いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

越境する狂気と愛 映画『TITANE/チタン』感想

ジュリア・デュクルノー監督による2021年のフランス・ドイツ合作映画『TITANE/チタン(原題:Titane)』の感想などを記す。

第74回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受け、「カンヌ史上最も奇天烈」「驚愕、混乱、困惑」と評される怪作である。

 

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2020年は開催中止。2021年、コロナ検査の陽性反応でレア・セドゥのレッド・カーペット姿はお預けとなったものの、濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』が最優秀脚本賞に輝いたこともあって国内でのカンヌ報道自体は例年より多かったのかもしれない。その恩恵か、いかにも不穏そうな本作の噂が耳に入った。

筆者はフレッシュな「驚き」を得たいポリシーから、監督の旧作や内容について下調べすることなく、「交通事故に遭った少女が頭にチタンを埋められる」という情報だけを頼りに夜の映画館へ向かった。

敬愛するポール・トーマス・アンダーソン監督の「この映画に身を任せよ」という至言にただ従ってさえいれば、行く先には天国か地獄の門が口を開けて待っているように思えた。

 

 

■監督と旧作について

作家性に言及する前に、監督の旧作とその特色に多少触れておきたい。

脚本・監督のジュリア・デュクルノーは1983年、パリで皮膚科医の父と婦人科医の母との間に生まれた。ラ・フェミス国立高等映像音響芸術学校脚本科で2008年から映像作家としてのキャリアを開始した。パルムドール受賞は女性監督として史上二人目の快挙と注目されたが、女性である前に一人の映画作家であると宣言している。

 

2011年に少女の「脱皮」を描いた22分の短編映画『Junior(未公開)』でカンヌ映画祭のプチレールドール(観客賞)をはじめ、各国のコンペで高い評価を得た。

13歳の少女ジャスティン(通称ジュニア)はニキビ面、冴えないメガネ、歯列矯正、ファッションにも無頓着といった性的コードで表現される。彼女は姉のような「キラキラ女子」を毛嫌いしており、男子とつるんで女性嫌悪ミソジニー)をまき散らすため、周囲の女子から煙たがられる存在だった。しかしあるとき少女の体に異変が起こり、急激に女性性を獲得して周囲の女子の気持ちを理解するようになる。

嘔吐を繰り返したり、蝉の幼虫のごとく背中が割れたり、皮膚が異様に剥け、体から大量の粘液が滴る描写など『エイリアン』のように人間離れした、それでいて生々しい「生物的変態」として思春期の心的変化を表現した。生物的な変態はすなわち不可逆性を示し、少女は元の「まぬけな少年」のようには戻れなくなることを意味している。

一方で彼女がそれまで忌避し、蔑んできた見てくれにばかりこだわる「雌犬」へと変容しつつあることは、男性が一生味わうことのない恐怖と苦しみといえるものかもしれず、その「痛み」について見る者のセクシュアリティに深く依存する問いを孕んでいる。男子のひとりが「お前はもうブスじゃない」と伝え、少女の初恋は小さな花を咲かせて物語は閉幕を迎えるが、はたして彼らの未来が明るいものであるかは推して知るべしである。

 

 

翌12年にVirgile Bramlyとの共同脚本・共同監督で『Mange』という84分のテレビ映画を手掛けている。タイトルはフランス語で「食べる」の意味。

今はパートナーにも恵まれた美貌の弁護士ローラ(Jennifer Decker)だが、15年前の学生時代には太っていて見た目が悪く、いじめを受けて摂食障害に陥った過去があった。ある日、ローラが通う摂食障害克服のための集団プログラムに、いじめのきっかけをつくった張本人シャーリーが現れる。しかし彼女は変貌を遂げたローラを別人だと思い、自身の過食の悩みを相談する。するとローラの前にかつての「醜いローラ」が姿を現し、昔日の恨みを忘れるな、シャーリーに報復しろと呼び掛けるのだった。

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「醜いローラ」によって再び心身を蝕まれたローラは、再び仕事やプライベートに支障をきたすようになり、過去のトラウマを追い払うため、シャーリーへの復讐を企てる。コカインで覚醒した状態で深夜のパブへと繰り出し、男を差し向け、シャーリーのパートナーに「浮気」を感づかせようというのだ。

しかしローラ自身もコカイン摂取がパートナーに知れてしまい、家を追い出される。ホテルの部屋で泣くことすら忘れるかのように、パイや菓子を一心不乱に貪りながら水で流し込み便器に頭を垂れる姿は非常に痛々しい。「食事」という生物にとって自然の営み、生命維持に必要な行為が、統制が取れなくなった途端に自身への暴力、自己破壊へと転じてしまう。こらえ性がない、誘惑に弱いといった類の情動ではなく、極めて暴力的な衝動に支配されている様子を具現化する。

その後、ローラは紆余曲折を経てシャーリーへの復讐を遂げるのだが、本作では男性性の描き方がより極端なものになっている。『Junior』では思春期の少年たちの幼稚さ、ミソジニーでしか異性とコミュニケーションが取れない拙さとして表現されたものが、本作では、暴力で娘をしつけようとする父親、悪事を認められない小悪党、離婚と逮捕が迫りつつも享楽的なインド人、セックスの途中で寝る、パートナーの浮気は許さないのに自らの3Pへの欲望を正当化するなど、男たちは揃いも揃って屑ばかりに「成長」している。

とはいえ、冷静に考えれば、いや、ごく当たり前のように身近にいる絶妙なラインを突いており、ブラックコメディのテイストが随所に効いている。サイコスリラーと悪夢的ファンタジーの側面を併せ持つ現代劇である。

 

 

2016年、長編映画デビューとなるフランス/ベルギー合作映画『RAW~少女のめざめ~』はトリノ・フィルム・ラボの支援により制作された。原題は「重大な-、深刻な-」といった意味を表すフランス語のGraveだが、言い換えられる英語がなくワールドリリース向けの英題:Raw(生の-)については監督自身も気に入っているという。

マルキド・サド、カインとアベルレヴィ・ストロースフランシス・ベーコン、自然史博物館の記憶といったデュクルノー監督の20年間の蓄積を集結させて紡がれた食人を題材にした姉妹の物語である。

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ジャスティンは厳格な菜食主義者の両親に育てられ、姉アレクシア(Ella Rumpf)の通う獣医大学の寄宿舎で生活を始める。初日から「新入り」たちを待ち受けていたのは学生自治組織による手荒な「歓迎」の儀式と服従を求める上級生からの「指導」だった。

ある日、自治組織は新入りたちに「通過儀礼」としてうさぎの腎臓を生で食べるように命じ、初めて生肉を口にしたジャスティンは全身に炎症を起こして強い食欲に苛まれるようになる。夜な夜な生肉を貪るようになり、嘔吐すれば体内から延々と長い髪の毛がこみ上げてくる。皮膚のただれや肉体の拒絶反応(アレルギー)、嘔吐は監督が繰り返し用いるモチーフであり、「変容」のネガティブな現出である。

セックスの経験がなくムダ毛の処理もしない妹に対し、姉はブラジリアンワックス(接着式の脱毛法)を強要。ジャスティンが抵抗して暴れると、アレクシアはハサミで誤って手指を切断する。妹は衝動を抑えきれず、さながらヤングコーンでもつまみ食いするがごとくカニバリズムに走り、それを見た姉は一筋の涙を流す。「女性的」であることの同調圧力に対する強い抵抗は処女作『Junior』でも見られたジェンダー・ポリシーであり、ギャランス・マリリエは両作でジャスティン役を演じるに最もふさわしい俳優である。

しかしアレクシアもまた妹より先んじて吸血や人肉食に直面して、それを受け入れて生きてきたことが明かされる。(冒頭シーンにもつながる)交通事故を引き起こし、死者の鮮血を口に含むと、「あなたも早く学習しなさい」と妹にアドバイスを送る。

RAW 少女のめざめ(字幕版)

妹への不遜な態度を貫くアレクシア。やがてジャスティンも寄宿舎の「掟」に染まっていく。「空腹」はピークを迎え、ルームメイトのエイドリアン(Rabah Naït Oufella)に対して身悶えるほどに激しい「肉-欲」を覚えるようになり、2人は体を重ねるが、彼自身は同性愛者であり恋愛関係は成就しない。心を荒ませてパーティーで酔いどれるジャスティンを誘導し、アレクシアは復讐を果たす。

両親、指導教官やチェーンスモーカーの医師といった周囲にいる僅かな大人たちはジャスティンに適切な救いを提供することはない。唯一頼りとなるはずの姉によるレッスンは極めて偏ったものであり、自己決定や行動責任を迫られる「成人」の手続きは少女に輝かしい未来を約束してはいない。性欲のめざめを「肉欲」に履き替え、肉食動物が「狩り」を学ぶようなひねりの利いた物語は、父親の告白によって姉妹に課された通過儀礼であったことが明らかとなる。

 

 

デュクルノー監督は肉体に対する関心は両親の影響であることを認めている。記憶によれば、幼少期にテキサスチェーンソーをTVで見ていてシネフィルの親に殴られたとも語る。10代の頃はエドガー・アラン・ポー、メアリー・シェリー、デヴィッド・クローネンバーグデイヴィッド・リンチの描く異形に親しみつつ、詩や短編小説を創作し、16歳で出版社から作品を求められる機会を得たが完成させることができなかったという。

彼女は筆を折り、数学と物理学に降参して医師になることを断念し、ソルボンヌ大学で英文学と哲学を、ラ・フェミスでスクリーン・ライティングを学んだ。初期から女性による暴力や大量の血が流れる作風だったと振り返り、「全てのディレクターは同じことを何度も繰り返していると思います」と語る。『RAW』によって多くの賞賛と期待を手にしたものの、多くの誤解と『RAW2』への期待を生んだことを後悔したと述べている。

約1年間の休筆を経て「金属片を産み落とす」イメージから誕生したという本作『TITANE』では「車」が象徴的な役割を成しているが、彼女自身は車を運転できない。

 

 

■主要キャスト

Agathe Rousselle アガト・ルセル(アレクシア、アドリアン役)

https://www.instagram.com/afundisaster/

1988年生まれ。キャスティング・ディレクターInstagramで発掘した新人で、ジャーナリスト、写真家、モデルとしても活躍。フェミニスト雑誌『Peach』(現在は廃刊)の共同創設、編集長を務めた経験があり、ジェンダーへの造詣も深い。

 

Vincent Lindon ヴァンサン・ランドン(ヴァンサン役)

1959年生まれ。80年代から俳優としてキャリアを積み、セザール賞(フランスのアカデミー賞)に5度ノミネートした。度々タッグを組んできたステファン・ブリゼ監督『ティエリ・トグルドーの憂鬱』により第68回カンヌ国際映画祭で男優賞、第41回セザール賞で主演男優賞に輝いた名優である。「巨人ゴーレムをイメージしてほしい」との監督の要望により、役作りに約2年をかけてマッチョな肉体改造を行った。THE RIVER誌のインタビューでは是枝監督作品に出演するのが夢だと語っている。

 

Garance Marillier ギャランス・マリリエジャスティン役)

デュクルノー監督のデビュー作『Junior』でキャリアを開始し、長編第一作目『Raw~少女のめざめ~』でも主演を務めた。監督は「妹のような存在」と表現し、マリリエ自身も監督への全幅の信頼を公言してはばからない。『Raw』が映画界に与えた鮮烈なインパクトにより仏フィガロ紙は19歳の彼女を「新たなゴア映画のアイコン」と讃えた。2021年に本作のほか、Netflix『Madame Claude』、『Gone for Good』、映画『Warning』等に出演。

 

■内容

幼い頃、交通事故によって頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシア。
彼女はそれ以来<車>に対し異常な執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになる。自らの犯した罪により行き場を失った彼女はある日、消防士のヴァンサンと出会う。10年前に息子が行方不明となり、今は孤独に生きる彼に引き取られ、ふたりは奇妙な共同生活を始める。だが、彼女は自らの体にある重大な秘密を抱えていた――

 

少女は父と言葉を交わすことなく、後部席で延々とエンジン音の口真似をするオープニング。苛立ちを隠せない父とのドライブシーンは、すでに父娘の断絶関係が暗示されているが、緊張と滑稽さを誘うダークなユーモアとして提示される。

観客の期待通り車は衝突事故を起こすが、それまでの緊張感から比較すれば「大事故」という程の衝撃でもない。運転していた父親は病院で平然と医師の説明を受け入れ、シートベルトを外してしまった少女だけが頭部に大怪我を負った。

頭蓋にチタンプレートを埋め込まれ、右側頭部に渦巻きのような大きな手術痕を負い、拘束具で固められた丸刈り頭の少女。はたして彼女の人生はどうなってしまうのか、という観客の不安(期待)をよそに、少女は病院を出ると真っ先に車に駆け寄り、まるでペットの犬猫とスキンシップを交わすように車体を撫で、窓に優しくキッスする。

 

10数年後、アレクシアは喧しい音楽の鳴り響く中、露出の高いド派手な衣装を身にまとい、モーターショーのショーガールイベントコンパニオン)として男性来場者たちの視線を惹きつけていた。他のモデルたちが「被写体」としてポージングする様子と異なり、彼女の煽情的な挑発は「男たち」にではなく「車」そのものに向けられていた。アレクシアのダンスはストリップのそれに近い、いわば車との「擬似セックス」を衆目に晒しているかのようである。それでいて官能的にクリエイトされた洗練したショーというよりは、野蛮な、動物的な振る舞いのように映る。

(話は逸れるが、今にして思えば、かつて「カメラ小僧」が構えた長い望遠レンズは勃起したペニスを象徴するものだったが、今日ではより「スマート」なかたちで「去勢」されているようにも思える。男たちはペニスのサイズを誇示して競い合う求愛行動より、片手でシンプルに「盗撮」する自慰行為の方法を好んだようだ。)

 

イベント終了後、アレクシアは隣でシャワーを浴びていたジャスティンに声を掛けられる。アレクシアは会話を拒もうとするが不意に髪の毛がジャスティンの乳頭ピアスに絡まって2人は接近し、後に性的関係に誘われることになる。

アレクシアが帰宅しようと車へ向かうと、熱烈なファンがストーキングし、強引に求愛して口づけしようとする。彼女は男の接吻を受け入れるかのように一瞬油断させると、長い髪留めで側頭部を一突きして瞬殺。不意を突く「必殺仕事人」を思わせるその妙技は、手練れの仕業である。

 

汚物を洗い流すため再びイベント会場の控え室でシャワーを浴びていると、無人の展示ホールから何かを殴打するような轟音が響いてくる。不審に思ったアレクシアが裸のまま会場へ向かうと、燃え滾る炎が描かれたハイドロ車(通常のサスペンションが金属バネの弾性を利用するのに対し、油圧ポンプでシリンダーを伸縮させて車高を上下させるカスタム。跳ねたり踊ったりするような動きが可能となる)がライトを煌々と照らして彼女を待ち受けていた。アレクシアは愉悦の表情で車と激しくまぐわい、エクスタシーを迎えるのだった。

自宅で大量の食事を摂るアレクシアに父親は何も語ろうとはしない。テレビは数か月に渡って複数男女を標的とした連続殺人犯のニュースを伝えている。言うまでもなくアレクシアによる犯行である。不調を訴える娘に父親は腹部を触診するが、そっけなく異常なしと診断する。

 

夜、ジャスティンの招きに応じたアレクシアは性行為に及ぼうとするが、膣からはモーターオイルが分泌され、簡易妊娠検査をすると「陽性」が示される。髪留めで無理に掻き出して中絶を試みるもうまくいかず、ジャスティンとそのルームメイトたちを次々と殺害する。暴力そのものは生々しく描かれるも、「あんたたち一体何人いるの?」とここでもブラックな笑いを提供する。

遺体を処理し、家に戻ったアレクシアは地下倉庫でジャスティンの服や遺棄に使った毛布を焼却する。このとき窓辺で煙草を吸いながら娘の帰りを見つめる父親の様子が挿入されることから、父は娘がシリアルキラーだと勘付いていたと窺い知れる。

引火して家屋にたちまち燃え広がる。彼女は両親の寝室に鍵をかけて逃亡することを選択する。しかし駅にたどり着くとすでに指名手配が始まっており、このままでは逮捕も時間の問題のように思われた。駅で「行方不明者」の手配書を見たアレクシアは、幼くして姿を消した17歳の少年アドリアンになりすますことを思いつく。

髪と眉をそぎ、テーピングで胸と膨らみかけた腹を拘束し、自ら人相を変えるために鼻をへし折った。自らの鼻っ柱を殴打する場面は執拗に繰り返され、その「痛み」を観客に植え付ける。金属とのハイブリッドな肉体を有する彼女は、さらに両性具有、まさしくアンドロギュノスへと変貌を遂げるのだった。

アレクシアの人生を捨て、「アドリアン」として警察に出頭するも供述やDNA型鑑定を拒絶。確認の呼び出しを受けたアドリアンの父親ヴァンサンは「息子」を名乗る人物を思いつめたように見つめる。訝しむ捜査官に「自分の息子を見間違えるわけない」と言い、自分の息子として身元引受を承諾する。

 

「何も言わないのか?……気にするな、心づもりができたら話してくれればいい」

ヴァンサンは嗚咽しながらに「アドリアン」の手を握り締める。「彼」は停車中に逃亡を試みるがヴァンサンはすぐに捕まえて手出しはしないことを約束し、自身が隊長を務める消防チームに入隊させる。筋骨隆々の隊員たちは同じ「男」とは思えないもやしのような体つき、痩せこけた血色が悪い顔立ち、何も喋らず怯えたような「息子」の登場に戸惑いを見せるが、ヴァンサンは「神の命令は絶対だ。“息子”について詮索するな」と厳命する。

若い隊員たちの前では絶対的権威者として振舞わねばならないと考えるヴァンサンだったが、屈強な肉体を維持するためにステロイド注射を常用しなければならなかった。鏡の前で老いゆく肉体に落ち込み、筋力の衰えに抗おうとする姿は、彼が理想主義者であり、目的のために手段を択ばない性格であることを窺わせる。

 

火災訓練の場面でヴァンサンは炎の中にロボットを手にした息子の幻覚を見ている。息子アドリアンは行方不明ではなく、すでに亡くなっていることが示唆される。 

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食事をしても言葉はなく、ヴァンサンを頑なに拒絶し続ける「アドリアン」。父はコミュニケーションを図ろうとレコードをかけてダンスを踊るよう誘う。その挑発に思わず「息子」は髪留めを向けるものの、圧倒的な腕力の前に御されてしまう。

「なぜ逃げようとする。ここがお前の家だ」

ヴァンサンが家の鍵を渡すと「アドリアン」は家を去り、バスに乗り込む。後ろに座った不良たちは前方の「女」に「こっちへ来い、無視するな」と声を掛けてからかう。隣に座る女性はちらちらと「アドリアン」に視線を送るが、助けを求めて目配せしていた訳ではなく「お呼びがかかっているのはあなたじゃないの?」といった風であり、「彼」が「女性」にしか見えないことが暗黙の裡に示されている。

逃亡を諦めた「アドリアン」はヴァンサンの家に戻ると、バスルームでオーバードーズして意識を失った老父の姿を発見する。再び髪留めを手にするものの、殺害を躊躇するアドリアン。頭を丸刈りにし、「起きて、父さん」と呼び掛ける。彼がヴァンサンの息子になった場面である。

 

アドリアンは「ADRiEN」と書かれた段ボール箱に入っていた古い家族写真を眺め、クローゼットからマタニティドレスを見つけて身につける。するとヴァンサンが部屋に入ってきてその姿を認めると、微笑んでアルバムを開き、幼いアドリアン少年が同じドレスを被って遊んでいた写真を見せる。「お前は俺の息子だ」と抱きしめるヴァンサンをアドリアンは受け入れる。

消防チームに居場所を得たように見えたエイドリアンだったが、隊員のライアン(Lais Salameh)は「彼」が女性逃亡犯であると察知し、ダンスパーティーでヴァンサンに疑念をぶつける。だがアドリアンはライアンの進言を打ち消すように自らヴァンサンをダンスに誘うのだった。

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ヴァンサンは別れた妻を呼び、息子と「再会」させる。彼女は冷静を装ってぎこちなく「息子」を抱きしめ、2人きりで話がしたいとヴァンサンに要望する。「息子は渡さない」と語るヴァンサンに、元妻は目を潤ませ「そんな気はない」と応える。

部屋に戻ったアドリアンはテーピングを外し、膨らみきった腹をかきむしると表皮の裂け目からはチタンが覗き、血液ではなく黒ずんだオイルが滲み、張った乳からもミルクのようにオイルが漏れた。もはやその「母体」をテープで隠し通すことは困難であり、体内の得体のしれない動きに身悶えする。

そこへヴァンサンの元妻が現れ、「母体」を晒すアドリアンを見て驚くことなく努めて冷静に強い怒りをあらわにする。

「我が子を失っても泣けない親の気持ちがあなたに分かる?彼の妄想に付け込んで」

「彼には支えが必要、だけど私にはできない。誰だか知らないけれど、あなたが面倒を見て。いいわね」

 

ヴァンサンは注射を頼もうとアドリアンを呼びつける。臀部がはだけた父に思わず目を背けるアドリアン。「病気?」と尋ねる息子に「年でな」と返す初老の父。息子は励ますように父の手を握るが、「俺がお前の面倒を見る。その逆(お前が俺の面倒を見る)じゃない」とヴァンサンは告げる。

庇護者として振舞うこと、「男-女」ではなく「父-子」として存在することを望むヴァンサンと、逃亡者として保護を必要とするアドリアンの間には奇妙な捩じれはありつつも確かな信頼関係が築かれていった。

 

森林でトレーラーハウスの火災が起こり、ボンベを背負って現場へ向かう途中でヴァンサンが転倒する。ライアンはすぐに「大丈夫ですか、隊長?」と駆け寄るが、すぐに起こそうとはせず、「意識はありますか?私の名前は分かりますか?彼女の名は?」とヴァンサンに詰め寄る。

ヴァンサンは自分が侮られたことに怒りが湧き上がり、制止を振り切ってトレーラーハウスに突入すると、ガスボンベだけを持ち出してライアンに持たせた。直後に爆発が起こり、ヴァンサンがライアンのボンベを爆発させたことが示唆される。

 

シャワーを浴びるアドリアンからは相変わらずオイルが漏れている。膨らんだ腹が内側から大きく動くのを見てアドリアンはうれしそうに微笑みかけ、テーピングで腹を抑えつける前には、ごめんね、と謝罪する。

ヴァンサンがシャワー室を訪れると慌ててタオルで前を隠すが、「お前が誰であろうと気にしない、誰であろうと私の子だ。分かるな」と優しく抱擁する。タオルが落ちてアドリアンの全身が露わとなるが、父は無言でタオルを掛けてその場を立ち去る。

 

深夜の車庫では隊員たちが隊長の目を盗んで激しいダンスパーティーに興じており、アドリアンの姿もその中にあった。狂喜乱舞する隊員たちは日頃おとなしい彼を担ぎ上げて消防車に上らせると、踊れ、踊れと捲し立てた。

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すると音楽はハードコアテクノから一転して『Wayfairing Stranger(さまよえる旅人)』へと切り替わる。19世紀から様々な歌手によって歌い継がれてきたアメリカの有名なフォークソングで歌詞やアレンジが異なるものの、現世の辛苦を唄う曲である。父母の待つ輝きの地へ、神に許された者たちが休む場所(天国)へと向かう死者に向けてもう彷徨わなくてよいのだ、と見送るゴスペル、讃美歌が起源とされる。

アドリアンはその痩体をくねらせて腰を振り、一気に隊員たちをしらけさせる。車庫にやってきたヴァンサンが「いい加減にしろ!何時だと思ってるんだ」と隊員たちを叱りつけ、車上のダンスを目にする。だがアドリアンは踊ることを辞めず、隊長は何も言わずその場を後にする。

 

アドリアンは車庫に残り、消防車とセックスを試みるもかつてのような快感を得られることはなく、テーピングを外して力むと腹の裂け目はさらに広がった。寝室で放心状態のヴァンサンはアルコールを自分の体に掛けて火を放つ。すぐに消し止めたものの、踊る息子の姿は男に深いダメージを与えていた。

Je t'aime (愛してる)

Moi aussi, Je t'aime (私もだよ)

寝室へとたどり着いたアドリアンはヴァンサンの胸に顔をうずめ、体にキスをする。お互いがその傷を知りながら、うまく痛みを伝えられない2人。

やがて接吻を求め、ヴァンサンは強くそれを拒んで部屋を去ろうとすると、アドリアンは「見捨てないで」と懇願する。

そのときアドリアンに激しい陣痛が起こり、口からオイルを吐き出す。

異常を察知したヴァンサンは彼女の股を広げ、「強く力め」と出産に備える。

彼女はこのとき初めて自分の名を彼に明かす。

「力め!アレクシア」

アレクシアの腹はめりめりと裂け、股の間からはどくどくとオイルが流れ出る。

産声を聞いた彼女はヴァンサンの感極まった表情を見てすべてを察し、静かに息を引き取る。

人工呼吸を施すもアレクシアは息を吹き返すことはなく、ヴァンサンは赤ん坊を抱いて「私はここにいる、私がついている」と語りかけるのだった。

 

 

■所感

筆者が訪れた平日のレイトショーでは公開初週に関わらず4人の集客しかなかった。「映画」として見た場合、前作『Raw』のストーリーテリングの方が優れたもののように感じる。だが本作をパッケージされた物語ではなく、詩、ある種の神話として捉えるならば、そこには答えのない未来が剥き出しの状態で啓示されているようにも思える。

位置づけとして、デュクルノー監督作品は皮膚への接写や病質的な肉体変化を表現することに特色があるものの、自身で「ボディ・ホラー」という区分での見方を拒否している。暴力、セックス、死体描写によってレーティング(視聴年齢制限)は避けられないものの、ジャンル映画(「ゾンビ映画」や「スプラッタ―映画」といったカテゴライズされた修辞法)としての解釈は避けるべきである。

 

 

車と性欲の関係で言えば、J・G・バラードによる原作で、1996年のカンヌ映画祭審査員特別賞(賛否両論を引き起こした、というよりフランシス・フォード・コッポラ監督が強い難色を示したと伝えられる)に輝いたデヴィッド・クローネンバーグ監督の映画『クラッシュ』が真っ先に思い浮かぶ。

「交通事故」による強烈な衝撃というシチュエーションに対する性的興奮、欲望への堕落として描いており、生と死の境というある種のイニシエーションにおける“神器”として車が用いられる。性欲という原始的欲望の「装置」として用いることで機械文明に対する強烈な皮肉のようにも捉えられる。

『クラッシュ』が人間同士の歪んだセックスin the Carだったのに対して、『TITANE』は純愛そのものwith the Carであり、直接的なフェティシズム、「車とのセックス」が描かれているという大きな違いがある。更にデュクルノー監督は、娯楽、運動的快楽として描かれがちなセックスを、生殖行為として、生命の再生産に立ち返って物語を推し進めていく。

人体と機械の融合という点ではポール・バーホーベン監督『ロボコップ』(1987)(その舞台は自動車産業に支配された犯罪都市デトロイトであった)、塚本晋也監督『鉄男』(1989)が思い浮かぶが、ロボットとのバトルやサイバーパンク、サイキックといったアメコミ的「少年」らしさ、善と悪の二項対立が顕著であり、サイボーグの描き方・捉え方の相違は興味深い。『TITANE』で描かれる暴力は正義の鉄槌でもなければ、痛快なヴァイオレンス・アクションでもない。

 

余談にはなるが、ノーセックスin the Carを映しながらも「言葉を越えた心の交流」を描いた映画『ドライブ・マイ・カー』にも触れておきたい。

「車」は情交が失われ形骸化した「家」を象徴しており、主人公は事故に遭ったことを契機に夫婦関係の虚構に気付く。脚本家の妻はセックスの最中に「物語」が下りてくる体質で、夫婦仲は表向き悪い訳ではなかったが自宅で不倫を繰り返していた。

妻の死後も舞台俳優・演出家の仕事を続ける主人公は、彼女が遺した「機械的な」台本朗読の音声を聞きながら現場を往復する。当初ドライバーの代行運転に強く抵抗するのは、車内での「夫婦の営み」が邪魔されるおそれを無意識下に懸念したためである。

しかしハンドルを握る彼女は、極めてスムーズな乗り心地で他人の運転である恐怖を感じさせず、亡き妻と主人公との営みを否定するでもなく「空気のように」寄り添いながら、目的地へと運んだ。やがて主人公は彼女の案内に任せて、誘われるまま知らない場所へと歩を進める、という喪失と回復の物語である。

 

 

男性の暴力性はときに魅力と受け止められ、「完全な悪役」となることも許されているが、女性による暴力はそうはならない、と性差による非対称性をデュクルノー監督は指摘する。

前半30分間のシリアルキラーとしての彼女の振る舞いは彼女の父のみならずあらゆる者に牙を剝き、観客の共感を拒む金属:冷徹な無機物である。自己防衛のために暴漢を殺すことは納得できるにしても、それ以外の人々を殺害する明確な理由は伝わってこない。

私たちにとってアレクシアの行動は「理由なき暴力」のようにも思えるが、彼女にとって長い棒状の髪留めは金属「性器」であり、殺害は彼女にとっての「生殖行為」に他ならない。「男性のペニス」が「武器」であることを反転させた表現と捉えられる。(『鉄男』ではペニスそのものが電動ドリル化するメタモルフォーゼで表現された!)

 

 

極めて印象的なシーンのひとつに、『恋のマカレナ』を引用した心肺マッサージがある。ヴァンサンたちが意識不明の男性を蘇生中に、ショックを受けた老母が卒倒し、技術のないエイドリアンにマッサージを任せる。無事介抱できたことでヴァンサンがエイドリアンを強く抱擁する場面である。

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1993年にスペイン人デュオ、ロス・デル・リオがリリースした『恋のマカレナ』は中南米で流行歌となり、Bayside Boysがリミックスして96年にシングルカットされた。人気は北米に飛び火してスポーツ会場等でチアソングとして流れたり、大統領選挙(民主党アル・ゴア)でも用いられた。一度聴いたらクセになるフレーズと振り付けで一躍社会現象となり、ビルボード14週連続1位など世界的大ヒットを記録した。

I am not trying to seduce you (誘惑してるわけじゃないの)

When I dance they call me Macarena (踊る私をみんながマカレナと呼び)

and the boys they say que estoy buena (男の子たちはセクシーだという)

they all want me  (みんなが求める)

they can't have me (けどそれは無理)

so they all come and dance beside me (だからそばへ来てみんなで踊りましょう)

Move with me (一緒に動いて)

Chant with me (声を合わせて)

and if your good I'll take you home with me (上手にできたら家に誘ってあげる)

Dale a tu cuerpo alegria Macarena (元気をあげるよ マカレナ)

Que tu cuerpo es pa' darle alegria y cosa buena (喜ばせる体があるから)

Dale a tu cuerpo alegria, Macarena Hey Macarena  (元気をあげるよ マカレナ、ヘイ マカレナ)

Lyrics Macarena (Bayside Boys Mix) - Los Del Rio

元々はロス・デル・リオのアントニオ・ロメロがベネズエラ人フラメンコダンサー、ディアナ・パトリシアをミューズとして書いた彼女を讃える楽曲である。アレクシアがダンサーだったこともあって、セクシーな歌詞内容ともちょっぴり符合する実に気の利いた選曲だったことに驚かされる。

 

 

身体と変容の関係。

主人公の名前「アレクシア」は脳損傷による失読症を意味しており(先天性のものはDyslexia)、先述のように監督は意図してその感情を描かない。車とのセックスを経て、ハイブリッドな「母親」となりながらも女性としての肉体を抑圧する。女性性への抵抗はデュクルノー監督の根源的なテーマと言ってよく、一部の批評家が言うようなトランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)ではないかという指摘は重大な誤りである。

ヴァンサンの「息子」として受け入れられる過程で、アドリアンへと生まれ変わることで人間性を取り戻していく。

観客は、ほとんど何も喋らない「彼」とも「彼女」ともつかない(「彼」でも「彼女」でもある)ハイブリッドな両性具有の主人公に対して、痛みを通じて共感を示すのである。アドリアンアドリアンのこどもは人間ではないかもしれないが、『ローズマリーの赤ちゃん』のようにモンスターとは解釈されるべきではない。

世界がカオスだった頃、大地の女神ガイアは無から天空の神ウラノスを生んだ。ガイアはウラノスと結ばれ、地上に山、木、花、鳥、獣を、天に星を生み出した。ウラノスは天から雨を降らせて大地を覆い、ガイアは12人のティタン神族を生んだ。アレクシア(アドリアン)をガイア、ヴァンサンをウラノスと擬えることで、2人は「親子」であり同時に「夫婦」でもあるという人間としてはタブーともいえる近親婚の家族関係を可能にしている。

またヴァンサンは消防隊員らのアドリアンへの詮索を拒み、「私は神だ。その息子はイエス・キリストだ」と発言して自らの絶対性を誇示した。公式の完全解析ページを担当した小林真理氏が「処女懐胎をしたアレクシアは聖母マリアであると同時に、救世主イエスキリストなのかもしれない」と指摘するように、神話や聖書のモチーフが随所に散りばめられた寓話となっている。

冷血な女は炎の描かれた車との交わりで子を宿し、両親と自身の過去を燃やし尽くし、熱い血の通った男はライアンを爆死させてこどもを迎え入れ、自らの体に火を放って諦念を振り払い、新たな家族の物語を想像する。2人は己の肉体を、性規範や従来の道徳を超克するポストヒューマンのあり方を模索する道標となるはずである。

 

Je t'aime (愛してる)

 

Moi aussi, Je t'aime (私もだよ)

 

2人の間に生まれた愛は、エロス(性愛)でもフィリア(友愛、隣人愛)でもない、神から人類に提供されるアガペー(無償の愛、不朽の愛)であり、単なる異性愛に依存しない、あるがままを受け入れる慈しみは新たなストルゲー(家族愛)ともいえるのではないか。

 

 

 

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