免田事件について

熊本県で起きた一家四人殺人事件で犯人とされた免田栄さんが2020年に亡くなった(享年95)。死刑を言い渡され、獄中から34年間にわたって無実を訴えながら再審請求を続け、6度目にして晴れて無罪判決を得た。

自由社会に帰ってきました」「浦島太郎になった気がします」

死刑台からの生還者として“自由”を取り戻した免田さんは、刑事司法のあり方や死刑制度の廃止についての講演活動、袴田事件はじめ冤罪が疑われる事件の再審支援などを続けながら、福岡県大牟田の炭鉱町で余生を送った。

死刑囚の再審無罪という歴史的転機を生き抜いた免田さんの半生と彼の人生を狂わせた事件について記す。

 

■事件概要

1948(昭和23)年12月29日深夜から30日未明にかけて、熊本県人吉市北泉田町の民家で一家4人が殺傷される強盗殺人事件が起きた。30日3時20分頃、歳末で夜警の見回りに出ていた次男らが家の前を通りがかると、母屋からうめき声が聞こえて異変に気付いた。

 

家は祈祷師を生業としており、白福角蔵さん(76)は咽頭部を刃物で刺されたほか、合わせて10カ所を滅多打ちにされ、頭部割創による脳挫滅および失血のため即死。妻トギエさん(52)も頭部7カ所を割られており、発見時には存命だったものの明け方に息を引き取った。長女イツ子さん(14)、二女ムツ子さん(12)は一命を取り留めたものの、同じく頭部に打撃を受けて1カ月以上の重傷を負った。

家族が寝ていた8畳間はまさしく血の海と化しており、角蔵さんの遺体脇には首を刺したとみられる折れ曲がった刺身包丁が落ちていたが、頭部を叩き割るのに使用された凶器は発見されなかった。盗品被害ははっきりしておらず部屋のタンス類に物色された痕跡があったが、包丁以外の遺留品や犯人の指紋などは検出されなかった。

 

二女ムツ子さんの証言によれば、犯人は年齢20~30歳ぐらいの若い男、国民服を着た長髪で、色黒な中背体型とされた。窃盗状況は判然とせず、2種類の凶器を用いて夫婦を執拗に襲った残虐すぎる手口から、人吉市警の捜査班では怨恨の線を念頭に捜査を行い、周囲の人間関係を洗ったが容疑者はすぐには浮上してこなかった。

 

熊本県南部、九州山地に囲まれた播磨地方の主要都市である人吉市は、古くから温泉地として知られ、播磨川に沿う湯前線熊本県八代~鹿児島県霧島を結ぶ縦貫鉄道肥薩線えびの高原線)が交わる九州南部の交通の要衝として栄えた。

戦中には川辺川東岸に海軍航空隊の基地がつくられ県内唯一となる全長1500m幅50mのコンクリート滑走路が敷かれ、若い兵隊たちが集められた(現在は錦町にその遺構や九三式中間練習機「あかとんぼ」等を展示する「にしきひみつ基地ミュージアム」がある)。

戦後の混乱期にあっては、鹿児島、宮崎から闇物資が流れ集まる中継地とされるなど人の出入りが多い地域であった。

 

年が明けて、現場から16キロ離れた免田村に住む男の情報が捜査班にもたらされた。調べを進めると事件当時、男は人吉市内に居り、年齢、服装、体格が目撃情報と合致していた上、その後、家から寝具を持ち出して山奥に出掛けていた。

1949年1月13日、播磨郡一勝地村にある山小屋へ警官隊を送り込み、木の伐採のために寝泊まりしていた免田栄さん(当時23)にピストルを突きつけて強制連行。当初は12月26日頃に山に入って以来、人吉市方面に降りたことはない等と話したがいずれも虚偽と確認される。免田村内での玄米一俵と籾7俵の2件の窃盗について自白したため緊急逮捕し、半日後には「祈祷師殺し」の聴取が開始される。だが免田さんは一家殺傷の嫌疑については一貫して否認した。

 

■警察組織について

捜査本部が置かれた人吉市警は、戦後の旧警察法で定められた「自治体警察」のひとつ。現代ではなじみがないため、ここで明治期から戦後の警察組織についておおまかに触れておく。

 

明治維新の後、薩摩藩士族を中心に各藩から選抜された邏卒(らそつ)と呼ばれる藩兵が組織されて東京府の治安維持に当たったが、廃藩置県に伴ってそれも廃止が決定する。先立って旧薩摩藩川路利良がフランスなど欧州各国の警察制度を視察・調査し、1874(明治7)年に警視庁が設立される。

川路は初代大警視(警視総監)に就き、「警察官ハ眠ル事ナク安坐スル事ナク晝夜企足シテ怠タラザルベシ」なる警察の心得を記した『警察主眼』を著し、「日本警察の父」と呼ばれた。設立当初は明治政権直属の武力として内乱の鎮圧に主軸が置かれたが、次第にその目的を治安維持の色に変えていった。首都警察たる警視庁に倣い、各都道府県でも直属に地方警察が配置されることとなる。

 

1881(明治14)年、帝国陸軍の下に憲兵が組織される。軍隊内における警察業務のほか、治安維持や要人警護、防諜任務など行政警察司法警察の職務も兼ねていた。大正期には民権運動や社会主義者など民間人への思想取締り、昭和期には軍の拡大によって朝鮮半島満州など占領地での治安維持や諜報任務、大戦末期には全国の市町村に配置され国家総動員体制を維持する役割も担った。終戦時の憲兵兵力はおよそ36000人とされ、家業を継ぐ者、全く別の職種に就く者が多かったが、その技能を活かして警察へと転じる者も少なくなかった。

1938年、張鼓峰事件でソ連労農赤軍捕虜と映る憲兵上等兵Wikipedia

間接統治を敷いたGHQは日本の警察を「天皇制維持を目的とした非民主的な組織」と糾弾して組織改革を迫り、治安維持法廃止や特高特別高等警察)解体を推進した。中央集権的な警察組織が見直され、アメリカの保安官制度に倣った自治体警察が人口5000人以上の市町村に設置し、その管理を民間人による公安委員会に委託した。この改革は、戦前・戦中の警察組織が一部軍閥や政党の利益や目的のために利用されていたことも背景とされる。

しかし戦後の混乱期にあって都市部の犯罪は増加しており、自治体にとってもその経費負担は甚大なもので人員や物資も不足しており、大都市を除けば署員10数名の小規模定員で広域犯罪には対応できない。また少数、地域密着であるがゆえに地元有力者や暴力団などとの癒着が生じやすい側面もあった。

 

1948年、市警管轄外を担当する国家地方警察が組織される。各地で頻発する労働ストライキ共産党に対する公安業務のため、非常時の警察統合権や施設管理権を握っており、財政余力もなく施設や物資に乏しい自治警よりも実質的に優位な立場であった。本事件の「祈祷師殺し」があったのはちょうど自治警と国警が並立されていた時期に当たる。

1950年、朝鮮戦争を機に自衛隊の前身となる警察予備隊が発足され、GHQに代わって国内の治安維持警察の役割を担うこととなる。当初、その任の多くは国家地方警察が代行していた。

 

地域によって自治警と国警の管轄範囲が重複するなど現場での影響も大きく、1951年には自治警の廃統合が認められ、1300以上あった町村警察のうち1000以上が廃止された。1952年、サンフランシスコ講和条約により日本政府が主権を回復。1954年の新警察法成立により国家地方警察と自治体警察は一本化され、警察庁と警視庁、道府県警による中央集権的な現行の警察組織に再編成されることとなる。

 

■裁判

1949年1月16日、免田さんは一度釈放が認められるも、三日三晩の過酷な取り調べからようやく解放されたと思ったのも束の間、即日改めて強盗殺人の容疑で緊急逮捕されて心が折れ、「祈祷師殺し」を全面自供した。

人吉署の仮庁舎には留置施設すらなく、取調べの間は睡眠や食事はろくに与えられていなかった。アリバイを主張すれば取調官に蹴り飛ばされたり警棒で殴られたりといった暴行や恐喝以外にも、極寒の中でシャツ一枚にされて凍えて言葉も発せない拷問状態に置かれていた、と後に免田さんは語っている。朦朧とする意識の中、警察が指示する筋書きに沿うように、ああではないかこうではないかとあらぬ供述を重ねていった。

同28日、住居侵入、強盗殺人、同未遂で起訴され、翌2月には熊本地裁八代支部で公判が開始される。

 

公訴事実によれば、48年12月、家業の畑仕事を嫌っていた免田さんは家族との折り合いも悪く、妻からも離縁を突きつけられて行く末に窮していた。家出のために実父の馬を売り払って4000円を得ると、29日、山林伐採の職を得ようと山鉈や作業着を携えて18時半頃の終列車で播磨郡一勝地村那良口の知人宅へ向かった。だが列車内で人吉市中青井町にある旅館兼飲み屋「孔雀荘」の女中に出会って飲食代のツケを請求されて支払うこととなり、残金が心もとなくなったため、辻強盗で金を得ようと通行人を物色した。適当な相手が見つからず、祈祷師として繁盛し金回りが良いと聞き知っていた被害者宅に山鉈を持って押し入り、物色中に家人に気付かれたため犯行に及んだものとされた。

12月29

18時28分、免田駅発人吉駅行きの列車に乗車

19時10分頃、人吉駅着。近くの飲食店で上着と荷物を預ける。

20時頃、孔雀荘で飲食後、風呂などに立ち寄る。

22時頃、辻強盗のため駒井田町の特飲街から中学校通りを徘徊。

23時30分頃、白福方へ侵入。犯行に及ぶ。

12月30

犯行後、東行して東人吉駅前、願成寺町を経て、旧人吉航空隊高原飛行場跡地に至り、開墾地に鉈を埋める。

5時頃、更に東進して実家のある免田村、木上町(現錦町)、深田村の境界にある「ぬつごう(六江川?)」と呼ばれる小川で着衣を洗う。

(家族らは、29日から1月9日まで免田さんが一度も帰宅していないと証言)

10~11時頃、人吉市の飲食店に戻り、預けていた荷物を引き取る。

人吉城址で17時頃まで休息する。

免田さんは起訴内容を概ね認めたが、殺意は否認。しかし第二回公判でアリバイの存在について言及、第三回公判では拷問による自白であると主張し、犯行について全面的に否認に転じた。

 

事件当初、被害者の頭部を滅多打ちした凶器は何が使われたのかはっきりしていなかったが、取調べの中で免田さんは「鉈を用いた」と自供し、知人宅で押収された山鉈に被害者3名(夫、妻、二女)と同じO型血痕が付着していた、とする警察鑑定が証拠として採用されていた。押収された免田さんの紺色の法被(半纏)、国防服、薄茶色の毛糸チョッキ、白色絹マフラー、地下足袋、軍隊手袋、褐色の羅紗ズボンといった所持衣類に血痕こそ認められなかったものの逃走中に「六江川」で洗ったとする「自白」もあった。

免田さんは、12月29日の事件当夜のアリバイについて、「孔雀荘」でツケを支払った後、同市駒井田町の特殊飲食店「丸駒」で接客婦石村文子さんと同衾していたと主張していた(特殊飲食店とは1946年公娼制度廃止から1957年の売春防止法施行にかけて売春婦を置いていた店、遊郭、赤線のこと)。しかし当の石村さんの証言には曖昧な面があり、泊まったのが事件のあった29日か翌30日のことか明確にならなかった。最終的に検察側の「30日丸駒泊」の言い分が採用され、免田さんのアリバイは失われてしまう。

それまでの「自白」や発見された凶器が重視され、1950年2月、死刑判決を下される。

 

1951年3月、福岡高裁は控訴棄却。12月、最高裁は上告棄却。死刑が確定し、以後30余年に渡る長い再審闘争が続くこととなる。

1952年6月の第一次再審請求、1953年2月の第二次再審請求は共に棄却。

1954年5月に行った第三次再審請求で熊本地裁八代支部・西辻孝吉裁判長は新鑑定を実施するなど積極的な審理を行い、1956年8月にアリバイ主張を認めて再審決定を下す。しかし検察側の即時抗告(不服申し立て)を受けて、福岡高裁は再審決定を取り消し、請求を棄却。最高裁もそれに追認する決定を下し、開きかけたかに思えた再審の「開かずの扉」は再び閉ざされてしまう。

1961年12月の第4次再審請求、1964年10月の第5次再審請求は共に棄却。

 

1968年4月、ジャーナリスト、婦人運動家でもあった社会党・神近市子衆議院議員が再審特例法案を提出。この法案は主に1945~52年にGHQ統治下で行われた裁判に光を当てたもので、手続きの公正さが不明瞭であること、新刑事訴訟法の施行前後で「自白偏重」が抜けきらない弊害から人権擁護上の問題があったこと、物的証拠がなく未執行死刑囚に無実を主張する者が多いこと等から再審を規定する内容であったが廃案とされる。

しかし法案提出を契機として、西郷吉之助法務大臣は「福岡事件」「帝銀事件」「市川賭博仲間殺人」「菅野村強盗殺人放火」「免田事件」「財田川事件」の6事件7人の未執行死刑囚の恩赦を検討するとし、翌69年に菅野村事件で戦後初の女性死刑囚となった山本宏子が無期懲役減刑された(山本は53年から拘禁による精神疾患が発症しており、人道的観点からの治療措置のための減刑ともいわれている)。

 

1972年4月の第6次再審請求は、76年4月に熊本地裁が請求を棄却する。しかし事件からおよそ30年後となる79年9月に至り、福岡高裁は再審開始の判断を下す。

それまでの「自白」の信用性そのものが低下したことや犯行後の足取り、検察側の「アリバイ崩し」証明の不明瞭さ、「凶器」とされた山鉈についての疑義などが理由とされる(後述)。

1980年12月、検察側は特別抗告を行うも最高裁はこれを棄却し、再審開始が確定する。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/563/023563_hanrei.pdf

 

■白鳥決定

1975年5月20日、固く閉ざされてきた再審裁判の「門戸」を開く重要な決定が下される。白鳥事件における「白鳥決定」である。

 

事件は1952年1月21日19時40分頃、札幌市警の警備課長白鳥一雄警部(36)が自転車で帰宅途中に何者かに背後から銃撃されて死亡したものである。白鳥警部は戦中、特高の外事係として活動し、戦後も公安として左翼監視、在日朝鮮人の密貿易や風俗営業の取締りを行っていた。48年3月に札幌市警に転任し、市内で催された原爆図の展覧会を「占領軍の指示」だとして中断させたほか、共産党員の検挙や運動弾圧をしたとして党関係者から敵視されていた。

中華人民共和国の建国、さらには朝鮮戦争と共産勢力の東アジア情勢は活発化していた。ソビエト連邦と接する北海道の中心都市札幌では、国警と市警のほか、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)や地元裏社会が反目や協力をしあいながら情報収集が行われており、白鳥警部もそうした渦中にあったとされる。前年に日米安保条約に署名し、アメリカから「反共」「レッドパージ」を託されていた吉田茂首相は、施政方針演説で「共産分子の破壊活動」に憂慮を示し、52年4月に破壊活動防止法を制定させた。

(※戦後GHQによる民主化への対抗運動としてデモや労働争議の動きが活発化した。これに対し、労組や共産党勢力の封じ込めを目的とした規制強化、警察力や軍備増強が行われた。国鉄三大ミステリーとも呼ばれる下山・三鷹松川事件のほか、青梅事件、辰野事件、菅生事件などでは反共プロパガンダ工作の疑いがもたれている。公職追放の解除、A級戦犯らの減刑などの動きと合わせて、そうした思想統制や弾圧は「逆コース」と称される。)

 

捜査当局は札幌の共産党が関連したとの情報を得、裏付けを進めた結果、地下軍事委員会・村上国治が北大学生らを指揮したグループ・中核自衛隊による犯行と断定し、10月に逮捕。村上は首謀者とされたが終始無実を主張。犯行に使用された32口径ブローニング拳銃は発見されなかったものの、中核自衛隊で銃器の製造研究が行われていたことや2年前の射撃訓練で使用した弾丸の線状痕が事件で用いられたものと一致するとして証拠採用された。

(※弾丸側面に刻まれる銃身の溝の発射痕を「線状痕」と呼ぶ。鑑定により銃器の特定などに用いられ「銃の指紋」等と言われることもある。しかし、廉価コピー品の流通、銃身の交換や改造、使用による変化や経年による腐食など、「指紋」のように形状に同一性が保たれるものではなく、厳密な個体識別は困難との指摘もある。)

 

1957年の一審で無期懲役の有罪判決、60年の二審では懲役20年の有罪判決となり、63年に上告が棄却され、村上は網走刑務所に収監された。

日本共産党は公式には事件への関与を否定。50年代前半には闘争路線を敷いてきたが1955年に極左冒険主義を戒める自己批判を宣言。冤罪キャンペーンを展開して白鳥事件の再審を支援した。村上は囚人の処遇改善運動を行うなどし、65年に再審請求、69年11月に仮出獄が認められ、その後も最高裁判所への特別抗告まで争った。

そもそも事件関与の決め手とされたのは元党員たちの証言であった。公安警察による共産党への締め付け、さらに党内部での厳しい規律統制や「査問」の恐怖から、脱党した者や転向者もいた。そうした元党員らの供述には疑惑がもたれ、結果として冤罪や謀略説への呼び水となった。作家松本清張が『日本の黒い霧』(1960)において村上を冤罪とする立場をとり、CICによる謀略説を主張したことでも知られている。

 

1975年5月20日最高裁は村上の特別抗告を棄却するが、再審開始は「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用され、「確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる」ものとする判断基準を示した。

それまで無罪を確定しうるに足る新証拠がなければ再審を行わないとする厳格な適用資格が踏襲されてきたが、それに比べれば緩和された条件が明文化されたことで再審裁判が活性化し、その後の四大死刑冤罪(免田・財田川・松山・島田事件)につながる。

chikyuza.net

村上が弁護士を通じて実行犯ら3名を国外逃亡させるように指示した文書が事件関与の証拠として採用されており、今日ではかつての実行グループメンバーも殺害計画は事実であると証言している。

狙撃手とされた佐藤博ら逃亡犯2名は1988年に病死。釈放後の村上は日本国民救援会副会長を務めるなどしたが自転車窃盗により解任され、94年に埼玉の自宅で火災に遭って亡くなった。亡命グループ最後の生き残りとなった鶴田倫也は北京外国語大学で教鞭をとるなどした後、事件から60年後の2012年に真相を明かさないまま亡くなり、遺言によって天津沖で散骨された。

 

■逆転無罪

1983年7月15日、熊本地裁八代支部・河上元康裁判長は「全証拠を検討した結果、被告人にはアリバイがあるとの結論に達した」とそれまでの事実認定を覆し、無罪判決を下した。

 

当時、裁判長を務めた河上元康さんは、2022年3月放映のNHK事件ドキュメンタリ『ストーリーズ 事件の涙』で当時のことをこう振り返っている。

「徹底的に(物証を)見直した。しかしね、(免田さんの)アリバイの証拠は全部一審で出ていた。ぞっとしましたよ、それを見て。僕は新しい証拠を調べた訳ではない」

 

あやふやな証人

免田さんの証言では、汽車で行ける那良口駅から知人の住む一勝地村まで四里半歩かねばならないため、そもそもは29日午前の汽車に乗るつもりであったとされる。しかし乗り逃して18時半の終列車で向かうこととなり、到着が遅くなることから人吉市内で一泊して翌朝発とうと考えた。列車で「孔雀荘」の女中と鉢合わせ、店へと足を運んでツケの支払いを済ませたが、混雑していてそこでは宿泊できなかったため「丸駒」に登楼したのだという。

コメ三升と作業着は持参していたが「凶器」とされた山鉈はそのとき携帯しておらず、29日夜に人吉駅に着いてすぐに食堂で荷物として預けた。30日8時半頃に丸駒を出て、荷物を引き取り、その日は一勝地村の知人の許で世話になった、と述べていた。

 

しかしアリバイ証人となるべき「丸駒」の接客婦・石村文子さんは多忙極める年の瀬のこと日時の記憶が曖昧だった。捜査当局の「(被告本人が)30日に会ったと言っている」等の誘導尋問に押され、来店日を事件翌日にずらされてしまったとみられている。

代金について免田さんは宿泊代と果物代合わせて1100円を渡したとしていた。石村さんはと言えば「上ってからすぐ1100円払われました」「帳面に、30日あやしみ1100円と書いてあった」(1949年3月一審2回公判)との証言以外にも、「1100円もらい、チップとして300円を取った残り800円を帳場に渡した」「帳面には金額800円と書いてあるのを見た」(同49年7月の5回公判)、「平素800円の料金だが正月だから色を付けてくれるよう頼むと、後からチップとして300円もらえた」(49年1月24日調書)、「身代として1100円、私にチップとして200円やりました」(54年12月証言)、「1200円もらって800円を帳場へ出し、400円でうどんや果物を買った」(再審3回公判)などと二転三転させている(再審では、石村さんが玉代から金をくすねていたことを明かしたくない心理もあるのではないかと指摘されている)。

尚、丸駒亭主の手帳には「29日800円、30日700円」と記載されており、石村さんが見たとする「30日(あやしみ)1100円」を記した帳簿は発見されていない。石村さんは「(30日の殺傷事件を聞き知っていた)同僚から、今夜のお客さんは何かそわそわして落ち着きがない、と注意を受けていた」ため帳簿に「あやしみ」と記してあったのだと思うと述べ、「31日に進駐軍の相手で鍋屋旅館に泊まった、(免田さんは)その前日に泊まった」といった尤もらしい証言も残しているが、丸駒の同僚らはそれらを否定、鍋屋旅館に該当するような進駐軍の宿泊履歴は確認されなかった。

 

石村さんは当時まだ16歳で年を偽って特飲店で働いており、警察に少なからず立場的な「負い目」があった。また裁判記録には彼女が小5で退学していること、知能程度や記憶力が低い旨が記されている。丸駒の亭主は「記憶の前後が混乱することがあり、時々興奮してカッとなり、後で何を言ったか分からぬことがある」と証言しており、おそらく彼女は知的障害、今でいうボーダー(境界知能・軽度の知的障害)などと類推される。湖東記念病院点滴事件(2003年)を例に挙げるまでもなく、警察がそうした証人の隙にうまく付け入り、証言を都合よく歪めてしまうことなど造作もないことに思える。

 

・山鉈と血液鑑定

「凶器」とされた山鉈と刺身包丁は、再審決定時には「いずれも所在不明」となっていた。上述のように警察機構の動乱の時期でもあり管理体制が杜撰だったためかは分からないが、証拠としての再提出を免れるための画策との疑惑も持たれている。

山鉈の形状について、発見されたものは薪割りの際に刃を傷めないよう先端に小さな突起が付いていたが、被害者の割創にはその特徴を有する損傷は認められなかった。

刃先イメージ

NHK『ストーリーズ』では免田さんが遺した自筆の手紙や裁判資料を取り上げている。当初は平仮名とカタカナ、誤字当て字が入り混じって解読も困難だったが、獄中で辞書を要望して次第に文字や文章も上達していったとされる。時期こそ異なるが、再逮捕や獄中での文字の獲得などは狭山事件(1963年)の石川一雄さんと重なる部分も多い。

免田さんは裁判記録を取り寄せて何百ページにも渡って書き写していた。死刑執行の恐怖に震えながらも、なぜ自分が死刑にならなければならなかったのかを模索し、再審開始を願いながらひたすらに挽回を期した獄中の日々を想起させる。写しの横には赤文字で疑問や矛盾点などを逐一指摘しており、凶器の「鉈」と記載されている箇所には、「ピストル」「日本刀」「棒きれ」「角材」「斧」等と変遷していき最終的に「鉈」が採用されたとする誘導尋問の経緯までもが細かく記されていた。

 

免田さんによれば、12月29日に丸駒、30日に一勝地村の知人宅で一泊した後もしばらく自宅には帰らず、方々の家を泊まり歩いて手伝い仕事などをしていた。オーバーコートやズボンなどを抵当にして金を借りてはすぐに飲み代などに使っており、31日以降の宿泊や質入れなどに関しては事実確認されている。山鉈は年が明けて49年1月9日に一度実家に戻って山仕事の支度として布団などの荷物と共に持ち出したものだと証言したが、客観的な裏付けは取れなかった。

「自白」では、犯行直後に東へ逃走し、川辺川を渡って高原(たかんばら)の旧日本軍滑走路付近の土中に山鉈を埋めたことになっていたが、証言とは食い違い、実際には一勝地村の知人宅から発見された。そのため警察側は、年が明けて山仕事での必要から1月10日頃になって掘り返したものとこじつけた。

 

血痕の有無を調べるルミノール試薬を用いた血液反応検査は、ABO型研究や法医解剖の権威として後に科学警察研究所所長を務めた古畑種基教授により1937年に新潟の家庭内殺人ではじめて導入されて以来、科学捜査の手法としてすでに知られていた(ルミノール試薬による検証は、同時期の下山事件などにも用いられている)。「川で洗い流した」だけで着衣や山鉈の「刃」に血液が認められなかったと断定された審理は不可解極まりない。

一家四人を22回にもわたって殴りつけた「凶器」にも関わらず、血痕が認められたのは「柄」の部分に「米粒大の半分」「粟粒大」とされるわずか数滴ばかり。血液鑑定は人吉市警から国家地方警察熊本県本部に依頼されたが、事件からすでに20日以上経っており「自白」によれば土中に埋められ保存状態もよくない微量の検体であるから、精確な鑑定を下すのは容易な仕事ではない。

それにも拘らず、市警の鑑識係の証言によれば検体提出からわずか半日足らずで鑑定結果を通達されたと証言し、(被害者3人と同じ)O型と結論されていた。検証の結果、当時の技術で精密な血液鑑定を導くには最低26時間以上は必要とされたはずで時間的に矛盾することが指摘され、不十分な鑑定だった可能性が高いとして証拠としての信用性に乏しいことが認められた。

 

・半仁田証言

再審で検察側は、免田さんの父・榮策さんの知人である半仁田秋義さんを証人として「アリバイ崩し(29日犯行、30日登楼説)」の筋書きを補強しようとした。

一審で検察側は、犯行後に免田村へ戻ったとする逃走ルートを主張したが、免田さんの家族は12月29日に家を出て以来、1月9日に夜具を取りに来るまで一度も戻っていないと証言していた。双方の言い分が正しければ、実家近くまで逃げ戻ったが立ち寄ることはできず再び事件を起こした人吉市へと舞い戻ったことになり、不可解な逃走経路には疑問がもたれていた。そこに事件から33年後「30日に実家で免田さんを見た」とする新証人が現れたのである。

半仁田さんは、事件発生直後の30日6時半頃に免田さんの実家を訪れた。「12月30日、朝の天気はいい天気」で「非常に寒く霜は若干下りていた」。半仁田さんが外から大きな声で呼び掛けると中から「半仁田さんじゃろう」と免田さんが応えたという。半仁田さんは「昭和23年10月末頃」に免田さんの父・榮策さんから「農耕用の馬車も引けるような馬」を注文されて親交があったと言い、馬の代金は「1万4000円か1万5000円」と当時のことを詳しく記憶していた。

そのときずぶ濡れの法被を着て、放心状態で竈に抱き着くような異様な姿で暖をとる免田さんを目撃したという。そう証言する態度は落ち着いており、「田んぼか何かで足を取られて転んだように泥まみれだった」と臨場感を持って述べ、厳寒期のことで強く印象に残っているというのも頷ける内容であった。居間へ通されて、榮策さんと一時間ほど一緒に「豚肉を肴に焼酎を四、五合」飲み交わしたと証言する。しかしその間、一般的な農家では朝食の支度をする時間帯だが、他の家族は一度も顔を見せず、物音ひとつしなかったと述べる。

 

この証言をもって検察は原審で主張した逃走経路を改め、免田さんは実家に立ち寄って着替えたため着衣から血痕が検出されなかったとする「着替え説」を展開した。

当初の免田さんの「自白」では「法被(半纏)」を着用していたとされ、前述のように押収品の中にも含まれていたが、血痕は検出されなかった。犯行現場から着衣を洗ったとされる「六江川」付近までおよそ3時間前後の道程である。逃走開始が30日0時頃とすれば3時前後の到着が見込まれるものの、「自白」では「朝方5時頃」とされている。疲労や暗闇での難渋を考慮しても逃亡者はとかく気が急くものが通常に思えるがあまりにも悠長な行動に思える。さらに日の出時刻は6時45分であり、真っ暗闇の中で付着した血痕をまっさらに洗い上げるなど到底不可能と言わざるを得ない。それと聞くと着替え説にも説得力があるように思える。

だが免田さんは29日夜に人吉市に着いてから翌30日午前にかけて飲食店に荷物として上着やコメ3升を預けたままになっており、犯行時刻に自身の「法被」を着用することは不可能だったと認定される。そうなると話しは一転して30日早朝に「ずぶ濡れの法被」を着ていたという半仁田証言は事実と矛盾する。犯行時や逃走時に着ているはずのない「法被」は、検察側の得た「自白」になぞって無理矢理持ち出された発言と考えられる。

 

これまで半仁田さんが証言を回避していた理由について、再審公判においては、埼玉に移り住んで勤め働きが忙しく長らく「新聞を読むこともなかった」が、退職して1981年4月に再審に伴って移送された記事を読んで、自分が見たことを話す気になったと述べた。

しかし出廷前の6月に検察官に証言した際には、「私なりに事件のことが気になり、榮が死刑判決確定後も何度か再審請求をしていることを新聞記事等で読んでわかっていましたが、私の体験に照らし、榮が犯人であると思っていたので、まさか再審が開始されるとは思ってもいませんでした。ところがこの度再審開始が確定して、裁判のやり直しが始まることを新聞やテレビで知り、私の目撃状況に照らせば榮が犯人であると思っていたので…」と以前から事件を注視していたことを話していた。

判決文では、検察官の言を借り、33年前の出来事に関して「枝葉末節部分について、あまりに詳細に記憶しすぎているのではないか」と疑問視され、却って「作為すら感じられるところ」と指摘している。事実、事件に関する証言は表現力に富み精緻に語られたが、半仁田さん本人が復員した時期や人吉から埼玉へと移り住んだ時期など事件前後の自身の事柄についてはむしろ記憶が曖昧だった。かつて免田さん方に出入りしたことがあったかもしれない心証を抱かせるものではあるが、秘密性のある(報道されていない)事実が含まれていないこと、すでに榮策さんが亡くなっていることもあって裏付けができない「危険な供述証拠」との見解から不採用とされた。

 

裁判所は(幻となった)三次再審決定を除き、「アリバイなし」の決定的証拠としてほとんどの面で「供述」に依拠してきたことを危惧した。供述は直接証拠ではあるが、記憶はだれしも移ろいやすく、その裏付けも難しく、証言の事実認定、どちらの言い分が真か偽かの判断は水掛け論に陥りやすい。そこで河上裁判長らは、各証人から得られた供述を物証と再度照らし合わせて免田さんの正月前後の行動履歴を徹底的に洗い直した。

29日に泊まったとする「丸駒」の出納簿などを見直しても、石村証言の「あやしみ」記載はなく、免田さんの宿泊日は判然としなかった。また免田さんが30日に訪れたとする一勝地村の知人も、年末に一晩泊めたことを記憶していたがやはり日付がはっきりせず12月25,26,30日と証言を変転させていた。しかし同人は証言内で「(免田さんが訪れたのと)同じ日にコメの配給を受け取った」と繰り返していた。認知記憶の性質として正確な日時で把握していなくても「○○したときに□□と会った」というような他の行動や出来事と結びつけての記憶は確証性が高いものとみなされる。当時の配給台帳等を照合し、23日と30日の配給事実が確認され、他の日の行動履歴や移動証明書の交付が28日であること等と照らし合わせた結果、一勝地村での宿泊が30日だったことが証明された。

供述という、揺らぎやすい「危険な証拠」に囚われることなく、物証主義が貫徹されたことで客観的にアリバイが証明され、当局は犯罪立証のために強引な「アリバイ崩し」が明るみとなる。判決文では「四人を殺傷し深夜一〇数キロを逃走して我が家のそばに至りながら家にも寄らず、体力を消耗していると思われるのに警戒のきびしい犯罪地の人吉市までそのまま歩き通し、人吉城趾で夜までぶらぶら時間をつぶしたということの不自然不合理さは検察官をして三三年目の証人半仁田秋義を法廷に立たしめ、その冒陳を修正せしめるほどのものがあったのではないか」と苦言を呈している。

 

・犯行時刻

解剖所見で角蔵さんの死亡は「食後経過時間4時間前後」とされており、屍体検案書によれば29日23時と推定されていた。免田さんの「自白」では「白福方に着いたのは午後十一時から十二時迄の間と思いますが時計を持って居ませんでしたから正確な時刻は判りません」という供述のみである。検察側は23~24時の間の犯行と推定した。

しかし二女ムツ子さんの証言によれば、21時半に就寝したとき父・角蔵さんはアンコを食べていたという。これを「食後経過時間4時間前後」と照らし合わせると、死亡推定時刻は30日1時30分頃以降までずれ込むことになる。

第一発見者の二男らが異変に気付いたのは二度目に自宅前を通った3時20分頃で、母屋からウーンウーンとうめき声が聞こえて事件が発覚した。通報は3時30分と40分に2回記録されており、この点は動かしがたい明白な事実である。だが一度目に自宅前を通りがかった30日1時30分~2時15分にも同じように外から様子を窺ったが、その際に異変はなかったという。

うめき声をあげていた長女イツ子さんの証言によれば、夜警が近づいてくる足音に気付いて声をあげたとされ、兄が来たときには襲われてから何時間も経っていたとは思われない。一審の検察側は被害女児の証言をショック状態で信用性がおけないものと一蹴したが、当時の医師は「脳実質や骨には異常はなく、大体応答できました」と述べており、意識に別状はなかったと考えられる。つまりは免田さんの「自白」抜きで考えた場合、実際の犯行は「23~24時」よりもっと後、二男の見回り一周目と二周目の間である「2~3時」頃の間に起きたと考える方が自然だと裁判長は指摘している。

さらに「時計を持っていなかった」はずの免田さんは年明けに「時計」を質入れして金を借り受けた事実が確認されており、電車の乗降のあった29日夜にも当然身につけていたと考えるべきである。しかして「自白」の信用性は高いとは言えず、「29日丸駒泊」のアリバイが証明されて、免田さんの無実が認められることとなる。

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■自由

出所後の免田さんは獄中で教誨師として知り合った潮谷総一郎さんを頼って熊本市の慈愛園に身を寄せた。文字通りの「戦後」だった逮捕当時から高度成長を経て、世の中はひともモノも大きく様変わりしていた。社会人としての感覚を取り戻すまでに時間がかかり、人付き合いや金の使い方で身を持ち崩すこともあったという。

そんな折、免田さんの許に一本の電話が入る。「講演を頼みたい」と持ち掛けたその女性は、福岡県大牟田市民運動を行っていた後の妻・玉枝さんである。

玉枝さんは前々から冤罪裁判の支援者だった訳ではなく、報道で免田さんのことは知っていたが取り立てて事件に強い関心はなかったと振り返る。彼女自身は若い頃に勤めで係わった三池闘争で社会運動に関心を持ち、その後は合成洗剤追放の市民運動などに参加していた。集会に当時“時の人”だった免田さんを呼べば人が集まるとの目論見から連絡を取ったと告白している。

長きにわたり再審闘争を続けてきたことからどれほど凄まじい精神力の持ち主かと思っていたが、実際に会ってみると「普通の人だったのでびっくり」「こんな人が何で34年間戦えたのかな」と興味を抱き、集会への招聘は実現しなかったものの毎月のように面会するようになった。

 

あるとき記者から「大牟田に行く用がある」と聞き、免田さんは「大牟田なら玉枝さんがいる」と思って呼び出し、記者を交えて一緒に食事の席を持った。うどんを啜り、お酒も入っての賑やかな宴となったが、後日、そのときの肩を組んだ写真がすっぱ抜かれ、写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)の紙面を飾る。何ということもない身の上話に加え、さも話したことのように「もうじき結婚」と尾鰭が付けられてしまった。

親兄弟は「こんな写真が出て、もう嫁の貰い手がないぞ」と紛糾し、交際・結婚には大反対。しかしそんなすったもんだの出来事が却って二人を後押しするようなかたちであれよあれよと結ばれ、ともに余生を歩んでいくこととなる。

 

無実を取り戻し、社会復帰を果たしたとはいえその後の暮らしにも困難は付いて回った。「人権が回復されていないんですよね。非常に肩身の狭い思いをしました。回復しないんです。元の人間に返してほしい」と生前の免田さんは語っている。「人殺しをしてうまく逃げた」「ごね得だ」などと誹謗中傷を浴び、嫌がらせや非難を浴びせられた。結婚当初の数年、免田さんは酒に酔うと「俺が死刑囚だからか」と食って掛かり暴力を振るったり、眠れば「死刑執行」の夢にうなされて飛び起きたりすることもあったという。

妻・玉枝さんも人に後ろ指さされたり、嫌がらせの電話や手紙に苦悩する夫の姿を記憶している。「あれだけ、34年という長い苦労をしてきて、まだこんなものが付いてくるかと思うと、免田には嫌がらせの声を聞かせたくなかった」と苦い思いを振り返る。

 

生きづらさを覚えたのか、妻に肩身の狭い思いをさせまいと考えたのか、熊本の地元には帰らず、玉枝さんの地元大牟田の炭鉱町に暮らした。大牟田での暮らしは性に合ったらしく、「気を使わなくていい」炭鉱夫たちと焼酎を酌み交わし、周りに理解者も増えた。ささやかな庭の畑で野菜や花を育てては配って回っていたという。

講演依頼は時代と共に減り、事件の風化を実感した。晩年は認知症を患い、市内の高齢者施設で過ごし、最期は妻に看取られて静かに息を引き取った。

 

再審の重い扉を開いたパイオニアであると共に、その後も冤罪死刑囚らにとって希望の光となった。2013年に米寿を迎えた免田さんは、事件のことをふりかえった際、「一番憎いのはマスコミです」と語った。

84年から30年近く身近で取材を続け、段ボール20箱分に及ぶ資料を免田さんから託された熊本日日新聞の元記者高峰武さんはその言葉にぎょっとしたという。逮捕当時は日日新聞でも「金に詰まった青年の仕業」と免田さんの悪行として大きく書き立てた。当然警察関係者や住民の噂が基になった記事内容とは思われ、再審時期には182回に及ぶ再検証の連載を行ってきたが、まだ事件の検証が不十分であること、事件の教訓が社会に生かされていないことを突きつけられているような気がしたと高峰さんは語る。

防犯カメラやドライブレコーダー、PCやスマートフォンといった機器の発達、DNA型鑑定といった科学捜査の技術は発展せども、人を疑うのも人ならば、人を裁くのも人であることは今も昔も変りない。かえって個人メディアが幅を利かせる昨今ではだれしもが第三者への攻撃や誹謗中傷に加担しかねない状況になっている。悪い噂や危険性は「正義」の名の元に拡散され、「社会悪」のレッテルを容易に張られてしまいかねない。警察や報道局のような公権力をもたない一般市民にも事実の検証や内省的態度は一層求められている。「自由」であるということは何もかもが野放しの原始社会であってはならない。各人の自由が保証される調和と節度を弁えた不断の努力の積み重ねがあってはじめて成り立つ営みである。

免田さんの遺した資料は広く活用されることを考え、現在は熊本大学に収蔵され、高峰さんたちは市民研究員として資料の解析や当時の関係者への取材を続けている(http://archives.kumamoto-u.ac.jp/inventory/Menda/MI01.pdf)。

 

 

 

NHK「事件の涙」

https://www.nhk.jp/p/ts/GP9LGJJN9N/

・日本記者クラブ/高峰武 「あっちで覚えた」死刑から再審無罪の免田栄さん

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/31752

・刑事弁護OASIS毛利甚八 事件の風土記⑴免田事件

https://www.keiben-oasis.com/430

・免田事件再審をふりかえる 2014年12月座談会(東京経済大学『現代法学30号』)

https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/10782/1/genhou30-16.pdf

・死刑囚 志ネットワーク 上甲晃さんによる記事

https://kokorozashi.net/?p=336

https://daihanrei.com/l/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%E5%85%AB%E4%BB%A3%E6%94%AF%E9%83%A8%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%94%EF%BC%97%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%81%9F%EF%BC%89%EF%BC%91%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA