いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

茨城県美浦村女子大生殺害事件について

 2004年、茨城県美浦村で起きた女性殺害死体遺棄事件、いわゆる茨城女子大生殺害事件について、風化阻止の目的で概要等について記す。

尚、本件は加害者3名のうち2名が検挙されている。主犯格とされる男性はすでに無期懲役で服役中。もう一人の元少年(当時18歳)についても2021年1月から水戸地裁(結城剛行裁判長)において公判が行われ、2月3日、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。

残る一名についても現在、国際手配中である。

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■概要 

「マネキンだと思いました。長い髪が水面に広がっていて…でも堤防(土手)に血の跡が見えたから死体だと気づいたんです」

2004年1月31日9時頃、美浦村舟子の清明川河口付近で散歩をしていた近隣に住む五十代男性が、水面にうつぶせの体勢で浮かぶ女性の遺体を発見し通報する。

同日午後、同じ大学に通う交際相手・男性(21)の届け出により、女性は30日深夜に外出したまま所在が分からなくなっていた阿見町在住の茨城大学農学部2年生・原田実里(みさと)さん(21)と判明。遺体状況から他殺と断定し、「顔見知りによる怨恨」と「行きずりによる犯行」の両面から捜査が進められた。

 

発見時は全裸姿で、血痕の付いた黒色のジャージズボンは付近に浮かんでいたが、当時着用していた黒色のセーターは発見されなかった。

死亡推定時刻は31日0時から2時ごろとされ、死因は首を絞められたこと(絞殺または扼殺)による窒息死。腕や太ももに圧迫による内出血、首や左肩には殺害後に刃物で切りつけた複数の傷、左胸に心臓にまで達する深い刺創があり、複数の凶器が使われたものとみられた。

大学付近にある実里さんの自宅アパートから発見現場までは約7キロ、車で10数分の距離。現場の護岸コンクリート斜面に点々と血痕が残されていたが、付近に争ったような痕跡はなく、遺体の足裏は汚れていなかったことなどから、別の場所で殺害され現場周辺で遺棄されたものと見られた。 

2月4日、所在の分からなくなっていた実里さんの自転車(サイモト自転車シティサイクル)が、自宅から約4キロ、遺体発見現場からはおよそ9キロ離れた土浦市古岩田西1丁目の空き地で、スタンドが立てられ鍵が点いたままの状態で発見された。後の調べで自転車の鍵と一緒に付けていた実里さんのアパートの鍵が所在不明とされた。

 

被害者アパート周辺は市街地で、周囲には0時まで営業するスーパーやコンビニ、夜間営業の飲食店なども多い地域で、茨城大学農学部のほか陸上自衛隊駐屯地や2つの大学病院や医大関連施設などがあり、人口は多い。

遺体の発見された清明川河口から霞ヶ浦湖岸にかけては広い田園地帯で、最も近い民家でも300メートルほど離れている。日中であれば河口付近は多くの釣り客でにぎわうスポットだが、夜間には全くひと気が途絶える。

自転車発見現場周辺は住宅街で、被害者が訪れて自ら乗り捨てたとは考えにくい場所であった。

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■長期化する捜査

30日21時頃、実里さんが自宅アパートに帰宅し、自宅で待っていた交際相手と飲酒・食事をする。

深夜0時頃、男性がうたた寝をしていると「部屋を出る物音を聞いた」が、「風呂かトイレ」に行ったものと思った。

31日8時頃、起床した男性が外出を伝えるメモ書きを発見。しかし実里さんが不在なことから、友人らに電話で消息を確認する。

15時頃、自宅に戻った男性が近隣での若い女性の遺体発見の報道を知って警察に届け出。

 実里さんは視力が0.1程度で日ごろコンタクトレンズか眼鏡を着用していたが、どちらも家に残されており、財布、携帯電話も部屋に置かれたまま。夜間に裸眼のまま自転車で外出することは困難と思われた。また男性との飲食時に着ていた部屋着(寝間着)から着替えて外出したとされ、携帯電話には帰宅した21時以降の発着信・メールの送受信はなく(交際男性による18時の通話記録が最後)、自家用車は置かれたままで、外出の理由は不明とされた。

また部屋から交際男性の水色のダウンジャケット、白いスニーカーが紛失しており、おそらく実里さんが着用して外出したものとみられたが発見に至らなかった。

事件発生から一週間後、メモの存在が公表された。報道によってブレがあるものの、外出することと帰りが遅くなる旨が記されていたとされた。当初、「友人に会いにでかける。遅くなる」との報道もあったことから、「他にも交際相手がいたのではないか」といった憶測も囁かれた。(後の裁判により「散歩にでかける。朝までには戻る」といった内容が書かれていたとされた。「散歩」は交際男性との間でケンカした際などに「頭をクールダウンするために家を出る」「一時的に距離を置くための外出」という意味合いで使うことがあった。)

 

 

31日3時頃、新聞配達員から遺体発見現場付近にあまり大きくない白っぽいワゴン車の目撃証言。

5時半頃、自転車発見現場付近に見慣れない白いステーションワゴンかワンボックスカーが停車していた目撃証言。作業員の履くようなズボンを履いた男性2人が荷台から自転車を下ろしていた。

また土浦市内で発見された実里さんの自転車は、空き地(資材置き場)入口に倒れていたものを作業員(上の目撃証言とは無関係)が脇にスタンドを立てた状態に直していたことが判明。1月31日8時頃にはその場に置かれていたという。

 

事件当初、アリバイもなかったことから交際男性による狂言ではないかとも疑いの目を向けられ、周囲には離れていった人もいたとされる。

実里さんは学業のほかに飲食店でのアルバイト、トライアスロンクラブのマネージャーをしており30日日中も渋谷で学連の全国大会の打ち合わせに出席するなど学外の交友関係が広かったこと、一年時のキャンパスは水戸であることなどもあって調査対象が拡大。捜査が絞り込めなかったことなどから事件は長期化した。

 

 ■逮捕まで

 2007年、実里さんの両親が情報提供者に最大で200万円の私設懸賞金設置を公表。

2008年から2014年にかけて公的懸賞金制度が適用されることとなる。

2010年の公訴時効撤廃を受けて11年より未解決事件専従の捜査班を設置。

2011年1月、遺体に付着したDNAを解析の結果、複数の男性のものと判明。

2013年、自転車発見現場付近の県道に停めたワゴン車から「作業ズボン姿の男性2人」が発見されたものとよく似た自転車を下ろしていたとの目撃証言。

2015年頃、事件の関与をほのめかす人物についての情報が寄せられ、実里さんとの接点は「不明」とされたが、捜査線上に事件当時十代から二十代で土浦市在住だった「フィリピン国籍の男性」が浮上した。

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2017年9月2日、茨城県稲敷署捜査本部は、任意によりDNA採取をし鑑定したところ遺体に付着していたものとほぼ一致したことから、岐阜県瑞穂市に住む工員・ランパノ・ジェリコ・モリ容疑者(逮捕時35歳)を強姦致死と殺人罪の疑いで逮捕した(同日、妹ら男女3名についても不正に在留資格を取得したなどとして逮捕)。

ランパノ容疑者らは、2007年に共犯者の母親に犯行を打ち明けたところ、フィリピンへの帰国を薦められたため同年3月ごろ出国。事件に関与した3人のうち、ランパノ容疑者だけが日本に戻り、2010年頃から瑞穂市で家族と暮らすようになった。残る2人はフィリピンにとどまっており、同国と日本との間に刑事共助協定がないため国際手配には更なる時間を要した。

投入された捜査員は延べ約3万4千人、約360件の情報提供を精査した末でのようやくの逮捕であったが、事件発生から13年以上もの月日が流れていた。

 

2018年末、共謀した元少年(事件当時18歳)が出頭の意思を示したとの情報が入り、捜査員を派遣。翌19年1月24日、成田空港から入国後に逮捕された。出頭には親族の薦めがあったとされ、逮捕直前のJNNによる取材に「本当にごめんなさい。こんな事件になると思わなかった。私は共犯者の車で連れて行かれただけ」と答えていた。

 

*****

 いささか余談にはなるが、同時期に発生した長期未解決事件、若い女性を狙った犯行などから、以下2つの事件との関連性も噂された。

ひとつは2004年6月20日、茨城岩井市長須(合併により現在は坂東市)の利根川沿いにある排水路脇の草むらで携帯ストラップによる窒息状態で倒れているところを発見され搬送先の病院で死亡した高校1年生・平田恵理奈さん(16)の事件(通称・岩井市女子高生殺害事件)。

もうひとつが2003年7月6日、埼玉県草加市にある瀬崎浅間神社の夏祭りで行方不明となり、その3日後に茨城県五霞町の用水路で遺体となって発見された足立区在住の高校1年生・佐藤麻衣さん(15)の事件(通称・五霞町女子高生殺害事件)である。

尚、『週刊実話』2018年1月24日増刊号掲載のノンフィクションライター・八木澤高明氏によれば、かつて上記2件の関連性について当時の境署副署長について尋ねたところ、「2つの事件に関連性はないと思います」ときっぱりと否定されたという。

筆者としても、遺棄現場として「人目につかないこと」を考慮した結果として川や田園に囲まれた場所が選択され、また茨城県西部は群馬県・埼玉県・栃木県・千葉県とも比較的近いため捜査を遅らせる意図で「越境」を狙ったなどの条件が重なったものと考えている。自動車を所持していて隠蔽や逃走を企てる累犯者であればあえて同じ轍は踏まないと見るのが妥当ではないか。

ほかにも2004年10月にあった埼玉県の同じ運送会社に勤める19歳から22歳の男性4人グループによる殺害未遂事件も類似点が多い。男性たちは春日部市内の私鉄駅前コンビニでナンパした女子高生2人を車に乗せ、埼玉・千葉・茨城を連れ回した末に、わいせつ行為や現金を強奪。女性が勤務先の作業服に付いていた社名を見て「覚えたからな」と発言したことで男性らは殺意を抱き、水面までおよそ18メートルの高さがある下総利根大橋の中央部から突き落とした。少女2人は重傷を負ったが幸い千葉県側の岸に流れ着き一命をとりとめ、同年11月にこの男性グループは逮捕された。彼らの犯行に使用された車両はシボレーアストロという白いワンボックスカーだった。

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■裁判

2018年7月17日、裁判員裁判による初公判が水戸地裁で開かれ、ランパノ被告は実里さんの殺害について「間違いありません」と起訴内容を認めた。

証人喚問で、被告の妻が「夫は真面目で、3人の子供をとてもかわいがっていた」と語ると被告はうつむいて涙ぐむ様子を見せた。

 「事件当時は若く、先のことを考えることができなかった」「娘が生まれて事件のことを思い出し後悔するようになった」と心境の変化を語り、「被害者や遺族に申し訳ない。子供を持って遺族の苦しみが分かるようになった」と反省の弁を述べた。

また弁護側は、被告の謝罪の意思として、被害者遺族への謝罪金として100万円の準備があることを伝えた。

 

ランパノ被告は事件当時21歳で美浦村内の電器部品加工会社に勤務。同僚だった元少年2人と酒を飲んでいた際、暴行を提案されたことが犯行のきっかけだとした。車で徘徊しながら自転車に乗った実里さんに目星を付けると、背後から車で近付き、進路を妨害。一人が回り込んで押し込み、もう一人が中から引っ張り込んだ。31日0時頃から6時30分頃(日の出前)の間、車内に連れ込んで強姦に及んだ後、絞殺。口封じ(告発回避)の目的で、暴行前から殺害までを計画していたことを明かした。被告らは過去に実里さんとの面識はなかった。

かつて交際していた男性は「遺族の意思を尊重した罰を与えてほしい」と述べ、 実里さんの父親は、検察官を通じて「幼いころから明るく優しい子だった。話したくてもあの頃には戻れない。悲しく、むなしく、残念」と語った。

被告は、共犯2人に車内にあったカッターナイフ等を渡したこと、川への遺棄を提案したこと、また犯行後、口止めを行っていたことを認めた。絞殺後に刃物を用いたことについて、川に遺棄する前に「とどめをさすつもりだった」とし、首の切りつけについては「一度だけ」、胸は「刺していない」と一部関与を否定した。詳細に関する質問では「分からない」「覚えていない」を繰り返し、裁判長から「よく思い出して答えてください」と注意される場面もあった。

フィリピンへ帰国後も日本に戻った理由について、「家族のために日本の方がお金が稼げるから」と説明。出頭しなかった理由として「家族に見捨てられるのが怖かったから」と述べた。

 

検察側は論告で「強固な殺意に基づく、執拗で残虐な犯行」と指摘し、「動機に酌量の余地はない」として無期懲役を求刑。弁護側は「若年の共犯者との共謀、飲酒の影響で思慮分別が乏しかったことで犯行がエスカレートするに至った」「現在は後悔し、反省している」として有期刑が相当すると主張。

7月25日、判決公判で水戸地裁・小笠原義泰裁判長は求刑通り無期懲役を下した。「被害者の人格・尊厳を踏みにじる卑劣な犯行。被害者の屈辱や恐怖、苦しみは筆舌に尽くしがたい」と述べ、殺害への主体性や共犯者の「兄貴分」的立場だったことなどから「有期刑を選択すべきような事情はない」と結論付けた。

 

2018年12月12日、控訴審初公判が東京地裁で開かれた。弁護側は、一審の無期刑が重すぎると主張。検察側は控訴棄却を請求し、即日結審した。

被告人質問では「被害者に申し訳ない。罪を償い、社会に出られたらきちんと生活したい」と更生の機会を訴えた。

2019年1月16日、東京地裁における控訴審判決で、栃木力裁判長は、被害者の人格を踏みにじる卑劣な犯行で、殺害態様も残虐と指摘したうえで、「被告が反省していることを踏まえても、無期懲役が相当」として第一審判決を支持し控訴を棄却。被告の無期懲役が確定した。

 

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2021年1月18日、共犯とされ自ら出頭した元少年(35)の裁判員裁判による初公判が、水戸地裁で開かれた。

 罪状認否に対し、元少年は「間違いありません」と起訴内容を認めた。証人尋問にはランパノ受刑者も出廷し、以前より元少年らと「日本人女性を味見したい」といった発言が交わされ、事件当日も元少年から「女を探しに行こうか」と襲撃を提案していたことを明かした。

検察側は「自らの性的欲求を満たし、死因に直結する首を絞める行為を担った」「被害者の尊厳を踏みにじり、命を奪った犯行様態は非常に悪質」と指摘。また元少年がフィリピンに逃亡する前に母親に宛てたメモに「首謀者は共犯の2人だ」とする内容があったことを明らかにした。「自己保身のために納得して殺害を行った、まさに鬼の所業」と糾弾し、被告の無期懲役を求刑した。

弁護側は、加害者3名のうち元少年が最年少で従属的な立場にあり、「殺害に積極的ではなく、殺害には少なくとも2度反対した」「共犯者に凶器を渡されて促されたことが殺害の決め手だった」「罪を償うためにフィリピンから再入国し、出頭するなど反省している」と訴え寛大な裁きを求めた。

 

2021年2月3日、水戸地裁・結城剛行裁判長は「抵抗も闘争もできない被害者を蹂躙した上で、執拗に攻撃を加えた」「無差別で暴力的な犯行により被害者の生命や性的な自由を軽視した」と犯行の悪質性を指摘した上で、当初は殺害に反対したものの最終的に「殺害の重要な行為を自ら行っており、“従属的な立場”にはなかった」とし、再入国・出頭を踏まえても無期懲役が相当すると判決を下した。

 

 

■所感

みぞれ交じりの夜更けに彼女はなぜ1人で出歩いたのか、男性との間にトラブルがあったのか、はたまた男性を驚かせるために意味深なメモを残しただけだったのかは分からない。

だが真相に近づいた現在にしてみれば、3人の乱雑とも思える犯行が発覚するまでになぜここまで時間を要したかといえば、やはり初動捜査での見当違いが発端と言わざるを得ない。逮捕の発端はランパノ容疑者が口外していたことによるもので、決して「地道な捜査が実を結んだ」わけでもない。国外逃亡を許しながらも犯人の一人が舞い戻ってくるという非常にレアなケースだった。

現在コロナ禍においても、帰国困難や強制解雇・研修打ち切りによる窮乏、あるいは「感染対策」として収監している不法在留者に対する事実上の締め出し(不法滞在者、積極的に仮放免 入管収容施設の「3密」防止:時事ドットコム)などを背景として、多くの外国人犯罪が取り沙汰されている。国民への支援も当然大切なことだが、不法在留者や農業研修生、留学生らの救済は人権だけでなく国際関係や治安維持の観点からも必要とされる。起きてしまった事件に対しては国外逃亡となる前の早期対応が迫られている。

また本件で活用されたDNA型鑑定にしても、初期段階で複数犯との見方が整っていればもっと早期に解決できたのではないか。日本では1989年に本格導入されたものの、データベース化は事件発生と同じ2004年からで標本数は少なく、活用方法は欧米ほど積極的ではないとされている。主に遺体の身元照合(井の頭公園バラバラ事件など)や血痕の特定(月ヶ瀬村女子中学生事件など)で用いられ、刑事事件の犯人捜査や裁判の証拠として用いるには慎重論も多い。科学捜査はその結果を否定することが難しく、冤罪を生む可能性もゼロではないため、有効性を過信することは危ういが、そうした知見が一般に広まれば一定の犯罪抑止には繋がっていくだろう。

被害者の恐怖は筆舌に尽くしがたく、加害者らがいかなる刑に裁かれようとその悔しさは晴らされるものではないが、残るひとりの加害者の一刻も早い逮捕を切望してやまない。

 

 

 

参考:

産経新聞、2018年7月24日

【衝撃事件の核心】茨城女子学生はなぜ命を奪われたのか 14年越しに被告が話した理由 判決は25日(1/5ページ) - 産経ニュース

 

愛知県蟹江町母子三人殺傷事件について

2009年に愛知県蟹江町で起きた母子殺傷事件について、風化阻止の目的で事件概要、犯行までの経緯、裁判などについて記す。

尚、本件では単独で中国籍の元留学生・林振華(りん しんか、リン・ジェンホア)が逮捕・起訴され、すでに死刑判決を受けており、2020年現在、名古屋拘置所に収監されている。

 

 

■事件の発覚

2009年5月2日12時20分ごろ、愛知県蟹江町の山田喜保子さん(57)宅を、次男・雅樹さん(26)の勤めていた洋菓子店の上司らが訪れた。雅樹さんの同僚でもある婚約者が1日夜から連絡が取れなくなっていたことを不審に思い、予め蟹江署員を同行させていた。

外から声掛けをしたところ、三男・勲さん(25)が中から施錠を開けてとび出してきた。保護された勲さんは両手首をコードで拘束された状態で首に怪我を負っていた。このとき「強盗です、助けてください。家の中にまだ二人います。死んでいます。犯人は逃げました」と署員に伝えている。

蟹江署員が南口玄関から中を覗くと、廊下で若い男がうずくまっており、存命の被害者かと思い込み、「出てきてください」と声を掛けていた。無線連絡のため署員が2分間ほど目を離していた隙に、男は勝手口から逃走。

玄関左手の和室には、上半身裸の雅樹さんが背中を刺されてうつぶせになった状態で倒れており、病院に搬送されたが死亡を確認。

翌3日、和室押入の下段に毛布で包まれた喜保子さんの遺体を発見(2日は簡易的な目視のみだったため発見が遅れた)。下半身裸でシャツはまくり上げられ、顔や頭に激しい暴行の痕跡があった。喜保子さんの遺体のそばには飼っていた仔猫が首を絞められて死んでいた。

 

■犯行の概要

住居は近鉄蟹江駅から北西約300mほどの住宅街にある二階建ての一軒家。喜保子さんは夫と十年以上前に死別しており、息子四人の五人家族。当時は、長男・四男が別居していたため、次男・三男との3人暮らしだった。

 

《時系列》

5月1日、20時頃に勲さんが勤務先から一度帰宅したが、すぐに外出。当時、家には喜保子さんしかいなかった。

同日、21時30分頃に雅樹さんは勤務先の洋菓子店を出て、(通例22時前には)帰宅。和室で犯人と鉢合わせとなり襲われたものとみられた。

2日、2時すぎに勲さんが泥酔状態で帰宅し、玄関でブーツを脱いでいたところを背後から襲撃された。首周辺を(クラフトナイフで)刺された勲さんは犯人と刃物を奪い合うもみ合いとなった。説得の末、犯人がナイフを離れた場所に投げた。

約30分後、勲さんの意識が朦朧とする中、頭にパーカーを被せて粘着テープで縛って目隠しし、手首を電気コードで拘束した。以後、度々意識を失う。

拘束中、口の粘着テープが外れた際に退去を懇願したが犯人は「まだやることがある」と居座った。そのほか金品の在りかを尋ねられたり、喜保子さん・雅樹さんの殺害について聞かされた。

同日、早朝、喜保子さんの知人、雅樹さんの同僚が来訪して呼び鈴を鳴らしたが応対はなかった。そのとき勲さんは応対を求めたが犯人は布団をかぶせて制止していた。

同日、12時過ぎ、洋菓子店の上司らが署員を連れて来訪。犯人が近くにいなかったため勲さんが家を飛び出して事件が発覚。男は逃走する。

 保護された勲さんは、犯人と格闘し、その後も殺害を免れて会話を交わしたと証言。犯人の見た目については、帰宅時の酩酊状態、コンタクトレンズがずれて視界が不明瞭だったこと、拘束中に目隠しされていたことなどから「一瞬しか見ていないのでよく分からなかった」「見覚えがない」とし、話し方について「(現場周辺の)海部地域の訛りとは違うイントネーションの日本語」だったと説明。意識が途切れることもあったと言い、記憶が曖昧なことから、警察関係者には「話がつながらない部分もある」とされた。

 

使用された凶器は、犯人が持参した鉄製のモンキーレンチ(警察発表ではホームセンター等で市販されたもの。定価5,010円)、刃渡り6センチのクラフト用押し出し式片刃ナイフ(1979年から販売。定価630円)、被害者宅にあった刃渡り17センチの包丁。モンキーレンチは玄関付近に落ちており、包丁は刃が反れ曲がって柄から外れた状態で洗面所に置かれていた。ともに血痕を除去した形跡があった。

凶器のほか、血の付いたパーカー(2003年製、LLサイズ、約450点販売されており、洗濯をせずに長期間着ていた可能性がある)、不織布マスク、防寒手袋(1,000円程度の市販品)が犯人の遺留品として発見された。

居間の床には大量の血を拭きとった形跡があり、水を張った浴槽や洗濯機に血痕を拭ったとみられる衣類やタオル、毛布が入れられており、証拠隠滅を図っていたものとみられた。現場では手袋を使用した痕跡があり、指紋は検出されなかった。

3人の通帳と財布が発見され、紙幣が全て抜き取られていた。2階にも血液反応はあったが、物色した形跡はなかった(雅樹さんの部屋にあった現金は手付かずだった)。そのほか腕時計とスニーカーが奪われていた。

廊下に置かれていたお椀からは味噌汁に口を付けていた痕跡があった。食器に付着した唾液、遺留品のパーカーなどから犯人の血液型はO型と判明(被害者3人はA型だった)。データベースと照合した時点での適合者は見つからなかった。

 

■不手際と長期化

上述の現場から逃走したこの「若い男」こそ14時間近く現場にとどまっていた犯人だったが、愛知県警は当初「黒っぽい服装の男」という不審者情報しか公表していなかった。

6日後、中日新聞社会部・平田浩二氏の取材によって、県警が「男の逃走を許したこと」「室内で見つかった3つの財布からは紙幣が全て抜き取られていたこと」などを把握していながら「捜査上の秘密」として公にしていなかった事実がスクープされる。

これにより当初、犯行の残忍な手口などから「顔見知りによる怨恨」などの見方も含めて捜査が進められていたが、「見ず知らずの若い男性による犯行」へと方針が転換された。

愛知県警捜査本部・立岩智博捜査一課長は「結果的に犯人かもしれない不審者に逃走されたが、当初は被害者の治療が最優先に行われた。男について重要な目撃情報であるため公表しなかった」「(喜保子さんの)遺体発見の遅れは、(同室内に雅樹さんの遺体が先に発見されていたため)鑑識活動と証拠収集を優先したためで、初動捜査にミスはなかった」とコメントした。

また喜保子さんの遺体発見の遅れ、3日に行われた現場検証での「土足痕」の見落とし(後の再検証で発見)、遺留品であるウインドブレーカー公開の遅れ(一般公表は15日)、警察犬投入の遅れなど、初動捜査について多くの失態が指摘されることとなる。

遺留品の解析からも犯人像・犯行目的が絞り込めず、事件発生から半年で捜査員およそ5500人を動員し、約300件の情報提供が集められ捜査対象者は5400人にも及んだが、犯人特定には至らず事件は長期化。残虐な犯行、多くの物証、居座りや食事といった不可解とも受け取れる行動から“第二の「世田谷事件」”などとも囁かれ、県警への信頼は一層揺らいだ。

愛知県警察|捜査にご協力を!|海部郡蟹江町蟹江本町地内における強盗殺人事件

2009年12月8日付で捜査特別報奨金制度に指定(懸賞金最高300万円)。

 

2010年4月、蟹江署捜査本部は、勲さんと犯人との会話の一部を発表。特徴として、若者が使うような「無理」という言葉を繰り返し、「金、どこ」など助詞を抜いた言い回しを多用する抑揚のない喋り方を指摘。20歳代男性と見て捜査を進めた。

犯人は「金ないし2日間寝てない」と境遇を話し、出て行ってくれと懇願した際には「俺もそうしたいけど今は無理」と返答していた。勲さんは犯人と揉み合いになった際に相手を刺した感触があったと証言したが、犯人は「足も血止まったし、手の方も」と話していた。

「あと誰が居る」と家族構成を確認し、「掃除したい」と証拠隠滅を示唆。「逃げてもすぐ捕まるし、服も着替えな見つかるし」との発言もあったことから、山田さん方にあった衣類に着替えて逃走に及んだ可能性があるとされた。

 

■逮捕と事件までの経緯

2012年12月7日、本件の強盗殺人容疑で三重県津市に住む中国籍・林振華容疑者(29)が逮捕される。

同年10月19日、三重県鈴鹿署員が当該車を運転中だった林を車両窃盗の容疑で逮捕。窃盗の余罪があったことから任意により唾液を採取しDNA検査を行ったところ(過去には指紋採取のみ)、蟹江町の現場に残されていた犯人のDNA型と一致。本人が蟹江町での殺害を認めたため逮捕へとつながった。

逮捕前日の6日、愛知県警は特別報奨金制度の延長見送りを発表していた(翌日の逮捕を見込んでの発表だが、表向きは「情報提供減少」を理由に断念とされた)。

 

林は2008年12月31日に起こした窃盗事件により、20万円の罰金刑を課されており、翌年2月に起した窃盗未遂事件での取り調べの際、「このまま罰金を納めない場合、労役場に留置される可能性がある」との通告を受ける。留置により大学を退学処分になれば、両親への期待を裏切ってしまう等と考えた。

罰金を支払う金が必要だった」として、当初は名古屋駅周辺での引ったくり・凶器で威嚇しての路上強盗を試みたが断念し、近鉄線急行電車に乗車。ある女性乗客に目を付けると、尾行して近鉄蟹江駅で下車したが、女性は乗用車で立ち去った。

その後も標的を見つけることができず、空き巣狙いに変更して周辺を徘徊していたところ、山田さん宅の玄関がわずかに開いており猫が入って行く姿を見掛ける。リビングは点灯し、テレビも点いていたが、玄関付近にひと気がなかったため侵入を決意する。このときの心境を「見つかったら殺すつもりだった」と供述している。

無点灯の和室で物色していたところを喜保子さんに発見され、思わず逃走を図るが、服を掴まれ、思い直して凶行に及んだ。モンキーレンチで殴打を繰り返していた最中、帰宅した雅樹さんが林に飛び掛かり、リビング・和室でおよそ1時間に及ぶ格闘となった。やがて雅樹さんが体勢を崩すと林は電気コードで両手首を拘束。闘争中にマスクが外れて顔を晒していたため、殺害に及んだ。

それから林は床の血痕の拭き取りや血の付いた衣類などの洗濯など証拠隠滅を図って作業をしていたところ、勲さんが帰宅。当初は殺害を図ったものの、またもや格闘となり、命乞いや顔を見られていないことなどから殺害を思いとどまったとした。

 

 ■生い立ち 

林振華は1983年7月、中国の山東省済南生まれ。父親は地方公務員で、経済的な不自由のない中流家庭の一人っ子。成績優秀で地元の大学にも合格していたが、父親から「日本で先進技術を学んではどうか」と留学を勧められたことから、2003年10月に留学目的で来日。

そして四年制大学への進学をめざし、語学学校の1年6か月コースに入学し、寮生活を送ったが、2004年4月・8月に京都市内で2度にわたって窃盗容疑で逮捕され、不起訴処分となっていた。卒業後、2005年4月にコンピューター専門学校に入学したが、三重大学合格を機に中退。授業料65万円は延滞せずに納めていた。

毎日新聞の面会取材に対して「来日した当初は日中間の懸け橋になることを夢見ていたが、生活が困窮したことから万引きを繰り返すようになった」と述べている。

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2006年4月、三重大学に進学し、私費留学生として年間約34万円の授業料を払いつつ、津市内の木造平屋アパート(家賃1万数千円)で一人暮らしをしながら地域文化論を学んだ。しかし学費滞納を繰り返したため大学側から支払いの督促を度々受けており、家賃も滞納するなど、生活費に困窮していた。成績も悪く、授業に来ないことも多くなり、事件を起こした2009年度は2単位しか取得できていなかった。

専門学校時代の恩師に対し、「なぜ自分は奨学金を受けられないのか。そのせいで金に困り、コンビニエンスストア廃棄弁当を漁って食べるような生活を送っている」という内容の手紙を送っていた。

両親からの仕送りと飲食店などでのアルバイトで生計を立てていたが、事件前には体調を崩して働けなくなった。2010年度には必要単位を修得、5年間在学して2011年3月に卒業した。困窮の一報で、腎臓病の治療や内定報告、婚約者と会うといった理由で度々帰国している。

2011年4月から三重県亀山市の自動車部品メーカーに勤め、部品検査・組み立てのほか研修生の通訳を担当。真面目な働きぶりだったとされ、人間関係も良好だった。2012年、結婚を計画し、会社に昇級の要望したが折りが合わず退職。6月に県外の建設関係会社に転職したがすぐに辞めている。同年8月、名古屋市内で窃盗した自転車に乗車中に愛知県警に職務質問されたが微罪処分とされていた。

 

■裁判

起訴後、林は拘置所内で自殺未遂・自傷行為を繰り返すなど、心身に変調をきたした。弁護士は刑事責任能力がないとして2013年に精神鑑定を申請。同年末、責任能力・訴訟能力に問題なしとされた。

 

2015年1月19日、名古屋地裁で初公判が開かれ、検察は強盗殺人罪を求刑したが、弁護人は「侵入当初、殺害の意志はなかった」として強盗殺人に当たらない(殺人罪+窃盗罪)と主張した。

生き残った勲さんは、事件当夜に外出していたことを悔やみつつ、被告人の死刑を訴え、雅樹さんの婚約者は、閉ざされてしまった将来を悲しみつつ、「死刑でもそうでなくてもどちらでもよい、できればずっと自分の犯した罪を反省して償ってほしい」と訴えた。

被告人の父親は、金の心配をしても息子は「必要ない、努力して何とかする」と言い、その言葉を信じていたが、このような事件になったことに責任を感じるとして、被害者遺族らに謝罪。

被告人質問では、被告人に発声障害の症状があったため、声を詰まらせながらも自らの口で「被害者の方…、父、母…、申し訳ない…、気持ち…、いっぱい…」と被害者遺族や自身の両親に向けて自身の行いを謝罪した。

www.courts.go.jp

2月20日の判決公判で、松田俊哉裁判長は検察の求刑通り死刑を言い渡し、「犯行は強固な犯意に基づく冷酷なもので、極刑を回避する特別な事情はない」と述べた。 

その理由として、喜保子さんに遭遇した際に逃走できたにも拘らず殺意を持って暴行に及んだ点、被害者3人に対する確定的な殺意が認められた点などが挙げられる。

量刑については、経済的困窮や相談相手の不在、両親の期待を裏切りたくない感情について「一定程度の理解」を示しつつ、自尊心から親に資金援助の相談もせず犯行に及んだ動機の自己中心性・身勝手さにおいてそれらの経緯は酌量できるものではないと判断。

謝罪の言葉はあったものの、捜査供述において客観的な事実と反する保身的な証言(喜保子さんに約20か所の外傷が認められたが、「2回振り下ろした」と供述するなど)もあり真摯な反省と認められない点、家人の在宅は予期できたことで侵入に強盗殺害の犯意がなかったとは認めがたいこと、勲さんへの攻撃は中止したものの証拠隠滅に忙しく救護はせず金のありかを聞くなど強盗の犯意を翻したわけではない点などが挙げられた。

 

被告の弁護人・北條政郎弁護士は「死刑ありきとも受け取れる判決」だとして2月25日付で名古屋高裁に控訴。

2015年7月27日に開かれた控訴審で、弁護人は再度「事前計画性のなさ」を強調し、死刑判決の破棄(無期懲役の適用)を訴え、証拠調べ(裁判所による取調べ)を求めたが、名古屋高裁はこれを却下。10月14日、名古屋高裁・石山容示裁判長は第一審判決を支持し、控訴棄却とした。弁護人は同日付で上告。

2015年、被害者遺族3人が損害賠償命令制度に基づき、林被告に対して死亡した2人の逸失利益・慰謝料など約1億7,900万円の損害賠償手続きを申し立てた(その後、勲さん以外の2人は訴訟を取り下げた)。2016年3月24日、名古屋地裁は林に対して約5,600万円の賠償支払い命令を下した。

2018年9月6日、最高裁第一小法廷・木澤克之裁判長は「強固な殺意に基づく無慈悲で残酷な犯行で、刑事責任は極めて重大」として一審、二審の死刑判決を支持し、被告の上告を棄却。被告及び弁護人は訂正を申し立てたが棄却されたため、2018年10月3日付で死刑が確定した。

 

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■所感

犯行に至るきっかけが被害者宅の飼い猫だったという余りに切なく、いたましい事件である。 雅樹さんの元婚約者による訴えは、どんな罪状が下されようとも失われた命、失われた未来は元に戻らないという現実を改めて突き付けてくる。

人によって意見は分かれるかもしれないが、加害者から実情を知らされていなかった親や婚約者にとってもおそらく降って湧いたような事態に驚愕したことだろう。林死刑囚は犯すべからざる暴力と大いなる裏切りの罪を償わねばならない。

 

こうした事件について移民排斥を唱えることは、「私は悪くない」というただの言い訳、責任回避・現実逃避の方便でしかない。こうした事件を起こさない・起こさせないために何ができるのか、国の外交政策自治体の管理体制に注視する、戸締りや防犯体制を整える、困っていそうな人に声を掛ける、ひとそれぞれ様々なベクトルでできることはあると思う。

捜査についても様々な問題は指摘できるが、たとえば犯罪抑止について重罰化という方向ではなく、微罪でもDNA採取が徹底されていれば累犯や凶悪化を食い止められたのではないか。教育機関や雇用先に移民サポート機関との連携があれば、犯罪や悲劇を生む前に適切なアドバイスを提供することもできるのではないか。移民だってプロの殺し屋や運び屋でもないかぎり、罪を犯すために入国してくる訳ではない。夢を抱いて学びに、目的をもって働きにくるのだ。

被害に遭われたおふたりのご冥福と関係者のみなさまの心の安寧をお祈り申し上げます。

 

肝を潰せ!Netflix映画『ザ・コール』感想【ネタバレ】

Netflixで配信されているサスペンス映画『ザ・コール(콜、THE CALL)(2020、韓国、1時間52分)について、内容+感想など徒然なるままに記します。一言でいえば、 胸糞映画ファンにはたまらない刺激に満ちた傑作なので万が一見ていないのなら「読む前に見ろ」の一択です。

 
■公式紹介文

古い電話の向こうから聞こえてくるのは、運命を変えようとする連続殺人犯の声。20年という時間をこえ、同じ家に暮らす2人の女の人生がいま大きくゆがみ始める。

■日本版キャッチコピー

過去からの電話

目覚める殺意

彼女の標的は、私の過去

www.youtube.com

出演:パク・シネ、チョン・ジョンソ、キム・ソンリョン

製作:シド・リム(『お嬢さん』『オールドボーイ』)

監督・脚本:イ・チュンヒョン(『バーゲン』)

撮影:チョ・ヨンジク

 

主演のパク・シネさん(박신혜)は、日本では『美男(イケメン)ですね』(2009)や『オレのことスキでしょ。』(2011)などの恋愛ドラマでご存知の方も多いかもしれません。美貌と愛嬌を併せ持つ人気俳優さんです。チョン・ジョンソさん(전종서)は村上春樹原作の短編小説を映画化したイ・チャンドン監督作品『バーニング』(2018)で鮮烈なデビューを飾り、多くの映画祭で新人賞などの高い評価を受けています。クールな目元が印象的で、パクさんとはまた違った魅力の持ち主です。

20年のときを超えて交差する二人の女性、その対照性を見事に演じ切っています。

 

■イントロダクション

主人公ソヨン(パク・シネ)はかつて家族で暮らした田舎の古い洋館に移り住む。母親は脳腫瘍で入院しており、手術には莫大な費用がかかるため、死を受け入れる覚悟をしている。父親は1999年11月に焼死しており、ソヨンはその原因をつくった母親(キム・ソンリョン)を憎んでいた。スマホを失くしたソヨンは仕方なく屋敷にあった古いコードレスフォンを使い始めるが、ある女性から度々間違い電話が掛かってくるようになる。

スマホ”は実用的な反面、ドラマや小説などで「いや、スマホ使えや」「ググればすぐやん」と無粋なツッコミを入れたくなってしまうアイテムとなって久しいですが、現代の舞台で90年代式コードレスフォンを使うことの必然性をうまく持たせていると感じました。

そして主な舞台となる「宣教師が住んでいた」とされる田舎の洋館も、人口の約3割がキリスト教徒という韓国のお国柄が表れていて興味深いところです(CIAワールドファクトブック2015によれば無宗教56.9%、キリスト教27.6%、仏教15.5%)。説明はありませんが、忌まわしい記憶が残るこの家にソヨンが越してきた理由は母の看護のためでしょうか。

 

■地下室

 ある晩、ソヨンは壁裏に「地下室」が存在していることに気付く。そこで「1999年」の日記と写真を見つけ、そこには「霊を撃退するためだといってお母さんが私に火を点ける」と書かれていた。自分たち家族が越してくる直前に書かれたものと知ったソヨンは前の住人によって書かれた日記ではないかと察しをつけ、近所のイチゴ農家・ソンホおじさん(オ・ジョンセ)に尋ねる。だがソンホは、写真に映った女性の名を「ヨンスク」、その母親は「霊媒師」とだけ言って口ごもってしまう。

ソヨンは間違い電話の主・ヨンスク(チョン・ジョンソ)とコミュニケーションを図り、生きる時代は違いながらも同い年で同じ家に暮らす2人は親睦を深めたのだった。

地下室発見に至るシチュエーション、これは怪談好きにはよく知られている伊集院光さんの創作怪談『青いクレヨン』を彷彿とさせるものがあり、非常に恐怖心を掻き立てられます。いわゆる隠された“開かずの間”です。

また地下室といえば、ジャック・ケッチャムの“胸クソ”小説『隣の家の少女(The Girl Next Door)』(1989)、その元となったアメリカ・インディアナ州最悪の事件とされるシルヴィア・ライケンス殺害事件(バニシェフスキー事件とも)などとも繋がり、日本でいうところの「座敷牢」のように監禁虐待を想起させます。当然、『パラサイト 半地下の家族』のように、地上より下の世界はすなわち“地獄”のメタファーとも捉えられるでしょう。なお、ポン・ジュノ監督は高台に暮らす金持ち、半地下に暮らす貧困層を、黒澤明監督の『天国と地獄』からインスパイアされたと語っています。

 

本作では28歳の女性ヨンスクが義母からの被害に苦しめられています(さすがに児童虐待で描いたら世界配信できませんよね)。のちに明かされるよう彼女は境界性人格障害による入院歴があり、実の母親も精神病院にいるとされています。この障害は、衝動的行動や二極思考、極端な対人関係(他者を巻き込み混乱させるケース、対人恐怖のケース)、自己破壊行動(自傷、自殺、薬物の過剰摂取、過食、性的逸脱など)など、双極性障害(いわゆる躁鬱)に近しい特徴をもちます。統合失調症のように幻覚や幻聴は顕著ではありませんが、強い思い込みと過剰な自己愛によって、相手に対して一方的に「裏切り」「失望」を感じることが多いとされています。

義母はなぜヨンソクを引き取ったのか経緯がいまいち分かりませんが、ヨンソクの症状を独自の“悪魔祓い”メソッドによって克服させようとしている訳です。その点でもキリスト教的世界観-エクソシズムが用いられており、よいアクセントになっています。こちらも日本であればファンタジーとして見なされがち、描かれがちの設定で、宗教的素地の違いを感じさせます。『プリースト 悪魔を葬る者(原題:黒い司祭たち)』(2016)というエクソシスト映画が500万人を動員するメガヒットを放つ等、韓国はエクソシズムとの親和性が高いようです。

 旧エントリで、別のローマ・カトリックエクソシスト映画についても書いているのでよろしければご覧ください。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 ヨンスクが好きな音楽グループをソヨンがYouTubeや本で学び、電話越しに“ダビング”することで親密になっていきますが、時間的跳躍という超常現象の渦中にあって、友好の築かれ方がまるで古きよき中高生の営みのように素朴に描かれているのが印象的です。

彼女たちが聞いていたのは、90年代の韓国音楽を代表するソテジワアイドゥルというアーティスト。彼らはグループとしての活動期間が92年から96年と長くはありませんでしたが、ダンスと韓国語ラップの融合、伝統音楽やヘヴィメタルへの転換など、ミリオンセラー連発の商業的成功だけでなくそれまでの韓国音楽界にはなかった革新性も高く評価されています。筆者は初めて聞きましたが、韓国文化に詳しい方には懐かしさや違った面白さがあるかもしれません。

 

■世界の再構築

不動産仲介業者が家族を引き連れてヨンスクと義母の暮らす家を訪れる。ヨンスクはそれがソヨンの家族だと察し、電話越しに“今は亡き父親の肉声”をソヨンに聞かせる。喜びに咽び泣くソヨンに対して、ヨンスクは父親を亡くすことになった火事を未然に防ぐことを提案する。

11月27日、20年前、火事のあった日。

ソヨンのスマホに着信が入る。着信?スマホは失くしたまま戻っていないのに?

すると火事で負った脚の古傷が消え、みるみるうちに時空が歪み、家の中がまるっきり現代風のものに切り替わっていく。片付いた部屋には暖炉が焚かれ、クリスマスの飾り付けがされている。庭の温室には病院にいるはずの母と、亡くなったはずの父の姿が。

ソヨンは家族との時間を取り戻したことでヨンスクの電話になかなか出られなくなっていった。かたやヨンスクは電話や外出していたことを義母に咎められ、地下室での更なる仕打ちの日々が続くのだった。

ヨンスクが“過去”の火事を食い止めたことで“現在”のソヨンの世界が歪み、新たな世界に再構築されるという新たな局面が提示されます。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズや『バタフライ・エフェクト』などでもおなじみのスタイルですが、「親殺しのパラドックス」に説明を求める性質の方には向いていない映画かもしれません。

私たちが目にするのは映画というひとつの世界にすぎませんし、今まさに直面している(「当ブログを読んでいる」という)世界そのものも無限の可能性から選択された現存在という係わり方しかありえません。Don't think, Feelのマインドで今を生き、映画を楽しみましょう。

余談ですが、過去に戻ることはできてもその帰結を変更することはできない、とする研究も存在するそうです。

タイムトラベルは理論的には可能…しかし過去を変えられるわけではない(BUSINESS INSIDER JAPAN) - Yahoo!ニュース

 

 

 ソヨンとヨンスクの時間を越えた通信を可能としているのが古びたコードレスフォンですが、2016年tvNで放映された韓国ドラマ『シグナル』でも非常によく似たギミックが用いられています(こちらもNetflixで見ることができます。また2018年、関西テレビ系列で坂口健太郎さん主演により日本版がリメイクされています)。ちなみに『シグナル』では無線機を使って現代のプロファイラーが過去の刑事と共に未解決事件を解決に導く物語でした。

が、本作はヨンスク(過去)側からしか掛けることができない制約があり、そううまくはいかないようです…(※エンディングに関わってきます)

 

■ヨンスクの死

電話でのすれちがいでヨンスクの変調に不安を覚えたソヨンは、現在のヨンスクについてインターネットで調べる。やがて明らかになったのは、1999年11月27日、ヨンスクは義母に殺害されているという事実だった。

そのことをヨンスクに知らせると、殺しに現れた義母を返り討ちに殺害。ソヨンには「解決した」「生まれ変わった気分」と語り、義母殺害を知らせることはなかった。

虐待義母の束縛から解き放たれ、街に出たヨンスクは派手な服を大量に買い込んで帰宅。近所の農夫が訪ねてきたところを強引に家に上げて、ファッションショーを始めようとする。しかし偶然、冷蔵庫内の遺体が発見され、ヨンスクは更なる凶行に及ぶのだった。

 義母殺害の後、ヨンスクが貪り食っていたお店は“ペリカナチキン”、食べていたのはおそらくヤンニョム・チキンといわれるたれ付きチキンでしょうか。韓国の定番ファーストフードで、ヨンスクが家で義母との食事中にテレビ・コマーシャルが流れていましたね(「金浦空港で離陸失敗事故」のニュースが流れる前のシーン)。義母が用意した薬膳(「こんなの食えるかよ」)とは対照的で、抑圧からの解放によってすっかり人格が変わったことの暗喩にもなっています。

 

ソヨンとヨンスク、それぞれの家にイチゴ農家のソンホおじさんが採れたてのイチゴをもって訪ねてくるという絶妙なリンクが起こります。20年のときを隔ててもイチゴの収穫時期とソンホおじさんの心遣いは変わらない、悲しき符合です。

 

 

■発覚

来宅していたソンホおじさんが突如消失したことに不安を覚えたソヨン。かつてヨンスクと交友があった商店主ソニ(序盤でヨンスクが電話を掛けようとしていた相手)に話を聞くと、かつて彼女もヨンスクに殺されかけていたと打ち明ける。地元警察では、ヨンスクが義母とソンホおじさん殺害で捕まっていた事実が明らかになる。

警官(イ・ドンフィ)の聞き込みをはぐらかしたヨンスクだったが、ソヨンから自分が無期懲役になる未来を聞かされ、「一生刑務所暮らしってこと?やっと自由になれたのに」と激昂。いつ逮捕されるのかナーバスになるヨンスクのもとに、幼いソヨンを連れた父親が来訪する。

ソヨンは父親と共にドライブ中だったが、再び世界が歪み、再構成が始まる。父親が目の前から消失し、家は崩壊していたのだった。

 世界の再構築シーンや新旧の洋館(外観だけでも相当なバリエーション)に用いられたCGは、物語世界の表現として過不足なく効果的に使われていたのが印象的です。たとえば近年ヒットした『犬〇村』があれほど惨めなモンスター映画になったことを思うと、生身で表現する部分とCG表現とのバランスや、恐怖の対象をどこまで・どのように可視化させるのか、といった面で考えさせられました。

後の伏線にもなってきますが、このときすでに視聴者はヨンスクの恐ろしさ・醜い側面を見知っているため、「ソヨンとヨンスクの時を超えた友情」から「何も知らないソヨンと凶悪なヨンスク」という認識の転換が起きています。私たちはソヨン目線で物語を追いかけており、“世界の再構成”“父親の消失”を即座に1999年に殺害されたと結び付けて想像することができます。視聴者の想像による“補正力”にうまく頼ることで、殺害や虐待の場面をさまざまな見せ方で提示する監督のセンスに脱帽します。

 

 ■復讐

ヨンスクが父親を殺したことを知ったソヨンもまた激昂する。自分自身が「過去」に戻って復讐することもできない。さらにヨンスクの許には幼き日の自分が人質にとられている。ヨンスクは「どうして捕まったのか調べろ」とソヨンに命令する。

ソヨンは当時の情報を調べ上げ、ヨンスクに「ある古物商が凶器を発見する」から彼の住むビニールハウスに行くようにと告げる。だがこれは17時に起こる「爆発事故」にヨンスクを巻き込むための、亡きものにしようという計画だった。

 ■“復讐”への復讐

荒廃した真っ暗な屋敷で、ヨンスクの死を、そして“世界再編”のときを祈るように待つソヨン。

だがそこに鳴り響く電話は命拾いしたヨンスクからだった。嘘をついた報いとして幼いソヨンに“悪霊払い”をするという。

ソヨンの全身はみるみる焼けただれていき、激しい痛みに悶絶する。

「今からだれが来るか分かる?」

ソヨンの父親の携帯電話に残された「今からそちらに行く」と告げる彼女の“母親”の声を聞かされるのであった。

 怒涛の展開、ヨンソクの冷酷非道さと悪運の強さが際立ち、打って変わってソヨンが劣勢に置かれてしまいます。

■記憶

そしてヨンスクは火事を防いだ際に見た“真相”をソヨンに伝える。

火事が起きた原因、あのとき父親を殺したのは、テレビの真似事をしてコンロを点けようとしたソヨン自身による過失だった、「母親のせい」にしたのはソヨン自身である、と。 

 ソヨンは警察署に侵入し、担当警官の手帳を盗み出す。しかしそこに書きのこされていたメモは書き換わり、ヨンスクの逮捕写真が消えていく。

またしても世界が更新され、家の中は“冷蔵庫”だらけの異様な光景へと変貌する。

物語もいよいよ佳境というところで、主人公による「虚偽記憶」の叙述トリックと、母親による子庇いという素晴らしい合わせ技が炸裂します。「子庇い」というと、日本テレビ系ドラマ『知らなくていいコト』(2020)で息子の過失によって引き起こされた大量殺人の罪を父親・乃十阿徹が被るといった内容も記憶に新しいところ。

論語子路第十三・十八にあるように、「父爲子隠」「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という考えが存在しています。

 葉公語孔子曰。吾黨有直躬者。其父攘羊。而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣。


葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。而して子これを証す。

孔子曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。

(葉県の知事は孔子に「私どもの村には感心な正直者がおります。父親が羊を盗んだのですが、子が自らそのことを明るみに出しました」と語る。

孔子は、「それはわが村の正直さとは趣が異なります。父親は我が子の罪を隠し、子は父のために隠す。正直な親子の情愛はそのようなものにあると思います」と答えた。)

日本の刑法第七章「犯人蔵匿及び証拠隠滅」においても、犯人蔵匿と証拠隠滅については「犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる」という親族特例が存在しています。

そのため東北アジア的には母親の心情が理解されやすいかと思いますが、そのほかの地域でもそういった概念や社会通念はあるのでしょうか?気になるところです。

 

ソヨンは冷蔵庫の中身について知りませんが、見ている私たちには何が入っているのか察しが付くというブラックボックスによる演出が見事。義母とソンホおじさんだけでなく、ヨンスクがこの20年の間に多くの人を殺め続けたことが想像されるおぞましい内容を異様なビジュアルで巧みに伝えています。

 

■ふたつの戦い

ヨンスクが存命であることを察して思わず家から逃げ出したソヨンだったが、スマホを破損。警官の手帳には「コードレスフォンの使用」が記されていたことから、一縷の望みにかけて再び家に戻る。

2000年、ミレニアムを迎えるタイミングで、警官はソヨンの母親と共にヨンスクの家に聞き込みに訪れていた。来ていた痕跡はあるが、父親も幼いソヨンの姿もない。

「もう一度、夫に電話を掛けてみます」母親がコードレスフォンを借りると受話器から女の声が「今すぐ逃げて」と訴える。が、その瞬間、母/娘にヨンスクが牙を剝く。

警官が殺され、逃げる母親。追いかけるヨンスク。

かたや電話を奪いに襲い掛かり、ソヨンを追い詰めていくヨンスク。

幼いソヨンの呼ぶ声に部屋を出る母親。待ち構えていたヨンスクが鉈を奮う。しかし大切な娘を守るために母親は毅然と立ち向かう。命懸けの格闘の末、母親とヨンスクは階下へと転落した。

母/娘に迫りくるヨンスクの迫力は凄まじいものがあります(まさに時をかけるヨンスク)。どちらの肉弾戦も、決して強靭な体格ではない、いわば普通の女性同士が死に物狂いになって行う血生臭い取っ組み合いは、日常で目にすることもないため別の意味で目を背けたくなる怖さ・痛々しさを感じました。

 

■エンディング

目前に迫っていたはずのヨンスクが忽然と居なくなり、“世界の再編”があったと察したソヨン。

だが病院に母親の姿はなく、警察署でも行方が知れない。墓を訪れてみると、「1999年12月11日」と刻まれている。

墓の前で泣き崩れるソヨンだったが、そこに母親が姿を見せる。その体には痛々しい古傷が。

「いつまで親に世話を焼かせるつもり?困った子ね」

父親は還らなかったものの、母がヨンスクとの戦いを生還してくれたこと、命懸けで自分を守ってくれたこと、今こうして生きていられることにソヨンは喜びを噛みしめるのだった。

 

 *****

■エンドロール

去り行く母娘の後姿。

電話の音。

「よく聞いて。もうすぐ警察とソヨンの母親が来る」

「電話は絶対に手放さないで。変えられなくなるから」

転落したヨンスクが目を覚ます。

“去り行く母娘の後姿”から母親が消失。

拘束されたソヨン。

いわゆるマルチエンディング、素晴らしいどんでん返しです。

 はじめ筆者は、コードレスフォンを「過去から現在にしか通じない」制約のある一方通行のアイテムなのだと思って見ていました。しかし、エンドロールを見れば分かる通り、“現在”のヨンスクが“過去(ミレニアム直前)”のヨンスクに電話を掛けています。韓国の電話番号事情に詳しくないので憶測になりますが、おそらく“過去”に使われていた電話の番号をソヨンは知らなかっただけ、ということなのでしょう。

エンドロールを素直に、エンディングと直列的に解釈すると、息を吹き返した“過去”のヨンスクが母親を殺害したことを示しています。

“世界の再編”で消失したかに思われていた“現在”のヨンスクはどこかに身を潜めていたということでしょうか。

 

ラストカットでは母親をも失ったばかりか、今まさに絶命の危機に瀕したソヨンの姿が映し出されます。

頭から白いシーツを被せられて目隠しされていた様は、幼いソヨンに対してヨンスクがやっていたものと同じ。つまり1999年から20年間、ずっとこの日のためにヨンスクがソヨンを生かしてきたこと、おそらくソヨンはヨンスクさながらの虐待を受けてきたのではないかとさえ想像されます。筆者の考えでは、母娘で帰途につく「エンディング」はソヨンの虚偽記憶、記憶の捏造です。

思い返せば、母親とヨンスクとの格闘で娘の前から姿を消した瞬間がありました。あのとき既に事切れていたのでしょうか。いや、もしかするとあのとき…と遡って考えていくと、110分余りの全編が丸ごとソヨンの脳内に存在する絵空事であるようにも思えてくるのです。

何しろ視聴者にはソヨンがそれまでどこでどのような20年間を過ごしてきたのかは与えられた情報から想像して再構築せざるを得ないわけです。「母親と折が悪いから離れて暮らして、都会で会社勤めでもしていたのかな、と想像すること」もいわば仮想現実でしかありません。

虐待の日々にいよいよ死を覚悟したソヨンによる走馬灯のような“仮の記憶”を私たちは目にしただけかもしれません。目の前で父を、母を殺められた幼子が日々の虐待に耐え続けなければならない。防衛本能からアナザーストーリーの世界に入り浸ったり、自分と似たような境遇の“ともだち”を空想して自分を慰めていたとしても不思議なことではありません。

ソヨンが殺されることははじめから決まっている、きしくもタイムトラベルの項で触れた「過去に戻ることはできてもその帰結を変更することはできない」ことの証明のようにも感じます。

 

本作の正解は殆どないといってもよいですし、無限にあるといってもよいでしょう。この虚構の仕掛けに引っ掛かった居心地の悪さと監督の底意地の悪さ(褒めています)を存分に楽しむことに致しましょう。筆者は幾度となく絶頂を迎えました。

もちろんフィクションですから「境界性人格障害は怖い」「サイコパスやばい」といった表層的観念に囚われてはなりませんし、ヨンスクが狂気に満ちて機転に優れた魅力的なキャラクターだという認識を持つべきですが、チョン・ジョンソさんのまさしく憑りつかれたかのような名演技と存在感にはみなさんも度肝を抜かれたのではないでしょうか。次に彼女を見るときにはどんな演技を見せてくれるのか非常に楽しみです。また彼女を第一にキャストに決定し、脚本も担当した若き才能・イ・チュンホン監督は本作が長編デビュー作。韓国映画界の進化にも肝を潰されます。

 

『悪魔の詩』訳者殺害事件とイラン革命について

本稿では、1991年に発生した茨城県筑波大学構内で起きた助教授殺害事件、通称“『悪魔の詩』訳者殺人事件”を取り扱う。

本件では「イスラーム思想」「イラン革命」に絡む思想犯罪の可能性が指摘されており、状況的に見てもそれ以外のケースを考察することは難しく思われる。また浅学な筆者はイラン革命になじみが薄いこともあり、当時のイラン最高指導者ホメイニー師が一創作物を敵視し、著者のみならず、出版関係者、各国の翻訳者にまで「死刑宣告」のファトワを下した背景とは何なのか、という核心が見えてこない。

 

そのため事件概要ののち、世界大戦後のイラン近代史を大まかに振り返り、仮に革命思想が当事件に関与している場合、どのような経緯でつながりうるのか、悪魔の詩』と革命イランにおけるイスラム思想との齟齬について理解を深めるための、思考の“補助線”とすべく検討していきたい。

尚、筆者に特定の国家・民族・思想・宗派・個人を批判・賛同する意図はないが、イスラム圏の情報にアクセスすることが難しく偏った内容になってしまうが、文化理解のための私的ノートであることを了承いただきたい。

 

■事件概要

1991年(平成3年)7月12日早朝、筑波大学人文社会系A棟7階のエレベーター前の踊り場で同大助教授・五十嵐 一(ひとし)さん(44)が倒れているのを清掃作業員が発見。氏はイランをはじめとしたイスラム比較文学の研究者で、前年、サルマン・ラシュディ著『悪魔の詩』の翻訳を行っていた。発表直後から同書がムスリム社会からの激しい批判にさらされていたため、事件発生当初から思想犯による国際テロの疑いも取り沙汰されていた。

捜査は個人に対する怨恨、思想的報復の両面から行われたが、未解決のまま15年後の2006年7月11日公訴時効を迎えている。

国外逃亡の場合、時効は凍結となり逮捕されれば裁きを受ける可能性はあるが、茨城県警は2009年に五十嵐さんの遺留品を遺族に返還している。

 

・首には左に2か所、右に1か所、頸動脈を切断する深さまで切られており、「イスラムの処刑法」とする見方もある。右側の腹や胸に3か所の刺し傷があり、肝臓に達するほどのものもあった。死亡推定時刻は発見前日となる11日深夜(22時から12日午前2時までの間)と断定。遺留品のバッグにも防御創のような多数の切り傷、当時愛用していたメガネにも血しぶきが付着していた。

・現場では、犯人のものと思われるO型血痕、27.5cmサイズの中国製カンフーシューズの足跡などが見つかっている。犯行後はエレベーターは使用せず、非常階段で3階まで降りたとみられ、以後消息は不明。

・事件のあった11日最後の講義は正午に行った「ギリシア語」で内容は通常通り、翌週までの課題も出されていた。

・五十嵐さんの学内の机の引き出しから事件の数週間前に書かれたとされるメモが発見される。壇ノ浦の戦いに関する四行詩のようなものが日本語とフランス語で書かれており、「壇ノ浦で殺される」に対記されたフランス語では「階段の裏で殺される」と書かれていたとされる。これにより五十嵐さんは自身の身に危険が迫っていることを察知していたのではないかとする憶測を呼んだ。

 

■被害者について

五十嵐 一さんは1947年新潟県新潟市出身、東京大学理学部数学科卒業、同大学院美学芸術学博士課程修了。妻で文学博士の雅子さんとはゼミで出会っている。

大学院修了後、イランへ留学し、王立哲学アカデミー研究員を務め、現地でイラン革命を体験。帰国後『イラン体験 落とされた果実への挽歌』(1979,東洋経済新報社)を発表。言語学イスラム研究、東洋思想、神秘主義哲学などの横断的研究で知られる井筒俊彦氏に師事した。

悪魔の詩 上

悪魔の詩 上

 
悪魔の詩 下

悪魔の詩 下

 

 1986年より筑波大学助教授として勤務。1990年『悪魔の詩』を邦訳、『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか』(法蔵館)を発表。

執筆活動のほか、劇団「グループ・TZ」を主宰し自作の音楽史劇や喜劇などを公演、ロックバンド「ザ・エマーム」でボーカルを務めるなど芸術活動にも積極的であった。

事件当時、五十嵐さん一家は、五十嵐さん夫妻、雅子夫人の両親、中学三年の長女、小学6年の長男という6人暮らし。当時、雅子さんは一さんの翻訳作業を手伝いながら専業主婦をしており、事件後は講師や学校関係の仕事に従事しながら家族を支えた。 

 

■事件後について

・時効を一年後に控えた2005年の取材に対して妻・雅子さんは「つらい日々が続いたが、子供を育てなければなりませんでした。同時に、人とのかかわりを大切にしながら社会に貢献する主人の志を、どう受け継いでいったらいいのか、と考えました。毎日悲しんだり思い出に浸っていてはいけない、と自分を励ます日々でした」と振り返っており、犯人の国外逃亡の可能性についても言及している。(2005年7月6日,毎日新聞)

・『週刊文春』1998年4月30日号では、事件当時、東京入国管理局筑波大学に短期留学していたバングラディシュ国籍の人物を容疑者として捜査していたと報じている。1969年生まれで第三学群情報学類に属しており、遺体発見当日の7月12日12時34分成田発ダッカ空港行きビーマンバングラディシュ航空073便に搭乗したことが伝えられている。

しかし五十嵐さんとの接点が解明されなかったこと、また当時の中東諸国との政治的問題に発展しかねないと考えた政府の意向により身元確認の申請は提出されず、捜査は打ち切られた、としている。

・元CIAインテリジェンスアナリストで中東軍事情勢の専門家ケネス・M. ポラック氏はイランとアメリカの外交関係・核問題などを扱った著書『The Persian Puzzle:The Conflict Between Iran and America』(2004)において、『悪魔の詩』翻訳者殺害にイラン軍部・イスラム革命防衛隊(※)が関与したとする見方を示している。

・2018年『五十嵐一を偲ぶ会』が行われ、知人関係者、教え子らおよそ80名が出席。元教え子・伊藤庄一さん(事件当時筑波大4年生)は取材に対し「先生は『狙われている』と話していたそうです。先生なりに覚悟はしていたのではないでしょうか。事件後、警察の警護の申し出も断っていたと聴きました。学問の場に警察を入れたくなかったんだと思います。『生涯一学徒』というのが口癖で、学者として純粋だった」と語っている。(2018,週刊朝日オンライン)

 (※1979年帰国を果たしたホメイニー師は、旧帝政下で置かれた国軍とは別に、「革命とその成果の守護者」と定義される革命体制に忠実な独立軍「イスラム革命防衛隊」を組織した。革命防衛隊の中でも“ゴドス軍”は国外の民兵や武力組織への支援・指導、反体制派の暗殺、破壊工作などの特殊任務を担当しているとされる。)

 

ここでは捜査打ち切りの有無や真犯人像といった一未解決事件に残された謎については、「イスラム教過激派の関与が疑われる」という見解を述べるにとどめたい。

五十嵐さんのご冥福とご家族の心の安寧を心よりお祈りいたします。

 

 

 

イラン革命前夜

第一次大戦後のイラン国内の政情と革命イランの最高指導者ホメイニー師が台頭するまでを振り返る。

第一次世界大戦によってカージャール朝ペルシア帝国は、北はソ連、南はイギリスによる進駐を受け、イギリス資本による石油資源の独占を許していた。1921年、将校レザー・ハーン(即位後、レザー・シャー)はクーデターによりテヘランを奪還すると、イギリスとの治外法権協定を破棄・撤廃。1924年に国軍司令官・首相となり支持を集めると、カージャール朝の廃止を議決して自ら皇帝に即位し、民族主義を掲げるパフラヴィー朝を成立させる。内政面で国家の近代化を図ったが、独裁色を強め、イスラームの伝統の軽視による反発もあった。第二次大戦においては中立を宣言するも、枢軸国寄りの政治態度により、英ソの侵攻を受けて退位を余儀なくされ、帝位は息子モハンマド・レザー(パフラヴィー2世)に継がれた。

戦後イランでは反英的立場(民族主義・反植民地主義)をとったモハンメド・ムサッデク氏が主権回復運動の旗手として国民的支持を集め、1951年民主選挙によってイラン首相となり、石油国有化法を可決させて、AIOC(Anglo-Iranian Oil Company。英国資本のエネルギー開発会社。現BP社)による石油利権支配を終結させた。しかし英米をはじめとする国際石油資本による反発・市場からの締め出しもあり、イラン政府は財政難に陥り、ムサッデクは対抗策としてソ連と接近する。しかし政治基盤であった「国民戦線」の分裂などにより国内での求心力は低下、さらにイランの共産化を警戒した米英による内政干渉工作によって1953年、皇道派による軍事クーデターが勃発し(アジャックス作戦)、ムサッデクらは失脚する。

 

これにより権威を回復した皇帝パフラヴィー2世は、親欧米路線を推し進めるとともに、農地改革、労使間の再分配、婦人参政権、教育の普及、国営企業の民営化などに着手し、産業社会への転換を図った(白色革命)。しかし近代化の基礎構造に乏しかった当時のイランで恩恵を享受できたのは一部の市民だけであり、急速なインフレによって貧富の格差は拡大。王室や高級官僚らに汚職がはびこり、土地を分け与えられた貧農たちは灌漑を維持する資力がないためやむなく棄農しスラム化するといった悪影響が生じた。またヒジャーブ(顔や体を覆う布)の禁止、一夫一妻制の導入など女性の権利回復を唱えたが、こうした世俗化政策はイスラーム法学者らを中心に非難を浴びることとなる。その背景として、ウラマーイスラム法学者、知識人)の政治介入を禁じていた最高指導者アーヤットラー・ブルージェルディが1961年に亡くなったこと、同年『宗教法の諸問題の解説』を著したホメイニー師がアーヤットラーの地位に昇進したこととも関連している。

1962年、それまでムスリムに限られていた参政権の範囲を自由主義的なバハーイー教徒にも拡大する法改正を試みる。バハーイー教は19世紀半ばにイランで生まれた「バーブ教」をルーツとする。バーブ教の開祖セイイェド・アリー・ムハンマド(1819-1850)は、自らをイスラムシーア派十二イマーム派の教えにある“マフディー(救世主)”、“隠れイマーム(十二代イマームムハンマド・ムンタザルが死すことなく幽隠しているとする考え)”の再臨であると宣言し、「バーブ(門)」を名乗った。これに憤慨した十二イマーム派聖職者らはバーブ教を異端者、背教者と断じ、弾圧ののち1850年バーブを銃殺した。弾圧から生き延びて国外追放となったバーブの高弟ミルザー・ホセイン・アリーが、かつてバーブが到来を予言していた新預言者「バハー・ウッラー」を自称し、1863年に興したのがバハーイー教である。そうした経緯から、シーア派十二イマーム派は自分たちと同じ参政権が異端宗徒に対して与えられることは容認しがたいものであった。

ルーホッラー・ムーサーヴィー、のちにホメイニー師と呼ばれる人物は、1902年、イラン中部・ホメインの町に暮らすサイイド(預言者ムハンマド直系の子孫)である法学者の家に生まれる(法学者はニスバ=帰属で呼ばれるのが一般的である)。早くに父親を亡くし、シーア派の学問的中心地コムでイスラム法学を修め、上級法学者アーヤトッラーの称号を得た。その信条は、「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」とされる。第二次世界大戦中の1941年頃からパフラヴィー2世による西欧化政策に異を唱えるようになり、イスラムの世俗化とその独裁性を厳しく非難し、バハーイー教徒の参政権拡大の法改正を撤回させるなど反体制派の中心人物となった。

しかしパフラヴィー2世は軍事クーデター以来、アメリカCIAの支援を受けて諜報機関SAVAKを立ち上げ、政敵を監視下に置くことで政情の安定を図る開発独裁体制を固めていたため、反体制派に影響力を強めていたホメイニー師はその槍玉として拉致され、1964年に国外追放とされる。

 

イラン革命とイランアメリカ大使館人質事件

追放となったホメイニー師はイラクにある聖地ナジャフに移り、ガイバの間はイマームに代わって法学者が信徒の統治をせねばならないとするシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱え、帝政イラン打倒を掲げる反体制派のシンボル的存在となる。「ガイバ」とは、最後の「イマーム=模範」となるべき特別な指導者が肉体的な死後も「幽隠」しており再臨するという思想である。ホメイニー師は、かつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者」の抵抗の象徴とし、独裁によって貧困を強いられている状況と自分たちの反帝政運動をそれに重ね、イスラームによる被抑圧者たちの解放革命だと標榜したのである。

イスラーム統治論』では、西欧社会をすなわち「植民地主義者」と断じて、300年以上をかけて利益獲得のために多様な手段で反イスラムの宣伝と陰謀が行われてきたと糾弾している。その影響は、宗教学界で養成される布教者、大学や政府の宣伝、印刷出版所における植民地主義者の代理人らに及び、真理と正義を求める人々による本来のイスラムの宗教を捻じ曲げてきたと説いた。そうした植民地主義者」たちがこれまでイスラムが持つ活力と革命的性格を奪い、自由を求めるムスリムの幸福のための「イスラム法規範に則った統治」を阻止してきたとして革命の正当性を主張している。

 

1970年代に入るとオイルショック等によりイラン経済は不調に陥り、貧富の差がますます拡大。パフラヴィー2世は自らの称号を「アーリヤー・メヘル(アーリア人の栄光)」と定め、父レジャー・シャー霊廟建設やイラン‐ペルシア建国2500年祭典によってイラン・ナショナリズムの発揚を目指したが却って求心力は低下。二大政党制から一党制への転換によって、元来の社会主義支持者だった農民層や中産階級が反体制運動に加わる事態を招き、さらに反体制武装組織モジャヘディーネ・ハルグやイラン共産党も参加してデモやストライキが激化していく。1978年のパリ亡命後もホメイニー師はイラン国民へ帝政打倒を呼びかけ続け、12月に起きた反政府デモはイラン全土でおよそ2000万人ともいわれる規模にまで拡大した。翌1979年1月16日、度重なる暴動にもはや収拾がつかなくなったパフラヴィー2世は休暇と称して家族とともにエジプトなどへの亡命の道をたどった。

 

これを受けて1979年2月、ホメイニー師は15年ぶりの帰国を果たすとイスラム革命評議会を組織しパフラヴィー政権に代わる公式政府となった。国民投票により98%の支持を得、4月1日イラン・イスラム共和国樹立を宣言。ホメイニー師は終身の最高指導者(*)としてイランの国家元首となった(イラン革命)。

(*革命イランの統治機構は、行政・立法・司法・軍・報道など全般にわたって最高指導者にその実権がある。大統領は最高指導者の権限外の行政を担う長という立場)

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その後、パフラヴィー元皇帝は癌治療の名目でアメリカ入国を求め、「人道的見地」からそれを認めたアメリカ政府に対し、イラン革命政権は強く抗議。10月22日の受入れ以降イスラム法学校の学生や暴徒らがテヘランアメリカ大使館で抗議デモを行い、11月4日には大使館に侵入しアメリカ人外交官、海兵隊員ら52名を人質にとって占拠し、元皇帝の身柄引き渡しを要求した。抗議デモ、占拠騒動に対してイラン革命政府は黙認の態度を決め、国際法を無視した横暴に対し諸外国からは大きな非難を浴びた。

(1980年1月、アメリカ政府とカナダ政府の緊密な協力により大使館からの脱出した6名の領事部員グループは、カナダ大使らによって匿われCIAの手引きによりテヘラン脱出に成功。その出国劇は2012年にベン・アフレック監督により『アルゴ』として映画化された。)

 

これに対してアメリカ国内では在米イラン大使館などへのデモや在米イラン人への迫害事件が起こり、やがて人質救出のために軍事的手段をとらないカーター政権に批判が集中。1980年4月イーグルクロー作戦と呼ばれる空母と艦載機による人質奪還を試みるもトラブルが重なって失敗。却ってイラン革命政府は態度を硬化し、大使館占拠を支援することとなる。ところが同年7月パフラヴィー元皇帝が亡命先のエジプトで亡くなり、大使館占拠の根拠が失われたためアメリカとイランは妥協点を探るべく交渉を続ける。その後、共和党ロナルド・レーガンがカーターを大統領選で敗り、カーター退任の1981年1月、444日ぶりに人質は解放された(イランアメリカ大使館人質事件)。以来、40年以上にわたって両国の国交は断絶されたままである。

 

■イラン・イラク戦争(1980~1988)

革命直後から長きに渡って続いたイラン・イラク戦争へと移りたい。 

イラン革命後、周辺アラブ諸国では「イスラム法の施行による公正な社会の建設」「イスラム自体の敵に対する大同団結」を主張するホメイニー師の思想的影響力(イスラム原理主義)が波及することへの警戒感が強まっていた。ときを同じくして1979年、アラブ帝国再興(アラブ民族社会主義)を掲げるイラクバース党から大統領に就任したサダム・フセインは、粛清により独裁体制を確立し、中東最大の軍事大国へと軍備拡張を続けていった。イラク多民族国家だが、人口の過半数シーア派が占めており、革命思想が流入する事態を避ける必要があった。

 

1980年9月22日、イラク軍が失地回復の名目でイランの空軍基地に奇襲を仕掛け、1975年に結ばれていた国境画定のためのアルジェ協定が破棄される。ホメイニー師は、民族主義を西洋起源の思想であるとしてフセイン政権をイスラムの教えに敵対する勢力とみなし反撃に高じた。しかし抗戦を示したイランであったが、革命直後で国内の指揮系統が混乱していたこと、兵器整備や補充調達が困難に陥ったことなどから、準備に勝るイラク優位に戦局は進んだ。

イスラム革命の拡大に加え、石油危機の再来をおそれた米英仏ソ中などの大国は、当時サウジアラビアに次ぐ石油輸出国だったイラクを積極支援。周囲のアラブ諸国は、同じイスラム教でもスンニ派が多く、王政・独裁制が敷かれていたため、やはり革命思想の流入をおそれてイラク支援へ回った。

東西諸国から制裁措置を発動されたイランは自国民による人海戦術で対抗し、20万を超える義勇兵が前線に加わったとされる。また当時のCIAの報告によれば「中国はイランにとって最大の武器供給国だが、皮肉なことに中国にとって最大の武器取引相手はイラクである」とあるように、武器輸出国に利をもたらすばかりの戦争でしかなく、結果として冷戦構造における代理戦争の様相を呈し泥沼化していった。イラン側への政治的支持を表明した国は、イラクと敵対していたイスラエルイスラム教でも少数派のアラウィー派系政権だったシリア、独自のイスラム社会主義を掲げるリビア、反米的共産主義をとる北朝鮮であった。

 

1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められてイラクが石油輸出を封じられると、イランはたちまち攻勢を仕掛けて旧領土を奪還。その一方で、同年6月、レバノン内戦の再燃、イギリスのフォークランド戦争、翌年はアメリカによるグレナダ侵攻、ソ連アフガニスタン侵攻の長期化など、各地で情勢不安が起こったため、欧米の関心がイラン-イラクから一時的に逸れることとなる。

1983年4月、レバノンの首都ベイルートアメリカ大使館にワゴン車を使った自爆テロが行われ、大使館職員17名を含む63名が死亡、120人が負傷した。同年10月、ベイルートに置かれたアメリ海兵隊基地で同じくワゴン車を使った自爆テロが起こり、241名が死亡。同日、フランス空挺隊基地にも同様の自爆テロが襲撃し、64名が死亡した。これらの自爆テロやシリアへの報復失敗の余波で、アメリカ世論はレバノン撤退へと傾き、1984年2月米軍撤退、フランス、イタリア両軍も引き上げた。軍備に劣る苦肉の策が、結果的には大国を撤退へと動かし、自爆テロの有効性が認められてしまったのである。

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米軍撤退からイラン-イラク間の戦闘は再燃し、イラクの毒ガス兵器、化学兵器使用が判明すると世界的非難が一層高まった。1984年11月、アメリカはイラクと国交回復して公式の援助を開始する。一方、イランは、イラク北部で自治を求め紛争を続けてきたクルド人(*)反政府勢力に反乱を仕向けていたが、1986年、アリ・ハサン・アル・マジッド率いるアンファール作戦が開始され(~1988)、およそ2000のクルド人居住区を破壊、延べ5万人から18万人余りが銃撃や化学兵器によって大量虐殺された。

(*クルド人は国家をもたない世界最大規模の民族集団のひとつとされ、トルコ、イラン、イラク、シリアにまたがる高原地帯クルディスタン地方におよそ2500万人が居住し、当時イラク人口の1割以上を占めていたとされる。油田地域の占有とアラブ人移住を企図したこの殲滅キャンペーンによって150万人のクルド人らが難民として強制退去を余儀なくされた。1988年に起きたハブラジャ事件など化学兵器による大量虐殺について、当時イラク支持だった欧米諸国はほぼ黙認の対応をとった。アメリカは化学兵器による虐殺はイランの仕業であると主張するサダム政権に同調し、1990年の報告書で「両軍が化学兵器を用いたがクルド人虐殺はイラン軍による爆撃である可能性が高い」と指摘。国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによる1990年代前半の調査によれば、アメリカ政府はイラクによるハブラジャ攻撃について十分認識していたとその対応を非難した。またヨーロッパの企業・研究機関がイラク側に化学兵器及び元となる原料を卸していたとする指摘もある。)

同年8月内戦中のレバノンアメリカ軍兵士がシーア派系過激派組織「ヒズボラ」によって拘束される(上述のベイルート自爆テロヒズボラによるものとされる)。ヒズボラの後ろ盾であるイランと国交断絶中であったアメリカ政府は、非公式ルートを通じてイラン政府側と交渉を行い、人質救出の条件として極秘裏にイスラエルを介して武器輸出を行うことを約束した。アメリカ国家安全保障局はこの武器売却で得た収益を、親米のサンディニスタ独裁政権が倒れ左傾化が進む中南米ニカラグアで内戦を行う親米反政府ゲリラ「コントラ」への支援に当てていた。12月、秘密裏に行われたイランへの武器輸出およびニカラグアへの資金流用が暴露されレーガン大統領への非難が強まる。当時議会の多数派を占めていたのはレーガン大統領ら共和党ではなく民主党だったために秘密裏に交渉が進められたものとみられる(イラン・コントラ事件)。

背景として、冷戦構造が激化していた1979年にイラン、ニカラグアと親米独裁政権が立て続けに革命を受けて倒れたことや、イランアメリカ大使館人質事件に対する(米国民から見れば)前カーター政権の弱腰な対応が1980年に新保守主義者のレーガンを大統領に導き「強いアメリ」の再現のために強硬姿勢を崩せなかったことなどが起因していよう。

 

1987年7月、国連安保理が598号決議を採択し、即時停戦などを求めたが、交戦状態は止まず。10月にはアメリカ船籍の石油タンカーが攻撃を受けた報復として米軍はイランの2つの油田を爆撃。この攻撃による原油不安などをきっかけとして先進各国に株価の大暴落が連鎖し、ダウ平均株価は前週末から508ドル下落率22.6%を記録した。1929年の「ブラックサーズデー」(下落率12.8%)を凌ぐ「ブラックマンデー」と呼ばれ、世界恐慌の引き金となった。

1988年2月、イランとイラクは相互に都市攻撃を再開したが、アメリカがペルシャ湾に出動し4月にイランと交戦、第二次大戦後にアメリカ海軍が行った最大規模の水上戦といわれる。同年、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが翻意し、断交を通告。同7月、イランは安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日停戦が発効。両国の犠牲者は推定で100万人程度とされ、経済的にも甚大な被害を及ぼした。

www.theguardian.com

 1960年代前半からホメイニー師の側近を務め、次期指導者とされていたフセイン・アリ・モンタゼリ(1922-2009)だったが、1980年代後半には両者の間に緊張関係が生じていた。モンタゼリは、ホメイニー師の亡命先からの帰還を先導した立場だったが、そもそもウラマーイスラーム法学者)は政治については監督者に徹するべきという考えを持っており、国政への直接的介入について前向きではなかったとされる。また革命初期に投獄や拷問を受けた経緯から、伝統を重んじる法学者としては希少なリベラルな信念を持つ人物として知られる。

革命の理想とはかけ離れた軍事政府化、多くのムスリム同胞の屍が積み重ねられていった状況に対して、「人々の権利の否定、不正、そして革命の真の価値観の無視は、革命に対して最も深刻な打撃を与えました。復興が行われる前に、まず政治的およびイデオロギー的な復興がなければなりません...これは人々がリーダーに期待するものです」と後のインタビューに応えている(Baker Moin,『Khomeini』2000,Thomas Dunne Books)。

1989年、革命を失敗と見なすモンタゼリの考えはホメイニー師に対する批判と捉えられて失脚。アリー・ハーメネイー師の最高指導者就任後も、モンタゼリは公然と革命や政府に対する批判を行い、1997年から6年間にも及ぶ自宅軟禁状態に置かれた。2009年の彼の死について公式報道では「暴徒の聖職者」として伝えたが、人権擁護の考えや政府批判の立場は国内外に広く支持されていた。同年暮れのモンタゼリの葬儀参列者たちは同年のイラン大統領選に抗議するグリーンムーブメント(緑の革命)と合流し、マフムード・アフマディネジャド大統領とハメーネイー師に対する抗議デモへと発展した。

 

 

■革命のつづき

カージャール朝はもとより、オスマン帝国時代から西欧キリスト教世界とイスラーム世界の文明衝突は繰り返され、第一次世界大戦というエポックによってイラン地域の統治体制が一層大きく揺らいだ。そうした変化は、植民地主義の増長と捉えられ、パフラヴィー朝ではナショナリズムによる抵抗が試みられるが、第二次世界大戦の大渦によって否応なく欧化の波に飲み込まれていった。

それに呼応する民衆運動として社会主義の流れが生じ、ホメイニー師はこれを一国民国家の問題ではなくイスラームの危機として捉え、パフラヴィー朝のみならずその背後にある西欧キリスト教世界という強大な敵対勢力への打倒(反帝国主義)を掲げた。このイデオロギーファンダメンタリズムと呼ぶべきか、ポピュリズムに列するべきか、筆者には判断がつかない。だがイラン国民にとってこの革命は、王室の強権的な支配構造から政治的主体性を取り戻し、イギリス、ソ連アメリカといった大国からの影響に曝されてきた時代に終止符を打つことを意味した。

 

さらに革命思想の輸出を試みたことについて考えると、クルアーンに基づきムスリムは単一の共同体を形成するというイスラーム主義を唱えること、国境なきイスラーム主義により革命の主体を「被抑圧者たち」へと広げ、世界中で蜂起を促すことで、より大きなパラダイムシフトを企図したという見方もできる。

これはイラン国内ではシーア派が国民の大多数を占めるものの、ムスリム全体で見ればシーア派は少数派で、全体の1割強の人口しか持たないことにも起因しているのではないか(*)。もちろんイラン一国で西洋社会の打倒を唱えていても無謀にしか映らず、勢力の拡大が必要だったには違いなく、革命思想の積極的な拡散によってイスラーム社会全体におけるイニシアチブを握る意図があったようにも受けとめられる。

(世界のムスリム人口は18億人以上いるとされ、そのおよそ8割をスンナ派が占めるといわれている。スンナ派ムハンマド以来の慣行を護持する民を意味する。「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドアッラー使徒なり」の文言に表される通り、神の唯一性に基づく世界観・存在論聖典クルアーンコーラン)の信仰箇条においてはシーア派と大きな違いはないとされる。シーア派は第4代カリフ・アリーの子孫のみを正統なイマームとみなす宗派であり、スンナ派に比べて聖者信仰や神秘主義的な傾向があるとされ、既述のガイバ(幽隠)のようにイマームがやがて救世主として再臨するといった終末論的な特徴もある。)

parstoday.com

五十嵐氏はホメイニー師の功績を、イスラーム主義を徹底する覚悟にあったとして、その主張を以下の3点にまとめている。

一、イスラームスンナ派シーア派の区別を超えて、すべて一族同胞である。
二、イラン・イスラーム革命は精神革命であり、物質的利益を目指すものではない。
三、イスラームに敵対する勢力は、断固これを排除する。

イラン・イラク戦争終結したが、ホメイニー師にとってはイスラームの敵と妥協するかたちで革命の終わりとする訳にはいかなかった。そこに『悪魔の詩』という一本の矢が天に向けて放たれたと見ることはできないだろうか。

悪魔の詩』に対するファトワは、出版関係者・翻訳家といった西洋社会のすべてに向けられていなければならず、その執行は全ムスリムに委ねるという勧告のかたちであった。すなわちホメイニー師は悪魔の詩』に西洋社会との衝突の火種を、“革命のつづき”を見出したのではなかったか、と筆者は考えている。

 

■『悪魔の詩』について

1988年9月、サルマン・ラシュディが小説『The Satanic Verses 悪魔の詩』を英ペンギンブックス社より発行。タイトル『悪魔の詩』とはイスラム聖典クルアーンコーラン)を指す。

出版権を買い付けたピーター・マイヤーは原稿を読んだときの率直な感想をGQ誌の特集記事の中でこう述べている。

ニュージーランドからイギリスへ向かう飛行機の中で一気に読んだ。イスラム教の知識がなく、作品の全ては理解できなかったけれど。恥ずかしながら侮蔑的ととられかねない表現があることにも気づかなかった。でもそれが“西洋人の異文化への無知”の典型だったのだと思う

筆者は上で「天に向けて放たれた」矢と表現したが、『悪魔の詩』はイスラーム社会に向けられた批判でもなければ、西洋社会に向けたオリエンタリズムの書物でもない。宗教的観点を用いて移民社会とアイデンティティ・クライシスを扱った現代文学であり、その切っ先は両社会に対して向けられているといってもよい。

本書は出版直後からムスリム社会からの激烈な反感を買い、インドと南アフリカでは発禁処分、12月イギリス・マンチェスターではイスラム系移民らによる数千人規模の焚書デモが巻き起こり、パキスタンの首都イスラマバードでは暴動により5人の死者、カシミールでは1名の死者と100人の重傷者が出るなど、世界各地に糾弾の動きが飛び火した。当時の想いをラシュディ氏は以下のように振り返っている。

あれがいちばん悲しかったよ。僕は、僕自身がその一員でもある移民の文化に、声と血肉とを与える作業に5年を費やした。なのにその結果生まれた本は、ほとんど読まれることもなく、まさにそこに書きたかった人々、その本を真に理解してくれるであろう人々によって焼かれていたのだから(GQ誌)

www.gqjapan.jp

イスラム法学者・解釈学者タバリー(838-923)らは、コーラン53章“星(アン・ナジュム)”にはかつて神の預言としてイスラーム以前の多神教の神々を認めるかのような記述があったという伝承(ガラーニークの逸話)を残しており、後に預言者ムハンマドはそれを神の啓示ではなく悪魔によるまやかしとして章句を取り除いたとされる。

作品内では、主人公の2人のインド人青年を大天使(預言者ムハンマドをモデルとする)と悪魔に準えており、夢の中で大天使が悪魔の囁きに導かれていくかのような内容は、すなわち唯一神アッラーを悪魔と重ねた物語とも読むことができる。またムハンマドの12人の妻たちの名を12人の売春婦に当てはめて登場させるなど、イスラム社会からの反発を狙った挑発とも取れる揶揄が散りばめられている。

  

1989年2月14日、イラン最高指導者ホメイニー師は、『悪魔の詩』出版に係わった者の死刑を宣告した(ファトワ)。ラシュディの処刑者には、外国人である場合は100万ドル、イラン人である場合は2億リアル、という高額懸賞金が掛けられ、事実上、世界中のムスリムに発せられた宣告であった。同年3月、英国政府はラシュディ氏を保護下に置き、イランとの国交断絶に踏み切る。

イスラーム・ラディカリズム: 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか
 

 抗議が世界的広がりを見せていた1989年2月、出版者パルマ・ジャンニ氏、翻訳の任に当たった五十嵐一さんらが東京・日本外国特派員協会で『悪魔の詩』日本語訳出版記者会見に臨んだ。そこで一人のパキスタン人男性が会見席に乱入するという一幕があり、パルマ氏は「言論と表現の自由」を主張して対決的な論調を示すと、列席していた在日パキスタン協会のライース・スィビキ会長がパルマ氏に対して死刑宣告を突き付けるという騒動があった。

五十嵐さんは、同年4月『中央公論』(『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ『悪魔の詩』を訳したか』)において、

ラディカルなものには興味がある。ところでイスラームは、その成立以来、今日にいたるまでラディカリズムの伝統を持つ。ゆえに私はイスラームに惹かれるのである。
もっとも、私の信奉するラディカリズムとは、暴力的な事柄を愛好したり実践する、単に過激な言動や思想的傾向を指して言うのではない。この言葉の語源であるラテン語のラーディークス radix が、根本とか根元とかを意味するのに則して、およそものごとの根本にまで遡及し、根源的に考えたり反省しつつ実践する態度を指す。考えてみれば学問、文化、芸術とは、常識や偏見を掘り起こし、打ち破り、真に深いがゆえに新しい位相を切り拓く行為であったはずである。したがって、ラディカルな学問とかラディカルな芸術という呼び方は、一種の同語反復かもしくは本質形容詞なのであり、すべて学問、文化、芸術は本来的にラディカルでなければならない。その限りでは、小なりといえども生涯一学徒、一芸術家を目ざす私にとって、ラディカルであることは身の証しに他ならない。

私は終始ラディカリズムの本義に則してこれを称揚してきたのであって、表面波の暴力主義を全肯定したことなど一度もない。したがって一見して暴力的と映るホメイニー師の声高な言動の背後に潜む、イスラームの法的センスの複雑微妙な倍音を聴き分けるのと同程度の深さで、ラシュディ師の一聞して冒瀆的と思える小説に対しても、文学的、文体論的にラディカルな分析を加え、これを文学作品として高く評価してきたつもりである。

「一読者として興味を覚え、かつ一イスラーム研究者としても、同宗教に対する冒涜の書ではないと判断したからこそ、翻訳を引きうけたのであって、何も言論出版の自由、表現の自由のためにひと肌脱いだわけではないのである」

と翻訳受諾に至った真意を語っている。

会見での騒動やその後のファトワを受けて地元警察が身辺警護を打診したが、「本を読んでもらえば、誤解されるようなことはないから心配ない」と申し出に断りを入れたとされている(1991年7月25日号,『週刊文春』)。

 

1989年6月、ホメイニー師が死去。ファトワは発令した本人にしか解除することが許されないため、『悪魔の詩』に関する宣告は永続されることとなる。

1990年2月9日ホメイニー師の後継者アリー・ハーメネイー師が演説の中で「執行されるべきである」とファトワの有効性を改めて強調。

1991年7月、五十嵐氏殺害。イタリア、ノルウェーなど各地で出版者、翻訳者、図書館や書店等が襲撃される。

1993年、トルコ語翻訳者の集会が襲撃され37人が死亡。

1998年、イラン大統領モハンマド・ハータミーがファトワの撤回はできないが、国として関与せず懸賞金も支持しない立場を表明。

 

サルマン・ラシュディ氏について

1947年、インド・ムンバイ(ボンベイ)で裕福なイスラム教徒の家庭に生まれる。 父は弁護士、母は教師。14歳からイギリスで教育を受け、パキスタンへ一時移住した後、ケンブリッジ大学で歴史を専攻。ロンドンの広告会社に勤めたのち、1975年『Grimus』で作家デビュー。イギリス人女性と結婚し、イギリスに帰化。2作目となる『Midnight’s Children(真夜中の子どもたち)』(1980)で英ブッカー賞受賞(世界的権威のある文学賞。1993年に同賞25周年の最優秀賞も受賞)し、名声を得る。

インドではその内容がネルー=ガンディー王朝への批判とみなされたため、氏は同国を離れることを余儀なくされた。第4作となる『The Satanic Verses 悪魔の詩』(1988)以後、イスラム社会からファトワを受け、潜伏や亡命生活を経ながらも精力的に執筆活動を続ける。

2007年6月、文学への貢献を評価され英女王からナイトの称号を授与されている(「イスラム侮辱」で死刑宣告を受けたラシュディ氏に爵位 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)。2013年の回想録『ジョセフ・アントン』では冒涜する権利を主張し、表現の自由を追求する立場を示している。

殆どの小説はインドやパキスタンを舞台にしており、物語技法として現実を表現するために非現実的虚構を用いる“魔術的リアリズム”と呼ばれる手法に近いとされている。2002年の論集『Step Across This Line』において、イタロ・カルヴィーノトマス・ピンチョンら現代作家の影響を認め、初期にはグラスのほかジェームズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスルイス・キャロルミハイル・ブルガーコフからの影響もあったと説明している。

ラシュディ氏の作品は、自身がインド生まれのイスラム教徒として若くしてイギリスに渡り、多感な時期を寄宿舎生活や高等教育を受けて過ごすなかで、非西洋人の移民であることで感じる差別や疎外、異なる宗教観・社会観を否応なく経験し、自らの中に芽生えた“二重性”を文学表現に投影したものともいえるのである。

ラシュディ氏は主人公(や自分)と同じような移民の読者に、そのような相反するものを背負い込む生きにくさや葛藤は理解されるものと信じていた。しかし現実においては、移民の多くは社会的・経済的に過酷な暮らしを余儀なくされており、現地社会に適合することはより一層困難であった。差別や排斥を受けながら、旧郷の縁故やイスラームへの一層の傾倒によってようやくアイデンティティが保たれていたのである。

いわば生活苦を強いられている多くのイスラム系移民からしてみれば、氏は恵まれた環境で学び西洋社会に順応した“似て非なるもの”。その目には、イスラームの幸福を捻じ曲げながら、ゾンビや吸血鬼のようにあちら側の世界へムスリムたちを引きづり込もうとしている“植民地主義者”のように映ったかもしれない。

ホメイニー師の掲げた革命理論の実践とイスラーム主義の輸出はモンタゼリの言うように不完全なものだったかもしれないが、ムスリム同胞団によるクトゥブ主義や2000年代以降に活発化したイスラム過激派やグリーン・ムーヴメントなどとも関連付けることが可能かもしれない。非イスラーム圏(西洋文明)に対する排他性を帯び、イスラーム復興あるいはイスラーム式の近代化を模索するムスリムのための政治闘争である。

 

英国での爵位授与に対する反発デモ、イラン、パキスタン政府から英国政府への抗議などの動きを受けて2006年7月、radio netherlandsでラシュディ氏に関する番組がつくられた。そこでのインタビューの一部について、小林恭子氏の記事を引用させていただく。

イスラム教あるいは宗教が本来暴力的なものだ、という見方についてどう思うか?

私たちがイスラム教の過激主義と呼ぶところの現象には、ほとんど神学理論がないと思う。何を言っているかを見ると、コーランの内容にはほとんど関係ない。宗教というよりも政治哲学が入っている。世界中の他の国に対する嫌悪感や自分たちになされたことに対する怒りなどの方が多い。…キリスト教を含めて、どの宗教にもこういう問いを発するべきだ。つまり「宗教なのか、それとも政治運動なのか」と。今日、この2つの間の境界線が非常にあやふやになっている

政治哲学にも曝されることのない宗教は歴史上存在しているのか、そもそもそうした純粋な神学的理論の構築は可能なのか。それ以前に、自ら義勇兵として戦地に赴く若者、自爆テロに身を投じる過激派に純粋な神学理論や政治哲学が必要とされているとは筆者には思えず、ラシュディ氏の概念的な言い分にはややミスコミュニケーションな印象を抱かざるをえない。

自爆テロを担う当の人々は、カリスマ的リーダーの叱咤激励に鼓舞され、死後も家族の身の上を保証してもらえたり、達成の暁には英霊として祀られるといった自己犠牲的ロマンチシズムの上に成立するのである。そのときイスラーム思想であれキリスト教原理主義であれ、神学理論でも政治哲学でもなく、彼らの最期を飾る舞台装置のひとつに過ぎない。

 

五十嵐さんにとって、かつてイランで「移民」として募らせた感情が作者・登場人物への共鳴意識となり、『悪魔の詩』翻訳を宿命的な仕事と予感させたかもしれない。ファトワが現実のものとなり、身に危険が及ぶことは重々承知していたことのようにも思われる。その一方で、芸術家・表現者としてイスラーム思想に精通、もとい心酔していたからこそ、読めば分かってもらえるという自負があり、話せば分かり合えるといった希望的観測も働いたのではないか。実行犯は『悪魔の詩』を読んでいたのか、襲撃された五十嵐さんに相手を説得する猶予はあったのか、はたしてその真実は神のみぞ知ることとなった。

 

 

 

参考記事

www.dailyshincho.jp

 

ukmedia.exblog.jp

富山県「人形山」の民話について

前回取り挙げた富山県砺波地方に伝わる「ヒンナ神」について調べていたところ、砺波の南に位置する飛騨高地の北部、現在の富山県南砺市五箇山から岐阜県白川村にまたがる「人形山(にんぎょうざん)」に伝わる民話を目にしたので今回はそのお話を。

尚、人形つながりではあるが、ヒンナ神とはおそらく直接的な関係はないと思われるのであしからず。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 

 ■人形山について

 人形山は日本三百名山新日本百名山にも数えられる登山者に人気の山で、麓の五箇山白川郷の合掌造り集落は1995年ユネスコ世界遺産に登録されており、観光地としてもよく知られた地域である。

奈良時代、越前の僧・泰澄大師(たいちょう、682-767)が白山とともに開山したとされる修験道の山である。かつて人形山山頂から移遷された白山宮本殿は、祭神は白山菊理媛命とされ、十一面観世音菩薩妙理大権現の御神体を安置する。本殿は富山県最古の木造建築物、国の重要文化財であり、その祭礼で奉納される“こきりこ節”の歌と踊りは無形民俗文化財に指定されている。

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人形山

 人形山は、古くは“ひとかたやま”と呼ばれ、その由来には悲しいエピソードが残されている。

むかし越中の山間にある平村に母親と娘姉妹が三人で暮らしていた。

早くに夫を亡くした母親は、毎朝、権現様が祀られている山頂を仰ぎながら拝むことを日課とし、一生懸命に働いて娘たちを育てていた。しかし無理がたたったのか、母親は病気がちになり、幼い姉妹が看病しながら母の代わりに働いてどうにか家を支えた。

母親の病は春になっても良くならず、姉妹は「南無白山権現」と唱えながら母の治癒を願い、いつも山頂を仰いで手を合わせていた。

そんなあるとき親孝行な姉妹の夢枕に権現様のお告げがあり、いいつけ通りに谷川を遡っていくと病気を癒す温泉を探し当てることができた。喜んだ姉妹は険しい道を代わる代わるに母親を背負って、毎日その湯治に連れて通った。そうして秋になる頃には母親の容態もみるみると良くなった。

姉妹は権現様に大変感謝し、山にあるという権現堂へ二人でお礼参りに行こうと思い立つ。親に断りを入れることなく山へと向かったが、ようやく権現堂にお参りを済ませる頃にはもう日が傾きかけていた。その帰り道、幼い姉妹は思いがけない霧と吹雪に見舞われて遭難してしまう。

ふもとの家では母親が二人の無事を祈っていたが、待てど暮らせど帰ってこない。やがて雪が降り積もり、里山に長い冬が到来する。

 

待ちわびていた春を迎え、村人たちは真っ白だった山が少しずつ山肌を見せる様子を毎日眺めていた。もう田植えも間近というある日のこと、村の者が山を見て何やら騒ぎ立てる。

「“ひとかた”だ!」

山の中腹にかかった残雪が、まるで人の姿に、さながら手をつないだ二人の娘のように見えたのだった。

 幼い姉妹は知らなかったが、その山は僧が心身を鍛える修験の霊場で「女人禁制」の厳しい掟があった。その禁を破ったために姉妹は山の怒りに触れてしまったのか。山肌に現れる“ひとかた”の残雪は、信心深い母親を憐れんだ権現様によるせめてものとりなしなのか。

姉妹の“ひとかた”の話は村の人々に語り伝えられ、いつからかこの山を“人形山”と呼ぶようになった。

 はたして実際に“ひとかた”に見えるかどうかは各人でご確認いただきたい(筆者は心があれなので見えなかった…)。

 

 

この人形山の民話はかつてJNN系列で放映された『まんが日本昔話』第533話でアニメ化されており、下の非公式ファンサイトのコメント欄では感想などの他、物語のルーツについて若干の議論がなされている。

nihon.syoukoukai.com

そこで気になったのが、この話を「子どもの間引きではないか」と推察する投稿である。

 

お住まいの方やゆかりのある方からすれば心外に思われるかもしれないが、民話について様々な解釈の余地があることは非常に興味深く、こうした考察や検証も民話を学ぶ醍醐味だと筆者は思う。

真相は権現様でもなければ分からないため、筆者には諸説を否定するつもりは全くない。ここでは間引き説に対する検討、および個人的な所感などを記していく。以下、地域や民話・郷土史を中傷する意図のない、空想にすぎないのでお目こぼしをいただきたい。

 

 

先ずはじめに感じたことは、はたして間引き・捨て子が行われていたとして、そのような呼び名をつけるか、後世まで子捨てにまつわる名前が残るだろうか、という疑問である。

 

過去エントリ『河童にまつわるエトセトラ』でも触れているが、古事記に書かれたイザナギイザナミの国産み神話においても「我が産める子よくあらず」として蛭子(ひるこ。胞状奇胎か奇形などの先天的疾患のある嬰児か)を葦の舟に乗せて流した記述があることからも、古代より「子捨て」の慣習は人々の営みとして広く普及していたと考えてよいと思う。 だが「子捨て」が背徳感ぬきに行われていたかというと、やはりやむを得ぬ事情の場合に限られたであろうし、「生命を神にお返しする」という弔いの心情から山海川へ葬ったのであろう。

仮にむかしの村人が自分たちの行いへの戒めや罪の意識などによってそう呼ぶようになったとしても、後世の村人たちや為政者はそうしたネガティブな歴史を継承することを嫌い修正すると考える方が自然ではないか。

 

旧来の地名には、その土地の素性(自然地形、開墾者・開拓者の名、職業集団や施設に由来するもの、移民者がかつて住んでいた地名をなぞったもの、周辺地域との関係性・位置関係など)が付された名称が多い。下の『週刊現代』記事にもあるように、旧地名が示すネガティブな印象を払拭するため為政者や都市開発を担う企業などがポジティブなイメージを上書きするために新地名をつけることも多い。

gendai.ismedia.jp

たとえば北海道は先住民によるアイヌ語の呼称に由来する地名が多いことで知られるが、現在の支笏湖(しこつ)は大きな窪地を意味する「シコッ・ペッ」と呼ばれたことから、その周辺は「志古津」「支笏」の地名が採られた。しかしこれが「死骨」に通じて縁起がよくないとして、文化2年(1805)、函館奉行所によって「千歳」の地名に変更された歴史を持つ。

人形山の民話の成立年代は判然としないものの、仮に子殺しにまつわる名称が何世紀にもかけて残されてきたとすれば、いまごろ人里に近い山という山はそのほとんどが“子泣き山”やら“姥捨て山”を示唆するような名称でいっぱいになっているようにも思うのだ(*)。

 

(*余談であるが、丹波新聞、2019年4月掲載の興味深い記事を紹介させていただく。兵庫県篠山市内の松尾山に「ガンコガシ」「ガンコロガシ」と呼ばれる場所があり、棺に老人を生きたまま入れて谷底へ落としていたという「姥捨て山」のごとき伝承が残されている。村の長老たちは子どもの頃から親や年配者にそう聞かされてきたというが、地元の郷土史家は「口減らしは考えられない」と歴史から紐解いていく。

tanba.jp

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一読者としては、村の子どもに危険な場所を知らせる意味や霊地としての供養・山の管理を怠らないようにといった村の教訓があったようにも思われるし、記事中の郷土史家・酒井勝彦さんは寺のご住職という本職もあり、「間引き」「姥捨て」に対して否定的な認知バイアスがあるのではないか、という印象もぬぐえない。)

 

 

人形山の民話に伝わる姉妹像について、山歩き沢歩きする体力があり、大人社会の道理にはまだ疎いとされることから、年の頃は六~十二歳前後かと想定される。やむを得ぬ事情こそあれ、ここまで育てていれば子捨てよりは丁稚奉公や人身売買の方が良心的であり現実的のようにも思える。

「間引き」の調査研究の多くは、寺請制度が確立され人口動態が把握できるようになった江戸時代以降の子殺しが対象とされている。地域でいえば冷害などによる飢饉の影響が大きかった北関東・東北地方の農村に多かったとされ、食糧不足による口減らしといった緊急避難的なケースのほか、望まれない妊娠に伴う堕胎・嬰児殺しも少なくなかった(*)。記録には乏しいが、中世以前であったとしても「子捨て」が行われるとすればやはり物心もなく親心もつかない嬰児が中心だったのではないか。

それとも「母親思いの幼い姉妹」像は想像上の産物で、実態は嬰児のうちに捨てたといった仮説ならば成り立つのかもしれないが、ここでは民話に基づいて幼い姉妹は実在していたと考えて話を進めていく。

 

(*また余談になるが、民俗学の父・柳田國男明治20年から2年間余り、13歳からの多感な時期を長兄が世話になっていた下総の布川(現在の茨城県利根町)の旧小川邸で過ごし、代々学者の家系であった小川家の土蔵で万物の書物を読み漁ったという。このとき後年の研究の手引きとなった赤松宗旦『利根川図志』に出会うとともに、近くにある徳満寺で見た『子返しの絵馬』に強い衝撃を受けたことを自伝的エッセイ『故郷七十年』に記している。

その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。

 利根川周辺も古くより川の氾濫や飢饉に見舞われてきた農村地域が広がる。子返しの絵馬は、間引き行為の浅ましさ・おぞましさを伝えることで抑制や戒めを図る目的で書かれたものである。柳田は身をもって飢饉のおそろしさを知り、その後、飢饉の根絶を志して農商務省へ入省。飢饉の影響が大きい東北地方を中心に全国を周り、『遠野物語』の執筆など日本の郷土研究・民俗学の理論化に邁進することとなる。

また江戸時代の「堕胎」「間引き(嬰児殺し)」「捨て子」については、文末に付した豊島よし江氏のレポートをご参照されたい。生命の選別について非常に考えさせられる内容となっている。)

 

 

はたして飢餓はあったのだろうか。伝承のある五箇山地域は、縄文中期とみられる土器が各所で出土しており、およそ4000年前から人々が暮らしていたと考えられている。白山の豊かな水の恵みがあったほか、稲作がなかった時代にも山岳地域での狩猟・採集に適した土地だったと見ることができる。

後世にあっても、山岳地形により作付面積は非常に限られ、稲作の占める割合は少なく、穀物は焼き畑による稗・粟・蕎麦栽培が主であり、貨幣経済が浸透する以前では食料の不足分をやはり狩猟・採集で補って生活してきたと考えられる。栽培に適した土地ではなく、豪雪地帯であることからも決して村全体が豊かな暮らしとはいかなかったかもしれない。だがもともと食糧自給の方策が分散されていた結果、冷害などによる凶作時にも平野部の稲作専業農家のような直下型のダメージからは回避され、山や川からの恵みを得ることで飢えを凌ぐ手立てを取りえていたのではないかと推測する。

gokayama-info.jp

上の世界遺産五箇山観光情報サイト『五箇山彩歳(さいさい)』によれば、16世紀後半、加賀藩前田家の領地とされた時期には、養蚕、製紙、塩硝(火薬の原料)、蓑づくりで金銭を得て年貢を納め、残った金をコメや食料、生活物資の調達に充てたとされている。とりわけ塩硝製造は戦国時代から品質にすぐれることで知られ、明治4年の輸入開始まで貨幣獲得のための基幹産業であり、外貨獲得につながる輸出品だったことから加賀藩による庇護もあったとされる。

現在は山里の情緒ある集落風景として知られるこの地だが、見方を変えれば山岳地形によって外界から遮断された「火薬製造工場群」だったという歴史は非常に面白い。

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五箇山・相倉集落

また南砺市の公開資料・千秋謙治「砺波農民の相馬中村藩への移民」(2009)によれば、天明の飢饉や疫病によって大幅な人口減・人口流出が続いた相馬中村藩(現在の福島県南相馬市・相馬市)では人手不足による農地の荒廃が深刻となり、文化8年(1813)から弘化2年(1845)までの間に北陸など他領から8943人、1974戸という大規模入植を進めたとされる。判明した分だけでも富山県全域で413人、うち現在の南砺市から231人、の移住が確認されている。もちろん入植を選択する背景には、長子相続の法や貧困(耕作地・食料生産の不足)などがある訳だが、南砺にかぎらず江戸時代の北陸地方は“人余り”の状態であったといわれている。

白河藩(現在の福島県白河市)藩主だった松平定信は、寛政の改革に着手する前年に、女が少なければ越後から呼び寄せて百姓に嫁がせるといった人口政策を唱えている。江戸期には北前船による北海道との交易から入植者や開拓者がおり、上述のように北陸地方から北関東~東北各地へ農地復興の移民が必要とされ、明治期からはハワイ・南米などの国外へも大規模な移民が続けられた。

 

 

間引き説に対するもうひとつの異論として、宗教的背景がある。

人形山民話の軸は、「姉妹の死」による悲話ではなく「母娘の信仰」にあると筆者は考えている。

民話に登場する母親のように、古より山を仰ぐ「遥拝」のアニミズムがあったことは想像できる。そして既述の通り、奈良時代以降、白山の一帯は霊場として修験者が入山するようになる。修験者にとって山は俗界と切り離された聖地にあたり、産褥や月経の穢れを負った不浄な存在として女性の立ち入りを厳しく禁じていた。中世、白山修験は熊野に次ぐ勢力とされるほどの隆盛を誇り、『源平盛衰記』『平家物語』には白山の僧兵による強訴と激しい衝突によって加賀国守が排斥される騒動が記されている。そうした荒ぶる僧兵が往来する霊場に立ち入って子捨てをしたとは俄かに考え難い。

マタギの世界にも「女人禁制」の習わしが伝えられているが(現在では山親方の裁量により女性マタギを認めている団体もある)、女人禁制の掟から現代社会の文脈にも適う合理性を導くことは難しい。山中の過酷さや体力面への配慮、あるいは煩悩や性被害への危惧から、女性を遠ざけたとする側面も間違いではないだろう。だが次第に、仏教や神道から抽出された男系的社会観の表れ、男性社会と女性社会を境界(結界)で分かつことによる役割論の形成・強化、ときに山に入る男性性の社会的権威付けといった意味も備えていったのではないか。修験や狩猟といういわば男性共同体のホモソーシャルを維持・強化するための隔離(異性の排除)という側面が強いものの、翻してみると一部には衆道・男色の営みなども含まれていたかもしれない。

 

江戸後期の北陸地方では“人余り”の状態だったと先に述べたが、その理由として、かの地に根付いていた浄土真宗が間引きを禁じていたことが挙げられる。浄土真宗(時代・政情・派閥により呼称が統一しておらず、ここでは一般的な歴史用語として用いる。真宗一向宗とも)はすでに中世後期には台頭しており、本願寺八世・蓮如(1415-1499)は、惣村的相互扶助と教義を結び付けた「講」の推進やその教えを分かりやすく説いた「御文」による布教などによって教団は急速な発展を遂げた。1475年、加賀国守・富樫政親真宗三派の統制を画策するも反対一揆に遭い、1488年、砺波郡の石黒光義と結んで国内統一を試みるが、やはり抑えきれず自害に追いやられている。戦国の権力闘争のさなか、およそ1世紀に渡って真宗系の百姓や国人衆が実質的な支配を握り「百姓の持ちたる国」とも呼ばれた(加賀一向一揆)。天正8年(1580)に織田信長石山本願寺(十一代宗主・顕如)を降伏させた後も、白山麓の鳥越城(現在の石川県白山市三坂町)を拠点とした山内衆が抵抗を見せるなどした。こうした宗教を介した地縁的結束は江戸後期からの各地に移民するようになってからも守られ、現地でも浄土真宗を拠り所としたことなどから「真宗移民」とも呼ばれた。

南砺五箇山地域は外界と閉ざされた地形でありながらも、人々が息づき、古代からの土着的山岳崇拝、渡来の仏教と融合された修験道、中世以降の浄土真宗、と途切れることなく信仰がつむがれたまさしく神仏混淆の地であることが分かる。上に貼付した兵庫県に伝わる「ガンコガシ」の逸話ではないが、古からの霊山に子捨てという宗教的禁忌は相いれないと筆者は考える。

 

 

 さて歴史を遡っていくと大きな問題に突き当たる。

泰澄大師による開山で山頂に創建された塔堂は兵火による消失を受け、祠を立てて安置したが、平安時代の終わり、天治2年(1125)に旧平村上梨集落の市郎右衛門先祖が神託を受け移遷したものであり、現在の白山宮本殿は文亀2年(1502)に再建されたものとする由緒が存在する。つまり鎌倉時代にはすでに山頂ではなく平村にお宮が存在しており、戦国時代には現在に伝わるそのままの姿で白山宮本殿が成立していたのだ。

母親が毎朝山頂を遥拝していたのは1000年前の話なのだろうか。それとも祠が平村に移築されてからも、麓の人々の慣習として遥拝が残ったということなのか。前者よりは後者の方がまだ説得力がある。だが1000年前の、移遷前の出来事として考えなければ、姉妹が「山頂の権現堂にお礼参りする」というストーリーは完全に破綻する。

 

さらに雪国にお住いの方や登山家、写真愛好家ならすでにご承知のことと思うが、 新潟県や長野県など雪の多い山地などではこうした山の雪渓・残雪の織りなすかたちにさまざまな呼称が付けられており、現在では「雪形」と呼ばれることが多い。地元住民以外に広く知られるようになったきっかけとして博物学者・山岳写真家の田淵行男氏による図版『山の紋章 雪形』(1981、学習研究社)が挙げられる。

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五竜岳の武田菱

山肌の地形によって冬場を通じて見られる雪形もあるが、気象予測の未発達な時代には春の訪れを知らせ、寒暖の変化を知らせる農事暦としての役割を担うこともあった。里山の人々は、雪形の出現時期に合わせて種まき、田植えを行ったり、雪解けの時期から冷害の有無や水不足の予測を立てるなどの慣習として後世まで伝えられた。山里の人々の一年の暮らしを占う重大な役割から、そうした雪形をそのまま山の名称としているケースも少なくない。たとえば信州・白馬岳は「代掻き(田に水を張って土を平らに整える農作業)」の目安とされた「代掻き馬」の雪形から「代馬」、「白馬」の名がとられたとされている(下の白馬ハイランドホテル記事では「代掻き馬」以外にも白馬岳に見られる多くの雪形を紹介している)。

www.hakuba-highland.net

 

はたして筆者の個人的な見解では、「人形山」の“ひとかた”は、間引きにつながるものではなく、農事暦として田植え時期を知らせる雪形のひとつとして考えている。さらに言えば、ひとかたの雪形から着想を得て物語化したエピソードであり、権現堂の移設を把握していない内容から五箇山地域に伝わる民話ではなく、非・地元人による創作ではないか、という考えに至った。

農事暦説が正しいかどうか、真相は“山”の中だが、創作だから悪いとか事実でなければ語る価値がない等という考えは毛頭ない。もしかすると行方不明の姉妹があって村人たちが“ひとかた”に二人の鎮魂を祈ったという事実があった可能性も無きにしも非ずなのだから。たとえ事実がどうであれ、“ひとかた”から様々な想像できるのだからそれはそれで面白いな、と感じている。そうした逸話が全国の山々に幾つあるのかは定かではないが、今日では「雪形」によって冬季から山開きの時期にあてた観光ビジネスのコンテンツのひとつとして利用され、山里の暮らしを潤しているにはちがいなく、筆者も今まさに人形山を訪れたいという気持ちに傾いているのである。

 

 

参考:

■探検コム 中絶と間引き

https://tanken.com/mabiki.html

■豊島 よし江『江戸時代後期の堕胎・間引きについての実情と子ども観(生命観)』

http://file:///C:/Users/PCUser/Downloads/2016_01_12.pdf

 ■中川 正『関東における北陸人集落の繁栄 ー近世末期移民門徒の現在ー』とやま経済月報・平成14年4月号

http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/index.html

■渡辺 礼子『明治・大正期に砺波地方から北海道へ移住した人々の足跡をたどる』

http://museums.toyamaken.jp/documents/documents026/

 

 

「ヒンナ神」「雛」「鐘馗」について

■ヒンナ神について

ヒンナ神とは、富山県砺波地方に伝わる憑物の一種とされ、同地出身の郷土史家・佐伯安一氏が『礪波のヒンナ神』(1949)、『礪波民俗語彙』(1961)などにその伝承を記している。

ヒンナ神を祀ると、祀った者の欲しい物をすぐにもたらすとされ、次々に用事を言いつけなければ「今度は何だ、今度は何だ」と催促しにくるため、すぐに財産家となった。そのため周囲で急に裕福になった家などがあると「あの家ではヒンナを祀っている」などと噂された。


“ヒンナ”は「人形」を意味し、その材料には「三年の間に三千人に踏まれた墓場の土」が用いられたとされる。

更に念の入ったものとなると、七つの村の七つの墓場から持ってきた土を人の血で捏ね、自分の信じる神の形にして、人のよく通るところに埋めて千人に踏ませるという。
同類の伝承では、三寸(約9cm)ほどの人形を千個作って鍋で煮ると、一つだけ浮かび上がってくるものがあり、“コチョボ”といって千の霊が宿った人形だといわれている。

 

こうした神の力を人形に宿し、祀った人に使役させる仕組みは、陰陽道の「式神」の呪法、丑の刻参りの“藁人形”などにも近しく思われる。

しかしヒンナ神には数多もの欲望が込められているため、一度でも祀るとその者に憑りついて死ぬときには非常に苦しみを味わわせ、死して尚も離れず、遂には地獄に落ちるといった代償があるとされている。

(似たような仕組みをもつ伝承として過去エントリ『河童にまつわるエトセトラ』にて「河童-人形説」に触れているのでよければそちらもご覧いただければと思う。)

 

これを解釈すると、村落共同体内部での「貧富の格差」によって生じる軋轢・妬み嫉みから生成された概念とも考えられる。

貧しい者にとっては富める者に対して「どうせ最後には罰が下る」と溜飲を下げることができ、富める者にとっては貧しい者からの嫉妬や略奪の被害を回避する効果もあったのではないかと推測できる。

人形ではないが「座敷童」伝承でも、家の繁栄や没落は当人の才覚や努力によって得られるのではなく、「神の恩寵(外からの見えざる力)」によってもたらされるというよく似た思考様式が共通している。

突き詰めればムラ社会やイエ制度に根付いた発想、流動性が低い村落内での人間関係を維持するために編み出された“知恵”のようにも感じさせる。

 

 

 ■ひとかたとひいな

源氏物語』十二帖・須磨の終わりには、光源氏が三月の上巳(じょうし)の節句にお祓いを薦められ、海で禊(みそぎ)を行う場面に「人形(ひとかた)」が登場する。

いとおろそかに軟障(ぜじょう)ばかりを引きめぐらして
この国に通ひける陰陽師召して祓へせさせたまふ
舟にことことしき人形のせて流すを見たまふによそへられて
知らざりし大海の原に流れ来て ひとかたにやはものは悲しき

(とても簡素に垂れ幕の間仕切りだけを引いて囲い、須磨の国に通う陰陽師を呼んでお祓いを施させなさった

舟に仰々しい人形を載せて流すのをご覧になると、自分の身の上と重なって思われ

「見知らぬ大海原に流されては 身代わりとて物悲しいものよ」と詠まれた)

上の引用部で人形は「ひとかた」と呼ばれ、穢れを人形に負わせて海や川へ流す、あるいは焼き払う厄払いの儀式で、陰陽道でいう「撫物(なでもの)」、今日の「流し雛」の原型と考えられている。

庶民の間では、草花あるいは木や紙、布で形代(かたしろ。霊を宿すための代理品)をつくって、こどもの枕元に置き、厄払いのために海川へ流す風習となった。海や川へ流すのは村の共同体から「外」に送り出すためである。藁舟や藁人形を流して疫病や流行り風邪を祓う「疫神送」「咳気送」も同様である。

 

源氏物語の五帖・若紫などに登場する「雛(ひひな、ひいな)」は幼児のままごと遊びに用いられる“お人形さん”を指しており、ヒンナ神の「ヒンナ」はこの「雛」に由来していると考えられる。

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今日の上巳の節句(いわゆる「桃の節句」)では家に飾ることで家人の災いを避ける「守り雛」の形式が一般的だが、その成立は江戸時代ごろとされている。それまでの紙雛や玩具としての人形から、宮中の殿上人を模して細工を凝らした雅な雛人形へと様変わりした。海川に流さずに毎年家で飾る用途となり、武家や商家の「嫁入り道具」として家財のひとつともされた。また同時並行的に17世紀の人形芝居や人形浄瑠璃文楽の隆盛が人形制作の職能を飛躍的に進歩させたと見ることもできる。

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しかし、穢れを祓う「流し雛」と家内に飾る「守り雛」が同源のものかどうかははっきりとしておらず、源氏物語にあった上巳の節句の禊の儀式が平安時代以降も脈々と継承されてきた形跡は認められていない。そのため作中の流し雛は、お祝い事としての「ひな祭り」のルーツとはいえないとする説もある。詳しくは下のひな祭り文化普及協會の記事・雛祭り起源考に詳しい。

hina-matsuri.jp

今日の「雛人形を早く片付けないと婚期が遅れる」といった俗説も、ルーツを紐解けば、「人形をそのままにしておいては厄払いが済んだことにならない」と解釈されたためかもしれない。

 

 

 

■鐘馗について

季節変わって五月、端午の節句では五月人形や鯉のぼりを飾ることで知られるが、疫病除けや学業成就の神様として「鐘馗(しょうき)」の人形や掛け軸を飾る風習も残っている。

 

鐘馗は中国の唐代に実在したとされる人物である。

9代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)に臥せっていた際、宮廷で「虚」「耗」という小鬼たちが暴れ回り、寵愛する楊貴妃の宝を盗まれる悪夢にうなされていた。夢の中で玄宗が助けを求めると、破帽子に角帯をつけた髭面の大男が現れ、瞬く間に小鬼たちを退治して一飲みにしてしまった。大男は鐘馗と名乗り、身の上を明かした。かつて武徳(618~626)の時代に科挙で優秀な成績を収め「状元」の称号を受けたが、大きな体と鬼のような強面が災いして称号を取り消されてしまった。それに絶望して自殺したが、初代皇帝・高祖が手厚く葬ってくれたのでその恩に報いるため、天下の災いを除くことを誓いに立て参じたのだ、と告げる。

夢から覚めた玄宗は病が治っており、呉道玄に命じてその姿を描かせ、邪気払い・息災祈願としてその図絵を臣下の者に与えたとされる。

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日本では平安末期-鎌倉初期に成立したとみられる辟邪絵(へきじゃえ。古くから信仰された疫鬼を追い払う善神の絵)・地獄草子益田家乙本(上図。国宝、現在は奈良国立博物館所蔵)に確認されている。

東洋の画題とその所以・故事などを解説した金井紫雲編『東洋画題綜覧』(1941-1943)には下のような解説が付されており、まさしく今日に伝わる“鬼”の図像的源泉だったように思われる。

其の像は巨眼多髯にして黒衣を纒ひ、冠を着け、剣を抜いて小鬼を捉へてゐる、古来日本では端午の節句に、此の像を懸けて、魔を攘ふことにしてゐる、その形も虎に騎るあり、馬に跨るあり、正面あり、横向あり、雲中にあるもの、帷幕をかかげて姿を現はしてゐるもの、さまざまに画かれてゐる

また近畿地方では魔除けとして屋根の上に10~20cmの鐘馗像を備える家もある。

江戸時代の京都三条で原因不明の病に伏した奥方が居り、医師が手を尽くしたが回復しなかった。困り果てていたところ、向かいに住む薬屋の屋根に鬼瓦が載っているのに気付き、鬼瓦が払い除けた災いがこちらに降りかかっているのではないかと思い至る。深草の瓦職人に鐘馗像を焼かせて鬼瓦に睨みを利かせる位置に据えたところ、奥方はたちまち全快したという謂れが残る。

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向かいの屋根に既に鐘馗像がある場合には、鐘馗の睨み合いにならないよう目線を逸らして据えたり、鐘馗の睨みを笑い飛ばす「お多福」を据えることもあるとされる。邪推するに瓦屋のセールストークの類が発祥のようにも思われるが、“鐘馗さん”と呼ばれ、そのユーモラスな逸話とともに今日でも人々の暮らしの中に根付いている。

 

 

参考:

■SUZUKI collaboration 

https://www.scollabo.com/index.html

 

相模原市・津久井やまゆり園殺傷事件について

2016年7月に発生した相模原市障碍者福祉施設殺傷事件、通称“津久井やまゆり園事件”は、2020年3月に植松被告の死刑が確定し、事件裁判としてはひとつの区切りを見た。本事件はその規模も深刻甚大ながら独自の信念に基づいたテロリズムともいえる犯罪ケースであり、障碍者をめぐる環境といった多くの問題提起を孕んだ社会事件と捉えられ、その根本的な問題の解消には至っていない。重大な罪を犯した死刑囚、そして「標的」とされた重度障碍者らは、壁の向こう側の世界に存在するのではなく私たちと同じ社会に生きている。自分とは直接的関係がないといって「なきもの」のように扱ってしまえば、それはもはや植松の考えや差別行動に(消極的ながらも)支持・加担していることと変わりないように私は思う。事件について改めて振り返り、未だ据え置かれたままの課題について考えてみたい。人権思想・生命倫理に触れる内容のため、公序良俗の範疇から逸脱した表現なども含まれるが、いかなる偏見・差別を助長する意図はない。 

 

■判決後

JNNドキュメンタリー『ザ・フォーカス』では、事件で被害に遭った元施設入居者・尾野一矢(かずや)さんと家族の歩んだ4年間を追っている。

神奈川県警は「施設にはさまざまな障碍を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、犠牲者を匿名で公表し物議を醸した。一矢さんも首や腹など5か所を刺され一時意識不明となる重傷を負った。尾野さん一家は「何も恥ずかしいことはない。障碍がある人も普通の人間」「重度の知的障碍がある人たちのことを広く知ってほしい」との意向により、事件直後から実名・顔出しで取材に応じてきた唯一の被害者家族である。下のNHKのリンク記事では、一矢さんの津久井やまゆり園入所までの経緯や障碍者の自立生活支援などについても触れている。

www.nhk.or.jp

事件発生から4年後の2020年、一矢さんは仮入所していた施設を離れ、重度訪問介護のヘルパー支援を受けながらアパート暮らしを始めた。重度の障碍がある人間にも様々な生き方があることを示し、本人も家族も(辛苦な思いだけでなく)日々小さな幸せを得ながら暮らしていくことで、植松の主張に対する自分たちなりの回答になるとの思いから「多くの人に支えられながら一矢が幸せに暮らす姿を見てほしい」と父・剛志(たかし)さんは語っている。

 

 

2020年10月23日から25日にかけて都内で行われた『第16回 死刑囚表現展』では、植松死刑囚の応募作が初出展となり注目を集めた。尾野一矢さんの父・剛志さんは、植松の出展作について感想を求められ、「死刑確定後も罪に向き合っていないのは明白だ。展示自体も彼の主張に感化される人々が現れる恐れがあり、有害でしかない」と失望を示している。

www.kanaloco.jp

本展覧会は、死刑廃止派の市民団体「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が、死刑囚が拘置所で許されうる外部社会とのコミュニケーション手段とする目的のために2005年から行われている。代表・太田昌国氏によれば、凄惨な事件の背景には、死刑囚の「個人的資質」以外にもその時代性や政治や法のあり方といった「社会的文脈」が含まれており、重大事件を起こした死刑囚が何らかの表現を社会に還元することによってそうした社会が孕む問題を捉え直すために有効だろうとしている。植松死刑囚の展示作品について、考えをダイレクトにメッセージ化した「文章」という形だが、鑑賞者がそれに触発されて事件を起こすような短絡的な思考プロセスには至らないとしており、作中では(意思疎通が困難な人を独自の「心失者」という造語で表してはいるが)「特定の個人」を中傷するものではなく比較的一般的な文言で記されているため一概にそれを「なきもの」にすることはできないとの考えを示した。展覧会では、来場者アンケートや選考委員の批判的意見も死刑囚には伝えており、寄せられた意見に対する制作での葛藤やフィードバックも回を重ねるごとに見られるようになったという。そのため「一回の展示そのものだけ」を切り取るのではなく、それまでのやりとりのプロセスも含めた上で、こうした犯罪はなぜ起こったのか、今後抑止するにはどうすべきか、更生の道はどこにあるのかといったことを全体的に考えていく道筋になっていけばよい、と述べている。さらに「被害者から“表現する自由”を奪ったのは加害者であり、彼らの表現を展示することは二重三重の被害を生んでいるのではないか」という意見に対して、(被害者や遺族に共感して憤る感情は当然理解できるものだとした上で)加害者でも被害者でもない第三者の冷静な立場でこの犯罪とは何だったのか、どうすればなくすことができるのかを考える機会として捉えてほしいと語っている。

 

もう死刑確定によって君は社会と隔絶され、君の声が社会に出ることはなくなってしまう。そういう状況において何か社会に表現するなら、この表現展に作品を出展するというのは貴重な機会だ

下は、 植松死刑囚に出品を薦めた月刊『創』(つくる)編集長・篠田博之氏による展覧会に関する記事である。もしかすると最初で最後になりかねない出品、社会に向けた自分にできる最後のメッセージかもしれないと考えたとき、植松は事件の数か月前に構想し、公判でも述べた意見からなる「人が幸せになるための7つの提言」を提出した。

news.yahoo.co.jp

安楽死:意志疎通がとれない人間を安楽死させます。また移動、食事、排泄が困難になり、他者に負担が掛かる場合は尊厳死することを認めます。
大麻:嗜好品として使用、栽培することを認めます。楽しい草で「薬」と読みます。約250種類の疾患に効果があり、簡潔には楽しい心で超回復する。
カジノ:カジノ産業に取り組むため、小口の借金を禁止します。支払い能力を越えると理性を保つことができません。その現金は幻影で、実際にはありません。
軍隊:軍隊を設立し、男性は18歳から30歳までに1年間の訓練をすることを義務づけます。「鉄は熱いうちに打て」それと同様に人間も精神が柔軟なうちに試練を与えられないといけません。
SEX:婚約者以外と性行為をする際は避妊することを義務付けます。性欲は間違った快感を覚えてしまうと相手を深く傷つける犯罪になります。
一、避妊をする、二、清潔にする、三、相手を慈しむ
美容:美は善行を産み出すため、整形手術は保険を適用します。しかし整形しても子どもは容姿は遺伝子を受け継ぐので交際前に報告します。
環境:深刻な地球温暖化を防ぐため遺体と肥料にする森林再生計画を賛同します。人糞を肥料にしなければ農作物は育ちませんし、遺体を肥料にしなければ森林破壊は止まりません。

その内容は、事件前から収監後の取材、公判中も繰り返し述べられた植松の持論をまとめたものである。現実にそぐわない短絡的で粗雑な提言であり、独善的な見方に支配されていることが分かる。表現技法にしても鑑賞者の琴線に触れるような技巧やアイデアが凝らされているとは言い難く、へりくだったような文語的表現はあるものの凶悪犯罪者としての植松しか知らない鑑賞者には「俺の話を聞け」という態度がはっきりと透けて見えることであろう。これを見て怒りに打ち震える方、憐れみを覚える方、人によって色々な感情が引き起こされると思う。だが私の場合、もしも植松が来年も出品するならばどんな作品をつくるのか、10年後、20年先も刑が執行されなかったならばその心境や信条は変化するものなのか、という好奇心は否応なく触発される。死刑囚らの表現が発表の場を与えられることで、私たちが何がしか触発されたという時点でコミュニケーションとして成立している(社会に届いた)ことは事実である。

 

 ■事件の概要

2016年7月26日未明、神奈川県相模原市緑区にあった県立の知的障碍者福祉施設津久井やまゆり園」に元施設職員・植松聖(さとし)(当時26歳)が侵入し、刃物で入所者19名を刺殺、職員も含め27人に重軽傷を負わせた。警備員は1名常駐していたが管理棟での仮眠が許されており、このとき侵入に気付かなかった。2階建ての居住棟が2棟、各フロアが男女別に隔てられ、計8つに区分され、各ブロックに夜勤が一人ずつ配置されていた。植松は女性職員が夜勤を担当する「はなホーム」の窓を割って侵入。支援員室で作業する夜勤職員を結束バンドで拘束し、携帯電話を奪ったうえで施設内を連れ回し、「こいつは喋れるのか」と職員に確認したり、就寝中の利用者に「おはようございます」と声掛けして反応を見るなどして、意思疎通が困難とみられる入所者を次々と刃物で刺していった。やがて「選別作業」を半ばで辞めて手あたり次第の様相となったが、6ブロック目で職員に逃げられて個室に籠られたため、凶行を断念。現場から車で逃走した植松はコンビニエンスストアで付着した血液を洗い流し、菓子パンを購入。2時50分、自撮り写真と共に「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!」とTwitterで投稿している(犯行前に送信したつもりが、失敗していたため再投稿したとされる)。同日3時過ぎ、植松は津久井署へ出頭し、緊急逮捕された。逃げのびた職員は2時45分に110番通報を行い、3時16分まで通話状態を保持し、電話口で植松の出頭を知らされたという。

死亡者は、41歳から67歳の男性9人、19歳から70歳の女性10人で多くは寝ていたベッドの上で発見された。凶器は、ナイフ、柳刃包丁など複数の刃物(計5本を持ち込んでおり、切れなくなると交換して用いた)。死因は、19歳女性が腹部を刺されたことによる脾動脈損傷に基づく腹腔内出血、40歳女性が両肺を刺されたことによる血気胸、残り17人が失血死とされ、傷の深さからも明確な殺意が認められた。窓ガラスを割るためのハンマー、職員を拘束するための結束バンド、粘着テープ(これらは前日にホームセンター等で購入)、(以前から所有していた)替えの刃物類はスポーツバッグに入れて持ち運んでいた。

  

■生い立ち、事件までの流れ

植松聖は1990年に生まれ。小学校教員の父、漫画家の母との3人家族で、1991年に多摩から相模原市緑区千木良地区へ転入。育った家は津久井やまゆり園からわずか600m程の距離だった。一学年30人ほどの小さな学校で、成績は「中の下」、人物評には「明るく人懐こくて、目立ちたがり」とある。あだなは「さとくん」。父親の影響で「小学校の先生」に憧れていた。学内にも障碍児童がいたが、被告の口から「(障碍者について)否定的な言葉を聞いたことはない」とする同級生がいる一方、低学年のときに「障碍者はいらない」という内容の作文を提出していた。幼馴染の証言では、猫がいじめられているのを必死になって止める優しい一面もあったとされる。

中学時代は不良少年と交流するようになり、飲酒・喫煙、万引きに加わったり、器物破損といった反抗的行動が目立つようになったが、両親は「思春期にはよくあること」として見守った。「料理が面白そう」だと感じて、東京都八王子市の私立高校調理科へ進学。1年生の夏から1年以上交際した女性によれば、根が純粋で、催しのときクラスに号令をかけるような「リーダー的存在」だったという。1年の頃はよく物に当たる、2年生では部活で部員を殴りつけ1か月の停学処分を受けるなどして、相模原市の公立高校の福祉課へ転校しており、「目立ちたがりで何も考えていない。ただの馬鹿だった」と自省している。当時を知る同級生は、下校時などに障碍者を見掛けると「シンショウうるせーなあ」「生きている価値が分からない」といった悪態をついたり、内向的な生徒について「あいつシンショウみたいで気持ち悪いよな」と馬鹿にすることもしばしばあった。一方で交際した女性は、別れてからも良好な人間関係があったらしく、3年になる頃には粗暴さが抜けてきて成長を感じていたともいう。交際当時は「優しく連絡はマメだった」とし、お互いに実家を行き来する親公認の仲だった。被告はデートのことも両親にオープンに話していたようで、家族仲は良さそうに見えたという。女性の母親も交際当時は「はきはき挨拶ができる明るい良い子」という印象をもっていた。

2008年、AO入試帝京大学文学部教育学科に進学し、教職の勉強になるからと学童保育のバイトもし、入学当初は単位も取得していた。フットサルサークルではだれとでも分け隔てなく付き合い、後輩にも慕われる人気者だった。だが周囲の証言からは、この時期から素行に変化が生じていたとされる。

「高校時代はまじめでおとなしい印象でしたが、二十歳ごろにははっちゃけた感じになっていた。入れ墨をいれ、『彫師になりたい』と言っていたようだ」

「大学に入ると髪を茶髪に染めた。服が派手になり、チャラくなって弾けていました。入れ墨をいれ、危険ドラッグも吸い始めた」

「強い人間に憧れがあって、自分を強く見せようとして入れ墨や薬に手を出すようになった」

「明るく面白く、みんなと騒ぐのが好きな性格。2年の夏ごろから頻繁に飲みに行ったりマージャンをしたりし、冬になると危険ドラッグを使うようになった。気分がハイになって陽気になる程度で、異常な行動はなかった」 

 大麻、違法ハーブの吸引が常習化しており、20歳前後で両肩から背中にかけて入れ墨をいれた(彫師によれば、就職を控えているから見えない位置にしてほしいという注文があったという)。常連だったクラブ関係者は「(2013年頃から)植松らの間で危険ドラッグが流行っていた」と語っている。この頃から言動が荒っぽくなり、学友らが距離を置くようになるなど周囲の交遊関係も変化していったとされる。

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大学4年の春には母校の小学校で1か月の教育実習を行い、当時受け持ったクラスの児童は「話し方はとても温かくて、生徒に親身に接していた。誠実な感じで介護には向いているような印象を受けた」と語っている。総合評価はBだったが、勤務・指導態度はA評価で「子どもとの時間を大切にしていた」と記述されている。2012年3月に大学を卒業。小学校教諭一種免許を取得したものの、「深く考えていなかった。甘い考えで小学校なら教えられるかなって。理解していないとやっぱり教えるのは難しいなと思った」として採用試験は受けず、教職の道を断念している。地元の友人の話を聞いて運送会社で自動販売機補充のルートドライバー職に就くが、体力面のきつさから、ほどなく離職を考えるようになる。その頃、植松は津久井やまゆり園で働く幼馴染の男性(深い付き合いはなかったが幼稚園時代からの級友)と偶然再会し、園での仕事について話が及ぶと興味を示した。8月には就職説明会に参加し、9月27日には津久井やまゆり園の採用内定を得ている。志望動機には「学生時代に障害者支援ボランティアや特別支援実習の経験および学童保育所で3年間働いていたこともあり、福祉業界へ転職を考えた」とあり、「明るく意欲があり、伸びしろがある」と判断されて採用が決まった。園に欠員があったため12月から非常勤として就労を開始し、2013年4月から常勤職員となった。働き始めの頃、植松は大学時代の後輩に「仕事は金のためじゃなくてやりがいだと思う。障害者の人たちはきらきらした目で接してくれる。自分にとって天職だ」と語っていた。

両親に関する情報は多く出ていないが、2012年前後に植松一人を千木良の家に残して八王子市内のマンションへ転居している。父親は勤め先の学校が八王子にあり、毎日5時半過ぎの始発バスで通勤していたとされる。近隣住民は「父親は駅で顔合わせても挨拶しないで目を背けるような人だったけど、彼は笑顔の絶えない好青年だった。家の前の道路にゴザを敷いて上半身裸で日光浴してたから、背中の入れ墨にも気づいてたけど、周囲を威嚇するようなこともなかったしね。最後に顔合わせたのは事件の4日ぐらい前の朝。車で出かけるときに目が合って、いつも通りニッコリ『おはようございます』」と、父親とは対照的だった植松の印象を振り返っている(2016年8月2日、AERA)。母親が野良猫に餌付けして近隣トラブルになり居づらくなった説、息子と折り合いが合わず出ていった説などが囁かれるが、近所の人に転居理由は伝えていなかった。植松の大学卒業や就職を機にして、という見方もできるが、生活が荒んでいった時期、教職の道を諦めた時期と重なることからも何がしかの家庭内不和が推測される。

2013年5月頃、植松の支援技術の未熟さ、終業時間前の退勤といった服務上のだらしなさについて主任や課長より指導が入る。植松に謝罪や改心の姿勢も見られず、その後も利用者の手首に腕時計の絵を描くなどして厳重注意を受け、支援部長や園長からも指導されることもあった。同年12月31日の入浴支援中、同僚職員が植松の背中一面に般若面の入れ墨を確認し、ホーム長に報告。2014年1月、施設を運営する「かながわ共同会」は対応を協議の上、津久井警察署と会の顧問弁護士に相談。弁護士は「入れ墨を理由に解雇することは困難」とし業務中に見えないように指導する、入れ墨の露出があった場合は懲戒の対象とする旨を本人に伝えるよう園に助言を行う。園は弁護士の指導に沿って植松と面談を行い、入れ墨と反社会的勢力とのかかわりの有無等について確認した。植松は入れ墨を露出しないことを了解し、今後も仕事を続けたい旨を伝えている。自身のTwitter上では、入れ墨の自撮りと共に「会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います」との投稿もあった。また同プロフィールページの背景には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像が使われていた。

施設勤務から2年ほど経つと、植松の発言に変化が見られたという。「障碍者はかわいそう。食べているごはんもひどくて人間として扱われていない」と旧友に語ったという。2015年6月頃には「突然『意思疎通できない障害者は生きている意味がない』と私に言うようになりました。あんなに仕事に満足していたさとくんがそんなことを言うようになったので仕事で何かあったのかなと思いました」と高校時代の友人を驚かせている。2014年8月から事件当時まで交際していた女性によれば、交際当初は入所者について「あのひとはかわいいんだよ」と好意的に話していたが、2016年の措置入院前には「あいつら生産性がない」と否定的な発言が目立つようになっていた。この時期、アメリカ大統領選挙でトランプ氏(元大統領)が掲げた中南米移民に対するメキシコ国境の壁建設の公約に、これだこれだ、と興奮して共感していたことが記憶にあるという。さらに「ニュー・ジャパン・オーダー」と題して「7つの提言」の草稿のようなものを文面に記すようになる。女性は「過激な発言で民衆を動かす先駆者になりたいのだろう」と感じていたという。2015年6月頃から彫師(植松に施術した人物とは別人)の下へ弟子入りした時期もあったが、「障碍者を皆殺しにすべきだ」といった主張を繰り返したことで口論になり、ドラッグの常習が疑われたことで破門にされた。同時期、八王子駅付近の路上で通行人から「死ね」と言われた等として友人と二人で暴行に及び、傷害容疑で書類送検されている。

2016年2月14日、植松は衆議院議長公邸に赴き、大島理森(ただもり)衆院議長(当時)に宛てて手紙を渡したいと土下座をして訴えたが、休日だったため対応してもらえず、翌15日に再度訪問し座り込みなどを始めたため、協議のうえ止む無く衆議院議長への手紙は受理された(後に植松は、安倍晋三総理大臣(当時)宛で自民党本部にも持参したが断られたとも証言している)。手紙には施設への襲撃を企てた犯行予告と受け取れる記載があったため、警視庁を通じ津久井署、管理法人へ身分確認の問い合わせを行う。その際、津久井署には手紙の写しが電信されている。16日、津久井署が来園し、襲撃予告と受け取れる内容の手紙が渡されたことを伝え、総務部と「本人には問い合わせの件は伝えない」「単独行動をさせない」「夜勤担当からできるだけ外す」「警察巡回の強化」等が協議され、共同会本部にも伝えられた。17日、津久井署が改めて来園し、危険性や警備の強化について説明があり、勤務予定の確認、セキュリティや今後の対応を協議している。

同じ2月17日、植松はLINEを使って「彼らを生かすために莫大な費用がかかっています」等と障碍者尊厳死を訴える内容のメールを友人たちに一斉送信していた。その後、同級生らに直接電話を掛けて犯行計画を打ち明け、「俺だって殺したくないけど、誰かがやらないといけない」「職員を結束バンドで縛るから見張っていてくれ」等といった犯行への勧誘もあった。計画を取りやめるよう説得を試みた同級生は「お前を殺してからやる」などの反論に合い、けんか別れしたという(2016年8月6日、産経新聞)。

2月18日、園が職員から聞き取りを行い、以下のような報告があった。事態を重く見た園と共同会は面談を行うことを決め、津久井署に施設内待機を依頼した。

・ときどき不適切な発言はあったが、気にならない程度だった。18日の勤務中は特にひどく見受けられた。

・2月に入って、特に12日頃からひどくなっている様子が伺える。「税金の無駄」「安楽死させた方がいい」「生きていても意味がない」

・12日、夕食介護中に「障碍をもっている人に優しく接することに意味があるのか」と職員にしきりに訴えた。

・18日午前、メディカルチェックを行う看護師に「本当にこの処置はいるのか。自分たちが手を貸さなければ生きられない状態で本当に幸せなのか」と質問。

・18日午後、看護師に「生きていることが無駄だと思わないか。急変時に延命措置することは不幸だと思わないか」と質問。

 2月19日正午、園長・常務理事・事務局長が植松と面談。園長より過去の発言や手紙について確認された。このとき植松は「自分はフリーメーソンの信者」「世界には8億人の障碍者がいる。その人たちに使っているお金を他に充てるべきだ」等の持論を展開し、それらの発言に対して共同会側から「ナチスドイツの思想と同じだ」と指摘があった。植松は「(園内での)発言は自分が思っている事実であり、約一週間前に手紙を出した。自分の考えは間違っていない。仕事を続けることはできないと自分も思う」と述べ、その場で辞職願を記入・提出し、鍵の返却や荷物の整理を行った。面談中、「重度障碍者の大量殺人は日本国の指示があればいつでも実行する」などの発言を繰り返したため、警察官職務執行法第三条に基づき、津久井署員が植松を保護。精神保健福祉法第23条に基づき、津久井署より相模原市に通報。市保健所職員による調査と指定医による緊急措置診察が実施され、手紙の内容も踏まえ、主たる精神障碍を「躁病」と診断。思考の奔逸、手紙を渡しに行くといった衝動行為、興奮、気分の高揚、被刺激性亢進が見られ、それらの影響により「他害に至るおそれが著しく高いと判断」され、北里大学東病院に措置入院となった。東病院では20日の尿検査で大麻成分が陽性となり、担当医の一人は「大麻使用による精神および行動の障害」「非社会性パーソナリティ障害」、もう一人の指定医は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断した。診断の中で「2週間前にヒトラーの思想が降りてきた」等の発言があった。

経過観察のなかで妄想や興奮が消失し、本人が「あのときはおかしかった。大麻吸引が原因だったのではないか」と内省でき、他害のおそれはなくなったとして、3月2日「措置入院者の症状消退届」を相模原市に提出。退院後は「家族と同居」とされ、八王子市の両親の住所が記載されていた。3月3日、植松はホームに退院の旨を入電。生活2課長と、退職したこととこれまでのお礼、退職手続きの進捗などについて話している。園は津久井署に植松が退院し、千木良に戻ってきている旨を伝えると、署は「特定通報者登録」(電話番号登録から、110番通報を受けると早急に当該案件と分かる仕組み)と防犯カメラの設置を助言。総務部長は特定通報者登録を行っている(夜間の登録固定電話は警備員室、登録携帯電話は警備員が所持)。翌日、津久井署員が家を訪ねたが不在、八王子の両親宅に入電すると「ここにいる」と答えたため面会には行かなかった。3月8日、園は課長級以上の職員15名に「植松元職員に係る対応について」を、それ以外の職員(常勤128名・非常勤80名)に対して「休日夜間の防犯対策に係る対応について」を通知し、注意喚起を行っている。3月10日、警備会社と津久井署の助言を受け、共同会は16台の防犯カメラ設置(施設内6・外10)を決め、建物を所有する神奈川県は4月13日付でそれを承認。4月26日取り付け工事、5月9日、津久井署がモニターと画像範囲を確認。津久井署はモニター台数を増やすよう助言したが、園はモニターの常時監視は想定しておらず「抑止効果」が目的と認識していた。

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3月24日、植松は東病院を外来受診し、不眠、気分の落ち込み等を訴えており、面接ののち抗うつ薬などを処方。同日、ハローワーク相模原で雇用保険受給資格を申請(説明中、変わった様子はなく、のちに90日分の失業給付が支給された)し、後日、担当職員が訪問して面談した際も冷静に対応し、必要十分な回答がなされたとされる。3月31日の外来受診時、就労可否等証明書(週20時間以上の就労は可能とする)を受領(次回5月24日の外来予約をしたが、その後受診なし)。5月30日、植松は退職金受給手続きのためにホームに来園。染髪のほか取り立てて報告なし。また退院後は月に2、3回の頻度で八王子の両親宅を訪れていたとされ、入院前より話しやすい感じだったという。

7月25日未明、相模原市内で知人と会った植松は「暴力団組員がお前を追っている」と知らされる。当初、イルミナティカードの聖なる数字「1001」に準えて10月1日の犯行を企てていたが、この情報を受けたことから心理的不安を感じ、計画を前倒ししたと供述している(2017年2月22日共同通信)。その足で、早朝に新宿に移動し、犯行に使われたガムテープ等を買い揃えた。同日午前、相模原市緑区内のファストフード店で無断駐車されたままの植松の車が通報され、署に呼び出しを受けたが、その際は「特異な言動は認められなかった」。夜、大学時代の後輩と食事。予定では27日に会う約束をしていたが、朝になって植松から前倒しの連絡があった。理由を聞くと「時が来たんだよ」と意味深な返事をしたという。後輩は(植松とは)「サークル仲間で兄妹の関係」と思っており恋愛感情はなかったが、交際相手が別にいた植松は彼女に密かに好意を抱いていた。焼き肉を食べながら、件の「7つの提言」の自説を語り、「俺が無職になってから冷たくなった」「身長を伸ばしたい。顔を小さくしたい」と話し、「彼女がいるけど、大事な日に(後輩)を選んだ」と告白めいた発言もしている。「今日で会うのは最後かもしれない」「昔の自分は嫌いだったけど、今の自分は好き」「今の俺、最強じゃない?オーラ出てない?」と笑った。別れ際、「今日は来てくれてありがとう」と握手を求め、「4,5年経ったら帰ってくる。俺、ちょっと用がある」と言って立ち去った。後輩は普段と様子が違ったので自殺のおそれを抱き、植松と親しい男性に相談の電話もしている。植松は歌舞伎町のホテルに戻ると大麻を吸引しデリバリーヘルスを呼んだ。靴を履いたままだったのでデリ嬢が尋ねると「インソールだから恥ずかしい」と、自身の低身長へのコンプレックスを吐露し、帰り際に「僕のこと、忘れないでくださいね」と告げた。26日深夜1時頃にチェックアウトした植松は中央自動車道から相模原の津久井やまゆり園へと向かった。

 

■公判

逮捕後、2016年9月21日から約半年にわたって精神鑑定を受け、2017年2月24日、死亡した入所者19人の「殺人容疑」、入所者24人に重軽傷を負わせた「殺人未遂容疑」、施設女性職員2人への「逮捕・監禁致傷容疑」、施設男性職員3人への「逮捕監禁容疑」、「建造物侵入」、「銃刀法違反」の6罪状で起訴された。起訴直後から植松は報道各社と接見を開始(1日1件15分と定められている)。自分の判断で危害に及んだことについて「遺族の皆様を悲しみと怒りで傷つけてしまったことを心から深くお詫びします」と植松の謝罪は大々的に報じられた。しかし謝罪は就寝時の襲撃という手段に関してのお詫びだとし、国の負担となっている重度障碍者安楽死させるべしという主張を変えることはなく、接見をしない期間も新聞や雑誌などで批判する論者に向けて自説を唱える書簡を送りつけるなどしていた。2017年9月、公判前整理手続きが行われ、検察・弁護側双方の主張内容や争点が確認され、弁護側から再度の精神鑑定が要請された。2018年1月、横浜地裁は弁護側の要請を認め、再鑑定は2018年8月まで行われ、1度目の鑑定と同じく「パーソナリティ障害」との鑑定結果が出された(3度目の鑑定要請は却下された)。

2020年1月8日、横浜地方裁判所で植松の初公判が開始。約2000人が傍聴席を求めて列をなし、手続きに手間取ったため開廷が20分以上遅れた。本人は起訴内容の事実関係を認めたが、「皆様にお詫び申し上げます」と述べた直後、証言台で自身の右手小指を嚙み千切ろうとするハプニングを起こし退廷を命じられた。1月14日に接見した篠田博之氏の伝えるところによれば、植松は「言葉だけの謝罪では納得できないと思ったから」証言台でそうした行動に出たとされ、自分なりの謝罪のつもりだったという。翌朝、第一関節を噛み千切ったため、10日の第2回公判では両手がミトンにくるまれていた。初公判前日の神奈川新聞の取材で、植松は「無罪を主張するのは弁護士の優しさです」「自分の言いたいことは言わせてもらう。弁護士の主張は全く別」と意見の相違を強調し、どのような判決になろうとも控訴はしない方針を明らかにしていた。

公判でははじめから被告の「刑事責任能力の有無」が最大の争点とされた(刑法第39条)。弁護側は、大麻などの薬物乱用による精神障害の影響下にあったため心神喪失心神耗弱状態にあり刑事責任能力に乏しかったとして、無罪か減刑が相当と主張した。検察側は「被告に病的な妄想はなく、犯行は被告個人の特異な考えに基づいて行われた」として大麻の影響は限定的だったと指摘。事前準備や侵入時に施設職員の配置状況を確認するといった犯行の計画性、意思疎通ができない入所者を選別して殺傷に及ぶなど(心神喪失状態になく)制御された行動を取っていると主張した。

第12回公判では都立松沢病院・大沢達也医師が出廷し、植松を大麻中毒だと認定した一方、犯行への影響について「影響がないか、影響を与えないほど限定的だった」とし、人格について「元来は明るく社交的だが、頑固で自己主張が強い」と分析。背景に障碍者を取り巻く状況への問題意識があった経緯から、植松の持論が「病的に飛躍しているとは言えない」とし、妄想や幻覚によって引き起こされたのではなく「犯行は被告個人の強い考えによって行われた」と述べた。

第13回公判では清話会中山病院院長・工藤行夫医師が出廷し、犯行の約1年前から大麻の使用頻度が増え、過激な主張や自身を「選ばれた存在」、国のために殺害を実行した自分は「救世主だ」と語るなど異常行動が顕著になったと指摘。当時の植松に見られた幻聴や被害妄想、大麻による昂揚感が持論形成や犯行に影響を与えたと述べた。大麻濫用以前の言動と比べると「明らかに不連続で異質な状態。この変化が自然に生じたとは考えられない」と指摘し、大麻精神病状態が(公判中の現在も)持続している可能性を示唆した。第14回公判では美帆さんの母親ら被害者遺族、被害に遭った夜勤職員による意見陳述が行われ、被告に深い反省を求める声などが上がった。

3月16日、判決公判が行われ、青沼潔裁判長は、犯行の計画性、合目的性のある行動、違法性の認識から「犯行時の被告は完全責任能力を有していた」と判断し、求刑通り死刑を言い渡した。犯行動機について、「障碍者を殺害すれば不幸が減り、安楽死によって障碍者に使われていた金を他に回せば世界平和につながり、自分は先駆者になれる」という考えがあったと認定。「抵抗が困難であったろう入所者たちを順次殺傷した犯行様態の悪質性も甚だしい」と非難したうえで、「死刑をもって臨むほかない」と結論した。

閉廷宣言直後に植松は挙手して発言機会を求めたが認められず。閉廷後に接見した『神奈川新聞』記者が言いたかった内容を確認すると、「『世界平和のためにマリファナが必要』と伝えたかった」「重度障害者の家族は病んでいる。『幸せだった』という被害者遺族は不幸に慣れているだけだ」と説明した。

2020年3月27日、弁護人が横浜地裁裁判員裁判判決を不服として控訴したが、植松は30日付で控訴を取り下げ、3月31日死刑が確定。4月1日、取材に対して、死刑を確定させた現在の心境について「安楽死する人の気持ち」「絶対死にたくない、でも死ぬべきだと思っているところが同じ」と話した。両親は控訴取り下げに反対していたとし、「葛藤はあったが裁判をやめることの方が大きな仕事だと思った」「(自ら控訴取り下げるという判断は)自死に近い」とも語った。4月7日、執行設備のある東京拘置所に身柄を移送された。

 

■支援施設のありかた

津久井やまゆり園は、神奈川県が1964年に開設し、2005年から指定管理者として社会福祉法人「かながわ共同会」が運営する大型福祉支援施設であった。事件当時の施設入居者は、長期入居者149人、短期入所者8人。利用者は障碍支援区分4~6に該当する、食事・入浴・排泄などに介護が必要な重度の知的障碍者だった。所在地である千木良地区は、相模湖に注ぐ相模川沿いに位置し、山間部ながら通りには住宅が連なっており、近郊には総合病院や湖畔近くにはレジャー施設なども点在する。事件後、施設全体に被害が及び「改修だけでは適切な支援を継続するのは困難」として、県は現在地での全面建て直しを決定。2018年5月に解体工事が始まり、2020年12月現在も工事中(2021年完了予定)で、入所者らは横浜市港南区芹が谷の仮園舎などへ移って生活している。毎日新聞では事件から約1年後の旧施設内部の様子が公開されている。今日の福祉的観点では地域密着型の中小規模グループホームが推進されているが、こうした立地に大型入居施設を建てたことも、健常者と障碍者を分離させてきた社会政策の名残を感じさせる。

なお、名称の「やまゆり」は県花であり、施設目的の類似性や親和性を持たせるため、共同会が指定管理者として運営する津久井やまゆり園と愛名やまゆり園(厚木市)、県直轄の中井やまゆり園(中井町)の三園舎に使用されており、芹が谷の新園舎にも継承される。

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2016年8月6日、施設を運営するかながわ共同会が事件後、初めての家族説明会を開いた。その際、参加者からは事件を防げなかった点を疑問視する意見などもあったが、多くの家族から園の再生を願う声が相次いだとされ、参加者の中には「利用者の平常を一刻も早く取り戻してほしい。できることは何でも協力する」との発言もあったという。私はこうした利用者の反応に正直驚いてしまった。筆者の中では無意識的に、非難が轟々と上がり、入所者の多くが一斉に他所へ移ったものと想定されていたからだ。それだけこれまで入所者の家族から感謝されていたことを示しているのであろう。たしかに前掲の尾野さん一家やNHKの特設サイト『19のいのち』で語られているエピソード等からも、施設を「第二の我が家」のように慕っていた入所者や家族が寄せる施設への信頼が随所に感じられる。医療や介護といった福祉の現場は、切迫したやむを得ない事情がなければ積極的に利用することは少ない。在宅での支援には限界があったり、他の施設で断られてやまゆり園にたどり着いた利用者もいた。ここがイヤなら移ればいいという簡単なものではない。被害者・犠牲者の記事に目を通す中で、私自身にそうした利用者の家族の視点というものが抜けていたことに改めて気づかされた。

2017年10月、神奈川県は津久井やまゆり園の再生によって新たな障碍福祉のあり方を示すとして、『津久井やまゆり園再生基本構想』を示し、「千木良地域及び芹が谷地域の施設は県立施設とし、運営については、引き続き指定管理とする。なお、指定管理については、利用者の安定的な生活を支援するとともに、意思決定支援における偏りのない選択を担保するため、現在の指定管理期間である平成36年度までの間は、芹が谷地域の施設についても、現指定管理者である社会福祉法人かながわ共同会を指定管理者とする方向で調整する」と決定。2019年6月には、これまでの大規模入居型施設を見直し、津久井やまゆり園と芹が谷の施設を定員各66名に縮小し入所者を分散させることを決定した。

2019年7月、同じかながわ共同会が管理指定を受けて運営する「愛名やまゆり園」利用者の親族から性的暴行を疑う通報が入り、10月に元園長・高橋英行が逮捕される。元園長は、被害に遭った小学6年の女児(12)の親とも面識があり、前年11月から12月にかけて親が不在の自宅を訪れ、複数回にわたって性的暴行を加えたとされる。調べに対して「体を触ったことは間違いないが、性交したことは覚えていない」等と供述している(2019年10月16日、産経新聞)。通報を受け、高橋元園長は7月末時点で退職届を提出していたが、かながわ共同会は8月の理事会でそれを受理せず理事職解任と園長降格に留めた。逮捕後も解雇はせず、11月5日に起訴されたことを受けて同15日に懲戒解雇と決定。同会は令和元年度事業報告の中で、「7月に愛名やまゆり園元園長の個人的な不祥事が発覚し、その後、逮捕、起訴されたことにより、園及び法人の信用は大きく失墜した。このため、急遽、中期計画にコンプライアンスの徹底に係る各種施策を追加し、信頼回復に向けて取り組んだ。」と記載している。

2019年8月には同じ愛名やまゆり園で障害者虐待防止法に抵触する事案が通報され、市が調査したところ、「お風呂で利用者に対し水をかける」「食事制限がある利用者に対し、御飯を大量に食べさせる」「御飯をお盆にまき散らし食べさせる。箸1本で食べさせる」「夜中に長時間、1~3時間に渡りトイレに座らせる」といった事案が確認された。「元園長の不祥事に続いての今回の不祥事は、弁解の余地はございません」と謝罪文を公表し、厚木市の調査によれば「虐待内容の大半は、虐待疑いの通報と同一の職員によるもの」としている。

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2019年12月、神奈川県・黒岩祐治知事は「社会福祉法人として、人権を尊重し、全ての人の尊厳を守る立場にある、かながわ共同会の道義的責任は看過できない」と判断、これまでの方針を見直し、「津久井やまゆり園」「芹が谷やまゆり園」について共同会と指定管理期間を短縮する協議を行い、新たに指定管理者を公募すると発表した。

2020年1月、県は「指定管理者としての利用者支援の状況や、法人としてのガバナンス体制、施設設置者としての県の関与等について、専門的見地から検証する」ことを目的として、第三者委員会による「津久井やまゆり園利用者支援検証委員会」を設置。2020年3月に行われた定例記者会見で黒岩知事は、事件直後の検証委員会について、早期再開に向けた防犯警備や再発防止に主眼を置いてしまい、植松の犯行動機の一因となった「当時の園の実態」にまで踏み込めていなかったことに反省の色を滲ませ、以下のように発言した。

本来、検証というのは、あの当時、彼が言っていた、植松被告人が言っていた、最後まで変えなかったのですけれど、「コミュニケーションがとれない人間は生きている意味がない。」というその言葉。それを自分が見ていた。そういう支援をやっているではないか。彼は言っても意味がないじゃないかと思った、そこの部分です。犯罪に至った、起こした、彼のその部分、心の部分の検証までは実はあの時やっていなかった、支援の在り方そのものを検証していなかった。
 そのうち裁判が始まりましたから。裁判が始まると、やはり、その当時のことにあまり触れられなくなってきますから。そこはある種、われわれは置きざりにして前にきたのかなといったことだったのです。

5月、コロナ禍の影響により現地でのヒアリング調査はできなかったものの、津久井やまゆり園利用者支援検証委員会による中間報告が提出され、一部利用者に「虐待の疑いが極めて強い行為が長期間行われていた」との指摘がなされる。これを受けて共同会の草光純二理事長は、身体拘束の要件を厳守しなかったことは認め「再発防止に取り組む」とする一方で、居室の24時間施錠については「食事、トイレ、入浴時には開錠しており、事実ではない」と反論。「利用者や家族に信頼される支援を目指す」とのコメントを発表した。

6月、神奈川県は、直轄する中井町・中井やまゆり園で、再任用の60代男性職員が男性入所者に対して「適切な手続きを経ずに身体拘束を行う」「拘束中、下あごのあたりを一回叩く」「膝で大腿部あたりを数回蹴るような行動」が身体的虐待と認定されたことを発表した(県立中井やまゆり園職員による入所者への虐待について - 神奈川県ホームページ)。

9月、虐待疑いがあるとの匿名通報を受け、神奈川県は愛名やまゆり園に抜き打ちで立入調査を実施。ミトンをはめられた入所者がドアノブにテープを貼られた居室に閉じ込められていた疑いという内容で報道もされた。これについて上述した2019年の愛名やまゆり園虐待事案で検証委員を担当した特定非営利活動法人サポートひろがり代表・山田由美子氏は10月21日に他の元検証委員と現地に赴いて事実確認し、自身のnote上で、新聞記事にあった内容は誤りだと指摘している。ミトンは医師の指示により自傷防止の目的ではめられていたが入所者にドアの開閉能力はあったとし、居室から出入りすることは可能だったとされる。

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またこの通報と県の立入調査を受けて、共同会は社内向けに9月7日付で文書を発信し、情報提供者は園の職員と推察されるとしたうえで、「もし、職員が事実とは異なる情報を外部に通報し、許可なく園内の写真を提供したのであれば、極めて遺憾であり、懲戒処分の対象にもなりうる」との考えを示した。10月8日、リークされたとみられる文書を基に各社がこの文書について報道し、共同会が職員の内部通報を萎縮させる狙いがあったのではないかとの見方で論じられた。山田氏は、「虐待通報の職員」が処分された訳でも、職員による「虐待通報」全般を諫めたり禁じたりする内容でもなく「事実とは異なる情報を外部に通報」したことを問題視しているのだとして、ミスリードを誘う報道の見出しや伝聞に基づく記事について疑義を呈している。たしかに見出しだけ見て「共同会が職員の通報を抑止させようと文書を発した」かのような印象をもつ可能性はあり、報道側はそうした見立てで世論の誘導を狙ったふしはあるが、私には共同会側の文書にも職員に「外部通報は懲戒処分」とミスリードさせたり萎縮させたりする狙いはあったように感じられる。黒岩県知事は10月8日の定例会見で文書に関する記者の質問に答え、「共同会は一部のメディアへ園の内部情報を提供したことを問題視したものであって、法人としても虐待通報を妨げるという主旨ではなかったが、文面に通報という言葉を用いるなど、誤解を与えてしまったことは反省していると、こういう言い方で、この文書を速やかに職員向けのサイトから削除したとあります」と報告し、共同会のガバナンスに問題があるとの見方を示した。

 

津久井やまゆり園の事件前の対応を振り返ってみると、共同会は植松が措置入院から退院した後、県に防犯カメラの設置許可を申し出ている。申請には「利用者の安全を確保し、不審者の侵入、備品の盗難などを防ぐ必要があるため」と記載されており、植松に関する津久井署とのやりとりについて県に報告されていなかった。「不審者の侵入」という記述で必要十分と考えたのか、犯行予告に警戒する事態を県に悟られたくない意図があったため報告や詳述を怠ったのかは分からない。県側は、2014年に共同会の他施設で盗難事件があり防犯カメラを設置していた経緯から、他施設でも同様に防犯体制を整備するものと判断したとしている。この県の推察は結果的には誤りだったが、業務として誤った判断といえるものではない。皮肉にも設置した防犯カメラは施設に侵入する植松の姿を捉えてはいた。何が足りなかったかといえば、県への詳細な報告をしておらず、カメラ設置を「抑止目的」と捉えてモニタリングを軽視した共同会側の危機管理意識にあることは間違いないが、県と指定管理者との信頼構築の不備もこの“水際での失敗”の背景にあったと言えよう。たとえ話にはなってしまうが、共同会が直ちに植松の犯行予告を県に報告し、県がその脅威を認め、夜間警備を増やしカメラモニターをチェックする人員配置を組むといった対策が講じられていれば、被害を最小限に食い止められていたかもしれない。そしてここまで見てきたように、神奈川県とかながわ共同会との関係は事件後も良好とは言いがたいように私には見える。 

www.nhk.or.jp

植松が衆議院議長に宛てた手紙には「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております」「施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」と書かれ、さも津久井やまゆり園で非人間的な扱いをする支援実態や劣悪な労働環境が存在していたかのようにも読める。自分の主張の正当性を認めてほしいがゆえに誇張して表現したのかもしれないし、植松の目には事実そのように映っていたのかもしれない。

しかしここで自治体が悪い、法人が悪い、といった視野狭窄を起こしてしまってはならず、管理者・運営者・監督者が利用者の幸福のため、現場で働く支援者のためにどう手を携えてモデリングしていけるか、バックアップし続けていけるかが問われている。厚生労働省が発表した平成30年度『都道府県・市町村における障害者虐待事例への対応状況等(調査結果)』によれば、福祉施設従事者等による虐待の相談・通報は2605件、虐待判断件数592件、被虐待者数777人、虐待者数634人とされ、虐待による死亡も2人確認されている。さらに作業所などで働く重度ではない障碍者に対する使用者による虐待に目を向ければ、平成30年度で541事業所、900人が虐待と認められ、その種別としては身体的虐待こそ多くはない(42人、4.4%)ものの、経済的虐待(賃金未払や最低賃金未満での労働など)が791人(83%)に上る。こうした数字を見るに職員個人の特性だけに虐待の責任を求めるには無理があり、虐待が疑わしい人員さえ転換することがままならない、技能実習や研修にさけるコストがなく係わり方が改善されない、時間や制約の厳しい就業管理が職員に過剰なストレスを与えた反動、など福祉業界をめぐる実態の集積として虐待が生まれやすい環境から抜け出せていない現状が見受けられる。

憶測になってしまうが、植松が津久井やまゆり園に勤め始めた当初、周囲に語った「障碍者の人たちはキラキラした目で接してくれる」「あのひとはかわいいんだよ」といった言葉におそらく偽りはなかった、そう感じていた瞬間はあった、と私は考えている。未熟なりに支援の仕事に喜びややりがいを感じていたからこそ、何かのきっかけでその信頼関係が裏切られたときより大きな反動となって“憎悪”に変わった。植松が標的としたのは直接的には入所者、重度の障碍者であり、その行為は議論の余地なく重罪である。だが凶行の最中に夜勤職員に「この後、厚木に行く」と語っていたことからも、その矛先は元来、かながわ共同会に向けられていたものではないかと私は思う。

 

■報道のありかたと匿名性

2020年1月7日、横浜地裁における事件の初公判前日、事件で亡くなった女性(19)の母親が、娘の名前「美帆」と明かし、手書きの手記と写真4枚を弁護士を通じて公開した(下のハフィントンポスト記事に写真と手記全文)。

「裁判の時に『甲さん』『乙さん』と呼ばれるのは嫌だったからです。話を聞いた時にとても違和感を感じました。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこにだしても恥ずかしくない自慢の娘でした。うちの娘は甲でも乙でもなく美帆です」

裁判では、遺族らの申し立てを受けて被害者個人が特定されないよう匿名措置がなされ、亡くなった入所者を「甲」、生き延びた被害入所者を「乙」、負傷した施設職員を「丙」と分類し、アルファベットと組み合わせて甲A、甲B…と呼ばれた(刑事訴訟法第二百九十条第二項)。美帆さんの母親の申し立ては第3回公判で認められた。また第9回公判において、植松は「匿名裁判は、重度障害の問題を浮き彫りにしている」「施設に預けるということは、家族の負担になっていると思う」といった主張を行っているが、これらは的外れの意見である。匿名を望んだ遺族は報道による人権侵害や二次被害を懸念したためであり、入居型施設で生活しようが植松のように独居していようが親にとって子どもは何がしかの負担を伴う。権威者であれニートであれ別なく生まれながらにして親や家族に大なり小なり負担をかけている存在なのである。

www.huffingtonpost.jp

事件発生後、7月26日夜に神奈川県警が19人の犠牲者に関する情報を記者クラブに発表したが、「A子さん19歳」「S男さん43歳」といったアルファベットと年齢の表記だけだった。過去に匿名が求められる事案の際、実名を示したうえで「強い匿名希望あり」と付記し、実名で報道をするか否かの判断は報道機関に任されていた。県警によれば「知的障害者支援施設であり、遺族のプライバシー保護の必要性が極めて高い。遺族から報道対応する際、特段の配慮をしてほしいとの強い要望があった」ためだという。このとき十分な説明なく、多分に「障碍者」であることを理由として、警察が行った例外的な匿名措置は“逆差別”というきらいもある。国が、犠牲者が知的障碍者であったことについて、緊急に特例を要する事情だと判断したということだ。報道各社は、公的機関(この場合、警察)が得た情報は、市民の共有財産であり、公開されることが原則であるとして説明を求めた。 

報道は、市民の「知る権利」に奉仕する役割を担っている。権力の濫用を監視し、市民が必要な情報を報じることが期待されており、いわば国民の代議的な責務を負うことが、報道の自由を認められる前提になっているともいえる。冤罪事件や公害問題、さまざまな消費者事件などを取り挙げ世論形成を生み、国家権力や大企業の横暴を阻止してきた功績もある一方で、記者クラブ制度による均質化した報道と独自取材力の低下、営利目的に流されがちな煽情的な番組制作や人権侵害とも映る過剰なメディアスクラムなども指摘されている。

被害者や犠牲者遺族からすれば、事件前から何十年と障碍者差別を経験して、凄惨な事件に巻き込まれたうえ、報道されれば更なる差別の増加や「行き場を失う」恐怖がこみ上げる心情は十分理解できる。二重三重の被害が想定されたのである。報道側の姿勢が被害者側にとって好ましく思われていない(通常の匿名措置では不十分とされた)ことは事実であり、つまりは報道と市民との信頼関係が未成熟であることの裏返しだと捉えることもできる。秘密や約束が守られ、不必要な取材によって人権侵害には及ばないものと信じられていればこそ協力関係が成り立つのであり、そうした合意形成に向けて何が問われているのか、どのような取材・報道を心掛けるべきなのか、は報道に課せられた命題である。障碍をもつ子どもの親でもある衆議院議員野田聖子氏はロイターの取材に対し、「障害者の家族には2通りあって、1つは積極的に障碍児であることをアピールして、世の中を変えていこうというポジティブな人もいるが、『声なき多数』は社会に対して非常にネガティブで、家族に障碍児がいることを知られたくない、騒がないでほしいと思っている」と述べた(2016年9月23日、ロイター)。報道には、そうした“声なき多数”を守り、寄り添い、ときに彼らの代弁者になるといった社会的役割を全うしてほしいと切に願う。

  

 ■その心的性質と優生思想について

2016年の事件当時、街頭やSNSで表面化していたヘイトクライム、差別犯罪として大きな注目を集めた。またインターネット掲示板などでは植松の自論に同調を示すカキコミが少なくなかったことも象徴的である。最後に植松の犯行に至る内面・心性について考えてみたい。

事件そのものを見ると、直接的な怨恨のない特定集団に対する襲撃という点では、2001年に起きた大阪教育大学付属池田小の無差別殺傷事件(宅間守)が思い起こされる。宅間の場合は、自らの不遇を呪い、「エリートでインテリの子をたくさん殺せば確実に死刑になると思った」という主張に見られるように、社会憎悪を示すために(自身とは対極にある)恵まれた境遇に育つ未来ある小学生を巻き添えにした凶行は、「死刑」という手段を得るために他人を巻き添えにした史上最悪の「自殺」と見ることができる。こうした大量殺人犯の場合、「最終的に自らも死ぬこと」を覚悟した上で犯行に及ぶため、不遜で自暴自棄、文字通り怖いものなしの胸中で被害を拡大させやすい。

植松の場合は、社会全体に向けての憎悪はさほど感じられず、犯行前こそ手紙で政治家に刑罰の減免を請うたように、殺人が法に触れることは理解しているものの死刑になる意志があっての「自殺」的願望からの凶行とは言えないように思う(逮捕後の面会などでは死刑になる覚悟はあったとしている)。だが死刑判決後の控訴取り下げについて「自死に近い」と述べる等、逮捕後に弁護士や面会者から量刑判断についての知識を得たのか、死刑を受け入れる姿勢を見せている。

また、自分の主張が正しく世の中の方が間違っているとして、犯行を自己正当化しようとする「歪んだ正義」が増長し、衆議院議長に宛てた手紙からも擬似的な「パトリオシズム」に陶酔しているさまが窺える。自分の存在価値を、自らの掲げる「革命」に捧げるために、権力者の許諾を求めていた。失業して生活保護を受けながら狂乱した「負け犬」の大量殺人者ではなく、理想国家のために命を捧げる「憂国の士」に上書きしようと考えたのである。国民の多くには理解してもらえないだろうが、尊敬する政治家は分かってくれる、後世の人々は自分を認めて讃えてくれるに違いない。植松は自分の置かれた現実の境遇から目を背けるかのように、自らを「救世主」とするロールプレイに耽っていった。その空想は獄中で自身の手によってマンガ化されている。

しかし植松の歪んだ愛国心は、津久井やまゆり園を辞めることになった面談後の「措置入院」によって期待を裏切られることとなる。精神科医斎藤環氏は「精神科に入院というのは、行為を束縛されるという以上に、スティグマ性を帯びさせる。つまり『お前は頭がおかしい』という烙印を押されたとその意味で二重に屈辱なんです」と指摘しており(衝撃の相模原障害者殺傷事件について話を聞けば聞くほど深刻だと思う3つの問題点(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース)、第8回公判で植松自身は独断での実行まで決意していたわけではないが「安楽死は、措置入院の前から考えていました。家族の同意がなくても安楽死をすべきだと考えるようになったのは措置入院の最中です」「国の許可はいただけませんでしたが、正しいことなのでやるべきだと思いました」と証言している。

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2007年、アメリカのバージニア工科大学銃乱射事件で33人を射殺したチョ・スンヒ(当時23歳)は犯行後に自殺したが、彼が遺したメモにもやはり自らを英雄視する記述が散見される。「後世の弱く無力な者たちを鼓舞するため、俺はキリストのように死ぬ」「モーセのように道を開き、人々を導く」、手紙とその体にはイシュマエルIsmailと書いてあった(*)。彼もまた自らの不遇や行いを、聖書の登場人物に準えることで自己正当化しようとした。

(*イシュマエルは、創世記にある「信仰の父」アブラハムエジプト人奴隷ハガルの間にできた子。神の使いにより「主は聞き入れる」を意味するイシュマエルの名を授かり、「彼は野生のロバのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けた。やがてアブラハムの正妻・サラも子・イサクを授かり、確執が生じたためハガルとイシュマエルは放逐される。荒野を彷徨い飲み水も尽きたハガルとイシュマエルは死を覚悟したが、神の使いが現れて命を助ける。イシュマエルはハカンの荒野に暮らし、子をなして国を築いた。ユダヤ教では邪な存在としてみなされており、新約聖書にイシュマエルの記述はほとんどなく西洋文化圏では「放浪」の象徴として扱われる。一方、イスラム圏ではイシュマエルは神の庇護を受けた者、アラブ人の祖として重要視されている。創世記21章

大麻や違法ドラッグの使用について、筆者は犯行動機に直接つながるとは考えていない。幻覚作用や酩酊状態が暴力性につながるとは考えづらいからだ。むしろ薬効の影響が大きかったと考えられるのは、昂揚感によって得られた自己肯定感が上記のような自己「英雄視」に、感覚器官の変質によって政治家が自分を認めてくれるといった誇大妄想につながったと考えられる。植松本人は「国が障碍者に資金を投入するのは無駄」だと考えるようになり、「社会の役に立ちたい」ためにそうした主張を唱え、犯行に至ったとしているが実際にはそれほど合理的な思考を辿ってはいないのではないか。あくまで推論になってしまうが、「障碍者はいらない」という植松の持論の核は、あるいは大麻によってもたらされた「悟りの境地」のような錯覚によって確信づけられていったにしても、津久井やまゆり園で直面した「実態」に素直に追従できず、「このままではいけない」という危機感や「自分が津久井やまゆり園でやっていること・やってきたことを否定したくない」という自己防衛が一緒くたになって導き出された考えではないかと私は考えている。

本稿の冒頭で、植松の犯行について政治に係るイデオロギー的な変化を求める強硬手段として「テロリズム」という語を用いた。事件前の2014年頃はイスラム過激派組織IS(Islamic State。ISIL、ISISとも。日本国内では「イスラム国」と表記された時期もあったが、国家として認められておらず、誤解を与える表現としてISの略称が用いられるようになった)の動向が活発化しており、日本人拘束者が出るなどして盛んに報道された時期でもある。直接的にISの主張に同調せずとも、政治・宗教的イデオロギーに殉じて交戦するさまやかりそめにも「国家」体制を樹立といった報道によって、テロリズムという表現手段は植松にも少なからぬ影響があったと考えられる。手前勝手に「国のため」という使命感さえ抱き、政治家たちが言外しない“内なる意志”であるかのような妄執を肥大化させ、その意志を汲んで実行する手先として彼らから認められたいという倒錯した承認欲求が見え隠れしている。作家・雨宮処凛氏は、「強者に認められたい」という感情のあまり「先回りして実行した」植松の行動を流行語に準えて“忖度殺人”と名付けている。

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その優生思想について。2001年から2005年まで津久井やまゆり園の元職員でもあった専修大学講師(社会思想史)の西角純志氏も植松との面会を続けた人物で事件についてさまざまな発言を行ってきた。氏によれば、植松はヘイトクライムやT4作戦(*)について知らなかったとされ、収監後に面会者らによってもたらされた後付けの知識で持論を補強していったとされる。また篠田氏のレポートによれば、処置入院中に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ったことも、自ら著作物などからヒトラーや優生思想に関する知識を得ていた訳ではなく、津久井やまゆり園での面談時に職員から「ナチスの思想と同じ」と指摘されたことに由来して生じた発言だった(収監後、『アンネの日記』を読んだ植松は、「ヒトラーとは考えが違う」とし、T4の障碍者殺害には肯定を示しつつ、「自分のことを障害者差別と言われるのですが、差別とは違うと思う」と主張している)。そうした意味で植松はだれかの受け売りではなく、自然発生的に獲得した、いわば“野生の優生思想”の持ち主ともいえる。

私たちは、そうした歴史や本事件を通じて優生思想の仕組みを理解し、人類にとっての普遍的問題として後世に伝えていかなければならない。優生思想には、優れた才能や生活を追求する積極的優生主義と劣った能力や生命を排除する消極的優生主義とがある。植松は後者に準ずる考えに至ったが、19世紀末の優生主義者たちが進化論といった「自然科学」や当代の価値観に依拠した思想であったにすぎないように、植松自身も生産性や経済合理性という極めて限定的な側面でしか障碍者に対する価値判断をしていない。そこには自身の劣等感が裏写しになり、自分よりも「より劣った存在」を見出したかったかのように見える。東京大学先端科学技術研究センターでバリアフリー研究を行う福島智教授は「でも本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく不安に感じているのではないでしょうか。なぜなら、障害の有無にかかわらず、労働能力が低いと評価された瞬間、仕事を失うなどのかたちで、私たちは社会から切り捨てられてしまうからです。では、私たちは何を大切にすればいいのでしょうか。人間の能力の差をどう考えればよいのでしょうか。そもそも、人間が生きる意味とは何でしょうか。」と議論を呼びかけ、誰もが排除されない・孤立しない社会の営みの重要性を説いている。

そして「より劣った存在」を見出したいと考えるのは、植松一人ではないということを忘れてはならない。改めて言うまでもないことだが、私たちはルッキズムや男尊女卑、人種・宗教、年齢や生き方など、どれほど気をつけていてもあらゆる面で何かしらの偏見・差別意識をもって生きていることは否定できない。この世に一人として同じ人間などいない。それゆえ優劣の順序や排他性を突き詰めれば、一者しか残らないのだ。世界人口77億人全員が裕福な暮らしを実現することはできないし、世界に日本人しかいなくなったとて戦争はなくならない。私たちは他者との差異にどう向き合い、どんな態度を選択するのか、どうやってお互い殺し合わずに生き延びるかの対外調整を絶えず行っているといっても過言ではない。共生の理想論を振りかざすつもりはないが、壁の向こうに「他者」を追いやったり、自分自身の「殻」に籠ったり、「暴力」で従わせるといった極論は破棄して、いつ何時も現実と折り合いをつけて生きていく術を学んでいかなくてはいけない。

“過去に目をつむる者は結局のところ現在においても盲目になります”

1985、Richard Karl Freiherr von Weizsäcker

 

(*T4作戦は、1939年から41年にかけてナチス・ドイツ下で実施された障碍者安楽死政策。公式資料に残されている犠牲者だけで7万人、非公式には20万人が犠牲になったとされ、ガス室や焼却施設、人員などは後にホロコーストユダヤ人虐殺に転用されている。種の進化論と社会動学を融合させた社会進化論に基づき19世紀末には人為的に劣等遺伝子を斥け民族の退化を防ぐべきとする優生学の考えが進歩主義思想として受け入れられていった。1910年代には社会的損失の観点から精神疾患や遺伝病者への断種、治療不能者の安楽死などが議論された。「統合失調症」の名付け親で「精神遺伝学の父」とされる精神科医優生学者のエルンスト・リューディンは1930年代にナチスの人種主義と優生思想を結び付け、人種衛生・民族浄化racial hygieneの概念を発展させた。1907年、アメリカ・インディアナ州での断種法を皮切りに世界各地で優生政策が執られ、日本では1915年からハンセン氏病患者に対する優生手術が行われるようになり、1940年には国民優生法により遺伝病者への断種が認められた。1948年に制定された優生保護法では性犯罪被害や経済的事情のほか、遺伝病以外に精神疾患も対象として中絶・避妊手術が合法化された。1996年の法改正まで「不良な子孫の出生防止にかかわる条項」は存続され、強制手術は1万6000件、同意に基づく優生手術は80万件以上あったとされる。)

 

 

 

参考:

谷口 茂『優生思想とその批判 ー問題の普遍性ー』

http://file:///C:/Users/PCUser/Downloads/anncsp_50_161.pdf