いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

【袴田事件】清水市会社重役一家強盗殺人事件

一家4人殺し

1966年(昭和41年)6月30日未明、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)黄砂で味噌を製造販売する合資会社「こがね味噌・橋本藤作商店」専務橋本藤雄さん(41歳)方の木造平屋住宅で火災が発生し、敷地内から家族四人の遺体が発見された。

橋本さん方の東隣に住むSさんが2階で就寝中に息苦しさで目が覚め、外から煙が立ち上っているのに気づいた。すぐに火事と察して外に飛び出し、火の手とみられた橋本さん宅の表のシャッターを叩いたが応答はなく、その西隣のOさんを起こして消防に通報させた。近隣住民の一人がシャッターを持ち上げてみると、中からは煙と熱風が噴き出したという。中のガラス戸が開放されていたためであった。

町内ではほどなく警報が鳴り響いた。救助に入ろうとした者もいたが表は熱波が凄まじく、何人かが裏木戸に回った。だが固く閉じられていて人が出入りできる余裕はなく、大きな石をぶつけたり蹴り飛ばしたりしてようやくこじ開けられた。近所の農家Iさんが2時10分頃に清水警察署へ通報。駆けつけた消防によれば2時32分に鎮火したとされる。

 

当時、橋本さんの長女昌子さん(19歳)は祖父母の家にいて難を逃れたものの、見つかった藤雄さんら4人の遺体からはガソリン臭が漂い、火傷以外に大小多数の刺傷・創傷が確認される。

司法解剖によれば、4人の死因は失血、火傷ないし一酸化炭素中毒によるものとされ、藤雄さんの受けた傷は計15か所で肋骨切断に及ぶものもあり、妻ちゑ子さん(38歳)は肩、顎、背中など6か所を刺されていた。二女扶次子さん(17歳)は胸部・頸部9か所の刺し傷で肋骨切断のほか、心臓や肺を貫通して胸椎に達する深い傷が致命傷となり、長男雅一郎さん(14歳)も胸部・頸部など11か所を刺されていた。

目の前を通る東海道本線の線路付近では前日回収された小切手入り集金袋が見つかった。静岡県警と清水署は強盗殺人事件と断定して合同捜査本部を設置し、犯人が一家襲撃の直後に放火したものとみて捜査を開始する。

当日のうちに中庭から雨合羽繰(く)り小刀の木鞘が見つかったほか、味噌工場に置いてあった(釣り船に使用する)混合油18リットルのうち6リットル近く減っていることが判明し、事件との関連が疑われた。缶には人血の付着が認められたが、微量で血液型までは分からなかった。7月2日には二女が倒れていたピアノ部屋付近から黒焦げになった繰り小刀の刃が見つかり、これらが犯人の遺留品並びに凶器と断定される。

下のストリートビューは現場周辺だが、家々も建て替わり当時の面影は分からない。線路向こうに回り込むと、かつての土蔵が僅かに確認できるばかりだ。

現場は清水駅から約3キロの線路沿い、旧東海道にあたる一角。昔ながらの家々が両隣と隙間30センチばかりで軒を連ね、隣家の土間を歩く下駄音さえ聞こえてくるような造りであった。専務宅から線路(幅約32メートル)を隔ててすぐ近くに味噌の第一工場があった。

西隣に住むOさんは小用に立った際、ボクン、ボクンというような物音(後にズシン、ズシンとも表現)を数回にわたって聞いており、何の音か不思議に思っていたが、寝床に戻って再びうとうとしていると火事の騒ぎでたたき起こされた。音の時刻は午前1時35分~40分頃とみられ、周辺ではそれ以外に犯行の物音や悲鳴は聞かれていなかった。

 

橋本藤作商店は、被害者の父親とその先代によって大正期に味噌・醤油を扱う個人商店として創業され、看板商品の「こがね味噌」で県内有数のメーカーとして大きく成長し、東海一円や関東でもその名を知られていた。社長の藤作さんは当時68歳で無理は利かなくなってきたが、息子の藤雄さんが専務として事業の屋台骨を大方引き継いでおり経営は順調だった。藤作さん、藤雄さんは「自分は損しても負けておけ」という先代からの教えを守り、周囲に敵はつくらなかった。

深夜の犯行で目撃者がなかったこと、失火の影響で現場が荒れたことも災いしてか、犯人特定につながる決定的な証拠はすぐには出てこなかった。

 

ボクサーくずれ

事件のあった30日は味噌店の給料支給日だったことから橋本さん宅には多額の現金が用意されていた。捜査陣営では犯人は内部の事情に詳しい者との見方に傾いていった。一方で紛失が確認されたのは、売上金20万4000円余と小切手5枚(計64000円ほど)と全体から見れば少額に限られ、一千万円以上の預金通帳や印鑑、有価証券、貴金属類は手つかずで見つかった。犠牲者の惨状から見ても、動機として怨恨の色合いも濃く映った。

当初は従業員37名全員にアリバイありとされていたが、捜査陣は会社関係者への重点捜査の結果、住み込み従業員のひとり袴田巖さん(当時30歳)への疑いを強めていくこととなる。工場2階にある10畳間と8畳間は4人の住み込み従業員の寮に使われており、彼らは日頃から専務宅で食事の世話を受けていた。

袴田巖さん

7月4日に工場の家宅捜索が行われ、寮の相部屋から押収された縦縞パジャマから血液とガソリンが検出された。同僚は袴田さんが事件当夜に着ているのを見たと証言し、任意同行を求められた。

報道では「血染めのパジャマ」と銘打たれ、決定的な証拠かのように伝えられたが実際検出された血液は極微量で、滅多刺しともいうべき犯行様態と照らせばそれを「返り血」とするには釣り合いが取れない。後に科警研の鑑定で「人血と認め」られたが当時の技術では血液型さえ判別できないもので、即逮捕とは至らなかった。

事件当夜は社長がリウマチで入院中、数か月前から一緒に暮らしていた長女も旅行中で家におらず、祖父母宅には夫人一人だった。さすがに不用心だということで留守番代わりに住み込み従業員のひとりが夜8時半ごろから社長宅へ駆り出されていった。10時半ごろまで10畳間のテレビ(8畳間にはない)をみんなで囲んでいたが、10畳間で就寝したのは袴田さん一人だった。

8畳間の住み込み従業員二人は共に火災発生直後に現場へと駆けつけた。工場階下の宿直室にも一人いたが住み込み従業員たちの様子までは分からない。サイレンの騒音や知らせを聞いて袴田さんも後から火事場に駆けつけていたが、29日深夜から火災発生時にかけて「部屋で一人で寝ていた」とのアリバイを証明できる者はいなかった。

遺体の損傷は激しく警察では複数犯か単独犯かも断定されなかったが、藤雄さんは大柄な体格で柔道二段の剛の者とされ、相当腕に自信がなければ立ち向かおうとしないであろうと思われた。そんななか袴田さんは日本フェザー級6位にもなった元ボクサーで並外れた腕っぷしを備えていた。

事件直後に左手中指に切り傷を負っていたことも疑惑の一端となった。本人は火事場の屋根で転んでトタンで切ったと話したが、治療にあたった医師は鋭利な刃物による切り傷と判断した。医師というものは、負傷から5日後に腫れて化膿しかけていた傷口を見て、破れたトタンを見ることなく鋭利な刃物でできた傷だと判別できるものなのだろうか。未明に軽装で火事現場に駆けつけて作業すればガソリン臭がこびりついたり、多少の怪我を負ってもそれほどおかしなことではない。

警察のそもそもの「見込み」には疑問点が多い。当日は台風が迫っており、昼間は販売員たちが雨の中を合羽を着て集金に回っていた。火事現場に駆けつけた者の中にはそうした雨合羽を着て訪れた者もいた。気温28度の熱帯夜に雨合羽を着て作業すればすぐに汗だくになる。落ちていた雨合羽は本当に犯人のものだったのか。昼に集金を届けにきた販売員(や専務家族)の置き忘れ、火事場に救援に来た従業員などが後から脱ぎ捨てた可能性はなかったか。

大柄な柔道家相手にも物怖じせずに犯行を企てる元ボクサーが、銃やハンマー、鉈のような大柄な刃物ならばまだしも、繰り小刀で脅してやろうなどと考えるものだろうか。当時はポリ容器に変わっていたが、5年ほど前までは味噌や醤油の工場でも木樽が多く使われており、その補修にしばしば繰り小刀を用いていたという。専務宅に元々保管されていたものという可能性は大いにあり、家人が咄嗟に持ち出していたものかもしれなかった。

 

袴田さんは浜北市の中学を卒業後、織物会社の工員として3年ほど勤めた。浜松市内の北川自動車に移ってからボクシングを習い始め、1957年(昭和32年)には国体に出場して3位の成績を残した。ボディビルディング協会のトレーナーの内妻と深い仲となり、協会を辞めて同棲を始めるが、プロボクサーを目指して職を辞し、女性とも別れて川崎市の「不二拳斗クラブ」で訓練に励んだ。清水市に試合に赴いた折、ホステスをしていた赤穂レエ子さんと知り合い、都内で同棲生活を送るようになった。

海外遠征に出向くなど活躍が期待されていたものの、歴戦のダメージの蓄積か小脳出血の影響によりボクサー廃業を余儀なくされる。62年にレエ子さんと共に清水市に移り、キャバレーのボーイとホステスの職にありつくも生活は安定せず、彼女の親も結婚には反対した。「せめて自分の店でも持っていれば」という彼女の親の言葉に、袴田さんの働きぶりを認めていた酒屋主人がバーの開業を世話してやり、二人は晴れて結婚した。

だが袴田さんの競輪や麻雀がたたって借財を残したまま店を潰してしまう。64年に夫婦は長男に恵まれ、再びバーをオープンするも立て続けに失敗。嫁は客と懇ろになり赤ん坊を置いて逃げてしまった。袴田さんは赤ん坊を実家に預け、酒屋主人の薦めで65年から味噌店製造係として勤め始めた。

だが袴田さんの放埓な生活ぶりは相変わらずで、実家に仕送りを入れてはいたが会社にも前借があった。専務は給料以外にも小遣いをくれたり、来て日の浅い袴田さんにも質のよい上着を気前よく与えるなど面倒見のよい豪気な人柄だった。両者をつないだ酒屋主人によれば、袴田さんは専務が休日に乗るモーターボートの掃除を任されるなど気に入られていた様子だったという。行く末を案じていた家族にも「専務はすごくあたたかい人だ」と話して安堵させており、傍から見れば恨む筋合いなど微塵もなかった。

だが内部犯を疑っていた警察からすれば「ボクサー崩れ」の元不良、身を持ち崩した流れ者といった先入見は拭えなかった。喧嘩稼業に水商売、ギャンブル好きで嫁に逃げられたといった略歴だけでも人々の好奇や偏見の対象となる。周りはみんな地元出身の従業員で、袴田さんの素性は多かれ少なかれ人々によくない風評を抱かれやすかったとみられる。警察が誰を疑っているぞとなれば、口裏を合わせるように情報は集まるものだ。

元ボクサーというと機敏なフットワークも想起されるが、袴田さんの兄によれば、病後は足ががくんがくんと覚束なくなり試合に勝てなくなったためリングを下りたとされる。引退後の面倒をみた酒屋主人は、彼は自分ではまっすぐ歩いているつもりでも視神経が傷んでいたせいか少し蛇行して歩いている様子だったと証言しており、「グローブが二重に見えた」と聞かされたこともあったという。はたしてその拳は錆びついていなかったかもしれないが、反射神経、身のこなしは失われていたとみるべきであろう。

 

逮捕

事件当夜から7月初旬の聞き取りで、袴田さんは8畳間の2人が飛び出していったときに目を覚まし慌てて後を追ったと説明。同僚たちも現場で消火活動に当たっていた袴田さんの姿を見たと証言していた。2時20分頃には屋根から落ちて怪我した手を工場の事務所で治療している姿も見られていた。だがパジャマ報道が出て「元ボクサー」「従業員H」への疑惑が取り沙汰された7月上旬から半ばにかけて、同僚たちの証言もトーンダウンし、火災直後から消火活動に参加していたとの証言が消えていく。最終的に一審判決では「鎮火に近い頃」まで目撃証人なしとされてしまう。

 

特別捜査本部は袴田さんへの任意聴取と裏取りを重ね、8月18日、後ろめたいことはないと任意出頭した袴田さんを被疑者として逮捕。強盗殺人と現住物放火に加え、工場製品の一部(計2695円相当)を盗み旅館に売っていたとする窃盗の余罪まで付け加えられた。袴田さんは犯行を頑強に否認し続けていたが、新聞各紙は50日ぶりの解決を報じ、「心臓病おして不眠の指揮」と清水署沢口所長を称える記事さえ躍った。

否認の説明を聞き入れない警察の態度に袴田さんは口を閉ざしたが、連日の猛暑のなか、水も睡眠もまともに与えられず、取調室に便器を持ち込みカンヅメ状態にされ、「病気で死んだと報告すればそれまでだ」と脅して棍棒で殴る蹴るといった暴行を加えられた。一日の休みも置かず平均12時間を超える異常なほど過酷な取り調べが続けられ、屈強な袴田さんもさすがに心身を追い込まれ卒倒した。

勾留期限の3日前となる9月6日午前10時ごろ、松本久次郎警部、松本義男警部の前で涙ながらに一家殺害を認め、自白供述調書が作成された。ようやく罪を認める気になったのではなく、拷問による死の危険から身を守るための苦渋の選択だった。

戦前戦後の難事件を次々と解決に導き名刑事とその名を轟かせるも、幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件で自白強要の事実が明らかとされた元刑事紅林麻雄はすでに静岡県警を去っていた。だが冤罪を生んだのは彼一人の失態によるものではない。薫陶を受けて育った捜査員や上官たちにもその悪辣な捜査手法は継承されていたのである。

 

9月9日、静岡地検は余罪の窃盗は不起訴処分とし、住居侵入、強盗殺人、現住物放火の罪で静岡地裁へ起訴した。捜査機関は任意聴取から数えて何百時間もの聞き取りを行ってきた一方で、3人の弁護人たちがそれぞれ許された面会時間は合計でも僅か30数分。起訴後も取調は続けられ、犯行動機は「夫人との男女関係があり放火を頼まれた」「関係がばれて専務と話し合いに行った」など日替わりで変遷を重ねていき、調書は45通にも及んだ。最終的には金銭目的の強盗に落ち着いて、次のような自供内容となった。

6月30日午前1時20分頃、パジャマの上に工場内の雨合羽をまとい、家人と対峙したときに備えて脅迫用に繰り小刀を携えて、工場から線路向こうの橋本さん方へ侵入。裏口の木から屋根に移って、水道管を伝って中庭に下り、開いていた勉強部屋のガラス戸から屋敷に侵入。だが物色中に藤雄さんに気づかれて大声を出されて格闘となり、中庭を抜けて裏手の土蔵前にいたって刺殺。再度侵入すると物音で起き出した妻、長男を奥の八畳間(仏間)で、二女をピアノ部屋で相次いで殺害。ちゑ子さんが金袋3つを投げよこしたが逃走中に2袋を落とした。工場に戻るもこうなった以上は焼いてしまえと工場にあった混合油をポリ樽に移し替えて再び現場に戻り、各人に浴びせてマッチで火を点けた。

最終的な動機は「自分の母親と息子と暮らす家の敷金のため」とされたが、日頃から世話になっている専務一家を皆殺しにしてまでの緊急性があるとは到底思えない。

さらに9月13日に至って清水郵便局で清水警察署長宛てで差出人不明の切手の貼られていない怪文書が発見された。封筒には現金50700円が入っており、焼け焦げたものも多く含まれていた。百円札2枚には人血の付着もあったが、血液型は判別不能。千円札2枚には「イワオ」と書かれていた。同封された便箋には「ミソコウバノボクノカバンノナカニシラズニアツタツミトウナ(みそ工場の僕のカバンの中に知らずにあった。罪問うな)」と同僚による差し出しを匂わせる文面が鉛筆書きで記されていた。

 

裁判

1966年(昭和41年)11月15日、静岡地裁で初公判が開かれ、被告人は起訴事実を全面否認し、以後一貫して無実を主張する。

聴取や筆跡鑑定により、怪文書の送り主としてこがね味噌の元従業員松下文子さんが浮上する。事件前の5月、袴田さんは結婚を希望している相手として実母に彼女を紹介するなど昵懇の間柄だったためである。袴田さんから彼女に金を渡したとの「自白」は取れていた。

検察側証人として出廷した文子さんは、怪文書の送り主の嫌疑を否認。被告人から現金を預かったか否かなど質問された際、「忘れた」「知らない」の返答に終始する極めて作為的な供述態度であった。

さらに公判前に受けていた取り調べでは「証拠隠滅の罪は重いのか」「本当のことを話すと自白したことになって皆さんに顔向けできない」「絶対に罪にしないと約束してくれれば話をしてもいい」等と発言。刑事たちの報告では「被告人から受け取ったことにするから検事さんにうまくとりなしてもらいたい」「受け取ったことは受け取ったんだけれども、直接ではなく第三者を通じてだ」「共犯にならないなら話してもいい」「預かっただけなら罪にならないという検事の証明がもらえれば安心して話ができる」と、事件に何らかの関与があったこと、犯人から金を預かったことを繰り返し匂わせていたとされる。

袴田さんとも共通の知人女性によれば、逮捕後の8月20日頃には文子さんが家を訪れ、「刑事が何回も来てイヤになる」「もし私が話したりすると私を犯人に仕立て上げるから喋らない」「言ってしまって後で仕返しされると困る」などという趣旨のことを話し、同知人が「留守中に被告人(袴田さん)が文子さんを探しに訪ねてきた」と話すと彼女は驚いていたという。

判決では、7月11日か12日ごろに袴田さんから「金を預かっていた相手」とされたが、彼女が罪に問われることはなかった。はたして彼女は本当に金を預かったいたのか、怪文書の送り主だったのか、それとも検察側が怯える彼女を利用したのか。尚、後の再審請求審の中で弁護団は筆跡鑑定を行い、99.9パーセント以上の確率をもって松下文子さんの筆跡とは認められないとする木下鑑定を提出している。

 

事件から1年2か月後の1967年8月31日に至って珍事が起きた。静岡県警はみそ工場の従業員が1号タンク(味噌樽)内から麻袋を見つけ、中から血染めの「5点の衣類」を発見したと発表した。供述に味噌樽や衣類を麻袋に入れて隠したといった内容は一切なかったが、血液型は袴田さんと同じB型と分かり、ズボンの端切れが袴田さんの実家から押収され、検察側はこの5点こそ犯行時の着衣だとして冒頭陳述の訴因変更を求めた。

味噌樽の中に血まみれの衣服を隠す犯人など前代未聞である。それとも化学変化によって血痕が消えるものと見越していたとでも言うのだろうか。県警は操業に配慮して事件後に味噌樽の中までは調べなかったと言うが、さりとて1年以上経って公判の最中に発見される偶然など容易には信じがたい。

よく似た事例として、1963年に起きた女子高生殺し「狭山事件」で、事件から2か月後にすでに探し尽くした石川一雄さんの実家の鴨居の上からなぜか被害者の遺留品たる万年筆が発見されたことはよく知られている。決定的な証拠ほど後から都合よく出てくる仕掛けなのか。

袴田さんの母親はズボンの端切れに心当たりはないとしたが、供述は曖昧で作為的として却下された。検察側はウエスト直しや縫製の特徴から洋服店まで突きとめ、店側は丈詰めで出た「とも布」であればズボンのポケットに入れて返すと説明。本来ならば左・右2枚あるはずだが見つかったのは1枚きりだった。

味噌店従業員は緑色のブリーフパンツを履いていたのは袴田さん以外にいなかったと証言したが、弁護側は被告人が履いていたものとは異なるとして別の緑色ブリーフを証拠提出している。妻レエ子さんはかつて特価品で似たような長袖スポーツシャツを購入したことはあるが同一かは記憶がはっきりしないと述べ、店側はそうした製品を特価品として扱ったことはないとした。肌着シャツとステテコの出処ははっきりしないものの、シャツ右上腕にはB型血痕が付いており、氏の右上腕にも事件前から1.5センチほどの肉芽組織があったとされ、逮捕後の9月時点では化膿の痕となっていた。

5点の衣類

前述のように警察の取り調べには自白強要が認められ、任意の自白とは到底見なされない。袴田さんは起訴後の勾留中も17通の検面調書が作成されたが、刑訴法198条第1項但し書きで、被告人が取り調べに応じる義務はないこと、いつでも取り調べを拒んで退出することができることが明示されなければならないと定められている。

袴田さんによれば、検察官はそうした説明もなしに取り調べを行い、大声で怒鳴ったり、机を叩きつける等したと述べ、「自白しない限り2年でも3年でも勾留するぞ」「警察で認めていたのになぜ検事に対して(やったことを)認めないのか」等と言われたとしている。シロかクロかという以前に、強要されて引き出された自白は証拠価値を持たない。

指紋のない刃物、あやふやな金の行方、パジャマから血まみれの衣服へのすげ替え、任意性のない自白…しかし1968年9月11日、静岡地裁(石見勝四裁判長)は死刑判決を宣告する。

44通の自白調書については告知義務違反で任意性に問題があるとして証拠から却下された。しかしなぜか9月10日付検察官面前調書一通だけは、警察の取り調べと違い義務ではないことを明示していた、警察の調書を基にした取り調べではない全く任意からの証言だったとして証拠認定された。内容は、3、4日前から専務宅に入って金を奪おうと考えており、相部屋の者がいなかった事件当夜に思い立って実行に移したというものである。

デイリー新潮で本事件の連載を続けるジャーナリスト粟野仁雄(まさお)氏は、45通のうち44通の供述調書を却下したのは、証拠採用してしまうと無実が浮き上がるおそれがあったからではないかと指摘する。任意性の有無が問題だったのではなく、実際には死刑の結論ありきで余計な反証材料を排除したとする見方である。

 

1976年(昭和51年)5月18日、東京高裁(横川敏雄裁判長)、被告人の控訴を棄却。

1980年(昭和55年)11月19日、最高裁第二小法廷(宮崎梧一裁判長)、被告人の上告を棄却。12月12日、死刑判決が確定する。

 

1981年(昭和56年)から第一次再審請求を行い、日弁連が支援を決定。地裁、高裁での請求却下が続いた。

2007年3月、一審で左陪席を務め、判決文を書いた元裁判官熊本典道氏は良心の呵責に堪え切れず職業上の守秘義務(評議の秘密)に反して、「最終の三者合議で無罪心証を唱えたが2対1で死刑判決を覆せなかった」と公表。涙ながらに袴田さんの姉秀子さんに謝罪した。公判では弁護士の対応に不甲斐なさも感じていたと言い、高裁で死刑判決が覆されることに期待もあったという。多数決によって人の命が奪われる仕組みも含めて制度そのものへの疑問も投げかける出来事であった。

しかし2008年(平成20年)3月24日に最高裁は再審を認めない決定を下した。

死刑確定以降、心身に不調をきたした袴田さんは拘禁症状が慢性化し、興奮状態や糞便でのいたずら、電波攻撃や毒殺などの被害妄想に苛まれる重篤な変調をきたしていた。誇大妄想に支配され、自身の置かれた状況も分からず、自分の氏名さえ認められなくなっていた。話は支離滅裂の頓珍漢で、呼びかけても対話はほとんど成立せず、第二次再審請求は姉ひで子さんが申請を行った。

以下では再審の焦点として、弁護側から挙げられている反証事由を見ておこう。

 

脆弱な凶器

凶器とされた繰り小刀は細工用の刃物の一種で、先端の鋭利な刃物で見るからに殺傷能力はあるものだが、本来は繊細な彫刻や面取りに用いられるもので、歯元でも厚みは3~4ミリ程度である。そもそも刃渡り12センチ程度の繰り小刀では、4人を40か所以上も立て続けに刺しまくり、肋骨切断、臓器が貫通するほどの乱暴な凶行に耐えうる強度を有していないのである。

遺体のそばにあったとされる黒焦げの繰り小刀は僅かに刃先が欠けている程度の状態で見つかっている。同じく4人が犠牲となった世田谷一家殺人(2000年発生)では折れ曲がった文化包丁と3つに割れた柳刃包丁が見つかっており、人体の強度を物語る。解体業をしていた支援者は、人体と条件が近いとされるブタを用いて同種の繰り小刀の強度実験を繰り返したが、肋骨の切断や貫通は不可能で、無理やり叩き込んでも刃先が簡単に折れてしまうことが分かった。

凶器とみられる繰り小刀の刃

そもそも二女の胸の創傷と照らし合わせると、胸の厚みはおよそ14.7センチと推測され、発見された繰り小刀では寸足らずで胸椎まで達しない。また刃元に向かって幅広となり最大幅で約2.7センチとなるが、傷口の幅は1.38センチと推定されており、繰り小刀よりもさらに細長い形状であったことが分かっている。

また犯行状況を想定しても、繰り小刀の刃は持ち手に直接挟まっているだけで留め釘がないため、骨に刺されば持ち手から抜けてしまう。また持ち手に滑り止めもないため切ったり刺したりを繰り返せば犯人が血糊で手を滑らせてケガを負うことも容易に想像される。事実、現場に残されていたのであれば凶器に用いられた可能性は排除できないが、致命傷は別の凶器によってつけられたのは明らかであり、断定できないが単独犯が複数の刃物を持ち合わせたと考えるよりかはそもそも複数犯だった可能性が高い。

県警は繰り小刀について「菊光刃物店」での購入を自供したと主張し、店主の妻も袴田さんの写真に見覚えありとして、袴田さん所有の裏付けとされた。だがジャーナリスト青柳雄介氏は、刃物店の長男に取材を行い、病床に伏している母親が「本当は袴田さんに見覚えがなく、思っていることとは違う証言をしてしまった」と死刑判決の一因となったことに贖罪の気持ちを感じているとの記事を伝えている。そもそも当時、店で販売されていた繰り小刀は13.5センチ大の製品しかなかったという(「サンデー毎日」)。

 

開かずの扉

判決では、当初袴田さんは裏の立木を登って屋根伝いに中庭に侵入したとされ、その後の逃走、工場から混合油を持ってきての再侵入、火を点けてからの再逃走の3回は裏木戸の「隙間」から出入りしたものとされた。

そもそも当初の「自白」では専務の妻ちゑ子さんと「男女関係があった」としていたため、「裏木戸を開けてもらっていた」ことになっていた。だが男女関係を裏付ける証拠が全くないため、木登りしての屋根伝いの侵入方法へと変遷していったのである。灯りひとつない雨後の漆黒の中で、足元も覚束ない木の上や屋根を身軽に行き来した証拠は「自供」以外何ひとつとして存在しない。先述のように、病後の袴田さんは平衡感覚に難が生じており、そうした軽業師のような芸当は不可能だった。

3度出入りしたとされる裏木戸は左右2枚でできており、上・下部に留め金、中央にかんぬきがある造りだった。だが冒頭で記したように火災直後に裏木戸を開けようとした住民らの証言では、開放しての侵入はできず、無理やり破壊して敷地に入ったとされる。裏木戸の破壊に立ち会った人々の中には「戸の隙間は1センチ程」という者もいれば、「下の方が60センチ程開いていた」との証言もあり、幅があった。

下部の留め金が外れていて少し隙間が開いていたとしても、毎日そこを出入りしていた袴田さんであれば裏木戸の解錠の仕方が分からなかったとは思えない。なぜ四人を惨殺して火まで放つ極悪非道な真似をしながら、留め金を外したり壊したりはせず、木戸の狭い隙間から身をねじ込むようにして出入りする不自然な行動が「生み出された」のだろうか。

9月に裏木戸供述がなされ、警察が破壊された木戸を検めてみるとかんぬきは焼けて破損していた。警察は裏木戸を復元し、上部の留め金しか掛かっていない状態であれば、下部から出入り可能とする実験結果を報告した。

警察による「裏木戸」模型を用いた検証

 

強引な取り調べのなかで袴田さんから「裏木戸から出入りした」との自供を引き出したものの、複数の住民証言で「閉じていて侵入困難だった」と相反する条件が重なったため、どうにか通過することは物理的に不可能ではないとこじつけられたと推測される。裁判所は、当初は火災によって生じた瓦などの堆積によって塞がっていたように思われたが、実際には下部の留め金が外れており、侵入・脱出がかろうじて可能な状態だったと事実認定した。

後年、弁護団の検証で、上の留め金ひとつでも掛かっていれば、人が出入り可能な隙間は生じないこと、無理に体をねじ込もうとするとねじ穴が広がって留め金が飛んでしまうことが明らかとされた。上の警察の復元検証の写真も上部留め金も外して撮影された証拠捏造の疑いがもたれている。捜査機関の手に掛かれば犯人は開かずの扉を出入りする魔法使いにされてしまう。

 

5点の衣類

血染めの5点の衣類について、袴田さんは真犯人が動き出した証拠だと推理して、67年9月の母親への手紙の中で次のように綴っていた。

検事より血染めの着衣は被告の持っていたものではないかと問われた。僕のに少し似ていた。しかし、着衣は世の中に似たものは沢山ある。あの血染めの着衣が絶対に僕のものではないという証拠は、ネームがないことです。僕の着衣はクリーニング屋に出すので、ハカマタと入っています。血染めの着衣にはネームが入っていない。型も大きい。僕のものとは異なっている。事件後1年2か月が過ぎた今日、しかも再鑑定の申請をしたらこうゆう物が出た。これは真犯人が動き出した証拠です。これでますます有利になった。

だが確定判決では、袴田さんのものと認定された。殺害時に着用していた5点の衣類は一度工場に戻ったときにパジャマに着替え、再び混合油をポリ容器に移し替えて現場に戻ったものとしている。これから火付けをしに行こうという段になぜ燃やそうとはせず、そのままにすれば必ずや発見される味噌タンクに血染めの衣類という決定的証拠を隠そうと思いつくものか。

控訴審では鉄柑色のズボンを実際に袴田さんが履く実験が3度行われたが、サイズが小さすぎて太腿でつかえてしまい腰まで上がらなかった。しかしズボン裏地の記載「B」から元々は太いサイズだったと推認され、当時は履けたものと判定された。しかしメーカーに確認したところ、「B」はサイズではなく色を示す表示であったとされる。

先に挙げた証拠衣類5点の画像では血痕様が目視でき、1年以上味噌タンクに漬かっていたにしては明らかに全体の染まりが薄い。実際にどれほどの色味になるか、同質の衣類および味噌で再現実験したところ、下のようにいずれの衣類も黒褐色~黒色に変わることが明らかとなった。

弁護団による「味噌漬け実験」で示された着衣

付着血痕のABO型検査では、A型の反応が大半で二女と同じO型血液はまったく検出されないという不可解な結果となった。その後の弁護側鑑定人によるDNA型鑑定では、被害者4人、袴田さんと一致する型は存在しない(別人のDNA型が検出された)ことが判明した。すぐ近くで全く別の殺人事件でも起きていたのだろうか。検察側鑑定では「鑑定できるDNAが失われていた」とされている。

袴田さんの実家でズボンのとも布を発見した元警察官の証言では、家宅捜索に行くとすでに松本久次郎警部が居り、指示された引き出しを開けてみるととも布があったという。

一審当時から静岡地検が「存在しない」と主張してきた衣類の写真のネガフィルムが、2014年に至って静岡県警に保管されていたことが明らかとされた。杜撰な証拠管理というより、周到な証拠隠しとみるべき事象である。

自白偏重の調書裁判、公益に反する捜査当局の非公開主義といった刑事司法全体についての問題に加え、再審制度はルールが詳しく条文化されていない。異常なほどのプロセスの長さ、たとえ「決定」しても「確定」させないために繰り返されるかのような抗告の仕組みなど、制度設計によって改めていく必要がある。

 

再審とその後

2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は捜査機関による捏造の疑いにまで踏み込んで言及し、死刑および拘置の即日執行停止、ならびに再審開始の決定を示した。袴田さんは実に48年ぶりの釈放となった。検察側は決定を不服として即時抗告した。

 

翌3月28日午後のこと、一家で唯一助かった藤雄さんの長女昌子さんが清水区の自宅で死亡しているのが見つかった。享年67歳。昌子さんは数年前に夫を亡くし、現場跡に建てられた自宅で一人暮らしで家族がたびたび様子を見に通っていた。清水署は事件性はないとし、病死などの可能性があるとした。かつての従業員によれば3年ほど前に会った際、精神的に不安定な様子が見られていたという。再審開始決定の前に受けた毎日新聞の取材に対して「裁判はもう終わった。話すことはありません」と答えていた。

「動機は怨恨」「一人だけ生き残るのは不自然」「家族が死んで得をするのは?」とするネット市民などからは長女の引き込み・依頼殺人説などが唱えられている。だがこうした「生き残り」に向けられる疑いの構図は、茨城境町一家殺傷事件で被害を免れた長女に向けられた疑いによく似ている。筆者には長女がどれほど家族に恨みを抱いていたのか、彼女の交際相手に関する確たる情報はないため、犯人説を採る気はない。

昌子さんは事件当時19歳、当夜の証言についてはなるほど不可解な印象を受ける。

6月29日午後10時過ぎに京都旅行から戻り、実家に立ち寄ろうとしたが表のシャッターは既に下りていた。シャッターを何度か叩いて家人に帰宅を知らせると「分かった」と父藤雄さんの返事を聞いた。両親の部屋の灯りが点いて、草履の音が聞こえたがシャッターは開けてもらえなかったという。そのうち寝てしまったのかと諦めてスーツケースを抱えて離れに住む祖父母宅(線路を渡って工場の向かいにあった)に向かったというものである。

だがはたしてそのとき専務宅にいたのは家族だけだったのか。シャッターを開けられない状況、つまり犯人もその時点で中に潜んでいたとは考えられないか。被害状況から見て犯人は複数人、常套手段として子どもを人質に取るなどして家族四人を拘束していたと推測する。昌子さんは犯人とシャッター越しにまで近づいたが、間一髪のところ凶刃を免れたのではなかったか。

尚、交際が噂される経理係男性(当時31歳)は事件当夜のアリバイがなく、稲川組員らとの交際があり、花札賭博等で100万円以上の負債、キャバレー等での遊興費で25万円余りのツケを焦げ付かせていた人物で、袴田さん逮捕直後の8月20日に違法賭博で別件逮捕されている。しかしそうした人物の関与があれば目の前の大金を放っておくはずがない。

彼女の死は積年の心労と袴田さんの再審決定に起因するものであろう。犯人だからではなく、それまで仇と信じてきた相手の罪が打ち消されること、判決を覆されることが決定的となり、世間に対して顔向けできない心境に至ったのではと推測する。それは私たち第三者には到底計り知れない被害者遺族の深慮の末のことだったのではなかろうか。別人が逮捕されてのうのうと生きてこられた犯人であれば、そうした道を選ぶことはない。

 

2018年6月、東京高裁(大島隆明裁判長)は死刑および拘置の執行停止を取り消したが、袴田さんが再収監されることはなかった。

2020年12月、最高裁は付着血痕の色の変化など「5点の衣類」に絞っての再検証を求めて東京高裁へ審理の差し戻しを決定した。弁護側が同質の衣類・同成分の味噌を用いて行った味噌漬け実験では1か月で黒褐色に変わるとして、発見間際に投入された「捏造証拠」と主張していた。検察側は、食品衛生学などの専門家からタンク内の味噌が淡い色だったため、化学変化があまり進行しなかった」等の見解を示す報告書を提出。

2023年3月、東京高裁(大善文男裁判長)は、確定判決の認定に合理的な疑いが生じることは明らかだとして検察側の即時抗告を棄却。東京高検は特別抗告を断念し、再審開始が確定した。24年5月22日が結審、判決は今夏となる見通し。

 

釈放後の袴田さんは浜松市で姉ひで子さんと暮らし、地域の支援者らに見守られながらよちよちと散歩する姿が見られている。市街を散歩する死刑囚は世界でも例を見ない。かつてはせめて医療刑務所への移管をと希望したひで子さんだが、釈放後は「いまさら精神科の医者になんか見せませんよ。心優しく大人しかった男が国家の横暴でこうなってしまうということを世の中の人に見てもらいたいんです」と訴える。袴田さんのやりとりは頓珍漢だが、集会参加にもテレビ取材にも積極的に応じてきた。

2014年の釈放時には回復への淡い期待もあったというかつての精神科主治医中島直(なおし)さんは、浜松で会ったとき「拘禁反応は相変わらずだが、少しだけ表情が和らぎ、ゆとりを感じた」とも語っている。ルポ『死刑囚の記録』など犯罪学をテーマとした著作の多い精神科医加賀乙彦氏は、再審で無罪判決が出れば袴田さんの拘禁反応も寛解・改善するのではないかとの見方を示していたが、はたしてその実現は果たされるだろうか。

袴田さんが無罪判決を喜べる日は近づいている。事件再審の行方を見守るとともに、こうした過ちを繰り返さないために再審関連法の整備にも期待がかかる。

犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

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一審判決の内容 | 袴田さん支援クラブ

巌より - 袴田さん 獄中からの手紙 -プレミアムA- :朝日新聞デジタル

「粟野仁雄 袴田事件と世界一の姉」の記事一覧 | デイリー新潮

幻覚、妄想…「拘禁反応」の恐ろしさとは? 袴田事件で浮き彫りに 再審無罪ならば回復するのか:東京新聞 TOKYO Web