いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ジャネット・デパルマ怪死事件について

1997年、地元の奇妙なスポットや伝説を伝えるミニコミ誌「ウィアード・ニュージャージー誌(Weird NJ magazine)」に届いた一通の投書により、すでに地元でもほとんど忘れられていた25年前の不可解な事件が掘り起こされた。

 

愛読者であったビリー・マーティンから届いた手紙は、「スプリングフィールド近くのフーダイル採石場で、儀式の犠牲とされるものがあったと思います。地元の犬が体の一部を飼い主に持ち帰ったことから捜査が始まった。それが本当なのか、それとも地元の言い伝えなのかは分かりませんが…」という不確かな情報に基づく調査依頼のような内容だった。

同誌は長年にわたって追跡取材を続け、共同創設者のひとりで編集者のマーク・モランは特派員ジェシー・P・ポラックと共にその事件の顛末を2015年『“悪魔の歯”に死す(Death on the Devil’s Teeth)』として上梓した。

追跡調査はネット記事によって拡散され、事件マニアの間で広く注目を集めることとなり、様々な議論を巻き起こした。

weirdnj.com

Death on the Devil's Teeth: The Strange Murder That Shocked Suburban New Jersey (True Crime)

 

事件の発生

1972年の新聞記事によれば、9月19日、ニュージャージー州ユニオン郡スプリングフィールドのウィルソン・ロードにある集合住宅地である飼い犬がどこからか大きな骨のようなものを咥えて帰ってきた。犬がじゃれつく「獲物」に気づいた飼い主が見とがめると、それは人間の右腕だった。驚いた飼い主はそれをバッグに保管して警察を呼んだが、集合住宅地周辺で遺体は発見されなかった。

大掛かりな捜索隊が組まれると、ほどなくワチュン居留地とバルタストール・ゴルフクラブの間にあったフーダイル採石場跡地(現在では州間高速道路78号線が通過する一帯)を囲む森の中で、右腕の失われた遺体が発見される。


見つかった遺体は腐敗が進んでいたが、着衣や歯型鑑定により6週間前から行方不明となっていたユニオン郡スプリングフィールドのクリアビュー・ロード4番地に住むジャネット・デパルマさん(当時16歳)と判明する。

パルマさんは、8月7日(月)の夜はバイトの予定があったが、その前に「友人の家に行く」と母親に告げた。普段は母親が車で駅まで送ることが多かったが、その日は申し出を断った。玄関を出る姿が最後の目撃となり、翌日、家族から捜索願が出された。

家の経済状況はミドルアッパークラスに属し、不自由はなかった。3男5女の8人きょうだいで、彼女は下から2番目だった。色恋や反抗期があっても不思議はない年齢であったが、家族に思い当たる節はなかった。その後も家族は周辺捜索を続けながら吉報を心待ちにしていたが、娘からも警察からも連絡は入らなかった。少女の16歳の誕生日から僅か4日後に起きた悲劇であった。

 

非協力な警察と匿名読者のもたらす噂

1997年10月にウィアード誌が投書記事を掲載して以来、事件を知っているという匿名読者たちから手紙が届き、現場状況などについて不可解な噂をもたらした。

 

・事件が起きるまでよくキャンプに訪れていたが、警官だった叔父があそこに立ち入るべきではないと警告しに来た。聞いたところでは、事件の詳細はその後も公開されなかったらしい。

・遺体は枝や丸太で組み合わされた棺のような囲みの内側に見つかり、周囲には枝木を組み合わせた十字架がいくつも配置されていた。

・遺体を囲むように切断された動物の瓶詰遺体が置かれていた。

・遺体は木でできた五芒星の上に横たわっていた。

・あの地域には魔女が住んでいると噂があった。

・周辺の木々に道標のような矢印が刻まれていた。

・失踪から2週間余りは彼女の噂でもちきりだったことを覚えている。犯人が見つかった訳でもないのに以降めっきり語られなくなったのは、それ自体が異常なことだ。

 

72年当時の僅かな報道を掘り返していくと、その不可解な事件は確かに存在した。

腐敗した遺体は、地元では「悪魔の歯」と呼ばれる高さ40フィートの崖の林野で見つかり、すでに傷みが激しかったこともあって身元はすぐに特定できず、歯科記録によって判明したことが判った。外出時と同じ青いシャツ、ベージュ系のズボンを履いていた。

遺体に骨折、弾痕、大きな外傷は確認されず、凶器等も発見されなかったため、詳しい死因は分かっていない。すでに腐敗と浸潤が進んでおり、精子や血液の検出、付着物の確認はできなかったため、強姦被害も明らかではない。後に公開された剖検書には「下着の中から第三者の陰毛は発見されなかった」とだけ記されている。遺体からは異常な量の鉛成分が検出されたが、それにも納得のいく説明は見つからなかったという。

ウィアード誌は更なる調査のため、地元警察にアクセスして捜査の進捗を教えてくれるよう頼み込んだが、その度に強い抵抗に遭い、末には「1999年のハリケーンで捜査ファイルも証拠品も水没し、損壊した」と突き返される始末だった。未解決であるにもかかわらず、もうその事柄には触れてくれるなとでもいう警察の態度は不信感を抱かせた。

 

被害に遭った少女は「ごく普通のティーネイジャー」と評され、物静かだが親切で、ユーモアとやさしさを備え、親友に対してよき隣人でありながら毅然とした態度をとることもあったとされる。ロック音楽が好きで、時々はパーティーにも参加した。ストレートヘアが流行っていたため、くせ毛を矯正しようと日々努力を重ねていたという。

家族は66年にニュージャージー州ローゼルから越してきたが、それほど社交的ではなかったとされる。理由は定かではないが、越してからはカトリックからアセンブリーズ・オブ・ゴッド・福音教会(ペンテコステ派)に改宗し、熱心に奉仕に努めていた。

キリスト教組織としては20世紀初頭に誕生した比較的新しい宗派で、全国で9番目の規模と決して異端な宗派ではない。宗派の特徴としては、信仰によって精霊による賜物(バプテスマ)として異言(グロソラリア。神の言語)を話す権利を有し、使徒として大使命(世界に福音を示すこと)を果たすことができると考えている。

だが伝統的にカトリックを信仰したイタリア系アメリカ人社会で改宗は珍しいことで、親族には「二級国民扱いされていた」と被差別意識を主張する者もいた。

 

当時の時代背景に目を向けると、60年代後半から反戦運動や保守的規範へのカウンターカルチャーとしてヒッピー・ムーブメントの一大潮流があった。若者を中心として消費社会や近代合理主義に対抗し、自然主義への回帰をそのライフスタイルで表現した。

更に反キリスト主義は、東洋思想、神秘主義サイケデリックドラッグ、セックス革命、サイエントロジー、終末思想などとの接近をもたらし、グループ独自の理想郷を求めて各地でコミューンが営まれた。最たる負の事例として、カルト教団マンソン・ファミリーによる連続殺人などの悲劇を生んだことでも知られる。

その一方でキリスト教保守派からもヒッピー・ムーブメントに触発されるかたちで、70年前後にジーザス運動と呼ばれる信仰復興運動が起こっていた。事件前の72年6月には大学生向けの社会活動・伝道団体キャンパス・クルセイドと共催でダラス・コットンボウルスタジアムを貸し切って音楽と伝道のための学生会議「Explo’72」を開催し、一週間で8万人もの学生参加者を集めている。メディアは「クリスチャン・ウッドストック」として肯定的に大きく取り上げた。

 

被害状況、犯行動機や容疑者がはっきりしないなか、一部のメディアは彼女の信仰とそうした世相をこの怪死事件に絡めた。

殺人捜査が魔術カルトに光を当てる

ニュージャージー州エリザベスタウンで発行されていた「デイリージャーナル紙」の記事は、「少女の死に関する捜査は、黒魔術と悪魔崇拝の要素に焦点を当てている」と伝え、管轄署の署長による「署の何人かが(捜査協力のため)魔女を連れて行ったと聞いているが、それについては何も知らない」との発言を引用している。記事はカルト宗派の魔術集会によって生贄にされたのではないかという儀式殺人説を提起していた。

被害者が通った教会の牧師も個人的な見解だとした上で、「彼女は信仰が厚く、友人たちにも神の教えについて話し聞かせていた」「その信仰心ゆえに(敵意を抱いた)悪魔崇拝者によって捕らえられたと信じている」と語った。

 

現場に近接するワチュン居留地はユニオン郡でも最大の自然保護区域で、固有種や希少動物も生息する手つかずの自然が多く、原住民の壁画洞窟や初期入植者の廃村跡など現代人にとってはミステリアスなシンボルが点在する。そのような場所に神秘のルーツを、あるいはオカルティックな陶酔感を求めて悪魔崇拝者や魔女が集っていたとしても不思議はないように思われた。

警察までもが蓋をしようとするその背景には、町が「第2のマンソン・ファミリー」や「魔女集会の巣窟」と喧伝されることを危惧したとも考えられた。マスコミが事件をセンセーショナルに報じれば、更にそうした集団の流入を招く恐れもあり、「町の平和を守る」ために事件そのものを隠匿したのではないか。

北米において住宅はステータスの側面が強く、社会的成功を見込める家庭では役職や企業の規模、ライフステージの変化に応じて、元の家屋を売りに出して新居を購入する機会が多い。高級住宅街において「治安の良さ」が付加価値となるため、住民側は資産価値を、自治体の側も町のブランドを守ろうとする。時代的に見てもそうした風評に対して過剰な防衛策をとったとしてもおかしくない。

しかしインターネットの普及以前にも拘らず、皮肉なことに事件そのものが忘れ去られても尚、四半世紀にわたってユニオン郡内でその「奇妙な噂」はしずかに継承されていたのである。

 

ジョン・リスト事件

パルマ事件発覚の10か月ほど前、同じニュージャージー州の高級住宅街ウエストフィールドで凄惨な一家5人殺しが発覚し、センセーションを呼んだ。

1971年11月、ヒルサイド431番地、会計士ジョン・リストの邸宅では、昼夜を問わずクラシック音楽が鳴り響き、夜は明かりが灯っていた。元々近隣住民との交流はあまりなかったが、家族を訪ねて度々来客があるようだがひと気がないとして警察に相談が寄せられていた。

12月7日になって警官が無施錠の窓を見つけ、邸宅に立ち入ると、ホールに並べられた寝袋の上に妻へレンと3人の子どもたち、2階寝室からはジョンの母エルマの射殺死体が見つかった。部屋は腐敗を防ぐために冷房がかけられたままで、凶器は9mmシュタイアー小銃、コルト22口径リボルバーであった。

学校へは病に伏している母方の祖母を見舞うためにしばらくノースカロライナ州に行くと休暇が届けられていた。牛乳、新聞の配送を断り、郵送物も局留めにするよう手続きが取られていた。

事件の発生は11月9日とみられ、ジョンは子どもたちが学校に出た後、母親と妻を射殺。帰宅した二女と二男を立て続けに後頭部から撃ち抜いた。自ら作ったサンドイッチを携え、車で銀行に出向いて自身と母親の口座を閉鎖する手続きを済ませた。長男の通う高校へ行き、彼のサッカーの試合を観戦した。帰宅後、長男を手に掛けようとしたが抵抗に遭い、何度か不発を繰り返したが事を成し遂げた。

 

リストの書斎机には地元教会の牧師宛に殺害を告白する5ページの手紙が残されていた。

仕事の失敗による解雇や多重債務により経済的破綻に陥ったことや、子どもたちは趣味にうつつを抜かして宗教的成長が見込めないこと、貧困によって悪意が蔓延れば家族が神の御心から離れてしまうため、そうなる前に家族を天国に送り出すことこそが唯一の「救済」である、と自己の行いを正当化する内容であった。

John List Family

リストは会計管理者として企業を渡り歩き、65年にはジャージーシティ銀行の副頭取兼監査役の座にまで就いた。敬虔なクリスチャンで日曜学校の教師も務めていた。立派な邸宅を構え、子どもたちも成長し、傍目から見れば社会的成功をおさめて満ち足りた生活のように見えたかもしれない。

だが内向的でプライドが高かったリストは、銀行閉鎖により失職したことを家族に打ち明けることができなかった。

妻へレンは長らくアルコール依存と(前夫による)梅毒に冒されており、「無精で偏執的な隠遁者」へと変貌していた。しばしば公の場で夫の性的能力に不満を漏らして屈辱を与えていたと言い、彼女の理解を得て共に新たな生活を築いていくことは絶望的に思われた。

男はようやく築いた成功者としての暮らしを手離すこともできず、生活保護の受給をも拒否していた。普段通り出勤するふりをして駅で新聞を読み耽りながら、母親の銀行口座から生活費を工面していたことを手紙で告白した。

 

犯行は極めて理知的に遂行され、現場はきれいに片づけられており、写真からは自身の顔を全て切り抜く周到ぶりだった。点けっぱなしにされていたラジオのキリスト教系チャンネルは偽装工作というより家族に捧げるレクイエムにも思われた。

リストの車がニューヨークのJFK空港で見つかり、本人の搭乗記録は見つけられなかったが「高飛び」とも推測され、全米に指名手配がかけられた。失踪直後に起きたハイジャック事件では、自暴自棄になったリストの犯行ではないかとも疑われ注目を集めた。

72年8月に無人となっていた邸宅は放火されたが、74年には同じ場所に別の邸宅が建てられた。彼はドイツ系アメリカ人でドイツ語を解することから国際手配までなされたが、消息は18年間ほぼ完全に途絶え、もはやコールドケースかと思われていた。

 

しかし捜査当局は、1989年に開始されたFOXテレビの公開捜査番組『America’s Most Wanted』に掛け合い、事件の再現ドラマ製作と追跡調査を依頼。

発見された2枚の写真を手掛かりに復顔を再現し、事件から18年経った「64歳現在のジョンの胸像」が公開された。ジョン・リストは敬虔なルター派信徒でその教義から整形手術はしていないと推測されていた。また心理学者は、成功の日々に執着して、若い頃と同じ眼鏡をかけるのではないかと理論づけた。

5月の放映は全米でおよそ2200万人の視聴者があった。その反響の中でバージニア州リッチモンドに住む女性から「隣人のロバート・クラーク氏に驚くほど似ている」という通報が入った。彼は会計士の仕事をしながら教会に通っていると付け加えた。

 

6月1日に逮捕され、ニュージャージー州当局に引き渡された男は半年以上にわたってロバート・クラークだと維持し続けたが、軍歴や指紋、現場で得られた証拠を突き付けられて、90年2月16日に自白を開始する。

ジョン・リストは2度の従軍によるPTSDの影響と失意とプレッシャーによる心神喪失だったと述べ、弁護側は牧師に宛てた手紙は秘密通信の暴露に当たり、法的証拠性をもたないと主張。

ニュージャージーからは電車でミシガン州へと移動し、その後、72年からデンバーに定住し、85年に陸軍のPX(基地内販売店)事務員のデロレス・ミラーと教会で知り合って結婚。夫婦は88年にバージニア州に引っ越して新たに会計事務所に勤めていた。

精神鑑定では強迫性パーソナリティ障害と診断され、「権威主義的な父親像」からの逸脱を忌避するために家族の殺害を正当化していると推察された。裁判所は被告人、弁護側の主張を斥け、第一級殺人5件すべてに州の最高刑となる終身刑を下した。


2002年にリストははじめてABCニュースの獄中インタビューに応じ、「汝殺すべからず」の教えに反した行動を深く反省し、許しを求めて祈ってきたと後悔を語った。なぜ自らの命を絶とうとしなかったのかと問われると、家族との再会を願っていた、自殺すれば天国に行くことは叶わなくなると述べた。その言葉は、牧師への手紙や裁判当時からほとんど認識のブレがない利己的な保身のように思われた。

ジョン・リストは肺炎をこじらせて医療センターに移送されたが、2008年3月に82歳で死亡した。逮捕に重要な役割を果たしたフランク・ベンダー制作の胸像はテネシー州アルカトラズ東部犯罪博物館に所蔵されている。

 

社会的成功者がファミリー・キラーへと変貌した本事件はニュージャージー州でも最も悪名高い事件のひとつとなった。ウエストフィールドはデパルマの暮らしていたスプリングフィールドから数マイルで、同様に「治安のよいエリア」と認識されており、事実、1963年以来ほとんど暴力犯罪が記録されていなかった。警察組織に凶悪犯罪の経験の蓄積がなかったことも両事件の捜査混迷の一大要因だったと見ることができる。

ともすればデパルマ事件後に警察署長がメディアに漏らした「魔女発言」は、証拠に基づく捜査状況というより、犯人の目星がつかないこと、自分たちの手には負えない事件であることを暗に示唆していたのかもしれない。

 

スーサイド・タワー

ワチュン居留地の南東に位置し、ユニオン郡スプリングフィールドに隣接するマウンテンサイドでは「スーサイド・タワー(自殺の塔)」と呼ばれるいわくつきのスポットがある。具体的な心霊目撃などの報告こそないが、実際に1975年1月16日、地元高校生グレッグ・サンダース(15歳)が自宅から800メートル離れた山の中腹にある給水塔から飛び降り自殺をしていた。

スーサイド・タワー

少年は名門私立校に通う優等生で、学友たちから慕われていた。学校関係者や家族の知人らは異変や事件の予兆らしきものはなかったと口を揃えたが、自殺を遂げるばかりか、少年は斧で両親をも殺害していた。

警察の見立てでは、現場となった自宅室内の状況から、銀行の副頭取をしていた父親トーマス(48歳)は夜9時ごろにリビングで襲われたと推測されている。キッチン方向に逃げのびようとしたが、三度にわたって斧で追撃を受け、身動きできなくなったところを更に8回ほど殴打されて絶命したものとみられた。母親ジャニス(44歳)は2階の寝室で夫の騒ぎを聞きつけ、階下に降りたところを襲われたと考えられたが、近隣住民で物音などに気付いたものはいなかった。

少年は最終的に手首を切り、遺書を手書きした後も死にきれなかったのか、高さ150フィートから転落することを選んだ。被疑者死亡により、犯行動機は明らかではないが、自殺して両親を悲しませることを避けるために先に殺した心中事件と信じられている。捜査関係者は、家庭に何か問題があった、少年に殺害や自殺する動機があったとしても、両親にしか知りえないことだと述べた。

 

だが一部報道では、級友の証言として次のような内容が伝えられた。授業中に騒ぎを起こして教師から注意を受け、そのことで教科を減点する旨のレターを両親に渡すようにと命じられた。グレッグは友人に「教師を殴ってもいいし、レターに細工をしてもいいし、自殺してもいい」と自らの選択肢を語っていた、と。

当時のメンタルヘルスケアの遅れや周囲の人々の不理解によってもたらされた悲劇と捉える見方もある。級友証言とされるものが事実か否かは定かではないが、「動機は両親しか知りえない」とした捜査関係者発言には、やはりどこか捜査熱意の低さも感じさせる。

そして少年や家族に「兆候はなかった」とするエリート社会の人間関係の中にも、安定した暮らしに「波風を立てずにおきたい」、事件と「関りになりたくない」心理があったのではないかという気がしてならない。

1960年代にできた貯水槽には展望台と螺旋階段が設置されていたが、事件後に撤去されている。少年が最期に目にしていたであろう夜景は永遠に封印されてしまった。

 

噂の真偽

ウィアード誌によるスプリングフィールドの退職警官への取材では、ジャネットさんの遺体発見場所は「パーティー会場だった」との見解が繰り返し語られた。

少女は10代の仲間たちとパーティーをし、薬物を過剰摂取したために命を落としたのではないかという仮説である。彼らは自分たちが犯した違法行為(飲酒、喫煙、薬物、乱交など)によって訴追されることを恐れて救助義務を怠り、昏睡した彼女を放置して逃げ去ったと見ていた。実際にジャネットさんの交友筋にも麻薬中毒者が確認されていたというのだ。

無論、社会的立場のある家の子どもたちであれば、法的逸脱が公になることを過剰に恐れもするだろう。そうした説明は、カルト教団による宗教的報復や魔女集会の生贄説に比べれば一般にも受け入れやすい説得力を持つように思えた。

 

ポラック氏はデパルマさんが失踪当日に会いに行こうとした従妹ゲイル・ドナヒューさんへの取材に2014年になって成功した。

ドナヒューさんは前夜知り合った2人の少年と一緒に遊ぶことを彼女に提案しており、デパルマさんは午前中に用事があったため午後1時20分頃に家を出て、母親には駅まで歩くと嘘をついて、8マイルの道程をヒッチハイクで駆けつけるつもりだと話していたという。

こうした証言は、16歳の少女がヒッチハイクや異性を交えたパーティーに抵抗感がなかった証左ともいえる。

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日本の秘密主義な刑事司法と異なり、アメリカでは公共団体の保管する文書や収集した情報は公共財として市民がアクセスする権限が広く認められている。

マーク・モランと特派員ジェシー・ポラック氏は上のような説明のみでは納得せず、真相解明を求めた。彼らの熱意はデパルマさんの甥にあたるレイ・サジェスキーさんの協力を得ることに成功し、専門家の助言を得て、警察の開示拒否に対する不服申し立て、州への開示請求を重ねて申請した。

そこから当局担当者の人事異動やコロナ禍による遅延を経て、2021年、ユニオン郡検察局から事件の捜査記録を入手する。

遺体発見現場を記した捜査官グレン・オーウェンズによる手書きメモは、遺体周辺の折れ重なった倒木を簡易的に描いたものが、偶々四角形を象っているかのように見える程度であった。遺体とともに撮影された現場写真と照らし合わせても、我々がイメージする「棺」や「祭壇」とは程遠い状況で、ひいき目に見てもイラストの稚拙さを「誇張した表現」であった。

また実際の現場に足を運ぶと、退職警官の話からイメージされたよりもはるかに草木が鬱蒼と生い茂った場所で、若者が「パーティー」をするにふさわしくないことは火を見るより明らかだった。

開示された書面にも、遺体周辺で見つかった遺留品はデパルマさんの所持していたポーチの中味(カギ、コンパクト、口紅、櫛、ティッシュ、ヴィックス吸入器、アイシャドウ)、サンダルのみで、家族から財布と十字架のネックレスが所在不明と報告されていた。

パイプや吸い殻、酒瓶や注射器、飲食物の類は一切記録されていないし、動物の死骸入りの瓶や木製の十字架があったとの報告もない。逆に退職警官はなぜ「パーティーで死んだ」という見解にたどり着いたのか見当がつかない。なぜ報道がオカルト的な要素に偏ることになったのか、どうして警察は証拠開示を、事件への再接近を頑なに拒み続けたのかという問題も残されていた。

 

ウィアード・ニュージャージー誌の導き出した結論は、事件そのものにオカルト的要素はなかった、オカルト的要素をメディアに流布することで、あまりにも手がかりの出ない捜査の失敗を揉み消そうとしたというものだった。

当時の地元警察の捜査能力について、私たちは詳細な情報をもたないが、現場状況から合理的に考えれば金銭ないし強姦目的の「流し」の犯行と目星が付く。だが今日のように防犯カメラや携帯電話もない、目撃者すら期待できない山間部で、死因さえ曖昧な死後1か月が過ぎた遺体が見つかっても、犯人の手掛かりは皆無に等しい。

筆者としては、警察組織の意向として揉み消す意図があったというより、捜査員の中にその宗教的意識から悪魔崇拝や魔女に激しい嫌悪を示す者がおり、過剰反応を示していたのではないかと考えている。その手の発言があったことを聞きつけたマスコミ側が誘導して署長の「魔女」発言が引き出されたように思える。捜査に進展がない以上、各紙が手を変え品を変えてコメントを引き出し、単に注目度を上げるために脚色した結果ではないかと推測する。

被害者の年齢から見ても、通報当初から家出人扱いされて真剣な捜索活動が為されてこなかった可能性が高い。そうした後ろめたさからの責任逃れ・批判逃れの側面もあったのかもしれない。

 

事件の現在地

オカルト的な噂の真偽は地方ミニコミ誌の尽力でほぼ解明されたように思えるが、事件そのものは発生から半世紀を経た今も解決されてはいない。

ニューヨーク市で家出人捜索を専門とする私立探偵をしていたキャリアを持つエドワード・サルツァーノ氏は、2010年代になって事件のことを知って調べ始め、被害者の衣類をDNA型鑑定にかけるよう当局に対して訴訟を起こした。遺族関係者でもないため訴訟資格はないとして棄却されたが、ユニオン郡検察局から「殺人特別委員会の捜査は現在も継続されている」との言質を引き出した。

サルツァーノ氏もまた運動能力が高くなかった被害者がサンダル履きで自発的に山に入ったとは考えられないとして「パーティー説」には否定的だ。また犬が咥えてきたというエピソードも脚色の疑いがあり、犯人がその自己顕示欲から右腕だけを住宅街に遺棄したものではないかと主張している。

彼はジャネット・デパルマさんの甥ジョン・バンシーさんらと共に不審死ではなく未解決事件として周知し、当局の捜査を前進させ真相を解明することを目的とした団体Justice for Jannetteを設立し、彼女の名前を冠した奨学金基金立ち上げのための寄付を募っている。

justiceforjeannette.com

 

証拠の欠如、捜査機関による妨害、時間的な風化などによって事件の実態解明は、ようやく振出しに戻った感がある。

だが近年、真犯人として有力視される情報がひとつ報告されている。

 

1980年5月、長年「ニューヨークの切り裂き魔」の異名で恐れられていた連続殺人犯リチャード・フランシス・コッティンガム(当時33歳)が逮捕された。

コッティンガムは売春婦を宿に連れ込み、ナイフを喉元につきつけて手首に手錠をかけ「他の女たちと同じように命令に従え」「お前は売春婦だから罰を受けなくてはならない」と脅迫しながら性的強要と暴行を繰り返した。彼女は男の命令に従うふりをして隙を窺い、枕元に男が隠していた銃を抜き取るとすぐに引き金を引いた。しかし男が脅しに使った銃はレプリカで着火せず、逆に男がナイフを手に襲い掛かってくると彼女は「オーマイゴッド!」と叫び声を上げた。騒ぎに気付いたモーテル従業員が警察に通報し、駆け付けた警官が男に本物の銃を突き付けて御用となった。

 

コッティンガムはニューヨーク州ブロンクスに生まれ、12歳でニュージャージーに移った。彼の父親は保険会社の副社長で、弟が二人いた。20歳からコンピューターオペレーターの職に就き、3年後に結婚し3児を授かった。不倫や精神的虐待、家庭放置などを理由に78年に離婚されたが、逮捕まで仕事は続けていた。

10代から殺人に手を染め、主に売春婦を相手にデートに誘い、アモバルビタールなどをレイプドラッグとして使用し、凶器で脅迫しながら性的暴行や筆舌しがたい拷問のかぎりを尽くした。ときに過剰な拷問が殺人へとエスカレートする場合もあったが、逃走されたり、女性の性的経験不足に腹を立てたりして性交に及ばず殺害することもあった。死亡させた数は100人は下らないと主張しているが、正確な数は判明していない。

殺害されて下水道に遺棄された犠牲者もあれば、モーテルや道端で瀕死のところを放置され、九死に一生を得た被害者もあった。67年から80年までの間に、ニューヨークのほか、フロリダ州コネチカット州ペンシルベニアボルチモア、そしてニュージャージーでの犯行が確認されており、被害者たちから奪った貴金属類をトロフィーと保管していた。

コッティンガムは「女が悪い」という理由で長らく無罪を唱えてきたが、84年までの裁判ですでに二百数十年にも及ぶ終身刑判決を受け、事実上、生きて監獄を出ることは不可能となった。

2000年以降、訴追免除を条件にその他の未解決事件、行方不明事件についても再聴取が行われており、数多の余罪について自白を開始し、裏取り捜査が続けられている。

そうしたなか2021年春、ジェシー・ポラック氏に対し、ヒッチハイク中だったデパルマさんを誘拐して殺害した可能性を示唆する書面を送った。コッティンガムの書面は『悪魔の歯に死す』2022年改訂版に掲載された。

2023年現在、コッティンガムは76歳。検察側は公式に受刑者の犯行と認めるに至ってはいないが続報が待たれるところである。

 

被害者のご冥福を心よりお祈りいたします。

 

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参考

NJ cold case: What happened to Springfield's Jeannette DePalma in 1972

1971 Family Killer Breaks Silence - ABC News

Judge tosses suit seeking DNA testing in teen’s mysterious 1970s death locals thought was satanic sacrifice - nj.com

福井女子中学生殺害事件

中学校の卒業当夜、15歳の少女が自宅で滅多刺しにされて殺害される。物証も自白もないなか、脆弱な目撃証言の積み重ねのみで殺人犯とされた冤罪が疑われる事件である。

 

事件の発生

1986年(昭和61年)3月20日午前1時半頃、福井県福井市豊岡2丁目に住む飲食業・高橋静代さん(当時39歳)が市営住宅2階の自宅に帰ってくると、6畳間で二女・智子さん(15歳)が血まみれになって死んでいるのを発見し、福井署に届けた。智子さんがK中学校を卒業した晩の出来事だった。

静代さんは6年前に離婚して、長女(当時18歳)は父方に引き取られており、スナックに勤めながら二女の智子さんと2人暮らしだった。19日は午前中から揃って卒業式に出席。いったん別れた後、智子さんは17時半ごろに帰宅。静代さんが18時ごろに出勤した後、智子さんはひとりで留守番をしていた。

 

遺体は普段着姿で仰向けに倒れており、右首筋には包丁が突き立てられたままの状態。頭部にガラス製灰皿で殴られた痕跡が認められ、首には二重の条痕もあった。死因は刺し傷からの出血死。着衣に乱れはなかった。刺創は合計でおよそ45か所、とくに右首から顔面にかけて20数か所も執拗に刺されていた。

犯行様態としては、灰皿で頭を殴りつけ、電気カーペットのコードで首を絞めようとした後、上半身にこたつカバーを掛けた上から滅多刺しされたものと推測された。

凶器の刃物は元々家の台所にあった刃渡り約18センチの文化包丁で、首に刺してあったものと傍にあった「くの字」に曲がった包丁の少なくとも2本が使用されていた。

智子さんは21時頃、母親の勤め先に電話をしており、団地の住民らが21時半頃に騒がしい物音を聞いていたことから、死亡推定時刻は21時40分頃と推認された。

留守番の際は施錠する習慣があり、抵抗してできた傷や争った形跡はなかったことから顔見知りの犯行とも考えられた。室内を荒らされたような形跡もなく、検証でも犯人に直接つながる指紋や遺留品などは出てこなかった。

県警はその特異とも言える残忍極まりない犯行の様態から、精神異常者による犯行、被害者と交遊のあった者による強い怨恨、非行グループによるリンチ殺人などの見立てで調べを進めたが、捜査は難航し、暗礁に乗り上げた。

 

証拠なし、自白なし

86年10月下旬、覚醒剤で8月半ばに逮捕され福井署に未決勾留されていた暴力団員Cが「殺人事件の犯人を知っている」などと口走った。当初は警察も相手にしていなかったが、Cは勾留期限が迫るなか「後輩Eが顔や服に血の付いた男を白い車に乗せてきた」と詳しい内容を話し始めた。

殺人事件の長期化による焦りもあってのことか、県警が内偵を進めていく。事件から1年後の87年3月、事件当時21歳だった無職・前川彰司(敬称略)が殺人容疑で逮捕された。

だが前川は被害者と何の接点もないとして、一貫して容疑を否認する。中学時代からシンナー常習の素行不良者として容疑者リストに挙がっており、4月上旬にも聴取を受けていた。だが事件当日は実家に姉家族が来ていたこともあって両親と揃って夕食を囲み、晩も自宅で就寝していたとしてリストから一度は除外されていた。

前川が逮捕されたのは、薬物依存治療のために県立病院から都内のリハビリ施設に移るため退院した直後のことだった。警察は犯行車両として白色の日産スカイラインを報道陣に公開し、助手席付近から被害者と同じ血液型の血痕が出たと発表した。

 

供述した暴力団員C(当時22歳)は前川の中学時代の1学年先輩に当たり、日頃、前川を使い走りにするような間柄だった。Cは面会に訪れた知人らに「殺人事件の犯人を知らないか。犯人が分かれば自分の刑が軽くなるかもしれない」などと情報提供を求めており、同棲相手の女性Dさん宛に「前川のことをよく思い出してくれ。俺の情報で逮捕できれば減刑してもらえるから頼むぞ」と協力を請う手紙を出していた。

Cから「Eが車で血の付いた前川を連れてきた」と名前の挙がっていた後輩のEは犯人蔵匿の容疑で逮捕されたが、否認して、10日余りで釈放された。だがEの証言から前川の送迎に使用されたのは、シンナー仲間のF(27歳)が人から借りて乗っていた白いスカイラインと判明し、助手席ダッシュボード付近から血痕が検出されたのである。

暴力団員C、その同棲相手Dさん、シンナー仲間のF、Cの関係者らの供述には食いちがいが多かったが、当時は薬物の影響下にあった等として内容を次々に変遷させた。警察はそれらを基に、前川が事件当夜に現場の団地を訪れ、返り血を浴びて戻ってきた旨、以下のような筋書きを組み上げていった。

3月19日21時頃、前川がDさん宅を訪れ、Cからシンナーの一斗缶を受け取ってその場を去った。そこに偶々スカイラインに乗って現れたシンナー仲間Fに同乗させてもらい、シンナー遊びに誘い出そうと被害者宅の団地へと向かう。Fは車中で待っており、前川さんが単身で智子さんを誘ったが、無下に断られたことから激昂して殺害。

前川は返り血を浴びたまま車に乗り込み、市内に住む義兄の家へ向かうも留守だったため、助けを求めようと再びDさん方にCを訪ねた。しかしこのときCは不在で、前川はDさんに頼んで暴力団事務所からポケットベルを使ってCの居場所を聞き出してもらう。前川とFはCがいるというゲーム喫茶に向かったが場所が不案内だったことから、Cの後輩Iが近くまで出迎えにきて店まで案内した。

ゲーム喫茶で前川らはCと落ち合うが、その晩Cは組員Gと共に覚せい剤取引の用事があった。その後、近くに住むHさん宅(組員Gの同棲相手)に転がり込み、CとGらは覚醒剤を使用、前川はシンナーを吸引した。CはまたDさん方まで来るように言い残してその場を離れ、前川は20日6時頃にDさん方に到着。前川はDさん宅でシャワーを借りて午後まで眠った。15時頃、Cが前川を自宅に送る際、血の付いた着衣等を袋に入れて近くの底食(そこばみ)川に捨てたという。

 

しかし川からそれらしき着衣は発見されず、暴力団員C絡みの証言はどれも曖昧で、客観的な裏付けは皆無だった。前川は自白の強要にも折れることなく無実を主張し続けたが、勾留期限と共に起訴され、鑑定留置へと移された。物証もなければ自白もない、悪友らの脆弱な目撃証言のみによって殺人容疑をかけられたのである。

 

逆転有罪

弁護団は当初から見込み捜査による冤罪との見方を強めた。立ち上がりは早く、一審公判から不当逮捕と証拠の欠如を追及した。

検察側が唯一の物証としたのが、2本の毛髪だった。現場から採取されていた毛髪99本のうち母娘とは明らかに異なる毛質で、検察側鑑定では「被告人のものと同一」とされた。DNA型鑑定のない当時では、血液型と性別、高齢か若者かは大別できても、個人識別までは不可能というのが法医学上の常識であった。指紋のような絶対的な同定基準はなく、似ているか否かの判別は鑑定人の経験や力量に左右されることから人物同定の証拠能力は認められていない。また現場に男の毛が2本落ちていたとて、それだけで殺人犯と断定しうる証拠とは言えない。

当初「逮捕の決め手」とされた犯行車両の助手席ダッシュボード下から検出した血痕について、血液型は一致したものの、詳細な検査で被害者とは異なるものと判明していた。しかし検察側は公判で裁判官に促されるまでその事実を隠蔽していた。捜査当局が手にした2つの物証は共に否定された。

被告人質問で前川は「机にぶつけられたり、髪の毛を掴んで引っ張り回された」といった自白強要の実態を語り、取り調べの不当性を訴えた。

証人尋問では、C供述を覆す波乱が起きた。同棲相手Dさんがそれまでの供述を破棄し、Cから送られた「前川を犯人とする証言があれば減刑を見込める」旨の手紙の存在を暴露。彼女が聴取を受ける際にも警察からC供述に沿った誘導尋問があったことを明らかにした。起訴事実の根幹となるC供述の屋台骨が折れたことで前川犯人説は瓦解した。

 

福井地裁(西村尤克裁判長)は、毛髪の証拠能力を認めず、C供述をはじめ証人6名の捜査段階から公判に至るまでの変遷ぶりから返り血を浴びた前川を車に乗せたとする各証言の信用性は低いと判断。1990年9月26日、検察側の求刑13年に対して無罪判決を下した。

Cが未決勾留時に供述したこと自体、自身の処遇改善や量刑への配慮をもとめていた疑いがあるとし、他の証言者についても重要な事項についても大きな変遷があり、記憶にないにもかかわらず「捜査当局に迎合した疑いが強い」と西村裁判長は結論付けた。

過去の冤罪事件においても、証拠の改竄や捏造といった捜査機関によるでっちあげは知られるところであった。だが平素より警察に尻尾を握られている素行不良者や、懇ろな関係にある暴力団員の「口」を使って架空の筋書きを証言させるというのは強引すぎる荒業と言わざるを得ない。

Cは手紙でDに情報を求めた(『冤罪白書2019』(燦燈出版)より)

しかし控訴審名古屋高裁金沢支部(小島裕史裁判長)は、前川らを喫茶店に案内したとする後輩Iの法廷証言を重視。またC供述についても覚醒剤取締法違反容疑での取調べはすでに終了していたため自己利益のための供述とは言えないと判断し、内容に間々変遷はあるが大筋で一貫しており信用できると事実認定に傾いた。量刑判断として、前川にシンナー濫用による心神耗弱状態にあったことを考慮し、95年2月9日、小島裁判長は懲役7年を言い渡した。

前川は捜査段階から事件現場に行ったことがなく、被害者とも面識がないと主張してきた。両者に面識があるとするのは、暴力団員Cが「前川の手帳に彼女の名前と電話番号が書き込まれているのを見た」とする証言、また前川の友人のひとりが「事件前にドライブ先で被害者をシンナーを吸引する子だと前川に紹介したことがある」という証言のふたつだけだった。被害者の名前などが書かれた手帳なるものは証拠提出されていない。それにも拘らず、前川が被害者と旧知だったとする見解は支持され続けた。そもそもの無関係を立証するにはまさしく「悪魔の証明」が必要とされたのである。

 

暴力団員Cがすべてひとりで前川犯人説を組み立てて当局がそれを全て鵜呑みにしたとは到底思えない。誘導、強要、司法取引などのかたちで捜査当局が癒着し、協力体制を敷いていたことはもはや疑う余地もなきように思われた。聴取の際に勾留中のCと接見させられて脅かされ、供述内容のすり合わせが行われたと語る証人もいた。

ことゲーム喫茶に案内したとされる後輩Iについても、一審では「事件当夜は(ゲーム喫茶には行かず)うどん店で知り合いが喧嘩するのを見ていた」「帰り道の検問で殺人事件のことを知った」と事件との関係を否認していた。それが控訴審に至ってC供述に沿うかたちで「スカイラインを運転してゲーム喫茶に案内した」内容へと変移した。

控訴審当時、後輩Iは交通死亡事故を起こして業務上過失致死で送検されている最中で、案内証言をした94年3月31日、罰金40万円の略式命令を受けた。証言の前日、Iの略式請求を行ったのは福井地検でも通常なら交通事犯は担当しない三席検事だった。弁護団はこうした背後に利益供与、司法取引が行われた疑惑を指摘している。

 

1997年11月12日、最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)は全員一致で控訴審判決を追認し、上告を棄却。被告人と被害者との関係性も確固たる裏付けのないままに、大筋論として検察側の主張が認められた。

前川は薬物依存症治療のため医療刑務所に服役し、弁護団は再審請求に向けて再編成された。

 

再審請求と現在地

前川の父親・礼三さんは三審を経ても尚、息子の潔白を固く信じていた。逮捕当時は福井市の財政部長の要職に就き、将来の市長候補とも目されていたが、事件によって事実上先は立たれた。ときに辞職も考えたというが、それでは息子の非を認めることになると踏みとどまって定年まで勤めあげた。「尾行する警官に息子が冗談を言うような雰囲気だったのに」と現地調査団らに逮捕前の様子を語った。

非行や薬物依存にも匙を投げず息子を支え続けた母親は、警察が尾行についたとき「悪いあそびができなくていいわ」と冗談を言って気丈に努めたという。しかし逆転有罪判決には大いに打ちのめされたらしく、次第に認知症の症状が進行した。

2003年3月6日、刑期満了で前川は出所するが、翌年6月、寝たきり状態だった母親は世を去った。彼女の記憶の引き出しにはどんな息子の姿があったのか。

 

「事件はすっかり風化してしまったきらいはあるが、私の心の中では今なお、冤罪の焔が不死鳥のように燃えている。違うものは違う。やってないものはやってない」

日本国民救援会、日本弁護士連合会などからの支援が決定した前川は、2004年7月15日に再審請求を行う。

主な争点として、時間をめぐる証人の不合理な供述に対して疑問を提示。

日大医学部・押田茂實教授の鑑定から、凶器と認定された文化包丁2本とは刺創の異なる傷が少なくとも2箇所あるとし、犯人が持参して持ち去った「第3の凶器」の存在を主張する。これまで証人の供述に前川が刃物を持っていたとの証言は一度もない。

出血量をめぐる鑑定などからこたつカバーを被せた上からの刺殺では顔や衣服に血液は飛散しないことを指摘し、前川が着ていたとされる「血の付いた衣服」の存否について争う方針とした。

また確定判決では心神耗弱状態における激昂により犯行に及んだと認定されたが、現場には指紋や争ったような跡もなかった。第三の凶器を持ち込み、回収した可能性が高く、血の飛散を避けるためにこたつカバーを用いたとすればむしろ冷静さや計画性を窺わせる。事実認定の内容と合理的な思考力をもつ犯人像とが相容れない点を突くねらいが採られた。

検察側の毛髪鑑定が崩れたこともあり、たとえ前川に被害者宅への訪問が可能だったとしても、現場にいた証拠は皆無である。弁護団は警察が仕掛けた偽計を明らかとするため、徹底的に証拠開示請求を行い、名古屋高裁金沢支部(青木正良裁判長)もそれを後押しした。

2008年2月18日、客観的証拠といえる解剖写真、被害者の衣類、車両から検出した血痕の鑑定書などについて、裁判所から検察に対して口頭と文書による開示勧告が為された。再審請求で文書による証拠開示勧告が為されるのは初めてとされる。検察側は物証の写真撮影を禁じ、法医学者に見せないといった妨害ともとれる駆け引きを続けたが、協議の結果、裁判所内で弁護団と法医学者ら鑑定人が所見するかたちでの開示を容認。

文化包丁より幅の狭い刺創があること(第3の凶器)、出血の飛散はなく犯人が大量の返り血を浴びたとは考えにくいこと、車両に血痕を示すルミノール反応はなかったこと(血が付いたので唾を付けたティッシュで拭いた旨の供述のみ)、現場にはドライヤーの電気コードが鴨居から吊り下げられていたこと(当初犯人が首吊りの偽装工作を試みたとも捉えられる)などが明らかとされた。

伊藤新一郎裁判長に替わってからも、2009年11月12日、目撃者の供述調書について文書による開示勧告が為された。関係者6人分計29通の捜査段階の調書が開示された。これによりC供述の変遷に付随するようにして他の関係者証言も変移していく経過が一層明らかとなった。

 

事件から四半世紀が経った2011年11月30日、名古屋高裁金沢支部は再審開始を決定。

「ほっとしています。言葉になりません」

46歳となった前川はシンナーの後遺症に冒され、富山県内で入院中だった。服役中から本人に代わって再審に向けて奔走した前川の父・礼三さんもこのとき78歳になっていた。「再審の扉が開かれたが、私の仕事もまだ残っている。無罪判決まで頑張りたい」と決意を表明した。

被害者の母・静代さんは、事件後も現場となった団地の一室でしずかに暮らしていた。事件当初は地検の聴取に「犯人が憎い。生き返らせて私に返してほしい」と強い憎悪感情を露わにしていた。

再審開始決定を受けて「何も申し上げることはございません。あの日智子は血まみれになって殺されていました。どんなに怖かっただろうか、痛かっただろうかと思うと今でも胸が張り裂けそうになります」「智子が戻ってくることはありませんが、生きていれば40歳。事件がなければ智子はどんな人生を送っていたのだろうかと思いが募ることがあります」と癒えることのない遺族の思いを書面に綴った。

弁護団は再審開始決定について「法医学的所見に基づいて関係者の供述の信用性を検討した堅実な内容」と評価し、検察側に対し「不利な証拠も公平な立場から見直し、交易の代表者として名誉ある撤退をしてほしい」とすみやかな再審開始に理解を求めた。

再審開始決定の取り消しに憤りを見せる前川彰司さん(2013年3月6日)

 

2013年3月6日、名古屋高裁(志田洋裁判長)は再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、再審請求を取り消す決定を下した。再審開始の理由とされた「新証拠」について旧証拠の証明力を何ら減殺するものでもないと判断。

弁護団は特別抗告するも、2014年12月10日、最高裁判所第2小法廷(千葉勝美裁判長)は抗告を棄却する決定を下し、第一次再審請求が終結した。

 

2022年10月14日、弁護団は第二次再審請求を行った。

 

 

・所感

警察、検察、裁判所は「あってはならないこと」を犯した罪に対して隠蔽する努力をこれからも惜しまないだろう。彼らが人を殺めた訳ではないが、偽装工作や証拠隠しは罪の意識の裏返しと捉えることもできる。前川さんの刑期よりはるかに長い再審開始に向けた戦いは今も続けられている。

事件当時は暴力団も地域でシンナーや覚醒剤を暴走族や非行少年に売りさばく濫用期で、暴対法成立前で地域に強い勢力を張っていた。だからこそ警察も地域の暴力団とは癒着ともいうべき密接な関係にあった。

 

真犯人に思い巡らせれば、ひとつは暴力団員Cが自分の罪を前川さんに擦り付けたことが想像されるだろう。だが被害者との直接の接点は特に浮かんではいない。

被害者が邪な道に染まっていたのか確かなことは筆者には分からない。だが恋人がいても不思議はない年頃であり、周囲の人間関係の影響を受けやすい時期であることも確かだ。中学校が好きであれ嫌いであれ、少年少女にとって「卒業」は大きな意味をもつ。

筆者の憶測としては、暴力団や不良グループに属さない、被害者が思いを寄せる相手が部屋に招かれたのではないかと考えている。智子さんがどういった要件で事件直前に母親に電話を掛けたのか明らかではないが、これから夜遊びに出ようとしていたか、異性を招き入れる直前にした後ろめたさからの「偽装工作」のように思えてならないのだ。

シンナーの症状は初期には多幸感・倦怠感といった酩酊状態が現れる。前川さんのように入院を要する中毒者がその影響下で指紋などに注意を払って犯行ができたとはやはり思えない。むしろ初期には神経を興奮させ、思考や感覚が鋭敏になるとされる覚醒剤の使用があったのではないか。

たとえば学生や定職に就いていて一般に非行少年とみなされず薬物中毒ではない若者が部屋に招かれ、覚醒剤を彼女に勧めた。被害者にそのつもりは全くなく、拒絶された男は衝動的に灰皿で頭を殴りつけた。母親の帰宅時間までに指紋等を除去し、首吊り偽装を図るもうまくいかず、覚醒剤を使用して興奮し、滅多刺しにして現場を去った…といった見立てである。

乱用者であれば似たような事案を再び起こしそうなものだが、事件以降に薬物を断つことができれば捜査の網にもかからず、何事もなかったかのように社会復帰しているかもしれない。

 

「999人の真犯人逮捕のためなら冤罪がひとつくらいあっても構わない」という人はいるだろうか。冤罪は千にひとつも万にひとつもあってはならない権力犯罪である。冤罪により無実の罪で刑に処される人や巻き込まれる家族は当然「被害者」となるが、同時に本来の被害者や被害者遺族をも一層苦しめることになる。

本件で言えば、被害者の母親である。大事な娘を奪われ、憎き犯人が遂に逮捕されたかと思えば、裁判や世論の向きは二転三転し、表立って誰かを非難することさえ許されない。娘に報告してやれる言葉もない。その苦しい胸中は察するに余りある。雪冤が果たされようと、真相解明の道を閉ざした責任をだれもとることもないまま、残された人たちは生きていかねばならない。

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

三重県・北山結子さん行方不明事件について

伊勢市と松坂市に挟まれた三重県明和町で起きた女子高生失踪事件について。少女の遺留品を所持した人物が検挙されるも証拠不十分として釈放されている。

 

初期の捜査から目立った進展はなく、松坂警察署では引き続き情報提供を求めている。事件の関与をほのめかす人物を知っているなど、心当たりのある方はご一報されたい。

三重県警松坂警察署 代表0598-53-0110

www.police.pref.mie.jp

 

事件の発生

1997年(平成9年)6月13日(金)20時30分頃、三重県多気明和町で学習塾のアルバイト勤務を終えた松坂工業高校3年生の北山結子さん(当時17歳)の行方が分からなくなった。

 

結子さんがバイトしていた斎宮(さいくう)駅近くの学習塾には、3歳下の弟も塾生として通っていた。母親は普段軽トラックで弟を塾に送り、ついでに結子さんの自転車を荷台に積んで自宅に運び、20時頃に乗用車で迎えに来て3人で帰宅するというのが常となっていた。

いつも片道10分程の車内で学校や友達の話を聞くのが楽しみだったと母親は振り返る。

しかし失踪当日は軽トラックのガソリンに余裕がなかったため、母親は普通車で弟を送っていくこととなり、結子さんの自転車を持ち帰ることができなかった。そのためこの日は結子さんだけ自転車で帰宅することになった。

友人に電話を掛けた役場近くの公衆電話

また結子さんはこの日、すぐに帰宅せず、近くに住む友人宅でテスト勉強をする約束をしており、家族もその旨を聞かされていた。バイトを終えた彼女は、塾から200メートルほど離れた町役場近くの公衆電話から友人に「あと10分くらいで着く」と連絡を入れている。

しかし23時を過ぎても結子さんが現れず、心配した友人は彼女の自宅に連絡を入れた。

友人宅にいるものとばかり思っていた家族は驚いて、友人と共に周辺を探し回るも結子さんは見当たらず、14日2時過ぎに三重県警に届け出た。

家族や行方不明を聞かされた友人たちは彼女のポケベルにメッセージを入れて応答を待ったが、彼女からの返信はなかった。

髪型は短髪で、身長150センチ程の中肉体型だった。

当時の服装は、白い半袖ブラウスに制服の黒色ベスト、黒色のプリーツスカート、白いルーズソックスに黒色の布製靴(23.5センチ)を履いていた。高2から所持していたポケベルは、日頃ベストの内ポケットにしまっていたという。

乗っていた紺色系の自転車はブリジストン社製のT字型ハンドルで、防犯登録があったほか、サドル下に連絡先と名前も明記されていた。通学用の黒色のショルダーバッグには水色の財布や定期入れ、黄色い弁当箱、櫛、ハサミ、鏡などが入っていた。

周辺での捜索はその後も続けられたが、着衣、自転車、バッグは見つかっていない。

 

疑惑の男

失踪翌日の6月14日の夜、21時頃と22時頃に結子さんの自宅に不審な電話が2度続いた。いずれも出た瞬間に切れてしまったと言い、事件との関連は定かではないが、家族は警察に相談して逆探知を行うこととなった。

当初、友人たちは連絡先が分かるように自宅の電話番号を添えてポケベルにメッセージを送っていたが、周辺で事故の痕跡などがないことが確認され、結子さんが事件に巻き込まれた可能性もあるとして、連絡先を伝えないように周知された。

 

そんな中、どうしても連絡がほしいと学友の一人は変わらず自宅の番号を添えてメッセージを送信していた。6月16日以降、その友人宅にも不可解な無言電話が続いた。その友人は電話の相手が結子さん宛てのメッセージを見て無言電話をしているのではないかと考え、会話を試みたがはじめのうちは返答がなかった。

だがあるとき「結子はどこ?」と尋ねると、「知らない」と男の声で返事があり、「どうして結子のポケベルを持っているの」と尋ねると、電話の男は「拾った」と答えた。

つまり男は偶々拾ったポケベルに入ってくるメッセージを見て、電話を掛けてきたということになる。携帯電話を拾った/紛失したことのある人なら、似たような経験があるかもしれない。

 

しかしその後の電話で男はなぜか態度を変え、「彼女を駅まで送った」「金がないというので彼女に5万円貸した」「そのとき担保としてポケベルを預かった」などとはじめとは異なる言い分を主張し始めた。

さらに男は結子さんの友人に接触を持ち掛け、松坂市内にあるショッピングセンター「MARM」に呼び出した。友人は男の誘いに応諾し、警察に事情を伝えた。

6月20日、密かに警察が配備された中、友人と結子さんの母親が指定場所に向かった。しかし男はなぜか姿を見せなかった。

6月25日、男は「ポケットベルを返す」として、三雲町にあるバス停に取りに来るよう指示。行ってみると確かに結子さんのポケベルは置かれていたが、なぜか彼女が装着していた金色の鈴と「ハローキティ」のキーホルダーは付いていない状態だった。

 

6月27日、「ポケットベルは受け取ったのか」と男から友人宅に電話が入る。警察の逆探知によって三重県嬉野町内の公衆電話が特定され、近くにいた松坂市茶与(ちゃよ)町に住む自称露天商手伝いの男T(当時46歳)が任意同行を求められた。その日は朝から雨が降ったり止んだりの天気で気温は20度前後、しかし男は薄着に手袋をした不自然ないでたちだったという。

声紋鑑定により、Tと電話の男の声が一致。またポケットから出てきた白地に青い柄の入ったハンカチは、家族により結子さんの所持品と似ていることが確認され、翌日、緊急逮捕された。

男の身辺を調べてみると、事件当日のアリバイは定かではなかった。また婦女暴行、強盗などで12年の刑期を経た前科者だった。その手口は自転車に乗る女性を狙って車をぶつけ、わいせつ行為や所持品を奪う卑劣な犯行であった。

男のワゴン車を確認すると、左ウインカーの一部が破損、バンパーにも衝突でできたと見られる凹み痕があった。車内からは結子さんのものとみられる漢和辞典が見つかり、友人のポケベル番号が書き込まれていた。警察は犯行車両との見方を強め、車内から100本あまりの毛髪、繊維片などが採取された。

また車内から、結子さん失踪以降に有料道路「伊勢二見鳥羽ライン」を利用した領収書も発見され、証拠隠滅などのために長距離移動をしていたことも疑われた。男は以前から週に1回ペースで松坂市内のガソリンスタンドを利用していたが、結子さんの失踪前後には6月12日、15日、17日と頻繁に給油していたことも判明している。

結子さんは以前友人に「怪しい男につけ回されてこわい」と漏らしていたこともあった。失踪前に利用した公衆電話横に「白いワゴン車が停まっていた」との目撃情報も得られ、ますます男による関与はほぼ決定的かに思われた。

Miyuki Meinaka - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34549907による

しかし男は取り調べに対し、ポケベルはあくまで拾得物だと主張。連絡先の相手が女子高生と知って何度も電話をしただけだとし、結子さんへの略取誘拐などの嫌疑については否認と黙秘を続けた。

7月18日で勾留期限を迎え、男は証拠不十分で釈放された。

 

事件から26年余で警察は延べ4万8000人以上の捜査員を投入したが、今のところ有力な手掛かりは得られていない。

 

 

所感

Tはあまりにも犯人像に当てはまっており、状況証拠も揃っているかに見える。この事件は、巷間には「犯人が分かっているのに捕まっていない事件」等とも言われる。

夜間に公衆電話をかける制服姿の少女を見かけた犯人が、ワゴン車でぶつかるなどして自転車ごと拉致し、強制わいせつや殺害などの後、遠方に遺棄したと推察されている。過去の逮捕経験から証拠隠滅や完全黙秘を貫くつもりで犯行に当たったとも考えられているが、場当たり的ともいえる犯行手口で完全犯罪などなしうるものだろうか。

周到な犯人であれば、わざわざ被害者の友人に連絡をとったり、律儀に遺留品のポケベルを返却するといったリスクを冒さないのではないか。だが供述のように、女子高生と知り合いたくなりリスクを冒したのも事実かもしれない。二匹目、三匹目のどじょうを狙ってポケベルを遺棄していなかったとすれば、狡猾な性欲異常者である。

時代状況から見て、毛髪やハンカチのDNA型鑑定も行われたと想定されるが、証拠不十分としていることから逆算すれば、結子さん由来のDNA型は検出されなかったと捉えられる。行けると踏んで、マスコミにTの情報を漏らしていたが、予期せぬ鑑定結果に捜査当局の腰が引けてしまったのか。

憶測にはなるが、何らかの重大な捜査ミスによって立件できない状況をつくってしまった可能性もないとは言い切れない。たとえば取調官が誤って暴行を振るうなどして逆に弱みを握られたり、裏付けの中で完全なアリバイがあると誤認してしまい、公判に耐えられないと判断されたりといったことも考えられる。

 

本件と同じ1997年に発生し、大きな話題となった東電OL事件では、遺体発見の2か月後、不法在留ネパール人のゴビンダ・マイナリさん(当時30歳)が逮捕された。現場近くに住み、被害者の売春相手のひとりだったことから犯行を疑われたが、一貫して無実を主張。公判では一審無罪、二審では逆転有罪で無期懲役、上告棄却となり一度は有罪が確定する。

しかし再審請求で、遺留体液や体毛が被告人とは異なる第三者に由来するという鑑定が提示され、東京高裁は「被告人以外が犯人であることを否定できない」として無罪判決を下し、ただちに確定した。

警察側から出される情報などにより、世間では2011年の再審まで「不法在留の外国人による犯罪」と信じられてきた。しかし専門家による慎重な再捜査やDNA鑑定による裏付けによって、冤罪が明らかにされたのである。

 

何が言いたいのかといえば、どれほどクロに見えたとしても私たちは決定的な証拠ひとつでシロと手の平を返すということ。つまり警察が不起訴とした理由を明かさないために、「推定有罪」の証拠だけが晒されている状況だということだ。警察はクロと踏めば、不当逮捕や自白の強要も辞さないことは数多くの冤罪事件が示している。その警察が起訴を躊躇したということは、逆説的に反証しがたいほどのシロの証拠もあるということではないか。

Tとは異なる三者による犯行の可能性を排除することはできない。そして当局は不起訴の正当な理由があるのであれば、いつまでも「疑惑の人物」を放置せず、情報を開示してほしいものである。

 

同じく1997年の11月28日、東京都世田谷区の横断歩道で青信号を歩行中だった小学2年生・片山隼くん(当時8歳)がダンプカーにはねられて死亡した。車両はそのまま逃走したが、業務上過失致死と道交法違反(ひき逃げ)の容疑で、運転手はすぐに現行犯逮捕された。

隼くんを失った家族は憔悴したが、翌98年1月になって運転手の公判予定を確認しようと地裁を訪れると、不起訴処分で12月28日にすでに釈放されていることを知らされた。何も聞き知らなかった家族は検察に問い合わせて処分理由の説明を求めた。だが刑訴法では処分内容や理由を通知するのは「告訴人、告発人」に限られるとして、東京地検は被害者や遺族に「説明する義務はない」と回答。警察からは「運転手には謝罪に行くよう伝えてある。来ていないのか」と言われた。

2月、遺族は警察から男の連絡先を聞き、直接面会を申し込んだ。片山家に現れた男は玄関先で土下座していたという。男は「大切な命を奪って申し訳ない」と遺族に直接謝罪し、事故当時は業務無線に気を取られていたことを明かした。家族は堪えきれない感情を相手にぶつけることもあったが、運転手の男にも隼くんと同い年の息子が居り、子を思う両親の気持ちを理解し、深い反省を示した。ひき逃げの理由を尋ねても、男は「記憶がはっきりしない」と繰り返した。

後年、隼くんの父親は「息子を奪ったのは『怪物』ではなく『自分の立場を守ろうとする、弱くて小さな普通の人間』だった」と語っている。

一方で、嫌疑不十分とした警察の捜査の甘さ、検察の対応への憤りは晴れなかった。5月、遺族らは検察審査会に審査を請求し、被害者にさえ情報公開されない実情を世に訴えた。報道、国会でも取り上げられ、全国から20万筆を超える共感の署名が届けられた。

検察は異例の再捜査を実施し、新たな目撃者の出現もあり、運転手は業務上過失致死で在宅起訴された。公判では「人を轢いたとは思わなかった」と無罪を主張したが、東京地裁は求刑通り禁固2年執行猶予4年の判決を下す。民事訴訟では、被害者に過失は一切認められないとして、運転手と会社に総額3200万円の支払いが命じられた。

また検察庁の対応を改める必要があるとして、1999年4月より「被害者等通知制度」が実施され、被害者、親族、目撃者などの参考人の通知希望や照会に応じることとなった。

www.npa.go.jp

結子さんのご家族らはその後の捜査状況や元被疑者男性の動向について、情報にアクセスできているだろうか。失踪からどれほど月日が経とうとも生存を信じ、帰りを待つ家族の思いが消えることはない。捜査の進展を願っている。

 

 

参考

息子を奪った「怪物」は弱くて小さな人間だった…事故遺族の挑戦(1/2ページ) - 産経ニュース

鹿児島ひき逃げ偽装事件

鹿児島県の県道脇のサツマイモ畑で発見された男性の遺体とオートバイ。一見すると単純なひき逃げのようにも思われたがその状況には疑問がもたれた。

 

事件の発覚

1991年(平成3年)7月10日、鹿児島県曽於郡松山町(現在の志布志市松山町)を通る県道109号脇のサツマイモ畑でうつ伏せに倒れた男性の遺体を近くの農婦が発見した。男性の5メートル手前の草むらにはヘッドライトが壊れ、血の付いたオートバイが転倒していた。

その状況は緩やかな県道のカーブで起きたひき逃げ事件を思わせた。だがオートバイ本体の損傷は少なく、道路にそれと見られるスリップ痕がないこと、顔面の損傷に対して血痕の量が僅かなこと、普段着用していたヘルメットが見当たらないこなど不審な点が少なくなかった。

 

捜査に当たった大隅署では、別の現場から運ばれた可能性があると見て、周辺での聞き取り調査に回った。県道は宮崎県都城市と鹿児島県志布志市に南北に跨り、周辺地域は田畑が広がる、養鶏、牧畜の盛んな純農地域であった。

 

10日深夜、遺体が発見された現場から約1キロ離れた町道に事故現場と見られる場所を発見した。血痕を消そうと上から多量の砂が撒かれていたのである。調査の結果、この血痕は遺体の血液型と一致するものと判明した。

男性は、遺体発見現場から約2キロ離れた場所に住む農業谷口忠美さん(56歳)と判明する。9日朝、家族に「畑に行ってくる」と告げて外出したまま帰宅していなかった。

11日、鹿児島大法医学教室での司法解剖により、死因は前頭部打撲による脳挫創と判明。額から両目にかけて陥没する激しい損傷だった。

事件か事故の両面から捜査を行ったが、有力な手掛かりや遺留品などは見つからず、同月26日、捜査本部は「交通事故を装った殺人」事件と断定した。上述のように遺体発見現場やオートバイに事故の痕跡が薄く、顔面の損傷が事故でできたとは推認しがたく、鈍器で殴られた可能性が指摘されたことによる。また被害者の身辺捜査により、単純なひき逃げとは別の事件性を疑わせる状況も浮かび上がっていた。

 

前夜の逢引き

遺体発見前日の7月9日夜、谷口さんはある女性と行動を共にしていた。女性は40歳手前で「男好きのするようなタイプ」と伝えられる。谷口さんには妻子があったが、この女性と不倫関係にあった。

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18時頃に山中の待ち合わせ場所で合流した谷口さんは、オートバイから女性の車に乗り換えて移動し、町内の数か所で目撃されていた。20時まで大隈町の病院で知人男性と会った後、知人宅に立ち寄っており、21時頃にはラーメン店にいたと目撃情報も得られた。

22時頃にオートバイを置いていた元の待ち合わせ場所に戻ったとされるが、この場所から殺害現場と見られる血痕隠蔽の地点まで僅か400メートル、つまり二人が別れた直後に殺害された可能性が高い。

下のマップはおおよその位置関係を示したもので厳密な座標ではない。

 下世話な想像力は、この女性に不倫関係のもつれなど殺害の動機があったのではないかと思わせる。

離婚や関係の清算を求めるといった男女間のトラブル、あるいは女性の「別の交際相手」などから恨みを買ったとしてもおかしくはない。付き合いが長ければ、借金や手切れ金など金銭絡みのトラブルを抱えていても不思議はない。彼女に犯行が不可能でも第三者に依頼した可能性も排除できない。

だが警察の事情聴取に女性は悪びれることなくはきはきと素直に応答し、被害者と明日も合う約束をしていたと証言。証言の裏取りや背後の人間関係まで洗ったとみえ、彼女への嫌疑は晴れている。

 

状況の不可解

地図を見れば明らかなように、現場周辺は田畑とともに山林も多く、遺体やオートバイの発見を遅らせることはできたはずである。合理的な発想であれば、人目に付きづらい場所に隠したり、現場からより遠ざけようとするのではないか。しかし発見現場は交通量のある県道そばで人目を避けるために移動させたとは思えず、距離的にも歩いて移動させたとも思えないが、車であれば数分の距離である。犯人の意図が見えてこない。

下のストリートビューは、発見現場周辺のサツマイモ畑。見通しの利く緩やかなカーブで、暗い深夜でも事故が起こりやすい場所のようには見えない。

 

被害者は体重およそ70キロ、オートバイも70キロで女性一人で移動させたと見るのはなかなかに難しく、また不可能ではないが乗用車にオートバイを積み込んだとも考えづらい。

農業関係者であれば、軽トラックは一家に一台のように備えており、重機などを荷台に載せる際に使う「道板」を積んでいることが多い。そうした人物が「移動」に関わった可能性はあるが、農業人口の多い同地では絞り込みの材料には足りない。県警は軽トラックを中心として1万5千台近い車両確認も行っているが、犯行に使われたとみられる車両は特定されなかった。

 

殺害現場と見られる町道は、当時は細い農道で拡幅工事が行われている最中だった。血痕は舗装部分から工事中の方向に、道路中央からやや左1メートル四方に広がっていた。工事のため道路沿いに置かれていた土嚢袋3袋に加え、大量の白い砂が撒かれていたのが現場発見のきっかけとなった。砂の総量は200キロ、土嚢にして10袋以上と推定された。

近くに一軒だけ民家があるが、夜間に事故や作業の物音、不審な声などは聞かれていない。夜間の農村地域、現場周辺は店や街灯すらないこともあって、目撃情報はあまりにも少なかった。田宮榮一監修『捜査ケイゾク中 未解決殺人事件ファイル』(廣済堂、2001)では、地域みんなが顔見知りという閉鎖社会が情報提供を阻んでいる可能性さえ指摘している。2000年までに被害者の交友関係など約85人が事情聴取を受けたが、容疑者は浮かび上がらなかった。

 

現場に撒かれた大量の砂は、公園の砂場などでみられるような「川砂」ではなく、桜島の噴火によってできた「シラス」砂とよばれる白く粒子の細かいものだが、鹿児島県内ではどこでも採取されるとあって調達先の特定には至らなかった。犯人が予め車に積んでいたものか、それとも夜の間に運び込んだものかは判然としない。

男女の待ち合わせ場所や事件があったとみられる現場の一帯は、山林の勾配と水田の間を細い農道が複雑に入り組み、土地鑑のある人間でなければ通りがかることは考えづらい。犯人は不倫相手との密会を知っており、人目の少ない場所で凶行に及びながらも、あえて発見されやすい県道脇まで運ぶことで見せしめとしたのであろうか。

 

谷口さんは農業を本職としながら、山林などの土地取引、電気関係やミシン販売の仲介なども手広く行っていたとされる。地元農業関係者以外にも、県外も含めて、交友関係が広かったことで捜査がぼやけてしまったのか。折しも時節はバブル崩壊の直後、金銭や事業に絡んで恨みを買った可能性もないとはいえない。

 

鹿児島県警は延べ6万5千人の捜査員を投入したが2006年7月9日、殺人罪での公訴時効が成立し、コールドケースとなった。

 

 

所感

書籍を通じて得られる感触として、犯人のシルエットが非常に曖昧な事件である。

本件の特徴として、遺体発見現場と事件現場と見られる場所がやや離れていることがある。更に事件現場には隠蔽するかのようにシラス砂が撒かれていた。はたしてそこに合理的な理由があったのか。

解剖所見や当時の現場状況などの情報に乏しいため、以下、妄想に頼らざるをえない。

 

谷口さんは女性と別れ、真っ暗な曲がりくねった農道を抜けて幹線道路に向かっていた。血痕があったとされる現場は、拡幅工事の最中にあり、以前からの細い農道の舗装路とこれから舗装される部分が半々だった。真夜中のオートバイ運転、帰宅を急ぎ、路面への注意もそぞろとなれば勝手知ったる道であっても事故が発生する条件は揃っていた

交通事故などに遭った際、ひとはアドレナリンの大量分泌によって一時的に交感神経を麻痺させ、痛みに鈍感になることが知られている。オートバイがダメになったものの谷口さんは何とか意識を取り戻し、幹線道路まで出て通りがかる車に助けを求めようとしたのではないか。

しかし深夜の田舎の一本道、まさか人が出てくるとは思わずスピードを出した車が気付かずに轢いてしまう。見に行けば人が倒れており、近くにオートバイが転倒している。まずいと思った運転手らは、事故現場に残っていた血痕を砂で覆い隠し、別の場所へと運ぼうと荷台に積んだ。

シラス砂の代表的な用途は、コンクリートや道路など土木資材への利用である。拡幅工事で使用されていなかったとしても、それなりの量であることから一般市民ではなく土木業者や採石場の輸送業者が想像される。トラックの利用もあり、遺体やバイクの移動も可能だった。大量のシラス砂であることから、複数人が乗っていたかもしれない。

だが仲間内で意見の衝突があったか、あるいは遅れられない予定があって、遺体の埋没などに時間はかけられず、すぐに降ろしてその場を去ることになった。

夜間移動していたのであれば遠方の業者の可能性もあり、3キロも北上すれば、すぐ隣が宮崎県都城市となる。縦割りの縄張り意識が強い当時のこと、県外の捜査協力は充分には得られなかったと推測される。

 

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

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〔参照〕

 

 

まんのう町・旧琴南町女子高校生殺害事件

1997年(平成9年)、香川県でバイト帰りの女子高生が帰らぬ人となった事件。刑法改正により殺人罪の時効は撤廃されたが、今なお犯人検挙に至っていない長期未解決事件である。

 

香川県警、被害者の会では犯人逮捕に結びつく有力情報の提供者に最大100万円の懸賞金を設置して情報提供を求めている。「犯行をほのめかす人物を知っている」など心当たりがある方は以下の番号に通報をお願いします。

共通フリーダイヤル 香川県警本部刑事部捜査第一課 0120-120-016

琴平署 0877-75-0110

三豊署 0875-72-0110

www.pref.kagawa.lg.jp

事件の概要

1997年3月16日(日)の夕方、香川県仲多度郡満濃町に住む男性(63歳)が琴南町川東焼尾の山林でマネキンのようなものを見かけ、翌朝、現場を訪れた警官により若い女性の遺体と確認された。

 

16日、男性は知人に頼まれて神事に使う榊を採るため、自らの所有する山を訪れた。ついでに不法投棄などがないか確認するため、旧町道焼尾1号線に車を停め、歩いて山道に入った。フェンスの切れ目から下の斜面を覗くと、マネキンのようなものが目に入った。その日はすでに18時を回っていたこともありそのまま家路に着いたが、翌朝、琴平署美合駐在所に通報。17日10時頃、現場に到着した警官は山道から約3メートル下の斜面に雑木に引っかかるような格好の女性の死体を発見した。

Tシャツの柄は2017年になって公開された

 

死体は仰向けの半裸状態で、上はディズニーキャラクター「ドナルドダック」と犬の「グーフィー」がプリントされた白い長そでのTシャツ、下は白い靴下を片方だけ身に着けていた。

現場に争ったような形跡はなく、別の現場で殺害され、山道のフェンスの隙間から遺棄されたものと思われた。琴平署は殺人・死体遺棄事件と断定し、県警との合同捜査本部を設置して捜査を開始した。

17日夕方、香川医大での司法解剖の結果、死亡推定時刻は15日の深夜、首に柔らかいひも状のもので絞められた痕跡があり、絞殺による窒息死と推認された。

翌18日、新聞報道を見た家族から娘ではないかと連絡が入り、亡くなった女性は詫間町松崎に住む観音寺一高の一年生・真鍋和加さん(16歳)と判明。男性が山で見かける前日の15日夜から行方が分からなくなっていた。

 

行動

3月15日(土)、高校の授業は午前中のみで終わり、姉が嫁ぎ先から姪っ子を連れて帰省してくるため、和加さんは午後に予定されていたサークル活動(ギター同好会)には参加せず、13時半前後に帰宅した。姪っ子としばらく遊び、15時過ぎに姉の車に同乗させてもらって本屋などに立ち寄った後、17時前に詫間駅前のコンビニ(旧ローソン詫間駅前店。現店舗とは別の場所にあった)まで送ってもらった。

和加さんはキーボードを購入するため、1月半ばからこの店でバイトを続けており、目標金額に目途がついたため、この日が最終出勤日となっていた。ほぼシフト通りに勤務を終え、タイムカードの退勤時間には「22時1分」と打刻されている。

最終目撃場所の地図〔香川県警HP〕より

店はその時間帯も客の出入りが多かったため、彼女の退店する様子をはっきり確認していた者はいない。最終目撃者となったのは同店のアルバイト仲間で、22時過ぎに車で帰る際、店舗と交差点を跨いで反対側に、小雨の中で傘もささずに立っているのを見かけたという。

 

バイト先から自宅まで2キロ弱で、家族の車を呼ばなくとも徒歩で通うことも可能な距離であった。迎えを呼ぶ電話もなく、帰りが遅くなれば家族は心配するものだが、その日は悪い偶然が重なった。

22時前後にはすでに和加さんの父親、姉は就寝しており、母親はひとり確定申告に備えて帳簿整理をしていたが、孫(和加さんの姪)を寝かしつけてそのまま自分も寝入ってしまっていたという。気づいたときには日付変わって16日朝の5時で、玄関に和加さんの靴はなく部屋にも帰ってきた様子がないことに気づいたのだった。

バイト先に連絡を取ると「昨夜22時ごろ退勤した」とされ、家族もバイト後の用事なども聞かされておらず何が起きたのか見当がつかなかった。まして過去に和加さんが無断外泊するようなことは一度もなかった。家族は手分けして周辺に捜索に向かった。

10時過ぎになって和加さんの友人から家に電話が入り、映画を見る約束で詫間駅で待ち合わせをしていたが彼女が現れないのでどうしているかと心配で連絡したという。家族は知人、友人に片っ端から連絡を取ったが彼女の行方を知る者はだれ一人としていなかった。

当時、携帯電話はまだ中高生に普及しきってはおらず、和加さんはメッセージ通信を主とする「ポケットベル」を携行していた。しかし家族や友人たちが連絡を取ろうとしても、呼び出し音が鳴るばかりで返事はなかった。翌17日も遠方まで捜索したが手掛かりは何もなく、18日の朝刊で若い女性の遺体発見の報を見て娘と直感したという。コンパクトディスクから採られた指紋の照合により本人であることが特定された。

 

遺留品

瀬戸内海に近い詫間駅前のコンビニから、徳島県との県境に近い山間部の遺体発見現場までおよそ40キロ、車で1時間ほどかかる。琴平署の捜査本部は、バイトの同僚による目撃証言や自宅に迎えの電話を寄越していない点などから、交差点で誰かと合流して事件に巻き込まれたと判断する。

連日100人体制で交友関係の洗い出し、現場周辺での聞き込みが続けられた。当時は店や街頭に防犯カメラもなく、駅前とはいえ雨天で遅い時間帯だったこともあり情報は限られた。

3月21日になってバイト先から南東に約12キロ離れた三豊市高瀬町にある朝日山森林公園で和加さんの左足の靴が発見される。公園は標高238メートルの山の頂上付近に位置しており、神社やサクラ、遠く瀬戸大橋や日の出を臨めるスポットとして人気があり、展望台やドライブのために若者たちの「デートの穴場」ともなっている。靴は駐車場脇の植え込みから発見された。遺族確認と警察犬による鑑定で和加さんのものと確認された。

 

上の地図のように、バイト先のコンビニ、靴の見つかった朝日山、遺体の見つかった山林はほぼ直線状と見ることができる。

 

見方

それと聞くと、駅前でナンパされてドライブのように朝日山へと連れていかれ、わいせつ行為に及ぼうとした男が和加さんに抵抗されて首を絞めたようにも思える。

当時の報道には根拠もなしに不良娘のような印象操作が行われたこともあったが、父・宜之さんは「本当に娘はまじめな性格で、知らない人の車に乗るような子ではないんです」と語っており、夜はまだ肌寒い時期に上着も持たずTシャツ姿、財布も携行しておらず小銭しか持たないで出掛けるつもりだったとは考えられないという。

和加さんはバンドX-JAPANのギタリストhideの大ファンで、東京のライブへも足を運んだことがあった。楽曲だけでなく彼の社会貢献にも熱心な姿勢にも共鳴していたという。将来的には音楽大学への進学を志望し、そのためにもキーボード購入を考え、親の承諾のもとアルバイトを始めた。しかしその夢への大きな一歩は寸前のところで叶わなかった。

 

田宮榮一監修『捜査ケイゾク中 未解決殺人事件捜査ファイル』(2001、廣済堂)では、素行不良者や性犯罪前歴者のリストアップはされているはずとの見解とともに、被害者と何らかの「顔見知り」だったのではないかとも検討している。

アルバイトに行く前までの行動から見て、和加さん自身、まっすぐに帰宅するつもりだったことが強く推測される。だがバイト最終日を終え、なぜか交差点で傘もささずに佇んでいた。アルバイト中の17時から22時の間にコンタクトが取られ、人と待ち合わせをしていたのか。相手先などは不明だが、勤務中にも彼女のポケベルが鳴っていたとの証言もある。

恩師や先輩、同級生といった学校関係者からポケベルに連絡があったのか、あるいはバイト仲間や店の客から直接約束がされたのか。あるいは親の知らない異性交遊があっても不思議はない年齢であり、音楽活動やファン活動などを通じてできた仲間なども思い浮かぶ。

ネット掲示板では「マジレスするわ。(あくまで噂やで)」とした上で「犯人は女子高生が勤めていたローソンの店長。自殺したらしい。」といったカキコミが20年前に為されている。それ以降に被害者に対する無責任な誹謗中傷が展開されており、書き込みの目的はそちらだったと見られる。議論するのも不毛だが、こうした怪情報が当たり前に放置されている現状も恐ろしい。

 

景勝地・朝日山はともかくとして、遺体発見現場となった焼尾の廃道はよほど地理に精通していないと立ち入らないような場所で、40キロ離れた詫間駅周辺ではほとんど知る人もいないのではないかと思われる。遺体を確認した駐在署員ですらその場所が分からず、地元の主婦に道案内してもらってようやくたどり着いた極めて辺鄙な場所である。

現場に通った父・宜之さんは、事件から4年後の取材の中で、今でこそ近隣のゴルフ場開発などもあって山道も舗装されたが、当時は細い未舗装路だったと振り返る。「車を運転していると何匹もの野犬が、ドーンとボンネットの上に飛び掛かってくるんです。それはもう怖くて窓も開けられません」「そのときふっと思ったんです、犯人はもしかしたら完全犯罪を狙ったんじゃないかと。発見があと2、3日遅れていたら娘の遺体は野犬に食い千切られて跡形もなかったはず」。食害まで計算に入れていたかは不明だが、犯人は通りがかりに偶々その場所へ棄てたというより、発覚逃れを図って事前に下見してあったようにも思える。

また発見されていない右足の靴、靴下、下着とパンツ、ポケットベルや腕時計といった所持品はその後も発見されていない。警察では朝日山が殺害現場との見方で捜査を進めたが、宜之さんは犯人が捜査かく乱のために靴だけ遺していった偽装工作ではないかと深読みしている。たしかに人通りが皆無に近い死体遺棄現場よりも、人の出入りが多い詫間駅から朝日山周辺に警察の人的ソースが割かれることになった。発見には至らなかったが各地に点在するように棄てられた可能性もないとは言いきれない。

両親が娘の遺体と対面したとき、左足だけ損傷が激しいとして包帯が巻かれていたという。それこそ野犬などの動物に荒らされた痕だったのか、暴行や移送の際にできた怪我だったのか明らかにされてはいない。車両では侵入できない場所まで遺体をどのように運び込んだのかなども解明されていない。

遺体発見現場

現在地

2017年、和加さんが当時着用していたキャラクタープリントの長袖Tシャツが公開された。犯人による証拠隠滅の恐れもなく、目撃情報につながりやすい特徴的なTシャツだったにもかかわらず、県警はなぜ20年も公表を躊躇してきたのか甚だ疑問である。

また失踪直後の3月16日未明に朝日山公園で不審な白い車両が目撃されていたことも伝えられている。車種はトヨタの「エスティマ」「エスティマシーダ」「エスティマエミーナ」のいずれかと見られているという。目撃は午前1時と2時ごろの2回とされ、警察では死亡推定時刻に近いことから同車両が事件に係っている可能性があるとした。

 

事件発生から丸25年が過ぎた2022年4月、遺族のひとり、和加さんの母・明美さんが解決の日を見ることなく、生を閉じた。殺人罪の時効撤廃が為された2010年から街頭でのビラ配りを続け、情報提供を訴えてきた。

犯人検挙を願う一方で、「まだ捕まってないから、自分の子どもや孫は気を付けてって。こういう事件があったっていうのを思ってくれるっていうだけでも。だから忘れてはほしくない」と活動の意志を語っていた。

1月のKSB瀬戸内海放送の取材に対し、「警察の人には悪いけど、捕まえるよりも自分から出てきてほしい。出てきて、手を合わせてほしい。そうしたら私もそれ以上のことは言わない」と話していた明美さん。その思いは、2013年に先立った和加さんの父・宜之さんの意思でもあった。2人は和加さんを失って10数年来、全国の寺に巡礼してきた。宜之さんが亡くなって以降も、「二人の供養」を兼ねて「一緒にお参りしたところ」を思い出参りするのが明美さんの生きがいだったという。

 

長い時間の経過とともに担当する捜査員たちの顔ぶれも事件当初とは変わったが、ベテラン捜査員たちは事件を知らない若手を連れて遺族のもとに挨拶に通った。時間が経っても変わることのない遺族の思いを伝え、解決への熱意をつないでいくためだという。

香川県警捜査一課の最前線で様々な事件解決に当たってきた渡辺耕治氏は、当時の捜査手法や体制に未熟さがあったと後悔を滲ませる。

「防犯カメラであるとか携帯電話であるとか、様々な捜査手法が今できていますけど、当時としてはそういう捜査手法への過渡期」「捜査体制についても、封建的な捜査体制から自由的な捜査体制、意見具申ができるような捜査体制に移る過渡期であったと思います」「そういったところが少しの要因ではあると私は考えております」と長期未解決に至った背景を振り返っている。

 

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渡辺氏の弁に捜査上の具体的なエピソードこそ語られないが、90年代後半には現場を駆けまわる捜査員には意見具申もできないトップダウン式の捜査指揮が執られていたことを滲ませており、以前扱った金沢スイミングコーチ事件の捜査指揮を思い起こさせる。捜査員たちの些細な気付きやアイデアは、上官らの方針にそぐわず大した検討もされずに却下されたこともあったのであろう。

また縦割りの縄張り意識から、失踪現場、遺留品、遺体発見現場のさらに延長線上に位置する徳島県との捜査協力も思うようにならなかったのではないかと推測される。

延べ62000人の捜査員を投入し、200件以上の情報が寄せられるも解決への糸口はいまだ見出せてはいない。

 

被害者のご冥福とご遺族の心の安寧を祈ります。

 

【特集】旧琴南町・女子高校生殺害遺棄事件から25年 退官迎える捜査員「次世代への思い」 香川 | KSBニュース | KSB瀬戸内海放送

別府男子大学生ひき逃げ事件

2022年(令和4年)に大分県別府市で起きた大学生2人を死傷させたひき逃げ事件で、殺人罪への罪状変更を求める声が挙がっている。

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いわゆる従来の「ひき逃げ事件」では過失致死罪、道交法違反などの罪にしか問われず、公訴時効が20年とされる。加害者は特定されているが、23年8月現在も逃走中であることからもその見直しが求められている。

 

事件の概要

2022年6月29日、別府市野口原の県道で軽乗用車が時速80キロ以上の猛スピードで、赤信号で停車中のバイク2台に追突。原付バイクに乗る男子大学生(19歳)が死亡、オートバイの男子大学生(20歳)が腰などに軽いけがを負った。

 

被害者2人は大学の友人同士で、事件当日、日中バイクで湯布院に出掛け、帰りにショッピングモールに立ち寄って買い物をした。2人は別の場所に駐車しており、別の出口から店外に出た。

オートバイの学生が原付の学生のいる方を見ると、少し年上の若い男と話している様子だった。知り合いかと思い、合流して「あれ誰やったの?友達?」と聞くと、原付の学生は相手と面識がなかったらしく「変な奴に絡まれた」と話した。

スピーカーで音楽を流しながら男が歩いてきたのでそちらに顔を向けると、男に絡まれて「ここは原付で通ったらいけないんじゃないか」などと因縁をつけられ、原付の学生はすぐに謝ってその場を収めたという。

オートバイの学生は「どうせ変なやつやから気にせんどき」と話し、モールを出て500メートルほど一緒に走行。「山の手交差点」で信号待ちの最中、大きなエンジン音がしてミラー越しに背後に目をやるとヘッドライトがものすごい勢いで向かってくるのが見えた。原付の学生に伝えようとした瞬間、後ろから突っ込まれて10メートル以上跳ね飛ばされた。

大分県警HP〕より

車を運転していた男は電柱に衝突した軽乗用車を乗り捨てて裸足で逃げ去った。車内に残された財布や携帯電話、指紋などから車の運転者は、被害者に因縁をつけていた八田與一(25歳)と確認された。2日後、現場から2キロ離れた別府北浜ヨットハーバーで容疑者の黒いTシャツが脱ぎ捨てられているのが発見されたが、その後の足取りは分かっていない。

 

2023年8月現在、ひき逃げによる容疑で指名手配されており、「早期解決を願う会」は上限500万円の謝礼金を設置して広く情報提供を求めている。

情報提供先: 大分県別府警察署 0977-21-2131

現場の制限速度は40キロ、路面にブレーキ痕や避けようとした形跡は残されておらず、軽傷だったオートバイ男性によれば「スピードが本当に異常だったんで、もうぶつけられた瞬間に『絶対あいつや』って思いました。そのぐらいなんかもう、殺しに来ているなっていうのはすごい感じました」「赤信号で止まる車が出すような音じゃないアクセルの踏み方。僕らを見つけた瞬間、踏んだかのような感じで来たのはすごく覚えています」と語っている。

 

八戸女子中学生殺害事件について

1993年(平成5年)に八戸の住宅街で起きた女子中学生殺し。被害者は「早く帰る」と友人たちに言い残し、母親が帰宅するまでの25分間の留守中にこの世を去った。不可解な現場状況から犯人像が絞り切れず、2008年に公訴時効が成立したコールドケースである。

 

事件の発覚

1993年10月27日(水)午後6時23分頃、青森県八戸市城下4丁目の民家で中学2年の女子生徒が何者かに殺害されていたのが見つかった。

室内に血まみれで倒れていた被害者は宮古若花菜さん(14歳)で、第一発見者は帰宅してきた母親だった。玄関は鍵が開いており、ガラスが割られて外に飛散していた。助けを求めた母親から話を聞いた近隣住民が警察に通報。10数分後に救急隊員が駆け付けたが、搬送途中に少女の死亡が確認された。

 

遺体は母親の寝室で仰向けの状態で見つかり、両手首を後ろ手に縛られ、口は粘着テープで塞がれていた。発見時は半裸の状態で、上は紺色の学校指定ジャージの上に白系のパーカー姿、剥ぎ取られたズボンと下着が頭の脇に置かれており、下半身は座布団が被せられただけの状態だったが、性的暴行の痕跡はなかった

玄関のガラス戸は室内側から割られており、寝室以外では廊下に一箇所だけ血痕が見つかった。また廊下には引きずったような痕跡が残されていた。

翌日、弘前大学法医学教室で司法解剖が行われ、死因は心臓を貫通する深い刺し傷が致命傷となった失血死でほぼ即死と見られた。死亡推定時刻は27日午後6時前後と推認されている。左胸部の刺し傷のほか、左頸部、右ふくらはぎ、左膝に切り傷が複数あった。

 

若花菜さんは幼少からモダンバレエの習い事を続けており、この日も午後7時からのレッスンに参加することになっていた。近く発表会が行われることになっており、バレエ教室には当日着る衣装が届いていたという。母親は家政婦の仕事で近くの病院に通っていたが、水曜日は送迎のために普段よりも早めに切り上げさせてもらい、6時50分頃までに車で娘を送迎することになっていた。

学校の友人は若花菜さんが「午後6時までに帰り、20分頃まで家にいないといけない」と話していたのを覚えていたが、その理由を聞かされてはいなかった。5時半頃に陸上部の部活を終えて友人2人と学校を出、いつも立ち寄る食料品店に寄らず「今日は早く帰らなくては」と本八戸駅前で別れていた。

友人たちの帰宅時間から逆算して、駅前で別れた時刻は午後5時53分頃と確認される。午後5時58分に部屋の灯りはついていなかったとする通行人の目撃証言があったこと、駅から自宅まで約500メートルの距離であることから、被害者の帰宅時刻は午後6時頃と推測された。単なる偶然か犯人が意図したものか、少女が留守番していた僅か25分の間に起きた犯行であった。

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翌28日未明、青森県警は殺人事件と断定し、八戸署に捜査本部を設置。131人の捜査員が夜通し周辺の捜査に当たった。

被害者が「今日は早く帰る」と匂わせていたことから自宅でだれかと会う約束があったとも考えられ、現場状況などと合わせて「顔見知り」による計画的な犯行との見方を強めた。また被害者はまだ中学生で交友関係にも限りがあり、殺害されるにはあまりに理由に乏しい。第一発見者である母親に対しても詳しい事情聴取が半年余りにわたって行われており、警察は母親およびその周辺人物の存在にも疑いを向けていたとみられる。

 

現場状況と遺留品

現場となった自宅は住宅密集地にある一般的な平屋建て民家だった。遺体の見つかった母親の寝室は、玄関出入り口から見て最も奥まった位置にある。玄関等は出勤の際に母親が施錠したものと認識していたが、居間の掃き出し窓、風呂場の脱衣所と玄関脇に施錠されていない窓もあった。鑑識の結果、脱衣所と玄関わきの窓から人が出入りした形跡は認められなかった

寝室の隣にある居間のこたつにはスイッチが入っており、部屋の電灯が点いていた。こたつの上には、犯行に使用された布製粘着テープの残り、灰皿替わりに使用されたコーヒーの空き缶たばこの吸殻2本が残されていた。家族に喫煙者はなく缶コーヒーにも心あたりがないことから、これらは犯人の遺留品と考えられた。

当時、警察庁では全国の科警研DNA型鑑定を導入するように推進していたが、青森県警は95年まで導入されておらず、当時は唾液などの試料は採取されなかった。

被害者の自室には制服や家の鍵などが入ったカバンが置かれていたことから、被害者は帰宅後に一度は自室に入り、その後で襲われたものと考えられた。他の部屋にも物色された形跡や争ったような痕跡は見られなかった。

遺体の脇にはなぜか台所にあるはずの小型出刃包丁が放置されていたが、血痕の付着はなかった。家族の指紋以外は検出されず、凶器として使用された形跡はなかった。殺害に使用された凶器はその後も見つかっていない。

被害者が犯人を威嚇するために包丁を手にした可能性も考えられなくはない。しかし手の自由が利く状態で犯人から逃げ出せたのであれば、台所ではなく脇の玄関に向かうのが自然に思われた。だれが何の目的で出刃包丁を持ち出したのかは判然としなかった。

 

追跡

若花菜さんの家は両親と2人の兄との5人家族だが、父親は年間を通じて関東地方で暮らす半ば単身赴任状態、長男も仕事で県外に暮らしており、事件当時は3人で生活していた。

玄関の鍵は、母親、二男(16歳・高校生)、若花菜さんがそれぞれ合鍵を持っていた。2年ほど前までは合鍵を外の小屋に置いていた時期もあったというが、侵入者がそれだけ時間を置いて合鍵を使用した可能性はやや低い。

玄関は無施錠だったが道路に面しており、居間の掃き出し窓も解錠されていたことから、犯人は人目を避けて窓から逃走したとも考えられた。母親は閉めていたように記憶していたが、うっかり施錠し忘れていたのか、あるいは若花菜さんが帰宅後に窓を開けていた可能性も排除できない。

周辺は混み入った細い路地の住宅密集地で、平日午後6時過ぎという帰宅者も少なくない時間帯であったが犯行は目撃されていなかった。だが現場付近で「不審な中年男が走り去っていった」、「事件後に近くに停まっていた不審車両が見えなくなった」との情報もあり、有力な手掛かりと見て聞き込みを強化する。

当初は周辺住民や学校関係者などを中心に聞き込みが続けられたが、「うちの子を疑っているのか」と保護者に怒鳴られ、捜査員によれば話を聞くだけでも大変なほどだったという。城下地区を中心に1か月で767世帯1785人に聞き込みを行ったものの、事件に結び付く人物情報は浮かんでこなかった。

 

付近で目撃されていた不審車両は、黄色系の三菱製ミニカトッポ(1990-93年型)とみられ、被害者宅の裏にある駐車場に8月頃から無断駐車されていたという。若花菜さんと母親も以前にこの車を見かけていたそうで、「形が可愛らしかったので『次はこんな車がいいね』と話した」という。目撃者によれば、救急車のサイレンが聞こえた午後6時半頃、白いシャツを着たノーネクタイの男がこの車で走り去ったとされる。

車の後部ガラス内側に「赤い唇をかたどったビニール製の飾り」と後部側面の「白い網状のアクセサリー」が目に付いたとされ、事件との関連も視野に、岩手県北部も含めて近郊の登録車両約1900台のうち約680台を捜査したが、車両の特定には至らなかった。

当時はまだ新しい車種で個性的な外観と内装品を備えていたことからも、確認できたのが1/3程度というのは納得しがたい数である。しらみつぶしに辿れば犯人に行きつくとの判断から車両情報の公開はしばし見送られ、車両情報の公開は事件発生の3年後となった。この遅れが無ければ捜査の風向きも変わっていたかもしれない。

セカンドカー需要を受けて人気を博したミニカトッポ

近隣に住む16人がガラスの割れる音を耳にしており、「たすけて」という声があったとも報じられている。時間帯は午後6時12分から20分頃と絞り込まれた。

左ひざの傷は浅く、首やふくらはぎの鋭利な刃物でつけられた切り傷とは異なることから、捜査本部では、両手を拘束された状態の若花菜さんが逃げ延びるために扉を破ろうとして負傷したとの見方をしている。

この読みが正しければ、20分頃まで被害者は存命だったことになり、母親が帰宅する僅か5分前に殺害されたとも考えられる。犯人も母親も間一髪のところでニアミスしていたのである。

また事件前、仕事を早く切り上げた母親は買い物とクリーニング店に立ち寄ってから帰宅していた。「そのまま帰れば若花菜より早く家に入ったと思う」と発言している。そのため、犯人が家で待ち伏せていたとすれば母親が先に接触した可能性があったと見て、警察も母親の交友関係や怨恨の可能性を追及していた。だが母親に心当たりの人物はなく、ポリグラフ検査にまでかけられたが不倫相手のような人物も浮上しなかった。

 

遺留品の粘着テープは、段ボールと同系色で幅約5センチ、「日東電工」社製の布製テープと判明。市販品だが近郊では文具店などでの取り扱いはなく、本八戸駅前のスーパーのみで販売されていた。店のレシートを照合し、店員に確認すると、事件当日の10時50分頃に40歳前後の中年男性がこのテープと「干しがれい」の2品を購入していたことが分かった。

捜査本部は購入者の特定を進めたが、会社員男性(49)が自ら名乗り出て事件と無関係であることが判明した。同店では粘着テープは日に一本売れるかどうかだというが、販売範囲やスーパーの販売記録をどこまで遡れたのかといった詳報は伝えられていない。

 

11月2日までに、犯行時刻ごろに若花菜さん宅に訪問客があったことが判明する。

訪問した男性は彼女と顔見知りで、調べに対し「集金で立ち寄り、若花菜さんと玄関先で1、2分立ち話をし、『母親は早くとも午後6時半でないと帰らない』と言うので帰った。特別変わった様子はなかった」「中に人がいたかどうかは分からない」と話した。

若花菜さんの帰宅は午後6時頃とみられたが、集金男性の訪問時刻は「午後5時半から50分頃」だったと話しており、なぜか時間に食い違いが生じている。

さらに男性の証言によれば、着衣は「紺色のジャージ姿」だったとされる。友人たちとの下校時はジャージの上にパーカーとジャンパーを重ね着しており、遺体となって発見されたときにはジャージの上に白いパーカーを着用していた。すべての証言が正しいとすると、帰宅して一度ジャージ姿になって集金男性に応対した後、再びパーカーを着用したということになる。

 

吸い殻入れとされたコーヒー缶から指紋は検出されず、手袋をはめていたか拭き取ったとの見方が強い。家屋周辺からは複数の足跡、室内からは家族の物とは異なる指紋が数個採取されており、関係者との照合作業が続けられた。また現場で採取された毛髪や繊維片の鑑定も行われた。

たばこの銘柄はマイルドセブンライトとみられ、同製品は八戸市内で販売量がベスト3に入る人気銘柄であった。また吸い殻付着の唾液から血液型が特定されていると言い、何型とは公表されてはいないが、2本とも同じ血液型であったことが報じられている。

 

事件から一か月後、山田寿夫県警刑事部長は会見で「筋が読みにくい難事件」と述べており、初期捜査の難航に苦渋の色を滲ませている。物盗り目的で侵入して鉢合わせた可能性も排除できず、執拗な手口と不自然な切り傷からは彼女に対する怨恨も読み取れた。松尾好将県警本部長も定例記者会見で容疑者特定に結び付く物証に乏しく、動機も特定しづらいと述べて長期化を示唆した。

市内から寄せられた不審人物に関する情報や素行不良者、過去の性犯罪歴などがリストアップされたが確たる容疑者は浮上せず。県警幹部は捜査対象を広げていった結果、「犯人像がどんどんぼやけていった」と振り返っている。

 

青森県警では15年間で捜査員延べ12万人を動員し、調査対象者は延べ1800人、およそ600名から事情聴取したが犯人の割り出しには結びつかなかった。

2008年10月27日、殺人罪の公訴時効を迎え、コールドケースとなった。現場を知る元県警幹部は「犯人の動機が今でも分からない。あの事件だけは心残り。目をつぶるといまだに被害者が倒れていた現場の状況を思い出す」と唇を嚙んだ。若花菜さんの兄は時効に際して、次のようなコメントを発表した。

「15年もの間、靴底を減らして捜査してくださった警察各位の方には感謝しています。しかし、できるなら逮捕して欲しかった。
青森県の皆さん、八戸市の皆さん、私たちを育ててくれた城下4丁目の皆さん、15年の間、宮古若花菜を忘れないでもらってありがとうございます」

 

 

所感

動機や犯人像の見えづらさ、比較的短時間の犯行ながらテープで口を塞ぎ、両手を拘束し、玄関ガラスが割られ、致命傷以外にも複数の切り傷があるなど多くのイベントが立て続けに起きている謎多き事件である。

 

まず筆者が引っ掛かる点は「午後6時までに帰宅し、20分頃までは家にいなければならない」とする友人証言である。それと聞くと誰かと会う約束があったようにも聞こえるが、携帯電話も普及していない当時、午後7時には習い事があり、6時半頃には母親が帰宅すると分かっている状況で誰かと待ち合わせたりするものだろうか。

たとえば恋人のような相手であれば、わざわざ習い事のある水曜日に自宅で会うというのは腑に落ちない。じっくり話したり遊んでいられる時間はなく、顔を合わせるだけ、何か物を渡す用事などがあったにせよ公園やお店の前など「外」で待ち合わせていれば済むことなのだ。

単に「早く帰宅したい」ことを友人に誤魔化しただけではないだろうか。学友らにバレエの習い事を周知していたかは記事などから読み取ることはできない。だが発表会が近かったことを鑑みれば、若花菜さんは気分が昂っており、普段より少し早めに帰宅して、母親が帰着次第すぐにもレッスンに行きたかったのではないか。友人たちにそうした感情を素直に話すのも少し照れ臭く思い、早く帰りたい理由を告げていなかっただけのように思われる。

集金に来た男性のように被害者と面識があり、玄関を開けさせる口実があれば侵入はいともたやすく思われる。当然警察もこの男性には厳しい疑いの目を向けたはずである。

集金男性の証言はやや曖昧な印象を受けるが、仮に「5時半から50分頃」という訪問時刻が正しければ、事件のあった27日よりも前に訪問していた可能性もあるのではないか。集金できていれば何かしら「集金済み」のチェックが記録されるはずだが、未納のままでは「受領日」は記録されていなかったはず。日付を誤解していたとすれば、ジャージとパーカーの謎もクリアできる。

あるいは別の家の集金先と記憶が入り混じっているとは考えられないだろうか。「同じ中学のジャージ姿」で「それらしい年頃の少女が留守番」していた記憶があれば、後から殺害のニュースを見知って「あの家の子が」と慌てて早合点してしまってもそれほどおかしなことではない。

 

市街はまだ帰宅者もあり、夕飯の支度時で在宅者も多い時間帯である。不在時を狙った日中や就寝時を狙う深夜の犯行ならばまだしも、侵入窃盗に入る頃合いとは些か考えづらい面がある。

被害者の学友であれば自宅を知っていても不思議はないが、殺害後ものうのうと学生生活を続けていたのであろうか。近郊の素行不良者などであればやはり動向をマークされるはずで、何かトラブルを起こせば取り調べにかけられる。犯行後も捕まらずに素行をあらためるとも考えにくい。

次兄は高校で応援団長であったため、それなりに目立つ存在であったと考えられる。また2人の兄の交友筋であれば、自宅を知っていたり、妹の存在を知っていてもおかしくはない。兄に対する恨みの報復を妹に向けたり、少女へのわいせつ目的に忍び入ったといった想像もできなくはないが、被害者家族の情報は限られているため妄想の域を出ない。

被害者宅に喫煙者はないことからすれば、おそらく灰皿もなかったであろう。93年当時は男性の喫煙率が年代によって50~60%前後あり、吸い殻の「ポイ捨て」はどこにでも見られる光景だった。犯人は吸い殻入りの空き缶を外から持ち込んだのではなく、「室内で喫煙する」ために缶を用いたと見てよい。

殺害後に気分を落ち着けるために喫煙する心理というのもありうるが、ガラスの割れる音から母親の帰宅までの時間的余裕はない。犯行前に室内でコーヒーを飲み干し、たばこ2本を吸っていたとすると、少なくとも6分から10分程度は滞在したと見込まれる。言わんとしていることは、犯人は「居間でしばし寛いでいた」ということである。そこから浮かび上がる状況は、家族の知人を騙って家に上がり込んだ可能性である。

実際に顔見知りだったか否かは分からない。被害者の連れ合いや友人であれば「習い事があるから」と退けられるところ、家族の知人となればおいそれと追い返すわけにもいかない。夕刻で帰宅も近い頃合いとみられ、被害者が「もうすぐ帰ると思います」と家に上げてしまったのか、「暗いし、ちょっと待たせてもらうわ」と犯人自ら上がり込んだのか。

 

時効前後にインターネット上で囁かれた怪情報のひとつとして、母親の不倫相手を疑う声もあった。確かにそうした旧知の人物であれば、被害者も「母は6時半ごろに帰る」と言って家に上げてもおかしくはない。だがまもなく帰宅すると知らされていながら娘に手を出すような衝動性の高い不倫相手であれば、警察に尻尾を掴まれていはしまいか。

未解決事件では、周知されない密かな人間関係として「不倫相手」犯人説は実しやかに「地元の噂」として流布されやすい。人々の性的好奇心を刺激し、本件では父親らが遠方で生活していたことや母親の聴取が長期に及んだこと、地元での聞き込みが繰り返され、一部に反感を買っていたことなどもそういった想像の補強につながったとみられる。

例えば近年では茨城県境町の一家殺傷事件でも、容疑者が浮上していなかった時期には、両親が殺害されて子どもたちは殺害されなかったことから「不倫相手に襲われた」とする説がネット上で広まった。

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不倫相手が殺傷事件を起こすこともあるが、基本的には不倫相手やその配偶者への攻撃が先んじる。日野不倫OL事件のように言葉も言えない赤ん坊を狙うのであればまだしも、中学生では攻撃対象の範疇には収まらないように思える。当時は偶々不在だったとはいえ、家族構成を知りうる犯人からすれば、被害者や母親より先に二男の兄が帰宅してくることも想定されたはずである。

いずれにせよ実際に親の不倫関係の容疑者が浮上していれば、被害者の兄も捜査機関や周辺住民に前述のような感謝のコメントを出していないのではないか。筆者としては、不倫相手説はデマだと結論付けたい。

 

読売新聞は、犯人は被害者の帰宅前に室内で待ち伏せしていたとする捜査本部の見方を紹介している。

家の構造からして、帰宅した若花菜さんは奥の部屋にいた侵入者に気づかないまま玄関から真っ直ぐ自室に向かうことは充分考えられる。彼女にフラれた男が豹変してストーカー行為に走った可能性も考えられるが、学生であれば「惚れた」「告られた」「フッた」「フラれた」といった恋愛事情は学友たちも比較的知るところであり、すぐに相手が判明しそうなものである。

 

犯人は彼女を待ち構えて潜伏していたというより、窃盗などで侵入したが帰宅に鉢合わせてしまったケースが思い浮かぶが、物色の痕跡もない。

筆者は、被害者の親世代に近い40代半ばのわいせつ犯の仕業ではないかと見ている。

犯人について確実に言えることは、粘着テープや刃物とみられる凶器を持参しており、殺意の確証こそないが何らかの犯意・計画性があったことは事実である。

 

強制わいせつの手口として、玄関からの押し込み事例がある。学生が帰宅時の玄関で解錠動作をしていれば、家族の不在が予測される。不可解な犯行時刻についても、犯人は下校時刻の女子学生を物色して目を付けられたとすれば受け入れやすい。友人と別れて一人で家路を急ぐ少女を「捕獲者」はつけ狙ったものか。

犯人は親の知人を騙るなどして、まんまと部屋に上がり込み、家人の不在を確認した。こたつに居座って煙草を取り出すと「灰皿もらえるかい?」等と言って油断を誘ったのかもしれない。

レッスンを控えているが親の客人を追い返すわけにもいかず、少女は飲み物か茶菓子、あるいは灰皿でも用意するために台所へと向かう。すると背後から男が忍び寄り、密かに持ち込んでいた刃物を彼女に向けた。

「大声を出すな。大人しく言うことを聞け」

逃げ道を塞がれて台所に追い詰められた少女は咄嗟に出刃包丁を取り出して抵抗を試みる。しかし腕力に劣って男に制されると、無理やり奥の寝室まで引きずり込まれた。

「無駄な抵抗はよせ。危ないものを使えなくしてやる」

テープで腕を拘束され、口を塞がれると少女は抵抗を見せなくなった。男は奪った出刃包丁の指紋を拭うと、缶コーヒーなどの指紋を拭き取りに行ったのか、金品でも物色する気になったのか、避妊具でも探そうと思ったのか、その場を離れた。

少女はその隙を見て俄かに立ち上がると玄関へと走り、手が使えないためドアを突き破ろうと体当たりしたがガラスが飛散しただけで逃走は失敗。気づいた男は、少女を引きずり戻して再び寝室へと押し込んだ。

「聞き分けが悪い娘だ。逃げられないようにしてやる」

嫌がる少女のズボンを強引に引きづり下ろした犯人は最後に忠告した。

「警察に何か話せば、最悪の場合、俺は捕まるかもしれない。だがお前は“強姦された”と一生後ろ指を刺されて、家族にも迷惑を掛けることになる。お前さえ黙っていれば、何も起こらなかったことになるんだ」

性犯罪は「親告罪」で被害者からの告訴がなければ起訴されない犯罪とされていた。強制わいせつが非親告罪となるのは2017年の刑法改正からである。以前は世間体や本人の精神的苦痛などを理由として、被害実数に比べて被害届が出された数ははるかに少なかったと見当されている。

しかし少女はその忠告を受け入れることなく、犯人に罵り返し、カッとなった犯人は下心も一瞬で醒め、代わりに刃物を突き立てた。

目的を逸した犯人はすぐに現場を後にし、予期せぬ殺害を犯して気が動転して吸い殻入りの缶を部屋に残して逃走。前歴者の洗い出しに引っかからなかったのは、初犯だったとも考えられるが、前述のようにそれまで「被害届を出されていなかった」累犯者の可能性もある。

 

犯人が「手袋をしていた」可能性も論じられるが、少なくとも缶コーヒーの蓋を開けたり、ビニール製粘着テープを切り貼りした際には「素手」だったと見るのが妥当である。それとも調理や手術など細かい作業で使われるような超薄手のゴム製手袋を93年当時に用いていたのであろうか。あくまで個人の想像に過ぎないが、鑑識、指紋検知において何がしかの不手際があったのではないかと疑っている。

XとYふたつの指紋があったとして、両者の「特徴点」が一致する確率は1/10程度とされる。一致が12点あれば、1/10の12乗(一兆分の一)の確立となり、XとYの合一が認められる「12点原則」というものがある。現場の不慣れなど鑑識の問題で、そうした精緻な鑑定に耐えうる精度の指紋が検出できていなかったのではないかという気がしてならない。指紋に細心の注意を払いながら、吸い殻入りの缶を残していく犯人像は、頭隠して尻隠さずと言うか、どうにも不釣り合いな印象を拭えない。

近くにあったとされる不審車両も犯人のものかは定かではない。車上生活者などだったとしても、事件で近辺にパトカーが出入りし、聞き込みが始まれば、居心地がいいものではないため、滞在場所を移動しただけかもしれない。現場は駅から徒歩10分ほどの近距離で、犯人の移動手段も自動車とは絞り切れない。

もしもを言い出せばきりはないが、現代、せめて2000年代の捜査技術、鑑識精度、DNA型鑑定があれば容疑者特定につながっていたにちがいなく、その無念は殊更に大きいコールドケースである。

 

被害者のご冥福とご家族の心の安寧をお祈りいたします。

 

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参考

はちのへ今昔: 時効せまる・若花菜さん殺し 1