いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

狭山事件

1963年、埼玉県狭山市で起きた少女殺し。逮捕された元とび見習いの男には多くの物証が付きつけられたが、捏造による冤罪疑惑となり、部落差別問題にまで飛び火した。事件は多くの謎を呼び、60年以上経った現在も再審運動が続けられている。

 

営利誘拐?

1963(昭和38)年5月1日(水)の夕刻、埼玉県狭山市に住む農業・中田栄作さんの四女で、川越高校入間川分校に通う善枝さん(16)が下校中に行方が分からなくなった。

 

その日は雨が降ったりやんだりの空模様。14時35分頃に6限目の授業が終わった後もクラブ活動はなく、生徒たちは思い思いに放課後の余暇を過ごしていた。

教諭は「銀行に用があってもう閉まる時刻なので続きは明日にしよう」と言って善枝さんとの会話を15時前に切り上げたことを記憶していた。彼女はその後も校内に残っていたと思われるが、いつ帰ったのか級友たちもはっきり把握していなかった。

そのなかで有力視されたのが、15時23分頃に「ひとりで自転車を押して校舎を出るのを見た」という級友の証言である。級友は自分が普段使っていた24分発の電車を乗り逃したことに気づき、窓の外を見たとき自転車を押す彼女の後姿を目にしたという。

善枝さんは級友たちに、今日は自分の誕生日だと話していた。家では朝食に祝いの赤飯が供されていたが、夜に特別な祝いごとが予定されていた訳ではなかった。普段から一人で下校することが多く、このあと何か予定があったのかは誰も聞き知らなかった。

 

朝の登校前、善枝さんは郵便局でオリンピックの記念切手(6月23日発売)をクラス分まとめて予約購入する手続きに訪れていた。そのとき郵便局は混雑していたため、局員は遅刻させてはいけないと思い、「領収証は午後までに用意しておく」と約束していた。

担当局員はその日16時まで勤務しており、朝と同じ生徒が午後に領収証を受け取りに来たことを記憶していた。だが受け取り時刻について、5日の聴取では「午後2時から3時10分の間」とし、後に「午後3時20分から30分頃」と変更した。作業中に時計を見ていた訳ではなく、仕事状況から逆算して割り出された時刻である。

また後に購入したばかりの針刺しが発見され、15時半ごろに駅近くの洋裁店に立ち寄ったものと推測されたが、店員は来店の事実や時刻について断定できないものとした。

 

一方、時間に食い違いがあるものの、当日、学校周辺や通学路とは別の場所での目撃情報もあった。

①14時から14時半の間、堀兼中3年の後輩男子が、うつむき加減で自転車をこぐ被害者とすれ違ったと証言した。少年は入間川東中で行われる野球の試合を見るため、現在の県道126号所沢堀兼狭山線に並行して走る通称“沢の道”を急いでいた。するとS自転車店のそばで先輩の善枝さんとすれ違い、「言葉は交わさなかったが見間違えるはずはない」と証言。だが当時の道は善枝さん宅の方面までつながっておらず、その場所で何をしていたのか説明がつかなかった。少年が東中についたのは14時半前後で、善枝さんの下校したとみられる15時~15時半頃とは約1時間の食いちがいがある。少年は頭もよく、学友たちも「絶対に嘘なんかつけるやつじゃない」と口を揃えた。

②15時前後、中学時代の担任教師が第2ガード下で元教え子の姿を見たと話している。普段であれば善枝さんは向こうから声を掛けてくるタイプだが、そのときは声を掛けてこなかった。教諭の方から声を掛けたが返事はなく、自転車は見かけなかったという。

③15時20分頃、第2ガード下から徒歩5、6分の場所にある第1ガード下で、畑仕事から帰る農婦が善枝さんらしき女学生の姿を見ていた。学生服におかっぱ頭、丸顔でふっくりした顔の女学生で、草色の婦人用自転車を支えて立っていたという特徴は善枝さんと瓜二つと言えた。農婦には幼い娘がおり、うちの子もいつかあんな女学生になるのかしらと思い、気に留めて見ていたのだという。女学生は荒神様の方を見ながら人と待ち合わせでもしている様子だったと証言した。

60年代の入間川駅周辺〔地理院地図〕


入間川駅近くにある分校から堀兼地区にある善枝さんの自宅までおよそ4キロ、自転車で30分程のルートで、普段は17時半頃、遅くとも18時までには帰宅していた。

雨足が強くなり農作業を終えた家人らは彼女の帰りが遅いことを心配し、18時50分頃、「傘がなくて帰れないのではないか」と長男・健治さんに車で迎えに行かせた。

健治さんが19時過ぎに学校に到着すると、教室ではすでに夜間学生の授業が始まっていた。職員に確認したが、昼間の生徒はすでに下校したと言われた。かつて自分が電車を使って下校していた経験があったため、最寄りの入曽駅にも立ち寄ってみたが妹の姿は見当たらなかった。

 

19時30分頃、健治さんが帰宅すると、家族は夕飯の支度をして板間の卓袱台を囲んでいた。

中田家は農業を営み、多くの畑地と山を所有し、周辺では「百万様」と呼ばれる富農だった。当時は区長も務めていた父・栄作さん(58歳)、長男・健治さん(26歳)が茶や野菜の生産、家事や農業を手伝う二女・登美恵さん(23歳)、夜間高校に通う二男(19歳)、小学生の三男(11歳)に善枝さんを加えた6人暮らし。母親は10年ほど前に脳腫瘍で亡くなっており、三女も幼くして他界、長女は8年程前から東京に出て住み込み働きをしていた。

健治さんは妹を発見できなかったことを家族に報告し、ひとりだけ板間には上がらず、玄関脇の土間の長椅子に腰かけて食事を始めた。10分程して不意に玄関のガラス戸に紙が挟まっていることに気付き、三男に言って取りにやらせた。先だって帰宅の折、閉めたばかりの戸口である。

封が切られた形跡のある封筒で、表には「少時様」と打ち消した下に「中田江さく」と書き直したような跡があった。誤字ではあるが、宛名は栄作さんを表したものと思われた。

中には善枝さん本人の生徒手帳と、大学ノートをちぎった書面が入っていた。文字のインクは滲んでいなかった。

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少時  このかみにツツんでこい

子どもの命が知かたら429日の夜12時に、

           五2

金二十万円女の人がもッの門のところにいろ。

           さの

友だちが車出いくからそのひとにわたせ

時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい

刑札には名知たら小供は死。

もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かッたらー

子供西武園の池の中に死出いるからそこにいッてみろ

もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにかえッて気たら

子供1時かんごに車出ぶじにとどける、

くりか江す 刑札にはなすな。

気んじょの人にもはなすな

子供死出死まう。

もし金をとりにツて。ちがう人がいたら

そのままかえてきて。こどもころしてヤる。

身代金誘拐の脅迫状と察した父親と長男は「刑札にはなすな」と書かれてはいたがすぐに警察へ届け出ることを決断。長男が近くの親戚に留守を頼みに行っている間、父親は庭の納屋に停めてある車の脇に善枝さんの自転車が立ててあるのを発見する。

車体は濡れていたが、サドルシートは乾いており、普段備え付けていた荷かけ紐やビニール風呂敷はなかった。健治さんが帰宅した際に自転車は停まっていなかったため、犯人が脅迫状と共に置いていったものと考えられた。車は別の位置に駐車することもあったが、自転車は善枝さんが普段停める所定の位置であった。

19時50分頃、2人は堀兼駐在で事情を伝え、重大事案として20時過ぎに狭山署へ移動して調書を作成した。

21時頃、刑事数名と家に戻るとその対応を協議した。刑事が家の周辺を確認したが自転車のタイヤ痕など犯人の痕跡は見つけられなかった。

 

脅迫状にある「さのヤ」は近くの酒・食料雑貨店の「佐野屋」を指すと思われたが、店に「門」はなかった。また指定日時は「五月2日の夜12時」と記されていたが、事件当夜「1日の24時(2日の0時)」のことか、翌日「2日の24時(3日の0時)」を指すのかは不明瞭だった。

念のためにその日の晩に現場へ向かうこととなり、急ぎ新聞紙で偽札をこしらえた。家に「女の人」は二女・登美恵さんしかおらず、1日23時30分頃、受け渡し役として偽札を携え、佐野屋付近で犯人の出方を待った。数名の警官が中田家に待機し、4、5名が現場近くに張り込んだが、その晩、犯人は姿を現さなかった。

 

時代状況と通学路

東京五輪の前年、日本は高度経済成長のスタート地点に立っていた。当時の狭山市は人口約3万6000人、「狭山茶」の生産でも知られる半商半農の鄙びた町だったが、首都圏は都市開発が急速に拡大していた時期で、旧来の地主層は山を切り売りする動きも増えつつあった。

物価も賃金も右肩上がりな時代で単純な比較はできないが、当時の国家公務員上級(甲)の初任給は17100円で現在とは10倍以上の開きがある。身代金要求額の20万円は、感覚的には新人公務員の年収程度と想像される。

身代金の相場というのは計りづらいが、参考までに同年3月に東京都台東区で発生した4歳男児の営利誘拐、いわゆる吉展ちゃん事件ではその身代金は50万円とされていた。

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学校のあった入間川駅の周辺は人口流入や自動車の往来も多くなっていたが、周辺部のインフラ整備は追いついておらず道路は未舗装という時代だった。駅の南に位置する一帯は当時米軍の管理下でジョンソン基地として運用されており、事件後の1963年11月から1978年9月にかけて返還が行われ航空自衛隊入間基地とされる。

当時の駅出入り口は西側だけで、被害者の通う分校も近くにあった。善枝さんは日頃、入間川駅前から線路を越えて「富士見通り」を南下し、「薬研坂」を東進する下校ルートを通った。

線路沿いに目撃情報のあった第2ガード下、第1ガード下、自転車店前があるが、いずれも普段の下校ルートからは大きく逸れている。当時のガード下は用事がある人しか立ち入らないさびしい場所だったとされ、線路沿いはきつい坂道で善枝さんは自転車が漕ぎやすい薬研坂ルートを使っていたという。

14時35分に見られた下校姿は本当に善枝さん本人だったのか、ガード下などで目撃されていたのは他人の空似だったのか。どの目撃証言を採用するかによって、被害者の行動推測は大きく左右される。

 

失態

5月2日早朝、長男・健治さんは家の周囲で犯人の痕跡を捜した際、封筒の切れ端を発見した。脅迫状からは合わせて7つの指紋が採取されたが、照合できたものは長男と駐在署員の指紋2点で、そのほか軍手、ゴムグリップ付き軍手の痕跡も認められている。

父・栄作さんは心労から体調を崩し、登美恵さんとともに「もう殺されているかもしれない」と不安を募らせた。前夜の受け渡しの際にも悲鳴を上げるなどひどく怖気づいてしまった登美恵さんは、2日目の受け渡し役を拒んでいた。

 

狭山署の竹内武雄署長は、中学のPTA会長(教育振興協会会長)で木材販売業を営むMさんに民間協力を依頼した。Mさんは中野学校出身で元憲兵士官の経験があり張り込みなどはお手のものという人物で、地域の交通安全協会会長を務めるなど警察との縁も深かった。また同氏の子息が中学時代に生徒会長を務めていた折に善枝さんは副会長を務めており、Mさんも本人と面識があった。

Mさんは「自分が傍に付くから」と登美恵さんを説き伏せ、2日深夜の身代金受け渡しに自ら張り込んだ。その他にも佐野屋側との斥候、捜査の前線基地の設定や人員配備の車手配など積極的に協力した。また脅迫状の話を聞くと、中学まで出向いて「善枝さんの同窓生」の筆跡が分かる資料の提供を求めるなど、独自に調査を試みるなど強力な世話人であった。

 

2日23時40分頃、二女は再び偽札を入れた包みを携えて「佐野屋」の前に立った。日付変わって3日0時10分頃、登美恵さんの立つ店先から30m程離れた茶畑の茂みから男の声で呼び掛けられた。

「おい、おい、来てんのか」

「…来てますよ」

照明のない闇夜の下、畑に向かって登美恵さんは答えた。

「警察に話したんべい。…そこに二人いるじゃねえか」

「一人で来ているから、こちらへいらっしゃいよ」

犯人が張り込みの警官らに実際気付いていたのか、はったりでカマをかけたのかは判然としないが、姿を見せようとしない犯人と登美恵さんとの会話は途切れ途切れに10分程続いた。だが捜査員の存在に気付いていればどうして無理を承知で接近したのか、そんな悠長な真似はできないようにも思える。

「本当に持ってきてるのか」

「ええ、持ってますよ」

登美恵さんは手振りの指示を受けて、声のする茶畑の方へ数メートル前進し、偽札の入った包みを開く素振りを見せた。

「ここまで来ているんだから出てきなさいよ。あなたも男なら、男らしく出てきたらよいでしょう」

しかし犯人は受け取りに近づこうとはせず、登美恵さんも元いた店の前まで戻った。

やがて「とれないから、おら帰るぞ、帰るぞ」と言ったきり、やりとりは途絶えた。

長い沈黙から数分して犯人が逃亡したことに気付いたが、時すでに遅し。今日とは勝手が違い、投光器や通信手段もない中、目前にまで迫った犯人を取り逃がす大失態を犯したのである。

 

総勢40名程の警官が駆り出されていたが、脅迫状にあった「車」で来るという内容にまんまと踊らされ、その大半は各街道沿いの十数か所に分けて配置されていた。犯人は分散された警官隊の網の目を掻い潜って、徒歩で現れた。

後のMさんの証言では、佐野屋前には年配が5、6人いただけで土地勘のない寄せ集めの警官ばかりだったとされる(新聞報道では、二人一組で店の各方面に計8人とされる)。穿った見方をすれば、警察は車両ごと捕獲することに気を取られて、佐野屋前に犯人が現れることを想定できていなかった。指令系統もない中、佐野屋前の警官たちが機転を利かせて確保するといった心づもりは端からなかったとも捉えられる。

また犯人の声が聞こえる前にも、佐野屋前を徒歩の男性、自転車、バイク、車両が通りがかったとする証言もあり、猫の仔一匹通さないような徹底した警備体制が敷かれていた訳ではなかったようだ。いずれの通行者も身元消息は確認されていなかった。

 

暗闇の中で犯人の姿かたちを捉えることはできなかったが、会話の印象で登美恵さんは年代は26、7歳から33歳くらいの「ごく普通の声」とし、「どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声」と公判で証言。二女の近くにいたMさんは「中年の男」、近くに張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と印象は多少食い違っている。だが場所の指定や訛りの具合からすれば犯人の男は地元の人間と思われた。

 

遺体発見

5月3日、特捜本部が組まれ、早朝には佐野屋前の茶畑周辺で犯人のものとみられる職人足袋の下足痕が採取される。

捜査員が周辺への聞き込みに回ったほか、機動隊員、地元消防団、警察犬を動員しての大規模な「山狩り」も実施された。警察犬の一匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で、もう一匹は佐野屋から北側方向に進んで追跡は途絶えた。

15時過ぎ、入間川字井戸窪の山林内で、被害者が自転車で使用していたものと思われる「荷かけ用のゴム紐」が発見されている。その夜、公開捜査に切り替えられ、一斉捜索が計画された。

 

翌4日10時過ぎ、消防団員のひとりが麦畑の間を抜ける農道に表土の一部が異なる一角を見つける。30センチ程掘り返すと地中から紺色の衣類が現れたため、捜査本部に報告した。機動隊員が集められ掘削を進めると、革靴を履いた足が見え、捜索中だった少女の遺体と確認される。

農道の表面はもともと苔に覆われていたため、畑作業をしに通っていた住民は2日時点で表土の異変に気付いていたが、とくに掘り返してみようとはしなかったという。

 

先の吉展ちゃん事件で警視庁は身代金を奪われて犯人を取り逃がし、男児を奪還できないまま犯人の目星もついていない状態だった。新聞各紙は警察の大失態を糾弾、テレビやラジオは脅迫電話の録音テープを放送し、各地で吉展ちゃん捜索キャンペーンが張られ、事件の長期化に世論の非難が増していた。

善枝さん事件でも犯人取り逃がし、更には遺体発見という最悪の結末を受けて、糾弾の声は強まり、柏村信雄警察庁長官は辞職願を提出。参議院本会議でも警察の立て続けの失態が追及され、篠田弘作国家公安委員長は委員会を招集して捜査態勢の立て直しを厳命。「何としても生きたまま犯人を捕まえる」と宣言した。

 

発見時の状態

遺体の埋められていた穴の大きさはおよそ縦160センチ、横88.5センチ、深さ86センチ程度。掘り返す際に出てきた土は周囲の土地とは異なり、「古い茶の葉」やビニール片が入り混じっていた。

遺体は、頭部を南方に向け、足をまっすぐに伸ばしたうつ伏せ姿勢。制服を着用しており、靴下は比較的綺麗な状態で革靴を履いていた。腹部や下肢には引きずられたような跡があった。発見時、スカートは捲れ上がり、ズロース下着が膝上まで下ろされていた。

首には木綿の細引き紐が巻かれていたが、後の所見でこの紐は凶器に用いられていないことが確認される。タオルで目隠しされ、顔の下にはビニール布が敷かれていた。右側頭部と接するように外径20センチ、重さ4.6キロ程の「玉石」があった。

両手首は手拭いで後ろ手に、足首は木綿の細引き紐で拘束されていた。足首の紐には数メートルの長い「荒縄」が結ばれており、荒縄は遺体の上にまとめて置かれ、縄の先端にはビニール片が結ばれていた。首と両足首の紐は、ひこつくし(すごき結び)と呼ばれる結び方で、先端を引っ張ると締まる仕組みになっていた。馬や舟を杭につなぐ際などに用いられる結び方である。

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20m程離れた場所に蓋の開いた芋穴(収穫作物や保存食などを貯蔵する穴倉)があり、中から「棍棒」と先端のちぎれた「ビニール風呂敷」が発見される。このビニール風呂敷が遺体の荒縄に結ばれていたビニール片と一致した。

 

同4日19時、県警から依頼を受けた五十嵐勝爾鑑定医により中田家で司法解剖が行われる。指や爪の痕跡はなかったが、死因は頸部圧迫、扼殺(手足で圧迫しての絞殺)による窒息死とされ、死後2~3日が経過しており、膣内からB型の精液が検出され、強姦後の殺害と推定された。

胃には約250mlの未消化物が残っており、食後2~3時間のうちに死亡したと推定される。内容物には、ジャガイモ、なす、玉ねぎ、にんじん、小豆、葉物、米粒類のほかにトマトが含まれていた。小豆は皮の消化が遅いため朝食の赤飯と思われたが、1日の昼食は授業の調理実習で作ったカレーライスで、付け合わせにも「トマト」は含まれていなかった。

後頭部には生前に長さ1.3センチ程度の何か鈍物でぶつけたような裂傷があり、体外に牛乳瓶2本程度(360ミリリットル)の血液流出が推測された。傷痕の向きは頭頂部付近から右下方向にかけてのもので、自転車での転倒によるものとは考えづらい。鑑定書には「棒状鈍器等の使用による加害者の積極的攻撃の結果とはみなしがたい」と書かれている。

処女膜には少なくとも事件より1週間以上前にできたとみられる亀裂があったが、それが性交による破瓜なのか、自慰行為や生理用品の使用、激しいスポーツ等によって生じた傷かは特定できなかった。死斑の状態から、死後4~6時間にわたって仰向けにされた後、埋める際にうつ伏せ姿勢にされたものと推測された。

犯人は1日の段階で強姦・殺害・埋没しながら、嘘の脅迫状で善枝さんの生存を装い、翌日の晩に金だけ奪おうと画策したことになる。

 

逮捕

捜査本部では脅迫文や声の訛りから5月3日の段階で「土地の者による犯行」と断言し、早期解決を宣誓した。管轄は違えど吉展ちゃん事件でも犯人取り逃しの失態を演じていた警察には責任追及の厳しい声が相次いだ。

県警は165名からなる大陣営を組み、背水の陣で捜査に奔走した。世論の高まりとともに多くのメディアが現場を訪れスクープを嗅ぎまわり、自民党治安対策委員会早川崇委員長は「是が非でも事件を解決し警察の威信を高めてもらいたい」と激励に駆け付けるなど、組織の面子を掛けて犯人検挙が喫緊の至上命令とされた。

 

当時、狭山市内には3つの被差別部落があり、土地の人間からは部落の青年らは乱暴を働く不良者と見なされていた。周辺で聞き込みを行えば人々は部落民の仕業だと口を揃え、新聞各紙も部落を「悪の巣窟」かのごとくに書き連ねた。

土地柄として同じ氏族が集住していたため、人々は親類縁者への疑いを避けるために「部落」に濡れ衣を着せようとする向きもあったのかもしれない。部落差別の背景のひとつには、そうした悪意の捌け口として村落共同体の秩序維持のために強化される場合がある。

警察でも脅迫状の誤字や筆跡から知能程度の低い人物との見方を強め、身代金の金額等からも被差別部落出身者へと照準を合わせていった。物証や裏付けなしに手当たり次第取り調べに掛けていくやみくもな捜査方針で現場は混乱し、合わせて27~28名が取調べを受けた。

さらに聴取を受けた参考人OGさん(6日)、情報提供者Tさん(11日)と自殺者が相次ぎ、マスコミはその不審な死の背景をめぐっても、事件に、あるいは警察の不当捜査の行き過ぎに因果関係をもとめ、センセーショナルな報道が続いた。

村八分という言葉が示すように、村落共同体の秩序を乱せばその内部で生じる圧力は外部の人間には計り知れない。警察の取り調べに根を上げたのか、家族にまで降りかかる村人からの非難をおそれて自ら命を絶ったのかは判別しようがない。死人に口なしになってしまうが、逃げ場がないと感じた真犯人が罪の意識から、といった経緯も充分にあり得ることである。

 

特捜本部はとりわけ佐野屋近くにある養豚場の関係者へと捜査を集中させていく。養豚場の経営は暴行や強姦の前歴のある部落出身の三兄弟が中心となっており、素行不良者の出入りも多いと悪いうわさが絶えなかった。

養豚場は被害者宅からも近く、豚の飼料にジョンソン基地から出る残飯廃棄物を使っていたため、駅前から薬研坂を通る被害者の下校ルートを運搬トラックで行き来していた。

また養豚場ではスコップが紛失しており、警察に促されて6日に被害届を提出したが、11日になって作業中の住民が小麦畑で発見する。鑑定の結果、形状や付着していた油分から捜索中の「飼料用スコップ」と判断され、犯人が養豚場から持ち出して死体隠匿の穴掘り用に使ったものと考えられた。養豚場では番犬を飼っており、警察は関係者以外盗みだせないと見当付けた。

 

5月23日早朝、建築業見習い石川一雄(当時24歳。敬称略)が逮捕される。以前に養豚場で4カ月ほど住み込み働きしていた部落出身の青年で、事件当時は兄の仕事を手伝っていた。

逮捕容疑は、養豚場での同僚への暴行、トラック運転席にあった作業着を無断使用した窃盗、脅迫状による身代金要求での恐喝未遂の三件。家の周囲を警官隊で包囲し、早朝に関わらず大勢のマスコミが詰めかけていた。それまでのバッシングを吹き飛ばす逮捕劇は大々的に紙面を飾った。

いわゆる別件逮捕であり、警察は「善枝さん殺し」のホンボシだとして事前に逮捕の段取りをマスコミに伝えていた。養豚場関係者らは筆跡や血液型、事件当時のアリバイを確認されたが、悉くシロとなり、最後まで疑惑が残ったのが石川だったと報じられた。

 

21日に提出したアリバイに関する上申書では、1日は朝からとび職の兄と共に屋根の補修工事に出ており、夜は家で休んでいたと記されていた。しかし実際には虚偽の申告で、当日のアリバイは判然としなかった。男は小学1年程度の識字力で、その文字の拙さや誤字の特徴は脅迫状のそれに近いと判断された。また被害者の遺体に残された精液と同じく血液型はB型だったが、やはり嫌疑逃れにA型だと嘘をついていた。

目隠しに使用されたタオルは東京都江戸川区にある月島食品工業のもので、3年間で得意先などに8434本が配られていた。石川のものと断定する決め手はないが、以前彼が参加した野球大会でも参加者に贈呈されており、過去に入手する機会はあったと報じられた。

石川さんは暴行、窃盗についてはすぐに容疑を認め、追及を受けて他の傷害や過去に犯したイモや鶏、材木の窃盗など余罪十数件を白状したものの、かかる善枝さん殺しについては頑として否認を続けた。

 

生い立ち

石川さんは両親と兄姉弟妹の合わせて7人家族。被差別部落に生まれ、幼年期には八畳一間の風が吹けば飛ぶようなバラック小屋に、畳もない薄べり板の上で寄せ集まるように寝起きしていた。

父・富造さんは文盲ではあったが働き者で、戦前は西武線工事のための砂利積み、戦後はお茶の工場で不定期に働き、工場がない時期は籠づくりの材料となる篠を刈ったり、日雇で百姓手伝いをやった。律義で厳格な性格で、こどもが悪さをすれば薪を投げて叱りつける気の短さだった。酒は飲まず無駄金を使わず怠けることもなかったが、貧乏子沢山で常に食うに事欠いていた。

富造さんが工場働きで得た日銭120円でうどん5、6玉を買って帰り、それを家族で2食に分けて食べた。ハコベ、野蒜、ニラといった野草を摘んできたり、「売り物にならないサツマイモ」を安く分けてもらったりして腹の足しにした。雨が続けば日銭すら稼げず、フスマ(小麦の外皮。鳥の餌や肥料などに用いられる)を団子状に焼いて飢えをしのいだ。「卵の殻が紛れ込んでいて口の中をよく切った」という。戦後のこどもたちが配給のザラメでカルメラ焼きをつくっていた頃、石川家では湯呑一杯分の水溶きザラメを食事代わりに啜ることもあった。

母リイさんも同じ部落の出身者で、合わせて9人の子を産んだ(男児2人が早逝)。石川さんの7つ下の弟を出んだ際、栄養失調と産後の肥立ちの悪さが重なって失明寸前まで視力を失ってしまう。以来、家事にも不自由し、ほとんどを家から出ることなく、娘や女友達と草履編みに励んでいた。草履編みは部落女性の仕事として広く知られており、かつては材料のい草を干す様子が部落の風景とされていた。

 

狭山の部落は石川家など13戸からなる「前っぱら」と30戸ほどが集まる「新宅」に分かれていた。水の便が悪い土地で共用の井戸はあったが出が悪く、800m程離れた山の神社までの水汲みと薪集めが、石川少年の5歳からの日課だった。

前っぱらのこどもたちは着物に裸足、冬は長靴を切ったような履物で通学した。新宅の方が家屋が少しましなつくりで、こどもたちも自分の制服を支度してもらうことができた。衣服は「身内のおさがり」が当たり前の時代ではあったが、前っぱらのこどもたちは「近所で使い回された後のおさがり」だったため、はじめて袖を通すときからつぎ当てだらけで薄汚れていた。

 

傘がないので雨の日は学校に通えなかった。教科書は近所の先輩から譲ってもらうことができたがノートや半紙を買うことができず、PTAなどの会費も払えない。文具が必要だったり、集金がある日は休むようになった。

小柄で一番前の席を割り当てられたが読み書きはほとんどできないまま小学校を卒業。「休み時間にみんなと遊ぶために通っていた」と石川は振り返る。当然教諭も学力の不足を知っていたが、それで叱りつけたり、補習させたりすることはなかったという。

部落のこどもたちは町の子たちから汚れた身なりを嘲られたり、「(犬などの)獣の肉を食っている」として投石や暴力を受ける虐めがあった。いじめに遭うときは前っぱらも新宅も区別なく標的にされた。石川少年は町の子が虐めてくる理由が分からず、親に聞いても答えはなかった。

小学4年頃には子守奉公や父親に連れ添われて日雇いの野良仕事に出るようになった。戦後、飛行場の一部が払い下げられ、石川家は2人の娘を奉公に出して金を工面し、3反ばかりの土地を得た。農業には不向きな土地だったが、大根、ネギ、ホウレンソウといった作物を育てて一畝いくらで八百屋に卸して金に換えた。畑づくりが兄弟の仕事となり、筋力がついて殴り返すようになると虐めはなくなった。

高学年ではほとんど通学しなかったが、学校側は必要な出席日数も忖度して卒業させたとみられる。今日の社会常識では信じがたいことだが、部落や貧困家庭のこどもたちはすぐに働きに出るため、読み書きが不得手でも仕方がないとみなされていた。石川の姉は奉公先で中学まで出してもらうことができたが、前っぱらのこどもたちは進学せずに働くのが普通だった。

 

石川と同時代を生きた作家・評論家の野間宏氏は、野草で飢えをしのいだりといった厳しい暮らしぶりは戦後すぐの庶民、貧農の家庭にも見られた光景だと振り返る。だが進学の見込みがないとかこつけての教育差別や、低賃金で昇給することのない職業差別、生活の根幹である「水」に不自由な土地を割り当てられていることによって、部落民はそうした著しい困窮の状態を戦後の一時期に限らず半ば恒常的に強いられてきた、と指摘している。

 

終戦から1950年頃にわたっては、警察が月に1、2回は戸籍調査の名目で部落を訪れていたという。部落の住民たちは従順に抵抗することなく、警察に恐れをなすようにへつらっていた。少年時代に柿泥棒など悪さをすれば親は「警察に突き出すぞ」と叱って脅し、幼心に警察は怖いものと刻み込まれていたと石川は言う。

近くで電車転覆未遂が起こり、13歳の石川少年が嫌疑をかけられた。このとき警察が頭を小突いたり髪の毛を引っ張ったりして怖かったので、やってもいないのに容疑を認めてしまったことがあった。そのときは武蔵野学園研修施設、通称「山学校」の学校長が畑仕事の雇用名簿を出してアリバイを証明してくれたため、幸いにして嫌疑は晴れたが、後に見る「虚偽自白」にも通じるエピソードである。

 

実際に盗みを働いたり、嫌疑を向けられることはその後も何度かあったが逮捕歴はなかった。子守り奉公のほか、鉄工所の作業員、土木作業員などに就いたが、競輪やパチンコが好きで無断欠勤したり、同僚とのトラブルや作業事故で退職するなど、日頃の素行も芳しいものではなく、仕事はどれも長続きしなかった。

19歳で勤めた製菓工場では働きが認められて工程管理の立場を任され、同僚によい仲の女性もできた。だが文字ができないため書類仕事の方は識字者の同僚に任せきりにしてやり過ごしていた。あるときその同僚が休みで、書類に何を書けばよいやら分からず、前日と同じ数字をそのまま書き写した。それが実際の生産量とあまりに食い違っていたため、それまでの同僚の手助けが明るみとなり、非識字者だとアウティングされて罵倒を受けた。

学のなさから誹りを受け、むら気のある粗暴な気性も災いし、職を転々としながら実家へ戻るも、早く自立しろと追い立てられて家に居づらくなり、1962年10月から4カ月ほどを養豚場で過ごした。

出来のよくない弟とは対照的に、とび職として身を立てた兄・六造さんは寸暇を惜しんで仕事に打ち込み、開発ブームの波に乗って石川家に経済的な潤いをもたらしていた。当時のとび職は引く手数多で一般的なサラリーマンの倍以上の稼ぎになったという。家も建て替え、テレビも買えた。弟の素行や行く末を心配して衝突していたが、評判の悪い養豚場勤めを辞めるようにと説得し、自分の下で見習い仕事を手伝わせていた。

 

孤立無援と命の恩人

石川の父親は地元代議士を通じて共産党系の弁護士・中田直人氏らに弁護を依頼。別件容疑について認めた石川は善枝さん殺しの自白を迫られ、狭山署での勾留が続けられていた。弁護人はこれを別件追及のための違法逮捕だとして裁判所に勾留の解除を訴え、保釈決定がなされる。

だが6月17日の保釈直後、善枝さん事件の強盗、強姦、殺人、死体遺棄容疑により即座に再逮捕。捜査当局は弁護士の接見を制限し、川越警察署分室を代理監獄とし、完全に孤立状態において取り調べを再開した。

思いがけない再逮捕、弁護士との接見禁止、厳しさを増す取り調べに抗する術を持たない男は窮地に追い込まれていった。身に覚えはなく否認すれど聞き入れてはもらえず、長期にわたる不当勾留、代用監獄による連日連夜の取調により身も心も疲弊した。

「弁護士はうそつきだ。何もしゃべらなければ家族とも会えない」

そもそも石川は裁判のしくみや弁護士の意義をあまり理解していなかった。また難解な専門用語で語り掛ける弁護士のことばは石川に充分理解されておらず、両者の意思疎通や信頼関係は満足のいくものとは言えなかった。

警察の接見妨害など知る由もない石川は、なぜ弁護士は接見に来ないのか、助けになってくれないのかと猜疑心を膨らませた。様々な冤罪事件で知られるところだが、代用監獄により物理的・精神的な孤立に追い込まれた容疑者は、生殺与奪を握る目の前の取調官に対して「逆らえば何をされるか分からない」「言うことをきけば助けてもらえる」と誤った信頼を置くこととなる。俗な言い方をすれば「洗脳」支配と変わりないものだ。

認めれば10年で出られるようにしてやる。男の約束だ

認めなければ六造を逮捕してやる

容疑の決め手とされたのは、佐野屋付近で検出されていた下足痕と石川家で押収された地下足袋が一致したことによる。石川が違うと言うなら兄を逮捕するというのである。取調官の強要と嘘の甘言、なにより大黒柱である兄・六造さんが逮捕されれば親弟妹が路頭に迷うことを危惧した石川は、やむなく「自白」に至る。

石川は名前の「雄」の字が書けず、上告書にも「一夫」と署名するほど文字ができなかった。追加の証拠にしようという思惑か、刑事は検事が席を外した隙に石川に「脅迫状の写し」を書かせようと何度も試みたが、「学校」を「がこを」、「封筒」を「ふんとを」と記した。喋りは達者な石川さんだが、文字にすると「う」と「ん」の区別がまだよくできなかった。

 

弁護人らは自白内容の矛盾や検察側の証拠の不自然な点を追及し、無実を主張しようとしたが、被告本人は起訴事実を認めて「自白」を維持した。そうした決裂状態もあり、裁判所は弁護側の証拠調べ請求にも与することなく早々に結審された。

1964年3月11日、浦和地裁・内田武文裁判長は死刑判決を下す。

 

それでも石川には家族との手紙や現金差し入れなど日頃から警察に世話をしてもらっている意識があり、その信頼は揺らがなかった。取調をした刑事との「約束」を信じきっており、裁判所は死刑と言ったが自分は10年で出所できるものだと思い込んでいた。結審後も動揺はなく、連行係に「今日の野球は巨人が勝ったか、国鉄が勝ったか」と自分のことより野球の結果を気に掛けていたという。

浦和拘置所雑居房に戻った石川は、死刑を心配する未決囚らに刑事との「約束」の話を聞かせ「10年で出られる」と説いた。「石川さん、約束なんか信じちゃだめだ」と窘(たしな)められ、「控訴しないのは頭がおかしい」とまで言われたことに反発して控訴の手続きを取った。

警察が約束を反故にするとは思えないが、会えばだれもが「死刑と言ったら死刑だ」というので、さすがに半信半疑となった。東京拘置所の死刑囚監房に身柄を移され、そこで「命の恩人」に出会う。

かの三鷹事件(1949年7月15日、国鉄三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。多くの死傷者を出し、国鉄労組の共産党員ら11名が共同謀議による犯行として逮捕された。)でただひとり死刑囚とされ、再審を求めていた竹内景助(67年1月18日、脳腫瘍で獄中死。)である。石川は一審判決の経緯を伝え、「男の約束」の真偽について相談してみると、真剣なまなざしで「すぐに弁護士に話しなさい」と諭され、ようやく呪縛が解けた。

 

弁護団もまたなぜ石川が心を開かず、一審で自白を維持したのか理解できていなかった。一審では精神鑑定の請求を却下され、自白の矛盾を突きながらも崩し切れず、死刑判決を逃れることはできなかった。控訴趣意書では量刑不当が主な理由とされており、無実を争うまでの気概はなかった。

獄中で一念発起した石川は、審理に向き合うためにも読み書きができなければならぬと手習いを始めた。当時の拘置所では規則もゆるく、役人たちにも受刑者に対する寛容さと人情があった。刑務官は新入りの死刑囚に融通を利かせ、練習用にわら半紙を差し入れて筆習いを応援した。石川が最初に覚えたのは名前の「雄」の字ではなく「無実」だったという。

同時期、石川は面会に訪れた川越の右翼系水平運動家・荻原祐介氏と知己を得、手紙で外部との交流を広げた。それまで経験してきた貧しさ、無学、周囲からの劣悪な処遇が部落差別によるものと学び、自らがいかに蔑まれた人生を歩まされてきたかを知る契機となった。

獄中での文化活動で短歌を薦められ、現在まで生涯の趣味としている。文字の獲得は石川の血となり骨となり、長い戦いを続ける上でかけがえのない原動力となった。

 

はじまり

1964年9月10日、東京高裁で控訴審が開かれ、被告人は裁判官の制止を振り切って強く訴えた。

「お手数をかけて申し訳ないが、私は殺していない」

一審から一転しての全面否認は弁護人も聞かされていない寝耳に水の出来事であった。

法廷の外では、部落解放同盟が家族への励まし、警察やメディアへの抗議を担い、その後の救援活動をリードした。石川の両親が我が子の無実を訴え、70年、解同は部落差別に起因するとして裁判糾弾の方針を決定。控訴審以降、無実を唱える全国運動を展開した。73年に至って日共と解同の対立が大きくなり、弁護団解同系に入れ替えられた。

 

1974年10月31日、東京高裁(寺尾正次裁判長)は、弁護側の無罪の主張を斥け、また一審での量刑判断が妥当ではないとして死刑判決を破棄したうえで、無期懲役の判決を下した。

1977年8月9日、最高裁第二小法廷(吉田豊裁判長)は上告を棄却。二審判決の無期懲役が確定し、更に17年余の獄中生活を送ることとなる。

1994年(平成6年)12月に仮釈放され、31年半ぶりに狭山の地に戻ることができた。事件から半世紀を経て多くの証拠開示が進み、2006年から2023年現在まで第三次再審請求が審理されている。

以下では、再審請求の論点とされている問題について取り上げたい。

 

自白の矛盾

石川が証言する事実によれば、事件のあった5月1日、朝7時20分頃に「仕事に行く」と言って家を出たが、さぼって所沢の西武園(のちの西武園ゆうえんち)に足を伸ばしていた。所沢のパチンコ店を14時頃に出、14時半頃に最寄りの入間川駅に戻った。

駅前をぶらついていると顔見知りだった八百屋の倅・金三さんに「パチンコかい」と声を掛けられ「そうだよ」と挨拶を交わしたという。金三さん本人は、会えば挨拶ぐらいするだろうと言うがやりとりを記憶してはいなかった。左折してパチンコオリオン前を通り過ぎ、荒井たばこ店で「しんせい」1箱とマッチを買い、50円を出して4円の釣りに対して「釣りはいらない」と断った。

入間川小学校の脇でしばらく休んでいると雨が降ってきたので駅の方まで戻り、15時半から16時ごろにかけて荷小屋で雨宿りをしていた。家人にさぼりがばれるのを躊躇って、すぐには帰れなかったのである。降雨状況は事実と一致しており、荷小屋で見かけたという「中学生の一団」も近くの東中学校で行われていた体育大会の帰りと推測される。

以前勤めていた養豚場のトラックが駅前を通り過ぎるのを見て、構内の時計を見ると17時近くであった。以前であれば基地に残飯を取りに向かう時間だったのに、トラックにはすでに荷が積んであったので不思議に思い、記憶に残ったという。

19時頃に弁当を持って帰宅。テレビを見、22時ごろに就寝した。同居する妹の美智子さんも「私は17時か17時半ごろに帰り、1時間か1時間半遅れて一雄兄さんが帰ってきました」と証言したが、近親の証言はアリバイに認められなかった。

 

一方、警察の誘導によってできた「虚偽の自白」では、14時過ぎに入間川駅に戻り、駅前の「すゞや」で牛乳2本とアイスクリームを買い、牛乳を飲みながら駅の東側、荒神様のある方面へと移動したとされる。

だが店主中島りんさんは「牛乳はあまり売れませんでした。25歳歳前後の小柄な男が牛乳とアイスクリームを買い、500円札の支払いでおつりをあげた記憶はありません」と証言する。5月1日は荒神様のお祭りで境内にはで店が並び、常時20~30人、多い時間帯で50~60人程度が見物に訪れていた。雨の影響もあったのか、顔見知りがいてもよさそうなものだが石川も被害者・善枝さんも祭りで姿を見られてはいなかった。

「自白」では、その後、山学校のある東へと移動したことになっている。15時50分頃加佐志街道X字型十字路で善枝さんと遭遇し、巧みに雑木林へと誘い込むと強姦して首を絞めた。200メートル離れた芋穴に運び、荒縄とロープで「逆さづり」にして穴倉に下ろして一時保管。そこで「脅迫状」を書き、奪った自転車で移動しながら被害者の所持品である「鞄」「教科書」「ゴム紐」などを遺棄しながら中田家に向かい、脅迫状を差した後、養豚場からスコップを盗んで芋穴へと戻り、遺体を農道に埋め、帰宅したとされる。

犯行は「被害者は雑木林内で悲鳴を上げて騒いだので、手で首を絞めた」ことになっている。だが弁護側の鑑定人により、当初の「扼殺」の鑑定は否定され、ひもなどを用いた「絞殺」だとする意見書が複数提出されている。

殺害現場とされた雑木林に隣接する桑畑で13時50分頃から約3時間にわたって農作業を続けていた男性がいたが、人影や悲鳴はなかったと証言する(小名木証言)。男性は、当日、500メートルは離れた荒神様で流されていたレコードの流行歌が聞こえていたと語ったが、逆に取り調べを受けた石川さんはレコードを耳にした記憶はなかった。

被害者は中学時代にソフトボール部で鍛え、身長158センチ・体重54キロと決して小柄ではなく、雨の降りしきるなか農道を抱えて歩いたとは考えづらい。遺体の足首などにも「逆さづり」を裏付けるような痕跡は残されていなかった。芋穴ではルミノール検査の反応は出なかったが、その事実は1988年の証拠開示まで伏せられたままだった。

殺害前後の実地検証は、映画ロケさながらに8ミリ映写機で撮影しながらの再現だったという。汚名を返上したい警察によるマスコミ向けのサービス、国民に対するアピールの目論見もあったと考えられる。

 

家人が寝静まった2日22時頃、密かに家を抜け出した石川は薬研坂ルートで真っ直ぐに佐野屋方面には向かわず、川を越えたり山林で時間を潰したりと全く不可解な動線をたどって、23時から23時半頃に佐野屋付近に到着し、身代金の受け渡し役を待っていたことになっている。さも各所に配備されていた警察隊が「見過ごした」ことにならないよう、張り込み地点を巧妙に迂回するルートが示されている。

脅迫状には「夜12時」と時間指定し、「一分出もをくれたら」「時かんどおり」「1時かんごに」と時間に関する言及が繰り返されていたが、石川は当時腕時計さえ持っていなかった。灯りも見えない深夜にそんな無謀ともいえる身代金の受け取りの仕方があるものだろうか。

佐野屋付近で見つかった足痕は石膏型が取られ、そのサイズは「10文か10文半(24~25センチ)」という鑑定報告が出ており、石川さんの足のサイズも10文半であった。だが当時は右足に「魚の目」ができており、ゴム長靴を常用していた。石川さん宅の家宅捜索で見つかった地下足袋は全て「9文7分(23センチ)」、兄・六造さんのものであった。足元も覚束ない真夜中に、きつい兄の地下足袋を履いて身代金を受け取りに来る犯人というのはあまり聞いたことがない。

 

秘密の暴露

石川の自白開始は6月20日前後、当初は「3人共犯」の内容だったが、23日に至り単独自白へと変遷した。

単独犯行の見方を決定づけたのは、「自白」に基づく再捜索により被害者の遺留品が発見されたことが大きい。供述に基づく遺留品の発見は、犯人しか知りえない「秘密の暴露」として有罪立証に強くはたらいた。

発見前に作製された品触には誤りがあった
《ダレス鞄と牛乳瓶》

5月25日、桑畑の除草作業に訪れていた農夫が側溝の土を掻き出していると、埋まっていた被害者の教科書、ノート類が発見される。しかしなぜか通学用に使っていたダレス鞄(自立型の革製広口鞄の愛称。対日講和で来日し、アメリ国務長官ジョン・フォスター・ダレスが愛用したことでその呼び名が使われた。)は発見されず、県警は「重要品触」として捜索を続けていた。

6月21日、石川さんが記した地図に基づいて、被害者が通学用に使用していたダレス鞄が発見される。「自白」によれば鞄を逆さまにして中身を出し、脅迫状を書くために筆入れから万年筆を盗み、鞄もその近くに棄てたとされる。だが教科書と鞄の発見場所は数十メートル離れており、これまでも捜索が繰り返されてきた場所であった。

中には刺繍糸、編み棒、櫛などの中身が入ったままで、鞄の下には「自白」には出てこなかった半分中味が入った牛乳瓶、ハンカチ、三角巾が見つかる。財布、ルーズリーフ式の手帳、筆箱は発見されなかった。

鞄の真贋は不明だが、捜索し尽くした場所から「自白」を得ての発見という不可解な経緯は出来すぎているように思われ、調書の改竄や捏造が疑われている。むしろ前もって発見されていた「牛乳瓶」から「すゞや」でのエピソードが挿入された、あるいは「すゞや」自白との一致と見せかけるために捏造したと考える方が自然である。

飲みかけの牛乳瓶片手に強姦に及び、被害者の遺留品と一緒に棄てる犯人など実在するだろうか。鞄が被害者のものと仮定しても、牛乳は被害者が飲み残していたものとする方がまだ適当に思われる。このように証拠品にはあまりに不自然な点がもれなく散見されており、捜査機関による捏造や改竄の疑惑が濃厚とされている。

鴨居の万年筆

善枝さんは兄から入学祝に贈られた万年筆を愛用していた。石川さん宅から「鴨居の万年筆」が見つかったのは、6月26日、石川家3度目の家宅捜索時であった。2人の刑事が捜索を求めたが、六造さんは度重なる要求に拒否するつもりで押し問答となった。だが刑事が「(石川が)そこにあると言っている」とうるさいので、六造さんが鴨居の上に手を掛けると、その通り、ひょっこりと発見されたのである。

鴨居は高さ175.9センチ、奥行き8.5センチほど。たしかに小柄な人であれば目に入りづらい場所ではあり、生活者が日頃から目を配るような場所とは言えない。だが別件逮捕の5月23日に12人、再逮捕翌日の6月18日に14人が詰めかけ各2時間以上をかけ、庭土や屋根までひっくり返して証拠になりそうなものを目ざとく荒捜ししておきながら全く見落としていたとは思えない。

しかし重要な物証を前に、刑事が「素手で触らせる」ことなどありうるだろうか。万年筆からは石川さんの指紋も被害者の指紋も検出されなかった

以前の家宅捜索時に撮影された写真には鴨居の傍に脚立が映っていた。後の第2次再審の段に至り、捜索に従事した元狭山署員が証言台に立った。鴨居の隅にぼろ布の詰まった節穴を見とがめて、家の者に確認すると「鴨居の上をネズミが通り道にしている」と言われ、自分が鴨居に手を掛けて調べたがそのときは何も発見できなかったこと、「後で万年筆が発見されたと聞いて不思議に思った」旨を証言している。

「自白」では、殺害後に盗んだ被害者の万年筆は脅迫状の訂正に用いた後、捨てずに持ち去ったことになっている。読み書きの不自由な石川さんが万年筆を持ち帰る発想自体が不自然であり、妹らに譲るでもなく鴨居の上に隠しておくとはどういう了見か。

脅迫状自体は犯行より以前に自宅で妹のマンガ雑誌『りぼん』の文字を参考に書いたとされ、用いられたのは主にボールペンであった。検察側の筋書きとしては、封筒の宛名にあった「少時様」が事前にボールペンで書かれ、脇に書き加えられたらしき「中田江さく」は被害者の万年筆が用いられたものと見ていた。二審・寺尾判決は、当初、「しょうじ」なる人物の子息を誘拐するつもりで書かれた脅迫文だったとして、急遽宛先を書き換える必要があったと判断していた。

だが1999年6月に提出された弁護側の新鑑定では、「少時」「中田江さく」には万年筆が用いられ、「様」はボールペンとの指摘がなされている。石川さんの家に万年筆やインクの付けペンはなく、鑑定結果が事実とすれば確定判決のストーリーと食い違うことになる。

鴨居の万年筆は、遺族によれば被害者のものと「よく似ている」が、保証書はなく製造番号までは分からず、それが実物とは断定できなかった。発見された万年筆に入っていたインキは「ブルーブラック」であった。

彼女が使用していたインキ瓶は半世紀経った2013年にようやく証拠開示され、事件当日までブルーブラックとは成分の異なるライトブルーのインキ(商品名ジェットブルーインキ)を使用したことが明らかとされた。虚偽の自白を裏付けるばかりか、証拠の捏造、隠蔽を決定づけるものである。

《腕時計》

7月2日には近所の高齢男性が茶畑の畝に光るものを見かけ、女性物の腕時計だと分かって通報した。これも遺棄現場の「自白」が取られており、「道の真ん中に棄てた」とされており、6月末に捜索が行われたが発見されていなかった。発見された場所は捜索範囲から数メートル外れていたという。時計は防水仕様ではなかったが支障なく動いた。

「品触」では「シチズンコニー」であったが、発見されたのは外見の似た「シチズンペット」という別の製品だった。被害者宅に時計の保証書が残されており、被害者の使用品が「シチズンコニー」であったことは間違いない。ベルトのホールの使用痕も位置が異なることが姉によって指摘されている。

また「品触」には製品番号まで細かく記載されているが、署が同製品の見本品を取り寄せて品触作成を命じたところ、係の者が誤って見本品の番号をそのまま書き写したとされる。警察によるお粗末な捜査、更には間の抜けた捏造には開いた口が塞がらない。

《年賀の手ぬぐい》

遺体の手首を縛っていた手ぬぐいは、市内の「五十子米穀店」が年賀用に配布したもので、165本配った内の7本は回収・確認されなかった。警察は5月6日に石川家を訪れ、1本が現認されていた。本来であればその時点で疑惑は解かれるはずであった。だが警察は部落出身者、養豚場へと捜査を集中させ、逮捕を焦ったばかりに石川青年が犯人へと祭り上げられてしまう。

控訴審で滝沢直人検事は、テレビで手ぬぐいの報道が流れてから親類(姉の嫁ぎ先)の石川仙吉さんに都合をつけてもらい警察の調べに対応したものだと主張した。仙吉さんは手ぬぐいを一本しかもらっていない、被告人に譲っていないと述べたが聞き入れられず。検察側の主張は受け入れられ、自白を離れた状況証拠のひとつと認定された。

手ぬぐいのニュースが放映されたのは5月6日12時2分から約50秒間。開示された捜査報告書で、警官が手ぬぐいを現認したのが同日12時20分であったことが分かった。わずか17分の間に都合をつけることは現実的に困難であり、元々石川家にあったものと見るのが自然である。

仙吉さん宅では5月11日に手ぬぐい1本を任意提出していたが、当年「2本」貰っていたのではないかとされてきた。更に2013年、捜査機関が用いた「手ぬぐい配布先の一覧表」が証拠開示され、仙吉さん宅に配布された本数「1」の字は、別の筆記具で書き加えられて「2」に見えるよう細工されていたことが明らかとされている。

 

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所感

過去には、中田家の元作男で取り調べの翌日に遺書を残して自殺を遂げたOGさん関与説、遺産相続の独占などを目的にきょうだいを排除したかった・公にできない秘密があった等とする長兄首謀説、養豚場関係者でアルコール中毒となり事件の3年後に入曽駅近くで轢死したT氏犯人説など、諸説語られてきた。

帰宅直後の脅迫状、身代金受け渡しの現場に容易に近づくことができた点、死体遺棄の状況が近親者を思わせるなど、中田家の事情に相当通じた者の関与を想起させるのも確かである。

 

調査や名推理は作家たちに任せるとして、最後に筆者の妄想を記して終わる。

被害者にはK高校に進学した元野球部のMさんという片思いの相手がいた。張り込み協力をしたPTA会長M氏の息子、中学で元生徒会長を務めた青年で、善枝さんの中学時代の日記には彼に熱を上げる様子が屡々綴られ、高校進学後もその思いは継続されていたことが分かっている。その熱愛ぶりからは善枝さんのもどかしいほどの純情さが垣間見え、他に交際相手などはなかったことが推測される。またきょうだい喧嘩の記述はあれど、家族関係に壊滅的な確執や遺産を分けた骨肉の争いがあった様子は漂わない。行間には育ちの良さと純朴さ、素直さと家族への感謝が滲んでいる。

Mさん本人は彼女の思いに気づいていたのか、相思相愛だったのか、彼としては脈なしだったのかといった内情は分からない。だが少女にとって誕生日、それも婚姻可能となる「16歳」という特別な年齢は、否が応にも恋慕の相手を強く意識させたにちがいない。善枝さんが真っ直ぐに帰宅せずガード方面で目撃があった理由として、Mさんの帰りを待っていたか、待ち合わせをしていたと考える。

日記には5月1日の項に「私の誕生日(十六才)。うれしい。」と以前から記してあった。まさかこんな残酷な事件に巻き込まれるとは知らずに。

前に告白してこの日に返事を貰う約束だったのか、それとも偶然を装ってでも会いたい気持ちに突き動かされたのか。だがそんな少女に声を掛けたのはMさんとは別の男性だった。

「こんなところで何してるんだい?」

善枝さんはもちろんMさんを待っているとは口にせず、話をはぐらかした。彼女からか相手からか、会話の中で誕生日のことも出たのではないか。

「うちに来なよ。お祝いにプレゼントをあげよう」

なんやかんやと言いくるめられて少女は目的を諦め、一緒にガード下を離れて、さる農道へと差し掛かる。男は少女に「友達を呼んでお祝いをしよう。雨宿りして待っていて」と芋穴に誘導してその場を去る。あるいは元級友や相談相手などで少女の恋慕を知る立場にあれば、「Mを連れてくるから」などと言って気を引いたかもしれない。

筆者は、10代後半から20代の複数犯で、芋穴が殺害現場ではないかと考えている。

善枝さんも言われるがままついていくような親しい間柄の男性といえばそう数は多くない。OGさんのように幼いころから付き合いのある大人か、同級生や地元の先輩などかもしれない。男は知人宅に駆け込むと、運搬に使うためのロープ、埋没に使うスコップ、そして「少時様」宛の脅迫状を持ってくるように言った。

男たちは吉展ちゃん事件に感化されて以前から身代金誘拐を企てており、当初は4月末に4人の子をもつ堀兼地区の増田正治さん方の子息を狙っていた。近くの芋穴も事前に目を付けていたが、あえなく計画は頓挫していた。はじめから攫ったこどもを殺して埋めるつもりでいたため、男たちからすれば相手が別の家の高校生に変わったまでである。ひとりは脅迫状を手直しして自転車で中田家へ向かい、別の男が芋穴で雨に濡れた少女を見るや俄かに劣情を催した。

OGさんは中田家でもM氏方でも勤めていた時期があるため、少なくとも身代金の受け渡し現場で対話した人物は彼ではない。長兄にしても遺産は公平に分割せず長男がまとめて引き継ぐものと相場が決まっており、仮にトラブルがあったとしても標的とされるのは男兄弟の方である。処女膜の古傷も中学時代のソフトボール等でできたものと推認される。

見つかった遺留品は手配書作成のために集められた物品をそのまま転用したものであろう。結果的に警察が事件の偽装工作を肩代わりしてくれた。地元住民は部落の仕業と決めつけて騒ぎ、記者や作家はあることないこと書き立てて雲散霧消となり、遂には「犯人」まで逮捕された。。。。地域の強固な結びつきや排他性が仇となり、犯行グループの口を一層固く閉ざさせ、発覚に至らなかったと見ている。

 

 

こんな誕生日になるはずじゃなかった。春雨にそんな思いが去来する。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。