いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

福井女子中学生殺害事件

中学校の卒業当夜、15歳の少女が自宅で滅多刺しにされて殺害される。物証も自白もないなか、脆弱な目撃証言の積み重ねのみで殺人犯とされた冤罪が疑われる事件である。

 

事件の発生

1986年(昭和61年)3月20日午前1時半頃、福井県福井市豊岡2丁目に住む飲食業・高橋静代さん(当時39歳)が市営住宅2階の自宅に帰ってくると、6畳間で二女・智子さん(15歳)が血まみれになって死んでいるのを発見し、福井署に届けた。智子さんがK中学校を卒業した晩の出来事だった。

静代さんは6年前に離婚して、長女(当時18歳)は父方に引き取られており、スナックに勤めながら二女の智子さんと2人暮らしだった。19日は午前中から揃って卒業式に出席。いったん別れた後、智子さんは17時半ごろに帰宅。静代さんが18時ごろに出勤した後、智子さんはひとりで留守番をしていた。

 

遺体は普段着姿で仰向けに倒れており、右首筋には包丁が突き立てられたままの状態。頭部にガラス製灰皿で殴られた痕跡が認められ、首には二重の条痕もあった。死因は刺し傷からの出血死。着衣に乱れはなかった。刺創は合計でおよそ45か所、とくに右首から顔面にかけて20数か所も執拗に刺されていた。

犯行様態としては、灰皿で頭を殴りつけ、電気カーペットのコードで首を絞めようとした後、上半身にこたつカバーを掛けた上から滅多刺しされたものと推測された。

凶器の刃物は元々家の台所にあった刃渡り約18センチの文化包丁で、首に刺してあったものと傍にあった「くの字」に曲がった包丁の少なくとも2本が使用されていた。

智子さんは21時頃、母親の勤め先に電話をしており、団地の住民らが21時半頃に騒がしい物音を聞いていたことから、死亡推定時刻は21時40分頃と推認された。

留守番の際は施錠する習慣があり、抵抗してできた傷や争った形跡はなかったことから顔見知りの犯行とも考えられた。室内を荒らされたような形跡もなく、検証でも犯人に直接つながる指紋や遺留品などは出てこなかった。

県警はその特異とも言える残忍極まりない犯行の様態から、精神異常者による犯行、被害者と交遊のあった者による強い怨恨、非行グループによるリンチ殺人などの見立てで調べを進めたが、捜査は難航し、暗礁に乗り上げた。

 

証拠なし、自白なし

86年10月下旬、覚醒剤で8月半ばに逮捕され福井署に未決勾留されていた暴力団員Cが「殺人事件の犯人を知っている」などと口走った。当初は警察も相手にしていなかったが、Cは勾留期限が迫るなか「後輩Eが顔や服に血の付いた男を白い車に乗せてきた」と詳しい内容を話し始めた。

殺人事件の長期化による焦りもあってのことか、県警が内偵を進めていく。事件から1年後の87年3月、事件当時21歳だった無職・前川彰司(敬称略)が殺人容疑で逮捕された。

だが前川は被害者と何の接点もないとして、一貫して容疑を否認する。中学時代からシンナー常習の素行不良者として容疑者リストに挙がっており、4月上旬にも聴取を受けていた。だが事件当日は実家に姉家族が来ていたこともあって両親と揃って夕食を囲み、晩も自宅で就寝していたとしてリストから一度は除外されていた。

前川が逮捕されたのは、薬物依存治療のために県立病院から都内のリハビリ施設に移るため退院した直後のことだった。警察は犯行車両として白色の日産スカイラインを報道陣に公開し、助手席付近から被害者と同じ血液型の血痕が出たと発表した。

 

供述した暴力団員C(当時22歳)は前川の中学時代の1学年先輩に当たり、日頃、前川を使い走りにするような間柄だった。Cは面会に訪れた知人らに「殺人事件の犯人を知らないか。犯人が分かれば自分の刑が軽くなるかもしれない」などと情報提供を求めており、同棲相手の女性Dさん宛に「前川のことをよく思い出してくれ。俺の情報で逮捕できれば減刑してもらえるから頼むぞ」と協力を請う手紙を出していた。

Cから「Eが車で血の付いた前川を連れてきた」と名前の挙がっていた後輩のEは犯人蔵匿の容疑で逮捕されたが、否認して、10日余りで釈放された。だがEの証言から前川の送迎に使用されたのは、シンナー仲間のF(27歳)が人から借りて乗っていた白いスカイラインと判明し、助手席ダッシュボード付近から血痕が検出されたのである。

暴力団員C、その同棲相手Dさん、シンナー仲間のF、Cの関係者らの供述には食いちがいが多かったが、当時は薬物の影響下にあった等として内容を次々に変遷させた。警察はそれらを基に、前川が事件当夜に現場の団地を訪れ、返り血を浴びて戻ってきた旨、以下のような筋書きを組み上げていった。

3月19日21時頃、前川がDさん宅を訪れ、Cからシンナーの一斗缶を受け取ってその場を去った。そこに偶々スカイラインに乗って現れたシンナー仲間Fに同乗させてもらい、シンナー遊びに誘い出そうと被害者宅の団地へと向かう。Fは車中で待っており、前川さんが単身で智子さんを誘ったが、無下に断られたことから激昂して殺害。

前川は返り血を浴びたまま車に乗り込み、市内に住む義兄の家へ向かうも留守だったため、助けを求めようと再びDさん方にCを訪ねた。しかしこのときCは不在で、前川はDさんに頼んで暴力団事務所からポケットベルを使ってCの居場所を聞き出してもらう。前川とFはCがいるというゲーム喫茶に向かったが場所が不案内だったことから、Cの後輩Iが近くまで出迎えにきて店まで案内した。

ゲーム喫茶で前川らはCと落ち合うが、その晩Cは組員Gと共に覚せい剤取引の用事があった。その後、近くに住むHさん宅(組員Gの同棲相手)に転がり込み、CとGらは覚醒剤を使用、前川はシンナーを吸引した。CはまたDさん方まで来るように言い残してその場を離れ、前川は20日6時頃にDさん方に到着。前川はDさん宅でシャワーを借りて午後まで眠った。15時頃、Cが前川を自宅に送る際、血の付いた着衣等を袋に入れて近くの底食(そこばみ)川に捨てたという。

 

しかし川からそれらしき着衣は発見されず、暴力団員C絡みの証言はどれも曖昧で、客観的な裏付けは皆無だった。前川は自白の強要にも折れることなく無実を主張し続けたが、勾留期限と共に起訴され、鑑定留置へと移された。物証もなければ自白もない、悪友らの脆弱な目撃証言のみによって殺人容疑をかけられたのである。

 

逆転有罪

弁護団は当初から見込み捜査による冤罪との見方を強めた。立ち上がりは早く、一審公判から不当逮捕と証拠の欠如を追及した。

検察側が唯一の物証としたのが、2本の毛髪だった。現場から採取されていた毛髪99本のうち母娘とは明らかに異なる毛質で、検察側鑑定では「被告人のものと同一」とされた。DNA型鑑定のない当時では、血液型と性別、高齢か若者かは大別できても、個人識別までは不可能というのが法医学上の常識であった。指紋のような絶対的な同定基準はなく、似ているか否かの判別は鑑定人の経験や力量に左右されることから人物同定の証拠能力は認められていない。また現場に男の毛が2本落ちていたとて、それだけで殺人犯と断定しうる証拠とは言えない。

当初「逮捕の決め手」とされた犯行車両の助手席ダッシュボード下から検出した血痕について、血液型は一致したものの、詳細な検査で被害者とは異なるものと判明していた。しかし検察側は公判で裁判官に促されるまでその事実を隠蔽していた。捜査当局が手にした2つの物証は共に否定された。

被告人質問で前川は「机にぶつけられたり、髪の毛を掴んで引っ張り回された」といった自白強要の実態を語り、取り調べの不当性を訴えた。

証人尋問では、C供述を覆す波乱が起きた。同棲相手Dさんがそれまでの供述を破棄し、Cから送られた「前川を犯人とする証言があれば減刑を見込める」旨の手紙の存在を暴露。彼女が聴取を受ける際にも警察からC供述に沿った誘導尋問があったことを明らかにした。起訴事実の根幹となるC供述の屋台骨が折れたことで前川犯人説は瓦解した。

 

福井地裁(西村尤克裁判長)は、毛髪の証拠能力を認めず、C供述をはじめ証人6名の捜査段階から公判に至るまでの変遷ぶりから返り血を浴びた前川を車に乗せたとする各証言の信用性は低いと判断。1990年9月26日、検察側の求刑13年に対して無罪判決を下した。

Cが未決勾留時に供述したこと自体、自身の処遇改善や量刑への配慮をもとめていた疑いがあるとし、他の証言者についても重要な事項についても大きな変遷があり、記憶にないにもかかわらず「捜査当局に迎合した疑いが強い」と西村裁判長は結論付けた。

過去の冤罪事件においても、証拠の改竄や捏造といった捜査機関によるでっちあげは知られるところであった。だが平素より警察に尻尾を握られている素行不良者や、懇ろな関係にある暴力団員の「口」を使って架空の筋書きを証言させるというのは強引すぎる荒業と言わざるを得ない。

Cは手紙でDに情報を求めた(『冤罪白書2019』(燦燈出版)より)

しかし控訴審名古屋高裁金沢支部(小島裕史裁判長)は、前川らを喫茶店に案内したとする後輩Iの法廷証言を重視。またC供述についても覚醒剤取締法違反容疑での取調べはすでに終了していたため自己利益のための供述とは言えないと判断し、内容に間々変遷はあるが大筋で一貫しており信用できると事実認定に傾いた。量刑判断として、前川にシンナー濫用による心神耗弱状態にあったことを考慮し、95年2月9日、小島裁判長は懲役7年を言い渡した。

前川は捜査段階から事件現場に行ったことがなく、被害者とも面識がないと主張してきた。両者に面識があるとするのは、暴力団員Cが「前川の手帳に彼女の名前と電話番号が書き込まれているのを見た」とする証言、また前川の友人のひとりが「事件前にドライブ先で被害者をシンナーを吸引する子だと前川に紹介したことがある」という証言のふたつだけだった。被害者の名前などが書かれた手帳なるものは証拠提出されていない。それにも拘らず、前川が被害者と旧知だったとする見解は支持され続けた。そもそもの無関係を立証するにはまさしく「悪魔の証明」が必要とされたのである。

 

暴力団員Cがすべてひとりで前川犯人説を組み立てて当局がそれを全て鵜呑みにしたとは到底思えない。誘導、強要、司法取引などのかたちで捜査当局が癒着し、協力体制を敷いていたことはもはや疑う余地もなきように思われた。聴取の際に勾留中のCと接見させられて脅かされ、供述内容のすり合わせが行われたと語る証人もいた。

ことゲーム喫茶に案内したとされる後輩Iについても、一審では「事件当夜は(ゲーム喫茶には行かず)うどん店で知り合いが喧嘩するのを見ていた」「帰り道の検問で殺人事件のことを知った」と事件との関係を否認していた。それが控訴審に至ってC供述に沿うかたちで「スカイラインを運転してゲーム喫茶に案内した」内容へと変移した。

控訴審当時、後輩Iは交通死亡事故を起こして業務上過失致死で送検されている最中で、案内証言をした94年3月31日、罰金40万円の略式命令を受けた。証言の前日、Iの略式請求を行ったのは福井地検でも通常なら交通事犯は担当しない三席検事だった。弁護団はこうした背後に利益供与、司法取引が行われた疑惑を指摘している。

 

1997年11月12日、最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)は全員一致で控訴審判決を追認し、上告を棄却。被告人と被害者との関係性も確固たる裏付けのないままに、大筋論として検察側の主張が認められた。

前川は薬物依存症治療のため医療刑務所に服役し、弁護団は再審請求に向けて再編成された。

 

再審請求と現在地

前川の父親・礼三さんは三審を経ても尚、息子の潔白を固く信じていた。逮捕当時は福井市の財政部長の要職に就き、将来の市長候補とも目されていたが、事件によって事実上先は立たれた。ときに辞職も考えたというが、それでは息子の非を認めることになると踏みとどまって定年まで勤めあげた。「尾行する警官に息子が冗談を言うような雰囲気だったのに」と現地調査団らに逮捕前の様子を語った。

非行や薬物依存にも匙を投げず息子を支え続けた母親は、警察が尾行についたとき「悪いあそびができなくていいわ」と冗談を言って気丈に努めたという。しかし逆転有罪判決には大いに打ちのめされたらしく、次第に認知症の症状が進行した。

2003年3月6日、刑期満了で前川は出所するが、翌年6月、寝たきり状態だった母親は世を去った。彼女の記憶の引き出しにはどんな息子の姿があったのか。

 

「事件はすっかり風化してしまったきらいはあるが、私の心の中では今なお、冤罪の焔が不死鳥のように燃えている。違うものは違う。やってないものはやってない」

日本国民救援会、日本弁護士連合会などからの支援が決定した前川は、2004年7月15日に再審請求を行う。

主な争点として、時間をめぐる証人の不合理な供述に対して疑問を提示。

日大医学部・押田茂實教授の鑑定から、凶器と認定された文化包丁2本とは刺創の異なる傷が少なくとも2箇所あるとし、犯人が持参して持ち去った「第3の凶器」の存在を主張する。これまで証人の供述に前川が刃物を持っていたとの証言は一度もない。

出血量をめぐる鑑定などからこたつカバーを被せた上からの刺殺では顔や衣服に血液は飛散しないことを指摘し、前川が着ていたとされる「血の付いた衣服」の存否について争う方針とした。

また確定判決では心神耗弱状態における激昂により犯行に及んだと認定されたが、現場には指紋や争ったような跡もなかった。第三の凶器を持ち込み、回収した可能性が高く、血の飛散を避けるためにこたつカバーを用いたとすればむしろ冷静さや計画性を窺わせる。事実認定の内容と合理的な思考力をもつ犯人像とが相容れない点を突くねらいが採られた。

検察側の毛髪鑑定が崩れたこともあり、たとえ前川に被害者宅への訪問が可能だったとしても、現場にいた証拠は皆無である。弁護団は警察が仕掛けた偽計を明らかとするため、徹底的に証拠開示請求を行い、名古屋高裁金沢支部(青木正良裁判長)もそれを後押しした。

2008年2月18日、客観的証拠といえる解剖写真、被害者の衣類、車両から検出した血痕の鑑定書などについて、裁判所から検察に対して口頭と文書による開示勧告が為された。再審請求で文書による証拠開示勧告が為されるのは初めてとされる。検察側は物証の写真撮影を禁じ、法医学者に見せないといった妨害ともとれる駆け引きを続けたが、協議の結果、裁判所内で弁護団と法医学者ら鑑定人が所見するかたちでの開示を容認。

文化包丁より幅の狭い刺創があること(第3の凶器)、出血の飛散はなく犯人が大量の返り血を浴びたとは考えにくいこと、車両に血痕を示すルミノール反応はなかったこと(血が付いたので唾を付けたティッシュで拭いた旨の供述のみ)、現場にはドライヤーの電気コードが鴨居から吊り下げられていたこと(当初犯人が首吊りの偽装工作を試みたとも捉えられる)などが明らかとされた。

伊藤新一郎裁判長に替わってからも、2009年11月12日、目撃者の供述調書について文書による開示勧告が為された。関係者6人分計29通の捜査段階の調書が開示された。これによりC供述の変遷に付随するようにして他の関係者証言も変移していく経過が一層明らかとなった。

 

事件から四半世紀が経った2011年11月30日、名古屋高裁金沢支部は再審開始を決定。

「ほっとしています。言葉になりません」

46歳となった前川はシンナーの後遺症に冒され、富山県内で入院中だった。服役中から本人に代わって再審に向けて奔走した前川の父・礼三さんもこのとき78歳になっていた。「再審の扉が開かれたが、私の仕事もまだ残っている。無罪判決まで頑張りたい」と決意を表明した。

被害者の母・静代さんは、事件後も現場となった団地の一室でしずかに暮らしていた。事件当初は地検の聴取に「犯人が憎い。生き返らせて私に返してほしい」と強い憎悪感情を露わにしていた。

再審開始決定を受けて「何も申し上げることはございません。あの日智子は血まみれになって殺されていました。どんなに怖かっただろうか、痛かっただろうかと思うと今でも胸が張り裂けそうになります」「智子が戻ってくることはありませんが、生きていれば40歳。事件がなければ智子はどんな人生を送っていたのだろうかと思いが募ることがあります」と癒えることのない遺族の思いを書面に綴った。

弁護団は再審開始決定について「法医学的所見に基づいて関係者の供述の信用性を検討した堅実な内容」と評価し、検察側に対し「不利な証拠も公平な立場から見直し、交易の代表者として名誉ある撤退をしてほしい」とすみやかな再審開始に理解を求めた。

再審開始決定の取り消しに憤りを見せる前川彰司さん(2013年3月6日)

 

2013年3月6日、名古屋高裁(志田洋裁判長)は再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、再審請求を取り消す決定を下した。再審開始の理由とされた「新証拠」について旧証拠の証明力を何ら減殺するものでもないと判断。

弁護団は特別抗告するも、2014年12月10日、最高裁判所第2小法廷(千葉勝美裁判長)は抗告を棄却する決定を下し、第一次再審請求が終結した。

 

2022年10月14日、弁護団は第二次再審請求を行った。

 

 

・所感

警察、検察、裁判所は「あってはならないこと」を犯した罪に対して隠蔽する努力をこれからも惜しまないだろう。彼らが人を殺めた訳ではないが、偽装工作や証拠隠しは罪の意識の裏返しと捉えることもできる。前川さんの刑期よりはるかに長い再審開始に向けた戦いは今も続けられている。

事件当時は暴力団も地域でシンナーや覚醒剤を暴走族や非行少年に売りさばく濫用期で、暴対法成立前で地域に強い勢力を張っていた。だからこそ警察も地域の暴力団とは癒着ともいうべき密接な関係にあった。

 

真犯人に思い巡らせれば、ひとつは暴力団員Cが自分の罪を前川さんに擦り付けたことが想像されるだろう。だが被害者との直接の接点は特に浮かんではいない。

被害者が邪な道に染まっていたのか確かなことは筆者には分からない。だが恋人がいても不思議はない年頃であり、周囲の人間関係の影響を受けやすい時期であることも確かだ。中学校が好きであれ嫌いであれ、少年少女にとって「卒業」は大きな意味をもつ。

筆者の憶測としては、暴力団や不良グループに属さない、被害者が思いを寄せる相手が部屋に招かれたのではないかと考えている。智子さんがどういった要件で事件直前に母親に電話を掛けたのか明らかではないが、これから夜遊びに出ようとしていたか、異性を招き入れる直前にした後ろめたさからの「偽装工作」のように思えてならないのだ。

シンナーの症状は初期には多幸感・倦怠感といった酩酊状態が現れる。前川さんのように入院を要する中毒者がその影響下で指紋などに注意を払って犯行ができたとはやはり思えない。むしろ初期には神経を興奮させ、思考や感覚が鋭敏になるとされる覚醒剤の使用があったのではないか。

たとえば学生や定職に就いていて一般に非行少年とみなされず薬物中毒ではない若者が部屋に招かれ、覚醒剤を彼女に勧めた。被害者にそのつもりは全くなく、拒絶された男は衝動的に灰皿で頭を殴りつけた。母親の帰宅時間までに指紋等を除去し、首吊り偽装を図るもうまくいかず、覚醒剤を使用して興奮し、滅多刺しにして現場を去った…といった見立てである。

乱用者であれば似たような事案を再び起こしそうなものだが、事件以降に薬物を断つことができれば捜査の網にもかからず、何事もなかったかのように社会復帰しているかもしれない。

 

「999人の真犯人逮捕のためなら冤罪がひとつくらいあっても構わない」という人はいるだろうか。冤罪は千にひとつも万にひとつもあってはならない権力犯罪である。冤罪により無実の罪で刑に処される人や巻き込まれる家族は当然「被害者」となるが、同時に本来の被害者や被害者遺族をも一層苦しめることになる。

本件で言えば、被害者の母親である。大事な娘を奪われ、憎き犯人が遂に逮捕されたかと思えば、裁判や世論の向きは二転三転し、表立って誰かを非難することさえ許されない。娘に報告してやれる言葉もない。その苦しい胸中は察するに余りある。雪冤が果たされようと、真相解明の道を閉ざした責任をだれもとることもないまま、残された人たちは生きていかねばならない。

被害者のご冥福をお祈りいたします。