いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

リジー・ボーデンについて【斧もつ淑女】

アメリカではなわとびのときに唄われる血なまぐさいわらべ歌がある。

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Lizzie Borden took an axe
And gave her mother forty whacks.
And when she saw what she had done,
She gave her father forty-one.

(リジー・ボーデンは斧を手に

母親を40回打ち据えた

何をしたのかと気付いたときには

父親を41回打ち据えた)

これは人気曲だった『Seaside Polka(ta-ra-ra boom-de-ay)』に新聞記者が歌詞をつけた替え歌と言われており、ここに登場する「リジー・ボーデン」は100年前に実在した女性である。

 

事件の発生

1892年8月4日午前11時すぎ、マサチューセッツ州南東部に位置するブリストル郡フォールリバーの自宅で実業家アンドリュー・J・ボーデン(69歳)と彼の二番目の妻アビー・ボーデン(64歳)が頭部を滅多打ちにされて殺害されているのが発見された。

殺害されたボーデン夫妻のイラスト [議会図書館 ]

「急いで降りてきて!お父さんが死んでる!誰かがお父さんを殺した!」

第一発見者となった二女ジー・ボーデン(32歳)は大声でそう叫び、屋根裏部屋(3階の上)で休んでいた使用人ブリジット・「マギー」・サリバン(26歳)に助けを求めた。

マギーが階下に駆けつけると、リジーは「見ない方がいい」と言って1階居間には入れず、近くに住むかかりつけのアメリカ人医師ボーエン氏を呼ぶように命じた。

マギーはボーエン医師の家に走ったが、往診のため外出中だと言われて踵を返した。ボーデン家の隣には市立病院に勤めるアイルランド人医師が暮らしていたが、リジーは隣人を頼ろうとはせず、数ブロック先に住む友人アリス・ラッセルの元へとマギーを走らせた。

 

ジー・ボーデンは動揺していたが狂っていたという訳ではなく、その時代の同地の排外主義に基づく「冷静な」判断だと捉えられている。

南北戦争後のアメリカでは、鉄道、鉄鋼、鉱山、石油、銀行、海運など各分野で資本家たちが急成長を遂げ、ヨーロッパや中国などから移民が急増していた。「一攫千金」や「新世界」を夢見て流入する移民たちの大半は貧しく、かつて奴隷身分とされたアフリカ系アメリカ人とは異なる新たな差別階層となっていた。

使用人のマギーも6年前に渡米してきたアイルランド人移民であった。 

北隣に住むチャーチル夫人が裏口でうろたえているリジーに気付き、聞けば「誰かに父親を殺された」と訴える。「お母上(アビー)はどうしたのか」と尋ねるとリジーは「分からない」と答えた。チャーチル夫人は使いの者を400ヤード離れた警察に行かせ、署には11時15分に通報が届けられた。

帰宅したボーエン医師は家人から凶事を聞かされて11時半にボーデン家に駆けつけ、まもなくマギーも戻ってきた。医師は居間をシートで囲って人払いし、ソファに横たわるアンドリュー氏の容態を確認した。

するとリジーがなぜか姿を現さない継母を気に掛け、「マギー、2階を見てきてもらえる?」と命じた。使用人は躊躇したが、チャーチル夫人に促されて一緒に正面階段を上がっていった。すると2階ゲストルームの戸が開いており、床に血まみれのボーデン夫人が横たわっていた。

「ああ、もう一人いる!」

邸1・2階見取り図と遺体の位置

アンドリュー・ボーデンは1階居間のソファで、脚を床につけて右向きに寄り掛かるような姿勢で息絶えていた。「斧様の鈍い刃物」での打撃により頭の左半分に11か所の割裂創があった。鼻は裂け、左目も真っ二つに切断されて抜け落ち、顔はほとんど原形をとどめていなかった。乱闘や抵抗の痕跡はなく、床や壁の血の飛散と照らしても、ソファで寝ているところを襲われたものと見られた。

アビー・ボーデンは背後から18か19回の打撃を受けており、後頭部から側頭部にかけて陥没し、床に接した顔面も衝撃によって潰れていた。凶器はアンドリュー氏と同じく斧が用いられ、一撃は頭を外れて首筋が撃ち抜かれていた。傷の位置などから「背の高い男」による犯行が推測された。血液は黒く凝固しており、体温は完全に奪われていた。医師の見立てでは、アンドリュー氏が発見間際の11時ごろに襲われ、ボーデン夫人はそれより60~90分前に殺害されたものと判断された。

長女のエマ・ボーデンは2週間前から約25キロ離れたフェアヘブンの知人の元を訪れていて、事件当時は不在だった。両親を失ったリジーは取り乱し、代わって医師がエマに宛てて電報の手配をした。

11時45分頃に駆けつけた警官はすぐに殺人事件と断定し、ほどなく現場保存や捜査にあたる応援部隊と検視官が集められた。

 

ボーデン家

実業家たちの勃興にともなって1870年代頃には政治の世界も金権腐敗がまかり通り、世間には成金趣味・拝金主義が蔓延していった。作家マーク・トウェインは西海岸の「ゴールドラッシュ」に擬えた皮肉として「The Gilded Age(金ぴか時代、金メッキ時代)」と呼んだ。

一家は1872年からこの家に暮らしていた

ボーデン家は代々上流階級の家柄ではあったが、アンドリューの父親は魚の行商を生業とした。家業を継ぐ意思のなかったアンドリューは大工の見習いとなり、苦労の末に家具や棺桶の製造販売事業を成功させると、不動産開発で大きな財を成した。町の名士として知られるまでになり、当時は3つの繊維工場や投資信託会社の取締役、銀行の頭取を務めていた。

財産評価額はおよそ30万ドル、現在の価値で1000万ドルと見積もられている。だが貧困を知る彼は富をひけらかさないばかりか季節を問わず同じ服装を好む吝嗇(りんしょく、ケチ)で知られていた。

ビルや不動産への投資を惜しまなかったが自身は流行りの一等地には移らず、20年前に購入した元々はアパート用に建てられた屋内配管設備もない建物を改築して自宅とし、質素な暮らしを送っていた。

はじめの妻サラは長女エマと二女リジーを出産したが、エマ12歳、リジーが2歳のときに早逝し、その3年後に当時37歳だったアビーと再婚した。

町の噂では、アビーは「行き遅れの行商人の娘」と言われ、アンドリューとの結婚は不思議がられた。「ベビーシッターや家政婦の代わりだろう」と蔑む者もあったが、彼女は夫に忠実で主婦として家を守った。

姉妹は幼い頃からセントラル会衆派教会に熱心に通い、令嬢としては慎み深い生活を送った。成人後も青年会の会計事務や日曜学校の教師を務め、いくつもの社会活動にも取り組んでいた。

 

事件の2年前、ボーデン家は昼間に侵入窃盗に遭って現金と貴金属を奪われていた。以来、玄関の内カギは3つに増やされ、両親は寝室にもカギを掛ける習慣があった。外出時はもちろんのこと庭仕事などであっても施錠の徹底を言い渡されていた。自宅にどれほどの現金や貴金属を保有していたかは定かでないものの、それなりに用心深い夫妻の性格は窺える。

地元紙『フォールリバー・ヘラルド』は当初「賃金の遅れを訴えるポルトガル人労働者」が午前中にボーデン家を訪れていたと報じたが、続報が聞かれることはなかった。かたや移民向けの新聞各紙は、ポルトガル人労働者やアイルランド人移民のマギーらに言われなき疑いが掛かることを危惧した。

ほどなく「継母と娘の不仲」の噂が報じられてリジーの関与を疑う記事も出た。だが信仰に身を捧げる淑女に不親切な行いや過ちは一度たりともなかったとして、彼女の潔白を擁護する記事も書かれた。

容疑者らしい容疑者は浮上せぬまま、次第に第一発見者となったリジー・ボーデンの挙動と、証言の信憑性に焦点が絞られていった。

 

前触れ

関係者の証言を突き合わせてみると、事件は「8月4日」に突然起きたのではなく、前日「8月3日」の時点で惨劇はすでに始まりかけていたのかもしれない。

Lizzie Borden [フォールリバー歴史協会]

アビー・ボーデン夫人は3日朝7時にボーエン医師の家を訪れ、体調の異変を訴えていた。

医師によれば「昨晩から夫婦揃って嘔吐が止まらない」と訴え、「毒殺」の疑いを主張してきたというのだ。だが医師は夫人の具合を診て「それほど深刻ではない」と言い聞かせてその場を収めた。その後、医師の方からボーデン家を訪ねたが、アンドリューは不愛想に「病気ではない」と告げ、「依頼した訳ではない」と往診費用を支払う意志がないことを告げた。

事件後の聞き取りでリジーもマギーも「その日は体調がすぐれなかった」と振り返っている。だが家に残されていた乳製品の鑑定や夫妻の遺体の検視では毒物反応は見られかった。食あたりなども疑われたが事実は判然としない。

事件後、薬局店員エリ・ベンスは、「アザラシ皮のケープについた虫を殺す」ためにリジーから青酸の販売を求められたが、「処方箋なしでは売れない」と言って断ったと話した。さらに別の店員と客は彼女が3日午前10時~11時半ごろに来店していたと証言した。これに対してリジーは「薬局には訪れていない」「殺虫のために毒薬を使用したことはない」と来店そのものを否認した。

 

3日午後にはジョン・ヴィニカム・モース(当時60歳)がボーデン家に泊りに訪れていた。アンドリューが若い頃に始めた棺桶ビジネスの共同事業者で、イリノイアイオワへ移住してブリーダー事業をするようになってからも親交は続いていた。最初の妻サラの兄弟であり、リジーとエマにとって叔父にあたる血族である。

ジーによれば、内容について何も知らないが、以前ジョン叔父から父親の遺言書の存在を聞かされたことがあったとしている。それだけアンドリューが彼に信頼を置いていたということだろう。

ジョンは長期滞在する計画はなく、手荷物だけ持ってフォールリバーを訪れていた。リジーによれば、アリス・ラッセルの家から3日夜9時頃に帰宅すると、両親とジョン叔父が大きな声で話しているのが聞こえ、彼らとは顔を合わせずに2階の寝室に入ったという。

ジョンも「滞在中にリジーとは会わなかった」と証言している。彼の訪問は頻繁ではなかったが、これまでもひょっこりボーデン家に顔を見せたり、泊っていくこともあった。

マギー(bridgett sullivan)はボーデン家に勤めて2年9か月程だった

一代で莫大な富を築いた「成功者」、「継母」と関係のよくない二人の「独身娘」という家庭環境に加え、「体調不良」「薬局の噂」「遺言証人の訪問」は人々に複雑な事件性とバリエーションを喚起させた。

ジーや使用人マギーはもちろんのこと、姉のエマやジョン叔父も疑惑の対象にされた。妄想によって「アンドリューのビジネス絡みで恨みをもった人物」や「結婚を反対されていた姉妹のパートナー」といった架空の犯人や共犯者が生み出されていった。

尚、現実にはエマは知人宅で訃報を聞かされており、ジョン叔父は事件当時も町内にいたが第三者によってアリバイが特定されている。

 

タイムライン

4日の事件発覚前後の流れを確認しよう。

使用人マギーは6時15分頃に階下に降りて朝の支度を開始した。はじめにジョン叔父が階下に姿を見せ、7時ごろに夫人が、少し遅れてアンドリューが居間に集まり、4人で朝食をとった。

8時半過ぎにはジョン叔父が出掛けて行き、その後でリジーが部屋から起き出してきた。アンドリューはいつものように9時過ぎに出勤していった。普段通り銀行へと顔を出し、その後、改装中の物件へと様子を見に訪れていた(現場作業員が証言)。

9時前、マギーは夫人から窓洗いを指示されて、バケツやモップの支度をして外洗いから先に始めた。リジーも窓掃除の様子に気づいたが、その後、マギーがいつごろどこでどんな作業をしていたかまでは把握していない。夫人は室内のほこり掃除を始め、どこかへ外出したような様子はなかった。

ジー本人は「ハンカチのアイロン掛け」をしようと思い、木炭を熾すためほとんど台所にいたと証言している。夫人は客室の整頓を終えたらしく、「枕カバーを縫っておかないと」と口にしていたという。

ジーは縫い仕事の用事を片づけてしまおうと二階の自室にも行き来した。いつしかアビーの姿を見なくなっていたが、おつかいにでも行ったのかと思い、それほど気に掛けていなかった。夫人は日頃から午前中に買い物に出掛ける習慣があった。

またリジーによれば、夫人は「朝にメッセンジャーが来て、『知人の具合が悪い』というので見舞いに行かなくては」と話していたという。だが該当する通知や病気の知人は特定できなかった。

医師の見立て通りであれば、アンドリューが外出した9時過ぎから10時の間、おそらく9時半前後に何者かによって(ジョン叔父が滞在した)二階客室でアビーは殺害された。

 

やがて玄関からアンドリューの声が聞こえ、内窓を掃除中だったマギーは慌てて主人を出迎えた。玄関は内カギが閉まっており、アンドリューは解錠を求めていたという。時刻は10時40分前後と見られており、そのとき「二階踊り場から笑い声を聞いた」とマギーは証言する。

だがリジーは「父親が帰宅したときはキッチンで雑誌を読んでいた」と述べており、アビーが死亡していたとすれば2階の笑い声の主はだれだったのか非常に不気味に思える。

マギーはアンドリューが帰宅してからブーツを脱がせてスリッパに履き替えさせたと記憶していたが、後の現場写真にはブーツを履いた遺体が映っている。その後、残りの窓ふきを終えて、束の間の休憩を取ろうと屋根裏部屋に戻った。すぐに11時を知らせる町内時報が聞かれたため、屋根裏に戻った時刻は10時55分頃と思われた。

ジーは帰宅した父親に彼女宛ての郵便物の有無を尋ねたり、健康状態を気遣って少し休むように促したりし、庭先に出た。炭熾しをしたものの、結局アイロン掛けはしていなかった。

死亡推定時刻とされる11時前後は裏庭の納屋に居たという。彼女は朝食を食べていなかったので熟れたナシを捥いで納屋に入り、屋根裏で3つ食べたという。姉エマと釣りに行こうと思っていたので「鉛おもり」を探すため、納屋で15分か20分くらい過ごしたと主張する。

後に裏庭の納屋を検証した捜査員は、埃っぽい床に新しい足痕は残っておらず、探し物と言っても「何より蒸し暑いため何分と籠ってはいられない」と感想を述べた。

探し物は見つけられずリジーが11時10分頃に一階居間に戻ってくると、ソファで父親が血まみれになって息絶えており、恐ろしくなってマギーを呼んだ。つまり父親の殺害は「ちょっと庭先の納屋に籠って戻るまでの間に」起きていたというのだ。

捜査員たちは室内が荒らされていないことや夫妻の殺害にタイムラグがある状況などから「外部犯ではない」との見方を強めつつあった。

外傷から凶器は直ちに「斧のような鈍い刃物」と見当されたため、邸内の斧の所在を尋ねた。マギーは警官を地下室に案内し、捜査員は手斧2本、斧2本を発見する。同じ頃、庭先では「アンドリューと昼食を共にする約束をしていた」ジョン叔父が戻り、ただならぬ事態に言葉を失って邸に入れずにいた。

知人宅で報せを受けたエマが帰宅したのは当日の午後7時頃。マギーはその晩、邸に居られず、隣家で身柄を預かられることになった。

 

死因審問

8月9日から数日にわたって警察本部でボーデン夫妻殺害の死因審問が開かれた。

「死因審問」は罪罰を審理する刑事裁判とは異なり、死亡原因について自殺か他殺か事故死かといった判定が行われる。リジー・ボーデン、マギー、親類の客人ジョン・モースらに尋問が重ねられた。

ジーは父親のトラブルの心当たりとして、一、二週間前に男が物件の契約を断られて憤慨していたことを思い出した。会話の内容からは、町外から来ていた商売人が出店計画を希望していたと思われたが、顔を見た訳でもなく具体的な素性は何も分からなかった。

また義母アビーとのトラブルについて問われると、父親の不当な財産分与が原因で5、6年前に衝突があったと答えた。アンドリューは妻の亡父がかつて所有した邸を1500ドルで購入し、アビーの義妹ホワイトヘッド夫人を名義人にしていた。彼女の夫は甲斐性なしで借金のカタとしてその邸宅を手離さなければなくなり、実質的にアンドリューが彼らの借財を肩代わりしてやったことになる。

ボーデン姉妹はその一件に強く反発し、父親は祖父の旧家(サラの実家)を与えて彼女たちの気を静めねばならなかった。以来、リジーは継母のことを「お母さん」と呼ぶことに難色を示し、「ボーデン夫人」と呼ぶようになったと説明した。検察側は「母娘関係」に確執があったと見て執拗に食い下がった。

ジーは2歳半で実母を亡くし、5歳になる前に継母アビーと家族になったが、日常的には10歳上の姉エマを頼りに生活を送っていた。検察側は「普通の母娘」とのちがいを見出そうと質問を重ねたが、リジーも「普通の母娘」とはいかなるものなのか判断が付きかね、答えに窮する場面もあった。

また「父親の帰宅」は玄関ベルで気付いたと言うが、日によって「台所で聞いた」「2階の自室にいた」と証言が定まらなかった。自宅内で自由に過ごしていたにしては2階で被害を受けた夫人、帰宅して程なく被害に遭った父親、窓掃除をしていたマギーの行動をほとんど把握しておらず、混乱の色が窺えた。

空腹だったとはいえ蒸し暑く埃っぽい納屋がナシを食べるのに適した場所とは考えにくく、むしろ「アリバイの不在」を担保しているのではないか。彼女自身が人目を避けて行動していたと考える方が自然だった。

犯行を裏付ける決定的な証拠はなかったが、動揺を示し、矛盾した返答を繰り返したリジーは11日に殺人の容疑で逮捕された。

これに強く反発したのは彼女が参加していたキリスト教系婦人団体や女性参政権の運動家たちであった。リジーは男を魅了するような美貌ではなく、高潔さと教養を備えていた。女性には陪審員になる権利が認められていなかった当時、「男受けしないタイプの女性被告人」は評決に不利とも考えられていた。

本人は無実を主張したが、8月の予備審問でもジョサイア・ブレイズデル判事は「Probably guilty(有罪が疑われる)」と判断し、11月の大陪審へと進んだ。移民問題に端を発し、女性問題で火が点き、風変わりな資産家一家の娘による両親殺害ともなれば、ボストン、ニューヨーク、遠くサンフランシスコからも記者が殺到した。大きくはない町で電信に殺到した記者たちは見聞きしたことを十把一絡げに本社へ送信し、僅かな素材をもとにしてライターたちが筆を揮い、全米中が妄想を掻き立てられた。

友人アリス・ラッセルは傷心した姉妹を支えるため、事件から数日間ボーデン家に滞在していた。彼女は滞在中にリジーが「青いドレスを台所で火に掛けていた」のを見たと証言した。マギーの証言で、事件のあった朝にリジーは青いドレスを着ていたことが認められていた。リジーは「古く、ペンキが付着していたためだ」と処分の理由を説明したが、大陪審は証拠隠滅の動かぬ証拠と判断し、正式に起訴に至った。

 

裁判

1893年の6月5日、ニューベッドフォード裁判所でリジー・ボーデンに対する公判が開かれた。

ボーデン家の顧問弁護士は取引関係を専門としたため、マサチューセッツ州元知事でもある有力弁護士ジョージ・ロビンソンが被告側弁護団に迎えられた。

検察側ホセア・ノウルトンとトマス・ムーディ地方検事は、事件発生時にボーデン家にいたのは被害者ボーデン夫妻、二女リジー・ボーデンと使用人マギーだけであり、遺産相続に関連する被告人こそ犯行の機会と動機をもつ唯一の人物だと主張した。

検察官が証拠品を手にして説明している間も、陪審員たちは机上の大きな穴の開いたふたつの頭蓋骨に目を奪われていたのは明らかだった。そうしたデモンストレーションは被告人をその場に卒倒させ、弁護側を緊張させた。

検察官は母娘の確執をアピールしようと、事件直後にリジーと面会したジョン・フリート副保安官を証人台に呼んだ。フリート副保安官は、当初アビーとの続き柄をmotherと表現したが、リジーは「stepmother(継母)です。私の母親は幼い頃に亡くなっています」と訂正した様子を語った。

だがマギーは自分が見てきたかぎり、一部で噂されるような継母との敵対関係や危機的トラブルはなく、「良好そのもの」だったと証言する。二人は日常的にごく普通に会話を交わし、相手が不在の場面であっても双方の話題に及ぶことは自然にあったと述べた。

ボーエン医師は、事件後、不安定になっていたリジーに通常の2倍量のモルヒネを処方していたとして、彼女の記憶の混乱や死因審問でのあやふやな発言に影響を与えた可能性を示唆した。

事件直後の様子を知る隣人チャーチル夫人は、当日リジーがダイヤモンド模様の施されたライトブルーのドレスを着ていたことを記憶していたが、血痕などは全く見当たらなかったと証言した。壮絶な犯行様態と照らせば、犯人が返り血を回避できたとは到底考えられない。

アリス・ラッセルは事件前夜に訪ねてきた際、リジーがもうすぐ休暇に出ると話し、なぜかひどく動揺していたと証言する。その日は一家揃って胃の不調を訴え、リジーは「パンのせいではないか」と話していた。加えて「何かの災難の前触れのような気がする。それが何なのかは分からない」と漠然とした不安を訴え、「家に火を点けられたり、失礼な父親をだれかが傷つけたりするのではないか」と事件の予兆とも言える発言をしていたというのだ。さらには「怖くて、片目を開けたまま眠りたい」と嘆いていたとされる。

また事件の朝にアビーが受けたという「病人の報せ」について、ラッセルが疑念を込めて「お母上が燃やしてしまったのかしら」と尋ねた際、リジーは「ええ、燃やしたに違いないわ」と答えたという。

 

ロビンソン弁護士は、「青いドレスを燃やした」とするラッセルの目撃証言に対して「真犯人が人前でそんな明からさまな隠蔽をするだろうか」と疑問を呈した。

さらに検察側が提示したタイムラインに沿って、アンドリューの死亡からリジーが一階で「助け」を呼ぶまで8~13分間しかなかったと指摘し、その間に着衣のドレスや凶器の洗浄など隠蔽の不可能性を主張した。

考えてみれば、リジーが真犯人であれば慌ててマギーを呼び出す必要はなく、人知れず外出してマギーなど別の誰かが第一発見者となった方が都合がよいようにも思われる。

弁護側が出廷を求めた証人はわずかだった。近隣住民3人は「事件前夜」「事件当日10時半前後」にボーデン家の前で不審な男を見たと話した。

陪審員たちの目の前には、怒った顔など想像もつかない慎ましい淑女の姿がある。乱暴な犯行とはあまりに不釣り合いだった。たしかにその暴力性から見て、男性犯と捉える方が自然であり、ボーデン家の富と栄誉を逆恨みする行商人や移民の仕業のようにも思われた。

配管工とガス工は「事件の前日ないし前々日にボーデン家の納屋の屋根裏で作業をした」と述べ、「納屋に足痕がなかった」としてリジーのアリバイを崩そうとする検事たちの主張に疑義を投げかけた。彼らの足跡は見過ごされたのか、そもそも警察は屋根裏をきちんと捜査できていたのだろうか。

長女エマは妹の無実を支持し、母娘関係、家族関係は良好だったことを強調した。父アンドリューの遺体の小指に付けられていた金の指輪は10数年前にリジーから贈られたもので、肌身離さなかったと述べた。

また友人アリス・ラッセルの証言は人々の関心を引き付けていたが、裏付ける根拠は何もないでたらめであると喝破した。考えてみればラッセルが目撃したという青いドレスが血まみれだった証拠はどこにもない。エマの言うように相当な「お古」だったためかもしれないし、リジーの言うようにみっともない汚れを付けてしまったのかもしれない。「死人に口なし」のことわざではないが「焼けドレスに血痕なし」なのだ。

 

ロビンソン弁護士はこれまでマスコミが嗅ぎ付けたリジーに対する風評、情況証拠に頼った検察側の主張に対して真っ当な反証を重ね、12人の陪審員ばかりか裁判記者たちをも心酔させていった。

裁判長ジャスティン・デューイ判事は「自分が被告側弁護人であったならこれほど情況証拠のみに頼ることの愚かしさをはっきりと指摘するまでには至らなかっただろう」と脱帽し、各紙ともそれまでの偏向的報道から手の平を返すように「これほどまでに驚きに満ちた裁判はかつてなかった」と書き立てた。

検察側は薬局店員らを証人として「青酸」購入について論じることで被告人の殺意を明らかにしようと試みたが、裁判所は殺害事実と結びつかない単なる水掛け論になるおそれがあるとして証人申請は却下された。リジーが青酸を購入した事実は確認されず、遺体からも毒物は検出されていない。

 

判事たちは、死因審問におけるリジー・ボーデンの曖昧で矛盾に満ちた証言について、憲法修正第5条に基づいて「黙秘権」を推奨するべき事由だったと認めた。検察側は容疑者の自白同然とみなしていたが、混乱や矛盾はあれども発言全体を通して否認の性質を維持していた。死因審問の段階で彼女は「容疑者」ではなかったし、弁護人が付くこともできなかった。

6月20日陪審団は1時間半の協議の末、「Not Guilty(無罪)」の評決を導き出した。リジー歓喜の声を上げ、法廷の柵に突っ伏して両手で顔を覆い、エマ、弁護人、傍聴人が彼女に祝福の声を掛けた。

「…今すぐ、家に帰りたい。今夜直ぐに」

ある新聞では、デューイ判事が陪審団に対して「リジーの並外れたクリスチャンとしての性格を考慮に入れるべきだ」と口添えしたとも伝えられた。その真偽をあらためて確かめようもないが、彼女が敬虔なクリスチャンであり、品性を備えた女性であったことが無罪評決に優位にはたらいた裁判だったことは確かである。

被告人は黒いドレスを着て、花束と扇子を手に法廷に現れた。彼女が血なまぐさい犯罪の対極にあることを弁護士が演出していなかったとは思わない。しばしば「女性の社会的不遇」が問題視されるが、とりわけ暴力的犯罪においては男性被告人に不利な傾向が生じることを逆手に取ったのだ。

 

凶器

新聞各紙は陪審団の迅速な英断と警察当局に対する非難を伝えた。

100年経った今日でも「リジー犯人説」は実しやかに幾度となく主張されてきた。裁判官や陪審員、新聞各社を財力にものを言わせて買収したのではないかと大風呂敷を広げたくなるかもしれない。日頃から「工場主」を目の敵とするアイルランド系労働者向けの新聞ではそうした主張が展開された。

また無罪評決に加担したデューイ判事は、ロビンソン弁護士が知事時代に裁判長職に任命された人物で「息の掛かった人物」と言ってよいかもしれない。しかし少なくとも当時の検察当局が「合理的疑いの余地なく有罪を立証する」には至らなかったのは事実である。

決定的に欠けていたのは、リジー・ボーデンと二件の殺害を直接結びつける物証だった。前述のように警察は地下室で見つけた「4つの斧」を証拠品として押収した。

ひとつは乾いた血と毛のようなものがこびり付いており、もうひとつは錆びた鉤爪型のもので傷痕と形状が明らかに異なり、あとの2本は埃をかぶって長年使用されていないように見え、うち一本は柄が刃の付け根近くで折れていた。

4つの斧はハーバード大学ウッド教授による付着物の鑑定に回されたが、1点は人間とは異なる「動物の血」と牛などの「獣毛」とされ、残る3点は血液反応が陰性だった。

「柄のない斧」[フォールリバー歴史協会]

検察側は、断定を避けつつも、破損した部分は比較的新しいように見えることに着目して「柄のない斧」が「凶器と疑われる」と主張していた。持ち手の木肌から血痕が消せないために被告人は柄を折り、洗い流した痕跡を隠蔽するために表面に灰をかぶせた可能性があると説明した。

検察側の推理が正しければ「お見事!」と言いたくなるほど冴えた推理だが、打撃部に最も近いはずの斧刃に僅かに付随する柄の残りの木部にさえ血痕は皆無だった。

さらに初動捜査で斧4点を見つけたムラリー警部が証人となり、「斧の刃先と折れた柄は同じ箱に入っていた」状態で見つかり、その場で柄と刃先が一致することを確認したと証言した。警部が証人宣誓を反故にするような人物でないとすれば、「斧の刃先」が凶器である可能性はないばかりか、検察側はその無理筋な理論のために「折れた柄」の証拠隠しをしたことになる。

また検視官のひとりによれば、解剖に参加したサフォーク郡検視官フランク・ドレイパー博士から、ボーデン夫人の頭蓋骨の右耳付近の割創のひとつに極微量の金属が付着していたとの報告を手紙で受けたという。

ドレーパー博士と協議したチーバー博士の見解によると、見つかった金属は工場出荷時に手斧の表面に施される金メッキ加工であり、「凶器とされた手斧が製造から間もない新品だったことを意味する」と書かれていた。

 

ジー・ボーデン研究家のロバート・フリン氏は、ボーデン裁判の判決5日前、1893年6月15日の新聞記事に着目している。

「もう一つの斧発見」なる記事によれば、ある少年がボーデン家のすぐ裏手に住む石工ジョン・クロウ氏の納屋の屋根の上で錆びた手斧を発見したという。家族が警察に届け、専門家が「錆の粒子を取り除くと、わずかに金箔の色彩が覗いた」と伝えられている。

事件翌年に見つかったこの手斧は、装飾用か何かでメッキ加工されていたか、ほぼ未使用で納屋の上に放置されていたことになる。ボーデン家とクロウ家の敷地の境界にはフェンスが設けられていたが、ボーデン家の裏庭には材木が山のように積まれており、そこに上れば乗り越えさえ困難ではない状態だったと副保安官は証言している。

クロウ家の納屋の上に手斧を「棄てたり」「隠したり」することはそれほど難しいことではない。フリン氏は隣家で見つかった「もう一つの斧」こそ真の凶器ではないかと主張している。真の凶器だったとすると、現場のすぐ裏手に放置されていたものを警察はまんまと見逃していたことになる。

 

事件当時、アイスクリームの売り子をしていたハイラム・ルビンスキーは午前11時5分か10分過ぎ頃、人相や風体の記憶はないが、ボーデン家の「家の裏」から表通り方向に向かってくる女性を見かけたと証言した。父親の遺体発見直前に裏庭の「納屋にいた」とするリジーの行動と重なる点がある。ルビンスキーがおぼろげに目にしたのは、家の裏手へと手斧を隠しに行って戻ってきたリジー・ボーデンの姿だったのだろうか。

あるいは「別の女性」だったかもしれないし、ひょっとすると「男性の見間違い」だったかもしれない。斧を隠したのは殺人者ではなく、「別の協力者」かもしれない。アイス売りの目撃証言とは無関係に、リジーの逮捕後に「真犯人が」「第三者が」あるいは「警察が」置いたものではないとも言い切れない。

ルビンスキーの証言は具体性や信憑性に劣り、リジーに有利にも不利にもはたらかなかった。尚、「もうひとつの斧」にしても指紋や血痕があった等の続報はなく、誤報や悪戯の類という見方もあるだろう。

 

その後

両親の死からおよそ一年後、リジー・ボーデンは父親の遺産を相続し、継母アビー方の親族に和解金を支払った。これはアビーが先に死亡したと認定されたことから、彼女の財産が夫アンドリューに渡り、続く彼の死に伴ってボーデン家が相続したためである。

姉妹はフォールリバーの新興地区に新居を購入して地元に留まったが、それまで属したクリスチャン・コミュニティからは追放されたも同然だった。リジーはリズベスと名を変え、公の場から距離を置いた。演劇界にのめり込み、俳優や芸術家、ボヘミアンたちと交流をもつようになった。

エマは社会活動や慈善事業への尽力を続けていたが、妹の度を越えたパトロン気取りに嫌気がさし、1905年に袂を分かち、二度と再会することはなかった。否、実母サラの死の床で、妹の面倒は自分が見ると「母親代わり」を約束した彼女にとっては遅すぎた「子離れ」だったのかもしれない。

ジーは1927年6月1日に67歳で肺炎により亡くなる。4年前にニューハンプシャーの老人ホームに移住したエマは妹の9日後に息を引き取った。姉妹は生涯未婚を通し、オークグローブ墓地の両親の傍で眠っている。

事件後、マギーはボーデン家を離れ、モンタナ州ビュートで知り合った男性と結婚し、1948年に彼の地で亡くなった。

 

本事件はニュー・イングランドにおける階層社会・移民問題・女性の社会進出・司法警察制度といった同時代における重層的な問題を孕んでおり、事件の陰惨さや不可解さと共にその政治性においても研究者諸氏の関心事とされた。

1890年英国生まれの「ミステリの女王」アガサ・クリスティはいくつかの推理小説の中でリジーを「罪を逃れた殺人者」として言及している。リジーの死後には演劇、音楽、小説、映画やドラマなどで何度となく直接的モチーフとされた。

「斧持つ淑女」という対極性を備えたリジーの人物像はゴシックファッション、コンテンポラリーダンスなどあらゆる芸術・文化にインスピレーションを与え続け、アメリカ史の一ページとして刻み込まれている。

惨劇の舞台となった「リジー・ボーデン・ハウス」はB&B(ベッドとブレックファーストを提供する民宿)に生まれ変わり、裁判で証拠とされた頭蓋骨や斧、遺品などはフォールリバー歴史協会に収蔵され、町の観光資源として活用されている。

犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

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Lizzie Borden | Historic Trial Transcripts

How Lizzie Borden Got Away With Murder | Smithsonian