いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

日野町酒店経営女性強盗殺人事件・日野町事件

犯行の動機、目的がはっきりせず迷宮入りが危ぶまれた酒店店主殺しで、3年後、常連客のひとりが逮捕された。事件発生から38年、確定判決から28年が経過した現在も元受刑者の雪冤を果たすべく遺族による死後再審請求が続けられている。

 

事件の概要

1985年1月18日、滋賀県蒲生郡日野町の椿野台団地造成地の草むらで高齢女性の遺体が発見された。女性は前月の84年12月から行方が分からなくなっていた同町豊田の自宅兼店舗で「ホームラン酒店」を営んでいた池元はつさん(69歳)と判明。

はつさんは12月28日夜まで平常通り酒店を営業していたが、翌29日朝10時半には所在が分からなくなっており、親類や地区の隣組などで捜索活動を行っていた。自宅から発見場所まで約8キロ離れており、遺体には首をひもで絞められたような痕跡があった。

 

酒店では土間に椅子を並べて量り売りでコップ酒を販売提供していたことから、飲み屋のように通う常連の「壺入り客」も多く、28日は午後7時半の客が最後とみられた。店ははつさん一人で切り盛りしており、室内からは住居奥の10畳間の押し入れに保管されていたベージュ色の手提げ金庫が紛失していた。

 

滋賀医大・龍野嘉紹教授の解剖により、舌骨の骨折などから死因は手指による頸部圧迫に基づく窒息死とされた。近隣住民の証言や食後30分前後とみられる消化状態から、死亡時刻は28日夜8時40分頃と推定された。

 

85年4月28日になって日野町石原の山林で山菜採りに訪れた住民が破壊された手提げ金庫を発見。

警察は被害者宅から犯人が奪ったものとみて強盗殺人事件と断定し、店の内情に詳しい地元民や出入り関係者らを中心に捜査を進めたが、犯人に結び付く物証などの有力な手掛かりは見つからなかった。

 

県警の焦り

警察は是が非でも犯人検挙を果たさねばならない事情があった。

地元署では以前から頭部切断死体遺棄事件が未解決のままとなっていた。

更に、その当時はグリコ・森永事件が国民から大きな注目を集めており、とりわけ滋賀県警は世論だけでなく警察組織全体から批判の槍玉にあげられていた。

 

グリコ・森永事件は84~85年にかけて、江崎グリコ社長の誘拐や青酸入り菓子を撒くなどして大手食品メーカー各社を立て続けに脅迫した未解決事件である。

1984年11月、犯人グループはハウス食品に対して現金1億円の引き渡しを要求。14日夜に受け渡しが行われることとなり、大阪・京都府警の合同捜査本部は近郊に多数の捜査員を配備して警戒に当たらせ、グループの摘発を期して現場に来る実行犯への尾行・接触はしないよう厳命していた。

当初は現金引き渡し場所として京都市内のレストランを指定した犯人は指定場所を次々と変え、名神高速道路の滋賀県・大津サービスエリア、草津パーキングエリアへと現金輸送車を東進させた。その間も以前から犯人グループのひとりと目された「キツネ目の男」の目撃が付近から報告されていた。

捜査本部は滋賀県警にも共助要請したが、名神高速道路エリア内は大阪府警が担当すると指示があり、犯人への接触を禁じていた。犯人側は、草津PAから名古屋方面に向かい、「白い布」が見えたらその下の缶に入れた指示書に従うよう指示。草津PAから東方約5キロ地点の防護フェンスに布があったものの、缶や指示書は発見できず。名神高速と交差する県道を一時封鎖したが犯人の姿はなく、その日の合同捜査は打ち切られた。

一方、事件捜査を聞かされていなかった所轄の滋賀県警外勤署員が「白い布」地点に近い栗東町川辺の県道近くで無灯火の不審な白色のライトバンを確認。パトカーを横付けして職務質問のため署員が近寄ると、ライトバンは急発進して逃走。その後、乗り捨てられているのが発見され、無線傍受装置から犯人グループの車両と思われた。

犯人の取り逃しやその行動が捜査本部の作戦を台無しにしたなど滋賀県警に対する批判が起こり、当該の警官は辞職を余儀なくされた。犯人側から各社への脅迫はその後も続いたが、このときが犯行グループとの最大の接点とされた。

翌85年8月7日には滋賀県警本部長・山本昌二が退職の当日に公舎の庭で焼身自殺を遂げる。遺書はないが犯人取り逃がしの失態を苦にしたものと見られている。マスコミや国民による非難の声も大きかったが、立場上、警察組織内部からの責任追及も苛烈を極めたことと想像される。

8月12日、犯人側から「くいもんの会社 いびるの もお やめや」との声明文が送り付けられ、一連の事件は終息。「しが県警の 山もと 死によった しがには ナカマもアジトも あらへんのに あほやな」「たたきあげの 山もと 男らしうに 死によった さかいに わしら こおでん やることに した」というのが終結の理由として記されていた。

 

悪名を馳せることとなった滋賀県警としてはもはや失態は許されず、必ずや名誉を挽回せねばならない立場にあったが、本件でも早期決着とはいかず、事件1年後には地元紙に「迷宮入りか」の文字が躍ることとなる。

 

3年越しの逮捕

事件から3年余が過ぎた1988年3月、日野署は酒店の壺入り客のひとりだった阪原弘(ひろむ・当時53歳)への聴取を再開。取り調べ3日目に「酒代ほしさに殺した」と男は自白を開始し、3月12日、強盗殺人容疑で逮捕され、大津地検へ送検された。

 

阪原は85年9月17日の段階で任意聴取を受けていたが、本人は関与を全面否定、妻のつや子さんも「(夫は)事件当夜、知人宅に泊まりに行っていた」と供述。指紋採取やポリグラフ検査まで行われたが、そのときはシロと判断されていた。

この任意聴取も「失踪時の捜索活動や後の葬儀に出席していなかった」という論拠で嫌疑をかけられたもので、逆説的にそれだけ決め手に欠ける警察側の苦境をも意味した。被害者とは隣組も別であり、日頃から親しくしてはいたが周辺住民全員が捜し回ったり葬儀に参列していた訳でもなく、疑惑の根拠としては薄弱すぎるものであった。

だが86年3月に着任した捜査主任官は改めて阪原への身辺調査を進め、被害者の着衣から採取された微物と阪原の職場の作業服に付着していた鉄粒が一致するとの検査結果を得て、88年の本格的な取り調べに至った。

 

しかしそもそも「酒代ほしさ」という動機には矛盾があった。阪原家では子どもたちもすでに自立して夫婦も共働きに出ており、合わせて2千数百万円にもなる充分な蓄えがあった。事件当時は娘たちの結婚も間近に控え、家族は満ち足りた生活を送っていた。

否認を続けた阪原に対して、取調官3人は首根っこを掴んだり椅子ごと蹴り飛ばしたり、先のとがった鉛筆の束で頭を刺すといった暴行を繰り返し、家族への脅迫と取れる発言で精神的に追い詰めていった。否認しても取調官は納得しない、抵抗を続ければ罪が重くされるのではないか、と阪原は弱気になり、とうとう自分がやりましたと口にすると、3人はにやりと笑みをこぼしたという。

逮捕後、阪原の長女・美和子さんは自分はやっていない、お前達だけでも信じてほしいと嘆く父親に「やってもいないのにどうして自白なんかしたんよ」と叱責した。阪原は「お前たちのためなんや」「どんなに叩かれても蹴られても怒鳴られても我慢は出来た。でも刑事から『(娘の)嫁ぎ先に行ってガタガタにしたろうか』と言われて我慢できんかった」と涙ながらに語った。こどもたちは、お父さんは自分がどうなっても構わないと言うが「私たちが殺人犯の子や孫にされていいのか」と阪原の過ちを責め、そこで阪原も取り返しのつかないことをしたとようやく我に返った。

 

3月21日、金庫が発見された石原山での引当捜査が行われ、阪原は送電用の鉄塔から約50メートル離れた発見地点の傾斜地まで捜査員たちを案内した。29日の死体の見つかった宅地造成地での引当捜査でも現場へと先導し、後の公判では犯人しか知りえない「秘密の暴露」とみなされることとなった。

4月2日、強盗殺人罪で起訴。

 

無期懲役

1985年5月17日、大津地方裁判所で第一回公判が開始。

検察側は決定的な証拠はなかったものの、情況証拠を積み重ねて犯行を立証、弁護側は自白の信用性・任意性を争点とし、客観的事実との食い違いを追及し、その審理は7年半に及んだ。

被告人が全面的に否認した公訴事実は次のようなものである。

12月28日夜8時40分頃、店内の土間にいた被告人は、部屋続きの6畳間で帳面を付けていた被害者の右背後に回り込んで前後から両手で首を絞めつけて殺害。9時ごろ、死体を軽トラックの荷台に載せて運び、町内の宅地造成地に遺棄した。

再び店に戻ると金庫を奪い、ひと気のない山林でホイルレンチを用いて無理やりこじ開け、中にあった現金約5万円を奪ったというもの。

自宅兼店舗の略図。
犯人はなぜか10畳間押し入れの手提げ金庫だけを奪った

阪原の自白証言を見ていくと多くの矛盾があった。

使用された車両は2サイクルエンジンの軽トラックで、遺体を積む際に店の前の坂道をバックで上ってきたとされる。夜の閑静な住宅地ではそのエンジン音が大きく響き渡る。

まして向かいの住人女性は「事件当夜の8時過ぎ、被害者がだれかと話している声が聞こえた」と証言。相手の声は聞かれず電話か客人か、会話の全容などは分からなかったものの、周囲の静けさや家屋の遮音性が低かった状況を示す一方、異常な物音や悲鳴などは聞かれていなかった。同じ家に住む男性も軽トラの音は耳にしなかったという。

 

また酒店から遺棄現場までのルートも不可解なもので、犯行時刻でも車通りのある「日野ギンザ」と呼ばれる市街地を通過したとされている。軽トラックの荷台では腰ほどの高さしかなく、通りには街灯も多い。目隠しで覆わなければ通行人や後方車からでも目に付きやすく、バスなどが横切れば車内からでも丸見えの状態である。更には土地鑑のある者ならば避けるであろう警察署の目の前を通過するという道順を示していた。

 

奪ったとされるベージュ色の手提げ金庫は奥の10畳間の押し入れにあったもので、店の客がその所在を知っていたとは考えにくい。また店のレジ(現金約3000円)、店舗部分とつながる6畳間には売上げ管理用の緑色の手提げ金庫(現金約3000円)、東の6畳間には家具に模した据え置き型の金庫(現金約29万円)があったが、いずれも中の現金は手付かずのまま残されていた。据え置き型金庫にはカギを差したままの状態で、被害者が使ってそのままの状態にしていたものと思われる。

検察側は帳簿整理のためにベージュ色の手提げ金庫も6畳間に持ち出していたと推測したが、親族によれば被害者の亡き夫が収集していた古銭や記念硬貨などの遺品が入っていたと見られている。目の前のレジなどの金には手を付けず、東の6畳間の金庫には気づかないという不可解な物盗りで、酒代ほしさに売上金を狙ったという自白とは噛みあわない。

山で見つかったベージュ色の手提げ金庫には、上蓋に幅15ミリ、深さ2.5ミリの凹み傷が確認されていた。自白によれば、ホイルレンチを用いて上蓋部分を支点にてこの原理でカギを破壊してこじ開けたとされている。だが自白に基づく再現実験では取手部分が破損するだけで解錠させることはできなかった。何か別の器具を用いたとも考えられるが、そもそも犯人が付けた傷とも断定できない。

 

検察側は情況証拠として、酒店から直近の交差点で夜7時45分前後に被告人の歩く姿と駐車された軽トラックを見かけたとする目撃証言が提出された。この証言は事件発生の4か月後に出てきたものである。

だが別の女性は、上の目撃よりも犯行時刻に近い夜8時と8時半前後に同じ交差点を往復していたが、該当するような軽トラックは停車されていなかったと断言しており、そのことは事件直後から警察には何度も伝えていたという。

 

85年の任意聴取の際に採取されていた被告人の指紋と、被害者方の机の引き出しにあった丸鏡から検出した指紋が合致し、室内を物色した間接証拠とされた。だが常識的に考えれば、素手で犯行に及んでいれば机や扉、発見された金庫などいたるところから指紋が検出されるのが自然に思われる。室内を荒探ししたというより、以前に被害者の手鏡を借りた場面の方が納得しやすいのではないか。

アリバイ証言で宿泊先となったとされる知人、酒盛りに同席したとされる人たちは、警察の聴取に対してその場に被告人はいなかったと証言。被告人は虚偽のアリバイ証言をしたとみなされ、これは有罪の心証を深めることとなった。

 

さらに検察側は審理終盤の論告求刑の直前になって予備的訴因の追加を行い、犯行日時、殺害現場の範囲を拡大し、被害品を曖昧な内容へと変更した

殺害時刻を「午後8時40分頃」から「夜8時頃から翌朝8時半までの間」と半日以上もの幅をとって延長、殺害現場は「被害者宅の店舗6畳間」から「日野町およびその周辺地域」へと拡大した。盗品被害についても金庫から奪ったとされる「5万円」はなきものとされ、10円硬貨、5銭硬貨ほか16点(時価不詳)と2000円相当の手提げ金庫そのものが被害金額とされ、裁判所は刑事訴訟法312条に則って訴因変更を全て認めた。

第三百十二条 裁判所は、検察官の請求があるときは、公訴事実の同一性を害しない限度において、起訴状に記載された訴因又は罰条の追加、撤回又は変更を許さなければならない。

② 裁判所は、審理の経過に鑑み適当と認めるときは、訴因又は罰条を追加又は変更すべきことを命ずることができる。

③ 裁判所は、訴因又は罰条の追加、撤回又は変更があつたときは、速やかに追加、撤回又は変更された部分を被告人に通知しなければならない。

④ 裁判所は、訴因又は罰条の追加又は変更により被告人の防禦に実質的な不利益を生ずる虞があると認めるときは、被告人又は弁護人の請求により、決定で、被告人に充分な防禦の準備をさせるため必要な期間公判手続を停止しなければならない。

検察側は罪となる事実を立証しなくてはならず、証拠から特定された訴因が「公訴事実の同一性を害しない限度において」追加されることには問題はない。だが検察側が一方的に犯行可能性を抽象化することで、いつ・どこで為されたかも分からない事件裁判が罷り通ってよいものなのか。

結審後、担当陪席裁判官から弁護人に内緒で追加の指摘があったと報じられ、検察側は裁判所からの誘導の事実を認めている。それまでの訴因では自白の信用性が維持できないことを案じ、裁判官から対応策を授けたとみられている。その点でも「有罪ありきの審理」を急ぐ裁判所の姿勢が浮き彫りとなった。栃木県の今市事件・控訴審でみられた後出しの訴因変更とよく似通った手口である。

弁護側は、ひとつの裁判でふたつの訴訟を防御させられるに等しく、訴因変更が本来とは異なる検察側の「逃げ道」に用いられている現状がある。時代劇の悪代官と奉行所のごとき腐敗、検察と裁判所の構造的癒着など言語道断である。

阪原の次女・則子さんは、裁判官は父が無実と分かってくれるはずだと信じてきたが、訴因変更の誘導記事を見て、「(裁判所と検察は)グルなんやなって。こんなんで無罪なんかありえへんわなって」「真犯人を連れて行っても『それでも阪原広が犯人や』って言われるんじゃないかっていうくらいひどい判決」とその実態に失望したという。

イメージ



1995年6月30日、大津地裁(中川隆司裁判長)は無期懲役判決を下す。

微物鑑定の結果については犯人との結びつきは不明と判断するほかなく証拠価値はないとし、自白については事実認定ができるほど信用性が高いとは言えないと判断。

また発見された金庫が犯人の手でこじ開けられたとすると犯行前に施錠されたままだったということになる。出納管理などの際に6畳間に持ち出されていたとすれば開いていなければおかしいと疑問も呈している。しかし客観的事実との食い違いに気づきながらも、判決はホイルレンチでの破壊という検察側のストーリーを事実と認定。

「目撃情報」「丸鏡の指紋」「引当捜査での現場指示」「捜索活動や葬儀への不参加」「虚偽のアリバイ供述」といった情況証拠のみで被告人が犯人であることに矛盾はないと認定した。

 

二審・大阪高裁(田崎文夫裁判長)は、一審とは逆に、それぞれの情況証拠は被告人と犯行を結び付けるものではないと判断しながら、自白について一部疑問は残るが根幹部分は十分信用できるとした。アリバイの虚偽性などと併せて判断すればその犯人性は揺るがないとして、1997年5月30日、控訴を棄却。

2000年9月27日、最高裁判所第三小法廷は上告を棄却。

10月13日に弁護側の異議申し立てを棄却し、無期懲役が確定した。

 

受刑者となった阪原は翌2001年に剖検記録等の証拠保全を請求。自白の殺害方法と客観的事実が異なること、丸鏡の指紋、金庫の傷、遺体の手首結束などの鑑定、知人宅で寝込んでいたと証言する知人の証言テープなどを加えて新証拠とした再審請求を11月に行った。翌年には日弁連などの支援を得、阪原の家族らは地元で冤罪への理解を懸命に呼びかけている。

新証拠の中でもとりわけ殺害方法に関する鑑定は、自白供述の根幹部分の信頼を覆すものと期待されている。被害者の首にはひもで絞めた痕があり、顔と首に指でできたような痕が残されていた。当時の解剖所見では「扼殺」とされ、自白は右後方から両手で前後から挟み込むようにして絞めた後、念のために背後から紐でもう一度締め直したものとされていた。

だが大阪府監察医事務所・河野朗久医師は窒息にひもを用いた「絞殺」の可能性が高いと指摘し、輪っか状にしたひもを頭上から通して首元で締め上げたことが窺われ、指の跡は犯人が締め付けた痕ではなく被害者がひもを斥けようと抵抗してできた、いわゆる「吉川線」だという。

 

さらに証拠開示を追及した結果、警察から検察側へ送致した証拠目録一覧表を獲得。これはその後の開示請求に役立っただけでなく、速やかな公判前整理手続きを促す証拠一覧開示制度の法改正へとつながった。

刑訴法316条の14第2項

証人、鑑定人、通訳人又は翻訳人 その氏名及び住居を知る機会を与え、かつ、その者の供述録取書等のうち、その者が公判期日において供述すると思料する内容が明らかになるもの(当該供述録取書等が存在しないとき、又はこれを閲覧させることが相当でないと認めるときにあっては、その者が公判期日において供述すると思料する内容の要旨を記載した書面)を閲覧する機会(弁護人に対しては、閲覧し、かつ、謄写する機会)を与えること。

2006年3月27日、大津地裁(長井秀典裁判長)は阪原の再審請求を棄却した。

弁護側の主張する数々の自白の矛盾を認めながらも、犯行形態など客観的証拠との食いちがいは記憶違いに基づくものと説明可能とし、知人によるアリバイ証言についても事件発生から時間経過があるため信用性に疑問があるとして認めなかった。

徳島ラジオ商殺し事件で再審開始決定を出した元裁判官の秋山賢三弁護士は、脆弱な情況証拠、曖昧な自白であっても検察の言うことを想像力で補おうとする「疑わしきは検察官の利益に」という慣行が裁判所には蔓延っていると指摘する。

 

弁護団は大阪高裁に即時抗告したものの、その後、体調を崩した阪原は長期入院を要し、2011年3月18日に帰らぬ人となった。享年75歳。

「学もない、法も分からない自分がどうすればいいのか分かりません」

晩年、入院先で支援者が撮影したビデオ映像には、弱々しい老父がことばを絞り出している様子が見受けられる。お人よし過ぎる性格だったという阪原を、しっかり者の妻が支えていたと語られる。取調官らはそうした性格に付け込んだのか、彼は最期まで冤罪の理不尽に苦しみ続けた。

「生きて無実を晴らしてやれなかった、助けられなかった父に許してほしい」

翌年、遺族は阪原の遺志を継ぎ、被害者がコードレスフォンを用いていたとする新証拠を加えて、第2次再審請求を申し立てた。

弁護団は自白の突き崩しを狙って金庫遺棄現場での引当捜査で撮影された際のネガの公開を請求。確定判決では元受刑囚が自発的に案内した証拠として重視されていたが、現場に向かう阪原を正面から捉えた写真があり、弁護側はそれをもって阪原が先導していた訳ではないことの証拠としたい狙いがあった。だが改めてネガで確認してみると、帰り道の阪原の写真を証拠書類では先導して案内するものと紹介していた順序を入れ替える捏造が判明。

更に状況を確認すると、現場まで数十メートルまで車で近づける小径があったにもかかわらず、阪原は400メートル余り手前で車を離れ、獣道のような斜面を右往左往、登り下りしながら鉄塔までたどり着き、更に50メートル以上下った松の木の根元に遺棄したと説明したされる。殺害から時間も経った明け方近くとされているが、極寒の中、どうして金庫を捨てるためにそんな場所まで立ち入ったと言えるだろうか。鉄塔の目印や、腰ひもをもった捜査官の指示誘導などでの案内が疑われている。

この疑惑から弁護団、裁判所は更なる証拠開示を検察側に求めることとなった。

また2012年9月には弁護団が求めていた裁判官による非公式の現場視察が実現した。

2018年7月11日、大津地裁(今井輝幸裁判長)は再審開始を決定。

地裁は、事実認定の根幹とされたた自白における殺害様態、死体遺棄、金庫の強取、室内物色の重要部分で信用性を認めることはできず、客観的事実とのずれは記憶の欠落では説明がつかないと判断。取り調べにおいて強要があった可能性を認め、自白の任意性を否定した。引当捜査における捜査官による場所の誘導指示については認めなかったものの、無意識的な相互作用によって案内できた可能性があるとして有罪の根拠とするには合理的な疑いがあるとした。

17日、検察は再審開始決定に対して大阪高裁に即時抗告。

これに対し、開始決定を出した裁判官3人が大阪高裁に「看過できない重大な理解不足がほぼ全体にわたって随所に見受けられる」と検察を批判する意見書を提出していたことが京都新聞の取材で分かっている。検察への反論意見書は10ページにわたり、ここまで詳述したものは異例だと言う。

 

2023年2月27日、大阪高裁(石川恭司裁判長)は再審開始を認めた大津地裁の決定を支持し、検察側の即時抗告を棄却。

3月6日、検察側は最高裁への特別抗告を行う。再審開始の可否はいまだ決していない。

 

-----

 

所感

自白が再審の争点となるのは当然の流れだが、これだけ自白を否定する客観的事実が明らかになって尚、条件付きで「自白は信用できる」と言い張ってきた裁判所は時代錯誤の自白偏重へと陥っているかに思える。

また被害者の通話記録など警察から検察へも渡っていない元受刑者の無実を示しうる証拠も埋もれていることが考えられる。警察と検察の力関係によるものなのか、集められた証拠のすべてが全て裁判で俎上に上がるということはない。

無実の人でもだれでも構わないから「犯人」を挙げてくれと国民は考えていない。取り調べでの脅迫、証拠の隠蔽、捏造、どんな手を使ってでも厳刑を与えよという近世以前に逆行する国家に権力を仮託した覚えはない。捜査員も取調官も検察官、裁判官も人はだれしも過ちを犯す可能性がある。しかし国民は結託した冤罪を望んではおらず、公正な審理と真実の先にのみ真相解明を求めているのである。

過去の数多の冤罪からそのやりくちは大きく逸脱しておらず20世紀も21世紀の今日も同じような過ちが刑事司法では常態化している。冤罪を負け戦と捉えて反省をしようとしない、法や制度設計にフィードバックされていない現状を物語っている。そうした態度は冤罪犠牲者のみならず、事件被害者にも不誠実な態度だと私は思う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたしますとともに、阪原さんの名誉回復の実現を願います。

 

 

参考

平成24年・大津地裁・再審開始決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/121/088121_hanrei.pdf

令和5年・大阪高裁・抗告棄却決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/004/092004_hanrei.pdf