補を破って初当選を果たした今津寛介市長は10月中、遅くとも年度内とする早期報告を求めたが、委員人事で複数の出入りもあって調査は大きく出遅れた(2011年の大津、2019年の岐阜のいじめ自殺に関する調査では最終報告までおよそ半年である)。

今津市長は10月28日の市議会で「女子生徒本人の“いじめられている”とのSNSでのやりとりなどの情報等を踏まえ、私としては“いじめである”と認識いたしました」と踏み込んだ発言を行う。これに対し、議会では調査に影響を与える政治介入だとの批判が起こった。

 

2022年3月27日、第三者委員会は「いじめとして取りあげる事実があった」と認定し、遺族に報告した。いじめ認定までに、川へ飛び込んだ自殺未遂から2年9か月、亡くなってから1年以上を要したことになる。

4月15日、旭川市教育委員会・黒蕨真一教育長は会見の席で「ご遺族のみなさまに多大なるご心痛とご負担をおかけしたことを大変申し訳なく思っており、この場を借りて深くお詫び申し上げます」と謝罪した。

三者委員会の辻本純成委員長は調査中間報告で、2校7人の上級生が加害に関わり、以下6項目について、対象生徒は間違いなく心身に苦痛を感じていたとして「いじめがあった」と結論付けた。

・グループ通話での性的行為の要求

スマホで性的画像の撮影と送信の強要

・菓子などの代金を繰り返し負担させる行為

・深夜の呼び出し(実際に集まっていないにもかかわらず招集をかけるなどした)

・からかい続け、パニック状態の本人を突き放すような不適切な発言

・性的な話を繰り返した上、体を触るなどした事案

これに対し、遺族代理人である小林大晋弁護士は、「教師やいじめをした加害者側からの聞き取りだけで事実認定をした結果、文脈を欠いて不完全な内容に事実認定されているような箇所が散見される」と指摘した。旭川市今津寛介市長は27日の定例記者会見で、学校側の責任が明らかとなった場合、すでに昨春で定年退職している当時の校長についても「責任を逃れられるものではない。法律的にどこまでできるか分からないが、責任の一端を担ってもらいたい」と述べた。

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4月15日の中間報告を受けて、爽彩さんの母親は以下のコメントを発表している。

ようやく、いじめが認定されました。今も心が折れそうになることがあり、この1年は、ずっとその繰り返しでした。自分の進んでいる方向が正解かどうかも分からず、ずっと自問自答しています。学校は誰が見てもいじめだと分かる状況だったのに、どうして「悪ふざけ」だと言えたのでしょうか。なぜ「いじめ」ではないと断言できたのでしょうか。今でも疑問です。私は、娘が苦しんでいるのをずっと目の前で見てきました。亡くなる直前まで苦しんでいた、あのときの姿を思い出すと、本当につらくて、つらくて、涙がこぼれてきます。あのとき、いじめだと認めてほしかった。いじめは人の命を奪う恐ろしいものだということを、加害生徒たちは自覚して、命の重さを感じてほしいと願っています。

下の動画は4月15日、第三者委員会の中間報告を受け、市長による記者会見が行われた。一刻も早い全容解明に向けて、引き続きご遺族の考えに寄り添いながら対応していく意向を述べた。

 

 

■所感

事件の真相解明もまだ道半ばであり、いじめの実態が全て明るみになったとしても彼女の笑顔が戻ることはない。世論にはいじめや若者の凶悪犯罪を憎むあまりに少年法撤廃の声さえ存在する。そうした極論でいじめや若者の凶悪犯罪がなくなると考えているのかは甚だ疑問であり、自らは対象とならない成人であることや我が子がいじめ加害者になることなどあり得ないという信念から、代理的報復感情を刑罰によって満たしたい歪んだ欲望による過剰反応だと私は考えている。

本件では加害生徒、デート担任など関係者と目される人物の未確認情報が手当たり次第にネット上に流布され、学校への突撃取材や無関係の生徒、家族等への嫌がらせ行為が頻発する騒動にまで発展した。2019年9月に山梨県道志村で起きた女児行方不明事件や2020年の木村花さんの自殺等でも「ネット民の暴走」は問題視され、ネットの誹謗中傷は侮辱罪の厳罰化をもたらした。「ネット民」という言葉はあるが、今日はインターネットとの接続なしで生活している人間は極めて限られている。他人事ではなく自分事として、何気ないカキコミやリツイート行為もいじめになりうること、犯罪につながりうることを改めて肝に銘じておきたい。当然のことだが相手がいかなる極悪非道であれ、私たち一般市民が「加害者を罰する」ことは法で固く禁じられている。

いじめ問題の特効薬は、校内外での監視・保護機能の強化以外にない。だが教育現場の崩壊が叫ばれて久しい今日「担任教諭の落ち度」で済ませるには余りある問題とも感じる。校外での出来事やインターネット上の暴力リスクまで管理できる教師などおそらくは存在しない。

いじめを把握した場合、学校側の取るべき行動は、被害児童の保護・隔離が最優先であり、加害児童への対処・指導にこそ生活面も含めた長期的なケアが必要だった。しかし主犯格とされる生徒らは当時すでに3年生であり、学校側には「おバカな子」も3年経てばいなくなるといった責任逃れの放任があったようにも見受けられる。

これまでの報道では「わが校にいじめが存在してはならない」とする不文律の存在がありありと浮かび上がっており、市教委にも学校側との「歪な結束」が存在すると断じられても致し方ない。いわゆる学閥や地縁、姻戚関係、退任後の再雇用など、地方公務員には「地域の縁故、しがらみ」は今日も色濃く残る。たとえ志をもって教職に就いた者でも改善提案や内部告発をする「出る杭」にはなりきれない、むしろそうした校風や規則に「染まれない」人間を排除する基盤が既に存在する。“理不尽”な規則に縛られるのは生徒に限ったものではない。

スクールポリスやカウンセラーなど外部機関の活用によって、非行やいじめへの一定の歯止めになると考えられる。だが電話相談の民間団体との連携すらも拒む学校・市教委が容易に受け入れようとはしないだろう。いじめを表沙汰にしたくない堅牢な「自己保身」を是とする組織にそうした体質改善が可能なものか、それとて旭川市独自のものとも思えない。

公教育が築いてきた歴史的慣行ははたして誰のためのものなのか。教育者たち自らが子どもの健全な育成を阻害する障壁になってはいないか、不断の懐疑・検討と試行錯誤が繰り返されなくては務まらない。入学当初、彼女が思い描いたような明るい学園生活を取り戻すため、生徒みんなに成長の機会を保証するためには、どのような周辺環境、学校運営が適切だったのか、我々大人たちに課せられた使命である。

 

爽彩さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

HBC『空白~旭川いじめ問題 問われる社会』

 https://www.youtube.com/watch?v=6ERDekJVHzk

神戸新聞「拡散された。死にたい」旭川で凍死の女子中学生電話でSOSを出していた

https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202109/0014651246.shtml

■読売新聞 わいせつ画像送らされ、先輩に呼ばれ夜中に外出…凍死中2の母親「学校は最後までいじめ認めず」

https://www.yomiuri.co.jp/national/20211112-OYT1T50101/

越境する狂気と愛 映画『TITANE/チタン』感想

ジュリア・デュクルノー監督による2021年のフランス・ドイツ合作映画『TITANE/チタン(原題:Titane)』の感想などを記す。

第74回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受け、「カンヌ史上最も奇天烈」「驚愕、混乱、困惑」と評される怪作である。

 

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2020年は開催中止。2021年、コロナ検査の陽性反応でレア・セドゥのレッド・カーペット姿はお預けとなったものの、濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』が最優秀脚本賞に輝いたこともあって国内でのカンヌ報道自体は例年より多かったのかもしれない。その恩恵か、いかにも不穏そうな本作の噂が耳に入った。

筆者はフレッシュな「驚き」を得たいポリシーから、監督の旧作や内容について下調べすることなく、「交通事故に遭った少女が頭にチタンを埋められる」という情報だけを頼りに夜の映画館へ向かった。

敬愛するポール・トーマス・アンダーソン監督の「この映画に身を任せよ」という至言にただ従ってさえいれば、行く先には天国か地獄の門が口を開けて待っているように思えた。

 

 

■監督と旧作について

作家性に言及する前に、監督の旧作とその特色に多少触れておきたい。

脚本・監督のジュリア・デュクルノーは1983年、パリで皮膚科医の父と婦人科医の母との間に生まれた。ラ・フェミス国立高等映像音響芸術学校脚本科で2008年から映像作家としてのキャリアを開始した。パルムドール受賞は女性監督として史上二人目の快挙と注目されたが、女性である前に一人の映画作家であると宣言している。

 

2011年に少女の「脱皮」を描いた22分の短編映画『Junior(未公開)』でカンヌ映画祭のプチレールドール(観客賞)をはじめ、各国のコンペで高い評価を得た。

13歳の少女ジャスティン(通称ジュニア)はニキビ面、冴えないメガネ、歯列矯正、ファッションにも無頓着といった性的コードで表現される。彼女は姉のような「キラキラ女子」を毛嫌いしており、男子とつるんで女性嫌悪ミソジニー)をまき散らすため、周囲の女子から煙たがられる存在だった。しかしあるとき少女の体に異変が起こり、急激に女性性を獲得して周囲の女子の気持ちを理解するようになる。

嘔吐を繰り返したり、蝉の幼虫のごとく背中が割れたり、皮膚が異様に剥け、体から大量の粘液が滴る描写など『エイリアン』のように人間離れした、それでいて生々しい「生物的変態」として思春期の心的変化を表現した。生物的な変態はすなわち不可逆性を示し、少女は元の「まぬけな少年」のようには戻れなくなることを意味している。

一方で彼女がそれまで忌避し、蔑んできた見てくれにばかりこだわる「雌犬」へと変容しつつあることは、男性が一生味わうことのない恐怖と苦しみといえるものかもしれず、その「痛み」について見る者のセクシュアリティに深く依存する問いを孕んでいる。男子のひとりが「お前はもうブスじゃない」と伝え、少女の初恋は小さな花を咲かせて物語は閉幕を迎えるが、はたして彼らの未来が明るいものであるかは推して知るべしである。

 

 

翌12年にVirgile Bramlyとの共同脚本・共同監督で『Mange』という84分のテレビ映画を手掛けている。タイトルはフランス語で「食べる」の意味。

今はパートナーにも恵まれた美貌の弁護士ローラ(Jennifer Decker)だが、15年前の学生時代には太っていて見た目が悪く、いじめを受けて摂食障害に陥った過去があった。ある日、ローラが通う摂食障害克服のための集団プログラムに、いじめのきっかけをつくった張本人シャーリーが現れる。しかし彼女は変貌を遂げたローラを別人だと思い、自身の過食の悩みを相談する。するとローラの前にかつての「醜いローラ」が姿を現し、昔日の恨みを忘れるな、シャーリーに報復しろと呼び掛けるのだった。

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「醜いローラ」によって再び心身を蝕まれたローラは、再び仕事やプライベートに支障をきたすようになり、過去のトラウマを追い払うため、シャーリーへの復讐を企てる。コカインで覚醒した状態で深夜のパブへと繰り出し、男を差し向け、シャーリーのパートナーに「浮気」を感づかせようというのだ。

しかしローラ自身もコカイン摂取がパートナーに知れてしまい、家を追い出される。ホテルの部屋で泣くことすら忘れるかのように、パイや菓子を一心不乱に貪りながら水で流し込み便器に頭を垂れる姿は非常に痛々しい。「食事」という生物にとって自然の営み、生命維持に必要な行為が、統制が取れなくなった途端に自身への暴力、自己破壊へと転じてしまう。こらえ性がない、誘惑に弱いといった類の情動ではなく、極めて暴力的な衝動に支配されている様子を具現化する。

その後、ローラは紆余曲折を経てシャーリーへの復讐を遂げるのだが、本作では男性性の描き方がより極端なものになっている。『Junior』では思春期の少年たちの幼稚さ、ミソジニーでしか異性とコミュニケーションが取れない拙さとして表現されたものが、本作では、暴力で娘をしつけようとする父親、悪事を認められない小悪党、離婚と逮捕が迫りつつも享楽的なインド人、セックスの途中で寝る、パートナーの浮気は許さないのに自らの3Pへの欲望を正当化するなど、男たちは揃いも揃って屑ばかりに「成長」している。

とはいえ、冷静に考えれば、いや、ごく当たり前のように身近にいる絶妙なラインを突いており、ブラックコメディのテイストが随所に効いている。サイコスリラーと悪夢的ファンタジーの側面を併せ持つ現代劇である。

 

 

2016年、長編映画デビューとなるフランス/ベルギー合作映画『RAW~少女のめざめ~』はトリノ・フィルム・ラボの支援により制作された。原題は「重大な-、深刻な-」といった意味を表すフランス語のGraveだが、言い換えられる英語がなくワールドリリース向けの英題:Raw(生の-)については監督自身も気に入っているという。

マルキド・サド、カインとアベルレヴィ・ストロースフランシス・ベーコン、自然史博物館の記憶といったデュクルノー監督の20年間の蓄積を集結させて紡がれた食人を題材にした姉妹の物語である。

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ジャスティンは厳格な菜食主義者の両親に育てられ、姉アレクシア(Ella Rumpf)の通う獣医大学の寄宿舎で生活を始める。初日から「新入り」たちを待ち受けていたのは学生自治組織による手荒な「歓迎」の儀式と服従を求める上級生からの「指導」だった。

ある日、自治組織は新入りたちに「通過儀礼」としてうさぎの腎臓を生で食べるように命じ、初めて生肉を口にしたジャスティンは全身に炎症を起こして強い食欲に苛まれるようになる。夜な夜な生肉を貪るようになり、嘔吐すれば体内から延々と長い髪の毛がこみ上げてくる。皮膚のただれや肉体の拒絶反応(アレルギー)、嘔吐は監督が繰り返し用いるモチーフであり、「変容」のネガティブな現出である。

セックスの経験がなくムダ毛の処理もしない妹に対し、姉はブラジリアンワックス(接着式の脱毛法)を強要。ジャスティンが抵抗して暴れると、アレクシアはハサミで誤って手指を切断する。妹は衝動を抑えきれず、さながらヤングコーンでもつまみ食いするがごとくカニバリズムに走り、それを見た姉は一筋の涙を流す。「女性的」であることの同調圧力に対する強い抵抗は処女作『Junior』でも見られたジェンダー・ポリシーであり、ギャランス・マリリエは両作でジャスティン役を演じるに最もふさわしい俳優である。

しかしアレクシアもまた妹より先んじて吸血や人肉食に直面して、それを受け入れて生きてきたことが明かされる。(冒頭シーンにもつながる)交通事故を引き起こし、死者の鮮血を口に含むと、「あなたも早く学習しなさい」と妹にアドバイスを送る。

RAW 少女のめざめ(字幕版)

妹への不遜な態度を貫くアレクシア。やがてジャスティンも寄宿舎の「掟」に染まっていく。「空腹」はピークを迎え、ルームメイトのエイドリアン(Rabah Naït Oufella)に対して身悶えるほどに激しい「肉-欲」を覚えるようになり、2人は体を重ねるが、彼自身は同性愛者であり恋愛関係は成就しない。心を荒ませてパーティーで酔いどれるジャスティンを誘導し、アレクシアは復讐を果たす。

両親、指導教官やチェーンスモーカーの医師といった周囲にいる僅かな大人たちはジャスティンに適切な救いを提供することはない。唯一頼りとなるはずの姉によるレッスンは極めて偏ったものであり、自己決定や行動責任を迫られる「成人」の手続きは少女に輝かしい未来を約束してはいない。性欲のめざめを「肉欲」に履き替え、肉食動物が「狩り」を学ぶようなひねりの利いた物語は、父親の告白によって姉妹に課された通過儀礼であったことが明らかとなる。

 

 

デュクルノー監督は肉体に対する関心は両親の影響であることを認めている。記憶によれば、幼少期にテキサスチェーンソーをTVで見ていてシネフィルの親に殴られたとも語る。10代の頃はエドガー・アラン・ポー、メアリー・シェリー、デヴィッド・クローネンバーグデイヴィッド・リンチの描く異形に親しみつつ、詩や短編小説を創作し、16歳で出版社から作品を求められる機会を得たが完成させることができなかったという。

彼女は筆を折り、数学と物理学に降参して医師になることを断念し、ソルボンヌ大学で英文学と哲学を、ラ・フェミスでスクリーン・ライティングを学んだ。初期から女性による暴力や大量の血が流れる作風だったと振り返り、「全てのディレクターは同じことを何度も繰り返していると思います」と語る。『RAW』によって多くの賞賛と期待を手にしたものの、多くの誤解と『RAW2』への期待を生んだことを後悔したと述べている。

約1年間の休筆を経て「金属片を産み落とす」イメージから誕生したという本作『TITANE』では「車」が象徴的な役割を成しているが、彼女自身は車を運転できない。

 

 

■主要キャスト

Agathe Rousselle アガト・ルセル(アレクシア、アドリアン役)

https://www.instagram.com/afundisaster/

1988年生まれ。キャスティング・ディレクターInstagramで発掘した新人で、ジャーナリスト、写真家、モデルとしても活躍。フェミニスト雑誌『Peach』(現在は廃刊)の共同創設、編集長を務めた経験があり、ジェンダーへの造詣も深い。

 

Vincent Lindon ヴァンサン・ランドン(ヴァンサン役)

1959年生まれ。80年代から俳優としてキャリアを積み、セザール賞(フランスのアカデミー賞)に5度ノミネートした。度々タッグを組んできたステファン・ブリゼ監督『ティエリ・トグルドーの憂鬱』により第68回カンヌ国際映画祭で男優賞、第41回セザール賞で主演男優賞に輝いた名優である。「巨人ゴーレムをイメージしてほしい」との監督の要望により、役作りに約2年をかけてマッチョな肉体改造を行った。THE RIVER誌のインタビューでは是枝監督作品に出演するのが夢だと語っている。

 

Garance Marillier ギャランス・マリリエジャスティン役)

デュクルノー監督のデビュー作『Junior』でキャリアを開始し、長編第一作目『Raw~少女のめざめ~』でも主演を務めた。監督は「妹のような存在」と表現し、マリリエ自身も監督への全幅の信頼を公言してはばからない。『Raw』が映画界に与えた鮮烈なインパクトにより仏フィガロ紙は19歳の彼女を「新たなゴア映画のアイコン」と讃えた。2021年に本作のほか、Netflix『Madame Claude』、『Gone for Good』、映画『Warning』等に出演。

 

■内容

幼い頃、交通事故によって頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシア。
彼女はそれ以来<車>に対し異常な執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになる。自らの犯した罪により行き場を失った彼女はある日、消防士のヴァンサンと出会う。10年前に息子が行方不明となり、今は孤独に生きる彼に引き取られ、ふたりは奇妙な共同生活を始める。だが、彼女は自らの体にある重大な秘密を抱えていた――

 

少女は父と言葉を交わすことなく、後部席で延々とエンジン音の口真似をするオープニング。苛立ちを隠せない父とのドライブシーンは、すでに父娘の断絶関係が暗示されているが、緊張と滑稽さを誘うダークなユーモアとして提示される。

観客の期待通り車は衝突事故を起こすが、それまでの緊張感から比較すれば「大事故」という程の衝撃でもない。運転していた父親は病院で平然と医師の説明を受け入れ、シートベルトを外してしまった少女だけが頭部に大怪我を負った。

頭蓋にチタンプレートを埋め込まれ、右側頭部に渦巻きのような大きな手術痕を負い、拘束具で固められた丸刈り頭の少女。はたして彼女の人生はどうなってしまうのか、という観客の不安(期待)をよそに、少女は病院を出ると真っ先に車に駆け寄り、まるでペットの犬猫とスキンシップを交わすように車体を撫で、窓に優しくキッスする。

 

10数年後、アレクシアは喧しい音楽の鳴り響く中、露出の高いド派手な衣装を身にまとい、モーターショーのショーガールイベントコンパニオン)として男性来場者たちの視線を惹きつけていた。他のモデルたちが「被写体」としてポージングする様子と異なり、彼女の煽情的な挑発は「男たち」にではなく「車」そのものに向けられていた。アレクシアのダンスはストリップのそれに近い、いわば車との「擬似セックス」を衆目に晒しているかのようである。それでいて官能的にクリエイトされた洗練したショーというよりは、野蛮な、動物的な振る舞いのように映る。

(話は逸れるが、今にして思えば、かつて「カメラ小僧」が構えた長い望遠レンズは勃起したペニスを象徴するものだったが、今日ではより「スマート」なかたちで「去勢」されているようにも思える。男たちはペニスのサイズを誇示して競い合う求愛行動より、片手でシンプルに「盗撮」する自慰行為の方法を好んだようだ。)

 

イベント終了後、アレクシアは隣でシャワーを浴びていたジャスティンに声を掛けられる。アレクシアは会話を拒もうとするが不意に髪の毛がジャスティンの乳頭ピアスに絡まって2人は接近し、後に性的関係に誘われることになる。

アレクシアが帰宅しようと車へ向かうと、熱烈なファンがストーキングし、強引に求愛して口づけしようとする。彼女は男の接吻を受け入れるかのように一瞬油断させると、長い髪留めで側頭部を一突きして瞬殺。不意を突く「必殺仕事人」を思わせるその妙技は、手練れの仕業である。

 

汚物を洗い流すため再びイベント会場の控え室でシャワーを浴びていると、無人の展示ホールから何かを殴打するような轟音が響いてくる。不審に思ったアレクシアが裸のまま会場へ向かうと、燃え滾る炎が描かれたハイドロ車(通常のサスペンションが金属バネの弾性を利用するのに対し、油圧ポンプでシリンダーを伸縮させて車高を上下させるカスタム。跳ねたり踊ったりするような動きが可能となる)がライトを煌々と照らして彼女を待ち受けていた。アレクシアは愉悦の表情で車と激しくまぐわい、エクスタシーを迎えるのだった。

自宅で大量の食事を摂るアレクシアに父親は何も語ろうとはしない。テレビは数か月に渡って複数男女を標的とした連続殺人犯のニュースを伝えている。言うまでもなくアレクシアによる犯行である。不調を訴える娘に父親は腹部を触診するが、そっけなく異常なしと診断する。

 

夜、ジャスティンの招きに応じたアレクシアは性行為に及ぼうとするが、膣からはモーターオイルが分泌され、簡易妊娠検査をすると「陽性」が示される。髪留めで無理に掻き出して中絶を試みるもうまくいかず、ジャスティンとそのルームメイトたちを次々と殺害する。暴力そのものは生々しく描かれるも、「あんたたち一体何人いるの?」とここでもブラックな笑いを提供する。

遺体を処理し、家に戻ったアレクシアは地下倉庫でジャスティンの服や遺棄に使った毛布を焼却する。このとき窓辺で煙草を吸いながら娘の帰りを見つめる父親の様子が挿入されることから、父は娘がシリアルキラーだと勘付いていたと窺い知れる。

引火して家屋にたちまち燃え広がる。彼女は両親の寝室に鍵をかけて逃亡することを選択する。しかし駅にたどり着くとすでに指名手配が始まっており、このままでは逮捕も時間の問題のように思われた。駅で「行方不明者」の手配書を見たアレクシアは、幼くして姿を消した17歳の少年アドリアンになりすますことを思いつく。

髪と眉をそぎ、テーピングで胸と膨らみかけた腹を拘束し、自ら人相を変えるために鼻をへし折った。自らの鼻っ柱を殴打する場面は執拗に繰り返され、その「痛み」を観客に植え付ける。金属とのハイブリッドな肉体を有する彼女は、さらに両性具有、まさしくアンドロギュノスへと変貌を遂げるのだった。

アレクシアの人生を捨て、「アドリアン」として警察に出頭するも供述やDNA型鑑定を拒絶。確認の呼び出しを受けたアドリアンの父親ヴァンサンは「息子」を名乗る人物を思いつめたように見つめる。訝しむ捜査官に「自分の息子を見間違えるわけない」と言い、自分の息子として身元引受を承諾する。

 

「何も言わないのか?……気にするな、心づもりができたら話してくれればいい」

ヴァンサンは嗚咽しながらに「アドリアン」の手を握り締める。「彼」は停車中に逃亡を試みるがヴァンサンはすぐに捕まえて手出しはしないことを約束し、自身が隊長を務める消防チームに入隊させる。筋骨隆々の隊員たちは同じ「男」とは思えないもやしのような体つき、痩せこけた血色が悪い顔立ち、何も喋らず怯えたような「息子」の登場に戸惑いを見せるが、ヴァンサンは「神の命令は絶対だ。“息子”について詮索するな」と厳命する。

若い隊員たちの前では絶対的権威者として振舞わねばならないと考えるヴァンサンだったが、屈強な肉体を維持するためにステロイド注射を常用しなければならなかった。鏡の前で老いゆく肉体に落ち込み、筋力の衰えに抗おうとする姿は、彼が理想主義者であり、目的のために手段を択ばない性格であることを窺わせる。

 

火災訓練の場面でヴァンサンは炎の中にロボットを手にした息子の幻覚を見ている。息子アドリアンは行方不明ではなく、すでに亡くなっていることが示唆される。 

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食事をしても言葉はなく、ヴァンサンを頑なに拒絶し続ける「アドリアン」。父はコミュニケーションを図ろうとレコードをかけてダンスを踊るよう誘う。その挑発に思わず「息子」は髪留めを向けるものの、圧倒的な腕力の前に御されてしまう。

「なぜ逃げようとする。ここがお前の家だ」

ヴァンサンが家の鍵を渡すと「アドリアン」は家を去り、バスに乗り込む。後ろに座った不良たちは前方の「女」に「こっちへ来い、無視するな」と声を掛けてからかう。隣に座る女性はちらちらと「アドリアン」に視線を送るが、助けを求めて目配せしていた訳ではなく「お呼びがかかっているのはあなたじゃないの?」といった風であり、「彼」が「女性」にしか見えないことが暗黙の裡に示されている。

逃亡を諦めた「アドリアン」はヴァンサンの家に戻ると、バスルームでオーバードーズして意識を失った老父の姿を発見する。再び髪留めを手にするものの、殺害を躊躇するアドリアン。頭を丸刈りにし、「起きて、父さん」と呼び掛ける。彼がヴァンサンの息子になった場面である。

 

アドリアンは「ADRiEN」と書かれた段ボール箱に入っていた古い家族写真を眺め、クローゼットからマタニティドレスを見つけて身につける。するとヴァンサンが部屋に入ってきてその姿を認めると、微笑んでアルバムを開き、幼いアドリアン少年が同じドレスを被って遊んでいた写真を見せる。「お前は俺の息子だ」と抱きしめるヴァンサンをアドリアンは受け入れる。

消防チームに居場所を得たように見えたエイドリアンだったが、隊員のライアン(Lais Salameh)は「彼」が女性逃亡犯であると察知し、ダンスパーティーでヴァンサンに疑念をぶつける。だがアドリアンはライアンの進言を打ち消すように自らヴァンサンをダンスに誘うのだった。

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ヴァンサンは別れた妻を呼び、息子と「再会」させる。彼女は冷静を装ってぎこちなく「息子」を抱きしめ、2人きりで話がしたいとヴァンサンに要望する。「息子は渡さない」と語るヴァンサンに、元妻は目を潤ませ「そんな気はない」と応える。

部屋に戻ったアドリアンはテーピングを外し、膨らみきった腹をかきむしると表皮の裂け目からはチタンが覗き、血液ではなく黒ずんだオイルが滲み、張った乳からもミルクのようにオイルが漏れた。もはやその「母体」をテープで隠し通すことは困難であり、体内の得体のしれない動きに身悶えする。

そこへヴァンサンの元妻が現れ、「母体」を晒すアドリアンを見て驚くことなく努めて冷静に強い怒りをあらわにする。

「我が子を失っても泣けない親の気持ちがあなたに分かる?彼の妄想に付け込んで」

「彼には支えが必要、だけど私にはできない。誰だか知らないけれど、あなたが面倒を見て。いいわね」

 

ヴァンサンは注射を頼もうとアドリアンを呼びつける。臀部がはだけた父に思わず目を背けるアドリアン。「病気?」と尋ねる息子に「年でな」と返す初老の父。息子は励ますように父の手を握るが、「俺がお前の面倒を見る。その逆(お前が俺の面倒を見る)じゃない」とヴァンサンは告げる。

庇護者として振舞うこと、「男-女」ではなく「父-子」として存在することを望むヴァンサンと、逃亡者として保護を必要とするアドリアンの間には奇妙な捩じれはありつつも確かな信頼関係が築かれていった。

 

森林でトレーラーハウスの火災が起こり、ボンベを背負って現場へ向かう途中でヴァンサンが転倒する。ライアンはすぐに「大丈夫ですか、隊長?」と駆け寄るが、すぐに起こそうとはせず、「意識はありますか?私の名前は分かりますか?彼女の名は?」とヴァンサンに詰め寄る。

ヴァンサンは自分が侮られたことに怒りが湧き上がり、制止を振り切ってトレーラーハウスに突入すると、ガスボンベだけを持ち出してライアンに持たせた。直後に爆発が起こり、ヴァンサンがライアンのボンベを爆発させたことが示唆される。

 

シャワーを浴びるアドリアンからは相変わらずオイルが漏れている。膨らんだ腹が内側から大きく動くのを見てアドリアンはうれしそうに微笑みかけ、テーピングで腹を抑えつける前には、ごめんね、と謝罪する。

ヴァンサンがシャワー室を訪れると慌ててタオルで前を隠すが、「お前が誰であろうと気にしない、誰であろうと私の子だ。分かるな」と優しく抱擁する。タオルが落ちてアドリアンの全身が露わとなるが、父は無言でタオルを掛けてその場を立ち去る。

 

深夜の車庫では隊員たちが隊長の目を盗んで激しいダンスパーティーに興じており、アドリアンの姿もその中にあった。狂喜乱舞する隊員たちは日頃おとなしい彼を担ぎ上げて消防車に上らせると、踊れ、踊れと捲し立てた。

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すると音楽はハードコアテクノから一転して『Wayfairing Stranger(さまよえる旅人)』へと切り替わる。19世紀から様々な歌手によって歌い継がれてきたアメリカの有名なフォークソングで歌詞やアレンジが異なるものの、現世の辛苦を唄う曲である。父母の待つ輝きの地へ、神に許された者たちが休む場所(天国)へと向かう死者に向けてもう彷徨わなくてよいのだ、と見送るゴスペル、讃美歌が起源とされる。

アドリアンはその痩体をくねらせて腰を振り、一気に隊員たちをしらけさせる。車庫にやってきたヴァンサンが「いい加減にしろ!何時だと思ってるんだ」と隊員たちを叱りつけ、車上のダンスを目にする。だがアドリアンは踊ることを辞めず、隊長は何も言わずその場を後にする。

 

アドリアンは車庫に残り、消防車とセックスを試みるもかつてのような快感を得られることはなく、テーピングを外して力むと腹の裂け目はさらに広がった。寝室で放心状態のヴァンサンはアルコールを自分の体に掛けて火を放つ。すぐに消し止めたものの、踊る息子の姿は男に深いダメージを与えていた。

Je t'aime (愛してる)

Moi aussi, Je t'aime (私もだよ)

寝室へとたどり着いたアドリアンはヴァンサンの胸に顔をうずめ、体にキスをする。お互いがその傷を知りながら、うまく痛みを伝えられない2人。

やがて接吻を求め、ヴァンサンは強くそれを拒んで部屋を去ろうとすると、アドリアンは「見捨てないで」と懇願する。

そのときアドリアンに激しい陣痛が起こり、口からオイルを吐き出す。

異常を察知したヴァンサンは彼女の股を広げ、「強く力め」と出産に備える。

彼女はこのとき初めて自分の名を彼に明かす。

「力め!アレクシア」

アレクシアの腹はめりめりと裂け、股の間からはどくどくとオイルが流れ出る。

産声を聞いた彼女はヴァンサンの感極まった表情を見てすべてを察し、静かに息を引き取る。

人工呼吸を施すもアレクシアは息を吹き返すことはなく、ヴァンサンは赤ん坊を抱いて「私はここにいる、私がついている」と語りかけるのだった。

 

 

■所感

筆者が訪れた平日のレイトショーでは公開初週に関わらず4人の集客しかなかった。「映画」として見た場合、前作『Raw』のストーリーテリングの方が優れたもののように感じる。だが本作をパッケージされた物語ではなく、詩、ある種の神話として捉えるならば、そこには答えのない未来が剥き出しの状態で啓示されているようにも思える。

位置づけとして、デュクルノー監督作品は皮膚への接写や病質的な肉体変化を表現することに特色があるものの、自身で「ボディ・ホラー」という区分での見方を拒否している。暴力、セックス、死体描写によってレーティング(視聴年齢制限)は避けられないものの、ジャンル映画(「ゾンビ映画」や「スプラッタ―映画」といったカテゴライズされた修辞法)としての解釈は避けるべきである。

 

 

車と性欲の関係で言えば、J・G・バラードによる原作で、1996年のカンヌ映画祭審査員特別賞(賛否両論を引き起こした、というよりフランシス・フォード・コッポラ監督が強い難色を示したと伝えられる)に輝いたデヴィッド・クローネンバーグ監督の映画『クラッシュ』が真っ先に思い浮かぶ。

「交通事故」による強烈な衝撃というシチュエーションに対する性的興奮、欲望への堕落として描いており、生と死の境というある種のイニシエーションにおける“神器”として車が用いられる。性欲という原始的欲望の「装置」として用いることで機械文明に対する強烈な皮肉のようにも捉えられる。

『クラッシュ』が人間同士の歪んだセックスin the Carだったのに対して、『TITANE』は純愛そのものwith the Carであり、直接的なフェティシズム、「車とのセックス」が描かれているという大きな違いがある。更にデュクルノー監督は、娯楽、運動的快楽として描かれがちなセックスを、生殖行為として、生命の再生産に立ち返って物語を推し進めていく。

人体と機械の融合という点ではポール・バーホーベン監督『ロボコップ』(1987)(その舞台は自動車産業に支配された犯罪都市デトロイトであった)、塚本晋也監督『鉄男』(1989)が思い浮かぶが、ロボットとのバトルやサイバーパンク、サイキックといったアメコミ的「少年」らしさ、善と悪の二項対立が顕著であり、サイボーグの描き方・捉え方の相違は興味深い。『TITANE』で描かれる暴力は正義の鉄槌でもなければ、痛快なヴァイオレンス・アクションでもない。

 

余談にはなるが、ノーセックスin the Carを映しながらも「言葉を越えた心の交流」を描いた映画『ドライブ・マイ・カー』にも触れておきたい。

「車」は情交が失われ形骸化した「家」を象徴しており、主人公は事故に遭ったことを契機に夫婦関係の虚構に気付く。脚本家の妻はセックスの最中に「物語」が下りてくる体質で、夫婦仲は表向き悪い訳ではなかったが自宅で不倫を繰り返していた。

妻の死後も舞台俳優・演出家の仕事を続ける主人公は、彼女が遺した「機械的な」台本朗読の音声を聞きながら現場を往復する。当初ドライバーの代行運転に強く抵抗するのは、車内での「夫婦の営み」が邪魔されるおそれを無意識下に懸念したためである。

しかしハンドルを握る彼女は、極めてスムーズな乗り心地で他人の運転である恐怖を感じさせず、亡き妻と主人公との営みを否定するでもなく「空気のように」寄り添いながら、目的地へと運んだ。やがて主人公は彼女の案内に任せて、誘われるまま知らない場所へと歩を進める、という喪失と回復の物語である。

 

 

男性の暴力性はときに魅力と受け止められ、「完全な悪役」となることも許されているが、女性による暴力はそうはならない、と性差による非対称性をデュクルノー監督は指摘する。

前半30分間のシリアルキラーとしての彼女の振る舞いは彼女の父のみならずあらゆる者に牙を剝き、観客の共感を拒む金属:冷徹な無機物である。自己防衛のために暴漢を殺すことは納得できるにしても、それ以外の人々を殺害する明確な理由は伝わってこない。

私たちにとってアレクシアの行動は「理由なき暴力」のようにも思えるが、彼女にとって長い棒状の髪留めは金属「性器」であり、殺害は彼女にとっての「生殖行為」に他ならない。「男性のペニス」が「武器」であることを反転させた表現と捉えられる。(『鉄男』ではペニスそのものが電動ドリル化するメタモルフォーゼで表現された!)

 

 

極めて印象的なシーンのひとつに、『恋のマカレナ』を引用した心肺マッサージがある。ヴァンサンたちが意識不明の男性を蘇生中に、ショックを受けた老母が卒倒し、技術のないエイドリアンにマッサージを任せる。無事介抱できたことでヴァンサンがエイドリアンを強く抱擁する場面である。

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1993年にスペイン人デュオ、ロス・デル・リオがリリースした『恋のマカレナ』は中南米で流行歌となり、Bayside Boysがリミックスして96年にシングルカットされた。人気は北米に飛び火してスポーツ会場等でチアソングとして流れたり、大統領選挙(民主党アル・ゴア)でも用いられた。一度聴いたらクセになるフレーズと振り付けで一躍社会現象となり、ビルボード14週連続1位など世界的大ヒットを記録した。

I am not trying to seduce you (誘惑してるわけじゃないの)

When I dance they call me Macarena (踊る私をみんながマカレナと呼び)

and the boys they say que estoy buena (男の子たちはセクシーだという)

they all want me  (みんなが求める)

they can't have me (けどそれは無理)

so they all come and dance beside me (だからそばへ来てみんなで踊りましょう)

Move with me (一緒に動いて)

Chant with me (声を合わせて)

and if your good I'll take you home with me (上手にできたら家に誘ってあげる)

Dale a tu cuerpo alegria Macarena (元気をあげるよ マカレナ)

Que tu cuerpo es pa' darle alegria y cosa buena (喜ばせる体があるから)

Dale a tu cuerpo alegria, Macarena Hey Macarena  (元気をあげるよ マカレナ、ヘイ マカレナ)

Lyrics Macarena (Bayside Boys Mix) - Los Del Rio

元々はロス・デル・リオのアントニオ・ロメロがベネズエラ人フラメンコダンサー、ディアナ・パトリシアをミューズとして書いた彼女を讃える楽曲である。アレクシアがダンサーだったこともあって、セクシーな歌詞内容ともちょっぴり符合する実に気の利いた選曲だったことに驚かされる。

 

 

身体と変容の関係。

主人公の名前「アレクシア」は脳損傷による失読症を意味しており(先天性のものはDyslexia)、先述のように監督は意図してその感情を描かない。車とのセックスを経て、ハイブリッドな「母親」となりながらも女性としての肉体を抑圧する。女性性への抵抗はデュクルノー監督の根源的なテーマと言ってよく、一部の批評家が言うようなトランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)ではないかという指摘は重大な誤りである。

ヴァンサンの「息子」として受け入れられる過程で、アドリアンへと生まれ変わることで人間性を取り戻していく。

観客は、ほとんど何も喋らない「彼」とも「彼女」ともつかない(「彼」でも「彼女」でもある)ハイブリッドな両性具有の主人公に対して、痛みを通じて共感を示すのである。アドリアンアドリアンのこどもは人間ではないかもしれないが、『ローズマリーの赤ちゃん』のようにモンスターとは解釈されるべきではない。

世界がカオスだった頃、大地の女神ガイアは無から天空の神ウラノスを生んだ。ガイアはウラノスと結ばれ、地上に山、木、花、鳥、獣を、天に星を生み出した。ウラノスは天から雨を降らせて大地を覆い、ガイアは12人のティタン神族を生んだ。アレクシア(アドリアン)をガイア、ヴァンサンをウラノスと擬えることで、2人は「親子」であり同時に「夫婦」でもあるという人間としてはタブーともいえる近親婚の家族関係を可能にしている。

またヴァンサンは消防隊員らのアドリアンへの詮索を拒み、「私は神だ。その息子はイエス・キリストだ」と発言して自らの絶対性を誇示した。公式の完全解析ページを担当した小林真理氏が「処女懐胎をしたアレクシアは聖母マリアであると同時に、救世主イエスキリストなのかもしれない」と指摘するように、神話や聖書のモチーフが随所に散りばめられた寓話となっている。

冷血な女は炎の描かれた車との交わりで子を宿し、両親と自身の過去を燃やし尽くし、熱い血の通った男はライアンを爆死させてこどもを迎え入れ、自らの体に火を放って諦念を振り払い、新たな家族の物語を想像する。2人は己の肉体を、性規範や従来の道徳を超克するポストヒューマンのあり方を模索する道標となるはずである。

 

Je t'aime (愛してる)

 

Moi aussi, Je t'aime (私もだよ)

 

2人の間に生まれた愛は、エロス(性愛)でもフィリア(友愛、隣人愛)でもない、神から人類に提供されるアガペー(無償の愛、不朽の愛)であり、単なる異性愛に依存しない、あるがままを受け入れる慈しみは新たなストルゲー(家族愛)ともいえるのではないか。

 

 

 

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パルムドール受賞作『TITANE/チタン』で世界を震撼!ジュリア・デュクルノー監督に独占インタビュー|カルチャー|ELLE[エル デジタル]

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成田チョコレート缶覚せい剤密輸事件について

“日本の空の玄関口”成田国際空港を抱える千葉県は裁判員裁判の件数が全国で最も多く、違法薬物の密輸事犯がそのおよそ4割を占める。起訴されたいわゆる「運び屋」たちは違法薬物の存在について知らぬ存ぜぬと主張するケースが大半である。

2009年11月に覚せい剤約1キログラムを国内に持ち込もうとして逮捕された男性も当初から営利目的輸入についての容疑を否認し、公判でも「覚せい剤と知らずに持ち込んだ」と主張していた。

覚せい剤取締法第41条2項により、営利目的輸入は無期若しくは3年以上(20年以下)の懲役、又は情状により1000万円以下の罰金を併科するとされており、裁判員裁判の対象となる(裁判員法第2条1項1号;死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件に該当する)。本件は裁判員裁判で全面無罪判決となった初めての事件である。

 

 

■概要

2009(平成21)年11月1日、マレーシア・クアラルンプール国際空港から成田行きの便に搭乗した相模原市の会社役員安西喜久夫さん(59)が手荷物のボストンバッグに覚せい剤998.79グラムを隠し持っていたとして覚せい剤取締法違反の輸入行為、関税法違反容疑で逮捕された。

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安西さんは税関の申告書にある「他人から預かったもの」の欄に「いいえ」を記し、職員から覚せい剤などの持ち込み禁止物品を図示されて、口頭での所持確認が行われた際にも否定していた。

税関職員が手荷物検査を行うと、免税袋にチョコレート缶2缶と煙草のカートンが入っていたが不審点は見当たらなかった。続いてボストンバッグの中身を確認すると、黒いビニールの包みにチョコレート缶3缶が見つかった。職員が持ち比べたところチョコレート缶のサイズは先の缶と同程度だったが明らかに重いと感じ、チョコレート以外の何かが入っているのではないかと考え、エックス線検査の了解を求めた。

安西さんはすぐに了承し、検査室で検査結果を待った。チョコレート缶は縦20×横27×高さ4センチの平らな缶で、蓋部分と缶本体は粘着テープで封じられており、内容量380グラムと表記があった。

 

税関職員は男性に自分で購入したものか否かを尋ね、「それは昨日向こうで(マレーシア)で人からもらったものだ」と返答した。職員は申告書の記載と異なることを問いただしたが、安西さんは返答に窮し、「だれに貰ったものか、日本人か」との問いに「イラン人らしき人です」と答えた。

税関職員はエックス線検査の結果を伝えないまま、どれが預かってきたものかを尋ねて荷物の確認表を作成。安西さんはチョコレート缶3缶と黒いビニールの包み、菓子数点を申告した。

職員が黒いビニールの包みの開封を求めると、安西さんは機密書類だからとこれを拒んだため、「エックス線検査の結果、缶の底部に不審な影が見られたので確認させていただきたい」と説明し、チョコレート缶開封の承諾を求めた。求めに応じたため職員が缶を開封したところ、3缶ともにチョコレートの入ったトレーの下部に袋に小分けされた約334~350グラムの白色結晶が発見された。

 

「これは何だと思うか」との問いに、安西さんは「薬かな、麻薬って粉だよね、なんだろうね。見た目から覚せい剤じゃねえの」と答えた。

税関職員は再び黒色ビニール袋の中身を見せるよう言って、同意の上で開けてみると、中には名義人の異なる5通の外国の旅券が入っており、うち3通は「偽造旅券」であった。

検査の結果、缶底から見つかった白色結晶が覚せい剤であることを確認し、男性を逮捕した。

 

■供述

逮捕直後、安西さんは見知らぬ外国人にチョコレート缶を貰ったと話したが、その後の取り調べで供述に変遷が見られた。

日本にいるナスールという人物から30万円の報酬で「偽造旅券の密輸」を依頼され、マレーシアのジミーという人物から旅券を受け取った際に「ナスールへの土産」としてチョコレート缶を持たされたと述べるようになった。

 

次いで、旧知のカラミ・ダボットから送金を受けていることについて説明を求められると、ナスールから直接依頼されているのではなく、ダボットに頼まれて偽造旅券を受け取りに行ったとし、自分から依頼者へ、ダボットの手からナスールへと渡される予定だったと述べた。

ダボットは当時別件の覚せい剤輸入事件に絡み、大阪地裁で無罪判決を受けた後、検察側の控訴により大阪高裁で審理中で、安西さんはその訴訟経緯についてはダボットから聞かされていた。

 

■一審

千葉地裁(水野智幸裁判長)で開かれた一審の裁判員裁判では、被告人に缶の中身が覚せい剤だという認識があったか否かが争点となった。裁判員裁判は2009年5月21日から実用が開始され、運用から約1年が経過した時期である。

 

「土産」として預かったチョコレート缶は密封状態で、内容物が外から見ることができず、普通の缶と区別がつかなかった。被告人本人が缶をバッグに入れていたとて、予め「違法薬物」だと分かったうえで持ち込んだとはみなせない。被告の主張するように、依頼された「偽造旅券」と単なる「土産」として所持していてもおかしくはないのである。

被告人は30万円の報酬を約束され、航空運賃などを負担してもらって「偽造旅券」の密輸を委託されたことを認めている。検察側はそれほどの金額を支払ってまで偽造旅券を持ち込む必要性はないため不自然に思うはずだと主張したが、それは費用に見合う価値を理解した上での話であって、依頼者の負担額からチョコレート缶の中身を違法薬物と推測できたとまでは言えない。

缶の重量は、チョコレート、缶本体、覚せい剤は合わせて各缶約1056~1071グラムあったが、まとめて渡され、その重量を正規品と持ち比べる機会もなかったことからチョコレート以外のものが隠されていることに気付かなくても何の不思議もない。

 

「偽造旅券」の入った黒いビニール袋は目に付きづらいバッグの底の方に入れていた一方で、チョコレート缶は目に付きやすい最上部に入れていた。税関職員の求めに対してすぐにエックス線検査を承諾している。市民感覚から言えば、自分の手荷物から全く心当たりのない違法薬物が発見されれば「うろたえる」「強く否認し、抵抗する」のが正常な反応ともいえる。安西さんの「なんだろうね、覚せい剤じゃねえの」と平然とした対応は確かに違和感を感じさせる。

「偽造旅券」は逮捕された場合に備えての「言い逃れ」の手段としてバッグに同梱していた可能性も否定はできない。むしろ「運び屋」であればそうした下準備があってもおかしくはないが、常識的に考えて間違いなく「言い逃れ」のために準備されていた、とまでは言い切れないのである。

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2010年6月22日、千葉地裁は検察側の求刑懲役12年、罰金600万円に対し、裁判員裁判で全国初となる無罪判決を言い渡した。

水野裁判長は判決理由で「土産として他人に渡すためにチョコレート缶を預かったという被告の話は作り話とはいえない。違法薬物が隠されている事実について、分かっていたはずとまではいえない」と指摘。

 

判決後、裁判員を務めた6人の内5名が会見し、女性は「有罪が立証されなかったので無罪は正しい判決と思っている」と話した。「黒に近い灰色というイメージだった」という弁も出た一方、男性会社員は「控え室で『完全に有罪と言い切れないなら無罪』と知った。こうしたルールを守らなければいけないんだと認識させられた」と述べた。

「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に対し、裁判員の忠実さが現れたかたちだが、捜査当局としてはより綿密な捜査、立証を求められる結果となった。それ以前の裁判官のみによる裁判では持ち込んだ経緯や発見時の様子で立証され、すべて実刑判決が下されていた。

裁判官であればそれまでの違法薬物密輸の実情や背景を理解した上で判断を下すものの、市民である裁判員では知識にも開きがあり、一般常識や感情に流される面もかねてより懸念されてきた(殺人事件等では重罰化の傾向が見られた)。そうした一般感覚を裁判に取り入れることこそ裁判員裁判の目的であるためそれが間違っている訳ではない。検察側からすれば、それまでの裁判官向けの立証通りでは裁判員には通用しない側面があぶり出されたといえる厳しい判決であった。

安西被告も会見に応じ、「正しい判断をしていただき、ありがたい」と判決を喜んだ。浦崎寛泰弁護士は「裁判員裁判への信頼の向上という点で歴史的意義がある」と評価した。千葉地検は事実誤認を主張し、裁判員裁判で初の控訴を行った。

 

■二審

2011年3月30日、東京高裁は一審判決を破棄し、懲役10年罰金600万円の有罪判決を下した。裁判員裁判の無罪判決が覆るのは初である。

検察側は先述のような被告人の供述の変遷をたどって説明し、当初はカラミ・ダボットからの委託で渡航していた事実を隠そうとしていたこと等を指摘した。虚偽の申告や供述で再三の言い逃れを続けてきた経緯に論点を置き、被告人の供述の不自然さを示して、チョコレート缶の中身が違法薬物であることを知りえたからこその隠蔽工作だと印象付けた。

小倉正三裁判長は「被告は虚偽の供述が捜査状況により通用しなくなると、供述を変遷させ、嘘の話をつくっており弁解は信用しがたい」と一審判決を事実誤認と判断し、逆転有罪判決を下した。

出廷しなかった被告人は弁護士を通じて「裁判員の判断を受け入れなかったことは大変残念」とコメントし、上告した。

 

■三審

一審は直接主義・口頭主義の原則が採られ、証人の証言や態度も踏まえて供述の信用性が判断される。控訴審が一審判決を事実誤認として破棄する場合、その不合理性を具体的に示さねばならない。

最高裁は、裁判員裁判によって直接主義・口頭主義が徹底された一審判決をより重視する立場をとった。検察側が行った主張は「間接事実」の積み重ねによる推認であり、一審で認められた被告人の主張・弁解の信用性を否定する証明の力は「弱い」との見方を示した。

 

二審で検察側は、被告が覚せい剤密輸に関知していないのであれば、自らカラミ・ダボットに事情を聞くように言うのではないか、彼との関係を隠していたのは覚せい剤密輸が故意によるためだと主張した。たしかに別の覚せい剤密輸事件で公判中のダボットとのつながりは、被告人が故意に密輸に係わっていたことを疑わせる事情である。だが安西さんはダボットが覚せい剤絡みで裁判をしていることを認識していた。取調官に彼との関係を伝えるのは自己の利益にならない、却って疑いが強まってしまうと考えて秘匿したとしてもおかしくはない。

またチョコレート缶に違法薬物が封入されている可能性に一抹の不安を覚え、テープの封を切って中を確かめることが物理的には可能だったとはいえ、他人への土産物として預かった以上は開封できる立場にはない。

さらに「隠匿すべき」偽造旅券の入ったビニール包みについてはバッグの奥に入れて持ち運び、捜査員の求めに対して一度は開披を拒んでおり、「中身について関知していなかった」チョコレート缶の検査には素直に応じていることも決して「不合理な行動」には当たらない。

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2012年2月13日、最高裁第一小法廷は原判決(二審の有罪判決)を破棄し、一審の全面無罪判決が確定する。

白木勇裁判官は補足意見として、従来の控訴審の実務として一審の出した量刑を変更することが多かったとし、本件の第二審においても自らの心証から事実認定・量刑審査をやり直す手法を採ったと解されるが、裁判員制度においてはそうした手法も改める必要があるとしている。

裁判員の様々な視点や感覚を反映させた判断になるため、ある程度の幅を持った認定、量刑判断が許容されなければ無理強いになってしまうだけで裁判員制度は成り立たない。第一審の判断が、論理則、経験則に照らして不合理なものでない限り、許容範囲内のものと考える姿勢を持つことが重要だと指摘している。

 

■所感

裁判員裁判の導入によって、覚せい剤密輸事件は従来とは比べようもないペースで「無罪判決」が言い渡された。皮肉なことだが、裁判員裁判が「無罪」とみなすおかげで密輸しやすい環境が保護されてしまったのである。

違法薬物密輸事件が無罪とされやすい、有罪を得にくい事情もいくつかある。

ひとつはこの事件がひとつの前例として踏襲されていること。

ふたつめには薬物犯罪、とりわけ密輸について一般市民はなじみがなく、ほとんど実情を知らないこと。覚せい剤密輸は最高刑で無期懲役ともなる重罪である。無罪から無期の間で予備知識に乏しい一般市民が議論する労力、さらに判決によって被告人の人生を大きく左右する負担感は尋常ではない。個々の裁判員を非難するつもりは毛頭ないが、無責任に重罪を下せない一種の防衛反応として重責を回避する選択に傾くのではないか。

みっつめは直接証拠が得にくいこと。関係者が海外に居れば証人に呼ぶことも難しく、捜査権が大きなネックとなり、調査にも国内事案よりはるかに労力を要する。組織犯罪の割合が多く、その場合、通信機器や指紋といった有力証拠は当然処分されている。それゆえ輸送を依頼されたが中身は知らなかった「言い逃れ」事案も踏襲されるのである。

 

裁判に民意が反映されることは悪いことではない。だがいたちごっこと知った上でも、こうした状況をむざむざ維持することは国民の不利益につながる。市民側の裁判員に向けた自助努力も必要ではあるが、裁判員裁判の対象範囲や運用の見直しも新たな課題となっている。

 

弁護士小森榮の薬物問題ノート

■2010年6月23日、毎日新聞

「違法な検査」と無罪判決 覚醒剤密輸事件で千葉地裁 - 産経ニュース(H30)

裁判員裁判で検察が初の控訴へ 覚せい剤密輸無罪判決: 日本経済新聞(H22)

心理負担多い密輸審理 無罪から無期“振れ”大きく 【検証 裁判員制度10年】 第2部千葉の現場から (1)「成田事件」 | 千葉日報オンライン

裁判例結果詳細 | 裁判所 - Courts in Japan