成田チョコレート缶覚せい剤密輸事件について

“日本の空の玄関口”成田国際空港を抱える千葉県は裁判員裁判の件数が全国で最も多く、違法薬物の密輸事犯がそのおよそ4割を占める。起訴されたいわゆる「運び屋」たちは違法薬物の存在について知らぬ存ぜぬと主張するケースが大半である。

2009年11月に覚せい剤約1キログラムを国内に持ち込もうとして逮捕された男性も当初から営利目的輸入についての容疑を否認し、公判でも「覚せい剤と知らずに持ち込んだ」と主張していた。

覚せい剤取締法第41条2項により、営利目的輸入は無期若しくは3年以上(20年以下)の懲役、又は情状により1000万円以下の罰金を併科するとされており、裁判員裁判の対象となる(裁判員法第2条1項1号;死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件に該当する)。本件は裁判員裁判で全面無罪判決となった初めての事件である。

 

 

■概要

2009(平成21)年11月1日、マレーシア・クアラルンプール国際空港から成田行きの便に搭乗した相模原市の会社役員安西喜久夫さん(59)が手荷物のボストンバッグに覚せい剤998.79グラムを隠し持っていたとして覚せい剤取締法違反の輸入行為、関税法違反容疑で逮捕された。

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安西さんは税関の申告書にある「他人から預かったもの」の欄に「いいえ」を記し、職員から覚せい剤などの持ち込み禁止物品を図示されて、口頭での所持確認が行われた際にも否定していた。

税関職員が手荷物検査を行うと、免税袋にチョコレート缶2缶と煙草のカートンが入っていたが不審点は見当たらなかった。続いてボストンバッグの中身を確認すると、黒いビニールの包みにチョコレート缶3缶が見つかった。職員が持ち比べたところチョコレート缶のサイズは先の缶と同程度だったが明らかに重いと感じ、チョコレート以外の何かが入っているのではないかと考え、エックス線検査の了解を求めた。

安西さんはすぐに了承し、検査室で検査結果を待った。チョコレート缶は縦20×横27×高さ4センチの平らな缶で、蓋部分と缶本体は粘着テープで封じられており、内容量380グラムと表記があった。

 

税関職員は男性に自分で購入したものか否かを尋ね、「それは昨日向こうで(マレーシア)で人からもらったものだ」と返答した。職員は申告書の記載と異なることを問いただしたが、安西さんは返答に窮し、「だれに貰ったものか、日本人か」との問いに「イラン人らしき人です」と答えた。

税関職員はエックス線検査の結果を伝えないまま、どれが預かってきたものかを尋ねて荷物の確認表を作成。安西さんはチョコレート缶3缶と黒いビニールの包み、菓子数点を申告した。

職員が黒いビニールの包みの開封を求めると、安西さんは機密書類だからとこれを拒んだため、「エックス線検査の結果、缶の底部に不審な影が見られたので確認させていただきたい」と説明し、チョコレート缶開封の承諾を求めた。求めに応じたため職員が缶を開封したところ、3缶ともにチョコレートの入ったトレーの下部に袋に小分けされた約334~350グラムの白色結晶が発見された。

 

「これは何だと思うか」との問いに、安西さんは「薬かな、麻薬って粉だよね、なんだろうね。見た目から覚せい剤じゃねえの」と答えた。

税関職員は再び黒色ビニール袋の中身を見せるよう言って、同意の上で開けてみると、中には名義人の異なる5通の外国の旅券が入っており、うち3通は「偽造旅券」であった。

検査の結果、缶底から見つかった白色結晶が覚せい剤であることを確認し、男性を逮捕した。

 

■供述

逮捕直後、安西さんは見知らぬ外国人にチョコレート缶を貰ったと話したが、その後の取り調べで供述に変遷が見られた。

日本にいるナスールという人物から30万円の報酬で「偽造旅券の密輸」を依頼され、マレーシアのジミーという人物から旅券を受け取った際に「ナスールへの土産」としてチョコレート缶を持たされたと述べるようになった。

 

次いで、旧知のカラミ・ダボットから送金を受けていることについて説明を求められると、ナスールから直接依頼されているのではなく、ダボットに頼まれて偽造旅券を受け取りに行ったとし、自分から依頼者へ、ダボットの手からナスールへと渡される予定だったと述べた。

ダボットは当時別件の覚せい剤輸入事件に絡み、大阪地裁で無罪判決を受けた後、検察側の控訴により大阪高裁で審理中で、安西さんはその訴訟経緯についてはダボットから聞かされていた。

 

■一審

千葉地裁(水野智幸裁判長)で開かれた一審の裁判員裁判では、被告人に缶の中身が覚せい剤だという認識があったか否かが争点となった。裁判員裁判は2009年5月21日から実用が開始され、運用から約1年が経過した時期である。

 

「土産」として預かったチョコレート缶は密封状態で、内容物が外から見ることができず、普通の缶と区別がつかなかった。被告人本人が缶をバッグに入れていたとて、予め「違法薬物」だと分かったうえで持ち込んだとはみなせない。被告の主張するように、依頼された「偽造旅券」と単なる「土産」として所持していてもおかしくはないのである。

被告人は30万円の報酬を約束され、航空運賃などを負担してもらって「偽造旅券」の密輸を委託されたことを認めている。検察側はそれほどの金額を支払ってまで偽造旅券を持ち込む必要性はないため不自然に思うはずだと主張したが、それは費用に見合う価値を理解した上での話であって、依頼者の負担額からチョコレート缶の中身を違法薬物と推測できたとまでは言えない。

缶の重量は、チョコレート、缶本体、覚せい剤は合わせて各缶約1056~1071グラムあったが、まとめて渡され、その重量を正規品と持ち比べる機会もなかったことからチョコレート以外のものが隠されていることに気付かなくても何の不思議もない。

 

「偽造旅券」の入った黒いビニール袋は目に付きづらいバッグの底の方に入れていた一方で、チョコレート缶は目に付きやすい最上部に入れていた。税関職員の求めに対してすぐにエックス線検査を承諾している。市民感覚から言えば、自分の手荷物から全く心当たりのない違法薬物が発見されれば「うろたえる」「強く否認し、抵抗する」のが正常な反応ともいえる。安西さんの「なんだろうね、覚せい剤じゃねえの」と平然とした対応は確かに違和感を感じさせる。

「偽造旅券」は逮捕された場合に備えての「言い逃れ」の手段としてバッグに同梱していた可能性も否定はできない。むしろ「運び屋」であればそうした下準備があってもおかしくはないが、常識的に考えて間違いなく「言い逃れ」のために準備されていた、とまでは言い切れないのである。

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2010年6月22日、千葉地裁は検察側の求刑懲役12年、罰金600万円に対し、裁判員裁判で全国初となる無罪判決を言い渡した。

水野裁判長は判決理由で「土産として他人に渡すためにチョコレート缶を預かったという被告の話は作り話とはいえない。違法薬物が隠されている事実について、分かっていたはずとまではいえない」と指摘。

 

判決後、裁判員を務めた6人の内5名が会見し、女性は「有罪が立証されなかったので無罪は正しい判決と思っている」と話した。「黒に近い灰色というイメージだった」という弁も出た一方、男性会社員は「控え室で『完全に有罪と言い切れないなら無罪』と知った。こうしたルールを守らなければいけないんだと認識させられた」と述べた。

「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に対し、裁判員の忠実さが現れたかたちだが、捜査当局としてはより綿密な捜査、立証を求められる結果となった。それ以前の裁判官のみによる裁判では持ち込んだ経緯や発見時の様子で立証され、すべて実刑判決が下されていた。

裁判官であればそれまでの違法薬物密輸の実情や背景を理解した上で判断を下すものの、市民である裁判員では知識にも開きがあり、一般常識や感情に流される面もかねてより懸念されてきた(殺人事件等では重罰化の傾向が見られた)。そうした一般感覚を裁判に取り入れることこそ裁判員裁判の目的であるためそれが間違っている訳ではない。検察側からすれば、それまでの裁判官向けの立証通りでは裁判員には通用しない側面があぶり出されたといえる厳しい判決であった。

安西被告も会見に応じ、「正しい判断をしていただき、ありがたい」と判決を喜んだ。浦崎寛泰弁護士は「裁判員裁判への信頼の向上という点で歴史的意義がある」と評価した。千葉地検は事実誤認を主張し、裁判員裁判で初の控訴を行った。

 

■二審

2011年3月30日、東京高裁は一審判決を破棄し、懲役10年罰金600万円の有罪判決を下した。裁判員裁判の無罪判決が覆るのは初である。

検察側は先述のような被告人の供述の変遷をたどって説明し、当初はカラミ・ダボットからの委託で渡航していた事実を隠そうとしていたこと等を指摘した。虚偽の申告や供述で再三の言い逃れを続けてきた経緯に論点を置き、被告人の供述の不自然さを示して、チョコレート缶の中身が違法薬物であることを知りえたからこその隠蔽工作だと印象付けた。

小倉正三裁判長は「被告は虚偽の供述が捜査状況により通用しなくなると、供述を変遷させ、嘘の話をつくっており弁解は信用しがたい」と一審判決を事実誤認と判断し、逆転有罪判決を下した。

出廷しなかった被告人は弁護士を通じて「裁判員の判断を受け入れなかったことは大変残念」とコメントし、上告した。

 

■三審

一審は直接主義・口頭主義の原則が採られ、証人の証言や態度も踏まえて供述の信用性が判断される。控訴審が一審判決を事実誤認として破棄する場合、その不合理性を具体的に示さねばならない。

最高裁は、裁判員裁判によって直接主義・口頭主義が徹底された一審判決をより重視する立場をとった。検察側が行った主張は「間接事実」の積み重ねによる推認であり、一審で認められた被告人の主張・弁解の信用性を否定する証明の力は「弱い」との見方を示した。

 

二審で検察側は、被告が覚せい剤密輸に関知していないのであれば、自らカラミ・ダボットに事情を聞くように言うのではないか、彼との関係を隠していたのは覚せい剤密輸が故意によるためだと主張した。たしかに別の覚せい剤密輸事件で公判中のダボットとのつながりは、被告人が故意に密輸に係わっていたことを疑わせる事情である。だが安西さんはダボットが覚せい剤絡みで裁判をしていることを認識していた。取調官に彼との関係を伝えるのは自己の利益にならない、却って疑いが強まってしまうと考えて秘匿したとしてもおかしくはない。

またチョコレート缶に違法薬物が封入されている可能性に一抹の不安を覚え、テープの封を切って中を確かめることが物理的には可能だったとはいえ、他人への土産物として預かった以上は開封できる立場にはない。

さらに「隠匿すべき」偽造旅券の入ったビニール包みについてはバッグの奥に入れて持ち運び、捜査員の求めに対して一度は開披を拒んでおり、「中身について関知していなかった」チョコレート缶の検査には素直に応じていることも決して「不合理な行動」には当たらない。

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2012年2月13日、最高裁第一小法廷は原判決(二審の有罪判決)を破棄し、一審の全面無罪判決が確定する。

白木勇裁判官は補足意見として、従来の控訴審の実務として一審の出した量刑を変更することが多かったとし、本件の第二審においても自らの心証から事実認定・量刑審査をやり直す手法を採ったと解されるが、裁判員制度においてはそうした手法も改める必要があるとしている。

裁判員の様々な視点や感覚を反映させた判断になるため、ある程度の幅を持った認定、量刑判断が許容されなければ無理強いになってしまうだけで裁判員制度は成り立たない。第一審の判断が、論理則、経験則に照らして不合理なものでない限り、許容範囲内のものと考える姿勢を持つことが重要だと指摘している。

 

■所感

裁判員裁判の導入によって、覚せい剤密輸事件は従来とは比べようもないペースで「無罪判決」が言い渡された。皮肉なことだが、裁判員裁判が「無罪」とみなすおかげで密輸しやすい環境が保護されてしまったのである。

違法薬物密輸事件が無罪とされやすい、有罪を得にくい事情もいくつかある。

ひとつはこの事件がひとつの前例として踏襲されていること。

ふたつめには薬物犯罪、とりわけ密輸について一般市民はなじみがなく、ほとんど実情を知らないこと。覚せい剤密輸は最高刑で無期懲役ともなる重罪である。無罪から無期の間で予備知識に乏しい一般市民が議論する労力、さらに判決によって被告人の人生を大きく左右する負担感は尋常ではない。個々の裁判員を非難するつもりは毛頭ないが、無責任に重罪を下せない一種の防衛反応として重責を回避する選択に傾くのではないか。

みっつめは直接証拠が得にくいこと。関係者が海外に居れば証人に呼ぶことも難しく、捜査権が大きなネックとなり、調査にも国内事案よりはるかに労力を要する。組織犯罪の割合が多く、その場合、通信機器や指紋といった有力証拠は当然処分されている。それゆえ輸送を依頼されたが中身は知らなかった「言い逃れ」事案も踏襲されるのである。

 

裁判に民意が反映されることは悪いことではない。だがいたちごっこと知った上でも、こうした状況をむざむざ維持することは国民の不利益につながる。市民側の裁判員に向けた自助努力も必要ではあるが、裁判員裁判の対象範囲や運用の見直しも新たな課題となっている。

 

弁護士小森榮の薬物問題ノート

■2010年6月23日、毎日新聞

「違法な検査」と無罪判決 覚醒剤密輸事件で千葉地裁 - 産経ニュース(H30)

裁判員裁判で検察が初の控訴へ 覚せい剤密輸無罪判決: 日本経済新聞(H22)

心理負担多い密輸審理 無罪から無期“振れ”大きく 【検証 裁判員制度10年】 第2部千葉の現場から (1)「成田事件」 | 千葉日報オンライン

裁判例結果詳細 | 裁判所 - Courts in Japan