事件の発覚
戦後混乱期の只中、1948年(昭和23年)1月12日、臨時警戒中だった早稲田署の警官2人が新宿区榎木町15番地付近で自転車の荷台に妙に嵩張る木箱を4つも抱えた男を見とがめて職務質問した。男は長崎竜太郎を名乗る葬儀屋で、不審に思って木箱の中味を検めてみたところ5体の赤ん坊の死体が見つかった。
問いただすと男は新宿区柳町にある「寿(ことぶき)産院」に頼まれたもので火葬場に運ぶ最中だと言い、正規の埋葬許可証も持っていた。署まで連行して詳しい話を聞くと、赤ん坊一体で500円、これまで30件以上同じような依頼を受けたことを認めた。いかに母子とも命がけの出産の現場であれ、それだけ赤ん坊が立て続けに亡くなるというのは異常事態ではないか。
早稲田署が国立第一病院で5嬰児の遺体の状況を診てもらうと、うち3人が肺炎および栄養失調によるもの、残る2人の死因は凍死であった。慶応病院へと運び詳しい解剖を行ってみると、赤ん坊の胃袋は空っぽであるばかりか、食事を与えられていた形跡が何ら確認できなかった。
1943年に設立された助産施設「寿産院」は産婆資格をもつ石川ミユキ(当時51歳)が会長を務め、夫もその事業を手伝っていた。地域の助産婦会の会長職のほか、日本助産婦看護婦保健婦協会理事の肩書を持ち、前年には(落選したが)新宿区議選にも立候補し、「婦人年鑑」でも職業女性の第一人者として載るといった一廉の人物であった。
ミユキは18歳で宮崎から上京し、東京帝医大の附属病院で産婆資格を得、日本橋や牛込で30年余にわたって産院を経営していた。23歳で警視庁に勤める3歳年長の石川猛と結婚したが、子宮・卵巣摘出により夫婦間に生物学的子どもはなく、猛と先妻の間にできた連れ子と2人の養子を迎えた。猛は26年に奉職して妻の事業を手伝うようになった。
当時は人工中絶に対する規制が厳しく、戦争未亡人やダンサー、女給、娼婦といった「望まない出産」を余儀なくされる女性たちが少なくなかった。戦前から無届の婚外子や棄児、嬰児殺しの発生を抑えるため、戦中には人的資源増強のため、政府は産婆や民間乳児院でも赤ん坊を一時的に預かる乳児保護や、養子を望む里親希望者に引き渡す養子縁組斡旋を容認していた。
下のリンクはNHKアーカイブス1946年9月放映の捨て子増加を伝えるニュース。
原因は何? ふえる捨て子<みなさんの声>|ニュース|NHKアーカイブス
そうした棄児預かりを行う特殊産院では、親から一人当たり数千円から1万円の養育費を貰って赤ん坊引き取り、粉ミルクや砂糖の配給を受けて一時養育し、引き取り手となる養親に数百円で引き渡すというかたちが増えていった。
石川夫妻は制度の隙を突いたケチな横領ばかりでは飽き足らず、戦後混乱期のヤミ転売に乗じて私腹を肥やす術とした。配給のサトウや粉ミルク、さらに死亡した嬰児が出れば葬祭用に清酒2升が特別配給され、闇市に横流しして大きな利益とした。猛は周囲に「一本はわしが戴き、もう一本は闇市に捌く」と語っていたという。引き換えになったのは不幸な子どもたちの命であった。
預かり子と貰い手の需給バランスは戦後になって大きく崩壊したと見え、死亡児の数も飛躍的に増加していった。台帳記録によれば、開業した1943年には貰い子8人とされ埋葬許可証の記録はなかったが、発覚前の47年には預かりが100人、埋葬許可証は53柱にも及んでいた。寿産院では希少だった電話機を設置して新聞広告で「預かり子」を広く募っていた。夫妻は都内や茨城県内に土地を入手し、事件発覚直前には自家用車の購入を検討していたことも明らかとなった。その粗利は100万円、現在の価値にして7億円とも試算されている。
入院した産婦の中には手当のひどさや保育状況の劣悪さを知って回復前に逃げ出した者や、その所業を「鬼産婆」と非難する者もあった。開業以来勤めた十数名の助産師らも、ミルク、風呂、おむつ替え等の養育が必要の半分しか行われておらず、人員増やミルクの増量、保温処置の改善を願い出ても、院長のミユキには「指示通りにしていればいいのだ」と跳ね返されるだけだったという。赤ん坊が体調を崩しても死線に陥るまで医師の診察を受けさせず、「売れ残り」となった子どもたちの大部分は栄養失調、凍死に陥ったものと推測されている。
1月15日、石川ミユキと猛を養育義務を怠った不作為殺人の容疑で逮捕。院内では多数の餓死児を出しながら、粉ミルク18ポンド(約8.2キロ)、砂糖一貫500匁(約5.6キロ)、コメ一斗五升(約27リットル)が押収された。
院内には7人の乳児が残されていたが、逮捕前後に2児が死亡。2児は知らせを受けて駆けつけた実母に引き取られ、他の2児は養子の貰い手が現れた。残る一名については消息不明とされている。
事件の余波と裁判
発覚のきっかけとなった葬儀屋は逮捕されたが、手続き上の不備はなく後に釈放された。死亡診断書は中山四郎医師らによって60枚近くが作成されていたが、夫妻に言われるがままでほとんど診察事実なしに発行していた。
台帳には記載漏れも多く、虚偽申請が疑われた。寿産院からすれば戸籍があって配給が受けられ死亡届や埋葬許可の得やすい有籍児を重宝がったが、引き取り手の養親には戸籍変更の手間の省ける無籍児を希望するケースが多かったとされ、その過程で有籍児と無籍児の「取り替え子」が行われた可能性も指摘されている。
別の業者でも寿産院から埋葬を請け負っており、警察は埋葬地から多数の遺骨を回収したが、事件と無関係な無縁仏も混ざっていたとみられ、DNA型鑑定などもない当時のこと、その実数を出すのは困難だった。寿産院では開業していたおよそ4年間で引き取った乳児は合わせて169名、警察はそのうちの死亡者数を84名、検察は27名と推計した。
また逮捕を受けて、早稲田署前には多くの群衆が集まり石川夫妻に向けた抗議活動が行われた。漫談や随筆家としても知られる徳川夢声は「大多数は子を持てあまして預ける」と産院に同情的なコメントを寄せ、私生児や望まれずに生まれた赤ん坊の不幸もやむを得ないとする風潮も存在した。婦人活動家で国際派の共産党員だった宮本百合子は、生まれた子に貴賤はなく、社会全体によって生命を保証される権利を持つと主張。後に売春防止法制定など婦人問題に取り組む社会党・山崎道子は「不義が不幸な子を生む」としてそうならないように母親の保護を唱えた。
都衛生局では急増した私設産院632軒の実態調査に乗り出し、新宿区戸塚にある淀橋産院でも63人の死亡届が出されており、13000円の高額な養育費があったこと等が明らかとされた。東京地検によって不正行為が認められた産院はその年だけで12件に上り、2月末、都は乳児預かり業を認可制とする条例を制定する。厚生省は3月に「助産婦業務に関する広告取締令」を敷き、私生児預かりを喚起させる広告出稿を禁止した。
助産婦団体では謝罪や襟を正していく声明を発表していたが、GHQの公衆衛生福祉局(PHW)ではかねてより医療の近代化と合理化を求め、助産婦・看護婦・保健婦の統合を推し進めていたこともあり、5月27日に日本助産婦会は解散となった。これにより産婆がいなくなった訳ではないが、医療設備と母体保護の観点から1970年代までに病院施設出産が大勢を占めるようになった。
壽産院で生き残った赤ちゃんはどうしていますか 東京・松田ふみ<みなさんの声>|ニュース|NHKアーカイブス
6月、東京地裁で開かれた裁判で、夫妻は、殺意を否認し「助手に任せきりにしていた」と監督責任のみを認めた。慈善事業の一環として棄児預かりを誠心誠意やっていたと述べ、わが子を置き去りにする親の責任感のなさを非難した。一方で、関係者証言によりまともな保育をする気もないネグレクト状態が常態化しており、助手たちの提言を無視して改善措置を怠ってきたのは明白で、夫妻の運営方針は消極的な殺意にさえ思えるものだった。
石川猛は44年に大阪地裁で株券偽造による実刑判決を受けており、その刑の執行を引き延ばすために弁護士大滝亀代司(本件裁判当時は衆議院議員)を通じて工作資金として3万5000円を支払っていたことも俎上に上がった。大滝の証言により、偽造の診断書を作成させて、検察側に執行延期を認めさせたことは事実とされた。
多くの生命を預かりながらも管理・運営の杜撰さは明白で、死亡の責任を助手らに擦り付けようとする発言など、その心証は頗る悪かった。しかし無戸籍児が多く名乗り出る親もほとんどなかったこと、育児記録もほとんどされておらず死亡状況の悪質性を証明できる証拠がなかった一方で、死亡診断書や埋葬手続きに大きな問題はないとされ、22名の殺害容疑は証拠不十分となった。
助手に犯意はなく最善を尽くそうとしたと認められ無罪。夫妻の共謀による不作為の殺害と認定され、石川ミユキに懲役8年、石川猛に懲役4年、医師中山四郎に禁固4か月等の判決が下された。
量刑不服として1951年7月に東京高裁で控訴審が行われ、検察側は一審と同じくミユキに求刑懲役15年、猛に求刑懲役7年を求めた。52年4月、一審判決は破棄され、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が下される。
翌年上告は棄却され、二審判決が確定する。
1969年、週刊新潮は「億万長者になっていた『寿産院事件の鬼婆』」と題したインタビュー記事を掲載。ミユキは、首を絞めるなどの殺害行為はなかった、出来るだけ食事を与え、医師にも見せていたと主張し、冤罪を訴えた。出所後は「無実の罪を着せられた」復讐心に燃えて、行商人として成功し、取材当時には都内で不動産業を営んでいた。猛とは死別したが大きな墓を建ててやったと述べ、担当弁護士の「今は億の金をつくったんじゃないですか」との言葉を紹介している。
1987年5月30日死亡、享年91。
所感
今日的な人権感覚から事件と判決だけを見れば、業務上過失致死では不十分と思われるほどの人命軽視であり、極めて過少な量刑判断にも思える。一方で、彼女も当初は大志を抱いて助産師となったはずであり、敗戦や貧困がそうした人間にさえ余りにも不幸な影響を及ぼすことを物語ってもいる。1930年には東京・板橋岩の坂もらい子事件という惨劇もあった。
GHQ統治下で法整備が速やかに行われたこともあるが、同日に起きた帝銀事件によってニュースがすぐに埋もれていったことはミユキの出所後の人生にとってプラスに働いたかもしれない。その甚大な犠牲は看過されるべきではないが、同時代感覚を以て見れば、産院は一種の必要悪を市民から背負わされていたとも捉えることができる。
東京 墨田区の病院「赤ちゃんポスト」設置を表明 | NHK | 子育て
コインロッカーベイビーや嬰児殺しの事案は延々と繰り返されながら「赤ちゃんポスト」の設置は大きく広がってはおらず、「望まれない妊娠・出産」は今日も棚上げされている社会問題でもある。経口中絶薬も近年になってようやく認可されたばかりだ。そして人口調整や産児制限に絡めて振り返れば、20世紀自然科学の大潮流となり甚大な惨禍を生んだ「優生思想」とも接続される。
堕胎罪は1880年に規定され、無許可の人工妊娠中絶を禁じた。その後、ナチスドイツの遺伝病子孫防止法をモデルとして日本でも優生学が盛んとなり、民族衛生特別委員会会長となった東帝大教授の永井潜は「花園を荒らす雑草を断種によって根こそぎ刈り取り日本民族永遠の繫栄を期さねばならぬ」と宣言。健全優秀なる遺伝的資質をもつ人的資源こそが不可欠とされ、精神や身体に障害を持つ遺伝性疾患者の根絶を画して1940年に国民優生法が成立する。
医学者福田昌子、婦人運動家加藤シヅエ、産科医太田典礼ら避妊や人工中絶手術による産児制限の必要を唱えた社会党案はGHQに一度は斥けられたものの、後に日本医師会会長となる進歩党・谷口弥三郎が経済面での有効性を書き加えて再提出したことにより優生保護法が制定される。寿産院事件発覚からまだ半年も経たない1948年7月であり、「望まれない妊娠・出産」から母体を守るという社会的道義が可決に向けて少なからず影響したものと考えてよいであろう。
ベビーブームの陰には連合軍駐留兵による強姦被害も含むいわゆる「GIベイビー」問題や、親に取り残された戦災孤児の問題等もあり、戦時下での「産めよ殖やせよ」のままでは戦後の混乱に拍車がかかることが懸念された。現実的な問題として、避妊が長年行われてこなかった実情も多産と貧困に拍車をかけていた。
谷口は感染症ではなく遺伝病だとする誤った理解の上で熊本・ハンセン病隔離政策を推進した人物で、「浮浪児の8割が低能児」などとする自身の掲げる優生思想実現のために「母性保護」の名目を巧みに利用して法制定とその実用化を推し進めていく。
1996年まで存続した優生保護法により障害者の尊厳を否定し、社会的に差別を助長させてきた。当時の医学者や西欧諸国で研鑽を積んだ政治家たちを非難しても仕方のない面もあるが、進歩的知識とされるものが後に誤りと覆されることはしばしば起こりうることで、もたらした結果への対処とその反省、そうした誤解や失敗をどう正していくかが「常に今」問われている。
孤児に対する人権意識の低さは1950年代以降も保持されていたと見える。女性学・児童福祉・生命倫理の応用研究を続ける吉田一史美(かしみ)氏は、戦後日本の乳児院で行われた細菌学や栄養学の人体実験に関する論文を発表している。同意も不同意もできない赤ん坊が「収容所」さながらに人体実験に晒されてきた事実には戦慄を禁じえない。
『1950年代の日本における乳児の人体実験』吉田一史美, 2016
75年以上が経過したもののその後に多くの禍根を残し、産児制限や人口問題といった人間社会が抱える大きな課題を社会に突き付けたという意味でも、私たちは事件から地続きの「今」を生き続けている。
亡くなった赤ん坊たちが安らかな眠りにつけることをお祈りします。
遡って戦前の1920~30年代には、岩の坂もらい子殺しのような陰惨かつ切実な世相を反映した事件も起きている。赤ん坊殺しの悲惨な話としてだけでなく、時代情勢・被害者や加害者の置かれた状況などを照らして事件を追ってみてほしい。
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