いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

三毛別羆事件について

漫画『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎は強敵・猗窩座(あかざ)との死闘の最中、病死する十日前に父・炭十郎が巨大熊と闘った夜のことを回想する。

 

山向こうで6人を襲った“人食い熊”が家に接近していることを察知した炭十郎は、夜の雪山に幼い炭治郎を連れて出る。

そこには体長9尺(2.7メートル)にも及ぶ岩山のようにそびえ立つ黒い巨体が待ち構えるも、炭十郎は怯むことなく「俺の家族に危害を加える者は何人であろうと容赦はしない」と警告。

人食い熊が前進すると見るや、炭十郎は頭上近くまで飛び上がり、目にもとまらぬ速さで片手斧を二回振り、大木のような熊の首を容赦なく両断した。

炭治郎いわく、炭十郎は「父は植物のような人だった。感情の起伏が殆ど無い人でいつも穏やかだった」と形容される人物である。勇敢な父親が人食い熊を退治するシーンだというのに猛々しさは微塵も表に現れず、息ひとつ乱すことなく、望まぬ殺生を犯したことにその表情はどこか寂しげですらある。

 

炭治郎は、それが父の最期の見取り稽古だったと、体得した奥義を「継承」するために幼い自分を立ち合わせていたのだと気づく・・・(吾峠呼世晴鬼滅の刃』第151話)

 

このエピソードは、奥義を極めた炭十郎は病身痩躯でありながらも獰猛な“人食い熊”を一瞬で倒すほどの達人であったことを示すものだ。図像では胸にツキノワグマのような白毛の柄が描かれており、大正初期に日本獣害史上最悪の惨事“三毛別羆事件”を起こした「袈裟懸け」模様を特徴とした羆がモデルにされたと見られる。

 

筆者はほぼ『鬼滅』を読んだことがないので、本エントリーでは、三毛別羆事件について記してみたい。

 

■苫前事件(通称・三毛別羆事件

1915年(大正4年)12月9日から14日にかけて、北海道留萌苫前村(現・苫前町古丹別)三毛別(現在の三渓六線沢集落で、羆が民家十戸を襲撃し、開拓民7名が死亡、3名の重傷者を出した。

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■穴持たず

前兆はあった。11月初め、六線沢の池田富蔵宅。

夜明け前、異様な物音がしたかと思うと小屋の飼い馬がいななき暴れ出した。保存食として軒下にトウキビ(トウモロコシ)を干していたものを獣が漁りに来たのだ。見てみると、雪に羆の足跡が残されていた。

このとき富蔵は見たこともない大きさの足跡に驚きはしたものの、羆はこのあたりでは頻繁に目撃されるため、それほど深刻には捉えていなかった。羆は警戒心が強いため、人が近づくのを察知すれば山へ逃げていく“臆病な”獣だと考えられていた。

 

20日すぎの未明、またしても馬が暴れ出した。富蔵は慌てて外にとび出すが、熊の姿はなくトウキビが落ちているだけだった。馬がやられなかったのは幸いだが、また来るのではと不安に思い、富蔵は六線沢三毛別マタギ2人に羆退治を依頼した。

30日20時、暗闇の奥から巨大な影が現れたかと思うとやおら立ち上がり、軒下のトウキビに手を掛ける。気負いしたマタギの1人が引き金を引くと、弾は掠めただけで羆は山中に逃げ戻った。

翌朝、足跡を頼りに鬼鹿山の頂上付近までその「獲物」を追い詰めるも、地吹雪で退散を余儀なくされ、足跡も消されてしまう。以来、羆は池田宅に姿を見せることはなかった。

 

こうした冬ごもりに適した穴場を見つけられず冬眠を逃した羆は、この地方では「穴持たず」と呼ばれ、山中でのエサが乏しくなったことから民家に近づいたのではないかと推測されている。

 

■人食い

12月9日、集落の13人の男衆は木材伐採の当番日で朝から出払っていた。

太田三郎宅には内縁の妻・阿部マユ(42)、養子に迎える予定で預かっていた蓮見幹雄(6)が飯の支度をしていた。すると突如、山に面した窓を巨大な黒い塊が突き破り、慄く二人を容赦なく襲った。

「少年の顔下に、流れ出た血が固まって盛り上がり、しかも喉の一部が鋭くえぐり取られ、頭の横には親指ほどの穴があけられ、すでに息絶えていた」(『慟哭の谷』)

 

太田宅に寄宿していた長松要吉(59)は集落の留守役として、近くの裏山の作業場に居た。昼食をとるため家に戻ると、床には小豆や薪が散乱し、馬鈴薯と柄の折れた血染めの斧が転がっていた。部屋にマユの姿はなく、無惨に変わり果てた幹雄の遺体だけが残されていた。馬鈴薯はまだ温かく、被害は10時半前後かと思われた。

要吉は出先の男衆を呼び戻し、マユの行方を捜したが見つからない。破壊された太田家の窓枠だった辺りにはマユのものと思われる数十本の髪の毛が絡みついたままだった。

窓の外には巨大な羆の足跡と、林の奥へと引きずられた血痕が続いていた。

 

古からこの地に生きるアイヌ民族にとって羆は、アイヌモシリ(アイヌの住まう地、人間の静かなる大地。神の地カムイモシリ等と対比される概念)にもたらされた大いなる恵み・山の神「キムンカムイ」として崇められる。子熊を連れていた場合は、村で人間以上に大切にもてなして育て、母熊の待つカムイモシリに送り返すイヨマンテの儀式が捧げられる。

だが人を害したり、人肉食を覚えてしまった羆を悪の神「ウエンカムイ」と呼び、殺めても肉を獲らず、切り刻んで放置する習わしがある。

人を殺した羆が全て悪神という訳でもなく、ユーカラアイヌ民族叙事詩)の中には、徳の高い神が人間の娘を気に入ってカムイモシリに連れ立った、として娘の遺族には猟運がもたらされるという伝承もある。いずれにせよアイヌにとって羆は他の動物とは違う特別な存在として崇め畏れられてきた。

 

■追うものと追われるもの

翌10日、朝から30名程の捜索隊が組まれ、羆が残した足跡を追って山へ入った。一行は150メートルほど進んだ場所に巨大な羆を発見。発砲するも羆は捜索隊めがけて突進し、そのまま逃走。その後、羆の居た跡を確認するとトドマツの根元にわずかに頭髪と片足がのぞいた。掘り返すと、食い尽くされた膝下と頭蓋骨の一部が残骸となって見つかった。

その晩、太田宅では二人の葬儀が行われた。すると20時半ごろ、壁を突き破って再び羆が太田の家を襲った。棺桶を引っくり返し、遺体を荒らした。三郎ら9人は混乱して散り散りに逃げ、騒ぎを聞きつけた村人が駆け付けると、羆は姿を消した。

この行動は自分の獲物に対する強い執着心によるもので、山に貯蔵していた“獲物”を奪われたことに腹を立てて取り返しに来たと考えられている。1970年に起きた福岡大ワンダーフォーゲル部事件(羆に漁られたザックを取り返したために再び襲撃を受け5人の内3人が犠牲となった)も同じ習性から発生したとされる。

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しかしその僅か20分後、太田宅から500メートル程下流にある明景家で悲鳴が上がった。その晩、明景宅にはヤヨ(34)と5人の子(力蔵10,勇次郎8,ヒサノ6,金蔵3,梅吉1)、夫が町へ通報に出掛け家を空けていた斉藤タケ(34)と2人の子(巖6,春義3)、男手として呼ばれた長松要吉を加えた10人(妊婦だったタケのお腹の子を入れると11人)が避難していた。

獣は火を怖れると考え、囲炉裏に火を焚いていたが、熊除けの役には立たなかった。鍋が引っくり返されて火種は消え、暗闇の中で惨劇は続いた。

幼い春義が目の前で叩き殺され、身を潜めていた母親のタケが思わず飛び出すと、羆はすぐに反応した。

「腹破らんでくれ」

「喉喰って殺して」

タケは頭から齧られて絶命し、上半身は食い破られ、胎児は腹から引きずり出された。だが羆は胎児に危害を加えず、タケを貪ることに夢中だった。胎児は当時まだ動いていたというが、ほどなく息を引き取った。

「其の食ふ音は猫が鼠を食う様な変な音が耳に残って居る」(力蔵の手記)

駆け付けた男衆が2発の空砲を撃つと、腹を満たした黒い塊は山へと帰って行った。

この晩、5人の犠牲者(タケ、金蔵、巌、春義、胎児)と3人の重傷者(要吉、ヤヨ、梅吉)を出した。六線沢集落の生き残った住民は三毛別分教場へ避難した。だがこのままでは川を渡った三毛別集落にも被害が拡大する恐れがあった。

 
■決着

12日、道警は周辺地域から人を集め、270名からなる討伐隊を結成。

一度手に入れた獲物に強く執着する」習性から、羆は再び太田宅を襲ったと考えられたため、明景宅に残された遺体を「囮(おとり)」に羆をおびき寄せる策が講じられた。こうなっては遺族も反対などしていられなかった。しかし、羆は付近まで来るも警戒したのか、太田宅へ再度接近するも射殺することはできなかった。

 

13日、旭川から歩兵第28連隊30名が到着。住民が離れた六線沢集落の8軒が羆による侵入被害に遭っていた。保存食のニシン漬け、鶏や雑穀が食い荒らされた。とにかく羆を六線沢から三毛別集落に入らせてはならない。集落の間にある三毛別川には、冬場、雪と枝葉、木材を凍らせて作る氷橋(すがばし)が掛けられる。羆も川を渡るには橋かこの付近を渡ると踏んで、夜間警備を敷いた。20時ごろ、警備の一人が怪しい影に気付き、発砲。影は見えなくなった。

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14日、昨晩の「怪しい影」付近に羆の足跡と血痕を発見する。

討伐隊を率いる羽幌分署・菅分署長は手負いであれば発見も容易と判断し、追撃を指示した。しかしクマは警察犬の21倍、人間のおよそ2000倍もの優れた嗅覚を持つとされ、風向きによって数十キロ離れた場所の腐肉や果実の臭いなども嗅ぎ分ける。集団で風向きを無視して接近を試みるのは無謀だった。

だが鬼鹿山を狩場とし、生涯で羆300頭を仕留めた熟練の老マタギ・山本平吉は、指示に従わず単身で風向きを読みながら入山すると、頂上付近のミズナラの大木で体を休めていた羆を発見する。

体長9尺(2.7メートル)、体重380キロ、金毛を交えた黒褐色の雄羆で齢7,8歳。胸に白い袈裟懸け模様があった。

ハルニレの木に身を寄せつつ、俄かに接近して発砲し、羆の胸部に命中。立ち上がって威嚇する羆に対し、すかさず放たれた二発目は頭部を貫通した。(尚、平吉は、漫画『ゴールデンカムイ』二瓶鉄造のモデルともいわれる)

事件発生後は晴天が続いていたものの、このとき俄かに天候が悪化し猛吹雪となったことから、土地ではそうした天候急変を「熊風」「熊嵐」と呼ぶようになった。

 

■植民と開拓

  北海道の植民と開拓史について触れておく。

和人の移住は14世紀、津軽安藤氏にまで遡るが、主に海産物の交易拠点「道南十二館」を設置していたに過ぎない。1457年、コシャマインの戦いで活躍した武田信広下北半島の豪族・蠣崎氏の婿養子となり道南の実権を握る。蠣崎氏はアイヌ語の地名「マトマエ(婦人の居る場所)」にちなみ松前に改姓。江戸幕藩体制に「松前藩」として組み込まれたが領地としては道南西部(函館から熊石まで)に限られた。

 

アイヌ諸族は松前藩の交易独占や強硬的施策に抵抗し、1669年、「シャクシャインの戦い」を決起するが敗れ、「七箇条の起請文」により絶対服従が課されることとなった。江戸後期には内地で作物肥料として「ニシン粕」が重宝され沿岸各地でニシン漁が盛んとなるも、内地との交易を目的とした実効支配であり、幕府からすれば属領の認識であった。1800(寛政2)年、幕府の家臣団で国境や日光東照宮の警備等を任された八王子千人同心が対露防衛強化のため、白糠、勇払(苫小牧)に上陸。蝦夷地開拓を目指したが、気候の厳しさや収穫の乏しさ、病死者が続出するなどして失敗に終わった。

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ニシン漁

明治期には蝦夷から北海道に改称し、対露意識の高まりから開拓使が設置(1882年まで)されるなど統治計画が進められる。札幌農学校(現北海道大学)や開拓使麦酒醸造所(現サッポロビール)を設立して産業振興を図る一方、東北や北陸地方から集められた元士族らを中心に屯田兵が組織され、防衛と開拓・開墾の基礎を担った。それまでアイヌの漁猟圏であった山林を奪取し、入植者へ払い下げられた。年間の転入者数は1万人前後で推移していたが、定住しない回帰型の出稼ぎ者も多かったとされる。

1886年(明治19年)、北海道庁が設置されるとそれまでの入植政策を見直し、道路や港湾建設といったインフラ整備、資本家・企業への優遇政策により拓殖周旋や炭鉱開発が促進され、団体移入民が飛躍的に増加する。1887年には37万人だった道内の人口は、1917年には209万人にまで急増、その半数は農業移民であった。

1885年に開始された官約移民(ハワイ・北米・豪州・南米など)では単身男性による入植が多かったが、北海道移住では「世帯移民」に限定して募るなどして定着が図られた。尚、道路開削工事などのために樺戸集治監をはじめ、空知、釧路、網走ほか各地に監獄が設置され、内地から集められた囚人たちが労役に送り込まれた。

 

苫前町年代記録によれば、17世紀初めに同地はトママイ交易地として漁場支配が開始されている。内陸部の古丹別原野の開拓開始が1891~93年(明治24~26年)とされ、団体入植が96年以降。事件の起きた六線沢集落は、古丹別から三毛別川を遡ること内陸へ更に15キロ以上先であり、事件発生時15戸であったことからも、開拓民としてはかなり遅い部類と言える。もちろん彼らはマタギではなく猟銃も持たなかった。

開拓者たちが新天地を求めて内陸へ内陸へと森を拓くことで、羆の生息域を侵食していったことが事件の背景ではあるが、農業入植民たちが羆の生態や習性に詳しくなかったことも被害の拡大を招いた要因である。更に入植から数年、歯を食いしばって開拓してきた彼らの土地への執着が退避を遅らせてしまったのも事実であろう。

 

■その後

事件発生から46年後、旭川・古丹別営林署の農林技官として勤務していた木村盛武氏により、 1961 年から足掛け4年に及ぶ事件の調査・聞き取りの記録が行われた。

当事者の多くはすでに世を去り、存命の者にとって辛い記憶であることから聞き通りは困難を極めたものの30数名の証言を得た。事件から半世紀後の1965年『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』を旭川営林局誌『寒帯林』に発表(1980年、のぼりべつクマ牧場で復刻)。94年には共同文化社から『慟哭の谷 The Devil's Valley』として出版され、2015年、文藝春秋社で再版された。

羆嵐(新潮文庫)

羆嵐(新潮文庫)

 

 動物文学の第一人者・戸川幸夫が小説『羆風』、ジュニア図書『魔王』などに著し、作家・吉村昭が小説『羆嵐』(1977)などに記したことで広く知られることとなった。

 

三渓区長の子で事件当時7歳だった大川春義氏は、名人・山本平吉に熊撃ちのコツを教わったと言い、その後、犠牲者の無念を晴らすため羆100頭撃ちの願掛けを40数年がかりで達成。1977年、三渓神社に熊害慰霊碑を建立した。吉村昭は氏の半生をモデルに短編小説『銃を置く』を著している。

1980年、春義氏の子息・大川高義氏と三渓の熊打ち名人・辻優一氏は、体長243センチ、体重約500キロという国内最大級の羆・北海太郎(推定年齢18歳)を羽幌町築別シラカバ沢で射止めた。北海太郎による被害は確認されていないが、2人にとっては足掛け8年にも渡る念願だった。現在は苫前町郷土資料館に剥製展示されている。

1990年、廃集落となっていた六線沢跡に三毛別羆事件復元地が設置された。古丹別市街から三渓神社、射止橋(氷橋のあった地点)から復元地に向かう道道1049号には「ベアーロード」という名称が付けられている(なんとも皮肉なネーミングである)。今日、苫前町では事件の悲劇を「開拓期の記憶」の一部として伝承され、ダークツーリズム(負の歴史遺産)として年間数千人が復元地を訪れている。

 

■狂気

そもそもヒグマは警戒心が強いため、人との接触を嫌う。視力は人に劣るが、優れた嗅覚と聴力を持つ(だから熊鈴)。食性は雑食で、本州に生息するツキノワグマに比べて肉食傾向がやや強いとされている。だが多くの個体はドングリや果実、昆虫が中心であり、鷹や狼のように「狩り」を得意とする生態ではなく、死骸や残骸を見つけて食べるものが主とされる。

 

空腹に耐えきれず池田宅に干してあったトウキビに手を付けてしまうのは理解できる。マタギの反撃を受けて、別の民家(太田宅)を狙うことも分かる。冬の保存食としてトウキビはどこの家でも屋外に干してあったのだ。

また明景宅で妊婦タケを貪ったのは、羆の食性が偏食なためと考えられる。『慟哭の谷』によれば、羆は無人となった六線沢集落で、女性が使っていた石湯たんぽの包みをズタズタに引き裂き、まるで漬物でもかじるようにばりばり噛み砕いていたとされる。はじめに食べたマユの味が忘れられず、「女性の匂い」に執着していたのではないかと言われている。

 

筆者が一番引っ掛かっていたのは、太田宅でマユと幹雄を屠りながら、なぜマユの方を好んで食したのかである。遺体の位置や血痕から、「先に幹雄が襲撃を受けた」と見られているが、なぜ幹雄をその場に捨て置き、マユの方を持ち去ったのか

これについてNHK『ダークサイドミステリー』「三毛別ヒグマ襲撃事件の謎に迫る」で、専門家が見解を示している。

先に目の前で幹雄が(恐らくは一瞬で)叩き殺されたことで、マユが「悲鳴を挙げた」からではないかというのである。女性の叫び声が鹿等の草食動物に近かったことで羆が本能的に「被食対象となる獲物」と判断した可能性を指摘している。

また羆は時速50キロで突進し、逃げるものに対して襲い掛かる習性がある。幼い幹雄はおそらくほとんど無抵抗に襲撃されたと思われるが、襲撃に慌てたマユが室内で逃げ惑い、背中を見せてしまった可能性も大いにあるだろう。

 また薪や斧で抵抗しようと暴れたために、反撃に遭い、即座に食いちぎられたかもしれない。興奮状態になった羆は息の根が止まるまで獲物を引きずり回し、“保存食”にするため持ち帰ったと考えられる。

 

番組では、アイヌは羆のテリトリーを侵さない習わしを築いていたが明治以降の政府はその教えから学ばず無暗に開拓を勧めたことを指摘。はじめから「人を襲う羆」が存在する訳ではなく、人の誤った行いが凶行をエスカレートさせてしまったことを伝えた。

ウエンカムイとなった羆は必ず仕留めなければ、次々と新たな“獲物”に手を掛ける。人に害を及ぼすなら射殺すればいい、捕獲すればいい、マタギを増やせばいい、ではなく、キムンカムイを悪に染めてしまうのは人のせいだという慎みをもって、その習性を学び、ウエンカムイを生み出さないよう努めて行動していく必要がある。

被害に遭われたみなさまのご冥福をお祈りいたします。

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苫前町年代記

http://www.town.tomamae.lg.jp/mobile/section/kikakushinko/lg6iib00000008yb-att/lg6iib0000000ui2.pdf

八王子千人同心の歴史

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p005303.html

漂着する足のミステリー【セイリッシュ海】

2007年8月20日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州にあるジェデディア島へ訪れていたアメリカ・ワシントン州の少女が海岸を散歩中に大きな靴を見つけた。

白と青のランニングシューズでサイズは12(30cm)、中には靴下と腐敗した人足の残骸が入っていた。

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その後、2019年までの12年間に、カナダ・ブリティッシュコロンビア州からアメリカ・ワシントン州の国境をまたぐ“セイリッシュ海”の島や沿岸部で、合わせて21体にも及ぶ人の足片が発見された。多くは運動靴やブーツを履いた状態で、適合する胴体部分などは見つかっていない。

下の地図の黄色いマークがおおよその発見場所を指す。

北部に付した赤いマークは、2005年にクアドラ島近海で起きた飛行機墜落事故を指す。男性4人の遺体が発見されなかったことから、足の漂着当初は彼らのものではないか、と考えられていた。

 

■21の足

2007年8月、ジェデディア島

2005年製キャンバスブランド、サイズ12。主にインドで販売されていたもの(当初アディダス製との報もあったが誤り)。

翌年7月、ブリティッシュコロンビア在住の行方不明男性のものと判明。男性は当時うつ症状にあったことも確認された。 

同年8月、ガブリオラ島

リーボックのランニングシューズ、サイズ12。男性の右足、身元不明。

2008年2月、ヴァルデス島東部

ナイキ、スニーカー、サイズ10。男性の右足。2003年にカナダ・アメリカで販売されたもの。

同年5月、カークランド島(フレーザー川

ニューバランスのスニーカー、サイズ7。女性の右足。1999年6月に販売のモデル。

2011年、パタロ橋から身投げした女性(2004年)であることが判明した。

2008年7月、ウェストハム

左足。DNA鑑定で③と同一男性のものと確認(身元不明)。

同年8月、ワシントン州ピシュト近郊

海藻に覆われた状態で発見される。黒のローカットハイキングシューズ、サイズ11。男性の右足。

2008年11月、リッチモンドフレーザー川

左足。DNA鑑定で④と同一女性のものと適合。

2009年10月、リッチモンド

ナイキの白いランニングシューズ、サイズ8・1/2、右足。

2008年に行方不明となった男性のものと確認。

2010年8月、ワシントン州ウィドビー島

観光客が発見。右足、靴、靴下なし。DNAデータベースに適合なし。女性か子供のもの。

2010年12月、ワシントン州タコマ

オザークトレイルのハイキングブーツ、右足、サイズ6。2005年にウォルマートで販売。少年か小柄な成人男性のものと推測。

2011年8月、バンクーバー(フォールス川)

白青のランニングシューズ、サイズ9。

下肢の骨が付随した状態でクリークに浮かんでいた。

2011年11月、ササマット湖

ハイキングブーツ、サイズ12、男性の右足。

翌年、1987年に行方不明となっていた地元男性と判明。

2011年12月、ユニオン湖

シップ・カナル橋の下で発見された黒いビニール袋の中に足片と足骨が見つかる。発見者3人はホームレスへの支援ボランティア活動中だった。身元不明。

2012年1月、バンクーバー

 白のニューバランス。清掃ボランティアが発見。

2014年5月、ワシントン州シアトル

ニューバランスM622白、左足、サイズ10.5。2008年4月発売の型。

2016年2月、バンクーバー(ボタニカルビーチ)

ニューバランス、黒青、左足の骨。25年前にボートで転覆して行方不明の男性か。

同年2月、バンクーバー(ボタニカルビーチ)

⑯と同人物の右足。

2017年12月、バンクーバー(ジョーダン川)

6歳のロットワイズ犬が海藻の中から発見。脛骨と腓骨が接合したままの状態で、白のショートソックスと黒のランニングシューズを履いていた。

2016年秋に死亡したワシントン州の男性のものと判明。

2018年5月、ガブリオラ島

散歩中の男性が、中味が詰まったハイキングブーツを発見。

2018年9月、ウエスバンクーバー

ナイキFree RN、サイズ9.5の左足。青い靴下。2017年2月~4月17日に製造されたもの。骨の構造から50歳未満の男性のものと鑑定された。

2019年1月、ジェティ—島

 黒のティンバーランド製ブーツ。3月、2016年末から行方不明だったアントニオ・ニール(当時22歳)と判明した。彼は仮釈放中の身で、友人宅に滞在する予定を話していた。母親は事件性があると考えている。

模倣犯も多く出た。2008年6月にキャンベルリバー近くで発見されたスニーカーには、靴下に骨を入れ、海藻を一緒に詰めたものが発見されたが、動物の骨を用いた愉快犯の仕業だった。同年9月にはイースバンクーバーのビーチにプラスチック製の足型が置かれていた。2012年9月、クローバーポイントのビーチで子供用の靴が5点見つかり、うち3点には人間のものではない肉と骨が詰め込まれていた。

 

 下はブリティッシュコロンビア検死局による見取り図(ワシントン州の案件は含まれていない)。赤丸が身元不明、青丸が身元特定済。

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The B.C.Coroners Service

■漂流するミステリー

飛行機の墜落事故のほか、船からの落下事故、スケールの大きなものになると2004年のインドネシア・スマトラ島沖地震津波や海流に乗って流されてきた、といった推測もなされた。

あるいは「足首を好まない」連続殺人犯(シリアルキラー)や人身売買業者によって解体されて海に投棄されたといった犯罪説、エイリアンによって胴体部分を消されたとするエキセントリックな意見もあった。

 

ブリティッシュコロンビア州では、冬場に沿岸洪水を引き起こす「キングタイド」と呼ばれる異常な高潮現象が発生することがある。強い潮流と靴の浮力によって、北はアラスカ、南はオレゴンまで遠方から運ばれてくる可能性はないとは言い切れない。捜査は広範な視野を要した。

 

2017年、ブリティッシュコロンビア大学の法医病理学者マシュー・オルデ博士は、冠状動脈の調査により発見された足について人為的な解体の可能性を否定した。調査当局では、水難事故または入水自殺で亡くなった人のものであり、通常の分解過程(腐敗)により足首から下が外れたものと判断された。

オルデ博士も、現代のランニングシューズの構造が保護力と浮力に優れているために形状を保ったまま(散壊せずに)漂着したとの推察を示した。

 

セイリッシュ海はシアトルやバンクーバーといった大都市に面し、山海の入り組んだ北米屈指のレジャースポットとして親しまれ、またカナダ・アメリカ両国の港湾都市をつなぐ広大な内陸水路でもある。

バンクーバーの湾岸エリアでカフェを営むオーナーは、インタビューに対して「最初は奇妙な出来事に見えましたが、今では何度も起こっています」とコメントした。足の発見は続いているものの事件性がないことが解明されたことで、地元民としての当初の不安は概ね解消されているようだ。

 

■くりかえされる漂流

2020年11月、オーストラリア・シドニーのメリッサ・キャディックが投資家から集めた資金・約2500万豪ドル(およそ20億円超)を私的流用した投資詐欺の嫌疑で捜査令状が出された。彼女は逃走し、同月12日にシドニー郊外のドーバーハイツでの目撃を最後に消息を絶った。

www.theguardian.com

3か月以上が経った2021年2月21日、シドニーから350キロメートル以上南のタスラ・トゥーラビーチで彼女が履いていたアシックス製のランニングシューズが漂着し、中には右足が詰まったままだった。

ニューサウスウェールズの元法医病理学者でシドニー大学に在籍するJoDuflou教授は、「足そのものは浮かない」と述べつつ、ランニングシューズが保護の役割を担った可能性を示唆。通例であれば近場で発見されるとして、(最後に目撃されていた)ドーバーハイツ近海での捜索が行われたが、他の部位は見つからなかった。

教授は、長距離の移動に驚きを示しつつ、サメが彼女の体を損壊しながら牽引した可能性も指摘。“highly likely(極めて高い確率で)”キャディックはすでに亡くなったものと考えられるが、「発見された足だけで彼女が亡くなっていると断定することはできない」と語った。

3月7日、ニューサウスウェールズ州警察長官ミック・フュラーは「彼女が足を切り落とし、存命である可能性は常にあるものの、それはかなり空想的」との見方を示し、キャディックの発見と資金の回収を続けることを言明した。


■所感

現にセイリッシュ海を臨んだことはないが、瀬戸内海の島々や伊勢志摩、東北であれば松島のような入り組んだ海岸がなんとなく想起される。12年間で10数体の遺体を発見、というのならまだしも、地図で21箇所にマークを付ける作業は生理的に苦しかった。

「どうしてこの海域にだけ?」と怪奇に思いを馳せつつ、一方で3・11東日本大震災津波被害を聞き知る身としては「まぁ、それどころじゃなかったけど・・・」と身につまされる。

豪州のメリッサ・キャディック事件を付したように、「漂着する足」事案はなかなか表面化しづらいだけで、海洋プラスティック問題のごとく世界全土で同時に発生していると考えられる。

漂着する足は遠い異国のミステリーのようではあるが、不意に海辺に出掛けたくなる思いに駆られる。

 

【つけびの村】周南市連続殺人放火事件について

2013年に山口県周南市にある山間の集落で発生した連続殺人・連続放火事件について、すでに犯人が逮捕され死刑が確定した事案だが、風化阻止の目的で概要や所感等を記す。

また本件を主題とした高橋ユキ氏によるルポ『つけびの村』のレビューも付記する。

 

■概要

2013年7月21日21時ごろ、山口県周南市金峰(みたけ)にある郷(ごう)集落の民家2軒から相次いで火災が発生。近隣住民の通報により消防が駆けつけたが、ともに全焼した。

木造2階建て(約205平米)の焼け跡から住人の無職貞森誠さん(71)と妻の喜代子さん(72)、木造平屋建て(約85平米)から住人で農業を営む山本ミヤ子さん(79)、の合わせて3人が遺体となって発見された。

2軒は60メートルほどの距離で、出火時刻がほぼ同じだったことなどから、周南警察署は放火の可能性を視野に入れて捜査を開始した。

 

翌22日、同集落に住む河村聡子さん(73)、石村文人さん(80)がそれぞれ自宅で遺体となって発見された。当時、聡子さんの夫・二次男(ふじお)さんは友人たちと県外へ旅行に出かけていた。

検死により5人の遺体からは頭部などに複数の殴打痕が認められたことから、山口県警は連続殺人・放火事件と断定して周南署に捜査本部を設置。

 

集落の住民は8世帯14人、そのうち5人の命が一夜にして奪われるという惨劇である。

河村さんは火災直後から22日1時ごろにかけて近くの住民宅へ避難しており、その際、警察も安否確認を行っていた。その後、自宅で殺害されたことから、犯人は3人を殺害・放火したあとも、およそ5時間にわたって付近に潜伏して様子を窺っていたものと考えられた。

県警は被害の拡大を防ぐため、付近の住民を公民館に避難させた。

司法解剖の結果、5人の死因は頭がい骨骨折や脳挫傷で、ほぼ即死状態だったことが確認された。

 

■消えたかつを

火災発生時、被害者らとの間にトラブルを抱えていたとみられる集落の男性の行方が分からなくなっていた。焼失した山本さん宅の隣家に住む保見光成(ほみ こうせい・63)である。

保見の家の周囲には、装飾を施したトルソー(胴体部分のみを象った服飾ディスプレイ用具)や独特のオブジェが置かれ、向かいの家に向けて偽装の監視カメラが設置されていた。玄関脇の窓には、五・七・五音で「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 かつを」と筆書きされた紙が外向きに貼られ、人目を引いた。

 

22日午後、殺人と非現住建造物等放火の疑いで、保見を重要参考人として捜索を開始。車は2台とも置かれたままで、交通の便も限られることから、まだ山中などに潜伏している可能性があった。家宅捜索が行われると、地下のトレーニングルームでも奇妙な文言を書き連ねた紙が多数発見された。

「つけびして」の貼り紙が放火への関与を示すものではないかとする見方から、マスコミ各社は周辺住民への取材などにより、事件の背後に男と集落をめぐる軋轢などがあったことを伝え、大きな話題を呼んだ。捜索段階では「重要参考人」として男の名は伏せられていたため、インターネット上では「かつを」などとも呼ばれた。

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  市街地から16キロ離れ、バス停まで徒歩で1時間半、携帯電話も通じない、車なしでは生活に不自由するような“陸の孤島”。高齢者ばかりが暮らす“限界集落”で、被疑者は村八分に遭っていたのではないかというのである。

閉鎖的な共同体で孤立を深めて不満を爆発させた事件との憶測から、津山事件(*)をモチーフにしたミステリー小説になぞらえて“平成の八つ墓村”などと題するものもあった。

 

*津山事件

1938年、岡山県北東の山間部にある西加茂村(現在の津山市賀茂町行重)貝尾・坂元集落で起きた33人の被害者(うち30名が死亡)を出した大量殺傷事件。

犯人の都井睦雄は、幼年期に両親を肺結核で失い、姉とともに祖母に引き取られて貝尾で育てられた。親が残した資産などにより経済的な問題はなく、学業は優秀だったが、小学校卒業後に肋膜炎を患うなど病弱であった。祖母は進学を希望せず、医師からは農労を禁じられており、姉が嫁ぐと引きこもりがちとなる。

1937年に正式に家督を継いだが、同年の徴兵検査で肺結核から「丙種」合格とされた(身体上の欠陥が認められ兵役に不適とされた。心身共に健剛な「甲種」、それに続く「乙種」であれば兵役に就くことができ、「丙種」は工場労働などの民兵にしかなれなかった)。

集落には「夜這い」の風習が残っており、都井にも複数の相手があったが、肺結核の血筋と丙種合格を理由に関係を断られるようになった(BCGワクチンや治療薬の普及によって現在では結核は下火になったものの、1930年代には年間10万人以上の死者があり死因の1位であった。遺伝病、空気感染(飛沫感染)のため、当時は強い差別意識があった)。都井は元々から残忍・横暴な性格ではなかったが、女性たちの対応に憤慨したともいわれる。

不治の病とされていた肺結核、兵役に就けなかったこと、村民たちも彼を忌避するようになっていたことで、やり場のない葛藤を募らせ、女性や村人たちに対して偏執的な復讐心を抱くようになったのではないかとされている。犯行後、都井は山中に逃亡し、翌朝、猟銃で心臓を打ち抜いて自死した。

 津山事件の報道・研究などについて、下の小池新氏による記事が詳しい。

bunshun.jp

 

■噂の多い男

保見中(わたる)は1949年12月に郷集落で5人きょうだいの末っ子として生まれる(兄と3人の姉)。地元・鹿野中学校を卒業後、同級生らと岩国市内へ集団就職して3カ月ほど働いたのち、兄を頼って上京。関東各地を転々とし、左官業など建築関係の仕事をしながら94年までは神奈川県川崎市で暮らしていた。

給与の遅れや酒席での諍いからトラブルを起こすこともあったが、心根はよい一匹狼な職人として仕事ぶりは認められていた。バンダナにサングラスがトレードマークで、若い頃にボクシングで鍛えた180センチの体格やクセのある性格で周囲から誤解を招きやすいようなところはあったかもしれない。だが都会で職人として生活する分には、周囲からはそれなりに許容されていたようである。

 

94年に父親から連絡を受けて、44歳で帰郷を決意。母屋の隣の敷地を購入して通いながら新宅を建てた。兄は亡くなっており、姉たちも家を出ていた。帰郷当初は、地域の旅行や集まりに参加したが地元住民とはうまく馴染めず。

新宅にカラオケやバーカウンターを設置し、高齢者向けの社交場として“シルバーセンター保見”を開いたものの利用者はなく、内装リフォームや屋根の修理、障子の張替、買い出しなども行う“便利屋”を自営していたが業績は芳しくなく、主に貯蓄を切り崩して生活していたものとみられる。

両親は認知症のほか様々な持病を抱えていた。寝たきりだった母親が2002年末に亡くなり、03年には両親の介護のために地元へUターンした男性として新聞記事に掲載された。記事中には「自分の生まれたところで死にたいという思いは消えなかった」「親が子どもを育て年をとる。そんな親を看るのは子どもの義務」といった想いが述べられている。04年には父親も息を引き取った。

両親の死を境に一層孤立し、奇行や軋轢が目立つようになっていった。2009年、下の名を「光成」に改名している。

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マスコミ報道では保見の人物像や周囲であったとされるトラブルに関して、近くの住民や知人らの証言が数多く報じられた。

プライバシー保護により誰が何を証言したかは曖昧だが、事件直後に郷集落には警戒線が張られたため、近郊集落や買い出し先などで集められた証言が多い。

「たまたま居たから、暑いのう、こんにちは、と言ったら向こうも答えてくれた。変わったところは特になかった」

(事件当日の昼に保見と遭遇した住民)  

「飼い犬が寄ってきたのでよけたら、叩き殺す気か、と言われて怖かった」と生前に話していた。

(河村聡子さんの知人) (TBS)

「彼は集落に来た当時、“何か村おこしをしたい”と熱心に提案しとったんじゃが、“都会崩れが何言っとるんや”と多くの住民に反対されてしまってね。そこからちょっと疎まれるというか、“いじめ”みたいなことが起こり始めたんですわ…」(近所の住民)

「“都会から来たんじゃから、金も持っとろう。みんなのために草刈り機買って、草でも刈れ”言うてな。無理矢理やらせとった」「ある日、彼が草刈り機をあぜ道に置いて帰宅すると、ある集落の人間が、草と一緒にその草刈り機を燃やしてしまったんや」

保見がその住民に抗議すると「あれ?あんたのもんだったの?っていう感じで、いじめというか、いろんなことがあったみたい」(別の近所の住民)(女性セブン)

「レスラーのような風体で、大きな車に乗っているので、それを見よったら『じろじろ見て何か用か』と言ってくる。黙っていたら『川に落としてやるぞ』とすごむ。次に会ったときは『今度見たら血の海だ。地獄に落とすぞ』と怒鳴られた。背筋がゾッとしたよ。だけど、まさか本当に集落を血の海にされるとは……」(近所の住民)

「もう10年以上前から家の修理や草むしりなどでお世話になっている。6年前に入院したときもわざわざ私の犬を病室に連れ、見舞いに来てくれた。頼んだ仕事もまじめによくやってくれた。彼はマグロが好きで、1カ月前には屋根の修理の後に2人で回転ずしを食べに行きました。いつも『お母さん、長生きせなあかんよ』などと声をかけてくれる、すごく優しい人です」(屋根を修理してもらった78歳女性)(週刊朝日

「集落の人から刃物で切りつけられ、胸に大きな傷を負ったときも、私は『殺人未遂でしょうに。なんで警察に行かんの』と言ったくらい。集落でいじめられて、カレーを食べて苦しくて死にそうになったことも聞いています」

(保見には助けてもらっていたと語る老女・上の女性と同じか?)(デイリー新潮)

河村さん夫妻が田んぼに農薬をまいていた際に、保見が「殺す気か」と怒鳴り込んだ。

その後、河村さん宅で倉庫の薪が燃える不審火が発生し、河村さんは「普通火が出ないところだから、誰かが火を点けたと思うんじゃが」と話していた。

ボヤ騒ぎの後、保見宅に「つけびして」の貼り紙。

「大きな犬を飼うちょるでしょ、ときどき放しちょることがあったから、恐ろしいから再々注意をしたらしいのよ。そのようなトラブルが多々あったらしいのよ」

「草刈りでも、「若いけ、お前、草刈り機持ってこい」と。年寄りは小さい鎌でちょこちょこやったりする。「クソ~、なんでわしばっかし」という思いは頭にあったんでしょう」(近所の人・高齢男性)

「もう年をとっているから手すりをつけたりバリアフリーにしてやったらと、そういうことはよく言ってらっしゃいましたね」(保見のことを知る人・高齢男性)

「お父さんにすごい良くしていらっしゃったし、悪い感じしないから、今みんなが『怖い怖い』と言っているけど、全然怖くないし、何でって思う」(父親の元ヘルパー)(NNN)

10年ほど前、保見が被害者の一人から刺されて怪我を負う事件があった。

「お酒を飲むと気が大きくなったりして、日頃、あいつは~!と思ってたのでケンカすることってあるんですよ」

「そういう殺意はなくても、刃物を持ちだすとかね、やっちゃろうか!とかそういうのはもうしょっちゅうあったんです。珍しくもない話なんですよ。でも刺したっていう、行為までいくってことはまだなかった。それは、まぁ、ちょっと驚きましたけどね」

「玄関の前に立っていらっしゃる姿を見たとき、あら?と思ったんですよ。というのは、ちょっと雰囲気が今までの感じと違って、怖いな、っちゅう感じ」「次くらいに、マネキンにブラジャーだけして玄関に置いてあるんですよ。あら?これはどうしちゃったの?と思った」

(近所の人・上と同じ人物)

「 ちょっと酒を飲んだ席の話ですから、ちょっと(鋭利なものが)当たったくらいじゃないか。仲が悪いというのはどこでもある、合う合わないというのは誰でもある。些細なことでしょうね」(KRY・上と同じ人物) 

訪問介護の度に「いつもありがとうございます」と丁寧にあいさつした。「お父さんを付きっきりで介護するまじめな人だった」

(保見の父親の介護を手伝っていた元ホームヘルパー女性・上と同じ人物)(毎日新聞

 「今まで住んでいたアパートでけんかして、大家に追い出されて、今晩泊まるところがない、と言ってきた」(かつて部屋を貸していた大家)

「(父親の死後)自分で人をもてなすために家の中にカウンターバーを作って、皆さんを接待したいと」(近所の住民)(テレビ朝日

父親の死後、保見は「里親募集」の貼り紙を見てゴールデンレトリバー犬を引き取っている(「オリーブ」と名付けた)。その後も、お礼にドッグフードを送ってきたり、犬の写真などのやりとりがあったという。

「ちょっと大柄で、どっちかというと言葉少ない感じ。礼儀正しい方。すごく優しいっていうか。にっこりしてこの犬を見たときも、切ない顔で『僕が飼ってもいいですか』と言って連れて帰った」

「こんなこと言うと笑われるかもしれないけど、犬の写真を見たときに、親父だ!と思った、っておっしゃったんですよ。お父様に似てる、と。特に目が」(犬を引き取ってもらった人・飲食店経営女性)(TBS)

「中学卒業後、都会に行って何十年振りに地元に戻ってきたかと思えば、もう方言も忘れているし、田舎の人間とはものの考えがまるで違う人になっていました。ここの人とは溶け込めなかったんですよ」

「最初は地域のために働こうという意欲も持っていたんですね。彼は若者が次々と流出する現 状を嘆いて、町おこし活動を自ら企画したこともあるんです。周囲に熱心に自分の企画を語ったりね。でも、皆に受け入れられなかった。地域にずっと暮らしている人間から見れば、都会 帰りの若造が生意気なことを言っているようにしか聞こえなかったんですね」

「俺はクスリを飲んでいるのだから、10人や20人殺したって罪にならない」「ブラジャーをつけた変なマネキンを家の前に飾ったりして、どんどん周囲から浮いていったのもこの頃です」(幼少時代から保見を知る地元男性)(週刊ポスト

「自己紹介するとき、麻雀牌の“中”にひっかけて、どうもチュンです、なんて言ってた。見た目はいかついけど根はいいやつだった」(関東在住時の保見を知る男性)

「6,7年付き合ったけど、女遊びも、無駄遣いもしなかった。金はかなり貯めてたみたい。仕事の腕も良かった」(川崎時代に保見と仕事上のパートナーだった男性)

「妙なこだわりがある男でね。昼夜問わずサングラスを掛けっぱなしにしていた。もともとはっきりモノを言うタイプだったけれど、酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった」「車には相当金をかけていた。改造した四輪駆動車に乗っていて、ホコリひとつないぐらいに磨き上げていた」「親の介護のために帰郷するぐらいだから、悪いやつじゃない。こっちにいるときも、いじめられた仲間をかばったり、正義感のあるやつだった。ただ、思い通りにいかないとヘソを曲げることもあった」(元同僚)(夕刊フジ

「(住んでいる時)みんなおかしいと言っていた。うちの子どもは、いきなりほっぽり出された。小学校の時、投げ飛ばされた。いきなり怒り出したことがあった」(川崎時代を知る人)(FNN)

2011年の元日に周南署生活安全課に「集落で悪口を言われ孤立している」などと相談に訪れていた。1、2時間話すと「すっきりした」と言って帰ったという。(山口県警

河村二次男さんは数年前、保見と水田管理について口論になり、周囲に「怖い。殺されるかもしれない」と話して、稲作をやめた。(近くに住む女性)(日本経済新聞

「弟は死んでほしいです。5人も殺したんだから」

「集落へ戻ってから、だんだんおかしくなった。はっきりと様子がおかしいとわかったのは今年5月の終わり。黙り込んだり、ひとり言を言ったりし て……」

広島県に住む保見の2番目の姉)(週刊朝日

2003年の正月、家で酒宴をしていた貞森誠さんのもとへ保見が(前年亡くなった母親の)香典返しに訪れた際に、酒に酔った貞森さんが因縁をつけるようにして刃傷沙汰となる事件があった。後に貞森さんから保見に対して罰金15万円が支払うことを命じられた。

そのほかにも保見と親交のあった人物から「集落の人に退職金を配れと脅された」「(保見家の)墓石を倒された」といった話も聞かれた。

報道では総じて、保見には偏屈ではあるが「根はやさしい」側面と、集落住民に対して被害妄想じみた「不審な」側面があったことが伝えられた。識者らは、津山事件との類似性などを指摘し、20年ぶりに戻った故郷で村八分にされた果てに集団ストーカー的被害妄想に陥ったのではないか、といった推察をした。

インターネット上では保見に対して「かわいそう」といった同情的な意見や集落住民に対するバッシングに近い反応が寄せられた(**)。

また当時、保見には2頭の飼い犬がおり、そのうちの一頭・ゴールデンレトリバー犬のオリーブが大量のエサと共に室内に残されていたことも伝えられた。 通気のために隙間が開けられていたものの、番組視聴者などから犬の保護を求める声が数十件寄せられたという。25日、市の依頼により愛護団体に引き取られ新たな飼い主を探すこととなった。

 

**バッシングについて。インターネット言論として「田舎の閉鎖性」が取り沙汰されていたことも集落のいじめ騒動に影響していたように思う。2012年にも、無医村化していた秋田県上小阿仁村で赴任した医師が定着せず4人が立て続けに交代したことから“医師いじめの村”としてバッシングに曝されたことがあった。

田舎の人はよくいえば“親密”なつきあい、逆にいえば“同調圧力”が行き過ぎて“排他的”と捉えられることも多い。“自治会”に入れてもらえずゴミ出しさえできない、法外な額を要求される、不文律のご当地ルールが存在するといった地方移住トラブルもよく聞かれるようになった。

(尚、上小阿仁村については外部団体が現地調査を行い、村人の医師いじめについて完全否定はできないとしながらもいじめの証拠は見つけられないとし、村の執行部と医師との間で事前の合意形成・支援の失敗が早期退職につながったのではないかと報告している。)

郷集落は住民の少なさも災いして個人情報の特定へと至り、SNSなどでは遺族や集落住民に対して誹謗中傷さえ行われるなど二次被害を生んだ。

下は、獄中の保見と頻繁にやり取りを続けてきた匿名ライター・清泉亮氏による地方移住の難しさについてのレポート。清泉氏は保見が抱えていた苦悩に親身になって耳を傾け、記事ではやや同情的に記されている。『つけびの村』の高橋氏が取材困難とした保見とはまるで別人であるかのような錯覚に陥る。

www.dailyshincho.jp

 

 ■逮捕

県警は現場検証・付近の捜索を400名体制で行い、25日、付近の山中で携帯電話や衣類が発見された。

26日も増員して朝から捜索に当たり、9時頃、付近の山道で保見が発見された。下着姿に裸足のいでたちで凶器も何も持っておらず、捜査員が声を掛けると観念したようにその場にへたり込んだ。擦り傷などはあったが自力で歩行することはでき、抵抗することなく任意同行に応じた。発見場所は公民館から北へ約1キロ離れた地点。

事情聴取で保見は容疑についておおむね認め、殺人と非現住建造物等放火容疑で逮捕された。

 

また保見が身柄を拘束された26日9時5分の1分後、愛護団体が保護していた犬のオリーブが亡くなっていたことが確認された。前日まで元気な様子だったが、この日の朝から具合が悪くなり動物病院へ移送中だった。死因は心臓発作。この報道について、さも飼い主と愛犬との運命的なリンクであるかのような印象を受けるが、亡くなっていたことに気付いたのが9時6分であり、いつ息を引き取ったかまでは定かではない。

尚、保見が飼っていたもう一匹の白い雑種犬・ポパイは、逃走前に野に放たれていた。保見の逮捕後、山から下りてきたところを周南警察に保護され、市内の動物病院に引き取られて大切に育てられているという。

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参考画像

同日午後、保見と接見した山田貴之弁護士らは、犯行後に睡眠薬とロープを持参して「誰にも見つからない山の中で死のう」と自殺を図って彷徨っていたが断念したこと、被害者・遺族に対し「申し訳ない気持ちがある」と謝罪の念があることを伝えた。

その後、事件の動機について、被害者5人に恨みがあったとされ、「飼い犬の糞の処理について注意された」「犬を殺すために農薬をまかれた」「悪口を言われた」などと供述していることが報じられた。

 

7月31日、山田弁護士らは徳山保健センターで会見を開き、「保見さん自身の認識では、自分について悪いうわさが流されている、あるいは周りの人から監視されている、という意識を強く持っていました」「最初に貞森さんの家に行った、次に山本さん、次に石村さん、最後に河村さんの家だという風に言っております」と説明。しかし「事件の日のことはすっぽり抜け落ちてしまっていて、真っ暗なんだ」と事件当日の記憶が曖昧になっていることを明かした。

川で凶器も発見され、長さ約56センチ、重さ約600グラムの手製の木の棒で、5人に対して同じものを用いたとしている。

さらに玄関脇の貼り紙について解説がなされた。「火のないところに煙は立たない」の慣用句を逆にしたもので、「つけびして」は集落内で自分への悪いうわさを流すという意味、「田舎者」は集落の人を指したつもりだった、と説明。保見は「自分の中に抱え込んだ気持ちを知ってほしかった」などとしており、自分の噂をする人たちの反応を見るために貼ったものだという。

 

■裁判 

山口地検は2013年9月から刑事責任能力の有無を確認する精神鑑定を約3か月間にわたって行い、責任能力ありとして12月27日に5人の殺害と2件の非現住建造物等放火罪で起訴した。

しかし弁護側は起訴前に行われた精神鑑定の問題性を指摘。地検も「責任能力の有無と程度は争点。迅速で充実した審理のため」として、双方が再鑑定を請求した。鑑定留置は2015年2月末まで4か月あまりにも及んだ。

  

2015年6月25日、山口地裁(大寄淳裁判長)で裁判員裁判による初公判が開始された。

被告人は逮捕当初の供述から一転して、「足と腰は殴ったが頭を殴っていない。火もつけていない」と起訴内容を否認し、無罪を主張した。弁護側は、仮に犯人だったとしても(精神鑑定による)妄想性障害の影響から心神喪失心神耗弱状態だったとして責任能力の有無を争うことになった。

取り調べの段階で撮影の許可を得ており、逮捕当初の録画を確認しながらの尋問となった。録画では、取調官の前で身振り手振りを交えて殺害の様子を伝えていた。

検察は証拠品として、5人を殺害後に山中で録音し、埋めたとみられるICレコーダーを提出。音声データには、「かわいそうな人生。お母さん、お父さん、ごめん。これから死にます」と自殺を示唆する内容や、「周りの人間から意地悪ばっかりされた」「噂話ばっかし。田舎に娯楽はない」といった周囲に対する不満を嘆く内容が吹き込まれていた。また一緒に見つかった茶封筒の裏面には「犬を頼みます。人間をおそれます」などと書かれていた。

 放火について、東京理科大火災科学研究センター・須川修身教授は2軒ともに「自然発火をうかがわせる客観的状況はない」と述べた。検察側は調査結果について「コンロに火を点けて繊維状の物に燃え移らせた」など逮捕当初の被告人の供述と一致していることを指摘した。

 

精神鑑定について、起訴前の鑑定を担当した医師は「当時は精神障害は認められず、責任能力への影響はなかった」と説明。起訴後に鑑定した医師は妄想性障害と診断し、その理由として「自分の考えが正しいと決めつける被告のもともとの性格や10年前に両親を失い、集落で孤立していった周囲の環境が影響している。思い込みが孤立を深め、孤立が新たな思い込みを生んだ」と説明 。逮捕当初の犯行を認める供述から一転して無罪を主張するようになったことについて、嘘を言っているのではなく頭の中にある内容そのものが思い込みなどで変わってきているためだと指摘した。

鑑定結果の違いについて、起訴前に鑑定した医師は、「妄想性障害は人格を変える病気ではない。妄想に支配された訳ではなく、妄想が本来の性格に深く根差している」と述べ、鑑定時期のちがいで被告の陳述が「真犯人がいる」といったかたちに変わってきているため「妄想性障害という結論は妥当」だとしている。

 

第9回公判では被害者遺族7人が証言台に立ち、生前の思い出や現在の心情などを陳述、被告への死刑適用を求めた。河村さんの次女は「遺族は後悔や無念の気持ちで過ごしてきた。真実は一つしかないし、それは被告が一番わかっているはず。たとえ死刑でも許せないが、苦しみながら死んだ母や他の人のことを思うと、極刑以外はあり得ない」と述べた。

被害者への謝罪の意思を問われた保見は「足を叩いたくらいで」と聞き返し、「私の傷の方が深い。仕方ないと思っている」と述べた。山中で自殺を図ろうとしたことについて「いまも死にたいと思うか」との質問に対して、「思わない。刑務所にいた方がよほどいい。守ってもらっている感じがする」と話した。

検察側は、遺体の状況から「足を骨折するほどたたき、防御しようとする手や腕も骨折するほど叩き、木の棒を口の中に押し込んで強く圧迫した」と被告の強固な殺意と残虐性を指摘し、「なぶり殺しともいうべき凄惨な手口」と厳しく糾弾。「荒唐無稽な弁解に終始し、謝罪もしておらず、更生の余地はない」として死刑を求刑。

 

大寄裁判長は「犯行動機の形成過程には妄想が影響しているものの、保見被告自らの価値観などに基づいて犯行に及ぶことを選択して実行した」として、「妄想が犯行に及ぼした影響は大きなものではない」と被告の完全責任能力を認める判断を下し、求刑通り死刑判決を下した。弁護側は即日、広島高裁に控訴。対する検察側は「一審で必要なことは全て審理し尽くされている」として棄却を求めた。

2016年9月13日、2審広島高裁(多和田隆史裁判長)は、弁護側が証拠鑑定を請求した52点全てを却下し、即日結審。「犯行時の完全責任能力を認めた1審の判断に不合理な点はない」として控訴棄却。弁護側は判決を不服として、翌日、最高裁へ上告。

2019年7月11日、最高裁山口厚裁判長)では「組むべき事情を十分に考慮しても、被告人の刑事責任は重大」として第1審判決を是認。上告棄却となり、保見の死刑が確定した。

 

保見は裁判期間中、一貫して「自分が被害者である」という立場を唱え、被害者・遺族らへの謝罪の言葉や反省、悔悛の態度を示すことはなかった。審理された証拠品についても「俺のものではない」として、「捜査機関によるでっち上げ」「真犯人は別にいる」と無実を訴えた。

確定前の取材に対し、「ここ(広島拘置所)から出たらすぐ金峰に帰る。一人で陶芸を本格的にしたい」と語り、「無実だったら(慰謝料の)お金がもらえる」と笑みを浮かべていたとされる(山口新聞)。

 

保見の犯した罪は量刑として死刑判決に相応し、同情の余地もない。だがもはや自分のしたことを認識できなくなった人間が処刑されることにはたして意味があるのだろうか。

京都アニメーション事件の青葉真司被告の火傷治療ではないが、起訴前に妄想進行を防ぐ処置を施せなかったのか。やがて執行されたとて煮え切らない感情ばかりが後に残る事件である。

被害者のご冥福とご遺族のみなさまの心の安寧をお祈りいたします。

 

■『つけびの村』 について

 著者は、裁判傍聴ブログで人気を博し、ノンフィクションライターとなった高橋ユキ氏。編集者からある雑誌の記事のコピー(週刊新潮2016年10月20号、清泉亮氏による記事と思われる)を渡され、本事件に戦中まで集落にあった「夜這い」風習が関わっていたとする内容の検証を依頼されたが、確たる証拠にはたどり着けずお蔵入りとした。

だが現地で得たいぶかしい噂に吸い寄せられるようにして独自取材を続け、noteで有料公開していた記事が2019年になって脚光を浴び、晶文社から書籍化された。

つけびの村

つけびの村

 

依頼を受けた時点で、すでに事件から3年半が経過し、第一審で死刑判決も出ていた。獄中の保見は完全に妄想に支配されており、手紙でのやりとりから真実を導き出すことはもはや不可能に思われた。そのため事件ノンフィクションの定石である、検証に検証を重ねてひとつの筋書き(犯人像や真の動機)を導き出す手法を断念せざるをえなかったと著者は告白している。

そこで保見や集落にまつわる様々な「噂」を頼りに、いじめの噂の真相に接近を試みる。100ページも読み進めれば、この村を覆う得体の知れない気色悪さに苛まれる。事件ノンフィクションの愛読者であれば、肩透かしや居心地の悪さを感じるかもしれない。幽霊やおばけの怪談かと思っていたら、生身の人間の怖い話だったときのような(本格推理小説かと思ったら“イヤミス”だった、みたいな)。

事件直後の報道では氷の心に閉ざされていた住民らの“本音”や“秘密”が、高橋氏の人柄と熱意によって徐々に溶かされて本来の姿を見せていくかのような印象を受ける労作である。理詰めの緊迫感溢れた筆致ではなく、猜疑心や日常的思念さえも混在する、ある意味で平然とした人間味のあるルポルタージュ手法は、noteという媒体に相性が良く、従来の事件マニアとは異なる層にも響いたのであろう。

(かつて岩手17歳少女事件の再捜査を求めて、世論形成を企図してブログや動画を公開していたジャーナリスト・黒木昭雄氏のことを思い出した。少し時代が違えば、注目のきっかけさえ掴めれば、事件のその後の流れは違っていたかもしれない。)

 

個人的に興味を引かれた部分は、父・友一についてである。一部には、先祖代々から家があった訳ではなく山中から降りてきた、竹細工売りなどをしていた話は一部報道されていたが、本書に出てくる周辺住民の「噂」を加味すると、生活困窮民(漂流民というより難民)としてのサンカのような暮らしぶりが想起される。彼が眠る保見家の墓の見開き写真も強烈なものがあった。

また詳細は不明だが、1940年から45年にかけて郷集落付近で珪ニッケル鉱採掘が行われたとする文献もあるという。鉱夫を悪くいうつもりはないが、この時期、一攫千金を目論んで移住してきた人々もあったように想像され、周辺から“要注意集落”と目された背景のひとつのようにも思える。高橋氏はそうしたアプローチを言明しないが、どうしても被差別民の影が視界に入るのだ。

目から鱗に感じたのは、「ことの真相」よりも終章「判決」で精神科医が提示した推定である。私は、両親の死後にかねてからの集落内での不調和が妄想として悪化したものとする(本鑑定のような)見立てでいたため、なかなかに衝撃を受けた。さればこそ周囲の理解や助けもほとんどない中でシルバーセンター保見を強硬したことや転居という選択肢がなかったことなどにも合点がいく。老老介護の精神的負担や両親の分の年金が途絶えたことも妄想を加速させた要因であろう。

裁判に関する問題意識として「何をもって心神喪失心神耗弱とするかが明確には定められていないこと」や運用のまずさを指摘していることも個人的に同意見である。複数回の精神鑑定の間に食い違いが生じることや、加古川7人事件のように精神疾患は認められても心神耗弱状態とは見なされないケースは多く、高橋氏は刑法第39条そのものの見直しにも言及している。

 

「まるで金峰地区を乱舞する大量の羽虫のように、この事件の周りには、うわさ話が常にまとわりついている」(あとがき)と記す通り、本件はいじめに関するものもそうでないものも情報の伝播が「噂」という形式をとる。情報という実体を伴わないものの「虚ろさ」「映り方(見え方)」もさることながら、時間の経過によって口外される噂も変化する「うつろい」を感じさせる内容である。

本書はロジックではなく「噂」という言霊で組み立てられており、象徴的存在として「ヴァーチャル古老」まで登場する。しかも実在する様々な関係者の証言を追ったあとだというのに、ヴァーチャル古老が最も誠実な語り部だと感じてしまうことにまた驚かされる。私たちは事実や真相を知りたいと思いながらも、思考にバイアスがかかって意図せず手触りのいい情報を選り好んでしまうことがある。

上で見たように、付近の住民には「保見は集落でいじめに遭っていた」と証言する人もいれば、何をしでかすか分からない不審人物という印象をもつ人もいた。報道で見聞きした私たちも「いじめっ子への復讐劇」と見た人もいれば、単なる「狂乱者の大犯罪」とする人もいる。だが「噂」こそあれ、「証拠」はどこにも存在していないのである。

 

島根県隠岐の島『蟹淵と安長姫』について

島根県隠岐諸島は最大の島・島後(どうご)。その北部にある隠岐の島町中村の元屋(がんや)地区には、次のような民話が残されている。

昔々、この村に1人のきこりがいました。

この川の奥に入り、淵の後ろの山で木を伐っていました。

つい誤って、斧を淵に落としました。淵に波が起こり、水煙が立ち上がりました。

怖くなり、帰ろうとするときこりを呼び止める声がしました。

「私は安長姫である。もう一度斧を投げ込んでくれ」

水の神様をお助けしようと、恐る恐るまた斧を投げ込みました。

明くる日、川下に大きな蟹の死骸が流れてきました。

きこりはそのことがあってから日に日に富が栄えました。村の人は川を安長川、淵を蟹淵と呼ぶようになりました。

 [隠岐島後民話・伝説案内板No.8]

 

■蟹淵をさがせ 

上の伝説が記された案内看板は下の地図位置(元屋川の中流)に掲示されている。周辺は農地が広がっており、この奥が「蟹淵」とされる。

 

調べてみると、元屋川水系は、小敷原山にある3つの水源から成り、西側から安長谷川、中央に元屋川、東側から東谷が合流して村へと注いでいる(元屋川水系 河川 - 川の名前を調べる地図)。安長谷川、樵はこの源流を上って杉を求めたに違いない。だがマップ上で遡ってみても深い森に覆われて、さすがに淵の位置までは分からなかった。

 

■茶山版と角川版

kanbenosato.com

歴史文化体験施設・出雲かんべの里ホームページでは、昭和57年(1982年)7月30日に収録された明治30年生まれの島民・茶山儀一さんによる語りが「蟹淵の主」のタイトルで保存・公開されている。解説によれば、昭和11年発行の横地満治・浅田芳朗編『隠岐島の昔話と方言』(郷土文化社報告第弐輯)が初出ではないかと記載されている。

 

茶山版では、「青い毛の生えたような蟹の爪」が浮かんでくる様子が臨場感をもって語られ、姫の言うには大蟹の名を「マエニケ」と呼んでいる。蟹の討伐後には「われはこの村の、あるとこの長者の娘であったけど、故あってここの身を沈めて主になっておる、が、元屋の人の雨がなくて日照りが続いたときには、ここに来て祈願をさっしゃい。必ずやご利益が現する。間違いないけん」と姫は言い残し、蟹淵へ雨乞いする習わしとなったという。

のちにTBS系列「まんが日本昔ばなし」で1990年11月3日(第772回)『蟹淵(かにぶち)』のタイトルで放映されており、文芸は同番組のメインライターの一人だった沖島勲氏、演出・作画は山田みちしろ氏(亜細亜堂)が担当した。こちらの出典は、角川書店が発行した「日本の伝説50」シリーズ『離島の伝説』(1980)に収録された酒井董美(ただよし)『年老いた木樵りと魔蟹』である。

角川版では、どこまでが伝承なのか、脚色があったのか分からないが、より物語背景や樵が淵に近づく動機を明確にしている。“長者の娘”は樵が幼い頃に可愛がってくれた人物とされ、その後、行方不明になってしまった。いつからか淵に魔物が棲みつき近づく者を帰さないのだと噂が立ち、だれも淵のそばへ寄り付かなくなった。かつて娘に少なからぬ憧れ・好意を抱いていた老樵は、そんな噂を振り払わんと一人で蟹淵へ伐りに入ったとされている。

 

酒井董美氏は、上の茶山氏の語りを収録した人物で、口承文学(民話・昔話)の研究者として知られる。『隠岐島の昔話』のレポートによれば、昭和40年代後半に行った島前・中ノ島にある海士中学校、本土の奥出雲にある横田中学校へのアンケート調査を比較し、家庭内で昔話を聞かせてもらった経験のあるこどもが少ない(海士19パーセント:横田58パーセント)として、隠岐島民話の伝承状態を大変危惧していた。

島根大学退官後は山陰民俗学会会長、上述の出雲かんべの里館長を務めた。氏による『隠岐島の伝説「蟹淵の主」を考える—横地満治氏収録本と茶山儀一氏の語りの比較を中心に』と題された論考も存在するが、所収は『島根大学法文学部紀要 文学科編』(1991)とのことで、残念ながら筆者は当分見られそうにない。島根県立古代出雲歴史博物館のサイトでも酒井氏の民話や民謡のデータが公開されており、こちらの解説では、雨乞いの部分はなかったが『隠岐島の昔話と方言』に収録されていた内容とほぼ同じとしている。

 

柳田国男『日本の昔話』

 なにか得やすい情報は他にないかと調べてみると、柳田国男『日本の昔話』に『蟹淵と安長姫』の題で所収されており、奇遇にも我が家の本棚に新潮文庫版があった(恥ずかしい話、かつて読んでいたことさえ失念していた!)。

底本は昭和5年3月アルス社から刊行された『日本昔話集(上)』(下のリンク・旧仮名)であるから、蟹淵の昔話は上記の『隠岐島の昔話と方言』(昭和11年)より少し早くに世に出ていたことになる。なぜ酒井氏は柳田版を初出としなかったのかは不明だが、全国各地で集めた民話・伝承を子ども向けに読みやすく書き下した説話集であるから、「口承文学」の枠から外したのかもしれない。柳田版の語り手がだれだったのかは記されていないが、内容は茶山版と大きな違いはない。

dl.ndl.go.jp

 柳田版では、茶山版と同じく樵は「年とった樵」「爺」とされ、安長姫は「絵にあるような美しい若いお姫様」と紹介されている。「昔から、この淵に住む者だが何時の頃よりかここには大きな蟹が来て住むことになって、夜も昼も私を苦しめていた」と姫から蟹の追撃を依頼された樵は「水の神をお助け申したい」と再び山上から滝壺へ斧を投げ込む。姫は喜んで「これから先は富貴長命、何なりともそなたの願うまま」と言って姿を消す。その後、この川の流れはどんな旱(ひでり)でも水が絶えず、この水の神に雨乞いをするときっと雨が降った、と話を締めている。蟹を倒して救ってくれた礼として、姫は樵に繁栄をもたらし、川は村を潤し、雨乞いの場として祀られたことを示している。

 

■「スーちゃん」の藤野版

1997年頃に開設された藤井和子氏のホームページ『スーちゃんの妖怪通信』でも『蟹淵の主』というタイトルで記事を書いておられる。このサイトの素晴らしいところは、在野の研究者ながら奇談や昔話・口承文学の保存のため、自ら各地へ赴いて聞き取りし、「語り部」「取材日」「場所」「同行者」「取材者」などを記した“学術調査資料”たりうる蒐集が為されている点である。2004年以来、更新は途絶えてしまったようだが、135話もの収録・公開に謝意を示すとともに賛辞を贈りたい。

聞き手は藤井氏、語り手は藤野ミヨコ氏(昭和10年、1935年生まれ)、聞き取りは2004年10月3日、場所は隠岐の島町教育委員会で、同委員会の方が立ち会っている。藤野氏は結婚して昭和34年(1959)から元屋に移り住んだ。当時の安長川上流にあった蟹淵は、小さな淵とはいえ暗く淀んで、何メートルかの滝もあったという。安長の杉材は橇(そり)に乗せて麓の村へと運ばれており、山は何百年と続く佇まいをそのまま残していた。

日本列島改造の時代(田中角栄日本列島改造論』発表は昭和47年)になると林道や作業道の開発が進み、蟹淵にも砂防が築かれて、不要となった岩石や土砂が投げ込まれた。平成元年に調査に訪れた酒井董美氏を藤野氏(と保育所の同僚ら)が案内した際には、淵のかたちはかろうじて残っていたが浅く小さくなっていた。酒井氏は「大きさは学校の教室の半分くらいもあろうか。その水面のあちこちに樹木が生えており、およそこの伝説のような雰囲気ではないように思われる」と綴っている。

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岩倉の乳房杉(樹齢800年とされる神木)

さて藤野氏の語ったものは茶山版、柳田版といささか様相が異なる。

老いた樵の話の前段に、角川版のように“長者の娘”の前フリが付される。

元屋の長者に美しい娘がおりました。

年頃になると、どこからでも縁談の声がかかり、

降るほど縁談が舞い込んできた、幸せなお嬢さんでした。

 なかなか頭を縦に振らなかったのですが、

ようやく西隣の五箇村の若者との間に縁談が整ったのです。

ある日、

五箇村へ行って来ます”

と言いおいて出かけたまま、

再び戻ってくることはありませんでした。

“ああ、あの娘さんも神隠しにあったのだろう”

と、みんながしばらく噂をしていましたが、

そのこともいつの間にか忘れられた形になっていました。

まさかの「神隠し」、花嫁失踪事件とでもいうべき展開である。気になるのは「あの娘さんも神隠しにあったのだろう」と以前にも似たようなことがあったかのように噂されている点である。結婚前の憂鬱、俗にいうマリッジブルー封建社会にももちろんあったと思うが、こうなると崇敬の対象・自然崇拝的な「水の神様」とはまた違った背景を想像させる。

尚、旧五箇村島後島の北西部に位置し、2004年10月1日に五箇村を含む島後の4町村が合併して、現在の隠岐の島町が新設された。聞き取り日が合併の翌々日だったこともあり、島内では「西隣の五箇村」という共通認識が強く残っていたためこうした語りになったものと考えられる。

 

 さらに、注目したいのは、その娘が淵の主となり、樵の前に姿を現した場面で、「ここにはガイ(大きくて凶悪)な蟹が住んじょって、わしはその蟹に、夜な夜な虐められ苦しめられて暮らしてきた」と、老いた樵に追撃を依頼する。柳田版のように「夜も昼も」虐められるというのなら、一日中悪さをされて困っている印象だったが、「夜な夜な」となると性的虐待のニュアンスを感じ取ってしまう。

またしめくくりでは、蟹を退治したお礼に、娘は「困りごとができたら開けてみよ」と「巻物」を渡している。蟹淵で雨乞いをすれば雨が降ることや老樵が裕福になることに加えて、喧嘩やもめごとが起きても巻物にその解決策が書いてあったという。つまり旱の心配を除き、樵に繁栄をもたらしただけでなく「村の秩序」さえ救ったことになる。

 

■所感

隠岐島の蟹淵に関するいくつかのバージョンを見てきたが、表現や構造上の細かな違いをあげればきりがなく、筆者自身は成立年代や話の確かさにさほど関心はない。話し手と聞き手がつなぐ伝言ゲーム的な認識の差や解像度のちがい、曖昧さが生じることも昔話の楽しみだと考えている。ひとはテープレコーダーではない。聞き手が様々な人生経験を積み、やがて子や孫、あるいは藤野さんのように育児施設や出雲かんべの里のような公共の場で話して聞かせるとき、そこには新たな意味が重ねられている。

 

「蟹」と「姫」について述べ、筆者の一解釈にて終わりとしたい。

①蟹とはなにか

 かつて谷川や水路で得ることができた沢蟹はこどもにもなじみ深い生物だった。そのせいもあってか昔話の類型として、蟹の報恩譚(蟹の恩返し)というものが各地に存在する。代表的な類型としては、「娘が日頃から蟹に米つぶをやるなどして可愛がっていた。あるとき蛇が現れて娘を脅かす。そこに蟹が現れて蛇をずたずたと切り裂き、娘を救う」というようなものだ。

このとき「蛇」は「男根」や「刀」を象徴していることは明白である。棒状でうねうねと動く無足の蛇に対して、多脚(サワガニは十脚)で硬い甲羅とハサミ(「盾」と「矛」)を持つ蟹は対概念として娘を救う側として描かれるため、多くの報恩譚のモチーフに起用されたと考えられる。

対照的に『蟹淵』では姫を虐める悪者として描かれている。たしかに現代人の感覚では、双ハサミを持つ蟹はカマキリのように狂暴なイメージを持つかもしれない。だが蟹=沢蟹に対する古くからの考え方では、こどもでも捕まえられるたんぱく源、ひとがつかまえようとこそこそ逃げ回ることから、『猿蟹合戦』のように軟弱者のイメージも重ねられていた。

だが蟹淵の魔蟹は2~3メートルともされる巨大さを誇るとされ、よもや捕らえたひとも食いちぎるのではないかとすら想像させる。はたしてなぜ蟹淵の蟹は「救世主」にはなれず「魔蟹」として伝えられたのか。民話としては忘れ去られているが、蟹の背後に、やはり対概念としての蛇が存在したのではないか、と筆者は考えている。

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いずれの話でも樵に名前がないことは共通しているが、茶山版だけ蟹に「マエニケ」という名前が付されている。マエニケがどんな意味を内包しているのか想像もつかないが、語り手が物語の筋に無関係な脚色をしたとも考え難い。方言や言語学の知識がないので単なる妄想になるが、たとえば「マエニ家」や「マエニイケ」が変容したものであったり、なにかしら物語の起源に由来した語なのではないかとも思われる。

 

②安長姫は実在したか

昭和初期に採集された民話と平成の半ばに採集されたものでは、古くに語られたものの方がなんとなくオリジンに近い要素が濃いようにも思われる。また藤野ミヨコ氏が保育士をなさっていたことから、一種の“昔話のプロ”であり、他の先生方や年配の方たちに繁く教えてもらったり、子どもたちに語り聞かせるために推敲して面白く脚色した(脚色されたものを教えてもらった)可能性もあるだろう。 

だが“神隠しにあった花嫁”の物語は、大変に興味深く筆者の心を刺激してやまない。“長者の娘・某=姫”は霊的存在としての神ではなく、実在した人物と考えると、前述の「蛇」は結婚が決まった五箇村の若者であり、対となる「蟹」は娘が好いた駆け落ち相手だったのではないか。

藤野氏の意図や物語の起源から外れた拡大解釈になってしまうかもしれず不愉快に感じる方もいるかもしれないが、インスパイアされて生まれた二次創作だと思ってお許し願いたい。

 

元屋の長者に美しい娘がおりました。

年頃になると、方々から縁談の話が舞い込んできました。

 なかなか首を縦に振らなかったのですが、ようやく西隣の五箇村の若者との間に縁談が整ったのです。

ある日、

五箇村へ行って来ます”

と言いおいて出かけたまま、再び姿を現すことはありませんでした。

“ああ、あの娘さんも神隠しにあったのだろう”

村の人たちは、やはりかつて同じように縁談を控えた若い娘が姿を消したことがあったのを思い出して噂し合いました。

 

はたして以前に消えた娘はどうなってしまったのでしょうか。

結婚が嫌で海へ身を投げてしまったのか、はたまた島の外へ自由を求めて渡ったのか。生きていようと帰るに帰れぬ事情があるのでしょう。

長者の娘もやはり同じ思いでした。

ぐずぐずと渋る娘に業を煮やした父親が五箇村の良家との縁談を取り決めてしまったのです。

長者の娘にはすでに心に決めた想い人がありました。

しかし父親が貧しい樵との結婚を許してくれるはずもありませんでした。

娘は樵と駆け落ちすることを決め、人目を忍んで当てどなく山へ入ります。

あるときは娘の婚約者が探しにきましたが、樵は娘が見つからないように追い払って守りました。あるときは山賊まがいに食い物や荷を奪うこともありました。

そんなことを繰り返せば、山奥に入る村人もいなくなります。

“もう長くはもつまいね”

“ならばいっそ、添い遂げましょう”

2人は滝壺へと身を投げました。

きっと幸せになると誓い合ったのに、その望みは自ずと絶たれてしまいました。

それからどれほど経ったか、ある老いた樵は、他の樵の寄り付かないという山奥へ杉を求めて入ります。

そこで樵が見たものは、淵に打ち上げられた若い女と滝壺にはまったままの青く膨れあがった...

 

やがて村人たちの知るところとなり、娘を水神、男を神使いの蟹に擬えて丁重に祀った。

 

 

 

 参考;

蛸島 直『蟹に化した人間たち』愛知学院大学 大学紀要人間文化 第27号

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_98.pdf

 

5都府県連続強姦・放火事件について

1998年ごろから2003年にかけて5都府県で起きた単独犯による女児への強姦(未遂)および連続放火事件について、加害者はすでに逮捕・服役中の事案であるが、風化阻止・予防啓発を目的として概要や所感などを記す。

また「女児強姦」「放火」はともに凶悪な重犯罪であり、反復されやすい特徴があるともいわれる。犯罪の性質や背景を知ることで、防止に向けて何ができるのか(何が行われているのか)を確認してみたい。

 

尚、強姦罪については2017年の刑法改正に伴って「強制性交等罪」と変更された。該当行為の範囲が拡大され、「3年以上」の有期懲役から「5年以上」へと厳罰化された。また重要な変更点として、強姦・強制わいせつの「非親告化」と「性差の撤廃」が挙げられる。これにより被害届がない事案についても捜査・起訴が可能となり、それまでは男性から女性に対しての強姦のみが認められる犯罪だったものが、性差に関係なく成立する犯罪と認められた。本件は改正前の事柄なので、特に断りのない場合は「強姦」「強姦罪」と記す。

 

■概略

2003年7月22日、岡山県警大阪府高槻市牧田町に住む無職・尾上力(おうえ ちから・34)を住居侵入、傷害等の容疑で逮捕した。

同年6月19日16時ごろ、岡山市内で帰宅途中の女児(10)の後をつけて訪問客を装って男が家に押し入り、「殺さんから言うことをきけ」と女児を脅迫、押し倒すなどの暴行をした。母親の帰宅により姦淫は免れたものの女児は後頭部打撲などの怪我を負った。当日、付近で尾上が貸し自転車を利用していたことから捜査線上に浮かびあがり逮捕につながった。

調べに対し、「99年ごろから大阪、岡山、兵庫、京都、東京で女子小中学生を襲った」と余罪の供述をし、その数は40件近くにも上り、警察は裏付け捜査を急いだ。

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はたして強姦致傷・未遂等合わせて15件について起訴され、2004年9月、大阪地裁における公判で検察側は懲役20年を求刑した。

しかし、判決前の11月、尾上は大阪拘置所から警察・検察関係者に宛てて手紙で「もっと多くの事件を起こしている。もう一度警察で調べてほしい」と更なる余罪を自ら示唆。大阪府近辺における116件をはじめ、1都2府13県をまたいでおよそ200件もの放火を自供した。

検察側は尾上を「空前絶後の放火・強姦魔」と糾弾し、求刑のやり直しを求めたため、公判は一時中断。あとになって放火を自供した理由については「黙っているつもりだったが、拘置所でいじめられて耐えられず、余罪を自供すれば拘置所から出られると思った」と述べた。

 

■犯行について

尾上は大阪府高槻市に生まれ、高校卒業後、私鉄会社に就職するも、奈良県で少女強姦未遂事件を起こして解雇。2002年、勤務先の配達ピザ店で売上金の着服が発覚して職を失っている。強姦目的に遠方まで赴いて女児を探し回ることもあれば、勤務中の外出先で偶然見かけた女児を襲うこともあった。強姦・強制わいせつ以外にも下着の窃盗や放火が常習化しており、「いたずら目的で子どもを探しながら、ゲーム感覚で火を点けた」と供述している。

 強姦致傷・未遂の被害者は7歳から13歳までの女児15名。立件された中で既遂は1件で、9歳女児に対して姦淫を行い、処女膜裂傷やPTSD心的外傷後ストレス障害)を負わせた。犯行後も度々電話を掛けて被害者や母親に対して卑猥な暴言を浴びせたり、被害者宅付近にいることを伝えるなど執拗な追い打ちを加えている。また別の1件では、女児が大声を出して暴れたため首を絞めて殺害を目論んだが、無抵抗になったため殺害を中止したとする殺人未遂を認めている。

おおよその手口としては、気に入った女児を見つけると家まで後をつけていき、女児自らが玄関を解錠する様子から家族の不在を確認して侵入し、刃物をちらつかせるなどして脅迫し服を脱がせ、陰部を押し当てるなどしたものとされる。ときに親の知り合いを騙って、予め行き先や帰宅時間を聞き出し、犯行に費やせる時間を逆算する狡猾さもあった。

被害者側が裁判の影響などを鑑みて親告せず泣き寝入りしたケースも考えられるが、未遂の14件では「大声や泣きながら抵抗する」「家族が帰宅する」「(加害者の)職場から呼出がかかる」などによって目的を遂げず逃走していることから、野蛮な犯行でありながらも極めて小心だったことが窺える。体格や腕力の面で御しやすい女児を狙う卑劣さも尾上のそうした性質が影響していたと考えられる。

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参考:強制性交等 認知・検挙件数・検挙率の推移/令和2年版犯罪白書

再開された取調べでは放火およそ200件について道路地図に書き込むなどして詳述したが、すでに「煙草の不始末」「出火原因不明」などとして処理されていた事案も多く、立件されたものは13件にとどまった。被害損額は3億円近くに上るとされる。

2001年9月25日、東京都墨田区八広の木造二階建てアパートが全焼した火事では、2階に住んでいた植田敏夫さん(60)が逃げ場を失って飛び降りた際に死亡。02年2月10日未明、同区京島では民家など3棟、延べ約345平米が全焼し、小西アイさん(80)が全身にやけどを負って間もなく死亡した。そのほか板橋区男性(70)、大阪府高槻市女性(62)、同市女性(74)の合わせて5名の犠牲者が出ている。周辺にも多くの延焼被害が生じ、合わせて40人以上が避難を余儀なくされた。

 調べに対し、「野次馬が集まったり、消防隊員が必死に火を消したりしている様子を見て満足感を得た」などと供述。趣味の「アマチュア無線」で消防無線を聞きつけて現場に駆け付けるようになったことがきっかけとなり、やがて自ら火付けに手を染めるようになったという。手口は、納屋や空き家に侵入して着火することもあれば、現に人がいるアパートや戸建て家屋で見つけた段ボールや衣類に放火することもあった。

消火活動の規模が大きくなることを狙って住宅密集地を選び、空き家の押し入れに着火物を入れて発覚の遅れを狙った隠蔽工作や、被害の拡大を企図してプロパンガスのゴムホースに着火するなど、次第に悪辣で手の込んだ犯行へとエスカレートしていった。翌日の新聞で放火先から死者が出たことを知っても悔い改めることはなく、その後も平然と放火を繰り返し、やじ馬に紛れて消火活動の様子を眺めていた。

 

■判決

検察側は現住建造物等放火13件などを加え、改めて無期懲役を求刑。

「死刑と思っていた。罪を軽くしてくれというつもりはない」(最終意見陳述)

 

2007年2月19日、大阪地裁で判決公判が行われた。中川博之裁判長は、「被告人の性格、性癖の深刻な問題性に根ざす犯行であり、被告人の社会規範を全く意に介さず、他人の尊厳を踏みにじる人格態度には人間性の片鱗さえ見出しがたい」と犯行の凶悪さを厳しく諫めた。刑事責任は非常に重大で「死刑選択の余地もないとはいえない状況」だとした上で、捜査・公判において犯行のすべてを認めており、強姦未遂と全ての放火について「自首」とみなし、「更生にはなお多大の困難を伴うとしても、その可能性がないとまでは言えない」と酌量の余地を示し、求刑通り無期懲役を言い渡した。

 

■放火と殺人

尾上の放火行為から結果的に5人の犠牲者を出しているが殺人罪には問われない。一般感覚では、人がいる家に放火したら殺人と同じようにも思えてしまうが、放火行為そのものがどれだけの被害を生むかは不確定であることから火付け人に殺意があったと立証することが難しいとされ、両者は法的に区別されている。殺害を目的として、その手段に放火を用いた場合には「放火殺人」として殺人罪に問われるものの、本件ではその犯行は場当たり的で動機が「一種の気晴らし」とされており、新聞を見て後から犠牲者のあったことに気付くなど、殺意の証明はやはり困難と言える。

刑法第108条・現住建造物等放火の罪は「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」とされており、2004年の刑法改正以前には当時下限が「3年以上の有期懲役」とされていた殺人罪よりも重刑とされてきた。だが戦後の放火事件で、殺人罪・致死罪の適用なく死刑とされた事件は1957年に起きた昭和郷アパート放火事件(死者8名を出しているが現住建造物等放火と保険金詐欺で起訴)のみである。たとえば同じ放火でも、2019年7月に起きた京都アニメーション放火殺人事件では、容疑者が「死ね」と言いながら社員に直接ガソリンを浴びせたことから、明確な殺意が認められるため殺人罪に問われることが考えられる。

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火付け人の殺意の証明については、裁く側の考えによって結果主義(行為と結果との因果関係に基づいて処罰を決めること)とするか、責任主義(責任なければ刑罰なし)とするかで裁量にぶれが生じるといわれる。

結果主義的な判決が下された事例には、2003年に起きた「館山市一家4人放火殺人事件」がある。12月18日深夜3時過ぎ、一軒家の玄関に積まれていた古新聞に放火され全焼、住民の一家4人が焼死体で発見された(長男は仕事で外出中、祖母は入院中だった。強風により周辺7軒も全焼)。2005年2月千葉地裁(土屋靖之裁判長)は、焼死を高尾康司被告による「未必の故意」(確定的ではないが行為によって犯罪的結果を引き起こすかもしれないと認容しつつ行為に及ぶ心理状態)による殺人罪を認定し、死刑判決を下した。弁護側は「結果の重大性から逆算して“未必の故意“を認めてしまった判決で、放火と殺人の線引きがされていない」と主張し、無期懲役が相当として控訴。2006年9月東京高裁(須田賢裁判長)は控訴棄却、2010年9月最高裁(横田尤孝裁判長)は上告を棄却し、死刑が確定した。“未必の故意”は確定的故意に対する概念だが、裁判官の推量に任せられる部分が大きく、心象が判断を左右する裁判員制度や死刑確定の是非などをめぐっての問題も孕んでいる。

(本筋とはずれるが、1998年に起きた和歌山毒物カレー事件の裁判も物証や動機の解明もないまま“未必の故意”が認められ、林眞須美被告に対し死刑判決が下された。現在でもヒ素鑑定などの証拠能力への疑義が呈されており冤罪とする説もある。)

 

放火行為は、復讐などを動機とした計画性が高いケースもあるが、尾上のように感情の解放(憂さ晴らし)が動機となることも多い。以前扱った埼玉・千葉連続通り魔事件でもあったように腕力の備わらない未成年であっても繰り返されるおそれがある上、焼け跡から犯人に結び付く証拠を得づらい。 その場合、被害者や放火対象などの手口から類似性を見極めることが難しく、犯人像のプロファイリングに時間がかかり、本件のように常習化させてしまうケースもある。だが犯行期間の間隔が短いことで、犯行の類似度が高まるとの研究結果も出ている(Canter, D. , Fritzon, K. 『Differntiating arsonists:A model of firesetting actions and characteristics』1998)。

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尾上が自白した放火事案に「煙草の不始末」「出火元不明」がどれほど含まれていたのかは不明だが、同じように警察の見込み違いや初期段階での調査力不足によって闇に埋もれてしまった犯罪、犯行の特徴が見過ごされてしまうことも実際にある。国内の放火事件は、2000年前後に認知件数およそ2000件程度だったものの近年はおよそ1000件程度にまで減少しているが、検挙率についてはおよそ75パーセント程度の横ばい状況が続いている。放火にかぎらず、今後も犯罪のデータベース化や犯罪傾向の解析が進めば、より現場地域や被害者からもたらされる一つ一つの一次情報の重要性が増すことからも、その任に当たる派出所の“お巡りさん”たちの一層の捜査力が期待される。

 

■こどもへの性犯罪と再犯

13歳未満のこどもを対象とした強制わいせつ犯の再犯率は84.6パーセントと極めて高い(平成27年版犯罪白書・性犯罪者の実態に関する特別調査について)。性犯罪の多くは、対象者の年齢・容姿などに加害者の好みやこだわりが現れる特徴がある。なかでも年少者を対象とした性犯罪者には、他の犯罪者(成人対象の性犯罪を含む)とは異なり、自らの犯罪を正当化し継続するような認知的歪みが特徴とされる。

たとえば広島県で元教諭・森田直樹が児童に行った46件もの連続強姦事件では、犯行中にも女児に「先生」と呼ばせ命令に従わせていた。十分な知識を習得していないこどもに対しては強気に振舞えるということだろうか。尾上にも、年齢・立場・体格差などによって相手をコントロールできる状態に快感を得る偏った思考が見受けられる。

 

日本では、2006年から性犯罪再犯防止指導(R3)が行われており加害者は認知行動療法に基づく再犯防止プログラムの受講が義務付けられ、仮出所後も保護観察所に通って指導を受ける。受講者は自らの犯行に至ったプロセスと歪んだ認知を見直し、感情統制の仕方を考えながらライフスタイルやコミュニケーションの改善により社会への適合を目指すものであり、被害者感情への理解も促す。

再犯防止プログラム受講者は非受講者に比べ再犯率が低いとされる一方で、刑務所という特殊環境での受講では、実際に社会に出てからの再犯抑止効果は薄くなるとの見方もある。下の2つの記事では元性犯罪加害者(累犯者)による生々しい証言で治したくても治まらない「更生の難しさ」が語られている。

www.bengo4.com

www.fnn.jp

警察では、法務省からの情報提供を受け、13歳未満への性犯罪を犯した出所者については所在確認が行われており、必要に応じて本人同意のうえで面談を行うものとしている。

児童への性犯罪に関連して、2017年の刑法改正で、新たに監護者わいせつ罪・監護者性交等罪が加えられたことも重要である。刑罰としてはそれぞれ「懲役6か月から10年」・「懲役5年から20年」で強制わいせつ罪・強制性交等罪と同等となる。監護者とは、親や養護施設職員といった児童(18歳未満)が経済的・心理的に依存せざるをえない相手のことで、通常の学校教員や習い事の指導員などは含まれない。だが、これまで監護者から児童への性的虐待児童福祉法違反(最高刑で懲役10年)が適用されていたことと照らし合わせれば、児童福祉保護の観点や性犯罪の厳罰化が読み取れる改正である。

 

刑罰については、旧強姦罪であれば3年以上20年以下の有期刑、現行の強制性交等罪では5年以上20年以下の懲役が科される。こうした卑劣な性犯罪が繰り返されることや累犯の多さに対し、インターネット上では「去勢を義務付けよ」「体にICチップを埋めて監視しろ」といった意見も多く聞かれる。だが 憲法第36では「拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と定められており、刑法第9条において、刑罰は死刑、懲役、禁固、拘留、罰金、科料、没収による7種類しか認められていない。

被害当事者であれば復讐心から直情的な主張になってしまうことも理解できるし、それは正しい反応だと思う。だが、はたして「黥(げい)」「入墨刑」のように生涯レッテルを貼ることで回避できる犯罪なのだろうか。言うまでもなく強制性交等は非人道的な行為であり、被害者のその後の人生にも大きな影響を及ぼすことを考えれば、筆者も性犯罪に対する量刑は軽すぎるように感じる。たとえば10歳で強姦被害に遭ったとして30歳になる頃には加害者が世に放たれる、と想像すると相手が何歳であろうと恐ろしくて身の毛がよだつ。相手が監護者であれば尚のこと被害者は逃げ場のない恐怖感や憎しみを抱えて生きていくことになるだろう。だが極端な重罰化や、制裁的な意味合いに偏った発想に至る昨今の風潮についても筆者はやや疑問に感じる。

 

■各国の対応と化学的去勢 

 

世界における性犯罪の再犯抑止の動きとして、そもそもの性衝動を除去するために物理的去勢(精巣摘出などの外科手術)のほか、薬物による化学的去勢を採用する国や地域もある。物理的去勢については人権侵害に当たる残酷な処置との見方から反対意見が多く、趨勢としては多くの国で化学的去勢(薬物療法とする国もある)へと移行しているとされる。化学的去勢の現状と課題については、国立国会図書館の発行するレファレンス誌824号掲載の小沢春希氏によるレポート『性犯罪者の科学的去勢をめぐる現状と課題』に詳しく紹介されている。

化学的去勢の代表的なものは、定期的な薬剤投与によってアンドロゲン(男性ホルモン) をコントロールし、性的興奮を引き起こすテストステロンのはたらきを思春期前の状態にまで抑えるというものである。定期的な投薬を中断すればテストステロンのはたらきは回復されるため、恒久的に性機能を損失させることを目的とした物理的去勢とちがい、可逆的な措置ともいえる。

女性蔑視が激しいとされるインドでは、2012年にデリーでバスに乗車中の女性が集団レイプされた事件を受けて国の性犯罪対策見直しを求めるデモが激化し、翌13年にムカルジー大統領は取り締まり強化を掲げ、強姦罪の死刑適用を認める大統領令を発布。2020年に加害者4名(6名が逮捕されたが、1名は収容中に死亡し、公式には「自殺」とされた。1名は未成年ですでに釈放)が死刑執行された。

絞首刑が行われた刑務所の前には、死刑支持派の人々が手に国旗を持って祝賀行事を行い、カウントダウンや歓声が上がった。事件後に被害届を出す人が増えたこともあり、性暴力に関する被害届の数は減っていない。2018年の認知件数は3万3356件に上り、10年間で約55パーセント増加しており、およそ16分に1回の割合でレイプ事件の通報があった計算になる。処刑前に行われた執行者クマールさんへのAFPによるインタビューでは「死ぬことになっている連中は獣のようなものだ。人間ではない」「残虐な人間だから、命を失うことになる」「家族を含め周囲の人々はいつも私によくしてくれるが、今回の処刑後は、私に対する尊敬の念が高まると確信している」と語っている。

www.afpbb.com

一方、別の強姦事件では、その発覚をおそれて女児の目を潰して犯行に及んだり、口止めのために姦通後殺害にまで至るケースも確認されており、被害者の父親が加害者の手首を切り落とすといった私刑が行われる事案も発生した。重罰化によって抑制された犯行もあったかもしれないが、これらは却ってより凶悪化に走らせたり被害を拡大させる“負の側面”ともいえるかもしれない。

 

インドネシアでは、2016年にスマトラ島で発生した14歳女児に対する10代少年グループによる集団強姦事件を受けて、ジョコ・ウィドド大統領は未成年者に対する性犯罪の罰則を強化する大統領令を発し、強制的な化学的去勢のほか、行動確認用チップの埋め込み、死刑適用も可能とした。2020年にフランス人男性による300人以上に上る少女への強姦事件が発覚し、死刑適用も取り沙汰されたが獄中で自殺を図り、その後死亡した。 

アメリカではカルフォルニア州など複数の州で、有罪判決を受けた小児性愛犯罪者の公表や、仮出所者に対しての化学的去勢を義務付けている(憲法修正第8条「残酷で異常な刑罰の禁止」に抵触するとして反発もある)。

フランスやドイツでは化学的措置は、医学的見地からの判断としてパラフィリア障害(異常性欲により自身や相手に苦痛を与え、害となる可能性が高いもの)が認められた場合、「治療」行為として提案され、実施には本人の同意が必要とされている。

 

一見すると、フランスやドイツのような仕組みであれば再犯を望まない受刑者の人権にも配慮され、本人の将来のためにもよい仕組みのようにも思われる。だが欧州拷問等防止委員会による報告によれば、受刑者は化学的去勢に同意しなければ仮釈放の見込みはないという暗黙のメッセージを受けていたという。真に「自主的」な任意ではないとされ、化学的去勢は性犯罪者の釈放条件であるべきではない、と提言している。

 また化学的去勢には性的興奮を抑える効力が認められるものの、性犯罪者釈放時の実施件数はそれほど多くはなく、性犯罪抑止の有効性・再犯率低下にどれほど効果があるのかを示す比較データが不足しているとされる。また生物的な介入によって、体重増加・血圧増加・女性化乳房・骨密度現象などさまざまな副作用が報告されている。一部には投薬停止後に、投薬以前よりもテストステロンの水準と再犯率が増加したとの報告もある。万が一にも再犯の可能性が高まるのであれば、投薬を停止する措置を行えないのと同じではないだろうか。

アメリカでの性犯罪者への対応について、弁護士ザカリー・E・オズワルドは、男性は女性より厳格な基準で訴追されていること、化学的去勢を宣告する裁判官の裁量が性別バイアスに基づいているため、男性は女性より高い比率で化学的去勢を宣告される格差が生じていると主張している。また刑法学者マーク・レンゼマによる2005年のレポートによれば、電子モニタリングによる犯罪抑止効果は期待できないとしている。

 

■所感

筆者自身、なぜ性犯罪の有期刑はこれほど短いのか、と以前から感じていた(いる)。刑法学や心療医学の専門家ではないため、本稿後半の、どういった再犯防止対策がなされているのか、各国の刑罰事情や具体的な化学的去勢の運用上の課題について、調べて初めて知るようなことばかりであった。裏を返せば、それだけ被害者に向けた同情と感情論ばかりで事件の根幹である加害者を傍観してきたということでもある。無論、「罪を憎んで人を憎まず」では許されないが、繰り返されないため・繰り返させないための支援を考え、これ以上の悲劇を生まない社会をつくることが加害者でも被害者でもない人間に課された使命でもある。法整備の見直し状況や元加害者たちのその後、社会復帰と更生を直接サポートする人たちについて知ることも冷静な議論をしていく上で大切だと感じた。

最後になりましたが、被害にあわれたみなさまの回復と心の安寧を願っております。

 

 

参考:

■性犯罪者処遇プログラム研究会報告書(平成18年3月)

 http://www.moj.go.jp/content/000002036.pdf

■内田亜也子『被害の実態に即した性犯罪背策の課題』立法と調査2020.7

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2020pdf/20200708051.pdf

根強い女性蔑視 厳罰下でレイプ増加 インド 5年ぶり男4人を絞首刑 - SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

新潟女児殺害のような犯罪が「刑罰」では防げないエビデンスを示そう(原田 隆之) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

韓国三大未解決・カエル少年事件について

1991年、大韓民国大邱(テグ)市で起きた男子小学生5人の失踪事件、韓国三大未解決事件のひとつとされる通称“カエル少年事件”について記す。

尚、筆者はハングル語を解さないため、誤記や誤訳が生じるおそれがある。調べて書く行為を通じて文化理解を深める目的も兼ねているためご容赦願いたい。

 

事件の発生

1991年3月26日、この日は地方選挙により臨時の祝日だった。

韓国・大邱直轄市達西区の城西(ソンソ)国民学校に通う9歳から13歳の5人の少年が「臥竜山(ワリョンサン)サンショウウオの卵を拾いに行く」と言い残し、朝8時半ごろに家を出たきり戻らなかった(*)。夜になっても帰らないため保護者らは連絡を取り合ったがだれも消息がつかめない。一晩待ってもだれひとり帰宅しないことから、翌27日午前、警察に5人の失踪を通報した。

のちに“サンショウウオの卵を拾いに行く”という少年らの言葉が、報道で“カエルを捕まえに行く”と歪曲されて伝えられたため「カエル少年失踪事件」という呼称で広く知られるようになった神隠し事件である。

(*現在の大邱広域市。金泳三・キム・ヨンサム元大統領はそれまでの軍事政権による中央集権的体制からの脱却を図り、国軍や行政改革に着手した。1995年の行政区分見直しに伴い「直轄市」から「広域市」に改称された(広域市は全6都市。なお首都ソウルは「特別市」)。大邱慶尚北道の内陸部に位置し、およそ100万世帯・人口250万人が暮らす国内第4の大都市。/国民学校・クンミンハッキョ。現在の初等学校、小学校のこと。学制も1995年に改正された。)

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事件当初、家族や地元警察による山中や付近の捜索で何も発見されなかったことから、警察は「貯水池付近で遊んでいた」「市街で信号待ちしている5人を見掛けた」などの目撃証言を重視し、下山して市内に潜伏している可能性が高いとして、空き家やビニールハウス、宿泊施設などの滞在可能な場所、ゲームセンターなどの一斉捜索を行った(家出説)。

5人一斉にいなくなるという前代未聞のニュースはすぐに全国を駆け巡った。家族もテレビ出演して情報提供を呼びかけ、5人の顔写真が公開されるとやがて「新聞売りの少年に似ていた」「チョコレート売りの少年2人と印象が近い」など全国から浮浪少年などの目撃情報が集まるようになった。特集番組には外国人グループ等による拉致凶悪犯による誘拐、人身売買を懸念する声なども寄せられた(拉致・誘拐説)。

国民的注目を集めるなか、盧泰愚(ノ・テウ)大統領も早期解決を期して警察に大号令を掛けた。捜査範囲を大邱から全国に広げ、各地の駅前やバスターミナル周辺などでの聞き取り調査にも乗り出した。失踪から約7か月後、軍を動員した大規模捜索も行われたが少年たちの足取りは依然としてつかめなかった。

企業各社は協力して最大4200万ウォンという破格の懸賞金を設置。またテレフォンカード(公衆電話カード)、菓子などの食料品、タバコ、ハガキといった様々な日用品に写真入り広告がつけられるなど国家総出の大キャンペーンを行い、映画製作や歌、小説のテーマに扱われるなど、老若男女を問わず全国民の関心事となった。

その反面、ハンセン病患者の治療に少年らの遺体が用いられ施設内に埋葬されているといった悪質な通報も行われ(人体生薬説)、通報を基に強制捜査に及んだ警察の強引な手法も問題視された。

児童被害の事件では、統計上、実の両親ら近親者による犯行の割合が大きい。96年1月の捜索番組では、心理学博士のプロファイリングにより少年の保護者のひとりに疑惑の目が向けられ、自宅の床板を剥がすなど行き過ぎた追及が騒動を過熱させた(保護者説)

1993年9月、懸命な捜索活動を続けてきた少年らの親たちが記者会見を開き、事件の長期化による生計のひっ迫から生業への復帰を宣言。これまでの捜査協力への感謝と共に「今後は警察の捜査と国民の情報提供に依存するしかない」と涙ながらに語った。

その後、新たに男児を授かった家族などもある一方で、息子との再会を果たせぬまま病没する親もおり、時の流れを感じさせた。捜索は延べ32万人が動員されたが、その安否さえ知れない膠着状態が続いていた。

 

発見

失踪から11年6か月余が経過した2002年9月26日、臥竜山中腹へとドングリ拾いに訪れた付近の住民が地面から露出した子供靴と人骨らしきものを発見する。

その日のうちに照会されると、5家族が抱いていた微かな希望は脆くも砕け散り、事件名から“失踪”の二文字が消えることとなった。しかし遺骨発見により「カエル少年事件」は終結とはならなかった。警察は“遭難事故”との推察を示したが、遺体の状況や鑑定から他殺の疑いが強まり“犯人捜し”の再捜査が行われた。

 

新情報も出たものの犯人特定に結びつくことはなく、2006年3月25日に15年の公訴時効を迎えて事件は迷宮入りを余儀なくされた。だが所轄の城西署では時効満了後もカエル少年事件担当チームが置かれ捜査が継続されている。

 

少年たちが遊びに向かったとされる臥竜山は達西区の北/西区西部に位置し、北面に琴湖江を臨む標高300メートルほどの緩やかな低山。当時は南面に4~5つの谷があり、西面には3つの貯水池があった。“サンショウウオの卵”がどこにあったのかは分からないが、城西小学校から北へ2~3キロメートルほどの距離である。冒険心に駆られる少年たちにとって臥竜山は大人たちの目の届きにくい、格好の遊び場だった。

 

■遺骨発見と再捜査

遺体発見現場周辺では大々的な発掘捜査が行われ、遺骨と衣類や靴のほか、弾頭や実弾など12点(遺骨近接は2個。その後の発掘により周囲から100数十点に及んだ)、あんパンの袋が発見された。上空では再びマスコミ各社による取材合戦が行われた。失踪当時は低山の周囲を桑畑と田んぼが並ぶ農村地域で“村はずれの裏山”といった風情であったが、その後、龍山地区などの周辺開発により市街化が進んだ。発見当時も臥竜山周辺は学校の新設や新たな墓地の改葬工事が進められていた。

発見直後の会見で、警察は「常識的に見て他殺の痕跡は薄い」として、遭難後の低体温症による自然死とする見解が述べられたが、ジョンシク君の叔父は「山を知り尽くしている子どもたちが迷子になるなんて考えられない」と強く否定した。

OhMyNewsの記事によれば、失踪当時、遺骨発見現場から5、600メートル地点に40世帯規模の村があり、200メートルほどの場所にも5世帯ほどが暮らしていたとされる。古くからの周辺住民は「射撃場の悪影響や山火事の影響でハゲ山になった箇所が多かった」「山中で迷っても夜になれば村の灯や近くの高速道路が目に入るだろう」と遭難説に否定的な見解を述べている。

また発見された体操服の上着左右の袖が結ばれており、警察はこれを「寒さを紛らわせるため」としたが、“拘束された”ともとれるかたちだったことから他殺説を提起する保護者もあった。子ども同士でふざけて縛っていた可能性も否定はできない。

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キム・ヨンギュ(11)

キム・ジョンシク(9)…腕に防御創と見られる骨折

パク・チャンイン(10)

ウ・チョルウォン(13)…頭蓋骨の左右に1センチ、4センチ程度の穿孔

ジョ・ホヨン(12)

警察は、発見現場から300メートルほどの場所に1994年11月まで大邱第50師団の予備軍射撃場があったことから、打ち損じの実弾を少年たちが拾っていた可能性を示唆した。また過去に臥竜山で赤鹿の猟師が出没していたとの住民証言もあったことから、近隣の猟銃所持者らへの聞き込みを行うとした(猟師説)。

 

30日夕刊『文化日報』は、白骨発見直前の25日に「臥竜山にカエル少年5人は埋まっている」と電話でタレコミがあったと報道。「当時の政権や社会状況を正すための政治信念からの犯行」などとされ注目を集めたが、その後、警察の調べで当該人物への取り調べを行ったが推測情報だったことが明らかになった。

聯合ニュース』では、遺体発見前の2002年8月に関連が疑われる情報提供があったと発表。旧達西区役所付近で靴磨きをしていたハン氏によれば、7月に「軍に服役していた当時、突然現れた5人の少年に向けて誤射し、一人が死亡、一人にけがを負わせてしまったため、隠蔽のため別の場所で絞首・銃殺した」と少年殺害を匂わせる三十歳程の客がいたと報じた(元軍人説)。

捜査機関はこうしたマスコミの過干渉、警察不信の種となる煽情的な報道に対して不満を示した。

 

遺骨を鑑定した慶北(キョンブク)大学法医学チームは、生前に外傷を受けていたと見られる痕跡が10か所認められたとし、死因について「頭蓋骨内部の出血」によるものと推定、「精神異常者や性格異常者が鋭いドライバー等凶器で殺害した可能性がある」という所見を提示した。

尚、頭蓋骨左右に穿孔がある遺骨について「銃創ではないか」とする意見に対しては「通常、被弾による貫通による骨折は、内側と外側で形状が異なるため、この頭蓋骨の穴を弾丸によるものとみなすことは難しい」と説明された。

 

すでに他殺説を裏付けるような証言として、失踪同日に山に入っていた別の少年グループの一人が「10秒間隔で2回、悲鳴を聞いた」というものがあった。

また少年の旧友から「射撃場近くで“弾頭拾い”をしてよく遊んでいた。いっしょに行く予定だったが、自分は途中で引き返した」との証言が得られ、別の同級生からも「自分は彼らとそれほど親しくなかったが、当日10時頃に射撃場へ行くと言って山に入るのを見た」との裏付けがなされていた。

カエル少年失踪より以前に“弾頭拾い”をしたことがあるという近隣住民は、「射撃が始まるときは警告放送のサイレンが鳴るので近寄らなかった」「しかし訓練終了後を見計らって、進入禁止の標識を越えて拾いに行くこともあった」と少年時代の体験談を語っている。

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少年たちがカエルでもオオサンショウウオでもなく親に隠れて弾頭拾いに訪れていたという話の信憑性は高まり、誤射や流れ弾、あるいは陸軍関係者による「犯行」までもが疑われる事態に発展した。

陸軍当局は50歩兵師団の調査を実施し、会見を行った。射撃位置と発見場所の位置関係について、250メートルの距離、射撃方向から45度ずれているとした上で、当時、高さおよそ150メートルの尾根に遮蔽された地形であったとし、仮に射撃訓練があっても少年たちに直接被弾した可能性はないと説明した。

施設は1956年・71年・81年と段階的に敷地が拡張されてきたが、(失踪当時と同じ)81年度施設より以前には防護設備が乏しい状態で、流れ弾の飛散も考えられるとした。また記録に残っていないが、敷地外に一時的な簡易射撃場が設けられた可能性もあるとして、周辺地域に使用済み弾頭が埋没されたとも考えられた。

少年らが遺骨となって発見された現場ではなく、射撃場周辺で弾頭拾いをした可能性も指摘されていた。被弾させた軍関係者が少年たちを埋めたという疑惑である。しかし陸軍当局は、根拠となる記録日誌類は保存期限3年で処分されているが職員らに聞き取りした結果、事件当日は「選挙による臨時祝日で射撃訓練を実施していないと推定される」と説明した。

使用の弾丸についても岩やコンクリートに当たった場合は弾頭形が崩れることを指摘し、発見された弾頭と軍が無関係であることを示し、非公式射撃の可能性については「銃器携行での領内離脱は武装脱営になるため、そのようなことはあり得ない」として退けた。

しかし当時、在韓米兵も施設を利用していたことや、当該記録の早期抹消の可能性、非公式射撃などに関する疑念のすべてが払拭された訳ではない。関係者による犯行と軍内部での証拠隠蔽を疑う説は特にネット上の事件フォーラムで根強く議論の対象となった(軍隠蔽説)。

 

■その後 

ヨンギュ君の父は「決して家出するような子どもたちではなかった。警察は目撃者の証言をもとに見当はずれの捜査に集中し、方向性をずらしてしまった」と当初の警察の見立てに対する不満を露わにした(東亞日報)。

また遺族らは「通報を受けて到着時にはすでに発掘が終わった段階だった。なぜ遺骨発見初期の状態のまま見せてくれなかったのか」と、これまでの捜査過程で警察への不信感を募らせている様子も窺わせた。2005年8月、少年たちの遺族らは「全国迷児・失踪家族を捜すための市民の集い」とともに、国を相手取って4億5000万ウォンの損害賠償請求訴訟をソウル中央地裁に起こした。

 

上の動画はKBSニュースがカエル少年事件の報道をまとめたダイジェスト版で、失踪時の捜索キャンペーンの様子や遺骨発見時の報道を見ることができる。

再び報道が活発化し、新たな情報提供もある一方で、根拠に乏しい情報や「犯人は吸血して生きるモンスターである」「神の啓示によって少年の埋葬場所を警察に通報していたが無視された」といった合理性を著しく欠く通報者(霊媒師など)も相次いだ。しかし“初動捜査の失敗”に対する批判を受けて、警察はそうした虚偽情報に対しても慎重な確認の手続きを踏まざるをえなくなっていた。

他殺説として様々な憶測が飛び交ったものの、警察は「あらゆる可能性を視野に入れて」対処した結果、犯人像を絞り込むことさえ難しくなり、真相解明の糸口をつかむまでに至らなかった。 

 

■時効とのたたかい

1954年に成立した韓国刑法は当時の日本法を参考にしたもので、殺人罪時効は15年とされていた。時効成立を前に遺族からは「犯罪として罰することはできなくなる。だが、たとえ犯人がすでに死んでいたとしても霊に化けてでも、息子たちを殺した理由を教えてほしい」という悲痛な声もあった。2006年3月の慰霊集会では「時効を過ぎればたとえ犯人が検挙されても罪には問えない。このような悔しいことが二度と繰り返されることのないように」と時効の延長・撤廃を訴えた。

同じく三大未解決事件とされる1991年1月にソウルで発生した“イ・ヒョンホ君誘拐殺人事件”、86年から連続強姦魔によって繰り返された“華城連続殺人事件”も本件と同じ2006年にすべての公訴時効が成立することになっていた。

日本では2005年に公訴時効改正(最長15年から25年に延長された)が成立し、韓国内でも時効期限の見直しを期待する世論は高まっていた。2005年8月にもウリ党議員から殺人罪時効を20年に延長する刑事訴訟法改正案が提出されていたが、政局に左右されて国会での法案審議は足止めされ、はたして改正が果たされたのは三大事件の時効成立後、2007年のことだった。

 

2011年11月、障碍者と13歳未満の児童を対象とした性的暴力犯罪に対する時効撤廃を盛り込んだ「ドガ二(坩堝)法」を制定。

2015年7月、殺人罪の時効を廃止する刑訴法改正案「テワニ法」が成立した。1999年、大邱でキム・テワンくん(6)が何者かに硫酸を掛けられ49日の闘病後に死亡した事件が2014年に時効を迎えてしまったことにより発議されたものである(2007年改正は遡及して適用されなかったため、テワンくん事件の時効期間は15年のままだった)。

 

2019年10月、華城連続殺人事件の現場に残されていたDNAを最新手法により再鑑定した結果、5件目(1987年)で採取されたものと別の強姦殺人事件ですでに釜山に収監中のイ・チュンジェ受刑者(56)のものとが適合したことが京畿南部地方警察庁の捜査本部より明らかにされた。受刑者は義妹に対する強姦殺人で無期懲役刑となっておりすでに25年間服役していた。11月2日、水原(スウォン)地裁において開かれた8次事件(ユン・ソンヨ被告再審裁判)にイ受刑者が「証人」として出廷し、義妹のほか14人の殺害と30件の強姦事件について公開自白した。しかしすでに全件で時効が成立していることから新たな罪状が付されることはない。

上の動画では華城事件の真犯人解明にDNA鑑定が大きな役割を果たしたこと、迷宮入りしたイ・ヒョンホくん事件・カエル少年事件でも再鑑定が進められていることなどを伝えている。

 

■所感と妄想

イ・ヒョンホくん誘拐事件の悲劇の直後に起きた謎の集団失踪に国民の不安が高まり一層関心が寄せられた本事件。いくつもの家族がメディアに登場したため、多くの国民にとってヒューマンドラマ的な受容を喚起した側面や、家出・浮浪少年という社会問題との接合も注目を集めた背景であろう。

日本の失踪事件と照らし合わせても保護者に対して向けられる疑惑や外国人による拉致説、トンデモ説、警察による初動捜査に対して家族が抱く違和感など、似たような問題点がいくつも見受けられて興味深い。登場人物ばかりを執拗に疑っていても真犯人を見失うことにつながりかねない。

遺体発見後の警察の対応は「遺骨発見」で事件の幕引きを図ったような印象は拭えないし、軍についても報告書然としすぎていて家族の求める真相解明とは噛み合わなかった。とはいえ、弾丸の種類が6種類かそれ以上あったとみられることから、かつて敷地外で非公式に臨時射撃が行われていたものと考えてよいと思う(普通の猟師であればそれほど複数種の銃器を用いないし狭い範囲で百数十発も打ちまくることは考えづらい)し、カエル少年たちが薬莢拾いに訪れたことも事実であろう。

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筆者が妄想する犯人像は、二十歳前後の男性である。軍人かもしれないし、かつての村の若者かもしれない。山で出会ったカエル少年たちと気さくに語らい、「もっと薬莢が見つかる場所がある」とか「こっそり銃に触らせてやる」とかひと気のない場所へとおびき寄せて、次々と手に掛けた。金銭目当てでないこと、レイプや誘拐目的であれば単独・少数行動を狙うと考えられることから、反社会性の発露、興味本位の突発的な犯行だったのではないか。

5人を山から移動させたとは思えず、その日のうちに5人を埋められる穴を掘ったものと考えられる。スコップは下山して家まで取りに戻ったか、あるいは近場の農作業小屋から失敬したものか、いずれにせよ田舎の野山で犯行に及ぶのだから近隣の事情に通じた者の犯行であろう。いつ捜索隊が現れるやもしれず、その晩のうちに撤収。幸いすぐには発見されなかったものの、捜索キャンペーンが始まる。

しかし世間の目は“殺人事件”としての捜査ではなく当てどもない“浮浪少年”捜しへと向かった。また若者が村を離れるのは奇妙なこととも思われず、ひょっとすると開発の余波を受けて一家丸ごと程なく転居したかもしれない。また軍関係者であれば何年も経たないうちに退役や転任していよう。あるいはキャンペーンの拡大がプレッシャーとなり、発覚をおそれていつしか自殺した可能性などもあるが、他言しなければ真相は闇の中だ。

 

時効問題もあるため犯人逮捕・真相解明が被害者・遺族への報いになることもない悲しく罪深い事件である。皮肉なことだが“サンショウウオの卵少年”ではなく、キャッチーでどこか愛らしい、そしてサンショウウオよりはるかに身近で親しみやすい“カエル少年”というネーミングが付された偶然は運命的なことのように思える。私たちは毎年カエルのなく季節が来るたび、切なくも5人の少年たちが生きていたことを思い出すことができるのだから。

カエル少年たちのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈り申し上げます。

 

 

■参考

OhMyNews

東亞日報

・KBS

・the hankyoreh

・国民日報

倉敷市老夫婦殺害放火事件について

1995年、岡山県倉敷市児島で起きた老夫婦殺害および放火事件について、風化阻止の目的で概要等を記す。また関連事項として死体損壊(いわゆるバラバラ殺人)や公訴時効についても触れる。

事件当時に不審行動を見かけた、事件後に関与をほのめかしていた人物を知っているなど些細な情報から捜査の進展が期待できる。情報をお持ちの方は、児島警察署(086-473-0110)まで通報されたい。

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概要

1995年4月28日(金)未明、倉敷市児島上の町にある民家から火の手が上がり、木造2階建ての母屋など4棟が全焼。焼け跡となった母屋一階から、この家の住人で農業を営む角南(すなみ)春彦さん(70)と妻・翠さん(66)の遺体が発見された。

春彦さんは玄関付近、翠さんは台所付近で見つかっており、遺体には無数の刺し傷があり、腹部には凶器に使われた包丁や登山用ピッケルが刺さったままとなっていた。いずれも首から頭部が切断されて持ち去られていたこと、火災状況から灯油をまいて火を点けたとみられることなどから、岡山県警殺人・放火事件と断定し捜査を開始した。

火災現場

岡山市大医学部による司法解剖の結果、春彦さんは左胸部と右わき腹に刺し傷があり死因は心臓損傷、翠さんは右胸部と腹部を刺されたことによる失血死。死亡推定時刻は27日17時から21時頃とされた。

 

児島地域は倉敷市南部に位置し、地形的には周囲を山と海に囲まれた小都市で、香川県とつながる瀬戸大橋の北端・交通の要所としても知られる。上の地図でも分かる通り、角南さん宅はJR上の町駅からそれほど離れていない。だが市街地からは外れており、敷地西側を山林に囲まれた閑静な立地といえ、県道268号白尾塩生線を東に進むと広い山地が広がる。

執拗な手口から「交友関係とのトラブル」との見方を強め捜査が進められた。自宅金庫は手付かずで、所有する付近の山林の境界問題、土地や金銭をめぐって数十件のトラブルを抱えていたとの情報があったものの、家屋の全焼によって得られる物証に乏しく、犯人に迫る有力な証拠は得られなかった。

事件発生から25年となる2020年4月の段階で延べ15万人ほどの捜査員が動員され、捜査本部に寄せられた情報は262件(2010年4月時点では230件。19年度の情報提供は僅かに2件だった)。現在も専従8人を含む19人態勢で過去に浮上した人物や他事件との関連といった情報の洗い直しを行っている。

 

犯行について

以下、事件内容や犯行動機について検討していく。証拠がある訳ではないので筆者の妄想となってしまうが、被害者を冒涜する意図はないのでご了承願いたい。

事件について最も引っ掛かりを感じるのは、首の切断と持ち去りである。たとえば切断された頭部が現場に残っていれば、解体を途中で諦めた可能性なども出てくる訳だがそうしていない。合理的に考えれば、凶器を捨て置いてなぜ処分に手間のかかる頭部をわざわざ持ち去るリスクを負ったのかは疑問に感じられる。

死体を損壊する理由としては、次のようなものが挙げられる。

・防衛的動機

①遺棄・隠蔽のため(井の頭公園江東区マンション)

②運搬のため(玉の井、大阪民泊女性)

③身元の特定を遅らせるため(江戸川区篠崎ポンプ所)

・攻撃的動機

④強い怨恨(練馬一家)

⑤報復・見せしめ(マフィア、過激派などによる組織犯罪)

 ・猟奇的・倒錯的とみなされる動機

⑥自己顕示・挑発(東京・埼玉連続幼女誘拐、神戸連続児童殺傷)

⑦食人(臀肉、パリ人肉)

⑧性愛(若松湯ホルマリン漬け、阿部定

⑨関心・その他(佐世保高校生、会津若松母親)

 欧米ではバラバラ殺人はシリアルキラーによる異常犯罪とみなされる傾向が強いが、日本の場合、住環境や生活環境のちがいなどから防衛型①~③の動機がその9割以上を占めるとされる。DNA型鑑定法が普及する以前は身元不明の故人の特定に指紋や歯型の治療痕が用いられることもあった。だが本件では胴体はそのまま残しており、被害者はその家の家人であるため、防衛型に当てはまらない。④は殺害の動機にはなるが損壊そのものの動機とはいいづらいかもしれない。⑤は組織の制裁や武力誇示として特定の人物や対立集団などに向けられたメッセージ的意味合いが強い。

国内では⑥~⑨は数としてはやや希少なケースであり、重複する場合もある。⑥は社会に向けた自己顕示といった意味での分類でいわゆる「劇場型」犯罪者にみられる傾向だが、本件ではいまだ頭部が発見されないことから除外される。⑦については(野口男三郎などは目玉をくりぬいたとされるが)「脳みそ」目的であれば話は別だが、口に運びづら可食部が少ない頭部を食用とするのはやや考えづらい。⑧については本件では二体とも持ち去られているため除外してよいかと思う。⑨興味殺人の一環として解剖・解体にまで及んだ、あるいはエド・ゲインのように人体の一部を創作に用いたケースもある。単なる骨片ではなく頭蓋骨という象徴的部位であることからも考えられなくはない。

 

殺害した上での“放火”については、当然、証拠隠滅の狙いがあったと考えられる。また頭部切断の上に放火という執拗さは恨みの強さを感じさせる。事件前後の邸宅の様子などが分からないので憶測にはなるが、撒かれた灯油や付け火が母屋以外にも及んでいたとすればより多くの注目を集めるための“見せしめ”だった可能性が強くなる。

凶器にしても、製品についての公開情報はないため、どこまで絞り込みができているのか分からないが、購入が容易でどこの家にもある「包丁」、冬場であればほとんどの家に備蓄されており足の付きにくい「灯油」に対し、雪山登山で用いる「ピッケル」は利用者・購入者が特定されやすい代物に思われる。身内に聞けば角南さんの所持品だったのか否かはすぐに判明しているだろう。もし凶器のつもりで持ち込むのであれば、特定を避ける意味でバールなどの工具の方が向いているように思われる。登山に全く関係のない犯人がかく乱を狙って残していった可能性も否定できないが、もし角南さん宅の物でなかったとすれば犯人個人の属性を示すアイテムとして現場にあえて残された、やはり周囲に対する見せしめだった可能性を感じさせるのである。

 

部外者の一仮説、こじつけにすぎないが、たとえば土地関係で揉めた暴力組織あるいは地元有力者が実行犯1・2名に依頼した犯行と考えることはできまいか。殺害の証拠としては手指や耳など切断しやすそうな部位を持ち去ればよい気もするが、「首」を求めたとすればそれだけ強い恨み・怒りだったのかもしれない。

そうした見せしめが功を奏するかたちで周囲の人間も“報復”を恐れて捜査協力におよび腰となり、追及が難しくなっていたのではないか。暴対法施行から30年余が経過し、組織の再編や解散も進み、組織犯罪とすれば指示役や実行役が分散されてより情報は散逸している。情報が漏れやすくなっていると取るべきか、容疑対象者が捉えづらくなったと見るべきか。

 

公訴時効とのたたかい

公訴時効は、時間的経過による証拠の散逸(不確かさ)により事実認定が困難になることや社会的な処罰感情の希薄化などを理由として、一定期間を過ぎると起訴できなくなる訴訟法上の概念である。国によって採用・運用の状況は異なるが、日本の刑法205条では法定刑上限(罪の軽重)によって時効の期間は区切られている。

 

2004年、刑法改正により法定刑の重罰化が行われ、付随して刑事訴訟法の公訴時効期間についても見直されて時効の延長が行われた。

2009年、殺人事件被害者遺族らによる“宙の会”が結成され「遺族の被害感情は時間の経過によって薄れることがない」とする意見表明などによって公訴時効制度の見直しを後押しした。

2010年4月27日に公布・施行された改正刑事訴訟法により、重大犯罪に関する公訴時効期間の延長と一部撤廃が実現し、1995年4月27日に起きた本件も時効撤廃が適用された(改正前は25年で時効とされていた)。こうした時効見直しの動きはDNA鑑定など捜査技術の進歩による証拠能力の向上などを踏まえたものだが、関係者の記憶やあらゆる証拠が保全されるわけでもなく、改正前の旧時効を過ぎてから容疑者が摘発された例はあまり多くない。

岡山大法学部の原田和往教授は「改正法の趣旨は時効成立後に犯人が判明した際、立件できない事態を回避するためで、未解決は仕方がない面もある」と解説。「現実的に解決が難しい事件はあるし、その一方で未解決という現実に納得できない遺族もいる。これにどう折り合いを付けるか。今後、捜査当局は難しい判断を迫られることになる」と指摘する(山陽新聞)。

 

公訴時効撤廃後に逮捕されたケースには、1997年に起きた三重県上野市(現伊賀市)のホテル従業員が刺殺され売上金約160万円が奪われた強盗殺人事件などがある。この事件は、発生から16年後の2013年2月、DNAの再鑑定から現場となったホテルの元従業員・久木野信寛容疑者が逮捕された。裁判では、時効撤廃について憲法第39条・遡及処罰の禁止をめぐって争われた(改正前であれば15年で時効とされていた)が、2015年12月、最高裁桜井龍子裁判長)は「容疑者や被告になる可能性のある人物の、すでに生じていた法律上の地位を著しく不安定にする改正ではない」として上告棄却。1審津地裁,2審名古屋高裁の判決を支持し、被告の無期懲役が確定した。

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検挙されたが罪に問われなかったケースもある。1999年に福岡県田川市で発生した建設作業員男性水死事件では、2014年に情報提供があり、白骨遺体が発見されたことから捜査が進展。翌15年、建設会社役員、従業員ら3名が殺人罪の容疑で逮捕され、当時「しつけ」と称して被害男性に体罰・暴力行為が日常的に行われていた事実が判明。当初は3人が彦山川に突き落として溺死させ、遺体を川崎町の池沼に運んだものと報道された。

だが17年、福岡地裁で行われた裁判(足立勉裁判長)では、加害者が突き落としたのではなく高さ1~2メートルのコンクリート護岸から「入水を迫った」ことが明らかにされ、3人の「明確な殺意の有無」が最大の争点となった。入水の強要に被害者は抵抗できなかったこととそれに起因する溺死は明らかだが、当時の懲罰行為の一環として行われていたこと、被害者が泳ぐことができないことを認識していなかった可能性もあること、被害者の転落後に捜索を試みたことなどから被告人らの殺意は認定されず、「傷害致死罪」が適用された。2004年以前の事件については改正前の刑訴法が適用され、当時の公訴時効が10年のため、本件の公訴提起が行われた2015年10月30日時点ですでに時効が成立していたとして「免訴」が言い渡されている。

 

所感

上述の2010年4月27日の改正刑事訴訟法可決は、本件が“時効成立”を迎えようとするわずか半日前だった。筆者の希望的な憶測では、同改正法が即日施行された背景には、本件の時効撤廃を求める警察や地元関係者からの後押しがあったのではないかと考えている。捜査幹部の「容疑者を逮捕してもこれだけ時間がたつと証拠を固めるのが難しい」(共同通信社)との声も報じられたが、裏を返せば、検挙に結びつく確証を抑えられていないがすでに目星はついているという意味にも捉えられる。

上で見立てたように、暴力組織や地元有力者といった首謀者が健在であれば事件は容易に進展しないかもしれないが、長い年月の経過によって逆にいつどんなかたちでのリークがあるかも分からない。凶悪な未解決事件がひとつでも減ることを、首謀者の息があるうちにその時が来ることを祈っている。

 

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山陽新聞(2020年4月26日)時効廃止10年、解決糸口見えず

https://www.sanyonews.jp/article/1007275

警察庁/公訴時効制度の見直しについて

https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/whitepaper/w-2011/html/zenbun/part2/s2_3_1c5.html

・国会国立図書館『調査と情報』No.679/越田崇夫、公訴時効の見直し(2010年4月22日)

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3050383_po_0679.pdf?contentNo=1