結婚を間近に控え、パートナーとの念願だった店を開業させた当日に起きた女性変死事件。警察は自殺として捜査を終えたが、女性の家族らはその決着に異議を唱えた。
事件の発生
2007年(平成19年)5月24日(木)午後9時20分頃、茨城県日立市鹿島町で美容室「サムシングブルー」を経営する鈴木文武さん(当時39歳)が隣家敷地内で倒れている女性を発見して119番通報した。
女性は鈴木さんの婚約者で、つめの手入れをするネイリストをしていた阿部香織さん(当時29歳)。その後、搬送先の病院で死亡が確認された。
現場となった店舗兼住宅はJR日立駅の西約1kmの込み入った商業区域にあり、建物1階が店舗、2階が住居というつくりで、当時は68歳の鈴木さんの母親と3人暮らしだった。周辺はバーなどの飲食店も多く、夜間でも人通りは多少あったと考えられる。
鈴木さんと阿部さんは市内で友人たちを招いて結婚パーティーを催したほか、2月に新婚旅行を兼ねてタイ・プーケットで挙式を済ませており、一週間後の6月2日に婚姻届けを提出しに行く予定だった。
また5月24日は美容室のリニューアル・オープン当日で、店舗前には祝いの花輪が並んでいた。二人にとって念願だった美容室とネイルサロンを併設させた業態に切り替えるつもりだった。美容室のスペースはその日から営業を再開していたが、香織さんが担当するネイルサロンの開業は間に合わず、終日準備に追われていたという。
午後6時頃に友人2人の来客があり、鈴木さんと香織さんは揃って2階の居間で談笑。その後、鈴木さんは6時45分頃に1階の店舗に降りていった。午後7時10分頃、香織さんは客人を見送りに降り、再び2階へと戻っていった。生前の彼女が目撃されたのはこのときが最後である。
その後、悲鳴などは聞かれなかったが、午後7時半頃(「8時頃」とも)に1階でミーティング中に複数の従業員が2階から「ドスン」という何かが倒れるような大きい音を耳にしていた。その後、業者が訪れたため店舗の様子を紹介するなどして、美容室は午後9時に営業を終えた。
鈴木さんが2階の住居スペースに上がってくると、リビングには夕飯の支度がほぼ整っていた(あとは肉に火を通すだけの状態だった)が、なぜか香織さんの姿は見当たらなかった。
寝室を見ると出窓が開いており(「外にコードが伸びていた」とも)、不思議に思った鈴木さんは香織さんに携帯電話を掛けながら、店の外に出た。
すると開いていた窓の下、隣家との隙間を覗き込むと、境界ブロックの隣家側(塀と建物との幅約50cmの間)に仰向けになって倒れている香織さんを発見する。首に電気コードが幾重にも巻きついた状態で口などから出血しており、普段着姿のままで靴や靴下は履いていなかった。寝室に置いていたフットマッサージ機具が近くに落ちており、首の電気コードはその一部だった。
鈴木さんはコードをほどき、心臓マッサージを施すも反応はなく、すぐに救急車を呼んだ。駆けつけた救急隊員は鈴木さんにも同行を求めたが、このとき「母親が心配なので残ります」と言って救急車に乗るのを断った。午後10時45分、搬送先の病院で女性の死亡が確認された。
翌25日に行われた司法解剖の結果、死因は頸部圧迫による窒息死とされた。首にはひも状のもので絞めた索条痕、右目の上に大きな打撲痕があった。
また紐を外そうと首元をかきむしってできる「吉川線」はなく、爪の間にも皮膚片や繊維片は見られなかった。絞殺に抵抗した際にみられる兆候は認められなかったということである。
従業員が大きな物音を耳にしていた午後7時半頃から発見までの間、2階別室では鈴木さんの母親が寝ていたが異変に気付かなかったという。就寝時刻には早いように思えるが、鈴木さんの説明によれば、母親は早朝に散歩する習慣があることから早寝だったとされる。
屋内は階段が一か所だけで、人の出入りがあれば店の従業員が必ず気づくような構造だった。だが7時過ぎに来客を見送った香織さんが2階に戻って以降は誰も上り下りしていなかった。香織さんは履物も履いておらず、境界フェンスが一部大きく変形していたことからも、2階の窓から転落したことは間違いなく思われた。
日立署は事件と自殺の両面から慎重な捜査を進めた。
亡くなった香織さんは、2002年9月に勤めていた服飾関連会社を退職後、ネイリストの道を志し、ニューヨークへ留学。資格を得て帰国し、03年2月から水戸市内の専門学校でおよそ3年間専任講師としてネイルアートを教えていた。
熱心な指導に定評があり、自身も雑誌などに作品を応募して賞を得ていた。彼女の働きぶりをよく知る系列校の校長(49歳)は「落ち着いているのに華があった。明るくて積極的だった」と当時の印象を振り返っている。
千切れたネックレス
落下元の寝室からは千切れたネックレスが発見されており、ベッドの脇には1cm大の血痕が見られた。普段ネックレスに通していた指輪がベッドの裏側で見つかった。壁には強くぶつかってできた凹んだ形跡があったことから、遺族らは香織さんが侵入した第三者に襲われて必死で抵抗するなどして、転落に至ったのではないかと主張した。
香織さんにマリッジブルーのような兆候も見られておらず、鈴木さんとの仲も順調そのものだったという。待望の店をオープンさせ、まもなく正式な入籍を控えていた、幸せの絶頂とも言える時期に自死を選ぶというのはたしかに奇妙に思われた。
では1階で店が営業している中、2階に忍び込む侵入者がいたということだろうか。
たとえば「不可解な侵入犯」といった観点で言えば、2001年(平成13年)にさいたま市栄和で起きた父娘殺人放火事件でも、建物1階テナントで飲食店が営業している最中の午後7時から7時50分の間に2階住居に「押し込み」が侵入しての犯行とみられている。
こちらの事件では現場となった2階に火を放ち、裏の物置に飛び降りたとみられる不審な男が目撃されている。その動機が判然とせず2024年現在も犯人検挙に至っていないが、一方的に娘への恋慕を募らせたストーカー犯罪ではないかといった見方もある。
香織さんの幸せを妬んだ元交際相手やストーカーの犯行であれば、あえてこの日に襲撃するのも不自然ではないかもしれない。尚、鈴木さんには離婚歴があったものの、離婚後も元妻とずっと揉めていたといったトラブルはなかった。
外壁には屋上と地上をつなぐ非常用ハシゴが設置されていたものの、警察の調べでは外部から侵入の痕跡は認められなかった。ハシゴは改装以前から設置されていたもので、寝室の窓から出入りしやすい場所にはなかった。素直に考えれば、香織さんがいた2階住居スペースは人の出入りのない大きな密室のような状態といえた。
転落のあった24日の天候は晴れ、気温は15.1度から20.4度。翌25日は、日中から深夜にかけて1mmから最大16mmの雨が降り続き、気温は13.8度から19.6度だった。現場検証は25日早朝から始まったが、2階住居スペースの検証は26日に改めて行われたと報じられている。
新居でそれも寝室となれば出入りした人間はごく限られ、第三者の侵入があれば頭髪や下足痕などの痕跡は見つかるように思われる。具体的な検証内容までは伝えられていないが、翌日に降った雨の影響で外部から侵入した形跡が消えてしまったのではないかとの見方もある。
しかしながらニュース報道で事件を知った人々の多くは、身内による犯行説、つまり第一発見者となった鈴木さんや、2階で寝ていたと主張する鈴木さんの母親へと疑いの目を向けた。鈴木さんは疑惑の声を受けて、27日に2階寝室を公開して発見時の状況などを説明した。
だがネット上では、彼の様子が妙に落ち着いていて怪しいとする声が少なくなかった。前年には、娘とその幼馴染を殺めながら「被害者遺族」として振る舞う「嘘つきな母親」で大きな話題となった秋田児童連続殺害事件が起きていた。人々はカメラの前に登場した美容師男性を、鬼母の姿に重ね合わせたのである。
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そもそも心証として、瀕死の婚約者を尻目に救急車に付き添わなかった点が人々には納得できなかった。たとえば母親に要介護状態などの特別な事情があればその行動も理解できるが、「最近は耳が遠い」とはいうもののまだ68歳で健康に大きな問題を抱えているとの情報も聞かれていなかった。
母親が動揺するのは当然のこととは思うが、「婚約者についていてやるように」と息子を送り出すのが親として取るべき行動ではないかと人々には感じられた。男性もすぐさま救急車に同乗できずとも、「母親を落ち着かせて後からすぐに向かう」などの返答があればその印象は大きく変わったことであろう。
結果的には、救急車に乗らないという選択が、その間も隠蔽工作をしていたのではないかといった疑惑の分水嶺となった。
現場となった建物は元々は紳士服店だったもので、その後、フィリピンパブとして営業していたとされる。鈴木さんたちは2階を住居に改築、1階も大幅に手を入れてリニューアルオープンを迎えた。その費用4000万円の大半を香織さんの親が融資していたことが伝えられると、婚約者への疑いの目はますます厳しいものとなった。
娘親がまとまった結婚費用を積み立てているケースはよく聞かれるが、数千万円ともなると親族間にも軋轢を生みかねない額であり、口の悪い人間は「金目当ての婚約」と決めてかかった。
家庭の事情は様々であり、両家も納得した上での婚約・融資とは思われるが、男女には10歳の年の差があり、男性側の母親と二世帯同居という条件だけ見てもアンバランスな印象が拭えない。出会いや交際歴などの詳細は伝えられていないが、実際に同居生活が始まってみて理想と現実のちがいに直面していたり、両家族を取り持つ上で彼女が精神的な負担感を伴っていたことは大いに考えられる。
日付は不明だが、警察は捜査の結果、現場に第三者の痕跡がなく、遺体状況にも殺害を示唆する点がないこと、香織さんから電話やメールで悩みや相談話を聞かされていた友人がいたことなどから総合して、事件性のない自殺との見解に至った。
だが翌2008年7月、香織さんの父親が日立署に上申書を提出し、再捜査を訴えた。遺族としては理由も定かでない中、自殺で片づけられるのは納得できなかったものとみられる。しかし捜査の進展などは全く聞かれなくなった。
検討①再婚?
事実か噂か定かではないのだが、ネット上では鈴木さんが事件後ほどなくして元妻と再婚したという情報が出回った。確認できるものでは、事件ブログ『ASKAの事件簿』さんの匿名コメント欄に2008年2月時点で投稿されている。婚約者の不慮の死からまだ半年余りの時期である。
今日ネット上ではほぼ既成事実とされているのだが、情報の出処まで遡ることはできなかった。テレビ番組や新聞報道で被害者ではない人物のプライベートまで伝えられるとも思えず、情報源は雑誌か、あるいは鈴木さんの前妻を知る知人や近隣住民による噂ということになるのか。
筆者としては、1994年、福島県で結婚直前に不可解な失踪を遂げた増山ひとみさんの事件を想起せざるをえない。ご存じの方も多いと思うが、ひとみさんは寿退社の当日に突如失跡し、およそ1年後に自宅に「おねえちゃんだよ」という怪電話があったことで広く知られている。
怪電話のあった当時は公開捜査に踏み切っておらず、ひとみさんの失踪を知る人物は限られていたことや、日本音響研究所による分析から同一局内からの電話であったとされ、「おねえちゃんだよ」の発言から電話口に出たのが「ひとみさんの妹」と知っていた人物が掛けてきたものと推測されている。
また、以前から自宅への無言電話やひとみさんの職場に電話してくる謎の女性がいたことが分かっている。婚約者男性が元交際相手とみられる女性とその後結婚したこともあり、ひとみさんの家族は婚約者男性らが事情を知っているのではないかと疑いを強めた。
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鈴木さんの再婚を確認する術はないのだが、筆者の見解としては、「結婚を控えて…」という類似性からインスピレーションを受けた人物による偽情報の拡散か、あるいは両事件を混同して曖昧なまま書き込んだ人物がいるのではなかろうかと考えている。
グーグルのストリートビューで確認できるところでは、2014年5月時点で美容室の営業は続いており、2017年3月時点では店舗はなく「テナント募集」の張り紙が貼られた。現在は、近郊で営業していたダーツバーが入居している。
成人女性が首にフットマッサージ機の電源コードを幾重にも巻きつけて、窓からうっかり転落してしまう「事故」はさすがにありえないと見て差し支えないだろう。以下では自殺、他殺についてどのような状況が考えられるかを少し検討してみたい。
検討②自殺説?
先にも述べた通り、香織さんは結婚やサロン開業を控えて外形的には幸せの絶頂ともいえた。だが家族が増えて生活環境は一変し、並行して結婚準備やネイルサロンの具体化を進めるなか、理想と現実のはざまで、様々な苦悩が怒涛のように押し寄せてもいたはずだ。
鈴木さんのかつての離婚理由や、鈴木さんの母親と香織さんとの具体的な軋轢があったか等は不明である。だが自分の親には相談しにくい悩み、たとえばではあるが、DVやマザコン気質など歪な母子関係の類であったならば周囲の人間からは見えづらい。
また私たち第三者が見ても感じるように、多額の開業資金の負担、姑との同居、離婚歴のある10歳年上の相手など、彼女のことを親身になって考える人ほどその結婚を不安視したことも考えられる。

「もっといいお相手がいるんじゃない?」「その条件で本当に不満はないの?」
恋愛や結婚は周囲からの助言に頼りたくなる反面、「じゃあ、もっといい相手探してみる」などと他人の意に素直に従うことはあまりない。むしろ人から非難されることで、却って相手のいいところや自分との相性の良さを主張したくなるのが常である。相談相手もそういうものだと分かっているからこそ、最終的には「自分はこう思うけど、あなたの好きにしなさい」「大変だとは思うけど、がんばって幸せになりなさい」と背中を押す。
すべて妄想の域を出ないものの、そうした生活の激動やストレスの鬱積により、同居、結婚へと踏み切ったものの人知れず彼女の精神が病んでいた、希死念慮を抱えていたとしても不思議はないと筆者は考えている。
検討③外部犯説?
外部犯を想定したとき、もっとも引っかかる点は、その死因と状況の食いちがいである。女性は転落死ではなく窒息死であった。
まずストーカーや強盗などの外部犯ならば、明確な殺意がなかったにしてもいざというときの脅迫や防備のために刃物などの凶器を携行するものと考えられる。ひょっとすると目の上の打撲や壁の穴などはハンマー類で生じたものかもしれない(詳報はない)が、撲殺を企ててはおらず、最終的にはその場にあった電気コードで絞殺したことになる。
背後から立位での絞殺であれば、幾重にも巻き付けること自体が困難である。抵抗の痕跡がないことから香織さんは一撃で意識を失うなどして無抵抗状態に陥り、犯人は首にコードを巻きつけることができたということか。
ではなぜ彼女は窓の外、隣家の敷地内で見つかったのか。犯人は女性を仮死状態にまで陥れたとすれば、そのまま部屋に置き去りにして逃げれば済むことで、わざわざ窓から放りだす必要はない。
首吊り自殺を偽装するのであれば、室内の家具やドアノブにコードを絡めれば済む話である。むしろ窓の外に吊り下げれば(狭い隙間ではあるが)人目に付くリスクを伴う。しかもこれから自分が脱出せねばならないのに、その窓に仮死状態の人間をぶら下げようと試みるものだろうか。
警察が自殺の可能性が高いとしつつも依然捜査中だった6月上旬、さる掲示板サイトで次のような投稿があった。投稿者「226」氏が日立の現場近辺で聞いた話だという。
244 :226:2007/06/--(-) 21:12:13 ID:----6Tc70
住民の高齢者の方が、まったく事件のことなど念頭に無く話された話ですが
事件現場の方向から男二人が急ぎ足でやってきて、外国人が働くお店に入っていき、その後外国語で争うような声が聞こえ、
中古のバンがやってきて何人か乗り込み去って行ったそうです
この方はその極近くでお店をやっています
で、この方から聞いた話で、外国人の店の従業員が近所のママさんの仮眠室に
天井から忍び込んだところを咎められ、内装工事中で間違ったなどと言い訳した
のだが、ここで騒ぐと殺されると思い、その言い訳を通して帰らせたという話です。
同地は戦前から機械産業の企業城下町として発展を遂げ、京浜地域から訪れる出張者も多く、人口20万に満たない地方都市にしては広く飲食店街が形成されている。いわゆる店舗型風俗店はほとんどないが、ホステスを雇うクラブ・パブは少なくなく、上の投稿もそうした店の関連と考えられる。
近隣の治安状況に関する貴重な情報ではあるが、話は大きく分けて①外国人が働くお店でかつて拉致騒ぎがあった、②外国人の店の従業員が近所のママさんの仮眠室に天井から忍び込む騒ぎがあった、という2点である。言外に、外国人犯罪の可能性を示唆している。
一階店舗が営業中であろうと見境のない軽業的な侵入や、首を絞めたうえで2階から突き落とす野蛮な手口を鑑みれば、尋常ではない犯行には違いなく、類例をあまり聞かないことからも外国人犯罪を疑いたくなる気持ちは理解できる。
2階の窓が開いているとみて忍び込もうと思ったのか、窓の向こうに女性の姿を見掛けて犯行を思い立ったのか。だが避難ハシゴや屋内外に侵入者の痕跡はなく、被害者に着衣の乱れ(性的暴行の形跡)もなく、金品被害の報告もない。犯人は無謀にも手ぶらで侵入を思い立ち、声をあげられそうになって無闇に殺害して何も奪わずに逃走したのだろうか。
外国人蔑視をする訳ではないが、不法在留や違法就労、金銭トラブル、色恋沙汰や外国人グループ内でのトラブルなどと全く無縁の外国人ホステスというのをあまり聞かない(多くの場合、来日するために借金を抱える)。店や同僚らもそれぞれに後ろめたい事情を抱え、通報を躊躇するケースもあるだろう。
周辺住民も多く大小様々な業種が集まる市街地で、物騒なできごとが皆無とは言えないエリアかもしれないが、外国人ホステス関連の事件と日本人ネイリストではやはり背景が大きく異なる。
「住民の高齢者」や投稿者「226」氏が嘘をついているとは思わないが、本件と同一視して結びつけることはやや難しいように思う。外部犯説には動機と証拠が欠落しているのだ。
検討④内部犯説?
たとえ従業員の中で金に困っていたり、オーナーのフィアンセに密かに好意を寄せる人物がいたにしても、オープン当日、それも営業中でオーナーらがいるにもかかわらず2階に忍び込むという心理には至らないだろう。
となると、動機の面で見ても、2階住居への出入りの可能性からも、婚約者かその母親かというのが自然な見方であろう。とりわけ開業資金の負担などは衝突の火種となってもなんら不思議はない。
2階で嫁姑のごとき口論や夫婦喧嘩が起こり、香織さんが開業資金の不満を口にしたため、かっとなって衝動的に…というのは非常に想像しやすい殺害状況だ。母親の犯罪に気づき、息子が隠蔽しているのではないかとする見方も根強い。
しかし、第一発見者である鈴木さんは美容室の仕事を終えた直後に異変に気付き、9時20分に119番に救急通報している。発見現場は隣家との細い隙間であり、通行人でも暗がりの中を注意深く覗き見なければ気づかれないような一画であった。おそらくは大きな音がした午後7時半から8時頃の段階で落下したものと考えられ、1時間以上、誰にも気づかれてはいなかったのだ。
逆に隠そうと思えば、そのまま未明まで放置して、人通りが完全に途絶える頃合いを見計らい、店の前に車を横付けし、人目を避けて運び出すことも不可能ではない。しかし鈴木さんは終業からまもなく婚約者を見つけ、隙間から引きずり出して、すぐに通報した。無論、命を救うための行動である。
計画的な殺意があれば何も母親が2階にいる、疑いをもたれるような状況下で犯行に及ぶはずもなく、よりアリバイを強調するのであれば、業務の最中に2階に上がって従業員に「いないんだけど、見てない?」などと異変を示唆することもできたはずだ。
68歳の母親であっても電気コードによる絞殺や窓から落とすこと自体は不可能ではないだろう。だが体力差の少なさを考えれば、台所の刃物を持ち出したり、フットマッサージ機が付随したままの電気コードではなく延長コードやもっと手ごろなロープ類を用いるのではないか。
「寝ていて気付かなかった」のは不自然にも聞こえるが、アリバイとして通用しないことは火を見るより明らかである。母子にアリバイを強固にする意図があれば、「〇時に2階へ上がったとき、母親と話した」など口裏合わせはいくらでも可能だった。自分の行動パターンや「一般常識」から外れると疑いを向けたくなるものだが、筆者はむしろ不自然だからこそ「寝ていて気付かなかった」のは事実ではないかという印象を受けた。
検討⑤何が起きていたのか?
婚約者、その母親、あるいは7時過ぎに帰っていった友人の何気ない一言が思わぬ衝撃をもたらしたのか、それとも張りつめていた緊張の糸が開業の日を迎えてぷつんと断ち切れてしまったのか。この先、夫婦として暮らしていくことを想像して絶望に至ってしまったのか。
裏付けるものは何もないが、その夜のできごとを妄想して終わりにしたい。

彼女は衝動的に希死念慮に囚われ、単にマッサージ機から伸びた長い電気コードを見て、「これで死のう」と決断した。遺書など書きつけようとは思わなかった。婚約者であれ、実の親であれ、親友であれ、私がどれほど苦しんでも理解してはくれなかったし、話を聞いてくれても本当の意味で救ってはくれなかった。恨み言など書いたところでいまさら何の役にも立たないではないか。
ドアノブ等を使った座位窒息の方法を知らなかった彼女は、家具の上などの高い位置にマッサージ機を固定しようとしたか、引っかけるなどして首を吊ろうとした。
体重を掛けると苦しくなり、もがいてネックレスを引きちぎった。暴れた勢いで家具が倒れたか、マッサージ機が上から落ちてきて目の上に激突した。
額からか口元からか血が滴り、床に零れた。
死にたいのに自由に死なせてももらえないのか。生きているのは苦しいことだな、と思った。窓の外を覗き込むと、たった2階の高さなのに地面は見えず、底知れぬ深淵に思えた。
幾重にもコードを巻き付け、マッサージ機をどうにか固定した。後戻りできないように。今度こそさようなら。これで終わりますように。
宙吊りになって足をばたつかせるうちに勢いづいてマッサージ機ごと地上に転落した。そのときには息を吹き返す力は残っていなかった。
彼女を殺した犯人はいないが、追い詰めた人たちや救いきれなかった人たちはいる。そんな事件だったのではないかと考えているが真相は分からない。
ご冥福をお祈りいたします。