いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

沖縄・由美子ちゃん事件について

祭りの夜

1955年(昭和30年)9月3日(土)夜、沖縄本島の中部、石川市(現在のうるま市)で石川幼稚園に通う永山由美子ちゃん(当時数え年で6歳、満5歳)が夕方に家を出たまま行方が分からなくなり、午後10時過ぎに警察に捜索願が出された。

その夜、石川市内はエイサー(旧盆に催される沖縄独自の念仏踊り)の祭りが各地で開かれており、由美子ちゃんは一人で映画を見に出掛けて行った。沖縄の夏は本土よりも日が長く、住宅事情もあって子どもたちを夜8時近くまで表で遊ばせておく家も少なくなかった。

映画が終わればすぐに帰宅するものと思われていた由美子ちゃんだったが上映終了後も戻らず、家族は知人宅や金武方面まで夜通し捜索を続けたが消息は掴めなかった。

 

翌4日朝、雨の中、幼女は無惨にも変わり果てた姿で発見される。

嘉手納海岸近くの通称カラシ浜と呼ばれる基地のゴミ捨て場で、警ら中の米兵2名が仰向けに棄てられていた幼女の遺体を発見し、米兵憲兵(MP)を通じて嘉手納派出所に届けられた。

幼女は暴行を受けており、シミーズ(下着)は左腕まで垂れ下がり、左手に2、3本の草を強く握りしめ、口を噛みしめたまま亡くなっていたと報じられた。

『証言記録沖縄住民虐殺:日兵虐殺と米軍犯罪』(1976、新人物往来社)やそれを基に再編された佐木隆三『証言記録 沖縄住民虐殺:日兵虐殺と米軍犯罪』(1982、徳間書店)の伝えるところでは、性的凌辱ばかりか下腹部から肛門にかけては切り裂かれたかのような裂傷があったとされている。

被害者宅から離れていることや遺体発見現場に荒らされた形跡がないこと、頭部に砂の付着が見られたこと等から、暴行・殺害の犯行現場は別の場所と考えられた。

同日午後1時半、父親は琉球警察胡差地区警察署から連絡を受けて、由美子ちゃん本人の遺体であることを確認した。

 

事件同日、那覇市では小学生姉妹に「5円あげる」と言って空き地に誘い出す強姦事件も発生していた。当初は沖縄住民の間でも戦後教育や家庭でのしつけ問題の観点から被害者の親に対する監督責任を非難する声も聞かれたが、犯人が米兵であったことから論調は大きく様変わりしていく。

 

逮捕

新聞では米兵が偶々遺体を発見したかのように報じられていたが、前出の『証言記録』によれば、実際の第一発見者は地元の大工青年3人が作業現場に向かう途中で遺体を見つけて嘉手納の派出所に届けたとされている。しかし軍用地であることから胡差署の捜査員は現場への立ち入りを許されず、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)による鑑識作業が行われた。

その後、CIDは被害者が軍務に無関係な地元住民であることから琉球警察に事件を引き継ぐこととし、遺体は胡差中央病院に搬送された。しかし司法解剖の直前で米軍サイドから待ったが掛かり、琉球警察との協議の結果、牧港米軍病院で胡差中央病院の医師が執刀することとなった。

死亡推定時刻は9月3日午後10時ごろとされ、死因は胸郭部圧迫による窒息死。

解剖を担当した医師は遺体下腹部に鬱血を認め、犯人は姦通行為以前に手荒なことをしていたと指摘し、「明らかに変態性の行為と見なされる。単に情欲を満たすだけなら、あんな虐待症状は見られない」という談話が伝えられた。

茶褐色の体毛が付着していたことから、土地鑑のある外国人による犯行が疑われた。

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琉球警察とCIDによる共同捜査が行われ、被害女児の目撃談やアメリカ人による連れ去り現場を見たとの情報が得られた。

連れ去りの目撃者は石川市内の小学生男子で、軍の食堂から残飯を貰って豚小屋へと運ぶ作業中だったという。午後7時半頃に東恩納方面からぼろぼろのハイヤーが来て、降りてきたアメリカ人が郵便局の脇でしゃがんでいた女の子をいきなり抱きかかえて、もがくのを無理やり車に押し込むと、バックして再び東恩納方面に走り去ったという。

アメリカ人の男はランニングを着用し、赤ら顔だったという。少年は、停車時に近づいて窓を掴もうとしたら脅されて引き下がり、その直後に目の前で女児が連れ去られたとも証言した。捜査陣が少年にハイヤーのカタログを見せると、車種や色などの詳細も記憶しており、薄緑色の車体、薄桃色のエンジンカバーといった特徴が判明した。

郵便局前で遊ぶ由美子ちゃんの姿は複数の目撃があり、ハイヤーの情報を追ってみると夜9時頃に嘉手納村千貫田区の16号道路を美里村知花から嘉手納方面に走っていくハイヤーから子どもの泣き声を聞いたとの証言も得られた。その目撃者は事故か何かで女児が病院に運ばれているのかと思っていたという。

総合すると、犯人は石川市内で女児を拉致し、東恩納三叉路から栄野比登川を通過して知花十字路を右折して嘉手納の海岸に向かったものと推定された。

さらに遺体発見現場から50m南の溝で被害女児のパンツ、近くの砂浜でツッカケの下駄がそれぞれ発見された。

 

9月6日、CIDは目撃情報などから嘉手納基地所属の陸軍アイザック・ハート軍曹(当時31歳)を逮捕した。逮捕前、ハートは20杯近くのビールを飲み、売春婦とパーティーを楽しんでいた。捜査官に対して「少女の殺害なら新聞記事で読んだ」「犯人は自分じゃないかと思う」等と軽口をたたいたが、当然そうした発言は信用ならず、車両を押収するなどして裏付けが進められた。

車の後部座席には血痕が認められ、車内から被害者の服のボタン、ハートが事件当夜着用していたズボンや血染めのタオルなどが発見された。目撃者たちはハートの車を見て「よく似ている」「この車だった」と証言した。

 

第二次大戦後、沖縄は琉球処分以来の日本施政を離れ、アメリカの統治下におかれた。沖縄戦でおよそ18万8千人に及ぶ戦死者を出し、敗戦当時50万人程度にまで落ち込んだ人口は、引揚者やベビーブームにより55年には80万人にまで増加した。一方、男女人口比はおよそ8:10の状態が続き、戦争未亡人やシングルマザー、独身女性の多くが困窮を余儀なくされた。

1950年「琉球列島米国民政府に関する指令」が出され、「軍事的必要の許す範囲」において民主化が認められるも、朝鮮戦争の拡大や冷戦構造の確立によって基地建設が本格化していく。

本土が主権回復を果たした52年の日米安保条約以後も、沖縄は分離統治が続けられることとなった。アメリカ軍は恒久的基地建設の動きを加速させ、沖縄住民が守ってきた先祖伝来の土地や海を強制収用していった。

事件当時、市民たちは自治組織や労働組合などを母体として土地収用に対する反発運動を繰り広げていた。アイザック・ハート逮捕の報が入ると、沖縄教職会やPTA連合会らによって結成された「沖縄子どもを守る会」が緊急常任理事会を開き、「従来の外国人犯罪が曖昧のうちに処理されたような普段の空気が、外人事件の助長を生んだ」と指摘し、事件の徹底究明を求める声明を発表。加熱化する市民運動の火に油を注ぐ格好となった。

軍属の刑事裁判は原則的に市民非公開の軍法会議によって処罰が下されていた。そのため事実上の治外法権がまかり通り、過去に何度となく起きていた拉致・レイプ・傷害や殺人事件でも、量刑は不当に軽減されている現実があった。

強姦被害はただでさえ被害者感情や将来への不安から表沙汰にしづらい上、たとえ勇気をもって告発に踏み切っても被害に遭った一般婦女子が売春婦扱いされたり、女性側にも非があった等として正当な起訴や裁きが行われてこなかったのである。

本稿ではすべてを取り上げないが、以下リンクなどを見るだけでも米軍関係者による性暴力が沖縄住民たちに繰り返されてきたことは歴然としている。しかし公に糾弾し続ければ被害者本人や家族への二重加害につながる事情などもあり、表立っての抗議は控えられてきた。

http://www.rendaico.jp/gakuseiundo/okinawaco/beiheinookinawafujyobokoshi.html

だが本件では性暴力からさらに逸脱した幼児に対する加虐殺害といった事情もあり、もはや我慢ならないと、島民感情は殊更に紛糾した。

琉球政府は米軍当局に対し、軍規の粛清と取り締まりの強化を要請し、琉球立法院では本事件を「鬼畜にも劣る残虐な行為」と厳しく非難し、事件の公開と軍事裁判の全貌公表を要望した。

 

さらに由美子ちゃんの拉致から6日後の9月9日深夜、具志川村明道の民家で就寝中の9歳の小学生女子が侵入してきた米海兵によって拉致・強姦され、重傷を負う事件が発生する。犯人は女児宅から逃走時にランプを持ち出しており、検出した指紋からキャンプ・ハーグ登川マリン隊に所属するレイモンド・エルトン・パーカー(当時21歳)と特定された。

由美子ちゃん事件と併せて物議を醸し、市民団体は猛抗議を唱えた。米軍の土地接収に対する島ぐるみでの闘争においても決起集会の一大テーマとなり、弁護士会は軍規粛清や外国人裁判の透明化を訴える声明を出した。

 

軍事裁判と公正さ

世論の高まりを受けて米軍当局は厳重なる処罰を約束し、アイザック・ハートは容疑を否認したものの容疑濃厚として9月9日に殺人、強姦、女児誘拐により起訴された。

容疑を認めた先述のレイモンド・パーカーは先んじて11月7日に終身刑を宣告された。

キャンプ・フォスター瑞慶覧で11月21日に開始されたハートの軍事裁判は、一般には非公開審理とされたが、石川婦人会の代表や新聞・放送局から各社1名の取材が容認された。

先述の少年らアメリカ人らしき犯人を何人かが目撃していたが、夜のこと、人相をハート本人と判別可能な証言はなかった。ハートの車両からはドアハンドルとシートカバーに被害女児とよく似た頭髪の付着が確認された。しかし今日のようなDNA型鑑定、高性能な電子顕微鏡も普及していなかった当時、それだけで頭髪の外形的な類似は決定的な証拠とまでは言えなかった。日本人ウェイトレスは、ハートのズボンに血痕の付着があったことを証言した。

ハート本人は容疑を全面否認したが、自ら証言台で主張する機会はなかった。

 

12月5日、陪審員の3分の2以上の合意により、全ての罪状で有罪との評決が下される。有罪の最大の証拠とされたのは、遺体に付着していた体毛、および車内から検出された体毛であった。

翌6日、判決審が開かれ、多数の傍聴人が詰めかけた。

ハートの弁護人は「彼は模範的な少年で、正直で、法を順守している」旨の記された故郷の人々からの手紙を提出した。量刑はすでに死刑か、終身刑のいずれかと決しているが、量刑の軽減を最後まで訴えた。

検察側は、宣誓供述書を提出し、男が入隊前にもデトロイトで性的暴行未遂と傷害事件により11か月の収監歴があり、その事実を隠していたことを明示した。「市警を課するのは人間として忍び難いことではあるが、社会の秩序を保つために必要」との見解を述べた。

75分間の評議の結果、陪審員10人は死刑判決を下した。

沖縄では、被告人が白人米兵であったことから予断を持った審理が懸念されていたが、死刑判決によって最低限の公正さがあると認められたとされる。

一方、軍法会議前にはハートの弁護人ジュリアン・B・キャリック陸軍大尉は「ハートの地元ケンタッキー州に戻して裁判を行うべきだ。沖縄人の敵対的な態度が公正な裁判を妨げている」と主張していた。

死刑判決後、ハートはアメリカに送還され、再審を求める手続きを求めたが、56年12月、ワシントン陸軍法務局は再審でもハートを有罪とした。上訴したレブンワースの弁護士ホーマー・デイビスは「ハートは(沖縄の軍法会議ではなく)沖縄の裁判所か、アメリカ本国の軍事法廷で裁かれるべきだった」と述べた。

 

アイザック・ハートはカンザス州の刑務所に収容されたが、「私は政治の犠牲になった」と手紙で伝え、沖縄の米軍占領反対勢力をなだめるために死刑判決が下されたことを主張していた。彼の家族や退役軍人会の働きかけでケンタッキー州テキサス州の上院・下院議員へと減刑の陳情が広まり、第36代米国大統領となるリンドン・ジョンソンらも名を連ね、ホワイトハウスに圧力を掛ける大規模な運動となっていった。

1960年、アイゼンハワー大統領は6月1日付で、死刑判決を取り消し、不名誉除隊・給与手当ての剥奪・重労働45年に大幅減刑する大統領裁決を認めた。軍法務部は10日付で、憲法に定められた大統領裁決の権限を逸脱した越権であると抗議文を出したが、減刑判断は覆らなかった。

琉球政府政務局次長は「45年の刑期、仮釈放などの恩典から除外されていること等を額面通り受け取れば、日本の無期懲役より実質的には重い(刑法上、当時の有期刑は最大20年だった)」との見解を示した。

 

アイゼンハワーの裁決では仮釈放や執行猶予を認めない条件付きであったが、77年1月、フォード大統領はカンザス州レブンワースの連邦刑務所に収監中の軍属時代に死刑判決を受けた6名に仮釈放を認める恩赦決定を出した。このときハートは52歳であった。

この恩赦を勧告したのは元シカゴ大学学長でウォーターゲート事件後の秩序回復に着手し、当代最高の弁護士と讃えられたエドワード・レヴィ司法長官と言われている。

1972年6月にワシントンD.C.民主党本部で起きた中央情報局(CIA)による侵入盗聴事件の発覚に端を発した一連の事件で共和党による通信傍受等が問題視されたが、現職大統領の共和党リチャード・ニクソンが上院ウォーターゲート調査委員会の捜査を妨害し、隠蔽工作にも深く関与したことが明るみとなり、74年8月に辞任に追い込まれるまでに発展した。多くの匿名リークにより、侵入、盗聴以外にも、強盗、誘拐、裏金、脅迫、偽証、司法への妨害工作などが取り沙汰され、高官数名を含む69件の起訴と48件の有罪判決がもたらされた20世紀最悪の政治スキャンダルのひとつとなった。

後任のジェラルド・フォード大統領は内政安定のためにニクソンへの恩赦措置(無条件恩赦、訴追免除)を施し、政界や法曹界への国民の信頼回復をレヴィ司法長官に託した。レヴィ司法長官はアメリ弁護士会の職業倫理規定を設けさせ、FBIの諜報・捜査活動にガイドラインを設けて類似事件の再発を防いだ。ニクソン辞任後の選挙では、選挙資金の変更、情報公開法の改正や財務情報開示の義務付けなど、政界総出で金の流れの透明性を示して民主主義の根幹を維持した。

フォード政権下で信用が厚かったレヴィ司法長官はその遵法精神に則り、受刑者は10年毎に仮釈放委員会による聴聞会で検討されねばならないと考えてサジェスチョンを行ったとみられる。仮釈放となった6名は長きにわたり模範囚として過ごしていた。

 

仮釈放後、ハートは職業訓練などを経て警備員の職を得る。81年にキッチンヘルパーをしていた女性と57歳で結婚。その後も名誉回復に向けた陳情を続けていたが、84年8月6日、オハイオ州の退役軍人病院で60歳で死去した。ハミルトン郡レディングに埋葬され、墓石は退役軍人省により贈られた。

2021年、沖縄タイムスは、米軍規則に照らすならば死刑に類する重罪、特定の性犯罪を犯した人物に墓石提供の恩典は受けられないのではないかと質問したが、退役軍人省は「法律に則った対応である」として撤去しない旨を回答した。

 

現代アメリカ史を研究する大学院生だった高内悠貴(2023年現在は弘前大学助教)はアメリカ国立公文書記録監理局から軍法務局の記録文書を入手し、分析した結果、罪状を認めて終身刑とされたパーカーに減刑がなかった点について黒人差別が現れていると指摘している。

元ロサンゼルス・タイムス記者でピュリッツァー賞受賞経験のあるジャーナリスト、リチャード・A・セラーノは『Summoned at Midnight:A Story of Race and the Last Military Executions at Fort Leavenworth(真夜中の召喚:人種と最後の軍事処刑の物語)』(2019、Beacon Press)で1950年代の軍事処刑者とその生き残りにスポットを当てており、米軍は黒人の死刑囚に対してのみ執行しており、ハートが黒人だったり被害者が白人だったりした場合には処刑されていた可能性が高いと指摘している。

 

1960年代半ばになって沖縄返還交渉が具体化し、1972年5月、佐藤‐ニクソン政権下での沖縄返還が実現した。しかし地政学上の観点などから日本の在日米軍基地の約7割が今も沖縄に集中し、本島の14.5%を占めている。戦争の惨禍をだれよりも味わい、米軍支配からの解放を求めた県民にとっては、平和への希求が叶わなかったことへの失望や無念は大きかった。

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今日では地位協定の取り決めによって、日本の裁判所で裁判が行われる時代となったが、米兵による性的暴行事件は引けを切らず、近年では起訴後も公表されないケースが増加していることが指摘されている。

由美子ちゃんの犠牲からおよそ70年が経とうとしているが、決して過去の事件ではないのである。

 

被害者の心の安寧をお祈りいたします。

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日本復帰への道 – 沖縄県公文書館

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