豊田市女子高校生強盗殺人事件

2008年、愛知県豊田市の農道で下校中の高校1年生の女子生徒が殺害された事件について、風化防止の目的で記す。

14年間で警察はのべ約87000人を捜査に動員し、およそ1700件の情報が寄せられているが、現在も被疑者の割り出しに至っておらず、捜査特別報奨金制度の対象として広く情報提供を募っている。

www.pref.aichi.jp

 

情報提供は

豊田警察署 特別捜査本部 フリーダイヤル 0120-400-538 まで

 

 

■概要

5月3日(土)5時30分頃、愛知県豊田市生駒町切戸の農道で、愛知教育大付属高校に通う清水愛美さん(15)が遺体となって発見された。制服姿で田圃に仰向けに倒れており、横に通学用の自転車が倒れていた。下校途中で何者かに襲われたとみられ、制服は泥だらけで、両脚とも靴は脱げており片方が遺体の下で見つかるなど争ったような形跡があった。

 

前日の2日(金)、愛美さんは部活動を終えて18時45分頃に校門近くで友人と別れ、自転車に乗って一人で下校した。しかし普段ならば帰宅しているはずの19時半を過ぎても家に戻らず、携帯電話の応答もないことから家族は通学路や付近の捜索に周った。当初、携帯電話は呼び出し音が鳴っていたが、途中から不通になった。

家族は21時半頃、高校に連絡を取り、深夜24時近くになって交番へ届け出たがその後も発見できず、3日未明に豊田署へ捜索願を提出。署員や家族、知人ら数十名で通学路周辺を中心に夜通しの捜索を続け、警察は捜査範囲を絞り込むため携帯電話キャリアに依頼し、微弱電波から地域の絞り込みを行った。早朝5時30分頃、位置情報を基に付近を捜索していた知人女性が農道よりやや低い田地の中に変わり果てた少女を発見した。

 

■地域と現場

現場は伊勢湾岸自動車道の豊田南インターから西約150メートルで、学校から約3キロ、自宅まであと1キロ程の地点。周囲を田畑に囲まれた一角で街灯もなく、見通しの利く田園地帯だが19時過ぎともなれば暗闇に包まれる。一番近い民家でも50メートル程離れており、現場を訪れた元愛知県警中警察署長・玉越清美氏は「犯人が待ち伏せしやすい場所である」と指摘している。

 下のストリートビューは2012年撮影のもの。現在では運輸会社や食品小売り会社の物流拠点が建設され、事件当時の閑散とした風景は失われている。

 

学校近くにコンビニが一軒あったが、工場や農地の間を抜けて通学していたとみられ、途中に市街地はないため監視カメラはごく限られていた。

近郊には大きな工場が点在するため、普段は農道のそばを通る県道56号名古屋岡崎線にも車通りがあるのだが、この日は大型連休と重なって交通量が少なかった。また県道56号の上方に湾岸高速道路が通っており、大型トラックの通行量が多いため、悲鳴を上げたとしても車の音でかき消されて遠くまでは聞こえなかったと考えられる。

 

中心市街からは外れた市の西端部に近く、多くの市町と隣接する地域である。被害者が通っていた高校は刈谷市であり、その北に位置する豊明市で起きた母子4人殺人放火事件(2004)の現場へも車で15分の距離である。

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拳母(ころも)市をルーツとした旧豊田市は県のほぼ中央に位置していたが、2005年4月に東部の6町村と合併して現在のボリュームになった(広さ918平方キロは県の約17.5パーセントを占め県最大、人口42万人は名古屋市に次ぐ)。製造品出荷額は全国一位で、その85%、11万人以上が自動車関連企業で働いており、ほか精密機械などの工場も多い。一方で、平野部ではコメの生産も盛んであり、事件現場はちょうど工場密集地と宅地区域の間に位置する田園地帯だった。

豊田市は人口約42万人に対して犯罪認知件数約7000件と際立って犯罪が多発している訳ではなく名古屋市一宮市に比べれば人口当たりの犯罪発生率は低い水準である(尚、愛知県は平成19年から30年まで12年連続で侵入窃盗被害件数ワーストの記録がある)。

2008年(平成20年度)の豊田市の犯罪発生件数について目立った動向を確認しておくと、前年に比べて空き巣、自動車盗、オートバイ盗、自販機盗は増加、粗暴犯、知能犯、居空き、自転車盗は減少している。「強盗」は13件から16件に増加、「強制わいせつ」は27件から23件に減少している。むしろ街頭犯罪に関して言えば、2004年に全体で5793件だったものが2008年には3615件と大きな減少がみられる時期である。

 

■被害状況と遺留品

遺体は左手首に切り傷、顔面に打撲痕が複数あり、多量の鼻血が出ていたことから、被害者は突然顔面を殴られるなどして抵抗できなかったものとみられている。司法解剖の結果、死因は口元の圧迫か、鼻血などが詰まったことを原因とした気道閉塞による「窒息死」と推認された。死亡推定時刻は2日19時25分から発見までの間とされている。

ミニタオルを口に詰められ、首には幅3.8センチで伸縮性のある黒色のビニールテープ日東電工社製・電気絶縁テープ)が7重に巻きついていた。このテープは直接の死因ではなく、首に対して緩く巻き付いた状態で見つかっており、元は犯人が口元のタオルを押さえるために巻いたものが外れ落ちたと考えられる。

 

捜査本部の発表では、被害者は「乱暴された形跡はない」とされ、遺体から犯人の体液は検出されなかったと伝えられている。だが被害者が若い女性、それも大金の所持が見込めない学生を狙ったことを踏まえれば、襲った動機はわいせつ目的だった可能性が高いと考えられている。

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遺留品について、靴と携帯電話は遺体のそばにあったが、通学用の黒色のショルダーバッグ(アディダス社製のスポーツバッグ)は周辺で発見されなかった。繋がらなくなった携帯電話は泥水に浸水したためか故障したものとみられている。

口に詰められていた薄い水色のミニタオルは被害者の所持品ではなく、犯人の遺留品とみられており使用感があった。サイズは25×25センチで「Sunlight」の刺繡が施されたもの。

名古屋市内の環境資機材製造・販売会社が販売促進用に製造したもので光触媒加工が施されている。2005年までに約1000枚を製造し約750枚が流通しているが、その大半は建築・塗装会社に配布されていた。そのうち流通記録が残るのは370枚前後で130枚が県内へ配られている。ほとんどはイベント会場で配布され、一部は市販もされていた。

遺体近くには被害者とは別の足跡が一種類だけ残されており、単独犯との見方が強まった。2009年段階で数種類まで絞り込まれたとされるが、靴の種類やサイズ等は報じられていない。

 

遺体発見と同じ5月3日6時頃、遺体発見現場から南東へ12キロ離れた岡崎市稲熊町の小呂(おろ)川沿いの草むらに捨てられている泥の付いたバッグを散歩中の女性が発見した。豊田市の現場から車で県道26号を通って30分程の距離で、周辺に住宅は多いが地元の人以外は滅多に通ることのない、車がすれ違うのがやっとという細い道路沿いである。

 

バッグには教科書、腕時計、電子辞書、弁当箱など女子生徒の所持品が入っていたが、部活で使用した濃紺色のジャージ上下(アディダス社製で水色のロゴ、ライン)が見つからなかった。尚、普段使っている財布は自宅に置いてあった。

下半身の下着が奪われていたとの報道もあり、ジャージが持ち去られたとみられる状況と合わせて「女性の衣類に異様に執着を示す変質者」といった見解も見られる。

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切っていない新品の結束ベルト

また2009年12月、白い化繊製で先端にプラスチックの留め具の付いた荷造り用の結束ベルト(大阪府のロープ製造会社が5年以上前から生産し、全国で年間2000本超を販売)が遺体近くに輪の状態になって落ちていたことが報じられた。元々は長さ2mと3メートルの2種類で幅25ミリの製品だが、見つかったものは長さ約50センチほどに切られていた。犯人が事前に切って持参し、被害者の腕を縛って拘束する際に用いたものと見られている。

遺留品の流通経路を調査した結果、現場から北東約10キロの豊田市内のホームセンターでの取り扱いが確認され、2010年4月、事件の約2週間前に同じ種類の結束ベルト、ビニールテープを一緒に購入した客がいたことが明らかにされている。

産経新聞は、この結束ベルトに貼られたシールから男のDNAが検出されていたことを報じている。シールは購入後に貼られたと見られ、DNAは犯人のものの可能性があるという。検出されたDNAは不完全で、塩基配列全ては明らかになっていないが、県警は個人の絞り込みは可能としている。記事からはどのようなシールなのか、採取されたDNA片は何に由来するものかといった情報は明らかにされていない。

また被害者の着衣に手袋痕があったことも分かり、犯人は手袋着用だった可能性が高い。首のビニールテープは鋭利な切断面から、現場で刃物を使って切ったものとみられ、周到な計画性が指摘されている。

 

■予兆?

愛美さんは両親と3人の兄との6人暮らし。3月まで通っていた中学では副生徒会長、卓球部では副キャプテンを務めるなど「縁の下の力持ち的な存在」として活躍し、みんなから「まなちゃん」の愛称で親しまれていたという。中学時代は人の役に立つ仕事に就きたいと語り、尊敬する人に母親を挙げて同じ看護師の夢を抱いていた。

責任感が強く真面目な人柄で、卒業文集には「いろんな人に助けられ、たくさん支えられてきて2年半、卓球を楽しく続けられたと思います。これからも感謝の気持ちを忘れることなく生きていきたいです」と綴っていた。学業も優秀で、高校へは推薦入試で進学。高校ではサッカー部のマネージャーを務めていた。

 

愛美さんは携帯電話で当時若者に人気があったプロフ(携帯電話向けプロフィールサイト)に短い日記を綴っており、事件直前には何かしらの不安をほのめかすような記述が見られ、事件との関連が疑われた。

2008年5月1日

07時05分;なんであんな日に限って見ちゃったのかなあ… ほんともういや…

17時00分;気にしてるって思われたかなあ…

19時00分;なんかこわいんだけど お母さんおそいよお

22時07分;違うんだよね…?気のせいだよね?

2008年5月2日

12時12分;気持ち悪い 部活どうしよ

事件を知ってからこの文章だけを見ると、たとえば愛美さんが1日以前に「見てはならないもの」を目撃してしまい、その後、だれかにストーキングされるなどの不安に怯えていたかのようにも読み取れる。

 

実際、現場農道につながる県道26号は以前から「変質者ロード」とも呼ばれ、露出狂の出没や女性が身体を触られる事案が過去にもあったと報じられている。また同時期に周辺地域では女子生徒を狙う事件が相次いでいた。高校周辺でも4月半ばに下校中の女子生徒が体を触られそうになる、4月30日に付近で露出男が現れるなどの不審者情報を受け、校内でも注意喚起を呼び掛けていた。

4月21日夕方、現場から北東へ約12キロ離れた名鉄豊田市駅の公衆トイレで個室の壁の隙間から女子高生が携帯電話でカメラを向けられる覗き事案があった。

4月23日19時過ぎ、現場から北へ約8キロ離れた愛知県東郷町春木の路上で、愛美さんと同じ高校に通う別の女子生徒が自転車で帰宅途中に覆面をした若い男に押し倒され、腹を蹴られるなどの暴行を受けた。

4月25日19時半ごろ、現場から東へ約3キロ離れた豊田市若林東町赤池の農道で、自転車に乗った高校2年の女子生徒がバイクに乗った男に襲われている。道を尋ねるように声掛けして接近すると、手首をつかんで髪を引っ張り、押し倒す事案が発生していた。

4月29日15時20分ごろ、同じ若林東町内で書店内にいた小学生の女子児童が黒いジャージを着た男に手をつかまれ、店内のトイレに連れ込まれる事件もあったという。女児は逃げて無事だった。

 

事件直後も、わいせつ犯罪は収束しなかった。

5月9日23時20分頃、岩倉市石仏町の農道で高校2年生の女子生徒(16)が自転車で通行中に襲われ、顔面を殴打されて草むらに連れ込まれ下半身を触られるなどし、頭部に打撲などの軽傷を負った。近くで引っ越し作業中だった男性教諭が悲鳴を聞きつけて犯人を取り押さえ、一宮市千住町に住む自動車部品会社社員F(33)が現行犯逮捕されている。

5月12日、愛知県東部で下校途中の高校の女子生徒の後をつけて自宅に押し込み、ナイフで脅して乱暴するなどした刈谷市里山町の派遣工員Eが強姦致傷の疑いで逮捕された。過去にも同様の前歴があり、自宅から豊田市の現場が近いことから本件との関連も疑われたが同年12月に強姦容疑で再逮捕されて以降の続報はない。

5月15日には豊田市平芝町で女子中学生が自宅マンションに帰宅したところ、男に背後から体操服を切りつけられる事件も発生している。この生徒に怪我はなかったものの、体力に劣る女子生徒をつけ狙う事件は後を絶たない。

9日に事件のあった岩倉市はやや遠方にはなるが、こうして見ると女子生徒や若い女性を狙った暴行事案が続発していることに恐怖を覚える。だが日頃、大きく報道されないだけ、視聴者側もあえてそうしたニュースに注目していないだけで、このような事案は連日連夜、全国至る所で起きている。愛美さんもそうした犯罪に巻き込まれ、不幸にして命までをも奪われてしまったのではないかとの見方が強い。

 

大学や高校では監視カメラを設置し、部活動の短縮など警戒態勢が敷かれ、それまで連携できていなかった周辺の小中学校とも不審者情報の広域共有ネットワークを結んだ。事件や相次ぐ不審者情報による危機意識の表れか、市教委と警察、学校が連携して不審者情報を提供する緊急配信メールは事件前3078件だった登録数が、半年余りで1万1300人に急増したという。

 

■見当違い?

メディアでは愛美さんのプロフの情報を基に、中学時代に同級生の交際相手がいたことも一部には報じられており、犯人は単独犯で土地勘があったとみられること等から一部ネット上には、学校関係者による犯行や「恋愛関係のこじれ」を疑う声もあがった。

だが2008年6月、掲示板サイトに被害者と「小中学校が一緒」で「同じ高校の子に(被害者の近況を)聞いた」という人物からそうした意見を否定するカキコミが行われている。曰く、愛美さんは2007年(中3)の冬から交際がスタートしたが、事件より前に相手側が部活動に支障が出るとして彼女を振ったとされ、彼女の方にはまだ未練があったのだという。

プロフに書かれた「見ちゃった」「違うんだよね…?」というのは「元カレ」が別の女子生徒と仲良くしている場面を見てしまったことにショックを受けて書き込んだのではないか、と推測している。

現在では愛美さんらのプロフの内容を遡って検証する術はない。掲示板へのカキコミは匿名で行われたもので当然「なりすまし」や身バレ防止のために身分を偽っている可能性もある。だが、事件から一か月以上が経って報道がやや落ち着いてきたタイミングでのカキコミ、あえて自らの立場を「被害者の友人」とはしていない(被害者に近い友人からの伝聞として記していた)こと、他のユーザーとの複数のやりとりから鑑みるに、全く無縁の第三者による投稿とは思えず、少なからず愛美さんと近しい筋から得た情報と思われる。

別れても復縁したりつかず離れずの関係というものもあり、「元カレ」だったのか「継続中」だったかの交際状況を判断することは難しいものの、愛美さんは不審者などを目撃した訳ではなく元カレと別の生徒の親交(逢引き)を目撃したとする推測の信頼度は高いのではないか、と筆者は考えている。無論、元交際相手や元交際相手と親しくしていた生徒らが事件に係わりがあるとは考えていない。

 

また2008年7月9日、愛知県警捜査1課と豊田署による合同捜査本部は春日井市白山町に住む会社員H(24)を強制わいせつの疑いで逮捕した。2007年11月20日19時頃、長久手町町道で帰宅途中だった事務員女性(25)を押し倒し、下着の中に手を入れて下半身を触るなどした容疑である。

近郊では2007年1月頃から徒歩や自転車で帰宅中の10~20代女性を襲う事件が約30件発生。白いトラックに乗る黒っぽい「目出し帽」を被った男、身長約180センチでスリムな体型といった目撃情報から被疑者として浮上したもので、先述の2008年4月に東郷町で発生した類似の暴行事案との関連から愛美さん殺しへの関与も視野に入れた捜査が慎重に続けられていた。

トラックはHが勤務する建築資材販売会社のもので帰宅途中の19~21時頃にかけて犯行に及んでいたと見られ、3年前まで豊田市北部の妻の実家に居住していたことから周辺にも土地勘があったとされる。しかし続報は確認できなかった。

 

2010年3月、愛知県警捜査1課と愛知署は、日進市岩崎台に住む名古屋市立小学校教諭O(42)を強制わいせつ致傷の容疑で逮捕した。2月28日0時半頃、長久手町で帰宅途中だった女子大学生(21)に後ろから抱きついてタオルで口を塞ぎ、ナイフを突きつけて「殺す、言うことを聞け」と脅して馬乗りになって胸を触るなどのわいせつ行為に及び、手足に怪我を負わせていた。

Oは逮捕当初「長久手の現場には行ったことがあるが、やっていない」と容疑を否認。周辺では2008年から2010年にかけて同じような手口の事案が10件以上起きており、警察は十徳ナイフ、手袋、タオルや粘着テープ、帽子などの遺留品からOを特定。同一犯の可能性があるとみて余罪を追及。玄関先でナイフを突きつけて行為を迫ったり、無施錠の窓から侵入して入浴中だった住民女性を襲うなど4件で起訴された。12月、名古屋地裁は強制わいせつ致傷、強姦未遂によりOに懲役9年(求刑懲役18年)の判決を下した。

本殺人事件との関連については触れられていないものの、計画性をもって襲撃に及びながらも遺留品や被害者の目撃に対して隠蔽するまでの周到性が感じられないなど共通項は少なくない。わいせつ目的の場合、きっかけは性衝動であることから、周辺の下見などはあったにせよ個人の識別まではせず、「制服」「20代前後」といった見た目の好みで狙いをつけて犯行に及んでいたことが推測される。

 

2010年4月、中日新聞は捜査関係者や地元住民への取材から、事件のあった5月2日19時過ぎに現場近くの農道を西へ歩くジャージ姿の手袋をした男の目撃情報が複数あったと報じている。上下とも黒色で、白い手袋をしていたとの証言もある。また近くの別の農道では、同じ時間帯に黒っぽいRV車が停まっていたとの情報も伝えている。

また2018年5月の産経新聞では、事件当日の18時半頃に現場周辺で不審な黒っぽい多目的スポーツ車SUV)が低速走行しているのが目撃されていたことを報じている。周辺では約1か月前から似たような車の目撃が複数あったが、事件後は途絶えたといい、下見や物色に訪れていた可能性もある。(※一般的に「RV車」と「SUV車」に明確な区分はないため、上の中日新聞と同じ目撃情報の表現・表記ちがいと思われる)

 

外国人労働者について

豊田市といえば日本最大の企業城下町ともいわれ、アメリカの姉妹都市デトロイトと並んで自動車産業が盛んなことで世界的にその名が知られている。2021年、東京五輪に参加した重量挙げウガンダ代表選手ジュリアス・セチトレコ氏(21)が滞在先の大阪府泉佐野市のホテルから行方をくらませて「トヨタがあると聞いて仕事があるのではないかと思った」と名古屋を目指したニュースは記憶に新しい。

犯人の国籍に関する情報は発表されていないものの、事件後にアシがついていないことから、外国人労働者などが就労を終えて「帰国」したことも充分に想像される。「外国人が怪しい」とする根拠にはならないが、愛知県、なかでも豊田市周辺の「地域性」として工場勤めの外国人労働者が多い点について少し触れておきたい。

 

1990年の出入国管理法改正、93年の技能実習制度などにより、いわゆる出稼ぎ目的の就労が右肩上がりに増えた結果、近親縁者や工場での住み込み仕事を求めて多くの外国人労働者とその家族が愛知県へ、豊田市周辺地域へと集まった。事件のあった2008年当時の愛知県の外国人登録者は228,432人で、うち34.7%(79,156人)をブラジル国籍保有者が占めている。

とりわけ豊田市保見ケ丘、保見団地は外国人集住地区として広く知られており、約8900人いる住民の約半数が外国出身者で、その大半の3984人がブラジル国籍である(ブラジル人が住民全体の45.4%)。市内で暮らすブラジル人の約4分の1がこの団地に集住しており、地区の標識や掲示にはポルトガル語が併記され、周辺では輸入食材なども容易に手に入る。

1972年に造成が開始されたマンモス団地だが、大手企業が製造拠点を海外に求めたことで入居者のあてが外れてしまい、その補填として法人への「社員寮」として貸借するようになり、90年代に日系ブラジル人たちが大量に入居するようになった背景がある。

当初は「日系人」として日本人のコミュニティに「同化」しようとする移住者も多かったが、やがて駐車、ゴミ出し、騒音など文化や生活習慣の違いから日本人住民との間でトラブルが顕在化した。仲間や家族が増えたことによって同化の必要性が薄まり、長期間の滞在でも日本語を習得できない学習困難児童が増加するなど新たな問題も生じた。

かつて親から日本のことをよく聞かされて育った日系2世は日本語能力があり、敬意や思い入れを抱く者もいた。だが幼い頃に連れてこられて言葉も分からず、虐めに遭うなど日本人コミュニティから拒まれた意識を持つ日系3世、4世に当たる若者たちは非行に走りやすく、反社会勢力化する傾向が危惧されている。暴力団に在日中国人、朝鮮人が多く在籍する背景とも近いものがある。

 

保見団地では1999年に右翼団体街宣車でブラジル人住民らに対する嫌がらせ行動を行い、一部青年らとの間で衝突が勃発するなどして全国ニュースにも取り上げられ、国内における移民問題の先進例として注目を集めた。

2000年代には自治会や行政、NPO法人の連携により、日系人生徒の学習支援、青少年の自立・就労支援、外国人就労者向けの日本語講座や支援セミナーの実施、情報誌の発行など、日本人住民との相互理解に向けた取り組みが展開され、事態は改善に向かっている。

 

事件後のことなので余談にはなるが、2008年秋のリーマンショックを契機とした金融危機は、自動車関連企業に深刻なダメージを与え、派遣型雇用の多い工場労働者たちの暮らしにも直撃した。たとえば2009年1月には豊田市上郷町でコンビニ店を狙った連続強盗が立て続けに発生し、逮捕された日本人の派遣会社員A(33)は「派遣の仕事が少なくなり収入が減った。郷里の家族に送金するために金が必要だった」などと動機を供述していた。

凶悪犯罪について外国人による犯行を疑う声は多く聞かれるが、豊田周辺は全国各地から期間工の働き口を求めて日本人労働者も大勢集まっている。そうした中には不安定な雇用環境に身を置く経済的不安を抱える者も少なくない。他所からの移住者であれば孤立感が生じる素地もあり、見方によっては犯罪に手を染めやすい側面もあるかもしれない(だが前述のように人口当たりの犯罪件数は決して多くはない)。

2010年代にはベトナム人の割合が大きく増加し、2021年10月の住民基本台帳によれば外国人17,445人の内訳を国籍別にみるとブラジル6,443人に次いで、ベトナム2,645人、中国2,280人、フィリピン2,041人などとなっている。世帯数を見ると、ブラジル3,091世帯、ベトナム2,257世帯、中国1,048世帯、フィリピン785世帯であり、ベトナム人は滞在歴が短いこともあり単身者世帯の割合が非常に多いことが窺える。

 

 

■わいせつ犯罪について

殺害こそなかったものの、直近でも本件とよく似たシチュエーションが想起される事件が発生している。

2022年2月、静岡県浜松市の会社役員T(36)が強盗・強制性交等の疑いで逮捕された。1月23日22時頃、愛知県豊田市の路上で歩いていた女性(20)に対し、背後から口を塞ぎ、性的な暴行を加えた上で下着一枚を奪い取ったとして、容疑を認めた。

Tはその一週間後となる1月30日にも同様の事犯を起こしており、強盗致傷の疑いで4月に再逮捕。7時頃に知立(ちりゅう)市の集合住宅敷地内で徒歩で帰宅中だった女性(18)を押し倒して馬乗りになった上、口を塞ぐなどの暴行を加えて膝を擦るなどのけがを負わせ、下着一枚を奪った。2人に面識はなく、防犯カメラの解析などによりTが浮上。調べに対し「下着をとろうとしたわけではなく、女性の体を触る目的だった」と容疑を否認したが、警察は余罪がないか洗い出しを急いでいる。

 

前述のように豊田の殺害現場周辺は複数の町村と隣接し、知立市ともすぐ近い。静岡県浜松市は愛知県豊橋市などと隣接するが、豊田市知立市とは80キロ以上離れており、東名高速道を使えば70~80分程度の距離である。Tに土地鑑があったのか、仕事などで頻繁に訪れていたのか等の詳報は伝えられていないが、県を跨いだ越境犯罪であれば捜査の網を抜けられると見て犯行に及んでいたことも充分考えられ、関与を疑うまでには至らないが「暴行をして下着を持ち去る」という点で本件との類似性が感じられる。

下着を奪った点について、①性的暴行に及ぶつもりで下着を剥ぎ取った段階で犯行を諦めて逃亡したのか、②下着に執着があり、性的暴行とともに下着の持ち去りも念頭にあったのか、③下着に著しく強い執着があり、性的接触や強姦する意図はなく、生身から剥ぎ取った下着の持ち去りが本来の目的だったのか、その動機は判断がつきづらい。

しかし性器に触れたり、姦通を遂げることが最大の目的だとあれば、必ずしも下着を全て脱がせる必要はない(たとえば膝下まで脱がせたり、下着が脚に引っ掛かったような状態でも犯行は可能である)。

刑法第240条で強盗致傷は「無期または6年以上の懲役」、刑法第181条で強制わいせつ等致死傷は「無期または3年以上の懲役」とされる。強盗のありなしで量刑判断が変わるため、強盗容疑については否認しているとの見方もできる。

 

元受刑者の出所後10年間の再犯率を見た場合、「殺人」の再犯率は1%未満だが、「性犯罪」では15.6%に達する。性犯罪は累犯性が強い犯罪といわれ、逮捕されず一度味をしめてしまえば、加害者は恐怖におののく被害者の拒絶や抵抗すらも「本当はうれしいくせに」と誤認し、自らの行為を歪んだかたちで正当化してしまう。たとえば2009年に千葉県松戸市で起きた女子大生強姦殺人放火事件で無期懲役とされた堅山辰美受刑者は、公判で「女性は常に『強姦されたい』という思いがありながら、殺されるのが嫌だから拒むのだと思っていた」と述べるなど異様な心理状況を語っている。

www.crimeinfo.jp

日本では性犯罪者に対して認知行動療法に基づく「R3」と呼ばれる性犯罪者処遇プログラムを導入している。受講者の出所後3年間の再犯率は非受講者に比べて7.5ポイント下回る一定の効果をあげているが、とはいえ再犯率は依然として高水準である。性衝動の誤った引き金、認知の歪みは並大抵に「完治」しうるものではなく、元加害者への治療支援が充分ではないとする議論もある。

下の産経新聞記事では、認知行動療法と合わせてホルモン抑制のための薬物療法、「化学的去勢」の導入が必要ではないかと指摘されている。

www.sankei.com

 

■所感

素行に問題のない高校生がそこまで深い恨みを買うとは思えず、前述の通り、金銭目的であれば若い高校生を狙うのも筋違いである。本件はわいせつ目的の犯人が意図せず死亡に至らしめてしまった事件ではないかと筆者は考えている。 

 

不可解なのが、岡崎市内の川沿い(道路脇)に遺留品のバッグを遺棄している点。犯人がバイクで走行していたのであれば、せめて発見を遅らせるために「川の中」に遺棄しそうなものだが、ガードレール沿いの茂みに放置されていた。岡崎市東名高速道を隔てて東部に「森林」が広がっており、なぜ市街地の人目につく場所に遺棄したものかは合理的な説明がつかない。

先述した別のわいせつ犯のように事前準備はしていたものの事後の証拠隠滅までは念頭になかったのかもしれない。たとえば犯人は「殺害」したとまでは思っていなかった、そこまで本格的な捜査になるとは思っておらず適当に遺棄したとも考えられる。また車を使用していたとすれば、右ハンドルで川面を左に見ながら走行中に窓から放り投げたが川まで届かず陸に残されたなどの場面も想像される。

 

遺留品の特徴からは、建築・工事関係の職種との関連が窺える。強盗団が人を拘束する際には基本的に手でも切りやすい「ガムテープ」を用い、汎用品であることから犯罪者にとってはアシが付きづらいメリットもある。一般人が手足の拘束を想定した場合でも、段ボールや雑誌を結わえるようなビニールロープかガムテープ、ワイヤーコード類で何重にも巻くといったアイデアが先に思いつくだろう。事件2週間前にホームセンターで購入した人物が犯人とは断定できないが、拘束具に荷物結束用の長いバンドをカットしたり、タオルで猿ぐつわを噛ませるためにガムテープ幅のビニール絶縁テープを使うという発想は、やはりそうしたものが身近にある、業務で毎日のように使い慣れている犯人と見るのが妥当ではないか。

加えて遺留品の多さから、犯人は証拠隠滅の意図なくすぐにその場を逃げ去ったと考えてよいかと思う。にもかかわらず、バッグを奪っておそらくはジャージだけを持ち去ったこと、遺体の隠蔽はせず下着だけを剥ぎ取っていったことから、犯行のそもそもの動機は「着衣」に主眼があったと見ている。顔面を殴打してタオルを嚙ませ、倒れた隙に下着やバッグを奪い、静かになったことを不審に思って巻き付けていたテープを外すと息をしていなかったといった場面が想像される。

 

豊田市に現場や事務所があったのか、岡崎、豊川、岡崎、新城などの愛知県南東部、あるいは浜松など静岡西部から名古屋方面へ向かう仕事で県道26号を行き来するうち、暗い時間に下校する学生たちの姿を認めていたのかもしれない。

だが押し込み強姦や拉致ではなく夜道での通り魔的な犯行様態、気道が詰まるほどまで執拗に悲鳴を上げられることを恐れた態度からは犯人の「臆病さ」が見て取れる。周辺地域のわいせつ犯罪の多さから警察は当初から累犯者に当たりを付けて捜査したがホンボシには至らなかったことやバッグの遺棄の稚拙さと併せて考えれば、他に犯行を完遂したことのない初心者わいせつ犯のように思われる。しかし他のわいせつ犯や不審者情報が都合よく煙幕の役目となり、真犯人に逃れる猶予を与えてしまった。

 

はたして犯人がその後もわいせつ犯罪に手を染めなかったとも限らない。場所を変え、やり口を変えて再び悪行に手を染める可能性は皮肉なことだが他の犯罪より高いのだ。わいせつ犯に「逃げ得」を与えてしまえば歪んだ常習犯を生み出すことにつながる。のぞきや痴漢といった軽微とされる犯罪も、被害者にとっては消し去ることのできない心の傷となり生涯与える損失は計り知れない。日頃から自衛・警戒を怠らないことももちろん大切だが、警察の捜査や安全パトロール、地域の見守りなど、犯罪を起こさせない・巻き込まれない生活環境デザインを心掛けたい。

 

亡くなられた愛美さんのご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

 

豊田市外国人データ集

https://www.city.toyota.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/767/24.pdf

愛知・高1女子殺害 未解決のまま10年「なぜ、こんな目に」 - 産経ニュース

サッカー・ワールドカップ盗難事件

オリンピックとともに世界的な祭典として知られるサッカー・ワールドカップ(W杯)。現行のトロフィーは「3代目」だが、初代である「ジュール・リメ杯」は2度の盗難に遭い、現在も発見されていない。その数奇な運命についてみていきたい。

 

■ワールドカップ1966イングランド大会

1966年7月、フットボールの母国イングランドで第8回W杯が開催された。イングランドが栄冠を勝ち取った唯一の大会として知られており、エキサイティングな展開と物議を醸した決勝戦は今もなお語り継がれている。

そしてこのW杯は試合の外でも、大きな話題を集めた。大会前に優勝トロフィーが盗難され、英国は各国から非難を浴びる事態に陥ったのである。その窮地を救い、大会を成功に導いた陰に、ある一匹の雑種犬の存在があった。

 

前回大会の優勝国でペレやガリンシャといった稀代の名選手を擁するブラジルは対戦相手からの露骨なファウルに苦しめられ、まさかのグループリーグ敗退。西ドイツ代表は20歳の新星フランツ・ベッケンバウアーの華々しい活躍により決勝戦へと駒を進めた。初出場を果たした北朝鮮代表は朴斗翼(パク・ドゥイク)のゴールにより強豪イタリアを破る番狂わせを起こし、アジア勢初となるベスト8進出を果たしている。

開催国として出場したイングランドは守護神ゴードン・バンクスら守備陣の奮闘により毎試合僅差で勝ち上がり、7月30日、ウェンブリー・スタジアムで西ドイツ代表を迎え撃つこととなる(下のリンクで試合が見られる)。

https://www.youtube.com/watch?v=y3bcX8NaYW0

母国の初優勝を一目見んとスタジアムを埋め尽くしたおよそ10万人の大観衆に後押しされ、アルフ・ラムジー監督率いるイングランド代表は闘志をたぎらせた。

西ドイツがリードを奪えばイングランドもそれに喰らいつくという展開が続き、90分間で2対2のまま決着がつかず、試合は延長戦に突入した。延長前半11分、その年代表デビューを飾ったジェフ・ハーストの放ったシュートはクロスバー(ゴール上部の支柱)に当たり、ボールはほぼ真下のゴールライン上に落ちてバックスピンし、ゴール外側へと弾んだ。

主審はボールが「ゴールラインを完全に越えたか否か」の見分けが付かなかったため、線審に確認をとり、「ボールは一度ゴール内に入っていた」としてイングランド側の得点が認められた。スローモーションなどもない当時の映像技術では画面上での確認も不可能だったのである。

西ドイツ側の猛抗議の甲斐もなく試合は続行され、延長後半終了間際にもハーストはその日3点目となる追加点を挙げ、4対2のスコアで試合終了。W杯決勝でのハットトリックは現在も残る大会記録となっている。女王エリザベス2世はその栄冠を讃え、大会優勝トロフィーである「ジュール・リメ」をイングランド代表主将ボビー・ムーアに手渡した。

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ドイツ人ならずとも世界中のサッカーファンに疑惑を呼んだその裁定は、後年の解析により、ボールは「ゴールライン上に残っていた(すなわちノーゴールだった)」ことが明らかとされているが、主審の判断が尊重され、試合記録は覆ることはない。

(※なお主審、線審イングランド人ではなく贔屓や買収工作も認められていない。2013年以降、電子的ゴール判定補助システム「ゴールラインテクノロジー」が導入された。)

 

ジュール・リメ

1904年のFIFA(国際サッカー連盟)創立時からサッカー強豪国を集めた世界大会は念頭に置かれていたが、その実現は1930年ウルグアイ大会から始まる。大会を率いたFIFA第3代会長ジュール・リメが優勝トロフィーを寄贈したことからその名が冠され、1970年のメキシコ大会で「三度目の優勝」を決めたブラジルに永久保有が認められるまでこのトロフィーが用いられた。

元々は「Victory」と呼ばれたその像はフランス人彫刻家アベル・ラフレールによる作で、高さ35センチ、重さ3800グラム、純銀製に金メッキが施されており、器を掲げる「勝利の女神ニケ」がモチーフとされている。台座には優勝国の名が刻まれた。

 

1934年のイタリア大会ではムッソリーニが派手な政治ショーを展開し、代表チームに優勝を厳命。なりふり構わぬ戦いぶりで優勝を勝ち取り、2年後のヒトラー政権下でのベルリン五輪の手本にされたともいわれる。

1938年の第3回フランス大会では組織的なプレーでイタリアは連覇を飾り、その後は第二次世界大戦の勃発によって大会は長い中断期間となった。トロフィーはローマに長らく保管されることとなる。

しかし43年7月にクーデターでムッソリーニが追放されると機を見て北部からナチス・ドイツが流れ込みイタリア全土を制圧。ローマを占領したナチスは金採取を目的にジュール・リメ杯を捜索した。危機を察知したイタリアサッカー連盟オットリーノ・バラシ会長はトロフィーを銀行の貸金庫から自宅へ移し、ベッドの下の靴箱に隠して難を逃れたというエピソードが残されている。

 

1950年に大会は再開され、54年スイス大会で西ドイツが勝利し、ジュール・リメ杯は「正式に」ドイツへ渡り、フランクフルトに安置されていた。

しかしフォトジャーナリストのジョー・コイルは写真を研究した結果、次のスウェーデン大会で持ち込まれたトロフィーは元より「5センチ背が高い」としてドイツで偽物に挿げ替えられたとする説を展開したが、台座が大理石からラピスラズリに交換された影響とも考えられている。

 

■ワールドカップの救世主

イングランド大会より遡ること4カ月前の1966年3月20日(日)、ロンドン・ウエストミンスターのメソディスタ・セントラルホールでは前日からスタンペックス(stamp and coins exibitions;希少切手、コインの展示会)が行われており、同じ会場にW杯開幕を目前に控え、大会トロフィー「ジュール・リメ杯」も展示されていた。貴金属としての物質的価値はおよそ3000ポンドとされるが、展示に際しては3万ポンドの保険が掛けられていた。

中には300万ポンド相当の貴重な切手もあり、いずれも南京錠付きの陳列ケースに入れられ、張り付き警護ではなかったものの周囲には4人の警備員が配されていた。しかし正午過ぎの巡回で、何者かによってトロフィーが盗み出されていたことが発覚する。

ロンドン警視庁は警備員が見かけたという「身長およそ5フィート10インチ、油を塗った黒髪、黒目がちな30代後半の男」との不審者情報を伝え、100人の捜査員を動員するが手掛かりは得られず、時間の経過とともに怪情報が錯綜する。

 

21日、FA(イングランドサッカー連盟)会長ジョー・ミアーズ氏のもとに「ジャクソン」を名乗る人物から不審な電話が入り、近く荷物が届くことを伝えた。翌日届いた荷物には、トロフィー上部にあった取り外し可能な裏地と共に、1万5000ポンドの身代金要求が書きつけられたポンド紙幣が含まれていた。要求に沿えない場合、トロフィーを溶かすという。もし対処を間違えば、FAはおろか英国そのものが国際的信用を失い、目前のW杯開催すら危ぶまれる。

通報を受けた警察は身代金引き渡しの場面で犯人を確保するとして、ミアーズ氏らに交渉を進めるよう指示した。バタシーパークでの引き渡しには偽札が用意され、現場に現れた元港湾職員エドワード・ベッチリーを逮捕した。彼は「The Pole」を名乗る主犯が別にいるとし、窃盗犯ではなく仲買人であることを主張した。セントラルホールの来客者には彼を見たと証言する者もいたが、警備員は見覚えがないとした。

 

FAは「この最たる不幸を深く後悔している。事件そのものだけでなく国家への不信感をももたらす」と国際問題への危惧を示した。事実、サッカー王国ブラジルでは「ブラジルでは決して起こらない悲劇」と伝えられ、フィンランドサッカー協会会長エリック・フォン・フレンケルは「I'm damned angry.(怒り心頭である)」と率直な意見を述べた。

イギリス国内でも著名人や企業などが反応した。コメディアンのトミー・トリンダ―氏はカップを救出してくれれば誰にでも1000ポンドを提供すると約束した。安全剃刀で知られるジレット社も500ポンドを供出するなど、最終的に6100ポンド近くの懸賞金が追加されていった。一方で、金銀細工協会は新しいカップの制作を提案した。著名人や各界からの申し出も「純粋なサッカー愛」によるものだけではないとは思うが、イングランド国民のサッカーへの強い関心がその背景に窺える。

 

3月27日、サウスロンドン・アッパーノーウッドに住む26歳のライター、デイビッド・コルベットさんは愛犬“ピクルス”の首にリードを付けている最中にうっかり逃げられてしまった。デイビッドさんはピクルスを呼んだが、白黒ぶちの小さなコリー犬は向かいの家の茂みにもぐり込んでしまう。

デイビッドさんが覗き込むと、ピクルスは懸命に何かの包みの匂いを嗅いでいた。手を伸ばして包みを引き寄せると重量があり、古新聞の上から厳重に紐で縛ってあった。IRAアイルランド共和軍北アイルランド独立を求めて対英テロ闘争を続ける武装組織)による爆弾テロが思いよぎって躊躇するも、恐る恐る包みを開けてみるとニケを象ったまばゆいトロフィーが姿を現した。台座にはウルグアイ、ブラジルといった歴代勝利国の名が刻まれていた。

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ジプシーヒル警察に届け出たデイビッドさんは容疑者としてキャノンロウ署に移されて深夜2時半まで聴取を受けたが、完全なアリバイによって疑いは解かれた。

デイビッドさんは「金がなくて大会のチケットは買えなかったんだ。褒賞が手に入れば何試合でも行けるね」と取材陣の前で喜んだ。後に6000ポンドの報酬が与えられ、ピクルスは“イヤー・オブ・ザ・ドッグ”の称号と共に1年分の食料を与えられた。

FA会長のミアーズ氏も「脅迫状により非常に心配な一週間を過ごし、警察とも緊密に連携した」と主張し報奨金を要望したが、世論の反発もありこれを辞退。エドワード・ベッチリーは脅迫により2年の有罪判決を受け、69年に肺気腫で死亡。窃盗の主犯とされた「The Pole」はその後も捕まっていない。

 

大会の成功、イングランド代表の大活躍もあってピクルスは一躍“時の犬”となり、サッカー界からの多大な感謝と、テレビ番組からの数々の招待を受け、同66年にコメディ映画『The Spy with a Cold Nose』への出演も果たした。

翌67年、ピクルスは猫を追い払っている最中に事故に遭い、他界した。デイビッドさんは「猫嫌いさえなければ最高の相棒だった」と彼の死を悼んだ。

英国国立フットボール博物館ではイングランド代表に本物の“ジューレ・リメ杯”をもたらした功績をたたえてピクルスの首輪と授与されたメダルが常設展示されている。イースターの日曜日は犬の同伴が認められており、動物保護活動に関するセクションが設けられる。

 

■真犯人?

事件から半世紀を経た2018年、事件記者トム・ペティフォーが英ミラー紙に寄せた記事によれば、長男を含む3つの情報筋から、窃盗犯は当時弟と共に武装強盗などを繰り返していたシドニー・クグクレだと結論付けた。

www.mirror.co.uk

周囲に警備員の姿がなく、スリルを味わうための出来心で犯行に手を染めたが、金も手に入らず本当に溶かすつもりもなかったため生垣に捨てたとされる。

 

■奪われた栄光

前述の通り、ジュール・リメ杯はロンドンでの窃盗事件、イングランド代表の栄冠の後、1970年の第9回W杯メキシコ大会でブラジルが3度目となる優勝を果たして恒久保有が認められた。ブラジルスポーツ連盟(CBD)へ贈られ、のちにリオ・ルアダアルファンデガにあるブラジルサッカー連盟(CBF)のオフィス3階に展示されていた。

余談にはなるが1970年のブラジルチームは、ジャイルジーニョ、ペレ、ゲルソン、トスタン、リベリーノのフロント5によるだれもが「ナンバー10」の動きができる魅力的な攻撃を展開し、予選ラウンドからの12試合で42得点を記録。2007年にワールドサッカー誌が行った世界のサッカー専門家による投票で「神話」「美しいゲームの究極」と称され、「歴代史上最高のチーム」といわれている。

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1983年12月19日、2~3名の窃盗団がブラジルサッカー連盟本部に侵入し、夜警2人を縛り上げ、防弾ガラスの陳列棚にあったジュール・リメ杯を奪い去った。当時は厳しい貧困が蔓延していたことやそのままの形状では転売はできないことから、やはり早急に取り戻せなければ溶かされてしまうことが懸念された。

上述のように窃盗団の人数すら曖昧で、夜警たちの証言には一貫性がなかった。しかし他にあったレプリカトロフィーには手をつけていないことから事情を知る内部関係者との見方が強まる。CBFジュライト・コウチーニョ会長は謝罪報告とともに、国民にトロフィーの救出支援を懇願し、窃盗団の「愛国心」に訴えかけるように返還を求めた。

母国の勝利とトロフィーの恒久保有に大きく貢献した「サッカーの神様」ペレは「絶望」という言葉で事件を表現した。大臣だろうと泥棒だろうとサッカーを愛する国民性は「サッカーの母国」イングランド同様であり、「サッカー王国」ブラジルでも自国の栄誉に対して唾を吐くような行為に多くの国民が憤慨した。

 

金庫破りの常習犯アントニオ・セッタが取調べに掛けられ、「仕事を持ちかけられたが断った」と証言。自らの愛国心と、ブラジルがジュール・リメ杯を獲得した時に兄が心臓発作で亡くなったことを理由に依頼を受けなかったと主張した。

セッタの証言から、銀行員でサッカークラブのエージェント業をしていたと称するセルヒオ・ペレイラ・アイレスが強盗の首謀者として逮捕される。元警察官のフランシスコ・リベラと装飾家のホセ・ルイス・ビエイラの2人を雇い入れ、強盗を指示したことを認めた。しかし奪ったトロフィーはアルゼンチンの金商人フアン・カルロス・エルナンデスによって金塊に溶かされたと主張した。

告発を受けたエルナンデスは関与を否認。彼の鋳物工場を捜査・分析した結果見つかった金の痕跡は、トロフィーの材質とは一致しなかった。

捜査を指揮したブラジル連邦警察のペドロ・ベルワンガーも、トロフィーは多くが銀で作られていることから溶かして売るには価値が低いと考え、疑問を抱いていた。溶解や転売の裏付けができず、逮捕者たちは証拠不十分から本来よりも短い服役を過ごした。

 

刑期を終えた元受刑者らは散り散りになった。金庫破りは85年に警察に行く途中に交通事故に遭って死亡。実行役のひとりは89年にバーで5人の男に射殺され、もう一人は別の事件を起こして再逮捕され、98年に釈放された。

金商人のエルナンデスは盗難事件の直後にリオの上流階級が住むフマイタ地区に豪邸を購入していたが、釈放後はフランスに移り住む。その後、フランス、ブラジル両国で麻薬取引により逮捕された。

首謀者のセルヒオは98年に釈放され、2003年に心臓発作で死亡した。

証拠隠滅のためか、捜査能力の問題か、そのかたちが失われてしまったためかは分からないが、奪われたトロフィーは一度も回収されることはなかった。1984年にCBFにはレプリカのジュール・リメ杯が贈られた。

 

■その後

1970年にブラジルへジュール・リメ杯が譲渡された後、公募とイタリアの彫刻家シルビオ・ガザニガにより2代目ワールドカップトロフィーがデザインされ、GDEベルト―二社によって制作された。18金製で高さ36センチ、重さ4970グラムと初代よりサイズアップした。

2005年に3代目トロフィーが制作され現行モデルとされている。アジア大陸と陸続きに表現されていた日本列島部分を独立させるデザイン修正が施され、純金製となって36.8センチ、6175グラムと更に大きくなった。

06年ドイツ大会以降は、ジュール・リメ杯盗難事件の教訓から優勝国による保有ではなく、大会の授与式で使用後は国際サッカー連盟FIFA)が保管し、優勝国へは青銅製レプリカが渡されることとなった。

 

一般には本物のジュール・リメ杯は金塊に変えられたと信じられているが、ブラジル人の悪党がその価値を見抜けずに溶かすとは俄かに信じがたい。その数奇な運命から期待を込めて想像するに、強盗団の小悪党から悪党の大物の手に渡り、やがて大物から別の大物へと贈られるなどして、今も誰かのベッド下の靴箱の中で秘かに眠っているのではないか、という気がしないでもない。

 

吉展ちゃん事件

1963(昭和38)年に東京都台東区で起きた男児誘拐殺人事件について記す。
東京オリンピックの前年、人々にとって「人攫い」といえば労働力や売春に従事させる「人身売買」目的がまだ主流と思われていた時代である。資産家や有名人ではない庶民を狙った「身代金」目的の犯行は市民を恐怖に陥れ、後世への社会的影響も含めて「昭和最大の誘拐事件」といわれる。

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同じく1960年代の東京でこどもを狙った犯罪として、雅樹ちゃん事件(1960)、正寿ちゃん事件(1969)とともに三大凶悪事件ともいわれた。


■事件の発生

3月31日の夕方18時頃、東京都台東区入谷(現松が谷)にある入谷南公園で遊んでいた男児の行方が分からなくなった。公園のすぐ隣で建築業を営む村越繁雄さんの長男・吉展ちゃん(4)である。当初、両親は幼い我が子の「迷子」を疑って下谷北署に通報した。
周辺での聞き込み捜査により、男児は公園の洗面所近くで水鉄砲をして遊んでいたとされ、「30代くらいの男」と会話していたとの目撃情報から、誘拐の可能性もあるとして捜査本部が設置された。

男児の行方不明から2日後の4月2日17時48分、村越さんが営む工務店の従業員が電話に応対すると、男の声で「身代金50万円」を準備するよう指示される。当時の大卒国家公務員の初任給が1万7100円、2021年現在は約13倍の22万5840円であるから、単純計算すれば現在の650万円相当と換算されようか。
行方不明の報は打たれていたものの、警察は人命救助の観点から各機関に報道自粛を要請し、吉展ちゃん奪還に向けた水面下でのやりとりが続けられた。プライバシー保護や被害拡大防止のための報道協定が結ばれたのはこの事件がはじめてである。

 

翌3日19時15分、「こどもは帰す、現金を用意しておくように」と電話が入る。当時、日本電信電話公社は「通信の守秘義務」を理由に、警察捜査にも発信局や回線特定の「逆探知」を認めていなかった。本件を契機として同年に「逆探知」が認められることとなり、その後の電話を用いた事件の捜査を一変させた。
4日、22時18分の電話では親が男児の安否確認を求めるなど、通話の引き延ばしによって犯人の音声を録音することに成功した。この録音についても被害者家族が機材を用意し、自主的に行っていたものである。
具体的な身代金引き渡しのやりとりを行うもなぜか犯人は現場に現れない。6日5時30分には「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持ってきてくれる」と指定する電話が入る。しかし犯人は警察の張り込みを警戒したらしく姿を見せず、吉展ちゃんの母・豊子さんは「現金は持って帰ります、また連絡ください」と書置きを残して自宅へ戻っている。

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「村越さん、あのね、金持ってきてくれるかな。それでね、お母さん一人でね。もうこれでおしまいだからね、いいですか」

7日1時25分、犯人は豊子さんに改めて金の受け渡しを指示。犯人とは違う多くのイタズラ電話や、幾度も「空振り」が続いていたため、吉展ちゃんの所持品を「真犯人の目印」として置く手筈になっていた。

自宅から300m程の自動車販売店「品川自動車」の脇に停めてある軽三輪自動車を指定される。豊子さんは車で自宅を離れ、すぐに目印の「男児の靴」を見つけて、約束の50万円入り封筒を置いた。

担当の捜査員5人は気取られぬよう家の裏口から迂回して手分けして徒歩で向かったが、連係不足から現場到着が遅れ、その僅かな時間差を突いて犯人は封筒を奪取し逃走。捜査員のひとりは受け渡し場所へ向かう途中で現場方面から歩いてくる背広姿の男とすれ違っていたが、気が急いていて職務質問の機会さえ逃していた。
手許に男児の靴だけが戻り、以来犯人からの連絡は途絶えることとなる。男児の生命にかかわる事態をおそれて本物の紙幣が用意されていたが、その後の「追跡」までは想定しておらず紙幣ナンバーは確認されていなかった。

 

13日には原文兵警視総監がマスコミを通じて「親に返してやってほしい」と犯人への異例の呼びかけを行ったが、反応は返ってこなかった。19日、公開捜査に踏み切ったものの1万件に及ぶ情報提供が寄せられ、情報の絞り込みや裏付け捜査に多大な時間を要した。

25日、下谷北署捜査本部は録音された「犯人の声」を、オリンピックを控えて急速に普及したラジオ、テレビを通じて全国に放送。この試みも本邦初であり、人攫いをして親を脅し金まで奪った極悪人の「声」は人々の大きな関心を集めた。公開から正午までに220件を超す情報が寄せられたという。

 

■影響

早期解決が叶わず公開捜査となったことで、生還を願う人々によって情報提供を求める街頭でのビラ配りなど「吉展ちゃんを探そう運動」が全国の婦人会を中心に広まった。一方、各地で模倣した誘拐事件が頻発したこと等から警察のあり方、捜査手法や法律について再検討を望む世論が高まりを見せた。

 

1963年5月には国会でも議論され、翌年刑法第225条の2として、身代金目的の略取・誘拐等の罪状が追加された(「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。」)。

警視庁も身代金を奪われ、目前にあった犯人確保の機会を逸した教訓から、64年4月、捜査第一課内に特殊犯捜査係(SIT)を設置した。のち70年には刑事警察刷新強化対策要綱が策定され、各警察本部へ特殊事件捜査係設置の方針を決めた。当初は誘拐犯罪を主に扱う部署として、特殊通信、逆探知、追跡、交渉・受け渡し術などの捜査手法を専門化し、それら技術は人質事件、対テロ作戦などへも応用されるようになった。
行方不明から2年が経った1965年3月には、ボニージャックス、ザ・ピーナッツフランク永井らが、事件を主題にした楽曲「かえしておくれ今すぐに」を所属会社の垣根を越えて一斉にリリースするなど、長期化するなかでも社会的関心の高さが窺える。

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当時は営利目的の誘拐に関する捜査のノウハウが確立されていなかった。すでに述べたように、録音機材や逆探知が導入できていなかったこと、身代金のナンバーが控えられていなかったこと等のほか、脅迫電話の主を「40~55歳くらい」と推定されていたことで誤った犯人像を広めてしまったことも犯人特定の遅れに影響した。

誤った犯人像の流布という意味では三億円事件モンタージュ捏造、年齢推定の誤算という点では事件発生から解決までに11年を要した神戸北区高2男子殺害事件などが想起される。市民社会を襲った幼児誘拐、テレビ、ラジオでの「声」付き公開捜査のインパクトによって中高年の犯人像が強く刷り込まれてしまった。

 

音声が一般公開された4月25日、ラジオで「犯人の声」を耳にした日本語学者の金田一春彦氏(当時東京外国語大学教授)がそのアクセントについて、宮城・福島・山形の「奥州南部」または茨城・栃木の出身者ではないかと何気なくつぶやいた。戦後から番組出演やアナウンサー講師としてNHKとつながりがあったことから、妻珠江さんがその旨を連絡し、翌26日の朝日新聞にその洞察が取り上げられた。

金田一氏は従来の日本語学が書き言葉・文法を基調としたのに対し、よりオーラルコミュニケーションに着目した研究を深めていた。「青」や「3番目」といった言葉のアクセント、鼻濁音の使い方などから先の地域の訛りや発声法が読み取れると説明。会話内容や口調から「教養の低い人と見られる」が「高圧的な言葉遣いをしている」と指摘し、犯人像として「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官勤めをしていた人ではないか」とまで述べている。

またロシア文学アイヌ学、言語学に詳しい東北大学鬼春人教授は、1963年5月11日に河北新報に「吉展ちゃん事件、犯人の声を追う―言語基層学的研究から―」を寄稿、翌64年7月には中央公論に「吉展ちゃん事件を推理する」と題した論考を展開し、録音テープに残された「犯人の声」を手掛かりに、声紋や方言などから出生地や育ちを科学的に分析し、科学捜査の手法としての声紋鑑定導入を後押しした。そのなかで福島・栃木・茨城の県境にルーツがあるとの見解を示している(1965年2月に弘文堂から『吉展ちゃん事件の犯人その科学的推理』として刊行)。

 

日本の犯罪捜査分野では声紋や音響鑑定が導入されておらず、犯人の「声」を重視するまでに大きな後れを取った。捜査担当者は事件発生から2カ月半経った6月下旬になって科警研にテープを持ち込み、物理研究室技官鈴木隆雄氏が音声鑑定を担当することとなった。しかし音声の音響的特徴(フォルマント、ピッチ、波形)を抽出するソナグラフといった分析機器もなく、本件の鑑定は東京外国語大学で音声学を専門とする秋山和儀教授に依頼された(科警研がソナグラフを導入し、音声鑑定の研究を開始したのは64年以降である)。

事件から2年後の65年3月、警視庁は捜査本部を解散し、FBI方式の専従による特捜班を設置する。暗礁に乗り上げた捜査状況を一新して見直す目論見から、戦後から昭和50年にかけて叩き上げから数々の難事件で功績を挙げ、後の世に“捜査の神様”などとも謳われた敏腕刑事平塚八兵衛氏も特捜班に名を連ねた。

 

 ■足の悪い男

ある男に「声が似ている」として名指しで9件の情報提供が入っていた。上野御徒町で時計修理工をしていた小原保(30)である。担当刑事だった石井千代松氏は、小原の弟も情報提供してくれたと後年明かしている。通報前にきょうだい間で連絡を取り合って確認したが、「似ている」という意見で一致したという。

 

小原保は福島県石川郡石川町の貧農に生まれ、11人きょうだいの10番目の子どもとして生まれた。国民学校4年生の頃、骨髄炎を悪化させて左右股関節と右足首を悪くした。2度の手術と歩行訓練の甲斐あって杖なしで歩けるまでにはなったが、見た目にも湾曲して引きずるようになってしまい、学業にも大きな後れをきたした。周囲からいじめを受け、劣等感や生活苦が発育を歪ませたのか、小学生にして盗癖が身についてしまう。
親は手に職を付けさせようと、14歳で時計職人の許に弟子入りさせた。しかし職人の一家が疫痢にかかったため小原は駆け出しのまま実家に戻る羽目となる。仙台の障害者職業訓練所で改めて時計修理工の課程を修了し、市内の時計店で勤め始めたが、今度は自らが肋膜炎を患っってしまい再び帰省を余儀なくされた。20歳のときデパートの時計部の職にありついてここでは2年程勤めたが、同僚女性に脚のことをからかわれて逆上し職を離れてしまう。
就職と失業を繰り返す流浪の身となり、窃盗や横領の前科を重ねた。東京へと流れ着き、時計商をしながら荒川区で小料理屋「清香」を営む成田キヨ子と懇ろとなり同棲生活を送った。女性は10才ほど年の離れた身寄りのない元芸者で、店はかつてパトロンが世話したものだとされる。恋慕の情以外にも、行き場をなくした渡り鳥のような男の身の上に多少の同情心があったのかもしれない。男は知人による時計の持ち逃げに遭い、飲み代や仕入れ代金で借金が嵩み、やがて詐欺まがいの横流しにも手を染めていた。

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借金があったことや脅迫電話の声質と似ていたこと等から小原は早い段階で捜査リストに挙がった。1963年8月、小原は賽銭泥棒で懲役1年6か月の執行猶予付き判決を受け、同棲相手と別れた後、12月に工事現場から盗んだカメラを質入れしたことが発覚して再び逮捕。翌64年4月に懲役2年が確定し、前橋刑務所に服役した。いずれも誘拐事件についての取調べが“ホンボシ”の、いわゆる別件逮捕である。

しかし小原は「事件発生前日」から「最初の脅迫電話」の翌日にあたる3月27日から4月3日にかけて、借金返済の金策のために「郷里の福島へ出向いていた」と供述して誘拐の容疑は否認。実家に顔を出してはいなかったが、同地で複数の目撃証言があったことからアリバイとして認められた。

また吉展ちゃんの身代金が奪われた直後の時期に、小原は借金返済のためキヨ子に20万円を預けていた。大金の出処について、小原は「時計の密輸」を持ちかけてきたブローカーから横領した金だと供述した。相手ブローカーの素性について明かそうとはしないものの、奪われた50万円とは金額に開きがあった。

嘘発見器の判定はシロ、また不自由な脚で速やかに逃走できたものかあやしく、冒頭の手配書にあるよう当初「40歳から55歳まで」と目された推定年齢に一致しないこと等もあり逮捕の決め手を欠いた。小原本人も黙秘したり、のらりくらりと話をはぐらかして勾留期限を乗り切られていた。

 

だが先述の秋山鑑定を行った結果、犯人の声は従来とは異なる「30歳前後」と推定され、事件直後の5月に文化放送記者伊藤登氏によるインタビュー取材で得られていた小原の録音テープと照合した結果、両者の波形的特徴は「よく似ている」と指摘された。

伊藤記者は「犯人の声」公開で世間が騒然とする中、「似た声の男を知っている」との情報を頼りに5月時点で小原と接触していた。「清香」で直接インタビューをしたときはそれほど似ている印象はなかったという。事件について問えば、男は素人推理にはなるが、と前置きしたうえで「(身代金誘拐という)その犯罪のやり方がとても緻密だということは法律のことを知っている人じゃないか」と犯人像を述べた。

しかし世間では男児の生存を願う声が多い中、男は犯人について「あんな残酷な人間」などとすでに殺害されているかのような口ぶりで語っており、記者として何か“引っかかり”を感じたという。後日、再取材をしようと電話を掛けてみると「電話越しの小原の声」は犯人の声とそっくりで驚いたと述べている。

 

■アリバイ崩し

特捜班は改めて小原を取り調べるため、身柄を前橋刑務所から東京拘置所に移管させた。人権擁護の立場から、別件で既に服役している小原への度重なる取調べに対して「不当逮捕ではないか」とする声も上がっており、リミットは10日間に限定されていた。遺体も凶器もなく、金の流れも追跡しきれないなかで、捜査班に残された術は徹底したアリバイ崩しによって本人に口を割らせる以外なかった。

「保君よ、こっち見ろよ、こっち。お互い話ししようとしてるんだから相手の目を見なさいよ。目を、僕の目を見なさいよ」
小原がキヨ子に預けた金とは別に、小原の弟から「1万円札30枚くらい」の大金を小原が所持していたとの情報が得られた。調べを進めていくと、身代金が奪われた4月7日以降の一週間で小原には計42万円近くの支出があったと確認される。
また確かに足に障害があり歩行は不得手であったが、堀を飛び越えるなどある程度俊敏な身のこなしができたことを裏付ける情報もあり、現場から逃げ切ることは可能だったとみなされていく。

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福島でのアリバイについて、事件当日となる3月31日の目撃証言をしていたのは雑貨商の老婆だった。老婆は30日頃、親戚男性から「藁ボッチ(作物や樹木の防寒に被せる藁)で野宿していた男を追い払った」と聞かされており、「その翌日」にどうやらそれらしい「足の不自由な男」が橋を渡る姿を目撃していた。

改めて親戚男性に話しを聞くと、藁ボッチは野宿者がきた日に片付けたと話した。野宿者を追い払った後、不審者がいたことを通報しに行くと「男が逆恨みして付け火でもされては困る」と駐在に言われたのだという。そこで駐在に確認をとってみると野宿者がいたのは「29日」と記録が残っていた。老婆が「足の不自由な男」を目撃したのは「その翌日」の3月30日、つまり誘拐事件の前日だったことが判明する。


脅迫電話のあった4月2日の目撃証言は、その親戚男性の母親で「孫の通院」の際に小原を見掛けたというものだった。孫は持病で頻繁に通院しており、たしかに4月2日にも受診履歴が残されていた。しかし話を聞いていくと、男を見掛けた際の通院は「草餅の食べ過ぎ」による腹痛が原因だったと言い、餅は旧暦の「上巳の節供」に供されたものと判明する。その年の上巳の節供は「3月27日」であり、病院で男を目撃したのは4月2日より前に受診した「3月28日」の出来事だったのである。

 

お前のお母さんがね、僕たちが福島に行ったら

本当にもう気の毒だよ、お前、中腰曲げてね

歯は抜けてしまい、言葉がはっきりとしない

それでもね、泣きながらねぇ

「刑事さん早く保に本当のことを言わせて解決つけてください」と

「私はもうあきらめています」と

「ひとつ今度だけは、何が何でも解決してくれ」と

お前のお母さんこんな状態だったよ

おい見てんのかよ!

保!

お前のお母さん、こんな状態だったよ!

平塚刑事は、福島の寒村で息子の罪を詫びる73歳の老母のふるまいを真似て背を折り曲げ、小原に何度も土下座して見せた。

お前の家を出てきて、道の高いところ

道路へ上がったら後から追っかけてきて

泥んこの上、ぺっちゃり座っちゃって

「刑事さん、どうか話を聞いてくれ」と

 

お前、たまにはお袋の姿をね、頭に浮かべたことはあるのかい

保!

保っ!

取調べに同席した元捜査一課小橋豊通氏は、そのとき小原は反抗もせず、黙って様子を見ていたと言い、「それまでの表情と変わっていたことは間違いない」と後に語っている。テレビ朝日系報道番組『ドキュメンタリ宣言』で、平塚刑事の遺品にあった当時の取り調べの録音テープの一部が放映されており、“落としの八兵衛”とも呼ばれたその実力を偲ばせる。

 

「小原の声」と「犯人の声」を分析した秋山教授も声紋を犯罪捜査のために扱った経験はなく、比較サンプルも限られていたため、「1/50の確率で」「よく似ている」といえる程度で、両者を同一人物と断定することはできなかった。当時の通信、録音技術や解析法では「指紋」のように犯人性を示すに足る証拠能力がないことは明白だった。

上層部は直接の取り調べを期日までで一旦打ち切りとし、専門性の高い技術を持つFBIへ声紋鑑定を依頼するとの方針を示した。1965年7月3日、捜査班に与えられた取調べ最終日の任務は、きしくも鑑定用の声紋採取、雑談によって小原を喋らせ「録音」することだった。

平塚「(福島から)東京へ帰ってきたのは、一体いく日なんだい?」

小原「火事の日なんです、日暮里の火事。2日に帰ってきたんです」

日暮里大火は4月2日14時56分頃、寝具製造会社で発生した火災が折からの強風によって煽られ、周辺倉庫や1000トン以上の特殊可燃物が集積されたゴム工場に飛び火し、死者こそなかったものの7時間にもわたって燃え続け、36棟、5098平米を焼失した大災害である。

平塚「どこで見たんだ。火の燃えてんの見てんの、きみは?」

小原「山手線か何か。わあっと真っ暗になるほど煙が出てきた」

大火は「最初の脅迫電話」があった「4月2日」に起きており、小原がその様子を都内で見ていたとすれば「4月3日まで福島にいた」とするこれまでの自らの供述と明らかに矛盾することになる。

 

捜査班は色めき立ちこれまでの裏付け調査で多くのアリバイが崩れていることを小原に全て突きつけ、最後の揺さぶりをかける。この日まで落としきれずFBIの鑑定に縋るより打つ手がないとされた捜査班からすれば背水の陣、最後の賭けに違いなかった。

「あんたの姉さんの調書を見たんだよね。38年はね、普通の(コメの)凍み餅は作ってないって言うんだよ。イモ餅以外はないって」

これまで小原は、実家へと赴いたものの気まずさから家族との対面は憚られ、野宿をして過ごしたと語っていた。腹が空いたときは、土蔵の落とし鍵を開けて忍び込み、毎年家で作る凍み餅(しみもち。紐で固定した餅を水に浸し、吊るし干ししてつくる保存食)を食べてしのいだと証言していた。しかし土蔵は改修されてかつての落とし鍵ではなく南京錠に換えられており、その年は不作によりコメの凍み餅をつくっていなかったのである。

墓穴を掘った小原は次第に追い詰められ、「月曜日(7月5日)になったらお話します」「自分がやったことに対しては言い訳しようと思わないんで」と半ば犯行を認める態度を示した。翌日も調べは継続され、捜査員が「まあ、飲め」とお茶を差し出すと、小原は口もつけず「最初にお話することは、吉展ちゃんが今どこにいるかということです」とついに自供を始めたのだった。

 

身柄を警視庁に移され、誘拐・恐喝の容疑で逮捕。男児を攫った3月31日、その日のうちに殺害していたと全面自供に至った。5日未明、小原の供述通り、荒川区南千住の円通寺墓地にあった墓石の下(遺骨を納める唐櫃)から二つ折りになった男児の遺体が発見された。

1965年7月5日7時35分からNHKで放映された『ついに帰らなかった吉展ちゃん』はビデオ・リサーチ社・関東地区調べで59.0%を記録。「何でもいいから生きていてほしかった」と泣き伏す母豊子さんの姿が伝えられ、人々は哀悼に暮れた。原警視総監は村越家に弔問し、無事奪還することができなかったことを両親に謝罪。円通寺の現場にも多くの市民が焼香に訪れた。その後、境内には供養のため「よしのぶ地蔵」が建立された。
元監察医・上野正彦氏は著書『死体は語る』の中で、担当医から聞いた話としてこの事件に触れている。遺体は死後変化が激しく個人識別が困難だったが、その口元には3本の新芽が伸びていたという。調べてみると、種子が発芽するまでに2年を要するネズミモチ(モクセイ科の常緑灌木)の芽と分かり、犯人の自供が事実であることが裏付けられたとしている。

 

■真人間

小原保は営利誘拐、恐喝に加え、殺人、死体遺棄で起訴され、1966年3月17日に東京地裁で死刑判決を受けた。弁護側は、小原は失踪を報じた翌日の新聞で吉展ちゃんだと知り、身代金の要求を思いついたくらいでその犯行に計画性はなかったとして控訴。同年9月、東京高裁は控訴を棄却した。

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67年春、小原は上告審を前に弁護人を解任し、急遽、当時3年目の若手だった白石正明弁護士が担当することになる。上の弁護士ドットコムのインタビュー記事によれば、「金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だった」と評している。福島県会津疎開した経験や当時よく山登りをしていた話をすると、男の方も少年時代を振り返るなど心を開いたようだったと振り返り、もっと前に他の弁護士にも心を開いていれば判決は変わっていたかもしれないと述べている。

 

興味深いことに、小原は一審、二審で自ら殺害の事実を認め、すでに改悛の情に達していたが、「自白」の一部について否認する内容を白石弁護士に語ったという。聴取の中で違うと言っても聞き入れてもらえなかったので、捜査員の言われるままにしたというのである。

小原が前任者らに心を開いていなかったかどうかは分からないが、立場は違えど被告人と比較的年が近かったことも影響していたのかもしれない。事件から時間が経ち諦念の境地が深まっていたこと、また周囲で死刑執行が進む中、恐怖心や、たとえ判決が覆らなくてもだれかに話しておきたいという心境に駆られていたようにも思える。

殺害状況について検察側が述べた「殺害するため墓地へ連れて行き、首を蛇側のバンドで占めたうえ、両手でもう一度絞めて窒息死させた」というのは事実ではなく、「誘拐後に墓地で休んでいたらアベックがやってきたため、男児に騒がれては困ると手で口を塞いでいたところ、気付いたら亡くなっていた」と話し、殺意を否定したという。小原は子どもを殺すのに2度も首は絞めることはないと語っており、それが事実であれば「殺人」ではなく、量刑に死刑のない「傷害致死」に該当する。

 

また「足に障害があっても俊敏に動けた」とする逃走についても否定し、歩くのが不自由なので自転車を使うことが多かったという。母親が置いていった身代金を得る際も、盗んだ「自転車」で駆けつけ素早く持ち去ったと明かした。白石弁護士は男の証言の裏付けを取るため郷里の石川町に赴き、帰郷した際に小原が使用したとする証言に合う放置自転車が確認でき、東京でも身代金を奪った日に近郊でそれらしい自転車が目撃されていた。

通常、最高裁では新たな証拠の審議は行われず、それまでの判決の法的妥当性について争われる。白井弁護士は、殺意の認定を覆す証明は難しいにせよ、供述とは異なる事実を示すことで取調べに「自白の強要」があったことを示そうと試みた。しかし1967年10月、最高裁は上告棄却を決定。死刑が確定する。

 

福島の実家にも多くの報道陣が詰めかけ、小原の母親はひたすら土下座して謝罪をし続けた。現代であれば30歳の犯人の親に非が向かうこともそれほどないが、加害者遺族の権利も認められない時代にあって、世論や地域社会からの風当たりも相当厳しいものがあったと思われる。

長きにわたって疑いを掛けられながらも、口を割らなかった男の胸中にもこの母親の存在が大きかったに違いない。犯行そのものは卑劣極まりなく、男児の生存を装って平然と金を強請り、インタビューや取調べでもシラを切り通そうとする大胆不敵とも取れる狡猾な側面はあった。反面その背景には、債権者の取り立てを恐れて金を工面しなければと郷里に戻ったが親きょうだいに合わせる顔もなく逃げ帰るなど「気弱な小心者」の態度も見て取れる。口を割れば親きょうだいに迷惑が掛かる、人殺しの家族と知れれば村八分にされるといった危惧が、2年もの間、この「小心者」に頑なな態度をとらせたのだと思う。

 

死刑確定後、教誨師は小原の心の支えに短歌を勧め、福島誠一名義で創作に励んだ。1971年12月22日、前日にその執行を知らされた死刑囚は辞世の句を編んだ。

明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る

翌23日、死刑執行。享年38歳。遺骨は福島に帰るも家の墓に収めることは許されず、卒塔婆もない土盛の下に埋められた。

一説には、小原は執行の折に「今度生まれてくるときは真人間になって生まれてきます」と平塚刑事への言伝を頼んだとされる。平塚刑事は長引く取調べの中で「一時でも真人間になってすっかり喋ってみろ」と小原を諭したことがあった。4年後に墓所を訪れた平塚刑事は土盛を前にして慟哭を禁じえなかったという。

 

被害者のご冥福と、ご家族の心の安寧を願います。

 

 

東京高等裁判所 昭和41年(う)926号 判決 - 大判例

神戸市北区男子高校生刺殺事件

2010(平成22)年、兵庫県神戸市北区で高2男子が被害に遭った刺殺事件について記す。

 

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目撃者、凶器、DNA型といった証拠は揃いながらも未解決のまま10年以上が経過した2021年8月、犯人逮捕の報が届けられた。
逮捕されたのは事件当時17歳の元少年で、少年法の対象となるため名前は伏せられている。被害者との面識はなく、殺害を認める供述を行っている。2022年1月28日、男は殺人罪神戸地裁に起訴された。

 

■事件発生

10月4日(月)神戸市北区の住宅街、中高生10人程がショッピング施設近くにある市民公園に集まって何をするとはなしに放課後の時間を過ごし、日が暮れると散会して銘々が家路についた。

帰宅後、グループの中にいた高校2年生の堤将太さん(16)は交際相手の中学3年生の女子生徒Yさん(15)とメールでやりとりし、再会する約束を交わしていた。食後、テレビドラマを見終えると「友達の家に本を取りに行く」と言い残して家を出た。

時刻は22時過ぎ。以前から近くの公園で屯する様子を見知っていた父親は、どうせまた友達と話し込むのだろうと思い、遅い時刻で気掛かりではあったが顔も見ずに「早く帰ってこいよ」と声を掛けただけだった。

 

筑紫が丘4丁目、2人は元タバコ屋跡の自販機が残る一角で待ち合わせた。昼間は学校で会えない、放課後は他の友達が一緒にいるため、2人きりになれる貴重な時間だったにちがいない。

2人は自販機の傍に座ってジュースを飲みながら談笑を始めた。10分か20分程経った頃、上下ジャージ姿の男性が目の前を通り過ぎ、気付くと10メートルほど離れた道路の反対側にあった車止めの支柱に腰掛け、こちらを窺うようにじっと見ていた。静まり返った夜の住宅街、突然現れた男の挙動はどこか奇妙に映った。

「あの人、気持ち悪いね」

「ほんまやな」

男はやおら歩き出し2人の前に近づくと、将太さんの肩に目掛けて小型の刃物を振りかざす。

「逃げろ」

将太さんの声にYさんはその場を駆け出し、慌てて助けを求めた。時刻は22時45分頃。近隣住民は少女の「きゃー」という叫び声や、将太さんの「いってー」「たすけてー」という声を耳にしている。50分前後にはYさんを含め、警察に複数の通報が入った。その直後、近所に住む少年が堤家に駆け込み、家人に「将太が刺された!」と報せた。

 

将太さんは自宅から約500メートル、襲われた自販機前から70メートル程離れた交差点付近で意識を失って倒れていた。頭部や首、背中など7、8か所を刺されており、殴られたような打撲痕も見られた。多数の傷跡、道路に残された血痕は犯人が少年を執念深く追いかけたことを物語っていた。所持品などを奪われた形跡はなく、襲った動機は分からなかった。

まもなく市内の病院に運ばれたが、5日0時26分に死亡が確認される。頸部約8センチの深い刺し傷が致命傷となり、死因は失血死とされた。17歳の誕生日を迎える6日前の出来事だった。

 

23時には無線で男の特徴が伝えられ、周辺に警官が配備されたものの犯行後の足取りは皆目掴めなかった。

5日朝、神戸北署は約80人体制の捜査本部を設置。予断を排し「あらゆる可能性を考慮して」捜査を開始した。

 

■普通の高校生

二男二女4人きょうだいの末っ子として生まれた将太さんは、小学生の頃から野球に打ち込んだ。高校は県内有数の野球強豪校・神戸広陵学園に進学するも、周囲との力の差に部活を断念。それでも中学校の野球部後輩らの練習を手伝うなど思い入れは強かった。教科書は新品同様だったが、プロ野球の選手名鑑はボロボロになるまで読み込んでいたという。

夏休みには父親の電気工事業の手伝いをし、職人達ともすぐに打ち解けて、「おとんの仕事を継ぐのもいいかもな」と語っていた。

事件後、弔問や「17歳の誕生会」に訪れた将太さんの友人らからたくさん息子の話を聞かされた父親は大いに励まされたと感謝し、「羨ましいほどいい仲間を持った」ことを嬉しく思った。その後「息子が一番つらかったはずの殺されたときのことを知らない。せめて生きていたときのことは親に見せていなかった面も含めて全部知っておいてやりたい」と息子のブログを何度も読み返したという。

 

一方、インターネット上では、事件が深夜の逢引き中に起きたことや、将太さんとYさんのSNSが拡散されたこと等から、事件に関する人々のコメントは言われなき誹謗中傷が湧きあがった。バイク好きで免許試験に励んでいたことや、Yさんと金髪姿でお揃いのアクセサリーをつけたプリクラ画像の風貌から「ヤンキー」「暴走族」と見做され、更には「死んでよかった」「ゴミが消えてくれたから有難いな(笑)」といった罵詈雑言が繰り返された。

「確かにいわゆる優等生ではなく、悪ガキだった」と父親は言う。髪を染め、ミニバイクに乗り、公園で友人らと屯していたのは事実だった。だが極端な非行に走っていた訳ではなく、父親から見れば「リビングで何でもおしゃべりする、ひょうきんで楽しい子」だったという。むしろ「夜は怖い先輩が来るから」と遅くに徘徊することは滅多になく、父は「(髪色は)学校が始まったら黒に戻していました。遊びたい盛りの本当に普通の高校生だったんです」と語る。

 

あのとき無理にでも外出を引き留めていれば、別の部活に入れさせていれば…後悔の日々を過ごした父親は、その後「やれるだけのことはやってやる」と決意し、情報提供の呼びかけ、学校などでの講演活動を11年間続けてきた。毎年ビラ配りなどを協力してくれる将太さんの友人らの姿を目に、「うちの息子もそうなっていたのかな、と若干だけど想像もできる。寂しいけど(成長するみんなの姿が)うれしい」とも語っている。

また大学の通信教育で法律や少年法について学び、神戸地裁で別の事件の裁判員裁判を傍聴するなどして、遺族の発言機会についての準備も進めてきた。

それでも警察から犯人逮捕の連絡を受けたときは何も言葉が出なかったと言い、「『本当なのか』と驚くとともにこれまで情報提供を求める活動を重ねてきた思いも相まって、涙がこみ上げてきました。私たちにできることは静かに冥福を祈ることです」とコメントを寄せた。一週間後の取材では「今後は事件だけじゃなく、容疑者とも向き合っていかなあかん」と決意を新たにした。

 

逮捕後に現場を訪れた友人はコーラを供えながら「あいつは基本コーラ。ずっと炭酸を飲んでいた」と懐かしむ。また先輩のひとりは、交際相手Yさんについても当時よく聞かされていたと言い、「本当に大事にしていた。『将来は一緒になるねん』と、うれしそうな顔が忘れられない」と話した。

 

■敵意

襲撃現場となった自販機前は若者らの“たまり場”になっているとして以前から近隣の苦情が寄せられていた。そうした事実に基づく報道も、被害者を夜毎住民に迷惑をかける「不良」と一括りにする世間の見方を強めた。またどういう意図で置かれたものかは分からないが現場の供え物の中に、煙草や酒類があったこともそうした印象を助長した。将太さんのことを直接知らない近郊の人々が「酒も煙草も知らないうちに逝っちまいやがって……」と気を利かせたつもりだったかもしれない。だが将太さんは「基本コーラ」を嗜む普通の、ちょっとヤンチャな高校生なのである。

 

Yさんは襲ってきた男について「知らない男だった」、Yさんに襲い掛かってはおらず「最初から堤さんを狙っていたと思う」と話した。

犯人の特徴として、年齢は20歳代後半~30歳代くらい、体格は165~175センチくらいの小太りで、外はねの長い髪、濃い眉毛、細い目、老け顔、短い口髭を挙げた。

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Yさんが描いた似顔絵はインターネット上で揶揄の対象にされ、ブログの内容にも注目が集まった。家庭の事情により少女は祖母に育てられており、家族や祖母に対する不平不満がブログ内に綴られていたことも彼女への「不良少女」というレッテルをより強固なものにした。

また夏場に将太さんと度々喧嘩があったとする記述などから、人々はYさんの知り合いの男性(別の交際相手など)による犯行の線を疑った。犯人に脅されていて真相を語れないのではないかとするものもあれば、むしろ犯人を庇うために虚偽の証言をしたり、でたらめな似顔絵を描いたとする「狂言説」、果ては連れに殺害を依頼したとする「依頼殺人説」まで囁かれた。

事件翌日には、事件発生の10分程前に近隣住民も現場で3人の姿を目撃していることも報じられた。それでもネット上では「不良」「若者」に対する強い偏見を事件に重ねる人々から「ゴミどもの小競り合い」と罵られ、ミソジニーをぶちまけるが如く「女だからどこまで本当のこと言ってるか信用ならん」と疑われ続けた。掲示板サイト等では閉鎖されたYさんのブログ内容を騙って「元カレも亡くなっている」「将太、あのな うち…幸せやで」といった数多くのデマが捏造された。

尚、冒頭の手配書の似顔絵は2012年12月、操作特別報奨金制度の対象となったことで捜査本部から新たに公表されたものである。

 

警察は当初、将太さんへの「怨恨」か、流しの「通り魔」的犯行と目星を付けた。だが現場は土地勘のない余所者が徘徊するような場所ではなく、ひと気のない夜の住宅街だったこと等から内部では「怨恨」の見方が強まる。逮捕後の神戸新聞の記事によれば、事件翌日の5日時点で規制線も撤去され、捜査員は裏取りを進めればすぐに検挙できると踏んでいた様子も窺える。山を切り開いてできた住宅街はいわば袋小路と言え、人海戦術を続ければ逃げ場はない、と思われた。

将太さん、Yさんの交友関係は当然のこと、周辺で発生したトラブルとの関連や近郊の暴走グループなども捜査線上に上ったが、事件との関連は見当たらなかった。落ちていたタバコの吸い殻、買い物のレシートなども確認されたが男と結びつく線にはならず。捜査関係者は「将太君にトラブルはなかった。いい評判しか聞かない」と口にする。ネット上で語られるような方々で恨みを買うような不良少年ではなかったのである。

 

事件発生から6日後の10月10日、近くの住人が清掃作業中に、現場から南西およそ100メートル離れた側溝の中から小型ナイフを発見する。刃渡り約10センチ、全長約20センチの片刃の調理用ナイフで、指紋や目に見える血の付着はなかったが、科捜研の鑑定で微量の血痕が検出され、被害者のDNA型と一致が確認され凶器と断定された。

凶器が発見された側溝は、事件翌日にも捜査員が確認していた箇所であった。取材で「見落とし」ではないかとする指摘を受けた捜査幹部は「捜索以降に何者かが捨てたと見ている」と反論。つまり犯人が一度持ち帰って指紋や付着した血を拭き取るなどの処置をしてから、再び現場付近の側溝に遺棄したものと判断した。

ナイフは現場近くのジャスコつくしが丘店でも販売されており、2016年10月には、事件前の9月26日(日)に購入した10代後半~20代前半くらい、「黒赤チェックの上着」に「プーマ社製の水色のズボン」の男性を参考人として公表し、更なる情報提供を求めた。

その一方で、捜査本部内や記者からは、なぜ小型で頑丈そうには見えないナイフで執拗に攻撃したのかといった疑問も浮かんでいた。だが、犯人が車やバイクを使用した形跡もなく、現場周辺に住んでいるとの見方は一層強まった。

 

しかし約11年の間に捜査員延べ3万3000人程が動員され、約920件の情報提供が寄せられたものの、捜査は長らく大きな進展が見られなかった。

 

ネット上では「地元不良説」、「Yさん狂言説」などのほか、未解決事件の常として地元有力者や警察関係者の子弟による犯行なども噂された。また、神戸市でも北区は山間部に近いことなどから比較的大きな病院や療養施設も少なくない。地域差別的な意識が内包されているのか、そうした施設から逃げ出した精神病質者などによる通り魔的な犯行を挙げる声も中にはあった。

 

この事件をネット上でたどろうとすれば、「被害者の美談化に疑問」といった旨の感想をよく目にする。当時メディアは将太さんが身を挺して少女を守ったと報じ、Yさんの祖母が現場を訪れ「庇ってくれてありがとう」と手を合わせる姿も見られた。そうした報道に違和感や反感を抱いた反応と思われ、いずれも内容は被害者の不良視、少女Yさんへの疑惑を語る内容へと傾いていく。ブログやSNS掲示板は有用な情報伝達の手段ともなりうるが、ときに過剰な感情の捌け口となる。過剰な感情は言葉の凶器となり被害者のみならず関係者らをも傷つける。「意図せぬ敵意」が量産され、被害者への二次被害、遺族や関係者への三次被害へと波及していく。

容姿による偏見、差別的価値観、ステレオタイプな物の捉え方……書いた当人にとっては何気ないカキコミなのか、確信を持ったつぶやきのつもりかは分からない。筆者自身も事件に絡めて妄想や推論を書き連ねる側の人間として改めて身につまされる思いがする。事件を単なるミステリー的な興味関心ではなく、実社会でなぜこうした不幸や悲劇が起き、繰り返されるのか、どうすれば回避できたのかを考える機会とすべく粛々と学んでいきたいと考えている。手前勝手にも不快な表現や根拠に乏しい妄言もあると思うが何卒お目こぼしいただければと願う。

 

■「疑わしい人物が愛知にいる」

2020年12月以降は約70件の情報提供があった。10年以上の未解決事件としては多い印象を受ける。その中に、疑わしい人物がいると名指しで寄せられた情報を基に周辺捜査にあたったところ、関与の可能性が非常に高まったとして愛知県警小牧署が豊山町に住む元少年(28)を任意同行、その後の逮捕にこぎつけた。

元少年の男は約5年前に愛知県豊山町に転居し、両親と3人暮らし。県内のショッピング施設で広報や売上管理などのパート勤務をしていた。事件の数か月前に東北の高校を退学し、事件当時は神戸市北区の現場近くに住む祖母の許で暮らしていた。将太さんと過去に面識はなく、調べに対し「女のこと話しているのを見て、腹が立った」旨の供述をしているという。

おそらくは住民票等も異動しておらず、学校に通っていなかったこと等から捜査の網の目から抜け落ちていた可能性が高い。当時目撃された風貌からしてもいわゆる「引きこもり」状態にあり、家族とも接点が薄く気付いていなかったと考えられる。

2017年には高校生刺殺を題材にした小説をインターネット上で公開していたとされ、2020年秋頃、知人に「人を殺したことがある」と告げたことから情報提供につながった。

 

将太さんの衣服に本人のものとは異なる血痕が付着しており、DNA型鑑定の結果、元少年のものと一致した。少年法61条により氏名等の個人情報公開が更生の妨げになるとされており現在非公表とされているが、取調べ等手続きは家裁を挟むことなく成人として行われている。

尚、本件は対象外となるが、2022年4月に民法上の成人年齢が18歳に引き下げられるに伴い、改正少年法ではこれまで保護対象だった18、19歳について、各地検の判断により重大かつ地域に与える影響が深刻な場合は「特定少年」として成人並みの推知報道が可能となる。

 

神戸地検は2021年8月から刑事責任能力の有無を調べるため、期間を延長して約5か月に及ぶ鑑定留置を行い、問題はないとして22年1月28日に殺人罪で起訴した。

捜査特別報奨金制度の対象だったため、1月28日に情報提供者への支払い申請が行われ、逮捕から半年が経った22年2月4日に300万円の支払いが決定した。支払いは今回が7例目。現在も他14事件が対象となっている。

 

将太さんの父親は「警察・捜査の批判はしない」「犯人に自首しろとは言わない」決意を胸に10年10か月間を将太さんのために活動してきた。自ら捜査できる権限もなければ、科学捜査の知見もない中、警察を批判しても事態が好転する訳でもない。呼びかけたところで犯人が素直に現れることはない。むしろ遺族の思いを人々に伝える講演活動や地道に情報提供を訴え続ける中で、我々が犯人を追い詰めているんだという意識に変わっていったという。チラシのポスティングはその間、5万枚に上った。加害者を生まない安心・安全な社会を呼び掛けてきた講演活動は、2021年「ひょうご地域安全まちづくり活動賞」を受賞した。

公判に向けて「過去の判例を重視した判決ではなく、かといって遺族感情が先走る者でもなく、犯罪の抑止につながるもの、被害者・遺族が納得できるものでなければならない」と訴える。

今後裁判で何が明らかにされるのか注視していきたい。

 

将太さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

 

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『将太へ、最良の決着を』神戸・男子高校生殺害事件11年 急展開の「コールドケース」、その先に… | ラジトピ ラジオ関西トピックス

「置いてけぼりにしない」 神戸市北区高校生殺人事件から11年 | サンテレビニュース

<独自>神戸高2刺殺 元少年のDNA型一致 周囲に関与を示唆も - 産経ニュース

旧西那須野町女子大生殺害事件について

2001(平成13)年4月、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)で起きた大学生女性の殺人事件について、風化阻止の目的で記す。

未解決のまま事件から20年が経過した2021年4月の慰霊式で、栃木県警本部捜査第一課早藤晴樹課長は「被害者の無念を晴らすため『必検の思い』、容疑者を必ず検挙する思いで捜査に邁進していく」と決意を語った。

www.youtube.com

これまでに捜査員述べ9万6千人を動員するも犯人検挙に結び付く有力な手掛かりは見つかっておらず、情報提供も年に数件ほどと事件の風化が懸念されている。

 

栃木県警察/殺人事件などの捜査にご協力を!

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■概要

4月14日(土)午前4時20分頃、栃木県西那須野町太夫塚の民家の駐車場で女性が仰向けで倒れているのを、帰宅した住人、新聞配達員女性(51)らが発見し110番通報した。

遺体は白いブラウスに素足といういでたちで、大量の血が流れており、一目で「生きているとは思えない」と感じたという。大田原署員が駆けつけたところ、若い女性は背中を中心に首、胸、腹など約10か所を刃物で刺されており、すでに事切れていた。

 

死亡した女性は近くのマンションに住む国際医療福祉大学看護学科4年生前田笑さん(24)と判明。

マンションの周囲をぐるりと囲むように移動した血痕が残されていたことから、当初は帰宅した際に襲われたものとも考えられた。

しかし前田さんの部屋にも血痕があり、物色されたような痕跡もあった。死因は心臓を刺されたことによる失血死。性的暴行の痕跡はなかった。

 

現場はJR東北線の西那須野駅から約600メートル、西那須野町役場南側の閑静な住宅街の一角。賃貸住宅も多く、人の入れ替わりが激しい地域とされる。

近隣の主婦が午前3時頃に「助けてという女性の声が十回以上聞こえた」と証言しており、大田原署は同時間帯に前田さんが何者かに襲われたものとみて捜査本部を設置した。

 

 

■逃走と追跡

血痕など現場状況から、自室で刺された後、玄関を出てからマンションの周囲を移動し、民家の前で力尽きたものと推測された。

ベランダのドアは施錠されており、東側の窓は無施錠だったが格子があり侵入の形跡はなかった。捜査本部は「自ら招き入れた」「顔見知りの可能性が高い」と判断し、前田さんの交友関係を中心に調べを進めた。

部屋は道路沿いに面していたが、一度は道路側とは逆方向へ逃げ、回り込むようにマンションのベランダ側を移動。再び自分の部屋の脇を通り、20~30メートルほど北にある借家の玄関前(カーポート下)で倒れていた。

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借家1F のガラス窓は割れて血が付着しており、遺体の手の甲にも傷があったことから、前田さんが助けを求めて窓を割ったとみられている。また遺体の頭は道路側を向いており、犯人によって道路側まで3メートルほど引きずられたような痕跡があった。

 

■被害者

前田さんは長野県伊那市に実家があり、3姉妹の末っ子。高校卒業後は専門学校でデザインの勉強をしたが中退。母親、上の姉と同じく看護師を目指していた。

 

ルームシェア

99年7月から同じ大学に通う友人女性と2人でルームシェアをしており、およそ20世帯ほど入る3階建ての2LDKマンション、1F道路側に面した部屋を借りていた。同居人は合鍵を持っていたが、当時外出中だった。

玄関はカードキー方式でオートロック型ではない。だが捜査員が部屋を訪れた際は施錠されていた。カードキーは特殊な型で、一般的な鍵屋での複製は難しいという。

前田さんのバッグの口が開いており、財布は離れた位置にあった。財布には小銭しかなく、紙幣を抜き取られた可能性もある。ルームメイトの部屋は荒らされていなかった。

前田さんが使用していたカードキーは発見されていないが、携帯電話は部屋に残されていた。前田さんは携帯電話を複数所有し、大学の友人やバイト先、趣味のスノーボード仲間に加え、「出会い系サイト」を通じたメル友など交友関係が広かった。

■事件前の動向

事件前日の13日(金)午前、前田さんは突如友人に電話で恋愛相談をしていた、と新聞記事は伝えている。記事に詳細はないが、事件から2年後のライターの松田コウ氏の筆によれば、前田さんは好きではない相手から好意を伝えられて困っている素振りだったとされる。

大学は数日前から新学期が始まっており、前田さんもその日は講義に出席していた。午後4時からパチンコ店のアルバイトに出勤。自宅から大学まで約8キロで、バイト先は大学と自宅の中間にあった。夕方以降の通話記録はなく、送受信した複数件のメールにも待ち合わせや訪問を伝えるやりとりはなかった。

パチンコ店の業務は23時過ぎに終えていたが同僚らとしばらく談笑し、14日午前0時25分過ぎに1人で自分の車で帰路についた。

帰宅途中の14日、パチンコ店の制服姿のままコンビニに立ち寄り夜食などを購入。午前1時ごろに防犯カメラでその姿が確認されている。おにぎり4個、たこ焼き、ジュース2本を購入。普段からバイト帰りにはよく立ち寄っていたようで、いつもは1人分の弁当類を購入していたがその日に限って量が多くレンジでの温めも要望しなかった、と店員は記憶していた。

それ以降の前田さんの目撃情報はないが、買い物の後そのまま帰路についていれば少なくとも午前1時半までには帰宅していたと考えられる。

 

 

■遺留品

マンション向かい側(現場民家の東隣)にある町営駐車場のトイレ裏で、犯行に使われた刃渡り20センチの文化包丁が発見されている。前田さんたちが普段使う包丁はマンションにそのまま残されており、新品ではない痕跡があることから犯人が持ち込んだものと見られた。

マンション付近と町営駐車場で犯人のものとみられる「足跡」が確認されている。サイズは26センチ前後と推定され、靴ひもではなくファスナー形式の中国製の運動靴に使用されている。町内1キロ圏内でも650円で販売されている量産品である。

 

■車

前田さんの自家用車は白のセダン車で、普段はマンション所定の駐車場に停めていた。だが殺害当時は上記町営駐車場のトイレ脇に停められており、車のキーも差したままだった。

またマンション周囲に残されていた血痕は、前田さんが普段停めていたマンション所定の駐車位置を避けるようについており、犯行時はこの場所に車が停まっていたと考えられる。

車内からも前田さんの血痕が見つかっており、前田さん本人が刺された後に乗ったという訳ではなく、返り血を浴びていた犯人が車に乗り込んだ際に付着した可能性が指摘されている。

 

■不審情報

2001年に入ってから不審な黒い乗用車が止まっていたと近所の住民が目撃されていた。乗っていた男は20~30歳代で短髪。車内で煙草を吸っていたという。

前田さんが入居した年の99年12月、部屋から現金6万円とショルダーバッグが盗まれる事件があった。就寝中に無施錠の玄関から侵入したものとみられている。また読売紙は、殺害事件の半年前にも同マンション1F の別の部屋で何者かがベランダに侵入しようとする騒ぎが発生していたと報じている。両案件とも犯人は逮捕されていない。

 

また殺害のあった当夜、町営駐車場で車がアイドリング状態で停車していた情報もあるが、車の特定には至っていない。直接目撃してはいないものの、男性の叫ぶような声、低い唸り声、小走りに走り去った直後、車のドアを勢いよく閉めて急発進させたような「音」も近隣で聞かれている。

 

■ネット上の噂

インターネット上では様々な噂や見方が飛び交う。

「前田さんの友達と付き合っていた」関係で一緒に遊んだことがあるという人物による2014年のカキコミでは、ルームメイトが「口が悪い根性悪い酷い性格の人」とされ、犯人がルームメイトを襲いに来た可能性を述べている。また「噂」として、当時「付き合っていたパチンコ店の彼氏が自殺した」という話を聞いたとしている。

別の掲示板サイトの2018年頃のカキコミでは、「事件の一月後ぐらいに重要参考人が自殺してる」、「パチンコ店勤務の彼氏が自殺したんだよね」とあるが、関係者の自殺の真偽、情報の出処は不明である。

 

■消えた重要参考人

産経新聞では事件翌日の4月15日、現場近くで手に怪我をしている男性が目撃されたことを報じている。捜査本部の調べでは、現場から前田さんとは異なる型の血液が検出されており、犯人が怪我を負っている可能性が高いとされていた。現場に残されていた「血液型」が同男性と同じであることが分かった。

さらに男性は現場で見つかった足跡と同じ型、サイズ26センチの「ほぼ一致する」スニーカーを所持。男性は前田さんと同じマンションの上階 に住んでおり、聞き込みに訪れた捜査員に対して事件当日の帰宅時間について偽って説明していた。

21日、捜査本部は新聞配達業の中国国籍男性(43)に対して重要参考人として事情聴取を開始。調べにより事件当日の14日、新聞販売店の仕事を欠勤していたことが分かっていた。前田さんとは面識があり、金にも困っていたという。マンションのカードキーはやや特殊で、初見では扱いが難しいとされているが、同じマンションの住人であれば当然熟知していたことになる。

しかし事件後約1か月後の記事では中国人男性に関する続報はなく、以降、事件に関する報道は下火となった。

 

 

■消えた理由の検討

上の産経新聞報道を重視するならば、どうしても重要参考人とされた中国人男性に疑いが残ってしまう。

だが1か月と経たずに疑いが晴れていることから、犯人とするに足る確証が得られなかったというよりかは、犯人とは断定しえない潔白の証拠が見つかったものと推測できる。

 

聞き込みに対する「嘘」の証言についても同男性への疑惑が増す要因のひとつである。過去エントリ木下あいりさん事件のように犯人がシラを切っているケースが考えられるからだ。

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しかし出入国管理法違反(不法滞在など)や軽微な犯罪(窃盗、違法薬物など)といった“事件とは関係のない隠しごと”があったとすれば、警察の追及を免れるためにその場しのぎで偽った可能性は十分考えられる。

この男性の詳細(在日中国人か、来日何年目か等)は分からないが、たとえば日本語が不自由で捜査員との意思疎通がうまくいかなかったといった可能性もゼロではなく、かつての精神疾患者などのように「早期解決」を重んじる捜査当局によってあらぬ疑いをもたれて濡れ衣を着せられるケースもないとはいえない。

 

部屋で発見された犯人とみられる靴跡にしても、廉価な量販品となればそれだけ多く流通しており、サイズについても購入層のボリュームは比較的大きい。同じ靴、同じサイズを所持しているだけでは犯人とみなすことはできない。

男性が新聞配達だけをしていたのか別の仕事もあったのか、家族や同居人はいたのかは伝わっていないが、たとえば後になって男性の周辺で確たる「アリバイ」が見つかった可能性はある。

 

また「血液型が一致」したもののDNA型鑑定により全く別人と断定された可能性も考えられる。

日本の犯罪捜査におけるDNA型鑑定は、89年に科警研がMCT118型検査、HLADQα型検査を開発・実用化した。92年、DNAの取り扱いなど法整備が進められ、宮城、東京、大阪、広島、福岡の科捜研で導入。96年にはTH01型、PM検査が導入され、精度を向上させた。本事件当時4種の検査法が運用されていた。一方で足利事件など90年代初頭の鑑定技術は精度が低く、運用上の問題点も多く指摘されている。

鑑定を逆手にとって恣意的に「犯人」を生み出すならまだしも、精度を向上させ既に技術が確立されたDNA型鑑定で「人物の同定」を誤る、真犯人を取り逃がすというようなミスは到底考えづらい。

 

 

■出会い系

自宅で待ち合わせるような通信履歴がないにもかかわらず、交友関係の広さや「出会い系サイト」の使用などから、警察をはじめ「知人説」は根強い。

1999年のDoCoMoiモードのリリース以降、友人や恋人、メル友をつくることを目的としたいわゆる“出会い系サイト”が乱立し、携帯所持の普及とともに利用者も拡大していた。匿名性などから未成年者が犯罪に巻き込まれるケースや売買春の温床となりやすいことは早期から指摘されていた。

2001年上半期(1-6月)の「出会い系」関連の検挙件数は302件で、前年の「年間」件数104件の約3倍。2002年上半期は793件で、「前年同期」の2.6倍に激増している時期である。

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2001年4月、京都市東山区学生寮に住む19歳の女子大学2年生が「メル友と会う」と言い残して行方が分からなくなり、2日後、宇治田原町禅定寺を流れる宇治川で水死体となって発見された事件が起きている。

北海道北見市から進学してきた彼女も地元や学内のみならず他大学の運動部サークルマネージャーを務めるなど交友関係は広かった。橋から落とされたとみられ腰骨骨折など外傷はあったが、胃の内部に大量の水道水が含まれていたことから別の場所で水死させられ川に遺棄されたものとみられた。

翌月、京都市内の質店で女性が使用していたブランド品のバッグが質入れされたことで山科区に住む25歳の元土木作業員男性が逮捕。逮捕直前にも出会い系で知り合った別の28歳会社員女性を車中で絞殺し、綾部市の伊佐津川に遺棄していたことが発覚した。売買春の金額について揉めたことが動機とされ、“京都出会い系連続殺人事件”等と呼ばれる。

 

2002年7月、宮城県仙台市に住む16歳の高校生女子が行方不明となり、翌月、塩釜港付近で腐乱死体となって発見されたいわゆる“宮城女子高生出会い系サイト殺人事件”が発生している。彼女は一時的に栃木県宇都宮市の叔母の許で暮らし、宇都宮の通信制高校に在籍していた。

そうした出会い系絡みの事件が全国的に続発していた世相などを鑑みれば、本件についても栃木県警は出会い系サイトの内容照会や交友関係は一通り洗ったと見てよいかと思う。尚、利用者の年齢制限や処罰の強化を軸としたいわゆる“出会い系サイト規制法”が成立するのは03年7月のことである。

 

■諸説の検討

大学かバイト先の人間関係ならば、通信履歴を残すことなく直接会って待ち合わせの約束ができたかもしれない。だが彼女が通っていたのは当時は男子学生の少なかった看護系であり(同キャンパスに通う学生の6割が女性だった)、職場の同僚も数は限られる。

また以前からの顔見知りとなれば、相互監視ではないが「好意を抱いている」「以前交際を断られた」といった関係性を周囲に隠し通すことは難しく、事件後の些細な変化にも自ずと注意が向けられるであろう。

 

それならばパチンコ店に通っていた客が一方的に恋愛感情を拗らせて犯行に及んだ「ストーカー殺人」の線はないか。もちろん当局もは常連客などに聞き込みして不審客の洗い出しも行っているとは思うが、客から「アプローチされた」「体を触られた」「手紙を貰った」といったトラブルになりかねないアクションがあれば同僚に相談したり、上司に報告がありそうなものである。

また前田さんに決まった交際相手がいたとすれば、その人物を慕うあまりに彼女への憎しみを募らせた逆恨みストーカーの線もありうるのではないか。だとすれば前田さんとの接点が薄く人間関係に浮上していない可能性も考えられる。

現場状況や靴のサイズから推測すれば犯人は男性であるように思えてならないものの、部屋では前田さんの逃走を許し、遺体の搬出(隠蔽)を途中で断念したかのような現場状況からは犯人の「非力さ」が感じられる。玄関から見知らぬ女性が訪ねてきたとすれば、前田さんは「ルームメイトの知人」か誰かと誤解してドアを開けてしまったなども考えられなくはない。

 

コンビニで防犯カメラに前田さんの姿は確認されているものの、当時のカメラの解像度や機能は今日よりかなり劣る面もあり、周囲に写り込んでいる他の客や駐車車両の特定などは難しいかもしれない。

西那須野、大田原周辺は栃木県内でも平野部で比較的開発された土地(いわゆる郊外の地方都市)だが、深夜ともなればコンビニくらいしか営業していない。車社会のため、コンビニでも飲食店でも駐車場を有している。犯人は「コンビニにくる若い女性」を待ち伏せて尾行された可能性も考えられる。

 

■居空き

筆者としては、無施錠を狙った窃盗犯、「居空き」を狙った常習犯が濃厚ではないかと考えている。過去の窃盗事件、侵入騒ぎと同一犯かは分からないがその可能性も排除できない。

一般的な感覚では侵入窃盗の被害に遭えば恐怖心から引っ越し等を考えるが、転入直後の学生で、しかもルームシェアといった事情からか、前田さんたちはその後も部屋に留まっている。犯人が開けた可能性もないではないが(道路側の)窓が無施錠であったりと、防犯意識は特段強くなかったようにも感じられる。バイトで疲れて深夜に帰宅、手には荷物とコンビニ袋。迎えてくれるルームメイトもなく、真っ暗な部屋に帰宅した彼女はつい施錠するのを怠ってしまったのではないか。

 

まず1食分とは考えづらい食料品の買い物は「2人分」とも解されるが、「翌日分のまとめ買い」とも捉えられる。朝から大学、晩までバイトとくたびれ果てて、ルームメイトも不在だし翌日は土曜日で「授業もないし部屋でゆっくり過ごそう」としていたのかもしれない。

「ブラウスだけ」の着衣についても詳報が聞かれないため見方が分かれるところだが、人はセックス以外でも服を脱ぐ機会が当然ある。「入浴」である。前田さんの部屋に着いて1F角部屋ということ以外詳しく分からないが、たとえば浴室の様子が見えなくても、シャワーの音やガス給湯装置の湯沸かし音などで外からも「入浴」の気配というのが分かる。深夜であれば尚更である。

 

物盗りが、深夜に帰宅してチャイムを押すでもなく自ら解錠する女性の姿を目にしたとすれば「一人暮らし」と誤解してもおかしくはない。また部屋がカードキーで「初見では扱いが難しい」というのも、ある程度の窃盗常習犯であれば「ああ、このタイプか」と察しが付くものかもしれない。入浴が始まったとなれば部屋はもぬけの殻だと考えて、犯人は侵入に及んだ。

玄関から中を窺うと浴室に人の気配がある。犯人は真っすぐ居間へと進み、部屋や財布を物色。だが入浴中の前田さんは異変に気付き、一度脱いだブラウス(バイトの制服シャツ)を羽織って恐々部屋に近づいた。犯人もまさかの出来事に動転し、どう対処してよいのか分からず前田さんの部屋で揉み合いになった。

前田さんは刺されながらも、犯人が負傷した隙を突いて、助けを求めて部屋から脱出。犯人の追跡を逃れようとマンションを一周し、「助けて」の叫びも深夜の住宅街に空しく響き、民家のガラス戸を叩き割るも最後の頼みだった住人はそのとき家に居なかった。

 

マンションとは別の駐車場に前田さんの車が停められていたことに関して、所定の位置に「別の車」が停まっていたため前田さんが別の駐車場に停めた、相手が後で来ることを見越して所定の位置を開けておいた、といった見方もできなくはない。道路側直近の位置であるから来客者による無断駐車等も考え得るが、前田さんの車にキーが付いていたことと照らし合わせれば、所定の位置に停まっていた前田さんの車を「犯人が移動させた」と見るのが妥当だろう。

遺体が道路側へ3メートル程「引きずられた形跡」との表現からは、「自分で這ったような形跡ではなかった」ことが読み取れる。

犯人は現場でとどめを刺した後、遺体を隠匿ないし移動させようと考えた。だが自分の車に血まみれの遺体を乗せる準備がなく躊躇したか、そもそも車がなかったためか、「前田さんの車」に乗せることを思いつく。裸に近い格好の彼女が車のキーを持っていたとは考えづらく、犯人はわざわざ部屋まで探しに戻った可能性が高い。逃亡に際してはカードキーで施錠まで行う余裕まで窺える。

しかし犯人は遺体が重く手間に思ったのか、自身の怪我の程度が悪く手こずったのか、それとも新聞配達や車が通りがかったりしたためか、死体遺棄を途中で投げ出したかのように見えはしまいか。遠く人目のつかない場所へ死体を遺棄したとしても使った車はどうするか、どうやって自分の車(ないし自宅)まで戻ってくるか等と思案するうちに頭は混乱、時間と共に怪我の痛みも増してくる。作業を諦め凶器もその場に放り出して、急に慌てて逃走したかに思える。

 

年恰好までは分からないが、部屋で一度は取り逃していることから推測するに男性であれば相当に非力な人物。現在の那須塩原市大田原市周辺で窃盗を繰り返していたと考えられる。侵入窃盗ともなればその日の暮らしにも困窮しており、主に深夜の犯行だったとすれば社会との接点は薄い。工場の単純労働者や年金世代の独身男性などが思い浮かぶ。蓄えがなく、転居もできずに近くで同じような犯行を繰り返しているかもしれない。

90年代後半のギャルブーム、社会問題化したダイヤルQ2やJK売春、00年代の“出会い系”犯罪のピークに「半裸の死体」となれば当然、何らかの性犯罪や痴情のもつれを誰しもが思い浮かべる。そうした社会の捉え方、警察の見立てとはかけ離れたところに真犯人は潜んでいるように思う。

 

 

■所感

長期未解決事件が「雪解け」するブレークスルーとして、犯人の「お漏らし」がある。

2021年、神戸市北区男子高生刺殺事件の犯人とされる元少年(事件当時17歳、逮捕時28歳)が逮捕され、大きなニュースとなった。逮捕された男は事件当時現場周辺に住んでおり、後々「人を殺したことがある」旨を口外していたと名指しの通報が入り、捜査が急展開したとされる。

また2004年、茨城大学に通う女子学生の遺体が清明川河口付近に遺棄された事件でも、女性はバイトやサークルなど交友関係が広く、直前まで交際相手と自室で過ごしていたことなどから捜査の方針が定まり切らず、捜査は難航した。

だが事件から8年後、犯人のひとりが周囲に犯行をほのめかす発言をしたことから通報につながり、事件は大きく進展。被害者とは全く交友のない、かつて近隣市に暮らしていたフィリピン人労働者3人組による性的暴行を目的に思い付いた「流し」の犯行だった。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

犯人の「お漏らし」や勇気ある通報を黙って待つばかりではいられない。DNA型鑑定は長期未解決事件を解決へと導く最後の頼みの綱として、現在も更なる技術開発が進み、2004年以降はデータベース化も行われている。

2001年2月に広島県福山市明王台で起きた主婦殺人事件は、21年夏に刃物を所持していたとして銃刀法違反容疑で調べを受けた竹森幸三(67)に任意でDNA採取を求めたところ、事件現場に残されていた血痕の型と一致した。

竹森は当時同市で造園業を営んでいたとみられ、現場から5キロ程の場所に住んでいた。調べに対して当初は「記憶にない」と容疑を否認したが、21年10月25日に逮捕。翌月「腹部を刺した」「宅配を装って女性宅に入った」と容疑を認め、広島地検に起訴された。事件から20年8か月、発生から逮捕まで最長の記録だという。

 

血痕試料が採取されていることから本件も解決の希望は残されている。10年経っても20年経っても被害者の悔しさ、残されたものの悲しみは失われることはなく、事件は時間が解決するわけではない。凍てついた時計の針を動かすことができるのは捜査員のたゆまぬ努力だけである。我々市民にできることは「助け」を求める声には素直に耳を傾け、すぐに通報すること。今後も事件の進展に期待したい。

 

前田さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

情報がある方は 那須塩原警察署 0287-67-0110 まで。

ホノルル日本人母子殺害事件について

1994(平成5)年、アメリカ・ハワイで発生した日本人母子の殺人事件について記す。母親は歴代の総理大臣や各界の著名人とも交流のある有名占い師の実業家であった。

apnews.com

逮捕された日本人男性は一貫して無実を主張したが、死体遺棄などの証拠が出揃っておりハワイで殺人罪による終身刑判決を受け、アリゾナ州のサグアロ矯正センターに服役する。

 

■概要

ハワイ州ホノルル、アラモアナ市立公園近くには多くのリゾートホテルやコンドミニアム(集合住宅)が立ち並ぶ。1994年2月23日16時51分頃、カカアコ・アラモアナ大通り1350番地にある高級コンドミニアム「アラモアナブルーバード」の一室から煙が出ていると通報を受け、消防隊が駆けつける。ほどなく鎮火されたものの、署員が室内を確認すると寝室は荒らされており、クローゼットから女性と銃弾を発見する。

猿ぐつわをかまされ胸を撃たれて意識のない状態で、病院に運ばれたが間もなく死亡が確認された。女性は日本で絶大な影響力がある占い師として知られた藤田小女姫さん(こととめ、56)とすぐに判明。事件はその日のうちに日本でも大きく報じられた。

 

同日15時頃、藤田さんは電話でセントラルパシフィック銀行に融資の依頼を行っていた。「緊急事態で、現金で2万ドル(当時約210万円)が必要になったので届けてほしい」という不自然な要求だった。電話を受けた同行の佐藤義治会長は藤田さんとの取引実績がないことなどを理由に依頼を断ると、一緒にいた「別の人物」から再度理由を説明するよう求められた。会長が日本語で説明した後、「藤田さんに何が起きているのか」と相手に尋ねると電話は切れた。

佐藤会長は不可解なやり取りや藤田さんの様子に不安を感じたが、彼女の連絡先を知らなかったため掛け直すことができず、日本領事館に連絡を取る。連絡がつかないことを確認した内田総領事が藤田さんの元を訪れてみると、部屋から焦げるような臭気が漂い、ドア上部から煙が漏れており、その後、射殺体となった住人が発見される。

 

当初ホノルル市警は、大学生になる藤田さんの一人息子の行方が分からなかったことなどから、身代金目的の誘拐・脅迫が殺人へと発展したのではないかと見立てた。

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しかし同日夜の22時30分過ぎ、藤田さんのコンドミニアムから約3.5キロ離れたワイキキ・カパフラアベニューにあるパークショアホテルの駐車場で車両火災が発生する。赤いアキュラのスポーツカーの助手席から両手足をテープで拘束、胸を銃撃された焼死体となって藤田さんの長男・吾郎さん(20)が発見された。衣服からは液状の着火剤成分が検出され、犯行の計画性を窺わせた。

 

その日は休みで不在だったハウスキーパーに話を聞くと、藤田さんは大学生の息子と金銭関係で揉めることはあったが、他人から恨みを買うようなことはなかったという。吾郎さんは明るく社交的な人柄で親しまれていた反面、カードを友人に使わせるなど金銭的にルーズな面があった。

捜査当局は犯行の手口とタイミングから、同一犯による金銭を目的とした強盗殺人との見方を強めた。

 

■生い立ち、子捨て、人身売買

1938年1月、福岡県福岡市に生まれた藤田東亜子(後の小女姫)さんは、幼少期に両親が離婚して母親に引き取られた。戦争で実家が空襲被害を受け、知人を頼って各地を転々としたことを公表している。

それと聞くだけで苦労人の生い立ちが思い浮かぶが、彼女の死後に家族関係を知ったという5歳下の弟・洋三氏は、姉弟のさらに複雑な境遇を『東亜子と洋三ー藤田小女姫の真実』(2004)に著している。

洋三氏は物心のつく前に引き離されて育ったため、その死後に東亜子さんとの生物学的な姉弟関係を知り、自らのバックグラウンドを遡っていったという。手記では、藤田さんの生い立ちは単にひとり親の許で不遇を過ごしていた訳ではなく、背景には人身売買によってできた歪な「戸籍」による家族関係があったと語られる。藤田さんは小学校入学寸前に借金のカタとして預けられたというのだ。

姉弟の戸籍上の祖父は八幡製鉄所専属の慰安所遊郭)を営んでいた。戸籍上の父親は祖母が強姦されて宿した子で、その逆恨みか親から暴力を受けて育った。彼は若い時分には大学生を騙って交際相手の女たちを引き込み、遊郭に沈めて貢がせた。

やがて鉱山労働者相手の売春斡旋のほか、誘拐などで子どもを集める人身売買を生業とした。自らの養子に入れながらもまともな養育はせず、産みの親への養育費の請求(強請り)などによって生計を立てていた。働き手等としてよそへ養子にやる際には無戸籍児では不都合になるため別人の戸籍に捩じ込んだとされる。

今日的倫理観ではそうした洋三氏の話はイメージしづらく突飛にさえ聞こえるものの、戦中戦後の時代背景から事実ではないかと筆者は考えている。

 

戦時下の明日をも知れない命運と長期の困窮、避妊や堕胎技術の未熟さ、生きるため死なないため生かすために「身売り」は一種の必要悪とみなされていた。

1950年の国立世論調査所によれば、国民感情は親による子どもの「身売り」を必ずしも否定していないことが窺い知れる。「親が前借して子どもを年季奉公に出す」ことに「構わない」9%、「家が困ったり、親の借金を返すためなら仕方がない」20%、「子どもが進んで行く場合や子どもの幸せになるなら構わない」51%であった(下川 耿史『近代子ども史年表』2002、河出書房新社)。

イエ制度下の圧倒的な父権に比して、こどもの人権はほとんど顧みられることはなかった。すべてが金銭目的の人身売買とは言わないまでも、保護の行き届かない里子による養子縁組や江戸期から庶民の間で続く年季奉公、徒弟制度、明治期の工業化によってニーズが高まった女工などにはこどもの質入れ(前借金)と紙一重の側面があった。娼妓解放令など人身売買の禁令は存在したが、シベリアやアジア各地へ「からゆきさん」といわれる売春婦が多数送り出されてきたことも歴史的事実である。生活の困窮や望まれない出産による私生児らは子殺しこそ免れても、人から人へ町から町へと苦難の道を余儀なくされた。

 

今日の「赤ちゃんポスト」より半世紀前、東京・芝の済生病院では産後すぐの子捨てが頻発したため、1946年に「やむをえぬ者はここへ捨てよ」と捨子台を設置していたことが記録されている。

48年には新宿で「寿産院もらい子事件」が発覚している。寿産院は助産師の第一人者とも言われた石川ミユキによる民間施設で、娼婦などの私生児ら200余人をもらい受けて預かり料を請求し、乳幼児用に配給されたミルクや砂糖をヤミに転売して収益を得ていた。幸いにして貰い親に恵まれた嬰児もいたが、引取手のつかない子の多くはミルクの減量による栄養失調、冬場の凍死などにより作為的に葬られた。

事件を受け、都では乳児委託取締条例を制定して乳幼児の預かり事業を禁じた。49年に可決した優生保護法にも影響を与え、経済的理由を目的とした人工中絶が認められる一因になったとされる。

 

1949年、藤田さんが小学6年生の頃、地方紙で「奇跡の少女現る」と紹介され、翌年5月1日の産業経済新聞でも「マリを突きながら何でもズバリ」と特集記事を組まれた。自著によれば9歳の頃にハワイの狐の霊が宿ったとされ、当初は「小乙姫」を名乗った。

産経社屋に一室を与えられて経営陣や多くの著名人に可愛がられたといい、その後も霊感占い師として雑誌やテレビで取り上げられるなど活躍。女性が自動車を所有することも珍しかった60年代にあって5台の車と小型セスナを操るなど、彼女の華々しい私生活やその美貌も羨望を集め、時の人となった。

洋三氏によれば、その成功の背後に姉弟の「生物学上の父親」の力添えがあったのではないかとしている。政財界のフィクサーと目されたその男性と芸者をしていた親類との間に私生児として姉弟は生を受け、どういう経緯か戸籍上の父親のもとへと渡った。父親は程なく離婚し、第一妻は幼い藤田さんを引き連れて家を出、赤ん坊だった洋三氏は父方に残されて主に第三妻にあたる母に育てられた。

藤田さんの育ての母は取り巻きと共に各地で鉱山労働者や米兵などを相手にした売春旅団を組んでいた。藤田さんは表向きの関心を引く看板娘として「占い少女」に担ぎ上げられた。その後、生物学上の父親がもつ政財界とのパイプを利用して喧伝され、その交友を広げていったと洋三氏は見当づけている。

 

政治評論家細川隆元(りゅうげん)氏の著書によれば、時の首相岸信介が藤田に安保条約は国会で可決できるかを尋ねると、藤田は「断固としておやんなさい。通ります」と背中を押したという。しかし「そのかわりあなたの内閣は長くはもちませんよ」と、安保成立から4日後の内閣総辞職まで見越していたことを記している。

岸のほかにも福田赳夫松下幸之助小佐野賢治ら政財界の大物を顧客として財を成し、明仁親王の結婚、朴正熙暗殺、周恩来の死去、また学生時代の王貞治に将来の成功を予言したとされる。キッコーマンSONYといった企業への進言など「伝説」は枚挙のいとまがない。

幸運への招待 (1960年)

1960年、『幸運への招待』を出版。61年に不動産業経営者と結婚するが三年で破局。離婚後は企業の経営コンサルタントを主宰した。

しかし68年には、経営していた東京都有楽町のサウナ風呂が火災に遭い、死者を出したことから過失責任を問われた。マスコミから霊能力についての批判が噴出するようになると、73年には表舞台から姿を消すように息子を連れてハワイへ移住。74年6月に業務上失火、同過失致死罪で懲役10カ月執行猶予3年の有罪判決を受けている。

80年代には占い、コンサルタント業務に復帰し、再び日本でも占いや予言に関する著作を発表するなど、ハワイと日本を行き来する生活を送っていた。

はっきりした時期は不特定だが、藤田さんは老いた育ての母親をハワイに住まわせており、時々会いに来ては暴力を振るっていた、という家政婦の証言を洋三氏は伝えている。

単なる母娘の喧嘩などではなく「日本にいては遺恨が晴らせなかった東亜子がマスコミのいないハワイで第一妻(藤田さんの育ての母)に暴力を振るったということなのだろう」と捉えており、憶測ながら虐待される母親の心境について「殴られることで心が落ち着いたのではないかと思う」とまで述べている。それほどまでに母娘の間には人知れぬ禍根があったということか。

 

■返還

マスコミ取材によって現場周辺の質屋に藤田さんの貴金属類が持ち込まれたことが明らかとなる。質入れの際にパスポートを照会した日本人男性、福迫雷太(ふくさくらいた、当時28)が容疑者に浮上。カルフォルニア州で在学中、4度の拳銃の不法所持で短期間服役した罪歴も確認された。

福迫はハワイでスキューバダイビングを通じて吾郎さんと知り合い、自宅での誕生会にも招待される仲だったとされるが、吾郎さんや周囲の人間に返済できていない数十万円の借金があった。母子事件の翌日には航空券を購入し、その翌日には日本へ帰国するなど「逃亡」が強く疑われた。

 

当局は令状を取り、藤田さんの自宅から1.3キロ離れた場所にある福迫の住居ディスカバリーベイの1306号室を捜索。カーペットの一部1.4×2.3メートル程が切り取られており、下から血のようなシミが発見されたことで担当検事は日本に連絡を取る(後の鑑定の結果、血液とは断定されなかった)。

日本の警察から事情聴取を受けた福迫は容疑を否認。警察はハワイの担当検事に「人違いだ」と伝えたという。だが検事は「多くの日本人犯罪者は捕まると自白するが、福迫はカルフォルニア州で学んでいるため欧米的なものの考え方で捕まっても自白はしない」と考え、疑いは揺るがなかった。

日米間には犯罪人の引き渡し条約が結ばれていたが、日本側は証拠が不十分だとして引き渡しには慎重な姿勢を見せたため、ハワイの現場では証拠の捜索が懸命に続けられた。藤田さんの部屋、吾郎さんの車両は消火作業によって検証が困難を極めた。だが福迫の暮らしていたマンションには16台の防犯カメラが設置されており、男の不可解な挙動が記録されていたのである。

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事件のあった2月23日9時30分頃、福迫と吾郎さんが一緒にエレベーターに乗り込む姿が確認される。2人は福迫の部屋のあった13階で降りたことは確認できたが、その後、吾郎さんはカメラの前に姿を現すことはなかった。福迫は13時頃に建物を出ており、16時頃、中身のつまったショルダーバッグを抱えて部屋に戻ってきた。警察はその間に福迫が藤田さんと接触して犯行に及び、持ち帰ったバッグには奪った盗品が入っていたと考えた。

更に21時過ぎ、福迫は人ひとりが入るほどの「巨大な袋」をマンション備え付けのキャリーカーで車のあるフロアへと搬出していた。21時40分頃、運転者の特定まではできないものの「吾郎さんの赤いスポーツカー」が福迫のマンションを出た様子も確認されている。

翌24日8時20分頃、福迫は同じキャリーカーを使って部屋から「クッション部分の一部が剥ぎ取られたソファ」を搬出する。そちらは事件から1か月後、マンション地下階の粗大ごみ置き場で発見された。

キャリーカー、ソファからは血痕が採取された。同じくソファから藤田さんの長い毛髪が発見されており、当局は「吾郎さんに付着して持ち込まれたもの」と推測した。シート裏のスプリング部から藤田さん殺害に使用された銃弾と同じ「357口径の銅ジャケット」が発見され、同一犯との見方が更に補強されていく。

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3月30日、ハワイでは第一級殺人と第二級殺人の罪状で起訴。数々の「物的証拠」を示されたことでNOとは言えなくなった日本政府も福迫の引き渡しにGOサインを出し、裁判の準備が進められた。94年7月、福迫は米国側への身柄引き渡しは違憲であり人権規約に抵触するものとして、法務大臣に対し引き渡しの無効を訴える裁判を起こしたが却下された。

8月16日、福迫はホノルルに返還され、日本人として初となる身柄引き渡しが成立。報道陣が集結した成田空港で男は「不安ですが頑張ります」「必ず戻ります。無実で」と強く自らの意思を訴えた。

 

■裁判

1995年2月に裁判が開始。

いくつか証言を紹介する。藤田さんと同じ建物の住人グラディス・ブラントさんは14時10分頃に黒髪の若い男が藤田さんの部屋に向かっていく姿を見掛けたと証言。息子の吾郎さんだと思い、背後から「Hi」と呼びかけたが、振り返りもせず応答しなかったので変に思ったという。しかしブラントさんはその黒髪の男性が福迫被告人だったかは特定できなかった。

別の住人マデリーン・ドネルさんは15時半から16時の間に、水色の上着姿で左肩に白いバッグを抱えた男性が藤田さんの暮らしていたペントハウス4号棟から出てくるのを見掛けた。ブラントさん同様にその男性を吾郎さんかと思い、「Goro」と声を掛けたが無反応で去って行った。吾郎さんは普段なら気持ちよく挨拶を返してくれていたので、「大学に遅刻でもしたのかな、と思った」と述べた。彼女もアジア人種だと識別できてはいたものの、眼疾患により人物の特定までには至らなかった。

福迫の暮らしたディスカバリーベイの居住者ダイアン・ブルーシンは、居間にいた20時から22時の間に「大きな銃声を聞いた」と証言する。彼女はユーゴスラビアのオリンピック射撃チームの元選手で銃器に精通しており、聞いた爆発音が間違いなく銃器であったことを裏付けた。先述の防犯カメラ映像と照らし合わせれば、20~21時頃に射殺し、21時過ぎに巨大な袋に遺体を隠して車に積んだものと想像される。

21時46分頃、吾郎さんのスポーツカーは福迫の住むディスカバリーベイの駐車場を出た。その後、22時30分頃、パークショアホテルで車の警報音を聞きつけたベルボーイが炎上する車両を発見し、通報する。

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22時34分頃、ディスカバリーベイの向かいにあるABCストアの防犯ビデオが福迫の姿を捉えていた。男は「クロロックス(漂白剤)」「ラグクリーナー」「芳香剤」「ボトル入りソーダ」を購入。同36分には買い物袋を抱えエレベーターで自室へ向かう姿も確認できる。

24日朝、ソファを地下の粗大ごみ集積所に運んだ福迫は、何度か外出。手には紙袋を携えていた。日本への片道航空券の手配などをしていたものとみられ、翌25日には旅行代理店の送迎で空港へエスコートを受けた。

25日、衛生労働者が紙袋を発見し警察へ届け出る。中からは吾郎さんの身分証、クレジットカード、ダイビングウォッチ、女性物の財布と金時計、ビニールに入った白い粉(ドラッグのように見えたが石鹸のような匂いがした)の見つかった。26日、アラワイ運河に駐車してあったトラックの荷台で発見された紙袋には、藤田さんと吾郎さんのパスポート、男性物の指輪、小銭入れ、クレジットカード、運転免許証と日本通貨の入った藤田さんの財布が入っていた。

先述の質入れされた貴金属類は、長年の知人だった高木千恵さんによって藤田さんのものと特定された。質店アラモアナ・バイアンドセールの従業員カルビン・ウッズさんは、被告人が「357マグナム銃」の質入れについて話しを聞いてきたと述べ、ロスの知人から入手する予定があるという話を聞かされたと証言した。

また藤田さんのクローゼットと福迫の部屋にあったソファから見つかった弾丸は、357マグナム弾ないし38スペシャル弾とされ、線状痕(射撃によって弾丸表面に生じる傷)は同型銃が使用された可能性を示した。

検死を担当したカンティ・デ・アルウィス博士は、藤田さんの死因は燃焼より前の心臓への銃撃と断定。頸部皮下出血、眼瞼の溢血点から、銃撃より前に首を絞められて意識を失っていた可能性があるとした。唇に切り傷があったほか、顔、腕、肩に打撲痕も確認された。

吾郎さんの死因も銃撃によるものとされ、左乳首から腰を貫けていく銃創が認められた。目の上に裂傷があり、手足にはガムテープの糊が残留していた。母子の銃創は基本的には類似していると博士は証言した。

防犯ビデオの映像や出国までの福迫の動線は、明らかに二人の死に関連しているように見えた。

 

弁護側は、日本のヤクザ組織による犯行を主張。福迫が遺体を搬出したことは事実だが、主犯によって脅されて車まで運んだだけで「殺害の実行犯ではない」と述べた。

藤田さんには実業家・小佐田賢治氏がパイプ役となり裏社会のヤクザとも交流があったとされ、そのことを示すため、ホノルル警察元捜査官でヤクザ社会に詳しいバーナード・チン氏の証言を準備したが、証人として認められなかった。

またアリバイとして、吾郎さんの車が燃やされたのは22時30分頃であり、34分には自宅付近で買い物する福迫の姿が確認されていることを挙げた。福迫が吾郎さんの車に火を点けてから4分後に自宅付近まで戻ってくるのは物理的に不可能だと説明。福迫による単独犯行ではなく「複数犯」であることを強調した。

福迫本人は宝石の質入れや部屋から車への運び出し、隠蔽工作など一部については加担したことを事実と認めたものの、母子殺害については否認。だが主犯や実際の射手はだれなのかについては口をつぐみ、「この裁判に圧力を加えている人へ。私は何も話しません。身内に何もしないでください」と意味深長な陳述を行った。

 

陪審員たちは検察側が主張した「福迫による単独犯行説」を支持し、同95年5月22日、福迫は仮釈放なしの一級殺人罪こそ免れたが終身刑を宣告される。

 

■複数犯説

通常であれば被害者遺族は犯人に厳しい処罰感情を表明するのが通例である。だが先述した藤田さんの実弟藤田洋三氏は調べを進めていくうちに「複数犯説」を唱えるに至り、日米双方の当局に福迫の釈放を求める嘆願書を多数送った。

監察医の上野正彦氏は、藤田さんの検死写真や死体検案書から読み取れば、全身の殴打痕、猿ぐつわ、左胸の銃創、紐様のもので首を絞めた痕跡などから、単独犯としてはあまりに無駄な工程が多く不自然であるとの見解を示す。体を抑える人物と猿ぐつわを結ぶ人物など複数犯の可能性を示唆した。

吾郎さんも同じく手足に拘束の痕がある。また顔面につけられた「痣」に着目した法医学者佐藤義宣氏は、その形状から「ライフル銃のストック(肩当て)部分」で顔面に垂直方向から突くように殴られたと考えられ、吾郎さんと同程度の背格好の相手による犯行との見解を述べている。吾郎さんの身長は180センチ以上90キロ程と大柄で、身長160センチほどで当時中肉体型だった福迫と20センチ以上の身長差がある。

そうした遺体に関する疑問に対し、検察官は「遺体写真を見たことがない、存在を知らない」と答えている。

 

東北医科薬科大学法医学教室の高木徹也教授は、吾郎さん殺害の凶器について「確実にいえるのは“普通の拳銃”ではない」と語気を強める。一般的な拳銃で接射した場合、火薬によって皮膚表面が激しく傷つけられるが、遺体の傷はそれと明らかに異なるという。「ショットガン、散弾銃」のような比較的大型の弾丸を用いる銃身の長い銃で接射ないし近射されたと見当づけている。さらに散弾が体内に残ったことで、ソファ背部に射撃痕がつかなかった可能性もあるとしている。

担当弁護士は吾郎さん殺害に使用されたと認定された「弾丸」について疑問を呈する。弾丸は欠損のない新品のような状態で、ソファの背面に銃撃の痕跡は残っておらず、なぜかシート下のスプリング部に挟まっているような状態で発見されたという。

ソファ発見までの約一か月の間に犯人が偽装工作として弾丸を置いていったか、考えたくはないが、現地当局が「福迫の身柄引き渡し」を焦るあまりに「物証」を用意したようにも思えてしまう。

www.hawaiinewsnow.com

一時、刑事司法の改革を求めて数々の冤罪被害者を救済してきた非営利活動機関イノセンスプロジェクトは事件の再捜査を表明。しかしDNA鑑定を通じて冤罪を科学的に立証することが難しいとの理由により、協力は打ち切られた。

 

■犯人の告白

藤田さんから最後の電話を受けたセントラルパシフィック銀行の佐藤会長は、電話の傍に「日本語が流暢に話せない人物がいた」旨の証言をしている。吾郎さんや福迫は日本語も流暢であり、藤田さんの部屋に「別の人物」がいたことを示唆する重要証言である。

担当した検察官らは「証拠は福迫がやったことを示している」と断言する。だが厳密に言えば、事件と福迫の直接的な関連を示す証拠は、部屋から車の停めてあるフロアへ移動するエレベーターの「死体遺棄」とみられる映像だけ。穿った見方をすれば、捜査当局は現場が荒れてしまったことなどから福迫以外の「犯人」を示す証拠が得られなかったともいえるのである。

 

2015年に行われた福迫へのインタビューで自身の別の事件への関与を匂わせる。エレベーターで搬出した遺体は「断じて吾郎くんではありません」と述べ、仮に遺体であったとしても身長160センチ以下の「別人」であるという。追起訴される可能性があるため詳細には言えないとしつつ、藤田さん母子が亡くなる2日前、2月21日に別の事件があったと語る。

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福迫によれば、藤田さんは「周りの人から恐喝されている」として、投資関係の仕事をしていた福迫に生命保険を担保にした借金の相談をしていた。福迫は日本で金融会社を営む在日北朝鮮人Kを紹介。母子が亡くなる数週間前、Kは200万ドルの偽札を用意し、摘発を避けるために「使えるのは夏以降」と条件を付けて金を藤田さんに預けた。しかし吾郎さんが夏前にその金に手を付けてしまったため、福迫は債権管理者として偽札の回収を命じられたという。

藤田さんのボディガードを担当した人物がリーダーとなり、偽札が使用された先に4人で押し入り、その場にいた3人を福迫の自宅マンションに拉致した。部屋で揉め事になり、リーダー格が発砲。事件が発覚すれば大問題に発展しかねないため、現場の住人である福迫は脅迫される側の立場となり、遺体の搬出や隠蔽工作に加担した。残り2体は他のメンバー達が階段から運び、持ち去ったという。

母子殺害から2か月後、金融会社社長Kも自宅前で射殺され、こちらはあまり報道されることもなくコールドケースとなった。福迫はこの事件について、藤田さんが所持していた黒革の手帳“ブラックブック”が関係するのではないかと語る。前述のように政財界や著名人らと表に裏につながりの深かった藤田さんは、その手帳に顧客情報や秘密を書き残していた。200万ドルの融資の際、K社長は藤田さんから担保として“ブラックブック”を預かっていたため、それが目的で暗殺されたのではないかという。その手帳は今も発見されていない。

2017年11月以降、福迫は癌に倒れ、多くの転移が発見されては摘出手術を繰り返し、生死の境をさまよった。2020年2月、長期取材を続けていたテレビ朝日では、取材班に向けて「死期がもうすぐなのかと思うととても不安」「カルフォルニアの海に遺灰を撒いてほしい」といった遺書のような内容の手紙が届いたことを伝えている。

 

■所感

2000年には福迫の無実を信じた父親が亡くなり、無事を祈るしかできないと嘆く母親も2020年時点で89歳となった。裁判で「私は何も話しません。だから身内に手出ししないで」という真犯人への涙ながらの訴え、そして自身も余命幾ばくもないというのは事実であろうと筆者は考えている。

 

洋三氏の話では、戸籍上の父親、母親が藤田さんに金をたかったのは当然として、生活できない「こども」達も藤田さん(東亜子さん)のところに居候や無心に訪れて「寄生」していたと推測する。吾郎さんについても、生物学上の親こそ判然としないが「父親」の子ではないかとしている。

つまり吾郎さんは「金にルーズだった」というより、きょうだいにあたる人々に強請られてせびられていた、ないしは彼らを養うための金脈パイプの役目を担っていたと考えられる。別の言い方をするならば、藤田さんが日本脱出の際に親から預けられた“爆弾”だったのである。

洋三氏の文章には独特のクセがあり、人間関係も複雑で第三者が全てをすんなり理解することは難しい。自身の生い立ちや家族について記しているのだから当然だが「見た目」や「血」への執着が強く、インスピレーションに基づく物言いも少なからず感じられる。

いわく福迫も吾郎さんのきょうだい、つまり戸籍上の父親のこどもなのではないかという。

だが「イノセンスプロジェクトの撤退」から鑑みれば、父親が既に故人であるためにDNA鑑定や科学的証明が叶わない、血縁関係が事実であったとしてももはや客観的事実で裏付けしえない主張なのであろう。

 

藤田さんの資産状況は知るべくもないが「家族」から強請られて大金が必要になった。あるいは福迫が吾郎さんを唆して大金を要求するようにけしかけたとも考えられる。福迫は実質的にはマネーロンダリングに使える多額の融資先を見つけるヤクザの手下、尖兵だった。金融会社は北朝鮮に送金したり偽札や犯罪で得た金をロンダリングするヤクザのフロント企業であろう。

打診を受けた藤田さんは、その200万ドルが北朝鮮の偽札だと知ってか知らずか金を預かる。福迫が言うように「触ってはいけない金」に吾郎さんが手を付けてしまったのか、仲間割れによる横領なのかは分からないが、藤田母子とは別の事件が起きた可能性は大いにあり得る。藤田さんが銀行に依頼した2万ドルという(莫大とまではいえない)微妙な額も、犯行グループが「逃走資金」としてすぐに必要としたものと考えられる。電話の背後で聞かれた片言の日本語は、日本から藤田さんの見張り役として送り込まれた在日朝鮮人か、ヤクザの息のかかった日系ハワイ人あたりではないか。

終身刑となった福迫は、塀の外に置き去りにすることになった家族や恋人への組織からの報復を何より恐れた。金融会社のK社長は「トカゲのしっぽ斬り」のように暗殺され、その背後には更に大きな犯罪組織が関わっていることは福迫も知っていた。

“ブラックブック”を狙った人物、藤田さんに重大な秘密を握られていた人物がK社長を暗殺したというよりかは、ロンダリングを露見されては困る上部組織がK社長の命を奪い、何か利用価値があると考えて“ブラックブック”も奪っていったとする見方が自然かと思う。

はたしてそこには何が書かれていたのかは分からないが、利用価値があったかどうかは疑わしい。それとも自身の最期に関する予言、すなわち犯人、上部組織につながる記述があれば秘密裡に処分されたとも考えられる。

 

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

東京地方裁判所 平成6年(行ク)38号 決定 - 大判例

STATE v. FUKUSAKU | FindLaw

https://notguilty.vegas/case-type/media/

大阪市北区メンタルクリニック放火殺人事件について

2021年12月、大阪市北区メンタルクリニックで起きた大量放火殺人事件について記す。

本稿執筆時の2021年12月30日、被疑者の死亡が報じられ、犯行動機などの詳しい解明は状況証拠の積み重ねなどに依らざるを得なくなった。ここではいわゆる「拡大自殺」の観点から事件を見ておきたい。

 

■概要

2021年12月17日午前10時20分頃、大阪市北区曽根崎新地1丁目の堂島北ビルから火の手が上がる。JR北新地駅が最寄りで、梅田駅にも程近い大阪の繁華街である。

すぐに119番通報され、約30分で消し止められたが4階「西梅田こころとからだのクリニック」約80平米の内25平米が燃え、中にいた28名が救急搬送される大惨事となった(うち西澤弘太郎院長ら25名が死亡)。

発火原因は「放火」とみられ、防犯カメラの映像に男が「白い大きな紙袋」を蹴り倒し、中のガソリンとみられる液体を撒いてオイルライターで着火する様子が確認された。ガソリンスタンドで「バイクに使う」と称して事前に購入していた。

クリニックの出入口付近で発火したため多くの患者が中に取り残された。さらに男は逃げようとする患者を阻止しようと進路を塞いだり、体当たりするといった強い殺意を窺わせる行動も見られた。周辺の防犯カメラから紙袋を自転車で運ぶ男が確認され、数年来通院していた谷本盛雄(61)と特定。現住建造物等放火と殺人の容疑がかけられる。

男は同日9時50分頃、クリニックから約3.5キロ西に位置する大阪市西淀川区姫島で3階建て住宅にも火を放ったいたとみられ、捜査が急がれた。

 

谷本自身も一酸化炭素中毒により意識不明の重篤な状態が長く続いていたが、回復や発話はできない低酸素脳症になる可能性が高く、動機の解明などは困難との懸念がされていた。また2011年4月には長男の頭などを包丁で刺す殺人未遂事件を起こし、4年間の服役をした後、通院するようになったとみられ、家宅捜索では2019年7月に京都市伏見区で発生し36名が亡くなった京都アニメーション放火殺人事件に関するスクラップ記事やガソリン約2リットルが発見された。

www.sankei.com

12月30日午後、ICUで治療を受けていた谷本容疑者の死亡が確認され、本人から動機を語られる機会は失われた。天満署・捜査本部は、容疑者の遺した犯行計画とみられる「消火栓を塗る」「隙間はどうするか」といったメモなどの状況証拠を積み重ねて真相解明を図っていく。現場となったクリニックでは消火栓の扉に補修材のようなものが塗られ、非常階段扉には目張りがされていた等、メモに符合する事前準備がされていた形跡もあるとされる。

現在もクリニックの電子カルテの復旧、通院状況や治療内容からの裏付け作業は完了していない。被疑者死亡により不起訴処分となる見込みである。

 

■医師への恨み

「人生これからだって思えるのは先生のおかげ。命の恩人で感謝しかない」

「おちゃめな院長さんで、患者を緊張させないよう、居心地のいい場所をつくろうと考えていた」

報道では、クリニックの通院者らは事件に大きなショックを受けつつ、亡くなられた院長らを悼み、感謝の気持ちを語っている。職場復帰を目指す人に向けて集団ディスカッションなどを行う「リワーク」の取り組みや会社帰りに立ち寄ることも出来るよう夜10時までの夜間診療も行っており、「患者のことを第一に考えていた」と関係者からの信望も厚かった。

通院を続けている人々にとってクリニックは居心地の良い場所、安心できる場所である一方で、通院を辞めた人々にとっては居心地の悪い場所、満足のいくケアが受けられなかった場所ということもできる。たとえばどこかの病院についてインターネットでクチコミを見れば「私はこんな目に遭わされた。信頼できないヤブ医者だ」「別の医院をお勧めします」といった誹謗中傷めいた情報を目にする。

スーパーで「買ったイチゴがひとつ傷んでいた」「ここの当たり付アイスは“ハズレ”しか売っていない」などというクチコミをわざわざ書く人は滅多にいないが、主治医とそりが合わない、100%元通りに完治できなかった、自分の思った通りの具合にならないことが一度でもあれば医師は即座に非難の的となる。患者の生命やその後の人生をも左右しかねない重責を担う医師という職業は感謝されることも多い一方で、強い恨みを買いやすい立場ともいえる。

過去エントリーで扱った青物横丁医師射殺事件は、「体感幻覚」や精神疾患による妄想状態により医師の診療方針に納得できない患者が逆恨みして、医師の通勤時を狙って射殺するというモンスター・ペイシェントの先駆的な事案である。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

メンタルクリニックの性質上、医師への相談が長引いたり、回復を焦って処方の追加を求める患者も少なくない。発達障害抑うつ症状のある受診者らにとって、診断に必要な情報を的確に伝えることができない場合も多い。そもそも人に打ち明けづらい、ひとりで悩みを抱え込んできた場合が多く、複雑な事情が絡み合って簡潔に伝達できないこともあるだろう。そうしたなかで診療に落ち度がなかったとしても、「なぜこんなに待たされるのか」「もっと話を聞いてほしい」「なぜ先生は自分の言うことを聞いてくれないのか」と患者の不快を買ったり望み通りのケアにならなかったりするケースも生じやすい。亡くなった西澤院長も事件前に別の患者との間にトラブルがあり、話を聞いた院長の父親が警察に相談していたという。

下の産経ビズのリンク記事では、メンタルクリニックに限らないが患者による病院や医師への逆恨み事件を紹介している。

www.sankeibiz.jp

さらに2018年に全国約2500件の病院が加盟する「日本病院会」が加盟病院で発生した火災102件について集計したところ、出火原因は「たばこ」「調理器具」の各14件を大きく上回る33件の事例で「放火」と報告されており、本件が必ずしも精神的不調が絡んだことによって生じたレアケースとは言えない側面も浮き彫りにしている。

 

■拡大自殺

精神科医・片田珠美氏は『拡大自殺 大量殺人・自爆テロ・無理心中』(2017,角川選書)の中で、2016年に起きた相模原障碍者施設殺傷事件(津久井やまゆり園事件、植松聖)、大阪教育大附属池田小殺傷事件(2001年、宅間守)、津山三十人殺し(1938年、都井睦雄)などの無差別大量殺人について、「拡大自殺」という概念を採用している。

拡大自殺 大量殺人・自爆テロ・無理心中 (角川選書)

第一章では、アメリカの犯罪学者J.レヴィン、J.A.フォックス「大量殺人の心理・社会的分析」で提唱した大量殺人を引き起こす6つの要因を手掛かりに各事件を分析する。

A:素因

①長期間における欲求不満

②他責的傾向

B:促進要因

③破滅的な喪失

④外部のきっかけ

C:容易にする要因

⑤社会的、心理的な孤立

⑥大量破壊のための武器の入手

第二章では2000年代以降に頻発したイスラム過激派などによる自爆テロとその背景にある移民社会に巣食う自殺願望との関連を読み解き、第三章では警官の発砲を期待して自暴自棄とも思える抵抗を試みる「警官による自殺」、第四章では経済事情や病苦など将来への不安から多く見られる「親子心中」、第五章では超高齢社会が直面する「介護心中」を扱っている。

 

いずれも拡大自殺を図る人間は絶望と厭世観に苛まれ、多くの場合は抑うつ状態に陥っている。うつ病患者にみられる自責感情、自殺願望は元々はある対象に向けられた憎悪であり、「愛する対象に向けられた非難が方向を変えて自分自身の自我に反転したものだ」とするフロイトの「サディズムの反転」という指摘は的を射ていると片田氏は説く。自傷行為を辞めた途端に外部への攻撃性を増したり、その逆の表出も、「怒りの矛先が自他の間を行き来する」ことはよくあることだという。

怒りの矛先が向かうシステムについて、W.ブロンベルグによる「他殺か自殺かは、復讐という動機の強さによって決まる。……また、投影と取り入れのメカニズムの相対的な強さによって決定される。投影が強ければ殺害が起こり、逆の場合には自殺が起こる」との論を引き、より「他責」に転嫁する傾向が強い場合に攻撃は外部へ向き拡大自殺が生じると説明する。

一般的には見ず知らずの相手に対する攻撃など考えにくいものだが、無差別大量殺人犯にとっては面識のない相手だからこそ、罪悪感も後ろめたさもなく「悪意の対象」に当てはめて攻撃できるのではないかとしている。他責的傾向には一種の「自己防衛」機能も含まれており、その意志を遺書にしたためたり、犯行後に自殺を図ろうとするのは、他者への攻撃を以てしても解消されない自らを苛む悪意の大きさの表出とも捉えられる。

また大量殺人に向かう人の心理として、不正に対する「怒り」を伴なうことも多い。自分だけが理不尽に害されている、抑圧を受けているといった逼迫した心理状況である。そうした困窮を世に問うため、あるいは相模原事件の植松のように自己正当化の論理から是正を求める義侠心にまで歪曲するケースもある。終章では日本社会の貧困化、自己責任論の一般化を通じて「国民総中流社会」から国民総「被害者意識」社会に転じる現況にその一因を見る。被害者意識の増大する社会では復讐が正当化され、そうした意識が「加害者」を生み出しやすい構造に陥っていると指摘する。

 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

■被疑者について

谷本は1960(昭和35)年生まれ、4人きょうだい(兄と姉、妹)。実家は鉄工所を営んでおり、自身も高校に通いながら15歳から職人仕事を手伝った。20歳まで父親の工場で働き、腕はよかったが、一緒に働いていた兄とのいさかいがきっかけとなり仕事に来なくなった。職を転々としながらも87年に大阪市西淀川区に3階建て住宅を購入、結婚生活を送り2児を授かった。90年に父親が亡くなり、兄が工場の後を継ぐことになった。谷本は法要の席で酔っ払って兄に恨み節を吐いて去ってしまい、以降30年来にわたってきょうだいとは絶縁状態となった。

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2002年3月に大阪市内の鉄工所に就職。所長いわく「職人としてほかの社員とは比べ物にならないくらい腕があった。真面目で職人気質、むやみにペラペラ喋らないタイプ。後輩からも慕われていた」と言うが、納得できないトラブルになると顔を真っ赤にして口を利かなくなり「こんなんやってられん」と帰ってしまうこともあったという。へそを曲げやすい、融通が利かない側面があったのかもしれない。

しかし08年7月、「どうしてもやりたいことがある」と退職し、9月に離婚。その後、一人暮らしをしていたが元妻に復縁を迫っていたとされ、09年8月頃には鉄工所へ「やり直したい」と再就職の申し出もあり復帰したが一年程で音信不通となった。

孤独感を募らせた谷本は次第に自殺を考えるようになったが、その後、「家族一緒に」という考えに変わったという。2011年に、元妻、こどもたちと再会して食事会を催し、明け方まで長男と酒を酌み交わした。しかし父親は意を決してカバンに入れていた出刃包丁で襲い掛かった。長男は必死に抵抗し、父親を部屋から閉め出してそのときは最悪の事態は免れた。警察の調べに対して「寂しさに耐えられず、家族を殺害して自殺する踏ん切りをつけようと思った」と供述していた。

裁判で弁護側はうつ病による精神疾患減刑を求めたが採用されず。裁判長は、離婚後の孤独感を動機の一因と認めた上で、自らが招いた困窮や苦悩を打開するために家族を犠牲にしようとするのは甘えであると指摘。「長期間真面目に働いていたこともあり、もともとは犯罪傾向を有するものではない」と更生の可能性も見据え、懲役4年の実刑判決を下す。出所後の谷本の暮らしぶりは明らかにされておらず、元妻らも取材には応じていない。

 

本件をレヴィン&フォックスの唱えた6要因と照らし合わせてみよう。

A:素因

①長期間における欲求不満…生活困窮か。

②他責的傾向…一家心中を目論んだ過去からも他責的傾向は顕著。

B:促進要因

③破滅的な喪失…妻子、服役、クリニック?

④外部のきっかけ…京アニ事件の模倣

C:容易にする要因

⑤社会的、心理的な孤立…失職、家族との絶縁状態、出所後の暮らし?

⑥大量破壊のための武器の入手…ガソリン

退職や離婚の詳しい理由は報じられていないが、それでも6要因はすべて満たされる。だが、ここで重要なのは谷本はクリニックに通っていたという事実である。男は自らの行いで、きょうだいと絶縁し、妻子とも離婚して、更に殺人未遂まで起こして関係を破綻させたのは間違いない。しかし彼は過去と向き合い、自分に非があることを認め、回復しようと、社会復帰しようという意志を持って通院していたのであり、決してナチュラルボーンキラーでも何も失うものはない“無敵の人”でもない。

恋人や好きな人に裏切られてストーカーになるのと同様、他人への信頼とは一種の依存であり、相手に裏切られたと感じれば強い恨みに転じる。男はクリニックを最後の頼みの綱として絶対の信頼や社会復帰への猛烈な期待を寄せていたと想像される。家族、妻子に「裏切られ」、事件を起こして全ての頼りを失った男はまさに生きるか死ぬか絶望の淵でクリニックを訪れたに違いない。しかし2019年7月前後に男の中で何かしら「裏切られた」と感じ、京アニ事件が目に飛び込んで、犯行計画が湧きあがったものとみられる。

 

■所感

被疑者死亡により怒りの矛先を向けることが適わなくなった被害者やご遺族の無念もひとしおである。無論、加害者が死ねば被害者が戻ってくるでもなく、動機が完全解明すれば何かが報われる訳でもない。だが加害者が罪を認める機会、刑罰に処することや反省に要する時間もまた被害感情の僅かな捌け口となる場合がある。筆者は死刑撤廃論者という訳ではないが、はたして死刑推進派は本件の顛末に「犯人が死んでよかった」とお考えだろうか。被害者や被害者遺族ではない人間に生じる極度の処罰感情ははたして「サディズムの反転」ではないと言い切れるだろうか。

こうした事件が起きるにつけ精神科への偏見やメンタルに不安を抱える人々に対する差別につながることに不安を覚える。トラブルが起こりえない訳ではないが、通院者たちは体調回復や社会復帰をめざす人々であり犯罪者予備軍などでは決してないということは誰もが肝に銘じておいてほしい。事件の過度な抽象化は新たな差別を生む火種となる。

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心療内科メンタルクリニックも不安や不調をケアすることでより多くの患者さんの生命や生活の危機を除く支援をしている、社会の屋台骨を縁の下で支える「なくてはならない場所」である。発達障害に困っている人、メンタルに不安を抱える人も風邪や花粉症のように気軽にケアが受けられる、だれもが回復を目指せる社会の方がより健全である。

何も気兼ねせず診療を受けるべきだし、生活保護で乗り切れるなら恥じることなく申請した方がよいし、働けるなら金を稼いでたまにはちょっと贅沢するとよい。生きることは死なないだけであって格好よいも格好悪いもない。サバイブすることが目的であって、テストのように点数が付く訳ではない。だからこそ自らの命を絶ってはいけないし、当たり前だが他人の命を奪ってもいけない。

 

亡くなられたみなさまのご冥福、被害者の早期回復を願いますとともに、関係者さまの心の御安寧をお祈りいたします。

 

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〔2022年1月14・15日追記〕

mainichi.jp

2015年に出所後は堺市の更生保護施設で過ごし、6月住之江区のマンションを借りた。大阪府警の調べによると、谷本容疑者はその後此花区内の二階建て民家に移って一人暮らしを続け、困窮のためか電気やガスは停まっていた。谷本は前述の自宅として住んでいた西淀川区内の三階建て住宅と、親族と共に相続で得た住宅を所有していた。2000年以降は定職に就かず、仲介会社を通じて住宅を貸し出して月7万円の家賃収入を得ていたが、19年9月に借り主が退去して以降の収入が途絶えていた。

数年前と2021年春の2回、此花区役所に生活保護申請の相談に訪れていたことが判明。だが担当者との話し合いの途中で「もういいです」と辞退することもあり、受給は実現しなかったという。このときも思い通りにならないと短気になる性分が災いしたのであろうか。

読売新聞によれば、出所前の2015年1月時点で約150万円の預金があったとされ、NHKの報道では2016年、2019(令和1)年に税金滞納を理由に土地建物が一時的に差し押さえられていたとされる。事件現場に落ちていた谷本の財布に残っていた所持金は約1000円で、2021年1月に83円を引き出して預貯金は底を尽いていた。21年11月頃に谷本はかつて暮らした西淀川の住宅に戻った。

更に産経新聞では、事件直前に此花区内にあった谷本の親族の墓が荒らされていたことを報じている。放火事件の3日前となる12月14日、親族男性が「骨壺が盗まれたかもしれない」と110番通報したとみられる。17日には墓地関係者が墓石が倒さいると通報していた。骨壺は現在も発見されておらず、容疑者が犯行前に盗み出した可能性もあると見て天満署捜査本部は調べを進めている。親族への当てつけなのか、それとも妻子に見捨てられ、工場を逃げ出し、心を許せる相手を全て失った男は、最期に亡き両親にすがろうとしていたのであろうか。聞き込みでも付き合いのある人物は発見されなかったという。

MBSは、谷本のスマートフォンの解析結果から、「死ぬ時くらい注目されたい」「大量殺傷殺人」といった検索履歴が残っていたこと、スケジュールアプリには事件の半年前となる6月14日に「踊り場の寸法をとる」という犯行計画を思わせる記述が残されていたと報じている。また、現場ビルのゴミ箱から谷本の自宅の鍵などが捨てられていた他、事件前夜にガソリン入りの容器を現場近くのコインロッカーに預けていたことが伝えられた。

朝日新聞は、クリニックの電子カルテの復元について伝えており、谷本は2~3年前から通院(読売では「2017年3月」に通院開始)し、(勤務実態は不明ながら)「仕事がうまくいかずに眠れない」等と訴え、睡眠薬の処方を受けていたとしている。上述の職場復帰を目指す人に向けた「リワークプログラム」の参加履歴はなく、西澤院長とのトラブルも確認されていない。

www.yomiuri.co.jp

読売新聞によれば最後の受診は事件の2週間前だった。9月9日には「20時54分踊り場ドアが閉まった」「21時13分先生が1階出入口から出てきた」と入念な下見の形跡も窺える。10月22日には「9時58分までに合計22人一気に入ってきた」と金曜午前中に行われるリワークプログラムで人が多く集まることを確認していたと推測される。11月30日、西淀川区でガソリン約10リットルを購入、12月2日には兵庫県尼崎市で20リットルを買い足していた。