ドイツで広く知られているKatzenkönigfall(猫の王事件)について。いわゆるマインド・コントロール、小規模なカルト的洗脳によって引き起こされた特異な事件である。
花屋を殺しにきた警官
1986年7月30日午後10時半頃、ドイツ北西部ノルトライン=ヴェストファーレン州ボーフムにあるアンネマリー・Nの部屋のドアベルが鳴らされた。
「どなたですか」
警官のマイケル・Rは名前を名乗り、「花が欲しいんです、贈り物にしたいので、赤いバラか何かを」と所望した。アンネマリーはアパートの階下で花屋を営んでおり、夜分にもかかわらず男のぶしつけな要望に応えて店を開けた。
アンネマリー・Nがいくつかの花を見繕おうと屈みこむと、マイケル・Rは背後から彼女の右頸部に刃渡り20センチのナイフを突き立てた。男は倒れ込んだ女性を片手で押さえつけながらさらに11回刺した。騒がれまいとして喉元を狙っていたつもりだったが、外れて頬や首ばかりを傷つけていた。
近隣住民やアンネマリーの息子が騒ぎに気付いて駆けつけると、犯人はその場から逃走。アンネマリー・Nは電話口まで這いつくばって自力で警察に通報しようとしたが、そのまま意識を失った。警官が花屋に到着すると、血だまりに浮かぶ女性店主を発見した。隣には二本のバラがまるで十字架のように折り重なっていたという。
迅速な医療処置と傷が頸動脈を僅かに逸れていたことから彼女は一命をとりとめたが、身体的な後遺症と深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)を背負うこととなった。
翌朝、マイケル・Rは逮捕され、花屋店主アンネマリー・Nの殺害未遂について素直に容疑を認めた。
拘留施設に入る際、容疑者は一度身ぐるみを剥がされることになる。係官が自殺器具になりうるとしてマイケルの「金属製の十字架のネックレス」を外そうとすると急に興奮して抵抗を示した。
犯行事実を認めながらも男は取り調べの段になるとその動機について8か月にわたって供述を拒み続けた。警官相手に無理強いもできないとして、捜査員たちはその間も外形的な裏付け捜査を続けた。
取調官はアンネマリー・Nが一命をとりとめたことを伝えていたが、なぜかマイケル・Rは「Nは死んだのか」と質問を繰り返した。その凶行は殺意に満ちたものではあったが、まるで男は彼女の死をおそれているかのように見えた、と後に取調官らはその印象を語っている。
殺人犯になるのが怖かったのか、それとも何か別の理由があったのか。
1987年3月、弁護人が事件の背景に関する奇妙な声明を発表し、マイケル・R本人の口から「アンネマリー・Nを殺害しなければならないと考えていた」と説明され、さらに彼が偽りを述べている訳ではないとして父親が証人となった。
異例の「公開自白」により裁判は延期とされ、刑事たちはマイケルの証言を確認するための再捜査を余儀なくされる。苛立ちを隠せない捜査員の中には、マイケル・Rと弁護人を精神病院に強制収容するべきではないかといった過剰な反応さえ起った。
しかし3月20日にピーター・P、バーバラ・Hという二人の新たな容疑者が逮捕されると、悪夢のようなマイケルの証言が次第に輪郭を帯び、真実として浮かび上がった。
出会いと別れ
1958年生まれのマイケル・Rは一般的な中流家庭で育ったが、幼少期から内向的で気弱な性格のため「いじめられっ子」として嘲笑や暴力の標的にされてきたとされる。
父親は職業軍人になることを望んでいたが、彼は警察官に就職した。しかしその気の弱さは成人後も影のように彼について回り、仕事でも苦労が続いた。日々の鬱憤を紛らわせようと酒やギャンブルに捌け口を求め、借金ばかりを重ねて同僚からも軽蔑されていたという。
1982年初頭、18歳のバーバラ・Hはアルコールに溺れる日々を送っていた。初めての大恋愛の相手ウド・Nと別れたショックに打ちのめされていたためである。彼女は16歳でウド・Nの子どもを身ごもったが、彼の希望で望まぬ中絶を経験せねばならなかった。この不可逆の経験は少女に取り返しのつかない精神的ダメージを与え、男女の関係は破綻を迎えた。
マイケル・Rは、自分よりも若い少女が同じように酒に溺れ、元カレに悪態をつき、人生に苦しむ姿に同情を寄せた。バーバラは男の好意に乗じて、その年の5月に同棲を開始する。当初は彼にも少なからぬ下心があったかも分からないが、彼女は肉体関係を拒絶していた。彼を相手として見られなかったのか、彼女の性的トラウマによるものかは分からない。
バーバラはアルコール依存と自己中心的な盲目性、元カレへの執着と神経症的幻影に苛まれて"Pseudologia phantastica(空想虚言癖)" に陥っていた。彼女の放浪的な奔放さに対して、安定志向のマイケル・Rでは恋愛のパートナーにはふさわしくなかった。だが不幸な少女をそのまま突き放すことができなかった男は、黙してその暗い物語の聞き役に徹した。
彼女は国際的な売春組織に目を付けられており、しばしば拉致されては拷問とレイプの餌食にされると話した。事実、着衣が乱れ、傷だらけで怯えた表情をして帰ってきたこともあった。バーバラによれば、「奴ら」は行政の内部にも太いパイプを持ち、警察組織の助けも期待できないのだという。
少女のセックス恐怖もそうしたことからきているのであろうとマイケル・Rは得心した。話を聞きながら容疑者リストの作成を手伝ったり、飲み仲間にも協力を頼んでバーバラがトラブルに巻き込まれないように交代で警護に当たったりするようになった。
だがあるとき夜勤を終えてマイケル・Rが帰宅してみると、護衛を頼んでいた男がバーバラとベッドを共にしていた。ここにいても安全ではないとして、マイケルは彼女に別居を薦めた。バーバラ・Hは部屋を出、やがて音信不通となった。彼らが再会を果たすのは4年後のことである。
マイケル・Rの元を去ったバーバラはやがて年長のピーター・Pと知り合った。
ピーター・Pは戦中生まれ、両親からも愛情を受けずに戦後の混乱期を苦難の中で育った。少年時代に悪さで捕まった際、出廷した父親に「一生刑務所で過ごすだろう」と予言され、出所後は絶縁状態となった。父親の予見はあながち間違いではなく、男はペテン師のようなその日暮らしを送り、生活保護で食いつないでいた。
彼は結婚して9人の子をもうけたが、アルコール依存症の妻とは別居し、彼についてきたのは15歳の息子ハンネスだけだった。ピーターはバーバラとの出会いを人生最大の喜びだと言い、彼女の性的関係の拒否も文句を言わずに受け入れた。
彼は宗教やオカルト分野に関心を持っており、人気科学雑誌『P.M.』の記事などからインスピレーションを受けて、彼女にアトランティス大陸沈没や超古代文明、輪廻転生といった話を聞かせ、歴史ファンタジー小説『魔女の擁護者』『アヴァロンの霧』などを読みながら議論を楽しんだ。バーバラは男が語り聞かせる超現実的な世界にのめり込むようになり、やがて自身の妄想的視野を拡張していった。
実際に古城や教会などを探訪して中世に思いを馳せたり、何世紀も前の歴史的人物について学び、感銘を受けることもあった。中世や超古代の人々との精神的結びつきを直感したバーバラは、自らの人生経験と歴史ファンタジーとを混同していった。最終的に、自身がアトランティスから続く「古き血の姉妹」の生まれ変わりであるとの妄想に囚われていくこととなる。
三角関係
マイケル・Rがバーバラ・Hと再会したのはそんな86年初頭のことだった。失踪直後は気掛かりであったが、何の音沙汰もないことから「奴ら」の問題は過ぎ去ったのであろうと自分に言い聞かせ、次第に彼女のことも忘れかけていた頃だった。
だが再会したバーバラによれば、彼の元を去ってから組織に拉致されて犬や虫を用いた執拗な拷問を受け、しばらくハンブルクで売春を強要されていたという。そんななか不幸中の幸いにしてドイツ部門を取り仕切る組織の幹部に目を掛けてもらい、命は取られずに済み、シンジケートを逃げ出したのだと語った。
しかしそれをよく思わない連中につきまとわれており、バーバラは目に見えない針のような射撃を受けることもしばしばあると身の危険を訴えた。組織は新聞広告を通じた暗号文によって暗殺指令を送信し合っているが、幹部が情報の一部を漏らしてくれるため九死に一生を得ているのだという。
マイケル・Rは言われるがまま新聞広告に目を通すと、確かに暗号化されたメッセージが大量にちりばめられているらしい。彼はその秘密のやりとりへの参加を試み、穏当に、彼女の解放を訴えようとした。まさか警官である自分まで殺しはしないだろうとどこかでたかを括っていた面もあったのかもしれない。
それから程なく、彼は車のホイールナットが緩んでいることに気が付き、ひょっとするとこれは「奴ら」からの警告ではないかと直感した。バーバラに話をすると、組織に内通が発覚してしまい、頼りの幹部が目の前で火あぶりにされたと打ち明けた。
二人で公園を歩いていてもバーバラはしばしば「奴ら」からの不可視な攻撃を受けて感覚異常を引き起こし、その場で卒倒したり、発話できなくなってジェスチャーで会話しなくてはならないことさえあった。彼女が急に「逃げて!」と叫び、不意に犬が異常を察知したかのように吠え立てることもあった。
マイケル・Rも次第に目に見えない敵の存在が肉薄して感じられ、自分たちのすぐそばまで死の危険が近づいているように思えた。自分が不用意に踏み込んだことで事態の悪化を招いたと良心の呵責に駆られ、彼は夜通し市街をパトロールするようになった。
昼の警官の職務は疎かとなり、上司から𠮟責が飛ぶが、マイケル・Rには返す言葉などない。もしかすると彼らもシンジケートとつながっているかもしれず、自分がバーバラを保護していると知れればますます危険に晒されるのではないかと恐怖に駆られていた。
バーバラはゾースト郡にある湖畔の町メーネセで暮らしており、マイケル・Rは彼女に売春稼業を辞めさせ、警護を兼ねて再び半同棲のような生活を始めた。ピーター・Hは隣のアパートに暮らしており、マイケル・Rに対しても友好的に接したが、奇妙な緊張を伴う特異な三角関係が生じた。
ピーター・Pはバーバラとともに転生について、魔女の焚刑について、アトランティスの謎について語り合い、マイケルにも意見を求め、ときに講義をして警官の無知や誤解を正そうとした。
「奴ら」との抗争に気が気でなかったマイケル・Rは、ピーターが敵ではないことが分かり、ひとまず安堵したが、当初はピーターとバーバラが共有する遠大なファンタジーを戯言と思って密かに聞き流していたという。
ピーター・Pとバーバラ・Hが共有する物語はおおよそ次のようなものだった。
バーバラはおよそ12000年前、アトランティスの支配者との結婚を拒否したことから、当時崇め恐れられた「闇の神」に生贄として捧げられた。その闇の神こそ、数千年前から現代までいわゆる「悪魔」と呼ばれてきたものの原型たる「Katzenkönig(猫の王)」だというのである。
アトランティスで生贄とされたバーバラは、猫の化け物の姿へと変貌していったが、寸前のところでピーター・Pとマイケル・Rの前世が彼女を窮地から救い出したため、現世まで人の姿のまま存在できているのだという。しかし猫の王の怒りは鎮まることを知らず、アトランティス大陸を滅亡にまで追いやった。
だが3人の魂は、その罪滅ぼしのために、猫の王の再来、すなわち人類存亡の危機が迫るたびに救済に遣わされることとなった。あるときはマリアとヨセフ、洗礼者ヨハネといったかたちで、また14世紀にはザイン=ヴィトゲンシュタイン家のサレンティン伯爵などのかたちで。
そして今このときもチェルノブイリ原子炉の事故が起こり、第三次世界大戦の危機が迫ってきているのだとピーターはマイケルに語った。猫の王の目的はただ一つ、全人類の滅亡である。そこで神は、バーバラ、ピーター、そしてマイケルの魂を再び地球に送り込み、ここに3人を運命的に出会わせたというのだ。
猫の王の接近を阻むためには、湖畔に並ぶ三人の子どもの墓で毎晩祈りを捧げなければならない。日中は四大天使とサレンティン伯爵の霊力が味方して、猫の王の浸食を防いでくれている。バーバラ・Hは彼らから指示を受け、連絡を取り合う媒介者の使命を帯びており、だからこそ猫の王の危険に晒されているのだという。
実際に3人が夜半に湖畔の墓所へ足を運ぶと、バーバラとピーターは不穏な存在を感知し、「蜘蛛の体をもつメデューサの声だ」とマイケルに伝えた。いつしかバーバラの体は猫の王に憑依され、墓に引きずり込まれそうになり、男たちはどうにか彼女を引っ張り出さねばならなかった。
彼女はその後も猫の王による憑依に苦しめられて度々豹変した。マイケルもバーバラの体から彼女と同じ顔をした霊体としか言いようがない何かが抜け出ていく幽体離脱を目の当たりにしていた。
ある晩、マイケルは疲労もあって、祈りの最中、眠りに落ちてしまった。目覚めると、バーバラは「おまえが監視を怠ったせいで大天使の手勢50名もの命が失われた」と叱責し、その報いを受けることを彼に宣告した。
「イオ・エッセラ・エト・コレーラ」
彼女の口から耳慣れない呪文が唱えられると、マイケルは自分の体が得体のしれない遠心力に巻き込まれているかのような奇妙な感覚に襲われた。皮膚がずたずたに剥がれ落ち、神経が引き裂かれるような気分だった。決死の抵抗として、彼は大天使が禁忌としていたタバコにあえて火を点け、バーバラの表情に目をやった。
バーバラの両目には「猫の目」が宿っており、指を交差させて不自然な動きを男に向けた。恐怖に慄いたマイケルは激しい動悸に襲われ、もはや絶命するのではないかと感じた。彼は自分の愚かさや不忠を詫び、命乞いをして神の大義に背かぬことを誓った。
真の使命を果たさんと心を入れ替えたマイケルは、ピーターやバーバラへの経済的協力も惜しまなくなった。自分には他でもない神の使命があると気づかされたことで、それまでの惨めな性格や周囲からの冷遇も神が課した「試練」であるかのように思われた。毎夜、湖畔でトランス状態のバーバラから託宣を受けると彼は実行に移し、あるときは危険を省みず着衣のまま夜の湖を泳いだことさえあった。
一方で、猫の王との戦局は決して一筋縄ではいかなかったという。バーバラの口から、天使たちやサレンティン伯爵がこれまでに受けたひどい仕打ちや、殺された協力者たちの話を聞かされた。マイケルが墓地に取り残されて寝ずの番をするようになると、地中へと引きずり込まれそうになったり、メデューサが接近してくる声を聞くこともあった。
バーバラは4月に元恋人ウド・Nと花屋を営むアンネマリー・Nの婚約を知ると塞がりかけていた心の古傷が再びうずき出し、搔きむしらずにはいられなくなった。バーバラは猫の王との戦いのなかでマイケル・Rにますます厳しいミッションを課すようになり、男の決死の努力にもかかわらず失敗が増えていった。
女媒介者は「お前の失態によって多くの犠牲を生んだ。人殺しだ」とマイケルを責め、課題は一層の苛烈さを帯びていくのだった。
1986年7月初旬の晩、バーバラは遂にアンネマリー・Nの殺人指令を仄めかした。ピーター・Pも彼女の元恋人に対する感情を知っており、マイケルを使って報復を果たす計画だと察しがついたにちがいない。それにもかかわらず彼は決して殺人計画を中止させようとはしなかった。
夜な夜な湖のほとりで繰り返される蛮行、マイケルは昼も夜も敵味方もなく「失敗」を罵られて心身の疲労がピークに達していた。猫の王の人類への脅威はもはやとめどなく押し寄せており、これまでの苦労に報いるためにも是が非でもミッションをクリアせねばならないと精神的に追い詰められていた。
7月23日の晩、バーバラは大天使ミカエルからの信託として、マイケルにアンネマリー暗殺指令を言い渡した。
裁判
ボーフム地方裁判所によれば、被告人となったピーター・P、バーバラ・H、マイケル・Rの3人は、神秘主義と誤った知識、誤った信念のもと「神経症的な関係」を築いていたと認定された。
バーバラ・Hは、謎の組織から性的搾取等を受けている被害者だとマイケル・Rに相談し、彼の好意に乗じて主従的な上下関係を築いた。ピーター・Pもマイケルのバーバラへの心酔ぶりや暗示性の強さを理解し、カルト神秘主義やファンタジーの文脈を駆使し、バーバラとの演技・トリック・心理操作によって「猫の王」の存在を彼に信じ込ませたのである。
しかしながらマイケルはアンネマリー・N殺害の指令を受けたとき、警官として、これまで与えられた数々のミッションとは趣意が全く異なることを、現実の犯罪に加担することの意味を認識していた。
彼はその葛藤をピーター・Pに伝え、「殺したらいけない」と口にした。しかしピーターは、バーバラの言葉は大天使ミカエルの、つまりは神の言葉に等しいのだと説明し、「やり遂げねばなりません」と答えた。
マイケル・Rは事件前に身辺整理や借金の返済まで済ませていた。逮捕されるのを見越した上で、加害者になることを、人類の救世主となることを選択してしまうのである。
彼には罪を判別する能力は残されていたが、もはや長きにわたるストレスと調教によって、道徳的判断を上回る怪物的な論理に行動を支配されていた。彼自身の思考では太刀打ちできない、盲目的な、超自然的な力によって導かれていったとしか言いようがない。
1987年12月、ボーフム地裁の陪審員たちは、直接の加害者となった被告Rのみならず、殺人教唆の立場にあったH、Pを有罪と評決した。
被告Rについて、犯行は回避可能ではあったものの思弁判断力の著しい減衰があった事実が認められ、懲役9年とされ、精神病院への収容が宣告された。
被告H、Pに対しては、Rを騙して金銭を貢がせるなど自己の利益に利用し、さらに殺害計画に加担させる卑劣さから、Rを大きく上回る終身刑という重罰が言い渡された。
通常の委託殺人にはない特例的なカルト的教唆に対して、適当な法概念がなく、その決定を正当化するために裁判所は慎重な洞察と妥当性の説明のために140ページに及ぶ判決文を必要とした。
三被告は評決に異議を唱え、連邦司法裁判所に上訴された。
犯責は殺人に限りなく近いものだが被害者が一命をとりとめたことなどもあり、1989年1月、裁判所は量刑に誤りを認め、被告人Hに懲役14年、Pに懲役12年、マイケル・Rには懲役8年とする判決が新たに下された。
法曹界では、直接の加害者よりも教唆(間接加害)犯がより長い判決を受けることになった特異な判例として議論の対象となっている。また量刑判断についてもバーバラ・Hにおける責任能力の程度(不当性の認識があったのか)について、あるいは恋愛感情と宗教的ヒエラルキーの入り組んだ三者の力関係などに関しても議論の余地がないとは言えないだろう。
戦士症候群
余談ではあるが、1980年代半ばの日本でもファンタジーとソウルメイトが混同される現象、その流行を背景とした事件が起きている。
当時は翻訳小説やマンガを介して日本でも時空を超えた歴史ファンタジーや異世界転生により救世主となる物語が若い世代を中心に人気を博していた。また70年代の意識変革による科学との調和を目指したニュー・エイジ運動、超常現象や超能力、UFO、UMAといったオカルトブームの影響などを受けて、新聞、テレビ、雑誌等でも不可思議な話題は日常的に取り上げられ、しばしば人々の関心を引いた。
個人メディアが乏しかった当時、若者たちは雑誌の「読者投稿欄」で見知らぬ同好の士との交流機会を求めた。とりわけ少女らの間では「転生前のつながり」を求めて文通相手を探すことが流行し、物珍しさから「戦士症候群」と呼ばれた。
雑誌によっては「〇〇、■■、△△の名に心当たりのある方、ESP戦士の方はお手紙ください」「自分は▲の血を継ぐ▲▲。志同じくする光の戦士、▲の継承者は最終戦争について情報交換しましょう」といったジョークなのか本心なのか、冷めた目で見るとどうかしているようにさえ思える投稿で溢れていた。
中には少女との文通や接触を求めて、女子中高生などになりすます男性読者もあった。雑誌『ムー』では戦士症候群の大流行によって読者ページが機能不全に陥った状況を鑑み、88年6月から戦士・前世の仲間探し投稿の不掲載を決定するほどだった。
1989年8月16日、徳島県徳島市で小中学校の女子生徒3人が解熱剤を大量に飲んで路上で倒れ、自殺未遂として救急搬送される事件が起きた。だが彼女たちは本当に自殺しようとして失敗した訳ではなく、発見前からすでに自分たちで病院へ通報しており、いわば筋書き通りの「計画的・未遂事件」「自殺ごっこ」であった。
自分たちは「前世は美しいお姫様のエリナやミルシャー」だったとして、「前世を覗くために一度死んで、戻るつもりだった」と後に語った。事件の影響からか、当時人気を博していた転生SFマンガ『ぼくの地球を守って』第8巻では作者の日渡早紀から「頭の中だけで組み立てられているフィクションです」と注意喚起が付された。
多くの場合は当初からそうした物語設定を既存作品の二次創作やオリジナルのフィクションとして楽しむつもりでいる。しかしグループが形成されると各人に役割が生まれ、物語世界を共有する過程で熱狂が生じる。エスカレートすると周囲の人間(日常的に接する家族や同級生など)を寄せ付けない特殊で緊密なクローズド・サークルが築かれていく。過剰な同調や共感、ロールプレイによる興奮や陶酔、自己催眠状態によって集団ヒステリーを引き起こし、集団自殺(未遂)という破滅的な行動に走ったと考えられている。
また三人という最小の集団関係の中でオカルト的発想に起因して殺害・死体損壊に至った事件として、1987年に発生した藤沢悪魔祓いバラバラ殺人がある。
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こちらは精神鑑定において、大きく見解の齟齬が生じ、加害者男性が懲役14年、加害者女性が懲役13年の判決を受けた。神秘主義的傾向を性格的なものと見るか、精神障害の一部として扱うか、各人が等しく同じ心理状態に置かれることはなく量刑判断が難しい点は洋の東西を問わない。
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