自宅から塾まで僅か500メートルの区間で忽然と姿を消した少女。事故の可能性は低いとして事件としての捜索活動が続けられているが30年以上経った現在もその所在は分かっていない。
事件当時のことで何か心当たりがある、似顔絵によく似た女性を知っている、犯行を仄めかす人物を知っているなど情報をお持ちの方は下記までお寄せください。
神奈川県警 旭警察署 045-361-0110
雨降りの午後
1991年(平成3年)10月1日(火)、神奈川県横浜市周辺では前夜からの不安定な空模様が続いており、昼過ぎには大雨洪水警報が発令された。
相鉄本線鶴ヶ峰駅と二俣川駅のおよそ中間地点に近い、横浜市旭区本宿町に住む小学3年生野村香ちゃん(当時8歳)が学校から帰宅したのは午後2時半頃と見られている。2日前の運動会の振り替えで、その日は短縮日課だった。
一家は5年前に購入した戸建て住宅に、両親と当時小学生姉妹の4人暮らし。両親とも勤めに出ており、子どもたちはいわゆる「鍵っ子」だった。小学校から程近く、周囲は住宅密集地である。
午後3時頃に1学年上の姉が帰宅したとき、香ちゃんは居間で漢字ドリルに取り組んでいた。姉妹は人並みに喧嘩もあったが、香ちゃんはどこへ行くにも姉の後をついていきたがる「お姉ちゃん子」だったという。姉はおやつを済ませると「じゃあ、行くね」と妹に声を掛け、エレクトーン教室に行くため3時半頃に家を出た。
香ちゃんも午後4時から書道教室の習い事があった。方角が同じため、普段なら一緒に出て姉が送っていくことが多かった。だがその日姉はノートを買いに行く用があったため、いつもより少し早めに出掛けて別行動となった。そのときも香ちゃんはまだドリルと格闘中で、結果的にこれが彼女の最後の目撃となった。
おそらくそれから10分前後で彼女も家を出、踏切を越えた四季美台にある書道教室へ向かったはずだがその道中で消息を絶った。夕方になり雨は強さを増していた。自宅に残されていた漢字ドリルはやりかけのままだった。
母親の郁子さん(香さんの失踪当時38歳)が事務のパートから帰宅したのは午後5時頃で、玄関は施錠されていた。いつもなら香ちゃんも5時頃には帰宅してくるのだが、じきに帰ってくるだろうとそれほど気にせず、近くのスーパーに買い出しに出掛けた。書道の習字セット、傘、長靴はなく、普段なら自転車で通っていたが雨なので歩いて行ったようだった。
郁子さんが6時過ぎに戻ってくると、長女が電話を掛けていた。
「一緒じゃなかったの?」
母が一人で帰宅したのを知って長女は驚いた。帰ったら家にだれもいないのを心配して郁子さんの知人の家に行っていないか連絡を取っていたのである。母親にしても姉と一緒に帰っているだろうと期待していた。
11月に展覧会があるというから居残りでもしているのか。書道教室に電話を入れたが、生徒はみんな帰ったという。香ちゃんと同じ教室に通う児童に電話を掛けると「今日はお休みでした」と知らされる。ほかの親しいクラスメイトに確認してみても、誰も放課後に彼女と遊んではいないという。
自宅から書道教室まで540メートル(記事によって「500メートル」)で、子どもの足でも10分程度の短い距離。だが自宅の周りは込み入った細い路地、途中に川や線路、車通りの多い大通り(県道40号線厚木街道。当時は歩道が整備されていなかった)もある。不安になって周囲に気を配りながら、自宅と書道教室との間を異なるルートで何往復かしてみたが遺留品や事故の痕跡、川に流されたような様子も見当たらない。
学校に連絡網を回して確認してもらう一方で、近隣住民や学校関係者らと周辺を捜し回り、警察に通報したのは午後8時半だった。父親は普段午後10時頃まで勤めから帰らないが、連絡を受けて慌てて同僚の車で帰宅した。
失踪当時の特徴、所持品は以下のように伝えられている。
身長130センチ・体重およそ26キロ、やせ型体型
黒髪ショートヘア
くりっとした目が特徴
・白色ヨットパーカー(両脇にポケット)
・紺色ジーンズのスカート(両脇にポケット)
・ピンクの長靴
・キティちゃんのイラスト入りバッグに書道道具を入れていた
・薄茶色地に青白のチェック柄の傘
「髪を伸ばしたい」と言われても母は忙しくて髪を結ってあげられないため、姉妹とも短髪にカットしていた。誕生日には母親と姉と3人でケーキを作り、将来の夢に「ケーキ屋さん」や「美容師」を挙げていたという。スケートや一輪車は得意だったが、運動会では徒競走を前に緊張してお弁当も喉を通らない様子だった。早生まれで小柄だったことも影響していたかもしれない。ロールキャベツやハンバーグ、茶碗蒸しが好物。シルバニアファミリーやリカちゃん人形が宝物で、誕生日やクリスマスの度に少しずつ数が増えていった。
通報を受けた横浜旭署は家族への聞き取りを未明まで続けたが、思い当たる節は浮かばなかった。父親の節二さん(香さんの失踪当時43歳)は会社役員を務めていたが資産家という訳でもない。鎌倉の工場で電気設備のメンテナンス業務をしており、人から恨みを買う覚えもないという。
捜査員は「習い事に行きたくなかったのでは」と尋ねたが、香ちゃんは休みの日でも行きたがるくらい書道教室が好きだったという。現金ももたず子どもが自力で夜道をそう遠くまで行けるはずもないが、出動中の捜査員から発見の報告は入らなかった。自宅でも万が一のことを考え、押し入れや天袋、物置までくまなく捜し回った。
不安の色を濃くする両親。捜査員は「大人の後について改札を通れば、電車でどこかに行ってしまうということもたまにある」と言って励まそうとした。駅まで徒歩で20分ほどの距離だが、郁子さん曰く、駅に着く前に道に迷うはずだと話す。一人で何処かに出歩くことはなく、いつも郁子さんと手をつないでいたという。
夜通しの周辺捜索でも手掛かり一つ見当たらない。失踪は午後4時前で周辺はまだ明るく、普段ならば多くの通行人が行き交うエリアだった。晴れていれば向かいの家で野菜売りをするお婆さんなども目にしていたであろうに、あいにくの降雨の影響からか目撃者が全然現れなかった。学校も早帰りだったため、いつもはいたはずの地域見守りの「緑のおばさん」もこの日は残っていなかった。(下のストリートビューは2022年12月の児童の登校の様子が映り込んだもの)
捜査員が不思議に思ったのは、一足先に家を出た姉の目撃はいくつもあるのに、香ちゃんの目撃者が出てこない点だった。失踪当夜に動員された警察犬も雨で匂いが消されてか役に立たなかった。無論、今日のように町中に防犯カメラが設置されておらず、車載カメラもない、携帯電話もGPSも普及していない時代である。
唯一ともいえる目撃情報として、近くの民家にある石垣の水抜き口から勢いよく流れる雨水を傘を差した女の子が長靴で蹴って遊んでいたとの情報もあったが、香さんとの確証は得られず、犯人に直結しそうもなかった。
事件と事故の両面で捜査が進められたが、事件性が高いとして10月7日に公開捜索に切り替え、県警との合同捜査本部が設置された。周辺では民家や商店、事業所など合わせて13000か所、住民一人ひとりに対する聞き込みさえ行われた。転落事故の可能性から二俣川の水中捜索も早い段階で行われたが傘や習字道具といった遺留品も見つからず。厚木街道や周辺の抜け道など数か月にわたって断続的に検問を実施し、男性の多く集まる工事関係の宿舎などにも目を配った。区内300か所、県下およそ6000か所にまで捜索範囲が広げられたが、手掛かりは得られなかった。
父親は会社を1か月休み、母親はパートを辞めて、娘の帰りを、発見の報せを待っていた。身代金誘拐の可能性も排除できないとして、旭署員が失踪から2、3週間、野村家に常駐、その後も日を空けずに具に様子を確認しにきたが脅迫電話の類はなかった。郁子さんの記憶では、朝、登校するときに「カギを忘れないでね」と声を掛け「ハーイ、いってきます」と交わした何気ないやりとりが最後の母娘の会話となった。夕食時、学校や習い事での出来事を姉と競い合うように話す快活な子だったが、そんな家族の風景も一変してしまい、以来揃って出掛けることもなくなった。
その後、地元PTAなどが中心となって「捜す会」が結成され、月に1度、駅などでビラ配りを実施し、周辺地域への掲示や立て看板の設置など地道な捜索活動が続けられた。1か月で85件の情報提供があったが、有力な手掛かりとはならなかった。
それからも母親は娘の帰りを、発見の報せを、犯人からの接触をじっと家で待ち続けた。彼女のランドセルを見ているとうっすら埃が溜まっている気がして不安になり、毎日拭いておかないといられなかったという。目撃情報があまりになく、人間不信に陥って会う人だれもが娘を連れ去った犯人ではないかという目で見てしまうようになったと語る。犯人の目的が分からず、長女も標的にされるのではと心配になり、外出には必ず付き添うようになった。犯人が宅配業者や訪問客を装って様子を見に現れるのではないかと思い、玄関脇にボイスレコーダーとメモを置いてその特徴など詳細を3年間書き残していたという。
学校では戻ってきたときいつでも復学できるように進級手続きがなされた。中学では「卒業」してしまうと復学できなくなるため最終的に「除籍」扱いとされている。先に卒業することになった同級生たちは、捜索協力を自分たちの代だけで終わりにしたくないと訴え、後輩たちにその活動を託した。両親は部屋もそのまま、自分の手で棄ててほしいと願いを込めてランドセルや電子ピアノ、当時のものを残しているという。長女は当時から20センチも背が伸びたが、家族にとっての香さんはいなくなったあの日のままだ。
昭和の終わりから平成初期にかけての事件動静として、児童を標的とした凶悪事件や「平成の神隠し」と呼ばれるような不可解な行方不明事案が連続していた時期でもある。全国から「似ている女の子を見かけた」といった断片的情報が入っても、目撃場所や時期が重複しない散発的な情報ばかりで、地元署員に調べてもらっても別人と判明するか、多くは特定不可能となった。96年には日本テレビの追跡報道から北関東連続幼女誘拐殺人事件の存在も浮上し、児童を標的とした事件の報道が大きな耳目を集めた。
1986年(昭和61年)
1987年(昭和62年)
茨城・取手市高1女子・根本直美さん行方不明
大阪・住吉区小3女児・辻角公美子ちゃん誘拐殺人
長野・下諏訪町2歳女児・河西美枝ちゃん誘拐殺人
東京・埼玉幼女連続誘拐殺人(宮崎勤)
1988年(昭和63年)
福岡・飯塚市小1女児・松野愛子さん行方不明(後に遺骨?発見)
1989年(平成元年)
1990年(平成2年)
新潟・三条市小4女児・Sさん行方不明(新潟少女監禁事件)
茨城・三和町中2女子・石嵜容子さん行方不明
1991年(平成3年)
大阪・東淀川区小1女児・山川典子ちゃん不審死
兵庫・西宮市小2女児・岡田瑠美ちゃん殺害
大阪・吹田市4歳女児・森山千郷ちゃん殺害
神奈川・川崎市2少年失踪事件
福島・船引町小2女児・石井舞ちゃん行方不明
千葉市中1女子・佐久間奈々さん行方不明
1992年(平成4年)
1993年(平成5年)
岡山・津山市小2女児・清原聖子ちゃん殺害
1996年(平成8年)
群馬・太田市パチンコ店4歳女児・横山ゆかりちゃん誘拐事件
1997年(平成9年)
三重・明和町高3女子・北山結子さん行方不明
岩手・普代村6歳女児・金子恵理ちゃん行方不明
兵庫・神戸須磨区連続児童殺傷(サカキバラ事件)
松岡伸矢くんのご両親は、石井さん、野村さんと共に行方不明児の家族会をつくって家族同士の情報共有や情報発信を行った。一方、テレビ出演など事件が周知されることで占い師や霊能者、宗教勧誘、探偵を自称する人々が自宅まで押し寄せる「善意」の押し売りも絶えなかった。テレビに出た香ちゃんの姉に好意を伝える手紙が届くなど困惑する出来事が相次いだという。
事件から10年後、「捜す会」は2001年に解散。長期化の中で支援活動が形骸化しつつあること、仕事を休んで活動に参加するなど家族の負担にもなっているのではないかという懸念がその理由だった。香さんの同級生たちは進学、就職などで町を離れたり、再び戻って家庭を築いたりとそれぞれの人生を歩む。
自宅周辺に点在していた畑もほとんどなくなり、以前からある家は改築も多くなったという。節二さんは立て直す気にはならないと外壁塗装だけで済ませ、「地震がきたら壊れてしまうかなと思うんだけど、当時のままで」と香さんへの気遣いを見せる。当時は地域の実情が分からず油断があったとも言い、同様な出来事が繰り返されることがないよう教訓にしてほしいとも訴えている(神奈川新聞)。
2021年に行方不明届が出された10歳未満の子どもは1010人。少子化が叫ばれて久しい今日でも、ここ数年は1000~1200人で推移しており、大半はすぐに所在が確認されているが、不明のまま公開捜査に切り替わるケースもある。
坂本弁護士一家失踪の折には堤さんのご家族と捜索活動を一緒にしたが、後に遺体となって発見された。あるいは90年に9歳女児が下校途中に失踪して9年2か月後に奇跡的に救出された新潟少女監禁事件など、ニュースを見聞きするたびに「ひょっとしたら」と様々な思いが去来するという。また新潟少女監禁事件では報道が過熱し、メディアスクラム被害や誠意のない扱いも多くメディア不信にも陥ったという。
「私たちもいつまで動けるか。時間との闘いなんです」
花の香りがする季節に生まれたことにちなんで名付けられた少女が姿を消してから、当時の母親の年齢を越えた。香さんのご両親も共に70代、長女は立派に成人し、お孫さんも失踪時の香さんより大きくなった。夫妻は体力の衰えを口にするが、再会の日まで捜索活動を続けていくと言う。
ビラ撒きは誕生月の3月と事件のあった10月の年に2回となり、地元の中学生有志たちが活動に参加している。この町では行方不明よりもずっと後に生まれた若者たちが、今もこれからも彼女の帰りを待っている。どこにいるのか、その安否もしれないかつての少女は、長きにわたってこの地に育まれ、今もたしかに根を張って息づいているのだ。
横須賀に住む画家・須藤真啓(もとあき)さんはご家族からの聞き取りや写真などを参考に成長した香さんの似顔絵を制作。須藤さんはアメリカで逃亡犯や行方不明者捜索に活用されているプロファイリング復顔図の手法を取り入れて2001年からボランティアで制作を始め、拉致被害者横田めぐみさん、英国人女性殺害の市橋達也などの似顔絵も手掛けた。香さん17歳、25歳、40歳時点の作画を手掛け、「彼女と共に生きてきた」と振り返る。
周辺地理
強い雨によって現場の僅かな証拠さえ流されてしまったかのような印象を受ける、極めて情報に乏しい事件である。当時は防護柵も不充分だったとされる二俣川への転落も有力視されるところだが遺留品も出ていないことから断定もできない。
sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com
香ちゃんの自宅周辺は込み入った細い路地で交通事故の発生も想像される。田畑作之介ちゃんの連れ去り事案や過去エントリ・唐津の男児ひき逃げ事件のような、事故の隠蔽を目的とした略取は大いに考えられるところだ。たとえば警察官や代議士、弁護士などの職業的立場や社会的地位が高い人物、あるいは無免許運転や飲酒などの悪質運転などであればたとえ小さな事故であっても発覚逃れの思考に陥りやすい。
はたして雨という条件下もあって偶々痕跡が残らなかっただけなのか。警察が近郊での車両修理なども調べに掛けたのかは情報がない。
まず犯罪の現場となった自宅から書道教室までのルートを確認しよう。
旭区本宿の自宅近辺、情報提供を求める立て看板を起点に見渡すと、これほどの住宅密集地で犯行に及ぶものかと疑問が浮かぶ。
だが強い雨の中、好きこのんでこうした通りを長時間見渡す人間はそういない。路地は車のすれ違いが困難なほど細く、一方ではアパートの駐車場など車が待機しやすいスポットも点在する。学校に近いことから多少の子どもの声は不審がられず、雨音や近くを通る列車の音、踏切の警音で騒ぎにも気づかれづらい側面もある。
通っていた書道教室は、車通りの絶えない厚木道路沿いにあり、事件後にコンビニ、2024年現在はクリーニング店に様変わりしている。当時はテナントビルで一階が生協、二階が書道教室だった。隣は現在ディスカウントスーパーになっているが、近年まで家具店が建っていた。開放性と交通量の面で見れば、車から非常に目に付きやすく、一見誘拐の難易度は高いように感じる。
だが犯罪者が下校中や遊んでいる児童ではなく、はじめから「習い事」に焦点を当てていればどうか。駐車場でしばらく停まっていても不審はなく、目の前を通過する車も一部始終をずっと目にするわけではない。送迎してくる親もわが子を降ろせばすぐに立ち去るか、生協で買い物でもするか、通常他の車にだれが乗っているかはそれほど気にしていないだろう。香さん本人にとっても自分のテリトリーで警戒感は薄く、20代~親世代の若い男に声を掛けられてもすぐに逃げ出したり大声を挙げたりといった行動にはならなかったのではないか。
ルートは常識的に見れば2種類。住宅街を抜け、二俣川を過ぎて右折し、相鉄本線の踏切を越えて、そのまま厚木道路に出るルートがひとつ。
川を越えてから厚木通りに出る道は2車線だが日頃から「抜け道」として利用する車で交通量が多い。車の脇を通らねばならないのは確かに危険が伴うものの、人目を避けて子どもを乗せられるとは考えにくい。下のストリートビューは踏切前。
もうひとつのルートは、相鉄本線の踏切を越えたところで右折して線路沿いの道を通り、家具店の裏から厚木通り側に抜けるルートである。線路沿いの道は車一台分なのでそこでの待ち伏せは考えづらい。犯行現場になったとすれば、背後から追い抜いて車に押し込むような状況だろうか。
上のルートマップでは家具店を迂回して若干遠回りに表示されているが、実際には家具店と隣の住宅の間に徒歩で通り抜けできる抜け道がある。下のストリートビューの看板と生垣の間にある小道で、従業員などが通用口に使うであろう、一般の大人ならば通らないような路地だが子どもにとっては格好の抜け道といえる。
香さんがどちらのルートをとったのか、それともほぼ自宅前で車に乗せられたのかは特定不能である。だが500メートルばかりの短い距離、彼女にとって通いなれた道であっても、降雨によって「危険な空白」が生じていた。
ネット上には、厚木基地をはじめとして米軍関連施設が点在することから米軍関係者による犯行説を採る声も存在する。95年9月には沖縄の米軍海兵隊員(当時20歳代)3名が小学生女児(12歳)を粘着テープで拘束して海岸に拉致して、強姦、傷害を負わせる事件や、本土復帰前の1955年に5歳半の幼女が無理やり連れ去られて暴行、強姦の挙句、軍用地に遺棄された「由美子ちゃん事件」も沖縄住民の記憶に深く刻まれている。
「基地の中は治外法権」とはいえ、基地内にも犯罪捜査局は存在する。あらゆる犯罪が罷り通る空間であるかのような言説は夢物語の陰謀論だ。違法薬物の所持など小規模であれば見過ごされている犯罪もなくはないのかもしれないが、隊員が家族ではない8歳の女の子を連れ帰ったり、仮定の話だが、基地内で遺体やそれらしき遺留品が発見されたりすれば隠蔽などできようはずがない。むしろ見た目から日本人よりも目立ちやすく、子どもには警戒され、誘拐には適さない。
周辺人口は日本人の方が圧倒的に多く、外国人犯罪を疑わせる根拠がない以上、単なる外国人差別と同じに基づく偏見である。情報がない以上、圧倒的に周辺人口の多い日本人による犯行と考える方が自然な見方である。米軍関係者による犯罪率が日本人より優位といえるデータがあるのなら見せてほしい。日本人であることにプライドを持つナショナリストほど外国人犯罪や北朝鮮拉致説などに罪を擦り付けがちになる。
略取の検討
被害者宅の周辺では住人ひとりひとりに聞き取りが行われており、地方のように物置や広い庭といった隠し場所がある訳でもない。足立区女性教師殺人事件(1978年)のように自宅床下にでも埋めて、その後も30年以上素知らぬ顔で暮らしているとすれば相当な極悪人だが、ここでは他の誘拐犯との比較から考えられる犯人像を推定したい。
略取誘拐は最終的に「殺人」「死体遺棄」に分類されるケースも多く、定型的な分析が困難な分野とされる。英国の先行研究によれば、顔見知りによるケースは女が男児を誘拐するケースも少なくないが、面識のない略取誘拐の場合は86‐98%が男性犯で、年代は20代半ばから後半が多く、対象は10歳前後の女児が大半だという。就学前の乳幼児の場合は保護者の目があるため、子どもたちだけで遊んだり、一人で外出する機会が多いことから標的にされやすいと指摘されている。そのため犯行時間帯も夕方4時前後、「下校時刻」や「放課後」が主とされ、午前中であれば「登校時」午前8時から9時前後が際立つことが報告されている。
東京埼玉連続幼女殺人の犯人宮崎勤元死刑囚は、八王子と奥多摩の間、五日市町(現在のあきる野市)に暮らし、およそ25キロ離れた埼玉県入間市、飯能市、50キロ離れた川越市、さらに65キロ離れた東京都江東区東雲の都営団地にまで足を伸ばした。これは写真撮影の趣味のために、テニスコートや子どもの集まる場所などに日頃から通っていたためだとされる。歩道橋や団地の一角など、人目を掻い潜って「死角」から獲物を狙う狙撃手のような犯行だった。
下のエントリ、新潟少女監禁事件の佐藤宣行元受刑者は柏崎市に暮らしていたが、50キロ離れた三条市で下校中の女児を探した。以前三条競馬場に通っていて多少の土地鑑があったことや、前年に柏崎市内で強姦未遂事件を起こして執行猶予中だったことから遠方での犯行に至ったと考えられる。現場は学校近くのひと気のない農道で、刃物で脅して無理やりトランクに押し込む手荒なやり方だった。
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下の朝霞少女誘拐監禁事件・寺内樺風受刑者は、新潟の事案を参考として遠方での略取を計画した。大阪府池田市出身で略取当時は大学のあった千葉市稲毛区に住んでいた。土地鑑はなかったがネットの地図で60キロ離れた朝霞に目星をつけ、事前に下校中の女子中高生らを物色。被害者の家の庭にあった植木鉢から少女の本名を割り出して、「両親が離婚することになった。弁護士から話があるので来てほしい」と騙して車に乗せた。
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半径50キロ圏が犯人の居住地と想定しても、東京・神奈川・埼玉・千葉の一部までが対象範囲となり、その人口から見ても対象者を絞り込むのは困難である。子どもを狙った性犯罪者をリストアップしたとしても数千人、遡れば数万人という規模になり、その動向まで調査するのは現実的ではない。
横浜を起点終点とする国道16号線は、都心から30~40キロ圏を大きく囲むようにして神奈川県横須賀から千葉県富津までを結ぶ全長330キロ以上の環状道路となっている。1都3県の中核市やベッドタウンを経由し、その周辺人口1000万人を数える。
はじめから自宅に連れ去ることを想定していたとすれば、都心ではなく郊外で暮らす人物、犯人は現場から見て西側の厚木、相模原、八王子方面から来ていたのではないかと思われる。
宮崎、佐藤、寺内は犯行当時ともに20代、経済的に不自由なく育てられ、連れ去りに自家用車を用いた共通項がある。宮崎は両親からの愛情を受けずに育ったが、家業の出版・印刷会社の外回りなどをしていた。佐藤は思春期から家庭内暴力を振るい、10年来の引きこもり。寺内は大学生で年に二度は実家に顔を出し、社交的という訳ではないが友人もおり、セスナ機免許取得のためにアメリカに留学するなど行動的で、逮捕時には就職も決まっていた。
人間性に焦点を当てれば、宮崎勤や奈良小1女児誘拐殺人の小林薫元死刑囚などは、少女のみならずその家族にさえ恐怖や怒りを焚き付け、ニュースで話題となることで承認欲求を満たす反社会的な自己顕示欲をもつ。その後も犯人からの接触がない、同様の事例が周辺地域で報告されていないこと等を加味すれば、犯人にそこまでの反社会性は窺えない。社会との接点に乏しい、人的交流の極端に少ない人物に思える。寺内のように二十歳前後で生活変化も多ければ、通常は犯行や隠蔽の継続は難しくなる。
犯行当時の犯人は20代半ば、引きこもりか、家業手伝い、あるいは地方公務員や団体職員のような変化の大きくない職種ではないか。
これまでに延べ10万近い捜査員を動員し、30年で3130件の情報が寄せられたが、近年はコロナ禍の影響もあり新たな情報提供は落ち込んでいる。加齢とともに犯人もなりを潜めているかもしれないが、家族関係や生活環境の変化、情報技術の発達などによりいつどこで過去の犯罪を露呈するとも限らない。私たちも彼女のことを忘れることなく、その正義の行方を注視していかねばならない。
一日でも早いご家族との再会をお祈りいたします。