いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

西成女医不審死事件について

大阪市西成区で生活困窮者の支援活動を行っていた女性医師が水死体となって発見された。警察は自殺と判断したが、遺体や行方不明の状況から事件性が高いとして遺族は再捜査を求めた。「釜ヶ崎」の人びとから「さっちゃん先生」と愛された彼女はどうして死ななくてはならなかったのか。

 

情報提供は 大阪府警西成警察署 06-6648-1234 まで

 

概要

2009年(平成21年)11月16日(月)1時20分頃、大阪市大正区の木津川千本松渡船場を訪れていた釣り人が川の中に女性の水死体を発見する。

女性は13日(金)の深夜から行方が分からなくなっていた西成区「くろかわ診療所」に勤務する内科医・矢島祥子(さちこ)さん(34)と判明する。

 

失踪当夜の矢島さんについて、13日22時ごろに一人で残業していた姿を黒川所長と看護師が最後に目撃している。その後、23時過ぎに診療所を出たとみられるカードキーの使用履歴があった。

しかしそれから20分後に防犯システムを解除して再び入室した記録もあった。14日(土)4時18分頃、診療所の警報システムが作動。一般的な誤作動であれば利用者からすぐに警備会社に警報の解除を行うように連絡するはずだがそれもなく、30分後に警備会社が駆け付けた。だが所内は無人状態で、室内に荒らされたような形跡もなかったことから「異常なし」と報告された。

このときの出入りにも矢島さんのカードキーが使用されていたが、診療所に立ち入ったのが本人だったのかどうかは確認できていない。

 

14日朝、出勤してこない矢島さんを心配した診療所スタッフが彼女の自宅を訪問した際、部屋は無施錠で無人だった。また診療所にある彼女が使用していたパソコンを確認したところ、警報作動直前の4時15分に患者カルテをバックアップしていた形跡があったという。また4時50分には知人に「15日に会えなくなった」旨のメールが送信され、以降の音信は途絶えた。

15日(日)朝、診療所スタッフは依然として矢島さんとの連絡が取れなかったことから西成署に捜索を依頼するが受理されず。10時頃、黒川渡所長から群馬に住む矢島さんの家族に行方不明であることが伝えられ、群馬県警高崎署に捜索願が提出された。

15日に矢島さんの暮らす部屋の中を確認した際には、通勤に使用するカバンが残されていたほか、自宅、診療所、デスク、ロッカー等の鍵をまとめた束が発見された。

 

大阪市立大・前田均教授が行った司法解剖によれば、推定死亡日時は14日未明とされ、死因は溺死」と推認された。西成署は、矢島さんが連日遅くまで働いていたことや周囲から自殺だとする声が挙がったことなどから過労による自殺の可能性が高いと判断し、ほどなく捜査は打ち切られた。

遺族は警察側の自殺を基調とした見方や捜査に消極的な「粗末な説明」に不信感を抱いた。ともに医師であった両親は遺体状況や検案書の内容に不自然さがあると指摘し、頭部にあった大きな瘤(こぶ)については西成署も生存中にできたものと認めた。

遺族は他殺ではないかとの疑いを深め、支援者らと共に「さっちゃんの会」を立ち上げて再捜査を訴え、10年8月から元兵庫県警飛松五男氏に調査を依頼。元東京都監察医・上野正彦氏にも相談して見解を求めた(2011年3月11日現場検証)。

 

遺族は釜ヶ崎に通いながら情報発信や再捜査要望の講演活動を行い、2010年9月14日までに4830人分の署名を集め、再捜査の要望書が大阪府公安委員会に提出された。報道番組への出演などで事件性を訴え続け、その後の署名数は約4万人分にまで膨れ上がった。

11年2月25日には矢島家のある群馬県高崎に地盤を持つ民主党中島政希議員(当時)が事件について国会で取り上げた。金高雅仁警察庁刑事局長は「これまでの捜査からは必ずしも犯罪であるということを明確に断定できる状況は出て来ていない。事件事故両方の観点から捜査を尽くしている」と答弁した。

遺族が提出した殺人および死体遺棄の告訴状が2012年8月22日に受理され、殺人事件と断定はされなかったが、殺害の疑いのある刑事事件として自殺、他殺両面での捜査が継続されることとされた(死体遺棄は同年11月15日時効成立)。

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その後も遺族は西成署や「釜の仲間たち」と定期的に情報交換を重ね、月命日の14日には講演会や音楽イベントなどを通じて呼びかけを続けているが、事件から14年が経った現在も全容解明には至っていない。

 

「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」

この事件について語る際、「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」という3つの地名が用いられる。それらの呼称と地域の成り立ちについて簡単に確認しておく。

 

「西成」は大阪市の行政区で、東に阿倍野区、西に大正区、南に住吉区住之江区、北は浪速区天王寺区に囲まれている。「釜ヶ崎」は西成区内の北東部に位置する狭い範囲(地名でいえば萩野茶屋、太子界隈)を指す俗称で、固有の地名は今日の地図上には存在しない。

明治初期にまで遡れば「西成郡今宮村字釜ヶ崎」という地名があった。江戸後期、大阪の都市化に伴って天王寺・難波など各地に無宿人の集まる木賃宿街が成立していたが、市政拡張や鉄道敷設、コレラの感染予防や1903年内国勧業博覧会に伴って度重なる取り締まりを受けた。行き場を失った生活困窮者たちは安息の地を求めて流れ着いたのが当時、低湿地帯で田畑しかなかった釜ヶ崎地域で、明治期後半には集住が進み木賃宿(ドヤ)街が成立した。

1912年に「新世界」、16年に「飛田遊郭」が誕生して周辺地域も市街化が進み、22年に町名改正に伴って釜ヶ崎の地名が失われた。大正期には「大大阪時代」と呼ばれて大阪都市部は目覚ましい発展を遂げた一方、1930年の昭和恐慌で財を失った人々、第二次大戦で焼け出された被災者たちは浮浪者・貧困対策に手厚い「釜ヶ崎」の地へと流れ着いたとされる。

 

戦後の復興、その後の大阪万博、高度経済成長期を裏で支えたのはこの場所に集まってきた日雇い労働者たちだった。3万人余が集住し、貧しくも活況を呈していた1961年、警官が車にはねられた労働者をしばらく放置したとして「釜ヶ崎暴動」へと発展する。

70年代前半は新左翼流入して暴動を扇動することとなり、連日の騒動がTVで報じられると、釜ヶ崎ホームレス、貧困、犯罪が根付いた危険な町というパブリックイメージが定着する。

政府、府、市は「釜ヶ崎」対策の一つとして、そうした悪いイメージを払しょくするため、1966年以降は「あいりん地区」という呼称を用いるようになった。

その後も、日雇い労働を求めて集まる人々は後を絶たず、貧困・失業者たちを支援する団体が寝場所と食、人権と十分な福祉を求めて、連帯と「闘争」の活動拠点となった。そうした歴史的経緯を踏まえ、人々の間で「釜ヶ崎」という呼称が失われることはなかった。

一方で悪名の浸透もあって若者の流出や子育て人口の少なさ、男性比率の極端な多さによって、歪な人口ピラミッドが形成されていった。1970年代に最も多かった30代~40代人口がそのままスライドするようにして2000年代には60代から70代人口となった。

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かつての「労働者の町」では、建設現場など肉体労働の仕事を世話する手配師によって上前のピンハネが問題視され、新左翼たちは手配師ややくざ者からの暴力や不当搾取に激しく反発してきた。だが今日では「ピンハネしようがないほど低賃金の仕事」ばかりだと言い、高齢者の増加に伴って軽作業や自転車整理、清掃作業など社会的就労機会としての雇用捻出が増加している。

身寄りのない「高齢者の町」へと変貌した釜ヶ崎界隈では、住宅付き介護施設の整備が急速に進んでおり、施設も生活保護の受給手続き支援を積極的に行っている。それと聞くと福祉の手厚さというポジティブな印象も受けるが、審査の甘さが不正受給増加の一因とも言われている。

さらに生活保護受給者らに流入する多額の生活保障、医療保障に群がる「貧困ビジネス」が蔓延している。貧困対策として行政から支給される額が大きいため、福祉施設側としては一般的な在宅ケアよりも生活保護受給者を受け入れた方が実入りがよいとされ、大きな事業所では無宿者向け住居を併設し、家賃と介護費用の二重取りが行われている。

悪質な医院では無宿者を診療したと架空請求を行って不正に利益を得たり、必要がないと知りながらも大量の薬剤を処方する医院・薬局も少なくない。戦後の闇市のごとく出処不明の品々を並べた路上販売は地域の名物になっていたが、生活保護受給者が不正に得た睡眠薬向精神薬を転売して日銭を稼ぎ、違法薬物の流通を拡大させるルートにも変貌する。違法な手段で得た金で生活の立て直しを図ろうとする者はなく、酒や薬物への依存を深刻化させるか、公園の一角で開かれる賭場ですぐに溶けて消えるのである。

 

2008年2月、タレント弁護士として人気を博していた橋下徹大阪府知事に就任。早々に1000億円の歳出削減を見込んだ財政再建プログラムを立ち上げ、情報公開の徹底や公会計制度の見直し、補助金漬けとの批判が大きかった同和問題や府暴排条例にも着手した。大阪は街頭犯罪やひったくりの多さで悪名を誇っていたことから犯罪情勢にも厳しい対応を求め、警察庁に警察官定員の増員を認めさせたほか、防犯カメラ設置、巡回指導体制の強化、捜査システムの整備を進めるなど治安対策が推進された。その後、大阪都構想を掲げて地域政党大阪維新の会を結成し、11年には第19代大阪市長に就任した。

2012年、橋下市政下で西成区の治安や環境改善のための特区構想が推進され、総額118億円の予算が投入された。大規模な浄化作戦が行われ、通りには監視カメラが多数設置され、路上販売、職安界隈を根城とした闇金の出張所、公園に公然と立てられていた多くの賭場も、度重なる摘発と環境美化によってほとんど見られなくなり、町の風景は様変わりした。

同時期、インバウンド需要の拡大と共に「大阪のディープスポット」として国外でもその名が知られるようになり、コロナ禍前には日に2000人近い外国人が訪れていたという。インバウンドの受益とは全く無関係な日雇い労働者や、「美化」の名目で排斥されて街を漂う行路生活者の姿は半ば見世物化され、その数を減らしていった。彼らはどこに消えたというのか。

 

さっちゃん先生

矢島祥子さんは1975年、群馬県高崎市生まれ、兄2人弟1人の4人きょうだいで育った。両親は祥子さんが1歳半の頃に診療所を開設。幼少期には泣いている人を見ては共感してもらい泣きする子どもだったという。

両親と同じ医師の道を志し、1993年に群馬大医学部に入学。1994年1月には受洗してクリスチャンとなり、インドへマザー・テレサに会いに訪れたこともあったという。99年に卒業すると沖縄県うるま市の県立中部病院勤務を経て、2001年から大阪市にある淀川キリスト教病院に内科医として赴任した。

当初は産科医の勉強をしていた矢島さんだったが、ネパールでの海外医療ボランティア等を経て貧困地域の抱える医療問題に関心を深め、帰国後も東京・山谷、横浜・寿町など寄せ場に生きる人たちの医療支援に取り組んだ。兄も何度か行動を共にしたが、インドや寄せ場といった不用意に入るべきではないような場所へも進んで歩み寄る彼女の危機意識を疑ったと綴っている。

2004年10月には両親に宛てた手紙の中で、群馬に戻って実家の上大類(かみおおるい)病院の跡を継ぐことができない、「自分がずっとやりたいと思ってきたことをやっていきたい」とその決意を伝えた。

 

2007年4月から西成区鶴見橋商店街にある「くろかわ診療所」(05年12月開所)に勤め、週5-6日の外来、週5の往診を受け持ち、休日・夜間も電話での相談や往診要請に応えてきた。さらに診療だけでなく生活支援、地域の見廻り活動等にも精力的に取り組んでいた。

日雇い労働者や生活困窮者たちには、経済的不安や心理的抵抗感から重篤化して動けなくなるまで医療にかからないケースが多く、アルコールや覚醒剤への依存から抜け出せない人、慢性疾患を抱えた者も多い。黒川医師らと共に毎週夜回り活動を行い、そうした人々の話に耳を傾け、路上で凍えないための寝袋や適切な医療を提供し、必要に応じて生活支援につなげるといった献身的な生活を送っていた。

活動の根底には一時的なボランティア精神ではなく、彼女が理想とする医療への信念があった。生活困窮者と共に生活を送り、「ここで、家族への思いを抱え、過酷な労働条件の中で生きてきた人々が、安らいでその生涯を閉じられるような関りができたらという夢があります」と神父への手紙にその使命感を綴っていた。

 

矢島さんを知る医師は、通常の支援者の場合は自分の生活や活動継続のために「自分たちができるのはここまで」とどこかで線引きをしてしまうが、彼女は時間もお金も「生活のすべてを惜しげもなく支援に捧げていた」と述べ、宗教心のない自分でも彼女の活動や人間性には「信仰の力を感じた」と振り返っている。

群馬大時代の恩師・中島孝氏も矢島さんの死に疑問を呈しており、彼女が高い志を持って医療や支援活動に従事していたことに加え、「クリスチャンであることからも自殺の可能性が低いことは一般の方々でも容易に察しが付く」と指摘する。

だが信仰に基づく高潔な生活態度はときとして現実社会との摩擦を引き起こすこともある。事実、薬物中毒患者の対応をめぐっては売人と揉め事を起こして脅迫を受けることもあったと言われる。また兄のひろしさんも感じていたように、彼女の人並み外れた使命感や正義感から自分の身辺への危機意識が働かなかったのかもしれない。

不正が罷り通る現実を目の当たりにして憤りを募らせた矢島さんが何か告発を行うつもりでいたために、それを快く思わない相手から口封じのため殺害されたのではないか、といった見方がネット市民の間では多く囁かれている。

 

かつて路上生活者だった佐藤豊さんは、矢島さんに自殺したいと口にしたところ、「そんなこと言うたらあかん」と強く諫められたと振り返った。彼女の熱心な支えによって男性は生活を立て直したと言い、「あんな笑顔をくれる人が自殺なんてするはずがない」と話し、恩人の不審死の再捜査を求めて集会活動や取材対応にも積極的に関わっていた。

だがおよそ3年後の2012年8月6日、西成区花園北のアパートが火災に遭い、全焼した3階自室で一人暮らししていた佐藤さんが遺体となって発見される。119番通報したのは佐藤さんのケアを担当していた福祉職員男性で、彼と50代の住人男性は煙を吸って病院に搬送されたがいずれも軽症であった。

因果関係は確認されていないものの、ネット上では、矢島さんの死を風化させたい犯行勢力によって佐藤さんも殺害されたのではないか、といった見方も流布される。

筆者は佐藤さんの暮らしぶりや病状について詳しく知らないが、亡くなった時点で64歳、福祉支援を要していたことからも病状は進行し、矢島さんとの別れもあって心身の疲弊・衰弱もあったと考えられる。現場に他殺の証拠となるものはなく、持病の悪化から生活に支障があったとみられ、事故死や自殺のリスクも相当に高かったのではないかと思う。

 

元患者だった塩野澄江さん(80)は、矢島医師から生前「あんたが死ぬまで私が面倒を見る」と何遍も言われてきたと述べ、遺体発見当初から「これは自殺じゃなく他殺だ、間違いなく」と声を挙げてきた。

一時的な善意ではなく平静の、素の感覚で困窮者の救済に奔走し、元路上生活者たちとも取り繕うことなく語り合い「さっちゃん先生」と呼ばれて親しまれていた矢島さん。事件性を疑い、真相解明を求めて遠方から通い、ビラ配りや署名活動などを続ける遺族の支えとなったのは、生前のさっちゃん先生に恩義を受けた「釜の仲間たち」であった。

 

疑い

そもそも家族が違和感を感じたのは、行方不明の連絡を受けたときからだった。

「祥子さんが行方不明です。高崎署に捜索願を出してください

開口一番そう口にしたのは矢島さんの上司にあたる黒川医師であった。一般的にはまず「連絡が取れず自宅にもいないのだがご実家に戻られていないか」「本人から何か聞かされていないか、心当たりはないか」といったやりとりが為されると考えられ、あまりに性急な印象を受ける。

家族が受話器を置くと、すぐに診療所からFAXが届いた。最終目撃や診療所の警報、自宅訪問などこれまで医師らが取った確認行動の経緯・判断を事細かに箇条書きしたものだった。たしかに遠隔地での行方不明を届け出るためにそうした書面は有効に違いなく、医師の用意周到な気配りで電話を寄越す前にまとめていたものと思われた。

しかし一般的な感覚に照らせば、親元から遠く離れて治安に不安のある街で単身暮らす女性のこと、「行方不明と判断した経緯」をまとめるよりも何より先に家族に連絡を入れて然るべきかと思う。

くろかわ診療所のある商店街周辺で家族や支援者らは度々ビラ配りの街宣活動を行ったが、診療所の向かいにある理容室では事件から5か月経っても行方不明になったことさえ知られていなかった。矢島さんは診療所を出てから自宅までの数百メートルという近場でトラブルに遭ったにもかかわらず、診療所では近隣の人たちにさえ確認や声掛けが為されていなかった。

黒川医師は普段は冷静で温厚な人柄で知られており、矢島さんと共に困窮者支援活動に尽力していた。直属の部下の不審死について不安や憤りを覚えて然るべき立場にあったが、なぜか取材に一切応じることはなかった。それどころか事件について話題が及ぶと血相を変えて声を荒げたり、逃げるように立ち去ったりするといった話も聞かれた。遺族は事件当初から「さっちゃんの会」広報誌などを通じて医師の態度や沈黙に対して強い不信感を表明している。

 

事件当夜は雨、鶴見橋商店街にある職場から長橋にあった矢島さんの自宅までは僅か700mほどの距離だった。自転車通勤だった矢島さんは傘をさすよりも商店街アーケードを通過する可能性が高いと想像されたが、商店街に設置されていた8か所の監視カメラにその姿は映っていなかった。また自宅アパート近くの監視カメラも警察に提出されたが、機器の故障で何も映っていなかったとして管理会社にすぐに返却されたという。

医療の仕事と支援活動に心血を注ぎ、慌ただしい日々を過ごしていた矢島さんは部屋の掃除もままならなかったに違いない。しかし事件後、家族がアパートの部屋を訪れた際には、テレビの裏や押し入れの桟といった場所にさえ埃ひとつなかった。また彼女には若い頃から些細なことでもメモ書きする癖があったが、自宅のメモには11月以降に記したものは一切見つからなかった。

洗濯機の中には衣類が残されており、10日前にはクリーニング店に冬物のセーター類5点を預けているなど、自殺直前らしからぬ生活の痕跡もあった。警察が行った部屋の鑑識では、なぜか住人である矢島さんの指紋さえ検出されず、第三者が証拠隠滅の為に清掃した疑いがもたれた。

事件から1か月後、千本松渡船場から2.5km北に位置する北津守の団地駐輪場で矢島さんの通勤用自転車が発見された。いつから置かれたものか目撃情報はなく、なぜか自転車からも指紋は一切検出されなかった。

医師である矢島さんの両親の見立てでは、遺体にあった右額、右手の甲、右足頸部にあった生体反応のある(生前に受けた)外傷について、矢島さんが自転車で帰宅中に左側からなぎ倒されるようにしてできた傷ではないかと見当づけている。

『死体は語る』など多数の著書で知られる元東京監察医務院長・上野正彦氏は、数々の変死事例の経験則から、元々泳ぎが得意だった矢島さんが「おもり」もなしに入水自殺ができたとは考えづらいと指摘している。

 

遺体を確認したのは矢島さんの兄弟だった。彼らは医師ではないが、首の左右にできた幅1cm程の赤紫色の圧迫痕が真っ先に目に付いたことからすぐに他殺を疑ったと話している。また遺体の後頭部から頭頂部にかけて幅5cm、高さ3㎝程の大きなこぶ(頭血腫)があった。

府警は遺族の疑問に対して、首の圧迫痕は発見者が水中から引き上げる際に用いた鎖を首の後ろにかけたためにできたもの、頭のこぶは船上に寝かせる際に落下させてしまってできたものであろうと説明した。

だが死後に生傷やこぶができるはずなどない、生前受けた外傷による生体反応であることは明らかだとして両親は食い下がった。3か月後に剖検を行った担当医と面会し、「後頭部の傷(こぶ)は生前にできたもの」「首の左右の傷ができたのは生前か死後か判別不能」と説明を受けた。

両親が見せてもらった剖検書には、「溢血点(まぶたの裏や口内粘膜の毛細血管が破裂した際に見られる小さな内出血)」との記載もあったという。溢血点の有無は絞殺か否かを見極める上での最たる特徴の一つである。

 

千本松渡船場は釣り禁止なうえ、そもそも夜間はゲートが封鎖されていて発見場所付近には進入できなくなっていた。だが警察の説明では、有刺鉄線の張られた鉄条網を越えて船着場から飛び込んだとされた。

船着場のゲートには身長より高い鉄柵に、長さ50㎝程の串が左右上部から出ており、容易に侵入できないようになっている。串と串の間にも鉄条網が張り巡らされ、暗闇の中で侵入を試みればいかに身軽な人間であっても手足に怪我を負ったり、着衣が破れたりといった事態が想像できる。たとえ希死念慮に駆られていたにせよどうしてこの場所から入水する必要があったのか説明がつかない。

左は遺体の首にあった傷のイメージ、右は鎖を用いた検証

第一発見者は船着き場の接岸部に設置されていた「タイヤの所に頭が引っ掛かっていた」「映画などで見る水死体のイメージとは程遠く、ものすごくきれいだった」と話す。「最初はマネキンかと思った」が、とりあえず水面から揚げてみようということになり、顔を見るなり水死体と気付いて警察に通報したという。また「履いていた靴の片方だけが一緒に浮かんでいた」と語っている。

脱いだ靴を揃えて陸地に置いていれば「自殺」という見立ても説得力を持つかもしれないが、彼女は「靴が片方脱げそうな状態」で入水したとでもいうのであろうか。

また元兵庫県警で本件の独自調査を続ける飛松五男氏によれば、第一発見者である2人の釣り人のうち、一人はくろかわ診療所向かいのマンションに暮らし、もう一人は西成警察署から数十mのゲームセンターに勤めていたとされる。つまり第一発見者の2人は被害者と面識はなかったが、奇遇にも被害者と同じ「釜の住人」だったことになる。

 

死亡推定時刻は「14日未明」とされ、発見された「16日1時半」まで遺体が脱げた靴と一緒に船着き場近くをずっと漂っていたとは考えられない。ダミーを用いた検証実験では自転車発見現場付近の木津川沿いから入水した場合、2~3時間で発見現場を通過し、人形は河口へと流されてしまった。遺棄されてからほとんど時間を置かずして発見されたと見る方が自然である。

また遺体のポケットからは彼女のPHSが発見されているが、家族が連絡を取ろうとした「15日午後2時」にも呼び出し音は鳴っていた。PHSは非防水仕様であることからその時間まで水没していない状態だったと推測される。

調査を続ける飛松氏は「第一発見者が怪しい」と断言こそしていないが、「死亡推定時刻すらも誤りの疑いがある」「(発見間際の)15日夜に遺棄されたのではないか」と見立てている。

府警では、発見された靴から採取された付着物のDNA型鑑定、砂の分析を行い、行方不明から死亡までの足取りをつかもうとした。だが2010年12月の捜査報告では、皮膚片2点が検出されたが矢島さんのものとは断定できず、付着していた砂からも有力な情報は得られなかったと伝えられた。

 

死因は「溺死」とされていることから、陪見では肺から海水が検出されたものと考えられる。だが通常の溺死であれば大量の水を飲みこむため、肺に空気は残らず遺体はうつ伏せ姿勢で発見されることが多いとされる。

だが2018年10月のFNN系列の事件捜査番組に出演した法医学者の杏林大学・佐藤喜宣名誉教授によると、遺体は水面に頭頂部だけが浮かんだ「立位姿勢」で見つかったため、肺に空気が溜まっていた可能性があると話した。

また佐藤名誉教授は、書類には溺死に特徴的な兆候について言及がなされていないと指摘。通例は溺死体に顕著な兆候として「口に泡沫を蓄えている」、血筋状に空気が入っている部分とそうでない部分ができることから「肺がまだらになる」といった特徴の記載があるはずだとしている。

空気が肺に残存していた可能性や剖検書の記載からは「溺死」と判断するには弱く、「頸部圧迫」、つまりは絞殺ではないかとの見解を示した。

 

自称元恋人

警察が死因を自殺と判断した理由の一つに、矢島さんの恋人だったと称する60歳代男性の証言があったとされている。彼は行方不明と前後して矢島さんから「絵葉書」を受け取っており、メッセージの内容は「出会えたことを心から感謝しています。釜のおっちゃん達の為に元気で長生きしてください」というものである。

葉書の絵は沖縄県辺野古の景色を描いたもので、西成郵便局管内で彼女が行方不明となった「14日の消印」が押されており、17日に届いたという。男性は自ら警察に届け出て、「矢島さんの遺書だ」と説明した。彼女の署名や住所は書いておらず、メッセージと日付だけが記されていた。遺族が調べた限りでは、矢島さんが署名なしで他人に手紙を出したことは過去にないという。

 

男性は赤軍派の流れを汲む元左翼活動家で、貿易業を興したのち2007年に会社を整理し、釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)に身を投じることとなったM氏(本件発生当時62歳)である。

1972年、「赤軍ラーメン(勝浦飲食店)」を開き、新左翼学生らを巻き込んで「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」を結成した赤軍派・若宮正則らは日雇い労働者の違法派遣や暴力管理を行っていた暴力団勢力(淡熊会系天海会、山口組系佐々木組ほか)の一掃を図って暴動を牽引。1000名規模での殴り込みや投石、放火などを繰り返し、年間7万人前後が斡旋を受けていた労働者の不当搾取に抵抗し社会問題として世に問うた。釜日労はその共闘会議を母体として結成された労働運動、政治グループである。

釜日労は元赤軍派の横のつながりによって釜ヶ崎だけでなく全国各地で行われる都市浄化策などに対抗して「仕事をよこせ」「寝床をよこせ」といったスローガンを掲げて、日雇い労働者らの権利獲得を目指す「闘争」を長年繰り広げている極左集団として知られる。事件後のM氏は2013年から辺野古の基地建設反対闘争に参加し、2023年現在も阪神地域と沖縄を往復している。

 

M氏はテレビ取材で事件について問われると、

「他殺という形で人を追っかけても犯人は捕まらないよ」

「他殺が壁にぶつかって闇になっちゃう」

「まあ真相は闇になってもいい」

「例え犯人がいたとしても捕まらなくていい」と述べた。

恋人というのであれば事件の真相解明を求める立場にも思えるが、はたしてM氏は「犯人は捕まらない」と匂わせぶりな発言を繰り返す。「彼女は自殺だ」という確信からくる他殺説への無関心なのか、それとも「真相」や「犯人」を知っているが明かせない、とでも言わんばかりの含みを持たせた口ぶりに様々な疑惑を呼んだ。

 

フリージャーナリスト・寺澤有氏はM氏に追加取材のインタビューを行っている。M氏は、矢島さんとは釜ヶ崎の日雇い労働者や野宿者の人権を守ろうという志が一緒で交際するに至ったと述べる。

周囲に交際関係を知る人がいないのではないか、との問いに対して「知られないようにしていた。自分のような人間と交際していると風評が流れれば、彼女の活動の妨げになる」と答え、交際関係を裏付けるものは何も出てこなかった。

矢島さんの住居、第一発見者の釣り人については「知らない」と否定。

絵葉書については、出さないままにおいて後から警察の追及を受けたくなかったため自ら届け出はしたが、「自殺の根拠としたわけではない」とも述べている。その一方で、特に根拠はないが自殺だと確信しているとの考えを述べ、自身が今も変わらず同じように釜ヶ崎で過ごしていることからも「釜ヶ崎で私を犯人と疑う人はいない」と身の潔白を主張した。

 

一部の雑誌では、西成区の行政運営に新左翼系団体が強い発言力を持っているとされ、本件の背後に釜日労の存在を疑う記事もあった。釜日労は山田實委員長(当時)名義で抗議文を出し、SNS上で止まない疑惑の声に対して反駁を繰り返した。

そうしたM氏の謎めいた発言、部外者から団体の実像が見えづらいことなどから、M氏は真犯人側から依頼を受けて金銭目当てで絵葉書を提出し自殺説を吹聴して回っているのではないか、団体が何らかのかたちで不審死に関与しているのではないかといった疑念を示すネットの声は少なくない。

 

ふるさとの家

矢島さんが信頼を寄せていた本田哲郎神父は、フランシスコ会の日本管区長を務めた後、1989年に志願して三角公園の隣に社会福祉法人「ふるさとの家」を構えた。職にあぶれて再三再四路上生活に逆戻りするのではなく、いつでも帰ってこられる「家」のような居場所が確保されなければならない。食堂、図書室、談話室からなり、腹が空けば200円で温かい定食にありつけ、神父や労働者仲間たちが迎え入れて体調変化や生活状況を気に掛けてくれる直接的なセーフティネットの場である。

釜ヶ崎へと流れ着いた人々がよりよく生きていくためにどんな助けが必要か、ボランティア精神で一宿一飯や古着などを与えてその人を助けることはできても、半永久的な助けにはならない。心身の安定を取り戻し、リスタートをきるためのきっかけとなる再起の砦として、行き場のない彼らにとって「教会」ではなくまず「生き場」が必要だった。

バブル崩壊阪神淡路大震災を経て、本田神父ら釜ヶ崎関連のNPO法人が連携し、99年9月に自立援助団体「釜ヶ崎支援機構」を発足させた。釜日労・山田實氏が理事長となり、ホームレス化の予防と脱却のために制度の隙間を埋める支援を続けている。

行政に就労機会の創出、民間企業の下請けなどの働きかけを行って高齢者にも経済活動の場をエンゲージするほか、就労訓練や就職相談なども受け付けている。2013年7月から高齢の生活保護受給者の孤立を防ぎ、生活自立・社会参加を促す事業をNPO法人と合同して手掛け、いわば労働者と元労働者たちの生活総合支援事業となっている。

下のストリートビューは本件発生と同じ2009年のもの。

 

木島病院事件

社会から追いやられるように西成へとたどり着いた者たちの中には精神疾患患者やアルコール中毒覚醒剤中毒者などの割合が多い。また大阪に限ったことではないが、精神医療業界では対応の難しい患者への処置が人権軽視と紙一重となることも少なくはなく、身体拘束や行き過ぎた指導が暴力に至るケースは度々報じられる。

栗岡病院での患者リンチ事件、安田病院での看護人によるバット暴行死事件、診療報酬の水増しや看護師基準を違反した使役労働が明るみとなった大和川病院など、一般病棟に比べて本人の能動的な対処が難しく発言力に乏しいと見なされる患者たちを「食いもの」にする医療の闇は今日も根絶されてはいない。

 

1986年(昭和61年)10月、大阪西成区福祉事務所職員と貝塚市の木島病院との癒着、贈収賄事件が公になった。元々大阪市は精神病床が少なく、西成区内で路上生活者らがアルコール中毒等で救急搬送された際に、福祉事務所職員が入院先として木島病院に便宜を図ることでキックバックを受けていた。その上、この職員は病院事務長と結託し、死亡患者の生活保護の金まで着服していたことが発覚した。

汚職の対象になった行路患者の多くは身内の同意が得られないことから「市長同意」という権限によって入院措置が取られた。府内の精神病院の新規入院者の約1割が「市長同意」によるもので、その半数が大阪市長の認可であった。

木島病院では入院患者の約半数が「市長同意」の患者で占められており、それほどの集中は異常であった。彼らの入院期間についても7割が「5年以上」、5割が「10年以上」という長期在院の傾向が顕著であり、いったん受け入れされると福祉事務所や保健所職員の訪問もなく、退院希望も確認されないまま収容され続けている実態があった。

市長同意書発行数の推移〔大阪精神医療人権センター『精神病院は変わったか』より〕

昭和59年 870件

昭和60年 851件

昭和61年 831件

昭和62年 733件

昭和63年 320件(7月から精神保健法施行)

平成元年 150件

平成2年 140件

平成3年 148件

1988年7月に精神保健法が施行され、任意入院の規定が導入されたことで「市長同意」の件数は激減していることが分かる。昭和60年の851件のうち西成区は364件(42.8%)と大きな割合を占めており、その構造的な癒着はマスコミによって「あいりん汚職」と呼ばれた。

かつて日雇労働者の支援団体により発行・配布されていた『釜ヶ崎夜間学校ニュース』1986年10月17日号には次のように書かれている。

木曜日の医療相談の日にわざわざ訴えに来てくれた仲間の話は、阪和病院へ肝臓が悪くて市更相(大阪市更生相談所)から入院したが、しばらくして、アンタはアル中やと言われて木島病院へ送られた。送られた日は一日中保護房に入れられ、ベッドにしばりつけられていたという。

その仲間によると、木島病院には身元保証人のない仲間が長期にわたって入れられており、中には死んでいく仲間もいる。

木島病院はみんなも知ってるように、最近、西成福祉事務所第八係との間に贈収賄事件をおこしている。

木島病院から措置認定を早くしてもらうように働きかけたり、仲間が伝えてくれたように結核病院や一般病院から患者をまわしてもらいやすくするために金品を渡していたのだ。

我々の病んだ仲間を、まるで羊や乳牛のように扱っている。ろくな治療もせず、長期間病院にとどめておくことで、ボロもうけをしているのだ。

木島病院だけが我々の病んだ仲間を喰いものにしているのではない。

市更相の前に連日のように色んな病院の車がとまっている。

その病院のすべてが、患者を喰いものにしようと待ちかまえていると考えても、まちがいではなさそうだ。

ニュースビラの後半では、1984年に日雇健康保険が廃止されて医療費の一割負担が適用されることとなり、病院は利用者が減って収入に困り、市更相に日参して獲物を待ち構えているとし、福祉切り捨てを続ける中曽根内閣とそれに追従する市民生局を非難する内容へと向かっていく。やや煽情的な物言いにはなっているが、木島病院事件当時の背景として、労働者目線から見れば医療不信が強まっていたことが分かる。

 

山本病院事件

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会・山本病院は、病床数およそ80で心臓血管外科、脳神経外科、内科などの診療科があった。この病院では診療報酬の不正請求のため、不要な治療や検査を繰り返していた。

2009年6月21日、奈良県警捜査2課は、生活保護受給者の診療報酬を不正受給した詐欺容疑で山本病院及び山本文夫理事長宅を家宅捜索した。捜査の結果、女性看護師に不必要な手術を強要したり、生活保護を受給する入院患者ら8名に心臓カテーテル手術をしたように装い、診療報酬総額1000万円を騙し取った疑いが強いとされ、同病院は閉鎖。12月から破産手続きを開始。元理事長には詐欺罪で懲役2年6か月の実刑が確定した。

 

手術による診療報酬の詐取は理事長自ら主導しており、不必要な手術だった上に、術中に適切な止血や縫合措置などを放棄して手術室を後にしたために死亡させた事例も発生していた。山本元理事長は心臓血管外科、助手を務めた医師は呼吸器外科が専門で亡くなった男性に施された肝臓切除手術の経験は共になかった。医師法に基づき「異状死」の届け出をせず、急性心筋梗塞と偽って処理したとされていた。

輸血準備などもされておらず、限りなく殺人に近い医療犯罪だったが、故意と認定する証拠がなく過失致死罪での立件となり、こちらは禁固2年4か月の実刑判決となった。亡くなった男性(51歳)は生活保護受給者で、術前には「早期にガンを見つけてもらえてよかった。早く治して自立したい」と喜んでいたという。

聞き取りによって、身寄りのない生活保護受給患者のほぼ全員に症状や所見に関わらず心臓カテーテル検査をしていたとされ、インフォームドコンセントの手続きもなく機械的にあらゆる検査を受けさせていた。そのほか放射線技師による画像の加工、注射によって頻脈に導くなど病状を捏造していたことも発覚。「病人」を捏造し、医療報酬に変えていたのである。検査を拒否する患者は強制退院させられ、罪悪感を持つ職員は次々と辞め、違法行為を指摘した医師は辞めさせられたという。

2011年1月、山本病院で生活保護受給患者に対して行われた心臓カテーテルによる血管内手術のうち140人分は不必要なものだったことが専門医たちの鑑定により明らかとなった。大阪市の場合、治療動画の残されていた116人の内98人が不要な手術だったと判断された。医療法人が自己破産した後、29の府県市が過去の診療報酬のうち3億2000万円余の債権届を提出したが、破産管財人はこれを認めず、最終的に7自治体で僅か143万円余の返還となった。

生活保護受給患者の入院が半数以上を占め、実数は437人。そのうち県内は14%で、大半が県外、なかでも大阪市が60%を占めた。

 

大阪市の病院や行政側がこうした受け入れ先病院の診療実態をどこまで把握していたものかは分からない。しかし行路死亡や行き倒れを防ぐためには受け皿となる病院がどうしても必要であり、病院側としても福祉が手厚く身寄りのない生活保護受給者を手なずけることにやぶさかではなかった。一般患者と違って、言いなりにならなければ追い出したり手足を括って言いなりにさせることもできる、たとえ亡くなっても困る人はいない、という蔑視もその根底にはあったのではないか。

そうした一方で、自治体や関係団体に通報が入っても、すぐに厳しい監査が行われることは少なく、改善指導が通知される程度で済まされがちである。具体的な措置や対策は病院任せとなっており、福祉施設での虐待事案などと同様に重大事件の発覚までに時間を要することが指摘されている。山本病院のように明らかにされる事例は氷山の一角にすぎないと考えるべきであろう。

 

命の灯

2023年11月、矢島医師の死から14年目に出された「さっちゃんの会」発行の広報紙『さっちゃんと共に生きる』150号では、支援者の植田敏明氏が手記を寄せている。

それは事件に関して黒川所長が「事件解決のために十分な協力をしてきた、とは思えない」、社会的弱者のための医療という志のもと活動を共にした「祥子さんやご家族のためにも口をひらく責任があるはずだ」という「ふみきった内容」であった。

 

 

西成で居酒屋「集い処はな」を営み、『日本の冤罪』(鹿砦社、2023)を著した「はなまま」こと尾崎美代子氏は、デジタル鹿砦社通信で矢島さんの死について寄稿している。

患者のセカンドオピニオンを提案したり、適切な診療方針を要望する矢島医師は、患者からむしれるだけむしりたい病院からすれば相当に煙たい存在だったにちがいない。また彼女が亡くなる約1か月前、釜ヶ崎でのフィールドワーク報告会で「貧困ビジネス生活保護受給者への医療過剰状態」などを問題視する報告を行っていたとされる。

尾崎さん自身は医療関係者ではないが、客や知人の見舞いでそうした生活保護受給者や行路生活者を専門にする福祉病院(「行路病院」)を目にしてきたという。

「福祉病院は、数か月いると、別の同様の病院にタライ回しにされる。そこでまた一から検査などを受け、そこの病院を儲けさせるためだが、先のお客さんが次に回された京橋の病院は、私が見舞いに行くと驚いていた。生活保護者の患者に見舞いに来る人がいるとは思っていなかったのだろう。」と振り返っている。

https://www.rokusaisha.com/wp/?p=48381&fbclid=IwAR3RgTr0ifZYyWUkSb2LadP4buXQkH7wPeVQw9Xwki_U-iK0RSqYZRuiBMM

矢島さんが行った報告の詳細は不明だが、釜の「部外者」として赴任してきてから2年半、多くの診療や生活支援を手掛け、人々と語らい、関係を深めていく中で、自分の患者たちも釜ヶ崎に巣食った貧困ビジネスの内部構造に組み込まれていることに危機感を募らせたはずである。彼女が知りえたものは業界を震撼させた山本病院事件と直接関係していたのか、あるいは別ルートの病院とのつながりであったのか定かではない。

いずれにしても彼女の倫理観には到底許容しえない診療実態と知り、その動きを察した西成の特殊な保険福祉医療業界に巣食った面々が片づけたと考えるのが妥当に思われる。発覚したのは身近な相談相手だったのか、はたまた外部と思って情報を流した相手が逆に彼女を「売った」のかもしれない。

釜ヶ崎の町医療を支えてきた黒川医師や生活困難者たちの心の拠り所となってきた本田神父らでさえも太刀打ちできない、不可侵な勢力とは何なのか。巨大な闇に向けてさっちゃん先生が命を賭して点けた灯を決して絶やしてはならない。

 

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貧困と生活保護(33) 必要のない手術を繰り返していた山本病院事件 | ヨミドクター(読売新聞)