いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

イエスの方舟事件

 

婦人公論』昭和55年1月号に立川市に住む主婦の手記が発表されて物議を醸した。「千石イエスよ、わが娘を返せ」と題されたもので、新興宗教に娘を奪われて帰ってこないという母親の悲痛な叫びだった。

ほどなくして産経新聞がその母親を取材し、あらためて話を聞いた。

イエスの方舟」なる集団が聖書研究を口実に人々を誘い込み、囚われているのは10人以上、その多くが20~30歳代の若い女性たちだという。主宰者は千石と呼ばれる中年男で、元々は空き地にバラックやテントを張って寝泊まりしながら、布教のような活動を行っていた。女性たちはいつしか元の生活をおざなりにして活動を共にするようになった。だが家族らが妻や娘の奪還を訴えるようになると、集団は忽然と雲隠れしてしまい、以来「2年間、音信不通でどこにいるかも分からない」、「まるで人攫いだ」と嘆いた。

1980年2月から産経紙上で集団失跡をめぐる報道キャンペーンが張られると、マスコミ各社もこれに飛びつき、教祖による「洗脳」か「現代の神隠し」かと得体のしれない謎の集団のニュースが全国を駆け巡った。

しかも男性信者はごく少数で「会員は若い女性ばかり」とされ、メディアはいかがわしい被害の可能性を示唆した。方舟は全国を転々と移動しているようだが、はたして彼らがどこを目指し、何をしようとしているのか、その実態はまるでつかめなかった。

 

1978年にはジム・ジョーンズのカルト教団人民寺院」が南米ガイアナで918人もの信者を道連れにした集団自殺がセンセーショナルに報じられたことも人々の不安を掻き立てた。

音信不通となれば家族が心配を募らせるのは当たり前だが、千石の言動如何によって反社会行動やそうした破滅行為に向かう狂信的集団なのではないかとの危惧もあった。

2月21日、民社党衆議院議員神田厚は国会で「若い女性を誘拐し、集団で消えている。法治国家として恥ずべき問題」と対策を求め、当時の国家公安委員長後藤田正晴は「もし法に触れる事実があれば、すぐに刑事事件として追及する」と回答し、マスコミも事態の進展に注視した。

 

マスコミで大きく取り上げられるようになると入信女性たちから各社に手紙が届き、報道内容の訂正を求めたり、詮索をやめるようにとの申し入れがあった。しかし大半の雑誌社などでは、事態の鎮静化を求める千石による入れ知恵であろうとまともに取り合わなかった。

そんななか当時『サンデー毎日』編集長だった鳥居守幸は、受け取った手紙から「行間に漂っている一途さ・真面目さ」を感じたという。ひょっとするとマスコミが思い描いてきた「狂信的カルト宗教」「いかがわしいハーレム集団」などではないのではないか。手紙にある通り、家に帰りづらい人たちによる聖書の教えを実践して心の平穏を得ようとしているだけかもしれないと想像すると寒気が走った。

そもそも私たちは「幸せとは何か」について真剣に追及し実践しているグループであります。ですから、いかなる意味においても不幸の最大のものである自殺を願うなどという愚かな思考は絶対に生じません。

たしかに彼女たちが以前の暮らしの中で何を思い、どうして聖書を必要とし、研究活動に身を投じるようになったのかはマスコミはおろか家族さえも知りえなかった。若い女性というだけで騙されて誘拐されたこどものように扱ってきたが、彼女たちの意思を慮る必要はなかっただろうか。

 

すでに世間の人々は、その怪しげな集団の内部で何が起きているのか、聖書研究の裏に隠された「真の目論見」は何なのかを知りたがっていた。だが鳥居は意を決して手紙の一部内容を公開し、自殺集団や性的逸脱、カルト行為の実態はないという彼らの主張をそのまま記事にした。

すると信者側から記事に対する応答があり、6月17日、イエスの方舟信者が福岡から上京して密着取材に応じることとなった。信者の大半は見るも華やかな若い女性や普通の主婦たちだった。

羽田に到着した信者たち

サンデー毎日は集団を熱海にある大口製本の寮に匿い、独占取材を敢行した。包み隠さず報じられれば、それで社会も納得してくれるようになると彼らは期待していた。

誘拐ではなく女性たちが自発的に集まって共同生活を送っていること、千石は信者たちから「おっちゃん」と呼ばれて慕われており「カルト教団の教祖さま」とは全く異なること、聖書研究と生活実践の集団であり、経済的利益を追求する活動ではないこと等を伝えた。

このスクープにマスコミ他社は一斉に反発し、「そらぞらしい弁解」だとする家族の声を伝え、イエスの方舟や彼らに迎合的に報じた毎日新聞社への糾弾を過熱させた。

困惑した千石は、記事で社会からの理解を得られないのならば、公の場に出て説明するよりほかない、悪事をする気はないが逃亡者のようにして活動を続けてもみんなのためによくないと考えるようになっていた。

しかし何人もの女性が捜索願を出されており、千石が公の場に出れば警察に逮捕される可能性が高かった。厳しい調べに堪え切れず持病の心臓病が悪化して命を縮めることになるのではないか、と女性たちは危惧した。

「悪いことをしている訳じゃないのになぜ信仰を捨てなければならないの」

「好きでこうして生きているのにどうして諦めなければいけないの」

「おっちゃんがもう辞めにするというのなら、私はこれ以上生きていけない」

それは教祖に対する信者の思いというよりも、親の身の安全を心配する子どもたちのような、忌憚なくも愛情にもとづく理路整然とした意見だった。

彼女たちは暴力夫から逃げて家を飛び出した妻であり、親の言う「幸せ」を強制させられる人生に絶望する娘たちであった。いわば「イエスの方舟」は自分たちの声を聞き入れ、絶望の淵から救い出し、それまでとは別な生き方を示して「自由」へと導いてくれる、一種の「駆け込み寺」になっていたのである。

 

7月3日、千石イエスら教団関係者5名に対し、名誉棄損と暴力容疑で逮捕状が出された。

千石は、遂にそのときがきたと思った。もはや彼女たちが何を言おうと、思いとどめようとしても表に立って彼女たちを守らなくてはならない。

しかし長らくの旅路のつかれ、連日続いていた議論と極度の緊張状態が祟ったのか、同日午後、狭心症の発作によって千石は倒れた。病院に緊急入院することとなり、ついにマスコミのカメラの前に姿を現した。

やつれた顔で担架に乗せられ、目をつぶったまま動かない千石は世間を騒然とさせた悪しきカルト教祖というより、どう見ても死にかけの初老の男という様相であった。当時57歳だった。

信者たちはマスコミの前に姿を現した

急ごしらえで会見の場が設けられ、女性たちは連座して方舟の真実を語ろうとした。

記者たちは教祖との肉体関係を追及したが、彼女たちは毅然とした態度でそれを否定した。女性たちは自分たちの意思で入信し、集団生活を送ってきたと釈明し、いわれのないバッシングに反論した。

「謎の集団」はハーレム教団でも邪教でもないことが開陳され、捜索願の出ていた女性たちは無事に家族のもとへと返された。

小康状態を取り戻した千石も7月30日に退院し、記者から女性たちについてメッセージを求められると憎まれ口をたたくこともなく「幸せに暮らしてほしいと思います」と素直に答えた。任意出頭して取り調べの中で容疑事実はなく、集団の活動にも大きな違法行為はなかったとみなされ、不起訴処分となった。

「ハーレム教団」の幻想から抜けきれない人々は、なぜこんな風体のあがらない男に女性たちが長らく付き従おうと思ったのか不思議でならなかった。そして肩透かしを食らう格好となった野次馬たちは急速に関心を失い、散々騒ぎ立てて「毎日」の記事を非難していたマスコミ各社もだんまりとなった。

退院直後、囲み取材に追われる千石

千石イエスこと、千石剛賢(たけよし)は1923年(大正12年)に兵庫県加西の富裕農家に生まれる。1943年(昭和13年)に20歳で海軍に入隊。終戦後は刃物工場、テキヤ、食堂など職を転々とした。

自身は、若い頃から気が短く、人と喧嘩してばかりで、いずれ悪さを積み重ねて死刑になるんじゃないかとさえ思い、そんな性格に怯えていたと語る。

将来に漠然とした不安を抱える中、1952年に大阪で聖書研究会に参加するようになる。1960年に西村幸男、玉置啓太郎ら仲間たち10人と東京都国分寺市に移って「極東キリスト集会」を立ち上げ、伝道とバラックでの共同生活を開始する。

1975年に「イエスの方舟」へと改称し、国分寺市恋ヶ窪の空き地にテントを張って集会を開いていると、次第に家庭や職場に居場所がないと感じる人たちが集まるようになった。しかし中には家出同然で入信した者もおり、一部の家族から強い反発を受けるようになったため、方舟は「漂流」を余儀なくされるようになった。

1978年頃からは千石の体調不良もあり、満足な布教活動は行われなかった。彼の教えや人柄に共感した女性22人、男性4人が聖書研究と共同生活を続けながら、全国を転々と移動する。各地で刃物研ぎや訪問販売などで家々を回りながら生活資金をつくり、勉強会への参加を細々と呼び掛けていたという。信者らは対外的に千石のことを責任者と呼んでいた。

家父長制から大きく逸脱した神を頂点とする原始共同体は、当時の社会には受け入れられるものではなく、まるで追跡を避けているかのように見えた彼らの移動生活も結果的に疑惑を加速させる要因となった。

ABC『驚きももの木20世紀』より

1970年代後半といえば教育分野では行き過ぎた管理教育の反動として、落ちこぼれや非行少年の増加、校内暴力の嵐が吹き荒れ、教職者の権威失墜が生じていた時期である。

家庭でも核家族化と長時間労働により父権は揺らぎ、少年による家庭内暴力事件(開成高生殺人、金属バット事件など)が大きな話題となっていた。既存の家族概念が軋み始めていた時期とも捉えられ、体力に劣る女性たちには暴力的発散も難しかった。彼女たちは慰め合い、励まし合う平和的解決を求め、居場所を求めていた。

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文化人類学山口昌男は、イエスの方舟騒動について多くのマスコミ報道は「聖なる怪物」型神話に則っており、「奇異なるものを見て、自らの存在感を内から外から脅かす力が何であるかを知り、あわよくば、この怪物が退治されるのを見ることによって安堵の胸を撫で下ろしたいという見世物に対する読者の期待を満たした」と総評した。

一方、のちに一連のオウム事件の発生を受けて、マスコミは「イエスの方舟」での猛バッシングによる失態から、カルト宗教に関する報道に及び腰になったとの見方もあり、オウムの伸長を防げなかった遠因のひとつにも挙げられる。

だが在家信者死亡事件や脱会信者殺人事件が起きていた89年の時点で、これもサンデー毎日が「オウム真理教の狂気」なる告発連載を開始している。ジャーナリズムの衰退もあるが、奇妙な選挙活動やバラエティ番組への出演など「面白がる」ばかりに興味関心が偏り、教団の暗部に目を向けてこなかった責任は国民の側にもないとは言えないのではないか。

 

漂流騒動を経て、集団は一時解散したが、家族との折り合いがつかずに共同生活に参加した彼女たちが元の暮らしを望んでいないことは明白だった。彼女たちは親や夫を説得し、再び千石のもとに戻っていった。聖書からの学び、千石や仲間たちとのふれあい、ハードな漂流生活によって鍛えられ、自信を得た彼女たち自身にも以前とは比べ物にならない克己心と自立心が芽生えていたのかもしれない。

全員ですぐに始められる仕事をと考え、中洲にショーパブ「シオンの娘」を開き、舞台で歌舞や小芝居を披露した。はじめは冷やかしが大半であったろうが話題性で客は集まった。やがて彼女たちの人生経験や聖書の学びを基にした人生相談が人気を博し、そのひたむきな前向きさを目当てに通う常連客も増えていった。

千石も持病を抱えて再び漂流生活をする訳にはいかないと考え、福岡県古賀市に錨を下ろすことに決め、1993年、元大工の男性信徒とともに住居兼公会堂を建設した。家族と袂を分かった信徒もいたことだろうが、中にはその「新しい生き方」を理解してメンバー達の分まで食べ物などを仕送りしてくれる家族もあるという。

2001年12月、千石剛賢は78歳でその生涯を閉じた。しかしメンバー達は解散することなく妻千石マサ子を中心として日々の学びを続ける道を選んだ。彼女たちは千石の崇拝者ではなく、主の民・シオンの娘なのである。

『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』より

中洲の歓楽街にしっかりと根を張った「シオンの娘」は、入居ビルの老朽化に伴い、2019年末に38年の歴史に幕を閉じた。

東区香椎でカラオケ店として2年半の営業を経て、2023年5月から拠点である古賀市で手作り料理&ショーの店として再開した。

https://www.facebook.com/sionnomusume/?locale=ja_JP

 

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末井昭「〈性欲〉について、イエスの方舟・千石剛賢さんに尋ねてみた」 連載:100歳まで生きてどうするんですか?(末井昭)|連載|婦人公論.jp