1963(昭和38)年に東京都台東区で起きた男児誘拐殺人事件について記す。
前の東京オリンピックの前年、人々にとって「人攫い」といえば労働力や売春に従事させる人身売買目的が主流だった時代に起きた「身代金」目的の犯行は、その社会的影響やその後も多くの模倣犯罪を生み出したことも含めて「昭和最大の誘拐事件」といわれる。
■ 事件の発生
3月31日の夕方過ぎ、東京都台東区入谷(現松が谷)で家のすぐ隣にある入谷南公園で遊んでいた男児の行方が分からなくなった。建築業を営む村越繁雄さんの長男・吉展ちゃん(4歳)である。当初、両親は迷子と考え、下谷北署に通報した。
周辺での聞き込み捜査により、男児は公園の洗面所近くで水鉄砲をして遊んでいたとされ、その後30代の男と会話していたとの目撃情報から、誘拐の可能性もあるとして捜査本部が設置された。
男児の行方不明から2日後の4月2日17時48分、村越さんが営む工務店の従業員が電話に応対すると、男の声で「身代金50万円」を準備するよう指示される。当時の大卒国家公務員の初任給が1万7100円、2021年現在は約13倍の22万5840円であるから、単純計算すれば現在の650万円相当の額と換算される。
警察は人命救助の観点から各機関に報道自粛を要請し、吉展ちゃん解放に向けた水面下でのやりとりが続けられた。プライバシー保護や被害拡大防止のための報道協定が結ばれたのはこの事件がはじめてである。
翌3日19時15分、「こどもは帰す、現金を用意しておくように」と電話が入る。当時、日本電信電話公社は「通信の守秘義務」を理由に、警察捜査にも発信局や回線特定の「逆探知」を認めていなかった。本件を契機として同年に「逆探知」が認められることとなる。
4日、22時18分の電話では親が男児の安否確認を求め、通話の引き延ばしによって犯人の音声を録音することに成功した。この録音についても警察ではなく被害者家族が機材を用意し、自主的に行っていたものである。
その後も具体的な身代金引き渡しのやりとりを進め、6日5時30分に「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持ってこい、警察へは連絡するな」と指定。しかし犯人は警察の張り込みを警戒したのか姿を見せず、吉展ちゃんの母・豊子さんは「現金は持って帰ります、また連絡ください」と書置きを残して自宅へ戻る。
7日1時25分、犯人は豊子さんに「今すぐ一人で持ってこい」と改めて受け渡しが指示される。自宅から300m程の自動車販売店・品川自動車の脇に停めてある軽三輪自動車を指定される。
豊子さんはトヨエースに乗車して自宅を離れ、すぐに目印の男児の靴を見つけて、約束の50万円入り封筒を置いた。
だがこのとき母親の出発の伝達ができておらず、捜査員5人は遅れて家の裏口から迂回して徒歩で現場に向かったため現場到着が遅れた。その僅かな時間差を突いて犯人は封筒を奪取し逃走。捜査員のひとりは受け渡し場所へ向かう途中で現場方面から歩いてくる背広姿の男とすれ違っていたが、現場に向かうことに気が急いていて職務質問の機会さえ逃していた。
手許に男児の靴だけが戻り、以来犯人からの連絡は途絶えることとなる。男児の生命にかかわる事態をおそれて本物の紙幣が用意されていたが、「追跡」までは想定していなかったのか紙幣ナンバーは確認されていなかった。
13日には原文兵警視総監がマスコミを通じて「親に返してやってほしい」と異例の犯人への呼びかけを行ったが、反応は返ってこなかった。19日、公開捜査に踏み切ったものの1万件に及ぶ情報提供が寄せられ、却って有力情報の絞り込みや裏付け捜査に多大な時間を要することとなる。
25日、下谷北署捜査本部は「犯人の声」をラジオ、テレビを通じて全国に放送。この試みも本邦初とされ、人攫いをしたうえ金まで奪った凶悪犯の「声」は人々の大きな関心を集めた。公開から正午までに220件を超す情報が寄せられたという。
■影響
早期解決が叶わず公開捜査となったことで、生還を願う人々によって情報提供を求める街頭でのビラ配りなど吉展ちゃんを探す運動が全国に広まった。一方、各地で模倣した誘拐事件が頻発したこと等から警察のあり方、捜査手法や法律について再検討を望む世論が高まりを見せた。1963年5月には国会でも議論され、翌年刑法第225条の2として、身代金目的の略取・誘拐等「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。」の項目が追加された。
65年3月には、ボニージャックス、ザ・ピーナッツ、フランク永井らが所属会社の垣根を越え、事件を主題にした楽曲「かえしておくれ今すぐに」をリリースするなど、社会的影響は甚大だった。
当時は営利目的の誘拐に関する捜査のノウハウが確立されていなかった。録音機材や逆探知が導入できていなかったこと、報道協定による周知の遅れ、身代金のナンバーが控えられていなかったこと等、現代ではありえないような失態が頻発していた。
音声公開された4月25日、偶々ラジオで「犯人の声」を耳にした日本語学者の金田一春彦(当時東京外国語大学教授)がそのアクセントについて、「青」や「3番目」といった言葉のアクセント、鼻濁音の使い方などから宮城・福島・山形の「奥州南部」または茨城・栃木の出身者ではないかと何気なくつぶやいた。NHKとつながりのあった妻珠江さんがその旨をNHKに連絡してマスコミが嗅ぎつけ、翌日の朝日新聞にその推察が取り上げられた。会話内容や口調から「教養の低い人と見られる」が「高圧的な言葉遣いをしている」と指摘し、犯人像として「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官勤めをしていた人ではないか」と述べている。
またロシア文学、アイヌ学、言語学に詳しい東北大学鬼春人教授は、1963年5月11日に河北新報に「吉展ちゃん事件、犯人の声を追う―言語基層学的研究から―」を寄稿、翌64年7月には中央公論に「吉展ちゃん事件を推理する」と題した論考を展開し、録音テープに残された「犯人の声」を手掛かりに、声紋や方言などから出生地や育ちを科学的に分析し、科学捜査の手法としての声紋鑑定導入を後押しした。そのなかで福島・栃木・茨城の県境にルーツがあるとの見解を示している(1965年2月に弘文堂から『吉展ちゃん事件の犯人その科学的推理』として刊行)。また脅迫電話の主を「40~55歳くらい」と分析した。
事件当時、日本の犯罪捜査分野では声紋鑑定が導入されておらず、犯人の「声」を重視するまでに大きな後れを取った。捜査担当者は事件発生から2カ月半経った6月下旬になって科警研にテープを持ち込み、物理研究室技官鈴木隆雄氏が音声鑑定を担当することとなった。しかし音声の音響的特徴(フォルマント、ピッチ、波形)を抽出するソナグラフといった分析機器もなく、鑑定は東京外国語大学で音声学を専門とする秋山和儀教授に依頼された(科警研がソナグラフを導入し、音声鑑定の研究を開始したのは64年以降である)。
65年3月、警視庁は捜査本部を解散し、専従による特捜班を設置。暗礁に乗り上げた捜査状況を一新して見直す目論見から、昭和を代表する叩き上げの敏腕刑事として名高い平塚八兵衛氏も特捜班に名を連ねた。
■足の悪い男
小原保は福島県石川郡石川町の貧農に生まれ、11人きょうだいの10番目の子どもとして生まれた。小学4年生の頃、骨髄炎を悪化させて右足を悪くした。2度の手術と歩行訓練の甲斐あって杖なしで歩けるまでにはなったが、見た目にも湾曲して引きずるようになり、学業にも大きな後れをきたした。周囲からいじめを受け、劣等感や生活苦が発育を歪ませたのか、小学生にして盗癖が身についてしまう。
親は脚が不自由な保に手に職を付けさせようと、14歳で時計職人の許に弟子入りさせた。しかし職人の一家が疫痢にかかったため実家に戻る羽目となる。仙台の障害者職業訓練所で改めて時計修理工の課程を修了し、市内の時計店で勤めを始めたが、今度は自らが肋膜炎を患ったため再び帰省を余儀なくされた。20歳のときデパートの時計部の職にありつき2年程勤めたが、同僚女性に脚のことをからかわれて逆上し離職してしまう。
就職と失業を繰り返す流浪を続けて借金はかさみ、窃盗や横領の前科を重ねるようになった。その後、東京へと流れ着き、荒川区で小料理屋の女将と懇ろとなり同棲生活を送った。女性は10才ほど年の離れた身寄りのない元芸者だった。行き場のない足の悪い男が不憫に思われたのかもしれない。
誘拐事件発生後の1963年8月、小原は賽銭泥棒で懲役1年6か月の執行猶予付き判決を受け、同棲相手と別れた後、12月に工事現場から盗んだカメラを質入れしたことが発覚して再び逮捕。翌64年4月に懲役2年が確定し、前橋刑務所に服役した。
誘拐事件当時、20万円程の借金があったことや脅迫電話の声質と似ていたこと等から小原は捜査リストに挙がっていた。当初の通報をしたのは4月25日に放送で「犯人の声」を聞いた小原の弟からだった。
しかし小原本人は取り調べに対して、事件発生当時の3月27日から4月3日にかけて福島県へ金策のために出向いていたと供述し、郷里でもそれらしい目撃証言が複数あったことからアリバイとして認められた。
小原は女に出処不明の金を預けていたが身代金の金額とは合わず、嘘発見器の判定はシロ、また不自由な脚で速やかに逃走できたのかもあやしく、脅迫電話の「声」が40~55歳代と推定された年齢に一致しないこと等から一度はシロと判断された。
だが先述の秋山鑑定では従来とは異なる「30歳前後」と推定され、事件直後の5月に文化放送記者伊藤登によるインタビュー取材で得られていた小原の録音テープと照合した結果、「よく似ている」と指摘された。
■アリバイ崩し
特捜班は改めて元時計修理工小原保を取り調べるため東京拘置所に移管させた。
小原は元同棲相手の女性に20万円を渡しており、その出処について「時計の密輸」を持ちかけてきたブローカーから横領した金だと供述した。しかし実弟から(小原が女性に金を渡した後の時期に)30万円近くの大金を所持しているのを見たとの情報が入っており、裏付け捜査の結果、身代金を奪われた7日以降の一週間で小原は計42万円近くの支出が確認される。
また確かに足に障害は残っているものの、堀を飛び越えるなどある程度は俊敏な挙動が可能だったとする情報も得られ、逃げ切ることは可能だったとみなされた。
しかし小原は横領元のブローカーの素性については黙秘しており、4月に得た大金と誘拐事件との関連を否認したまま勾留期限を迎え、身柄は前橋へと戻された。
事件当時福島にいたとするアリバイについて、事件当日となる3月31日の目撃証言をしていたのは雑貨商の老婆だった。老婆が30日に親戚男性から「藁ボッチ(作物や樹木の防寒に被せる藁)で野宿していた男を追い払った」と聞かされており、「その翌日」に足の不自由な男が橋を渡る姿を目撃していたため、これが小原であろうとされた。だが裏付けを進めていくと、親戚男性は男を追い払った後、駐在に不審者として報告し、その日の夕方に藁ボッチを片付けていた。改めて駐在の記録を遡ってみると通報は29日のことと判明する。これにより老婆が足の不自由な男を目撃したのは「その翌日」の30日だったと確認された。
脅迫電話のあった「4月2日」の目撃証言は、前述の親戚男性の母親で「孫の通院」の際に小原を見掛けたというものであった。しかし改めて確認してみると、孫には3月28日と4月2日の受診履歴があった。目撃したときの通院理由は「草餅の食べ過ぎ」による腹痛で、よくよく確認してみれば餅は旧暦の「上巳の節供」に供されたものと判明する。その年の上巳の節供は3月27日に当たり、病院で目撃したのは4月2日の受診日ではなく「3月28日」の出来事だったのである。
また29日の行動について、小原は実家へ赴いたが長らく会っていない気まずさから対面が憚られ、土蔵の落とし鍵を開けて忍び込み、掛けてあったコメの凍み餅(しみもち、東北や信州に伝わる保存食。紐で固定した餅を水に浸し、軒先などに吊るして干す。水で戻して調理する)を食べて一夜を明かしたと供述していた。しかし土蔵は改修されてかつての落とし鍵ではなく南京錠に換えられており、その年は不作によりコメの凍み餅をつくっていなかった。小原のアリバイ供述は虚偽と判明したのである。
1965年7月3日、最終手段としてFBIへの声紋鑑定を依頼するため、音声採取の目的で捜査班は小原を取調室に呼び出した。具体的な取調べを進めることは許可されておらず、雑談だけと指示されていた。しかし平塚らは福島での裏付け捜査によりアリバイが崩れていると小原に告げて、揺さぶりをかける。小原はそれにも動じない。
話しを変えざるを得なかった平塚刑事が雑談をする中で、不意に火事の話題となった。小原は「山手線か何かの電車から日暮里町の大火災を目撃した」と口にしたのである。
日暮里大火は4月2日14時56分頃、寝具製造会社で発生した火災が折からの強風によって煽られ、周辺倉庫や1000トン以上の特殊可燃物が集積されたゴム工場に飛び火し、日中で避難がしやすかったことから死者こそなかったものの7時間にわたって燃え続け、36棟、5098平米を焼失した大災害である。
「福島にいたやつがどうして日暮里の火事が見えるんだ」
大火は最初の脅迫電話と同日に起きており、「4月3日まで福島にいた」とする自らの供述と矛盾することになる。墓穴を掘った小原は追い詰められ、4月に得た大金が身代金だったことを認める供述へと転んでいった。
7月4日、身柄を警視庁に移され、誘拐・恐喝の容疑で逮捕。全面自供をはじめ、5日未明、供述通り、荒川区南千住の円通寺墓地から男児の遺体が発見された。「何でもいいから生きていてほしかった」と泣き伏す母豊子さんの姿が伝えられ、国民は哀悼に暮れた。
都監察医だった上野正彦氏は、その口元に2年で発芽するネズミモチが生え出ているのを見つけ、土中に2年間もの長きにわたって埋められていた事実を改めて感じ入り冥福を祈ったと語っている。その後、境内には被害者供養のため「よしのぶ地蔵」が建立された。
■結末
小原は営利誘拐、恐喝に加え、殺人、死体遺棄で起訴され、1966年3月17日に東京地裁で死刑判決を受けた。弁護側は、小原は失踪を報じた翌日の新聞で吉展ちゃんだと知り、身代金の要求を思いついたくらいで、誘拐に計画性はなかったとして控訴。同年9月、東京高裁は控訴棄却。67年10月、最高裁は上告棄却を決定し、死刑が確定する。
67年春、小原は上告審の担当弁護人を解任し、急遽別の国選弁護人が求められていた。受任した白石正明弁護士によれば、金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だったという。福島県の会津で疎開した経験や当時よく山登りをしていた話をすると、男は心を開いたようだったと語る。弁護士3年目の若手で、被告人と比較的年が近かったことも影響していたのかもしれない。
そして一審、二審で認めていた殺害に関する自白について、「殺害するため墓地へ連れて行き、首を蛇側のバンドで占めたうえ、両手でもう一度絞めて窒息死させた」というのは事実ではなく、「誘拐後に墓地で休んでいたらアベックがやってきたため、男児に騒がれては困ると手で口を塞いでいたところ、気付いたら亡くなっていた」と話し、殺意を否定したという。
事実であれば、殺人ではなく、量刑に死刑のない傷害致死罪にあたる。
また「足に障害があっても俊敏に動けた」とする逃走についても否定し、盗んだ「自転車」で素早く持ち去ったと弁護士に明かした。
村越様、ゆるしてください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。
…保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。…保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。
わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。おまえはそれを考えたことはなかったのか。
保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。
保の母トヨによる手記である。どれほど鬼畜の所業を犯した罪人であれ、母親は深い愛をもって育て、離れていても子の罪を我がことと同じように責任を受け入れる心づもりが感じられる。母の言葉で小原の罪が洗われるわけではないが、胸が締め付けられる。親の愛情の欠乏やひどくすれば虐待を受けて精魂歪む凶悪犯ならいざ知らず、なぜこの母にして小原のような冷血漢が育ってしまったのかと彼女の不幸に同情したくなる。
死刑確定後、教誨師は小原の心の支えに短歌を勧め、福島誠一名義で投稿活動に励んだ。
1971年12月22日、前日にその執行を知らされた死刑囚は辞世の句を編んだ。
明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る