いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

現職警官による告発——二俣事件

天竜中流、阿多古川の流れとぶつかる東岸、浜松と磐田を結ぶ街道の合流地点に二俣城は築かれた。戦国時代には徳川と武田が城の争奪戦を繰り広げた要所であった。

 

その城下町が基となった静岡県二俣町は浜松駅から北へ約20キロに位置しており、山深い北遠地域の玄関口とされた。水利を生かして繭の取引、木材水輸の集積地として栄え、ダム造成の拠点ともされてきたことから多くの宿屋の跡が今も残る。1940年には遠江二俣駅が開業し、終戦直後の最盛期には遊郭花柳界も賑わった。

本田宗一郎ものづくり伝承館

旧二俣町役場は国の登録有形文化財となり、浜松出身のホンダ創業者・本田宗一郎ものづくり伝承館として利用されている。

周辺の町村との合併後、1956年に天竜市へと改称。2023年現在は浜松市天竜区の一部を構成する。

 

事件の発覚

1950年(昭和25年)1月7日早朝、二俣川にかかる双竜橋近くの商店街にある大橋一郎さん方で異変が起こり、長男・武司さん(当時11歳)が泣きながら近くにあった伯父の家へと駆け込んだ。横で寝ていた両親らが血まみれになって絶命しているというのだ。

二俣署に通報が入ったのは5時40分頃。前夜は寒の入りで、彼の地にしては珍しく5センチほどの雪が積もっていた。

 

夫婦は刃物で顔や首など滅多刺しされてほぼ即死状態とみられた。一郎さん(46歳)の枕元には土瓶が倒れて中の茶殻が畳に滴り、首元には血が溜まっていたが外にこぼれてはおらず、眠るがごとく息絶えていた。

妻たつ子さん(33歳)は壁や天井まで血が飛散したと見え、霧吹きでも吹いたかのように染まった布団から這い出すような格好だった。犯人に気づいて相対したものか、犯人が引きずり出そうとしたものかは分からない。母から顎にかけて骨が砕けており、腕力のある犯人と見られた。

隣で寝ていた長女(2歳)に刺し傷はなく、首を手で絞められての扼殺。生後11か月の二女は息絶えた母親の下から見つかり、背中で圧迫されての窒息死だった。

 

大橋家は3年前に町内100戸を焼いた大火により家屋を焼失し、当時は親類の大工に急造してもらったバラックで、寝たきりの祖母と、両親、子ども5人の8人暮らし。夫は失業中の身で、昼は赤ん坊の世話などをする姿を見られており、目下の家計は妻の針子仕事に頼っていた。

両親と同じ6畳間で寝ていた長男の武司さんと二人の弟(8歳・5歳)に被害はなく、隣の2畳間で寝ていた祖母(87歳)も無傷だった。祖母に至っては近隣住民が集まって騒ぎになってもまだ起きてこなかったという。不幸中の幸いというべきか、現場の惨状を目にしなくて済んだ。

 

推定死亡時刻は、夫が6日午後7時20分から7日午前0時20分の間、妻は7日午前0時頃、長女は6日午後10時から11時の間、二女は6日午後11時頃とされた。当初の捜査記録では発生時刻を午後11時頃とする記載もある。

というのも六畳間にあった柱時計が右に10度傾いた状態で「11時2分」を指して止まっていたことから、犯行のはずみで停止したものと推測されたためである。

室内は物色されたような形跡があり、布団が台所に引っ張り出されていたり、押し入れは衣類から何からかき回されたような始末で、預金通帳や書類も床に散らばっていた。たんすの五段の引き出しが上下が入れ替わっていたことも確認されたが、具体的な盗品被害は分かりかねた。

 

また二男の話では、明け方に目を覚ました折、母親の足元で座って新聞を読んでいる男を目撃したと証言があった。新聞で隠れて顔までは見えなかったが、男が去った後、怖くて泣いていると長男に泣くな泣くなと叱られて再び床に就いたという。まるで子どもが悪い夢でも見ていたかのような話だが、事実、現場には血のりの指跡が付いた毎日小学生新聞が残されていた。

祖母に聞けば「夕べ、一郎が枕を直してくれた」と話したが、枕元には血染めの指の跡が見つかり、近づいて来た犯人を息子と見紛うたものと思われた。殺害直後の犯人がすぐに立ち去ろうとせず、なぜそうした行動をとっていたのかは判然としない。

裏の畑につながる路地には被害者宅に向かう11文(26センチ大)の不審な足跡が残されていたが、帰りの足跡は見当たらなかった。

裏の農業競合組合の板塀の上には、血の付いた手袋と鞘に収められた匕首(あいくち)が置いてあった。匕首は短刀を加工してつくった手製のものでイニシャルと思しき「O」と刻まれており、山川に囲まれたこの地でなぜこれ見よがしに近場に置き去ったものか腑に落ちない。

周辺は3軒の遊郭をはじめ、芝居小屋、商売店や酒屋が並ぶ繁華街で、店舗や住宅が密集している。そんななか見るからに貧相なバラックに盗みに入るというのはあまりに見当はずれに思われた。

 

国警と自治

1948年3月、GHQは人口5000人を超える全国1600の市町村についてアメリカの保安官制度を手本に自治体警察の設置を命じた。そのため従来の広域をカバーしていた国家地方警察と、自立性の高い自治体警察が併存していた期間が存在する。自治警は自治体への負担が大きく各地で廃止されていき、現行の警察組織に再編されたのは1954年のことである。

当時の二俣町の人口はおよそ1万2千人で、約3年にわたって自治体警察が置かれた。軽微な犯罪や自殺であれば自治警だけで対応可能だが、二俣署は僅か定員13人、刑事係は3人だけの小勢で、殺人事件のような大がかりな捜査となると国警の協力を要請し、合同捜査本部を構えることとなる。

 

一家4人殺人の報せを受け、国警静岡県本部は強力犯係主任・紅林麻雄警部補を送り込んだ。華々しい活躍を遂げていた国警の名刑事は手勢80名を率いて指揮をとり、町の素行不良者を片っ端からしょっ引いてくるよう指示した。

二俣署裏に借りた銀行の土蔵に押し込み、殴る蹴る、竹刀で打ったり柔道技にかけたりといった拷問を繰り広げて口を割らせようとしたのである。彼らの捜査手法には音の漏れにくい土蔵が適していたとみられる。

聞き込みにも回ったが、町民たちはその横暴なやり方に不満を持ち、捜査協力を拒んでいた。戦時中の二俣大火(1943年8月発生。大橋家を焼いた火災とは別)で犯人だと締め上げられた少年が取調での暴行を苦に自殺していたことも、町民の強い不信感と反発を生んでいた。

賑わった繁華街も国警に目を付けられるのを恐れて夜に出歩く者はなくなり、店も早じまいするようになった。

 

しかして捜査班は1か月半で二百数十名を調べに掛けたが目ぼしい容疑者は浮かんでこず、町では捜査員の移動・宿泊費など膨らみつづける捜査経費が懸念され、地元紙も「徒(いたずら)に日を空費」と国警の体たらくを非難する記事を掲載した。

すると記事掲載の2日後となる2月23日、捜査班は近所に住む当時18歳の少年Sを別件の窃盗罪で検挙。手荒な取り調べの末、4日後に一家4人殺しの犯行を自供させた。しかし名刑事による犯人逮捕で一件落着とはならず、昭和の事件史に悪名を残すこととなる。

 

山崎刑事の逡巡

戦時中の1941~42年にかけて起こった浜松9人連続殺しを解決へと導き、紅林麻雄氏は名刑事として一躍時の人となった。

捜査で350もの勲功を挙げており、裁判でも犯人しか知りえない事実、今で言うところの「秘密の暴露」を吐かせる手法で次々と有罪判決をもぎとっていた。その目覚ましい功績により、国警では「警視正の署長であっても、その言うことをきかなければならない絶対的な権力の持ち主」へと祭り上げられていた。

一方、1948年11月に起きた幸浦村一家4人殺しでは、翌年、知的障害のあった27歳男性を別件逮捕して自白を得、芋づる式に共犯者を逮捕。一審で、被告人・弁護側は取り調べで拷問を受けた末の虚偽自白であると主張し、名物刑事による自白強要が大きく取り沙汰されていた。

(幸浦事件は犯人の自白通りの場所から遺体が発見されたことが決め手となり、二俣事件発生後の1950年4月に一審・死刑判決が下される。その後、差し戻し審を経て、1963年7月に全員の無罪が確定する。小島事件、島田事件でも紅林捜査チームの拷問による自白の強要や証拠の捏造が次々と露見することになるが、拷問王などと非難を浴びるのは二俣事件以降の話である)

 

2月半ば、二俣での捜査規模縮小を迫られると、紅林警部補はこれまでの捜査対象から重要参考人を絞り込むための捜査会議を行った。その後逮捕される少年Sの名も挙がったが、彼には事件当夜アリバイがあった。

Sには盗癖があり前年末に調べを受けていたが、日頃は父親のラーメン屋台を手伝っていた。罪状は出先で目に付いたものをかっぱらってしまうコソ泥の類である。元は祖父母の代から劇場をやっていた家のボンボンで、腕っぷしも弱く、酒もタバコもやらず、根っからの不良者という訳ではない。

 

事件当夜9時前に、二俣署の山崎兵八(ひょうはち)刑事(当時38歳)が出前持ちに走る姿を見かけており、その後、マージャン屋に居たことが分かっていた。だがS少年はマージャンをやらないはずだ、と山崎刑事が疑念を挟んだことがきっかけとなり候補者リストに残されたのである。(後日の調査では、少年はマージャン自体はやらないが、人がしている卓を見ているのが好きだったとされ、出前をさぼって油を売っていたものとみられる)

イメージ



2月20日、紅林警部補は捜査会議で最終方針を示し、捜査員たちに以下のように言ったという。

「今日、三人を取調べたが、その中でSが有力な容疑者であることが判った。彼は正しく犯人である。大地を打つ槌がはずれても、これは絶対にはずれない真犯人であり、間違いはない」

「しかし、その証拠は何も無い。犯人には間違いないが、証拠は何ひとつない。そこで諸君には明日からこの証拠を探し出して貰いたい」

「諸君の中で犯人では無いのではないか、という疑問がある者が出てきたならば、この捜査は崩れてしまう。諸君はSが真犯人であるという信念を持って捜査に従事して貰いたい」

「この事について異議のある者は、今直ちに申し出て貰いたい。その人には捜査から抜けて貰いたい」

 

山崎刑事は自分の進言から無実のSが犯人にされようとしていることを知って戦慄した。同時に、犯罪捜査の要諦である「証を得てのち人を得よ」の教えとは真逆をいく、聞きしに劣る拷問捜査のやり方、問答無用の捜査指揮に憤慨した。しかし一介の町刑事が国警のエースと名高い紅林警部補に歯向かうことはできない。

その正義感と自身の進退を秤にかけ、山崎刑事は葛藤した。

警察に入って7年、恩給がもらえる身となるまであと5年は辛抱せねばならない。里には養っていかねばならない4人の子と嫁、老いた母親がいた。検挙に異常な執念を燃やす割に、真犯人は別にいると訴えても耳を貸さないに紅林警部補に逆らっても自分の力では何もならない。国警に引き下がってもらうためには誰かが生贄になるしかないのではないか。

Sの足のサイズは十文(約24センチ)で、現場に残されていた足跡とは明らかに食い違う。自白を「証拠の王」としてきた旧来の刑事訴訟法も、1949年から物的証拠、客観的事実に基づく刑事司法へと転換を果たした。新法に基づいて公正な審理が行われさえすれば少年の無実が必ずや明らかにされる、はずであった。

 

山崎刑事は布団で簀巻きにされた少年が一時息をしなくなったという噂を耳にして不安になり、少年の実家へと足を運んだ。少年の逮捕以来、屋台のチャルメラの音も聞かれなくなっていた。

Sの両親は在宅で、母親に聞けば、どこへ行っても人殺しの親が作ったものなど食えるかと言われて商売ができなくなり、一日二日は売れ残りでしのぎ、布団も着物も売り払って耐え忍んできたが、もはや金に換えられるものも食い物も底をついたと嘆いた。

 

「あの子は本当に人殺しをやったんですか」

Sの母親は山崎刑事の顔を睨んだ。

刑事はSの家族に切々と事情を訴え、理解と辛抱を請うた。

「人殺しなどやっていませんよ」

「世間の人が何を言おうと、彼のことを信じてあげてください」

「国警の連中に町から出て行ってもらうためには、犠牲者が必要なのです」

「助けてあげたくとも我々町警察ではどうしようもないんです。国警には勝てないんです。力のない町警察を代表してお詫びします。どうかお許しください」

「しかし日本の裁判官は正しく裁いてくれると思います。罪のない息子さんはきっと無罪になりますよ」

「もしも、もしもですね、有罪という判決が出たときは私が無実を名乗り出ます。警察官の職をなげうっても必ず彼が無実であることを名乗って出ます」

 

告発

4月12日、静岡地裁浜松支部で初公判が開かれた。

動機はマージャンで遊ぶ金欲しさ、公訴事実では現金1300円余りが奪われた強盗殺人とされた。凶器とされた匕首は5日に自宅隣の下駄工場の床下で偶々拾ったものという。被告人となった少年Sは終始否認を貫いた。

 

証言台に立った紅林警部補は、被告人は被害者宅の柱時計についてガラス蓋がなかったことを自白している、これは8月に割れたもので、現場に立ち入った犯人だからこそ知りえた情況証拠だと主張。

更に「止まっていた時計の針」について、時計の針を動かして犯行時刻の偽装を図る場面が出てくる映画『パレットナイフの殺人』が近くで公開されていたことを根拠に、以前からミステリ好きだった少年が長い針を2回ほど回して「11時2分」の犯行に見せかけたものだと「アリバイ崩し」を披露した。

少年は逮捕前の新聞で壁時計が不自然に止まっていたことを見知っていた。取調の段で時計の蓋についてしつこく聞かれるので「蓋は気が付かなかった。どうなっていたか分からない」などと言い逃れをしていた。これが逆手に取られてしまい、更なる追及を受けて「文字盤に硝子蓋は嵌っていなかったと思う。覆いを外した記憶がない」という供述へと変遷させられた。

山崎刑事の期待に反して、審理は無情にも検察ペースで展開し、11月には論告求刑で死刑が求刑され、このまま行けば死刑判決は確実だろうと検事や記者が口を揃えた。

 

山崎刑事は地元紙ではあてにならぬと思い、警察の不正に批判的立場を打ち出していた読売新聞東京本社に投書し、調査して不正や拷問捜査の事実を明らかにしてほしいと訴えた。すると記者は実名で告発してもらって記事にしたいという。家族もあるし、懲戒免職となれば恩給さえ出ないと固辞したが、記者はどうしてもと食い下がる。辞職して退職金を得てからであればと言うと、現職でなければ意味がないのだと迫る。記者は「本社で生活の面倒を見るから」とまで約し、山崎刑事も自動車免許があればトラックかなにか運転手でもして食い扶持はどうにかなると意を決した。

妻に話すともちろんいい顔はしなかった。以前も身寄りのない少年犯を引き取ってきて、家族の食事すらままならない時節に関わらずしばらく寝食をあてがってやることもあったという。夫の性分は重々承知の上であった。

「いいかね。もしもSが私たちの子どもだったらどう思う。黙って見過ごしができるだろうか

最後には妻も、分かりました、どんな苦労があっても一緒についていきます、と答えてくれたという。

最終弁論の前日11月23日に現職警官の実名入り告発記事が掲載された。記事が出ると、署から休暇を言い渡された。

 

これを受けて、判決審は延期となり、12月15日、山崎刑事らを証人として審理のやり直しが行われた。証言台に立った山崎刑事は裁判長の質問に答えるばかりでは埒が明かないとして、国警が行った拷問の実態や少年のアリバイ事実などを1時間半にわたって一方的に述べた。

S少年も自白強要の実態について、暴行で度々気を失ったことを語り、次第に思考判断する気力が失われ、弁解しても無駄であり、これ以上暴行されることに恐怖を覚えて自白に至ったと証言した。その後も事実と合致しない供述をするたびに国警から暴行を受けていたという。国警による自白の誘導、虚偽自白がつくられたことを意味していた。

だが同じく出廷した二俣署長は、山崎刑事は事件当日に現場に行っていない、日頃から勤務状態は出鱈目で性格は変質的、本件捜査にも従わず勝手な行動が多かったので配属を変えたと述べ、告発は何の根拠もない偽証であると突っぱねた。

12月18日、署長の求めにより山崎刑事は辞表を提出。

12月27日、裁判所は検察側の言い分を全面的に認め、S少年に死刑判決を下した。

 

同日、偽証容疑で山崎刑事は逮捕され、既決囚と同じ獄舎に収容されて正月を迎えた。

51年1月、名古屋大・乾憲男教授の精神鑑定を受けた。教授は二俣事件について述べるように求めたが、山崎刑事は証言の食いちがいから狂人扱いするつもりだとして反発した。観念して事件について2時間余り話すと、結果は「妄想性痴呆症」と診断され、「隔離監禁の処置が必要」とまで付記されていた。

また鑑定に必要との事で脊髄液を注射器で採取されたが、以来数日にわたって激しい痛みに襲われ、何か悪いものを注射されたのではないかと不安に陥った、と後年の手記に綴っている。

1月30日、精神疾患で刑事責任能力なしと判断され、偽証の容疑は不起訴となり身柄は釈放された。だが同日、精神疾患を理由に警察官を免職となった。

イメージ

周智郡熊切村の故郷へと戻った山崎氏であったが、精神疾患を理由に公安から運転免許証を取り上げられ、生活の糧に窮することとなる。

告発を後押しした読売新聞社もその後の生活の世話をすることはなかった。山崎氏は生きていく必要から若い頃にやっていた山仕事や新聞配達などに従事したが、生活は荒んでいった。配電を止められることもあったと言い、周囲の人びとも「時の人」となった元警官を心底から信用して支えた訳ではなかった。

妻は工事現場など土方仕事に出て家族を養い、子どもたちも新聞配達や畑仕事を手伝ったが教諭や生徒たちからいじめを受けた。家族を巻き込むこととなった父親の決断を恨みに思ったと語っている。元刑事が払った正義の代償は家族にとってあまりにも過酷だった。

 

逆転無罪

S元少年の裁判はその後も続き、控訴を棄却されたものの、清瀬一郎が弁護につき、新聞紙上や著作を通じて冤罪を広く訴えたことで、大きく流れが変わった。

1953年11月27日、最高裁・霜山精一裁判長は死刑判決を破棄し、静岡地裁への差し戻し審を決定。死刑判決の差戻しは本邦初であった。拷問による違法捜査を認めた訳ではないが、自白内容の信用性(真実性)が疑われ、物証その他に被告人の犯人性を示すものがなく、判決に重大な事実誤認がある公算が生じたためである。

 

清瀬一郎は、五・一五事件で犬養首相を暗殺した青年将校の死刑を回避、極東軍事裁判東条英機の主任弁護人などを務め、政治家としても後の1955年に71歳で文部大臣に就任したほか、衆議院議長として日米安保条約強行採決を主導した人物として知られる。

戦中は弁護士報国会会長として軍部を支持。戦後は日本弁護士協会会長として拷問根絶運動を展開し、GHQ憲法草案について拷問の禁止や、強制された自白は証拠とならない規定を陳情して採用された。先の幸浦事件でも控訴が棄却された1951年に静岡県弁護士会会長・内藤惣一から依頼を受け、弁護団に加わっていた。

清瀬弁護士の参加を後押ししたのは、浜松事件で捜査に携わり、紅林警部補のやりくちを目の当たりにしていた元刑事・南部清松氏の手紙であった。二俣事件当時は退職して二俣町で板金業を営んでいたが、地元に詳しい人物として紅林警部補から民間人協力の依頼もあった。国警の横暴を二俣一審の段階で暴露したひとりである。南部氏は島田事件においても冤罪証明のため尽力するなど、終生、紅林警部補をはじめ静岡の警察に蔓延した腐敗の根を質そうと努めた。

 

血液学の権威であり、東大法医学教室で多くの鑑定を担った古畑種基教授は、昭和の科学捜査の発展に大きく寄与した。その一方で、弘前大学教授夫人殺人事件、財田川事件、松山事件、島田事件など数々の冤罪事件の鑑定にも関わっており、警察司法の御用学者とみなす見方もある。

だが戦中の首なし事件、共産党リンチ殺人事件など警察・検察側に不利な鑑定を行うこともあり、注目を集めた下山総裁轢死事件では自殺として早期幕引きを目論んだ警視庁に対して他殺説を示し、困惑させてもいる。

本件差し戻し審では死亡推定時刻の割り出しで、元少年Sさんのアリバイが成立する夜11時頃との鑑定を示した。また犯人は相当量の返り血を浴びたとの見解を示し、少年が当日着ていた茶色のジャンパーには被害者血痕が認められなかったことで犯行不可能が裏付けられることとなる。

SさんはA型で、件のジャンパーは洗濯もせず毎日着こんでいたものであった。極微量の人血らしきルミノール反応は出たが検察側の鑑定では「非常に薄められたB型の血液が付いていたと思えぬことはない」という非常に不確かな結果が報告されたのみである。当時の鑑定技術では、殺害の返り血とまでは立証できず、苦渋の判断で絞り出した表現とも思える。

1957年9月20日静岡地裁の差し戻し審で、Sさんが無罪判決により同日釈放となる。

検察側は控訴したが、12月26日、東京高裁は控訴を棄却。検察側は上告を断念し、翌58年1月9日、約8年越しでSさんの無罪が確定した。

 

『現場刑事の告発』

Sさんの無罪が確定してから3年余、1961年3月14日の昼過ぎ、山崎家に火の手が上がった。そのとき両親は畑仕事に出掛け、近くの柿の木に上って遊んでいた小学3年生の二男がおり、自宅に入っていく男の姿を目にしていた。その直後に縁の下に煙が上がり、なす術もなく家屋は全焼した。

二男は「黒い長靴を履いた男」の目撃を訴えたが、警察は聞く耳をもたず、むしろ少年が火を放って嘘をついているのではないかと疑った。取り調べの席には元刑事の山崎さんも同行したが、取調官らに囲まれておびえる二男に「本当のことだけを話せ」と念を押した。

「新聞配達の手伝いが嫌で火を点けたのではないか」

当時の具体的なやりとりについて本人はパニック状態もあって記憶から失われてしまったと振り返っている。結局、火事は放火ではなくコタツの火の不始末ではないかとして処理された。この火災により、二俣事件などに関する独自の捜査資料もすべて失われてしまった。

 

下の記事では山崎氏の妻が事件後の暮らしぶりや氏の人柄を証言している。弱い人、苦しむ人を助け、不正には手を染めない、清廉潔白なひとだったという。

news.yahoo.co.jp

 

下の記事では、一家殺しで生き残った長男が事件について振り返っている。

事件当夜は湯豆腐を囲み、寒さでぐっすり寝入ってしまい、事件直後の出来事はショックで記憶から抜け落ちてしまったという。だが2つの棺に、父と長女、母と二女が収められた光景は忘れられないという。

事件後、長男は伯父の許で高校卒業まで育てられ、二人の弟は神職だった母方の祖父の縁で別々の家に引き取られて育てられることになった。

www.at-s.com

 

大橋家を崩壊に追いやり、国警の横暴を告発した元刑事らの人生をも狂わせた事件の真相はいまだ解明されてはいない。

事件から四十年余、齢八十を控えて大病を患い、気落ちしていた山崎さんに長女は言った。

「事件のこと、刑事時代のことを書いてみたら。書き終えたら本にしてあげる」

山崎家では二俣事件のことは大きなわだかまりとなり長らく話題にしてこなかったが、娘の言葉を受けて山崎さんは筆をとる。その結晶は地元の版元で『現場刑事の告発 二俣事件の真相』という一冊の本となり、近親者に僅かな部数のみ配られた。

前半パートが二俣事件の一家4人殺し発生から一審を終えて精神疾患の烙印を付されるまでの記述、後半パートは『山崎巡査奮闘記』と題された二俣事件より以前の警官時代の記述である。前半パートには、当直番で二俣署に詰めていた1月7日早朝の第一通報を受けてからの行動が事細かに記され、聞き込みや町の人びととのやりとりがありありと描かれている。

本には山崎さんが真犯人と見立てた人物の名が記されており、再販は絶対にかなわない。作中では、S少年が犯人ではないこと、自分は事件直後からさる人物に引っ掛かりを感じたこと、現場状況の不自然さと町の噂、いくつかの手掛かりと漏れ聞いた情報によって納得のいく見立てが完成し、やはりさる人物こそが真犯人に相違ないと示される。

真犯人の見立てに関する箇所を要約抜粋。

 

・近隣住民に聞けば6日の夜8時半頃に、鶏を絞めるときのようなケッーという寒気のするような声を聞いていた。時を同じくして山崎刑事自身も被害者宅の前を通りがかり、窓からこぼれる灯りを目にしていた。

・長男が惨状に気づいた時刻から、署に通報が入るまで1時間以上かかっている。

・現場に駆けつけた山崎刑事が赤ん坊はどこだろうと探していると、さる人物が現れて「そこだ、おふくろの下にいる」と言う。刑事が赤ん坊の手に触れるとまだ温かかったので「オイッ、生きてるぞ」と叫ぶと、さる人物は「死んでる死んでる、死んでるはずだ」といなした。「おばあさんはどうか」と言うと、さる人物は「生きてる生きてる」と言い、家族の安否をすべて確認済みであった。

・寝たまま起きない祖母に事情を聞こうとすると、さる人物は可哀そうだから寝かせておいてやれと言う。後から祖母に聞けば「昨夜は一郎に枕を直してもらった」と話したが、夢現で別人と見間違えたのではないかとも思える。

・台所には一郎さんが作りかけていたあんこが残っていたが、生地になる粉やコメの類が見当たらない。盗るものもないような家で荒探しされたような跡も不審に思われた。

・殺人事件に不慣れな上司は、親族や子どもたちを一堂に集めてメモも取らず、わいわい騒ぎながら聴取をしている。

・近隣の噂によれば、以前から立ち飲み屋を出したいと話していたさる人物が金目当てにやったのではないかという。警察が到着する前にさる人物の妻が家の荷物を持ち出していたという。そのせいで部屋は荒らされ、コメや麦さえ持ち去られたらしい。

・土間にマッチ棒の燃え殻が散らばり、黒い布のような燃えカスがあった。以前読んだ「犯人の呪(まじな)い」という本で、ある地方では人殺しが逮捕を免れるため、被害者の血を付けた布切れを燃やす習慣があるとあった。さる人物の妻はその地方の出身者である。

・経験則によれば、若者の犯行であれば現場に頭髪が落ちていることが多く、年配者であるほど少ない。現場にそれらしい頭髪は見つからなかった。

司法解剖の経験のない町医者は、刺創が生前のものか死後のものかも判別できていなかった。

・短刀の捜査で、出所となった楽器工場に勤めていた「O」を特定した(Oは短刀と工場の木材、皮革を用いて匕首を自作したことを認めたが、以前紛失したと説明。事件当夜にアリバイがあり容疑が晴れた)

・さる人物は左手親指を負傷していた。出し入れのあった箪笥の引き出しを確認すると、右手に当たる箇所は血糊が薄れているのに対し、左手親指に当たる箇所の血糊はべったりと残っていた。さる人物は殺害時に怪我を負ったものと想像された。

・試しに現場で夜明かししてみると、夜10時半頃から午前三時半頃までは拍子木を打ち、ジャランジャランと鈴を鳴らす音が方々から響いていた。3年前の大火以来、夜警が廻っており、ちょうど現場付近が東西の夜警衆が行き交う地点だった。

・紅林警部補に容疑の点を一つ一つ説明したが、「捜査というものはなあ、そう深く考えてはだめだよ。もっと簡単に考えればよいのだよ」と一蹴された。

・M巡査部長に具申したが、諦めるよう諭された。紅林警部補が旅館でさる人物の妻から3万円ないし5万か6万円ほどの金を受け取っているところを見かけたという。曰く、幸浦でも同様の収賄があったとし、捜査など真面目にする気になれず「3か月かかって偽物をデッチ上げたんだよ」と。

 

それは正義のために全身全霊で捜査に打ち込んだ一刑事の記録であり、国警の前に屈した元刑事の遠吠えでもある。法廷で言い尽くせなかったことを、当該人物も多くが亡くなった後、子どもたちも独立して自分の生い先を悟ったからこそ生み落とされた決死の手記である。

だがさる人物が真犯人かといえば、決定的な証拠はなく、予断が入り混じった刑事の勘が大きなウェイトを占めているように見える。さる人物たればこそ腑に落ちるところもあれば、一刑事の独白であるが故の消化不良も残る。山崎さんがどこまで調査裏取りができていたのか全て焼けてしまった今となっては分からないし、文中には事実誤認もいくつか確認できる。

 

 

管賀江留郎氏による二俣事件本の集大成ともいうべき『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか—冤罪、虐殺、正しい心』では、山崎さんが1975年の島田事件支援グループの会合の場で、本と同じような内容の話をしていたことが報告されている。カンペもなしに4時間にわたって講談調に語り聞かせ、数十人もの関係者や日付、年齢までも極めて正確だったという。つまり本を著す段になって組み立てられた話ではなく、長らく本人の記憶に刻み込まれている「真実」であることは間違いない。

しかしそれとて事件発生から25年後のことであり、家屋全焼から14年後の話である。その全てが事件当時の記憶に基づくとは断定しえず、裁判後の独自調査や冤罪研究を踏まえて肉付けされて完成した話なのか、どういう順序や経緯で気づきや確信が芽生えていったのかは正確なところは分からない。紅林警部補の収賄の噂ひとつとっても証拠は残されていないのである。

人の記憶は生きている。ときに誤り、修正され、場合によっては事実から遠ざかり、他意なく歪められるのが真実というものである。

巧みなレトリックが凝らされた序盤、捜査への熱意と遵法精神が込められ筆の走った中盤に比べ、自身の逮捕に至る終盤でその筆先には混迷の色が滲んでいる。郷里に戻って以後も独自調査や人的交流、継続していた事件裁判などによってもたらされた学びや気づきがあったにはちがいない。だがおそらくは事件によって社会から断絶された現在の境遇と地続きの部分を書き進めていくことができなかったのではないか。

神仏の加護を祈る信仰心にはどこかしら帝銀事件で獄中死した平沢貞通氏のように脆く危い存在に思え、「正義は勝つ」と繰り返す行間には己の負けを悟ってしまったかのような儚さを感じる。死刑囚さながらの窮地に追い込まれ、それでも自分を奮い立たせなければ前に進んでいくこともできなかった孤立無援の心境が窺われる。

この本が真犯人や紅林氏ら死者に対してぶつけられたものだったのか、自分の妻、子や孫、被害者遺族に捧げられたものだったのか、あるいは己の正義感を目の前の紙に投影したものだったのか。事件の真相とは何なのか―—深く考えさせられる。

 

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、ご遺族の心の安寧を願います。

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/714/055714_hanrei.pdf