いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

松岡伸矢さん行方不明事件について

1989(平成元)年、徳島県で発生した松岡伸矢さん(当時4歳)の行方不明事件について記す。目を離した僅か数十秒の間に忽然と姿を消した「平成の神隠し」とも呼ばれる。

2019年現在も発見には至っておらず、特定失踪者問題調査会のリスト「拉致の可能性を排除できない失踪者」にも含まれている。

www.police.pref.tokushima.jp

情報をご存知の方は

徳島県警察本部 警備部公安課 088-622-3101(公安課担当係) 又は

徳島県美馬警察署 0883-52-0110

 

 

■概要

3月5日(日)、茨城県牛久市で暮らす松岡さん一家の許に、徳島で離れて暮らす伸矢さんの祖母が急逝したとの訃報が届く。一家5人は急遽徳島へと赴き、翌6日、小松島市で営まれた葬儀に参列した。

その後、小松島市から西へ約60キロ、車で1時間強の美馬郡貞光町(現つるぎ町)平石の山間にある親戚宅で一夜を過ごした。

 

3月7日(火)朝8時過ぎ頃、父・正伸さんは子どもたちを連れて散策に出た。朝食ができるまでの間、普段見ているテレビ番組が放映しておらず子どもたちが手持ち無沙汰にしていたので退屈しのぎに出かけたのだという。まだ幼い二男を胸に抱えて、伸矢くんと長女、親戚の子(伸矢くんたちの従姉妹)と一緒に家の近くを10分ばかり歩いた。

ほどなく親戚宅まで戻ってくると、伸矢くんは「まだ散歩をしたい」とせがむ様子だった。正伸さんはそのまま女の子たちと一度家の中に入り、抱えていた二男を居間にいた妻に託した。すぐに玄関先へと戻ったが、そこにいたはずの伸矢くんの姿はなかった。ちょっと目を離した隙に、少年は忽然といなくなったのである。

体感としては僅か20秒、その後の検証でも40秒ほどの極く短時間であった。

 

散策した道を戻って探すも見当たらなかったことから一家は騒然となり、親戚や地元消防団らと手分けして近隣一帯を捜索するも見つけることができず、10時頃に警察へ通報した。

上の地図でも分かる通り、現場となった平石地区は農家が僅かに点在するだけで、一帯はほとんどが山林で占められている。

JR貞光駅周辺には住宅街もあるが、親戚宅のある山間部は通り抜けができないため車通りはほとんどない地域である。その時間に現場から100メートルほど離れた畑で農作業中の住民もいたが通行人や車の出入りには気付かなかったという。

 

貞光警察署員10数名が集められ、機動隊員、消防団員、住民らも併せて100名体制、翌8日には200人体制で捜索が行われた。見落としのないよう隊列を組んでの「山狩り」が行われたが遺留品すら発見することができなかった。警察犬21頭も動員されたものの、晩に降った雪の影響もあってか、車の通れない林の中で匂いを見失った。

貞光署は身代金誘拐の可能性も考慮し、親戚宅に録音機材を設置。予期せぬ事態に一家は同地での滞在を伸ばしたが、長男の消息は掴めないまま17日に茨城の自宅へと戻った。

その後も現地での捜索活動は続けられたが、有力な手掛かりを得ることなく3か月後に打ち切りとなった。

 

■特徴・状況など

松岡伸矢くんは行方不明当時4歳。身長約110センチ、体重約19キロ、やせ型の体格だった。

手は左利き。左眉の上中央付近に蜂に刺されてできた米粒大のうすい傷跡があった。

自宅の住所や電話番号も記憶しており、読み書きや計算もできる年の割にしっかりとした利発な子で、電車が好きだった。

半年ほど前にも同じ親戚宅に訪れたことがあり、そのときはドングリ拾いなどをして遊んだ。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220206051146j:plain

松岡さん一家は父正伸さん、母圭子さん、姉、伸矢さん、弟の5人家族。

正伸さんは香川県出身で、日本のソフトウェア企業に勤めた後、外資系コンピュータ関連企業に転職しマーケティング部門を担当した。以前は残業や休日出勤などでこどもたちと過ごす時間が取れなかったことも転職理由の一つだったという。

89年初頭に茨城県牛久市に新築一戸建てを購入して、新生活が始まったばかりだった。

 

祖母の死を「急逝」としたのは、訃報が伝えられるつい30分ほど前まで圭子さんと電話で話していたためである。「また会いたいね」などと話していたが、思いがけないかたちでの徳島行きとなった。

祖母の葬儀は徳島県小松島市で行われた。祖母は再婚しており圭子さんも義父方とは疎遠であったため、参列者は松岡さん一家とは縁遠い顔ぶればかりだったとされる。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220208023802p:plain

イメージ

親戚宅は標高200メートル前後の山裾にあり、町道の終点付近だったため外部からの出入りは極めて限られる。周辺で交通事故などの痕跡は見られないことからも、当初は「山での遭難」が強く疑われた。

建物は傾斜地のやや高台にあったため、舗装路とは別の近道として、道路から玄関までの急勾配に約10メートルの石段があった。そのため平地と違って道路から人が上がってくるにも時間を要する。

仮に父親が目を離した時間に数十秒程度の誤差があったとしても、こどもにとっては幅の広い急な石段で駆け下りるのは困難なことから、そう遠くへは行けないように思える。

 

 

■不審な電話

一家が親戚宅に留まり捜索を続けていた3月16日の夜、母親宛に不審な電話が入る。電話口の女性は「ナカハラマリコの母親」を名乗った。応対した正伸さんは「だれか分からないけど徳島弁だよ」と言って妻に替わった。

女性の話は、「S幼稚園」のクラスの父兄で見舞金を集めたのでどこにおくればよいか、(徳島から茨城へ)もう戻ってくるのか、という内容だった。S幼稚園は伸矢さんの姉が通う茨城の自宅近くに実在する幼稚園である。母親は、明日17日(金)に帰る旨を答えた。だが茨城に戻ってからは音沙汰もなく、数日経って幼稚園に確認してみると、見舞金を集めた事実はなく、ナカハラマリコという名前の生徒は存在しないことが分かった。

後に正伸さんが警察へ事情を話し、当時の録音テープの内容確認を求めたが、「何も入っていない」として確認を拒まれたという。食い下がってようやくテープを聞かせてもらうことはできたものの、電話を取り次ぐ正伸さんの声は残っていたものの女性とのやりとりの部分はなぜか収録されていなかった

 

この電話についてだけでも様々な疑問が浮かぶ。

第一に徳島の人間と思しき人物がなぜ茨城県の幼稚園のことまで知っていたのか。公開捜索は開始されておらず、茨城の知人が伸矢くんの行方不明を知らされていたのは極く少数と思われる。また茨城県の人間が徳島の親戚宅の電話番号を知っていた(調べてかけた)とはまず考えにくい。

町内放送を聞きつけた近くの住民であれば「茨城から来た男の子が行方不明になっていること」は知れたであろうし、捜索参加者であれば「姉がいること」を窺い知ったとも推測できるが、姉の幼稚園名やクラスまで伝えていたとも思えない。

徳島の近しい親戚や圭子さんの旧友ならば茨城での生活や幼稚園についても話を聞いていたかもしれないが、それとて人数は限られ、声色などからもすぐに目星がついたことであろう。あるいは先日の葬儀に参列した遠縁の親戚などであれば、行方不明のことや家庭の事情を耳にする機会はあったかもしれない。

知らない相手だったことから圭子さんが会話の流れで「S幼稚園の方ですか?」「○○組のですか?」といった問いかけをし、相手がそれに調子を合わせるかたちで返答していたことも考えられる。

録音が残されていなかった点についても、通常であれば「録音機材のトラブルや誤操作」とみるのが妥当なところか。たとえば電話に出た父親が録音ボタンを押し、失踪とは無関係な相手(妻の知人)だと早合点してしまい無意識に録音をオフにしていたり、電話を途中で代わった母親がすでに録音中と気付かず録音開始のつもりで誤ってオフに切り替えてしまった等といった可能性である。連日の捜索で家族は疲弊し、「まさか誘拐犯からの電話ではないか?」といった緊張が重なって無意識に誤操作が生じる可能性は高いように思う。

 

またご両親の作為をくさす意図なく、テレビ制作のやりくちを疑ってみれば、そもそも電話自体なかった、番組出演の際に話題性を加味するための「仕込み」エピソードということは考えられないだろうか。

今日でも広く知られる未解決事件には、印象的な電話や怪文書が多く存在する。

・鈴木俊之くん事件の「なーに、トシちゃん?」の怪電話

・ワラビ採り事件の「この男の人わるい人」のメモ

・安達俊之さんの「俊之つかまっているよ」の怪電話

西安義行さん事件の「明かりをつけましょぼんぼりに…」の怪電話

・南埜佐代子さん事件の「ああ、苦しい…悔しい…」の怪電話

加茂前ゆきちゃん事件の「ミユキサンカアイソウ」の怪文書

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

・増山ひとみさん事件の「お姉ちゃんだよ」の怪電話  などが知られている。

そうした全てがメディアによる「捏造」だとは思わないし、多くは第三者の悪戯(又は行き過ぎた善意)と考えられるが、犯人やその関係者が実際にアクセスしてきた可能性も完全にゼロとは言い切れない。こうした文書や音声として残されるメッセージから滲み出る得体の知れなさ、不穏さは、意味やその意図が不明瞭であるがゆえに却って人々の脳裏に刻み込まれる。

 

ナカハラマリコの母親を騙った電話の目的は何だったのか。会話は偽りであり、父親に伝えてもおかしくはない内容であったのに、なぜ父親ではなく母親と話そうとしたのか。疑問符は際限なく浮かぶが、通話内容からすると犯人や事件解決に結び付く線とはいえないだろう。

一家が徳島を離れたとて捜索が続くことは明白であり、この電話で何かの目的が達成されたようにも思われない。おそらくは母親に励ましの言葉でもかけるつもりで電話を掛けたが、父親の応対に慌ててしまい嘘を重ねた、といったところではないか。

 

■たくさんの“伸矢さん”

事件後、正伸さんは捜索活動に時間を当てるため会社勤めを辞めて自営業となり、以降50回以上ものテレビ出演等で情報提供を訴えた。

目撃者が警察への通報をためらうことを危惧してか、当時は警察不信もあったのか、自ら電話番号を公開して全国各地から情報を受け付けた。

なかには無関係な情報や嫌がらせの類もあったには違いない。しかし両親は一本一本の電話に真摯に応対し、それと予感させる情報が飛び込んで来れば現地へと駆けつけて詳しく話を聞いて回った。

テレビ番組で放映された情報提供の事例をいくつか紹介する。 

◆「山形県米沢市のデパートの前で、そっくりの男の子を見た」との情報提供から、現地でビラ配りを行ったところ、「この子なら上杉公園(宮城県仙台市)で見た」「売店にいた」という情報を新たに得たがそれ以上のことは分からなかった。

◆神奈川県の電車で見掛けて、心配になり声を掛けた。少年の「手首は傷だらけだった」。「おじさんと一緒に住んでいる。おじさんから嫌なことをされる」「普段はよく女の子の格好をさせられている」と不穏な暮らしぶりを語るため、連絡先を渡して別れた。(1998年4月17日放送)。この証言者は後述するYouTube番組にも情報を提供している。

◆「96年8月、山手線の車内で手に包帯を巻いた少年を見掛けた」「男の方が両脇に2人座られて、手の甲とかそういうところに傷がありまして……」(1998年9月11日放送)

◆「夫婦らしき男女に敬語に近い言葉で話して、本当の親子に見えなかった」「お遍路さんいう感じの白い服装」(1999年12月29日放送)

岡山県レンタルビデオ書店で「本を選んでいる伸矢さんらしき少年」の目撃談が寄せられ、現地に話を聞きに行っているVTRも放映された。「手首には多数の傷が見え、付き添いの男性は暴力団員風で見張っているようだった」と言い、不審に感じた店員が店長に報告してから様子を見に戻るとその姿はすでになかったという。

 

番組で取り上げられたものだけでも各地から様々なケースが寄せられており、いずれも切迫した少年の暮らしを想像させる内容である。

だがいずれも本人確認が為された上での情報ではなく、第三者の目から見て「親子には見えない」、「普通の生活をしている子どもではない」といった不安感が失踪した伸矢さんの「その後」を予感させ、松岡さんの元へと連絡したものが多いようだ。

多くの人は伸矢さんに生きていてほしい気持ちと、かわいそうな子どもを見つけて「もしかしたら…」と思うと放っておけない責任感からそうした情報提供を行っており、その中に伸矢さん本人の情報が含まれていた可能性もないとは言いきれない。

とはいえ寄せられた情報の全てに充分な追跡を費やせるものでもなく、できるかぎりのことを続けていく以外に道はない。

母圭子さんは「一日一日、どんな環境のなかでも生きるエネルギーをあげられるのはやっぱり母親の私しかいないのかなと思うので、どんなに自分が辛くても頑張って、あの子に力をあげ続けたい」と決意を語っている。その懸命でけなげな姿、人生を捧げる家族の愛情は全国の人々の胸を打ち、伸矢さんは今なお人々の心に刻まれている。

 

拉致・誘拐被害の中で、そうした親の懸命な捜索活動が本人の目に触れ、生還につながった事例として埼玉県朝霞市で起きた誘拐監禁事件がある。

少女は犯人からの精神的拘束を受けて長期の軟禁状態に身を置いていたが、自分の捜索を続けている両親の姿をインターネットで見つけて脱出を決意したとされる。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

北朝鮮による拉致説

事件から約1か月、徳島県内で「少年の神隠し」は大きく報道されていた。そんな89年の4月か5月の終わり頃、徳島県海部郡日和佐町(現海部郡美波町)の弁天浜で伸矢君によく似た子を抱いて海を眺める不審な男性がいたという目撃情報がある。

情報提供者は目撃当時、事件と係わりを持ちたくない思いから通報を躊躇したが、10年近く経って良心の呵責から連絡に至ったと語る。

浜へ釣りに訪れた際、子連れの男性を目にし、その子の顔が連日報道されていた伸矢さんにそっくりだったことから目を凝らすと、男性はその子を隠すように背を向けてしまったという。特定失踪者問題調査会によれば、日和佐は北朝鮮の船が来航する港の一つとされている。

 

また徳島県近郊での特定失踪者として2005年2月25日(第12次)に公開された戸島金芳(としまかねよし)さん(当時19歳)がいる。

戸島 金芳 | 特定失踪者問題調査会

金芳さんは1956(昭和31)年1月14日、暗くなってから「東京に住む弟に会いに行く」と言って美馬町の自宅から出かけたまま消息を絶った。出掛けに母親が小遣いを持たせていたが、翌日郵送で送り返されてきた。自宅に残された写真の裏には「さようなら 彼(か)の山 彼の川 そして彼の家」と書き置きのようなものがあった。

普段は農家の手伝いをしており、農閑期には山口県へ出稼ぎに出ていた。失踪の半年ほど前から、夜中に部屋から朝鮮語のラジオ放送が聞こえ、悩んでいる様子だったという。
どういった経緯で北朝鮮による拉致被害が疑われているのか(ラジオ?)、詳しい住所や目撃情報の有無などはweb上では確認できないが、「失踪現場」は貞光駅とされており、伸矢さんがいなくなった親戚宅の最寄り駅(約2キロ)で非常に近い。

 

筆者は拉致問題に疎く、一方で北朝鮮による拉致そのものは過去に存在した事実なのでその可能性を完全に否定するつもりはないが、いくつかの疑問が浮かぶ。

まず1989年当時、北朝鮮の船が日和佐や周辺地域に来航した記録はないこと。だがこれは密航の可能性を考えれば大きなネックとは言えない。過去に就航していれば接岸できる箇所など周辺の目星はつけられる。

では「4歳児」を拉致する目的についてはどうか。日本人拉致はそもそも対南(韓国)のテロ工作員養成のために行われた「訓練」のひとつと理解される。1987年11月に起きた大韓航空機爆破テロの実行犯・金賢姫らの日本語などの指導に当たった拉致被害者田口八重子さんとされる)もいたが、爆破テロ以降は西側諸国の強い警戒から「日本人を装った工作員」の密入国・テロ工作は行われなくなった、新たな日本人は必要なくなったと考えるのが筋であろう。

当時の情勢を少し確認しておくと、88年、韓国がソウルオリンピックを成功させロシアとの国交を回復し、南北の溝は一層広がっていた時期に当たる。対外的孤立と食糧難などに陥った北朝鮮は、90年に金丸信副総理の訪朝団、91年に日本からの留学生第一号となる李英和氏受け入れなど、急速に日本との接近を試みている。そうした南北関係・東西情勢の危ういバランス、国交正常化を謳った(植民地支配に対する「賠償金」の引き出しを狙ったとみられる)日本との外交関係をよそに、山で4歳の少年を攫うリスクを冒すとは俄かには考えづらい。

また91年の北朝鮮留学時、李英和氏が聞かされたいわゆる「拉致講義」でも金正日が立案・指揮した日本人拉致作戦は1976~87年で完了したとされ、それ以外の時期にはやっていないとされている。

たとえば伸矢さんが祖母の葬儀が行われた小松島市や、かつて朝鮮船の来航のあった日和佐町のような沿岸地域で迷子になっていたというならばいざ知らず、山間部の家の玄関先まで来て親がいつ戻るかも分からない一瞬の隙を突いて子どもを攫う工作員の姿を想像するのは些か難儀を極める。

工作員であれば作戦前にそれなりの人定を行うものと考えられ、急遽徳島を訪れることになった4歳の少年を狙う意図があるとは思えないのである。

 

■記憶をなくした青年

2018年1月31日にTBS系列で放映された『緊急!公開大捜索’18春 今夜あなたが解決する!記憶喪失・行方不明スペシャル』に出演した和田竜人さん(仮名)について、年齢や境遇などから「伸矢さんではないか」との声が寄せられて注目を集めた。

番組で、和田さんは「記憶を欠損した身元不明者」として出演し、約17年間「おじさん」によって軟禁状態で育てられたと述べた。

4歳頃に両親と思われる人たちと車で移動中に居眠りし、目覚めると「おじさん」のところにいたと説明。「おじさん」は当時50~60歳で大柄な体格だったと言い、家は2階建の一軒家。97年8月21日に「今日で5歳になった」と告げられた。付き添われて15歳頃に10回ほど歯医者に通院した以外、外出した記憶はないと話した。

TVを盗み見るなどして言葉を習得し、20歳頃に児童虐待などのニュースを見て自らの置かれている環境の異常さに気付き脱出を決意。2014年6月に「おじさん」の家から逃走し、愛知県弥富市のショッピングセンター内トイレで脱水症状で意識不明のところを保護された。

しかし過去の虐待に対する防衛本能によるものか、それまでの記憶のほとんどを失ってしまい、施設で保護されてから回復後は便利屋として働いていると紹介された。

 

番組内では三重県四日市市のコンビニで7~8年前にバイトしていたキタザワヒサシさんに似ているとする情報も寄せられていた。中学時代のキタザワヒサシさんの卒業アルバムが流出し、Twitter上では元同僚という人物も現れ、「あっ、これはキタザワですねwwww」とツイート。

ネット上ではいわゆる“特定班”が動き、2012年6月の朝日新聞「僕が支えなきゃ貯金53万円で2700票」なる見出し記事で登場した「三重県から武道館に来た会社員北沢尚さん(22)」ではないかと指摘される。同様にAKB48松井咲子“推し”としてワイドショー番組「ミヤネ屋」にも登場していたことが判明する。

4歳当時の伸矢くんの写真と和田竜人さんは、第三者の目から見れば「どことなく似ている」風貌で、過酷な日々を送ったことを考えれば多少雰囲気が変わっていてもおかしくはないようにも思われた。

だがキタザワさんの卒アルやミヤネ屋出演時の松井咲子“推し”は、だれがどう見ても和田竜人さんと「瓜二つ」であった。このことからネット上では番組側による「仕込み」「ヤラセ」が疑われ、話題となった。

「緊急!公開大捜索」放映の翌日、徳島県警が伸矢さんのご両親と男性のDNA鑑定を行う方針と報じられ注目が集まった。しかし翌日には「別の有力情報が入ったため」DNA採取を見送ったとされ、何やら雲行きが怪しくなる。だが却下する意味合いでの「見送り」ではなく、より本人の可能性の高い情報も寄せられたため、一時DNA鑑定は保留とされるかたちだった。だが結局は当初の予定通り、3日に夫婦の口内からDNA採取が行われた。

 

放映から一週間後の2月6日、正伸さんは自身のFacebook上でDNA鑑定の結果、和田竜人さんを名乗る男性との「親子関係は認められなかった」ことを報告した。鑑定前から親の直感としてこの結果を予想していたと語っている。男性の身元判明を願いつつ、思わぬかたちで伸矢さんへの注目が高まったことに驚きと感謝の意を表した。

 

 

尚、番組放映後に三重県四日市市の男性が「2014年に自宅からいなくなった息子ではないか」と名乗り出ており、DNA鑑定の結果、「親子として矛盾しない」ことが確認された。

親子は当時三重県川越町に住んでおり、男性の発見場所である愛知県弥富市とは木曽川を挟んで12キロしか離れていなかった。以前にも記憶を失って行方が分からなくなった時期があったという。

通常の行方不明者であれば本人確認がなされるものの、和田竜人ことキタザワさんは「本人」である記憶が欠損し、事実にない記憶が形成された解離性遁走だったことから特定が困難だったと考えられる。また愛知県一宮市心療内科院長が患者本人の同意を得たうえで、放映より2年前の「2016年4月17日」に番組で紹介された内容と全く同じ症例を紹介している。キタザワさんが以前に遁走した際の診療で得られた症例ではないかとされている。

 

■目撃者

恐怖体験談や未解決事件を扱うYouTubeチャンネル『ネオホラーラジオ』では、かつて神奈川県の電車内で伸矢さんによく似た少年を目撃した女性がTV等で伝えきれなかった情報を補足紹介している。

 

女性は事情により日本を離れることになったが相当に印象に残っており、少年を苦しい境遇から救うことができず心残りとなっていたことがよく伝わる。

たとえこのときの少年が伸矢くんでなかろうともどこかで生き抜いていることを願いたい。

 

■澁谷美樹さん事件

「ほんの僅か目を離したすきに」幼児の行方が分からなくなった事例として、宮城県川崎町で起きた澁谷美樹さん(当時3歳11か月)の事件がある。

1983(昭和53)年11月1日16時頃、祖父喜代治さんが美樹さんの通う町内の保育園へ車でお迎えに行った。両親は勤めに出ており、お迎えはおじいちゃんの日課だった。

長閑な田畑を臨む帰り道で知人の姿を見掛けた喜代治さんは車を停めて、美樹さんを助手席に残したまま25mほど離れた田んぼへと降りていった。農作業の打ち合わせのために知人と2、3分程のごく短時間会話をして、車に戻ってみると美樹さんの姿はなく、鞄と帽子だけが残されていた。助手席のドアが数十センチ開いていたことから、慌てて知人と周辺を探し回ったが見つけることができず、大河原署に届け出た。

 

行方不明当時は知人が脱穀機を稼働させており、周囲の音が聞き取りづらい状況だったとされ、祖父は助手席のドアが開く音などに気付いていなかった。地図でも分かるように見通しの利く一帯で、側に人家もあり、誤って水路にでも落ちなければ忽然と姿を消すとは考えにくい場所である。

近くで農作業をしていた女性は、美樹さんらしい女児が車の前に立って祖父たちの方を見つめる姿を目撃していた。11月の宮城県川崎町の日の入り時刻は「16時38分」頃で、辺りはまだ真っ暗ではないにせよ街灯もない道は薄暮にかかっていたと考えられる。

翌日、警察の調べにより祖父の車を停めていた近くで、5m程のスリップ痕、路上から美樹さんと同じO型の血痕が検出された。尚、当時はDNA型鑑定技術がなかったため、美樹さん本人の血痕とは同定されておらず、試料の保存が為されなかったのか、鑑定の上で不一致だったのか、その後も情報は出ていない。

血痕近く、祖父の車から約15m程の位置に「薄茶色(「黄土色」とも)の車」が停車しており、車のそばに30歳前後の男女の姿を見たという目撃証言もあった。薄茶色の車について、およそ400m先の路上で猛スピードで走り去っていくのを対向車が目撃していた。そうした状況から総じて大阪市住之江区で起きた田畑作之介さんのひき逃げ連れ去り事件(1978年)のごとく、車外に居た美樹さんが交通事故に遭い、事故の発覚逃れのために連れ去られたものと推察されていた。

また行方不明から2日後、自宅に無言電話、その後身代金を要求する電話もあったとされるが犯人によるものかは特定されていない。澁谷家に対する「私怨」についても聞き込みが行われたが、周辺地域では親戚縁者が多いため口の重い住人が多く当時の捜査は難航したとされる。

 

県内で約7万台もの同色系車両について洗い出しが行われ、その後、大河原町で飲食店を経営する男性(31)が何度も事情聴取を受けている。男性は美樹さんの父親と同級生で、事件のあった時刻に澁谷さん宅の近くにある酒屋へ仕入れに出ていたが、事件後に該当する薄茶色の車両の所在が分からなくなっていた。

しかし逮捕には至らず、その後の捜査資料の再検討などにより、道路の血痕は行方不明直後に付いたものではない可能性があること、路上のスリップ痕は以前からあったとの情報が複数得られたことなどから捜査方針の見直しが行われた。「ひき逃げ」説は減退したとみられ、「連れ去り誘拐」の可能性を視野に入れた捜索が続けられている。

祖父は孫娘との再会を待たずに逝去されたが、家族は事件から40年近く経った現在も当時の写真や服を大切に保存し、美樹さんの部屋をそのままにして帰りを待っている。

 

■所感

僅かな時間、ほんの少し目を離した隙にこどもがいなくなる事件はこわさ以上に悲しさが押し寄せる。近くで遺留品や遺体が出ないことなどから、「人攫い」が疑われるためである。「こども」を狙う誘拐犯にとって、幼児は容易に抱え上げることもでき、赤ん坊に比べて保護しやすく、移動に自立歩行させられる利便性もある。

不明現場が比較的山中であり、小さなこどもであるため、遭難や猛禽の類による急襲なども脳裏を過るが、数十年が経過して尚も遺留品ひとつ出てこないというのは第三者による作為がなければ不自然に思える。

 

誘拐について想像していくと、前述の通り、伸矢さんが家の前でひとりになったのは偶発的な出来事であり、犯人が散歩途中からずっと後を付けて隙を窺っていたとはやや考えにくい。

尾行できたとすれば犯人も徒歩ないしは自転車ということになり、極めて近距離で生活していた人間に限られるからだ。

また10m程の石段は犯人にとって非常に大きな心理的・物理的なハードルとなる。仮に攫われたとすれば、伸矢さんは石段を上がった玄関前ではなく、石段の下の道路にいたのではないか。そこに偶然にも「幼児を求める人物」が車で通りがかり、周囲に大人の目がないと見て瞬時に連れ去ったのであろうか。

 

上述の「たくさんの“伸矢さん”」「目撃者」の段で触れたように、行き過ぎたしつけなのか虐待なのかも判別しがたいような「家族とは思えない家族」も世の中には多くある。一方では、養子縁組や親の再婚などにより血縁関係のない家族や年の離れた親子も存在する。私たちは部外者には一目では窺い知れない様々な家族のかたちを大なり小なり抱えている。

たとえば独身男性がある日突然に子どもと生活を始めれば、人里離れた一軒家に一人暮らしででもなければ家族や近隣住民は大概すぐに異変に気付く。しかしながら現実には新潟女児監禁や綾瀬コンクリート詰め殺人のような、家庭内暴力や歪な家族関係から肉親ですら部屋に立ち入れない・告発できないケースも現実に存在する。社会の隙間、歪な家族にカモフラージュされて無戸籍児として生活していることは充分にあり得る。

 

だがそもそも車通りのない道で偶然にも「幼児を求める人物」が現れ、瞬時に連れ去りの犯行ができるものであろうか。老若男女、夫婦か独身かを問わず、こどもはほしいが授かれない境遇やどうしても男児がほしいと切望する人々は少なくない数存在する。

とはいえ朝8時過ぎの山裾で、偶然にも望みの子どもを見掛けたからといっていきなり行動に移せるようにも思えない。いかに人攫いと言えども、声を掛けて様子を窺ってから、という段階は踏むと思われ、「40秒で決行した」とはどうしても思えない。

仮に実行できたとするならば、場所柄、疑いの目は周辺住民に向くことになる。しかし人々の結びつきの強い農村集落で「みんなで必死に探していた」男児を密かに育てていくことなど到底不可能である。

 

何らかのかたちで生き延び、いつか戻ってきてくれることを願うのは当然だが、ひとつの仮説として「迷子・遭難」に立ち返らざるを得ない。先述のように幼児は概して「かくれんぼ」が得意であること。また2016年5月に北海道七飯町の林道で親が数分間置き去りにして行方が分からなくなった田野岡大和さん(当時7歳)のように約5キロの山道を歩いて自衛隊の宿舎にたどり着き、食料こそなかったが水道水と布団にありついたことで6日後に発見・救出された事例も存在する。

曲がりくねった山道や自然豊かなその土地は、郊外の平野にある住宅地に暮らす少年の冒険心を激しく揺さぶったには違いない。自発的に近くの農作業小屋や廃屋などにたどり着き、却って屋外よりも捜索の目が届きにくかった可能性はないだろうか。建物内の倒壊や物の転倒事故などによって身動きが取れなくなり衰弱。その後、管理者が発見するも行方不明から時間が経ってあまりに事態が大きくなっていたことから名乗り出ることができなくなったとも考えられる。

 

すでに行方が分からなくなってから30年以上が経過し、世の中も大きく変わった。美樹さんや伸矢さんがどんな境遇にあるのか、どんな思いでいるのかは想像もつかないが、ご家族と再会できる日がくることを心より願っています。