いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

西成女医不審死事件について

大阪市西成区で生活困窮者の支援活動を行っていた女性医師が水死体となって発見された。警察は自殺と判断したが、遺体や行方不明の状況から事件性が高いとして遺族は再捜査を求めた。「釜ヶ崎」の人びとから「さっちゃん先生」と愛された彼女はどうして死ななくてはならなかったのか。

 

情報提供は 大阪府警西成警察署 06-6648-1234 まで

 

概要

2009年(平成21年)11月16日(月)1時20分頃、大阪市大正区の木津川千本松渡船場を訪れていた釣り人が川の中に女性の水死体を発見する。

女性は13日(金)の深夜から行方が分からなくなっていた西成区「くろかわ診療所」に勤務する内科医・矢島祥子(さちこ)さん(34)と判明する。

 

失踪当夜の矢島さんについて、13日22時ごろに一人で残業していた姿を黒川所長と看護師が最後に目撃している。その後、23時過ぎに診療所を出たとみられるカードキーの使用履歴があった。

しかしそれから20分後に防犯システムを解除して再び入室した記録もあった。14日(土)4時18分頃、診療所の警報システムが作動。一般的な誤作動であれば利用者からすぐに警備会社に警報の解除を行うように連絡するはずだがそれもなく、30分後に警備会社が駆け付けた。だが所内は無人状態で、室内に荒らされたような形跡もなかったことから「異常なし」と報告された。

このときの出入りにも矢島さんのカードキーが使用されていたが、診療所に立ち入ったのが本人だったのかどうかは確認できていない。

 

14日朝、出勤してこない矢島さんを心配した診療所スタッフが彼女の自宅を訪問した際、部屋は無施錠で無人だった。また診療所にある彼女が使用していたパソコンを確認したところ、警報作動直前の4時15分に患者カルテをバックアップしていた形跡があったという。また4時50分には知人に「15日に会えなくなった」旨のメールが送信され、以降の音信は途絶えた。

15日(日)朝、診療所スタッフは依然として矢島さんとの連絡が取れなかったことから西成署に捜索を依頼するが受理されず。10時頃、黒川渡所長から群馬に住む矢島さんの家族に行方不明であることが伝えられ、群馬県警高崎署に捜索願が提出された。

15日に矢島さんの暮らす部屋の中を確認した際には、通勤に使用するカバンが残されていたほか、自宅、診療所、デスク、ロッカー等の鍵をまとめた束が発見された。

 

大阪市立大・前田均教授が行った司法解剖によれば、推定死亡日時は14日未明とされ、死因は溺死」と推認された。西成署は、矢島さんが連日遅くまで働いていたことや周囲から自殺だとする声が挙がったことなどから過労による自殺の可能性が高いと判断し、ほどなく捜査は打ち切られた。

遺族は警察側の自殺を基調とした見方や捜査に消極的な「粗末な説明」に不信感を抱いた。ともに医師であった両親は遺体状況や検案書の内容に不自然さがあると指摘し、頭部にあった大きな瘤(こぶ)については西成署も生存中にできたものと認めた。

遺族は他殺ではないかとの疑いを深め、支援者らと共に「さっちゃんの会」を立ち上げて再捜査を訴え、10年8月から元兵庫県警飛松五男氏に調査を依頼。元東京都監察医・上野正彦氏にも相談して見解を求めた(2011年3月11日現場検証)。

 

遺族は釜ヶ崎に通いながら情報発信や再捜査要望の講演活動を行い、2010年9月14日までに4830人分の署名を集め、再捜査の要望書が大阪府公安委員会に提出された。報道番組への出演などで事件性を訴え続け、その後の署名数は約4万人分にまで膨れ上がった。

11年2月25日には矢島家のある群馬県高崎に地盤を持つ民主党中島政希議員(当時)が事件について国会で取り上げた。金高雅仁警察庁刑事局長は「これまでの捜査からは必ずしも犯罪であるということを明確に断定できる状況は出て来ていない。事件事故両方の観点から捜査を尽くしている」と答弁した。

遺族が提出した殺人および死体遺棄の告訴状が2012年8月22日に受理され、殺人事件と断定はされなかったが、殺害の疑いのある刑事事件として自殺、他殺両面での捜査が継続されることとされた(死体遺棄は同年11月15日時効成立)。

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その後も遺族は西成署や「釜の仲間たち」と定期的に情報交換を重ね、月命日の14日には講演会や音楽イベントなどを通じて呼びかけを続けているが、事件から14年が経った現在も全容解明には至っていない。

 

「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」

この事件について語る際、「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」という3つの地名が用いられる。それらの呼称と地域の成り立ちについて簡単に確認しておく。

 

「西成」は大阪市の行政区で、東に阿倍野区、西に大正区、南に住吉区住之江区、北は浪速区天王寺区に囲まれている。「釜ヶ崎」は西成区内の北東部に位置する狭い範囲(地名でいえば萩野茶屋、太子界隈)を指す俗称で、固有の地名は今日の地図上には存在しない。

明治初期にまで遡れば「西成郡今宮村字釜ヶ崎」という地名があった。江戸後期、大阪の都市化に伴って天王寺・難波など各地に無宿人の集まる木賃宿街が成立していたが、市政拡張や鉄道敷設、コレラの感染予防や1903年内国勧業博覧会に伴って度重なる取り締まりを受けた。行き場を失った生活困窮者たちは安息の地を求めて流れ着いたのが当時、低湿地帯で田畑しかなかった釜ヶ崎地域で、明治期後半には集住が進み木賃宿(ドヤ)街が成立した。

1912年に「新世界」、16年に「飛田遊郭」が誕生して周辺地域も市街化が進み、22年に町名改正に伴って釜ヶ崎の地名が失われた。大正期には「大大阪時代」と呼ばれて大阪都市部は目覚ましい発展を遂げた一方、1930年の昭和恐慌で財を失った人々、第二次大戦で焼け出された被災者たちは浮浪者・貧困対策に手厚い「釜ヶ崎」の地へと流れ着いたとされる。

 

戦後の復興、その後の大阪万博、高度経済成長期を裏で支えたのはこの場所に集まってきた日雇い労働者たちだった。3万人余が集住し、貧しくも活況を呈していた1961年、警官が車にはねられた労働者をしばらく放置したとして「釜ヶ崎暴動」へと発展する。

70年代前半は新左翼流入して暴動を扇動することとなり、連日の騒動がTVで報じられると、釜ヶ崎ホームレス、貧困、犯罪が根付いた危険な町というパブリックイメージが定着する。

政府、府、市は「釜ヶ崎」対策の一つとして、そうした悪いイメージを払しょくするため、1966年以降は「あいりん地区」という呼称を用いるようになった。

その後も、日雇い労働を求めて集まる人々は後を絶たず、貧困・失業者たちを支援する団体が寝場所と食、人権と十分な福祉を求めて、連帯と「闘争」の活動拠点となった。そうした歴史的経緯を踏まえ、人々の間で「釜ヶ崎」という呼称が失われることはなかった。

一方で悪名の浸透もあって若者の流出や子育て人口の少なさ、男性比率の極端な多さによって、歪な人口ピラミッドが形成されていった。1970年代に最も多かった30代~40代人口がそのままスライドするようにして2000年代には60代から70代人口となった。

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かつての「労働者の町」では、建設現場など肉体労働の仕事を世話する手配師によって上前のピンハネが問題視され、新左翼たちは手配師ややくざ者からの暴力や不当搾取に激しく反発してきた。だが今日では「ピンハネしようがないほど低賃金の仕事」ばかりだと言い、高齢者の増加に伴って軽作業や自転車整理、清掃作業など社会的就労機会としての雇用捻出が増加している。

身寄りのない「高齢者の町」へと変貌した釜ヶ崎界隈では、住宅付き介護施設の整備が急速に進んでおり、施設も生活保護の受給手続き支援を積極的に行っている。それと聞くと福祉の手厚さというポジティブな印象も受けるが、審査の甘さが不正受給増加の一因とも言われている。

さらに生活保護受給者らに流入する多額の生活保障、医療保障に群がる「貧困ビジネス」が蔓延している。貧困対策として行政から支給される額が大きいため、福祉施設側としては一般的な在宅ケアよりも生活保護受給者を受け入れた方が実入りがよいとされ、大きな事業所では無宿者向け住居を併設し、家賃と介護費用の二重取りが行われている。

悪質な医院では無宿者を診療したと架空請求を行って不正に利益を得たり、必要がないと知りながらも大量の薬剤を処方する医院・薬局も少なくない。戦後の闇市のごとく出処不明の品々を並べた路上販売は地域の名物になっていたが、生活保護受給者が不正に得た睡眠薬向精神薬を転売して日銭を稼ぎ、違法薬物の流通を拡大させるルートにも変貌する。違法な手段で得た金で生活の立て直しを図ろうとする者はなく、酒や薬物への依存を深刻化させるか、公園の一角で開かれる賭場ですぐに溶けて消えるのである。

 

2008年2月、タレント弁護士として人気を博していた橋下徹大阪府知事に就任。早々に1000億円の歳出削減を見込んだ財政再建プログラムを立ち上げ、情報公開の徹底や公会計制度の見直し、補助金漬けとの批判が大きかった同和問題や府暴排条例にも着手した。大阪は街頭犯罪やひったくりの多さで悪名を誇っていたことから犯罪情勢にも厳しい対応を求め、警察庁に警察官定員の増員を認めさせたほか、防犯カメラ設置、巡回指導体制の強化、捜査システムの整備を進めるなど治安対策が推進された。その後、大阪都構想を掲げて地域政党大阪維新の会を結成し、11年には第19代大阪市長に就任した。

2012年、橋下市政下で西成区の治安や環境改善のための特区構想が推進され、総額118億円の予算が投入された。大規模な浄化作戦が行われ、通りには監視カメラが多数設置され、路上販売、職安界隈を根城とした闇金の出張所、公園に公然と立てられていた多くの賭場も、度重なる摘発と環境美化によってほとんど見られなくなり、町の風景は様変わりした。

同時期、インバウンド需要の拡大と共に「大阪のディープスポット」として国外でもその名が知られるようになり、コロナ禍前には日に2000人近い外国人が訪れていたという。インバウンドの受益とは全く無関係な日雇い労働者や、「美化」の名目で排斥されて街を漂う行路生活者の姿は半ば見世物化され、その数を減らしていった。彼らはどこに消えたというのか。

 

さっちゃん先生

矢島祥子さんは1975年、群馬県高崎市生まれ、兄2人弟1人の4人きょうだいで育った。両親は祥子さんが1歳半の頃に診療所を開設。幼少期には泣いている人を見ては共感してもらい泣きする子どもだったという。

両親と同じ医師の道を志し、1993年に群馬大医学部に入学。1994年1月には受洗してクリスチャンとなり、インドへマザー・テレサに会いに訪れたこともあったという。99年に卒業すると沖縄県うるま市の県立中部病院勤務を経て、2001年から大阪市にある淀川キリスト教病院に内科医として赴任した。

当初は産科医の勉強をしていた矢島さんだったが、ネパールでの海外医療ボランティア等を経て貧困地域の抱える医療問題に関心を深め、帰国後も東京・山谷、横浜・寿町など寄せ場に生きる人たちの医療支援に取り組んだ。兄も何度か行動を共にしたが、インドや寄せ場といった不用意に入るべきではないような場所へも進んで歩み寄る彼女の危機意識を疑ったと綴っている。

2004年10月には両親に宛てた手紙の中で、群馬に戻って実家の上大類(かみおおるい)病院の跡を継ぐことができない、「自分がずっとやりたいと思ってきたことをやっていきたい」とその決意を伝えた。

 

2007年4月から西成区鶴見橋商店街にある「くろかわ診療所」(05年12月開所)に勤め、週5-6日の外来、週5の往診を受け持ち、休日・夜間も電話での相談や往診要請に応えてきた。さらに診療だけでなく生活支援、地域の見廻り活動等にも精力的に取り組んでいた。

日雇い労働者や生活困窮者たちには、経済的不安や心理的抵抗感から重篤化して動けなくなるまで医療にかからないケースが多く、アルコールや覚醒剤への依存から抜け出せない人、慢性疾患を抱えた者も多い。黒川医師らと共に毎週夜回り活動を行い、そうした人々の話に耳を傾け、路上で凍えないための寝袋や適切な医療を提供し、必要に応じて生活支援につなげるといった献身的な生活を送っていた。

活動の根底には一時的なボランティア精神ではなく、彼女が理想とする医療への信念があった。生活困窮者と共に生活を送り、「ここで、家族への思いを抱え、過酷な労働条件の中で生きてきた人々が、安らいでその生涯を閉じられるような関りができたらという夢があります」と神父への手紙にその使命感を綴っていた。

 

矢島さんを知る医師は、通常の支援者の場合は自分の生活や活動継続のために「自分たちができるのはここまで」とどこかで線引きをしてしまうが、彼女は時間もお金も「生活のすべてを惜しげもなく支援に捧げていた」と述べ、宗教心のない自分でも彼女の活動や人間性には「信仰の力を感じた」と振り返っている。

群馬大時代の恩師・中島孝氏も矢島さんの死に疑問を呈しており、彼女が高い志を持って医療や支援活動に従事していたことに加え、「クリスチャンであることからも自殺の可能性が低いことは一般の方々でも容易に察しが付く」と指摘する。

だが信仰に基づく高潔な生活態度はときとして現実社会との摩擦を引き起こすこともある。事実、薬物中毒患者の対応をめぐっては売人と揉め事を起こして脅迫を受けることもあったと言われる。また兄のひろしさんも感じていたように、彼女の人並み外れた使命感や正義感から自分の身辺への危機意識が働かなかったのかもしれない。

不正が罷り通る現実を目の当たりにして憤りを募らせた矢島さんが何か告発を行うつもりでいたために、それを快く思わない相手から口封じのため殺害されたのではないか、といった見方がネット市民の間では多く囁かれている。

 

かつて路上生活者だった佐藤豊さんは、矢島さんに自殺したいと口にしたところ、「そんなこと言うたらあかん」と強く諫められたと振り返った。彼女の熱心な支えによって男性は生活を立て直したと言い、「あんな笑顔をくれる人が自殺なんてするはずがない」と話し、恩人の不審死の再捜査を求めて集会活動や取材対応にも積極的に関わっていた。

だがおよそ3年後の2012年8月6日、西成区花園北のアパートが火災に遭い、全焼した3階自室で一人暮らししていた佐藤さんが遺体となって発見される。119番通報したのは佐藤さんのケアを担当していた福祉職員男性で、彼と50代の住人男性は煙を吸って病院に搬送されたがいずれも軽症であった。

因果関係は確認されていないものの、ネット上では、矢島さんの死を風化させたい犯行勢力によって佐藤さんも殺害されたのではないか、といった見方も流布される。

筆者は佐藤さんの暮らしぶりや病状について詳しく知らないが、亡くなった時点で64歳、福祉支援を要していたことからも病状は進行し、矢島さんとの別れもあって心身の疲弊・衰弱もあったと考えられる。現場に他殺の証拠となるものはなく、持病の悪化から生活に支障があったとみられ、事故死や自殺のリスクも相当に高かったのではないかと思う。

 

元患者だった塩野澄江さん(80)は、矢島医師から生前「あんたが死ぬまで私が面倒を見る」と何遍も言われてきたと述べ、遺体発見当初から「これは自殺じゃなく他殺だ、間違いなく」と声を挙げてきた。

一時的な善意ではなく平静の、素の感覚で困窮者の救済に奔走し、元路上生活者たちとも取り繕うことなく語り合い「さっちゃん先生」と呼ばれて親しまれていた矢島さん。事件性を疑い、真相解明を求めて遠方から通い、ビラ配りや署名活動などを続ける遺族の支えとなったのは、生前のさっちゃん先生に恩義を受けた「釜の仲間たち」であった。

 

疑い

そもそも家族が違和感を感じたのは、行方不明の連絡を受けたときからだった。

「祥子さんが行方不明です。高崎署に捜索願を出してください

開口一番そう口にしたのは矢島さんの上司にあたる黒川医師であった。一般的にはまず「連絡が取れず自宅にもいないのだがご実家に戻られていないか」「本人から何か聞かされていないか、心当たりはないか」といったやりとりが為されると考えられ、あまりに性急な印象を受ける。

家族が受話器を置くと、すぐに診療所からFAXが届いた。最終目撃や診療所の警報、自宅訪問などこれまで医師らが取った確認行動の経緯・判断を事細かに箇条書きしたものだった。たしかに遠隔地での行方不明を届け出るためにそうした書面は有効に違いなく、医師の用意周到な気配りで電話を寄越す前にまとめていたものと思われた。

しかし一般的な感覚に照らせば、親元から遠く離れて治安に不安のある街で単身暮らす女性のこと、「行方不明と判断した経緯」をまとめるよりも何より先に家族に連絡を入れて然るべきかと思う。

くろかわ診療所のある商店街周辺で家族や支援者らは度々ビラ配りの街宣活動を行ったが、診療所の向かいにある理容室では事件から5か月経っても行方不明になったことさえ知られていなかった。矢島さんは診療所を出てから自宅までの数百メートルという近場でトラブルに遭ったにもかかわらず、診療所では近隣の人たちにさえ確認や声掛けが為されていなかった。

黒川医師は普段は冷静で温厚な人柄で知られており、矢島さんと共に困窮者支援活動に尽力していた。直属の部下の不審死について不安や憤りを覚えて然るべき立場にあったが、なぜか取材に一切応じることはなかった。それどころか事件について話題が及ぶと血相を変えて声を荒げたり、逃げるように立ち去ったりするといった話も聞かれた。遺族は事件当初から「さっちゃんの会」広報誌などを通じて医師の態度や沈黙に対して強い不信感を表明している。

 

事件当夜は雨、鶴見橋商店街にある職場から長橋にあった矢島さんの自宅までは僅か700mほどの距離だった。自転車通勤だった矢島さんは傘をさすよりも商店街アーケードを通過する可能性が高いと想像されたが、商店街に設置されていた8か所の監視カメラにその姿は映っていなかった。また自宅アパート近くの監視カメラも警察に提出されたが、機器の故障で何も映っていなかったとして管理会社にすぐに返却されたという。

医療の仕事と支援活動に心血を注ぎ、慌ただしい日々を過ごしていた矢島さんは部屋の掃除もままならなかったに違いない。しかし事件後、家族がアパートの部屋を訪れた際には、テレビの裏や押し入れの桟といった場所にさえ埃ひとつなかった。また彼女には若い頃から些細なことでもメモ書きする癖があったが、自宅のメモには11月以降に記したものは一切見つからなかった。

洗濯機の中には衣類が残されており、10日前にはクリーニング店に冬物のセーター類5点を預けているなど、自殺直前らしからぬ生活の痕跡もあった。警察が行った部屋の鑑識では、なぜか住人である矢島さんの指紋さえ検出されず、第三者が証拠隠滅の為に清掃した疑いがもたれた。

事件から1か月後、千本松渡船場から2.5km北に位置する北津守の団地駐輪場で矢島さんの通勤用自転車が発見された。いつから置かれたものか目撃情報はなく、なぜか自転車からも指紋は一切検出されなかった。

医師である矢島さんの両親の見立てでは、遺体にあった右額、右手の甲、右足頸部にあった生体反応のある(生前に受けた)外傷について、矢島さんが自転車で帰宅中に左側からなぎ倒されるようにしてできた傷ではないかと見当づけている。

『死体は語る』など多数の著書で知られる元東京監察医務院長・上野正彦氏は、数々の変死事例の経験則から、元々泳ぎが得意だった矢島さんが「おもり」もなしに入水自殺ができたとは考えづらいと指摘している。

 

遺体を確認したのは矢島さんの兄弟だった。彼らは医師ではないが、首の左右にできた幅1cm程の赤紫色の圧迫痕が真っ先に目に付いたことからすぐに他殺を疑ったと話している。また遺体の後頭部から頭頂部にかけて幅5cm、高さ3㎝程の大きなこぶ(頭血腫)があった。

府警は遺族の疑問に対して、首の圧迫痕は発見者が水中から引き上げる際に用いた鎖を首の後ろにかけたためにできたもの、頭のこぶは船上に寝かせる際に落下させてしまってできたものであろうと説明した。

だが死後に生傷やこぶができるはずなどない、生前受けた外傷による生体反応であることは明らかだとして両親は食い下がった。3か月後に剖検を行った担当医と面会し、「後頭部の傷(こぶ)は生前にできたもの」「首の左右の傷ができたのは生前か死後か判別不能」と説明を受けた。

両親が見せてもらった剖検書には、「溢血点(まぶたの裏や口内粘膜の毛細血管が破裂した際に見られる小さな内出血)」との記載もあったという。溢血点の有無は絞殺か否かを見極める上での最たる特徴の一つである。

 

千本松渡船場は釣り禁止なうえ、そもそも夜間はゲートが封鎖されていて発見場所付近には進入できなくなっていた。だが警察の説明では、有刺鉄線の張られた鉄条網を越えて船着場から飛び込んだとされた。

船着場のゲートには身長より高い鉄柵に、長さ50㎝程の串が左右上部から出ており、容易に侵入できないようになっている。串と串の間にも鉄条網が張り巡らされ、暗闇の中で侵入を試みればいかに身軽な人間であっても手足に怪我を負ったり、着衣が破れたりといった事態が想像できる。たとえ希死念慮に駆られていたにせよどうしてこの場所から入水する必要があったのか説明がつかない。

左は遺体の首にあった傷のイメージ、右は鎖を用いた検証

第一発見者は船着き場の接岸部に設置されていた「タイヤの所に頭が引っ掛かっていた」「映画などで見る水死体のイメージとは程遠く、ものすごくきれいだった」と話す。「最初はマネキンかと思った」が、とりあえず水面から揚げてみようということになり、顔を見るなり水死体と気付いて警察に通報したという。また「履いていた靴の片方だけが一緒に浮かんでいた」と語っている。

脱いだ靴を揃えて陸地に置いていれば「自殺」という見立ても説得力を持つかもしれないが、彼女は「靴が片方脱げそうな状態」で入水したとでもいうのであろうか。

また元兵庫県警で本件の独自調査を続ける飛松五男氏によれば、第一発見者である2人の釣り人のうち、一人はくろかわ診療所向かいのマンションに暮らし、もう一人は西成警察署から数十mのゲームセンターに勤めていたとされる。つまり第一発見者の2人は被害者と面識はなかったが、奇遇にも被害者と同じ「釜の住人」だったことになる。

 

死亡推定時刻は「14日未明」とされ、発見された「16日1時半」まで遺体が脱げた靴と一緒に船着き場近くをずっと漂っていたとは考えられない。ダミーを用いた検証実験では自転車発見現場付近の木津川沿いから入水した場合、2~3時間で発見現場を通過し、人形は河口へと流されてしまった。遺棄されてからほとんど時間を置かずして発見されたと見る方が自然である。

また遺体のポケットからは彼女のPHSが発見されているが、家族が連絡を取ろうとした「15日午後2時」にも呼び出し音は鳴っていた。PHSは非防水仕様であることからその時間まで水没していない状態だったと推測される。

調査を続ける飛松氏は「第一発見者が怪しい」と断言こそしていないが、「死亡推定時刻すらも誤りの疑いがある」「(発見間際の)15日夜に遺棄されたのではないか」と見立てている。

府警では、発見された靴から採取された付着物のDNA型鑑定、砂の分析を行い、行方不明から死亡までの足取りをつかもうとした。だが2010年12月の捜査報告では、皮膚片2点が検出されたが矢島さんのものとは断定できず、付着していた砂からも有力な情報は得られなかったと伝えられた。

 

死因は「溺死」とされていることから、陪見では肺から海水が検出されたものと考えられる。だが通常の溺死であれば大量の水を飲みこむため、肺に空気は残らず遺体はうつ伏せ姿勢で発見されることが多いとされる。

だが2018年10月のFNN系列の事件捜査番組に出演した法医学者の杏林大学・佐藤喜宣名誉教授によると、遺体は水面に頭頂部だけが浮かんだ「立位姿勢」で見つかったため、肺に空気が溜まっていた可能性があると話した。

また佐藤名誉教授は、書類には溺死に特徴的な兆候について言及がなされていないと指摘。通例は溺死体に顕著な兆候として「口に泡沫を蓄えている」、血筋状に空気が入っている部分とそうでない部分ができることから「肺がまだらになる」といった特徴の記載があるはずだとしている。

空気が肺に残存していた可能性や剖検書の記載からは「溺死」と判断するには弱く、「頸部圧迫」、つまりは絞殺ではないかとの見解を示した。

 

自称元恋人

警察が死因を自殺と判断した理由の一つに、矢島さんの恋人だったと称する60歳代男性の証言があったとされている。彼は行方不明と前後して矢島さんから「絵葉書」を受け取っており、メッセージの内容は「出会えたことを心から感謝しています。釜のおっちゃん達の為に元気で長生きしてください」というものである。

葉書の絵は沖縄県辺野古の景色を描いたもので、西成郵便局管内で彼女が行方不明となった「14日の消印」が押されており、17日に届いたという。男性は自ら警察に届け出て、「矢島さんの遺書だ」と説明した。彼女の署名や住所は書いておらず、メッセージと日付だけが記されていた。遺族が調べた限りでは、矢島さんが署名なしで他人に手紙を出したことは過去にないという。

 

男性は赤軍派の流れを汲む元左翼活動家で、貿易業を興したのち2007年に会社を整理し、釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)に身を投じることとなったM氏(本件発生当時62歳)である。

1972年、「赤軍ラーメン(勝浦飲食店)」を開き、新左翼学生らを巻き込んで「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」を結成した赤軍派・若宮正則らは日雇い労働者の違法派遣や暴力管理を行っていた暴力団勢力(淡熊会系天海会、山口組系佐々木組ほか)の一掃を図って暴動を牽引。1000名規模での殴り込みや投石、放火などを繰り返し、年間7万人前後が斡旋を受けていた労働者の不当搾取に抵抗し社会問題として世に問うた。釜日労はその共闘会議を母体として結成された労働運動、政治グループである。

釜日労は元赤軍派の横のつながりによって釜ヶ崎だけでなく全国各地で行われる都市浄化策などに対抗して「仕事をよこせ」「寝床をよこせ」といったスローガンを掲げて、日雇い労働者らの権利獲得を目指す「闘争」を長年繰り広げている極左集団として知られる。事件後のM氏は2013年から辺野古の基地建設反対闘争に参加し、2023年現在も阪神地域と沖縄を往復している。

 

M氏はテレビ取材で事件について問われると、

「他殺という形で人を追っかけても犯人は捕まらないよ」

「他殺が壁にぶつかって闇になっちゃう」

「まあ真相は闇になってもいい」

「例え犯人がいたとしても捕まらなくていい」と述べた。

恋人というのであれば事件の真相解明を求める立場にも思えるが、はたしてM氏は「犯人は捕まらない」と匂わせぶりな発言を繰り返す。「彼女は自殺だ」という確信からくる他殺説への無関心なのか、それとも「真相」や「犯人」を知っているが明かせない、とでも言わんばかりの含みを持たせた口ぶりに様々な疑惑を呼んだ。

 

フリージャーナリスト・寺澤有氏はM氏に追加取材のインタビューを行っている。M氏は、矢島さんとは釜ヶ崎の日雇い労働者や野宿者の人権を守ろうという志が一緒で交際するに至ったと述べる。

周囲に交際関係を知る人がいないのではないか、との問いに対して「知られないようにしていた。自分のような人間と交際していると風評が流れれば、彼女の活動の妨げになる」と答え、交際関係を裏付けるものは何も出てこなかった。

矢島さんの住居、第一発見者の釣り人については「知らない」と否定。

絵葉書については、出さないままにおいて後から警察の追及を受けたくなかったため自ら届け出はしたが、「自殺の根拠としたわけではない」とも述べている。その一方で、特に根拠はないが自殺だと確信しているとの考えを述べ、自身が今も変わらず同じように釜ヶ崎で過ごしていることからも「釜ヶ崎で私を犯人と疑う人はいない」と身の潔白を主張した。

 

一部の雑誌では、西成区の行政運営に新左翼系団体が強い発言力を持っているとされ、本件の背後に釜日労の存在を疑う記事もあった。釜日労は山田實委員長(当時)名義で抗議文を出し、SNS上で止まない疑惑の声に対して反駁を繰り返した。

そうしたM氏の謎めいた発言、部外者から団体の実像が見えづらいことなどから、M氏は真犯人側から依頼を受けて金銭目当てで絵葉書を提出し自殺説を吹聴して回っているのではないか、団体が何らかのかたちで不審死に関与しているのではないかといった疑念を示すネットの声は少なくない。

 

ふるさとの家

矢島さんが信頼を寄せていた本田哲郎神父は、フランシスコ会の日本管区長を務めた後、1989年に志願して三角公園の隣に社会福祉法人「ふるさとの家」を構えた。職にあぶれて再三再四路上生活に逆戻りするのではなく、いつでも帰ってこられる「家」のような居場所が確保されなければならない。食堂、図書室、談話室からなり、腹が空けば200円で温かい定食にありつけ、神父や労働者仲間たちが迎え入れて体調変化や生活状況を気に掛けてくれる直接的なセーフティネットの場である。

釜ヶ崎へと流れ着いた人々がよりよく生きていくためにどんな助けが必要か、ボランティア精神で一宿一飯や古着などを与えてその人を助けることはできても、半永久的な助けにはならない。心身の安定を取り戻し、リスタートをきるためのきっかけとなる再起の砦として、行き場のない彼らにとって「教会」ではなくまず「生き場」が必要だった。

バブル崩壊阪神淡路大震災を経て、本田神父ら釜ヶ崎関連のNPO法人が連携し、99年9月に自立援助団体「釜ヶ崎支援機構」を発足させた。釜日労・山田實氏が理事長となり、ホームレス化の予防と脱却のために制度の隙間を埋める支援を続けている。

行政に就労機会の創出、民間企業の下請けなどの働きかけを行って高齢者にも経済活動の場をエンゲージするほか、就労訓練や就職相談なども受け付けている。2013年7月から高齢の生活保護受給者の孤立を防ぎ、生活自立・社会参加を促す事業をNPO法人と合同して手掛け、いわば労働者と元労働者たちの生活総合支援事業となっている。

下のストリートビューは本件発生と同じ2009年のもの。

 

木島病院事件

社会から追いやられるように西成へとたどり着いた者たちの中には精神疾患患者やアルコール中毒覚醒剤中毒者などの割合が多い。また大阪に限ったことではないが、精神医療業界では対応の難しい患者への処置が人権軽視と紙一重となることも少なくはなく、身体拘束や行き過ぎた指導が暴力に至るケースは度々報じられる。

栗岡病院での患者リンチ事件、安田病院での看護人によるバット暴行死事件、診療報酬の水増しや看護師基準を違反した使役労働が明るみとなった大和川病院など、一般病棟に比べて本人の能動的な対処が難しく発言力に乏しいと見なされる患者たちを「食いもの」にする医療の闇は今日も根絶されてはいない。

 

1986年(昭和61年)10月、大阪西成区福祉事務所職員と貝塚市の木島病院との癒着、贈収賄事件が公になった。元々大阪市は精神病床が少なく、西成区内で路上生活者らがアルコール中毒等で救急搬送された際に、福祉事務所職員が入院先として木島病院に便宜を図ることでキックバックを受けていた。その上、この職員は病院事務長と結託し、死亡患者の生活保護の金まで着服していたことが発覚した。

汚職の対象になった行路患者の多くは身内の同意が得られないことから「市長同意」という権限によって入院措置が取られた。府内の精神病院の新規入院者の約1割が「市長同意」によるもので、その半数が大阪市長の認可であった。

木島病院では入院患者の約半数が「市長同意」の患者で占められており、それほどの集中は異常であった。彼らの入院期間についても7割が「5年以上」、5割が「10年以上」という長期在院の傾向が顕著であり、いったん受け入れされると福祉事務所や保健所職員の訪問もなく、退院希望も確認されないまま収容され続けている実態があった。

市長同意書発行数の推移〔大阪精神医療人権センター『精神病院は変わったか』より〕

昭和59年 870件

昭和60年 851件

昭和61年 831件

昭和62年 733件

昭和63年 320件(7月から精神保健法施行)

平成元年 150件

平成2年 140件

平成3年 148件

1988年7月に精神保健法が施行され、任意入院の規定が導入されたことで「市長同意」の件数は激減していることが分かる。昭和60年の851件のうち西成区は364件(42.8%)と大きな割合を占めており、その構造的な癒着はマスコミによって「あいりん汚職」と呼ばれた。

かつて日雇労働者の支援団体により発行・配布されていた『釜ヶ崎夜間学校ニュース』1986年10月17日号には次のように書かれている。

木曜日の医療相談の日にわざわざ訴えに来てくれた仲間の話は、阪和病院へ肝臓が悪くて市更相(大阪市更生相談所)から入院したが、しばらくして、アンタはアル中やと言われて木島病院へ送られた。送られた日は一日中保護房に入れられ、ベッドにしばりつけられていたという。

その仲間によると、木島病院には身元保証人のない仲間が長期にわたって入れられており、中には死んでいく仲間もいる。

木島病院はみんなも知ってるように、最近、西成福祉事務所第八係との間に贈収賄事件をおこしている。

木島病院から措置認定を早くしてもらうように働きかけたり、仲間が伝えてくれたように結核病院や一般病院から患者をまわしてもらいやすくするために金品を渡していたのだ。

我々の病んだ仲間を、まるで羊や乳牛のように扱っている。ろくな治療もせず、長期間病院にとどめておくことで、ボロもうけをしているのだ。

木島病院だけが我々の病んだ仲間を喰いものにしているのではない。

市更相の前に連日のように色んな病院の車がとまっている。

その病院のすべてが、患者を喰いものにしようと待ちかまえていると考えても、まちがいではなさそうだ。

ニュースビラの後半では、1984年に日雇健康保険が廃止されて医療費の一割負担が適用されることとなり、病院は利用者が減って収入に困り、市更相に日参して獲物を待ち構えているとし、福祉切り捨てを続ける中曽根内閣とそれに追従する市民生局を非難する内容へと向かっていく。やや煽情的な物言いにはなっているが、木島病院事件当時の背景として、労働者目線から見れば医療不信が強まっていたことが分かる。

 

山本病院事件

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会・山本病院は、病床数およそ80で心臓血管外科、脳神経外科、内科などの診療科があった。この病院では診療報酬の不正請求のため、不要な治療や検査を繰り返していた。

2009年6月21日、奈良県警捜査2課は、生活保護受給者の診療報酬を不正受給した詐欺容疑で山本病院及び山本文夫理事長宅を家宅捜索した。捜査の結果、女性看護師に不必要な手術を強要したり、生活保護を受給する入院患者ら8名に心臓カテーテル手術をしたように装い、診療報酬総額1000万円を騙し取った疑いが強いとされ、同病院は閉鎖。12月から破産手続きを開始。元理事長には詐欺罪で懲役2年6か月の実刑が確定した。

 

手術による診療報酬の詐取は理事長自ら主導しており、不必要な手術だった上に、術中に適切な止血や縫合措置などを放棄して手術室を後にしたために死亡させた事例も発生していた。山本元理事長は心臓血管外科、助手を務めた医師は呼吸器外科が専門で亡くなった男性に施された肝臓切除手術の経験は共になかった。医師法に基づき「異状死」の届け出をせず、急性心筋梗塞と偽って処理したとされていた。

輸血準備などもされておらず、限りなく殺人に近い医療犯罪だったが、故意と認定する証拠がなく過失致死罪での立件となり、こちらは禁固2年4か月の実刑判決となった。亡くなった男性(51歳)は生活保護受給者で、術前には「早期にガンを見つけてもらえてよかった。早く治して自立したい」と喜んでいたという。

聞き取りによって、身寄りのない生活保護受給患者のほぼ全員に症状や所見に関わらず心臓カテーテル検査をしていたとされ、インフォームドコンセントの手続きもなく機械的にあらゆる検査を受けさせていた。そのほか放射線技師による画像の加工、注射によって頻脈に導くなど病状を捏造していたことも発覚。「病人」を捏造し、医療報酬に変えていたのである。検査を拒否する患者は強制退院させられ、罪悪感を持つ職員は次々と辞め、違法行為を指摘した医師は辞めさせられたという。

2011年1月、山本病院で生活保護受給患者に対して行われた心臓カテーテルによる血管内手術のうち140人分は不必要なものだったことが専門医たちの鑑定により明らかとなった。大阪市の場合、治療動画の残されていた116人の内98人が不要な手術だったと判断された。医療法人が自己破産した後、29の府県市が過去の診療報酬のうち3億2000万円余の債権届を提出したが、破産管財人はこれを認めず、最終的に7自治体で僅か143万円余の返還となった。

生活保護受給患者の入院が半数以上を占め、実数は437人。そのうち県内は14%で、大半が県外、なかでも大阪市が60%を占めた。

 

大阪市の病院や行政側がこうした受け入れ先病院の診療実態をどこまで把握していたものかは分からない。しかし行路死亡や行き倒れを防ぐためには受け皿となる病院がどうしても必要であり、病院側としても福祉が手厚く身寄りのない生活保護受給者を手なずけることにやぶさかではなかった。一般患者と違って、言いなりにならなければ追い出したり手足を括って言いなりにさせることもできる、たとえ亡くなっても困る人はいない、という蔑視もその根底にはあったのではないか。

そうした一方で、自治体や関係団体に通報が入っても、すぐに厳しい監査が行われることは少なく、改善指導が通知される程度で済まされがちである。具体的な措置や対策は病院任せとなっており、福祉施設での虐待事案などと同様に重大事件の発覚までに時間を要することが指摘されている。山本病院のように明らかにされる事例は氷山の一角にすぎないと考えるべきであろう。

 

命の灯

2023年11月、矢島医師の死から14年目に出された「さっちゃんの会」発行の広報紙『さっちゃんと共に生きる』150号では、支援者の植田敏明氏が手記を寄せている。

それは事件に関して黒川所長が「事件解決のために十分な協力をしてきた、とは思えない」、社会的弱者のための医療という志のもと活動を共にした「祥子さんやご家族のためにも口をひらく責任があるはずだ」という「ふみきった内容」であった。

 

 

西成で居酒屋「集い処はな」を営み、『日本の冤罪』(鹿砦社、2023)を著した「はなまま」こと尾崎美代子氏は、デジタル鹿砦社通信で矢島さんの死について寄稿している。

患者のセカンドオピニオンを提案したり、適切な診療方針を要望する矢島医師は、患者からむしれるだけむしりたい病院からすれば相当に煙たい存在だったにちがいない。また彼女が亡くなる約1か月前、釜ヶ崎でのフィールドワーク報告会で「貧困ビジネス生活保護受給者への医療過剰状態」などを問題視する報告を行っていたとされる。

尾崎さん自身は医療関係者ではないが、客や知人の見舞いでそうした生活保護受給者や行路生活者を専門にする福祉病院(「行路病院」)を目にしてきたという。

「福祉病院は、数か月いると、別の同様の病院にタライ回しにされる。そこでまた一から検査などを受け、そこの病院を儲けさせるためだが、先のお客さんが次に回された京橋の病院は、私が見舞いに行くと驚いていた。生活保護者の患者に見舞いに来る人がいるとは思っていなかったのだろう。」と振り返っている。

https://www.rokusaisha.com/wp/?p=48381&fbclid=IwAR3RgTr0ifZYyWUkSb2LadP4buXQkH7wPeVQw9Xwki_U-iK0RSqYZRuiBMM

矢島さんが行った報告の詳細は不明だが、釜の「部外者」として赴任してきてから2年半、多くの診療や生活支援を手掛け、人々と語らい、関係を深めていく中で、自分の患者たちも釜ヶ崎に巣食った貧困ビジネスの内部構造に組み込まれていることに危機感を募らせたはずである。彼女が知りえたものは業界を震撼させた山本病院事件と直接関係していたのか、あるいは別ルートの病院とのつながりであったのか定かではない。

いずれにしても彼女の倫理観には到底許容しえない診療実態と知り、その動きを察した西成の特殊な保険福祉医療業界に巣食った面々が片づけたと考えるのが妥当に思われる。発覚したのは身近な相談相手だったのか、はたまた外部と思って情報を流した相手が逆に彼女を「売った」のかもしれない。

釜ヶ崎の町医療を支えてきた黒川医師や生活困難者たちの心の拠り所となってきた本田神父らでさえも太刀打ちできない、不可侵な勢力とは何なのか。巨大な闇に向けてさっちゃん先生が命を賭して点けた灯を決して絶やしてはならない。

 

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貧困と生活保護(33) 必要のない手術を繰り返していた山本病院事件 | ヨミドクター(読売新聞)

遺体なき殺人——フランス邦人留学生行方不明事件

フランス留学中だった筑波大生・黒崎愛海(なるみ)さんの失踪事件。現地捜査当局は“遺体なき殺人事件”と断定して元交際相手のチリ人男性を逮捕し、2023年12月に控訴審が行われた。

 

事件の発生

2016年12月5日、フランス東部ブザンソンで留学中だった筑波大学学生・黒崎愛海さん(当時21歳)がその消息を絶った。

5日未明から早朝にかけて寮で寝起きする学生10数名が、彼女の暮らす106号室付近から叫び声やドスンという何かを叩くような音を耳にしていた。

「甲高い女性の叫び声が響いて、最初はホラー映画かと思ったけど、しばらく続いたので不安になりました」

女性の悲鳴は1分か2分近く続いたとされ、驚いて廊下に飛び出した学生もいたが異変の発生源を特定するには至らなかった。変事を察した学生は少なくなかったにもかかわらず、そのときは警察への通報はされなかった。

愛海さんは8月末に渡仏し、9月からブザンソンにあるフランシュコンテ大学に留学していた。同大学は3万人近い学生の12%を外国人学生が占め、フランス語およびフランス言語学では世界有数の教育機関である。彼女は寮で生活しながら1月の経済学部への編入に向けて、応用言語学センターでフランス語を受講していた。

 

クラスメイトたちはそれまで休んだことのなかった彼女の突然の無断欠席を心配し、寮生たちも異変に気付いてSNS等でメッセージを送り続けたが、ほとんど返事はなく12日以降は完全に音信不通となる。

最後のメッセージは日本で暮らす愛海さんの母親や妹たちの元に届いていた。「新しいボーイフレンドができた」「一週間ルクセンブルクに行く」「ひとりで行く」と一方的に告げる内容だった。ブザンソンの友人たちは度々彼女の部屋を訪ねたがずっと不在が続いていた。その後、友人と寮の管理人によって106号室の様子が確認され、14日、応用言語学センターから行方不明者として警察に届け出がなされた。

翌15日夕方に警察は彼女が暮らす学生寮の立ち入り調査を行い、自発的失踪とは結びつかない状況を把握した。前述のように住人たちは不審な叫び声や物音を聞いたと証言し、室内に血痕や争った形跡などはなく整理整頓されて見えたが、いつもはもっと雑然としていると違和感を示した。

降雪も近い時季だというのに、彼女の唯一のコートやスカーフは残されたままとなっていた。現金565ユーロや交通カードの入った財布やラップトップPCも置きっぱなしで、旅行や家出とは考えにくい。その一方で、パスポート、携帯電話、毛布、スーツケースが部屋から紛失していることが判明する。

隣室には同じく日本人留学生が暮らしていたが、5日未明の騒音以降は生活音さえ聞いていないという。詳しい聞き取りの結果、悲鳴を聞いた寮生のひとりがグループチャットに「誰か殺されてるっぽい」と投稿していたことが確認される。投稿は午前3時21分であった。

 

疑われた恋人

警察は当初、愛海さんの当時の交際相手に疑いの目を向けた。同じ地区に暮らし、国立機械マイクロテクノロジー高等学校に通うアルトゥール・デル・ピッコロさんである。

「12月4日の午前11時半まで一緒にいたが、午後には通っていたダンスクラスに行ったと思います。夕方に少し見かけて以来、会っていません」

4日夜にメッセージを送ったが返信はなく、心配して5日夜には彼女の部屋を訪れたが応答はなかった。毎日顔を合わせていた恋人の予期せぬ失踪に心配した彼は無事を信じて「直接会って話がしたい」とメッセージを送り続けた。ようやく6日深夜にになって「後日にしてほしい」と返信があった。ピッコロさんは恋人が無事だったことを知って多少安堵したものの、“失踪”の説明を求めた。

「メールには“ある男性と出会い、その人と一日を過ごした”と書かれていました。私が“戻ってくるつもりはあるか”と尋ねると、ノーと返信があり、私は彼女に裏切られたように思いました」

メッセージには、男性への感情は一時的な、恋愛ともいえないようなものだが、どうしたらよいのか自分でもよく分からない、と記されていた。ピッコロさんは、悲しみと怒りがないまぜになった、とその時の心情を振り返る。

「12月6日(火)に“パスポートの手続きのためリヨンに行く”というメールを受け取りました。変だと思いましたが、彼女には一人になって考える猶予が必要なのだと思い、私はその気持ちを理解しようと努めました」

ピッコロさんは交際自体は順調で、今後に向けて二人で様々な計画を立てていたと語る。クリスマスには彼女を家族に紹介する約束をしており、すでに飛行機のチケットも準備していた。

「しかし8日の木曜日に送られてきた最後のメッセージには“独占欲”という単語が繰り返し使われていて、何かがおかしいと思いました」

ブザンソンに来てからの彼女の周囲で敵になる人間はいませんでした。私の知るかぎり、有害と思われたのは彼女の過去の関係でした」

 

二人が知り合ったのは愛海さんが来日したばかりの9月初旬で、ピッコロさんは「交際相手との遠距離恋愛がうまくいっていないことで折角の留学が台無しにされている」と彼女から相談を受けていた。愛海さんが関係を解消した10月初旬に二人は交際を開始したが、“元カレ”が関係修復を求めて11月に来仏する意向だという話も耳にしていた。

取り調べを求められたピッコロさんは“元カレ”への捜査を訴えたが、地理的な問題があることから警察はすぐにはその言い分を聞き入れなかった。しかし、いざ裏付け捜査が始まるとすぐにピッコロさんへの疑いは晴れた。あらゆる捜査結果がその“元カレ”による犯行を裏付けており、直接証拠は得られていなかったがすでに行方不明者は殺害されているとの見方が強まり、逮捕状が請求されることとなる。

 

嫉妬と征服

愛海さんは両親と2人の妹の5人家族で、東京都江戸川区の出身。都立国際高校を卒業後、2014年に茨城県筑波大学国際総合学類へと進学した。

同年10月、同じ筑波大学に留学中で経営管理を学ぶ5歳年上のチリ大学学生ニコラス・ゼペダ・コントレラス氏と知り合い、2015年2月頃から男女は交際関係に発展した。

愛海さんは結婚を前提としない非公式なかたちで家族にもゼペダ氏を紹介している。その年の9月から約1か月にわたってチリに旅行し、彼の家族とも面識を持った。彼の留学期間が終わると、二人は日本とチリでの遠距離恋愛となった。

 

Querido Nicolás, mi amor, estoy muy feliz... Eres un compañero extraordinario. Muchas gracias por tu apoyo, gracias por la forma en que me apoyan y la forma en que te comportas conmigo. Intento merecerte. Te amo con tu corazón, soy tuya para siempre. ❤️

(親愛なるニコラス、私の愛しい人、とても幸せです...。あなたは素晴らしいパートナーです。私を支えてくれてありがとう。私はあなたにふさわしい存在でありたい。私は永遠にあなたのものです。)

 

もともと愛海さんは貧困問題に関心を持っており、母子家庭の支援事業を立ち上げることを目標として学業に励んでいた。交換留学制度を利用して他の先進国の現状を理解したいと考え、社会保障制度が充実していることからフランスへの留学を志した。

ゼペダ氏は2016年に再来日し、彼女との生活を夢見て就職活動をしていたが、学内とは勝手の違う生活になじめず、就職もうまくいかなかった。結局、愛海さんは渡仏し、彼も10月にチリへの帰国を余儀なくされ、再び離れ離れとなった。

 

部屋の鑑識捜査によって、カップから指紋が検出され、遺伝子サンプルの分析により、水筒、Tシャツ、壁、バスルームの床、シンクの隅からも同一男性のDNA型が確認された。フランス当局のデータベースから一致するサンプルは見当たらなかったが、後にそれはゼペダ氏のものと照合されることとなる。

ピッコロさんの証言の裏取りも進められた。愛海さんの銀行口座の動きからは、12月6日にリヨン行きの片道列車の購入履歴が確認される。割り当てられた購入座席から同じ客車の乗客たちに確認を取ったが、なぜか彼女と一致するような日本人女性の目撃は皆無だった。またメッセージにあった通り、実際に彼女がパスポートに問題を抱えていたとすれば目的地とすべきはリヨンではなく、日本領事館のあるストラスブールと考えられた。

携帯電話の位置情報を解析したところ、12月4日の夜、寮から約20キロ離れたオルナンにある宿屋兼レストラン「ラ・ターブル・ド・ギュスターブ」を訪れていたことが判明。午後9時57分に愛海さんとゼペダ氏が店を出る姿が記録されており、その約1時間後、学生寮正面玄関の防犯カメラでも元恋人同士が寮に入っていく姿が捉えられていた。

彼らは何の目的で会い、何を語らったのか。二人が寮に到着して4時間半後に悲鳴や騒音が聞かれたが、表玄関から二人が外出する様子は記録されていなかった。代わりに裏の非常口から一人で出ていくゼペダ氏の姿が捉えられていた。

愛海さん失踪前後のゼペダ氏の足取りを辿ってみると、マドリードジュネーブを経由して11月30日(水)にフランス・ディジョンに到着。2週間前にチリ・サンティアゴから予約していたルノー・メガーヌ車に乗り込み、市内のショッピングセンターでプリペイド式携帯電話をチャージすると、その足で愛海さんの暮らすブザンソンへと向かっていた。

翌12月1日、昼過ぎにディジョンに戻り、スーパーマーケットで9.80ユーロの買い物をしている。その中には5リットルの燃料入りキャニスター(蓋つき保存容器)、Winflamm社製のスプレー式塩素入り洗剤、ゴミ袋、マッチが含まれていた。

レンタカーの走行記録によれば、翌2日はジュラ地区にある森林地帯を徘徊。ハイキングや観光に適した場所ではなく、森林地帯を横断するひと気のない林道である。2日と3日は前述の「ラ・ターブル・ド・ギュスターブ」に宿をとっていた。だが愛海さんと同じ寮で暮らすイギリス人のレイチェルとアルジェリア人のナディアは、2日夜それぞれ別の時間に不審な男性が寮の台所に隠れていたと証言し、写真でゼペダ氏であることを確認した。

3日、ブザンソンのH&M(衣料品店)で青いジャケットと白いシャツを購入し、翌日の愛海さんとのディナーの場で着用したことも確認された。愛海さんの失踪前、ゼペダ氏は寮に忍び込んだり、旅人らしからぬ不可解な物品や着替えを手に入れて、ひと気のない森をさまよっていたことになる。

 

レンタカーの返却は12月7日(水)正午ごろで、5日、6日には愛海さんの寮に駐車されていたとの目撃情報もある。返却された車は8日間で延べ776キロを走行し、運転席とトランクは「非常に汚れていた」とレンタカー従業員は記憶していた。

午後にはジュネーブ行きのバスに乗り、そこからバルセロナ行きの飛行機に乗ったゼペダ氏は、従兄弟で医学生のラミレスさんの元を訪れていた。ラミレスさんの供述によれば、ゼペダ氏は「ジュネーブの学会に出席するため渡欧してきた」と語り、以前交際していた愛海さんの話題を振ると「9月以来会っていない」と答えたという。また10日(土)の会話で、ゼペダ氏が窒息死について関心を示し、死に至る原理や要する時間、生死の判断について問われたという。

別の機会には「ナルミは海がとても好きだった」となぜか過去形で話していたことを従兄弟は不審に思ったという。またバルセロナでの滞在をだれにも話さないように口止めされたことも奇妙に思われた。1月になってフランス当局から連絡を受けた直後にゼペダ氏から連絡が入り、「困ったときは家族で助け合うべきだ」と言われたと証言する。

そうした不可解な行動履歴は到底旅行者らしくはない。ブザンソン地方検察は、犯罪のための下準備や隠蔽工作だったにちがいないとの確信を深め、警察犬なども動員して周辺での捜索活動を急がせた。

一方で彼女のラップトップでの通信履歴を照会してみると、8月28日から10月8日までの間にゼペダ氏との間で981通に上る破局までの激しいやりとりが明らかとなった。フランス当局はその内容から男の性格を「嫉妬深く独占欲が強い」と判断。

ゼペダ氏は愛海さんが来仏後にできた男友達に嫉妬し、SNS上での絶縁と実際の交友関係の解消を求めていた。「きみの誠意を見せてください。私はきみの決意が知りたい」「きみのパートナーは私だと彼らにメッセージを送って、これ以上つきまとわれないようにしてほしい」と主張していた。彼が愛海さんに関係を切るよう求めていた相手のひとりが、後に彼女の新恋人となるピッコロさんであった。

ゼペダ氏は彼女に自分の意に背かないよう説得を繰り返していたが、愛海さんも無抵抗に追従する性格ではなかったと見え、横暴な執着を続ける彼に対して「警察に通報する」と相手を脅すことさえあった。男性のこれまでの行いを非難し、最後には「くたばりやがれ」と吐き捨ててやりとりを終えていた。

彼女が男の要望を拒絶すると「もはや我慢の限界だよ、ナルミ。きみは私をゴミのように扱うんだね」と告げ、その2日後に動画投稿サイトDailyMotionに動画メッセージを公開した。

「きみはいい子になるんだ、これからはもっといい子になれる」

「ナルミは悪い子なので、この関係を維持するためにはある条件に従ってもらわねばならない」

「彼女は約束を守ると同時に信頼関係を再構築し、自分のしたことの代償を支払わねばならない。自分を愛してくれる人にそのような過ちを犯すのであれば、責任をとらなければいけない。期限は、そう、2週間だ」

10月9日、日本から帰国した“元カレ”はチリ・サンティアゴに戻り、行動療法センターに通うようになった。

 

指名手配

2016年12月23日、行方不明者が殺害されたことを確実視したブザンソンの捜査当局は、インターポールを通じて誘拐・拘禁などの容疑で国際指名手配を開始することを発表した。欧州を発ったゼペダ氏はすでに13日にチリに再入国していた。

国際指名手配の報道を受け、12月29日、潜伏していたゼペダ氏はチリ刑事警察庁(PDI)に文書を提出。愛海さんから過去の交際を後悔するメッセージを受け取ったため、「友好的な関係を取り戻したいと考えてブザンソンを訪れた」だけだとして殺害を否認した。交際の破局は「合意の上」だったため、「こうなっても不思議はありませんでした」と言い、自発的失踪や自殺の可能性を示唆した。

文書では、4日夜の会食の場で二人はまだ愛し合っていることに気づき、「親密になる」ために彼女の部屋に入ったことを認め、その晩は「うめき声」をあげるほど夢中に愛し合ったと説明。彼女は(交際相手ピッコロさんに対して)浮気による罪悪感を抱いたらしくひどく動揺し、彼に立ち去るように言い、非常口から帰った。現地に数日滞在したが彼女と再び接触する機会はなかった、と綴られていた。

 

翌2017年の1月4日、チリ検察当局はフランスの捜査当局からゼペダ氏の身柄引き渡し要請があったことを発表。5日にはチリ中部サンティアゴの実家周辺にいることが伝えられた。

チリの報道によれば、ゼペタ氏の父親は中南米の大手通信プロバイダー「モビスター」の幹部を務める。マスコミの詮索を避けるため、海岸沿いのリゾート地ラ・セレナの短期滞在型コンドミニアムの部屋を契約して妻を住まわせ、1月2日(月)に父親の車でマンションに入るゼペダ氏の姿も目撃されていた。父親は勤め先で1月3日から約10日間の休暇を取得しており、一緒に行動していると報じられた。

 

2017年3月、フランスの捜査当局は日本に捜査協力を要請し、ゼペダ氏の友人サカマキリナさんとスギハラメグミさんに事情聴取を行った。

彼女たちは愛海さんの失踪直後の時期にゼペダ氏から連絡を受け、「新しいボーイフレンドができた」などいくつかのフレーズについて日本語に口語訳してほしいと頼まれていた。数週間後、知人伝いに愛海さんの失踪を知らされ、愛海さんの家族宛ての最後のメッセージを目にした。LINE上で使われていた文言は自分が翻訳したものであり、ゼペダ氏によって失踪の隠蔽工作に使われたと直感した。

また彼は二人にメッセンジャーアプリでのやりとりを消去するように求めていた。サカマキさんはそのとき愛海さん失踪を知らなかったこともあり、言われるまま削除に応じたという。スギハラさんは後に「なぜ削除させたのか」と彼に問い詰めると「私が元交際相手だったからと言って、失踪の容疑者にはなりたくない」「心配しないで。彼女は別の男性と楽しくしているでしょう」と応答があったという。

 

身柄引き渡しと裁判

ニコラス・ゼペダ氏とその家族はフランス当局による取調や身柄引き渡しを拒絶。検察局は粘り強い交渉を続け、チリ司法においてその可否を決することとなった。

2020年1月13日、3年間沈黙を守っていた愛海さんの母親と妹たちは「家族の気持ち」と題した嘆願書を在チリ日本大使館に送付。在チリ日本領事から検察庁に照会され、チリ最高裁で行われる身柄引き渡し審問に提出される。

私は24時間、愛海の写真を胸に抱き、『どこにいるの、帰ってきて』と祈り続けています。毎日が地獄で、身も心もボロボロです。走行中の車から身を投げたこともある。——

―—ニコラスがフランスで捜査されることを祈ります。愛海の命を奪ったニコラスを、そして彼女が一番大切にしてきた家族全員の人生を奪ったニコラスを、私たちは絶対に許すことはありません。たとえ命が尽きようとも、この恨みが失われることはありません。

母親は失職し、妹たちも学業に励むことに苦労したという。愛海さんの身に何が起こったのかを正確に知ることもできないまま、家族はただ毎日を生きるのみだった。フランスに渡って愛海さんの捜索活動をすることも考えた。しかし母親は沈黙を続ける娘の“元カレ”が真相を、彼女の居場所を知っていると確信し、チリに渡って面会を要求したが結局実現は果たされなかった。

5月18日、チリ最高裁はゼペダ氏の身柄引き渡しを承認。自宅軟禁に置かれた後、チリ捜査警察によりフランス当局へと引き渡されることとなる。7月24日、パリ・シャルル・ド・ゴール空港に到着した容疑者は予審判事の許へと連行され、ブザンソン公判前拘置所に収容された。

 

2022年3月から4月にかけて、ブザンソン裁判所で一審刑事裁判が行われ、フランスのほか日本、チリ、スコットランドの証人が中継で参加し、日本語とスペイン語の同時通訳で傍聴が可能となった。各国のジャーナリストや市民が詰めかけ、2つの法廷が解放されてスクリーンモニターで審理の様子を見守った。

ゼペダ氏の弁護を担当したのは、サルコジ元大統領の盗聴事件などで知られるパリ弁護士会ジャクリーヌ・ラフォン弁護士でゼペダ被告の無実を主張した。

愛海さんの母親、妹のクルミさんも2週間の審理を傍聴し、証言台にも立った。ブザンソン弁護士会のシルヴィ・ガレー氏が家族の代理人として手続きをサポートしている。

公判の中で、ゼペダ氏が参加していたSmule、last.fmDeviantArtなどのオンライン上でのやりとりが参照され、様々な日本風のイラストがあったほか、実際の彼の行動さながらに「元パートナーと再会するためにチリから米国へと旅する男の物語」の投稿も見られた。

失踪後の12月10日にも愛海さんのFacebookアカウントはログインが報告されており、IPアドレスはゼペダ氏がバルセロナ滞在中に使用したものと一致。また交際していたピッコロさんのSNSアカウントへゼペダ氏からの攻撃があったことも証言された。

エマニュエル・マントー検事総長は、通信履歴や各種投稿の内容から被告の嫉妬深く独占欲の強いストーカー気質を示した上で、ブザンソンへの訪問は「復縁の説得」のためと推測されるが、二人が再開する12月4日より前の行動履歴と照らせば、彼女の対応如何によっては殺害することも事前に想定されていたと主張した。

現状“遺体なき殺人”であることから「最も可能性の高い仮説」として、彼女は自室で窒息死させられ、遺体はスーツケースで車に積まれてジュラ地区の森林地帯に運ばれ、森林地帯に埋められたかドゥ川に遺棄されたとする公訴事実を述べた。

4月12日、マチュー・ユッソン刑事裁判所長官は懲役28年の有罪判決を下した。

ゼペダ被告は判決を不服として控訴。2023年2月に控訴審が開始されたが、公判途中で法定代理人(ジュリアン・アサンジの弁護で知られるアントワーヌ・ヴェイ弁護士)との間でトラブルが生じ、ルノー・ボルトジョワ弁護士、シルヴァン・コーミエ弁護士が新たに担当することとなった。

 

〔2023年12月22日・二審判決加筆〕

2023年12月4日からヴズール控訴裁判所で改めて控訴審が開始された。

33歳になったセペダ被告は、尋問に対し、「プレッシャーやストレスを感じながらも、ようやくこの瞬間を迎えることができた。無実の罪でひどい非難を浴びている。質問に答える準備はできている」と口を開いた。

彼は2014年に日本で出会った愛海さんについて「尊敬」と「思いやり」に基づくパートナーシップだったと振り返り、「私はこの失踪とは関係がない」「私も何が起こったのか知りたい」と元恋人の安否を危惧した。彼女から「一生一緒にいるのか」と問われ、「僕はそう望んでいると答えた」と交際当時を振り返った。

それに対し、ピッコロさんの代理人である弁護士は「彼の物語は“ディズニーランド化”された架空の話だ」と喝破し、「被告は身の安全を図ろうとしている」と指弾する。被告は自分の言葉で証言を続けるものの、質問が細部に及ぶと答えに窮する場面も見られた。

 

証人として出廷した愛海さんの母親は、娘から紹介されたチリ人のボーイフレンドに対して「事件前から不信感を抱いていた」と明かした。

そもそもチリは話題にもしない遠い異国という認識だったため、娘から交際の事実を聞かされたときは驚かされたという。被告と初めて会ったのは愛海さんがアパートの引っ越しをしようとしていた時期だった。見た目は「ハンサムで優しそうな子」という印象だったが、彼は初対面の母親に挨拶ひとつしなかった。

引っ越しを手伝う約束をしていたが、当日、彼は姿を現さなかった。日本では信用を失うため守れない約束事はするべきではないとされている。一緒に食事をした際に家族の話題となり、青年は「スペイン系で、母親は裕福な家の出身だ」と紹介した。日本では「裕福な家柄である」と自称することは、品性の観点からあまりよい行いとはみなされない。家族はゼペダ氏の性格や対応に違和感や不安を感じていたが、娘のためにも「文化の違い」と寛容な理解に努めてきた。

男への不信感が決定的となったのは、愛海さんからチリ滞在時の出来事を聞かされたときだった。愛海さんは彼とスキーに出かけた際に雪道で遭難してしまい、叫び声をあげて助けを求めて命からがらの思いをして救助されたことがあったという。しかしゼペダ氏は「遭難についてだれにも言わないでほしい」と彼女に口止めしたというのである。なぜ人命が掛かったそんな大事をひた隠そうとするのか、その人間性に疑いを抱くのも当然である。

 

愛海さん家族の代理人シルヴィ・ガレー弁護士は、被告が送った“きみはいい子になるんだ、これからもっといい子になる”との動画メッセージについて言及する。関係修復のやりとりの中で、彼が元恋人に出した条件、その意味するところは、決して問題を起こさず、決して怒ることなく、決して意地悪をせず、決して悪口を言わず、決して歯向かったりしない、という絶対的な服従関係の要求であった。

彼女は生理の遅れから妊娠を危惧してクリニックを訪れていたとみられ、2016年10月には「あなたは私の体を傷つけ、大金を奪い、私から未来の子どもを奪った」と厳しい口調で男の不誠実な態度をなじっていた。彼女は完全にパートナーの言いなりになる女性ではなく、そうした過去の出来事も破局の引き金になっていたと考えられる。説明を求められたゼペダ被告は「妊娠検査薬の反応を疑って彼女は病院へ行ったが結局妊娠の事実はなかった」と述べているが、彼女のメッセージを字義どおりに捉えれば(男が関知していなかったとしても)堕胎手術があったようにも解釈できる。

筆者の憶測になるが、2016年に彼女を追って来日した恋人は自分を差し置いてフランス留学する彼女の決断を快くは思っていなかったに違いない。就職活動は不調に終わったが、地球の裏側から恋人との生活を求めて駆けつけた愛情は疑いようがない。「一生一緒にいよう」と願ったのは愛海さんではなく、男の方ではなかったか。彼女の留学は第一義には学業のためであれ、彼の支配や束縛、性的暴力などから逃れたい、早く離れ離れになって関係を終わらせたいとの気持ちも念頭にあったのではないか。

被告は一審判決後の収監について言及し、メディアの悪意ある報道と彼がフランス語を話せなかったことから「問題を抱えている」と見なされ、他の囚人とは一切交流できない境遇に置かれていたと語った。隣室の囚人の自殺や聴覚障害をもつ囚人への虐待も目にしたと獄中生活の過酷さを振り返った。ブザンソンでの勾留期間中にも看守から数回の殴打を受けたと報告すると、被告は嗚咽し始めた。ゼペダ被告の母親は立ち上がり、「息子の人権はどこにあるのですか」「私の息子を犬のように扱って」と叫んだ。公聴会は15分間中断した。

 

ギャレー弁護士は、マッチ、洗剤、燃料入りキャニスターの購入について説明を求めた。被告はマッチや洗剤は日用品として、キャニスターは燃料を携行するためではなく容器のデザインが気に入っていたためと購入理由を述べた。検察側は「あなたの証言は信用できない。カルフール(マーケット店)では空の容器も販売されていた」と語気を強めた。

被告の言い分が変わったのは、12月4日にブザンソン二人が“再会”した経緯である。これまでGPSに導かれてたどり着いたとしていたが、彼女の暮らす寮は事前に知っていたと述べ、否認していた学生寮周辺での事前の徘徊を告白した。

「一緒に過ごした時間よりも、私にとって重要なのは出会いだった」

遠くチリ・サンティアゴからフランス・ブザンソン学生寮までたどり着いたものの途方に暮れたゼペダ氏は、車の後部にA4用紙を挟んで彼女が気づくことを信じて待った。紙には、二人にだけわかる「暗号」として、ニコラスとナルミの名前を縮めてつくった「ニコミ」という恋人時代に考案した二人の愛称を日本語で書き添えていた。

気づくと「ニコミ」の紙が抜き取られており、車を降りてみると目の前に元恋人の姿があった。涙ながらに「もう会えないと思っていたのに」と再会に驚く彼女を車に乗せて食事に向かい、そこで両者の愛情が失われてしまった訳ではないことを確認し合ったという。

その晩から5日明け方にかけて二人は彼女の部屋で肉体関係に及んだ。避妊具をどうしたかは記憶にないとしている。また5日早朝に追い出されたとの証言を覆し、翌6日まで彼女の部屋に留まり、6日に二人で外出したと述べた。検察側が愛海さんの生存を匂わせる偽装工作だと位置づける「リヨン行きの鉄道切符の購入」について、被告は彼女から頼まれて購入したものだと説明した。

ゼペダ被告の父親は「愛海さんが今現在死亡していることを断言できる人は存在しない」と述べて、死体なき殺人の犯人にされかけている息子を擁護した。弁護団は「部屋の暖房器具に頭をぶつけて亡くなったとすれば…」と、彼女の失踪について計画殺人以外の解釈をする余地がない訳ではないことを陪審員に訴えた。

 

2023年12月21日、控訴審裁判所フランソワ・アルノ―裁判長は陪審員ら12人での5時間に及ぶ審議の末、前年の一審判決を支持し、被告に懲役28年の判決を言い渡した。尚、刑期満了とともにゼペダ氏には国外退去が命じられるとともに、黒崎さん家族に22万ユーロ、ボーイフレンドだったピッコロさんに5000ユーロの賠償金の支払いも命じられている。

「私は殺人者ではない!ナルミを殺していない!」

無表情で判決を聞き入っていた被告は泣き崩れ、通訳を通して判決内容を知らされた父親は息子の頭をなでて慰めようとした。結審後、記者団に囲まれた父親は「具体的かつ直接的な証拠」を提出していないとして検察側を非難し、「今日、フランスで無実の人が有罪判決を受けたことをだれもが目撃することになった」と判決への不服を露わにした。

約3週間の公判を終えた愛海さんの家族と代理人シルヴィ・ガレー弁護士は、判決そのものに不服はないとしたが、ゼペダ被告が真相を語ろうとしなかったことは遺憾であると述べた。

被告側の弁護団は、上告も含めて慎重に検討すると述べ、裁判所を後にした。

 

名張毒ぶどう酒事件

事件の発生

三重県名張市の葛尾公民館の会合で振るまわれたぶどう酒を口にした参加者たちが次々に異常を訴え、女性5人がその場で死亡、12人が重軽傷を負う惨事となった。

 

凶事は1961年(昭和36年)3月28日午後8時頃、生活改善クラブ「三奈(みな)の会」の年次総会後に開かれた懇親会の席で起こった。

「三奈」の名は隣接する三重県名張市葛尾と奈良県山辺山添村の会員で構成されたことに由来する。当時は若い世代の親睦や暮らしぶりを変えようという農村活動が各地で盛んに行われ、名張駅から車で20分余の彼の地も例外ではなかった。

総会には男性13人・女性20人が参加しており、懇親会では女性たちが支度した手料理のほか、男性向けに日本酒が、女性向けにぶどう酒が用意されていた。女性参加者のうち被害を免れた3人はぶどう酒の注がれた湯のみ茶碗にまだ口を付けていなかった。

ぶどう酒を口にした女性たちの顔色はみるみる青紫に変わり、目を剝き、歯を食いしばり、口や鼻から血を出す者もあり、楽しみにされていた親睦の宴は瞬時に惨憺たる地獄絵図と化した。

現場に駆け付けた警察は女性ばかりの被害者や状況確認から、ぶどう酒に何らかの毒物が混入されたものと判断する。

 

販売した林酒店で入荷した「三線ポートワイン1.8L」の内容物をすべて確認したが、毒物混入が認められるものは一本もなかった。同製品は広く市販されていたが同様の中毒被害は報告されていないことから、製造・流通の過程ではなく購入後に毒物の混入があったものと推測される。

その後、三重県衛生研究所、三重県警鑑識課による毒物検査、医師らの診断書、三重県医大の遺体解剖により、ぶどう酒に有機リン系テップ剤が入った農薬の混入が判明する。テップ剤は加水希釈した際の分解が速く、毒性が減衰して無毒化することから毒物指定されてはいなかった。その性質から宴会の時刻に近接した時間帯に混入されたものと考えられた。

 

逮捕

名張署はぶどう酒調達の経緯を確認し、購入を決めた三奈会会長の奥西樽雄氏(以下「会長」)、酒を買い付けて会長宅まで運んだ農協職員の石原利一氏、会長宅から公民館まで運び込んだ奥西勝(当時35歳。敬称略)の3人を重要参考人として監視を付け、連日事情聴取を続けた。

死亡者には、会長の妻フミ子さん(30歳)、奥西の妻チヱ子さん(34歳)、奥西と情交関係にあった北浦ヤス子さん(36歳)も含まれていた。

事件当日、石原氏は酒を購入した後、偶々通りがかった薪炭商の神田赳さんに声を掛けて荷物の輸送車に便乗させてもらい、2.6キロ離れた会長宅へと向かった。酒は車上から会長の妻フミ子さんに手渡され、玄関の土間に置かれた。会長宅の台所では料理の支度が行われて女性たちが出入りしており、終始監視下にあった訳ではないが視界に入る位置にあった。

午後5時20分頃、会長宅を訪れた奥西によって酒は公民館へと運ばれ、「囲炉裏の間」に置かれていた。5時半頃には会場準備で人が集まっていたにもかかわらず、毒を入れる犯行場面を目撃した者はなかった。総会は午後7時頃に始まり、話がまとまると8時頃から懇親会へと移行。囲炉裏の間は総会会場となった6畳二間をつなげた広間からも見渡せる位置にあり、その間、不審な行動をとる者は確認されていなかった。

警察はその日、集落に部外者の出入りがなかったことを確認し、住民による犯行と断定。犯人特定につながる証拠を探したが、毒物混入の目撃はなく、毒薬の容器などは発見されなかった。酒瓶の「蓋」がいくつか見つかりはしたが古いものが多く、該当の蓋ははっきりしなかった。

 

逮捕直後の記者会見

奥西は当初容疑を否認していたが、厳しい追及を受けて「妻がやったと思う」などと供述。事件から5日後の4月2日に「公民館で自分が農薬ニッカリンTを入れた」と自白するに至り、翌3日に逮捕された。

逮捕後、報道陣の前で会見が行われ、やつれた顔の奥西は「自分のちょっとした気持ちからこんな大きな事件に…亡くなられた人や入院されている方、また家族のみなさんに何とお詫び申し上げてよいか分かりません」と首を垂れた。

奥西は夫と死別して後家になったヤス子さんと1年半ほど不倫関係にあり、集落内では公然の事実とされていた。それが秋ごろ、妻チヱ子さんに発覚して険悪となり、双方から関係解消を迫られた上、村の女性たちからも非難されて三角関係をさっぱり清算したかった。自分に疑いが掛かりづらくする犯跡隠滅のためにあえて集会での集団毒殺に及んだ、というのが警察の見立てた動機であった。

 

100㏄入りニッカリンTは前年8月に黒田薬品商会で購入したもので、元々の瓶は近くを流れる名張川に遺棄したと供述。持ち運びには前日つくった手製の竹筒を用い、公民館で一人になった隙を見て混入した後、囲炉裏で竹筒を燃やしたと述べた。しかし名張川で薬瓶の捜索が行われたがガラスの一片も発見されず、竹筒を燃やしたとされる囲炉裏や捨て灰からも薬剤の化学反応は検出できなかった。

洗いざらい白状したかに思われた奥西だったが、起訴直前になって「強要誘導の取り調べを受け、嘘の自白調書をつくられてしまった」と否認に転じる。獄中手記によれば、取調官から「家族の者が村落民から迫害を受けて土下座、謝罪をさせられた」と聞かされ、「家族を救うためにはお前が早く自白することより他にないのだ」と詰め寄られた旨が綴られている。

村落でそうした家族への迫害が事実行われたものか、心的な揺さぶりをかけようと取調官が作話したものかは判断付きかねる。しかし身体的拘束下で事実を確認する術もないなかそのような話を聞かされては、たとえ真犯人でなくてももはや「自白」を選択する以外に道はなかったといえる。

 

見えざる力

逮捕前、奥西と同じく重要参考人とされた三奈の会会長も警察から「お前がぶどう酒購入を決めたんだろう」と厳しい追及を受けていた。

3月26日に役員が集まって2日後の総会に向けて打ち合わせが行われたが、会長はその場にいなかった。話し合いで、折詰の準備、菓子、男性会員向けの清酒2本の購入などが決められた。だが懇親会はここ3年ばかり前から始まったもので、女性用のぶどう酒を出すか否かは資金面の不安もあったため、その点は会長の裁量に託された。事件当日となる28日、会長は勤め先である農協から公民館へ支給される助成金があることを確認し、ぶどう酒の購入を決断。部下の石原氏に清酒2本とぶどう酒1本の買い付けを命じていた。

 

翌3月29日の取り調べで会長は、懇親会に移る支度の最中に妻がぶどう酒を持ってきて「栓が堅いから抜いて」と頼まれてコルク栓を手で抜いてやったと証言している。このとき包装紙や瓶の栓や王冠もついていなかったため、先に妻が自分で開けようとしたのではないかと述べていた。

だが不思議なことに事件直後、石原氏も「着席したときに(奥西の妻)チヱ子さんが栓を抜いてと言うので瓶の栓を噛んでテコの原理で傾けたところ簡単に抜けた」と証言しており、なぜか31日に至って「(会長の妻)フミ子さんの依頼だった」と訂正している。1本しかないはずのぶどう酒の蓋を、2人の男性に2度開けさせたのだろうか。

4月1日の取り調べで「このような事件を起こすような理由があると思われる人物」の心当たりを挙げさせられた会長が第一に挙げたのは妻フミ子さんの名前であった。妻と姑は長年折り合いが悪く、フミ子さんはなじられたり手を挙げられたりしたことがきっかけで精神的に不安定になり、宗教団体に通うようになっていた。義母は会合に参加する立場にはなかったが、家名を汚す当てつけによる復讐が目的とも考えられた。

第二に、酒が飲めない訳ではないのにその日に限って口を付けていなかった女性の名を挙げ、第三に、集落内で三角関係のあった奥西勝の名を挙げた。

奥西勝の方は疑わしい人物として自身の妻の名を挙げる前に、やはり会長の妻フミ子さんを挙げていた。以前には義母(会長の実母)と喧嘩したフミ子さんが奥西の家に飛び込んできて匿ってやったことがあった。また3月23日か24日頃、フミ子さんが姑と喧嘩して「川にハマるか薬でも飲むかして死んでしまいたい、と口にしていた」と妻から伝え聞かされたという。

疑問に思われるのは、なぜ会長も奥西も死ぬ可能性のない男たちではなく、命を落とした妻の名を挙げたのか。

少なくとも奥西は86年の第5次再審請求に至っても「今も、そういうことはちょっと頭から離れません」として妻チヱ子さんへの疑いを払拭できていなかった。亡くなった妻のエプロンに小瓶と栓抜きを発見したためだと証言したが、警察は亡くなった女性たちへの捜査を充分尽くしていたのか。チヱ子さんが喧嘩の際に本件のような犯行を仄めかしていたのか、奥西の供述には推測と曖昧な記憶が入り混じっておりはっきりしたことは分からない。

 

物的証拠がほとんど出ないことから、捜査の主眼は住民証言が大きなウェイトを占めることとなる。とりわけ重要となるのは被告人以外に犯行可能な人物がいたか否かである。そんななか事件直後と4月半ば以降で、複数の重要証言が不可解な変遷を示した。

酒を販売した副野清枝と店主林局子は、3月29日から4月16日まで複数回の聴取で石原氏への販売時刻を「午後2時半から3時頃」だとしていた。しかし4月19日に至るや二人とも口を揃えて、時計を見ておらず、時刻の目安となるバスの通過を見かけてもなく、曇天で時間の観念がなかったと言い出した。「4時を過ぎていたのではないかと言われれば、或いはそうではないかと思います。一番確実に言えることは昼ごはんと晩ごはんの間ということ」と不自然なほどに曖昧な証言に改めていた。

酒を買い届けた石原氏の言い分も、4月11日までの聞き取りでは「酒を届け渡したのは2時頃もしくは2時か3時頃」としていたものを、勘違いがあったとして、21日聴取に至るや届けたのは「午後4時半から5時」と、より時間帯を限定して遅い時刻にずらしている。

会長宅で酒を受け取ったのは、会長の亡き妻フミ子さんで、そばに会長の妹・稲盛民さんがいた。民さんは元々離れて暮らしていたが、出産を控えて義母・稲盛ゆうさんに送られてこの日会長宅を訪れていた。二人はゆうさんをバス停まで見送るため、午後4時から5時10分頃まで約1時間余は家を空けており、見送り先の三重交通上野営業所に対しても3人の行動確認が取られている。

つまり酒の受け取りは、フミ子さんたちが外出した午後4時より前か、見送りから戻った5時10分より後ということになるが、検察側は後者を採用し、会長宅に運ばれてからほとんど間を置かずに奥西が公民館へ運んだというスケジュールが組み立てられた。

 

住民たちの時刻に関する不自然な変遷には、会長宅から公民館に運ぶまでのタイムラグはほとんどなかった、奥西以外に犯行の機会がなかったことを示そうという「見えざる力」が住民たちに働いたとしか考えられない。それが捜査当局による誘導だったのか、あるいは奥西が犯人でなくてはならないと考える人物による圧力か、ともすればその両方だったのかは分からない。しかし住民証言の変遷の一致は単なる誤認や記憶違いではなく、何らかの意図によって誘導され、口裏を合わせているように思われた。

 

逮捕後間もない4月9日の奥西の調書を一部抜粋する。

被告人36・4・9司
問、あなたは、ぶどう酒にニッカリンの液を入れることを決意したのは何時ですか。
答、三月二八日午後五時週ぎ私方隣りの奥西楢雄さんの家に行った時、表出入口の入った直ぐ左側の小縁に酒二升とともにぶどう酒が置いてあり、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞かされた時でありました。(中略)私がニッカリンをぶどう酒に入れることを決意したのは先刻申しました通り楢雄さんの家に行って、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞いた時であります。時間は午後五時一〇分から二〇分までの間でありました。確かな時間は時計を見ておりませんので判りませんが、仕事を済まして家に帰ったのが午後四時四〇分頃でした。それから直ぐ、牛の運動をさせておりました。この時間が二〇分か二五分位であったと思います。それから直ぐ作業服を脱いでジャンパーに着替え、出て来たのでありますから、時間は、大体申し上げた時刻になると思います。それから酒とぶどう酒を持って寺(会場)に行き、直ぐ後から来た坂峰富子さんが机を並べて会場の準備をしてから出て行きましたので、そこで私が一人となったので、用意して来たニッカリンを竹筒からぶどう酒に入れたのですが、この時間が午後五時二〇分頃から三〇分頃までの問であったと思います。

前述のように、ぶどう酒の購入決定は、28日の午前中に会長が農協で予算の確認をするまで為されていなかった。にも拘らず、奥西の証言では、なぜかその機会を見越してニッカリンTを前夜に拵えた竹筒に入れて携えており、いつ会員が入ってくるかも分からない準備中の僅かな隙をついて混入したことになっている。

 

三角関係と事前準備

奥西はヤス子さんと前年秋頃からの情交関係を認めたが、はたして三人の関係は実際に人殺しへ、それも無関係な村の女性たちを巻き添えにしてまでも果たされねばならないようなところまで追いつめられていたものだったのか。

奥西は農業の傍ら、日銭を得るためにチヱ子さんと富士建設片平採石場で砕石仕事に従事していた。それも現場へはヤス子さんと三人一緒に通っており、仲間内の飲み会では奥西とヤス子さんが同じ酒を間接キスのように飲み継いだことからチヱ子さんが憤慨したこともあったという。村民たちは家族同然の身近な付き合いで、ヤス子さんとチヱ子さんも毎日のように顔を合わせており、あくまで仮定の話だが、いざとなれば互いに相手を殺害する機会はあったものと想像できる。

では警察・検察側の見立て通り、奥西が三角関係の清算をすると共に疑いの目を逸らすために周囲の女性たちをも手に掛けたというのだろうか。妻か愛人かいずれかを連れ立って村を離れるなど、いくらでも他に手立てがあったのではないか。

 

被害者のひとり福岡二三子さんは、事件前のチヱ子さんの様子について次のように供述している。

チヱ子さんは「うちの父ちゃんがストッキングとコンパクトを買って来てくれた。」と言っていました。それが三月一五日に勝さんら男の役員が名古屋に行ったのですが、そのみやげだったとの事でした。私は勝さんがチヱ子さんをいじめていると思っていたら三月頃にはチエ子さんにコンパクト等を買って来たというのですから勝さんもいいところがあるのだと思った。三月一七日に有馬温泉に行きましたがその途中チヱ子さんの話では小遣銭五〇〇円を勝さんがくれたとのことであり、「勝さんに何か買って帰らなければ」と言っており有馬で三〇〇円のタバコケースを買って帰えられました。こんな訳で先月頃はチエ子さんも勝さんとヤス子さんのことについては悩んでいた模様は見受けられません。

奥西は一方の北浦ヤス子さんにはこけし人形一個を名古屋土産として与えていた。3月18日頃にも名張市内の洋傘店で婦人用洋傘2本を購入し、チヱ子さんとヤス子さんにそれぞれ一本を与えている。10日後に惨劇を繰り広げる人物にしては悠長に過ぎ、追い詰められている様子は皆目見られないのである。白沢今朝造さんは、奥西がチヱ子さん、ヤス子さんらに「四月二日に赤目に一緒に行こう」と話していたことを証言している。

 

事件前夜に奥西は薬剤を持ち込むための竹筒を準備していたと自白している。

3月27日夜7時過ぎ、一回り以上年下の山田清・治兄弟が奥西家を訪れていた。父親が石切り場の石工をしていた縁から兄弟は奥西夫婦のことを兄貴・姉さんと呼んで慕い、普段から風呂を借りたりテレビを見させてもらいに遊びに来る親しい間柄であった。奥西が夕飯の最中に風呂を借り、その後も8時過ぎまでテレビを見ていたが、奥西の自白に兄弟が準備の妨げになった旨は出てこない。

自白では風呂場の焚口の前で立ったままで直径ニセンチ位、長さ六センチ位の竹筒中にニッカリンを移し入れたとなっている。地裁は自白にある同じ条件のもとでニッカリン一〇〇CC入り瓶から女竹筒に水を移し入れる実験を試みたが、焚口の前は暗く、手さぐりで移し入れはしたものの溢れ出てしまい、「竹筒の三分の二まで」で注入を止める加減をすることはできなかった。

しかし高裁は、被告は山田兄弟の来訪を別の日と勘違いしていた供述に着目し、来訪が準備作業に特段支障がなかったものと判断。また地裁に提出された検証では前提に誤りがあった、実際には電灯が点いており移し替え作業は不可能とはいえないとして、被告人に事前準備は可能だったと認定した。

 

逆転死刑

1964年12月23日、津地方裁判所・小川潤裁判長は、検察側の自白誘導があったと指摘し、自白と前後して住民側の証言する時刻が変遷しているのは不自然で捜査当局による示唆誘導があったと判断。「時刻の訂正は検察官の並々ならぬ努力の所産と容易に読み取ることができる」と厳しく非難し、奥西以外にも会長宅で毒物を入れることは不可能ではなかった、被告のみ犯行が可能だったとするのは誤りだとして、無罪判決を言い渡した。

 

「犯行間際」の目撃証言者となった坂峰富子さんは5時の時報を聞いてから会場準備のために会長宅へと向かった。だが会長宅から100メートル程手前の倉庫前で知人に呼び止められ、5時12~13分までその場にとどまっていた。石原氏が同乗させてもらった神田氏は酒を渡した直後にすぐ近くの家で荷降ろしをしたと証言しており、検察が主張するように5時10分頃に酒の受け渡しがあったとすれば、4人は重なり合うタイミングがあったはずだがそうした証言はしていない。地裁は検察側の「5時10分受け渡し」説を論理的に打破し、午後4時前に会長宅に運ばれたものとして他の人間にも混入可能であったことを証明した。

判決後、記者団から無実であれば逮捕後になぜあのような謝罪会見をしたのかと質問された奥西は「(事件を)やったやったと言われるけど事実ではないから自分としては(会見で)どう言えばいいやら分からんと言ったら、辻警部補が『こういうことを言え』と下書きをこしらえて半時間ぐらい“勉強”させられた。(逮捕会見で)言うたことは自分の意志ではないということです」と虚偽の謝罪であったことを明らかにした。

 

ところが1969年9月10日、名古屋高等裁判所・上田孝造裁判長は原判決を破棄し、死刑判決を下す。一審判決から一転して、自白強要を疑う理由が微塵もなく、住民証言における時刻の変遷をたどれば理路整然としていると判断する。

奥西が酒を携えて公民館へと向かう際、前述の坂峰富子さんが一足遅れでついていった。検察側は、4月7日の富子さんの検面調書にある、午後5時20分前後に「囲炉裏の間には奥西一人しかいなかった」ことを犯行機会の根拠とした。彼女が公民館と会長宅との往復に要した「空白の10分間」で奥西が毒物を混入した、それ以外に犯行可能なタイミングはなかったと主張していた。

坂峰富子36・4・7検

フミ子さんが「そこにある酒を持って行って」と言いましたので勝さんがそこに置いてあった酒二本ぶどう酒一本を三本とも自分一人でかかえて奥西さんの家を出て……私より二、三歩先きにさっさと行ってしまいました。……勝さんが二、三歩先きに奥西楢雄さんの家を出た時間は五時一五分頃だと思いますが私が勝さんにつづいて楢雄さんの家を出ましたら井岡百合子さんに会いました。……私が勝さんより四五秒くらい遅れて公民館についたことになる。

 奥西楢雄さんの家を出て(雑巾と竹柴を持って)公民館の方へ歩いてきました。ちょうど私が宮坂さんの家の前あたりまで来た時、石原房子さんが「遅うなってすみません」と肩越しに声をかけてきました。その時石原さんは「五時二〇分で二〇分超過やな」と言っていたので私はその会ったときに五時二〇分かと思いましたが後からよく石原さんに聞いてみますと自分の家で時計を見ていて五時二〇分になったから家を出てそこへやってきたということですから五時二五分から三〇分頃というのが本当の時間ではないかと思います。そしてそれから間もなく石原さんと一緒に公民館につきその中に入りますと勝一人が前と同じ場所にぶどう酒と酒の瓶を置いたまま自分も同じ場所にあぐらをかいたまま何もしないで囲炉裏のそばに坐っていました。

検察側が提示した数少ない物証のひとつとして火鉢から見つかった「四つ足替え栓」があったが、顕微鏡による形相鑑定によれば、栓の表面についた傷が自白を検証した際に奥西が歯でこじ開けた傷と一致すると認定された(松倉鑑定)。本来、歯の噛み痕による鑑定に個人特定の推認力は認められていない。そうした覆すことが難しい曖昧な証拠を捻り出すところにも捜査機関の拠り所のなさが表れている。

だが判決文では、同一視できる条痕が認められなかったからといって直ちに被告人の歯牙による痕跡ではないと断定するのは拙速などとして証拠性の否認を避けている。

 

1972年6月15日、最高裁判所・岩田誠裁判長は弁護側の上告を棄却。死刑判決が確定する。

その後、弁護費用を工面できなかった奥西は、拘置所から自力で四度の再審請求を行おうと試みるも再審理の要件となる新証拠が得られず、すべて却下された。

 

97年10月から日弁連の再審支援が決定し、改めて弁護団が立ち上げられた。第5次再審請求では弁護団が松倉鑑定に対して、そもそもの顕微鏡の倍率が異なる捏造写真を用いていることを明らかにし、傷を三次元解析した土生(はぶ)鑑定で両者の傷は全く一致していないとの分析結果を導き出した。

しかし最高裁・大野正男裁判長は「松倉鑑定は新証拠によってその証明力が減殺されたが、犯行の機会に関する状況証拠と信用性の高い自白を総合すれば、有罪認定に合理的な疑いが生ずる余地はない」として特別抗告を棄却する。

 

第6次再審請求審では、捜査を指揮した名張警察署長のノートを新証拠として提出。

事件当初、坂峰富子さんは新聞記者に対して別の証言を行っていた。ぶどう酒を横に置いた奥西は囲炉裏に火を点けて石原房子さんと話し出し、富子さんは会長宅に雑巾を取りに戻り、再び公民館へ戻ったときには他の女性たちも来ていたと記事にはある。

署長の遺した捜査ノートにも、事件3、4日後の富子さんの証言として「雑巾をもって会場に行ったら勝は房子さんといろりで向き合って坐っていた」と記事に合致する内容が記されている。すなわち彼女の証言も事件から日が経って「奥西だけが公民館に一人でいた」旨にすり替わったことを裏付けている。検察側が「空白の10分」の拠り所とした富子さんにも「見えざる力」が働いていたのである。奥西はそれまでの公判でも終始一貫して公民館で一人きりになったことはなかったと主張し続けていた。

房子さんはといえば、囲炉裏の間から玄関先、公民館の周囲を箒で掃いていたと言い、その間、奥西は囲炉裏番をしながら炭火を5、6個の火鉢に火分けしていたと言う。そのとき「わしは今日会長に立候補したからお前らにぶどう酒を奢ったんやで」と奥西が冗談めかしくぶどう酒の瓶を見せつけた旨を話している。これから毒物を混入しよう、目の前の女たちを殺してしまおうという人物が為せる業であろうか。

 

今日の裁判員裁判においては証拠開示の法整備が進んだが、再審請求審において証拠開示のルールはなく、検察側がどんな証拠を揃えているかは公開されていない。裁判所側は職権で証拠の開示を勧告することができるが、検察側には開示に応じる法的義務はない。証拠が開示されるか否かは、裁判所や検察側の裁量に任されているのが現状である。

 

現在地

事件から7回忌に当たる年、地区の共同墓地に犠牲者の慰霊塔が建立された。5人の名は刻まれず「不慮災厄五尊霊」と記されている。葛尾公民館は八柱神社の上にあったが、当時の建物は1987年に取り壊されて別の場所に移築され、旧公民館跡地はゲートボール場になった。

事件当時、110人だった葛尾地区の人口は、流出や後継者不足によって30名程にまで減少している。事件当事者もほとんどが亡くなり、検察側、裁判所側の「時間切れ」を画策するかのような持久戦は今日の「審理の迅速化」方針からすれば著しく逆行している。

 

2005年4月、第7次再審請求に対し、名古屋高裁・小出錞一裁判長により再審開始が決定された。

「悲願でした。本当にうれしいです。ここに来てから一番うれしい日です」「命の限り頑張ります」そのとき奥西勝、79歳。視力は衰え、開始決定の文書を自分で読むこともできなくなっていた。

弁護側は、生産中止により長年入手できなかった農薬「ニッカリンT」の現物をインターネットで募って入手することに成功し、赤色着色料が含まれていることを確認した。事件から40年以上が経っていたが、情報技術の進歩によって新たに「証拠」の尻尾を掴むことができたのである。

食事会で振舞われたぶどう酒は前年、前々年とも赤ぶどう酒であったが、事件で用いられたぶどう酒は白だった。「ニッカリンT」を入れれば異物混入は一目瞭然である。もし自白通りに奥西が犯行を企てていたとしても、白ぶどう酒の現物を前にすればさすがに思いとどまるに違いなかった。また当時の成分分析を再現した結果、実際に使用された農薬は「Sテップ」である可能性が高いと主張した。

しかし、検察側はこの決定に異議申し立てを行い、2006年12月、名古屋高裁・門野博裁判長は再審開始の原決定を取り消し。最高裁を行きつ戻りつした挙句、2013年10月、最高裁桜井龍子裁判長は弁護側の特別抗告を棄却。開かずの扉にようやく手が掛かったかに見えた第7次再審請求の棄却が確定した。

尚、再審開始決定を出した小出裁判長は2006年2月末で依願退職。取り消し決定を出した門野裁判長は東京高裁の裁判長に栄転している。裁判所という組織における再審開始のタブー、そのおぞましいヒエラルキーが垣間見える。

 

奥西は肺炎をこじらせて八王子医療刑務所に収容されていたが、2015年10月4日、89歳で息を引き取った。奥西の再審申し立ての意志は妹の岡美代子さんに引き継がれ、現在も再審開始と雪冤に向けた取り組みが続けられている。尚、産経新聞の2021年の記事によれば、再審請求の意志をもつ岡さん以外の親族はいないとされる。

第10次再審請求では、検察側証拠のひとつでぶどう酒の王冠を覆っていた「封緘紙」の再鑑定を行い、2020年10月、製造段階で用いられる業務用の糊とは異なる、市販の合成樹脂製の糊の成分があったとする新証拠を提出。真犯人が毒物混入後に貼り直して偽装工作した可能性が考えられ、公民館での奥西の実行は不可能だったという裏付けになる。

だが2022年3月、名古屋高裁・鹿野伸二裁判長は、封緘紙の再鑑定結果は「科学的根拠を有する合理的なものとは言えない」とし、「封緘紙が巻いてあった」としていた村人3人の供述調書を「一般的に関心を持って観察する対象ではない」として却下。再審開始を認めなかった。

 

筆者の真犯人に関する見解としては、毒物を以てして若い女性をまとめて手に掛けるという仕業からすれば、三奈の会に参加していなかった人物が会長宅で毒物を混入したものと考えている。男性であれば腕力を行使する可能性が高く、それも会員でないとすれば比較的高齢女性と見てよいのではないか。全員への殺意はなく、参加女性数名への害心から食中毒程度の騒ぎを狙ったつもりだったのかもしれない。なぜ狭い村社会で捜査の手が及ばなかったのかは諸兄の想像に頼るほかない。

 

ときに自白を偏重し、ときに供述調書を認めようとしない裁判官の自由心証主義は審理が長引けば長引くほどにその危うさを露呈している。自白の強要や証拠隠し、証拠捏造などもってのほかだが、一般の社会通念さえ認めない独特の倫理観、自らの襟を正そうとしない裁判所の姿勢はいつまで固持されるのか。今を生きる国民には事件の風化を阻止することと共に、冤罪被害者を速やかに救済する再審法の見直しが託されている。

 

犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/086/080086_hanrei.pdf

名古屋高等裁判所 昭和40年(う)78号 判決 - 大判例

日野町酒店経営女性強盗殺人事件・日野町事件

犯行の動機、目的がはっきりせず迷宮入りが危ぶまれた酒店店主殺しで、3年後、常連客のひとりが逮捕された。事件発生から38年、確定判決から28年が経過した現在も元受刑者の雪冤を果たすべく遺族による死後再審請求が続けられている。

 

事件の概要

1985年1月18日、滋賀県蒲生郡日野町の椿野台団地造成地の草むらで高齢女性の遺体が発見された。女性は前月の84年12月から行方が分からなくなっていた同町豊田の自宅兼店舗で「ホームラン酒店」を営んでいた池元はつさん(69歳)と判明。

はつさんは12月28日夜まで平常通り酒店を営業していたが、翌29日朝10時半には所在が分からなくなっており、親類や地区の隣組などで捜索活動を行っていた。自宅から発見場所まで約8キロ離れており、遺体には首をひもで絞められたような痕跡があった。

 

酒店では土間に椅子を並べて量り売りでコップ酒を販売提供していたことから、飲み屋のように通う常連の「壺入り客」も多く、28日は午後7時半の客が最後とみられた。店ははつさん一人で切り盛りしており、室内からは住居奥の10畳間の押し入れに保管されていたベージュ色の手提げ金庫が紛失していた。

 

滋賀医大・龍野嘉紹教授の解剖により、舌骨の骨折などから死因は手指による頸部圧迫に基づく窒息死とされた。近隣住民の証言や食後30分前後とみられる消化状態から、死亡時刻は28日夜8時40分頃と推定された。

 

85年4月28日になって日野町石原の山林で山菜採りに訪れた住民が破壊された手提げ金庫を発見。

警察は被害者宅から犯人が奪ったものとみて強盗殺人事件と断定し、店の内情に詳しい地元民や出入り関係者らを中心に捜査を進めたが、犯人に結び付く物証などの有力な手掛かりは見つからなかった。

 

県警の焦り

警察は是が非でも犯人検挙を果たさねばならない事情があった。

地元署では以前から頭部切断死体遺棄事件が未解決のままとなっていた。

更に、その当時はグリコ・森永事件が国民から大きな注目を集めており、とりわけ滋賀県警は世論だけでなく警察組織全体から批判の槍玉にあげられていた。

 

グリコ・森永事件は84~85年にかけて、江崎グリコ社長の誘拐や青酸入り菓子を撒くなどして大手食品メーカー各社を立て続けに脅迫した未解決事件である。

1984年11月、犯人グループはハウス食品に対して現金1億円の引き渡しを要求。14日夜に受け渡しが行われることとなり、大阪・京都府警の合同捜査本部は近郊に多数の捜査員を配備して警戒に当たらせ、グループの摘発を期して現場に来る実行犯への尾行・接触はしないよう厳命していた。

当初は現金引き渡し場所として京都市内のレストランを指定した犯人は指定場所を次々と変え、名神高速道路の滋賀県・大津サービスエリア、草津パーキングエリアへと現金輸送車を東進させた。その間も以前から犯人グループのひとりと目された「キツネ目の男」の目撃が付近から報告されていた。

捜査本部は滋賀県警にも共助要請したが、名神高速道路エリア内は大阪府警が担当すると指示があり、犯人への接触を禁じていた。犯人側は、草津PAから名古屋方面に向かい、「白い布」が見えたらその下の缶に入れた指示書に従うよう指示。草津PAから東方約5キロ地点の防護フェンスに布があったものの、缶や指示書は発見できず。名神高速と交差する県道を一時封鎖したが犯人の姿はなく、その日の合同捜査は打ち切られた。

一方、事件捜査を聞かされていなかった所轄の滋賀県警外勤署員が「白い布」地点に近い栗東町川辺の県道近くで無灯火の不審な白色のライトバンを確認。パトカーを横付けして職務質問のため署員が近寄ると、ライトバンは急発進して逃走。その後、乗り捨てられているのが発見され、無線傍受装置から犯人グループの車両と思われた。

犯人の取り逃しやその行動が捜査本部の作戦を台無しにしたなど滋賀県警に対する批判が起こり、当該の警官は辞職を余儀なくされた。犯人側から各社への脅迫はその後も続いたが、このときが犯行グループとの最大の接点とされた。

翌85年8月7日には滋賀県警本部長・山本昌二が退職の当日に公舎の庭で焼身自殺を遂げる。遺書はないが犯人取り逃がしの失態を苦にしたものと見られている。マスコミや国民による非難の声も大きかったが、立場上、警察組織内部からの責任追及も苛烈を極めたことと想像される。

8月12日、犯人側から「くいもんの会社 いびるの もお やめや」との声明文が送り付けられ、一連の事件は終息。「しが県警の 山もと 死によった しがには ナカマもアジトも あらへんのに あほやな」「たたきあげの 山もと 男らしうに 死によった さかいに わしら こおでん やることに した」というのが終結の理由として記されていた。

 

悪名を馳せることとなった滋賀県警としてはもはや失態は許されず、必ずや名誉を挽回せねばならない立場にあったが、本件でも早期決着とはいかず、事件1年後には地元紙に「迷宮入りか」の文字が躍ることとなる。

 

3年越しの逮捕

事件から3年余が過ぎた1988年3月、日野署は酒店の壺入り客のひとりだった阪原弘(ひろむ・当時53歳)への聴取を再開。取り調べ3日目に「酒代ほしさに殺した」と男は自白を開始し、3月12日、強盗殺人容疑で逮捕され、大津地検へ送検された。

 

阪原は85年9月17日の段階で任意聴取を受けていたが、本人は関与を全面否定、妻のつや子さんも「(夫は)事件当夜、知人宅に泊まりに行っていた」と供述。指紋採取やポリグラフ検査まで行われたが、そのときはシロと判断されていた。

この任意聴取も「失踪時の捜索活動や後の葬儀に出席していなかった」という論拠で嫌疑をかけられたもので、逆説的にそれだけ決め手に欠ける警察側の苦境をも意味した。被害者とは隣組も別であり、日頃から親しくしてはいたが周辺住民全員が捜し回ったり葬儀に参列していた訳でもなく、疑惑の根拠としては薄弱すぎるものであった。

だが86年3月に着任した捜査主任官は改めて阪原への身辺調査を進め、被害者の着衣から採取された微物と阪原の職場の作業服に付着していた鉄粒が一致するとの検査結果を得て、88年の本格的な取り調べに至った。

 

しかしそもそも「酒代ほしさ」という動機には矛盾があった。阪原家では子どもたちもすでに自立して夫婦も共働きに出ており、合わせて2千数百万円にもなる充分な蓄えがあった。事件当時は娘たちの結婚も間近に控え、家族は満ち足りた生活を送っていた。

否認を続けた阪原に対して、取調官3人は首根っこを掴んだり椅子ごと蹴り飛ばしたり、先のとがった鉛筆の束で頭を刺すといった暴行を繰り返し、家族への脅迫と取れる発言で精神的に追い詰めていった。否認しても取調官は納得しない、抵抗を続ければ罪が重くされるのではないか、と阪原は弱気になり、とうとう自分がやりましたと口にすると、3人はにやりと笑みをこぼしたという。

逮捕後、阪原の長女・美和子さんは自分はやっていない、お前達だけでも信じてほしいと嘆く父親に「やってもいないのにどうして自白なんかしたんよ」と叱責した。阪原は「お前たちのためなんや」「どんなに叩かれても蹴られても怒鳴られても我慢は出来た。でも刑事から『(娘の)嫁ぎ先に行ってガタガタにしたろうか』と言われて我慢できんかった」と涙ながらに語った。こどもたちは、お父さんは自分がどうなっても構わないと言うが「私たちが殺人犯の子や孫にされていいのか」と阪原の過ちを責め、そこで阪原も取り返しのつかないことをしたとようやく我に返った。

 

3月21日、金庫が発見された石原山での引当捜査が行われ、阪原は送電用の鉄塔から約50メートル離れた発見地点の傾斜地まで捜査員たちを案内した。29日の死体の見つかった宅地造成地での引当捜査でも現場へと先導し、後の公判では犯人しか知りえない「秘密の暴露」とみなされることとなった。

4月2日、強盗殺人罪で起訴。

 

無期懲役

1985年5月17日、大津地方裁判所で第一回公判が開始。

検察側は決定的な証拠はなかったものの、情況証拠を積み重ねて犯行を立証、弁護側は自白の信用性・任意性を争点とし、客観的事実との食い違いを追及し、その審理は7年半に及んだ。

被告人が全面的に否認した公訴事実は次のようなものである。

12月28日夜8時40分頃、店内の土間にいた被告人は、部屋続きの6畳間で帳面を付けていた被害者の右背後に回り込んで前後から両手で首を絞めつけて殺害。9時ごろ、死体を軽トラックの荷台に載せて運び、町内の宅地造成地に遺棄した。

再び店に戻ると金庫を奪い、ひと気のない山林でホイルレンチを用いて無理やりこじ開け、中にあった現金約5万円を奪ったというもの。

自宅兼店舗の略図。
犯人はなぜか10畳間押し入れの手提げ金庫だけを奪った

阪原の自白証言を見ていくと多くの矛盾があった。

使用された車両は2サイクルエンジンの軽トラックで、遺体を積む際に店の前の坂道をバックで上ってきたとされる。夜の閑静な住宅地ではそのエンジン音が大きく響き渡る。

まして向かいの住人女性は「事件当夜の8時過ぎ、被害者がだれかと話している声が聞こえた」と証言。相手の声は聞かれず電話か客人か、会話の全容などは分からなかったものの、周囲の静けさや家屋の遮音性が低かった状況を示す一方、異常な物音や悲鳴などは聞かれていなかった。同じ家に住む男性も軽トラの音は耳にしなかったという。

 

また酒店から遺棄現場までのルートも不可解なもので、犯行時刻でも車通りのある「日野ギンザ」と呼ばれる市街地を通過したとされている。軽トラックの荷台では腰ほどの高さしかなく、通りには街灯も多い。目隠しで覆わなければ通行人や後方車からでも目に付きやすく、バスなどが横切れば車内からでも丸見えの状態である。更には土地鑑のある者ならば避けるであろう警察署の目の前を通過するという道順を示していた。

 

奪ったとされるベージュ色の手提げ金庫は奥の10畳間の押し入れにあったもので、店の客がその所在を知っていたとは考えにくい。また店のレジ(現金約3000円)、店舗部分とつながる6畳間には売上げ管理用の緑色の手提げ金庫(現金約3000円)、東の6畳間には家具に模した据え置き型の金庫(現金約29万円)があったが、いずれも中の現金は手付かずのまま残されていた。据え置き型金庫にはカギを差したままの状態で、被害者が使ってそのままの状態にしていたものと思われる。

検察側は帳簿整理のためにベージュ色の手提げ金庫も6畳間に持ち出していたと推測したが、親族によれば被害者の亡き夫が収集していた古銭や記念硬貨などの遺品が入っていたと見られている。目の前のレジなどの金には手を付けず、東の6畳間の金庫には気づかないという不可解な物盗りで、酒代ほしさに売上金を狙ったという自白とは噛みあわない。

山で見つかったベージュ色の手提げ金庫には、上蓋に幅15ミリ、深さ2.5ミリの凹み傷が確認されていた。自白によれば、ホイルレンチを用いて上蓋部分を支点にてこの原理でカギを破壊してこじ開けたとされている。だが自白に基づく再現実験では取手部分が破損するだけで解錠させることはできなかった。何か別の器具を用いたとも考えられるが、そもそも犯人が付けた傷とも断定できない。

 

検察側は情況証拠として、酒店から直近の交差点で夜7時45分前後に被告人の歩く姿と駐車された軽トラックを見かけたとする目撃証言が提出された。この証言は事件発生の4か月後に出てきたものである。

だが別の女性は、上の目撃よりも犯行時刻に近い夜8時と8時半前後に同じ交差点を往復していたが、該当するような軽トラックは停車されていなかったと断言しており、そのことは事件直後から警察には何度も伝えていたという。

 

85年の任意聴取の際に採取されていた被告人の指紋と、被害者方の机の引き出しにあった丸鏡から検出した指紋が合致し、室内を物色した間接証拠とされた。だが常識的に考えれば、素手で犯行に及んでいれば机や扉、発見された金庫などいたるところから指紋が検出されるのが自然に思われる。室内を荒探ししたというより、以前に被害者の手鏡を借りた場面の方が納得しやすいのではないか。

アリバイ証言で宿泊先となったとされる知人、酒盛りに同席したとされる人たちは、警察の聴取に対してその場に被告人はいなかったと証言。被告人は虚偽のアリバイ証言をしたとみなされ、これは有罪の心証を深めることとなった。

 

さらに検察側は審理終盤の論告求刑の直前になって予備的訴因の追加を行い、犯行日時、殺害現場の範囲を拡大し、被害品を曖昧な内容へと変更した

殺害時刻を「午後8時40分頃」から「夜8時頃から翌朝8時半までの間」と半日以上もの幅をとって延長、殺害現場は「被害者宅の店舗6畳間」から「日野町およびその周辺地域」へと拡大した。盗品被害についても金庫から奪ったとされる「5万円」はなきものとされ、10円硬貨、5銭硬貨ほか16点(時価不詳)と2000円相当の手提げ金庫そのものが被害金額とされ、裁判所は刑事訴訟法312条に則って訴因変更を全て認めた。

第三百十二条 裁判所は、検察官の請求があるときは、公訴事実の同一性を害しない限度において、起訴状に記載された訴因又は罰条の追加、撤回又は変更を許さなければならない。

② 裁判所は、審理の経過に鑑み適当と認めるときは、訴因又は罰条を追加又は変更すべきことを命ずることができる。

③ 裁判所は、訴因又は罰条の追加、撤回又は変更があつたときは、速やかに追加、撤回又は変更された部分を被告人に通知しなければならない。

④ 裁判所は、訴因又は罰条の追加又は変更により被告人の防禦に実質的な不利益を生ずる虞があると認めるときは、被告人又は弁護人の請求により、決定で、被告人に充分な防禦の準備をさせるため必要な期間公判手続を停止しなければならない。

検察側は罪となる事実を立証しなくてはならず、証拠から特定された訴因が「公訴事実の同一性を害しない限度において」追加されることには問題はない。だが検察側が一方的に犯行可能性を抽象化することで、いつ・どこで為されたかも分からない事件裁判が罷り通ってよいものなのか。

結審後、担当陪席裁判官から弁護人に内緒で追加の指摘があったと報じられ、検察側は裁判所からの誘導の事実を認めている。それまでの訴因では自白の信用性が維持できないことを案じ、裁判官から対応策を授けたとみられている。その点でも「有罪ありきの審理」を急ぐ裁判所の姿勢が浮き彫りとなった。栃木県の今市事件・控訴審でみられた後出しの訴因変更とよく似通った手口である。

弁護側は、ひとつの裁判でふたつの訴訟を防御させられるに等しく、訴因変更が本来とは異なる検察側の「逃げ道」に用いられている現状がある。時代劇の悪代官と奉行所のごとき腐敗、検察と裁判所の構造的癒着など言語道断である。

阪原の次女・則子さんは、裁判官は父が無実と分かってくれるはずだと信じてきたが、訴因変更の誘導記事を見て、「(裁判所と検察は)グルなんやなって。こんなんで無罪なんかありえへんわなって」「真犯人を連れて行っても『それでも阪原広が犯人や』って言われるんじゃないかっていうくらいひどい判決」とその実態に失望したという。

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1995年6月30日、大津地裁(中川隆司裁判長)は無期懲役判決を下す。

微物鑑定の結果については犯人との結びつきは不明と判断するほかなく証拠価値はないとし、自白については事実認定ができるほど信用性が高いとは言えないと判断。

また発見された金庫が犯人の手でこじ開けられたとすると犯行前に施錠されたままだったということになる。出納管理などの際に6畳間に持ち出されていたとすれば開いていなければおかしいと疑問も呈している。しかし客観的事実との食い違いに気づきながらも、判決はホイルレンチでの破壊という検察側のストーリーを事実と認定。

「目撃情報」「丸鏡の指紋」「引当捜査での現場指示」「捜索活動や葬儀への不参加」「虚偽のアリバイ供述」といった情況証拠のみで被告人が犯人であることに矛盾はないと認定した。

 

二審・大阪高裁(田崎文夫裁判長)は、一審とは逆に、それぞれの情況証拠は被告人と犯行を結び付けるものではないと判断しながら、自白について一部疑問は残るが根幹部分は十分信用できるとした。アリバイの虚偽性などと併せて判断すればその犯人性は揺るがないとして、1997年5月30日、控訴を棄却。

2000年9月27日、最高裁判所第三小法廷は上告を棄却。

10月13日に弁護側の異議申し立てを棄却し、無期懲役が確定した。

 

受刑者となった阪原は翌2001年に剖検記録等の証拠保全を請求。自白の殺害方法と客観的事実が異なること、丸鏡の指紋、金庫の傷、遺体の手首結束などの鑑定、知人宅で寝込んでいたと証言する知人の証言テープなどを加えて新証拠とした再審請求を11月に行った。翌年には日弁連などの支援を得、阪原の家族らは地元で冤罪への理解を懸命に呼びかけている。

新証拠の中でもとりわけ殺害方法に関する鑑定は、自白供述の根幹部分の信頼を覆すものと期待されている。被害者の首にはひもで絞めた痕があり、顔と首に指でできたような痕が残されていた。当時の解剖所見では「扼殺」とされ、自白は右後方から両手で前後から挟み込むようにして絞めた後、念のために背後から紐でもう一度締め直したものとされていた。

だが大阪府監察医事務所・河野朗久医師は窒息にひもを用いた「絞殺」の可能性が高いと指摘し、輪っか状にしたひもを頭上から通して首元で締め上げたことが窺われ、指の跡は犯人が締め付けた痕ではなく被害者がひもを斥けようと抵抗してできた、いわゆる「吉川線」だという。

 

さらに証拠開示を追及した結果、警察から検察側へ送致した証拠目録一覧表を獲得。これはその後の開示請求に役立っただけでなく、速やかな公判前整理手続きを促す証拠一覧開示制度の法改正へとつながった。

刑訴法316条の14第2項

証人、鑑定人、通訳人又は翻訳人 その氏名及び住居を知る機会を与え、かつ、その者の供述録取書等のうち、その者が公判期日において供述すると思料する内容が明らかになるもの(当該供述録取書等が存在しないとき、又はこれを閲覧させることが相当でないと認めるときにあっては、その者が公判期日において供述すると思料する内容の要旨を記載した書面)を閲覧する機会(弁護人に対しては、閲覧し、かつ、謄写する機会)を与えること。

2006年3月27日、大津地裁(長井秀典裁判長)は阪原の再審請求を棄却した。

弁護側の主張する数々の自白の矛盾を認めながらも、犯行形態など客観的証拠との食いちがいは記憶違いに基づくものと説明可能とし、知人によるアリバイ証言についても事件発生から時間経過があるため信用性に疑問があるとして認めなかった。

徳島ラジオ商殺し事件で再審開始決定を出した元裁判官の秋山賢三弁護士は、脆弱な情況証拠、曖昧な自白であっても検察の言うことを想像力で補おうとする「疑わしきは検察官の利益に」という慣行が裁判所には蔓延っていると指摘する。

 

弁護団は大阪高裁に即時抗告したものの、その後、体調を崩した阪原は長期入院を要し、2011年3月18日に帰らぬ人となった。享年75歳。

「学もない、法も分からない自分がどうすればいいのか分かりません」

晩年、入院先で支援者が撮影したビデオ映像には、弱々しい老父がことばを絞り出している様子が見受けられる。お人よし過ぎる性格だったという阪原を、しっかり者の妻が支えていたと語られる。取調官らはそうした性格に付け込んだのか、彼は最期まで冤罪の理不尽に苦しみ続けた。

「生きて無実を晴らしてやれなかった、助けられなかった父に許してほしい」

翌年、遺族は阪原の遺志を継ぎ、被害者がコードレスフォンを用いていたとする新証拠を加えて、第2次再審請求を申し立てた。

弁護団は自白の突き崩しを狙って金庫遺棄現場での引当捜査で撮影された際のネガの公開を請求。確定判決では元受刑囚が自発的に案内した証拠として重視されていたが、現場に向かう阪原を正面から捉えた写真があり、弁護側はそれをもって阪原が先導していた訳ではないことの証拠としたい狙いがあった。だが改めてネガで確認してみると、帰り道の阪原の写真を証拠書類では先導して案内するものと紹介していた順序を入れ替える捏造が判明。

更に状況を確認すると、現場まで数十メートルまで車で近づける小径があったにもかかわらず、阪原は400メートル余り手前で車を離れ、獣道のような斜面を右往左往、登り下りしながら鉄塔までたどり着き、更に50メートル以上下った松の木の根元に遺棄したと説明したされる。殺害から時間も経った明け方近くとされているが、極寒の中、どうして金庫を捨てるためにそんな場所まで立ち入ったと言えるだろうか。鉄塔の目印や、腰ひもをもった捜査官の指示誘導などでの案内が疑われている。

この疑惑から弁護団、裁判所は更なる証拠開示を検察側に求めることとなった。

また2012年9月には弁護団が求めていた裁判官による非公式の現場視察が実現した。

2018年7月11日、大津地裁(今井輝幸裁判長)は再審開始を決定。

地裁は、事実認定の根幹とされたた自白における殺害様態、死体遺棄、金庫の強取、室内物色の重要部分で信用性を認めることはできず、客観的事実とのずれは記憶の欠落では説明がつかないと判断。取り調べにおいて強要があった可能性を認め、自白の任意性を否定した。引当捜査における捜査官による場所の誘導指示については認めなかったものの、無意識的な相互作用によって案内できた可能性があるとして有罪の根拠とするには合理的な疑いがあるとした。

17日、検察は再審開始決定に対して大阪高裁に即時抗告。

これに対し、開始決定を出した裁判官3人が大阪高裁に「看過できない重大な理解不足がほぼ全体にわたって随所に見受けられる」と検察を批判する意見書を提出していたことが京都新聞の取材で分かっている。検察への反論意見書は10ページにわたり、ここまで詳述したものは異例だと言う。

 

2023年2月27日、大阪高裁(石川恭司裁判長)は再審開始を認めた大津地裁の決定を支持し、検察側の即時抗告を棄却。

3月6日、検察側は最高裁への特別抗告を行う。再審開始の可否はいまだ決していない。

 

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所感

自白が再審の争点となるのは当然の流れだが、これだけ自白を否定する客観的事実が明らかになって尚、条件付きで「自白は信用できる」と言い張ってきた裁判所は時代錯誤の自白偏重へと陥っているかに思える。

また被害者の通話記録など警察から検察へも渡っていない元受刑者の無実を示しうる証拠も埋もれていることが考えられる。警察と検察の力関係によるものなのか、集められた証拠のすべてが全て裁判で俎上に上がるということはない。

無実の人でもだれでも構わないから「犯人」を挙げてくれと国民は考えていない。取り調べでの脅迫、証拠の隠蔽、捏造、どんな手を使ってでも厳刑を与えよという近世以前に逆行する国家に権力を仮託した覚えはない。捜査員も取調官も検察官、裁判官も人はだれしも過ちを犯す可能性がある。しかし国民は結託した冤罪を望んではおらず、公正な審理と真実の先にのみ真相解明を求めているのである。

過去の数多の冤罪からそのやりくちは大きく逸脱しておらず20世紀も21世紀の今日も同じような過ちが刑事司法では常態化している。冤罪を負け戦と捉えて反省をしようとしない、法や制度設計にフィードバックされていない現状を物語っている。そうした態度は冤罪犠牲者のみならず、事件被害者にも不誠実な態度だと私は思う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたしますとともに、阪原さんの名誉回復の実現を願います。

 

 

参考

平成24年・大津地裁・再審開始決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/121/088121_hanrei.pdf

令和5年・大阪高裁・抗告棄却決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/004/092004_hanrei.pdf

増山ひとみさん行方不明事件

福島県原町市(現・南相馬市)で発生した成人女性の行方不明事案。女性は三週間後に結婚式を控えており、いわゆる寿退社で仕事を辞めた帰り道で忽然とその消息を絶った。

www.police.pref.fukushima.jp

後にテレビの公開捜査番組などでも取り上げられ、自宅に「おねえちゃんだよ」の怪電話があったことでも広く知られており、電話の主と事件の関係などを巡って様々な議論が為されている。

 

心当たりのある方は以下に情報提供をお願いします。

福島県南相馬警察署:0244-22-2191
メールアドレス:joho@police.pref.fukushima.jp

 

消えた花嫁

1994年(平成6年)2月19日(土)、福島県原町市の増山ひとみさんは結婚式を3週間後に控え、勤め先の歯科医院をこの日で退職する。

午後は休診だったため、午前中いっぱいで勤務を終え、同僚たちからの祝福と見送りを受けた。院長夫妻から祝いの花束を手渡されるなどして13時頃にその場を後にした。

 

この日、ひとみさんにはいくつものスケジュールが重なっていた。

入院中の祖父の着替えを預けるために退社後に病院に寄るように頼まれており、そのあと原ノ町駅近くで婚約者の家族が営む食堂を手伝いに行き、夜には友人と食事をする約束もあった。

婚約者も病院に寄った後で手伝いに行くと聞かされていたが、予定時刻になってもひとみさんが現れないため、彼女の実家に連絡を入れている。

ひとみさんの親は、祖父の入院している病院に確認したが、その日は見舞いに訪れていなかった。不審に思い、勤務先や知人などへも連絡を取ったが、退勤して以降の足取りは分からなかった。

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原町市は県東「浜通り」の北に位置する相双地域で現在の南相馬市。[福島県HPより]

20日朝、歯科医院の同僚からひとみさんの両親に、彼女の車が昨日から置きっぱなしになっていると連絡が入る。

この同僚は19日の終業後、ひとみさんより少し先に歯科医院を後にし、13時30分頃、弟のバイトの送迎で国道6号沿いのガソリンスタンドを訪れていた。その際、隣の駐車場の敷地に見覚えのあるひとみさんの軽自動車、黒色のスズキ・アルトワークスを目撃する。

歯科医院から車の停められていた駐車場までは約1キロと近場であり、車を見掛けただけなのでそのときは何も不審に思わなかった。

 

車両が発見された駐車場は、コンビニ、弁当屋、三階建ての貸ビルの共用となっていて比較的広いつくり。車両は店舗裏にあり、大通りから見える位置ではないものの、決してひと気のない場所や人目につきづらい環境ではなかった。昼時を過ぎてはいたが弁当屋やコンビニ利用者の出入りも少なくないはずだが、ひとみさんの目撃はなかった。

施錠された車内には、上着のダウンジャケット、財布等が入ったままのショルダーバッグ、歯科医夫妻からお祝いに持たされた花束がそのまま残されていた。バッグには夜に会う友人に見せるつもりだったのか、箱入りの婚約指輪まで入っていた。

買い物、ましてや家出であれば当然財布は持っていくに越したことはない。その日の最高気温は12度近くで温暖な日中とはいえ、移動であれば上着を持って出ると考えられた。何より大切な婚約指輪を車内に長時間置き去りにすることも考えづらい。自身が持ち出したのか第三者が盗んだものか、車のキーは発見されていない。

自発的に姿をくらませるのであれば、ある程度は車で移動すると考えられるが、車の発見場所は自宅と勤務先の中間地点、車で5分の生活圏で、駅からもやや距離がある。単なる家出でないことは明らかだった。

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黄色家マークが「自宅」、緑色Pが車両発見現場、青色歯マークが歯科医院。
赤色マークが飲食店。〔google map〕

両親は20日午後、原町警察署に捜索願を提出。成人の失踪の多くは「自発的な家出」の可能性が高いとして警察はすぐに取り合わないケースが多い。だが上述のような不可解な状況から事件性も視野に入れての捜査が開始された。

ひとみさんは18日も夜遅くまで結婚式の招待状の準備に追われ、電話で友人と披露宴の話などをしており、いわゆる“マリッジ・ブルー”のような心境は窺われなかった。むしろ結婚を心待ちにしており、翌20日にも人と会う予定を交わしていたことなど、失踪を予感させる気配は全くなかった。

 

人物

ひとみさんは身長約158センチで体型はやせ型。両頬には「えくぼ」があり、右の鼻元にはほくろがあった。学生時代はバレー部に所属し、明るい性格だった。

行方不明となった退社時は、グレー地に「BENETTON」のロゴ入りトレーナー、紺色のデニムパンツ、REGAL製の黒とベージュの革靴を着用していた。

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1973年生まれで4人姉妹の長女。当時は入院していた祖父と両親、姉妹7人家族だった。家は新田(にいだ)川の北に位置する純農地域で農業を営み、経済的には不自由のない暮らしぶりだった。

地元の高校を卒業後、神奈川県にある電機メーカーの工場に就職した。事件の約1年前に退職して実家に戻り、ほどなく市内の歯科医院で歯科助手兼事務員として働き始める。

1993年8月、友人と偶々入った飲食店で働いていたAさんと再会する。二人は元々中学校の同級生で、それからすぐに交際に発展した。家族の異論もなく、4~5カ月ほどで縁談がまとまった。Aさんの実家が営む飲食店へ妹も連れ立って手伝いに通うなど、Aさん家族とも良好な関係だったとみられる。

 

不可解な電話と前触れ

ひとみさん失跡にはいくつかの怪電話が関わっている。

ひとつは、行方不明となる数か月前から自宅にかかっていた無言電話」である。家族の証言によれば、結婚の話が具体化した1993年12月頃に始まり、決まって深夜0時頃にかかってきた。

94年1月に両家が顔合わせをした頃からは回数が増え、2月上旬に結納を交わすと更にその頻度が増したという。深夜0時から明け方近くまで1時間おきにかかってくる状況が続いたが、ひとみさんの失踪直後からなぜか無言電話はピタリとやんだ。

当時は携帯電話が広く普及おらず、いたずら電話といえば自宅や職場などの固定電話にかかってくるものだった。そのため無言電話の主が、家族のだれに向けて、何の目的で嫌がらせを続けていたのかは定かではないものの、ひとみさんの婚約や失跡のタイミングと軌を一にしているとして、彼女の事情に詳しい人物ではないかと思われた。

 

他にも事件の前触れともいえる出来事があった。

ひとみさんは婚約者家族が営む食堂の手伝いに繁く通っていたが、2月の結納の直後、店のそばにある駐車場に停めていたひとみさんの車にだけひっかき傷で中傷する文言が刻まれていたことがあったという。駅からもそう離れていない目抜き通り沿いで、公園や飲食店などに囲まれた市街地である。

公開捜査番組では実物の写真ではなく、車に「バカ」「ブス」と書かれたイメージ映像が放映されている。もし実際に「ブス」と書かれていたとすれば、車内の様子などから女性と推測された可能性もあるが、彼女の車であることを知っていた人物による嫌がらせとも受け取れる。稚拙な文言ながらこどもや不良の悪戯であれば、周辺地域でほかにも被害情報が寄せられそうなものである。

 

ふたつめの電話は、退社直前の19日12時半頃に職場にかかってきた電話である。

はじめに電話に応対したのは(後にひとみさんの車を発見する)先輩同僚で、相手は女性の声で「増山さんに代わってほしい」と言われたという。「声は低めだったので年齢はよく分からない感じ。喋り方も親しそうじゃない、いわくありげかなと感じる」と振り返る。同僚いわく、以前にも同じ声の女性から電話があったこと、電話を受けたひとみさんは「浮かない表情」で診療室の時計に目を遣るなど「待ち合わせをしているような様子だった」と言う。

証言通りだとすれば、ひとみさんは病院に向かう前に「電話の女性」と駐車場で待ち合わせをしていたと考えられ、そこで別の車に連れ去られたとも推測できる。

 

3つめは、行方不明となった翌年の95年1月に自宅にかかってきた件の「おねえちゃんだよ電話」で、応対したのはひとみさんの妹である。

妹:はい、増山です

女:もしもし

妹:はい

女:おねえちゃんだよ

妹:はい?

女:おねえちゃん

妹:…だれですか?

女:おねえちゃんだよ

妹:…どちらさまですか?

女:…ひとみです

妹:はあ!?

この間、僅か17秒。犯人からの連絡を期待して録音がセットされていたため、やりとりは記録されていた。電話をかけてきた声は、ひとみさんとは似ても似つかぬ年配らしき女性の声色だった。変に声真似をしたり誤魔化すような様子もなく、さも平然と「おねえちゃんだよ」と切り出している。当時は今で言う「オレオレ詐欺」のようななりすまし詐欺などは広まっていなかった。

父親は電話の声を「うちの娘とは全然違う」と断言した上で、「“おねえちゃん”と言うことは、電話に出たのが妹だと分かる人。誰が出るか分からなければ“おねえちゃん”なんて言う訳ない」と推測する。またこの電話の直後、父親の周囲では「ひとみさんが見つかった」とする噂が流れていたという。

 

テレビの公開捜査番組では、日本音響研究所鈴木松美所長(当時)に録音テープから何か手掛かりは得られないものか分析を依頼している。鈴木所長によれば、通話の冒頭に課金時に発生するパルスがあり、切断時には市外局番であれば少なくとも4回あるリセットパルスが2回しか生じていないことから、おねえちゃん電話は「同一局内の公衆電話」から掛けられたものと指摘している。

また日本語・方言の研究者である加藤正信東北大名誉教授によれば、録音されていた会話は、福島弁の比較的平らなアクセントで、福島を中心とした地域の音の質にほぼ一致するとの見解を示した。

 

「無言電話」の終止と「おねえちゃんだよ電話」に関する重要な点として、「公開捜査の時期」が挙げられる。

失踪直後、ひとみさんの両親は、警察から公開捜査を再三勧められていたが断っていた。父親は発見されたときの社会復帰が難しくなることを考慮し「娘の将来を考えると、親として踏ん切りがつかなかった」と振り返っている。公開捜査に切り替えられたのは行方不明から約1年半後の95年8月28日である。会見で「今は親として、娘のために最善を尽くしてやりたい」と決意を語っている。

その1年半の間は新聞記事にも載らず、非公開での捜査に限られていた。その間、ひとみさんの失踪は、原則的には近親者や同僚、聴取を受けた知人、周辺住民といった限られた近しい人々か、捜査関係者あるいは「事件に関与した当事者=犯人」にしか知られていなかったことになる。

無言電話の主と「おねえちゃんだよ電話」の主が同一人物であるかを確かめる手立てはないものの、いずれも公開捜査前にひとみさんが行方不明である事実を知っていた可能性が高い。

 

後の公開捜査番組では、「無言電話」の録音テープも放送されているが、そのテープの分析結果は明らかにされていない。また職場で電話を取り次いだ先輩同僚が増山家に掛かってきた「おねえちゃん電話」について述べる証言はないが、当然家族は同僚に聞かせて確認しているものと思われる。また番組によっては勤務先にかかってきた電話を「若い女性の声」と表現して報じたこともあるため、「おねえちゃんだよ電話」とは異なる声だった可能性も排除できない。

 

女性の影

結婚直前のひとみさんの周囲で起きていた謎の電話や嫌がらせ行為。警察の調べではひとみさん側にやましい行動や目立ったトラブルは確認されなかった。

もし背後に一方的に恨みをもつ人間が存在するならば、恋愛・結婚関係で妬まれていた可能性が思い浮かぶ。はたして電話の主と同一人物かは分からないが、婚約者Aさんの周囲にはひとみさんの他にも女性の影が見え隠れする。

下のキャプチャ画像は、番組で公開されたひとみさんが日記代わりにしていた「手帳のコピー」の一部である。事件の約3週間前、94年1月25日の欄には、職場の「お昼休み」にかかってきた女性からの電話について記述がある。

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お昼休みに、□□という女から tel。

△△は他に切れてない女 が いたらしい。

でも わりと れいせい。もしか の 感が あたってた。

(夜△△のところに行った。)

△△は いやがらせ だ と言う。

そんな女は知らないと ひてい。しんじよう

□□、△△の部分はモザイク処理が施され、ナレーションでは□□が「O(オー)」、△△は「彼」とアテレコされている。ひとみさんの周辺人物で「O」に該当する女性は確認されておらず、「彼」は婚約者Aさんを意味している。

素直に読めば、「O」=「切れてない女」のように思われる。だが「O」を名乗る女が、自分とは別の「切れてない女」の存在をひとみさんにリークした可能性もないとは言い切れない。

「他に切れてない女」という表現は、すでに彼との間で別件の浮気交際などでひと悶着があったことを匂わせる。だが「既知の女性関係の他にも」という意味か、「自分のほかに」という意味なのかは判然としない。だが「もしかの感」(「勘」の誤記かと思われる)というフレーズから察するに、ひとみさんは以前からAさん周りに複数の女性関係を嗅ぎ取って不安を抱いていたことが読み取れる。

また「そんな女は知らない」という婚約者の言葉を「しんじよう」とする態度からは、彼への愛情、結婚への強い意思が感じられる。憶測するならば結婚を強く望んでいたのは、Aさん本人よりもひとみさんの側だったかもしれない。

 

さる地域政経誌では事件から13年後に本件の特集記事が組まれた。ひとみさんの両親のインタビューを中心に構成された取材に基づく記事であり信憑性は比較的高いように思う。

そこで地元の事情通の談として、Aさんにはひとみさんとの交際よりだいぶ前から「4歳年上の女性と長年交際していた」との証言が紹介されている。しかしAさんの両親がその女性をよく思っていなかったことから「結婚できずにいた」というのである。同事情通は、ひとみさんの失跡によって「一番喜ぶ人、最も得する人」としてその「4歳年上の女性」を挙げる。

いわばAさんを“奪われた”かたちになる年上女性が、ひとみさんに嫉妬心や憎悪を抱くのは必然だが、事情通はさらに「Aさんの関与が疑われるのは避けられない」と指摘する。Aさんはひとみさん失跡のおよそ11か月後に年上女性との間にこどもが生まれている。下世話な見方ではあるが、花嫁が姿を消した直後にAさんと年上女性は関係を持ったと見ることも可能であり、その後結婚して店を継いだとされる。

仮に年上女性がひとみさんに強い恨みを抱いていたとすれば、その間Aさんに結婚をめぐって非難したり、自分との復縁を求めるといった衝突はあったと想像され、全く接触していなかったとは考えづらい。記事はAさんの窺い知れぬところで年上女性が独断で起こした事件ではなく、むしろAさんも犯行計画を知った上で関与したのではないかと疑いを向けている。

 

またひとみさんの父親によれば、「おねえちゃんだよ電話」に応対したのはひとみさんと共にAさんの店へ手伝いに通っていた妹で、「店でよく聞いていた声と中年女性の声はそっくりだった」「2つの声は話し方や調子に似たような特徴があった」と話しているという。明示されてはいないが、文脈から察するに家族は「おねえちゃんだよ電話」についてAさんの母親によるものではないかという疑いを強めているように読める。

ひとみさん失跡から最初の1か月はAさんの両親も心配してくれていたが、その後連絡を寄越さなくなり、2か月後には代理人を通じて「結婚の白紙」と結納金の返還、更には取調べなどで生じた休業分の補償を請求してきたとされている。記事は、Aさんの両親に対して“情”を欠いた心ない対応だとして非難めいた論調を強めている。少なくともひとみさんの家族はAさんや家族による失踪への関与を疑っているものとみられる。

Aさんの母親は同政経誌の取材に対して、「当時の状況は警察に全て話してある。知りたいことがあるなら警察に聞いてほしい」と証言を断っている。

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行方不明から16年後の2010年、ニュース番組内で元婚約者Aさんへのインタビューが放送された。

ひとみさん失跡後に捜しましたか、との問いに「別に、捜す理由もないし」と答え、事件や事故に巻き込まれたと思いますか、自発的にいなくなったと思いますかとの問いに対して「自発的に失踪したのだと思います」と返答。手帳に書かれていた「O」についてひとみさんと話をしたのかとの問いに「全然そんな話聞いてませんね」、事件前に「車にイタズラされたのは聞きました」と語った。

すでに長い時間が経過しており、Aさんにはすでに別の家庭がある。とはいえ、一度は結婚を決めていた相手にしてはあまりに冷淡すぎる態度だとしてネット上で番組視聴者から憤りの声も上がった。Aさんとしては疑惑の解消のために取材に応じたものと思われるが、却って疑惑の温床にされてしまった感は拭えない。

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・所感

前述の事情通の話を総合すると、おおよそ以下の図のようになる。

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Aさん自身の気持ちはひとみさんと年上女性とどちらを向いていたのか。年上女性との「二股交際を維持したかった」のであれば、ひとみさんとの結婚は先延ばしにすべきところであり、半年で結婚に踏み切るのは奇妙に思われる。

年上女性がひとみさんの勤務先に電話を掛けていた「O」だったとすれば、無言電話や車の傷、ひとみさんの記述など多くの疑問点がひとつの線につながる。Aさんの交際相手と名乗る「O」の電話に、ひとみさんはその日で退職することもあり、結婚前に自ら清算を求めるつもりで待ち合わせに臨んだのかもしれない。すぐにケリを付けるつもりで手ぶらのまま相手の車に乗り込んだのか、それとも拉致されたのか。「O≒年上女性」の素性は明らかではないが、素直に考えれば別に殺害や遺棄の実行犯がいた、その筋の第三者へ依頼したなどが考えられる。

Aさんの親が年上女性との結婚を良しとしなかった理由は定かではないが、ひとみさんとの結婚に前向きだったのは事実であろう。もしかするとAさん本人としては年上女性との結婚を反対する親への当てつけのようにひとみさんとの結婚を言い出したが、予期せず親とひとみさんの主導でとんとん拍子に話を進められてしまい慌てたのか。

警察もAさんやAさん家族には聴取しているが、行方不明事案では親子の確執や交際関係など混み入ったプライベートに関する強制捜査には踏み込めなかったと想像される。ひとみさんとの交際がなかった年上女性はどの程度俎上に上がったのかも分からない。

 

彼女は単なる失踪ではない。しかし殺人事件を裏付ける証拠もないままに、30年が経ってしまった非業な行方不明事案に思えてならない。

 

現職警官による告発——二俣事件

天竜中流、阿多古川の流れとぶつかる東岸、浜松と磐田を結ぶ街道の合流地点に二俣城は築かれた。戦国時代には徳川と武田が城の争奪戦を繰り広げた要所であった。

 

その城下町が基となった静岡県二俣町は浜松駅から北へ約20キロに位置しており、山深い北遠地域の玄関口とされた。水利を生かして繭の取引、木材水輸の集積地として栄え、ダム造成の拠点ともされてきたことから多くの宿屋の跡が今も残る。1940年には遠江二俣駅が開業し、終戦直後の最盛期には遊郭花柳界も賑わった。

本田宗一郎ものづくり伝承館

旧二俣町役場は国の登録有形文化財となり、浜松出身のホンダ創業者・本田宗一郎ものづくり伝承館として利用されている。

周辺の町村との合併後、1956年に天竜市へと改称。2023年現在は浜松市天竜区の一部を構成する。

 

事件の発覚

1950年(昭和25年)1月7日早朝、二俣川にかかる双竜橋近くの商店街にある大橋一郎さん方で異変が起こり、長男・武司さん(当時11歳)が泣きながら近くにあった伯父の家へと駆け込んだ。横で寝ていた両親らが血まみれになって絶命しているというのだ。

二俣署に通報が入ったのは5時40分頃。前夜は寒の入りで、彼の地にしては珍しく5センチほどの雪が積もっていた。

 

夫婦は刃物で顔や首など滅多刺しされてほぼ即死状態とみられた。一郎さん(46歳)の枕元には土瓶が倒れて中の茶殻が畳に滴り、首元には血が溜まっていたが外にこぼれてはおらず、眠るがごとく息絶えていた。

妻たつ子さん(33歳)は壁や天井まで血が飛散したと見え、霧吹きでも吹いたかのように染まった布団から這い出すような格好だった。犯人に気づいて相対したものか、犯人が引きずり出そうとしたものかは分からない。母から顎にかけて骨が砕けており、腕力のある犯人と見られた。

隣で寝ていた長女(2歳)に刺し傷はなく、首を手で絞められての扼殺。生後11か月の二女は息絶えた母親の下から見つかり、背中で圧迫されての窒息死だった。

 

大橋家は3年前に町内100戸を焼いた大火により家屋を焼失し、当時は親類の大工に急造してもらったバラックで、寝たきりの祖母と、両親、子ども5人の8人暮らし。夫は失業中の身で、昼は赤ん坊の世話などをする姿を見られており、目下の家計は妻の針子仕事に頼っていた。

両親と同じ6畳間で寝ていた長男の武司さんと二人の弟(8歳・5歳)に被害はなく、隣の2畳間で寝ていた祖母(87歳)も無傷だった。祖母に至っては近隣住民が集まって騒ぎになってもまだ起きてこなかったという。不幸中の幸いというべきか、現場の惨状を目にしなくて済んだ。

 

推定死亡時刻は、夫が6日午後7時20分から7日午前0時20分の間、妻は7日午前0時頃、長女は6日午後10時から11時の間、二女は6日午後11時頃とされた。当初の捜査記録では発生時刻を午後11時頃とする記載もある。

というのも六畳間にあった柱時計が右に10度傾いた状態で「11時2分」を指して止まっていたことから、犯行のはずみで停止したものと推測されたためである。

室内は物色されたような形跡があり、布団が台所に引っ張り出されていたり、押し入れは衣類から何からかき回されたような始末で、預金通帳や書類も床に散らばっていた。たんすの五段の引き出しが上下が入れ替わっていたことも確認されたが、具体的な盗品被害は分かりかねた。

 

また二男の話では、明け方に目を覚ました折、母親の足元で座って新聞を読んでいる男を目撃したと証言があった。新聞で隠れて顔までは見えなかったが、男が去った後、怖くて泣いていると長男に泣くな泣くなと叱られて再び床に就いたという。まるで子どもが悪い夢でも見ていたかのような話だが、事実、現場には血のりの指跡が付いた毎日小学生新聞が残されていた。

祖母に聞けば「夕べ、一郎が枕を直してくれた」と話したが、枕元には血染めの指の跡が見つかり、近づいて来た犯人を息子と見紛うたものと思われた。殺害直後の犯人がすぐに立ち去ろうとせず、なぜそうした行動をとっていたのかは判然としない。

裏の畑につながる路地には被害者宅に向かう11文(26センチ大)の不審な足跡が残されていたが、帰りの足跡は見当たらなかった。

裏の農業競合組合の板塀の上には、血の付いた手袋と鞘に収められた匕首(あいくち)が置いてあった。匕首は短刀を加工してつくった手製のものでイニシャルと思しき「O」と刻まれており、山川に囲まれたこの地でなぜこれ見よがしに近場に置き去ったものか腑に落ちない。

周辺は3軒の遊郭をはじめ、芝居小屋、商売店や酒屋が並ぶ繁華街で、店舗や住宅が密集している。そんななか見るからに貧相なバラックに盗みに入るというのはあまりに見当はずれに思われた。

 

国警と自治

1948年3月、GHQは人口5000人を超える全国1600の市町村についてアメリカの保安官制度を手本に自治体警察の設置を命じた。そのため従来の広域をカバーしていた国家地方警察と、自立性の高い自治体警察が併存していた期間が存在する。自治警は自治体への負担が大きく各地で廃止されていき、現行の警察組織に再編されたのは1954年のことである。

当時の二俣町の人口はおよそ1万2千人で、約3年にわたって自治体警察が置かれた。軽微な犯罪や自殺であれば自治警だけで対応可能だが、二俣署は僅か定員13人、刑事係は3人だけの小勢で、殺人事件のような大がかりな捜査となると国警の協力を要請し、合同捜査本部を構えることとなる。

 

一家4人殺人の報せを受け、国警静岡県本部は強力犯係主任・紅林麻雄警部補を送り込んだ。華々しい活躍を遂げていた国警の名刑事は手勢80名を率いて指揮をとり、町の素行不良者を片っ端からしょっ引いてくるよう指示した。

二俣署裏に借りた銀行の土蔵に押し込み、殴る蹴る、竹刀で打ったり柔道技にかけたりといった拷問を繰り広げて口を割らせようとしたのである。彼らの捜査手法には音の漏れにくい土蔵が適していたとみられる。

聞き込みにも回ったが、町民たちはその横暴なやり方に不満を持ち、捜査協力を拒んでいた。戦時中の二俣大火(1943年8月発生。大橋家を焼いた火災とは別)で犯人だと締め上げられた少年が取調での暴行を苦に自殺していたことも、町民の強い不信感と反発を生んでいた。

賑わった繁華街も国警に目を付けられるのを恐れて夜に出歩く者はなくなり、店も早じまいするようになった。

 

しかして捜査班は1か月半で二百数十名を調べに掛けたが目ぼしい容疑者は浮かんでこず、町では捜査員の移動・宿泊費など膨らみつづける捜査経費が懸念され、地元紙も「徒(いたずら)に日を空費」と国警の体たらくを非難する記事を掲載した。

すると記事掲載の2日後となる2月23日、捜査班は近所に住む当時18歳の少年Sを別件の窃盗罪で検挙。手荒な取り調べの末、4日後に一家4人殺しの犯行を自供させた。しかし名刑事による犯人逮捕で一件落着とはならず、昭和の事件史に悪名を残すこととなる。

 

山崎刑事の逡巡

戦時中の1941~42年にかけて起こった浜松9人連続殺しを解決へと導き、紅林麻雄氏は名刑事として一躍時の人となった。

捜査で350もの勲功を挙げており、裁判でも犯人しか知りえない事実、今で言うところの「秘密の暴露」を吐かせる手法で次々と有罪判決をもぎとっていた。その目覚ましい功績により、国警では「警視正の署長であっても、その言うことをきかなければならない絶対的な権力の持ち主」へと祭り上げられていた。

一方、1948年11月に起きた幸浦村一家4人殺しでは、翌年、知的障害のあった27歳男性を別件逮捕して自白を得、芋づる式に共犯者を逮捕。一審で、被告人・弁護側は取り調べで拷問を受けた末の虚偽自白であると主張し、名物刑事による自白強要が大きく取り沙汰されていた。

(幸浦事件は犯人の自白通りの場所から遺体が発見されたことが決め手となり、二俣事件発生後の1950年4月に一審・死刑判決が下される。その後、差し戻し審を経て、1963年7月に全員の無罪が確定する。小島事件、島田事件でも紅林捜査チームの拷問による自白の強要や証拠の捏造が次々と露見することになるが、拷問王などと非難を浴びるのは二俣事件以降の話である)

 

2月半ば、二俣での捜査規模縮小を迫られると、紅林警部補はこれまでの捜査対象から重要参考人を絞り込むための捜査会議を行った。その後逮捕される少年Sの名も挙がったが、彼には事件当夜アリバイがあった。

Sには盗癖があり前年末に調べを受けていたが、日頃は父親のラーメン屋台を手伝っていた。罪状は出先で目に付いたものをかっぱらってしまうコソ泥の類である。元は祖父母の代から劇場をやっていた家のボンボンで、腕っぷしも弱く、酒もタバコもやらず、根っからの不良者という訳ではない。

 

事件当夜9時前に、二俣署の山崎兵八(ひょうはち)刑事(当時38歳)が出前持ちに走る姿を見かけており、その後、マージャン屋に居たことが分かっていた。だがS少年はマージャンをやらないはずだ、と山崎刑事が疑念を挟んだことがきっかけとなり候補者リストに残されたのである。(後日の調査では、少年はマージャン自体はやらないが、人がしている卓を見ているのが好きだったとされ、出前をさぼって油を売っていたものとみられる)

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2月20日、紅林警部補は捜査会議で最終方針を示し、捜査員たちに以下のように言ったという。

「今日、三人を取調べたが、その中でSが有力な容疑者であることが判った。彼は正しく犯人である。大地を打つ槌がはずれても、これは絶対にはずれない真犯人であり、間違いはない」

「しかし、その証拠は何も無い。犯人には間違いないが、証拠は何ひとつない。そこで諸君には明日からこの証拠を探し出して貰いたい」

「諸君の中で犯人では無いのではないか、という疑問がある者が出てきたならば、この捜査は崩れてしまう。諸君はSが真犯人であるという信念を持って捜査に従事して貰いたい」

「この事について異議のある者は、今直ちに申し出て貰いたい。その人には捜査から抜けて貰いたい」

 

山崎刑事は自分の進言から無実のSが犯人にされようとしていることを知って戦慄した。同時に、犯罪捜査の要諦である「証を得てのち人を得よ」の教えとは真逆をいく、聞きしに劣る拷問捜査のやり方、問答無用の捜査指揮に憤慨した。しかし一介の町刑事が国警のエースと名高い紅林警部補に歯向かうことはできない。

その正義感と自身の進退を秤にかけ、山崎刑事は葛藤した。

警察に入って7年、恩給がもらえる身となるまであと5年は辛抱せねばならない。里には養っていかねばならない4人の子と嫁、老いた母親がいた。検挙に異常な執念を燃やす割に、真犯人は別にいると訴えても耳を貸さないに紅林警部補に逆らっても自分の力では何もならない。国警に引き下がってもらうためには誰かが生贄になるしかないのではないか。

Sの足のサイズは十文(約24センチ)で、現場に残されていた足跡とは明らかに食い違う。自白を「証拠の王」としてきた旧来の刑事訴訟法も、1949年から物的証拠、客観的事実に基づく刑事司法へと転換を果たした。新法に基づいて公正な審理が行われさえすれば少年の無実が必ずや明らかにされる、はずであった。

 

山崎刑事は布団で簀巻きにされた少年が一時息をしなくなったという噂を耳にして不安になり、少年の実家へと足を運んだ。少年の逮捕以来、屋台のチャルメラの音も聞かれなくなっていた。

Sの両親は在宅で、母親に聞けば、どこへ行っても人殺しの親が作ったものなど食えるかと言われて商売ができなくなり、一日二日は売れ残りでしのぎ、布団も着物も売り払って耐え忍んできたが、もはや金に換えられるものも食い物も底をついたと嘆いた。

 

「あの子は本当に人殺しをやったんですか」

Sの母親は山崎刑事の顔を睨んだ。

刑事はSの家族に切々と事情を訴え、理解と辛抱を請うた。

「人殺しなどやっていませんよ」

「世間の人が何を言おうと、彼のことを信じてあげてください」

「国警の連中に町から出て行ってもらうためには、犠牲者が必要なのです」

「助けてあげたくとも我々町警察ではどうしようもないんです。国警には勝てないんです。力のない町警察を代表してお詫びします。どうかお許しください」

「しかし日本の裁判官は正しく裁いてくれると思います。罪のない息子さんはきっと無罪になりますよ」

「もしも、もしもですね、有罪という判決が出たときは私が無実を名乗り出ます。警察官の職をなげうっても必ず彼が無実であることを名乗って出ます」

 

告発

4月12日、静岡地裁浜松支部で初公判が開かれた。

動機はマージャンで遊ぶ金欲しさ、公訴事実では現金1300円余りが奪われた強盗殺人とされた。凶器とされた匕首は5日に自宅隣の下駄工場の床下で偶々拾ったものという。被告人となった少年Sは終始否認を貫いた。

 

証言台に立った紅林警部補は、被告人は被害者宅の柱時計についてガラス蓋がなかったことを自白している、これは8月に割れたもので、現場に立ち入った犯人だからこそ知りえた情況証拠だと主張。

更に「止まっていた時計の針」について、時計の針を動かして犯行時刻の偽装を図る場面が出てくる映画『パレットナイフの殺人』が近くで公開されていたことを根拠に、以前からミステリ好きだった少年が長い針を2回ほど回して「11時2分」の犯行に見せかけたものだと「アリバイ崩し」を披露した。

少年は逮捕前の新聞で壁時計が不自然に止まっていたことを見知っていた。取調の段で時計の蓋についてしつこく聞かれるので「蓋は気が付かなかった。どうなっていたか分からない」などと言い逃れをしていた。これが逆手に取られてしまい、更なる追及を受けて「文字盤に硝子蓋は嵌っていなかったと思う。覆いを外した記憶がない」という供述へと変遷させられた。

山崎刑事の期待に反して、審理は無情にも検察ペースで展開し、11月には論告求刑で死刑が求刑され、このまま行けば死刑判決は確実だろうと検事や記者が口を揃えた。

 

山崎刑事は地元紙ではあてにならぬと思い、警察の不正に批判的立場を打ち出していた読売新聞東京本社に投書し、調査して不正や拷問捜査の事実を明らかにしてほしいと訴えた。すると記者は実名で告発してもらって記事にしたいという。家族もあるし、懲戒免職となれば恩給さえ出ないと固辞したが、記者はどうしてもと食い下がる。辞職して退職金を得てからであればと言うと、現職でなければ意味がないのだと迫る。記者は「本社で生活の面倒を見るから」とまで約し、山崎刑事も自動車免許があればトラックかなにか運転手でもして食い扶持はどうにかなると意を決した。

妻に話すともちろんいい顔はしなかった。以前も身寄りのない少年犯を引き取ってきて、家族の食事すらままならない時節に関わらずしばらく寝食をあてがってやることもあったという。夫の性分は重々承知の上であった。

「いいかね。もしもSが私たちの子どもだったらどう思う。黙って見過ごしができるだろうか

最後には妻も、分かりました、どんな苦労があっても一緒についていきます、と答えてくれたという。

最終弁論の前日11月23日に現職警官の実名入り告発記事が掲載された。記事が出ると、署から休暇を言い渡された。

 

これを受けて、判決審は延期となり、12月15日、山崎刑事らを証人として審理のやり直しが行われた。証言台に立った山崎刑事は裁判長の質問に答えるばかりでは埒が明かないとして、国警が行った拷問の実態や少年のアリバイ事実などを1時間半にわたって一方的に述べた。

S少年も自白強要の実態について、暴行で度々気を失ったことを語り、次第に思考判断する気力が失われ、弁解しても無駄であり、これ以上暴行されることに恐怖を覚えて自白に至ったと証言した。その後も事実と合致しない供述をするたびに国警から暴行を受けていたという。国警による自白の誘導、虚偽自白がつくられたことを意味していた。

だが同じく出廷した二俣署長は、山崎刑事は事件当日に現場に行っていない、日頃から勤務状態は出鱈目で性格は変質的、本件捜査にも従わず勝手な行動が多かったので配属を変えたと述べ、告発は何の根拠もない偽証であると突っぱねた。

12月18日、署長の求めにより山崎刑事は辞表を提出。

12月27日、裁判所は検察側の言い分を全面的に認め、S少年に死刑判決を下した。

 

同日、偽証容疑で山崎刑事は逮捕され、既決囚と同じ獄舎に収容されて正月を迎えた。

51年1月、名古屋大・乾憲男教授の精神鑑定を受けた。教授は二俣事件について述べるように求めたが、山崎刑事は証言の食いちがいから狂人扱いするつもりだとして反発した。観念して事件について2時間余り話すと、結果は「妄想性痴呆症」と診断され、「隔離監禁の処置が必要」とまで付記されていた。

また鑑定に必要との事で脊髄液を注射器で採取されたが、以来数日にわたって激しい痛みに襲われ、何か悪いものを注射されたのではないかと不安に陥った、と後年の手記に綴っている。

1月30日、精神疾患で刑事責任能力なしと判断され、偽証の容疑は不起訴となり身柄は釈放された。だが同日、精神疾患を理由に警察官を免職となった。

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周智郡熊切村の故郷へと戻った山崎氏であったが、精神疾患を理由に公安から運転免許証を取り上げられ、生活の糧に窮することとなる。

告発を後押しした読売新聞社もその後の生活の世話をすることはなかった。山崎氏は生きていく必要から若い頃にやっていた山仕事や新聞配達などに従事したが、生活は荒んでいった。配電を止められることもあったと言い、周囲の人びとも「時の人」となった元警官を心底から信用して支えた訳ではなかった。

妻は工事現場など土方仕事に出て家族を養い、子どもたちも新聞配達や畑仕事を手伝ったが教諭や生徒たちからいじめを受けた。家族を巻き込むこととなった父親の決断を恨みに思ったと語っている。元刑事が払った正義の代償は家族にとってあまりにも過酷だった。

 

逆転無罪

S元少年の裁判はその後も続き、控訴を棄却されたものの、清瀬一郎が弁護につき、新聞紙上や著作を通じて冤罪を広く訴えたことで、大きく流れが変わった。

1953年11月27日、最高裁・霜山精一裁判長は死刑判決を破棄し、静岡地裁への差し戻し審を決定。死刑判決の差戻しは本邦初であった。拷問による違法捜査を認めた訳ではないが、自白内容の信用性(真実性)が疑われ、物証その他に被告人の犯人性を示すものがなく、判決に重大な事実誤認がある公算が生じたためである。

 

清瀬一郎は、五・一五事件で犬養首相を暗殺した青年将校の死刑を回避、極東軍事裁判東条英機の主任弁護人などを務め、政治家としても後の1955年に71歳で文部大臣に就任したほか、衆議院議長として日米安保条約強行採決を主導した人物として知られる。

戦中は弁護士報国会会長として軍部を支持。戦後は日本弁護士協会会長として拷問根絶運動を展開し、GHQ憲法草案について拷問の禁止や、強制された自白は証拠とならない規定を陳情して採用された。先の幸浦事件でも控訴が棄却された1951年に静岡県弁護士会会長・内藤惣一から依頼を受け、弁護団に加わっていた。

清瀬弁護士の参加を後押ししたのは、浜松事件で捜査に携わり、紅林警部補のやりくちを目の当たりにしていた元刑事・南部清松氏の手紙であった。二俣事件当時は退職して二俣町で板金業を営んでいたが、地元に詳しい人物として紅林警部補から民間人協力の依頼もあった。国警の横暴を二俣一審の段階で暴露したひとりである。南部氏は島田事件においても冤罪証明のため尽力するなど、終生、紅林警部補をはじめ静岡の警察に蔓延した腐敗の根を質そうと努めた。

 

血液学の権威であり、東大法医学教室で多くの鑑定を担った古畑種基教授は、昭和の科学捜査の発展に大きく寄与した。その一方で、弘前大学教授夫人殺人事件、財田川事件、松山事件、島田事件など数々の冤罪事件の鑑定にも関わっており、警察司法の御用学者とみなす見方もある。

だが戦中の首なし事件、共産党リンチ殺人事件など警察・検察側に不利な鑑定を行うこともあり、注目を集めた下山総裁轢死事件では自殺として早期幕引きを目論んだ警視庁に対して他殺説を示し、困惑させてもいる。

本件差し戻し審では死亡推定時刻の割り出しで、元少年Sさんのアリバイが成立する夜11時頃との鑑定を示した。また犯人は相当量の返り血を浴びたとの見解を示し、少年が当日着ていた茶色のジャンパーには被害者血痕が認められなかったことで犯行不可能が裏付けられることとなる。

SさんはA型で、件のジャンパーは洗濯もせず毎日着こんでいたものであった。極微量の人血らしきルミノール反応は出たが検察側の鑑定では「非常に薄められたB型の血液が付いていたと思えぬことはない」という非常に不確かな結果が報告されたのみである。当時の鑑定技術では、殺害の返り血とまでは立証できず、苦渋の判断で絞り出した表現とも思える。

1957年9月20日静岡地裁の差し戻し審で、Sさんが無罪判決により同日釈放となる。

検察側は控訴したが、12月26日、東京高裁は控訴を棄却。検察側は上告を断念し、翌58年1月9日、約8年越しでSさんの無罪が確定した。

 

『現場刑事の告発』

Sさんの無罪が確定してから3年余、1961年3月14日の昼過ぎ、山崎家に火の手が上がった。そのとき両親は畑仕事に出掛け、近くの柿の木に上って遊んでいた小学3年生の二男がおり、自宅に入っていく男の姿を目にしていた。その直後に縁の下に煙が上がり、なす術もなく家屋は全焼した。

二男は「黒い長靴を履いた男」の目撃を訴えたが、警察は聞く耳をもたず、むしろ少年が火を放って嘘をついているのではないかと疑った。取り調べの席には元刑事の山崎さんも同行したが、取調官らに囲まれておびえる二男に「本当のことだけを話せ」と念を押した。

「新聞配達の手伝いが嫌で火を点けたのではないか」

当時の具体的なやりとりについて本人はパニック状態もあって記憶から失われてしまったと振り返っている。結局、火事は放火ではなくコタツの火の不始末ではないかとして処理された。この火災により、二俣事件などに関する独自の捜査資料もすべて失われてしまった。

 

下の記事では山崎氏の妻が事件後の暮らしぶりや氏の人柄を証言している。弱い人、苦しむ人を助け、不正には手を染めない、清廉潔白なひとだったという。

news.yahoo.co.jp

 

下の記事では、一家殺しで生き残った長男が事件について振り返っている。

事件当夜は湯豆腐を囲み、寒さでぐっすり寝入ってしまい、事件直後の出来事はショックで記憶から抜け落ちてしまったという。だが2つの棺に、父と長女、母と二女が収められた光景は忘れられないという。

事件後、長男は伯父の許で高校卒業まで育てられ、二人の弟は神職だった母方の祖父の縁で別々の家に引き取られて育てられることになった。

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大橋家を崩壊に追いやり、国警の横暴を告発した元刑事らの人生をも狂わせた事件の真相はいまだ解明されてはいない。

事件から四十年余、齢八十を控えて大病を患い、気落ちしていた山崎さんに長女は言った。

「事件のこと、刑事時代のことを書いてみたら。書き終えたら本にしてあげる」

山崎家では二俣事件のことは大きなわだかまりとなり長らく話題にしてこなかったが、娘の言葉を受けて山崎さんは筆をとる。その結晶は地元の版元で『現場刑事の告発 二俣事件の真相』という一冊の本となり、近親者に僅かな部数のみ配られた。

前半パートが二俣事件の一家4人殺し発生から一審を終えて精神疾患の烙印を付されるまでの記述、後半パートは『山崎巡査奮闘記』と題された二俣事件より以前の警官時代の記述である。前半パートには、当直番で二俣署に詰めていた1月7日早朝の第一通報を受けてからの行動が事細かに記され、聞き込みや町の人びととのやりとりがありありと描かれている。

本には山崎さんが真犯人と見立てた人物の名が記されており、再販は絶対にかなわない。作中では、S少年が犯人ではないこと、自分は事件直後からさる人物に引っ掛かりを感じたこと、現場状況の不自然さと町の噂、いくつかの手掛かりと漏れ聞いた情報によって納得のいく見立てが完成し、やはりさる人物こそが真犯人に相違ないと示される。

真犯人の見立てに関する箇所を要約抜粋。

 

・近隣住民に聞けば6日の夜8時半頃に、鶏を絞めるときのようなケッーという寒気のするような声を聞いていた。時を同じくして山崎刑事自身も被害者宅の前を通りがかり、窓からこぼれる灯りを目にしていた。

・長男が惨状に気づいた時刻から、署に通報が入るまで1時間以上かかっている。

・現場に駆けつけた山崎刑事が赤ん坊はどこだろうと探していると、さる人物が現れて「そこだ、おふくろの下にいる」と言う。刑事が赤ん坊の手に触れるとまだ温かかったので「オイッ、生きてるぞ」と叫ぶと、さる人物は「死んでる死んでる、死んでるはずだ」といなした。「おばあさんはどうか」と言うと、さる人物は「生きてる生きてる」と言い、家族の安否をすべて確認済みであった。

・寝たまま起きない祖母に事情を聞こうとすると、さる人物は可哀そうだから寝かせておいてやれと言う。後から祖母に聞けば「昨夜は一郎に枕を直してもらった」と話したが、夢現で別人と見間違えたのではないかとも思える。

・台所には一郎さんが作りかけていたあんこが残っていたが、生地になる粉やコメの類が見当たらない。盗るものもないような家で荒探しされたような跡も不審に思われた。

・殺人事件に不慣れな上司は、親族や子どもたちを一堂に集めてメモも取らず、わいわい騒ぎながら聴取をしている。

・近隣の噂によれば、以前から立ち飲み屋を出したいと話していたさる人物が金目当てにやったのではないかという。警察が到着する前にさる人物の妻が家の荷物を持ち出していたという。そのせいで部屋は荒らされ、コメや麦さえ持ち去られたらしい。

・土間にマッチ棒の燃え殻が散らばり、黒い布のような燃えカスがあった。以前読んだ「犯人の呪(まじな)い」という本で、ある地方では人殺しが逮捕を免れるため、被害者の血を付けた布切れを燃やす習慣があるとあった。さる人物の妻はその地方の出身者である。

・経験則によれば、若者の犯行であれば現場に頭髪が落ちていることが多く、年配者であるほど少ない。現場にそれらしい頭髪は見つからなかった。

司法解剖の経験のない町医者は、刺創が生前のものか死後のものかも判別できていなかった。

・短刀の捜査で、出所となった楽器工場に勤めていた「O」を特定した(Oは短刀と工場の木材、皮革を用いて匕首を自作したことを認めたが、以前紛失したと説明。事件当夜にアリバイがあり容疑が晴れた)

・さる人物は左手親指を負傷していた。出し入れのあった箪笥の引き出しを確認すると、右手に当たる箇所は血糊が薄れているのに対し、左手親指に当たる箇所の血糊はべったりと残っていた。さる人物は殺害時に怪我を負ったものと想像された。

・試しに現場で夜明かししてみると、夜10時半頃から午前三時半頃までは拍子木を打ち、ジャランジャランと鈴を鳴らす音が方々から響いていた。3年前の大火以来、夜警が廻っており、ちょうど現場付近が東西の夜警衆が行き交う地点だった。

・紅林警部補に容疑の点を一つ一つ説明したが、「捜査というものはなあ、そう深く考えてはだめだよ。もっと簡単に考えればよいのだよ」と一蹴された。

・M巡査部長に具申したが、諦めるよう諭された。紅林警部補が旅館でさる人物の妻から3万円ないし5万か6万円ほどの金を受け取っているところを見かけたという。曰く、幸浦でも同様の収賄があったとし、捜査など真面目にする気になれず「3か月かかって偽物をデッチ上げたんだよ」と。

 

それは正義のために全身全霊で捜査に打ち込んだ一刑事の記録であり、国警の前に屈した元刑事の遠吠えでもある。法廷で言い尽くせなかったことを、当該人物も多くが亡くなった後、子どもたちも独立して自分の生い先を悟ったからこそ生み落とされた決死の手記である。

だがさる人物が真犯人かといえば、決定的な証拠はなく、予断が入り混じった刑事の勘が大きなウェイトを占めているように見える。さる人物たればこそ腑に落ちるところもあれば、一刑事の独白であるが故の消化不良も残る。山崎さんがどこまで調査裏取りができていたのか全て焼けてしまった今となっては分からないし、文中には事実誤認もいくつか確認できる。

 

 

管賀江留郎氏による二俣事件本の集大成ともいうべき『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか—冤罪、虐殺、正しい心』では、山崎さんが1975年の島田事件支援グループの会合の場で、本と同じような内容の話をしていたことが報告されている。カンペもなしに4時間にわたって講談調に語り聞かせ、数十人もの関係者や日付、年齢までも極めて正確だったという。つまり本を著す段になって組み立てられた話ではなく、長らく本人の記憶に刻み込まれている「真実」であることは間違いない。

しかしそれとて事件発生から25年後のことであり、家屋全焼から14年後の話である。その全てが事件当時の記憶に基づくとは断定しえず、裁判後の独自調査や冤罪研究を踏まえて肉付けされて完成した話なのか、どういう順序や経緯で気づきや確信が芽生えていったのかは正確なところは分からない。紅林警部補の収賄の噂ひとつとっても証拠は残されていないのである。

人の記憶は生きている。ときに誤り、修正され、場合によっては事実から遠ざかり、他意なく歪められるのが真実というものである。

巧みなレトリックが凝らされた序盤、捜査への熱意と遵法精神が込められ筆の走った中盤に比べ、自身の逮捕に至る終盤でその筆先には混迷の色が滲んでいる。郷里に戻って以後も独自調査や人的交流、継続していた事件裁判などによってもたらされた学びや気づきがあったにはちがいない。だがおそらくは事件によって社会から断絶された現在の境遇と地続きの部分を書き進めていくことができなかったのではないか。

神仏の加護を祈る信仰心にはどこかしら帝銀事件で獄中死した平沢貞通氏のように脆く危い存在に思え、「正義は勝つ」と繰り返す行間には己の負けを悟ってしまったかのような儚さを感じる。死刑囚さながらの窮地に追い込まれ、それでも自分を奮い立たせなければ前に進んでいくこともできなかった孤立無援の心境が窺われる。

この本が真犯人や紅林氏ら死者に対してぶつけられたものだったのか、自分の妻、子や孫、被害者遺族に捧げられたものだったのか、あるいは己の正義感を目の前の紙に投影したものだったのか。事件の真相とは何なのか―—深く考えさせられる。

 

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、ご遺族の心の安寧を願います。

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/714/055714_hanrei.pdf

狭山事件

1963年、埼玉県狭山市で起きた少女殺し。逮捕された元とび見習いの男には多くの物証が付きつけられたが、捏造による冤罪疑惑となり、部落差別問題にまで飛び火した。事件は多くの謎を呼び、60年以上経った現在も再審運動が続けられている。

 

営利誘拐?

1963(昭和38)年5月1日(水)の夕刻、埼玉県狭山市に住む農業・中田栄作さんの四女で、川越高校入間川分校に通う善枝さん(16)が下校中に行方が分からなくなった。

 

その日は雨が降ったりやんだりの空模様。14時35分頃に6限目の授業が終わった後もクラブ活動はなく、生徒たちは思い思いに放課後の余暇を過ごしていた。

教諭は「銀行に用があってもう閉まる時刻なので続きは明日にしよう」と言って善枝さんとの会話を15時前に切り上げたことを記憶していた。彼女はその後も校内に残っていたと思われるが、いつ帰ったのか級友たちもはっきり把握していなかった。

そのなかで有力視されたのが、15時23分頃に「ひとりで自転車を押して校舎を出るのを見た」という級友の証言である。級友は自分が普段使っていた24分発の電車を乗り逃したことに気づき、窓の外を見たとき自転車を押す彼女の後姿を目にしたという。

善枝さんは級友たちに、今日は自分の誕生日だと話していた。家では朝食に祝いの赤飯が供されていたが、夜に特別な祝いごとが予定されていた訳ではなかった。普段から一人で下校することが多く、このあと何か予定があったのかは誰も聞き知らなかった。

 

朝の登校前、善枝さんは郵便局でオリンピックの記念切手(6月23日発売)をクラス分まとめて予約購入する手続きに訪れていた。そのとき郵便局は混雑していたため、局員は遅刻させてはいけないと思い、「領収証は午後までに用意しておく」と約束していた。

担当局員はその日16時まで勤務しており、朝と同じ生徒が午後に領収証を受け取りに来たことを記憶していた。だが受け取り時刻について、5日の聴取では「午後2時から3時10分の間」とし、後に「午後3時20分から30分頃」と変更した。作業中に時計を見ていた訳ではなく、仕事状況から逆算して割り出された時刻である。

また後に購入したばかりの針刺しが発見され、15時半ごろに駅近くの洋裁店に立ち寄ったものと推測されたが、店員は来店の事実や時刻について断定できないものとした。

 

一方、時間に食い違いがあるものの、当日、学校周辺や通学路とは別の場所での目撃情報もあった。

①14時から14時半の間、堀兼中3年の後輩男子が、うつむき加減で自転車をこぐ被害者とすれ違ったと証言した。少年は入間川東中で行われる野球の試合を見るため、現在の県道126号所沢堀兼狭山線に並行して走る通称“沢の道”を急いでいた。するとS自転車店のそばで先輩の善枝さんとすれ違い、「言葉は交わさなかったが見間違えるはずはない」と証言。だが当時の道は善枝さん宅の方面までつながっておらず、その場所で何をしていたのか説明がつかなかった。少年が東中についたのは14時半前後で、善枝さんの下校したとみられる15時~15時半頃とは約1時間の食いちがいがある。少年は頭もよく、学友たちも「絶対に嘘なんかつけるやつじゃない」と口を揃えた。

②15時前後、中学時代の担任教師が第2ガード下で元教え子の姿を見たと話している。普段であれば善枝さんは向こうから声を掛けてくるタイプだが、そのときは声を掛けてこなかった。教諭の方から声を掛けたが返事はなく、自転車は見かけなかったという。

③15時20分頃、第2ガード下から徒歩5、6分の場所にある第1ガード下で、畑仕事から帰る農婦が善枝さんらしき女学生の姿を見ていた。学生服におかっぱ頭、丸顔でふっくりした顔の女学生で、草色の婦人用自転車を支えて立っていたという特徴は善枝さんと瓜二つと言えた。農婦には幼い娘がおり、うちの子もいつかあんな女学生になるのかしらと思い、気に留めて見ていたのだという。女学生は荒神様の方を見ながら人と待ち合わせでもしている様子だったと証言した。

60年代の入間川駅周辺〔地理院地図〕


入間川駅近くにある分校から堀兼地区にある善枝さんの自宅までおよそ4キロ、自転車で30分程のルートで、普段は17時半頃、遅くとも18時までには帰宅していた。

雨足が強くなり農作業を終えた家人らは彼女の帰りが遅いことを心配し、18時50分頃、「傘がなくて帰れないのではないか」と長男・健治さんに車で迎えに行かせた。

健治さんが19時過ぎに学校に到着すると、教室ではすでに夜間学生の授業が始まっていた。職員に確認したが、昼間の生徒はすでに下校したと言われた。かつて自分が電車を使って下校していた経験があったため、最寄りの入曽駅にも立ち寄ってみたが妹の姿は見当たらなかった。

 

19時30分頃、健治さんが帰宅すると、家族は夕飯の支度をして板間の卓袱台を囲んでいた。

中田家は農業を営み、多くの畑地と山を所有し、周辺では「百万様」と呼ばれる富農だった。当時は区長も務めていた父・栄作さん(58歳)、長男・健治さん(26歳)が茶や野菜の生産、家事や農業を手伝う二女・登美恵さん(23歳)、夜間高校に通う二男(19歳)、小学生の三男(11歳)に善枝さんを加えた6人暮らし。母親は10年ほど前に脳腫瘍で亡くなっており、三女も幼くして他界、長女は8年程前から東京に出て住み込み働きをしていた。

健治さんは妹を発見できなかったことを家族に報告し、ひとりだけ板間には上がらず、玄関脇の土間の長椅子に腰かけて食事を始めた。10分程して不意に玄関のガラス戸に紙が挟まっていることに気付き、三男に言って取りにやらせた。先だって帰宅の折、閉めたばかりの戸口である。

封が切られた形跡のある封筒で、表には「少時様」と打ち消した下に「中田江さく」と書き直したような跡があった。誤字ではあるが、宛名は栄作さんを表したものと思われた。

中には善枝さん本人の生徒手帳と、大学ノートをちぎった書面が入っていた。文字のインクは滲んでいなかった。

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少時  このかみにツツんでこい

子どもの命が知かたら429日の夜12時に、

           五2

金二十万円女の人がもッの門のところにいろ。

           さの

友だちが車出いくからそのひとにわたせ

時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい

刑札には名知たら小供は死。

もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かッたらー

子供西武園の池の中に死出いるからそこにいッてみろ

もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにかえッて気たら

子供1時かんごに車出ぶじにとどける、

くりか江す 刑札にはなすな。

気んじょの人にもはなすな

子供死出死まう。

もし金をとりにツて。ちがう人がいたら

そのままかえてきて。こどもころしてヤる。

身代金誘拐の脅迫状と察した父親と長男は「刑札にはなすな」と書かれてはいたがすぐに警察へ届け出ることを決断。長男が近くの親戚に留守を頼みに行っている間、父親は庭の納屋に停めてある車の脇に善枝さんの自転車が立ててあるのを発見する。

車体は濡れていたが、サドルシートは乾いており、普段備え付けていた荷かけ紐やビニール風呂敷はなかった。健治さんが帰宅した際に自転車は停まっていなかったため、犯人が脅迫状と共に置いていったものと考えられた。車は別の位置に駐車することもあったが、自転車は善枝さんが普段停める所定の位置であった。

19時50分頃、2人は堀兼駐在で事情を伝え、重大事案として20時過ぎに狭山署へ移動して調書を作成した。

21時頃、刑事数名と家に戻るとその対応を協議した。刑事が家の周辺を確認したが自転車のタイヤ痕など犯人の痕跡は見つけられなかった。

 

脅迫状にある「さのヤ」は近くの酒・食料雑貨店の「佐野屋」を指すと思われたが、店に「門」はなかった。また指定日時は「五月2日の夜12時」と記されていたが、事件当夜「1日の24時(2日の0時)」のことか、翌日「2日の24時(3日の0時)」を指すのかは不明瞭だった。

念のためにその日の晩に現場へ向かうこととなり、急ぎ新聞紙で偽札をこしらえた。家に「女の人」は二女・登美恵さんしかおらず、1日23時30分頃、受け渡し役として偽札を携え、佐野屋付近で犯人の出方を待った。数名の警官が中田家に待機し、4、5名が現場近くに張り込んだが、その晩、犯人は姿を現さなかった。

 

時代状況と通学路

東京五輪の前年、日本は高度経済成長のスタート地点に立っていた。当時の狭山市は人口約3万6000人、「狭山茶」の生産でも知られる半商半農の鄙びた町だったが、首都圏は都市開発が急速に拡大していた時期で、旧来の地主層は山を切り売りする動きも増えつつあった。

物価も賃金も右肩上がりな時代で単純な比較はできないが、当時の国家公務員上級(甲)の初任給は17100円で現在とは10倍以上の開きがある。身代金要求額の20万円は、感覚的には新人公務員の年収程度と想像される。

身代金の相場というのは計りづらいが、参考までに同年3月に東京都台東区で発生した4歳男児の営利誘拐、いわゆる吉展ちゃん事件ではその身代金は50万円とされていた。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

学校のあった入間川駅の周辺は人口流入や自動車の往来も多くなっていたが、周辺部のインフラ整備は追いついておらず道路は未舗装という時代だった。駅の南に位置する一帯は当時米軍の管理下でジョンソン基地として運用されており、事件後の1963年11月から1978年9月にかけて返還が行われ航空自衛隊入間基地とされる。

当時の駅出入り口は西側だけで、被害者の通う分校も近くにあった。善枝さんは日頃、入間川駅前から線路を越えて「富士見通り」を南下し、「薬研坂」を東進する下校ルートを通った。

線路沿いに目撃情報のあった第2ガード下、第1ガード下、自転車店前があるが、いずれも普段の下校ルートからは大きく逸れている。当時のガード下は用事がある人しか立ち入らないさびしい場所だったとされ、線路沿いはきつい坂道で善枝さんは自転車が漕ぎやすい薬研坂ルートを使っていたという。

14時35分に見られた下校姿は本当に善枝さん本人だったのか、ガード下などで目撃されていたのは他人の空似だったのか。どの目撃証言を採用するかによって、被害者の行動推測は大きく左右される。

 

失態

5月2日早朝、長男・健治さんは家の周囲で犯人の痕跡を捜した際、封筒の切れ端を発見した。脅迫状からは合わせて7つの指紋が採取されたが、照合できたものは長男と駐在署員の指紋2点で、そのほか軍手、ゴムグリップ付き軍手の痕跡も認められている。

父・栄作さんは心労から体調を崩し、登美恵さんとともに「もう殺されているかもしれない」と不安を募らせた。前夜の受け渡しの際にも悲鳴を上げるなどひどく怖気づいてしまった登美恵さんは、2日目の受け渡し役を拒んでいた。

 

狭山署の竹内武雄署長は、中学のPTA会長(教育振興協会会長)で木材販売業を営むMさんに民間協力を依頼した。Mさんは中野学校出身で元憲兵士官の経験があり張り込みなどはお手のものという人物で、地域の交通安全協会会長を務めるなど警察との縁も深かった。また同氏の子息が中学時代に生徒会長を務めていた折に善枝さんは副会長を務めており、Mさんも本人と面識があった。

Mさんは「自分が傍に付くから」と登美恵さんを説き伏せ、2日深夜の身代金受け渡しに自ら張り込んだ。その他にも佐野屋側との斥候、捜査の前線基地の設定や人員配備の車手配など積極的に協力した。また脅迫状の話を聞くと、中学まで出向いて「善枝さんの同窓生」の筆跡が分かる資料の提供を求めるなど、独自に調査を試みるなど強力な世話人であった。

 

2日23時40分頃、二女は再び偽札を入れた包みを携えて「佐野屋」の前に立った。日付変わって3日0時10分頃、登美恵さんの立つ店先から30m程離れた茶畑の茂みから男の声で呼び掛けられた。

「おい、おい、来てんのか」

「…来てますよ」

照明のない闇夜の下、畑に向かって登美恵さんは答えた。

「警察に話したんべい。…そこに二人いるじゃねえか」

「一人で来ているから、こちらへいらっしゃいよ」

犯人が張り込みの警官らに実際気付いていたのか、はったりでカマをかけたのかは判然としないが、姿を見せようとしない犯人と登美恵さんとの会話は途切れ途切れに10分程続いた。だが捜査員の存在に気付いていればどうして無理を承知で接近したのか、そんな悠長な真似はできないようにも思える。

「本当に持ってきてるのか」

「ええ、持ってますよ」

登美恵さんは手振りの指示を受けて、声のする茶畑の方へ数メートル前進し、偽札の入った包みを開く素振りを見せた。

「ここまで来ているんだから出てきなさいよ。あなたも男なら、男らしく出てきたらよいでしょう」

しかし犯人は受け取りに近づこうとはせず、登美恵さんも元いた店の前まで戻った。

やがて「とれないから、おら帰るぞ、帰るぞ」と言ったきり、やりとりは途絶えた。

長い沈黙から数分して犯人が逃亡したことに気付いたが、時すでに遅し。今日とは勝手が違い、投光器や通信手段もない中、目前にまで迫った犯人を取り逃がす大失態を犯したのである。

 

総勢40名程の警官が駆り出されていたが、脅迫状にあった「車」で来るという内容にまんまと踊らされ、その大半は各街道沿いの十数か所に分けて配置されていた。犯人は分散された警官隊の網の目を掻い潜って、徒歩で現れた。

後のMさんの証言では、佐野屋前には年配が5、6人いただけで土地勘のない寄せ集めの警官ばかりだったとされる(新聞報道では、二人一組で店の各方面に計8人とされる)。穿った見方をすれば、警察は車両ごと捕獲することに気を取られて、佐野屋前に犯人が現れることを想定できていなかった。指令系統もない中、佐野屋前の警官たちが機転を利かせて確保するといった心づもりは端からなかったとも捉えられる。

また犯人の声が聞こえる前にも、佐野屋前を徒歩の男性、自転車、バイク、車両が通りがかったとする証言もあり、猫の仔一匹通さないような徹底した警備体制が敷かれていた訳ではなかったようだ。いずれの通行者も身元消息は確認されていなかった。

 

暗闇の中で犯人の姿かたちを捉えることはできなかったが、会話の印象で登美恵さんは年代は26、7歳から33歳くらいの「ごく普通の声」とし、「どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声」と公判で証言。二女の近くにいたMさんは「中年の男」、近くに張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と印象は多少食い違っている。だが場所の指定や訛りの具合からすれば犯人の男は地元の人間と思われた。

 

遺体発見

5月3日、特捜本部が組まれ、早朝には佐野屋前の茶畑周辺で犯人のものとみられる職人足袋の下足痕が採取される。

捜査員が周辺への聞き込みに回ったほか、機動隊員、地元消防団、警察犬を動員しての大規模な「山狩り」も実施された。警察犬の一匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で、もう一匹は佐野屋から北側方向に進んで追跡は途絶えた。

15時過ぎ、入間川字井戸窪の山林内で、被害者が自転車で使用していたものと思われる「荷かけ用のゴム紐」が発見されている。その夜、公開捜査に切り替えられ、一斉捜索が計画された。

 

翌4日10時過ぎ、消防団員のひとりが麦畑の間を抜ける農道に表土の一部が異なる一角を見つける。30センチ程掘り返すと地中から紺色の衣類が現れたため、捜査本部に報告した。機動隊員が集められ掘削を進めると、革靴を履いた足が見え、捜索中だった少女の遺体と確認される。

農道の表面はもともと苔に覆われていたため、畑作業をしに通っていた住民は2日時点で表土の異変に気付いていたが、とくに掘り返してみようとはしなかったという。

 

先の吉展ちゃん事件で警視庁は身代金を奪われて犯人を取り逃がし、男児を奪還できないまま犯人の目星もついていない状態だった。新聞各紙は警察の大失態を糾弾、テレビやラジオは脅迫電話の録音テープを放送し、各地で吉展ちゃん捜索キャンペーンが張られ、事件の長期化に世論の非難が増していた。

善枝さん事件でも犯人取り逃がし、更には遺体発見という最悪の結末を受けて、糾弾の声は強まり、柏村信雄警察庁長官は辞職願を提出。参議院本会議でも警察の立て続けの失態が追及され、篠田弘作国家公安委員長は委員会を招集して捜査態勢の立て直しを厳命。「何としても生きたまま犯人を捕まえる」と宣言した。

 

発見時の状態

遺体の埋められていた穴の大きさはおよそ縦160センチ、横88.5センチ、深さ86センチ程度。掘り返す際に出てきた土は周囲の土地とは異なり、「古い茶の葉」やビニール片が入り混じっていた。

遺体は、頭部を南方に向け、足をまっすぐに伸ばしたうつ伏せ姿勢。制服を着用しており、靴下は比較的綺麗な状態で革靴を履いていた。腹部や下肢には引きずられたような跡があった。発見時、スカートは捲れ上がり、ズロース下着が膝上まで下ろされていた。

首には木綿の細引き紐が巻かれていたが、後の所見でこの紐は凶器に用いられていないことが確認される。タオルで目隠しされ、顔の下にはビニール布が敷かれていた。右側頭部と接するように外径20センチ、重さ4.6キロ程の「玉石」があった。

両手首は手拭いで後ろ手に、足首は木綿の細引き紐で拘束されていた。足首の紐には数メートルの長い「荒縄」が結ばれており、荒縄は遺体の上にまとめて置かれ、縄の先端にはビニール片が結ばれていた。首と両足首の紐は、ひこつくし(すごき結び)と呼ばれる結び方で、先端を引っ張ると締まる仕組みになっていた。馬や舟を杭につなぐ際などに用いられる結び方である。

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20m程離れた場所に蓋の開いた芋穴(収穫作物や保存食などを貯蔵する穴倉)があり、中から「棍棒」と先端のちぎれた「ビニール風呂敷」が発見される。このビニール風呂敷が遺体の荒縄に結ばれていたビニール片と一致した。

 

同4日19時、県警から依頼を受けた五十嵐勝爾鑑定医により中田家で司法解剖が行われる。指や爪の痕跡はなかったが、死因は頸部圧迫、扼殺(手足で圧迫しての絞殺)による窒息死とされ、死後2~3日が経過しており、膣内からB型の精液が検出され、強姦後の殺害と推定された。

胃には約250mlの未消化物が残っており、食後2~3時間のうちに死亡したと推定される。内容物には、ジャガイモ、なす、玉ねぎ、にんじん、小豆、葉物、米粒類のほかにトマトが含まれていた。小豆は皮の消化が遅いため朝食の赤飯と思われたが、1日の昼食は授業の調理実習で作ったカレーライスで、付け合わせにも「トマト」は含まれていなかった。

後頭部には生前に長さ1.3センチ程度の何か鈍物でぶつけたような裂傷があり、体外に牛乳瓶2本程度(360ミリリットル)の血液流出が推測された。傷痕の向きは頭頂部付近から右下方向にかけてのもので、自転車での転倒によるものとは考えづらい。鑑定書には「棒状鈍器等の使用による加害者の積極的攻撃の結果とはみなしがたい」と書かれている。

処女膜には少なくとも事件より1週間以上前にできたとみられる亀裂があったが、それが性交による破瓜なのか、自慰行為や生理用品の使用、激しいスポーツ等によって生じた傷かは特定できなかった。死斑の状態から、死後4~6時間にわたって仰向けにされた後、埋める際にうつ伏せ姿勢にされたものと推測された。

犯人は1日の段階で強姦・殺害・埋没しながら、嘘の脅迫状で善枝さんの生存を装い、翌日の晩に金だけ奪おうと画策したことになる。

 

逮捕

捜査本部では脅迫文や声の訛りから5月3日の段階で「土地の者による犯行」と断言し、早期解決を宣誓した。管轄は違えど吉展ちゃん事件でも犯人取り逃しの失態を演じていた警察には責任追及の厳しい声が相次いだ。

県警は165名からなる大陣営を組み、背水の陣で捜査に奔走した。世論の高まりとともに多くのメディアが現場を訪れスクープを嗅ぎまわり、自民党治安対策委員会早川崇委員長は「是が非でも事件を解決し警察の威信を高めてもらいたい」と激励に駆け付けるなど、組織の面子を掛けて犯人検挙が喫緊の至上命令とされた。

 

当時、狭山市内には3つの被差別部落があり、土地の人間からは部落の青年らは乱暴を働く不良者と見なされていた。周辺で聞き込みを行えば人々は部落民の仕業だと口を揃え、新聞各紙も部落を「悪の巣窟」かのごとくに書き連ねた。

土地柄として同じ氏族が集住していたため、人々は親類縁者への疑いを避けるために「部落」に濡れ衣を着せようとする向きもあったのかもしれない。部落差別の背景のひとつには、そうした悪意の捌け口として村落共同体の秩序維持のために強化される場合がある。

警察でも脅迫状の誤字や筆跡から知能程度の低い人物との見方を強め、身代金の金額等からも被差別部落出身者へと照準を合わせていった。物証や裏付けなしに手当たり次第取り調べに掛けていくやみくもな捜査方針で現場は混乱し、合わせて27~28名が取調べを受けた。

さらに聴取を受けた参考人OGさん(6日)、情報提供者Tさん(11日)と自殺者が相次ぎ、マスコミはその不審な死の背景をめぐっても、事件に、あるいは警察の不当捜査の行き過ぎに因果関係をもとめ、センセーショナルな報道が続いた。

村八分という言葉が示すように、村落共同体の秩序を乱せばその内部で生じる圧力は外部の人間には計り知れない。警察の取り調べに根を上げたのか、家族にまで降りかかる村人からの非難をおそれて自ら命を絶ったのかは判別しようがない。死人に口なしになってしまうが、逃げ場がないと感じた真犯人が罪の意識から、といった経緯も充分にあり得ることである。

 

特捜本部はとりわけ佐野屋近くにある養豚場の関係者へと捜査を集中させていく。養豚場の経営は暴行や強姦の前歴のある部落出身の三兄弟が中心となっており、素行不良者の出入りも多いと悪いうわさが絶えなかった。

養豚場は被害者宅からも近く、豚の飼料にジョンソン基地から出る残飯廃棄物を使っていたため、駅前から薬研坂を通る被害者の下校ルートを運搬トラックで行き来していた。

また養豚場ではスコップが紛失しており、警察に促されて6日に被害届を提出したが、11日になって作業中の住民が小麦畑で発見する。鑑定の結果、形状や付着していた油分から捜索中の「飼料用スコップ」と判断され、犯人が養豚場から持ち出して死体隠匿の穴掘り用に使ったものと考えられた。養豚場では番犬を飼っており、警察は関係者以外盗みだせないと見当付けた。

 

5月23日早朝、建築業見習い石川一雄(当時24歳。敬称略)が逮捕される。以前に養豚場で4カ月ほど住み込み働きしていた部落出身の青年で、事件当時は兄の仕事を手伝っていた。

逮捕容疑は、養豚場での同僚への暴行、トラック運転席にあった作業着を無断使用した窃盗、脅迫状による身代金要求での恐喝未遂の三件。家の周囲を警官隊で包囲し、早朝に関わらず大勢のマスコミが詰めかけていた。それまでのバッシングを吹き飛ばす逮捕劇は大々的に紙面を飾った。

いわゆる別件逮捕であり、警察は「善枝さん殺し」のホンボシだとして事前に逮捕の段取りをマスコミに伝えていた。養豚場関係者らは筆跡や血液型、事件当時のアリバイを確認されたが、悉くシロとなり、最後まで疑惑が残ったのが石川だったと報じられた。

 

21日に提出したアリバイに関する上申書では、1日は朝からとび職の兄と共に屋根の補修工事に出ており、夜は家で休んでいたと記されていた。しかし実際には虚偽の申告で、当日のアリバイは判然としなかった。男は小学1年程度の識字力で、その文字の拙さや誤字の特徴は脅迫状のそれに近いと判断された。また被害者の遺体に残された精液と同じく血液型はB型だったが、やはり嫌疑逃れにA型だと嘘をついていた。

目隠しに使用されたタオルは東京都江戸川区にある月島食品工業のもので、3年間で得意先などに8434本が配られていた。石川のものと断定する決め手はないが、以前彼が参加した野球大会でも参加者に贈呈されており、過去に入手する機会はあったと報じられた。

石川さんは暴行、窃盗についてはすぐに容疑を認め、追及を受けて他の傷害や過去に犯したイモや鶏、材木の窃盗など余罪十数件を白状したものの、かかる善枝さん殺しについては頑として否認を続けた。

 

生い立ち

石川さんは両親と兄姉弟妹の合わせて7人家族。被差別部落に生まれ、幼年期には八畳一間の風が吹けば飛ぶようなバラック小屋に、畳もない薄べり板の上で寄せ集まるように寝起きしていた。

父・富造さんは文盲ではあったが働き者で、戦前は西武線工事のための砂利積み、戦後はお茶の工場で不定期に働き、工場がない時期は籠づくりの材料となる篠を刈ったり、日雇で百姓手伝いをやった。律義で厳格な性格で、こどもが悪さをすれば薪を投げて叱りつける気の短さだった。酒は飲まず無駄金を使わず怠けることもなかったが、貧乏子沢山で常に食うに事欠いていた。

富造さんが工場働きで得た日銭120円でうどん5、6玉を買って帰り、それを家族で2食に分けて食べた。ハコベ、野蒜、ニラといった野草を摘んできたり、「売り物にならないサツマイモ」を安く分けてもらったりして腹の足しにした。雨が続けば日銭すら稼げず、フスマ(小麦の外皮。鳥の餌や肥料などに用いられる)を団子状に焼いて飢えをしのいだ。「卵の殻が紛れ込んでいて口の中をよく切った」という。戦後のこどもたちが配給のザラメでカルメラ焼きをつくっていた頃、石川家では湯呑一杯分の水溶きザラメを食事代わりに啜ることもあった。

母リイさんも同じ部落の出身者で、合わせて9人の子を産んだ(男児2人が早逝)。石川さんの7つ下の弟を出んだ際、栄養失調と産後の肥立ちの悪さが重なって失明寸前まで視力を失ってしまう。以来、家事にも不自由し、ほとんどを家から出ることなく、娘や女友達と草履編みに励んでいた。草履編みは部落女性の仕事として広く知られており、かつては材料のい草を干す様子が部落の風景とされていた。

 

狭山の部落は石川家など13戸からなる「前っぱら」と30戸ほどが集まる「新宅」に分かれていた。水の便が悪い土地で共用の井戸はあったが出が悪く、800m程離れた山の神社までの水汲みと薪集めが、石川少年の5歳からの日課だった。

前っぱらのこどもたちは着物に裸足、冬は長靴を切ったような履物で通学した。新宅の方が家屋が少しましなつくりで、こどもたちも自分の制服を支度してもらうことができた。衣服は「身内のおさがり」が当たり前の時代ではあったが、前っぱらのこどもたちは「近所で使い回された後のおさがり」だったため、はじめて袖を通すときからつぎ当てだらけで薄汚れていた。

 

傘がないので雨の日は学校に通えなかった。教科書は近所の先輩から譲ってもらうことができたがノートや半紙を買うことができず、PTAなどの会費も払えない。文具が必要だったり、集金がある日は休むようになった。

小柄で一番前の席を割り当てられたが読み書きはほとんどできないまま小学校を卒業。「休み時間にみんなと遊ぶために通っていた」と石川は振り返る。当然教諭も学力の不足を知っていたが、それで叱りつけたり、補習させたりすることはなかったという。

部落のこどもたちは町の子たちから汚れた身なりを嘲られたり、「(犬などの)獣の肉を食っている」として投石や暴力を受ける虐めがあった。いじめに遭うときは前っぱらも新宅も区別なく標的にされた。石川少年は町の子が虐めてくる理由が分からず、親に聞いても答えはなかった。

小学4年頃には子守奉公や父親に連れ添われて日雇いの野良仕事に出るようになった。戦後、飛行場の一部が払い下げられ、石川家は2人の娘を奉公に出して金を工面し、3反ばかりの土地を得た。農業には不向きな土地だったが、大根、ネギ、ホウレンソウといった作物を育てて一畝いくらで八百屋に卸して金に換えた。畑づくりが兄弟の仕事となり、筋力がついて殴り返すようになると虐めはなくなった。

高学年ではほとんど通学しなかったが、学校側は必要な出席日数も忖度して卒業させたとみられる。今日の社会常識では信じがたいことだが、部落や貧困家庭のこどもたちはすぐに働きに出るため、読み書きが不得手でも仕方がないとみなされていた。石川の姉は奉公先で中学まで出してもらうことができたが、前っぱらのこどもたちは進学せずに働くのが普通だった。

 

石川と同時代を生きた作家・評論家の野間宏氏は、野草で飢えをしのいだりといった厳しい暮らしぶりは戦後すぐの庶民、貧農の家庭にも見られた光景だと振り返る。だが進学の見込みがないとかこつけての教育差別や、低賃金で昇給することのない職業差別、生活の根幹である「水」に不自由な土地を割り当てられていることによって、部落民はそうした著しい困窮の状態を戦後の一時期に限らず半ば恒常的に強いられてきた、と指摘している。

 

終戦から1950年頃にわたっては、警察が月に1、2回は戸籍調査の名目で部落を訪れていたという。部落の住民たちは従順に抵抗することなく、警察に恐れをなすようにへつらっていた。少年時代に柿泥棒など悪さをすれば親は「警察に突き出すぞ」と叱って脅し、幼心に警察は怖いものと刻み込まれていたと石川は言う。

近くで電車転覆未遂が起こり、13歳の石川少年が嫌疑をかけられた。このとき警察が頭を小突いたり髪の毛を引っ張ったりして怖かったので、やってもいないのに容疑を認めてしまったことがあった。そのときは武蔵野学園研修施設、通称「山学校」の学校長が畑仕事の雇用名簿を出してアリバイを証明してくれたため、幸いにして嫌疑は晴れたが、後に見る「虚偽自白」にも通じるエピソードである。

 

実際に盗みを働いたり、嫌疑を向けられることはその後も何度かあったが逮捕歴はなかった。子守り奉公のほか、鉄工所の作業員、土木作業員などに就いたが、競輪やパチンコが好きで無断欠勤したり、同僚とのトラブルや作業事故で退職するなど、日頃の素行も芳しいものではなく、仕事はどれも長続きしなかった。

19歳で勤めた製菓工場では働きが認められて工程管理の立場を任され、同僚によい仲の女性もできた。だが文字ができないため書類仕事の方は識字者の同僚に任せきりにしてやり過ごしていた。あるときその同僚が休みで、書類に何を書けばよいやら分からず、前日と同じ数字をそのまま書き写した。それが実際の生産量とあまりに食い違っていたため、それまでの同僚の手助けが明るみとなり、非識字者だとアウティングされて罵倒を受けた。

学のなさから誹りを受け、むら気のある粗暴な気性も災いし、職を転々としながら実家へ戻るも、早く自立しろと追い立てられて家に居づらくなり、1962年10月から4カ月ほどを養豚場で過ごした。

出来のよくない弟とは対照的に、とび職として身を立てた兄・六造さんは寸暇を惜しんで仕事に打ち込み、開発ブームの波に乗って石川家に経済的な潤いをもたらしていた。当時のとび職は引く手数多で一般的なサラリーマンの倍以上の稼ぎになったという。家も建て替え、テレビも買えた。弟の素行や行く末を心配して衝突していたが、評判の悪い養豚場勤めを辞めるようにと説得し、自分の下で見習い仕事を手伝わせていた。

 

孤立無援と命の恩人

石川の父親は地元代議士を通じて共産党系の弁護士・中田直人氏らに弁護を依頼。別件容疑について認めた石川は善枝さん殺しの自白を迫られ、狭山署での勾留が続けられていた。弁護人はこれを別件追及のための違法逮捕だとして裁判所に勾留の解除を訴え、保釈決定がなされる。

だが6月17日の保釈直後、善枝さん事件の強盗、強姦、殺人、死体遺棄容疑により即座に再逮捕。捜査当局は弁護士の接見を制限し、川越警察署分室を代理監獄とし、完全に孤立状態において取り調べを再開した。

思いがけない再逮捕、弁護士との接見禁止、厳しさを増す取り調べに抗する術を持たない男は窮地に追い込まれていった。身に覚えはなく否認すれど聞き入れてはもらえず、長期にわたる不当勾留、代用監獄による連日連夜の取調により身も心も疲弊した。

「弁護士はうそつきだ。何もしゃべらなければ家族とも会えない」

そもそも石川は裁判のしくみや弁護士の意義をあまり理解していなかった。また難解な専門用語で語り掛ける弁護士のことばは石川に充分理解されておらず、両者の意思疎通や信頼関係は満足のいくものとは言えなかった。

警察の接見妨害など知る由もない石川は、なぜ弁護士は接見に来ないのか、助けになってくれないのかと猜疑心を膨らませた。様々な冤罪事件で知られるところだが、代用監獄により物理的・精神的な孤立に追い込まれた容疑者は、生殺与奪を握る目の前の取調官に対して「逆らえば何をされるか分からない」「言うことをきけば助けてもらえる」と誤った信頼を置くこととなる。俗な言い方をすれば「洗脳」支配と変わりないものだ。

認めれば10年で出られるようにしてやる。男の約束だ

認めなければ六造を逮捕してやる

容疑の決め手とされたのは、佐野屋付近で検出されていた下足痕と石川家で押収された地下足袋が一致したことによる。石川が違うと言うなら兄を逮捕するというのである。取調官の強要と嘘の甘言、なにより大黒柱である兄・六造さんが逮捕されれば親弟妹が路頭に迷うことを危惧した石川は、やむなく「自白」に至る。

石川は名前の「雄」の字が書けず、上告書にも「一夫」と署名するほど文字ができなかった。追加の証拠にしようという思惑か、刑事は検事が席を外した隙に石川に「脅迫状の写し」を書かせようと何度も試みたが、「学校」を「がこを」、「封筒」を「ふんとを」と記した。喋りは達者な石川さんだが、文字にすると「う」と「ん」の区別がまだよくできなかった。

 

弁護人らは自白内容の矛盾や検察側の証拠の不自然な点を追及し、無実を主張しようとしたが、被告本人は起訴事実を認めて「自白」を維持した。そうした決裂状態もあり、裁判所は弁護側の証拠調べ請求にも与することなく早々に結審された。

1964年3月11日、浦和地裁・内田武文裁判長は死刑判決を下す。

 

それでも石川には家族との手紙や現金差し入れなど日頃から警察に世話をしてもらっている意識があり、その信頼は揺らがなかった。取調をした刑事との「約束」を信じきっており、裁判所は死刑と言ったが自分は10年で出所できるものだと思い込んでいた。結審後も動揺はなく、連行係に「今日の野球は巨人が勝ったか、国鉄が勝ったか」と自分のことより野球の結果を気に掛けていたという。

浦和拘置所雑居房に戻った石川は、死刑を心配する未決囚らに刑事との「約束」の話を聞かせ「10年で出られる」と説いた。「石川さん、約束なんか信じちゃだめだ」と窘(たしな)められ、「控訴しないのは頭がおかしい」とまで言われたことに反発して控訴の手続きを取った。

警察が約束を反故にするとは思えないが、会えばだれもが「死刑と言ったら死刑だ」というので、さすがに半信半疑となった。東京拘置所の死刑囚監房に身柄を移され、そこで「命の恩人」に出会う。

かの三鷹事件(1949年7月15日、国鉄三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。多くの死傷者を出し、国鉄労組の共産党員ら11名が共同謀議による犯行として逮捕された。)でただひとり死刑囚とされ、再審を求めていた竹内景助(67年1月18日、脳腫瘍で獄中死。)である。石川は一審判決の経緯を伝え、「男の約束」の真偽について相談してみると、真剣なまなざしで「すぐに弁護士に話しなさい」と諭され、ようやく呪縛が解けた。

 

弁護団もまたなぜ石川が心を開かず、一審で自白を維持したのか理解できていなかった。一審では精神鑑定の請求を却下され、自白の矛盾を突きながらも崩し切れず、死刑判決を逃れることはできなかった。控訴趣意書では量刑不当が主な理由とされており、無実を争うまでの気概はなかった。

獄中で一念発起した石川は、審理に向き合うためにも読み書きができなければならぬと手習いを始めた。当時の拘置所では規則もゆるく、役人たちにも受刑者に対する寛容さと人情があった。刑務官は新入りの死刑囚に融通を利かせ、練習用にわら半紙を差し入れて筆習いを応援した。石川が最初に覚えたのは名前の「雄」の字ではなく「無実」だったという。

同時期、石川は面会に訪れた川越の右翼系水平運動家・荻原祐介氏と知己を得、手紙で外部との交流を広げた。それまで経験してきた貧しさ、無学、周囲からの劣悪な処遇が部落差別によるものと学び、自らがいかに蔑まれた人生を歩まされてきたかを知る契機となった。

獄中での文化活動で短歌を薦められ、現在まで生涯の趣味としている。文字の獲得は石川の血となり骨となり、長い戦いを続ける上でかけがえのない原動力となった。

 

はじまり

1964年9月10日、東京高裁で控訴審が開かれ、被告人は裁判官の制止を振り切って強く訴えた。

「お手数をかけて申し訳ないが、私は殺していない」

一審から一転しての全面否認は弁護人も聞かされていない寝耳に水の出来事であった。

法廷の外では、部落解放同盟が家族への励まし、警察やメディアへの抗議を担い、その後の救援活動をリードした。石川の両親が我が子の無実を訴え、70年、解同は部落差別に起因するとして裁判糾弾の方針を決定。控訴審以降、無実を唱える全国運動を展開した。73年に至って日共と解同の対立が大きくなり、弁護団解同系に入れ替えられた。

 

1974年10月31日、東京高裁(寺尾正次裁判長)は、弁護側の無罪の主張を斥け、また一審での量刑判断が妥当ではないとして死刑判決を破棄したうえで、無期懲役の判決を下した。

1977年8月9日、最高裁第二小法廷(吉田豊裁判長)は上告を棄却。二審判決の無期懲役が確定し、更に17年余の獄中生活を送ることとなる。

1994年(平成6年)12月に仮釈放され、31年半ぶりに狭山の地に戻ることができた。事件から半世紀を経て多くの証拠開示が進み、2006年から2023年現在まで第三次再審請求が審理されている。

以下では、再審請求の論点とされている問題について取り上げたい。

 

自白の矛盾

石川が証言する事実によれば、事件のあった5月1日、朝7時20分頃に「仕事に行く」と言って家を出たが、さぼって所沢の西武園(のちの西武園ゆうえんち)に足を伸ばしていた。所沢のパチンコ店を14時頃に出、14時半頃に最寄りの入間川駅に戻った。

駅前をぶらついていると顔見知りだった八百屋の倅・金三さんに「パチンコかい」と声を掛けられ「そうだよ」と挨拶を交わしたという。金三さん本人は、会えば挨拶ぐらいするだろうと言うがやりとりを記憶してはいなかった。左折してパチンコオリオン前を通り過ぎ、荒井たばこ店で「しんせい」1箱とマッチを買い、50円を出して4円の釣りに対して「釣りはいらない」と断った。

入間川小学校の脇でしばらく休んでいると雨が降ってきたので駅の方まで戻り、15時半から16時ごろにかけて荷小屋で雨宿りをしていた。家人にさぼりがばれるのを躊躇って、すぐには帰れなかったのである。降雨状況は事実と一致しており、荷小屋で見かけたという「中学生の一団」も近くの東中学校で行われていた体育大会の帰りと推測される。

以前勤めていた養豚場のトラックが駅前を通り過ぎるのを見て、構内の時計を見ると17時近くであった。以前であれば基地に残飯を取りに向かう時間だったのに、トラックにはすでに荷が積んであったので不思議に思い、記憶に残ったという。

19時頃に弁当を持って帰宅。テレビを見、22時ごろに就寝した。同居する妹の美智子さんも「私は17時か17時半ごろに帰り、1時間か1時間半遅れて一雄兄さんが帰ってきました」と証言したが、近親の証言はアリバイに認められなかった。

 

一方、警察の誘導によってできた「虚偽の自白」では、14時過ぎに入間川駅に戻り、駅前の「すゞや」で牛乳2本とアイスクリームを買い、牛乳を飲みながら駅の東側、荒神様のある方面へと移動したとされる。

だが店主中島りんさんは「牛乳はあまり売れませんでした。25歳歳前後の小柄な男が牛乳とアイスクリームを買い、500円札の支払いでおつりをあげた記憶はありません」と証言する。5月1日は荒神様のお祭りで境内にはで店が並び、常時20~30人、多い時間帯で50~60人程度が見物に訪れていた。雨の影響もあったのか、顔見知りがいてもよさそうなものだが石川も被害者・善枝さんも祭りで姿を見られてはいなかった。

「自白」では、その後、山学校のある東へと移動したことになっている。15時50分頃加佐志街道X字型十字路で善枝さんと遭遇し、巧みに雑木林へと誘い込むと強姦して首を絞めた。200メートル離れた芋穴に運び、荒縄とロープで「逆さづり」にして穴倉に下ろして一時保管。そこで「脅迫状」を書き、奪った自転車で移動しながら被害者の所持品である「鞄」「教科書」「ゴム紐」などを遺棄しながら中田家に向かい、脅迫状を差した後、養豚場からスコップを盗んで芋穴へと戻り、遺体を農道に埋め、帰宅したとされる。

犯行は「被害者は雑木林内で悲鳴を上げて騒いだので、手で首を絞めた」ことになっている。だが弁護側の鑑定人により、当初の「扼殺」の鑑定は否定され、ひもなどを用いた「絞殺」だとする意見書が複数提出されている。

殺害現場とされた雑木林に隣接する桑畑で13時50分頃から約3時間にわたって農作業を続けていた男性がいたが、人影や悲鳴はなかったと証言する(小名木証言)。男性は、当日、500メートルは離れた荒神様で流されていたレコードの流行歌が聞こえていたと語ったが、逆に取り調べを受けた石川さんはレコードを耳にした記憶はなかった。

被害者は中学時代にソフトボール部で鍛え、身長158センチ・体重54キロと決して小柄ではなく、雨の降りしきるなか農道を抱えて歩いたとは考えづらい。遺体の足首などにも「逆さづり」を裏付けるような痕跡は残されていなかった。芋穴ではルミノール検査の反応は出なかったが、その事実は1988年の証拠開示まで伏せられたままだった。

殺害前後の実地検証は、映画ロケさながらに8ミリ映写機で撮影しながらの再現だったという。汚名を返上したい警察によるマスコミ向けのサービス、国民に対するアピールの目論見もあったと考えられる。

 

家人が寝静まった2日22時頃、密かに家を抜け出した石川は薬研坂ルートで真っ直ぐに佐野屋方面には向かわず、川を越えたり山林で時間を潰したりと全く不可解な動線をたどって、23時から23時半頃に佐野屋付近に到着し、身代金の受け渡し役を待っていたことになっている。さも各所に配備されていた警察隊が「見過ごした」ことにならないよう、張り込み地点を巧妙に迂回するルートが示されている。

脅迫状には「夜12時」と時間指定し、「一分出もをくれたら」「時かんどおり」「1時かんごに」と時間に関する言及が繰り返されていたが、石川は当時腕時計さえ持っていなかった。灯りも見えない深夜にそんな無謀ともいえる身代金の受け取りの仕方があるものだろうか。

佐野屋付近で見つかった足痕は石膏型が取られ、そのサイズは「10文か10文半(24~25センチ)」という鑑定報告が出ており、石川さんの足のサイズも10文半であった。だが当時は右足に「魚の目」ができており、ゴム長靴を常用していた。石川さん宅の家宅捜索で見つかった地下足袋は全て「9文7分(23センチ)」、兄・六造さんのものであった。足元も覚束ない真夜中に、きつい兄の地下足袋を履いて身代金を受け取りに来る犯人というのはあまり聞いたことがない。

 

秘密の暴露

石川の自白開始は6月20日前後、当初は「3人共犯」の内容だったが、23日に至り単独自白へと変遷した。

単独犯行の見方を決定づけたのは、「自白」に基づく再捜索により被害者の遺留品が発見されたことが大きい。供述に基づく遺留品の発見は、犯人しか知りえない「秘密の暴露」として有罪立証に強くはたらいた。

発見前に作製された品触には誤りがあった
《ダレス鞄と牛乳瓶》

5月25日、桑畑の除草作業に訪れていた農夫が側溝の土を掻き出していると、埋まっていた被害者の教科書、ノート類が発見される。しかしなぜか通学用に使っていたダレス鞄(自立型の革製広口鞄の愛称。対日講和で来日し、アメリ国務長官ジョン・フォスター・ダレスが愛用したことでその呼び名が使われた。)は発見されず、県警は「重要品触」として捜索を続けていた。

6月21日、石川さんが記した地図に基づいて、被害者が通学用に使用していたダレス鞄が発見される。「自白」によれば鞄を逆さまにして中身を出し、脅迫状を書くために筆入れから万年筆を盗み、鞄もその近くに棄てたとされる。だが教科書と鞄の発見場所は数十メートル離れており、これまでも捜索が繰り返されてきた場所であった。

中には刺繍糸、編み棒、櫛などの中身が入ったままで、鞄の下には「自白」には出てこなかった半分中味が入った牛乳瓶、ハンカチ、三角巾が見つかる。財布、ルーズリーフ式の手帳、筆箱は発見されなかった。

鞄の真贋は不明だが、捜索し尽くした場所から「自白」を得ての発見という不可解な経緯は出来すぎているように思われ、調書の改竄や捏造が疑われている。むしろ前もって発見されていた「牛乳瓶」から「すゞや」でのエピソードが挿入された、あるいは「すゞや」自白との一致と見せかけるために捏造したと考える方が自然である。

飲みかけの牛乳瓶片手に強姦に及び、被害者の遺留品と一緒に棄てる犯人など実在するだろうか。鞄が被害者のものと仮定しても、牛乳は被害者が飲み残していたものとする方がまだ適当に思われる。このように証拠品にはあまりに不自然な点がもれなく散見されており、捜査機関による捏造や改竄の疑惑が濃厚とされている。

鴨居の万年筆

善枝さんは兄から入学祝に贈られた万年筆を愛用していた。石川さん宅から「鴨居の万年筆」が見つかったのは、6月26日、石川家3度目の家宅捜索時であった。2人の刑事が捜索を求めたが、六造さんは度重なる要求に拒否するつもりで押し問答となった。だが刑事が「(石川が)そこにあると言っている」とうるさいので、六造さんが鴨居の上に手を掛けると、その通り、ひょっこりと発見されたのである。

鴨居は高さ175.9センチ、奥行き8.5センチほど。たしかに小柄な人であれば目に入りづらい場所ではあり、生活者が日頃から目を配るような場所とは言えない。だが別件逮捕の5月23日に12人、再逮捕翌日の6月18日に14人が詰めかけ各2時間以上をかけ、庭土や屋根までひっくり返して証拠になりそうなものを目ざとく荒捜ししておきながら全く見落としていたとは思えない。

しかし重要な物証を前に、刑事が「素手で触らせる」ことなどありうるだろうか。万年筆からは石川さんの指紋も被害者の指紋も検出されなかった

以前の家宅捜索時に撮影された写真には鴨居の傍に脚立が映っていた。後の第2次再審の段に至り、捜索に従事した元狭山署員が証言台に立った。鴨居の隅にぼろ布の詰まった節穴を見とがめて、家の者に確認すると「鴨居の上をネズミが通り道にしている」と言われ、自分が鴨居に手を掛けて調べたがそのときは何も発見できなかったこと、「後で万年筆が発見されたと聞いて不思議に思った」旨を証言している。

「自白」では、殺害後に盗んだ被害者の万年筆は脅迫状の訂正に用いた後、捨てずに持ち去ったことになっている。読み書きの不自由な石川さんが万年筆を持ち帰る発想自体が不自然であり、妹らに譲るでもなく鴨居の上に隠しておくとはどういう了見か。

脅迫状自体は犯行より以前に自宅で妹のマンガ雑誌『りぼん』の文字を参考に書いたとされ、用いられたのは主にボールペンであった。検察側の筋書きとしては、封筒の宛名にあった「少時様」が事前にボールペンで書かれ、脇に書き加えられたらしき「中田江さく」は被害者の万年筆が用いられたものと見ていた。二審・寺尾判決は、当初、「しょうじ」なる人物の子息を誘拐するつもりで書かれた脅迫文だったとして、急遽宛先を書き換える必要があったと判断していた。

だが1999年6月に提出された弁護側の新鑑定では、「少時」「中田江さく」には万年筆が用いられ、「様」はボールペンとの指摘がなされている。石川さんの家に万年筆やインクの付けペンはなく、鑑定結果が事実とすれば確定判決のストーリーと食い違うことになる。

鴨居の万年筆は、遺族によれば被害者のものと「よく似ている」が、保証書はなく製造番号までは分からず、それが実物とは断定できなかった。発見された万年筆に入っていたインキは「ブルーブラック」であった。

彼女が使用していたインキ瓶は半世紀経った2013年にようやく証拠開示され、事件当日までブルーブラックとは成分の異なるライトブルーのインキ(商品名ジェットブルーインキ)を使用したことが明らかとされた。虚偽の自白を裏付けるばかりか、証拠の捏造、隠蔽を決定づけるものである。

《腕時計》

7月2日には近所の高齢男性が茶畑の畝に光るものを見かけ、女性物の腕時計だと分かって通報した。これも遺棄現場の「自白」が取られており、「道の真ん中に棄てた」とされており、6月末に捜索が行われたが発見されていなかった。発見された場所は捜索範囲から数メートル外れていたという。時計は防水仕様ではなかったが支障なく動いた。

「品触」では「シチズンコニー」であったが、発見されたのは外見の似た「シチズンペット」という別の製品だった。被害者宅に時計の保証書が残されており、被害者の使用品が「シチズンコニー」であったことは間違いない。ベルトのホールの使用痕も位置が異なることが姉によって指摘されている。

また「品触」には製品番号まで細かく記載されているが、署が同製品の見本品を取り寄せて品触作成を命じたところ、係の者が誤って見本品の番号をそのまま書き写したとされる。警察によるお粗末な捜査、更には間の抜けた捏造には開いた口が塞がらない。

《年賀の手ぬぐい》

遺体の手首を縛っていた手ぬぐいは、市内の「五十子米穀店」が年賀用に配布したもので、165本配った内の7本は回収・確認されなかった。警察は5月6日に石川家を訪れ、1本が現認されていた。本来であればその時点で疑惑は解かれるはずであった。だが警察は部落出身者、養豚場へと捜査を集中させ、逮捕を焦ったばかりに石川青年が犯人へと祭り上げられてしまう。

控訴審で滝沢直人検事は、テレビで手ぬぐいの報道が流れてから親類(姉の嫁ぎ先)の石川仙吉さんに都合をつけてもらい警察の調べに対応したものだと主張した。仙吉さんは手ぬぐいを一本しかもらっていない、被告人に譲っていないと述べたが聞き入れられず。検察側の主張は受け入れられ、自白を離れた状況証拠のひとつと認定された。

手ぬぐいのニュースが放映されたのは5月6日12時2分から約50秒間。開示された捜査報告書で、警官が手ぬぐいを現認したのが同日12時20分であったことが分かった。わずか17分の間に都合をつけることは現実的に困難であり、元々石川家にあったものと見るのが自然である。

仙吉さん宅では5月11日に手ぬぐい1本を任意提出していたが、当年「2本」貰っていたのではないかとされてきた。更に2013年、捜査機関が用いた「手ぬぐい配布先の一覧表」が証拠開示され、仙吉さん宅に配布された本数「1」の字は、別の筆記具で書き加えられて「2」に見えるよう細工されていたことが明らかとされている。

 

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所感

過去には、中田家の元作男で取り調べの翌日に遺書を残して自殺を遂げたOGさん関与説、遺産相続の独占などを目的にきょうだいを排除したかった・公にできない秘密があった等とする長兄首謀説、養豚場関係者でアルコール中毒となり事件の3年後に入曽駅近くで轢死したT氏犯人説など、諸説語られてきた。

帰宅直後の脅迫状、身代金受け渡しの現場に容易に近づくことができた点、死体遺棄の状況が近親者を思わせるなど、中田家の事情に相当通じた者の関与を想起させるのも確かである。

 

調査や名推理は作家たちに任せるとして、最後に筆者の妄想を記して終わる。

被害者にはK高校に進学した元野球部のMさんという片思いの相手がいた。張り込み協力をしたPTA会長M氏の息子、中学で元生徒会長を務めた青年で、善枝さんの中学時代の日記には彼に熱を上げる様子が屡々綴られ、高校進学後もその思いは継続されていたことが分かっている。その熱愛ぶりからは善枝さんのもどかしいほどの純情さが垣間見え、他に交際相手などはなかったことが推測される。またきょうだい喧嘩の記述はあれど、家族関係に壊滅的な確執や遺産を分けた骨肉の争いがあった様子は漂わない。行間には育ちの良さと純朴さ、素直さと家族への感謝が滲んでいる。

Mさん本人は彼女の思いに気づいていたのか、相思相愛だったのか、彼としては脈なしだったのかといった内情は分からない。だが少女にとって誕生日、それも婚姻可能となる「16歳」という特別な年齢は、否が応にも恋慕の相手を強く意識させたにちがいない。善枝さんが真っ直ぐに帰宅せずガード方面で目撃があった理由として、Mさんの帰りを待っていたか、待ち合わせをしていたと考える。

日記には5月1日の項に「私の誕生日(十六才)。うれしい。」と以前から記してあった。まさかこんな残酷な事件に巻き込まれるとは知らずに。

前に告白してこの日に返事を貰う約束だったのか、それとも偶然を装ってでも会いたい気持ちに突き動かされたのか。だがそんな少女に声を掛けたのはMさんとは別の男性だった。

「こんなところで何してるんだい?」

善枝さんはもちろんMさんを待っているとは口にせず、話をはぐらかした。彼女からか相手からか、会話の中で誕生日のことも出たのではないか。

「うちに来なよ。お祝いにプレゼントをあげよう」

なんやかんやと言いくるめられて少女は目的を諦め、一緒にガード下を離れて、さる農道へと差し掛かる。男は少女に「友達を呼んでお祝いをしよう。雨宿りして待っていて」と芋穴に誘導してその場を去る。あるいは元級友や相談相手などで少女の恋慕を知る立場にあれば、「Mを連れてくるから」などと言って気を引いたかもしれない。

筆者は、10代後半から20代の複数犯で、芋穴が殺害現場ではないかと考えている。

善枝さんも言われるがままついていくような親しい間柄の男性といえばそう数は多くない。OGさんのように幼いころから付き合いのある大人か、同級生や地元の先輩などかもしれない。男は知人宅に駆け込むと、運搬に使うためのロープ、埋没に使うスコップ、そして「少時様」宛の脅迫状を持ってくるように言った。

男たちは吉展ちゃん事件に感化されて以前から身代金誘拐を企てており、当初は4月末に4人の子をもつ堀兼地区の増田正治さん方の子息を狙っていた。近くの芋穴も事前に目を付けていたが、あえなく計画は頓挫していた。はじめから攫ったこどもを殺して埋めるつもりでいたため、男たちからすれば相手が別の家の高校生に変わったまでである。ひとりは脅迫状を手直しして自転車で中田家へ向かい、別の男が芋穴で雨に濡れた少女を見るや俄かに劣情を催した。

OGさんは中田家でもM氏方でも勤めていた時期があるため、少なくとも身代金の受け渡し現場で対話した人物は彼ではない。長兄にしても遺産は公平に分割せず長男がまとめて引き継ぐものと相場が決まっており、仮にトラブルがあったとしても標的とされるのは男兄弟の方である。処女膜の古傷も中学時代のソフトボール等でできたものと推認される。

見つかった遺留品は手配書作成のために集められた物品をそのまま転用したものであろう。結果的に警察が事件の偽装工作を肩代わりしてくれた。地元住民は部落の仕業と決めつけて騒ぎ、記者や作家はあることないこと書き立てて雲散霧消となり、遂には「犯人」まで逮捕された。。。。地域の強固な結びつきや排他性が仇となり、犯行グループの口を一層固く閉ざさせ、発覚に至らなかったと見ている。

 

 

こんな誕生日になるはずじゃなかった。春雨にそんな思いが去来する。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。