いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

吉展ちゃん事件

1963(昭和38)年に東京都台東区で起きた男児誘拐殺人事件について記す。
東京オリンピックの前年、人々にとって「人攫い」といえば労働力や売春に従事させる「人身売買」目的がまだ主流と思われていた時代である。資産家や有名人ではない庶民を狙った「身代金」目的の犯行は市民を恐怖に陥れ、後世への社会的影響も含めて「昭和最大の誘拐事件」といわれる。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220212110221p:plain

同じく1960年代の東京でこどもを狙った犯罪として、雅樹ちゃん事件(1960)、正寿ちゃん事件(1969)とともに三大凶悪事件ともいわれた。


■事件の発生

3月31日の夕方18時頃、東京都台東区入谷(現松が谷)にある入谷南公園で遊んでいた男児の行方が分からなくなった。公園のすぐ隣で建築業を営む村越繁雄さんの長男・吉展ちゃん(4)である。当初、両親は幼い我が子の「迷子」を疑って下谷北署に通報した。
周辺での聞き込み捜査により、男児は公園の洗面所近くで水鉄砲をして遊んでいたとされ、「30代くらいの男」と会話していたとの目撃情報から、誘拐の可能性もあるとして捜査本部が設置された。

男児の行方不明から2日後の4月2日17時48分、村越さんが営む工務店の従業員が電話に応対すると、男の声で「身代金50万円」を準備するよう指示される。当時の大卒国家公務員の初任給が1万7100円、2021年現在は約13倍の22万5840円であるから、単純計算すれば現在の650万円相当と換算されようか。
行方不明の報は打たれていたものの、警察は人命救助の観点から各機関に報道自粛を要請し、吉展ちゃん奪還に向けた水面下でのやりとりが続けられた。プライバシー保護や被害拡大防止のための報道協定が結ばれたのはこの事件がはじめてである。

 

翌3日19時15分、「こどもは帰す、現金を用意しておくように」と電話が入る。当時、日本電信電話公社は「通信の守秘義務」を理由に、警察捜査にも発信局や回線特定の「逆探知」を認めていなかった。本件を契機として同年に「逆探知」が認められることとなり、その後の電話を用いた事件の捜査を一変させた。
4日、22時18分の電話では親が男児の安否確認を求めるなど、通話の引き延ばしによって犯人の音声を録音することに成功した。この録音についても被害者家族が機材を用意し、自主的に行っていたものである。
具体的な身代金引き渡しのやりとりを行うもなぜか犯人は現場に現れない。6日5時30分には「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持ってきてくれる」と指定する電話が入る。しかし犯人は警察の張り込みを警戒したらしく姿を見せず、吉展ちゃんの母・豊子さんは「現金は持って帰ります、また連絡ください」と書置きを残して自宅へ戻っている。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220212094532p:plain

「村越さん、あのね、金持ってきてくれるかな。それでね、お母さん一人でね。もうこれでおしまいだからね、いいですか」

7日1時25分、犯人は豊子さんに改めて金の受け渡しを指示。犯人とは違う多くのイタズラ電話や、幾度も「空振り」が続いていたため、吉展ちゃんの所持品を「真犯人の目印」として置く手筈になっていた。

自宅から300m程の自動車販売店「品川自動車」の脇に停めてある軽三輪自動車を指定される。豊子さんは車で自宅を離れ、すぐに目印の「男児の靴」を見つけて、約束の50万円入り封筒を置いた。

担当の捜査員5人は気取られぬよう家の裏口から迂回して手分けして徒歩で向かったが、連係不足から現場到着が遅れ、その僅かな時間差を突いて犯人は封筒を奪取し逃走。捜査員のひとりは受け渡し場所へ向かう途中で現場方面から歩いてくる背広姿の男とすれ違っていたが、気が急いていて職務質問の機会さえ逃していた。
手許に男児の靴だけが戻り、以来犯人からの連絡は途絶えることとなる。男児の生命にかかわる事態をおそれて本物の紙幣が用意されていたが、その後の「追跡」までは想定しておらず紙幣ナンバーは確認されていなかった。

 

13日には原文兵警視総監がマスコミを通じて「親に返してやってほしい」と犯人への異例の呼びかけを行ったが、反応は返ってこなかった。19日、公開捜査に踏み切ったものの1万件に及ぶ情報提供が寄せられ、情報の絞り込みや裏付け捜査に多大な時間を要した。

25日、下谷北署捜査本部は録音された「犯人の声」を、オリンピックを控えて急速に普及したラジオ、テレビを通じて全国に放送。この試みも本邦初であり、人攫いをして親を脅し金まで奪った極悪人の「声」は人々の大きな関心を集めた。公開から正午までに220件を超す情報が寄せられたという。

 

■影響

早期解決が叶わず公開捜査となったことで、生還を願う人々によって情報提供を求める街頭でのビラ配りなど「吉展ちゃんを探そう運動」が全国の婦人会を中心に広まった。一方、各地で模倣した誘拐事件が頻発したこと等から警察のあり方、捜査手法や法律について再検討を望む世論が高まりを見せた。

 

1963年5月には国会でも議論され、翌年刑法第225条の2として、身代金目的の略取・誘拐等の罪状が追加された(「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。」)。

警視庁も身代金を奪われ、目前にあった犯人確保の機会を逸した教訓から、64年4月、捜査第一課内に特殊犯捜査係(SIT)を設置した。のち70年には刑事警察刷新強化対策要綱が策定され、各警察本部へ特殊事件捜査係設置の方針を決めた。当初は誘拐犯罪を主に扱う部署として、特殊通信、逆探知、追跡、交渉・受け渡し術などの捜査手法を専門化し、それら技術は人質事件、対テロ作戦などへも応用されるようになった。
行方不明から2年が経った1965年3月には、ボニージャックス、ザ・ピーナッツフランク永井らが、事件を主題にした楽曲「かえしておくれ今すぐに」を所属会社の垣根を越えて一斉にリリースするなど、長期化するなかでも社会的関心の高さが窺える。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220212094433p:plain

当時は営利目的の誘拐に関する捜査のノウハウが確立されていなかった。すでに述べたように、録音機材や逆探知が導入できていなかったこと、身代金のナンバーが控えられていなかったこと等のほか、脅迫電話の主を「40~55歳くらい」と推定されていたことで誤った犯人像を広めてしまったことも犯人特定の遅れに影響した。

誤った犯人像の流布という意味では三億円事件モンタージュ捏造、年齢推定の誤算という点では事件発生から解決までに11年を要した神戸北区高2男子殺害事件などが想起される。市民社会を襲った幼児誘拐、テレビ、ラジオでの「声」付き公開捜査のインパクトによって中高年の犯人像が強く刷り込まれてしまった。

 

音声が一般公開された4月25日、ラジオで「犯人の声」を耳にした日本語学者の金田一春彦氏(当時東京外国語大学教授)がそのアクセントについて、宮城・福島・山形の「奥州南部」または茨城・栃木の出身者ではないかと何気なくつぶやいた。戦後から番組出演やアナウンサー講師としてNHKとつながりがあったことから、妻珠江さんがその旨を連絡し、翌26日の朝日新聞にその洞察が取り上げられた。

金田一氏は従来の日本語学が書き言葉・文法を基調としたのに対し、よりオーラルコミュニケーションに着目した研究を深めていた。「青」や「3番目」といった言葉のアクセント、鼻濁音の使い方などから先の地域の訛りや発声法が読み取れると説明。会話内容や口調から「教養の低い人と見られる」が「高圧的な言葉遣いをしている」と指摘し、犯人像として「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官勤めをしていた人ではないか」とまで述べている。

またロシア文学アイヌ学、言語学に詳しい東北大学鬼春人教授は、1963年5月11日に河北新報に「吉展ちゃん事件、犯人の声を追う―言語基層学的研究から―」を寄稿、翌64年7月には中央公論に「吉展ちゃん事件を推理する」と題した論考を展開し、録音テープに残された「犯人の声」を手掛かりに、声紋や方言などから出生地や育ちを科学的に分析し、科学捜査の手法としての声紋鑑定導入を後押しした。そのなかで福島・栃木・茨城の県境にルーツがあるとの見解を示している(1965年2月に弘文堂から『吉展ちゃん事件の犯人その科学的推理』として刊行)。

 

日本の犯罪捜査分野では声紋や音響鑑定が導入されておらず、犯人の「声」を重視するまでに大きな後れを取った。捜査担当者は事件発生から2カ月半経った6月下旬になって科警研にテープを持ち込み、物理研究室技官鈴木隆雄氏が音声鑑定を担当することとなった。しかし音声の音響的特徴(フォルマント、ピッチ、波形)を抽出するソナグラフといった分析機器もなく、本件の鑑定は東京外国語大学で音声学を専門とする秋山和儀教授に依頼された(科警研がソナグラフを導入し、音声鑑定の研究を開始したのは64年以降である)。

事件から2年後の65年3月、警視庁は捜査本部を解散し、FBI方式の専従による特捜班を設置する。暗礁に乗り上げた捜査状況を一新して見直す目論見から、戦後から昭和50年にかけて叩き上げから数々の難事件で功績を挙げ、後の世に“捜査の神様”などとも謳われた敏腕刑事平塚八兵衛氏も特捜班に名を連ねた。

 

 ■足の悪い男

ある男に「声が似ている」として名指しで9件の情報提供が入っていた。上野御徒町で時計修理工をしていた小原保(30)である。担当刑事だった石井千代松氏は、小原の弟も情報提供してくれたと後年明かしている。通報前にきょうだい間で連絡を取り合って確認したが、「似ている」という意見で一致したという。

 

小原保は福島県石川郡石川町の貧農に生まれ、11人きょうだいの10番目の子どもとして生まれた。国民学校4年生の頃、骨髄炎を悪化させて左右股関節と右足首を悪くした。2度の手術と歩行訓練の甲斐あって杖なしで歩けるまでにはなったが、見た目にも湾曲して引きずるようになってしまい、学業にも大きな後れをきたした。周囲からいじめを受け、劣等感や生活苦が発育を歪ませたのか、小学生にして盗癖が身についてしまう。
親は手に職を付けさせようと、14歳で時計職人の許に弟子入りさせた。しかし職人の一家が疫痢にかかったため小原は駆け出しのまま実家に戻る羽目となる。仙台の障害者職業訓練所で改めて時計修理工の課程を修了し、市内の時計店で勤め始めたが、今度は自らが肋膜炎を患っってしまい再び帰省を余儀なくされた。20歳のときデパートの時計部の職にありついてここでは2年程勤めたが、同僚女性に脚のことをからかわれて逆上し職を離れてしまう。
就職と失業を繰り返す流浪の身となり、窃盗や横領の前科を重ねた。東京へと流れ着き、時計商をしながら荒川区で小料理屋「清香」を営む成田キヨ子と懇ろとなり同棲生活を送った。女性は10才ほど年の離れた身寄りのない元芸者で、店はかつてパトロンが世話したものだとされる。恋慕の情以外にも、行き場をなくした渡り鳥のような男の身の上に多少の同情心があったのかもしれない。男は知人による時計の持ち逃げに遭い、飲み代や仕入れ代金で借金が嵩み、やがて詐欺まがいの横流しにも手を染めていた。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220212080520p:plain


借金があったことや脅迫電話の声質と似ていたこと等から小原は早い段階で捜査リストに挙がった。1963年8月、小原は賽銭泥棒で懲役1年6か月の執行猶予付き判決を受け、同棲相手と別れた後、12月に工事現場から盗んだカメラを質入れしたことが発覚して再び逮捕。翌64年4月に懲役2年が確定し、前橋刑務所に服役した。いずれも誘拐事件についての取調べが“ホンボシ”の、いわゆる別件逮捕である。

しかし小原は「事件発生前日」から「最初の脅迫電話」の翌日にあたる3月27日から4月3日にかけて、借金返済の金策のために「郷里の福島へ出向いていた」と供述して誘拐の容疑は否認。実家に顔を出してはいなかったが、同地で複数の目撃証言があったことからアリバイとして認められた。

また吉展ちゃんの身代金が奪われた直後の時期に、小原は借金返済のためキヨ子に20万円を預けていた。大金の出処について、小原は「時計の密輸」を持ちかけてきたブローカーから横領した金だと供述した。相手ブローカーの素性について明かそうとはしないものの、奪われた50万円とは金額に開きがあった。

嘘発見器の判定はシロ、また不自由な脚で速やかに逃走できたものかあやしく、冒頭の手配書にあるよう当初「40歳から55歳まで」と目された推定年齢に一致しないこと等もあり逮捕の決め手を欠いた。小原本人も黙秘したり、のらりくらりと話をはぐらかして勾留期限を乗り切られていた。

 

だが先述の秋山鑑定を行った結果、犯人の声は従来とは異なる「30歳前後」と推定され、事件直後の5月に文化放送記者伊藤登氏によるインタビュー取材で得られていた小原の録音テープと照合した結果、両者の波形的特徴は「よく似ている」と指摘された。

伊藤記者は「犯人の声」公開で世間が騒然とする中、「似た声の男を知っている」との情報を頼りに5月時点で小原と接触していた。「清香」で直接インタビューをしたときはそれほど似ている印象はなかったという。事件について問えば、男は素人推理にはなるが、と前置きしたうえで「(身代金誘拐という)その犯罪のやり方がとても緻密だということは法律のことを知っている人じゃないか」と犯人像を述べた。

しかし世間では男児の生存を願う声が多い中、男は犯人について「あんな残酷な人間」などとすでに殺害されているかのような口ぶりで語っており、記者として何か“引っかかり”を感じたという。後日、再取材をしようと電話を掛けてみると「電話越しの小原の声」は犯人の声とそっくりで驚いたと述べている。

 

■アリバイ崩し

特捜班は改めて小原を取り調べるため、身柄を前橋刑務所から東京拘置所に移管させた。人権擁護の立場から、別件で既に服役している小原への度重なる取調べに対して「不当逮捕ではないか」とする声も上がっており、リミットは10日間に限定されていた。遺体も凶器もなく、金の流れも追跡しきれないなかで、捜査班に残された術は徹底したアリバイ崩しによって本人に口を割らせる以外なかった。

「保君よ、こっち見ろよ、こっち。お互い話ししようとしてるんだから相手の目を見なさいよ。目を、僕の目を見なさいよ」
小原がキヨ子に預けた金とは別に、小原の弟から「1万円札30枚くらい」の大金を小原が所持していたとの情報が得られた。調べを進めていくと、身代金が奪われた4月7日以降の一週間で小原には計42万円近くの支出があったと確認される。
また確かに足に障害があり歩行は不得手であったが、堀を飛び越えるなどある程度俊敏な身のこなしができたことを裏付ける情報もあり、現場から逃げ切ることは可能だったとみなされていく。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20220212231832p:plain

福島でのアリバイについて、事件当日となる3月31日の目撃証言をしていたのは雑貨商の老婆だった。老婆は30日頃、親戚男性から「藁ボッチ(作物や樹木の防寒に被せる藁)で野宿していた男を追い払った」と聞かされており、「その翌日」にどうやらそれらしい「足の不自由な男」が橋を渡る姿を目撃していた。

改めて親戚男性に話しを聞くと、藁ボッチは野宿者がきた日に片付けたと話した。野宿者を追い払った後、不審者がいたことを通報しに行くと「男が逆恨みして付け火でもされては困る」と駐在に言われたのだという。そこで駐在に確認をとってみると野宿者がいたのは「29日」と記録が残っていた。老婆が「足の不自由な男」を目撃したのは「その翌日」の3月30日、つまり誘拐事件の前日だったことが判明する。


脅迫電話のあった4月2日の目撃証言は、その親戚男性の母親で「孫の通院」の際に小原を見掛けたというものだった。孫は持病で頻繁に通院しており、たしかに4月2日にも受診履歴が残されていた。しかし話を聞いていくと、男を見掛けた際の通院は「草餅の食べ過ぎ」による腹痛が原因だったと言い、餅は旧暦の「上巳の節供」に供されたものと判明する。その年の上巳の節供は「3月27日」であり、病院で男を目撃したのは4月2日より前に受診した「3月28日」の出来事だったのである。

 

お前のお母さんがね、僕たちが福島に行ったら

本当にもう気の毒だよ、お前、中腰曲げてね

歯は抜けてしまい、言葉がはっきりとしない

それでもね、泣きながらねぇ

「刑事さん早く保に本当のことを言わせて解決つけてください」と

「私はもうあきらめています」と

「ひとつ今度だけは、何が何でも解決してくれ」と

お前のお母さんこんな状態だったよ

おい見てんのかよ!

保!

お前のお母さん、こんな状態だったよ!

平塚刑事は、福島の寒村で息子の罪を詫びる73歳の老母のふるまいを真似て背を折り曲げ、小原に何度も土下座して見せた。

お前の家を出てきて、道の高いところ

道路へ上がったら後から追っかけてきて

泥んこの上、ぺっちゃり座っちゃって

「刑事さん、どうか話を聞いてくれ」と

 

お前、たまにはお袋の姿をね、頭に浮かべたことはあるのかい

保!

保っ!

取調べに同席した元捜査一課小橋豊通氏は、そのとき小原は反抗もせず、黙って様子を見ていたと言い、「それまでの表情と変わっていたことは間違いない」と後に語っている。テレビ朝日系報道番組『ドキュメンタリ宣言』で、平塚刑事の遺品にあった当時の取り調べの録音テープの一部が放映されており、“落としの八兵衛”とも呼ばれたその実力を偲ばせる。

 

「小原の声」と「犯人の声」を分析した秋山教授も声紋を犯罪捜査のために扱った経験はなく、比較サンプルも限られていたため、「1/50の確率で」「よく似ている」といえる程度で、両者を同一人物と断定することはできなかった。当時の通信、録音技術や解析法では「指紋」のように犯人性を示すに足る証拠能力がないことは明白だった。

上層部は直接の取り調べを期日までで一旦打ち切りとし、専門性の高い技術を持つFBIへ声紋鑑定を依頼するとの方針を示した。1965年7月3日、捜査班に与えられた取調べ最終日の任務は、きしくも鑑定用の声紋採取、雑談によって小原を喋らせ「録音」することだった。

平塚「(福島から)東京へ帰ってきたのは、一体いく日なんだい?」

小原「火事の日なんです、日暮里の火事。2日に帰ってきたんです」

日暮里大火は4月2日14時56分頃、寝具製造会社で発生した火災が折からの強風によって煽られ、周辺倉庫や1000トン以上の特殊可燃物が集積されたゴム工場に飛び火し、死者こそなかったものの7時間にもわたって燃え続け、36棟、5098平米を焼失した大災害である。

平塚「どこで見たんだ。火の燃えてんの見てんの、きみは?」

小原「山手線か何か。わあっと真っ暗になるほど煙が出てきた」

大火は「最初の脅迫電話」があった「4月2日」に起きており、小原がその様子を都内で見ていたとすれば「4月3日まで福島にいた」とするこれまでの自らの供述と明らかに矛盾することになる。

 

捜査班は色めき立ちこれまでの裏付け調査で多くのアリバイが崩れていることを小原に全て突きつけ、最後の揺さぶりをかける。この日まで落としきれずFBIの鑑定に縋るより打つ手がないとされた捜査班からすれば背水の陣、最後の賭けに違いなかった。

「あんたの姉さんの調書を見たんだよね。38年はね、普通の(コメの)凍み餅は作ってないって言うんだよ。イモ餅以外はないって」

これまで小原は、実家へと赴いたものの気まずさから家族との対面は憚られ、野宿をして過ごしたと語っていた。腹が空いたときは、土蔵の落とし鍵を開けて忍び込み、毎年家で作る凍み餅(しみもち。紐で固定した餅を水に浸し、吊るし干ししてつくる保存食)を食べてしのいだと証言していた。しかし土蔵は改修されてかつての落とし鍵ではなく南京錠に換えられており、その年は不作によりコメの凍み餅をつくっていなかったのである。

墓穴を掘った小原は次第に追い詰められ、「月曜日(7月5日)になったらお話します」「自分がやったことに対しては言い訳しようと思わないんで」と半ば犯行を認める態度を示した。翌日も調べは継続され、捜査員が「まあ、飲め」とお茶を差し出すと、小原は口もつけず「最初にお話することは、吉展ちゃんが今どこにいるかということです」とついに自供を始めたのだった。

 

身柄を警視庁に移され、誘拐・恐喝の容疑で逮捕。男児を攫った3月31日、その日のうちに殺害していたと全面自供に至った。5日未明、小原の供述通り、荒川区南千住の円通寺墓地にあった墓石の下(遺骨を納める唐櫃)から二つ折りになった男児の遺体が発見された。

1965年7月5日7時35分からNHKで放映された『ついに帰らなかった吉展ちゃん』はビデオ・リサーチ社・関東地区調べで59.0%を記録。「何でもいいから生きていてほしかった」と泣き伏す母豊子さんの姿が伝えられ、人々は哀悼に暮れた。原警視総監は村越家に弔問し、無事奪還することができなかったことを両親に謝罪。円通寺の現場にも多くの市民が焼香に訪れた。その後、境内には供養のため「よしのぶ地蔵」が建立された。
元監察医・上野正彦氏は著書『死体は語る』の中で、担当医から聞いた話としてこの事件に触れている。遺体は死後変化が激しく個人識別が困難だったが、その口元には3本の新芽が伸びていたという。調べてみると、種子が発芽するまでに2年を要するネズミモチ(モクセイ科の常緑灌木)の芽と分かり、犯人の自供が事実であることが裏付けられたとしている。

 

■真人間

小原保は営利誘拐、恐喝に加え、殺人、死体遺棄で起訴され、1966年3月17日に東京地裁で死刑判決を受けた。弁護側は、小原は失踪を報じた翌日の新聞で吉展ちゃんだと知り、身代金の要求を思いついたくらいでその犯行に計画性はなかったとして控訴。同年9月、東京高裁は控訴を棄却した。

www.bengo4.com

67年春、小原は上告審を前に弁護人を解任し、急遽、当時3年目の若手だった白石正明弁護士が担当することになる。上の弁護士ドットコムのインタビュー記事によれば、「金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だった」と評している。福島県会津疎開した経験や当時よく山登りをしていた話をすると、男の方も少年時代を振り返るなど心を開いたようだったと振り返り、もっと前に他の弁護士にも心を開いていれば判決は変わっていたかもしれないと述べている。

 

興味深いことに、小原は一審、二審で自ら殺害の事実を認め、すでに改悛の情に達していたが、「自白」の一部について否認する内容を白石弁護士に語ったという。聴取の中で違うと言っても聞き入れてもらえなかったので、捜査員の言われるままにしたというのである。

小原が前任者らに心を開いていなかったかどうかは分からないが、立場は違えど被告人と比較的年が近かったことも影響していたのかもしれない。事件から時間が経ち諦念の境地が深まっていたこと、また周囲で死刑執行が進む中、恐怖心や、たとえ判決が覆らなくてもだれかに話しておきたいという心境に駆られていたようにも思える。

殺害状況について検察側が述べた「殺害するため墓地へ連れて行き、首を蛇側のバンドで占めたうえ、両手でもう一度絞めて窒息死させた」というのは事実ではなく、「誘拐後に墓地で休んでいたらアベックがやってきたため、男児に騒がれては困ると手で口を塞いでいたところ、気付いたら亡くなっていた」と話し、殺意を否定したという。小原は子どもを殺すのに2度も首は絞めることはないと語っており、それが事実であれば「殺人」ではなく、量刑に死刑のない「傷害致死」に該当する。

 

また「足に障害があっても俊敏に動けた」とする逃走についても否定し、歩くのが不自由なので自転車を使うことが多かったという。母親が置いていった身代金を得る際も、盗んだ「自転車」で駆けつけ素早く持ち去ったと明かした。白石弁護士は男の証言の裏付けを取るため郷里の石川町に赴き、帰郷した際に小原が使用したとする証言に合う放置自転車が確認でき、東京でも身代金を奪った日に近郊でそれらしい自転車が目撃されていた。

通常、最高裁では新たな証拠の審議は行われず、それまでの判決の法的妥当性について争われる。白井弁護士は、殺意の認定を覆す証明は難しいにせよ、供述とは異なる事実を示すことで取調べに「自白の強要」があったことを示そうと試みた。しかし1967年10月、最高裁は上告棄却を決定。死刑が確定する。

 

福島の実家にも多くの報道陣が詰めかけ、小原の母親はひたすら土下座して謝罪をし続けた。現代であれば30歳の犯人の親に非が向かうこともそれほどないが、加害者遺族の権利も認められない時代にあって、世論や地域社会からの風当たりも相当厳しいものがあったと思われる。

長きにわたって疑いを掛けられながらも、口を割らなかった男の胸中にもこの母親の存在が大きかったに違いない。犯行そのものは卑劣極まりなく、男児の生存を装って平然と金を強請り、インタビューや取調べでもシラを切り通そうとする大胆不敵とも取れる狡猾な側面はあった。反面その背景には、債権者の取り立てを恐れて金を工面しなければと郷里に戻ったが親きょうだいに合わせる顔もなく逃げ帰るなど「気弱な小心者」の態度も見て取れる。口を割れば親きょうだいに迷惑が掛かる、人殺しの家族と知れれば村八分にされるといった危惧が、2年もの間、この「小心者」に頑なな態度をとらせたのだと思う。

 

死刑確定後、教誨師は小原の心の支えに短歌を勧め、福島誠一名義で創作に励んだ。1971年12月22日、前日にその執行を知らされた死刑囚は辞世の句を編んだ。

明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る

翌23日、死刑執行。享年38歳。遺骨は福島に帰るも家の墓に収めることは許されず、卒塔婆もない土盛の下に埋められた。

一説には、小原は執行の折に「今度生まれてくるときは真人間になって生まれてきます」と平塚刑事への言伝を頼んだとされる。平塚刑事は長引く取調べの中で「一時でも真人間になってすっかり喋ってみろ」と小原を諭したことがあった。4年後に墓所を訪れた平塚刑事は土盛を前にして慟哭を禁じえなかったという。

 

被害者のご冥福と、ご家族の心の安寧を願います。

 

 

東京高等裁判所 昭和41年(う)926号 判決 - 大判例