いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

名張毒ぶどう酒事件

事件の発生

三重県名張市の葛尾公民館の会合で振るまわれたぶどう酒を口にした参加者たちが次々に異常を訴え、女性5人がその場で死亡、12人が重軽傷を負う惨事となった。

 

凶事は1961年(昭和36年)3月28日午後8時頃、生活改善クラブ「三奈(みな)の会」の年次総会後に開かれた懇親会の席で起こった。

「三奈」の名は隣接する三重県名張市葛尾と奈良県山辺山添村の会員で構成されたことに由来する。当時は若い世代の親睦や暮らしぶりを変えようという農村活動が各地で盛んに行われ、名張駅から車で20分余の彼の地も例外ではなかった。

総会には男性13人・女性20人が参加しており、懇親会では女性たちが支度した手料理のほか、男性向けに日本酒が、女性向けにぶどう酒が用意されていた。女性参加者のうち被害を免れた3人はぶどう酒の注がれた湯のみ茶碗にまだ口を付けていなかった。

ぶどう酒を口にした女性たちの顔色はみるみる青紫に変わり、目を剝き、歯を食いしばり、口や鼻から血を出す者もあり、楽しみにされていた親睦の宴は瞬時に惨憺たる地獄絵図と化した。

現場に駆け付けた警察は女性ばかりの被害者や状況確認から、ぶどう酒に何らかの毒物が混入されたものと判断する。

 

販売した林酒店で入荷した「三線ポートワイン1.8L」の内容物をすべて確認したが、毒物混入が認められるものは一本もなかった。同製品は広く市販されていたが同様の中毒被害は報告されていないことから、製造・流通の過程ではなく購入後に毒物の混入があったものと推測される。

その後、三重県衛生研究所、三重県警鑑識課による毒物検査、医師らの診断書、三重県医大の遺体解剖により、ぶどう酒に有機リン系テップ剤が入った農薬の混入が判明する。テップ剤は加水希釈した際の分解が速く、毒性が減衰して無毒化することから毒物指定されてはいなかった。その性質から宴会の時刻に近接した時間帯に混入されたものと考えられた。

 

逮捕

名張署はぶどう酒調達の経緯を確認し、購入を決めた三奈会会長の奥西樽雄氏(以下「会長」)、酒を買い付けて会長宅まで運んだ農協職員の石原利一氏、会長宅から公民館まで運び込んだ奥西勝(当時35歳。敬称略)の3人を重要参考人として監視を付け、連日事情聴取を続けた。

死亡者には、会長の妻フミ子さん(30歳)、奥西の妻チヱ子さん(34歳)、奥西と情交関係にあった北浦ヤス子さん(36歳)も含まれていた。

事件当日、石原氏は酒を購入した後、偶々通りがかった薪炭商の神田赳さんに声を掛けて荷物の輸送車に便乗させてもらい、2.6キロ離れた会長宅へと向かった。酒は車上から会長の妻フミ子さんに手渡され、玄関の土間に置かれた。会長宅の台所では料理の支度が行われて女性たちが出入りしており、終始監視下にあった訳ではないが視界に入る位置にあった。

午後5時20分頃、会長宅を訪れた奥西によって酒は公民館へと運ばれ、「囲炉裏の間」に置かれていた。5時半頃には会場準備で人が集まっていたにもかかわらず、毒を入れる犯行場面を目撃した者はなかった。総会は午後7時頃に始まり、話がまとまると8時頃から懇親会へと移行。囲炉裏の間は総会会場となった6畳二間をつなげた広間からも見渡せる位置にあり、その間、不審な行動をとる者は確認されていなかった。

警察はその日、集落に部外者の出入りがなかったことを確認し、住民による犯行と断定。犯人特定につながる証拠を探したが、毒物混入の目撃はなく、毒薬の容器などは発見されなかった。酒瓶の「蓋」がいくつか見つかりはしたが古いものが多く、該当の蓋ははっきりしなかった。

 

逮捕直後の記者会見

奥西は当初容疑を否認していたが、厳しい追及を受けて「妻がやったと思う」などと供述。事件から5日後の4月2日に「公民館で自分が農薬ニッカリンTを入れた」と自白するに至り、翌3日に逮捕された。

逮捕後、報道陣の前で会見が行われ、やつれた顔の奥西は「自分のちょっとした気持ちからこんな大きな事件に…亡くなられた人や入院されている方、また家族のみなさんに何とお詫び申し上げてよいか分かりません」と首を垂れた。

奥西は夫と死別して後家になったヤス子さんと1年半ほど不倫関係にあり、集落内では公然の事実とされていた。それが秋ごろ、妻チヱ子さんに発覚して険悪となり、双方から関係解消を迫られた上、村の女性たちからも非難されて三角関係をさっぱり清算したかった。自分に疑いが掛かりづらくする犯跡隠滅のためにあえて集会での集団毒殺に及んだ、というのが警察の見立てた動機であった。

 

100㏄入りニッカリンTは前年8月に黒田薬品商会で購入したもので、元々の瓶は近くを流れる名張川に遺棄したと供述。持ち運びには前日つくった手製の竹筒を用い、公民館で一人になった隙を見て混入した後、囲炉裏で竹筒を燃やしたと述べた。しかし名張川で薬瓶の捜索が行われたがガラスの一片も発見されず、竹筒を燃やしたとされる囲炉裏や捨て灰からも薬剤の化学反応は検出できなかった。

洗いざらい白状したかに思われた奥西だったが、起訴直前になって「強要誘導の取り調べを受け、嘘の自白調書をつくられてしまった」と否認に転じる。獄中手記によれば、取調官から「家族の者が村落民から迫害を受けて土下座、謝罪をさせられた」と聞かされ、「家族を救うためにはお前が早く自白することより他にないのだ」と詰め寄られた旨が綴られている。

村落でそうした家族への迫害が事実行われたものか、心的な揺さぶりをかけようと取調官が作話したものかは判断付きかねる。しかし身体的拘束下で事実を確認する術もないなかそのような話を聞かされては、たとえ真犯人でなくてももはや「自白」を選択する以外に道はなかったといえる。

 

見えざる力

逮捕前、奥西と同じく重要参考人とされた三奈の会会長も警察から「お前がぶどう酒購入を決めたんだろう」と厳しい追及を受けていた。

3月26日に役員が集まって2日後の総会に向けて打ち合わせが行われたが、会長はその場にいなかった。話し合いで、折詰の準備、菓子、男性会員向けの清酒2本の購入などが決められた。だが懇親会はここ3年ばかり前から始まったもので、女性用のぶどう酒を出すか否かは資金面の不安もあったため、その点は会長の裁量に託された。事件当日となる28日、会長は勤め先である農協から公民館へ支給される助成金があることを確認し、ぶどう酒の購入を決断。部下の石原氏に清酒2本とぶどう酒1本の買い付けを命じていた。

 

翌3月29日の取り調べで会長は、懇親会に移る支度の最中に妻がぶどう酒を持ってきて「栓が堅いから抜いて」と頼まれてコルク栓を手で抜いてやったと証言している。このとき包装紙や瓶の栓や王冠もついていなかったため、先に妻が自分で開けようとしたのではないかと述べていた。

だが不思議なことに事件直後、石原氏も「着席したときに(奥西の妻)チヱ子さんが栓を抜いてと言うので瓶の栓を噛んでテコの原理で傾けたところ簡単に抜けた」と証言しており、なぜか31日に至って「(会長の妻)フミ子さんの依頼だった」と訂正している。1本しかないはずのぶどう酒の蓋を、2人の男性に2度開けさせたのだろうか。

4月1日の取り調べで「このような事件を起こすような理由があると思われる人物」の心当たりを挙げさせられた会長が第一に挙げたのは妻フミ子さんの名前であった。妻と姑は長年折り合いが悪く、フミ子さんはなじられたり手を挙げられたりしたことがきっかけで精神的に不安定になり、宗教団体に通うようになっていた。義母は会合に参加する立場にはなかったが、家名を汚す当てつけによる復讐が目的とも考えられた。

第二に、酒が飲めない訳ではないのにその日に限って口を付けていなかった女性の名を挙げ、第三に、集落内で三角関係のあった奥西勝の名を挙げた。

奥西勝の方は疑わしい人物として自身の妻の名を挙げる前に、やはり会長の妻フミ子さんを挙げていた。以前には義母(会長の実母)と喧嘩したフミ子さんが奥西の家に飛び込んできて匿ってやったことがあった。また3月23日か24日頃、フミ子さんが姑と喧嘩して「川にハマるか薬でも飲むかして死んでしまいたい、と口にしていた」と妻から伝え聞かされたという。

疑問に思われるのは、なぜ会長も奥西も死ぬ可能性のない男たちではなく、命を落とした妻の名を挙げたのか。

少なくとも奥西は86年の第5次再審請求に至っても「今も、そういうことはちょっと頭から離れません」として妻チヱ子さんへの疑いを払拭できていなかった。亡くなった妻のエプロンに小瓶と栓抜きを発見したためだと証言したが、警察は亡くなった女性たちへの捜査を充分尽くしていたのか。チヱ子さんが喧嘩の際に本件のような犯行を仄めかしていたのか、奥西の供述には推測と曖昧な記憶が入り混じっておりはっきりしたことは分からない。

 

物的証拠がほとんど出ないことから、捜査の主眼は住民証言が大きなウェイトを占めることとなる。とりわけ重要となるのは被告人以外に犯行可能な人物がいたか否かである。そんななか事件直後と4月半ば以降で、複数の重要証言が不可解な変遷を示した。

酒を販売した副野清枝と店主林局子は、3月29日から4月16日まで複数回の聴取で石原氏への販売時刻を「午後2時半から3時頃」だとしていた。しかし4月19日に至るや二人とも口を揃えて、時計を見ておらず、時刻の目安となるバスの通過を見かけてもなく、曇天で時間の観念がなかったと言い出した。「4時を過ぎていたのではないかと言われれば、或いはそうではないかと思います。一番確実に言えることは昼ごはんと晩ごはんの間ということ」と不自然なほどに曖昧な証言に改めていた。

酒を買い届けた石原氏の言い分も、4月11日までの聞き取りでは「酒を届け渡したのは2時頃もしくは2時か3時頃」としていたものを、勘違いがあったとして、21日聴取に至るや届けたのは「午後4時半から5時」と、より時間帯を限定して遅い時刻にずらしている。

会長宅で酒を受け取ったのは、会長の亡き妻フミ子さんで、そばに会長の妹・稲盛民さんがいた。民さんは元々離れて暮らしていたが、出産を控えて義母・稲盛ゆうさんに送られてこの日会長宅を訪れていた。二人はゆうさんをバス停まで見送るため、午後4時から5時10分頃まで約1時間余は家を空けており、見送り先の三重交通上野営業所に対しても3人の行動確認が取られている。

つまり酒の受け取りは、フミ子さんたちが外出した午後4時より前か、見送りから戻った5時10分より後ということになるが、検察側は後者を採用し、会長宅に運ばれてからほとんど間を置かずに奥西が公民館へ運んだというスケジュールが組み立てられた。

 

住民たちの時刻に関する不自然な変遷には、会長宅から公民館に運ぶまでのタイムラグはほとんどなかった、奥西以外に犯行の機会がなかったことを示そうという「見えざる力」が住民たちに働いたとしか考えられない。それが捜査当局による誘導だったのか、あるいは奥西が犯人でなくてはならないと考える人物による圧力か、ともすればその両方だったのかは分からない。しかし住民証言の変遷の一致は単なる誤認や記憶違いではなく、何らかの意図によって誘導され、口裏を合わせているように思われた。

 

逮捕後間もない4月9日の奥西の調書を一部抜粋する。

被告人36・4・9司
問、あなたは、ぶどう酒にニッカリンの液を入れることを決意したのは何時ですか。
答、三月二八日午後五時週ぎ私方隣りの奥西楢雄さんの家に行った時、表出入口の入った直ぐ左側の小縁に酒二升とともにぶどう酒が置いてあり、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞かされた時でありました。(中略)私がニッカリンをぶどう酒に入れることを決意したのは先刻申しました通り楢雄さんの家に行って、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞いた時であります。時間は午後五時一〇分から二〇分までの間でありました。確かな時間は時計を見ておりませんので判りませんが、仕事を済まして家に帰ったのが午後四時四〇分頃でした。それから直ぐ、牛の運動をさせておりました。この時間が二〇分か二五分位であったと思います。それから直ぐ作業服を脱いでジャンパーに着替え、出て来たのでありますから、時間は、大体申し上げた時刻になると思います。それから酒とぶどう酒を持って寺(会場)に行き、直ぐ後から来た坂峰富子さんが机を並べて会場の準備をしてから出て行きましたので、そこで私が一人となったので、用意して来たニッカリンを竹筒からぶどう酒に入れたのですが、この時間が午後五時二〇分頃から三〇分頃までの問であったと思います。

前述のように、ぶどう酒の購入決定は、28日の午前中に会長が農協で予算の確認をするまで為されていなかった。にも拘らず、奥西の証言では、なぜかその機会を見越してニッカリンTを前夜に拵えた竹筒に入れて携えており、いつ会員が入ってくるかも分からない準備中の僅かな隙をついて混入したことになっている。

 

三角関係と事前準備

奥西はヤス子さんと前年秋頃からの情交関係を認めたが、はたして三人の関係は実際に人殺しへ、それも無関係な村の女性たちを巻き添えにしてまでも果たされねばならないようなところまで追いつめられていたものだったのか。

奥西は農業の傍ら、日銭を得るためにチヱ子さんと富士建設片平採石場で砕石仕事に従事していた。それも現場へはヤス子さんと三人一緒に通っており、仲間内の飲み会では奥西とヤス子さんが同じ酒を間接キスのように飲み継いだことからチヱ子さんが憤慨したこともあったという。村民たちは家族同然の身近な付き合いで、ヤス子さんとチヱ子さんも毎日のように顔を合わせており、あくまで仮定の話だが、いざとなれば互いに相手を殺害する機会はあったものと想像できる。

では警察・検察側の見立て通り、奥西が三角関係の清算をすると共に疑いの目を逸らすために周囲の女性たちをも手に掛けたというのだろうか。妻か愛人かいずれかを連れ立って村を離れるなど、いくらでも他に手立てがあったのではないか。

 

被害者のひとり福岡二三子さんは、事件前のチヱ子さんの様子について次のように供述している。

チヱ子さんは「うちの父ちゃんがストッキングとコンパクトを買って来てくれた。」と言っていました。それが三月一五日に勝さんら男の役員が名古屋に行ったのですが、そのみやげだったとの事でした。私は勝さんがチヱ子さんをいじめていると思っていたら三月頃にはチエ子さんにコンパクト等を買って来たというのですから勝さんもいいところがあるのだと思った。三月一七日に有馬温泉に行きましたがその途中チヱ子さんの話では小遣銭五〇〇円を勝さんがくれたとのことであり、「勝さんに何か買って帰らなければ」と言っており有馬で三〇〇円のタバコケースを買って帰えられました。こんな訳で先月頃はチエ子さんも勝さんとヤス子さんのことについては悩んでいた模様は見受けられません。

奥西は一方の北浦ヤス子さんにはこけし人形一個を名古屋土産として与えていた。3月18日頃にも名張市内の洋傘店で婦人用洋傘2本を購入し、チヱ子さんとヤス子さんにそれぞれ一本を与えている。10日後に惨劇を繰り広げる人物にしては悠長に過ぎ、追い詰められている様子は皆目見られないのである。白沢今朝造さんは、奥西がチヱ子さん、ヤス子さんらに「四月二日に赤目に一緒に行こう」と話していたことを証言している。

 

事件前夜に奥西は薬剤を持ち込むための竹筒を準備していたと自白している。

3月27日夜7時過ぎ、一回り以上年下の山田清・治兄弟が奥西家を訪れていた。父親が石切り場の石工をしていた縁から兄弟は奥西夫婦のことを兄貴・姉さんと呼んで慕い、普段から風呂を借りたりテレビを見させてもらいに遊びに来る親しい間柄であった。奥西が夕飯の最中に風呂を借り、その後も8時過ぎまでテレビを見ていたが、奥西の自白に兄弟が準備の妨げになった旨は出てこない。

自白では風呂場の焚口の前で立ったままで直径ニセンチ位、長さ六センチ位の竹筒中にニッカリンを移し入れたとなっている。地裁は自白にある同じ条件のもとでニッカリン一〇〇CC入り瓶から女竹筒に水を移し入れる実験を試みたが、焚口の前は暗く、手さぐりで移し入れはしたものの溢れ出てしまい、「竹筒の三分の二まで」で注入を止める加減をすることはできなかった。

しかし高裁は、被告は山田兄弟の来訪を別の日と勘違いしていた供述に着目し、来訪が準備作業に特段支障がなかったものと判断。また地裁に提出された検証では前提に誤りがあった、実際には電灯が点いており移し替え作業は不可能とはいえないとして、被告人に事前準備は可能だったと認定した。

 

逆転死刑

1964年12月23日、津地方裁判所・小川潤裁判長は、検察側の自白誘導があったと指摘し、自白と前後して住民側の証言する時刻が変遷しているのは不自然で捜査当局による示唆誘導があったと判断。「時刻の訂正は検察官の並々ならぬ努力の所産と容易に読み取ることができる」と厳しく非難し、奥西以外にも会長宅で毒物を入れることは不可能ではなかった、被告のみ犯行が可能だったとするのは誤りだとして、無罪判決を言い渡した。

 

「犯行間際」の目撃証言者となった坂峰富子さんは5時の時報を聞いてから会場準備のために会長宅へと向かった。だが会長宅から100メートル程手前の倉庫前で知人に呼び止められ、5時12~13分までその場にとどまっていた。石原氏が同乗させてもらった神田氏は酒を渡した直後にすぐ近くの家で荷降ろしをしたと証言しており、検察が主張するように5時10分頃に酒の受け渡しがあったとすれば、4人は重なり合うタイミングがあったはずだがそうした証言はしていない。地裁は検察側の「5時10分受け渡し」説を論理的に打破し、午後4時前に会長宅に運ばれたものとして他の人間にも混入可能であったことを証明した。

判決後、記者団から無実であれば逮捕後になぜあのような謝罪会見をしたのかと質問された奥西は「(事件を)やったやったと言われるけど事実ではないから自分としては(会見で)どう言えばいいやら分からんと言ったら、辻警部補が『こういうことを言え』と下書きをこしらえて半時間ぐらい“勉強”させられた。(逮捕会見で)言うたことは自分の意志ではないということです」と虚偽の謝罪であったことを明らかにした。

 

ところが1969年9月10日、名古屋高等裁判所・上田孝造裁判長は原判決を破棄し、死刑判決を下す。一審判決から一転して、自白強要を疑う理由が微塵もなく、住民証言における時刻の変遷をたどれば理路整然としていると判断する。

奥西が酒を携えて公民館へと向かう際、前述の坂峰富子さんが一足遅れでついていった。検察側は、4月7日の富子さんの検面調書にある、午後5時20分前後に「囲炉裏の間には奥西一人しかいなかった」ことを犯行機会の根拠とした。彼女が公民館と会長宅との往復に要した「空白の10分間」で奥西が毒物を混入した、それ以外に犯行可能なタイミングはなかったと主張していた。

坂峰富子36・4・7検

フミ子さんが「そこにある酒を持って行って」と言いましたので勝さんがそこに置いてあった酒二本ぶどう酒一本を三本とも自分一人でかかえて奥西さんの家を出て……私より二、三歩先きにさっさと行ってしまいました。……勝さんが二、三歩先きに奥西楢雄さんの家を出た時間は五時一五分頃だと思いますが私が勝さんにつづいて楢雄さんの家を出ましたら井岡百合子さんに会いました。……私が勝さんより四五秒くらい遅れて公民館についたことになる。

 奥西楢雄さんの家を出て(雑巾と竹柴を持って)公民館の方へ歩いてきました。ちょうど私が宮坂さんの家の前あたりまで来た時、石原房子さんが「遅うなってすみません」と肩越しに声をかけてきました。その時石原さんは「五時二〇分で二〇分超過やな」と言っていたので私はその会ったときに五時二〇分かと思いましたが後からよく石原さんに聞いてみますと自分の家で時計を見ていて五時二〇分になったから家を出てそこへやってきたということですから五時二五分から三〇分頃というのが本当の時間ではないかと思います。そしてそれから間もなく石原さんと一緒に公民館につきその中に入りますと勝一人が前と同じ場所にぶどう酒と酒の瓶を置いたまま自分も同じ場所にあぐらをかいたまま何もしないで囲炉裏のそばに坐っていました。

検察側が提示した数少ない物証のひとつとして火鉢から見つかった「四つ足替え栓」があったが、顕微鏡による形相鑑定によれば、栓の表面についた傷が自白を検証した際に奥西が歯でこじ開けた傷と一致すると認定された(松倉鑑定)。本来、歯の噛み痕による鑑定に個人特定の推認力は認められていない。そうした覆すことが難しい曖昧な証拠を捻り出すところにも捜査機関の拠り所のなさが表れている。

だが判決文では、同一視できる条痕が認められなかったからといって直ちに被告人の歯牙による痕跡ではないと断定するのは拙速などとして証拠性の否認を避けている。

 

1972年6月15日、最高裁判所・岩田誠裁判長は弁護側の上告を棄却。死刑判決が確定する。

その後、弁護費用を工面できなかった奥西は、拘置所から自力で四度の再審請求を行おうと試みるも再審理の要件となる新証拠が得られず、すべて却下された。

 

97年10月から日弁連の再審支援が決定し、改めて弁護団が立ち上げられた。第5次再審請求では弁護団が松倉鑑定に対して、そもそもの顕微鏡の倍率が異なる捏造写真を用いていることを明らかにし、傷を三次元解析した土生(はぶ)鑑定で両者の傷は全く一致していないとの分析結果を導き出した。

しかし最高裁・大野正男裁判長は「松倉鑑定は新証拠によってその証明力が減殺されたが、犯行の機会に関する状況証拠と信用性の高い自白を総合すれば、有罪認定に合理的な疑いが生ずる余地はない」として特別抗告を棄却する。

 

第6次再審請求審では、捜査を指揮した名張警察署長のノートを新証拠として提出。

事件当初、坂峰富子さんは新聞記者に対して別の証言を行っていた。ぶどう酒を横に置いた奥西は囲炉裏に火を点けて石原房子さんと話し出し、富子さんは会長宅に雑巾を取りに戻り、再び公民館へ戻ったときには他の女性たちも来ていたと記事にはある。

署長の遺した捜査ノートにも、事件3、4日後の富子さんの証言として「雑巾をもって会場に行ったら勝は房子さんといろりで向き合って坐っていた」と記事に合致する内容が記されている。すなわち彼女の証言も事件から日が経って「奥西だけが公民館に一人でいた」旨にすり替わったことを裏付けている。検察側が「空白の10分」の拠り所とした富子さんにも「見えざる力」が働いていたのである。奥西はそれまでの公判でも終始一貫して公民館で一人きりになったことはなかったと主張し続けていた。

房子さんはといえば、囲炉裏の間から玄関先、公民館の周囲を箒で掃いていたと言い、その間、奥西は囲炉裏番をしながら炭火を5、6個の火鉢に火分けしていたと言う。そのとき「わしは今日会長に立候補したからお前らにぶどう酒を奢ったんやで」と奥西が冗談めかしくぶどう酒の瓶を見せつけた旨を話している。これから毒物を混入しよう、目の前の女たちを殺してしまおうという人物が為せる業であろうか。

 

今日の裁判員裁判においては証拠開示の法整備が進んだが、再審請求審において証拠開示のルールはなく、検察側がどんな証拠を揃えているかは公開されていない。裁判所側は職権で証拠の開示を勧告することができるが、検察側には開示に応じる法的義務はない。証拠が開示されるか否かは、裁判所や検察側の裁量に任されているのが現状である。

 

現在地

事件から7回忌に当たる年、地区の共同墓地に犠牲者の慰霊塔が建立された。5人の名は刻まれず「不慮災厄五尊霊」と記されている。葛尾公民館は八柱神社の上にあったが、当時の建物は1987年に取り壊されて別の場所に移築され、旧公民館跡地はゲートボール場になった。

事件当時、110人だった葛尾地区の人口は、流出や後継者不足によって30名程にまで減少している。事件当事者もほとんどが亡くなり、検察側、裁判所側の「時間切れ」を画策するかのような持久戦は今日の「審理の迅速化」方針からすれば著しく逆行している。

 

2005年4月、第7次再審請求に対し、名古屋高裁・小出錞一裁判長により再審開始が決定された。

「悲願でした。本当にうれしいです。ここに来てから一番うれしい日です」「命の限り頑張ります」そのとき奥西勝、79歳。視力は衰え、開始決定の文書を自分で読むこともできなくなっていた。

弁護側は、生産中止により長年入手できなかった農薬「ニッカリンT」の現物をインターネットで募って入手することに成功し、赤色着色料が含まれていることを確認した。事件から40年以上が経っていたが、情報技術の進歩によって新たに「証拠」の尻尾を掴むことができたのである。

食事会で振舞われたぶどう酒は前年、前々年とも赤ぶどう酒であったが、事件で用いられたぶどう酒は白だった。「ニッカリンT」を入れれば異物混入は一目瞭然である。もし自白通りに奥西が犯行を企てていたとしても、白ぶどう酒の現物を前にすればさすがに思いとどまるに違いなかった。また当時の成分分析を再現した結果、実際に使用された農薬は「Sテップ」である可能性が高いと主張した。

しかし、検察側はこの決定に異議申し立てを行い、2006年12月、名古屋高裁・門野博裁判長は再審開始の原決定を取り消し。最高裁を行きつ戻りつした挙句、2013年10月、最高裁桜井龍子裁判長は弁護側の特別抗告を棄却。開かずの扉にようやく手が掛かったかに見えた第7次再審請求の棄却が確定した。

尚、再審開始決定を出した小出裁判長は2006年2月末で依願退職。取り消し決定を出した門野裁判長は東京高裁の裁判長に栄転している。裁判所という組織における再審開始のタブー、そのおぞましいヒエラルキーが垣間見える。

 

奥西は肺炎をこじらせて八王子医療刑務所に収容されていたが、2015年10月4日、89歳で息を引き取った。奥西の再審申し立ての意志は妹の岡美代子さんに引き継がれ、現在も再審開始と雪冤に向けた取り組みが続けられている。尚、産経新聞の2021年の記事によれば、再審請求の意志をもつ岡さん以外の親族はいないとされる。

第10次再審請求では、検察側証拠のひとつでぶどう酒の王冠を覆っていた「封緘紙」の再鑑定を行い、2020年10月、製造段階で用いられる業務用の糊とは異なる、市販の合成樹脂製の糊の成分があったとする新証拠を提出。真犯人が毒物混入後に貼り直して偽装工作した可能性が考えられ、公民館での奥西の実行は不可能だったという裏付けになる。

だが2022年3月、名古屋高裁・鹿野伸二裁判長は、封緘紙の再鑑定結果は「科学的根拠を有する合理的なものとは言えない」とし、「封緘紙が巻いてあった」としていた村人3人の供述調書を「一般的に関心を持って観察する対象ではない」として却下。再審開始を認めなかった。

 

筆者の真犯人に関する見解としては、毒物を以てして若い女性をまとめて手に掛けるという仕業からすれば、三奈の会に参加していなかった人物が会長宅で毒物を混入したものと考えている。男性であれば腕力を行使する可能性が高く、それも会員でないとすれば比較的高齢女性と見てよいのではないか。全員への殺意はなく、参加女性数名への害心から食中毒程度の騒ぎを狙ったつもりだったのかもしれない。なぜ狭い村社会で捜査の手が及ばなかったのかは諸兄の想像に頼るほかない。

 

ときに自白を偏重し、ときに供述調書を認めようとしない裁判官の自由心証主義は審理が長引けば長引くほどにその危うさを露呈している。自白の強要や証拠隠し、証拠捏造などもってのほかだが、一般の社会通念さえ認めない独特の倫理観、自らの襟を正そうとしない裁判所の姿勢はいつまで固持されるのか。今を生きる国民には事件の風化を阻止することと共に、冤罪被害者を速やかに救済する再審法の見直しが託されている。

 

犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/086/080086_hanrei.pdf

名古屋高等裁判所 昭和40年(う)78号 判決 - 大判例