1991(平成3)年3月15日、三重県四日市市富田にて加茂前芳行さんの三女・加茂前ゆきちゃん(小学2年生,当時8歳)が失踪した行方不明事件。事件から3年後に届いた不気味な怪文書は人々の関心を集めるも、2006年に未解決のまま時効を迎えた。
未だ消息の分からない不明者の無事を願いつつ、以下では事件の概要、不審点をおさらいし、怪文書の解読等を行いたい。
捜査活動へのご協力のお願い ゆきちゃんを捜しています(三重県警,ウェブアーカイブ)
■経緯
14時頃、ゆきちゃんは友達と別れて帰宅(最後の目撃)。父・芳行さんは在宅だったが夜勤仕事のため熟睡中であった(普段から父親を起こさないように物音を立てずに過ごすため気付かなかった)。
14時半、母・市子さんがパート先から入電。「今日は遅くなる」「分かった」と会話し、ゆきちゃんの在宅を確認している。
15時半、小6の次女が帰宅。ゆきちゃん不在。テーブルには飲みかけの(まだ温かい?)ココアが残っていた。
16時頃、父・芳行さん起床。遊びに出ていると思い気に留めなかった(普段はランドセルを置いて校庭などで友達と遊ぶため)。
その後、高校生の長女が帰宅。父が夜勤へ。
母が帰宅。20時に警察に連絡し、家族・教員らで付近を捜索。
■不審点
・その日、友人の遊びの誘いを断っていた(理由は不明)。
・まだ寒い時期であったが、普段外出時に着用するジャンパーが家に置いたままだった。
・外遊びの際に乗る自転車は家に置いたままだった。
・ゆきちゃんの消息が分からなくなったのは、母親が電話でやり取りした14時半から姉が下校する15時半までの約一時間。家には就寝中とはいえ父親がいた。
・家族がTV出演やビラ配りなどで情報を募る。無言電話は多くあったが、身代金の要求といった犯人からの脅迫電話はなかった。
・目撃情報は多く寄せられたがいずれも有力な手掛かりには至らなかった(学校のジャングルジム、学校近くの十四川、近鉄富田駅での目撃、自宅から15m付近の四つ角で白のライトバンに乗った男と話していた等の情報あり)
・事件から約3年後、「加茂前秀行」(実際の父の名は芳行)と宛名書きされた差出人不明の3枚の怪文書が届く。詳細は後述。
・福岡在住の「緒方達生」と名乗る人物の手紙。ゆきちゃんはすでに亡くなっており、ゆきちゃんの顔見知りだった男女2人が誘拐したとして、ゆきちゃんの霊と交信して調査に協力する旨が書かれていた。後に「他の霊が邪魔するためこれ以上協力できない」と撤回。
・2003年10月、若い男性からの不審電話。「身長170㎝前後」「俺の髪型はパンチパーマだ」といった自身の身体的特徴を語ったとされる。「白のライトバンに乗った男」の目撃情報で、男の特徴がパンチパーマだったこと、当時その特徴については非公開であったこと等から関連を疑われた。
■犯人像
家族の留守と父親の就寝時間の隙をついた誘拐事案と思われる。たとえば犯人は以前にゆきちゃんと面識があり、この日の15時頃、加茂前さん宅付近で待ち合わせの(あるいは呼びに行くと)約束をしていた可能性が高い。母親がパート勤務、父親が夜勤で就寝中ということまで犯人が聞き知って、「おうちの人に気付かれないように」15時頃に行くから家の外で合図を送ったら出てきてね、といった約束をしていたと思われる。警戒感を抱かせずに接触、約束をしていたとすれば、顔なじみでなければ20歳代から40歳代女性(ゆきちゃんから見れば、「おねえさん」から「ママくらい」の人)などは比較的接触しやすく、周囲からも(母親に誤認されて)注意を向けられにくいであろう。またゆきちゃんはふくよかな体格だったことも踏まえて考えると、女性単独ではなく、抵抗や逃走などに備えて(目撃証言のように)男女で攫いに来ていたと考えるのが妥当かもしれない。
■不気味な怪文書
平仮名カタカナ漢字が入り混じり、独特な語が用いられ、意味の通じにくい文章で、現物は鉛筆で下書きまでしてボールペンで書かれていた。この怪文書の存在が事件から30年近く経ち時効となった今なお注目を集める契機になっているともいえる。これまで多くの方によって解読を試みられており、現在では提唱者が判然としないため、気になった説を適宜紹介させていただく。
[1]
ミゆキサンにツイテ
ミユキ カアイソウ カアイソウ
おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ トオモイマス
股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポ(ボ?)ウ ニツトめた
イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ 裏口二立ツヨウニナッタ
イまハー ケータショーノチカクデ 四ツアシヲアヤツツテイル
ツギニ
スゞカケのケヲ蹴落として、荷の向側のトコロ
アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ アサヤントオもう。
ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きくワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。
感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動イ
【トミダノ股割レ】
→「股割れ」という慣用句は存在せず、独自の言い回しである。内容を追ってみるに、女性器や性交渉を示唆する語として用いられている。「淫婦」「売春婦」を示している印象を受ける箇所もある。ではなぜ「売女(ばいた)」「淫売」「あばずれ」のような一般的な語句を用いなかったのか。さらに一部で固有名詞のようにも用いられていることから、他の方も指摘されているように「マタワレ」という語句の中にすでに人名等を示唆するヒントが隠されている可能性も考えられる。たとえば意味的にマタが分かれている(「三俣」など)、形象的に漢字の下方が枝分かれしている(「入来」「大木」など)、氏名に「マ」と「タ」が含まれている(名前にマとタが含まれる「マミヤタエコ」「マエカワタロウ」など)、「マタ=真田」といったような音訓を入れ替えてできた呼称かもしれない。
【カアイソウ カアイソウ】
→宮沢賢治が生前発表した数少ない児童童話のひとつ『猫の事務所』の草稿版では、文章末に「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」という表現が存在していた(雑誌『月曜』発表版には存在していない)。『猫の事務所』本文は事件と無関係と思われるが、怪文書中で繰り返し使用される「カアイソウ カアイソウ」とよく似通ったフレーズである。『猫の事務所』草稿は筑摩書房から出された『校本宮沢賢治全集』にのみ収録されたもので、この全集には本文のほかに推敲異文、補遺などが付されており(市販の文庫本などよりも)専門的な内容も含まれる。個人的には、怪文書に漂う独特のリズムも宮沢賢治の文章にやや近い印象を受けた。もし『校本宮沢賢治全集』を送り主が読んで真似たとすれば、文学部学生(卒業生)や国語・現代文の教諭など宮沢賢治に比較的関心・造詣があった人物と推測することもできる。
中にはカタカナの多さや文中の「ゝ」や「ゞ」等の使用から旧仮名遣いを連想し、高齢者による文書ではないかとする説もあるが、上で見たように「カアイソウ」ではなく旧仮名であれば「かあいさう」、「(アサヤンノ)イフトオリ」ではなく「イフトホリ」であり、旧仮名遣い“風”に見えるだけである。
【シュンガの表の反対のパーラポ(ボ)ウ】
→これを素直に解せば、春画(和製ポルノ映画の看板?) の裏のパーラー(喫茶店あるいはパチンコ店)。「春霞の裏」と解釈して、近隣の地名「霞ヶ浦」と結びつける見立てもある。また関連はないかもしれないが、「ポウ」に比較的音が近いPAO(パオ?)というパチンコ店は松阪市内に存在している。さらに四日市に昔から馴染みのある企業“東洋紡”に掛けて、パーラ(ー)ボウではなくトーヨーなのではないかという説もある(場所等は明示されていないがトーヨーらしき店の裏手にポルノ映画館がかつて存在したとする記事がある)。
【裏口に立つようになった】
→立ちんぼ(素人売春)するようになった。あるいはパーラーをパチンコ店とする解釈では、店の裏口=換金所の役回りになったという見立てもある。
【今はケータショーのあたりで四つ足を操っている】
→「四つ」「四つ足」は、「人間以下の動物」「畜生」を意味する古い差別用語。今はケータショー(警察署?北署?北小学校?)のあたりで被差別部落民を使って商売をしている、となる。アメーバブログmaeba28氏による事件考察ブログ『雑感』で紹介されていた地域を特定する説(ケータ=鶏太→昭和の作家・源氏鶏太→源氏小学校)も非常に興味深い。
【スズカケのケヲ蹴落として】
→鈴鹿
【荷の向側のところ】
→「荷向(のさき)」と読んで「鈴鹿の先」という意味か。四日市から見て「鈴鹿の先」にあるのは津・松阪方面(または亀山・伊賀方面)である。あるいは「荷(二)の向こう側=サン(山)」と解釈して、滋賀近江と四日市鈴鹿方面とを分かつ「鈴鹿山脈」とする見方もあるが、かなり広域であり、遠回しな暗号を用いる意味が薄れてしまう。
【アヤメいっぱいの部屋】
→女郎部屋?ホテルの部屋?股ワレの部屋?あるいは犯人の家紋や暴力団組織の代紋として「菖蒲紋」や菖蒲と比類する「杜若紋」等を示す表現か。
【コーヒーヲ飲ミナガラ、ユキチヲニギラセタ】
→コーヒーには『クリープ(※)』や砂糖など「白い粉」がつきものである。「白い粉」はすなわち覚せい剤を連想させる。諭吉はその代金であり、股ワレはアサヤンにシャブ漬けにされていたと考えられる。
(※1961年森永乳業が発売した粉末状ミルククリーム。インスタントコーヒーの輸入自由化と普及、『クリープを入れないコーヒーなんて』のCMキャッチコピーによって今日よりも爆発的人気を博していた商品であったため、そうした連想も成り立つ)
いずれにせよトミダノ股ワレは家事を忘れてアサヤンとの肉欲・快楽に溺れた、言いなりの妾関係と見てよいだろう。
【アサヤン】
→“〇〇やん”といった愛称か、“ヤーさん(ヤクザ者)”のアナグラム(言葉遊び)、あるいは「朝」の字から“朝鮮人”“朝鮮系ヤクザ”なども連想される。
[2]
タ。ソレガ大きな事件トハシラズニ又カムチャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハミユキヲハッカンジゴクニオトシタノデアル
モウ春、三回迎エタコトニナル
サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ トオモウ
ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ 平和希求トハチガウ
ミユキノハゝガ力弱イハネヲバタバタ ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、
広いダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル
股ワレハ平気ナソブリ
時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス コトモアル、
一片の良心ガアル、罪悪ヲカンズルニヂカイナイ
ソレヲ忘レタイタメ股を割ってクレルオスヲ探しツヅケルマイニチ
【カムチャッカの白雪】【八寒地獄に落としたのである】
→寒さ厳しい大陸方面へ売り飛ばした?八寒地獄は仏教語で、八大地獄(八熱地獄)の周囲にあるとされる。「死ぬほど凍える思いをしていること」の比喩か。
【サカイの薬屋の居たところ】
→「サカイ」は地域の“境界”を示すのか、あるいは酒井、逆井、堺、坂井など地名・人名の固有名詞か。「堺の薬商人」の倅であった戦国武将・小西行長を指し、豊臣秀吉に命じられた“朝鮮出兵”を意味しているとの説もある(小西は釜山から上陸し、漢城を経て平壌まで進軍した)。
【韃靼(ダッタン)海峡をてふ(蝶)が越えた】
→一見唐突に感じるが、安西冬衛(1898-1965)による処女詩集『軍艦茉莉』(1929)収録の一行詩『春』「てふてふ(蝶々)が一匹韃靼海峡を渡っていった」を引用しており、その前の「モウ春、三回迎エタコトニナル」と掛かっている。韃靼海峡はユーラシア大陸と樺太間にある最狭7㎞ほどの「タタール海峡」「間宮海峡」のこと。安西は三重の隣県・奈良出身であり、この詩は小学生年代でも取り扱われることもある比較的よく知られた代表作のひとつ。
安西は1920年父親の赴任先だった満州・大連に渡り、1921年関節炎から右足を失い長い闘病を余儀なくされた。「一匹のてふてふ」は(漢字の「蝶々」よりも)か弱く儚い生命を表し、「韃靼海峡」は(地図上では)近く思えるが(「間宮海峡」とするよりも視覚的・音韻的に)荒涼とした厳しい海によって遠く隔たれた場所、という対比が際立っている。「てふてふ」には、身体的に不自由となった安西自身をはじめとする満州市民らの日本本土への帰郷という“すぐには叶いそうにない願い”が反映されていたと解釈でき、東アジアの“平和希求”にも通じる詩といえるかもしれない。
【コンナ 平和希求トハチガウ】
→「(ミユキサンの日本へ帰りたいという切実な思いは)『春』の詩にあるような平和希求の淡い願いとはちがう」となる。
だが「平和希求」で私が思い浮かべたのは「憲法九条」である。「九条=窮状」と読ませて、「ミユキサンは安西冬衛の窮状よりももっと過酷である」という意味とするのは強引か。
あるいは、アサヤンは「平和希求」を表明する活動や仕事をする人物だということを示しており「アサヤンのやったこと(誘拐→人身売買?)は(彼がいつも言っている)平和希求なんかじゃない」という意味か。なお事件と同じ1991年初頭に湾岸戦争が勃発し、翌1992年に日本はPKO(国連平和維持活動)法が可決して自衛隊を派遣する等、当時は今以上に憲法九条の議論が目立った時期でもある。
いずれにせよ書き手は、「ミユキノハゝ」当人と面識はなく、必死の思いで我が子を探しているさまをTV等で知ったような印象を受ける。念のため、実際に母親が韃靼海峡を越えたという事実はない。
【時には駅の立て看板に~】
→股ワレは平気な素振りだが、駅の(ゆきちゃんの載っている)立て看板を見て心痛めることもある。
【それを忘れたいため~】
→罪悪感から逃れたいために性交渉の相手を探し続ける(すでにアサヤンとは別れている?)
1枚目に比べると2枚目では暗号・なぞかけ的な要素がやや薄れ、詩的とも抽象的ともとれる表現を多用して、ゆきちゃんが大陸、朝鮮半島あたりに連れて行かれて寒い思いをしているかのような書き方をしている。
[3]
股ワレワ ダレカ、ソレハ富田デ生マレタコトハマチガイナイ
確証ヲ掴ムマデ捜査機関ニ言フナ
キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト
事件ガ大キイノデ、決シテイソグテバナイトオモウ。
ヤツザキニモシテヤリタイ 股ワレ。ダ。ミユキガカアイソウ
我ガ股ヲ割ルトキハ命ガケ コレガ人ダ
コノトキガ女ノ一番 トホトイトキダ
【我が股を割るときは命がけ~】
→「我が子を産むときは命懸け これが人だ このときが女の一番 尊いときだ」ならば一般的にも通じる価値観として比較的納得できるが、これまでの文意で読むと「股を割る」は「性交渉(とくに売春のニュアンスを含む)」となるはずである。手紙の最後になって「股割れ」の意味が「性交渉」と「出産」に分裂したのか、あるいは送り主には「性交のときは命懸けであり女の一番尊いとき」といった信念があるのだろうか。
最後ついに「我」が文章に登場し、さらに続く文で「女」という語を初めて使っている。「股ワレ」が単に「女(という性別)」を示すだけではない(蔑称のようなニュアンスが含まれている)ことが明らかになる。送り主が女性であれば、わざわざ「我が股を割るとき」「女の一番」等と書くだろうか。「股を割るときは命懸け これが人だ このときが一番尊いときだ」でも書き手の信念としては意味は通じるはずだ。私には、ご丁寧に「私(送り主)は女ですけど」とわざわざ付け加えたような、「送り主は女である」と読み手に印象付けたい狙いが感じられてならない。
さらに送り主の人物像について憶測を続ける。
送り主は「富田の股ワレ」自身であり、罪の呵責から告発めいた文書を送りつけつつ、自らの逮捕を免れたい気持ちとのアンビバレントによって遠回しな内容表現になった、捜査機関への口止めをしたとの見解も存在する。だが私の見方としては、“このときが女の一番尊いときだ”とする独善的な見解、さらに固有名詞をなぞかけのようにして故意に捻じ曲げて表現するきらい、詩の引用などの印象から、男性によるものではないかという印象を持っている(女性である可能性を否定できるものではないが)。
平仮名カタカナの混在した表記や、日本語として通じにくい表現が目立つこと等から、外国人説(在日朝鮮人など)を唱える者も少なくない。だがこれも詩の引用や熟語表現、なぞかけを駆使する点から見て、少なくとも日本の中・高程度の学校教育を受けた者、だと考える。
下書きをしながらも読みやすく清書せずに今にも途切れそうな弱々しい筆致は、丁寧・慎重な性格というより直接長文を書くことへの「自信のなさ」を感じさせる。筆圧や文字の癖を意図的に判別されにくくするために用いた筆致であろうという印象を持つ。稚拙な語り口に似つかわしくない難解な語句や唐突に断定的表現が散逸する文は、俗に“電波系”と呼ばれる精神障碍者が神から使命を“受信”して書いた文章の特徴とも類似した印象を受ける。だがここでは送り主は精神障碍者ではないと仮定しよう。
既述したように、宮沢賢治の全集や安西冬衛の詩、戦後から1970年代にかけての流行作家・源氏鶏太など、日常生活では用いられない引用を好んでいることから送り主には「文学かぶれ」の色を出している節がある。また地名など伏せれば済む固有名詞についてアナグラムやなぞかけのような暗号めいた言い回しを多用している点は、ある程度の知能の高さを示す一方で、「読み解けるものなら読み解いてみろ」と言わんばかりの幼稚さや「私が誰だかわかるかな?」といった挑発的態度すら醸し出しているように思える。
怪文書が送られてきたとされる1994年頃は、まだ一般家庭にはPCがあまり普及しておらず、文書作成は専らワープロが主流だった。一般企業のオフィス、役所や学校など文書作成を要する職場ではデスクに一台普及しており、こうした身元を明かしたくない、やや長い文書であれば手書きよりもワープロを用いた方が簡便に思える。おそらく思うまま一気に書きあげた訳ではなく、アナグラムやなぞかけに長らく(少なくとも一か月以上)の推敲を要したであろうし、書き直しをする上でもワープロでの作成の方が適している。怪文書らしい不気味な雰囲気をあえて出したかったという理由でなければ、あまりワープロを使わない職種(農業などの第一次産業の一部、現場作業員や工員などいわゆる肉体労働者)や高齢者、学生などの若年層は手書きになるかもしれない。
この怪文書の送り主は、下書きまでして苦労して書いているように見える反面、あまりに饒舌すぎはしないだろうか。そこに怪文書の真意が透けて見える。自分が犯行に関与したことを知らせたいのであれば、公開されていないゆきちゃんの特徴(会話から得られた情報や動作の癖など)を示せば文書の信ぴょう性が増すのにそうはしない。売名行為や嫌がらせの類であれば福岡の「緒方達生」のように名を出してゆきちゃんの行方・安否を知っているとでも騙りそうなものだが、はっきりとそう書き示す訳でもない。アサヤンや富田の股ワレを知っている第三者であれば、3枚に渡って靄もやとした長文ではなく「何処の誰があやしい」で済む話ではないか。あくまで文書の送り主は、TV報道や情報募集を訴える母親の姿を見て思いついた自分の“ストーリー”と創意を凝らしたギミックを披露したい、さらに「捜査機関にいうな」とわざわざ秘匿すべき重要情報であるかのように匂わせているのである。さらわれたミユキサンがヤクザらしい男・アサヤンを介して大陸方面に身売りされてもう3年が経つ、本人は辛かろう、苦しかろうし、母親は富田の股ワレ(送り主)を殺してやりたいほど憎かろう、と同情する素振りまで見せる。くどいほどに遠回しな言葉遊びの諧謔性に自ら酔っているようにさえ思える。この怪文書は関係者や誘拐に関与した人物によるタレコミなどではなく、明らかに愉快犯による警察に対しての挑発である。
とするならば、宮沢賢治、安西冬衛、源氏鶏太を引いたのは、単に自分が好きな作家ということよりも、実年齢を想定させづらくする意図があったと推察する。個人の憶測にすぎないが、この怪文書の送り主は三重県に土地勘のある当時十代後半から二十代半ばの男性で、文学やミステリ小説などに造詣のある(あるいは作家志望の若者のような)人物と考える。宮沢賢治の全集は高価なため、図書館を利用した可能性もあるだろう。
はたして私の想像では、怪文書は直接犯人へと結びつく代物ではない。怪文書の送り主が示唆した国外への人身売買についても、私はないと考えている。たとえば「日本人の子どもは病気の心配が少ない」等の理由で海外では高値で取引されるといった都市伝説めいた噂もインターネット上では散見されるが、わざわざ危険を冒して8歳児を密入国させても、渡航費や仲介手数料がかさみブローカーの実入りは大きくならない。認識能力が未発達で逃亡などのおそれの少ない幼児を、性的搾取等が目的だとしても現地で調達する方がリスクやコストの面から見て無難なのだ。
では国内への人身売買としたらどうか。比較的近年まで置屋(遊郭、管理売春を行う飲食店)の文化が残っており“売春島”とも呼ばれた渡鹿野島と絡めて論じる者も少なくない。この島の存在は、1998年に起きた三重県伊勢市女性記者失踪事件でも言及されるほか2016年の伊勢志摩サミット会場に近かったことなどでも話題となった。2019年に『売春島「最後の桃源郷」渡鹿野島』(彩図社)を著した高木瑞穂氏の文春オンライン掲載のインタビュー記事によれば、最盛期は1970~80年代前半で大型ホテルや遊興施設が立ち並び、島民200人のうち60~70人が娼婦であり、人材の斡旋は暴力団が取り仕切っていたとされる。現在では島の売春産業は風前の灯火だが、失踪事件のあった90年代は地方からの団体旅行客などでまだ比較的栄えており、高木氏によれば80年代から90年代後半にかけては暴力団員などに騙されて送られる女性が多かったいう。だが二十歳前後の娼婦であれば、島民たちも「彼女らは訳あって稼ぎに来ている」と良心の呵責も薄らぐものだが、置屋に8歳児が暮らすようになったとなればさすがに事件性を疑わざるを得なくなる。客にしても8歳児が選べると知れば「どういうこっちゃ」「さすがにやばい」とたちまち外へ漏れて通報されるであろう。いかに地元警察と癒着していようとも国内の店舗式性風俗の類へ即送られるとはなかなか考えにくいのだ。小学生から性的搾取を行う場合、2003年に起きたプチエンジェル事件のように需要が見込まれる大都市部でデートクラブやデリバリーのような無店舗型の業態でなければ、常に摘発のリスクに晒される。当時は携帯電話も普及しておらず、1980年代後半から若年代の売春の温床となっていたのは「テレクラ」であり、さすがに8歳児に電話で交渉させるのは考えにくい。マンションの一室に顧客をとるような極小規模な会員制売春に従事させられていた可能性などは排除しきれないものの、もし性的搾取による金儲けが目的だったとすれば(要望などがなかったとすれば)8歳児よりも需要が見込める10代前半から半ばの少女などを狙うのではないかと考える。
違法臓器売買については、死後の臓器保存や冷凍輸送等ができないこともあり、すでに述べたように国外であれば現地で調達されるであろうことから、ありうるとすれば国内需要であろう。1979年の角膜及び腎臓移植に関する法律から1997年臓器移植法成立までの間は角膜・腎臓以外の臓器移植は国内では認められず極限られた渡航手術に頼っていたため、ニーズは高かったはずだ。しかし1968年和田心臓移植事件を受けて世論の脳死判定への厳しい反発、法整備の遅れから、国内の臓器移植医療は世界的に見て大きく遅れをとっており、90年代前半の事件当時ではまだ限られた国立医大病院・一部の医師にしか設備やノウハウは普及していなかった。したがって臓器移植に使われたとする説もないと考えてよい。なお国内で初めて臓器移植に関する売買が事件として露呈するのは、失踪事件から15年後の宇和島徳洲会病院での臓器売買事件(2006年)である。
失踪当時8歳という年齢から、個人的には性的搾取が主目的とされた可能性は比較的低いと考え、養子目的の誘拐だったように思われる。実行犯(おそらく男女)が養子を求めていたのか、あるいは依頼者の要望に偶然合致したのかは分からない(依頼者が性的虐待を目的としている可能性はある)。もしかすると言葉巧みに彼女を騙して、加茂前ゆきではない人間として生きることを納得させてしまったかもしれない。30年の月日のうちに、元の家族の面影や声も記憶からは薄れてしまったかもしれない。それでもどこかで強く生きていてほしいと願っています。