いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

三毛別羆事件について

漫画『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎は強敵・猗窩座(あかざ)との死闘の最中、病死する十日前に父・炭十郎が巨大熊と闘った夜のことを回想する。

 

山向こうで6人を襲った“人食い熊”が家に接近していることを察知した炭十郎は、夜の雪山に幼い炭治郎を連れて出る。

そこには体長9尺(2.7メートル)にも及ぶ岩山のようにそびえ立つ黒い巨体が待ち構えるも、炭十郎は怯むことなく「俺の家族に危害を加える者は何人であろうと容赦はしない」と警告。

人食い熊が前進すると見るや、炭十郎は頭上近くまで飛び上がり、目にもとまらぬ速さで片手斧を二回振り、大木のような熊の首を容赦なく両断した。

炭治郎いわく、炭十郎は「父は植物のような人だった。感情の起伏が殆ど無い人でいつも穏やかだった」と形容される人物である。勇敢な父親が人食い熊を退治するシーンだというのに猛々しさは微塵も表に現れず、息ひとつ乱すことなく、望まぬ殺生を犯したことにその表情はどこか寂しげですらある。

 

炭治郎は、それが父の最期の見取り稽古だったと、体得した奥義を「継承」するために幼い自分を立ち合わせていたのだと気づく・・・(吾峠呼世晴鬼滅の刃』第151話)

 

このエピソードは、奥義を極めた炭十郎は病身痩躯でありながらも獰猛な“人食い熊”を一瞬で倒すほどの達人であったことを示すものだ。図像では胸にツキノワグマのような白毛の柄が描かれており、大正初期に日本獣害史上最悪の惨事“三毛別羆事件”を起こした「袈裟懸け」模様を特徴とした羆がモデルにされたと見られる。

 

筆者はほぼ『鬼滅』を読んだことがないので、本エントリーでは、三毛別羆事件について記してみたい。

 

■苫前事件(通称・三毛別羆事件

1915年(大正4年)12月9日から14日にかけて、北海道留萌苫前村(現・苫前町古丹別)三毛別(現在の三渓六線沢集落で、羆が民家十戸を襲撃し、開拓民7名が死亡、3名の重傷者を出した。

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■穴持たず

前兆はあった。11月初め、六線沢の池田富蔵宅。

夜明け前、異様な物音がしたかと思うと小屋の飼い馬がいななき暴れ出した。保存食として軒下にトウキビ(トウモロコシ)を干していたものを獣が漁りに来たのだ。見てみると、雪に羆の足跡が残されていた。

このとき富蔵は見たこともない大きさの足跡に驚きはしたものの、羆はこのあたりでは頻繁に目撃されるため、それほど深刻には捉えていなかった。羆は警戒心が強いため、人が近づくのを察知すれば山へ逃げていく“臆病な”獣だと考えられていた。

 

20日すぎの未明、またしても馬が暴れ出した。富蔵は慌てて外にとび出すが、熊の姿はなくトウキビが落ちているだけだった。馬がやられなかったのは幸いだが、また来るのではと不安に思い、富蔵は六線沢三毛別マタギ2人に羆退治を依頼した。

30日20時、暗闇の奥から巨大な影が現れたかと思うとやおら立ち上がり、軒下のトウキビに手を掛ける。気負いしたマタギの1人が引き金を引くと、弾は掠めただけで羆は山中に逃げ戻った。

翌朝、足跡を頼りに鬼鹿山の頂上付近までその「獲物」を追い詰めるも、地吹雪で退散を余儀なくされ、足跡も消されてしまう。以来、羆は池田宅に姿を見せることはなかった。

 

こうした冬ごもりに適した穴場を見つけられず冬眠を逃した羆は、この地方では「穴持たず」と呼ばれ、山中でのエサが乏しくなったことから民家に近づいたのではないかと推測されている。

 

■人食い

12月9日、集落の13人の男衆は木材伐採の当番日で朝から出払っていた。

太田三郎宅には内縁の妻・阿部マユ(42)、養子に迎える予定で預かっていた蓮見幹雄(6)が飯の支度をしていた。すると突如、山に面した窓を巨大な黒い塊が突き破り、慄く二人を容赦なく襲った。

「少年の顔下に、流れ出た血が固まって盛り上がり、しかも喉の一部が鋭くえぐり取られ、頭の横には親指ほどの穴があけられ、すでに息絶えていた」(『慟哭の谷』)

 

太田宅に寄宿していた長松要吉(59)は集落の留守役として、近くの裏山の作業場に居た。昼食をとるため家に戻ると、床には小豆や薪が散乱し、馬鈴薯と柄の折れた血染めの斧が転がっていた。部屋にマユの姿はなく、無惨に変わり果てた幹雄の遺体だけが残されていた。馬鈴薯はまだ温かく、被害は10時半前後かと思われた。

要吉は出先の男衆を呼び戻し、マユの行方を捜したが見つからない。破壊された太田家の窓枠だった辺りにはマユのものと思われる数十本の髪の毛が絡みついたままだった。

窓の外には巨大な羆の足跡と、林の奥へと引きずられた血痕が続いていた。

 

古からこの地に生きるアイヌ民族にとって羆は、アイヌモシリ(アイヌの住まう地、人間の静かなる大地。神の地カムイモシリ等と対比される概念)にもたらされた大いなる恵み・山の神「キムンカムイ」として崇められる。子熊を連れていた場合は、村で人間以上に大切にもてなして育て、母熊の待つカムイモシリに送り返すイヨマンテの儀式が捧げられる。

だが人を害したり、人肉食を覚えてしまった羆を悪の神「ウエンカムイ」と呼び、殺めても肉を獲らず、切り刻んで放置する習わしがある。

人を殺した羆が全て悪神という訳でもなく、ユーカラアイヌ民族叙事詩)の中には、徳の高い神が人間の娘を気に入ってカムイモシリに連れ立った、として娘の遺族には猟運がもたらされるという伝承もある。いずれにせよアイヌにとって羆は他の動物とは違う特別な存在として崇め畏れられてきた。

 

■追うものと追われるもの

翌10日、朝から30名程の捜索隊が組まれ、羆が残した足跡を追って山へ入った。一行は150メートルほど進んだ場所に巨大な羆を発見。発砲するも羆は捜索隊めがけて突進し、そのまま逃走。その後、羆の居た跡を確認するとトドマツの根元にわずかに頭髪と片足がのぞいた。掘り返すと、食い尽くされた膝下と頭蓋骨の一部が残骸となって見つかった。

その晩、太田宅では二人の葬儀が行われた。すると20時半ごろ、壁を突き破って再び羆が太田の家を襲った。棺桶を引っくり返し、遺体を荒らした。三郎ら9人は混乱して散り散りに逃げ、騒ぎを聞きつけた村人が駆け付けると、羆は姿を消した。

この行動は自分の獲物に対する強い執着心によるもので、山に貯蔵していた“獲物”を奪われたことに腹を立てて取り返しに来たと考えられている。1970年に起きた福岡大ワンダーフォーゲル部事件(羆に漁られたザックを取り返したために再び襲撃を受け5人の内3人が犠牲となった)も同じ習性から発生したとされる。

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しかしその僅か20分後、太田宅から500メートル程下流にある明景家で悲鳴が上がった。その晩、明景宅にはヤヨ(34)と5人の子(力蔵10,勇次郎8,ヒサノ6,金蔵3,梅吉1)、夫が町へ通報に出掛け家を空けていた斉藤タケ(34)と2人の子(巖6,春義3)、男手として呼ばれた長松要吉を加えた10人(妊婦だったタケのお腹の子を入れると11人)が避難していた。

獣は火を怖れると考え、囲炉裏に火を焚いていたが、熊除けの役には立たなかった。鍋が引っくり返されて火種は消え、暗闇の中で惨劇は続いた。

幼い春義が目の前で叩き殺され、身を潜めていた母親のタケが思わず飛び出すと、羆はすぐに反応した。

「腹破らんでくれ」

「喉喰って殺して」

タケは頭から齧られて絶命し、上半身は食い破られ、胎児は腹から引きずり出された。だが羆は胎児に危害を加えず、タケを貪ることに夢中だった。胎児は当時まだ動いていたというが、ほどなく息を引き取った。

「其の食ふ音は猫が鼠を食う様な変な音が耳に残って居る」(力蔵の手記)

駆け付けた男衆が2発の空砲を撃つと、腹を満たした黒い塊は山へと帰って行った。

この晩、5人の犠牲者(タケ、金蔵、巌、春義、胎児)と3人の重傷者(要吉、ヤヨ、梅吉)を出した。六線沢集落の生き残った住民は三毛別分教場へ避難した。だがこのままでは川を渡った三毛別集落にも被害が拡大する恐れがあった。

 
■決着

12日、道警は周辺地域から人を集め、270名からなる討伐隊を結成。

一度手に入れた獲物に強く執着する」習性から、羆は再び太田宅を襲ったと考えられたため、明景宅に残された遺体を「囮(おとり)」に羆をおびき寄せる策が講じられた。こうなっては遺族も反対などしていられなかった。しかし、羆は付近まで来るも警戒したのか、太田宅へ再度接近するも射殺することはできなかった。

 

13日、旭川から歩兵第28連隊30名が到着。住民が離れた六線沢集落の8軒が羆による侵入被害に遭っていた。保存食のニシン漬け、鶏や雑穀が食い荒らされた。とにかく羆を六線沢から三毛別集落に入らせてはならない。集落の間にある三毛別川には、冬場、雪と枝葉、木材を凍らせて作る氷橋(すがばし)が掛けられる。羆も川を渡るには橋かこの付近を渡ると踏んで、夜間警備を敷いた。20時ごろ、警備の一人が怪しい影に気付き、発砲。影は見えなくなった。

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14日、昨晩の「怪しい影」付近に羆の足跡と血痕を発見する。

討伐隊を率いる羽幌分署・菅分署長は手負いであれば発見も容易と判断し、追撃を指示した。しかしクマは警察犬の21倍、人間のおよそ2000倍もの優れた嗅覚を持つとされ、風向きによって数十キロ離れた場所の腐肉や果実の臭いなども嗅ぎ分ける。集団で風向きを無視して接近を試みるのは無謀だった。

だが鬼鹿山を狩場とし、生涯で羆300頭を仕留めた熟練の老マタギ・山本平吉は、指示に従わず単身で風向きを読みながら入山すると、頂上付近のミズナラの大木で体を休めていた羆を発見する。

体長9尺(2.7メートル)、体重380キロ、金毛を交えた黒褐色の雄羆で齢7,8歳。胸に白い袈裟懸け模様があった。

ハルニレの木に身を寄せつつ、俄かに接近して発砲し、羆の胸部に命中。立ち上がって威嚇する羆に対し、すかさず放たれた二発目は頭部を貫通した。(尚、平吉は、漫画『ゴールデンカムイ』二瓶鉄造のモデルともいわれる)

事件発生後は晴天が続いていたものの、このとき俄かに天候が悪化し猛吹雪となったことから、土地ではそうした天候急変を「熊風」「熊嵐」と呼ぶようになった。

 

■植民と開拓

  北海道の植民と開拓史について触れておく。

和人の移住は14世紀、津軽安藤氏にまで遡るが、主に海産物の交易拠点「道南十二館」を設置していたに過ぎない。1457年、コシャマインの戦いで活躍した武田信広下北半島の豪族・蠣崎氏の婿養子となり道南の実権を握る。蠣崎氏はアイヌ語の地名「マトマエ(婦人の居る場所)」にちなみ松前に改姓。江戸幕藩体制に「松前藩」として組み込まれたが領地としては道南西部(函館から熊石まで)に限られた。

 

アイヌ諸族は松前藩の交易独占や強硬的施策に抵抗し、1669年、「シャクシャインの戦い」を決起するが敗れ、「七箇条の起請文」により絶対服従が課されることとなった。江戸後期には内地で作物肥料として「ニシン粕」が重宝され沿岸各地でニシン漁が盛んとなるも、内地との交易を目的とした実効支配であり、幕府からすれば属領の認識であった。1800(寛政2)年、幕府の家臣団で国境や日光東照宮の警備等を任された八王子千人同心が対露防衛強化のため、白糠、勇払(苫小牧)に上陸。蝦夷地開拓を目指したが、気候の厳しさや収穫の乏しさ、病死者が続出するなどして失敗に終わった。

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ニシン漁

明治期には蝦夷から北海道に改称し、対露意識の高まりから開拓使が設置(1882年まで)されるなど統治計画が進められる。札幌農学校(現北海道大学)や開拓使麦酒醸造所(現サッポロビール)を設立して産業振興を図る一方、東北や北陸地方から集められた元士族らを中心に屯田兵が組織され、防衛と開拓・開墾の基礎を担った。それまでアイヌの漁猟圏であった山林を奪取し、入植者へ払い下げられた。年間の転入者数は1万人前後で推移していたが、定住しない回帰型の出稼ぎ者も多かったとされる。

1886年(明治19年)、北海道庁が設置されるとそれまでの入植政策を見直し、道路や港湾建設といったインフラ整備、資本家・企業への優遇政策により拓殖周旋や炭鉱開発が促進され、団体移入民が飛躍的に増加する。1887年には37万人だった道内の人口は、1917年には209万人にまで急増、その半数は農業移民であった。

1885年に開始された官約移民(ハワイ・北米・豪州・南米など)では単身男性による入植が多かったが、北海道移住では「世帯移民」に限定して募るなどして定着が図られた。尚、道路開削工事などのために樺戸集治監をはじめ、空知、釧路、網走ほか各地に監獄が設置され、内地から集められた囚人たちが労役に送り込まれた。

 

苫前町年代記録によれば、17世紀初めに同地はトママイ交易地として漁場支配が開始されている。内陸部の古丹別原野の開拓開始が1891~93年(明治24~26年)とされ、団体入植が96年以降。事件の起きた六線沢集落は、古丹別から三毛別川を遡ること内陸へ更に15キロ以上先であり、事件発生時15戸であったことからも、開拓民としてはかなり遅い部類と言える。もちろん彼らはマタギではなく猟銃も持たなかった。

開拓者たちが新天地を求めて内陸へ内陸へと森を拓くことで、羆の生息域を侵食していったことが事件の背景ではあるが、農業入植民たちが羆の生態や習性に詳しくなかったことも被害の拡大を招いた要因である。更に入植から数年、歯を食いしばって開拓してきた彼らの土地への執着が退避を遅らせてしまったのも事実であろう。

 

■その後

事件発生から46年後、旭川・古丹別営林署の農林技官として勤務していた木村盛武氏により、 1961 年から足掛け4年に及ぶ事件の調査・聞き取りの記録が行われた。

当事者の多くはすでに世を去り、存命の者にとって辛い記憶であることから聞き通りは困難を極めたものの30数名の証言を得た。事件から半世紀後の1965年『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』を旭川営林局誌『寒帯林』に発表(1980年、のぼりべつクマ牧場で復刻)。94年には共同文化社から『慟哭の谷 The Devil's Valley』として出版され、2015年、文藝春秋社で再版された。

羆嵐(新潮文庫)

羆嵐(新潮文庫)

 

 動物文学の第一人者・戸川幸夫が小説『羆風』、ジュニア図書『魔王』などに著し、作家・吉村昭が小説『羆嵐』(1977)などに記したことで広く知られることとなった。

 

三渓区長の子で事件当時7歳だった大川春義氏は、名人・山本平吉に熊撃ちのコツを教わったと言い、その後、犠牲者の無念を晴らすため羆100頭撃ちの願掛けを40数年がかりで達成。1977年、三渓神社に熊害慰霊碑を建立した。吉村昭は氏の半生をモデルに短編小説『銃を置く』を著している。

1980年、春義氏の子息・大川高義氏と三渓の熊打ち名人・辻優一氏は、体長243センチ、体重約500キロという国内最大級の羆・北海太郎(推定年齢18歳)を羽幌町築別シラカバ沢で射止めた。北海太郎による被害は確認されていないが、2人にとっては足掛け8年にも渡る念願だった。現在は苫前町郷土資料館に剥製展示されている。

1990年、廃集落となっていた六線沢跡に三毛別羆事件復元地が設置された。古丹別市街から三渓神社、射止橋(氷橋のあった地点)から復元地に向かう道道1049号には「ベアーロード」という名称が付けられている(なんとも皮肉なネーミングである)。今日、苫前町では事件の悲劇を「開拓期の記憶」の一部として伝承され、ダークツーリズム(負の歴史遺産)として年間数千人が復元地を訪れている。

 

■狂気

そもそもヒグマは警戒心が強いため、人との接触を嫌う。視力は人に劣るが、優れた嗅覚と聴力を持つ(だから熊鈴)。食性は雑食で、本州に生息するツキノワグマに比べて肉食傾向がやや強いとされている。だが多くの個体はドングリや果実、昆虫が中心であり、鷹や狼のように「狩り」を得意とする生態ではなく、死骸や残骸を見つけて食べるものが主とされる。

 

空腹に耐えきれず池田宅に干してあったトウキビに手を付けてしまうのは理解できる。マタギの反撃を受けて、別の民家(太田宅)を狙うことも分かる。冬の保存食としてトウキビはどこの家でも屋外に干してあったのだ。

また明景宅で妊婦タケを貪ったのは、羆の食性が偏食なためと考えられる。『慟哭の谷』によれば、羆は無人となった六線沢集落で、女性が使っていた石湯たんぽの包みをズタズタに引き裂き、まるで漬物でもかじるようにばりばり噛み砕いていたとされる。はじめに食べたマユの味が忘れられず、「女性の匂い」に執着していたのではないかと言われている。

 

筆者が一番引っ掛かっていたのは、太田宅でマユと幹雄を屠りながら、なぜマユの方を好んで食したのかである。遺体の位置や血痕から、「先に幹雄が襲撃を受けた」と見られているが、なぜ幹雄をその場に捨て置き、マユの方を持ち去ったのか

これについてNHK『ダークサイドミステリー』「三毛別ヒグマ襲撃事件の謎に迫る」で、専門家が見解を示している。

先に目の前で幹雄が(恐らくは一瞬で)叩き殺されたことで、マユが「悲鳴を挙げた」からではないかというのである。女性の叫び声が鹿等の草食動物に近かったことで羆が本能的に「被食対象となる獲物」と判断した可能性を指摘している。

また羆は時速50キロで突進し、逃げるものに対して襲い掛かる習性がある。幼い幹雄はおそらくほとんど無抵抗に襲撃されたと思われるが、襲撃に慌てたマユが室内で逃げ惑い、背中を見せてしまった可能性も大いにあるだろう。

 また薪や斧で抵抗しようと暴れたために、反撃に遭い、即座に食いちぎられたかもしれない。興奮状態になった羆は息の根が止まるまで獲物を引きずり回し、“保存食”にするため持ち帰ったと考えられる。

 

番組では、アイヌは羆のテリトリーを侵さない習わしを築いていたが明治以降の政府はその教えから学ばず無暗に開拓を勧めたことを指摘。はじめから「人を襲う羆」が存在する訳ではなく、人の誤った行いが凶行をエスカレートさせてしまったことを伝えた。

ウエンカムイとなった羆は必ず仕留めなければ、次々と新たな“獲物”に手を掛ける。人に害を及ぼすなら射殺すればいい、捕獲すればいい、マタギを増やせばいい、ではなく、キムンカムイを悪に染めてしまうのは人のせいだという慎みをもって、その習性を学び、ウエンカムイを生み出さないよう努めて行動していく必要がある。

被害に遭われたみなさまのご冥福をお祈りいたします。

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苫前町年代記

http://www.town.tomamae.lg.jp/mobile/section/kikakushinko/lg6iib00000008yb-att/lg6iib0000000ui2.pdf

八王子千人同心の歴史

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p005303.html