いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

昭和の終わりから平成にかけて4人の幼女が立て続けに誘拐され、無惨にもその命が奪われた。異様さ際立つ卑劣極まりない事件とその時代を振り返りたい。

 

昭和の終わり

1988年8月22日午後6時25分、埼玉県入間市春日町に住む設計士Kさん(46歳)から「娘が遊びに出掛けたまま帰ってこない」と110番通報が入った。行方が分からなくなったのはKさんの二女・真理ちゃん(4歳)で、同日午後3時ごろに同じ幼稚園に通う友達の家に遊びに行くと言い残して外出したが友人宅には寄っていなかった。家族は周辺を捜し回ったが、交通事故などの痕跡も見られなかった。

狭山署の調べで、午後3時半頃に真理ちゃんらしき女の子が自宅近くで歩く姿を男児2人が目撃していたことが分かった。中年男が少し前を歩き、真理ちゃんがついていくような様子で入間川方面に向かっていたという。事故の可能性もあるとして翌23日には入間川、霞川や付近の用水路での捜索も実施された。一方で、身代金目的の誘拐との見方からKさん宅では捜査員たちが張り込み、犯人側の接触を待った。

Kさん一家が暮らした団地と陸橋


10月3日午後2時過ぎ、埼玉県飯能市下赤工(しもあかだくみ)に住む運転手Yさん(40歳)の二女で小学1年生の正美ちゃん(7歳)が下校途中に行方が分からなくなった。その日は1時50分頃に集団下校となったが、正美ちゃんは欠席した級友に連絡帳を届けに一人で立ち寄っていた。その後、一度は帰宅して玄関先にランドセルを置き、遊びに出掛けたらしかったがその後の消息はぷっつりと途絶えていた。

先の真理ちゃん失踪から1か月弱で、同じ月曜日に発生したこと、直線距離で16キロ、同じ入間川流域という地域の近接性から、両事件は当初から関連が疑われていた。一帯は1963年(昭和36年)に起きた女子高生誘拐殺人「善枝ちゃん殺し」、いわゆる狭山事件のあった土地柄もあり、人々の脳裏に不安とよからぬ想像がよぎった。

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さらに2か月後の12月9日午後4時半頃、埼玉県川越市古谷上に住む会社員Nさん(35歳)の長女絵梨香ちゃん(4歳)が行方不明となる。この日は金曜日だった。現場はマンション団地の一角で、「バイバイ」と手を振って友達に別れを告げる少女の姿を友達の母親が目にしていた。自宅のある棟までわずか40メートル、目と鼻の先にあるわが家にたどり着くことなく忽然と姿を消した。この団地では1か月前にも小1女児の連れ去り未遂があり、教育機関や保護者らも警戒に勤めていた矢先であった。

6日後の12月15日午後、自宅から西に約35キロ離れた埼玉県名栗村上名栗新田の杉林で近くにある「少年自然の家」の職員が子ども用の衣服が散乱しているのを見つけて通報。飯能署員が県道沿いの崖下に仰向けになった女児の絞殺遺体を発見する。近くで発見された履物には平仮名で「えりか」と名前が書かれていた。

誘拐殺人死体遺棄事件と断定され、3事件に関連ありと見て飯能署に川越署との合同捜査本部が設置され、県西各署にも対策本部を置いて新たな事件発生を食い止めようと試みられた。3事件は半径20キロ圏内で断続的に発生し、まるで犯人が西へ、東へと移動したようにも思われた。

周辺の川でも懸命の捜索が続いた


20日にはN家に不審な葉書が届いた。新聞などのコピーで「絵梨香」「かぜ」「せき」「のど」「楽」「死」と貼られており、アナグラムの専門家により「IKIKAESASERAREZ KINODOK(生き返させられず気の毒)」と読むのではないかとされた。質の悪い悪戯であれば暗号文にする必要はなく、家族を愚弄し警察を挑発する犯人による挑発とも受け取れた。

 

埼玉西部で立て続けに起きた幼女誘拐事件に、マスコミも騒然となり、公園、団地といった大人の目の届く距離であっても「安全な場所はない」という事実が人々を恐怖させた。とりわけ周辺地域では「不審な中年男」に強い警戒を示すようになった。12月28日には金沢昭雄警視庁長官が絵梨香ちゃん誘拐現場を視察し、一刻も早い犯人逮捕が厳命された。

 

そして事件は続く

1989年1月7日、昭和天皇崩御。全報道が追悼一色に切り替わり、平成への改元が発表された。テレビも「激動の昭和」「戦争の世紀」といった特別番組を放映し、時代の変化と行く末について人々は語り合った。そんななか事件は意外な方向で進展した。

段ボール箱は郵送ではなく深夜に玄関先に置かれていた

2月6日早朝、第一事件・真理ちゃんの自宅玄関先に置かれた不審な段ボール箱が発見された。この日も事件があったのと同じ月曜日であった。中には10数個の骨片ポラロイドカメラで撮影された真理ちゃん失踪時の衣服やサンダルの写真、紙には「真理」「遺骨」「焼」「証明」「鑑定」と印字されており、犯人からの何らかの犯行声明と目された。アナグラムにすると犯人の名前が含まれる文になることが後に判明する。

文字フォントは「イワタ明朝体」で拡大コピーが駆使されていたことから犯人はOA機器の扱いに長けていると推測された。使われた紙も一般ではあまり流通しないものと分かり、印刷機器などからの絞り込みも行われた。

当時のDNA型鑑定では状態のよい試料が必要で、焼かれた骨から個人を特定できるまでの精度はなかった。顎の骨に歯が付いた状態だったことから、真理ちゃんが通院した歯科医院での確認と東京歯科大学での鑑定が行われた。当初は治療痕が見当たらず別人のものと中間発表されたが、10日、科警研での鑑定を経て「本人のものと推定される」と発表された。

同2月10日、朝日新聞東京本社に、11日に再び真理ちゃんの自宅に、「遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です」と綴られた犯行声明と第一被害者の顔を撮影したポラロイド写真が送り付けられた。8日に一度「別人の骨」と中間発表されたことを受けて、第一被害者本人のものであることを主張する意図が窺えた。いずれも東京都管内青梅(おうめ)郵便局の消印だった。

送り主の名義は「所沢市 今田勇子」とあり、該当者はなく偽名であった。平仮名とカタカナがまじりあった不自然な文面、角ばった特徴的な手書き文字には作為性が感じられた。だが記されていた犯行時の様子には、警察から公表されていない「犯人しか知りえない事実」が含まれているとして、誘拐犯本人による仕業と断定された。1か月後の3月11日、真理ちゃんの告別式の日にも「今田勇子」は朝日新聞に「葬式を出してくれてありがとう」と神経を逆なでするような告白文を送り付け、メディアの言論を批判し、あえて煽情するような劇場型犯罪を繰り広げた。

骨を送った動機には「早く葬式を挙げてやってほしい」と記されていた。群馬で行方不明になっていた「明子ちゃん」が見つからず、自宅近くの河川敷で子どもの骨が発見されたことから本人とはっきり特定できないまま家族がお葬式を挙げたことがいたたまれなかったとし、「あの骨は、本当に真理ちゃんのものなのですよ」と遺族感情を逆撫でするような文章を綴った。

「明子ちゃん」と記されていたのは、87年9月に群馬県尾島町亀岡で公園に遊びに出掛けたまま姿を消した小学2年生大沢朋子ちゃん(8歳)のこととみられた。88年11月になって約1キロ離れた同町の利根川河川敷で散乱した女児の骨が見つかった。鑑定の結果、死後1年以上が経過、朋子ちゃんと同じB型であると分かり、県内に適合する行方不明児がないこと等から朋子ちゃんの遺骨と推認されたものである。

これまで周辺地域では不審な中年男を中心として情報が集められていた。しかし埼玉県警は「私には、どうしても手を伸ばしても届くことのない子供を、今日一日は自分のものにしたい思いにかられ」といった文面から「子どもを産めない女性」による逆恨みの犯行との見方にも傾き、捜査方針は混乱をきたした。

「今田勇子」は1件目のみが自身の犯行で後は模倣犯だと主張しており、虚実が織り交ぜられている疑いが濃かった。マスコミは各界の専門家や著名人らに見解を求め、推理作家や心理学者も「男が女性の心情をここまでフィクションとして書けるものだろうか」と戸惑いを示した。無論、男によるなりすまし、女性への自己同一化をする性倒錯者とする主張もあったが、当時の人々には女性の社会進出やワープロの普及などによりかつてのジェンダー規範が希薄になりつつある時代性も影響し、犯人像の抽出さえ困難に陥っていた。

たとえば人格心理学者の世良正利氏は、今は文章の上での男女差はなくなってきていると指摘し、犯人の動機は性衝動ではなく家庭願望の強い者で、高学歴の女性との犯人像を示した(『フライデー』)。犯罪精神医学の専門家柴田洋子氏は、声明文には性格異常の女と性欲異常の男という二つの犯人像が混在すると述べている(『週刊文春』)。大人の目や警戒の網を掻い潜っての犯行、警察や専門家たちを翻弄する犯行声明からグリコ・森永事件のような知能犯ではないかとする声もあがった。

県警では不審車両として当初「ホンダ・プレリュード」を追っていたが、茶色のセダン、黒っぽいサニーなど不審車情報ばかりが増えていき、犯人像にたどりつけないまま時間ばかりが経過していた。不審者情報も「マスクにサングラスの男」という定型的とも思えるものや「きつね顔の男」「黒ジャンパーにひげを生やした男」といったように同一人物として重ならない情報が多く、絞り込みを難しくしていた。

また89年になって絵梨香ちゃんの失踪当夜に不審な車両を見たとの有力情報がもたらされた。元中古車販売業の男性の話では、12月9日深夜から10日未明にかけて山道で「青と銀のツートンカラーの車」が側溝に脱輪して立ち往生していたと言い、現場は遺体発見場所から僅か5メートルの距離とされ、捜査陣営はこれを有力視した。乗っていたのは35、6歳と思しき会社員か工員風の男で、犯行車両は「トヨタ・カローラ2」との見方が強まった。

 

6月6日午後6時頃、東京都江東区東雲(しののめ)の会社員Nさん(37歳)の長女綾子ちゃん(5歳)が公園内で遊んでいたところ姿が見えなくなった。5時50分頃には集合住宅1階にある保育所の保母さんがその姿を目撃していたが、その後、少女を見た者はなかった。その新興団地は集合住宅に囲まれた遊び場が併設されており親同士や子どもたちがいつでも安心して過ごせる空間のように思われた。入間市の現場からおよそ50キロ離れてはいたが、衆人環視ともいえるロケーションは埼玉での連続事件と似通っていた。

深川警察署と警視庁捜査一課が事件・事故両面で捜査に当たり、東京湾での捜索活動も行われた。しかし11日、埼玉県飯能市宮沢の霊園に墓参りに訪れていた会社員が簡易トイレ裏で女児の胴体を発見する。遺体は頭部と両手足がない胴体だけの状態でいわゆるバラバラ殺人ということになる。翌12日の解剖で、断面に生活反応がないことから死後に金ノコで切断されたと見られ、切断以外に外傷はなく、胃の内容物の一致などから第4事件の被害児・綾子ちゃんと特定された。

死体損壊の多くは、置き場所や持ち運びのために解体されるか、身近な犯人が被害者の身元特定を避けるために行うケースが大半で、幼児のバラバラ殺人というのは全国でも初めてのことだった。駐車場脇の崖下に落とすでもなく、人目につく簡易トイレの側に放置されていたことからもあえて発見させるような犯人の意図が読み取れた。

同日、警察庁は広域重要事件「準指定第4号事件」に指定し、過去の類似事案での逮捕者をリストアップ、余罪も含めて事件の掘り起こしが開始された。まだ事件のない群馬・栃木・茨城各県警からも応援が派遣され、公安委員長坂野重信も現地入りして手を合わせた。もはや一刻の予断も許されない状況、被害者遺族らの悲痛な叫びがメディアで流れ、事件解決は国民の総意となった。

人海戦術により東雲のマンモス団地では1000世帯への聞き取り、住民や近辺の業務車両2600台、レンタカー1万6771台、モーテル利用の車両500台などしらみつぶしに調べ尽くしていったが、犯人には結びつかなかった。バブル景気や自動車産業の活性によって昔に比べて車種やモデルチェンジが増えていたことから、本件では目撃証言の吟味や車種の特定に課題を残したとされる。

男か女か、知能犯か愉快犯か、猟奇殺人の様相からマスコミ各社の報道合戦もますますエスカレートし、玄関先に詰めかけて悲しみを煽るような遺族報道については後に反省の必要が議論されるほどであった。捜査本部が情報統制を強めるとどこが出し抜くかと却って取材競争が激化し、全国紙でも誤報が流れる始末だった。

 

 

連続幼児誘拐殺人の再燃と時を同じくして、遠く新潟県柏崎市でも女児を狙った性犯罪が起きていた。6月13日、柏崎市に住む無職佐藤宣行(当時26歳)が下校中の9歳女児に強姦未遂を起こして逮捕された。翌90年11月にも三条市で下校中の9歳女児を略取し、9年2か月にも及ぶ長期監禁事件(新潟少女監禁事件)を起こすことになる人物である。

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このときのわいせつ事件は執行猶予付きの有罪判決とされたが、事件記録がデータベースに登録されていなかったことが後に判明する。誘拐容疑者としてリストアップされず、監禁の発覚が大幅に遅れたと指摘されている。関東でこれだけ大きな騒ぎになっている渦中で、なぜそのような失態につながってしまったのか。

 

逮捕

1989年7月23日午後4時半頃、東京都八王子市美山町にある神社の境内で小学生の姉妹が遊んでいると、一人の男が「写真を撮らせて」と声を掛けてきた。男は妹(6歳)を移動させて着替えを迫り、不審に感じた姉はその場を離れて父親を呼びに行った。父親が駆けつけると男は妹の全裸姿をビデオに撮影しようとしており、すぐさま取り押さえられられた。

男は「もうしませんから警察に言わないで」と慄いたが八王子署員に突き出され、強制わいせつで現行犯逮捕された。翌日、捜査本部に男の情報がもたらされた。

西多摩郡五日市町に住む宮崎勤(26歳)、家業の出版印刷業の手伝いをしていた。20代にしては生気に欠け、凶悪犯というより軟弱な変質者タイプに見えた。男は紺色のニッサン・ラングレーに乗っていたが、トランクから本人とは異なる血痕が見つかり、運転席の下から血のついた軍手、白色のビニール紐が発見されたことから、余罪の追及を受けることとなる。

8月7日、東京地検八王子支部は6歳女児へのわいせつ事件で起訴。宮崎は黙秘していたが雑談や行動確認の質問に応じるようになり、9日、江東区の綾子ちゃん殺害を自供。翌10日には自供通り奥多摩町の山林で切断された頭部が発見され、夕刊各紙で報じられた。殺害の動機は、手首が下を向いたまま回転させられない先天性橈尺骨(とうしゃくこつ)癒合症という障害を女児から馬鹿にされたように感じてカッとなったためと説明された。

 

警察が取材規制を掛けるより先に五日市町にある宮崎の実家には報道陣が詰めかけていた。勤の父親は多忙や家庭不和から息子に関する質問への対応に窮し、記者たちを勤の部屋に通すことになった。

そこにはビデオとマンガが天井までうず高く積まれた“壁”が出来上がっており、はじめて目にする者を圧倒、驚嘆させた。メディアは異様な光景として興奮気味に伝え、成人向け漫画雑誌『ポプリクラブ』『若奥様のナマ下着』(漫画エロトピア増刊)、成人向けグラビア誌『投稿写真』『ギャルズ通信』、アニメ雑誌『OUT』などを選定して床に並べ、部屋の主がさも変態性欲者であるかのような演出が加えられた。

5700本余りのビデオテープの中には、犯行の一部を撮影したものもあった

宮崎は10代からビデオ収集の「オタク」で、家庭不和から部屋にこもってビデオをダビングしているか、ドライブに出かけて若い女性や女児を撮影しに行くことが多かったとされる。当時のビデオマニアは雑誌投稿欄やミニコミ誌を介して交友を深め、情報や所有アイテムの交換、他地域でしか放映されない番組の録画などを依頼し合う文化があった。

「オタク」への理解が進んでいなかった(社会的に可視化されていなかった)当時、大半の人々は宮崎の部屋をメディアが報じるまま「異様な光景」として受け止めた。だが現実には大学教授や作家、読書家の部屋には天井までうず高く書籍が積まれていることもしばしばであり、私たちは驚きこそすれそれを奇異なものとは感じないだろう。

山積みの「ビデオテープ」は確かに威圧感はあったが、USBやHDDに比べて物理的に大きな記録媒体だったが故のことである。ビデオの山の大半は、実写ドラマ、歌謡番組、特撮、子供向けアニメで、残酷描写のあるスプラッター映画やロリコン映像に分類できるものもあったが数十本程度とされる。

独身の成人男性ならばエロ本やホラー映画くらい見ても異常とまでは言えない。だが数冊のエロ本、幾つか紛れていた残酷映画のタイトルを異常性の源泉と見なし、犯行との親和性を読み解こうとした。犯行の異常さ、マスコミの扇動によって敵対感情が焚き付けられ、ビデオの中身について過剰に妄想を膨らせていたにすぎない。犯人の「異常さ」を演出するメディアと、恐怖し、罵声を浴びせる視聴者の共犯関係が宮崎という「異常犯罪者」像を膨らませていったとも言える。

はたして映像確認には60台のデッキが投入され2週間がかりで行われたが、スナッフフィルムが確認されたのはビデオ押収から9日目となる8月26日のことであった。

人は自分と異なる未知なるものに対して恐れ蔑み排除するといった傾向がある。それが「殺人鬼」であれば尚更のことで、ロリコンアニメや残虐映画の歪んだ世界観に囚われた狂人とする声さえあった。オタク=偏執的、変態的という風潮が吹き荒れ、家庭教育問題や若者論と絡めて公論化されていく中で「犯罪者予備軍」といった偏見さえ生まれ、いわゆる「オタク」バッシングや青少年育成の名のもとに「有害図書」「残虐ビデオ」排除の条例強化へとつながっていく。

 

人物

宮崎勤は1962年(昭和37年)に一家の長男として生まれ、下に2人の妹もいた。両親は家業に追われ、精神薄弱の男性を子守役に雇った。1000平米の広い敷地を持ち、祖父・曾祖父の代には織物工場を成功させた名士の家柄。父親の代になって印刷業、地域紙「秋川新聞」を発行する出版会社となり、経営は順調だった。

勤の手の病気は完治が難しいとされ、「すぐに治療を断念して放置された」として彼は父親を強く恨んでいた。障害のコンプレックスやいじめで内向的な性格となり、実親との軋轢や深刻な家庭不和は「解離性家族」という造語で語られた。小・中学と成績は良かったが消極的で目立たない生徒と評され、級友たちの恋バナやエロ話の輪に入ろうとせず、気持ちを表に出すことがほとんどなかったと言われている。だが祖父から手ほどきを受けていた将棋では負けず嫌いな面もあったという。

高校は中野区にある進学校に進んだが、成績を落として大学の推薦を得ることはできず、芸術系の短大に進学して写真術や校正デザインなどを学んだ。当時はパズルやクイズに熱中し、『ホットドッグ・プレス』など雑誌の常連投稿者となった。友人とパンチラ写真撮影のためにテニス場に通うようになったのはこの頃とされる。NHK教育で放映されていた番組『YOU』のカメラマン特集の回にはスタジオ観覧に訪れていたが、マイクを向けられると避ける様子で一言も発しなかった。

子どもの頃は漫画家を目指したと言い、授業中に落書きしていることも多かった。ビデオ仲間との交流では一方的に要求することが多くて不満を買い、嫌われ者になっていった。アニメ同人誌を発行したこともあったがやはり仲間内から嫌われて1号で終わっている。

卒業後は親戚の伝手で小平市にある印刷工場に働き口を得て、印刷機のオペレーターや印刷物の梱包などをしたが、同僚によれば勤務態度は悪く、突然帰宅することさえあったという。3年程で辞めて実家の手伝いとなったが、専門的な技術もなかったため、自動車免許を取って新聞販売店などにチラシなどの配達をする外回りをやっていた。父親は同業者らに見合いの紹介を求めたが、宮崎は女性たちとまともに会話することなく4度全て断られた。

第1事件の3か月前、88年5月には宮崎の祖父が91歳で亡くなっている。元町会議員で地元の名士、両親からの疎外感を抱いていた勤にも優しく接してくれる心の支えだった。ショックで生前祖父が可愛がっていた犬の声をカセットに録音してそばで聞かせ続けたという。地元住民によれば、女の子にカメラを向けるようになったのも祖父の死がきっかけではないかという声も聞かれた。この時期ビデオショップでの万引きも確認されている。祖父というタガが外れてしまったことで道を踏み外した側面は大いにあろう。

88年12月の第3事件から89年6月の第4事件までの間には、コミックマーケットにも参加していたとされる。事件後には取材陣もその様子を報じて「オタク」への偏見は助長された。コミケ報道で「10万人の宮崎勤がいます」と伝えたメディアがあったとする噂の検証について下のリンクdragoner(石動竜仁)氏による記事が詳しい。

「10万人の宮崎勤」はあったのか?(dragoner) - エキスパート - Yahoo!ニュース

 

89年8月11日、第四事件について誘拐殺人死体遺棄容疑で再逮捕。警視庁では残る3件についての追及のため、深川署に埼玉県警との合同捜査本部を設置し男の身柄を移した。13、14日と真理ちゃん、絵梨香ちゃん事件の殺害を認めた。

宮崎宅からは撮影に使用されたとみられる「マミヤ社製ポラロイドカメラ」も発見され、17日には「今田勇子」を騙った犯行文作成についても自供した。翌18日には宮崎の上申書が流出して新聞に写しが公開される前代未聞のできごともあり、警視庁捜査一課長が責任を感じて自ら丸刈りにする珍事も起きていた。

連れ去りは、カメラを手に「写真を撮らせて」と近づき、「暖かい所に行こう」「涼しい所に行こう」と言って車の停めてある場所まで連れて行くナンパ様の手口で、ひと気のない場所で絞殺して撮影などをして山中に遺棄するというものだった。

遺体や犯行ビデオテープ、「今田勇子」といった物証が揃っている真理ちゃん、綾子ちゃん事件に比べ、2件目・飯能市の正美ちゃん事件では当局も確証が得られておらず、何としても自白が必要な状況となっていた。しかし宮崎はなぜか正美ちゃん事件だけ素直に犯行を認めようとしなかった。

9月1日、警察庁は類を見ない犯行の悪質性や社会的影響の大きさなどから広域重要指定117号事件に指定。2日午前、東京地検は綾子ちゃん事件で宮崎を起訴。9月5日、正美ちゃん殺害についてもようやく口を割り、6日朝、八王子市と五日市町の境に位置する小峰峠付近の山林の捜索で、女児の遺骨と正美ちゃんの失踪時の着衣や靴が発見された。

その後の宮崎の証言によれば、遺棄した後に一度遺体を確認しに訪れており、そのとき野生動物に荒らされるなどしてすでに散逸していたことから、自白しなければ一生見つからないのではないかと思ったという。

家族は私撰弁護人を望む宮崎の申し出を拒絶し、9月22日、東京地裁は国選弁護人として、鈴木淳二、岩倉哲二両弁護人を選任した。

宮崎は10月19日までに4児に対する誘拐・殺人・死体遺棄の容疑で起訴された。

 

裁判

1990年3月30日、東京地裁刑事2部(中山善房裁判長)で第一回公判が開かれた。

罪状認否を問われた宮崎は外形的事実は認めたものの、「醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか…」と曖昧な口ぶりをし、第1事件について「両手と両足を投棄したというのは間違い。両手は自分で食べた。両脚はきつねか猫に食べられたと思う」と発言して傍聴席を凍りつかせた。

弁護側は、罪の意識があまりにも希薄であることから、犯行当時の心神喪失ないし心神耗弱を主張して責任能力を争い、精神鑑定を請求した。

 

慶大名誉教授・保崎秀夫らの鑑定では、手の障害により被害感情と劣等感に陥りやすい傾向があるとされ、成人女性との交際を諦めて性的興味を幼女に向けたと判断し、収集癖が相まっての犯行との見方を示した。極端な性格の偏り、人格障害は認められるが、犯行当時に精神分裂病の状態にはなく、刑事責任能力はあったとの結果を述べた。

男は幼児・死体への性的関心を否定し、犯行に計画性はないものと主張する。事件が起こるとき、「ネズミ人間」が現れて恐怖感で前後不覚に陥り、気づくと足元に女児の遺体があったと述べ、亡くなった祖父への捧げものにしたと言う。

妄想幻覚を思わせる部分もあるが、精神分裂症の場合は場面を選ばず悪口が聞こえるもので、犯行時にのみ現れる「ネズミ人間」とは異なる性質だとされ、説明のつかない拘禁症状の一種と見なされた。被告は「祖父の骨を食べた」「祖父に倣って虫やカエルも食べた」と供述していたが、味など具体的な説明はなく事実確認できないと鑑定人は疑義を呈している。

また拘置所での差し入れ図書には、犯罪関連本や佐川一政が起こしたパリ人肉食事件に関する書籍、精神分析に関する専門書も含まれていた。そうした後付けの知識から影響を受けたか、詐病の可能性も考えられた。

 

宮崎の逮捕後、家族は五日市町の屋敷を抵当に入れて慰謝料の一部を工面し、町を離れてひっそりと暮らすようになった。だが宮崎に再鑑定が行われている渦中で、実父(65歳)が遺書を残して多摩川に身を投げて自死した。弁護人からその事実を知らされた宮崎は「スーッとした」「罰が当たったんだ」と口にした。

東大・中安信夫助教授の第2鑑定では、祖父の死を契機に多重人格を主体とする反応性精神病に陥っており、犯行前後は善悪の弁識・行動制御能力が若干減弱していたとの結論を示したが、責任能力の減免を認める事由にはならないとした。

帝京大・内沼幸雄教授らによる第3鑑定では、被告人は高校時代ないし印刷会社退職以前から精神分裂病(破瓜型)にあり、感情欠如や被害妄想の兆候が見られ、祖父の死以降に攻撃性が亢進されたと指摘し、鑑定時に至って拘禁反応による悪化もあるとした。だが善悪の弁別能力はほぼ完全にあり、制御能力の一部に欠けるが免責は少ないと意見された。

前代未聞の猟奇事件、異常犯罪とされた本件では精神鑑定が重要なカギを握ると考えられていたが、蓋を開けてみれば三者三様という食いちがいが露呈された。それにも拘わらず、責任能力に関しては免責にはならないという結論が取ってつけたように導き出されていた。少なくとも当時の精神鑑定は科学的根拠の脆い、不正確な尺度であったと言わざるを得ない。

検察官は、第2・第3鑑定につき捜査段階での被告人の供述を採用せず、公判での発言の検討に偏重しているとして信用に値しないと批判。動機に同情の余地なく、罪質は冷酷非情、4児の尊い命を奪った結果は重大であり、社会的影響も甚大であったと述べた。被告人に遺族への謝罪や悔悛の情、更生の意思は示されてもいないとして、死刑を求刑した。

初公判からすでに6年半が経過し、世間の関心は一連のオウム裁判など別の話題に移っていた。最終意見陳述の場で、宮崎の口からは「早く帰りたいです」という発言が2度繰り返された。

 

1997年4月14日、東京地裁(田尾健二郎裁判長)は求刑通り死刑判決を下した。

精神鑑定について、人格障害に留まるとする「保崎鑑定」を採用。精神分裂病、多重人格を認めず、4度にわたって同様の巧妙な手口で犯行を繰り返したこと、捜査供述段階で大筋の整合性は採れていることからも完全責任能力があると認定。

人格の歪みの背景には、家庭不和で情緒的支援に恵まれず、両手の障害から父親への怒りやコンプレックスを抱えて成長し、長男として甘やかされ適切なしつけがなされなかったなど同情の余地がないとは言えない。残忍さや性的興味を売り物とした映像や出版物が幾何かの影響を与えたとし、動機は幼女をビデオ撮影し収集したかったものと指摘。

なぞかけや物語を創作するなど自己顕示欲の発散、捜査かく乱の企図、山林での死体隠蔽の一方で遺体の切断や発見されやすい場所への遺棄といった冷酷非道な行動も顕著であった。酌むべき事情もあるものの、犯責はあまりにも重大であり、極刑以外の量刑はありえないと結論付けた。

弁護側は事実誤認と量刑不当を訴えて即日控訴。

夢のなか: 連続幼女殺害事件被告の告白

1999年12月21日から東京高裁(河辺義正裁判長)で開始された控訴審で、弁護人は改めて心神喪失あるいは心神耗弱状態だったとの主張を繰り返し、捜査段階の供述調書には誘導と見られる箇所があると主張した。また絞首刑は憲法が認めていない残虐刑に当たる等として、原判決の破棄を求めた。新たな精神鑑定の請求は斥けられ、一審での三鑑定を基に責任能力の有無が検討された。

2001年6月28日、東京高裁は、供述や客観的な証拠と照らしても心神耗弱とするには疑問があるとして、原判決と同じく人格障害に留まるとした保崎鑑定を支持。「ネズミ人間」供述についても巧妙な行動と釣り合わず整合性を欠くとして事件当時の精神状態を物語っているとは言えないと判断された。取り調べで強要を伴った可能性は排除されなかったが、暴力行為は認められず、供述内容の中核は客観的証拠とも符合するとし、控訴を棄却した。

2005年11月23日、最高裁第三小法廷で上告審が行われた。弁護人は、拘置所内で被告人に統合失調症治療が継続されていることを強調し、犯行時から罹患していたと主張。審理の差戻しを求めた。翌06年1月17日、藤田宙靖(ときやす)裁判長は、原審判決を支持し、性的欲求を満たすための犯行は自己中心的で非道であり、酌量の余地なしと断罪。上告を棄却した。

弁護人は判決訂正の申し立てを行ったが、2月1日に棄却され、宮崎の死刑が確定した。

2008年(平成20年)6月17日、東京拘置所で死刑執行。享年45。